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「マルセラに聞いたんだね。」アンドレスが静かな声で言った。コイユールは慌てて指で涙をぬぐって、小さく頷いた。「もう、本当に…」“驚いたんだから!”と笑顔で言おうとしたのに、むせてしまって言葉にならなかった。マルセラの先ほどの言葉がコイユールの耳に甦る。『アンドレス様は、トゥパク・アマル様の甥。つまり、インカ皇帝のお血筋をひくお方なんだよ!』胸の奥が、ずきんと痛んだ。アンドレスは、自分とは全く別世界の人だったのだ。これまで思っていたのよりも、もっとずっと遠い世界の人だったのだ。「きちんと話そうと思っていたんだ。驚かせて、すまなかった…。」コイユールは自分の中から無性にこみあげてくるものをとめられず、もう涙を流れるままにするしかなかった。自分でも、涙の意味を整理できなかった。インカ皇帝のこと、そして、アンドレスのこと…、驚きと、喜びと、寂しさと、興奮と、様々な感情が混沌と渦巻き、それらがとめどなく突き上げてくるのだった。コイユールの方をじっと見入っているアンドレスの瞳も、揺れていた。その瞳は、まだ少年のあどけなさをどこかに残している。コイユールは、アンドレスの中に二人の人間を見ていた。まだ屈託のなさを残した、明るくて朗らかで優しい少年の姿と、何かの念に憑かれたような、そして闘争的でさえあるような、激情を秘めた一人の大人へなりつつある青年の姿だった。しばらく夜風に吹かれているうちに、コイユールも何とか少しずつ落ち着いてきた。コイユールの様子をうかがいながら、慎重に言葉を選びつつアンドレスは問いかけた。「トゥパク・アマル様のことも、聞いたんだね?」「ええ…。」コイユールはもう泣いてはいなかった。そして、自分の心にも確かめるように、頷いた。「あのお方なら、この国を変えられるかもしれない。」アンドレスは燃え上がる松明の炎をみつめた。炎の光を受けるアンドレスの目元には力が宿り、その横顔にはゆるぎない強い意志と決意がはっきりと見てとれた。「だから俺は、あの方のためなら、どんなことでもするつもりだ。」ふいに木の枝が燃えてはじける鋭い音を発し、赤い火の粉が夜空にどこまでも高く舞い上がっていった。
2006.02.03
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さらにマルセラの話を要約すると、4年ほど前の1770年、トゥパク・アマルは自ら首府リマのアウディエンシア(裁判所)に訴え、自らがインカ皇帝の直系の子孫であることを認めさせようとした。なお、首府リマとは、現在のこの植民地ペルーのスペインによる統治機構の中枢である。そして、調査によっても、資料によっても、インカ皇帝の血統であるという事実が否定できないことが明確になり、やむなくスペイン側は「トゥパク・アマルがインカ皇帝の子孫である」ことを渋々ながら正式に認めた。なお、話は細かくなるが、先に説明したスペイン征服の初期の時代にスペイン王の命令により命を奪われたフェリペ・トゥパク・アマルは「トゥパク・アマル1世」、現存のトゥパク・アマルは、つまり今この館にいる人物だが、正確には「トゥパク・アマル2世」である。しかし、トゥパク・アマル2世(今後は、トゥパク・アマルと略記)はインカ皇帝の直系の子孫であることは承認されたものの、インカ皇帝を意味する『インカ(=皇帝)』という称号を用いることは、スペイン王によって厳重に禁じられていた。スペイン側は、トゥパク・アマルが『インカ』を名乗ることによってインカ皇帝の復活という認識がインカ族の間で芽生え、彼らの自立への意識が高揚し、ひいては反乱が勃発することを深く恐れていたのだった。ちなみに、アンドレスの叔父ディエゴは、トゥパク・アマルの父親ミゲルの弟の長男で、つまり、トゥパク・アマルとディエゴは従兄弟同士の関係であった。従って、アンドレスはトゥパク・アマルにとって、甥という関係になる。コイユールは軽い眩暈を覚え、言葉も出ずマルセラに曖昧に一礼して、おぼつかない足取りで戸口の方に向かった。とにかく、頭を冷やさなければ…。足が床から浮き上がっているような感覚がする。それでも、何とか歩いて、庭に出た。広い庭の四隅に置かれた赤々と燃える松明の炎が、音も無く夜の闇を焦がしている。冷たい風が、火照った頬を吹きすぎていく。外気を深く吸い込み、夜空を見上げた。上空には、美しい満月が濡れたように静かに輝いていた。気づかぬうちに、頬を涙が伝う。(インカ皇帝様が生きていた…!)コイユールはまともに考えられないほど混乱した頭で、しかし、どこからともなく突き上げてくる熱い想いに打ち震えた。「トゥパク…アマル様…。」コイユールは、かすかに呟いた。“トゥパク・アマル”…――その名は、インカのケチュア語で「炎の竜」を意味していた。涙を拭くことも忘れて放心したまま月を見上げていたコイユールは、いつの間にかアンドレスがすぐ隣に来ていることにも気付かなかった。一陣の強い風が吹き、高く、上空さして燃え上がった松明の炎が人影を浮き上がらせた。コイユールは、はじめて人の気配に気付き、はっと我に返る。涙でかすんだ視界の中に、アンドレスのいつもと変わらぬ優しい笑顔があった。「アンドレス」と言おうとしたが、声が出ない。すぐ隣にいるはずなのに、とても、とても、遠くに感じられた。アンドレスの瞳もかすかに揺れている。
2006.02.02
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マルセラはいきなりコイユールの肩をつかみ、炊事場や広間から見えない角度にある柱の陰に掴んで連れていった。そして、改めて、コイユールをまじまじと見ながら、溜息をついた。「あんた、そんなこと、この場所で言ったら、ほんとヤバイよ!」コイユールは目をしばたたかせた。「アンドレス様は、トゥパク・アマル様の甥。つまり、インカ皇帝のお血筋をひくお方なんだよ!」そこまで言って、マルセラは柱の陰から注意深く辺りを見回した。言葉を失っているコイユールに、マルセラは畳み掛けるように早口で言った。「それじゃ、トゥパク・アマル様のことも知らないんだろうね。」「トゥパク・アマル様?」マルセラは、「あちゃあ!」と言って額に手を当てて、それから、まじめな顔になってコイユールを見た。「あんた、それで、ほんとにアンドレス様の友達なわけ?」呆れ返ったようにつぶやき、そして、諭すように話した。「あの真ん中に座っている黒い服を着た、髪の長いお人。かつてのインカ11代皇帝ワイナカパク様の直系のお血筋を引いてらっしゃるトゥパク・アマル様だよ。スペイン王からも、インカ皇帝の直系の子孫だっていうことを承認されてる。だけど、自分を『皇帝』と名乗ってはいけないって、スペインの国王や役人の奴らから止められている…。ほんと、あんた、なんにも知らないんだねえ…。」マルセラは唖然とした。コイユールは、手足が震えてくるのを感じた。マルセラの説明はこうだった。スペインの侵略により、スペイン副王トレドの命で非業の最期を遂げたフェリペ・トゥパク・アマルは、インカ11代皇帝ワイナカパクの子マンコの子である。当時の冷酷なスペイン国王トレドも、フェリペ・トゥパク・アマルの幼少の娘フワナ・ピルコワコの命は許して、彼女にこのティンタ郡内の三村を世襲することにさせた。ティンタ郡とは、コイユールたちの住むこの地域一帯を指す。フワナはこの地の豪族コンドルカンキに嫁した。その後、コンドルカンキ家の直系の子孫をたどると、ブラス、セバスティアン、ミゲルとなり、今この屋敷のテーブルの中央に座しているトゥパク・アマルがそれに続く。なお、そのトゥパク・アマルの正式名は、ホセ・ガブリエル・トゥパク・アマルという。つまりは、トゥパク・アマルはインカ征服直後、無残な最期を遂げたインカ皇帝フェリペ・トゥパク・アマルから数えて6代目にあたる、インカ皇帝の直系の子孫なわけある。ちなみに、ブラスとは、先ほどテーブルについていた一人で、スペイン行きを自ら名乗り出たあの初老の紳士のことである。なお、トゥパク・アマルは皇帝の正統な直系の子孫であると共に、コイユールたちが暮らすこの村のカシーケ(領主)でもあったのだった。現在、トゥパク・アマルは34歳になる。
2006.02.01
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コイユールは息を詰めて、その緊迫したやりとりを見守っていた。身を乗り出すように大人たちの話しに聞き入っているアンドレスの横顔に、ふと視線がいく。アンドレスは恍惚とした表情で、前方を見据えていた。コイユールはその視線の先を追った。そこには、先ほど初老の紳士に「トゥパク・アマル」と呼ばれた、あの中央に座す男の姿があった。アンドレスの眼差しには、深い敬意の念が宿っていた。それと共に、今、アンドレスの瞳には希望と力が漲り、夜闇を照らす蝋燭の光を受けてまばゆく輝いていた。フェリパ夫人が、夕食の支度の進み具合を見るために、召使いたちのいる炊事場へと立ったタイミングをとらえて、急いでコイユールも立ち上がった。その場の雰囲気から、そろそろ逃げ出したい心境になっていた。「私もお手伝いします。」フェリパ夫人はコイユールの気持ちを察して、微笑み、頷いた。炊事場には、インカ族の召使いたちが数人働いていた。怪しい行動がないか見張るための、炊事場にも厳しい目を光らせた警護の者がいる。夫人は召使いたちに労いの言葉をかけながら、食事の準備の進行具合を確かめている。コイユールも何か手伝おうかと炊事場に足を踏み入れようとしたとき、突然、背後から声がした。「へええ、珍しい。あんたみたいな子どもが来てるなんて。いかついオジサンばっかりかと思ったら!」振り向くと、コイユールの傍の廊下に、同じ年頃位の一人の少女が立っていた。コイユールと同じような刺繍の施されたインカ族特有の服装をした、褐色の肌の少女である。しかし、コイユールに比べれば、だいぶ身奇麗な服装には違いなかった。身なりからすると貴族の娘という印象だが、まるで少年のように黒髪を短く切り、ターバンのような布を額に巻いていた。スカートも動きやすいように、わざわざたくし上げている。「誰?あんた、見かけない子だね。」少年のような表情をしたその少女はコイユールを上から下まで眺めてから、腰に両手を当てて首をかしげた。すらりと引き締まった足を広げて立つさまは、本当に少年のようだった。コイユールはむしろ、自分と同じ年頃の少女の存在に安堵して、ほっと溜息をついた。「私、コイユールっていいます。アンドレスの友達で、今日、呼んでもらって来たんです。」すると、少女はいきなり後ろに跳びすさった。「えっ?!アンドレス様の?アンドレス様の?!」あわわと、暫くコイユールの顔を穴のあくほど見つめている。コイユールは何となく決まり悪くなって、再び炊事場に戻ろうとした。「ちょっと、待って!」少女がすかさず呼び止めた。「あたしは、マルセラ。あそこの中にいた、目のつり上がった怖そ~なオジサンいたでしょ。鷲鼻の!」コイユールは、アンドレスと叔父を仲介してくれた人物のことを思い出した。「あたしは、あの人の親類。時々そのオジ様に連れてきてもらってるの。」コイユールは何となく事情が分かって、頷いた。マルセラと名乗った少女は、改めて、コイユールをまじまじと見た。「あんたみたいな平民の子が、アンドレス様と友達なんて驚き!」「アンドレスは、平民とか、貴族とか、そんなこと区別しない人よ。」コイユールはアンドレスを弁護するようにきっぱりと言い返した。「そ、そうなの?!やっぱり?!」マルセラは、今更ながらという感じで、目を丸くした。「いやあ、あたしは、なんだか話しかけちゃいけないような気がしちゃって…。近寄れなかったんだ。あ!あたしも一応、貴族の出なのよ。でも、なんたって、アンドレス様は皇帝陛下の甥だもんね。とてもとても、一介の貴族のあたしなんか…。」少女は、両手で降参のポーズをとってみせた。コイユールは、耳を疑った。「アンドレスが誰ですって?」「は?」「皇帝陛下って?」マルセラは、ぽかんとしてコイユールを見つめた。「あんた、まさか、知らなかったの?」コイユールはマルセラに向けた顔を動かせなかった。
2006.01.31
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「スペイン人がすべて敵なわけではない。」暫く黙っていた中央に座した男が、口を開いた。コイユールは改めて、神殿で見たのと同じ、その人を見た。今、少し落ち着きを取り戻しながら、とても近い距離でその人を前にしてみると、一人の人間としてのその人物の息遣いが感じられてくるように思われた。それはただ神々しいばかりの幻想の人ではなく、やはり一人の生身の人間なのだった。どちらかといえば感情を内に秘めたような寡黙な人物であり、重い難題に心を縛られているような影があった。しかし、ただその場にいるだけで場の空気を変えてしまう何か強烈な雰囲気をもっていた。そして、一言でも言葉を発すると、場の雰囲気を瞬時に高揚させる強いオーラのようなものを放つ。ケチュア語の発音も、非常に流麗である。「スペイン人の中にも、苦しい生活を強いられている者は多い。敵はスペイン人なのではなく、この国の民衆を苦しめている暴政だ。」地の底から湧いてくるような、深く響く声だった。そして、続けた。「私はスペイン本国に渡り、この国の暴政を改めるために、スペイン国王に直接会って直訴しようと考えている。」一同が、はっと息を呑んだ。張りつめた空気が流れる。「いや、それは、待ってほしい。」と、初老のインカ族の紳士、ブラスが遮った。「その役目、私が果たすべきと思っていた。私は亡くなったサンセリテス殿とは親しい間柄だったからな。私がスペインに渡った方が話も通りやすいだろう。」「しかし、これは非常な危険を伴う旅なのですよ。サンセリテス殿のように殺されるかもしれないのです。」中央の男は、スペイン行きを名乗り出たその初老の紳士に、まっすぐ向き直って言った。その声には、相手の身を強く案じる思いがはっきりと読みとれた。初老の紳士はその言葉に「わかっている」と瞳で頷き、意を決したゆるぎない声で言った。「だからこそ、私が行くのだよ。そして、万一、私に何かあった時、この国の民はお前が守るのだ。トゥパク・アマル!」
2006.01.30
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「サンセリテス殿は、殺されたらしい。」先ほどコイユールに両親のことを尋ねた、やや神経質そうな混血の男が小声で言った。「フランシスコ殿、それは、やはり本当だったのですか?!」アンドレスの叔父、ディエゴは目を血走らせた。「フランシスコ殿の言う通り、サンセリテス殿は亡くなられた。スペイン人たちは隠しているが、毒殺されたらしい。恐らく、スペイン人たちに暗殺されたのだろう。」初老の紳士が唸るよう答えた。一同は、また固唾を呑んだ。またか…――という、失望と重々しい空気が流れた。コイユールの両親が強制労働を強いられたポトシ山は、この国を代表する有名な鉱山である。その鉱山の町ポトシを中心とするポトシ郡に、近年、サンセリテスというスペイン人が長官として赴任してきた。彼は、この時代のスペイン人にしては極めて珍しく、インカ族の人々の境遇に同情的な人物であった。ポトシの鉱山での強制労働のあまりの酷さを見かねた彼は、労働条件の緩和に努め、スペイン人たちの虐待を防ぐために、スペイン本国にかけあってスペイン人の圧制を禁ずる法令を発しようと尽力していた。しかし、そうしたサンセリテスの行動は、スペイン人の役人たちの激しい不評を買ったのは言うまでもなく、彼は他のスペイン人の同僚たちからひどく忌み嫌われていた。サンセリテスの突然の不慮の死が報じられたのは、そんな矢先のことであった。「スペイン人たちに、もはや何も期待はできぬ。」険しく鋭い目をした、鷲鼻のインカ族の男、ビルカパサが沈黙を破った。怒りに満ちた、しかし感情をコントロールした冷徹な声だった。「その通りだ。我々インカの民を救えるのは、我々自身の力だ!スペイン人など、血祭りにあげてしまえばよい!!」アンドレスの叔父、ディエゴが血走った目で毒づいた。「しかし、スペイン人たちは大量の銃や砲弾を持っています。我々はオンダ(投石器)がせいぜいだ。まともにぶつかって勝てる相手ではないことは、武勇に秀でたあなたなら重々わかっているはずだ、ディエゴ殿。そんなに簡単なことではない。」神経質そうな、しかし理知的な目をした混血のフランシスコは、ディエゴの迫力に気圧されながらも、しごく最もな見解を述べた。実際、インカ族には火器がなかった。正確には、火器をもつことを制圧者によって厳重に禁止されていた。その製造過程を見ることさえ、かなわなかった。スペイン人との武器の差は、あまりに絶大だったのだ。
2006.01.29
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「アンドレス、そちらのお嬢さんは?」中央の右に座していた初老のインカ族の紳士が、コイユールたちに気付いて声をかけてきた。白髪の混じり始めたその紳士は、どこかアンドレスと似た柔らかい雰囲気と風格があった。「アンドレス様のご友人だそうです、ブラス様。」先ほどアンドレスと叔父の仲介をした鷲鼻の男が説明をする。他の男たちもテーブルに広げた書類から顔を上げ、アンドレスとコイユールの方に目を向けた。「駄目だと言ったんですが…。」アンドレスの叔父は、また気難しい顔をつくった。そして、中央に座している人物、それはコイユールが神殿で見たその人だが、そちらの方にうかがうように軽く頭を下げた。中央に座したその人は、穏やかな声で言った。「かまわん。アンドレスがそこまで信頼している友人ならば、怪しい者ではあるまい。」その言葉にアンドレスの叔父も、やっと安堵した様子で文句をやめた。コイユールは声がかすれて言葉にならず、ただ深々と頭を下げた。アンドレスは立ち尽くしている彼女をテーブル近くのソファに座らせ、自分もそのそばに座った。フェリパ夫人も、コイユールを守るようにして彼女の近くに座った。「コイユールは両親を鉱山のミタ(強制労働)で、たった6歳の時に亡くしているんです。」アンドレスは大勢のいかめし男たちを前にしても、全く物怖じしない堂々とした声で言った。「ご両親はどちらの鉱山に行かされたのですか。」ひょろりとして細面の繊細そうな、というか、やや神経質そうな面持ちをした別の男が、コイユールに尋ねる。その男も、アンドレスと同様、インカ族とスペイン人との混血のようだった。「ポトシの鉱山だと聞きました。」緊張の混じった少し震える声で、コイユールは何とか答えることができた。再び、男たちは深い溜息にも似た声を漏らした。「標高5000メートルもの高所に坑道が掘られ、火口は赤黒く燃え…あの鉱山での労働は、まるで地獄絵さながらだ。無期限の過酷な労働、虐待、食べ物もろくに与えられない…!」アンドレスの叔父は巨人のような拳を握り締め、テーブルをダンッと激しく叩いた。「畜生め…!」大男が唸る。それぞれの男たちの表情にも、強い憤りの色が滲んだ。「今、ちょうど、ポトシの鉱山の話をしていたところなのだよ。」神殿で見たのと同じ、あの中央に座した人物が、コイユールに視線を向けて言った。「ご両親のことは、本当に辛かっただろうね。」その目は憤りよりも、むしろ、深い悲しみを湛えていた。コイユールは言葉も出ず、小さく頷いた。他の男たちも頷き、そして、再び書類を広げて何かの相談に移っていった。
2006.01.28
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コイユールは足から力が抜けていくのを感じた。「アンドレス、私…。」しかし、彼女は館の中に入ってみたかった。「構わないさ。行こう。」アンドレスはしごく落ち着いたまま、コイユールを部屋に上がるよう促し、そのまま広間の中まで連れていった。たくさんのまばゆい蝋燭の灯りに照らし出され、部屋の中は真昼のように明るかった。コイユールは蝋燭の光に、一瞬、目を瞬いた。それから、ゆっくりと薄目を開けながら、前方を見やった。何やらものものしい雰囲気で、深刻気に話し合っている5人の男たちの姿が浮かび上がってきた。その5人の中には、アンドレスの叔父や先ほどのインカ族の男も混ざっているようだ。蝋燭の灯りに少しずつ目が慣れてきたときだった。コイユールの心臓は止まりそうになった。神殿での光景が甦る。あの時、輝く黄金の光に包まれ燃え上がっていくかと思われた、その人がいたのだ。インカの古来からの神、ビラコチャの神殿でその人を遠くから垣間見たとき、その神々しさに、太陽の御子、インカ皇帝の幻影を見たのかと思ったほどだった。今はこの館の広間の中央に座し、やや伏し目がちに机上の書類に目を落としている。コイユールは、自分がまた幻影を見ているのではないかと思った。しかし、目を閉じたら再び見失ってしまいそうで、瞬きもできなかった。あの時見たのと同じ、インカ族にしてはあまりに端正な、しかし精悍な横顔に、煌々と輝く蝋燭の灯りが反射し、その切れ長の目の端が激情と憂いを秘めた光を今も放っている。そして、あの時と同じように、かつてのインカ皇帝が身に着けたのとよく似た黒ビロードの服とマントを纏い、腰まで垂れた漆黒の髪は蝋燭の灯りを受けて濡れたように輝いていた。
2006.01.27
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「コイユール、遅い、遅い!」アンドレスはわざと叱ったような顔をしてコイユールの額を軽くこづく真似をしてみせ、それからいつもの笑顔に戻った。いつも通りのアンドレスの様子に、コイユールは内心ほっとした。「遅くなって、ごめんなさい。」やや緊張を滲ませながらも落ち着いたコイユールの声に、アンドレスは彼女が意を決して来たことを察した。アンドレスは彼女に再び笑みを返して、「行こう!」と二人で門をくぐった。「昨日は何も言わなくてごめん。今日はすごい人が来ているんだ。君にも一度会わせたかった。」アンドレスが説明をしようとした時、門前の武装したインカ族の男が、二人の前に立ちはだかった。「アンドレス様、その娘は?」「俺の友達だ。怪しい者じゃない。」アンドレスはコイユールを伴ったまま、そこを通り抜けようとした。「しかし!」警護の男がまた二人の前に、回りこむ。その時、館の中からフェリパ夫人が顔をのぞかせた。「まあ、コイユール、待っていたのですよ。」そして、館の中から出てくるとコイユールの手をとり、アンドレスと対峙している男に微笑みかけた。「この娘さんは私の知り合いなのです。心配ありません。」「そうでしたか…。」男はかしこまって、アンドレスたちに館の入り口への道を開けた。アンドレスがコイユールの来訪について、事前に夫人に話しを通していたのだろう。コイユールは導かれるままに館に入った。大理石の入り口のすぐ内側にも、やはりいかめしい面持ちで立っている見張りのインカ族の男がいて、コイユールをちらりと一瞥したが、夫人とアンドレスに会釈すると何も言わずにコイユールを通してくれた。夫人はいつにも増して美しいローブを身に纏い、長い黒髪を黄金の髪飾りで結い上げていた。広間の方から、数人の男たちの声が低く響いている。すると、力強い足音と共に、昨日出会った大男がまた現われた。あのアンドレスの叔父である。男は目を見張って、コイユールを見下ろした。「おまえ、なぜここにいる?!」広間に聞こえぬよう男なりに小声で言ったようだが、恐らく、広間まで十分に聞こえていただろう。「叔父上、俺が…。」と、言いかけたアンドレスを制して、フェリパ夫人がコイユールをかばうように男の前に立った。「わたくしが呼んだのですよ、兄上。コイユールは、わたくしの治療をしてくださっているのです。」しかし、男は引き下がらなかった。「いかん!今日は、よそ者は絶対に、いかん!!」フェリパ夫人も引き下がらなかった。「よそ者とは何です。それに、男のかたばかり今日は多くて、コイユールには今夜のお食事の支度の手伝いをお願いしておりますの。」大男のがなり声を聞きつけて、広間の方からまた別のインカ族の男が出てきた。戦士のような頑強そうな体格のいかにもインカ族らしい野性的で精悍な面持ちの男で、鷲鼻と眼光の鋭さが印象的だった。「何の騒ぎですか。」感情を統制した声で、言葉遣いは恭しい。そして、コイユールに気付き一瞬目を見開いたが、すぐにアンドレスに目をやった。「アンドレス様、お知り合いですか。」「はい、大切な友人です。」アンドレスの澄んだ眼差しを確かめてから、男はアンドレスの叔父に向き直った。「ディエゴ様、かまわないのではないですか。アンドレス様がこのように仰っているのですから。」「しかし、ビルカパサ…。」大男は納得しかねる面持ちだったが、「さあ、ディエゴ様、お戻りください。トゥパク・アマル様もお待ちなので。」と促され、渋々と部屋の中に戻っていった。
2006.01.26
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翌日、コイユールは、朝からどこかソワソワと落ち着かぬ気持ちで過ごしていた。軽い興奮状態でもあった。畑仕事をしている手も、ふっと止まりがちだった。いつもと様子の違う彼女に祖母は気付いていたかもしれないが、何も言わずに見守っていた。コイユールはその日も早めに畑をひきあげ、かわりに小屋に戻って祖母のために早めの夕食の準備を始めた。(今夜、アンドレスの館に行ってみよう!)そう彼女は決めていた。素早く祖母の夕食を用意して、コイユールは急いでドアを出た。外は既に夕暮れの色に染まりかけている。風もひときわ冷たくなっていた。その時、ちょうど小屋に戻ってきた祖母とすれ違った。「コイユール?こんな時間に、まさか、どこかにでも行くつもりかい?」目を見張っている祖母に、コイユールは返す言葉を慌ててさがした。しかし、適当な言葉がみつからない。「お婆ちゃん、心配しないで。少し遅くなるかもしれないから先に休んでてね。」「ちょっ…、これ、コイユール!」スペイン人に嫁したフェリパ夫人を好意的には思っていない祖母に事情を説明することは、やはり、まだはばかられる。当惑している優しい祖母の顔を見てしまうと、胸が痛んだ。(ごめんね!お婆ちゃん…。)目をあわすことができぬまま、コイユールは館のある方向に小走りに去っていった。夫人の館に着く頃には、すっかり日が落ちていた。息を切らしながら、門のそばに近づいていく。広々とした館の中央にある広間のあたりから、いつにも増して、煌々と灯りが漏れていた。門の周りは、いかにもいかめしい雰囲気だった。数人のインカ族と思われるいかつい男たちが、険しい目つきで館の周辺を警護している。いつもと違う緊迫した雰囲気に、コイユールはとまどいを覚えて歩調をゆるめた。すると、門の柱の陰からアンドレスが姿を見せた。襟元や袖に青紫の縁取りの施されたベージュのビロードの服を着て、腰には金色の帯を締め、あきらかに正装しているということがわかった。
2006.01.25
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その晩、アンドレスの館からもらってきた新鮮な野菜を料理して祖母にふるまうと、老婆は久々の満腹感から椅子にかけたまま、うとうとし始めた。「お婆ちゃん、ちゃんと寝ないと風邪ひいちゃうわ。」コイユールは祖母の肩を抱き上げ、寝具がわりに重ねた古衣の上に、そっと横たえた。「すまないねえ…。」すでに眠りの世界に入りかけたまま老婆はつぶやくと、小さないびきを鼻から漏らしながら深い眠りに落ちていった。コイユールは掛け布団がわりの衣類をいつものようにありったけ集めてきて、老婆にかけた。彼女と祖母の衣類をすべて集めてきても、到底寒さを凌げる量ではなかったが…。それから、蝋の残りの少なくなった蝋燭の火を急いで消した。コイユールのような貧しい農民たちにとって、蝋燭は貴重品だった。火の気がなくなると、しんしんと冷え込みがいっそう増してくる。祖母がしっかりと布にくるまっているかを再び確認してから、彼女は音を立てないように注意深くドアを開け、戸外に出た。そして、外側から片手で静かにドアを閉めた。一方の手には、しっかりとアンドレスからもらった本を持っている。外気はいっそう冷たかったが、幸い空は澄みきっていて、月明かりがコイユールの手元を照らしてくれた。アンドレスから受け取った本の表紙に、そっと指先で触れてみる。濃い緑色の布張りの立派な装丁で、表紙には金色の縁取りと文字飾りがほどこされていた。ところどころの布が薄くなっており、アンドレスが熱心に使いこんだ形跡がうかがえた。ページをめくると、花や果物、日用品などの西洋風の美しい絵と共にスペイン語の単語が添えられている。随所にアンドレスの筆跡と思われる文字で、走り書きのメモが残されていた。くっきりとした整った文字である。指先でその文字をなぞってみる。コイユールは、月を見上げた。別れ際のアンドレスの瞳の色が脳裏に焼きついていた。それは、青く燃え上がる炎のようだった。そして、自分の心の中にも、同じ炎が燃えている。そのことを、はっきりと今は感じとることができた。月はゆっくりと動き、薄い雲の中に入っていった。霞のような雲のむこう側から、月明かりが漏れている。そして、さらに月は動き、再び雲をぬけてその濡れたような光でコイユールを照らした。何かが動き出している…、自分の周りで、そして、自分の中でも…――!そんな予感が、コイユールの全身を静かに走りぬけていった。
2006.01.24
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男が出て行ったのを確認して、アンドレスはドアを閉めた。「驚かせて、ごめん。今のは俺の叔父上で、つまり、母上の兄なんだ。この近くに住んでいて、父上が亡くなってからは父親がわりみたいに俺や母上の面倒を見てくれている。」「そうだったの。」コイユールは納得した。「それで…明日、何かあるのね。」アンドレスは少し間を置いてから、短く答えた。「時々、親族が集まっていろいろと話をするのさ。」「親戚の人たちの集まりなの?」「まあ、そんなもんかな。」と言うアンドレスの横顔はやや紅潮しており、興奮と緊張の色が見えた。それ以上アンドレスが何も言いそうにないのを確かめてから、コイユールは窓の外に目をやって、すっかり薄暗くなっているのに気がついた。「いけない、そろそろ帰らないと。」「送っていくよ。」「ううん、いいの。私なら大丈夫だから。」彼女は首を振って、アンドレスを制した。しかし、アンドレスはコイユールに付き添って、薄暗くなった帰路を共にした。「大丈夫なのに…。」コイユールはフェリパ夫人からもらった高級そうな野菜を見下ろした。「本当は、こんな…、いただくつもりで来たんじゃないのに。」「お金じゃないんだし、それくらいもらってくれたっていいだろう。」「それは…とてもありがたいけど。」普段は、お金ではなくても一切ものを受け取ることはしなかった。が、フェリパ夫人とアンドレスの前では、つい気持ちが緩んでしまうようだった。そして、コイユールは、つと立ち止まった。そろそろ民家もまばらになり、これ以上先まで送ってもらうのは逆に高貴な身なりをしたアンドレスの身の方が案じられる。「ここまでで大丈夫よ。どうもありがとう。それに、本まで…どうもありがとう!」そう言って、彼女はアンドレスに微笑んだ。(また会えるのは、いつになるかしら…。)かすかに胸の奥が痛む。コイユールは、アンドレスからもらった本を握り締めた。やはりアンドレスと長期間離れるのは寂しいことだった。でも、仕方のないことである。しばらく物思いに耽ったように黙っていたアンドレスが、ふいに口を開いた。「コイユール、明日の今頃、またうちに来てみないか。」「え?」突然のことに、コイユールは目を見開いた。「君は、さっき言ったよね。もし皇帝陛下が生きていたら、この国を俺たちインカの手に取り戻せるのか、って。」アンドレスの表情はこれまで見たこともないほど、真剣だった。「コイユール、君は何を考えてる?なぜ、あんなことを聞いたんだ?」アンドレスの眼差しの鋭さに、一瞬、コイユールは、自分が睨みつけられているのではないかと思ったほどだった。彼女は、かすかに身を縮めた。しかし、視線をそらすことはしなかった。アンドレスの瞳を見つめ返すコイユールの瞳は、清く、澄んでいた。自分の心の奥底で、何かがはじけたような強い感覚を彼女は覚えた。二人はしばし無言で見つめ合った。「私、このままでいいとは思わない…!」言葉を発したのは、コイユールの方だった。彼女の瞳が、強い意志を秘めて、揺れていた。それ以上は言葉にならなかったが、アンドレスはその瞳に強く頷き返した。「そうだ。このままでいいはずがない!」アンドレスの瞳の奥に、激しく燃え上がる炎を見た思いがした。一つ一つの言葉をかみ締めるように、アンドレスは再び言った。「明日、待っているよ。もし、君が、本気でこの国を変えたいと思うなら、きっと意味があると思う。」そう言い残して、アンドレスは踵を返した。その後ろ姿が夜の闇に消えても、コイユールはしばし動くことができなかった。彼女は自らの心の奥底を、ふいに覗いてしまった気がした。それは、どこかで蓋をして見ないようにしていたかもしれない、自分の心の叫びだった。そうだ…私、この国のこと、このままでいいなんて思っていない…――!!
2006.01.23
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その時だった。廊下をドカドカと歩いてくる大きな足音が鳴り響き、部屋のドアに勢いのよいノックが聞こえた。「おい!!アンドレス、いるか?入るぞ!!」アンドレスが答える間もなく、はじけるように勢い良くドアが開かれた。そして、黒い巨大な塊が飛び込んできたかと思うと、それは一人のインカ族の男だった。隆々たる筋骨の逞しい、がっしりとした、見上げるような大男である。年の頃は30歳前後だろうか。褐色の顔に立派な髭をたくわえ、一見いかにも荒々しい印象を与える。しかしその風貌には、どことなく風格があった。「おお!!アンドレス、戻ったか!」その声も、いちいちでかかった。ふいをつかれたように、アンドレスはそちらを振り返った。男は目を見張っているコイユールに、はたと気付き、一瞬、彼も目を丸くしたが、すぐに茶目っ気のあるウィンクを彼女に送ってきた。「なんだ、アンドレス!おまえ、いつのまにこんな彼女…。」「そ、そんなんじゃ…ないんです、叔父上!」アンドレスがすかさず遮ったが、男は冷やかすようにニンマリ笑ってズカズカと部屋に入ってきた。「まあ、そう隠すな。みずくさい。」「いえ、本当に、普通の友達なんです。」コイユールが急いで弁明すると、アンドレスもうんうんと必要以上に頷いた。が、少し耳が赤くなっている。男はガハハと豪快に笑い、腕を組んで二人をかわるがわるに見渡した。「わかった、わかった。まあ、いいさ。」そして、アンドレスの方に近づき、褐色の岩の塊のようなゴツゴツした筋肉質の手を置いた。「アンドレス、元気そうでよかった!!今日クスコから戻ると聞いて、来てみたんだ。」男の手の重量感が、アンドレスの肩にずっしりと伝わってくる。アンドレスも平静を取り戻し、笑顔で大男を見上げた。「叔父上、お会いしたかった!」「おお、そうか、そうか!」男は笑顔でアンドレスの肩を満足気にバンバンと叩き、それから、近くにあった椅子にどっか、と腰掛けた。椅子が床に沈むのではないかと、内心コイユールはハラハラしながらその様子を見守った。「クスコの神学校では優秀な成績をおさめているとフェリパに聞いたぞ。頑張っているな。実際、いっぱしの若者になってきた。」男は再び満足気に少年を眺めた。その眼差しには、親が子を見るような、そんなあたたかさと厳しさの両方が宿っていた。「だが、おまえもそろそろいい年頃だ。あんなスペインかぶれの学校だけでは、本物のインカの若者には足りない。」「はい、叔父上。」アンドレスも、その意味をよく察して素直に頷いた。「明日の晩、久々にこの屋敷に皆で集まろうと思う。お前も顔を出せ。」「是非にも!!」アンドレスは、間髪入れず、待っていたとばかりに返事をした。その声には、凛とした力がこもっていた。大男は笑みを返して、椅子から立ち上がった。「邪魔したな!許せ。」それから、コイユールの方にも軽く片手を上げて、ドアを閉めるのにも頓着せず立ち去った。
2006.01.22
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しばらく沈黙が流れた後、コイユールはぽつりと言った。「ねえ、アンドレス、私、不思議な光景を見たの。」彼女は、太陽が大分傾きかけてきた窓の方に目をやった。透明なオレンジ色の西日が、二人を包みはじめている。「ビラコチャの神殿で…。」そう言いかけて、コイユールは再び言葉につまった。あの時の情景がありありと思い出され、その場にいるような錯覚にとらわれたのだった。「コイユール?」アンドレスの声に彼女は我にかえり、声の方に視線を戻した。「神殿の柱にもたれた男の人が夕陽を見ていたのだけど、西日の光が当たって、まるで金色に燃え上がるようだったの。私…インカの皇帝様が、生き返ったのかと思ってしまったくらいよ。」コイユールの声が、興奮でかすかに震えていた。アンドレスは頷きながら、コイユールをなだめるように言った。「それで…どうなったんだい?その人は、誰だったのかわかったの?」コイユールは首を横に振った。「気がついたら、消えてしまっていたの。それで、コンドルが飛んでいって…。」やや混乱したコイユールの話に、しかし、アンドレスは静かな声で応じた。「誰だったんだろうね。いったい。」視線を落とし、コイユールは膝の上で華奢な褐色の両手を握り締めた。「ねえ、アンドレス。」そして、再び真っ直ぐにアンドレスに視線を戻した。「もし…、もしインカ皇帝様が生きていたとしたら…、そうしたら、この国は、また私たちインカの人々のものに戻るのかしら?」彼女の貫くように真剣な眼差しを一旦受け止め、アンドレスは少し沈黙した。それから、静かな、だが、込み上げてくる感情を押し殺した声で答えた。「いや…。たとえ、皇帝陛下が生きていたとしても、それだけでは駄目だろうな。」一瞬、言葉を切り、そして、再び言葉をついだ。「昔のインカ皇帝だって、ことごとく酷いやりかたでスペイン人に殺されてきたんだ。恐らく、また同じことが起こるだけだろう。」アンドレスの声には、押し込めたはずの怒りが滲んだ。コイユールは息を呑んだ。いつの間にか少し涙を滲ませている彼女の前から、アンドレスはすっと離れて窓際に立った。自分の感情を、懸命に隠そうとしているようだった。ガラスを通して、黄金色の西日が彼の横顔を照らしていく。コイユールの目に、あの時、神殿で見た光景が、一瞬、完全に重なった。「コイユール。」アンドレスは後ろ姿のまま、言った。その声は、コイユールがこれまで知っていた屈託の無い少年の彼とは別人のように、低く、しかし、深かった。「たとえ皇帝陛下が生きていたとしても、スペイン人から闘って勝ち取らなければ、この国はインカの人々の手には決して戻ってこない!」そして、意を決したように、続けた。「だから、俺は…――。」
2006.01.21
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フェリパ夫人への施術が終わると、アンドレスはコイユールを自室に呼んで、改めて二人で再会のひとときを共にした。アンドレスの部屋には立派なカーテンに縁取られた明るい大きな窓があり、そして、堂々とした複数の書棚に多くの書物が並んでいる。コイユールは興味深そうにそれらの書棚を眺めた。とはいえ、もともとインカには文字はなく、また、まともな教育を受けることもできなかった彼女は、残念ながら、文字を読むことは出来なかったのだが。アンドレスは鞄の中から一冊の使いこんだ本を取り出して、彼女の前に差し出した。「これは?」珍しそうに眺めるコイユールの前で、アンドレスは本をぱらぱらと開いて見せた。スペイン語らしきアルファベットや単語が、美しい絵と共に並んでいる。「文字は、私、読めないわ。」アンドレスは頷いて、そして、その本をコイユールに渡した。「これからはスペイン語を読めた方がいいよ、何かとね。だから、その本は君にあげるよ。学校で最初の年に使った教科書だ。」コイユールは一瞬瞳を輝かせたが、すぐ冷静な表情に戻って視線を落とした。そして、本をアンドレスに返した。「でも、私、スペインの言葉は…。」「君がスペイン人をよく思っていないことは知ってる。それは、混血の俺だって同じだ。」コイユールはハッとして、顔を上げた。「ごめんなさい…。」「謝ることはないさ。俺は、自分はインカの人間だと思っている。たとえ、白人の血が入っていても。父上だって…。」そこまで言いかけて、アンドレスは言葉を切った。アンドレスの父親はスペイン人の神父だったが、今は生きてはいなかった。「この先、スペイン人と渡り合っていこうと思うなら、文字くらいは読めるようになっていないといけない。それに、ずっと感じていたよ。君だって、本当はいろんなことを学びたいんだろう。」アンドレスは澄んだ瞳で、真っ直ぐにコイユールを見た。自分の心を見透かされていたような気持ちになり、コイユールの頬が少し紅潮した。それから、観念したように、素直に頷いた。「ええ。私、本当は、もっともっとたくさんのことを知りたいし、学びたい!そして…。」そこまで言いかけた時、アンドレスの視線を強く感じてコイユールは言葉を呑みこんだ。アンドレスは、彼女の言葉の続きを待っていた。彼女は言葉を呑み込んだまま、アンドレスの本を再び受け取った。「ありがとう、アンドレス。」
2006.01.20
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スペイン人により「ミタ(強制労働)」という名目で、両親が命を捧げる鉱山に駆り出されることが決まった時、まだ幼かったコイユールに母親はその秘伝のシンボルとマントラを伝授した。すべてを伝え終わってから、母親はコイユールの目を優しくみつめて言った。「このことができるようになっても、それは、コイユール、おまえが特別な能力をもっているということではないのよ。それを忘れないでね。お日様やお月様やこの宇宙が、私たちのこの手を通して、そのお力を送ってくださっているだけなの。私たちは、ただそのお力を通すための道具としての役割を果たしているだけ。どんな人も、みんな、それぞれにいろんな役割をこの世界の中で果たしながら、目にみえない糸でつながって、支えあいながら生きているのよ。だから、このことをして、お金儲けに使ったりしてはいけませんよ。コイユールにはコイユールの、別の人には別の人の、それぞれの役割があって、そして、そのどれが偉くって、どれが偉くないとか、そんなことは全然ないのだからね。このことを、よおく憶えておいてね、コイユール。人は、みんな同じように価値のある存在だということを。」そして、母親はまだ幼いコイユールの頬を撫でながら、優しく微笑んだ。その時、母親の目に光っていた涙の理由を、まだほんの6歳だったコイユールには理解できなかった。しかし、今はその意味がわかる。母親は、もう二度と娘に会えないことを覚悟していたのだ。そして、今、こうして12歳に成長したコイユールには、母親の言葉の意味が心に染みるように理解できた。(お母さん…!)コイユールは、心の中で母親に呼びかけた。母親の優しい眼差しが再び瞼の裏に浮かび、目頭が熱くなった。やがてコイユールは、成長と共に、その療法を自分や祖母のためだけにでなく、他の人の要望に応じても徐々に使うようになっていた。何しろ貧しいインカの人々は薬草も満足に買えなかったし、コイユールは母のいいつけをよく守って、決してそのことによって金銭を受けることもしなかった。気休めにすぎないと言う者もあったが、幾らかは薬の代替療法としての役割は果たしていた。そんな彼女の噂は少しずつ集落に広がり、いつしかこの館の夫人の耳にも届いた。それ以来、夫人の求めに応じて、コイユールはこの夫人のもとを折々に訪れるようになっていたのだった。
2006.01.19
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コイユールは夫人の腰に両手を添えて、目を閉じた。そして、閉じた瞳の奥で、太陽と月を象徴する秘伝のシンボルをイメージした。それから、ある秘密のマントラを心の中で3回唱える。すると、頭上から、さっと白い光が自分の体の中に入ってくる感覚があり、そのまま光は両腕を降りてきて、夫人の腰に添えられた手の平から流れ出していくのが感じられた。コイユールは目を閉じたまま、手の平に意識を向けた。自分の手が白く光る感覚と共に熱を帯びてくるのが感じられる。部屋の中は水を打ったように静かになった。アンドレスは、二人の様子を興味深気にそっと見守った。夫人は目を閉じたままうっとりと脱力したように横たわり、コイユールの送っていくエネルギーのあたたかさに酔いしれているようだった。目を閉じて精神を集中しているコイユールの額には、うっすらと汗がにじんでいる。静かに手を添えるコイユールの瞳の奥に、遠い昔の母親の姿が甦ってくる。幼い頃から好奇心が旺盛だった彼女は、よく怪我をした。母親は「まあ、コイユール。またなの?」と呆れ顔をしながらも、いつも娘の傷口に優しく手を添えたものだった。母親の手はあたたかく、どんな薬草よりも効き目があった。それは単なる気のせいや気休めとは少し種類の違うものだった。頭痛、腹痛、腰痛などの痛みや怪我、病気、時には精神的な病にも効果があった。今で言うところの「手当て療法」に似ているかもしれない。それは、コイユールの家に代々伝えられてきた秘伝の自然療法であった。どちらにしても、コイユールにとっては、優しく母に触れてもらえるということが何よりもただ純粋に嬉しかった。
2006.01.18
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(そうか…!)と、コイユールは、はたと思い至った。フェリパ夫人はコイユールとアンドレスの仲の良いことをよく知っていたので、アンドレスが休暇でクスコから戻ってくる今日、わざわざ彼女を館に呼んでくれたのだろう。フェリパ夫人の優しさを感じ、コイユールの胸はあたたかい気持ちに満たされた。「入ろう。母上が、君の例の治療を待っているんだろう。」アンドレスは、そっとコイユールを館の門の中に促した。大理石でできた玄関先では、フェリパ夫人が待ちかねたように二人を迎え入れた。「アンドレス、お帰りなさい。コイユール、よく来てくれましたね。」「ただいま、母上。」腕を広げたフェリパ夫人の胸の中に素直に抱かれて、少年は母親の喜びに応えた。フェリパ夫人の瞳にかすかに涙が光っている。夫人にしてみれば、愛息子を「学校」という名目でスペイン人によって人質にとられているようなものであろう。息子の無事な姿に、どれほど安堵しているか想像は難くなかった。コイユールはそんな二人をまぶそうにみつめた。母親の腕に抱かれたのはもう何年も昔のことだ。そして、これからもそんな日はもう戻ってこないだろう。「さあ、コイユール、中に入ろう。」アンドレスはゆっくりと母親の腕から離れ、コイユールを部屋の中へ導いた。コイユールはだんだん自分がいることが申し訳ない心境になっていた。せっかくの親子みずいらずの再会なのだ。「でも…。」「コイユール、さあ、入ってちょうだい。」「あの、私、いいんでしょうか…。」「もちろんよ。あなたに来てほしくて、呼んだのですから。」夫人の上品で優しい笑顔に促され、コイユールはおずおずと豪奢な部屋の中に入っていった。「今日はお呼びくださり、どうもありがとうございました。お加減はいかがですか。」「まあ、コイユール、そんなに難しい話し方をしなくっていいのよ。」夫人は微笑んで、コイユールにソファを勧めた。そして、3人分のコカ茶をいれながら、夫人は腰の辺りに手を当てた。「冬の間からずっと痛んで困っていたのです。もともと冬場は痛みやすいのですけれど…。あなたに手を当ててもらったら、楽になるように思うの。」コイユールは頷いて、夫人にうつ伏せになるよう頼んだ。そして、服の上からそっと夫人の腰の辺りに片手を添えた。「この辺りですか?」「ええ、お願いするわ。」夫人はうつ伏せになったまま、静かに目を閉じた。
2006.01.17
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「今、ちょうどクスコから戻ったところなんだ。コイユール、元気にしていたかい。ここの冬は今年もきつかったろう。」アンドレスはいたわるように声をかけながら、コイユールの元気そうな姿にふっと安堵の溜息をついた。彼はインカ族の人々の生活の厳しさを、その現実を、知っていた。「私なら大丈夫。それより、アンドレスこそクスコではちゃんと落ちこぼれずにお勉強についていけているの?」コイユールはわざといたずらっぽく、少年の瞳を覗き込んだ。「あったりまえだろう。俺はこう見えても、あの学校じゃあトップなんだぞ。」アンドレスもいたずらっぽく笑ったが、その瞳には嫌味のない自信が溢れていた。「またあ!」と笑いながらも、アンドレスのことを身近に知っていたコイユールは、それが誇張ではないことを直感的に感じた。そして、御曹司に似合わず、昔から自分を「俺」と呼ぶ様子も変わっていないことに安心感を覚えた。アンドレスは数年前からクスコの都に送られ、そこで名家の子弟たちが学ぶための特別な学校で教育を受けていた。少年の身なりは、その学校の制服である。帯に飾られたスペインの紋章は、それ故のものだった。アンドレスが通っているのはスペイン人によって建てられたキリスト教の神学校で、亡きインカ皇帝または貴族の血をひくインカ族の子どもたちが学ぶ特別の施設だった。現在は25名ほどの男児たちが、スペイン渡来の知識人たちによって、キリスト教、ラテン語、スペイン語、ケチュア語(インカの公用語)などの高等教育を受けていた。もちろん、スペイン側にとって不利になるような危険な思想はこのような場所では触れることはなく、むしろ、スペイン側にとって危険となる政治的思想から特権階級の少年たちを隔離し、自分たちに都合よく教育するという狙いもあったのだろう。生活は学校付属の寄宿舎に入れられており、外界とは隔絶され、故郷に戻ってこられるのは年数回の長期休暇のみだった。コイユールはアンドレスの血統のことは何も知らなかったが、集落の噂でフェリパ夫人の家系には特別な背景があるらしいことは聞いていた。しかし、彼はまったくお高いところがなく、どんな身分の誰にでも分け隔てなく接した。コイユールは彼のそんなところが好きだった。
2006.01.16
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インカ族のフェリパ夫人とスペイン人の神父との間に生まれたこの少年は、混血児だけあって美少年で、肌の色は褐色がかってはいたがコイユールよりもずっと柔らかい色だった。髪もコイユールと同様に黒髪だったが、もっと茶色っぽい明るい色をしていた。インカ族特有の精悍さと、スペイン人のもつ華やかさとを兼ね備えた雰囲気がある。そして、もう一つ、これは人種とは関係のないものだが、その少年には奥底から湧き上がってくるような明るさ、というか、輝きがあった。それは単に人柄の朗らかさとかそういったことだけでは説明をしにくいもので、何が、ということを表現することは困難なのだが、この暗い時代を払拭するような、そんな、何か、を感じさせる雰囲気をもっていた。少年は、爽やかな緑色の西洋風なシャツにインカ風の緑色の短マントをつけ、腰には鮮やかな赤色の帯をしめていた。その帯には、スペイン軍の紋章が飾られていた。自然なウェーブが軽くかかった黒髪は直毛の多いインカ族とは趣が違うが、その髪はインカの少年らしく肩のあたりですっきりと切りそろえられている。そして、大きな鞄と数冊の書物を手にしていた。書物の背表紙には、スペイン語と思われる文字が見えている。コイユールは懐かしそうに少年をみつめた。アンドレスと会うのは、半年ぶりだ。「アンドレス、なんだか、大人っぽくなったわ。」目を細めるコイユールに、少年は少し頬を赤らめて、さっと視線をずらした。「コイユールは、全然変わらないな。」「もう!なにそれ、失礼ね。」コイユールはわざと口を尖らせて見せてから、思わず吹き出した。つられるようにアンドレスも笑い出し、それから、二人はお互いの目を改めて見返した。
2006.01.15
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翌日、畑の仕事を少し早めに切り上げて、コイユールはいそいそとフェリパ夫人の館に向かった。館は集落の中心部にあり、コイユールの住む閑散とした畑地から歩いて30分程離れたところだった。館のあるこの辺りまで来るとスペイン風の洋館なども点在しており、異国の風情が漂っている。集落の中心にはスペイン人によって築かれたキリスト教会があり、教会の周りには豊裕層が利用する商店が数件並び、それを圧倒する勢いで露店が連なっていた。けっこうな賑わいである。また、その界隈では、いろいろな人種を見ることができた。一番多いのは、もちろん褐色のインカ族の人々だが、それ以外にもインカ族とスペイン人との間に生まれた混血児、そして、当然のように白人がおり、さらには黒人もいた。これらの人種の差はこの国の階級にそのまま反映されており、この物語にとっても、おいおい重要な部分になってくるので、少々詳しく説明しておく必要があろう。現在のこの国の階級は、5つに分かれている。つまり、ヨーロッパからやってきたスペイン人、ペルー生まれのスペイン人で『クリオーリョ』と呼ばれる人々、混血児、『インディオ』と呼ばれるインカ族の人々、そして、黒人の5つである。この18世紀末の人口は、上の順に、おおよそ30万(スペイン人)、300万(クリオーリョ)、500万(混血児)、700万(インカ族)、80万(黒人)である。スペイン生まれの白人は副王、総督、代官などの役職、大司教、司教をはじめとする高位の僧職、有力な商業を独占していた。もちろん、大勢の貧乏人もいたが、自分たちがスペイン生まれであるという理由だけで、彼らは植民地生まれの白人をひどく見下げていた。一方、殖民地であるペルー生まれの白人(クリオーリョ)は純粋の白人であり、ある意味では植民地を実際に築いてきた人々の子孫であったにもかかわらず、スペイン生まれの白人より、はるかに下位の階級を構成していた。彼らは政府や教会の端役につくのがせいぜいで、あとはのらりくらりと遊び暮らすのが普通だった。ちなみに、武器と馬を所有、あるいは使用することができるのは、これら白人だけである。さらに、混血児は複雑な立場にあった。人口からいえばクリオーリョ(ペルー生まれの白人)よりも多く、スペインの征服以来、白人の男とインカ族の女との間に生まれた不義の子、およびその子孫であった。白人の社会にも、インカ族の世界にも入りこめないため、多くは商人や行商人となったり、役所や僧院のどうでもいいような役についていた。なお、黒人についてであるが、彼らはもともと奴隷としてアフリカからこの新大陸まで白人によって連れてこられてきた者たちである。しかし、人数的には、このペルー界隈にはそれほど多くはなかった。この黒人の境遇についても語るべきことがあるが、この物語では深くは入らずにおこうと思う。そして、最後に忘れてはならないインカ族についてだが、この時代、彼らは様々な環境に暮らしていた。町に出て白人の召使い、下級労働者、職人になった者、行商人の手下となった者などもあった。とはいえ、その大部分は、もう少しこの物語が進んでから登場する彼らインカ族の首領(カシーケ)のもと、コイユールたちのように細々と農業に従事していた。また、その農法も、インカ時代とあまり変わらぬ素朴なものだった。しかし、インカの時代と大きく異なり、彼らはひどく搾取され、虐待され、本来の文化も信仰も奪われ、物理的にも精神的にも深い傷を負っていた。さて、そろそろ物語をもとに戻そう。コイユールがそんな様々な人種の往来する路地を進んでいくと、ほどなくフェリパ夫人の館が見えてきた。館はちょうど教会のすぐ傍にあった。スペイン風の立派な2階建ての広々とした洋館で、白亜の壁に美しいオレンジ色の煉瓦屋根が映えていた。大きな窓は初夏の花々にふちどられ、庭は使用人によって良く手入れされ、刈り取られたばかりの草の匂いが漂っている。館の前に立ちながら、コイユールはその見事な建物を見上げた。華やかな洋館に少女らしいときめきを覚えながらも、複雑な心境が湧き上がってくる。自分たちの生活とのあまりにも隔絶した世界、そして、本来この地にあるべきものではないという違和感。あるいは、憤りにも似た感情がかすかに動く。しかし、それを振り払うようにして彼女は門の方に進みかけた。と、その時、背後で張りのある明るい声が響いた。「コイユール!!」彼女が振り向くと、そこには一人の混血児の少年が朗らかな笑顔で立っていた。「アンドレス!」コイユールからも、思わず笑顔がこぼれた。
2006.01.14
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