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「男の名前で生きていきます」 1940字 犬や猫に苗字までつける人は少ないと思う。ワテにフリムン太郎と苗字付きの名前をつけた飼い主の名前も変わっています。フリムン徳さんといいます。ワテは人間様ではおまへん。ワテは様付けで呼ばれなく、チャン付けで呼ばれる猫ちゃんです。ワテのお父ちゃんは、作家の向田邦子が自分の猫に(向田鉄)と苗字までつけたので、その真似をして、苗字がフリムン、名が太郎、とフリムン太郎と名つけたのです。 太郎という男の名前を付けられたが、ワテは雌猫であります。雌猫なのに、男の名前の猫と変わっていますが、毛色も変わってまんのです。シャムネコみたいに、上品な毛色ではおまへん、三毛猫みたいに茶色と白黒でもおまへん。もらわれてきて、生まれて間もない頃は、グレーがかったブルーの、それは珍しい色でしたが、だんだんと大きくなるにつれ、鼠色が濃くなり、生まれてから1年近く経った今頃は、とうとう鼠色になってしまいました。鼠を獲る猫が鼠色になった。ひょっとしたら、昔ワテの祖先はネズミだったかもしれないと思う時があります。鼠色の猫は鼠を捕りやすいと思いますが、ワテのお父さんの嫁はんが、ワテを絶対に出してくれまへんので、鼠は見たこともないのです。 ワテのお父ちゃんは、ちゃんとした人間様でおます。お父ちゃんの名前はフリムン徳さんと申します。4年前までは、立派な大工の徳さんと、さん付けで呼ばれていたのですが、長年のビールの飲みすぎで4年前に痛風で倒れて、大工仕事が出来ん身体障害者になりました。難儀な男はんです。 ベッドの上で四つん這いになって、文章の書き方を勉強して、「フリムン徳さんの波瀾万丈記」という本を文芸社から出版してからは、フリムン徳さんと呼ばれるようになりました。 フリムンとは喜界島の方言で、常識はずれの行動をする人のこと、大阪弁の(アホ)に似た言葉です。自分ひとりがフリムンと呼ばれるのは淋しい気持ちもあったから、一人でも仲間がおれば心強いと思って、私にもフリムン太郎と付けた様に思います。 ワテに男の名前を付けた理由はそれだけではおまへん。もっと深い理由があったのです。彼は病気で59歳に倒れるまで、26年間、大工仕事とビール一筋にわき目も振らず、わが道をまい進してきた男はんです。お客さんには気を使っても、嫁はんには気を使うことをしなかった男はんです。 ところが病気になってからは、目が覚めて、嫁はんにも他人様にも気を使うようになりました。少し世間様の男はんと同じようになったのです。特に、嫁はんには、今までと打って変わったように、気を使うようになりました。これはえらいことになったのです。大工さんの頃のように、朝、早よう家を出て、夜、遅そう、家に帰ってくるのではありません。今は1日中家にいて、コンピューターに向かってエッセーばかりを書いているのですから、息抜きの相手にワテを飼ってくれたのです。エッセイを書きながら、うまく書けない時は頭を掻いていたようですが、私を飼ってからは、「太郎、太郎」とうるさく私をしょっちゅう呼びつけて、撫で回して触るのです。 ある日、ワテはアタスカデーロ(Atascadero)のペット病院へ検診に連れて行かれました。お父ちゃんは医者にワテの名前を聞かれて、「太郎」と言いました。そしたら医者は「トロですか、おいしそうな前ですねえ」とニヤニヤしながら「トロ、トロ」と呼んでくれました。その白人の医者は寿司が大好きで、サンルイス・オビスポ(San Luis Obispo)のすし屋さんへ毎週1回寿司を食べに行くそうです。どうも寿司好きのアメリカ人には、「太郎」は「トロ」に聞こえるようです。ワテは、トロか、太郎かどっちを取ろうか迷いました。 ワテは女だから、男の名前よりは魚のトロの方が皆さんに喜ばれるから、ええなあと思いますが、これだけはおとうちゃんが付けてくれた名前ですから、どうにもなりまへん。ワテは1年近くフリムン徳さんと一緒に住んで、なぜ女のワテに男の名前「太郎」と付けたかその理由が分かりました。お父ちゃんはエッセイがうまく書けないと、すぐに、「太郎、太郎」と私を呼びます。1日中、朝から晩までです。そうしたら、私も「私はひょっとしたら男かもしれない」と錯覚しそうになる時があるのです。私の場合はそうです。ところが徳さんの嫁はんにしてみれば、また違う受け取り方をするはずです。 たとえば、私の名前が女の名前で、「愛子、愛子」と徳さんが毎日呼んでいたら、嫁はんはヤキモチを焼くに違いありません。ワテは徳さんが女のワテに男の名前「太郎」と付けた理由が分かりました。フリムン徳さんはフリムンでも、賢い、立派なフリムンだとワテは尊敬しています。だからワテは、徳さんのために、このまま男の名前太郎で生きていきます。 フリムン徳さん
2014.12.24
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「社長交代」 1986字 7-2006 腹が立ちますけど、立てられまへん。相手が強いから。泣きとうなりますけど、泣けまへん。男だから。悔しいけど、どないにもできまへん。身体がいうことを利きまへんから。 フリムン徳さんは26年間、ロサンジェルスやシアトルで主に、障子、茶室の大工をしていたのですが、身体を壊して、大工仕事が出来ない身体になった。痛風、高血圧、関節炎になったのです。バッドワイザーを飲みすぎましたんです。「ワイはバッドワイザーのアドバイザーや」と語呂合わせのいい言葉を言いながら、毎晩26年間、バッドワイザーを浴びるほど飲み続けた。仕事がうまくいったらビールで祝杯、うまくいかなくてもビールで憂さ晴らし、疲れたらビールで疲労回復、何か面白くないとビール様。「胃が食べ物を食べるのではない、仕事が食べ物を食べる」と誰かが言っていたのを思い出すと、次は「ビールは胃が飲むのではない、その時の気分が飲む」と自分で作った名文句を心に言い聞かせながら飲んだ。その酒の肴がまた悪かった。「しめ鯖でんね」。このしめ鯖を肴にしての、バッドワイザーでの晩酌は疲労回復の薬リポビタンどころか、世の中で一番よく効く疲労回復の薬でした。「ビール、鯖、ビーフは痛風の元、酒は糖尿病の元」。痛風で入院させられて、医者の言った言葉は当たっていました。医者はよう知っている。 親友、志保やレストランの大将は、料理の仕方で、「マグロよりもハマチよりも旨いのは「鯖や」と言っていた。私はアノ言葉に惚れていました。でも倒れてから3年、鯖は辛抱していましたが、この頃、ひと月かふた月に一回、また満腹食べる。知り合いの井手尾さんがロスアンジェルスから作って持ってきてくれる焼き鯖寿司が旨い。人に分けて食べさすのが惜しいほど美味い。人 生短い、好きなものを食べずに暮らすのは惜しいと思いながら、また鯖を食べる。 フリムン徳さんの痛風、関節炎は膝が痛くて、曲がらん。これはアメリカ政府認定の医者が、膝に大きな差し金を当てて、膝の曲がる角度を検査して、身体障害者と認定した。正真正銘のアメリカ政府公認の身体障害者であります。お蔭で病院代は一切無料でありがたいことです。正座も出来ない、おまけに、力が出なくて重たいのが持てん。 今は嫁はんの方がはるかに私より力が強い。歩くのも早い。重たいものを運ぶのは一人では出来なくなった。嫁はんの力が必要なのです。大工でしたから、家の建て方も重たいものの運び方もよく知っています。でも頭で知っているだけではだめなのです。力がないとだめだとよくわかりました。 嫁はんと一緒に、ベッドの大きなマットレスを運ぶ時なんかは大変です。フリムン徳さんは歩くのが遅いから、嫁はんが先を持ち、後を持って運ぶのですが、それが大変なのです。嫁はんに引っ張られて、マットレスを落としそうになるのです。だから、歯を食いしばって、足元に力を入れます。そうすると歩くのがよけい遅くなるのです。「どうしてもっと、ゆっくり歩いてくれまへんのやろうか」と思っていると、「どうしてもっと早く歩けんの」と大きな声で怒鳴るのです。 いつの日かどこかで聞いた言葉です。いつかフリムン徳さんが元気な時に、嫁はんや子どもに使っていた言葉です。怖いです。怖いです。どうしてもっと、優しい言葉で言ってくれまへんのやろうか。今までとまったく逆の立場になりました。怒鳴る大きな声は人間の心をまずくします。子供は親の言葉を真似るといいます。嫁はんは旦那の言葉を真似るようです。 あまり重たいので、落としそうで、我慢できないので、「一度下ろして、休ましてくれ」、と言うと、しぶしぶ休ませてくれます。休みながら、「どうしてこんなに小さい嫁はんにこんな力があるのか」と不思議に思います。嫁はんの顔を見ると勝ち誇ったような顔をしています。社長さんみたいな顔をしています。 そうです。フリムン徳さん夫婦は社長交代をしたのです。見掛けは元気で大きくても、もうフリムン徳さんは人形男みたいなものです。身体が大きくても、力がなければ、力のある嫁はんに従うべきです。力のある働いて収入のある嫁はんに仕えるのみです。ここで私も年金をもらって稼いでいると言うと、もうお終いのような気がするから言いまへん。だから自分の年金のことは禁句です。そして文句を言わずに従うのです。これが家庭平和の根本です。世界平和の一部やと思っています。 自分の意見が入れられない時は嘘も言いますが、その嘘も見抜いているようです。社長は従業員の嘘を見抜かないではだめです。それから、なるべく負けるようにします。勝つと思っても負けるようにします。社長さんには勝たせないとだめです。そして社長さんは勝たないとだめです。 でもフリムン徳さんは「負けるが勝ち」という言葉を知っています。人間心理では「負ける方に味方する人が多い」という統計の結果もでているようです。
2014.12.24
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「日本語を愛す」 1565字「日本語で話しているだけでもうれしいです」。偶然に知り会ったある日本女性が電話の中でこう言った。日本から1年程前にアメリカに来て、アメリカ人と結婚し、隣町パソロブレスに住んでいる年齢40代の日本女性である。完璧な英語を話す。愛嬌の良い、気さくな彼女は、自分から話しかけて、誰とでも打ち解けやすい。彼女の口からこんな言葉が出るとは想像もしていなかった。日本語が恋しくなったのか、少しホームシックになったのかもしれない。「日本語で話しているだけでもうれしいです」、私にピッタリの言葉だと思った。私はいつも心の中で、これに似たような言葉を捜しているようであったが、この言葉のように、ぴったりの言葉は考え付かなかった。やはり、私は元大工で、家を建てる木材は使えこなせるが、こんな言葉は使えこなせない。この言葉はアメリカ人ばかりの山奥の村に17年以上も住んでいる私の口から出る新鮮な言葉のようである。 私は彼女と電話で話していて、日頃、なんとなく使っている日本語の大事さ、ありがたさに感謝しようと思い直した。日本語は日本人の心の中に住んでいる小さい頃からの親しい友達であり、家族であり、故郷のようであり、日本の服装であり、日本食である。私は彼女の気持ちが手にとってわかるような気がする。日本人が少ないこの町ではウォールマートか大きなマーケット、アルバートソンやボンズで、1年に2、3回日本人を見かけるぐらいである。日本人らしき顔の人を見かけると、その人から目が離れない。いや、心も離れない。少し、そわそわ、わくわくする。日本語で話したい。でも、不思議と、日本人は目と目が合いそうになると、目をそらす人が多い。「日本人ですか、日本語を話せますか」と言う勇気が出ないのだろうか、それとも日本人同士の関わりが嫌なのだろうか、私にはわからない。以前、会った日本人に声をかけてみたが、相手にされなかったので、この頃はもう、声をかける気がしない。 私と嫁はんは、英語の壁を乗り越えたい時は、日本食レストランへ行く。この町に4軒の日本食レストランがあるが、日本人経営の日本食レストランは1軒だけである。後の3軒は、韓国人経営で、寿司職人も韓国人か、メキシカンである。日本語が通じないすし屋である。だからその1軒の日本食レストランへ行く。日本人のすし職人とウェイトレスを見に行くのである、いや、英語の壁から外に出たいからである。日本食レストランへ日本食を食べに行くのはその次である。本心は日本語が話したいからである。レストランに入った途端に、日本人の従業員に「日本語」で話したくてウズウズする。 何時、行っても白人の客で繁盛している。寿司カウンターの席が空いている時は少ない。でもカウンターに座って、すし職人と、「日本語」で話がしたい。「待つ、待つ、カウンターの席が空くまで待ちまんがな」、と少し興奮した声で、目を日本人の寿司職人に釘付けにしながら、ウェイトレスに言う。私は現役の大工の頃、ロスアンジェルスで、沢山の寿司屋のカウンターを造った。寿司やに入ればカウンターに座りたいのだ。寿司職人は「忙しい」に「猛烈」をつけて、忙しい。 「息をする間はあるかいあな」と思うほど、手、目、耳、顔と身体中を忙しく動かしながら寿司を握っている。このタコを3個握って、次に中トロを2個握って、その次はこの伝票、その後はあの伝票と、まな板の横には注文伝票がずらりと並べてある。頭の中にも伝票がずらりと並んでいるにちがいない。合間に、「アナゴ2丁、ハマチ2丁」と、声での注文も入る。 そんな忙しい彼らの隙を見つけて話しかけるのは致難の技である。私は何回か通うちに、隙の見つけ方を発見した。日本語で話することに飢えている私にはただの発見ではない、大発見である。その隙はどこに現れるか? 彼らの口元である。口元が緩む時である。その時に、英語やない、「日本語」で話しかけるのである。忙しいのにすまないという気持ちも込めて話しかける。一瞬の出来事である。それがたったの二言三言だけで、続けて話ができない。途切れる。ひっきりなしに注文の伝票が回ってくるのである。忙しい寿司職人に話しかけるのは勝つか負けるかの真剣勝負のようである。
2014.12.23
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「心の叫び~~~モントレーの山奥から」 1156字 4-16-2013 医者に「もうこの人は死んでいる」「あと2時間しか持たない」と宣告され、三途の川の川岸に立ち、勢ぞろいしたウヤフジ達にこの世に追い返され、2日間の天国旅行も経験したフリムン徳さんには、人生は旅であったような感じがする。 南の小いさな島、喜界島を15歳に出て、大阪17年、南米パラグアイへ移民してジャングルで1年半、ロスアンジェルス12年、シアトル5年、南サンフランシスコ2年、モントレーの山奥17 年と、50以上の職業を変えながら、移り住み、69年の人生を生きてきた、フリムン徳さんの心の底からの叫びである。59歳で身体障害者になり、ベッドの上で心の底から叫けびながら、したためたエッセイ集、詩集である。 やればできる、諦めたら、アカンネン。大阪で、サラリーマン、商売人、パラグアイで農業、ロス、シアトル、南サンフランシスコで大工、ここモントレーの山奥のベッドの上で、物書きの端くれを見よう見まねで覚えた。人間は諦めずに頑張れば、見よう見まねで覚えた職業で飯が食える、生きられる。生きるということはそう難しい事ではないと思いもする。頑張るだけではない、深く、深く、より深く考えながら頑張ったら、必ず、いい知恵が湧く。飯が食える。そして又、ウヤフジ(ご先祖様)が助けてくれると、確信している。 文章の”ブ”の字も知らなかった、大工であった私、フリムン徳さんが自己流で文章の書き方を勉強し始めたのは、身体障害者になった59歳の頃であった。石の上にも3年ではない、10年である。どこの新聞社、出版社へエッセイ、詩を応募してもペケペケであった。「これは何を書いているのか」と言われたこともあった。でも、私は諦めなかった。応募し続けた。エッセイの達人になる夢があるからである。継続は力なり、本当のようである。アメリカの日本語新聞、シアトルの北米報知、ロスアンジェルスの羅府新報、サンフランシスコの日米新聞、北米毎日新聞に8編応募して、5編も同時入賞した事もある。これが自慢せずにおられるかいな。26年間大工をしていた男の文章がである。頭を叩いても、ほっぺをひねっても、入賞していたのである。なんぼエー格好シーと言われても、ナンジャらホイである。私は今69歳である。歳がなんじゃい、諦めたら、アカンのであると、自分に言い聞かせて、文章の勉強に励んでいる。 元商売人だった私、元大工だった私、今はエッセイ達人になる夢を達成したいフリムン徳さんのエッセイと詩の成長振りを優越感を持って、お読みくだされ。苦笑いしながら、片目をつぶりながら、唸りながら、辛抱しながら、お読みくだされ!!!!扇千景さんのコマーシャル ”私にも写せます” やない、”大工さんにも書けます” です 。
2013.04.20
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フリムン徳さんの日本帰国スピーチ 「フリムン徳さんのフリムン人生」13970字――――――――――――――――――――――――――――――――ladys and gentlman, I am furimun tokusan ,I am so happy to see you.私、日本語わかりまへーん。でも、喜界島のシマユミタ(方言)わかりまーす。このフリムンの大工が本を書いたら、スピーチまでさせられる世の中になりました。世の中どうもおかしいようです。ホンマはスピーチは賢い人がするはずなのですが、フリムンがスピーチをするのは前代未聞のことだと思います。これも地球温暖化の所為でしょう。皆さん、諦めてください。あくびをしたり、居眠りをしながら、頭を掻きながら聞いてください。?皆さん、今日は。今日はこれだけ沢山のフリムンが集まってくれて大感激です。アメリカよりも東京のほうがフリムンは多いようで、心強いです。私が顔は男前の徳さん、首から下はフリムン徳さんです。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」が出版されてから、皆さんは私をフリムン徳さんと呼んでくれます。喜んでいいのか、悲しんでいいのか、迷っています。難儀なことですねん。?その難儀なことが今、皆さんの前で起きましたんや。4ヶ月前から苦労して覚えたスピーチを皆さんの前に立った途端に上がってしもうて、全部忘れてしまったようです。もう、ワヤデスわ、ワヤクチャですわ。だから皆さん、もしもの時にはこの紙をカンニングしながら朗読させてください。これこそホンマの神(紙)頼みです。フリムン徳さんの神頼みです。宜しくお願いします。?私は喜界島でファンスー(芋)と味噌で育ち、アメリカでは30年間ビールと肉で育ち、ビールの飲みすぎで、とうとう、痛風、関節炎、心臓肥大で大工仕事が出来ん身体になりました。ビールの飲みすぎ、牛肉、サバの食い過ぎが痛風の元、酒の飲みすぎが糖尿病の元。ビールも酒も飲まないのはフリムンの元とアメリカの医者に言われました。ちなみに、英語ではフリムンのことをフリーメン(自由な男)と言います。ほんまでっかいな。家で、辞書で調べておくんなはれ。*(フリムンとは鹿児島県喜界島の方言で、後先を考えないで行動する人、かわいらしいアホ)?ところで、皆さん、私はフリムン、フリムンとフリムンソングのCDまで出来て、フリムンを売りものにしていることに非常に気にしています。特に私の家族、親戚、同級生の皆さん、喜界島の皆さん、そして喜界島の町長さんには非常に申し訳なく思っています。上園田家からフリムンが出たと、ウヤフジも困っていると思います。どうかユルチタボーリ、ウヤフジガナシ。ヤマトチュウに喜界島はフリムンのいる島やと誤解されないか心配なのです。 ?今日は皆さんの前で私のフリムン人生をしゃべろうと頑張っていますが、何しろ、手相占い師、叩き売り、キャバレーのボーイ、おでんや、夜逃げの引越し運送や、まともな仕事では、絨毯カーテン家具や、日本生命の外交員、パラグアイでは、日本語と英語の先生、アメリカでは大工、物書きの端くれと50以上の職業を変えながら、喜界島、大阪、パラグアイ、アメリカを63年間転々としていたものですから、まともな標準語ができまへん。まともにできるのは48年前の島ユミタ、その次が大阪弁です。そして、英語がインチョウマ(少し)そのインチョーマ知っている英語をしゃべってみます。「I AM SO HUNGRY,YOU HAVE ANY SWEET POTATOS?「ワタ フィチャ、ファンスーやネンナ」、「I AM SO HUNGRY、YOU HAVE ANY SWEET POTETOS? ワタフィチャ、ファンスーヤネンな」聞き覚えがあるでしょう。これが私の知っている英語なのです。 ?それから、ロサンジェルスでメキシカンを使って大工をしていましたから、スペイン語もインチョウマできます。「オーラ、オーラ、コモエスター ハグィー、ハグィー、マリマリヤ―、」「オーラ、オーラ、コモエスター、ハグィー、ハグィー、マリマリヤ―」これも聞き覚えがあるでしょう。そうです、英語もスペイン語も島ユミタも似ています。だから喜界島出身の皆さんはすぐに英語、スペイン語が出来ます。ヤマトゥチュウとは違うのです。自信を持ってください。こんな私が今から標準語でスピーチをやろうとしているのですから、これは大変なことです。ヤッケ―タムンジャ。キャーッシナユッカ。フリムンの選挙演説になるか、フリムンの喚きになるか、フリムンの叫びになるか、あるいは途中で忘れて、紙を見て朗読するかも知れまへん、どうなるかまったく、わかりまへん。でも、もし私のスピーチがうまく終わりましたら、大きな拍手と札束をどんどん遠慮なく投げてください。焼酎もこぼれんように投げてください。?実はこの日のために私は4ヶ月前から、擂り粉木を手に持って、マイクの持ち方、しゃべり方を鏡を見ながら、猛稽古しました。一箇所だけを見ないで、全体を見回しながら、前も後ろも右も左も見ながら、お金が落ちてないか下も見ながら、ニヤニヤ笑いながら、頭を撫でながら頑張ってきました。エッセイは頭を掻きながら書きましたけど、スピーチの稽古は頭を撫でながらやりました。だから、私の頭はこの通り禿げ頭になったのです。よく、ご覧下さい。?さて、私が今住んでいるカリフォニア モントレーのブラッドレーという村は車で北はコンピューターで有名なシリコンバレーのサンノゼへ2時間、そしてサンフランシスコへ3時間、南はロサンゼルスへ4時間ちょっとの海抜300メートルの山の砂漠と呼ばれるところです。乾燥していて、昼間は暑く、夜は寒い砂漠の気候です。今年の夏は摂氏49度になる日もありました。冷房ナシの家の中にも木蔭にも暑くておれまへんでした。その日フリムンの私はどうしたか?私は家の床下に潜って絨毯を敷いて薄い毛布をかぶって暑さをしのいで寝ていました。床下に豚が寝ているのか?違いマンね、フリムン徳さんが寝てまんのや。難儀な男です。? そんな暑いところの私達の住まいは9年前にたった10万円で買った、 ペイントの禿げたキャンピングカー、 夏は暖房完備、冬は冷房完備、雨が降ると必ずどこかが漏る至れり尽せりのおんぼろキャンピングカーです。人間が住める車ではおまへん。でも住まんとあきまへん。家賃を払う金がなかったからです。夏はムシ風呂の中に住んでいるようなモンですが、乾燥しているから汗はあまりでまへん。出るのはため息だけです。 だから皆さん、俺よりもまだ貧乏人がおったと安心して、喜んで、優越感を持って生きてください。 このおんぼろの住まいの庭先へは私達が、えづけした、ウズラ、野ウサギ、鹿、きつつき、猛毒のガラガラヘビが堂々と餌を食べに水を飲みにきます。このガラガラヘビを殺すのは内の嫁はんの仕事です。殺す方法は首を斬るのではありまへん、頭をスコップで叩くのです。だから家の外には必ずスコップを置いています。たまに隣の牧場から牛も逃げてきます。いのしし親子もたまにきます。周りは牛、馬、牧場、禿山、ブドウ畑、アメリカ人ばかりで、日本人は私と嫁はんだけです。ここで私と嫁はんは英語じゃなく島ユミタ(喜界島弁)で生活しています。だから私達は英語が達者でないのです。 2、へ続く
2011.04.24
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雪どー、雪どー」 1490字 ?嫁はんにたたき起こされた。「雪どー、雪どー、ふぇーく(早く)、うぃーり(起きなさい)、うぃーりっちよ(起きなさいてば)と喜界島弁で、パトカーのサイレンみたいな嫁はんの声に起こされた。朝7時半であった。私達夫婦はアメリカに住んで30年、まだアメリカでも喜界島弁で生活しているフリムン夫婦である。?ここ、モントレーの山の中のブラッドレ-は、南のロサンゼルスへ車で4時間、北のサンフランシスコへ3時間のところにある。海抜千フィート(約300メートル)の人間の数より牛の数が多い村である。この辺の住民は「山の砂漠」と呼んでいる。夏は摂氏45度以上の日が何日も続くことがある。砂漠特有の気候で、日陰は寒いぐらい涼しくて、日陰での昼寝には毛布がいる。乾燥していて、外にパンを出すと1分以内でバラバラになる。 ?こんな山の砂漠に雪が降った。何十年に1回のことらしい。ここに来る前は寒いシアトルに住んでいたので、雪が懐かしくなり、昔の恋人に会った気分になった。嫁はんのサイレン声にせき立てられて、撮影修業中のカメラを持ち、ズボンのチャックを閉めるのもそこそこに玄関のドアを開けた。靴を履く間なんかあるかいな。サンダルで庭に飛び出した。一面の真っ白銀の世界、ひんやりした肌をさすような空気。シアトルの冬を思い出した。昨夜の悩みも、日頃の悩みも雪に吸い込まれた。雪は人間の悩みを吸い取る働きをすると初めて気がついた。 まれにみる美しい、見渡す限りの真っ白い白銀世界、デジカメで写真を撮りまくった。そして、自分の取りたいポイントを決めてアップで大きく撮る。これが大事なことだと、新米のカメラマンは自分の心と目に言い聞かせている。うまく撮れた。そしたら、すぐに友達に見せたがるのがワイのくせや。難儀な癖や。新しい車を買ったら、人に見せたい、あの気持ちと同じようである。これはすぐに調子に乗りやすい人間の行動らしい。早速、褒めてくれそうな人にインターネットで送った。 翌朝のことである。雪はさらに積もっている。2インチぐらいはある。今度は家の中に咲いている、赤い花の鉢を雪の上に置いて撮ってみた。真っ白い雪の広い庭にたった一つの真っ赤な花が咲いた。この世にない幻想の世界である。雪の広野に真っ赤な口紅をした別嬪さんがただ一人立っている様でもある。でも、白い雪と赤い花だけでは単純すぎるように思い、白い雪の庭に大きなサンダルの足跡をつけた。白い雪の中の二つの足跡の横に赤い花を置いて撮った。やはり違う、生き生きしている。ただ撮るだけではない、舞台セットをして写真を撮る、これはプロの写真家と元大工のフリムン徳さんと似ているところだろうか。これで写真コンクールに出せる写真やと満足した。これを自画自賛というのだろうが。 雪景色の外から家の中に入ると急に腹が減った。ところが、大変だ。水が出なくなっている。料理が出来ない。便所も流せない。ストーブも使えない。昨夜、夜半から停電やったんや。私のところは、水は電気で井戸のモーターを廻して汲み上げる。暖房は電気ストーブ。料理も電気。ガスがない。電気が止まればお手上げや。携帯用のガスコンロを持ち出した。水もないのにどうすると思いまっしゃろう。雪や、雪や、雪で湯を沸かしてカップラーメンを食べるんや。庭の雪は汚いだろうから竹の葉に積もった雪を小さな鍋に集めた。沸いた白湯の湯気は雪の香りがした。ふうふう吹きながらすすったカップラーメンは雪の味がした。 「アホぬかせ、フリムン徳さん、雪に香りがあんのか、雪に味があんのか」フリムン徳さんここで宣伝させてください「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸者)に、皆さんの清き御一票をお願いいたします。
2011.04.24
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「住み慣れた家で死にたいねん」 2240字? 寒くて雨の多いユカヤへ二人が連れて行かれたのはクリスマスの日だった。 忘れることができない。寂びしいてしょうがない。悲しいてしょうがない。日本人の私達をファミリーといって親しくしてくれた彼らと別れるのは辛かった。アメリカ白人のバブは私達の住んでいる暑い山の砂漠といわれるここモントレーの山の中に住んで50数年、妻のアルビラはここで生まれて育って82年。? 夏は摂氏47度以上になる暑い日もある乾燥した山の砂漠だけれど、長年住み慣れたところ、友達もいっぱいおる。小さい家だけど、庭には精魂込めて世話した色とりどりのバラの花、水仙の花、まっ黄色い菊の花が咲き乱れる。春には右も左も前も後ろも、見渡す限り広い牧場の緑の絨毯が忘れられたような小さな家を浮き立たせてくれる。秋には裏庭の3本の大きな桑の木の目も覚めるような黄色い鮮やかな葉っぱが落ちて金色の絨毯を庭中に敷いてくれる。? 夕方になると、庭の水桶に入れた水を飲みに、鹿の家族がやってくる。鶉は庭の桑の木を根城にして彼らを見つめている。たまには黒い野豚親子が庭中に穴を掘りまくることもある。庭にやってくる動物は全部彼らの友達だ。動物だけじゃない、教会のメンバーの友達も来る。隣の人も「今年のワインができた」と持ってくる。日本人の私と嫁はんも彼らの様子を見にしょっちゅう行く。ここが私たちの死ぬところと彼らは心に決めていた。? 「癌が体中に回って、もう長くない」と医者に宣告されたアルビラ、12月に心臓バイパスの手術をして、ペースメーカーを入れられたバブ。身体が弱って生活できない二人を300マイル(480キロ)離れたユカヤに住む娘のティーナが1週間、たまには2週間来て面倒を見ていた。私達も世話をしてあげたいが、子供や親戚がおる、彼らも遠慮して、思うようにいかない。難儀やなあ。どないしたらええのやろう。? 私達に英語を教え、アメリカ人の友達と同じように何の差別もなく親切に、そして大事にしてくれる二人、私達だけじゃない、誰にでも親切にしてくれる二人、毎日曜日熱心に教会へ通う二人、老齢になり、大病になって、自分で自分の世話も出来ないかわいそうな二人、何時倒れるかもわからん二人。こんなにいい二人に神様はどうして同時に冷たい仕打ちをするのやろうか、私は神様の気持がわからない。ひょっとしたら、子供達や周りの人に、人間にはこんな時もある、だから、日頃元気な時からこういう時のために心構えをしていなさいという教訓としか考えられない。? 「長年住み慣れたここが一番ええ、この住み慣れた家で死にたい、もう余分な人生じゃ、何時死んでもいい、どこへも行きとうない」。二人はこの頃よくこんなことを言う。「もう80年も生きてきたんや、人生80年で十分や、人に迷惑かけて、人の世話になってまで生きとうない、養老院にも入いりとうない、もう死んでもええ歳頃や、心ではそう決めて、何も思い残すことはないし、死ぬのも怖いと思わんのに、身体がゆうことききよれへん、身体が死んでくれへん、難儀なこっちゃねん」これが彼らの今の心境かもわからん。? ところが子供にとっては違う。少しでも長生きしてもらいたい。親の面倒は最後まで子供の自分がみるのが当たり前と、ティーナは古い日本人の考えだ。ユカヤへ連れて行った二人を彼女はあれだけ二人が嫌がっていた養老院に入れた。これには事情がある。バブが手術後食欲もなく、寝たきりで、アルビラは足やお腹がパンパンに腫れたり、鼻や足の傷口から出血が多く、自分の手におえないので看護が行き届いていて、すぐ近くに病院もある養老院へ入れた。? 私たちは二人のことが気になってしょうがない。頻繁に電話のやり取りをした。「この老人ホームは車椅子に乗った自分達よりも年寄りが多く、墓場に片足突っ込んだ人達ばかり、食堂で一緒に食事をする気にならない、ここでは死にたくない」という愚痴の電話ばかりだった。電話ばかりでは二人の様子がよくわからん、ついに私たちはユカヤへ二人に会いに行くことにした。1ヶ月ぶりに会いに行った。? 奇跡が起きていた。1ヶ月の間に二人が元通りの元気な姿を取り戻しているではないか。信じがたいほどの元気や。アルビラは足やお腹の腫れも退いて、ハイヒールまでも履けるようになっている。歩く速度も速く、足の悪い私はついていけないほどだ。大の男の私よりアルビラの食べる量が多いとティーナの旦那スティーブは目を丸くして言う。バブも普通の食欲に戻って元気になり、車の運転までしている。もうこれで、二人は元通り二人で住み慣れた家へ帰って生活ができる。「食欲があったら、人間大丈夫」と、昔、喜界島の年寄りが言っていたのを思い出した。? 片足を墓場に突っ込んだ人達との共同生活はもう二度と嫌だと言っていた彼らの養老院を実際に見て、ぞーッとする悲しい、寂しい気持ちになった。車椅子に乗ってよだれを垂らして居眠りをしている人、うつろな目で私たちを見る人、枯れ木のように痩せた人の腕は今にも折れて車椅子から落ちそうに思えた。かわいそうで、かわいそうで、長い間その景色は私の心から消えなかった。この景色が二人に「どうしても元気になって、住み慣れた家で死にたい」と頑張らせたに違いない。後2週間もすると二人は我が故郷の我が家に帰れる。帰り際、私の隣のティーナの目には嬉し涙と悲し涙が二つ光っていた。 フリムン徳さんここで宣伝させてください「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、皆さんの清き御一票をお願いいたします。
2011.04.23
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「仏様とキリスト様の御近づきの印」 1990字? 時々フリムン徳さんは自分でも、嫁はんと私は少し変な夫婦やなあと思う時があります。仏教徒である私達が毎週1回2時間、カソリック教会のクリーニング仕事をすることになりました。嫁はんが主で、私はヘルパーとしてたまに行くのやと思いまんねけど―――。 「あんたはバランティアしたらええねん」、と嫁はんに言われると、「嫌や」とは言われへんねん。3年前に病になって仕事できんようになり、嫁はんが外で働き出してからは、社長交代しましたんや。新しい社長さんの言うとおりせんとあきまへんのや。? 2月1日水曜日、家の近くのホロンという小さな山の中の町のこれまた小さな古びたカソリック教会へ初めてのクリーニング仕事に行きましたんや。なんで仏教徒である私達がカソリック教会のクリーニング仕事をするようになったか?これには理由がおますね。6年前に知り会うた近くのアメリカ人夫婦〔バブとアルビラ〕に「私達は仏教徒ですけど、英語の勉強がしたいので、教会へ連れて行ってくれませんか」と頼んだのが始まりでした。? 殆ど毎週日曜日に彼らと一緒に行きました。メンバーの人みたいに熱心に通いました。牧師さんの英語の説教はちんぷんかんぷんで、何のために来ているかと思いもしましたが、周りのアメリカ人が親切にしてくれたので、辞めるわけにもいきまへんでした。礼拝の時よりも、その後ホールで、皆さんが交替で作って持ってくる、ケーキやお菓子を食べ、コーヒーを飲みながらの雑談の時がええ英語の勉強になりました。? 若者が来なくて、年寄りが多いのはどこの教会でも同じようですが、この教会もそうです。年寄りばかりです。毎年一人、二人とメンバーは減っていくばかりです。年寄りだけで、教会のクリーニング仕事や、修理、維持は大変です。40歳代半ばの夫婦がバランティアで教会のクリーニング仕事をやっていましたが、とうとう何かの理由で出来なくなりました。この教会のメンバーの何人かの家のクリーニング仕事をしている嫁はんに「お金を払うから、やってくれ」と頼まれたのです。? 始めてのクリーニング仕事しながらいろいろ考えることがありました。なんで仏教徒がカソリック教会のクリーニング仕事をする、おかしいやないか。これは仏様とキリスト様の御近づきの印やないかいな?今年からは、もうアメリカはキリスト教中心の国ではない、どの宗派の宗教にも自由な国や。だから、クリスマスに言う“メリークリスマス”が“ハッピー ホリデー”に変わったのが嫁はんの仕事に現実に現れたみたいなモンです。? もう一つは、キリスト様は心のやさしい方、仏様は心の大きな方と思いました。私たちは教会へ行く度に二人で5ドルずつお布施をしていました。「あんた達は収入が少ないのに、毎回欠かさずお布施を続けてくれた、ありがとう。そのお礼に私があんた達に仕事を与えよう」とキリスト様がこの仕事の少ない山の中に住んでいる私達に与えたようにも思えた。また、仏様は、「キリスト様の教会のクリーニング仕事をする人がおらん、仏教徒であるあんた達が助けてやってくれ。世の中は宗教、人種の違いにかかわらず、持ちつ持たれつや、頼むよ」。と仏様が言っているようにも思いました。? キリスト様が私たちの働き振りをジーッと見ているようにも思えた。天井はなく、勾配のきつい屋根板のレッドウッド(アメリカ杉)が目に付く。壁も全部くすんだ黒っぽい茶色の古いレッドウッドで出来ている。アメリカにしては珍しくペイントをしないで木目が丸出しだから、古いレッドウッド独特の鼻をつくような匂いも人気がないときつく感じる。少し薄暗い教会の中は正面に張られた大きなステンドグラスから差し込む光線で、壁に吊るされた十字架のそこにキリスト様がおるような気持ちになる。日曜日にはにぎやかの教会も、誰もいない教会は少し怖い。嫁はんが一人で来ないで、私をつれてきた気持ちもわかるような気がする。 それは丁寧に掃除機をかけた。いつも座る自分の椅子のクッションをはずすのも始めてや。クッションの下はオークの板でできていた。いつも来て見ているようなのに、あまり注意してみていない。掃除をしたら、新しい発見がいっぱい出てくる。薄紫色の布地の長いクッションは掃除機の跡目が綺麗に見えるように、丁寧に真っ直ぐに掃除機を動かした。隅々は掃除機の小さい先で、綺麗に吸い取った。触ったこともない壁のステンドグラスは、嫁はんに言われたように、細心の注意を払いながら、そーッと布で空拭きをした。家ではこんなに丁寧にしたことない、適当なモンや。嫁はんに怒られても平気や。でも教会はキリスト様に見られているような記がしたから手を抜くわけにはいかなかった。キリスト様もお釈迦様も大事なお客様屋からのう。 フリムン徳さんここで宣伝させてください。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、皆さんの清き御一票をお願い致します。???
2011.04.23
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「フリムン柿8年」 2751字 桃栗3年、柿8年、フリムン徳さんの家の完成8年。家の工事着工の時に柿の木を植えおけば、完成の時には初柿が食べられたのにと悔やんで仕方がない。世の中そううまいようには行かない。 人の家ばかりを建ててる大工が一生に一度は自分の手で自分の家を建ててみたい。フリムン徳さんは大阪で商売人をしていた。金儲けに飽きて、南米のパラグアイのジャングルで自給自足の生活を夢見て移民したが、失敗した。アメリカのロスへ来たが、英語がわからん、何でも屋をしながら、見よう見真似で覚えた自分の大工の技術の集大成として、自分の家を自分の好みに合わせて建ててみたかった。 これが26年間アメリカで大工をしたワイの夢やったんや。一方、大工が他人の家を建てるのは当たり前で生き甲斐やけど、大工が自分の家を自分で建てるのは、なんやもの足りんような気持ちもするんや。建ててもお金がもらえんからのー。レストランのクックさんは自分の家ではクックしない人が多いと聞く。ほんま、それと似たようなもんや。? 8年もかかったんはこんな訳がおまんねん、まあ、聞いとくんなはれ。ここモントレー・ブラッドレーの山の中(ロスとサンフランシスコのほぼ中間)に〈28エーカー〉3万4千坪の土地を7万5千ドルで15年払いの月賦で買ったんが19年前やった。井戸屋さんに井戸を掘ってもらい、見晴らしのええ山の中腹をブルドーザーで削り、整地してもらったんが8年前。それから仕事の合間にこつこつと家造りを始めましたんや。? 電柱を買ってきて自分で穴を掘って電柱を立て、電気のメーターボックスの配線も自分でやりましたんや。フリムン徳さんの人生で、(皆さんの周りで電柱を買った人がいてまっしゃろうか、あんな高い木、電柱を買うことは人生計画に入っていなかった)コンクリートの基礎工事、家の骨組み、電気配線、水道、下水配管工事、内装、外壁のモルタル工事、ペイント、床張り、なんでも自分でやりましたんや。家の建築中は住む家がないさかいに、千ドルで買ったおんぼろのトレーラー(キャンピングカー)で生活しながら8年間頑張りましたんや。このトレーラーには助けられた。何しろ、毎月の家賃がいらんからのー。これは大きかった。? 無理して働いたらアカン。建築開始4年を過ぎたころ足が象の足のように腫れて歩けなくなってしもうた。何日たってもよくならない、ついに決心して医者へ行った。その場で、「働いたら、アカン」とドクターストップがかかった。血圧222、心臓肥大、関節炎、」痛風で即強制入院させられた。さっぱりわやや。身体障害者になってもうたんや。今までの収入の1/5か1/4の身体障害者年金をもらうベッドの上での生活が始まった。身体障害者で、有り金ゼロ、家の建築はストップや。ワイの夢の家も未完成のままで、俺の人生も終わりか。人生諦めの心境やった。難儀やのう。? 落ち込んで悶々としていると、「ここらで体を休めよ、もうこれ以上のどん底はない、これからは這い上がるばかりだ」と、ウヤフジ(ご先祖)が教えているのだと思えてきた。こんな一大事の時には何時も故郷、喜界島のウヤフジがワイを助けてくれるんや。「大工仕事ができなくてもベッドの上でできることがある」と、一生に一度あるかないかの「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を書かせたのもウヤフジや。家よりも本が先に完成してもうた。? 「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を書いているうちに、発見したことがあった。それは数え切れないほどの職業を変えたのに、ワイは一度も諦めたことがないということや。職業を変えるたびに、もりもりとファイトが沸いてきた。ワイは諦めるという言葉を知らなかったのや。そうや、ワイの本の副題どおり人生「諦めたらカンネン」や。よっしゃ、この夢の家も何年かかってもええ、どないにかして完成させたると決心したんや。これはベッドの上で本を書き上げた大きな副産物やった。? 金のない身体障害者は家を建てるのにも人を雇う金がない。二人でやる仕事も一人でやらなければならない。一人でやるにも以前の大工の腕力や足腰の力を失っている。頭を使って、力を使わないようにしなければならない。人を使わず、金を使わず、力を使わず、楽にひとりでできるように深く深く考えた。頭は使ったらいくらでもええ知恵が湧くこともわかった。たとえば、地中を通す電気ワイヤの溝を掘るのでも、地面が硬くてツルハシやスコップが使えなかったので、ホースの水の水圧を利用して掘った。水は自分の井戸から出る水でいくら使ってもただやから助かった。? 一番の自慢は、日本の藁床(わらどこ)の畳よりも重たい、そしてサイズも畳より一回りも大きい防火性の天井板ドライウォール(およそ50枚)を一人でらくらくと高い天井に張り付けたことや。この重たくて大きな天井板を天井に張るには身体の大きい頑強なアメリカ人も一人ではできない。どうしても二人いる。友人のバブと二人で知恵を出し合って、この天井板を張り付ける機械を作ったんや。蜘蛛みたいに天井にぴったりとくっ付いて作業できるから、名づけて「スパイダーマン」。「この天井板を私一人で張ったんや」と言うと誰もが疑いの目で見る。目の前で実際に「スパイダーマン」を使って張って見せると、目を丸くして「特許をとって儲けたらいい」と言う。身体障害者になって頭を使うこと、文章の勉強をして、深く考えることを学んだ。深く考えることで、体を使わない、力を使わない、金を使わない、すばらしい知恵が湧く。?とうとうフリムン徳さんは皆さんの善意のお陰とウヤフジのお陰で諦めずに8年かけて夢の家を完成しました。8年間でつぎ込んだ材料費が約3万ドル(330万円)、火災保険屋さんに家の値打ちを聞いたら、約29万ドル。無駄使いの多いワイには3万ドルという貯金は何年経ってもできなかったと思う。でも8年間で少しずつ材料を買った金は合計すると3万ドル貯まったことになる。貯金というのは難しいけど、物を買って残すというのはできまんねんなあ。貯金は貯まってもおろして使うからなかなか貯まらん、ところが買ったモンは残る。その買い物を何にするかが人生を変えることにもなりそうでんなあ。これが大事でんなあ。?3万ドルの柿の木を植えて8年後に29万ドルの柿がなりました。少しずつを馬鹿にしてはあきまへんなあ。諦めてもあきまへんなあ。少しずつ少しずつは8年間で大きな家になりました。リル、バイ、リル、メイクス、ビッグ(Little by Little makes BIGS)。 いつの日にかワイは柿ノ木を庭に植えようと思うてます。皆さん、ほんまに、アイガトウサマ。 フリムン徳さん :*フリムンとは鹿児島県喜界島の方言で、後先を考えないで物事をするかわいらしいアホ。
2011.04.22
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「オレンジ色の侵入者達」 2841字 「あれはいったい、何の行列や」と思わず声が出そうになった。山の中腹にある私の家の庭から見下ろせる、1キロ先のハイウェーをオレンジ色の服とヘルメットで身を固めた1団の行列がこっちへ向かって歩いてくる。私の土地の脇を通る未舗装の一本道である。新緑の出揃った牧草地帯の中にオレンジ色の行列はくっきりと浮かぶ。2月17日の朝のこと。山の砂漠といわれるこの辺では、雨期に入る11月から牧草や雑草の芽が出る。1月、2月の氷が張る寒さにも負けないで一雨一雨ごとに青々と伸びる。 先頭は黄色のヘルメットと黄色の服装で身を固めた男。消防士のようだ。その後に続く15人も同じ服装だが色はオレンジ色。 そのオレンジ色の珍しい行列は私の土地の入口から、それに続く急な坂道を腰をかがめて登り始める。間もなく、フリムン徳さんの立っている庭に現れた。何のために、うちへこんな大勢の消防士が来たのだろう。庭に立っている私に目が合うと「ハイ、ドゥーイン、」と声をかけて、庭のベンチにそれぞれ腰掛けた。アメリカの田舎の住民は、見知らぬ人でも、目と目が合うと、「ハイ、ドゥーイン」と声をかける。ベンチに座れない人は立ったままである。急な坂を登ってきて喉が乾いたのだろう。一斉に腰に下げたプラスチックのボトルの水を飲み出した。このオレンジの行列に圧倒されて、私は自分の家なのに少し気持が小さくなって、彼らを観察するしかなかった。1人の黒人、1人のヒスパニック系、あとは全部白人である。20歳前後の若い厳しい面の人達。そしてそろって男前である。間もなく、機械を引っぱった消防車が庭に来た。機械は消防車からはずされて庭の中ほどに置かれた。なんと、消防車のドライバーは顔見知りのトニーだった。これでわかった。前々から、彼は、私の家の周りの木を切ってあげると言っていた。 まさかこんなに大勢で来るとは思わなかった。夏の山火事に備えて、家の周りの雑木林をを20フィート(6メートル)の幅で、消防署がトレーニングも兼ねてただで伐採してくれるのである。「ほんまに、ただでやってくれるのか」とトニーに念を押すと、そうだと言う。アメリカはありがたい。 雨が多い年は消防署が忙しくなる。今年は去年の2倍以上も雨が降ったから牧草や雑草が大きく育つ。牧草や雑草が大きく育つと山火事が増える。大きな牧草地帯のこの辺は、土地が最低40エーカー(4万9000坪)以下には分割出来ない法律がある。フリムン徳さんの土地は法律の出来ない以前だったので、3万4千坪である。乾季の4月から10月の山火事はこの辺の年中行事みたいなもの。夏は日中の直射日光の下では摂氏50度(華氏122℃)になることもある。おまけに非常に乾燥している。暑い日は車の排気口から出る火花が枯れ草に燃え移って山火事になることもある。枯草の中に投げ捨てられた空き瓶にきつい太陽光線があたり、レンズの役割をして枯草に火がつき山火事になる時もある。だからこの辺は5月から10月までは外では火を燃やせないことになっている。もちろん焚き火もできない。11月から4月までは消防署の許可をもらったら外で火が燃やせる。それも燃やす1日前に、いちいち消防署に電話をしなければならない。煙を見つけた人が山火事と間違えて、消防署に通報するからである。難儀なところや。 先頭を歩いてきたお腹が大きくて、口ひげの黄色の消防士がボスのようだ。水を飲み終えるとすぐに彼が何かを指示した。私は聞き取れなかった。家の裏山に6人ずつ2列、縦に並んだ。消防士のボスが大きな腹を前に突き出して、この6人ずつの2列を後ろから見守っている。オレンジの3人は庭に置かれた機械の入り口に立った。何か軍隊の演習みたいだ。ボスの「スタート」のひと声で、列の先頭の2人がチェンソーで人間の背丈ほどの雑木を切り倒し始めた。後ろに並んだ人が順番に切られた木を機械へ運ぶ。この機械は木の枝を粉にする「ストーム」という機械だった。木の枝をストーム担当の3人が機械に投げ込む。大きなうなり声を上げて木は粉になっていく。家の周りは、田んぼの稲刈りあとみたいになっていく。だれもが無駄口をたたかずに黙々と木を切る、木を運ぶ、機械へ投げ込む。木を切るのは速いが運ぶのがどうも遅れる。ただでしてもらっていることやし、私も彼らの列に入り、木を運ぶのを手伝うことにした。足の悪い私の歩く鈍い速度と彼らの歩く速度がそう変わらない。精悍な若者にしては遅すぎる。 その時、私の前を運ぶオレンジ服の後ろには大きく目立つ大文字の英語で「プリズナー」と書いてあるではないか。聞くことはあっても目の前で見たのは初めての英語の文字である。日本語に訳したら「囚人」や。英語のプリズナーではすぐにぴんとこない。少し時間がかかる。これが英語に慣れん人の難儀なとこやネン。日本語に囚人と訳してみてから、「オウ、これは怖い人達や」と一瞬、警戒心と少し怖い思いが交差した。フリムン徳さんは囚人のお手伝いをしているのや。名前で呼ばれない、番号で呼ばれる人達の手伝いしているのや。これはえらいこっちゃ。フリムン徳さんが囚人の手伝いをしたらニュースにならんが、警察官が囚人の手伝いをしたらニュースになるやろうなあ。こんなこと誰にも経験できんこっちゃ。 これで納得した。彼らの歩くのが遅いのは彼らの逃亡を防ぐために、鎖の代りに重たい鉄の入った靴を履かされとるのやと、フリムン徳さんはそう推理した。この推理を刑務所で働いている知り合いのアメリカ人に聞いてみた。「重たい靴をはいて、誰が逃げる?脱いで逃げるに決まっているがな。そんな靴いるかいな。」の賢い答えが返ってきた。 後でトニーに聞いたら、彼らは模範囚で、凶器になるチェインソウを持つ2人はもうすぐ出所する2人だという。囚人を観察して、彼らの手伝いをして、ふたつ感じたことがあった。 * ひとつ、彼らはそろって男前だった。女を騙して、刑務所に入った知能犯に違いない。綺麗な花には刺がある、綺麗な男前には落とし穴がある。別嬪さんよ、綺麗な男前には気をつけなはれよ。 * ふたつ、 誰一人肥満体がいない。皆がっしりして、お腹がへこんでいる。刑務所では過食が出来ないのや、ビールも飲めないのや。それに比べて、号令をかけている消防士のお腹の大きい事、あれで梯子で屋根に登って火事が消せまんのやろうか。 フリムン徳さんが病気で倒れたのもビールの飲みすぎ、ええもんの食べ過ぎ、無茶な生活だった。この男前の若者達の身体、働き振りを見て、刑務所の質素な食べ物、規律正しい生活が昔の徳さんに、今の社会の人間に必要と思いまんねん。今の徳さんは刑務所の檻の中ではなく、自分の牧場予定地の柵の中で規律正しい生活をし、ぴたっと酒を止めてもう5ヶ月になりますねん。 フリムン徳さんここで宣伝させてください。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、皆さんの清き御一票をお願いいたします。
2011.04.22
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「助け神」 2273字 “医者嫌い”という言葉に負けた日であった。身体がしんどうてたまらなかった。それこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟で、医者に行った。即刻、高血圧、痛風、関節炎、心臓肥大で強制入院させられた。血圧222、両膝と両くるぶしが像の足のように腫れて、歩くのがやっとだった。58歳だった。「働いたらだめ、身体障害者」と宣告された。もう仕事ができないのである。収入なしで、どないして、嫁はんと生活していけるか、目の前が真っ黒になり、もうこれで人生は終わりかとも思った。 「辛いのう、難儀やのう」。憂鬱な毎日だった病院から出てからは、ベッドの上で、毎日本を読んでいたが、読んでもなかなか頭に入いらん。読む字を眺めるのは嫌なことである。ある日、へたくそな文章の本を見つけた。ベストセラーと書いてある。それを見たら,大工の私にも文章が書けるんじゃないかなあと、希望が沸いてきた。喜界島から大阪、パラグアイ、アメリカを50以上の数え切れない数の職業を変えながら放浪した私の人生を日記みたいに書く稽古をしだした。そんな時に、文章力を試すチャンスが来た。サンフランシスコの日米タイムスに、新年文芸コンクールのエッセイの募集を見つけた。投稿してみた。何と、初めて書いて、初めて投稿したエッセイが入賞してしまった。奇跡が起きた。とたんに,体の調子も良くなった。 「エッセイを勉強して放浪記を書こう」と決めた。必死にエッセイの書き方の勉強をした。いつも頭の中は「どうしたら上手なエッセイが書けるか」、でいっぱいだった。 あることを成し遂げようと必死に頑張っている時は、それを助ける偶然が起きると聞いてはいたが。その偶然が、ほんとに起きた。ロサンジェルスで発行されている小雑誌に「文章の添削指導を行います」の広告を見つけた。見つけたというより、私が探していたものが飛び込んできたみたいだ。 助け神の到来や。 すぐにエッセイを書いてファックスした。数日して、添削されたエッセイが送られて来た。見て,がっかり、ショックだった。訂正だらけや。「これだけいろいろな事を書いて、題名をつけるとしたら、何とつけるか」、「大阪弁で書いたらいかん」。大阪弁のところはペケペケしてある。ペケペケだらけや。 腹がたった。私は負けん気が強い男や。人に負けてなるかい。そんな時には,必ず、もと働いていた電通の鬼十則「取り組んだら放すな、死んでも放すな、殺されても放すな、目的完遂までは......」,と言う言葉が頭の中で暴れまわり、思わず歯ぎしりする。またやる気が出てくる。 最後のところに、「起承転結、私はラバさん、酋長の娘、色は黒いが、南洋じゃ美人、を頭に入れながら書くこと」と書いてあった。 アメリカで26年も大工をしているこのフリムン徳さんが”建築”という言葉は知っていても“起承転結”と言う言葉なんか知るかいな。. ニューボキャボリー(新しい言葉)だった。それからは,“起承転結”を頭に入れながら, 書いては, ファックスして添削してもらっていた。 ある時、 助け神が、 「手書きは大変だろう、 使ってない日本語のワープロがあるから、あげる」というではないか。まだ顔も見てない人のに、親切な人や、 肝っ玉の大きい人や,、ほんまの助け神や。タイプライターもろくに打てない, この大工は手引き書と首っきりで頑張った。 そしたら3日で打てるようになった。 努力や、頑張りや、辛抱や。家を建てれる大工はワープロも打てると自慢した。 去年の12月までに1年足らずで, エッセイを75編ほど書いた。 今年の正月、 その中から8編を選んで、アメリカの日本語新聞社に2編ずつ投稿した。 何と同時に4社の新聞に5編も入賞した。 また奇跡が起きた。 助け神のお蔭や。 どないしてお礼をしようと、 考えていたら、 また、 助け神から電話が入った.。 200ドルの中古のコンピューターを見つけてくれたという。 今度は,、「サルにもわかるコンピューター」の本を知り合いに貸してもらって、画面を見つめ、 歯を食いしばって、頭を振りながら、コンピューターと戦った。 1ヶ月と少しで,、ワードとインターネットが出来るようになった.。 でもインターネットの新しいメッセージの送信がどうしても出来なかった。 沢山の人に聞いた。 だめだった。 とうとう最後に、助け神に電話をした。 コンピューターを私と同じ画面にしてくれて、電話で説明しながら教えてくれた。 とうとう出来たがな。 ほんまに親切や。 こんな人は少ない。 やはり、最後も助け神が助けてくれた。 おおきに、おおきに、 助け神様.。 今度はインターネットで日本の産経新聞に投稿したら、フロントページの夕焼けエッセイに2回も載せてくれた。 こんな嬉しいことがあるかいな。. そうして喜んでいると, 東京の文芸社が私のエッセイを是非本にしたいと、合格通知みたいな、 表彰状みたいな手紙が来た。 そして、とうとう10月の15日に、私の本が日本全国の本屋で発売されることになった. もし、助け神に巡り合わないで, 手書きでエッセイを書いていたら、死ぬまで本が書けるかわからなかった。 エッセイが入賞するようになったのも、本が出せるようになったのも、助け神のお陰だ。 私は助け神の親切と恩を一生忘れない。 フリムン徳さんここで宣戦させてください。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、皆さんの清き御一票をお願い致します。
2011.04.21
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「強く、たくましく」 2309字?ああっ、松が。岩の絶壁に突き刺さるように生えている綺麗な枝ぶりの松。それがいくつも点々と描かれて行く。青い海に浮かぶ小さな岩の島に生える松の木の盆栽である。海の青さに松の緑が映える。車内に大勢の人がいるのも忘れて、思わず叫びそうになった。海岸線にある有名なゴルフコースを走る観光バスの中である。海にせり出ている高い岩の絶壁には緑の草一本もない。盆栽のようにきれいな松だけがぽつんぽつんと一本づつ孤独に生きている。そんな景色が延々と続く。人間は贅沢に生きている。水分もない、土もない岩の上でこんなにたくましく、綺麗な姿で生きている松に、不自由なく暮らしている人間は感動する。海岸のこの岩の松は、日本から来た観光客の脳裏に焼き付き、その美しさに満足して、日本へ帰ったらお土産話にするだろう。ここは綺麗な海岸で有名なゴルフコース・ペブルビーチの観光コース「17マイルコース」の上にある。私は、観光バスガイドの助手としてこのバスに乗っている。?26年間ロス、シアトルで主に茶室、障子、すしバーを作る大工をしていた私は長年のビールの飲み過ぎで足が大きく腫れて、リュウマチ、関節炎、痛風で大工仕事が出来なくなった。そこで、サンフランシスコのサンフラワーという日本人経営の旅行会社に入って、ガイドの助手になった。今から10年前の話である。初めはもっぱら、日本のお客の飛行場、ホテルへの送り迎え。空港の到着ゲイト前で「○○××団体様」と書かれた立て札を持って待っているのである。つい一ヶ月前までは腰にハンマーを下げて、 汗で汚れたタオルで鉢巻をしていた男が、背広にネクタイ、ぴかぴかの皮靴を履いて立て札を手に立っている。その胸には旅行コーディネーター「徳さん」と印刷された立派な名札が相応しくなく貼られている。間違いなくぴかぴかの旅行コーディネーター一年生の「徳さん」や。?「なんや、あの人、大工の徳さんとそっくりやなあ」。「でも徳さんは大工のはずやでー」。「徳さんが空港でガイドで働くはずがない」。「いや、徳さんは何でもする男やさかいに今日は、ガイドさんのそっくりさんの姿をして、話のネタをつくっとんのとちゃうか」。「試しに、声掛けてみたろうか」。「ちょっと、すんまへん。ひょっとしたら、あんた、大工の徳さんとちゃいまっか」。 と、もし顔見知りの人に会うて、こんなことになったらどうしよう。不安と、恥ずかしさで、逃げ出したい気持ちで立っている。「でも大工さんでも、サンフランシスコでガイドさんできまんねやなあ」。 と、何も聞かないでそーっとして立ち去ってほしいネン。?旅行コーディネーター「徳さん」と書かれた胸の札で、生れ育った喜界島の小学生一年生時の胸のポケットに縫い付けられた名札を思い出した。「皆さん、私の名前を『徳さん』と覚えて下さい」。 そうや私は旅行コーディネーターの一年生や。材木に囲まれて材木の顔ばかりを見ていた私が、空港で人に囲まれてゲイトから出てくる日本からのお客さんを待っている気持ちは、海に囲まれて育った喜界島から始めて出て来て、人、人で埋め尽くされた大阪駅のホームで迎えの人を待つ、心細い心境と同じや。人生、同じことの繰り返しや。私は50歳を過ぎてまたサンフランシスコで喜界島の少年の頃と似たようなことをしていた。そして、大工仕事が出来なくなった私はガイドという新しい仕事でまた強く生きて行こうと思っていた。?空港やホテルへの送り迎えを2週間ぐらいすると、次はサンフランシスコ近辺やヨセミテ観光のバスガイドの助手になった。私が始めてプロのバスガイドの助手として乗ったバスがモントレーの「17マイルコース」だった。サンフランシスコを101号線で南へ下り、ギルロイのアウトレットに立ち寄り、モントレーの町を通り抜ける。海岸沿いに作られた絵葉書みたいに綺麗なぺブルビーチのゴルフ場を過ぎると、間もなく「17マイルコース」に入る。途中、プロのバスガイドは随所随所の歴史を説明したり、お客さんを笑わせたり、退屈させない。モントレーの町に入る手前のサンドシティは砂の豊富な海岸が続く。なんとこの砂はハワイのワイキキの海岸へ運ばれているそうだ。どこでこんなネタを仕入れてくるのだろうか。他にも珍しいネタの話がいくつも出てくる。後で聞いた話だが、日本の週刊誌からネタを仕入れているらしい。?ペブルビーチゴルフ場を過ぎて、「17マイルコース」にはいる手前の海岸線の岩に生えている松が先程の松だ。その美しさに私は心を引かれた。それと同時に、どうして、水もない、土もない硬い岩の上に松の木は育つのだろうかと不思議に思った。私の疑問は、プロのガイドさんが見事に説明してくれた。?「松の木は、根の先から根酸という酸を出し、その酸でわずかずつ岩を溶かし、養分を吸収していくのです。根は成長して更に岩に強く深く入り込んで、根も幹も太くなっていきます。針状の葉っぱは気孔の数が少なく水分の蒸発を抑えます。わずかな水で生きられるよう神様が工夫してくれたのです。枝や葉は風雪に耐えて自然の美しさを整えていきます。そして鮮やかな緑を失いません」。?松は、逆境に強いだけに、強靱で折れにくく、家の梁などにも使われる。大工を辞めて、まったく別世界のバスガイドという職業で、生きていけるかと心細かった新米ガイド助手の私の頭の中に、松の木のように「強く、たくましく生きる」という言葉が大きく書かれた。フリムン徳さんここで宣伝させてください。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、皆さんの清き御一票をお願いします。
2011.04.21
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「ワイの嫁はん」 2140字 8-13-07 何年か前の産経新聞夕刊の第1面にワイの嫁はんは「勲章を上げたい嫁はん」で、堂々と載りましたんや。こんなにええ嫁はんでしたんです。根がええ格好しいのワイですから、ええ格好御許しくだされ!! ワイの嫁はんは、ようついて来てくれた。よう尽くしてくれた。ワイが大阪で商売をしていた頃,朝帰りで,綺麗な着物を着たホステスに送られて帰ってきたら,必ず外へ出て「何時もお世話になってありがとうござます」と深々と頭を下げてくれた。こんなことは普通の嫁はんではできない。まさしく商売人の嫁はんの見本だった。 いや「私は心が広いんだ」と、言葉で言わないで、”態度で示そうよ”だったかもしれない。 ワイはそれに甘えて,二人の2号さんまで作ってしもうた。しかもその二人目の2号さんは嫁はんが見つけてくれた。一人目の2号さんは北新地のホステスさんだったのに、二人目は南や。二人で道頓堀の料亭へ行った時に,そこのレジーの女が気に入って「パパ,あの子いい感じよ,口説いたら」と勧めてくれた。ワイはあの時、思った。こんなできている嫁はんは珍しい,心の広い女やなあと。北に一人、南に一人、次は東と西に欲しいなあ。”東西南北に2号さんを持っている男、フリムン徳さん”とまた、産経新聞に載りそうやなあ。こんなできている嫁はんは珍しい,心の広い女やなあと。 南米のパラグアイへも百姓として移民した。何も言わずについて来てくれた。そう簡単にはいかなかった。すっからかんになって,今度は,ロスへ行った。英語ができないからて見よう見真似で大工になった。ロスでもようやってくれた。夜の仕事の現場へでも,産まれてまもない赤ちゃんの息子を連れて、お握りを持ってきて手伝ってくれた。 ロスを振り出しにシアトル,サンフランシスコを渡り歩いて,今は日本人の一人もいないブラッドレーという山の中に住んでいる。喜界島,大阪,パラグアイ,アメリカ,ようついて来てくれた。俺の嫁はんの真似は誰もできない。ワイより世間の人が認めている。”口で言うだけじゃない、態度で示そうよ”実行し続けているワイの嫁はんこそ、勲章をもらえる嫁はんや。嫁はん,苦労かけてすまなんだなあ。おおきに。おおきに。 こんなええ嫁はんでしたんや。ところが、強ようなりしましたんや。地球温暖化とともに嫁はんが強ようなりだようです。”態度で示そう、プラス、口でも示そう”になりましたんや。どうしてもっとゆっくり歩いてくれまへんのやろうか。相手が強いから、腹が立ちますけど、腹が立てられまへん。悔しいけど、どないにも出来まへん。身体がいうことを利きまへんから。泣きとうなりますけど、泣けまへん。男だから。引っ張られて落としそうになります。歯を食いしばって、足元に力を入れます。そうすると、歩くのが遅くなるのです。今、ワイと嫁はんは二人で大きなベッドのマットレスを運んでいるのです。どうして、もっと優しい言葉で言ってくれんのやろうか。「どうして、もっと早く、歩けんの」と大きな声で怒鳴るのです。いつかどこかで聞いた言葉です。いつか使っていた大声です。この大きな怒鳴る声は元気な時に、私が嫁はんや子供に使っていた言葉です。怒鳴られるのは怖いです。怒鳴る大きな声は人間の心をまずくします。今はワイが怒鳴られる立場です。まったく逆になりました。子供は親の言葉を真似ると言います。嫁はんは旦那の言葉を真似るようです。落としそうで我慢できないので、一度降ろして休ませてくれと言います。しぶしぶと、降ろして、休ませてくれます。どうしてこんなに小さい嫁はんにこんな力があるのかと不思議に思います。顔を見ると勝ち誇ったような顔をしています。社長さんみたいな顔をしています。そうです。私達夫婦は社長を交代しました。ワイがバッドワイザーを飲みすぎて、痛風と関節炎になり、働けない人間になったからです。私の本職は力持ちの大工さんでした。家の建て方も重たいものの運び方もよく知っています。でも、 頭で知っているだけではだめです。力がないとだめとわかりました。ホンマに、よくわかりました。よぼよぼとしか歩けないのです。走れないのです。力が出ないのです。見かけは元気でも私は人形男みたいなものです。身体は大きくても、力がない人は力のある人に従うべきです。働いて収入を得ている嫁はんに仕えるのみです。力のある、収入のある嫁はんの言うとおりするのです。ここで私も年金をもらって稼いでいると言うと、もうお終いのような気がするのです。だから自分の収入のことは禁句です。そして文句を言わずに従うのです。これが家庭平和の根本です。世界平和の一部です。自分の意見が入れられない時はうそを言います。そのうそも見抜いているようです。社長は従業員のうそを見抜かないではだめです。なるべく負けるようにしています。社長さんには勝たせないとだめです。社長さんは勝たないとだめです。でもワイは「負けるが勝ち」という言葉を知っています。 フリムン徳さんここで宣伝させてください「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、皆さんの清き御一票をお願いいたします。
2011.04.20
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「100円の親切」 2034字遠い国の旅先で出会った親切は、その国で一番の別嬪さんにキッスをしてもらったようにいつまでも忘れることができない。もうあれから10年以上も経つのに、日本でのあの大雨の日の小さな傘のことが忘れられない。たった100円の傘と言っていた。雨が降ると私の胸の中に傘が開く。雨が降ったら、傘の中に人間が入るのに、あれ以来雨が降ったら、フリムン徳さんの胸の中に傘が入る。?アメリカから日本に着いて2日目の11月12日のこと。フリムン徳さんには23年ぶりの帰国だった。小雨の降る少し肌寒い日でした。尼崎の大物という駅で降りて、妹のみち子の三味線の先生のところへ行く時、駅の階段を下りて公園を通り、大きな国道を渡ったところで雨が激しくなった。何年か前、弟の道雄とオレゴンへ行った時の激しい雨を思いだした。車のフロントグラスが割れるのではないかと思うほどに激しく、音を立てて降りだした。怖くて運転できないので車を道の横に停めたほどだった。大物の雨はそれこそ滝のように降りだした。雨宿りする軒先を探すゆとりなどなかった。二人とも雨具の用意はしてません、びしょ濡れになるしかありません。少しでも小降りになることを期待しながら、三味線の先生のところへそれこそ全速力で走った。家の密集した住宅街の細い路地。?そんな大雨の中で、親切な真心が私達二人の頭の上にパッと開いたのです。それは大雨の中で目の前に真っ赤な大きなバラの花が急にぱっと咲いた感じでした。フリムン徳さんの胸に真っ赤に焼きついた。「この100円の傘をあげます、差して行きなさい」。「この傘を貸しますじゃなくて、この傘をあげます」です。土砂降りの中の人気のない住宅街の細い路地。どの家から私達の濡れ姿を見ていたのだろうか。私のウヤフジ(ご先祖様)がこの方のゆかりの誰かにええ親切をしたから、きっと、その恩返しや、と思いたくなった。とっさの出来事で、まともにその人の顔も見るゆとりがなかった。でも、間違いなくその人は男前のように思えた。人を喜ばせる、人を助ける人間は私には皆さん、男前、別嬪に思える。その人の姿より声が記憶に大きく残った。土砂降りの中を走って傘を持ってきてくる親切、そして、その親切な人を育てた両親もきっと親切な人だったのだろう。??雨から逃れたい一心で、後ろを振り向く間もなかった。そんな余裕もなかった。その男の人の家も確かめる間もなかった。後で悔やみました。ただ、はっきりしているのは中年の男だけということです。日本にはまだこんな親切な優しい人間がおったんや、大発見でした。 たった100円の傘に込められた大きな真心は私と一緒に日本から、アメリカへ渡りました。一生忘れることの出来ない思い出になりました。ホンマニ、心からのアメリカへのお土産でした。でも怖い思いでもあった。大阪で生まれて始めて女性専用車両のある電車に乗った。女風呂、女性専用便所はわかるが、女性専用車両は理解に苦しむ。大阪には、助ベーの男が多いのやろうか、痴漢が多いのやろうか、女性が強いのやろうか、きっとその鉄道会社の社長さんが女子はんに弱いに違いない。のんびり、柔らかーく大阪弁をしゃべる、大阪はややこしい町や。 弟の道雄が、もう時間帯が過ぎているから、女性専用の車両に乗っても良いと言うので二人、揃って乗って、周りを眺めたら、女性客ばかりである。「道雄、やはり、まだ女性専用の時間やでー」と言うと、「いやもう過ぎているから男も乗れる」と言う。周りが女性ばかりだから、気落ちして、座らずに、窓際に立って女性客を眺めていた。すると3分もしないうちに、綺麗な女性が優しそうな顔をして二人のところへ寄ってきた。 フリムン徳さんは、「これはきっといいことに違いない」と内心喜んでその女性の顔を見た。「これは女性専用に車両ですから降りてください」、放射能を降らすような原子爆弾発言だった。詐欺師に引っかかった気持ちや。あんな優しそうな顔から、あんな怖い言葉が出ることが信じられなかった。その日から、「女は顔じゃない、心だよ」という歌詞の演歌が頭の中にチラつき始めた。?23年ぶりの日本では沢山の楽しい思い出、うれしい思い出、珍しい思い出、怖い思い出、悲しい思い出に出会ったが、たった100円の傘の親切が一生忘れられない思い出になった。傘の親切で尼崎の大物が好きになり、尼崎が好きになり、隣の大阪まで好きになり、とうとう日本人まで好きになった。 一人がこんな親切をやるとその地域の人全体が、さらにはその国全体が親切に思える。ええことは人にせよという前に自分から始めることだと身に染みてわかりました。100円の傘は使い捨てにできても、使い捨ての傘に込められた大きな真心は使い捨てにできまへん。一生大事に使えます。 フリムン徳さんここで宣伝させてください「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、皆さんの清き御一票をお願いします。
2011.04.19
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「ほんまに、そんなこと、あんのかいな」 2511字 8‐2008?世の中にはこんな「奇跡現象」を体験した人もいる。これは私がある本で読んだ世にも不思議な、想像もできない、ある日本の男の生死に関わる体験である。第1回目の体験――彼は小さい頃、海で溺れかかって、ある女性に助けられた。第2回目の体験――彼は大人になって、ハワイ旅行をした。とある行き止まりの道に二人の人相の悪い男に追い詰められて、盗難に会う寸前だった。偶然にそこへ身体の大きな日系の男性が現れて、助けてくれた。彼はハワイの警察官であった。第3回目の体験――彼がゴルフ場のクラブで食事を終えて、外へ出たら、ウェイトレスが「忘れ物ですよ」と呼び止めた。頭を彼女に振り向けた途端に、ジェット機かと思える速さのゴルフの球が彼の目の前をすれすれに飛んでいった。もし、彼女に呼ばれて、頭を振り向けていなかったら、彼の頭はゴルフ球で打ち砕かれていたという。? この三つの体験談を通じて、彼は何を調べてみたか。自分を助けたこの3人の名前を調べたのである。どうなったか?なんとこの3人全部の苗字が同じ「山本」さんであったのである。(名前は勝手に山本と仮名にさせてもらいます。)彼は今度はどうしたか? 今度は、そのことを占い師に占ってもらった。占い師の口から出た言葉は「昔、あなたの祖先が、山本という人を助けたことがる」でした。 私は25回以上の見合いをした。しまいには見合い疲れして、喜界島の美代ねえに頼んで、顔も見ないでOKして、今の坂嶺村の嫁はんと結婚してしもうた。ところが美代ねえの旦那さん三代二先生が私が子ども二人も出来た50数年後に言った言葉も気になる。「徳市は、小さい頃、坂嶺村の人と結婚する」と言っていた。私はそんなことを言ったことはちっとも覚えていなかった。これも偶然の一致だろうか。? これは映画でもない、私に実際に起こった話です。私が南サンフランシスコに住んでいた頃です。ある朝、車のエンジンがかからないので、トーイングカーを呼びました。私の車を大きなトーイングカーの荷台に乗せて、私は運転手の横に乗って、近くのホンダのディーラーへ向かいました。右側の大きな墓地を越えて、少し緩やかな下り坂に差し掛かりました。私と話をしていたトーイングカーの運転手が後ろの荷台を振り向いたら、乗せたはずの私の車が消えてないのです。“乗せた私の車はどこへ飛んでいったのか”運転手が見つけました。私の車は飛んでいませんでした。走っていました。私達のトーイングカーのすぐ左横の中央車線を他の車と同じように仲良く並んで走っていたのです。運転手もいない、誰も乗っていない車が、他の車と並んで、何もない様に走っていたのです。これは映画ですか、いや違います、現実です。 不思議なことでした。朝のラッシュアワーなのに車がすいていました。 外側車線を走っていた運転手は慌てて車を道路横に停め、車の合間を縫って、ゆっくり走っている私の車のドアを開け飛び乗り、無事に、道の横につけたのです。ラッシュアワー時だったのに、車の流れが途切れていたのも私のホンダのドアの鍵がかかっていなかったのも幸運だった。この一瞬の出来事にどのドライバーも気づいてない様子でした。私とトーイングカーの運転手しか見ていない真昼の夢のような映画のようでした。ホンダのディーラーでこの話をすると誰も信じがたい様な顔をしていました。もちろんだと思います。車はほとんど無傷な状態でした。私が知りたいのは、あんな高いトーイングカーの荷台からいったいどんな落ち方をしたのか。車の落ちたのは大きな墓場を越えて下り坂に差し掛かったところです。墓場には何かかがあるようです。 私は小さい頃、大きくなったら何になるかと考えたのは3つあった。ひとつは大工さんだった。小学生の時工作が上手だったからである。二つ目は商売人になることだった。これは人を「説得する本」に影響されたと思う。三つ目は物書きになることだった。夜間高校生の頃、おもろい文章をよく書いていたからだろう。私は59歳までに商売人、大工さん、物書きの三つの夢にえがいていた職業をみなやってしまった。できるとは思いもしなかった。そして、どれも偶然にその職業についたようである。振り返ってみると、不思議なことでもある。これらのことは心に描いていたのが現実になったケースのようである。何かが私にさせている。私にはウヤフジ(ご先祖様)がそうさせているとしか考えられない。?私がロスアンゼルスで大工を始めたもう27,8年も前の頃の話です。まったく知らないある人から「お骨入れを木で作ってくれ」と私に注文があった。旦那さんのお父さんが死んだので、お骨を入れて日本へもって帰るそうです。私はその人の名前を聞いてびっくりしました。その死んだ人が、私の喜界島のおじいさんの従兄弟だったのです。小さい頃よく聞かされた名前でした。? 奇跡現象、偶然の一致を研究した生物学者カメラーや心理学者ユングは、すなわちこの世には、通常の因果律を越えた「超因果律」ともいうべき法則が存在している。たとえばそれは、64のパターンからなる中国の「易」のシステムに見ることができると言っている。分子、光子、量子力学、超因果律、とか私にはわからん難しい言葉ばかりでてきよる。読み進むうちにとうとう意味がわからんようになってきた。? でも、強く心にえがいたり、念じたことが現実になるケース、あるいは夢で危険を予知した正夢、予期しない、想像すら出来ないまったくの奇跡現象、偶然の一致などは超能力が作動した結果ではないだろうか。その超能力を起こす人を私は知っている。それは私の場合は自分の一番身近な喜界島のウヤフジ(ご先祖様)がおこしていると信じている。困った時も、苦しい時も、楽しい時もウヤフジです。見たこともないキリスト様やお釈迦様よりも私達のことをよく知っているのはウヤフジです。ウヤフジがあの世から私達に奇跡を、偶然を起こし、私達クァンキャー(子供たち)を引き合わせ、助け合わせて、見守っているような気がしてならない。 フリムン徳さんここで宣伝させてください「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、清き御一票をお願いします。
2011.04.18
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「1冊の本」 2249字? フリムン徳さんがこの本を見つけたのは大阪駅前の大きな本屋さんだった。喜界島から大阪西区の西中学校に転向した中学3年生の終わり頃。喜界島の早町中学校1年に入学してから3年生の終わり頃まで、当時本屋のない喜界島でこの本を探し続けていた。詳しく言うと「人に好かれる方法を書いた本」ならどんな本でも片っ端から読みたかった。?「人間の性格は何かがあると変わる」というのは本当である。小学生の頃、フリムン徳さんは、正真正銘のフリムンだった。同級生の一番の嫌われモンだった。めちゃくちゃの根性悪で、村の小野津小学校入学から卒業までずーっと餓鬼大将だった。目立ちがりやで、負けず嫌いで、遊び、勉強、持ち物、何でも勝ちたかった。自分より目立つ奴がいるとすぐにいじめた。目立つ物を持っているとすぐに奪い取った。もちろん気にくわないと自分より弱いものは誰でもいじめた。?勝つためには努力したが、目立つためには手段を選ばなかった。目立つために女の先生のスカートもめくったことがある。先生はどんなに恥ずかしい思いをしたことか。55年経ってから先生と連絡がつき、昔のことを誤った。自分に孫が出来て、おじいさんになってから、小学校の先生に謝る、やはりフリムン徳さんは変わった音であると自分でも思う。また、5年か6年生の時は男の先生の大事なところに触ったこともある。私としては先生の大事なところのズボンにそーっと触った真似をしただけと思っていたが、その先生は、握ったと言って、それは最高に怒り、私の右頬を思い切り拳骨で殴った。私の奥歯の2本は少し割れて欠けてしもうた。欠けた奥歯の1本は老人になった今でも残っている。餓鬼大将の頃の記念歯や。大事にしようと思うとります。?人間悪いことをしたら、大人にも子供にも罰が当たります。中学1年生になると、立場が逆転して、私がいじめられる側になり、とうとう私は今までいじめた同級生から村八分にされました。狭い村で村八分にされるほど辛いことはなかった。寂しい、悔しい、悲しい中学時代だった。太平洋の真中で、一人乗りの小さなボートが漂流したら、怖い思いをしながら、悲しい思いをしながら、寂しい思いをしながら、ひたすら助けを待ち、生き延びようとするに違いない。?村八分は違う。その村から逃げ出したい。逃げ出せなかったら、死にたい。朝昼晩、毎日、この二つを実行することを模索しながら、大阪の中学校へ転向するまでおよそ3年間もがき苦しんだ。まだ世の中を知らない小さな中学生がですよ。でも、やはり、まだ中学生や、世の中に出て何もしないで死ぬのは悔しいと言う気持ちが強かったから、死なずにすんだと思う。楽しいはずの私の中学時代の3年間は刑務所服役時代だったといってもみたくなる。人生で一番長かった苦しい、苦しい3年間であった。3年の10倍の30年よりも長かったように思う。楽しいことはあっという間に過ぎる、苦しいことはその逆のようだった。神様は何でそんなにしたんやろうか。?村八分にされて中学に入ってから、私はすぐに図書部員になった。一番の嫌われモンが猛烈に反省して、人に好かれる人間になりたかったからである。目が覚めたのだ。図書部で、「人に好かれる方法」を書いた本を読み漁り、それを実行に移したかった。それからもう一つ図書部員になった理由がある。放課後遅くまで図書部員活動をしていると、学校から家に帰る時間帯が彼らとずれるからだ。でも学校の図書部には「人に好かれる方法」を書いた本はなかった。今、考えたら「人に好かれる」学科を教える中学校があるはずはない。?探し求めていた本が大阪の駅前の本屋にあった。生まれて初めて入った本屋でもあった。ある、ある、どんな本でもある。本が人間を囲んで「はよう、買え、はよう買え」と脅迫されているみたいだった。喜界島の中学校の図書部とえらい違いである。人に好かれる条件、人に好かれる法、人に嫌われない方法とかいっぱいある。何冊も所々読んでみたが、専門的な、理解しにくい文章が多い。最後に買うと決めたのは「人を動かす」デ-ルカ-ネギ-著だった。アメリカの有名人、成功者の人に好かれる法、人の使い方、人を説得する法などを具体的な例をあげて、しかもわかりやすく書いてあった。?「人に好かれる法6」1、誠実な関心を寄せる2、笑顔を忘れない3、名前を覚える4、聞き手にまわる5、関心のありかを見抜く6、心からほめる。 私は「聞き手にまわる」「心からほめる」が大好きで実行している。自分が話したくても相手の話を辛抱して聞く。絶対に、「その話この前も聞いたよ」と、言わずに辛抱して聞く。これはすぐに効果がある。「心からほめる」はほめ殺しではない、ほめ倒しやと思うとります。21歳の時貨物船で貧乏旅行にアメリカに来た時、初めての買い物はデールカ-ネギ-の「人を動かす」英語版でした。もう私のバイブルみたいなものでした。この本に書いてあることを実行するために、生命保険外交員、セールスマン、おでんや、店員、あらゆる接客業を数え切れないくらい変えてきた。柔道、空手を稽古するみたいに私は中学1年生から62歳の今まで「人に好かれる法」を勉強してきたと思う。人に会えば、「人に好かれる法6」が条件反射のように現れて身構えるようだった。とうとう私はアメリカで生まれた長男も「デ-ル」と名付けた。 1冊の本はフリムン徳さんをまじめな徳さんに変えた。フリムン徳さんここで宣伝させてください「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、清き御一票をお願いします。
2011.04.18
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「天国へ届け、紅葉の木」 1692字?死んだ人の名前で封筒に入った1枚のクリスマスカードがきた。12月27日だった。この人は三ヶ月前に死んだはずのドクターだ。不思議に思いながら封を開けてみた。中には奥さんが書いたカードが入っていた。どうして死んだ人の名前でカードを送ってくれたのか理解に苦しんだ。 でも、思い当たる節はある。 私も3年前に親友「志保やレストランの大将」が死んでから、彼の奥さんが毎月2回ほどロサンゼルスから、日本語のビデをテープを送ってくれた。そのテープの返送する時に、いつも死んだ親友の名前「吉田浩二様」と宛名を書いて送っている。このドクターの奥さんも死んだ人を思い出させる為に私と同じ心境で死んだ人の名前を書いているのかもしれない。 嫁はんと二人、墓場での葬式に行った。ドクターの葬式にしては20人ほどの少ない人数の葬式だった。グリーンの芝生の公園みたいな墓地の上に棺桶を置き、その前の日除けのテントの中に椅子が並べられ、その椅子の末席に嫁はんと私は座って、生まれて初めてユダヤ人の葬式というものに参列した。 4、5人の身内の人はローマ法王が被る風船を二つに切った形の帽子を被っていた。英語と、ユダヤ語で書かれた紙?にしたがって女牧師が式を進めたがさっぱり意味がわからない。私は日本の葬式で坊さんが唱えるお経もわからないと思ったが、ユダヤ語と英語でやるお経もわからない。どこの国の葬式もお経はわからんのが当たり前と思った。式の最後はバケツの中の土を全員が順番に一掴みずつ棺おけに投げた。私は一掴みずつを三回投げた。コレが日本の仏教スタイルだと思わせたかったからである。 彼の名前はサイモン?コーエンといってユダヤ系の75歳のドクターだった。今年の正月から嫁はんがスタートしたハウスクリーニングの1番初めてのお客だった。2週間に1回毎週土曜日の10時から2時まで4時間嫁はんは彼の家にハウスクリーニングに行った。英語のあまりわからん嫁はんと非常に気があって、初美、初美と呼んで可愛がってくれた。日本食が好きとわかったら、嫁はんは行く度に、チキン照り焼きやチーズケーキを持って行った。36ドルの儲けの仕事をする家に行くのに毎回ご馳走をつくって持っていく。ガソリン代もバカにならない。仕事して金もうけに行っているのか、人に食べてもらいにいくのか、なんやわからん。だから内の嫁はんは金が貯まらんのや。 ところが日に日に彼が元気がなくなり、痩せていくのが目に見えるようにわかる。彼は、ガンに侵されていたのだ。食べ物にも、空気にも、土にもガンになるのがいっぱいだという。だから子供も、若い人もガンにかかるのだと言う。30年前にガンになり、それからベジタリアンになって、肉は一切食べない。薬はアメリカ人なのに漢方薬だけだ。絶対、西洋の薬は取らない。自分もガンに侵されていつ死ぬかわからんのに、毎日家に来る患者さんを診て漢方薬を調合して与えている。死ぬ1ヶ月ほど前まで、ベッドに横になりながら、患者さんを見ていた。嫁はんはユダヤ人の癌にかかった医者の生命力に驚いていた。 死ぬ4週間前からは食事も取れなく、点滴をして生きていた。ある日、奥さんが私の嫁はんを呼んで「初美、サイモンが天婦羅が食べたい、今度来る時に天婦羅を作ってきてくれないか」と言う。初美は野菜だけのてんぷらを作って持って行った。なんと点滴で生きている骨と皮だけの枯れ木みたいな人間が天婦羅を全部平らげたと言う。嫁はんはこんなこと信じられん、信じられんと繰り返していた。それが彼の死ぬ2週間前だった。 それから2週間して、サイモンが死んだと電話が来た。アメリカ人の間では香典の臭気安がないが、私と嫁はんは20ドルの紙幣を香典として封筒に入れて葬式に参列したのであった。サイモンの奥さんはこの20ドルで、「サイモンの思い出に日本の紅葉の木を買って家の庭に植えた。いつか紅葉を見に来てください」とこのクリスマスカードに書いてあった。??フリムン徳さんここで宣伝させてください。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、清き御一票をお願いします。
2011.04.18
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「変な泥棒」 1788字? チャーチに変な泥棒が入った。チャーチに泥棒が入るということもあまり聞かないのに、なんでこんな山の中の小さなチャーチで泥棒するのだろうか。チャーチのキッチンの裏側の1枚のガラスが割られている。近づいて中を覗くと表側の窓際まで小さなガラスの破片がバラバラにフロアに散らばっている。ガラスの破片だけではない、小さな石も4つ、5つ散らばっている。?小さな石を投げてガラスを割ったのだから子供かもしれない。割られたガラス窓の下にプラスティックの踏み台まで置いてあるから子供に違いない。ところが半分に裂かれた血のついた白いTシャツのサイズは大きい。大人かもしれない。泥棒さん、どうして私を迷わすのですか。大人の泥棒か、子供の泥棒か、はっきりしてくださいよ。そうしたら、こちらも諦めようがあるのです。私がチャーチへ入った泥棒の第1発見者になったのは初めてである。?泥棒さんにお聞きします。チャーチには金目のものはおきません。あんたは子供ですか。大人ですか。なんで泥棒をするのですか。寂しい気持ちになります。悲しい気持ちになります。不安な気持ちになります。同情する気持ちにはなれまへん。楽しい気持ちにもなれまへん。?どんな気持でチャーチへ泥棒に入ったのですかキリスト様は心のやさしい方ですから許してもらえると思って入ったのですか。仕事の少ないこの山の中で、仏教徒の私たちにカソリックのチャーチのクリーニングの仕事を与えるキリスト様はお釈迦様より心は広いと思いますが。南米のパラグアイに住んでいた頃、思い出しました。生活に困って、悪いことをしたり、どろぼうをしたり、した後、教会へ行って懺悔のお祈りしたらキリスト様が許してくれると。?それからしてみると、あんたは泥棒に入る場所を間違えたのではないですか。冷蔵庫を開けてコーラを飲み、ココアを飲んだあとを見ると、お腹が減っていたに違いない。えらいすんまへん、泥棒さん、チャーチのキッチンには飲み物とお菓子はあるけど、食べ物はおまへんのです。運良くか、運悪くか、冷蔵庫の中に入れてあった先週の日曜日のドーネンションの金まで見つけた。優しいキリスト様は自分へのドーネ-ションをあんたに廻した。これでもとはとったはずなのに。あんたは欲張りかもしれない。ああ、そうか、泥棒は欲張りだから人のものを泥棒するんだよね。?でも、あんたはムシが収まらなかったに違いない。わざわざ、礼拝堂から聖書を持ってきて、キッチンのフロア‐に投げつけている。冷蔵庫の中のドウネーションのお金が少なかったからですかそれともキリスト様が憎いのですかいやそれとも、ガラスを割った窓から入る時、手か、足か、顔か、頭か身体の一部を切って血を出し、その血を見て腹が立ったからですか。?血のついた白いTシャツを半分に引きちぎり、その半分をキッチンのカウンターに飾るようにして置きもうひとつの半分は礼拝堂の礼拝台に丸めて置き、泥棒であるあんたが牧師さんに成りすまして、誰もいないがらんとした礼拝堂で椅子に向かって、聖書を声高らかに読んだに違いない。「皆さん、泥棒したらいけませんよ、私みたいにガラスで身体を切って、血を出すのですよ」「やはり、泥棒は教会では儲けられまへん、お金を扱うお店が儲かります、アーメン、ハレルーヤ、ハレルーヤ」。そんな内容に思いますが。その証拠にいつもと違う小さな聖書が礼拝台に乱雑に置いてあった。?人にじゃなく、整然と並んだ椅子に説教を済ませたあんたは律儀な泥棒さんや。入り口にあるチャーチ訪問者記帳名簿にちゃんとサインまでしてある。どうぞ私を捕まえてくださいと、筆跡まで残している。いや、キリスト様に、「泥棒のついでに礼拝もしました」と言う印ですか皆さんのように行にはめて書かないで、新しいページに皆さんの3倍の大きさの字で、殴り書きしている。字の書き方、紙のスペースの使い方から察すると、あんたは共和党でもない、民主党でもない、共産党でもない、自由党に違いない。でも統一しない字の大きさ、乱暴な書き方、並んでない文字、アルファベットに違いないが判読できない。自由党かもしれないが、自由党でも人のものは盗まない。やはりあんたは政治にも宗教にも属さない泥棒党。泥棒さんよ、暇な時は人が読めるような字を綺麗に書く稽古をしなはれ。? フリムン徳さん宣伝させてください。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に、清き御一票をお願いします
2011.04.17
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「鏡の部屋」 2304字 ? “霊の社会、あの世の人と話がしたい”という私の夢がかなえられそうだ。求め続けていた、あの世の人と会える方法を書いた本についに出会った。私の育った喜界島では、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんが朝晩仏壇の前の位牌に向かって、「ウヤフジ(ご先祖)様、子供達、家内中が病気をしないで、いつも元気であるようにお守り下さい」とお願いし、悪い事が起きても、うれしい事が起きてウヤフジに報告し、お願いしていた。姿は見えないけど、ウヤフジはみんなの守り神であった。病気も治すのも、させるのもウヤフジと思っていた。? 墓が汚れている時は誰かが病気をする。ウヤフジがさせるのです。家族の誰かの頭痛がなかなか治らない時はお墓へ行き、墓を掘り返して、土葬された先祖代々のウヤフジの頭蓋骨や骨に絡まった木の細い根っこや、土をふき取りきれいにする。この頭蓋骨に絡まった根っこや、ごみがウヤフジを苦しめ、ウヤフジは家内の誰かに頭痛をさせたり病気をさせるのです。お婆さん達がウヤフジの頭蓋骨や骨を赤子を抱くように大事に手にしてきれいに拭き取るのを今でもはっきり覚えている。? 大好きなオメトお婆さんの影響でフリムン徳さんはずーっとウヤフジが自分を見守っていると信じている。だから、困った時はいつも「助けてください」とウヤフジに祈る。飲みすぎてよっぱらって寝る夜以外は、フリムン徳さんはほとんど毎晩のように夢を見る。途中で、目が覚めて、また続きを見ることもできる。嫁はんはほとんど夢を見ないと言う。毎晩夢を見るフリムン徳さんは神憑りの人間かも知れない。夢の中に多くのウヤフジたちが揃ってご馳走を食べる夢を1週間以上続けてみると、たいてい身内や知り合いの誰かが死んでしまう。どうもウヤフジはフリムン徳さんに身内や知り合いの死を知らせたいようである。島の美代ねえに言わせると、やはりフリムン徳さんは神憑りの人間だそうだ。? 昔、美代ねえが喜界島からロスの私の家へアメリカ見物にきた。長年ロスに住んでいる遠い親戚のお爺さんも美代ねえに会いに私の家へ来た。私はその前の晩、このお爺さんが雲に乗って私の家の玄関へすーっと入って、消えてなくなった夢を見た。それを美代ねえに言うと「そんな縁起悪い話はするな」と怒られた。ところがその夢は的中した。その日の昼、そのお爺さんは島の思い出話をいっぱいして、テレビを見ながら脳溢血で倒れてあの世へ行ってしまった。? この私の正夢よりもより具体的に、ウヤフジと会う方法を書いた本を見つけたのです。これはやはりウヤフジが私にこの本と会う様に仕向けたに違いありません。一気に読み上げた。福島大学の教授(飯田史彦著)「生きがいの創造」と言う本です。死んだあの世の人のことです。その内容が喜界島で小さい頃に聞かされていた年寄りのおじいさん、お婆さんの言っていた事とほとんど同じなのです。 1、あの世はある。2、死ぬ時には暗いトンネルを潜りぬけてきれいな花畑が見えてくる3、死ぬ時は、前に死んだ親兄弟、親戚が正装して、並んで迎えにきている。4、死んだら、すべての苦しみから開放される。5、死んだ人は生きていた時に受けた仕打ちもすべて許してあげる。6、死んだら、また誰かの体に入って生まれかえる7、ウヤフジはいつも私達を見守っている8、どんな苦しみも、どんなひどいことにあっても、それは自分に与えられた ものだから、逃げたらいけない。だから、それを克服するために頑張る、 その頑張りが自分を進歩させる。そしたら、必ず、開けてくる。? しかもそれが、アメリカ、イギリスの臨床心理学者、哲学者などが実際に経験した何百人以上の人達の話や、行動を統計してまとめた本です。ムーデイー博士自身もこの鏡の前に座って、実際に自分の死んだお婆さんと会い会話をしているのです。彼は父方のお婆さんに会いたいと念じながらその鏡のある部屋に入ったのですが、現れてきたのは母方のお婆さんだったのです。自分が会いたい人より、あの世の会いたい人が先に現れるそうです。つまり、これは錯覚の現象ではないと言うことです。私はいつも願っていました。死んだ家族、親戚、友人に会って話をしたかったのです。こんなうれしい、楽しいことがあるかいな。? あの世の人と会える方法も詳しく書いてある。私はその通り早速実行してみました。 私の未完成の家の部屋の中の一箇所の壁に幅1メートル、高さ1.2メートルの大きな鏡を床から90センチ上がった位置に掛け、その鏡から95センチメートル離れたところに安楽椅子を置いてある。その安楽椅子に座って、リラックスして座った肩の位置がちょうど鏡の下の部分95センチと同じ線になるようにしている。その安楽椅子の横に15ワットの小さな電球のスタンドを置いてある。これがアメリカであの世を研究している学者が今までの臨死体験者や、霊の世界を経験した人の経験から統計をとって作り出したあの世の人と会う鏡の部屋なのです。? あの世の人が現れてくるのはだいたい夜中の3時ごろが多いそうです。よく聞いた日本の丑三つ時。私は夜中に起きて、この部屋で「お婆さん、現れてくれ、現れてくれ」と念じていますが、現れてきまへん。念じるだけだはアカンと思い、声にも出してお願いしているのですが、でもまだ現れてきまへん。お酒と、線香を供えたら現れてくれまんねやろうか。人々は月や火星に行きたい、私の夢はあの世の人と会って話をしたい。 フリムン徳さん
2011.04.16
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「指輪のない指」 2310字?手も、足も、顔も、目さえも枯れ木のように痩せているが、お腹は風船のようにパンパン腫れて、今にも破裂しそうである。まるで小さな枯れ木が妊娠して寝ているみたいである。白い厚手のタオル地みたいなガウンを着て、両手を胸に当てて、病院のベッドに横たわっている。まだ生きている、もうすぐ死ぬなあと、二つのことを同時に思いながら彼女の手にそっと触った。蚊の鳴くような声で、かすれかすれにゆっくり、弱弱しくしゃべる。言っていることが何とか聞き取れる。先月81歳になるアルビラが入院した時はもうこれが最後だと誰もが思っていた。3年前に発見された白血病が日増しに悪化してガン細胞が身体中に広がり、お腹が腫れて、入院を繰り返していた。副作用を恐れてキモトロフィーはとらなかったが、もう最後の手段と、キモトロフィーをとった。キモトロフィーをとりだしてから、急に悪くなった。食事が喉を通らない、歩けない。とうとう病院に入れられた。医者は後2ヶ月の命と宣告した。痩せてがりがりになり、もちろん口からは食事もできなく、栄養剤をうたれた。近くに住む身内や、友だち、遠くはフロリダ、アラスカにおる身内がここカリフォニア・モントレーのキングシティの病院に見舞いに来た。身内の人が毎晩二人ずつ交代で見守った。私も嫁はんも何回も見舞いに行った。? 私たちは彼女には言葉でいい尽くせないほど世話になった。いわば、彼女は私達の恩人である。8年前に山の砂漠と呼ばれるこのブラッドレーに引っ越してきたものの、仕事なんかあるはずがない。私は南は車で4時間ほどのロスや北は3時間ほどのサンフランシスコへ行ってモーテルや、お客さんの家で泊りこみで、茶室や障子を作って、収入を得ていた。英語もまともにしゃべれん嫁はんに仕事はなかなか探せない。2年ほど経ってから思いついたのが「ハウスクリーニング」の仕事だった。ハウスクリーニングの仕事なら、片言の英語でいける、こんな山の中にでもある。ハウスクリーニングという仕事を思いつくまでに2年もかかった。? 彼女に、嫁はんのハウスクリーニングの仕事を世話して欲しいと頼んだ。彼女のやり方が普通の人とは違う。彼女は「はじめに、私のハウスクリーニングをしてください」といって、自分の家のハウスクリーンをさせて嫁はんの仕事振りを観察した。結果は合格だった。瞬く間に村の5家族のハウスクリーニングの仕事を探してくれた。賃金の交渉も、全部彼女が交渉してくれた。顔の広い人だ。また世話ずきな人だ。? 彼女のこの世話好きは病院のベッドで死にかかっていても発揮された。アラスカから見舞いに来てくれたグレン(再婚の旦那の息子40歳)は幾晩も彼女の病室で世話をした。彼は数年前に離婚して12歳の娘を男手で育てている。その娘も連れてきた。男手で育てられたそのかわいい娘を見たら、ますます、グレンに嫁がいるなあと思ったらしい。「もう私は死ぬ覚悟はできているけど、身体が、ついて来ない」、「片足は棺桶に足を突っ込んでいるのに」とグレンに蚊の泣くような小さな声でこぼしていたそうだ。そんな彼女が、夜中に何回も検診に来る白人の別嬪さんの看護婦の指を見てから、ある行動を起こした。? およそ40歳前後のこの看護婦さんの指に指輪がないのを見つけたのだ。これが生きている内に口から出る最後の声と思えるような、全身の力を振り絞って、彼女に「結婚していないのですか」と聞いたらしい。彼女は飛びあがらんばかりに驚いて、「ハイ、離婚して、今は1人です」と彼女も声にならない声で答えたという。棺桶に片足を突っ込んだ、しかも医者には後2ヶ月の命といわれた人が、である。グレンの嫁にしてやりたいのいだ。骸骨みたいに痩せた体で、ベットにの上で、2人を近つける方法を考えた。死に掛けた枯れ木のような老婦人がプロレスのレスラーみたいな大きな体格の男の嫁探しを病院のベッドの中で寝ながらやっている姿、感動的な絵のようである。?ある考えが浮かんだ。ベッドの上の彼女を動かす時は看護婦さんは重たいからシーツごと引っ張って動かすが、これが慣れた看護婦さんでも大変だ。これだ。この時にグレンを呼んで一緒に手伝わせながら、蚊の鳴くような声で彼女にグレンを紹介した。別嬪の彼女にグレンはすぐに惚れこんだ。どちらも離婚暦があり、急速に2人は仲良くなった。アルビラはシーツに乗った自分を二人に引っ張らせながら、いや、二人に棺桶を担いでもらっている気持で、二人を結んだのだ。? スーパーウーマンとしか言いようがない。もし私が彼女のように、もう後、2ヶ月の命だと宣告されたら、自分が死んだ後の家族の心配や友達との別れの寂しさを考えるのに頭の中はいっぱいに違いない。なのに彼女は看護婦の指に指輪がないのを見つけて、グレンと結びつける仲人役をやってしまった。人の癖は死ぬまで直らんと言われるが、彼女の世話好きという習慣が死にかけても蘇えったのだろうか。それとも息子を思う気持が彼女を蘇らせたのだろうか、私にはわからない。二人はアラスカとカリフォニアを遠距離電話で交際を始めた。? それから不思議な事がアルビラに起った。二人の結びつきにつられるようにして、彼女に奇跡が起こった。キモトロフィーを辞めた途端に元気が出てきた。歩けるようになった。夜中に病院の廊下を歩行練習もしだした。食欲も旺盛になってきた。もうこれで終わりかといわれた彼女はたったの2週間の入院で元気になり、退院し、二人の若い恋いのカップルまで誕生させた。今彼女は家で、料理、洗濯をしながら2人の指に指輪が輝くのを待っている。 フリムン徳さんここで宣伝させてください。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」(文芸社)に清き御一票をお願いいたします。
2011.04.16
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奇跡は起こる 2805字? 私は一昨年まで26年間、バリバリの大工だった。58歳だった。ロス、シアトル、サンフランシスコ、サクラメント、モントレーで茶室、床の間、障子、すし屋の改造に飛び回った。ニューヨークですし屋の改造、オレゴンの日本のある大学に茶室を造った事もある。 お客さんの言う通りに、命令通りにやった。二日、三日の徹夜仕事も平気だった。だいぶ無理もした。疲れるから、疲れを取るためにビールを水代わりに飲んだ。 60歳までには自分の家を建てたいと17,8年前に買ってあったモントレーの山の中の土地34000坪に、嫁はんと二人で電柱を立て、電気のメーターボックスの配線を済ませ、コンクリートの基礎も骨組みも仕事の合間にやった。新しい屋根も、下地の壁も出来た。もう一息だ。仕上がった新しい家を頭に描きながら、頑張った。山の中腹をブルドーザーで押した高台だから見晴らしは最高だ。もうすぐウィンドウを入れようとウィンドウを見て歩いていた。その翌日、関節がはれて歩けなくなった。二,三日したら直るだろうと寝ていたが一向に直らない。 とうとう20数年ぶりに医者に行った。即、強制入院させられた。 血圧、222、関節炎、痛風、心臓肥大。もうこれで、私の人生は終わりと思った。 親父が57歳で死亡、お爺さんが61歳で死亡、男の血筋は短命なので、私は60歳だろうと、うすうす自分の寿命を決めていたから直さらだ。私の死後の子供や、嫁はんの姿が頭の中でテレビのドラマのように展開していた。 有り金も、ほとんど、家の建築に注ぎこんでもうない。「もうこれで終わりか?もうこれで終わりか俺も人生も」。この言葉が私の頭の中だけじゃなく、両手両足、体中に詰まっているみたいだった。こんな言葉が詰まった人間の体を絵に書いたらどんな絵になるだろうかと、気違いみたいな事、暗い事ばかりを考えている毎日だった。この世とバイバイのこともいろいろ考えた。空気銃を撫でまわしたりもした。やはり勇気がなかった。ただ、ベッドに横になってなんとなく本の活字を追っている毎日だった。 毎日おもろうない、と思いながら過ごしているうちに、短い人生だから、充実した日を送ろうと考え始めた。そんな時に、へたくその文章の本を見つけた。それが何十万部も売れているべストセラーと書いてある。飲んベーの大工の私にもこれぐらいの文章は書けると思い始めた。「働いたらだめ」と医者から宣告された私にもなんとか机に座って字は書ける。 胸の奥にあった不可能の夢「私の放浪記」、を作文みたいに書き始めた。 去年の正月、サンフランシスコの日本語新聞の新年文芸コンクールに、「喜界島のオバさん」と題名をつけて2400字の文に纏めて便箋紙に書いて生まれて初めて応募した。それがなんと三位に入賞してしまった。奇跡が起きたのだ。表現する言葉もあまり知らない飲んベーの大工が初じめて書いた、初めて応募した作文がエッセイとして三位に入賞したのだ。両足の関節が腫れあがって、便所へ行くのも痛さで泣きながらの日々だった。ベッドで寝転がって新聞を見ていたら三位入賞の活字を見つけたとたん、5メートルも離れている電話へ行って、友達に喜びの電話をしている。どうして歩いて行ったかも覚えていない。「病は気から」という言葉を証明した瞬間だった。 およそ10ヶ月の間に1500字から2000字の私の放浪の人生をエッセイふうに75編書いた。 その中から8編を選んで、サンフランシスコ、ロス、シアトルの日本語新聞社の今年の新年文芸コンクールに応募した。結果は、一度に4新聞社に5編も入賞してしまった。大相撲のひと場所での5勝3敗とは値打ちが違う。フリムン徳さんの人生でたった1回の勝負の場所である。シアトルの新聞社には一位と佳作でダブル入賞までしてしまった。また奇跡が起きた。またウヤフジが奇跡を起こしてくれた。応募してから毎晩ウヤフジに祈った。入賞発表の日を過ぎても新聞が配達されるまで祈った。私は思う、力を出し切って、あとは結果を待つだけではだめと思う。力を出し切ったあとはウヤフジに祈らんとアカン。祈り続ける事や。ウヤフジが助けてくれるのや。 これだけの入賞に私は有頂天になって知り合いに電話を書けめくって知らせた。嫁はんは傍で「電話賃が高こうつく、人に自慢したらアカン」と手を引っ張ってる。私は感激やだから、嬉しい事は人に自慢したいのや。喜び、楽しみはおおくの人と分け合ったら最高に嬉しい。それをできない人は寂しい人と思う。 そんな嬉しい日々の一月が終わり二月に入ってすぐ、東京の文芸社から、合格通知みたいな、表彰状みたいな、私の人生で読んだこともないような素晴らしい名文の手紙が来た。私が「本にしてくれ」と送っていた75編のエッセイを是非本にしたいというのだ。「大工の書いたエッセイが本になる」「不可能の夢、放浪記を書いて本にする」。これが実現しそうや。人生を諦めないでよかった。一変に体の調子がよくなった。膝の痛みも楽になった。 でも共同出版には金がかかると言う。未完成の家に有り金はつぎ込み、身体障害者年金生活の私にはそんな金は作れない。 だから嫁はんは、文芸社からの名文の手紙を額に入れて壁に下げただけで、もう私の人生は充分と言う。そうかなあとも思った。でも夜になるとウヤフジに、本になるように祈り続けた。諦めきれなかった。 その名文を東京にいる二人の喜界島の同級生と、大阪の妹にファックスした。そしたらすぐに返事がきた。喜界島の同級生からカンパしてもらって出版しようと言う。妹も協力してあげるという。私は本にしたい気持ちはあったけど、「私の遊びに人の金まで借りては出版したくない」と断った。同級生の一人が「波に乗った時がチャンス」と発破をかけてきた。どうにかして金を集めると言う。 ここで喜界島の同級生パワーが渦を巻くように猛スピードで動き出した。たちまち四人の同級生で86万円の金を作って、文芸社へ第一回目の支払いをしてしまった。残りも妹らとで作ると言う。喜界島の同級生の助け合いのパワーをまざまざと見せ付けられた。ヤマチュ〔大和人〕のクラス会、アメリカ人のクラス会とは一味も二味も違う。喜界島の同級生(クラス会)は、親友であり家族なのだ。これを妹の大阪生まれの息子は「喜界島パワー炸裂」と呼んでいる。うまい事言いよる。あれよあれよと言う間に「喜界島の同級生パワー」によって私の胸の奥にあった「放浪記を本にしたい、不可能な夢」は実現する事になった。諦めたらアカン、人間夢は持つべし。喜界島の同級生パワーを起こしてくれたのも、助け神に巡り合わせたのも、私はウヤフジのお蔭と思っている。 私は今度の事を通じて、「どんなに重大な事が起きても、諦めずに、自分の置かれたその状態の中で自分のできることを見つけて、最大の努力をして、あらゆる方法で、できるだけ多くの人に当たって、最後に祈り続けたら、ウヤフジが奇跡を起こしてくれる」と思う。 ウヤフジはいつでも、どこでも私達を見守ってくれている。ついに第3版増刷にまでなった。ウヤフジとは奄美、沖縄地方で言う”ご先祖様”のことである。 フリムン徳さん
2011.04.15
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髭剃り後のクリーム」 2224字少し暑いから車の窓を開けて外の涼しい風に当りたいけど、我慢している。日曜日の朝9時40分、嫁はんとフリムン徳さんが教会へ向かっている車の中。仏教徒である私と嫁はんはもう6年ほど、ほとんど毎日曜日、仏教徒なのに、カソリックの教会へ行っている。家から、教会までだいたい12、3分かかる。 教会へ行く朝は必ずシャワーを取り、髭を剃って、髭剃り後のクリームを顔に塗らない、耳たぶに塗らない、袖口に塗らない。禿かけた頭に塗る。アホなことをすると思いまっしゃろう。嫁はんも笑うが私はかまわん。それには私だけの秘密の理由がおまんね。でも、クリームってたまに塗るとええ匂いがしまんなあ。昔、大阪で商売をしていた頃、よう、飲みに行った北新地の飲み屋の女の子を思い出して、恋心がよみがえりそうなええ匂いや。大工時代にいつも私の周りに匂っていた、材木の香りとはえらい違いや。2002年までロス、シアトルで26年間大工をしていた私には材木の香りが染み付いてまんのや。? この髭剃り後のクリームは香水と違って、一時間もすると匂いがなくなる。それならば、香水をつけたらええと言うでしょうが、大工をしていた5年前までは、香水よりも肉体労働後の男の汗の匂いが、男の香水やと思っていた男なのだ。男性用の香水の名前なんか知るはずもない、ましてや買ったこともない。ねじり鉢巻で頭の禿を隠した大工が、化粧品売り場なんかに、恥ずかしくて、寄り付けるかいな。嫁はんも化粧にはこだわらん性質だから、香水とはお互い縁の遠い人生なのだ。 でも、何かの本で体臭のことを読んだことがある。フランスのあるところでは親しい人や家族に久しぶりに会う時は1週間ぐらい前から風呂に入らないで、体臭を残しておくそうだ。そのことを読んで、昔私の小さい頃、香水というもののなかった生まれ故郷の喜界島の人たちのいくつかの体臭が思い出せそうな気がした。親父が畑仕事から帰ってきた時の頭に巻いていた手ぬぐいのあの匂いや。脳だけやない、鼻にも記憶力がある。記憶と匂いは何十年経っても思い出せるモンやなあー。それにしても香水で有名なフランスが体臭を香水代わりにしているとは面白い。? 私が向かっているのは、カリフォニア・モントレー・ラックウッドの山の中の、大きなオークの林に囲まれた小さなカソリックの教会だ。建物の外は、白く塗られているが、中は古い木肌のままで、古くなった木独特の強い匂いが教会の中に漂っている。椅子に座って周りを眺めていると古臭い質素な気持ちになる。友達のバブとアルビラがこの教会のメンバーだ。7年ほど前に知り合ったこのアメリカ人夫婦の家に、たまに行く時は、ほとんどが英会の勉強みたいなものだった。当時、嫁はんはほとんど、英語がしゃべれず理解できなかった。ある日、「私達は仏教徒ですが、英語の勉強のために教会へ行ってもいいですか。」と彼らに頼んでみると大歓迎してくれた。? この教会にいつもくるメンバーは15、6名で、教会の建物のように年とった夫婦達だ。皆、親切な白人だ。東洋人のしかも仏教徒の私達でも、なんの抵抗もなく打ち解けることができた。午前10時ピッタリに始まるこの教会の礼拝に遅刻する人はほとんどいない。大工時代にアメリカの職人たちが約束時間を守らないのにあきれていた私には、不思議なくらいだ。 教会に行く時間は信号機の赤信号を守るように絶対に守る、キリスト様は信号機を持っているようである。? この教会には専任の牧師がいない。メンバーが、交代で牧師役を勤める。少ないメンバーだが、その中の6名ぐらいがにわか牧師として、礼拝をし、説教をする。夫婦とも牧師役をできるメンバーもいる。ローマ法王が着る白いガウンみたいなのを着て、すました顔で聖書を読んで、立派に、たまにはニヤニヤしながら礼拝を勤める。足元を見ると、ジーパンとスポーツシューズが見える。ただの普段着の上に、牧師の白いガウンを引っ掛けただけなのだ。なんとも、ほほえましく、親しみがわく。? 教会での自分の席は暗黙の了解で決まっている。私と嫁はんはバブとアルビラの隣で前から3番目の椅子だ。6人掛けの長い椅子が真中の通路をはさんで両側に10列ほど並んでいる。長椅子の背もたれの後には英語の聖書が入っている。礼拝が始まるとにわか仕立ての牧師が、聖書の何ページを開けてと言い、そして読み始める。また、皆で読むことある。英語の聖書は、易しい英語で書かれている。それにしても、仏教の本は、難しい言葉ばかりで書かれていて、分かりにくいと思う。? 説教が終わると、木製のサラダ用の皿みたいなものを持って、お布施を集めに来る。私達は毎回キャッシュで5ドルを入れる。メンバーの人は、ほとんどが小切手を入れる。そのお布施の額は、自分の気持ちだけでいいということになっている。? 礼拝の最後には、椅子から立って、通路で、全員、互に「ハグ」をする。男同士は握手、男と女、女同士はすべての人と「ピース、ウィッズ、ユー」と言って、抱き合って「ハグ」する。白人のおじいちゃんもおばあちゃんも、私よりは背が高い。白人のおばあちゃんとハグをすると、おばあちゃんの鼻の下に、私の頭が来るのだ。まさに、この瞬間のために、私は髭剃り後のクリームを禿げかけた頭に塗り、その匂いを風で吹き飛ばさないために、暑くても車の窓を開けないで辛抱したのだ。
2011.04.15
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「日本食料品店マルカイ」 1725字 10-25-10“シリコンバレー“で有名なサンノゼにある日本食良品マーケット”マルカイ”へ日本食料品の買出しに行った。およそ1年振りである。うちから北のサンフランシスコへ向って、2時間ほどで車で行ける。マルカイは、アメリカでは一番安くて、大きな日本食料品店である。ロスアンジェルスに3店、サンノゼ1店、あるがサンフランシスコにはない。? パックに入った生鮮食料品の多さに驚いた。透明のパックに入っているから中身がそのまま一目でわかる。触って見ることもできる。それにしても、アメリカの大きなマーケット、セイフウェイ、アルバートソ,ボンズなどで売っているTVディナーはカラー写真の貼ってある箱に入っているのが多いから、中身が見えない、触れない。アメリカの食料品は写真結婚するみたいで、買う。日本食料品は恋愛結婚するみたいで買う。おもろいなあと一人で笑いながら、パックに入ったのを触った。フリムン徳さんの触るのは酒の肴になるようなものばかりで一人、心の中で苦笑いした。鹿児島の付け揚げ、蒲焼、秋刀魚、たこ焼き、焼き豆腐を触ってみた。まさか、たこ焼きまでもがパックになって売っているとは思わなかったカリフォニあの山の中に住む人間は正味の田舎者である。豚まんの味は何10年か前の大阪戎橋商店街の端の店で食べた焼きたての豚まんと同じ味でうれしくなった。?東洋人の背の低さに驚き、別嬪さんの少なさにも驚いた。東洋人のお客さんでいっぱいだった。山の中で身体の大きなアメリカ人ばかり見ているフリムン徳さんは東洋人の背の低さが気になり(自分の背の低さは忘れて)、別嬪さんの少なさにも少しがっかりもした。身体の大きさ、丸くて大きな目、 高い鼻、金髪、そして白い肌は美人の条件だとわかった。でも別嬪さんは少ないはずです。誰がマーケットへ買い物にめかしていくでしょう。?店員さんに聞いたら、この頃はチャイネィーズより、台湾人が増えているとのことでした。久しぶりに見る日本人、チャイネィーズ、韓国人、ベトナム人の区別がつかなく、皆さん東洋人に見えた。顔でその人の出身国がわかるのではなく、その人の口から出る言葉で出身国がわかり、「どうしてこの人は日本食を食べるのかなあ」と考えながら、しげしげとその人の顔を眺めた。?酒が安い、米が安い、ごぼうが安い。“安い”という字が頭の中を埋め尽くし、久しぶりに金持ちの気持ちって、こうだろうなあと思ったり、「もうきりがない、また今度にしよう」と嫁はんに何度言っても聞かない。とうとうカートが満載になっ てしもうた。うちの近くの町のアメリカマーケット”アルバートソン”で売っている松竹梅(1.5リットル、約8.25合瓶、10ドル7セント)6ドル78セントと半値に近い。日本円で計算すると、542円ほど。思い切って5本買った。「いつまで持つかねえ」と嫁はんは、フリムン徳さんではなく、酒を睨みながら言いよる。「いつまで持つかねえ」と言うだけですよ、何かおかしい。?以前はこう言い方はしなかった。「買うな、買うな」と、2度以上繰り返して、「身体に悪い、身体に悪い」「あったら飲む、あったら飲む」とフリムン徳さんを睨みながら猛反対だった。えらい変わりようや、歳のせいか、それとも人間が丸くなったのか、フリムン徳さんを諦めたのか。?フリムン徳さんは、嫁はんが言葉の遣い方を変えたのだと思う。家に帰って、すぐに日本の松竹梅の本社にこんなメールを入れた。「1杯のコップ」晩酌は1日1杯にしなさいと嫁はんに言われコップの大きさが気になる皿洗いの時に特別にコップを見つめるコップを手に取り、眺める人になるロダンの考える人ではないこのコップは小さい、このコップは小さいと叫びたくなるこの心の叫び聞いてくれるのは喜びの酒松竹梅だけらしい松竹梅の京都本社からすぐに下記のメールが入った。フリムン 徳さん 様日頃のご愛顧に心よりお礼申し上げます。このたびは、「松竹梅」につきまして、ご厚情のお言葉を賜り、誠にありがとうございました。フリムン 徳さん様から頂戴致しましたEメールを読ませていただき、毎晩、「コップ一杯の松竹梅」を晩酌としてお楽しみくださるご様子がうかがえ、また、奥様のフリムン 徳さん様のご健康を思われてのお心遣いに、私たちも大変心が温まる思いです。どうか、これからも、変わりなく「松竹梅」をご愛飲下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。 最後になりましたが、このたびのご厚情に改めて感謝申し上げますと共に、フリムン 徳さん様とご家族様のますますのご健勝をお祈り申し上げます。**********************************宝酒造株式会社 お客様相談室京都市下京区四条通烏丸東入
2011.04.14
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「日本へ帰った尺八」 2266字? 世界で一番高い木。高さ111メートル、樹齢600年から800年のレッドウッドの木。名前までついている、「メンドシーノ トゥリー」。木に名前があり、木の高さまでわかっているのに重さが知りたいのは私だけか? カリフォニアのメンドシーノ郡にある。このメンドシーノ郡にあるユカヤの町に行ってきた。サンフランシスコからフリーウェー101号を北へ約120マイルのところにある。アメリカ人友達夫婦、バブとアルビラに会いに泊りがけで土曜日から日曜日にかけて行ってきた。 近所に住んでいた彼らは病気のため、娘夫婦(ティーナとスティーブ)の住むこの町へ連れて行かれた。私の住んでいるモントレーの山の中のブラッドレーとは木の種類も空気も違う。雨が多いのだろう。レッドウッドの木がびっしりと生えた高い山々に囲まれたこの町は、以前住んでいたシアトルの町を思い出させる。身が引き締まるような肌寒い空気も似ている。同じカリフォニアなのに北国に来たような感じがする。? 町の通りの名前が面白かった。シャブリ-、バーガンディー、ソービグナン、などなどと、彼らの住んでいる周りの通り11の名前がワインの名前になっていると言う。もちろん彼らの家の通りの名前もソービグナンというワインの名前だ。何でワインの名前にしたのだろうか、私にはナッパバレーの近くにあるこの町もワイナリーが多いからとしか察しがつかない。ワインの町にしたかった役所の人達の意気込みだっただろうか。? 家の中には名前だけのワインではなく、本物のワインがいっぱいあった。スティーブのコンピュータールームのクロゼットはワインの倉庫だった。びっしりと並べられた数々の本物のワインは11どころか数え切れないほどあった。ようこれだけ集めたモンや。やはりワイナリーの多い町に違いない。「ワインを片っ端からテイスティングしながら、今晩、私はこの部屋で寝る」と言うと、皆は大笑いをした。今晩はワインがたっぷり飲めそうだ。? 二日目、日曜日の朝はティーナとスティーブの友達夫婦(ジョーとジャネット)が一緒に朝食に来てくれた。60歳近いと思える白人夫婦。玄関から入ってきたじゃネットの顔を見て私は思わず「アーッ」と言いそうになった。私好みのすごい別嬪さんだ。胸がどきどきしそうだが、隣に旦那さんのジョーがおるので、息を飲んで胸の動機を抑えねばならぬ。難儀やのう。眺めているだけで気持ようて十分なのに、彼女は笑ってまでくれた。白人にしては、小さく口を開けて笑う笑顔は又、私をわくわくさせた。これは、えらいこっちゃ。隣に嫁はんがおるのに私の胸の中にぱっと綺麗な薄紅色のバラの花が咲いた。やはり私は大阪の助ベーさんのようだ。? 友は類を呼ぶ。別嬪さんは別嬪さんの友達をつくる。ティーナとジャネットはよく似ている。 女は自分よりブスな女友達を選んだほうが自分が目立ってより別嬪さんに見えるのに。どうも友達というものは容姿じゃなくて縁でつくられるようである。二人とも綺麗な顔が似ている。肌色が似ている。肌が蚕の幼虫のように透き通っているように思える。眺めているとつい吸い込まれるような感覚に陥る。笑顔がいい。この二人の笑顔を見ていると心の癒しになる。嫌な事をすべて忘れさせてくれる。フリムン徳さんが生まれ変わったら、こんな女子はんと結婚したい。「徳さん、アホ抜かせ、別嬪さんと結婚したら、金がかかるのを知らんのか。己の酒代もようかせがんくせに」。まだ似たところがある。薄いグレイの髪に少し白い髪が混ざった頭の毛。「あんた達は髪の毛の色で友達を選ぶのですか」と、私は真剣に聞いてみた。 旦那のジョーの「尺八」のストーリーには心に染みた。身体の大きなジョーが深々と頭を下げて、日本語で「オハヨウゴザイマス」と言った途端に緊張がほぐれ、急に親しみが沸き、身近な人に感じられた。英語に弱い私達はアメリカのこんな山の中の町で白人の口から出る片言の日本語に耳が立ち、目が丸くなって親しさを感じる。さらに彼の語る尺八にまつわるストーリーは私の心をほのぼのとさせた。? 彼は中学生の頃、日本の女性と文通をしていた。軍隊に入り、朝鮮戦争で日本の横田基地に寄った際、栃木県の文通をしていた女性の家へ行った。彼女の家は300年も経つ古い農家だった。生まれて初めてのすき焼きや、わさびの固まりを丸ごと食べて涙が止まらなかったこと、古い珍しいものを見せてもらったこと。彼が一番興味を持ったのは壁に飾られていた古い尺八だった。おじいさんもおばあさんも誰も吹けないから飾ってあるだけと言って、惜しげもなく、彼に日本のお土産といってプレゼントしたと言う。? 彼はアメリカへ持ってきてから、尺八の吹き方に挑戦したが、やはり上手に吹けなく、「尺八は日本人の吹くもの」と諦めて、日本の家の壁に飾られていた同じように彼も家の壁に長年飾っていたという。ところが2年程前にこの尺八に面白いことがおきた。文通をしていた栃木県の友人の孫娘がアメリカのこの町へきた。この時、彼は「自分で吹けないで壁に飾っているだけの尺八は日本へ返すべき」と思い、孫娘に尺八をアメリカ土産としてもたせたそうだ。40年近く、アメリカ人の家の壁に飾られていた尺八は又故郷の日本へ帰って行った。40年後に日本へ帰った尺八の運命とジョーのやさしい気持とジャネットの綺麗な顔は、大阪道頓堀の赤い、青い火のネオンのようにほのぼのと私の胸に咲いている。 フリムン徳さん
2011.04.13
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「やればできた演説」 2040字?ここはロサンジェルスとサンフランシスコのほぼ中間にある山の砂漠と呼ばれる海抜300メートルのブラッドレーというところ。小高い禿山に囲まれた、平地は大波小波のうねりのような牧草地、ブドウ畑が広く、狭くハイウェイ18号線に沿って広がる。家がポツリ、ポツリと建っている。こんなアメリカの山奥に日本人夫婦が住んでいる。小高い山の中腹に1軒の白いこじんまりした家が見える。その家の3万坪ほどの広い牧草地を見下ろす窓のある部屋の1室で大きな鏡台の鏡に向かって、はげ頭の親父が擂り粉木を右手に持ち、頭を撫でながら、ニヤニヤしながら、なにやら大声で喚いている。日本人が住んでいるとは誰も想像できないようなこんな山の中の家で喚いている禿頭の親父はフリムン徳さんなのである。? このはげ頭の親父の喚く姿はもう1ヶ月以上も続いている。何を大声でしゃべっているのかと聞いてみると、内容が面白い。?「実はこの日のために、私は擂り粉木を右手に持って、マイクの持ち方、しゃべり方を鏡を見ながら猛勉強しました。1箇所だけを見ないで、全体を見回しながら、車の運転みたいなものです。前も後ろも見ながら、雨が降らないか上も見ながら、金が落ちてないか下も見ながら、一人で鏡に向かって、ニヤニヤ笑いながら、頭を撫でながら、頑張ってきました。エッセイは頭を書きながら書きましたけど、スピーチの稽古は頭を撫でながら頑張りました。だから私の頭はこの通り禿げ頭になりました。? ところで、今日は皆さんの前で、大阪、パラグアイ、アメリカでの私のフリムン人生をしゃべろうと頑張っていますが、何しろ、手相占い師、叩き売り、キャバレーのボーイ、おでんや、夜逃げの引越し運送や、大工、物書きの端くれと50以上の職業を買えながら、喜界島、大阪、パラグアイ、アメリカを63年間転々としていたものですから、まともな標準語が出来まへん。できるのは45年前のしまユミタ(喜界島弁)その次が大阪弁です。30年間アメリカに住んでいても嫁はんと私は生れ育った喜界島のしまユミタを使ってアメリカで生活しているのですから、英語はインチョウマ(少し)できます。ロサンジェルスでは17年間メキシカンを使って大工仕事をしていたから、スペイン語もインチョウマできます。こんな私が標準語で、なれないスピーチをしようとしているのですから、これは大変なことです。ヤッケ―タムンジャ(大変なことだ)、キャーッシナユッカ(どうなるやら)。もし私のスピーチがうまく終わりましたら、大きな拍手と札束をどんどん遠慮なく投げてください。焼酎もこぼれんように投げてください。?さて、私が今住んでいるブラッドレーという村は車で北はコンピューターで有名なシリコンバレーのサンノゼへ2時間、そしてサンフランシスコへ3時間、南はロサンゼルスへ4時間ちょっとの海抜300メートルの山の砂漠と呼ばれるところです。乾燥していて、昼間は暑く、夜は寒い砂漠の気候です。今年の夏は摂氏49度になる日もありました。冷房ナシの家の中にも、木蔭にも暑くておれまへんでした。その日はわたしはどうしたか?私は家の床下に絨毯を敷いて薄い毛布をかぶって床の天井を眺めてあつさをしのいでいました。?そんな暑いところの28エーカーの広い敷地にぽかんと置かれた私達の住まいは10たった万円で買った、 ペイントの禿げた30年前の古いトレーラー、こんな車に人間が住んでいるのかと思われるほどのおんぼろキャンピングカーに今年の初めまで約9年住んでいました。 夏は暖房完備、冬は冷房完備、の人間が住める車ではおまへん。でも住まんとあきまへん。家賃を払う金がなかったからです。それはもう夏はムシ風呂の中に住んでいるようなモンですが、乾燥しているから汗はあまりでまへん。出るのはため息だけです。 貧乏で惨めな9年の生活でした。アメリカの日本人では私が一番貧乏人です。だから皆さん、優越感を持って生きてください。」?11月に23年ぶりに日本に帰ってスピーチをさせられるので、このような内容のスピーチを朝昼晩、キチガイのようにスピーチ原稿を読み、テープに録音して、自分の声をイヤホンで聞きながら、名司会者である私の応援団長金子さんに電話で指導してもらいながら、稽古しましたら、棒読みのスピーチが強弱のある、メリハリのあるスピーチに近づいてきました。きみ麻呂のスピーチにも似てきたようです。スピーチもできる自信ができました。東京、喜界島での母校、ライブハウス、小野津村出のスピーチは大成功しました。日本経済新聞、南日本新聞、南海日日新聞、月刊徳之島、月刊奄美のあの薄っぺらの紙にこの重たいフリムン徳さんがフンワリと載せられました。大阪でたたき売りをしていた男、夜逃げの運送屋をしていた男アメリカで酔っ払いの大工をしていた男、フリムン徳さんがやればできたのです。人間やる気があればできるのです。 フリムン徳さん
2011.04.13
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50「そのうち、そのうち」 明日がある来月がある来年がある日が暮れた月が出たしわが出た頭がはげたそのうち、そのうちと思っているうちに何も好きなことしないうちにとうとう還暦が過ぎた飲み屋に行って若い女の子を口説こうとしたら、禿げ頭をなでられ、自分の歳を忘れている動物と言われ若い時に、好きなことをしておけばよかったこの言葉の後には間違いなく葬式がくる葬式だけは好きなようにやりたい死んでから好きなように出来るはずがない人生最後の夢も思うようにならないらしい、こんな世の中に、誰がしたのかそのうち、そのうちがいけなかった
2011.04.13
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「彼女が欲しかったニキビのフリムン高校生」 2086字 エチオピアのアベベ選手が素足でオリンピックマラソンに優勝して、一躍有名になった。その年か、翌年だったと思う。大阪で夜間高校生が素足で走りマラソンで2位になって、有名になった話がある。でも、彼はその直後に急性腎臓炎で入院させられた。 実はその本人が私、フリムン徳さんである。フリムンとは鹿児島県喜界島の方言で、*後先を考えないで行動する人。*よく失敗する人。*かわいらしいアホ。*あわてもの。*アホな事をする人である。その当時私は夜間高校3年生で、昼間は大阪中ノ島にある広告会社電通大阪支社に働いていた。彼女が欲しくてもなかなか彼女ができないで悩んでいた。その原因は自分の男前よりもニキビが原因だと真剣に考えていた。顔中だけじゃなく背中にまで、ニキビができて悩まされていた。電通では毎年、武庫川で大運動会があった。春か、夏か、秋かは、45、6年も前のことだからはっきり覚えていない。でも、素足でマラソンを走って、アスファルトの熱さで、足に火傷しそうになったのを覚えているから、夏の初めか終わりに違いない。今みたいにマラソンがそう人気のあるスポーツではなかった。でもその頃の電通の運動会の花形はマラソンだった。そのマラソンに優勝したら、電通の社内報“電通報”の第1面にでかでかと載る。それは私の心を揺さぶった。もし私がマラソンで優勝をしたら、彼女がいくらでもできると思っていた。欲しい彼女ができない原因はにきび、そのにきびの悩みを打ち消すにはマラソンで優勝するのが一番やと考えた。私は彼女を得るために、マラソンで優勝するために、運動会の6ヶ月前から、計画を実行した。私の通っていた夜間高校、大阪府立市岡高等学校は大阪市港区にあった。中ノ島にある電通での仕事を夕方5時に終えると、港車庫前行きの市電に乗って、市岡元町で降りると、そこが市岡高校だった。その頃は大阪市内ほとんどが市電のレールが敷かれていて、市電が通勤の一番の手段だった。私が茶色の服が好きだったから、茶色の市電と今でも覚えている。この茶色の市電が、私のマラソンの相棒になった。夜9時に授業を終えると、学校のある市岡元町からアパートの大正区南恩加島町まで市電の後を追って走り、そこで少し休んでから、終点の鶴町まで市電の後を追って走った。まだ街灯も少ない頃だったから、暗くて人目につくことも心配なく、市電の後を追って、マラソンの稽古に励んだ。夜中の1時ごろまで走ることもあった。ただ、マラソンで優勝して、彼女を作るために走った。「お前は夜中になぜ、市電の後を追って走っているのか」とえ期間に聞かれたら、「彼女をつくるためです」。「いや違う、お前は気が狂っているに違いない」。マラソンの稽古をしてからアパートに帰って、一番初めに欲しいのは冷たい水であった。その当時は今みたいに、コーラや、スプライト、というものがなかった。ラムネと三津屋のサイダーを覚えている。冷蔵庫もない時代に、そんな冷たいもの家に買い置きしてあるはずがない。私はいっぱいの水に砂糖を混ぜて、飲んでいた。あのマラソンの稽古の後の砂糖水はコカコーラ、スプライトの何倍もおいしかったように覚えている。このフリムンの私は、マラソンの稽古をして、砂糖水を飲むのを運動会があるまでほとんど6ヶ月間、続けた。6ヶ月間、毎晩、よう頑張ったと自分でも信じられんほどだった。“彼女を手に入れるにはどんな苦しいことでも乗り切らなければならない”これが彼女のできない1夜間高校生の石よりも固い決意だった。運動会のマラソンの日、私は、策を練った。一躍有名になったアベベ選手のまねをして素足で走ることにした。喜界島で小さい頃は靴もなかったから、ほとんど素足で生活していた。だから素足には自信があるつもりだった。ところがこれが大失敗であり、大成功でもあった。 運動会の当日は、天気のいい日であったから、アスファルトのマラソンコースの道は焼け付いて、足を地に着くことができない感じの熱さだった。そのたびに、このマラソンで優勝すれば、彼女ができるんだと、心に強く言い聞かせながら、マラソンコースを走り続けた。結果は、第2位に入賞した。その月の電通報には“無名の新人、上園田徳市、素足で2位に入賞”とでかでかと載った。私はひそかに、これで彼女ができると喜んだ。ところが、何日たっても彼女はできなかった。私の賭けは見事に外れた。その当時、大阪電通で働いていた女子社員は、フリムン徳さんより年上ばかり、誰が高校生に恋をする?「お前アホと、ちゃうか」。激しい運動の後、砂糖水を6ヶ月間も、飲み続けたので、彼女はできなくて、急性腎臓炎という病気をもらって、即入院させられた。今思い出すには、新人の私が2位に入賞したのは、6ヶ月間の熱心な稽古もあったが、熱いアスファルトに素足の足がつけなくて、少しでも足に火傷をしないように足をアスファルトから上げる速度が速かったからだと思う。やはり私は小さい頃から、フリムンだったようです。フリムン徳さん
2011.04.13
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「エディーよ、さよーなら」 2466字? 人が死ぬ時は何かの「ムシの知らせ」がある。その「ムシの知らせ」がフリムン徳さんの私にあった。先月の“フリムン徳さんアメリカ便り第6号”に「思い出のアーケーディア」の中に、隣に住んでいた私の大好きなエディーのことを書いた。皆さんもまだ覚えていると思います。第6号が皆さんに配信されて2、3日して、娘のまきこから電話が入った。「パパ、エディーが死んだよ」。一瞬呆然になった。人間の死は突然にやってくるんだなあ、を再確認すると同時に、人間の命のはかなさを身に染みて感じた。 クリスマスも前の12月18日に死んだという。しかし私はエディーの死んだ日が気になってしょうがなかったので、コンピューターのこの日の私の記録をいろいろ調べて見て驚いた。なんと、この18日に私は必死になってエディーとのアーケーディアでの昔の思い出を思い出しながら「思い出のアーケーディア」というテーマで彼のことを書いていたのだ。私が彼のことを書き連ねている日に彼は死んでいたのだ。文章の書き方を勉強中の私はそうすらすらと文章は書けないのに、このエディーについてのエッセイだけは信号無しのフリーウェイを車が走るようにスムーズに筆が進んだ。俺も文章が早く書けるようになったなあと思ったりもした。今考えると彼が私に書かせていたのだろう。これを「ムシの知らせ」というものでしょうか。「思い出のアーケーディア」を読んだ皆さんも何かの縁です。どうぞ彼のご冥福を祈ってください。エディーよ、さよーなら。? 娘のまきこから聞いた彼の死に際はかわいそうで涙が咽んだ。目の悪い彼は車の運転は出来ない。週に何回か運動がてらに、かすかに見える視力に白い杖をついて近くのレストランへ歩いて行く。週に2回は長年通っている近くのゴルフ場へも歩いていく行く。白いボールは見えないので黄色いボールで打つ。ショッピングは93歳になる妻のオデッサが運転して二人で行く。18日の日は彼がいつものように1人で白い杖を頼りに行きつけの近くのレストランへ向かっていた時に異変が起きた。彼が走ってきた車に引かれそうになったらしい。車が悪いか、彼が悪いか、それはわからない。怪我はなかったものの、目のみえない彼には大変なショックだったに違いない。優しい彼は車の運転手には「OK、OK」と言ってそのままレストランへ向かったに違いない。レストランに着くと真っ青な顔になった彼を見たウェイトレスが慌てて椅子に座らせて「どうしたの!!」と聞くと「車にひかれそうになった」。それが彼の最後の言葉だったらしい。椅子に座ったまま心臓麻痺で倒れて、救急車が来る前に息を引き取ったとのこと。彼は90歳だった。 エディーは体格の大きい人だった。背丈は2メートル近くあった。昔プロのバスケットボールの選手だった。あの有名なバスケットボールの選手”コビー”にもバスケットボールを教えた人であった。優しそうな、優しそうな、ニコニコ顔で、誰とでも接してくれた。「白人のあなたが、どうして日本人を差別しないのですか」と尋ねた事がある。「徳さん、人間は人種じゃないよ、人間は色じゃないよ、体格じゃないよ、心だよ、」ゆっくりと答えてくれた。 ? 私は一人になった老婆のオデッサが気になってすぐに電話をした。オデッサはすぐに私とわかって、「徳さあん、徳さあん」とさとんの間にあの字まで入れて泣き崩れる。アメリカに住んで30年、ふつうのアメリカ人は 徳さんと言う私の名前が覚えにくいのと、言いにくいのでなかなか徳さんと呼ばない。徳さんじゃなくユーですましてしまうが、エディーとオデッサは徳さんと呼んでくれる。ただ、あんたと呼ばれるよりは自分の名前を呼ばれるのは気持ちがいい。だからよけいに情が移る。泣きながらゆっくりと言う彼女の言葉がまた私を揺さぶった。「目のみえない彼を残して、93歳になる私が死んでなるかと毎日頑張って生きてきた」という。これを聞いて泣かずにおられるかいな。近くだったら飛んで行ってあげたいが遠すぎてどないにも出来ない。人間90歳以上まで生きると周りの知り合いが順番に亡くなって、頼れる人が少なくなる。葬式もしないで、ただ焼いてもらっただけらしい。オデッサがかわいそうでならない。? アメリカなのに隣近所がチャイネィーズばかりでは言葉も習慣も違うから親しく付き合っている人はいなかったらしい。よほど淋しく、心細かったのだろう、私の娘のまきこにエディーの死を2週間たってから電話で知らせてきたらしい。まきこは私や嫁はんと似て年寄りが好きで、年寄りの世話をよくやる。これはどうも親譲りらしい。オデッサも行き付けのマーケットまでの運転できるが遠くは運転できない。だから、まきこが、仕事の休みの日に1日ドライブしてオデッサを連れて、役所を回り、死亡届や、いろんなエディーの手続きをしてあげるらしい。私はそれを聞いてまた泣かずにはおれなかった。? この残された93歳の老婆オデッサはアーケーディアの家を売って、ミゾーリー州の80何歳かになる妹のところへ引っ越して一緒に住む事になったらしい。でも慣れないところで93歳になってからの同居生活がどうなるのか心配でならない。豚味噌の美代ねーだったら島ユミタで、「ハギー、オッデサ ヌ キムチャギさやー」と言うに違いない。長生きした孤独の老人が安心して住める世の中はどないにしたら出来るのやろうか。個人の自由を重んじるアメリカ、それを真似る日本、これでいいのでしょうか。こういう孤独のアメリカ人の年寄りを見ていると、よけいに喜界島の昔の生活がよみがえってくる。「“貧しくてもええ”同じ屋根の下で、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、子供達が一緒に生活して、おじいちゃん、おばあちゃんが孫の面倒を見、子供がおじいちゃんおばあちゃんの面倒を見、子供を産むのも自分の家で、死ぬのも自分の家で」、私はこんな喜界島の昔の生活にあこがれる。 フリムン徳さん
2011.04.12
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野うさぎ」 3055字 2・5・2011 ウサギは人間を呪うか? 20数年前、野ウサギに強烈に呪われたことがある。フリムン徳さんだけではない、長男の息子も二人一緒である。ロスアンジェルスからシアトル近郊のグラハムという山の中へ引越して2年目だったと思う。高い、高いクリスマストゥリー(ダグラスファー)が生い茂る森に囲まれた4エーカー(1万6千平方メートル)が私の土地であった。4千平方メートルほど敷地をブルドーザーで整地させて、新しいモービルホームを入れた。 こんな山の中なら自給自足の生活が出来ると思い、鶏を5羽ほど飼った。卵を産ませるためである。家族で食べきれないほどの卵の処分に困り、前の道を通りかかるアメリカ人に、「卵を上げますよ」と言っても、コレストロールが高いから要らんという。ヤギも飼った。庭の芝をヤギに食べさせて、芝刈りを怠けようと思ったからである。ところが、ヤギはおいしそうな新芽の芝は食べないで、禿げた所のあまり伸びない古い芝ばかり食べるのであった。芝刈りをヤギに期待したのは失敗だった。その次にしたのは裏庭に10畳位の広さの野菜畑を作って野菜を植えた。にんじん、ほうれん草、キャベツ、大根、などである。種はタコマの仏教会のメンバーである昔百姓をしていた日系2世の方から分けてもらった。鶏のフンを肥やしに入れて、水をかけ、毎日楽しみにして育てた。酔っ払いの大工の徳さんが、バッドワイザーのビールを片手に飲みながら、野菜の成長を眺めるのは、大工仕事をして家に帰ってからの楽しみであった。鶏の糞と水がよく効いたのか、見事に野菜は育った。もうすぐ食べられると思いながら、楽しみにしていたら、ある日から野菜が何物かに食べられ始めた。犯人は山の中に住んでいるウサギ達である。1匹だけなら、そうも腹が立たなかったと思うが、5匹、6匹に集団で食べられるから、腹が立った。一人のどろぼうに盗まれるのと、集団の泥棒に盗まれる憎しみの違いは、泥棒の数だけ、憎さが増えるようだった。真っ白、黒、茶色、黒白の斑と色とりどりのウサギたちであった。もう我慢ができなかった。畑の半分ほどの野菜が食べつくされた。高校生なり立ての息子と二人で空気銃で撃つことにした。ある日、3匹ほどで野菜を食べていた。家の中にいる息子を呼んで、空気銃を持ってきたもらった。腰をかがめて、そーっと近くへ行ってもなかなか逃げない。何年か前に近くに住んでいたアメリカ人が100匹以上のウサギを飼っていたが、ウサギを山の中に放して、どこかへ引越ししたらしい。そのウサギたちが野生化したのである。もともとが野生のウサギでないから、そう人間を怖がらないようであった。7、8メートル近くまで近づいたら、2匹は逃げていった。残って堂々と食べているのは真っ白いウサギ1匹だった。 フリムン徳さんは、狙いを定めて撃った。今までは空気銃で撃つのは、遠くに置いたビールの空き缶に狙いを定めて撃つ稽古をするぐらいであった。生き物を撃ったのは初めてである。ウサギの御尻辺りに当たったが、死なない。息子がもう1発撃った。やっと動かなくなった。傍に行ったら、じーっと食い入るように眺められずにはおられなかった。真っ白いウサギの真っ赤な目が開いたままだ。”私は何も悪いことをしていない、もっと生きたい”とそれは哀れな目で訴えているようだった。涙でぬれた透き通るような真っ赤な目が、真っ赤な目がーーーーー。「かわいそうなことをした」という思いが胸に焼き付けられた。「野菜を食べられたぐらいで、動物の命を撃ち殺す」。考えてみれば大の男がアホなことをしたものだ。息子もきっときっと同じ思いだったかもしれない。 真っ白いウサギの赤い目がいつまで経ってもまだ私の脳裏に焼きついている。雪のように真っ白いウサギの透き通るような真っ赤な二つの目から涙を出していた姿がまだはっきり思い出せる。涙を流さんばかりの重たい悲しい、すまないことをしたという気持ちで、土地の奥の森の中に穴を掘って埋めた。故郷喜界島で小さい頃、年に1回豚肉を作るために豚を殺すのは何回も見て、慣れていたから、ちっともかわいそうとは思わなかった。南米のパラグアイでも、食用に肉にするため飼い豚を2回ほど自分で殺したが、そうかわいそうとは思わなかった。飼い豚を食肉用に殺すのは、「仕方がない」「あたりまえ」と思うから、そう、かわいそうとも思わなかった。ところが豚よりも小さいウサギを撃ち殺したのはかわいそうだった、悲しかった。食用でない動物を殺す惨めさが強烈にわかった。自分の愚かさも怖くもなった。 それから二日後にウサギに息子も私も呪われた。正月の第1日曜日だった。タコマの仏教会に行った。その日の坊さんの話がウサギがいじめられて、鉄砲で撃たれ、無残に死んでいく話だった。二日前に息子と二人で殺したウサギの話と瓜二つの話だった。ウサギの色まで同じ白色だった。隣に坐っていた息子と思わず顔を見合わせた。世の中にこんなことがあるんだろうか。それから長い間フリムン徳さんの気持ちは沈んだ曇り空だった。これが人間の泥棒でも殺したら、一生、ざんげの思いで生きていかなければならなかっただろう。 あれから10年近く、フリムン徳さんの反省の気持ちが通じたのだろう。ウヤフジは今度は野うさぎを大事にしなさいと、また野ウサギとの出会いを作ってくれたらしい。今住んでいるモントレーの山の砂漠と呼ばれるブラッドレーのフリムン徳さんの土地には野うさぎが沢山来る。庭先にも来る。今は撃つのじゃなく、餌を毎朝毎晩与えている。朝はお日様の昇る前ぐらいから、夕方はお日様が沈みそうになる頃から、庭に1匹、2匹と餌を待って集まってくる。馴れ馴れしいウサギは玄関のドアの前にちょこんと待っているのもいる。なんともほほえましく、かわいらしい風景でもある。手元にカメラがあったらとりたくなる。たまにうちに尋ねてくる人たちは珍しがって、ウサギを見つめている。 この野うさぎたちはフリムン徳さんに恩返しをしてくれる。前庭の芝生を綺麗に食べるから、フリムン徳さんは芝刈り機で芝を借りる必要がない。芝生を食べて綺麗にするだけではない、正露丸みたいな糞を肥しとして、いっぱい撒いてくれる。一瞬、芝生の庭いっぱいに正露丸ウサギの糞が蒔かれているのかと勘違いするぐらい沢山のウサギの糞が散らばっている。間違いなく、もう肥やしを買って蒔く必要はない。フリムン徳さんは撃ち殺したウサギの罪滅ぼしをしたので、今度はウサギが恩返しをしていると思うようにしている。 ここ山の中の周りのアメリカ人は用心のために玄関にライフル銃を立てている人達がいっぱいおる。悪人、泥棒、カヨーテ、いのしし、野うさぎ、鹿を撃つためである。フリムン徳さんは1本のゴルフクラブを立ててある。撃つよりたたいたほうが後での悔やみ方が違う。相手が悪人でも泥棒でも撃って、一生悔やむより、自分が撃たれた方がましだと思っている。そこに銃があるから撃つ、銃がなければ撃たない。どんな理由でも、生き物、人間も撃ってはいけないとフリムン徳さんは思う。アメリカは日本みたいに銃の販売を禁止したらええと思う。生き物は撃つべきではない。 フリムン徳さん
2011.04.12
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「虹色の涙」 1992字? フリムン徳さんは正夢をよくみる。特に何日も続けて似たような夢をみる。4月の初旬、1週間、毎晩続けて義母の夢を見た。何かがあったに違いないと気にしていたら、4月14日夕方に「義母が亡くなった」と、故郷、喜界島から電話が入った。やはり義母は気がかりだった私達夫婦に夢で会いに来てくれていたと思う。84歳の義母は喜界島でお墓を守りながら1人で生活していた。?嫁はんを義父の葬式にも行かせてやることが出来なかった。20年近く会ってない義母の葬式だけは行かしてやりたい。でも、3年前に病で倒れて身体障害者の年金で、カリフォーニアの山の中でおんぼろのキャンピングカーで生活をしている私達には切符代もない。「俺は親の葬式に嫁はんを返してやれないこの世の最低の男だ」、と涙ながらに自分の人生を悔やむしかない。? その夜、義母の訃報を娘のまきこに伝えたら、異変が起きた。「飛行機の切符は私が買ってあげるから葬式に喜界島へ帰りなさい。急いで。」と夢みたいな事を言うではないか。今まで散々親を泣かし、心配させたあの娘がよ。3時間前の悔し涙は嬉し涙になった。悔しい色の涙、悲しい色の涙、うれしい色の涙と、虹色の涙が私の頬を濡らした。やはり義母が助けてくれたのだ。義母はどうしても自分の長女に会いたいのだ。? 大急ぎで航空券の手配をした。翌日4月15日午後1時55分ロス発に乗れば葬式に間に合いそうだ。まきこが自分の銀行貯金全部をおろしてくれた。さらに飛行機の切符はビザで買ってくれた。また虹色の涙が出てきた。こんな気持のいいことがめったにあるかいな。こんないい気持ちは冷凍庫に入れて永久保存しておきたいくらいだ。これで、お金の件と切符の件は解決した。? ところがもっと深刻な問題が起きた。嫁はんのパスポートの期限が切れている。いちかばちかや。もう領事館に当って砕けるしかない。嫁はんの旅仕度が終わったのが夜中の1時過ぎ。すぐ夜を徹してロス近くのまきこの家へ車を飛ばした。まきこの家に着いた時は明るくなっていた。? まきこが朝8時に開く写真屋を探してあった。パスポート用の写真を撮り、運良く取り寄せてあった戸籍抄本を持って、ロスの領事館へ駆けこんだ。9時半だった。空港に12時までには着かなければならない。パスポートの再発行に許される時間は1時間半しかない。遠方からきた人には4~5時間で発行してくれると聞いたことがある。急いだが間に合わんか、やっぱりアカンか。? 領事館は、サービスは悪く、待たせる、怖い所と思っていた。恐る恐る、窓口の女性に義母の葬式に間に合いたい事を言っててパスポートの再発行をお願いした。「なんとかやってみましょう」という神様のお告げみたいな言葉が返ってきた。途端にその女性が優しい別嬪さんに見えた。不思議なものです。人間諦めたらアカンネンです。またしても奇跡が起きましたんや。? 臨時パスポートの再発行の申請書をもらい、ロビーで見本を見ながら書きこんでいた。でも、見本を見てもわからないややこしいところが沢山ある。時間は過ぎる、飛行機に間に合うか、焦ってくる。難渋しているのが見えたのか、ロビーで書類作成の手助けをしてくれる人がやってきて丁寧に教えてくれた。こんなに、ありがたい事はなかった。うれしくてたまらなかった。最後に嫁はんがサインをした。サインの中に私の名前を見つけたその男性は私のエッセイをtvファン誌でよく読んでいると言うではないか。世の中悪いことはできまへんなあ。またしても義母は偶然を起こしてくれたのだ。? 書いた書類を先ほどの窓口の女性に渡すと、「順序は逆ですけど、審査する間に、この書類を書いてください」ともう1つの書類を先回りして書かせてくれる。1分でも早くと、頭を360度回転させてのサービス振りに心が揺さぶられた。ついに40分程でパスポートを再発行をしてくれた。5時間じゃなく40分でした。信じられない速さだ。パスポートを手にして、義母の死の悲しみも忘れてルンルン気分でした。 おかげで嫁はんは飛行機に間に合った。3つの飛行機を乗り換えて、喜界島にたどり着いた時には、葬式は終わっていた。ところが、葬式は終わっても、死んだ母親はまだ娘の帰りを待っていた。火葬場で焼かれるのを待つのではなく、アメリカからの我が長女を待っていたのである。嫁はんは空港から車で火葬場へ駆けつけ、きれいに死化粧した母親に最後の対面を果たした。「死んでもアメリカから帰ってくる娘を待っていた母親」と島の人達は涙を流して感激してくれた。その時の様子を話す、嫁はんも電話の向こうで泣いていた。お金で助けてくれた娘、パスポートの再発行で助けてくれた領事館の人達、涙を流して感激してくれた喜界島の人達、死んでもアメリカの娘を待ちつづけた義母さん。次々と私の脳裏に現れ、私の頬にはまたしても大粒の虹色の涙が流れた。 フリムン徳さん
2011.04.11
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「私にはまだ夢がある」 1991字 ”これで俺の人生終わり”と思ったのは58歳の時であった。高血圧、心臓肥大、関節炎、痛風で、倒れた。医者に、「もう働たらいたらアカン」と言われた。頭が真っ白になった。よく、頭が真っ白になったと聞くが、真っ白ではなく、少しくすんだ白色だった。その白色は目ではなく、心で見えた。初めて心で見る色だった。心では色が見えるようである。私の人生最後の夢も実現できないのか、と人生の不運を悔やんだ。26年間ロスアンジェルス、シアトル、サンフランシスコで、お客さんの大工仕事ばかりをしてきた大工が最後は自分の家を自分で手造りで家を建てる夢だった。 その夢のために18年前に土地を買ってあった。カリフォニア・モントレーの山の中の28エーカー(34000坪)。何もない山の中の土地にアドレスをつけてもらうことから始まった。 家を建てるパーミットを取った。1番最初に井戸を掘らせた。いくら器用の私でも井戸は掘れない。7000ドルかかった。 井戸以外はヨメハンと二人でできる。いよいよ仕事の合間の時間で私の人生最後の夢が実現のスタートだ。見晴らしのいい小山の中腹に、ヨメハンと二人で、6フィート(2メートル)の深い穴を掘り、電柱を立てて、メーターボックスの配線をし、電気をひき、家のコンクリートのファウンデーション(基礎コンクリート)、フラミング(上下水道工事)、屋根工事全部二人で仕事の合間にやった。それこそ、雨の日も、風の日も、出来上がった真新しい家を頭に描きながら、頑張った。早く完成したくて、1分の時間も無駄にできない毎日だった。 屋根も仕上り、壁の下地の板を張り、ウインドウを入れようと、ウインドウを捜しているある日、足が痛いので20数年ぶりに医者へ行ったら、その場で強制入院させられのだ。退院しても働けない。仕事ができないから収入がない、みるみる金は羽が生えているように飛んでいった。ほんとに札が鳥の羽に見えた。おまけに、有り金をほとんどを家に注ぎこんでいた。すぐに金は底をついた。これでは夢を実現できるどころか、生きていくことも出来ない。身体も動けん、飯食う金もない、夢も潰れた。歳も58歳、死ぬんでもいい条件がほとんど揃った。死ぬのが1番の近道に見えた。「もうアカン、これでわいの人生は終わりや、」 ばかりが頭の中であばれまわった。 ところが世の中はどうにかなるもんで、 デイスアビリテイ(身体障害者)年金がもらえるようになった。生活するには足りないがお客さん、子供達、日本の弟妹が助けてくれた。つくずくソウシャルシキュリテイ(年金)を払っていてよかった、と胸をなでおろし た。死んでたまるか。また夢が沸いてきた。ベッドに寝転がって、本を読んでいるうちに、喜界島を出て、数え切れないほどの仕事を変えながら、大阪、パラグアイ、アメリカで経験したことを本にできんかと夢みたいな夢が頭の中に現れるようになった。 そんな時に、サンフランシスコの日米タイムスに新年エッセーコンテストの募集が目に止まった。26年間大工をして、文章とはまったく縁のなかった私に文章を書くのは無理とわかっている。でも、身体を使えない私にできるのは本を読むことと書くことだけである。それしかない。書いてみようと思った。1ヶ月以上かかって、2400字のエッセーをまとめて、応募した。原稿用紙もなかったから、何十年か前の古くて薄い水色の半透明の便箋紙に書いて送った。大工が家を建てるのじゃなくてエッセーを書いた。大工が言葉で家を建ててみた。はたしてどうなるか。発表の日まで、ウヤフジ(ご先祖様)に祈り続けた。 正月2日に配られた日米タイムスの中に“3位入賞『上園田徳市』”ときらきらに輝いているではないか。その光は私の目から私の体に入って、身体中に光り輝いた。私はその時光る人間になったみたいだった。いや、蛍のように光出す人間になっていたかもしれない。死なないでよかったとつくづく、思った。生きる望みが出来た。元気がもりもり、バリバリと音を立てて出てきた。ここで私の夢は家を建てるのじゃなく、本を書くことに変わってしまった。 自分史を書こうと決心した。『どうしたら、文章を上手に書けるか』で頭の中がいっぱいになった。目が腐るほど本を読んだ。文章の添削指導の広告を見つけて、手書きのエッセーを書き送った。NYや東京の友達にへたくその文を送って添削してもらった。1年間で、75篇のエッセーを書いた。今年のエッセーコンテストにシアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルスの日本語新聞社に2篇ずつ8編を応募した。なんと5編が同時入賞してしまった。5勝3敗。この場合は勝の字の前に優の字を入れて、”5優勝3敗”と言って、嫁はんに自慢をした。シアトルは1位と佳作でダブル入賞や。それから、大阪産経新聞夕刊のフロントページには2回も掲載された。 今度は、東京の文芸社から共同出版しようと手紙が来た。私は、病気と家に金を注ぎこんでそんな金があるはずがない。そしたら、喜界島の中学時代の同級生と私の妹夫婦が金を集めて、『フリムン徳さんの波瀾万丈記』として出版してくれた。それが面白いというので、喜界島の同級生は「フリムン徳さん応援団」を作って、喜界島の町長までも捲きこんで、売りまくっている。 日本全国の300の書店に並べられた本も売れて、もう紀伊国屋書店にわずかしかないと言う。これで私の夢は実現できたと安心する間はなくなった。第3版も増刷された。今度はベストセラーにするんだと張りきっている。 私にはまだ夢がある。”諦めたら、あかんねん” フリムン徳さん
2011.04.11
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「天国からプレゼントを送リ続けるあの人の名は」1849字?あの人は死んだはずなんだ。1973年に私が南米へ移民する時に、彼はわざわざは奈良から東京の羽田飛行場まで見送りに来てくれた。見送りはほとんどが東京に住んでいる私の親戚ばかりだったのに、親戚でもなく、東京以外からの見送りはあの人だけだった。 あの人は私の商売上のお客さんで、私が絨毯、カーテン、家具をカタログで訪問販売をしていた時に知り合った商売上のお客さんでした。?大阪で、私は金がなかったから、店を持てず、お客さんからの電話を受け継いでくれる留守番電話会社を利用して、車1台で商売をしていた。 お客さんから留守番電話会社に電話があると、「男前のトクサンは今出かけています、帰ってきたら、すぐに電話させます。」私は店の屋号を“男前のトクサン“と登録していました。今思い出すと懐かしい、変なおもろい屋号です。でも、名前も、商売も受けました。 いつも私はそこにはいないのです。毎日何回か電話をしてお客さんから電話があったかを聞くだけなのです。お客さんとこれだけの電話のやり取りをする留守番電話会社は金のない私みたいな商売人には安くて便利で、重宝でした。私が24、5歳の頃です。?彼は奈良県大和郡山市にある私の実家の近くの大きな工場の課長さんでした。電話帳の広告で私の商売を見つけて、彼の会社にカーテンを売ったのが始めでした。店もない車1台で必死に頑張って商売する私を気にいってくれて、お客さんを沢山紹介してくれました。沖縄から集団就職で来て、会社の寮に住んでいる若い人たちが結婚すると、彼らの婚礼家具一式を全部私から買ってくれました。私にとっては大事なお客さんでありました。?ようこんだけ簡単に注文を取ってくれるなあと、不思議に思うほど注文を取ってくれました。婚礼の家具は普通は婚約者同士が家具屋へ行って品定めして買うのですが、彼は私の家具のカタログだけで、決めさせてくれるのです。私の取引していた大阪の家具屋の大将も「カタログだけで、婚礼家具一式をこんだけ仰山売ったのは“男前のトクサン”だけや」と言って驚いていました。彼は世話好きで、話をまとめるのが上手で、人を信用したら、とことん信用して、親切にしてくれました。雨漏りのする自分の家を建ててくれた大工さんさえも信用してまた人に紹介する人でした。?私はもちろん彼の家にも、カーテンも絨毯も、家具もいっぱい買ってもらいました。カーテンの取り付けに、その頃まだ高校生だった私の妹のみち子も何回か連れて行きました。私がパラグアイへ移民して彼と別れてからはもう、妹のみち子と付き合いはないと思っていました。ところが20年前に私の住んでいるアメリカにみち子から「あの人が死んだ」とびっくりするような電話が来ました。確か彼は49歳だったと思います。私はすぐに、彼の嫁はんに電話をしました。話していると、私がパラグアイへ移民してからもみち子と私の代わりにずーっと何十年も付き合っていたそうです。信じられないことでした。?去年私が23年振りに日本に帰った時には彼の嫁はんが迎いに来てくれ、ごちそうしてくれました。 私から買った、カーテン、絨毯、家具を30数年の長い間使っているのには驚きました。日焼けするカーテンが30年以上も使われているのを見たら、胸が熱くなりました。家具はまだ光っていました。30数年前の「男前のトクサン」という絨毯カーテン家具屋さんの私がよみがえってきました。それだけではありません、その奥さんは、「男前のトクサン」と印刷された赤い私の名刺まで見せてくれました。ほんまに涙が出るほど嬉しくなりました。人をとことん信用する人は物持ちもええ。でもこれは私にモノを大事にする素晴らしさ、それを私に教えているようでもあった。?まだ、びっくりすることを妹から聞きました。高校生だった妹も今は結婚して、社会人になった息子と大学3年になっている息子がいます。なんと彼は「私が死んでからも、みち子の息子二人に、大人になるまで、ずーっと、誕生日プレゼントをするように」と遺言状を残して49歳の若さで死んでいったのだそうです。きっと彼のおじいさんか、おばあさん、父親、母親の誰かもそんなことをしたに違いない。それを彼の嫁さんは彼の死後20年づーっと守って、妹のみち子と今でも親戚みたいに付き合っているそうです。あの世からまでも何十年も自分の友達の妹の子供にプレゼントを贈りつづける人。その人の名は“荒木比呂美”彼こそ、学校の教科書に載る人だと私は思う。フリムン徳さん
2011.04.11
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「人間に咲く花」 2470字 11-20-10“いつも、ニコニコ、楽しく、笑顔で頑張ろう”を地で行っている人をフリムン徳さんは知っている。フリムン徳さんがその人に初めて会った時に、思わず出た言葉が、「あなたはどうしてそんなにニコニコ楽しそうにしているのですか」であった。あまりにも楽しそうにしている笑顔がその理由を聞けと言っているみたいであった。「あなたはどうして、いつもそんなに綺麗なのですか」と男のフリムン徳さんが美人の女性に聞くのは、ちょっと難儀なことのようだが、笑顔の人にはその理由を簡単に聞ける。笑顔は人間の心をくつろがせる花のようである。「ジーザス様、ジーザス様ですよ」と彼は笑顔で言った。「私はジーザス様が大好きです。ジーザス様が、いつも笑顔でニコニコしていなさいと教えてくれているんですよ」とさらに大きな笑顔を作って言う。それ以来、フリムン徳さんは彼のことをミスター・ジーザスと、呼んでいる。「あんたは日本人だからブーディスト(仏教徒)に違いない。ブーダは、そう教えないのか」と、今度はフリムン徳さんに聞き返してきた。フリムン徳さんは、ジーザス様や仏陀様が笑った顔を見たことがない。どこで見るジーザス様の顔も仏陀様の顔もしんみりした顔をしている。笑顔の次に目に飛び込んでくるのは、ミスター・ジーザスの手である。両方の手のひらとも真っ黒い細い線で覆われている。クモの巣が張られているみたいだ。真っ黒い指紋。十本の指の爪先までも真っ黒である。まるで黒い入れ墨のようだ。すっかり皮膚に染みこんで永久に洗い落とせそうもない。ただ、ミスター・ジーザスにとって、それは長年まじめに続けてきた仕事の誇りであり、証しなのだ。ところがこのフリムン徳さんは、ミスター・ジーザスの誇りの手が恥ずかしい手になる時のことも想像してしまった。ミスター・ジーザスが高級レストランで食事をする風景を思い描いてしまったのである。まず、注文をとりに来たウェイトレスは、メニューの上をうごめく真っ黒の“針ネズミ”にびっくり仰天。大切なお客さんだから、叫声をあげるのは辛うじてこらえたものの、注文カードを両手で口に押し当て、大きく目を見開き立ちすくむに違いない。その次に、ミスター・ジーザスの真っ黒い手と一緒に料理を食べるワイフや子供たちは、どんな気持ちだろうか。綾小路きみまろ、じゃないけれど、“あなたたちの気持ちが知りたい”。でも、きっとミスター・ジーザスのワイフもニコニコしながら言ってくれるはずである。「きみまろさん、心配ご無用よ。うちのパパの笑顔が真っ黒い手をカバーしてくれているのよ」ミスター・ジーザスと話していると、フリムン徳さんの持っているアメリカ白人に対する劣等感がすっ飛んでいく。アメリカ白人には堂々とした体格に加え、えびすさんのようなお腹をした肥満体が多い。それに比べ、ミスター・ジーザスは小柄でやせっぽちである。身体つきは丸太ではなく平べったい板。シャツの下から見えるミスター・ジーザスの胴回りは、ベルトをした寿司屋のまな板のように薄っぺらでみすぼらしい。その点ではミスター・ジーザスは劣等感にとらわれ落ち込んでしまいそうだが、いつもニコニコなのである。劣等感などとは全く縁がない。フリムン徳さんは山の砂漠と呼ばれるアメリカ白人ばかりの村に住んでいる。日本人の中にいるのと違い、周りがアメリカ白人ばかりだと、劣等感が常にフリムン徳さんの心にも身体にもまつわり付いてうろうろしている。その劣等感は、アメリカ白人に会うと、すぐに遠慮なく出てくる。その劣等感は何からくるか、フリムン徳さんは気付いている。第一は、英語。フリムン徳さんの英語では難しい単語はわからん、そしてしゃべれんのである。第二は、体格の大きさからくる体格格差である。背の低いフリムン徳さんはそびえ立つアメリカ白人と向かい合うと、圧倒され卑屈な気持ちになってしまう。でも、人種差別は感じていない。フリムン徳さんの周りのアメリカ白人はみんな親切である。フリムン徳さんが感じている劣等感とは、英語が十分にできないことと、フリムン徳さんが自分勝手に感じている体格格差のようだ。 ミスター・ジーザスはアメリカ白人だけど、その笑顔、真っ黒に汚れた手、痩せた体格は、フリムン徳さんを劣等感から解放し、特に笑顔はフリムン徳さんを楽しい気持ちにさせてくれる。「毎日、最低一回は笑顔を作ろう」としゃべっているテレビをフリムン徳さんはいつか見たことがある。山の砂漠と呼ばれる所では人に会うのは少ない。だから、フリムン徳さんが笑顔を作る日も少なくなる。庭に来る野ウサギや、ウズラの集団に向かって笑顔を作ってみても、すぐに逃げ散ってしまうだろう。警戒心の強い彼らは、フリムン徳さんの目と口の動きを、危険信号と見るに違いない。たまに来るカヨーテ(オオカミの一種)なんかには、いかにフリムン徳さんでも笑顔を作れるはずはない。フリムン徳さんが必ず笑顔を作るのはミスター・ジーザスの店の前を車で通る時ということになる。ミスター・ジーザスが店におる、おらんにかかわらず、ミスター・ジーザスの笑顔を思い出して、フリムン徳さんも笑顔になる。 ここまで話が進んだところで、皆さん、真っ黒い手をしたミスター・ジーザスの職業はいったい何だろうか知りたくなりませんか。プラマー(水道屋さん)か、百姓か、ペンキ塗りか、煙突の掃除屋か?ミスター・ジーザスは車の修理屋である。フリムン徳さんはミスター・ジーザスと知り合って、もうかれこれ5年以上になるが、フリムン徳さんは、まだミスター・ジーザスのほんとうの名前を知らない。聞く必要はない。ミスター・ジーザスの名前はミスター・ジーザスで十分である。 笑顔は見るのも、作るのもいいものである。笑顔はうれしい時にも、楽しい時にも咲くが、人を褒める時にも笑顔が咲くことを、67歳の今になってフリムン徳さんは発見した。「笑顔は健康の元、長生きの元」とNHKの番組で言っていた。「笑顔の花を人間に咲かそう」!!「笑顔は人間に咲く綺麗な花」ええ言葉やないですか。 フリムン徳さん
2011.04.10
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「便所清掃」 3251字 「便所を美しくする娘は、美しい子供を生むと言った母親を思い出します。僕は男です、美しい妻に巡り会えるかもしれません」と書いた有名な詩を読んだことがあります。どうもそれ以来私は便所掃除に特に関わるようになったようです。 そしてとうとう、便所掃除を丹念にやるようになりました。私の「フリムン徳さん応援団アメリカ応援団長の影響です。彼はある本を読んで、便所掃除の大事さを実行し、私にも勧めてくれました。「便所掃除したら、いいことがある」を信じている人です。便所掃除を丹念にやっていた人の便所のキャビネットの引き出しにお金が入っていたとか、そんな経験談の本を私に送って読ませてくれました。私は初めは半信半疑でしたが、やっているうちに、掃除後のあの特別清らかな気持ちを味わいたくて、とうとうやめられなくなりました。 もうひとつわけがあります。有名映画監督、タレントの北野武のことを何かで読んでからです。彼が映画監督で成功しているのも、タレント業で成功しているのも「便所掃除のお陰」だと書いていました。彼はどこで便所を使っても、時間の許す限り、きれいに掃除をしてから出るそうです。あの忙しい有名な人が、そんなことをするとは夢にも想像できませんでした。驚きました。まねしたくなったのです。 濃い青空みたいな色の液体を混ぜて、柄のついタワシで、丸い円を書くを描くように上から下へゴシゴシと磨きます。真下の穴もタワシをぐるぐる回しながら磨きたおします。その次は雑巾をぬらして、絞り、蓋を丹念に磨き、水のタンクの回りも、タンクの蓋も磨き上げます。「ああ、きれいな便所」と言う言葉が使う人の口から思わず出るのを想像しながらやります。俺は便器の掃除をしているんじゃない、便器という顔の化粧をしているんだ思いながらやる時もあります。トイレボールの中についた茶色の線、水タンクの中の茶色になった汚れの線も消しとります。でも茶色の線はなかなかとれません。ハウスクリーニングを専業にしているわが嫁はんに教えてもらいました。軽石で根気よく、ゆっくり柔らかく、擦ってとるのです。今度は雑巾を洗いなおして、絞り、便器の外回りを拭いて終わりです。 たまにはきれいに掃除した便器に座って、腿にひじを当て、右手でこぶしを握り、あごを支えて、ロダンの考える人の真似をします。そうしていると、なかなか思い出せなかった、昨日食べた昼ごはんが思い出せそうです。こういう時は便器のまん前に大きな姿見の鏡が欲しいです。また、南サンフランシスコに住んでいた頃、両足の膝が像の足のように腫れて、身動きできなくなり、治療のため、朝の一番絞りの小便を、悩み悩み、それこそ歯を食いしばって、苦労して呑んだことも思い出します。便器というのは不思議なものです。便器に落ちるまでの小便は飲めるが、便器に落ちた小便はこのフリムンのワイでも飲めそうにおまへん。 人間を育ててくれている栄養の残り糟を捨てるところがきれい、清潔であるのは気持ちのいいものです。何年か前に、ユタ州の山の上で、友人の井手尾さんとキャンプに行った時は便所のきれいさに驚きました。用を済ませて、手を洗ってから便所の入り口にテーブルを置いて食事をしてもいいなあと考えたものです。もう一度行きたい便所です。ところがうちの嫁はんがあまりの汚さに吐き出しそうになって、用を足さずに辛抱した便所もあります。それは有名なゴールデン・ゲイト・ブリッジを北側から入る前のビューポイントの便所でした。世界中から来た見物人の多くはきれいな偉大なゴールデン・ゲイト・ブリッジを見たら、圧倒されて、感激して、まともに便所の穴をめがけてストライクじゃなく、ファールにするのでしょうか。私にはわかりません。サービスの悪い、レストランは行った後、もう絶対行くまいと心に決めながら、忘れた頃また行くが、汚い便所は忘れても二度と行く気はしない。掃除ができない便所もある。フリムン徳さんの住んでいるカリフォニア・モントレーの山奥の山の砂漠と呼ばれるブラッドレーは昔はほとんど牧場ばかりの村であった。今は少しブドウ畑が進出しだしている。そのカーボーイ時代の便所は掃除をしないで住む便所だった。家から少し離れた畑の隅に、人間がまたげる幅に2枚の板をおく。その板と板の間を鍬で少し掘る。用を足したら、鍬で埋めて、2枚の板を少し前へ進める。板を前へ進めるのが面白い。名前をつけるとしたら、”前進する便所”。日本の昔の雪国の人達が、スキー靴みたいな大きな長いぞうりを履いて用を足しているような気がしてならない。 日本のある小学校の先生が小学校5年生32名に、「もし、駅のトイレを汚したら、綺麗にして出るか」とアンケートをとったら、28名が「そのままでてくる」と答えたそうです。「自分だけよければいい」という今の日本の姿が便所にはっきりと現れえいる。その人のこと、その家の子と、その会社のこと、そのレストランのこと、その国のこと、便所へ行けばわかるような気がします。 でも世の中教育の仕方だと思います。アンケートをとった35名の小学5年生にその先生がある有名な詩を読ませました。その詩は浜口国雄の「便所掃除」です。「便所掃除」浜口国雄 扉を開けます頭の芯までくさくなりますまともに見ることができません神経までしびれる悲しい汚し方です澄んだ夜明けの空気もくさくします掃除がいっぺんに嫌になりますむかつくようなババ糞がかけてありますどうして落ち着いてしてくれないのでうけつの穴でも曲がっているのでしょうそれともよっぽど慌てたのでしょう怒ったところで美しくなりません美しくするのが僕らの務めです美しい世の中もこんなところから出発するのでしょう唇を噛み締め、戸のさんに足をかけます静に水を流しますババくそに恐る恐る箒を当てますポトン、ポトン 便壺に落ちますガス弾が鼻の頭で破裂したほど苦しい空気が発散します落とすたびに糞が跳ね上がって弱ります乾いた糞はなかなか取れませんたわしに砂を付けます手を突き入れて磨きます汚水が顔にかかります唇にもつきますそんな事にかまっていられませんゴリゴリ美しくするのが目的ですその手でエロ文、塗りつけた糞も落とします大きな性器も落とします朝風が壺から顔をなぜ上げます心も糞になれてきます水を流します心にしみた臭みを流すほど流します雑巾で拭きますキンカクシの裏まで丁寧に拭きます社会悪をふき取る思いで力いっぱい拭きますもう一度水をかけます雑巾で仕上げをいたしますクレゾール液を撒きます白い乳液から新鮮な一瞬が流れます静かなうれしい気持ちで座ってみます朝の光が便器に反射しますクレゾール液が糞壺の中から七光で照らします便所を美しくする娘は美しい子供を生むといった母を思い出します僕は男です美しい妻に会えるかもしれませんこの詩を読んだ後の32名の生徒の感想は「私は、駅のトイレは、自分で汚しても知らんふりしていました。でも、この詩を読んでから、これからは汚さないようにしたいです。」これで日本の将来も安心です。ただ教育が行き届いていないだけですと、この先生は書いていました。 フリムン徳さんは、皿洗いをした時よりも、窓ガラス拭きをした時よりも、風呂掃除した時よりも特別に清らかな気持ちになります。どうしてでしょうか。何か自分にええことが来る様な気持ちもします。今まで便所掃除をしていた嫁はんもこの清らかな気持ちを楽しんでいたと思う、どうしてこんないいことを私に言ってくれなかったろうか。汚い汚れた便所で用を足すのは辛いことです。でも、使う人がいい気持ちになることを想像しながら、やる便所掃除はいいものです。元酔っ払いの大工の私でも便所を美しくすれば、立派なエッセイが書けるような気がします。“トイレの神様”応援しているような気がします。鼻歌歌いながら便所掃除に頑張りたいと思います。フリムン徳さん
2011.04.10
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「物書き修業中」 1917字 1-19-2011 真っ黒の紙に左から右に4つ間隔をあけて並んだ黄色い点だけを描けばよい。これは夜中1時過ぎのフリムン徳さんの部屋から見える夜景である。四角い窓の向こう1キロ先を東西に走るハイウェイG18を照らす街灯だ。この時間に走る車はほとんどない。でも、遠くの家から、フリムン徳さんの部屋の明かりを誰か見ていないだろうか気になる。「こんな夜中に、明かりがついている、何をしているのだろう」と、向こうも気になるに違いない。カリフォニア・モントレーの山の砂漠と呼ばれる寂しい村だから。 フリムン徳さんは、今晩、今からお日さんが山から昇るまでエッセイの勉強をする。フリムン徳さんの第2の人生の楽しくて、苦しむ時間でもある。頭を掻いたり、なでたり、唇をとんがらしたり、しながら文章の構成を練る。10畳ほどの部屋のベッドの横に置かれたノートパソコンのスイッチを入れる。この辺は電話回線がまだデジタルになっていないので立ちあがるまでに時間がかかる。コンピューターの立ち上がりを待つのは1秒でも長く感じる。辛抱し辛い。昔、惚れたおなごはんを待つ時はいくら長くてもわくわくしたものだが。 でもこの頃は待ち時間を気にしない方法を考えた。コンピューターの左横に向田邦子の本を立てて、読む。フリムン徳さんは彼女のような文章を書くのが夢である。何回読んでも味が出てくる。噛めば噛むほど味が出るような文章が好きである。フン、フンとうなずかせる、ああ、こんなこともあったなあ、こんなものもあったなあ、こういう観察の仕方もあるのだなあと、こんな角度から見ることできるのだなあ、と思わせながら読ませる。 こんな切り方もあったんか、こんなゆで方もあったんか、こんな盛り付けの仕方もあったんか、と高級料理の作り方を勉強しているみたいに、彼女の文章は展開していく。誰かが、向田邦子はエッセーの「真打」と何かに書いてあったが、その通りだと思う。 どうも気持ちが飛びきりいいエッセーを書こうと構えて硬くなっているみたいで、すぐには書けそうにない。手紙を書こうとするが、なかなか書け出せない、あの気持ちである。気持ちをほぐすために、1番先にメールが入っていないか見る。フリムン徳さんは寂しがり屋なのだろうか。その次は朝日新聞のウェブを見る。以前は東京新聞のウェブを見ていたが、東京新聞より朝日のほうが情報の更新が早いので、今は朝日にしている。メールと新聞のウェブを見るのにおよそ10分か15分。 まだエッセーを書く気になれない。また向田邦子の本のページをどこでも開けて、読む。読みながらふと気がつく。彼女の本は文庫本で小さい。物書き修業中のフリムン徳さんが出版した本はずいぶん大きい。これはどうもおかしいなあという気持ちになる。でもすまないなあと言う気持ちは起こらない。彼女の本は20何年ほど前の出版だから、時代の変化にする。 やっとワードを開けてエッセー書きの開始である。起承転結の起がなかなか進まない。これがうまく書き出せると、後の承転結も、わりと進んでいく。そんな時、暗闇の中から、「キャーン、キャーン」と鳴く声が聞こえる。普段はあまり聞かない鳴声である。カヨーテの鳴声である。せっかく、うまく進んでいるのに邪魔されたみたいだ。大阪弁で言うたら、「難儀やのー」である。 夜中に窓を開けているからよく聞こえるのである。夏は40度以上の灼熱の暑さの日が続くのに、山の砂漠と呼ばれるここブラッドレーの我が家はクーラーがない。昔からここに住んでいる原住民(アメリカインディアン)の生活の知恵を使っている。夏の間、昼間は絶対に窓を開けないで、外の熱い空気を入れない。夏でも日が落ちると、急に冷えだして寒くなる、砂漠の気候である。外が冷えだしたら、家の窓を全部少し開けて、冷たい空気を家の中に朝まで入れる。そうすることによって、クーラーなしの生活が出来る。昔の原住民はCO2を出さない。一旦停まると、また書くのが前へ進まない。また、コンピューターをじーっと眺めて、「物を書くのがお前の仕事だ、嫁はんに面子が立たんのだ、文章は書いたら、後世に残るんだ」と心に言い聞かせて、やっと次の章を書く。 いい考えが頭に浮かんでこない時は、向田邦子はこんな時どうしたのだろうか、と考える。彼女はなんやかんやと、理由を作って引き伸ばして、締め切り間際になって、やっと書いたと言っている。やはり、物書きには締め切りが必要なのかもしれない。 もう、外が少し明るくなってきた。寒くなってきた。お日さんが昇る前だ。フリムン徳さんは頭を掻きながらまたコンピューターを睨む。 フリムン徳さん
2011.04.10
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「白髪の世界」 「結婚年数55年以上の夫婦は手を上げてください」と司会者が言うと、すぐに会場が爆笑の渦になった。なぜか?「それは一人目の夫人とですか、それとも二人目の夫人との結婚生活年数ですか」という声が大きく聞こえたからです。こんな質問がそう簡単に日本人の集会で出てくるでしょうか。アメリカ人は結婚は2回は「当たり前」といいます。3回は「少しナー」といいます。4回は「ちょっとナー」といいます。これは「キング・クイーン」という白人のグループのチキンディナーの集まりの会場です。ところが白人ばかりなのに金髪が少ないのです。ほとんどが白髪です。見渡す限り、白銀の世界です、いや白髪の世界です。そうです、65歳以上の白人の1年に1回のリユニオン(懇親会)なのです。 嫁はんと私は友人のバブとアルビラに連れられてここに来た。このチキンディナーは65歳以上の人は無料で、65歳以下は一人5ドル払います。年に20ドルの会費を払って、一緒にサンフランシスコへバスをチャーターして珍しいレストランへ食事に行ったり、あるいはクルーズで外国へ旅行に行ったりするグループです。私と嫁はんはまだ65歳以下ですから5ドルずつ払って、席に着いた。 およそ6人掛けの40席以上の丸いテーブルがほとんど満席。250人前後のアメリカ人達です。そのうちのたった二人が日本人の嫁はんと私です。そんな中で英語もまともに出来ない私と嫁はんが食事をするのは圧倒されると思うでしょう、引け目も感じると思うでしょう、度胸がいると思うでしょう。ほんまのところは少し小さくなります。でも白人の社会で7年以上も生活しているから慣れました。親身に私達の世話をしてくれるバブとアルビラがおるから心強よいです。それと、日本の作る製品が私たちの気持ちを大きくしてくれます。彼らはトヨタ、ホンダ、ソニー、パナソニックの製品を作る日本人に一目置くようになりました。日本人は白人の立派な体格や、容姿には負けると思いますが、作る製品には勝ちました。トヨタ、ホンダ、ソニー、パナソニック様、おおきに、ありがとうございます。 ここはサンフランシスコからフリーウェイ101号線を南へ車で、2時間半ほどのキングシティーという小さな町です。周りは広い野菜畑と、ブドウ畑がどこまでも続いています。そこのフェヤーグランドの大きな建物のホールの中です。高い天井の真ん中から薄紫の長い布が四方八方に張り巡らされて、うきうき気分にしてくれます。町の中を歩けば、ほとんどがヒスパニック系の人ばかりの町なのに、ここは白人ばかりです。町のどこにこれだけの白人が住んでいるのかと不思議に思われます。これはロスやサンフランシスコで白人が日本人の集会を見て、「どこにこれだけの日本人が住んでいるのか」と思うのと同じかも知れまへん。 ウェイトレス、はすべて小中学生のボーイスカウト達です。ほとんどの彼らが恥ずかしがらずに、ちゃんと注文を聞いたり、コーヒーを持ってきたりします。プロのウエイトレス顔負けです。私が小中学生の頃、日本で彼らみたいにやれたかというと「ノー」だと思います。アメリカ人の子供が人前で恥ずかしがらずに、大人顔負けに立派にやれるのにはいつも感心します。大の大人の私より立派に思えますじゃなくて、立派です。年寄り達に子供たちが食事のホステスしてあげる、なんともほほえましい風景です。でもワイン、ビールは大人達が入れてくれます。アルコールの法律で、未成年は飲むこともサービスすることもできないからです。私は自分でうなずいて納得しています。 出てきたチキンディナーは紙の皿に、大きなチキンとマカロニサラダ、ビーンズ、この3品です。日本人の集まりのご馳走を思い出すと質素です。情けなくなります。チキンも薄い塩味だけです。でも、アメリカ人は「グッドゥ、グッドゥ」といいながら喜んで食べています。日本のご馳走よりも勝っているのは量だけのようです。でもよう考えてみたら、これは都会のアメリカ人の集まりじゃなくて、昔の百姓やオールドカーボーイの集まりのだからでしょうか。 私も嫁はんも彼らのまねをして、「グッド、グッド」といいながら食べた。 チキンを食べながら、司会者の話を聞き、拍手をしたり笑ったり、忙しい。「20人以上の孫のおる人、手を上げてください」あちこちで、手が挙がります。「10人以上のひ孫のおる人、手を上げてください。」―――――。次は70歳以上、75歳以上、85歳以上、90歳以上の人は手を挙げてくださいと司会者は進めていく。99歳のおばあちゃんが手だけじゃなく、立って手を上げると、拍手喝采がひときわ大きな拍手が起こった。99歳より年下の人は手を揚げるだけだったのに、この99歳のおばあちゃんだけは立って手を上げた。皆さんに「大きな、ありがとう」のお礼を言いたかったのでしょう。それとも、私は99歳まで生きたんだと自慢をしたかったかもわかりまへん。私はどっちにしてもうれしくなりました。 でも私が一番興味深かったのは73年結婚生活をしているおじいちゃんとおばあちゃんでした。おじいちゃんが93歳で、足が悪くて車椅子に乗っています。おばあちゃんが94歳で、しゃんとしておじいちゃんよりも若そうです。このおじいちゃんは私に影響を与えた人のようです。彼の家での仕事は車椅子に乗っての皿洗いです。私も今、皿洗いが仕事になっています。なぜならば、彼らの家へ嫁はんが2週間に1回ハウスクリーンに行っているからです。嫁はんの大の友達なのである。どうも嫁はんが私に皿洗いの仕事を押し付けたのはこのおじいちゃんを見ているからだと思う。 最後に司会者がマイクを持っていって、「おじいちゃん、73年間の長い結婚生活の秘訣は何ですか」と聞いたら、「マウス、シャット(口を閉める)」の一言でした。 フリムン徳さん
2011.04.10
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[嫁はんの出前とは」 マリリンモンローよりも奇麗 !! これが白人の美人というもの!! 先日、70歳過ぎの彼女の若い頃の写真を見せてもらいながら、思わずそう叫んだ。そして今、その元超美女バベットは奇麗に飾られたテーブルの左端に上品な雰囲気を漂わせて座っている。そして他に6人の白人美女が居並ぶ。ここは海抜300メートルの山の砂漠と呼ばれるラックウッドという村。どこまでも続く広い牧場。カーボーイ、カーガールの生き残りの村でもある。カリフォーニアの有名なモントレーカウンティーの山奥に属する。 フリムン徳さんの嫁はんの親しい友人のアルビラの家に、もと美女達が集まって、嫁はんの誕生パーテイーをやってくれている。バベットは牧場の真ん中に小さなモービルホームを月200ドルで借りて一人で住んでいる。見渡す限り牧場ばかりの寂しいところにぽつんと置かれたモービルホームに年寄りのバベットは何故一人で住むのか、どうして、老人ホームへ行かないのか?どうもアメリカの老人は自分で生活できる間は、ひとりで生活して、出来なくなれば、子供と一緒に住むか、老人ホームへ行くような気がする。馬が好きで、半年前までは、趣味で馬を飼って、乗馬を楽しんでいたが、もう、あまり乗らないので、その馬はパソロブレスの娘にやった。私はその馬の鞍が彼女には重たくて、持てないので、車に積むのを手伝ったことがある。彼女は脳溢血で倒れて以来、重たいのがもてない。 バベットの右隣が嫁はんを自分の子供のように可愛がってくれているアルビラである。彼女も旦那を亡くして15年前に今の旦那のバブと再婚して2人で牧場の真中の大きな古いモービルホームに住んでいる。彼等はこのモービルホームとこの土地150エーカー(18万坪)を何年か前に現在の地主に売ったが、そのまま死ぬまで住まわせてもらえるという。それほどバブとアルビラは人に好かれる夫婦である。彼等ほど人種差別なく、親切で思いやりのある白人にアメリカで遭ったことがない。私と嫁はんの出来損ないの英語を辛抱して聞いて、友達として、ずーっと付き合ってくれるのは彼らぐらいだと思う。私達が、日本人のいないアメリカ人の村で生活できるのも彼らのお陰と感謝している。 嫁はんの今日の誕生パーテイーもアルビラがお膳立てしてくれ、彼女の家でやってくれている。そして今日集って祝ってくれている白人の美女達は全部嫁はんのお客さんである。嫁はんに彼女達の家のハウスクリーンの仕事を世話してくれたのもアルビラである。アルビラは注意深くて、親切な人である。私達と知り合って間もない頃、「嫁はんがハウスクリーニングの仕事を探している」と言うと翌日すぐに、自分の家のクリーンをさせて嫁はんの仕事振りを確かめてから、自分が第1号のお客さんになり、瞬く間にこの5人を紹介してくれた。 そのアルビラの右隣に座っているのはこれも金髪の元美女バーバラ63歳。彼女は300エーカーの土地の真中にポツリと建った、こじんまりした質素な家に住んでいる。ラックウッドの大地主である。彼女はパーキンソン病にかかり歩くのと手の動きが少しのろい。パーキンソン病の説明をタイプにして知り合いに配っている。私にもくれた。嫁はんを頼りにして、ハウスクリーニングの日を楽しみに待っているようである。私の本が出版されたと言ったら、「もう本が売れて金が入るから、初美はうちの仕事を止めるんですか」と悲しそうに聞いた女性でもある。 バーバラの右隣はローレン、彼女はばーバラの旦那のお母さん、人を包み込むような包容力を漂わせる、優しい顔の背の高い大きな白人女性。コンピューターも上手である。孫や娘とEメールでやりとりしてコンピューターを楽しんでいる。『先月は車の免許証切り替えの際、筆記テストで満点を取った』と微笑みながら言う。彼女は息子が持っているモービルホームで一人で住んでいる。なんと彼女は86歳のおばあさんである。 ローレンの右隣は、70歳は過ぎているルビー。彼女は私達の教会の幹事である。私達も、日曜日にはこの教会に英語の勉強と称して行っている。今では教会のたった一組の東洋人夫婦のメンバーに間違われるほどである。ルビーは教会の牧師さんの世話や、毎年5月にやるバーベキューの責任者でもある。何年か前に、旦那は死んだ。今は、80歳過ぎの背の高い、ジョンウェインに似たボーイフレンドの家に一緒に住んでいる。 この人達が一品ずつ持ってきた料理がテーブルの上に並べられている。油で揚げた薄く丸いジャガイモ、大きなボールに入った野菜、たまねぎを細かく刻んで酢とバターで作ったサラダ、りんごのケーキ、パイナップルのケーキ、小さいロールのパン、薄く切ったハム、初美の作ったコロッケ、心がこもって嬉しいのだが、なんだか寂しい、でもこれがアメリカの田舎の料理のご馳走である。土地の狭い日本人は寿司、天婦羅、刺身と豪華な料理、土地の広いアメリカは質素な料理、なぜこんなに違うかと思わざるを得ない。でも、今日は狂牛病の問題で牛肉がなかったからよけいに寂しく見えたかもしれない。それにしても日本の料理の豪華さ、おいしさにはアメリカ料理はいくら頑張っても勝てないような気がする。日本は料理の発達する国、アメリカは料理の発達しない国のようである。 この白人の中の一番えらい席に座らされたわが嫁はんの色はえらく黒く見える。紅一点じゃなく黒一点や。白人と比べて背の低いこの54歳の黒一点も皆が座っているのでそう背はそう低くは感じられない。背の高い人間も低い人間も足の長さが違うだけで胴の長さはそう変わらないというのは本当のようである。うちの嫁はんの白人に囲まれて座った姿もまんざらでもない。周りが白ばかりやから黒が目だって別嬪さんに見えるんや。 一年前まではろくに英語ができなかった嫁はんが知っているだけの英語の単語を操って、自分の日本人の親友に喋っているみたいに打ち解けて楽しい会話をしている。羨ましいと、誇らしい気持ちが混ざって、少し、甘酸っぱい気持ちがする。でも会話の半分以上は分からんでも分かったふりしているのは手に取るように分かる。私が倒れて、嫁はんが外に出るようになって、たった一年でこんなに英語ができるようになり、白人の社会に堂々と融けけ込めたのかとこの私は自分の頭を疑いたくなる。嫁はんが白人の美女達と会話をしている姿にカメラのシャッターを切るたびに、よくぞここまできたという思いで、カメラが震えよる。 英語を巧く喋れなかった嫁はんが、たった一年の間に白人の社会に融けこめたのには理由がある。人とすぐに友達になれる彼女の性格もあるが、それだけではない。嫁はんは彼女達の家に毎週1回あるいは2週間に1回仕事に行く。2時間、3時間、5時間みなまちまちだ。そして、行く度に、朝早く起きて料理を作って持って行く。 仕事に行くのに料理を持って行く。私は、「出前に行くのか」といつも冷やかす。照り焼きチキン、コロッケ、寿司のカリフォニアロール、ジェーローが主なメニューだ。一番好まれるのはアメリカ人向きに甘く味付けしたチキン照り焼き。アメリカ人の味付けは甘い。アメリカ人の作った料理の何でもが、お菓子を食べているような気がするほどである。七色の虹を思わせるジェーローも人気がある。冷蔵庫の材料が切れた時は庭に咲いた花を持っていく。嫁はんのこの「出前」が白人の社会へ入り込む道具であり、英語が上達する特効薬のようだ。嫁はんは今日も朝早く起きて、鼻歌を歌いながら、コロッケを作っている。 フリムン徳さん
2011.04.10
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「小さなビッグニュース」 英語が聞こえない、スペイン語が中心の小さな田舎町の外れに小さな車の修理屋をやっと見つけた。一目でラテン系とわかる背の低い親父さんは、スペイン語の訛りのある英語で相手をしてくれた。パンクを直してもらい、カードで代金を払おうとしたら、現金でないとだめだと言い。「今度ついでの時に持ってきたらよい」と言う。 ラテン系の農場労働者は、銀行をあまり信用しないという。雇い主から1週間か、2週間に1回もらうチェック(小切手)は銀行へ行かないで、雑貨屋へ行って、買い物をしながら、現金に換えてもらう。だからこの街のほとんどの小さな店は現金しか受け取らない。白人のほとんどは現金じゃなく、カードで買い物する、ラテン系の農場労働者は現金で買い物する。デビットカードやビザで買い物するフリムン徳さんには肌色はラテン系に似て浅黒いが、買い物の習慣はアメリカ人に似ている。 事務員がまだ来てないから、コンピューターが使えないらしい。「お金は今度寄った持ってきたらいいですよ」といとも簡単に言うではないか。「私はこの町じゃなく、隣町に住んでいる、2週間後にしか来れないよ」「ええ、かまわないよ」。顔つきも違う人種をいとも簡単に信用するこの背の低い男、頭をひねりたくなった。思わず彼の顔を眺めたおした。 私の家から車で30分ほど北にあるキングシティーという町でのことである。ラテン系の人口が大半の小さな町だ。町の回りはどこを見ても広い野菜畑が果てしなく続く。緑の広大な野菜畑の中に町があるみたいだ。5、6人の人が固まって、鍬で、畝の間に間隔を置いて合間の草をとっている姿歯あまりにも小さく見える。大きなトラクターがも菜の畝と畝の間をゆっくりと歩いているように動いている。のどかな風景が広がる。 フリーウェイ101号のすぐ東側にセイフウェイと、大きなリーメモリアル病院がある。病院へ行っても、セイフウェイへ行ってもラテン系の人がうようよしているという感じだ。街の一番大きな商店街は東西に走るブロードウェイ。日曜日はラテン系のカウボーイハットをかぶり、先のとんがった皮靴に、大きなバックルのベルトで身を固めた、背の低いメキシカン・カーボーイたちが商店街を歩いている。子供を載せたベビーカーを押して歩くラテン系の女の人達も目立つ。彼らの間から、風に乗って聞こえてくるのはスペイン語だけだ。でもここはアメリカだ。 今この町が揺れている。「あの町はちょっとなあ」と私の住んでいる町の白人たちの間で言われている。一昨年、去年、今年と、困ったことがこの町に続いて起きた。一昨年は、市が破産したのである。市の偉いさんが、市の金を持ち逃げしてどこかへ消えてしまったのである。去年から今年にかけて市にひとつしかない大きな病院が閉鎖されている。病院の経理がずさんで病院に金がなくなったのだ。私が強制入院させられたのも、脱腸の手術を受けたのもこの病院だ。私のホームドクターはこの病院のパーキングに車を停めて、ナンバープレイトを盗まれた経験があるという。この街のはずれに住む、知り合いの日本人も何回も家に泥棒に入られて、とうとう、この町から北へ50分ほどのサリーナスという日系人の多い町へ引越ししてしまった。どうしてこんなことが続いて起きるのだろうかの原因を私の村ブラッドレーの白人達は話したがらない。彼らはたてまえとして政治の話、宗教の話、人種の話は好まない。 私は17、8年前、私がロスアンジェルス郊外の町、サウス・エルモンテで小さな工場を借りていた時のことを思い出した。向かいの工場のボスは私みたいにアメリカ永住権を持ったメキシカンだった。彼も私と同じくメキシカンのヘルパーを使って溶接屋をしていた。彼は買い物か何かで工場を留守にする時は必ず、私に、自分のメキシカンヘルパーを注意して見てくれと頼んで出ていった。彼は自分もメキシカンでありながら、自分のメキシカンヘルパーを信じなかった。日本人の私を信用した。 「お金は今度寄った時に持ってきたらいいですよ」初めて会う人間、しかもラテン系の人から、日本人の私がこんな言葉なんて聴くとも思っていなかった。こんな経験はアメリカに30年以上も住んでいて、初めての経験だ。聞いた時は、そうでもなかったけれど、家へ帰る車の中ではこの言葉が頭いっぱいになった。うれしさと、楽しさと、少し興奮すらした。もう誰かにしゃべりたくなって、すぐに初めにあった友人のバブにこの話をした。もうその日1日中うれしい気持ちでいっぱいだった。私を信用してくれたのよりも日本人として信用してくれた気がした。アメリカで苦労してまじめに働いて日本人の信用を高めた1世の日本人のことを思い出した。 この町がバンクラップしたのも、病院が閉鎖されているのも新聞では大きなニュースかもしれない。でも私にとっては、なんといっても日本人を信用した車屋の小さな出来事がビッグニュースである。 フリムン徳さん
2011.04.08
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「咲かせてやろう、つぼみ」?シアトル空港の荷物受け取り場のみんなの目が、フリムン徳さんの孫に集中した。長椅子に座って3歳の孫と荷物を待っていた。退屈した孫はポケットから1つのキャンデイーを取り出して、包み紙を開いてそのキャンデイーを隣の見知らぬ白人のオバさんの口元に持って行った。そのオバさんはにこっと笑って自分の口に入れ、「サンキュー」と言って孫の頭を撫でてくれた。孫は当たりを見渡した。ず―っと先にごみ箱を見付けた。キャンデイーの包み紙を捨てにペンギンのようによたよたとごみ箱へ歩き始めた。背伸びして包み紙をごみ箱に捨てた。孫がこちらを向いたとたんに周りから拍手喝采が起きた。孫はまた、ペンギンのように両手で自分の両腿を叩いた。?1日でも早くシアトルへこの孫に会いに行きたかった。もうすぐ3歳になる長男の初孫が見たくてたまらん。その孫に会える日がやっときた。 待ちに待った日がやっときた。息子から飛行機の切符が送られてきた。シアトルへ行ける日だ。可愛い孫に会えるのだ。この日を子供の頃の遠足を待つように指を数えて待っていた。待ち遠しくてたまらなかった。言葉に出して待ち遠しいといえば、嫁はんに笑われると思って口には出さなかったが、心の中では毎日口に出していた。子供みたいにうれしいことは口に出して喜ぶようになりたいと思う。孫ができる歳になったら“武士は食わねど高楊枝”なんかいらん。思ったことはすべて口に出して喜びたい。?1歳の時に、息子夫婦がロサンゼルスからシアトルへ引っ越す途中に、1日だけ、泊まって行った。まだ歩けなかった。可愛くてしょうがなかった。あの柔らかい肌に触りたかった。傍にいたかった。1日中孫の傍をうろうろしていた。孫が気になってし方がない。こういうのを「目に入れてもいたくない」というのだろうか。 嫁はんが寝かしたまま、おしめを変えるところへ行って、チンチンを見ようとして、顔を向けたとたんに、水鉄砲でめがけられてうたれたように、勢いよく口と鼻の穴の中に小便が飛び込んできた。そう塩辛くもないちょうどいい味がした。我が孫の小便は一味違う味だ。普通の塩辛い小便ではない、味の素の入った小便みたいだ。もっとかけられてもいいとも思った。この小便に私の血が混じっていると思うと味わい深い味がする。嫁はんに「そんなヘンな所にまともに顔を近ずけてを見るから、罰だ」と、 と言われた。 私にしてはヘンなところか、一番大事なところや。将来の上園田家の後継ぎを作る源や。その源を見ようとして何が悪い。その源は大人の源みたいに開いていた。つぼみではなかった。アメリカの医者は生まれてすぐに医者が開くのだと言う。どうも理由はわからん。息子が生まれた時の日系人の医者は自然のままがいいといって、そのまま自然な状態でつぼみのままにしてくれた。孫のつぼみは生まれてすぐアメリカ人の医者によって、開かれていた。孫の小さなつぼみが開いているのを見て、かわいらしくて一人前のつぼみのように偉大に見えた。それは立派な背広を着た小さな子供が大人のふるまいをしているようであった。 なんや、豊臣秀吉と徳川家康を思い出した。「咲してやろう、つぼみ。咲くまで待とう、つぼみ」。アメリカ人は豊臣秀吉で、日本人は徳川家康か。その孫が、もう3歳になって、走りまわり、おじいちゃんよりも上手な英語で喋り始めている。電話で話していても、意味のわからんことを喋っているが、まともな英語の発音になっている。アメリカで生まれ育つ子はほんとの英語を喋る。娘と息子の時は日本語を習わそうと思って、私達は子供には日本語と島ユミタ〈喜界島の言葉〉ばかりを使った。 家で彼らは親には日本語と、時々、島ユミタで喋っていたが、友達とは英語ばかりだった。だから、英語については安心していた。ところがそれは少し勘違いだった。息子が小学校3年生か4年生の時、通知表に、発音の悪いところがあると書かれていた。ちょっとショックだった。その国の言葉を完璧に喋るのは非常に難しい。30年近くアメリカに住んでいる私たちは、夫婦で島ユミタで生活しているから、なかなか英語は上達しない。? 英語は子供から習うのが一番早いとわかっていたが、日本語と島ユミタのハナサ〈恋しさ〉に負けて、家で英語も使わなかったのが失敗だった。もし英語が上手だったら、大工なんかにならないで、商売人になって、今ごろ大金持ちになっていたと思うが、もう遅い。「徳さん、そんな負け惜しみ言いなはんな」 という声が日本の友達から聞こえてくるみたいだ。たったの8日間だったけど、孫と一緒に英語を勉強した。返りの飛行機に乗ったとたんにシアトル空港の荷物受け取り場で、ゴミ箱へごみを捨てに行く、よちとち歩きの孫の姿が頭の中に映った。
2011.04.05
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「アメリカの田舎の葬式」 モントレーの南部、山奥の小さな村、ホロンの山の中に1軒ぽつんと、寂しそうに立つ小さな教会。木造の古い建物である。入口のドアも手製の古びたドアのようである。中に入ると古いアメリカ杉・レッドウッドゥの匂いが立ち込めている。壁も天井も床もレッドウッドゥ特有の古い赤茶色の寂しげな空間である。中央にある牧師の説教台も古めかしく、小さい。板を打ちつけた釘の頭が見える。元大工のフリムン徳さんには建物の材料や釘の種類まで気になる。大工をすでにやめて7年もなるのに、木造物をみる目と別嬪さんを見る目は死ぬまでやめられそうにない。後の1段上がったところのテーブルに小さな額縁に収まった写真が飾ってある。その両脇にそれぞれ3本のひまわりの花を挿した小さな瓶と3本のろうそく。壁のすき間から入ってくる風でろうそくの炎が揺れている。ただそれだけである。遺骨も遺体もない。これがフリムン徳さんの親友バブ葬式の祭壇である。バブが9月19日に死んだ。行年82歳。妻のアルビラが死んでから丸2年になる。アルビラに呼ばれたのだろうか。死人は3年以内に誰かを呼ぶと日本で聞いたことがある。バブはアルビラの死後、娘の住むモンターナ州に家を買い、娘夫婦の世話になっていた。葬式は友人の多いカリフォルニア・ラックウッドゥに戻って、生前メンバーであったこの教会でやることになった。モンターナからは車で2日間の行程である。幅20センチ、高さ30センチほどの額縁にはバブが立った全身のカラー写真が入っている。顔写真ではない。話しかけてくるような迫力はない。着古しのジーパン、突き出た膝の部分が白く変色している。そのジーパンを肩からの吊りバンドが吊っている。ねずみ色のチェックの半そでシャツから痩せたバブの腕が枯れ木のように垂れている。背景は4、5本のひまわりである。バブの背丈の2倍以上はある。モンターナの彼の裏庭で育てたものだろう。写真は庭仕事中のスナップショットのようだ。日本人のフリムン徳さんの感覚からすれば、バブが元気で輝いていた頃のキチンとした背広にネクタイ姿の大きな顔写真がふさわしい。でも長年こんな山の中で暮らしていたバブのネクタイ姿の写真が探せなかったと思う。わかる気がする。この辺の村で、ネクタイ姿を見たのを思い出すのは難しい。フリムン徳さんもここに住んで15年になるけど、ネクタイ、背広姿をしたことがない。ブドウ畑と牧場に囲まれた本当のアメリカの田舎である。フリムン徳さんもネクタイ姿の写真がなくて困ったことがある。「あなたの出版した本の書評を載せますので、写真を送ってください」と、私が本を出版した時に、日本の大きな新聞社から連絡が来た。大きな新聞社に元大工のフリムン徳さんの書いた本書評が載るはずがない。当たり前のことである。このあたり前のことが当たり前でないことに成る時もあるから世の中おもろい。フリムン徳さんの日本の同級生の友達が、その大きな新聞社の記者だったから、頼み込んだのである。Tシャツ姿の写真を送ったら、「ネクタイ姿の写真を送ってください」と再連絡があった。古いアルバムを引っ張り出して、何十年か前の日本で撮ったネクタイ姿の写真を送った覚えがある。日本は本を出版する人はネクタイをする人と決めているような気がして、おかしかった。バブの晩年の庭仕事中のスナップショットは貧弱で、裏庭に立った案山子のようで、寂しい。ただ、瓶に生けてあるひまわりと写真の背景の大きなひまわりを見て、バブはひまわりが好きだったことをフリムン徳さんは思い出し、懐かしさが静かに胸に込み上げてきた。葬式は午前11時に始まった。バブの娘ティーナ夫婦、フリムン徳さんと嫁はんは、準備のため9時に教会に着いた。ティーナが一番初めにしたことは、ひまわりの花を小さな花瓶に挿し、それを外に出して太陽に当てることだった。お日様に向って咲くひまわりの花にはお日様に当ててあげるのが思いやりというものだろうか。教会の中は真ん中の通路の両脇に長椅子が並ぶ。最前列に5人ずつ、その後の列に5人ずつ、20人がバブの親族である。その中のたった二人の日本人、フリムン徳さんと嫁はんは親族のうちである。見渡してみると、出席者のほとんどが白人。黒人さんは一人もいない。4、5人のメキシカンがいる。でも、女性のメキシカンも白人女性と区別がつかない。きっと、日本女性のように、流行の髪の色を赤色に染めているのだろう。元大工のフリムン徳さんは材木だけをよく観察していると思ったら、おなごはんの髪の毛の色まで観察している。助平―なやっちゃ。50人収容のこの小さな教会の真ん中の通路に20ほどの椅子が追加され、小さな教会は満員状態である。葬式が始まってもフリムン徳さんにはどうも葬式の雰囲気が感じられない。いつもより人数が多い普通のミサのような気がする。黒の喪服の人は親族の5、6人だけ。他の人ほとんどが、ジーパンにTシャツの普段着のままである。ネクタイをした男はアラスカから来た息子のグレン一人だけ。フリムン徳さんと嫁はんも普段着である。サンフランシスコや、ロスアンジェルスの都会の葬式では、黒の喪服、ネクタイをした人が多いが、ここラックウッドゥの田舎では普段着が普通である。違うのは参列者の服装だけではなかった。キリスト教の葬式の儀式が終わると、バブの友人達が代わる代わる説教台に立ち、バブの小さい頃からの人生歴史を面白おかしく話して、みんなを笑わせる。ほとんどがバブの失敗談である。大笑いの連続であった。娘のティーナは笑っては泣き、泣いては笑うのに忙しかった。その度に旦那のスティーブも彼女の肩を抱きしめるのに忙しかった。まるで、落語か、漫才を聞いているみたいだった。葬式が終わった後のパーティーも普段のごく普通のパーティーだった。礼拝堂の隣の建物にある小さなキッチンには、バブが好きだった大きなソーセージを挟んだパン、野菜サラダ、ビーンズ、パイなどが盛られている。それをおのおの使い捨ての紙皿に取り、缶入りのコーラやオレンジジュースを選ぶ。屋外に並べられたテーブルで思い思いの席に座って食べる。参加者全員が車を運転してきているので、アルコールは一切なしである。アルコール好きのフリムン徳さんにも不満はない。喪主のティーナが準備したのは飲み物とサンドイッチのパン、ソーセージだけ。野菜サラダ、デザートのパイは何人かの持ち寄りである。なんと金のかからない、簡単で質素なアメリカの田舎の葬式かと、心に残る。葬式の費用で頭を悩ます日本人に見せたい。 もちろん、香典を包む習慣もない。以前、日本人の習慣の抜け切れないフリムン徳さんは、二度ほど、知り合いの白人が死んだ時、10ドルの香典を包んで供えた。しばらくしてから、一つの家族からは「このお金は教会に寄付します」と、もう一つの家族からは「このお金で記念に死んだ彼の好きなカエデを植えます。紅葉したら見にきてください」と返礼の手紙が来た。どうしてこうも日本の葬式と違うのだろう。アメリカの田舎の人は普段着のままで、普段着のままの人を葬式してあの世へ送る。それに比べると日本の葬式は豪華絢爛である。黒の喪服にネクタイ、真珠の首飾り、数え切れないほどの豪華な花輪、おいしいご馳走に囲まれてあの世へ行く。数年前、嫁はんは母親の葬式に喜界島へ行った。その時の葬式の様子を聞くと、喜界島の葬式とアメリカの田舎ブラッドレーの葬式は、大金持ちと超貧乏人の葬式の違いがあるようだ。人間は死んだら、ただの灰か ?バブが生きていた時に聞いたことがある。「人間は死んだら、ただの灰になり、それで終わりだ」と言う。その灰も、「郵便小包で送ってくれるよ」と言う。バブとアルビラの夫婦は、死んだら、焼いて灰にして郵便小包で送ってくれる会社と契約をしていた。一人約2400ドル(19万2千円)で、アメリカのどこで死んでも焼いて灰にして、箱に入れて郵便小包で送ってくれる。 アルビラが死んで、しばらくして、バブと二人で、郵便局へアルビラの灰の小包を受け取りに行った。バブは、アルビラの灰の入った箱を無造作に車の後のトランクに入れようとするではないか。「バブ、ちょっと、待ってくれ」とフリムン徳さんはバブからその箱を取り上げて、丁重に膝に乗せた。「日本では丁重に抱いて持ち運び、花、線香、ろうそく、酒を供えて、拝むのですよ」と言うと、「死んだら、灰と同じ、生きていた時の思い出だけが大事」とそっけない。アルビラは白人の中で、フリムン徳さん夫婦に最も親切だった。フリムン徳さんは感謝の気持ちでアルビラの箱を撫でながら眺めた。ふと箱の底に目が行った。メイドインチャイナ。中国はアメリカ人の灰箱まで作っている。そのうち、中国はアメリカ人の子供までつくるかもしれない。アルビラは、生きていた時、「教会の裏の墓地に埋めてくれ」と言っていたのにと言うと、バブは、「死んだら、もう関係ない」と自分の行くモンターナに持って行った。バブだけではないようだ。フリムン徳さんがシアトルの山の中に住んでいた頃、近所の白人のおじさんはもっと変わったことをしていた。ある日の夕方、うちで二人ビールを飲んでいた時、自分の車の後のトランクを開けて見せてくれた。30センチ真四角ほどの木の箱である。「これは、私の妻。埋める墓地を買ってないのと、預ける金がもったいないから、自分が死ぬまで、こうして車のトランクに入れて持ち歩く」先祖代々のウヤフジ(ご先祖)を大事にする日本、死んだら、終わりだと考えるアメリカ人の違いは大きい。「死んだウヤフジを拝まないで何を拝むのか」と聞くと、キリスト様を拝むのだという。フリムン徳さんは死んだごウヤフジに、「エッセーの達人にしてくれ」と毎晩拝んでいる。葬式の違い、死んだ人への思いの違いは宗教の違いによるようだ。 フリムン徳さんの葬式は明るく、楽しくやろう!!幼い頃をゆかいに過ごした、懐かしい喜界島の同級生に囲まれて、普段着のままで、島踊り、島唄、朝花、どんどんしぇー、徳之島ツッキャリ節、六調で、口笛を吹きドンちゃん騒ぎをして欲しい。フリムン徳さんは、晩酌を減らして、葬式のドンちゃん騒ぎの費用に金を貯め始めようと思っている。でも、みんなの足腰が元気なうちに、フリムン徳さんも元気なうちに、葬式をやりたい。 フリムン徳さん
2011.04.04
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「テレビを持っているよ」 「難儀なテレビやなあ、また映らへん」が1週間に何日も続く。私達はテレビを見ないで聞いていた。テレビじゃなく、ラジテや。周りに日本人はいない。アメリカ人と牛馬ばかりの村ブラッドレーに住んでもう13年経つ。海抜300メートルで、テレビの映りが悪い。それもアメリカのテレビ局1局しか映らない。サンルイスオビスポのKABC6チャンネルだけだった。風が吹いたり、雨が降ったりすると、画面でもザーザー雨が降る。ひどい時は雨じゃなく、雪が降ったように白くなり、テレビが見えなくなる。でも声はよく聞こえる。その声が日本語だったら、辛抱できるのになあと思ったりもする。 ここに 住み始めた頃は、映りが悪くなると、外に出てアンテナの方向を変える難義をしながら、ほとんど意味のわからないアメリカのテレビ番組を見ていた。テレビのアンテナの方向を直すには二人の人間が要る。私が外のアンテナを動かして、「どうや、これで、よう、映るか」と大声でわめくと家の中の嫁はんが「アカン、もっと、右や。もう一度やり直しや」とわめき返す。また心の中での思い思いの喧嘩が始まる。わめき合ってからのテレビを見るのはそう楽しくない。とうとう、5、6年前からテレビを見なくなってしまった。私達夫婦は、今の世の中アメリカでテレビを見ない貴重な人間かも知れまへん。テレビがない私達夫婦の情報源はロスから来る3日遅れの『羅府新報』だ。大体2、3日分まとまって、3、4日遅れで来る。“♪3日遅れ~の便りが”ロスから来るのである。都はるみの伸びのある声に乗って、ロスから『羅府新報』が伸び伸びになって来るのである。近くのハイウゥイG18の横に立ててあるメールボックスを開けて『羅府新報』があると安心する。でも、なぜか開けて見るのは他の郵便物が先だ。新聞は、後でゆっくりと、腰を下ろして読む。ピザの周りの硬い皮を先に食べて、一番おいしい真ん中を最後に食べる。いや、私の場合は、昔、喜界島で大好きだったオメトおばあさんが飼っていた村一番大きかった豚に似ている。おいしいものは最後に食べるのである。 テレビは日本の娯楽ビデオテープを見るためのものになった。ビデオテープはアメリカや日本にいるフリムン徳さん応援団(私がフリムン徳さんの波瀾万丈記を文芸社から出版してからできた応援団)が送ってくれた。ロスの親友で死んだ志保やレストランの大将の嫁はん(悦子さん)は3年以上も月に何回もどっさり送ってきてくれた。池原とし子さん、井手尾さん、山本リンダさん、シアトルは井上さんが送ってくれた。忘れた方もいる、お許しください。私の応援団は親切な人ばかりや。これもウヤフジのお陰です。 テープを見るのは1回だけやない。2回も3回も次のテープが来るまで繰り返し同じテープを見る。うちの嫁はんは“ウルルン”が好きで、もう50回以上は見ていると思う。テープが切れないのが不思議なくらいだ。でもテープにも寿命がある。もうほとんどのテープが早送りの状態になって映る。それでも、「これでもか、これでもか」と嫁はんは声を頼りに見続ける。見慣れたテープだから、声が聞こえれば画面が雨になろうが、雪になろうが、早送りになろうがどうでもええ。画面は頭の中に映っているのや。贅沢ゆうたら、アカン。ここはアメリカの山の砂漠と呼ばれるブラッドレーや。ふた月か三月に1回、ロスの井手尾さんの家に行く。その時は、日本語テレビを夢中になって食い入るようにして見る。アメリカに住んでいて、日本の様子がその日に見られる。なんと便利な世の中かと、その次は言葉のわかる日本語テレビに、山の中に住んでいる田舎者は感激してテレビに感謝している。そんな時はいつも日本語のテレビが欲しいと思う。でもその反面、アメリカに住んでいて、何で日本のニュースを見る必要があるのかと考える時もある。でもどの国に住んでも、日本人はやっぱり日本人である。アメリカに住んでも、東京、大阪に住んでも、喜界島の人はやっぱり島ヌツッである。 そんな私がとうとう欲望に負けて、日本語テレビとアメリカテレビのケーブルを3週間前につけた。ニューヨークからのジャパンテレビと40のアメリカチャンネルが映って、月51ドルほど払わなければならない。もう、画面に雨も降らないし、雪も降らない。早送りの画面でもない。総天然色で、立体映画みたいや。日本人の肌色がきれい。白人みたいに色白になっている。ほんまは白いご飯を食べる日本人が色白で、焼いたパンを食べる白人が色黒になるような気がするが、自然のなすことはわからんことが多い。化粧の技術がうまくなったのか、見る人の心まで明るくする。もう、いちいち外へ出てアンテナを調節する必要もない。知り合いのアメリカ人が来たら、「私んとこにはテレビがあるよ」と冗談半分で言う。金持ちになった気分だ。世の中金を出せば、贅沢できるのだ。金や、金や。 ところが、あれだけ、見たかった日本語テレビなのに、1日2日も見たら、もう飽きてしまった。今思えば、井手尾さんの家では、あまり面白くない子供番組まで、夢中になって見ていたのに、いざ自分の家で日本語番組がいつも見られるとなると、もう見るのに飽きてしまった。人間は欲しくてたまらずやっとの思いで手に入れたものでも、いざ手に入れてしまうとやがて飽きがくる。好きでたまらず、まぶしかった恋人でも手に入れてしまうとそのうち飽きてしまう? ところが、飽きるのはわかっていてもどうしても買ってしまう。そしてその支払いのために一生懸命働く。これを人生の無駄と言うのか。この無駄をなくすために、「事業仕分け」や「人生無駄なくし教育」が必要なのか、フリムンの徳さんにはわりまへん。フリムン徳さん
2011.04.04
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「生き別れのバックミラー」 ?アメリカではお馴染みの引越トラックレンタル会社“ユーホールトラック“の助手席から八十一歳の痩せた老人がゆっくりと降りた。大きな牧場は見渡す限り灰色の絨毯が敷かれているように見えるが、山の砂漠と呼ばれるこの辺りの乾燥した灼熱の暑さで、牧草が灰色に枯れているのである。痩せた老人と灰色に枯れた牧場の草は何か物悲しい。老人は緑のない大きな牧場の鉄柵のゲイトを重そうにゆっくり押しながら閉めている。 このゲイトを閉めるのは、もうバブの人生で最後なのである。五十年以上も開けっ放しの大きなゲイトである。腕時計を見たら午後十二時半。“今日は九月十一日か”とふと思い出した。ニューヨークで起きたテロ大惨事も七年前の九月十一日であった。大惨事と同じ九月十一日、私には忘れられない日になりそうである。ここは私の住んでいるカリフォニア・モントレー・ブラッドレーのすぐ隣村、ラックウッドゥという大きな牧場ばかりの村である。どうして、運転席に乗っている長男のグレンがゲイトを閉めないのだろう。プロレスラーみたいにがっしりした大きな身体のグレンに何か起きたのだろうか。私はそう思ったが、すぐに考え直した。アラスカから引越しの手伝いに来ているグレンは自分が閉めないで、心臓にペースメーカーを入れている病身の父親にわざとさせているのに違いない。別れの家の最後のゲイトを閉めるのは父親のバブなのである。グレンは味なことをやるなあと思った。まさにこれは優しい息子の父親に対する優しい思いやりの光景である。こういう光景は簡単にパチッとカメラで撮るんじゃない。ゆっくりとキャンバスに、絵として描きたい。また、重いゲイトを閉めている痩せた老人、その風景を描いている人も入れての構図がもっと美しい情緒の出る光景になるような気がした。いつの日か、遠いシアトルにいる私の息子のデールが同じことをやる光景も瞼にだぶった。?「ラックウッドゥのこの住みなれた家で、死ぬまで一人でいる」とバブは日頃口にしていた。歳をとると世の中そう思い通りにはいかない。三ヶ月前までは最愛の妻アルビラがいた。「私が死んだら、モンタナにいるあんたの娘のティーナのところへ行きなさい」はアルビラの口癖だった。掃除、洗濯、料理、すべての家事はアルビラがしていた。アメリカの男はたいてい料理ができるのに、バブは料理ができなかった。そんな彼を残して、アルビラは三ヶ月前の六月四日に白血病で死んでしまった。八十一歳のバブは八十四歳になるアルビラの手をいつも握り、寄り添うように生きていた。アルビラには絶対服従だった。アルビラという王女様に仕えている風でもあった。 バブは頑固だった。「モンタナで一緒に住もう」という娘ティーナの誘いも強引に断り続けていた。死ぬまで、アルビラと住んだラックウッドの思い出多い家で生きたかったのだろう。?バブとアルビラは私と嫁はんの恩人でもある。日本人が一人もいない、アメリカ人だけの山の砂漠と呼ばれるブラッドレーに私達が十二年間も住めたのは彼らの親切のお陰である。人間よりも牛の数が多い、仕事の少ないこんな山の中で、英語のできない嫁はんに“ハウスクリーニング“の仕事を沢山探してくれたのもアルビラである。そして、私が自分の家の建築中に倒れ、身体障害者になり、一時、家の建築が出来なくなった時に助けてくれたのはバブであった。だから私達は、いつかは彼らに恩返しがしたいと、思い続けていた。アルビラの死で、その恩返しの時がきた。アルビラの死後、私と嫁はんは毎日、晩御飯時、バブの家へ料理を持って行ったり、下手な英語で、話し相手をした。「今日は何を食べたか、今日は何をしたか」の同じ会話の毎日だったが、アルビラを亡くしたバブは毎日私達の訪問を待ち望んでいた。淋しくてたまらん毎日のようであった。料理を作れない彼は、ほとんど、薄いビスケットにチーズを挟んで食べるか、ビーンズのスープばかり。痩せていくのが目に見えるようであった。その次は物忘れがはじまった。約束の日を忘れる、今日は何日か、何曜日かを忘れ始めた。もうこれでは一人では生活できない。パンをオーブンに入れたのを忘れて、真っ黒焦げにするようになった。私と嫁はんの手に負えなくなってきた。モンタナの娘のところへ行かせるしかない。ついに私とモンタナに住むティーナと二人でバブをモンタナへ引越しさせる芝居を打った。「モンタナのティーナの増築中の家が完成したから見に行こう」、行き渋る彼を説得した。ここカリフォニア・モントレーのラックウッドゥから、カナダと国境を接するモンタナは遠かった。私と嫁はんとバブの三人はモンタナへ二泊三日かけて車で行った。ティーナが隣近所の人や友達を集めて公園のような緑の芝の庭でバーベキューをしてくれた。ほとんどの人がカリフォニアから引越してきた人達だった。彼等が私達に口をそろえて言った言葉は「カリフォニアに帰ったら、モンタナは住みよい所と言ってくれるな」だった。モンタナの自然も気候も住民もよかった。アメリカにこんなにも住みよいところがあるかと私達は思った。第二の人生の夢の国のように思えた。着いた次の日に信じられんことが起きた。あれほど、自分はラックウッドゥで死ぬと言っていたバブの心が変わった。「私はここへ引越してくる」と言い、すぐに不動産屋へ行き、娘の近くに一軒の古い家を見つけて現金で買ってしまった。「自分の傍で親の最後の面倒をみたい。私の人生の一番大きな夢が叶った。私のアメリカンドリームが叶った。」と一番喜んだのは娘のティーナだった。「トム、ハツミ、あんた達二人のお陰」と大粒の涙を流して、私と嫁はんを抱きしめた。ティーナと私の芝居は成功裏に終わったのである。アメリカ人と日本人の友情が、言葉という壁、国という壁を乗り越えて実り、胸の奥にも熱い涙が流れた瞬間であった。もうそこには日本もアメリカもなかった。ひとつの家族であった。私達三人がラックウッドゥに帰ると、折り返し、ティーナと旦那のスティーブがモンタナから、そしてアラスカから長男のグレンが来て引越しの準備をした。 引越し荷物を積み込んだトラックより先にゲイトを出た私は、牧場の中の未舗装の一本道の横に私の車を止めて、バックミラーでバブがゲイトを閉める様子を見ていた。「バブが長年住んだ家を出るのを私は見届ける」と私は彼らに言っていた。引越し先のモンタナは遠すぎる。もうバブとは生きて会えないような気がした。バックミラーに映るバブの姿を見ながら、私はこれがバブとの“最後の別れ”という言葉じゃなく、“生き別れ”という言葉が似合っているような気がした。この“生き別れ”という言葉を私は三日前に思いついた。バブ、私の嫁はん、私三人で同じ教会のメンバーの親しいジムに会いに行った時だった。四十二万坪の大きな牧場に牛を十頭ほど飼いながら、女友達のルースと自分の家に住んでいる。カーボーイ老人のジムの顔色は青白かった。ジムは一週間前に腸癌の手術をして、病院から家に帰ってきてまだ四日しか経ってない。バブがモンタナへ引越しするから、ジムの病気見舞いと最後の別れに来たのである。 ルース、私の嫁はん、私、ジム、バブ五人はキッチンの丸いテーブルに座った。足の悪いルースはよろよろ歩きしながら、アイスティーを五つ、氷の入ったコップに入れ始めた。嫁はんは、すぐに椅子から立ち上がり、ルースの手伝いをした。こういうことは嫁はんは慣れている。毎日曜日の教会の礼拝後のキッチンホールの座談会で、キッチン仕事は嫁はんがやっているからである。 「砂糖が入ってないアイスティーねえ」と嫁はんが言うと、ルースは、多くのアメリカ人はアイスティーに砂糖は入れないと言う。私は、コーヒーに砂糖を入れないで飲むアメリカ人、コーヒーに砂糖を入れて飲む日本人の習慣の違いを思いながら、二人の老人の会話を聞いた。向かい合って昔話をする病身の青白い顔色のアメリカ老人二人には何か淋しさが漂う。もう二人とも後、四、五年しか生きられないかもしれない人生なのである。心臓にペースメーカーを入れた八十一歳のバブ、癌の手術を終えたばかりの八十八のジムの最後の別れのシーンなのである。これでジムとバブは生きていても、もうおそらく会えないだろう。この時に私は“生き別れ”という言葉が思い浮かんだ。“生き別れ”という言葉には“最後の別れ”という言葉よりも強い寂しさが、含まれているように思えた。さらに寂しさを強くしたのは、何の料理もない、アイスティーの入った、たった五つのコップだけのテーブルだった。アイスティーだけでの生き別れである。生き別れのアイスティーである。昔のカーボーイ映画に出てくるカーボーイの別れのシーンを思い出した。バブの引越トラックを見送ってから、家に帰ると、嫁はんと私は何も口を利かなかった、利きたくなかった。心の中に崖崩れが起きたような気がして、ただ淋しかった。その次は車の窓から手を振っているバブの手がバックミラーに映っていたのが思い出された。「今度の日曜日は教会へ行かない。リーモアのインディアンカジノへ行って、二セントのスロットマシンで思い切り遊ぼう。これがバブと“生き別れ”の儀式だ。」嫁はんの口からは何の返事もなかった
2011.04.04
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「さようなら、おおきに、ありがとう」 人間でないあなたに“あなた様”と様をつけずにはおられません。「もう、あなた様は今月でこの世から消えてしまわれます。本当に長い間、おおきに、ありがとうございました。」人間との最後のお別れでしたら、こんな風に言えるかもしれません。でも、あなた様は人間ではありませんから、いい別れの言葉が浮かんできません。フリムン徳さんの気持ちをお察しください。 あなた様は、フリムン徳さんの第2の人生の恩人でした。フリムン徳さんの第2の人生を目覚めさせてくれました。59歳の働き盛りで病に倒れ、26年間も続けていた大工仕事ができなくなり、ベッドの上で人生をさ迷っていた頃、ある友人から薦められたあなた様を読み、癒され、励まされ、疲れたらアメリカ特有のただ白いペイント塗りの天井を頭の中が真っ白くなるほど見つめ、我が人生を嘆いていました。 今は違います。元気になり、椅子に座って、四角い大きな窓から外の景色を眺めて、思案にふけっています。頭を掻きながら、毎日、文章の書き方の勉強に頑張っているのであります。そうです、フリムン徳さんはあなた様を読む立場から、あなた様に掲載してもらう文章を書く立場になったのです。読む人間から読まれる人間になりました。元酔っ払いの大工らしい言い方をすると、酒を飲んで酔っ払う人間から、酒を造る酒造元になったのであります。名前を付けるとすれば”フリムン酒造”です。 フリムン徳さんが、初めてあなた様に掲載してもらったのは2003年10月号(342号)“特別寄稿「やればできる」上園田徳市”でした。力仕事の出来なくなった大工が、鉢巻を締めて、「力を使わず、人を使わず、金を使わず、頭を使って」我が家を建てた内容の文章だったと思います。あなた様は、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、文章の“ぶ”の字も知らなかった大工の文章を載せたことだと思っています。あれは文章でもない、漫画でもない、その中間の“漫文”だったと思います。フリムン徳さんには夢みたいな出来事でした。人間、還暦になってからでも花が咲くようです。人生諦めてはあきまへん。それこそ、生まれ故郷喜界島の百の台で逆立ちして、島中を見回したいほど、うれしいことでした。“この大工は家も建てれるが、文章も書ける”と鼻を高くして、友人知人に電話をしまくり、何度、嫁はんに怒られたことか。懐かしい思い出です。あれから7年、あなた様はずーっとフリムン徳さんの“漫文”を掲載してくれました。あなた様に恥を欠かせないよう、頑張りました。文章を書くことは趣味ではない、仕事や、もう私には書くことしかないと心に強く、言い聞かせながら、頑張りました。文章を書けない時は頭を掻いて頑張ってきました。 特に、文章の書き出しには注意しました。今は新聞、雑誌、チラシ広告、コンピューターなどの立派な文書の溢れた社会です。大工の私の書いた文章なんかに目が行くはずがありません。だから最初の1行2行で目を引く文章を書くのに努力しました。「何々をした、どこどこへ行った」から書き始めるのではなく、「何々をして最初に何を感じたか、どこどこへ行って何を感じたか」「そう感じて何をしたか」。7年経ってようやく、こんな書き出しもできるようになりました。大工時代には経験しない努力もしました。「何を伝えたいか、何を書きたいか」を肝に銘じながら、文章の中に山を作ったり、谷を作ったり、短い枝を書いたり、長い枝を書いたり、笑いを入れたり、泣きを入れたりして書く工夫もしています。疑問→答え→疑問→答えの順で文章を綴っていくと読みやすい文章になることも少しわかってきました。モノを注意深く観察して、正確に書くことも、それから、物事を深く、深く考えたら、いい考えが浮かぶことも解りかけてきました。 文章の書き方の勉強を続けたお陰で、身体つきも変わりました。特に腕と頭が変わりました。あの筋肉隆々だった大工の太い腕から筋肉がなくなり、他人の腕ではないかと疑うほど細い腕になりました。嫁はんと重たいのを一緒に運んでいる時、「どうして、こんな軽いのがもてないの」と言われると、”箸より重たいのは持てまへん”を感じます“ “俺はモノ書きの端くれになったのだ”と自分に言い聞かせているのであります。頭は黒い毛が白い毛になり、光りだしました。歳の所為もありますが、文章が書けないと頭を掻くからだと思います。禿げ頭の光りが増すと共に、脳が大きくなった感じもします。脳が大きくなった感じは酒を飲んで酔っ払い、気持ちが大きくなる、あの感じに似ているような気もします。人間の身体は使う部分は大きくなり、使わない部分は小さくなる、本当だと思います。 7年間で、大工の徳さんの心身を変え、物書きの端くれにしてくれ、少しだけ有名にしてくれたあなた様はアメリカで数少ないの文芸月刊誌のあの誇り高き“TVファン誌”です。もう一度、おおきに、ありがとうございました。 “さようなら、さようなら” 今年はサンフランシスコの「日米タイムス」「北米毎日新聞」「ラジオ毎日」と3社が続けてなくなりました。寂しい限りです。もう、アメリカにはロスアンジェルスの羅府新報とシアトルの北米報知だけになりました。この不景気で、広告が取れなかったことと、日本語の活字を読む1世の日系人愛読者が老齢で少なくなったこと、日本語のテレビが増えたこと、コンピューター、携帯で日本とのやり取りが簡単になったことだと思います。サンフランシスコの日本語新聞、ラジオがなくなって、フリムン徳さんが困っているのは、サンフランシスコでの日系人の催し物、死亡広告がなくなったことです。日系新聞は昔、仏教徒が仲間の死亡を知らせるために始めた新聞と何かで読んだことがあります。もう日系人の死亡を知る方法もなくなりました。人間も猫に近くなりそうな気がします。今からの世の中、人間も猫のようにいつの間にかいなくなって、知らないうちに死んでいなくなる時代になりそうです。 人間の値打ちが下がり始めているようです。 フリムン徳さん
2011.04.04
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「二日酔い」目が覚めましたんや頭がフラフラでんね周りが、なんや、ボーっとしてまんねや頭が何かに叩かれて、ボヤーン、ボヤーンと鳴っているわ気分が優れまへんのや何もしとうない気持ちやベッドから起きるのが嫌やねんでも起きんとあきまへん仕事があんのや会社があんのや何で、飲みすぎたんやろうか嫌なことがあったんやろうかほんまに嫌なことがあったんやろうか楽しいことがあったんやろうかほんまに楽しいことがあったんやろうかでも、もう遅いわ会社に行かんとあかんねん会社に行かんと飯食われへん人生はこんな朝から始じまんのや洗面所に行って、顔を洗いまんね両方の頬っぺたを二度づつ叩きまんねまだ、自分が他人のようでんね歯を磨きます鏡に向かって、ニャンと言ってみます。だめですわ今度は、わんと吠えてみますやっぱりだめですわ二日酔いの薬パンシロンのことを考えまんね 足をもたつかせながら、ズボンをはきまっせー言うとおり利かない指で、ワイシャツのボタンを閉めまっせー少しでも酔いを覚まそうと、頭を叩きまんね頭を鉢巻で絞める代わりにネクタイをきつめに締めまんがな最後にズボンの希望の窓のチャックを閉めなおして、ポンと叩きます会社の上役や、仲間の目が自分に集中している場面が、浮かびまんねでも、会社に行かんとあきまへん思いっきり、シャンとした顔で、皆さんに「おはよう」と言いまんね別の自分が仕事をしている感じでんね思いどうり仕事がはかどりまへんいつもよりミスが多いわ「ちょっと、トイレ」と言って、トイレへ行きますトイレには座りまへん鏡を見るために来ましたんやまたボケた顔をしていますわ昨夜の飲み屋の女の顔が浮かんでくるわこのボケた顔、気分を直すためにやはり今夜も飲みに行きまっせー会社というものが悪いのか世の中の仕組みが悪いのか酒というものが悪いのかフリムン徳さん
2011.04.04
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「信号機と酒盛り」 人間は人間に絶対服従しないのに、赤、青、黄の信号機には絶対服従する。 フリムン徳さんの家の中に信号機があるようだ。この信号機はいつもフリムン徳さんに赤青黄の点滅信号送っているなあとうすうす感じていた。フリムン徳さんが病で倒れ、大工仕事ができなくなり、年金で生活するようになり、収入が少なくなったこの頃は、ゴーの青色信号がほとんど出ない。 少し変わった信号機のようである。あれをしたい、これをしたい、これが買いたい、これを飲みたいと言ってもゴーの青色信号が出ない。結婚して間もない頃は、黄色と赤色のない青信号だけかと思われるほど、青信号を出した信号機だったのに、長年経ち、収入が少なくなるとこうも変わるのだろうか。ひょっとしたら青色の電球が切れているんじゃないかと思うことさえある。 ところがこの信号機にゴーゴーの青信号がつきっぱなしになった。信号機の故障ではない。嫁はんが孫のベビーシッターで、2週間シアトルへ行った。その間は赤色、黄色の点滅もない。いつでも前へ突き進めるゴーの青色である。好きなことができるのだ。好きなものが買えるのだ。好きなものが飲めるのだ。自由になったのだ。そう思うと、肩から重たい荷が降りた様な気がして、身軽になった。ルンルン気分とはこんなものか。サンノゼの空港から、飛行機がシアトルへ飛び立ったのを見届けたら、信号機はもうなくなった。 まっすぐ、サンノゼの日本食料品店「みつわ」へ直行した。いてまえ!! いてまえ!! 酒だ、肴だ、日本酒を買うのだ。こんなうれしいことがあるかいな。私の住んでいる山の中のブラッドレーでは、刺身になる魚がない。たまに近くのアメリカマーケットで刺身になりそうな魚が並んでいるが、刺身で食べるには勇気がいる。アメリカ人は火を通して食べるから、多少魚が傷んでいて、臭いがしてもいいのだろう。でも私は刺身で食べるから、傷んでいてはいけない。どうしても欲しい時は、店員さんにその魚を指差して、「臭いを嗅がせてくれ」とその魚を鼻に当て、臭いをかぐ。すると、店員さんは「こんなお客は始めて見た」と書いた顔の変な目で私を眺め倒す。えらいすんまへんけど、私は魚を生で食べて生きてきましたのです。 みつわマーケットは新鮮な魚がいっぱい売っている。サンノゼやサンフランシスコへ行く時、たまに寄って日本食良品を買う。今日の私の目標は日本酒としめ鯖である。もちろん、私の身体には日本酒も鯖もよくない。どちらも医者から禁止されている。痛風には鯖と牛肉が一番よくないのだ。こんな時に医者の言うことなんかきけるかい、嫁はんの言うこともきけるかいな。何年振りかに来た民主主義の時である。自由の時である。鯖を酢に付け、酢味噌で食べたら、舌がとろける事まちがいなしや。 サンノゼを出て家に着いたのはもう夜の10時を過ぎていた。日頃は寝ている時間なのに、今日は目が冴えている。買ってきたしめ鯖を、うきうき鼻歌気分で、“酒飲むな、酒飲むな、のご意見なれーどーーー”口ずさみながら、刺身に切った。何回も水洗いしてから、5分もしたら、もうOKだ。若い頃、鯖にあたり、蕁麻疹になり、目が開かないほど顔が腫れて、仕事に行けなかった経験がある。それでも鯖が大好きである。漁師だった野上政平おじいちゃんが「鯖の生き腐れ」とよく言っていた。鯖は身体の一部が腐っていても泳いでいるらしい。鯖は血に毒があるから、血の気がなくなるまで何10回と、水洗いをして、血を洗い落とす。それから、刺身に切って、酢に付けて思い切り唐辛子の利いた酢味噌で食べるのである。小さい時から食べつけたこのおいしい鯖の味が忘れられるかい。 鯖を肴に夜明けまで一人で飲み明かした。いつ寝たかも覚えていない。カーテンの隙間から差し込む眩しいお日さんの光で、目が覚めたら、昼の12時を過ぎていた。また酒を水代わりにして飲んだ。また鯖が肴である。酒漬けの二日目の夜が来た。二日連続で飲み続けると、どうも身体がおかしくなり、様子もおかしくなった。いつも傍で点滅している黄、赤の信号が点滅していない。目を半分閉じた状態で、周りを見ながら、よく考えてみると、もう、嫁はんはシアトルへ行っておらんのだ。なんだか寂しい、なんだかもの足りない。赤でも黄でも、何でもいい、おるものがおらんと寂しい。 もう、身体がしんどい、頭が痛い。頭の中から、痛い、痛い、と赤色が点滅して電波が出ているみたいだ。歩こうとしたら、まっすぐに前に進めない。これは、えらいこっちゃ。嫁はんが傍におらなくても、酒を飲みすぎたら、赤信号は点滅する。でも、飲みすぎて、痛い、痛い、と頭の中で点滅する赤信号よりは、傍で点滅する嫁はんの赤信号がよっぽどいいと思った。フリムン徳さん
2011.04.03
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「ディス・イズ・アメリカ」 フリムン徳さんの息子は大学卒業証書と一緒に嫁までも大学からもらってきた。アメリカの大学は勉強するだけのところではなさそうである。フリムン徳さんはあまり気に入らない嫁だったから結婚に反対した。彼女が初めて家に来た日、うちの嫁はんが料理の手伝いを頼んだ。気が利かない、トロイ、不器用や。おどおどしながら、時々きれいな白い歯を出して笑おうと頑張っている。息子は彼女のきれいな顔だけに惚れたようだ。株式会社「上園田家」のマニフェストに“立派な嫁の見つけ方”がなかったのを悔やんでいる。喜界島で農業、アメリカで建築業を営んできた株式会社「上園田家」の嫁として頼よりなさそうであった。彼女は親の面接試験では不合格だった。 嫁はんと私は、息子のこの結婚に猛烈に反対した。「あんな嫁をもらったら、お前は苦労するぞ」。「どうか日本語のわかる日系の嫁をもらってくれ」。この二つを株式会社「上園田家」のマニフェストにして頑張った。さらに、マニフェストに付け加えた。「私達、親が死んでも、お前とお前の嫁には財産はやらない」とまで脅した。 でも私達は息子に敗北した。悲しそうな顔をして、言いにくそうに、片言の日本語で、背の高い息子は嫁はんと私を見下ろしながら言う。「もう彼女のお腹にはベイビーがいる」。親の私達はどうすることもできなかった。“もう彼女のお腹にはベイビーがいるんだ。私達の血を引く孫がいるんだ。” 気に入らない嫁だけど、「ベイビー」という言葉を「孫」に置き換えた途端に、この結婚に反対することができなくなった。続けて、息子は英語と日本語をごちゃ混ぜにしながら、殺し文句を言いよった。「パパ、俺と彼女には財産は要らない。遺書に、孫にやると書いたらいい。」参りましたんや。私達は孫ができる前に、「じじ・ばばバカ」にさせられた。 隣の家の娘ステファ二ーの場合も似ている。中学校、高校のころは両親の言うことをよく聞く、おとなしい、賢い娘だった。ところがその彼女が大学に入ってから大「変身」した。唇には穴が開きリングがぶら下がった。新しい男友達もできた。おまけにその彼は小さな二人の子持ちだ。それを聞いたステファニーの両親は仰天した。当分の間、娘に電話も会いもしなかった。 ようやく諦めて、平静な気持ちになった両親はある日、大学のある町へ娘とその男友達に会いに行った。そこには二人の子供に囲まれ幸せそうな娘の姿があった。そして、子供のかわいらしさに心を奪われた。次に娘に会いに行った時は、二人の子供ともども川でボート遊びを楽しんだと言う。まだ経験したことのない、おじいちゃん、おばあちゃんの役割を味わった。まだ結婚をしてない娘は大学に行きながら、母親の勉強もしていると目を細めて言う。 アメリカでは離婚するのも再婚するのも朝飯前。一度離婚してから再婚するとどちらもやさしく、辛抱強くなるという。そして、再々婚も多いし、再々々婚もある。三度目の結婚は “まあ、なあ” と受け取られるが、四度目になると “ちょっと”がついて、“まあ、ちょっと、なあ”という具合になる。こうなってくると、いちいち親が子供の結婚にかまってはいられない。どうしても子連れの再婚も多くなってくる。 そして、おじいちゃんとおばあちゃんは、息子や娘の結婚やその相手には気をもみながらも、孫とは親密になっていく。血を引いていなくても孫は孫。かわいくてたまらず、目に入れても痛くないと思うようになる。結婚は本人同士がするもので、ジジババは孫と結婚する感じである。 “孫”という字はダイヤモンドよりも、自分よりも大事な魔法の字のようである。息子から送られてくる孫の写真を見るたびに、会いたくなってたまらない。そのうちアメリカの大学を卒業すると、卒業証書と、嫁とベイビーまで授与されるようになるかもしれない。大学からもらってきたベイビー、いや孫は賢いに違いないと思わなければならない。でも私はこれが「ディス・イズ・アメリカ」と思うようにしている。 フリムン徳さん
2011.04.01
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「社長交代」 腹が立ちますけど、腹が立てられまへん。相手が強いから。泣きとうなりますけど、泣けまへん。男だから。悔しいけど、どないにもできまへん。身体がいうことを利きまへんから。 フリムン徳さんは26年間、ロサンジェルスやシアトルで大工をしていたのですが、身体を壊して、大工仕事が出来ない身体になった。痛風、高血圧、関節炎になったのです。バッドワイザーを飲みすぎましたんです。「ワイはバッドワイザーのアドバイザーや」と語呂合わせのいい言葉を言いながら、毎晩26年間、バッドワイザーを浴びるほど飲み続けた。仕事がうまくいったらビールで祝杯、うまくいかなくてもビールで憂さ晴らし、疲れたらビールで疲労回復、何か面白くないとビール様。「胃が食べ物を食べるのではない、仕事が食べ物を食べる」と誰かが言っていたのを思い出すと、次は「ビールは胃が飲むのではない、その時の気分が飲む」と自分で作った名文句を心に言い聞かせながら飲んだ。その酒の肴がまた悪かった。「しめ鯖でんね」。このしめ鯖を肴にしての、バッドワイザーでの晩酌は疲労回復の薬リポビタンどころか、世の中で一番よく効く疲労回復の薬でした。「ビール、鯖、ビーフは痛風の元、酒は糖尿病の元」。痛風で入院させられて、医者の言った言葉は当たっていました。医者はよう知っている。 レストランの友達は、料理の仕方で、「マグロよりもハマチよりも旨いのは「鯖や」と言っていた。私はアノ言葉に惚れていました。でも倒れてから3年、鯖は辛抱していましたが、この頃、ひと月かふた月に一回、また満腹食べる。知り合いがロスアンジェルスから作って持ってきてくれる焼き鯖寿司が旨い。人に分けて食べさすのが惜しいほど美味い。人生短い、好きなものを食べずに暮らすのは惜しいと思いながら、また鯖を食べている。 フリムン徳さんの痛風、関節炎は膝が痛くて、曲がらん。正座も出来ない。おまけに、力が出なくて重たいのが持てん。 今は嫁はんの方がはるかに私より力が強い。歩くのも早い。重たいものを運ぶのは一人では出来なくなった。嫁はんの力が必要なのです。大工でしたから、家の建て方も重たいものの運び方もよく知っています。でも頭で知っているだけではだめなのです。力がないとだめだとよくわかりました。 嫁はんと一緒に、ベッドの大きなマットレスを運ぶ時なんかは大変です。フリムン徳さんは歩くのが遅いから、嫁はんが先を持ち、後を持って運ぶのですが、それが大変なのです。嫁はんに引っ張られて、マットレスを落としそうになるのです。だから、歯を食いしばって、足元に力を入れます。そうすると歩くなるのが遅くなるのです。「どうしてもっと、ゆっくり歩いてくれまへんのやろうか」と思っていると、「どうしてもっと早く歩けんの」と大きな声で怒鳴るのです。 いつの日かどこかで聞いた言葉です。いつかフリムン徳さんが元気な時に、嫁はんや子どもに使っていた言葉です。怖いです。怖いです。どうしてもっと、優しい言葉で言ってくれまへんのやろうか。今までとまったく逆の立場になりました。怒鳴る大きな声は人間の心をまずくします。子供は親の言葉を真似るといいます。嫁はんは旦那の言葉を真似るようです。 あまり重たいので、落としそうで、我慢できないので、一度下ろして、休ましてくれ、と言うと、しぶしぶ休ませてくれます。休みながら、「どうしてこんなに小さい嫁はんにこんな力があるのか」と不思議に思います。嫁はんの顔を見ると勝ち誇ったような顔をしています。社長さんみたいな顔をしています。 そうです。フリムン徳さん夫婦は社長交代をしたのです。見掛けは元気で大きくても、もうフリムン徳さんは人形男みたいなものです。身体が大きくても、力がなければ、力のある嫁はんに従うべきです。力のある働いて収入のある嫁はんに使えるのみです。ここで私も年金をもらって稼いでいると言うと、もうお終いのような気がするから言いまへん。だから自分の年金のことは禁句です。そして文句を言わずに従うのです。これが家庭平和の根本です。世界平和の一部やと思っています。「社長交代」 1880字 腹が立ちますけど、腹が立てられまへん。相手が強いから。泣きとうなりますけど、泣けまへん。男だから。悔しいけど、どないにもできまへん。身体がいうことを利きまへんから。 フリムン徳さんは26年間、ロサンジェルスやシアトルで大工をしていたのですが、身体を壊して、大工仕事が出来ない身体になった。痛風、高血圧、関節炎になったのです。バッドワイザーを飲みすぎましたんです。「ワイはバッドワイザーのアドバイザーや」と語呂合わせのいい言葉を言いながら、毎晩26年間、バッドワイザーを浴びるほど飲み続けた。仕事がうまくいったらビールで祝杯、うまくいかなくてもビールで憂さ晴らし、疲れたらビールで疲労回復、何か面白くないとビール様。「胃が食べ物を食べるのではない、仕事が食べ物を食べる」と誰かが言っていたのを思い出すと、次は「ビールは胃が飲むのではない、その時の気分が飲む」と自分で作った名文句を心に言い聞かせながら飲んだ。その酒の肴がまた悪かった。「しめ鯖でんね」。このしめ鯖を肴にしての、バッドワイザーでの晩酌は疲労回復の薬リポビタンどころか、世の中で一番よく効く疲労回復の薬でした。「ビール、鯖、ビーフは痛風の元、酒は糖尿病の元」。痛風で入院させられて、医者の言った言葉は当たっていました。医者はよう知っている。 レストランの友達は、料理の仕方で、「マグロよりもハマチよりも旨いのは「鯖や」と言っていた。私はアノ言葉に惚れていました。でも倒れてから3年、鯖は辛抱していましたが、この頃、ひと月かふた月に一回、また満腹食べる。知り合いがロスアンジェルスから作って持ってきてくれる焼き鯖寿司が旨い。人に分けて食べさすのが惜しいほど美味い。人生短い、好きなものを食べずに暮らすのは惜しいと思いながら、また鯖を食べている。 フリムン徳さんの痛風、関節炎は膝が痛くて、曲がらん。正座も出来ない。おまけに、力が出なくて重たいのが持てん。 今は嫁はんの方がはるかに私より力が強い。歩くのも早い。重たいものを運ぶのは一人では出来なくなった。嫁はんの力が必要なのです。大工でしたから、家の建て方も重たいものの運び方もよく知っています。でも頭で知っているだけではだめなのです。力がないとだめだとよくわかりました。 嫁はんと一緒に、ベッドの大きなマットレスを運ぶ時なんかは大変です。フリムン徳さんは歩くのが遅いから、嫁はんが先を持ち、後を持って運ぶのですが、それが大変なのです。嫁はんに引っ張られて、マットレスを落としそうになるのです。だから、歯を食いしばって、足元に力を入れます。そうすると歩くなるのが遅くなるのです。「どうしてもっと、ゆっくり歩いてくれまへんのやろうか」と思っていると、「どうしてもっと早く歩けんの」と大きな声で怒鳴るのです。 いつの日かどこかで聞いた言葉です。いつかフリムン徳さんが元気な時に、嫁はんや子どもに使っていた言葉です。怖いです。怖いです。どうしてもっと、優しい言葉で言ってくれまへんのやろうか。今までとまったく逆の立場になりました。怒鳴る大きな声は人間の心をまずくします。子供は親の言葉を真似るといいます。嫁はんは旦那の言葉を真似るようです。 あまり重たいので、落としそうで、我慢できないので、一度下ろして、休ましてくれ、と言うと、しぶしぶ休ませてくれます。休みながら、「どうしてこんなに小さい嫁はんにこんな力があるのか」と不思議に思います。嫁はんの顔を見ると勝ち誇ったような顔をしています。社長さんみたいな顔をしています。 そうです。フリムン徳さん夫婦は社長交代をしたのです。見掛けは元気で大きくても、もうフリムン徳さんは人形男みたいなものです。身体が大きくても、力がなければ、力のある嫁はんに従うべきです。力のある働いて収入のある嫁はんに使えるのみです。ここで私も年金をもらって稼いでいると言うと、もうお終いのような気がするから言いまへん。だから自分の年金のことは禁句です。そして文句を言わずに従うのです。これが家庭平和の根本です。世界平和の一部やと思っています。 自分の意見が入れられないときは嘘も言いますが、その嘘も見抜いているようです。社長は従業員の嘘を見抜かないではだめです。それから、なるべく負けるようにします。勝つと思っても負けるようにします。社長さんには勝たせないとだめです。そして社長さんは勝たないとだめです。 でもフリムン徳さんは「負けるが勝ち」という言葉を知っています。人間心理では「負ける方に味方する人が多い」という統計の結果もでているようです。 自分の意見が入れられないときは嘘も言いますが、その嘘も見抜いているようです。社長は従業員の嘘を見抜かないではだめです。それから、なるべく負けるようにします。勝つと思っても負けるようにします。社長さんには勝たせないとだめです。そして社長さんは勝たないとだめです。 でもフリムン徳さんは「負けるが勝ち」という言葉を知っています。人間心理では「負ける方に味方する人が多い」という統計の結果もでているようです。フリムン徳さん
2011.03.31
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「男の名前で生きていきます」 ワテはフリムン太郎と申します。姓も名もありますが、ワテは人間様ではおまへん。ワテは様付けで呼ばれなく、チャン付けで呼ばれる猫ちゃんです。ワテのお父ちゃんは、作家の向田邦子が自分の猫に(向田鉄)と苗字までつけたので、その真似をして、苗字がフリムン、名が太郎、とフリムン太郎と名つけたのです。 太郎という男の名前を付けられたが、ワテは雌猫であります。雌猫なのに、男の名前の猫と変わっていますが、毛色も変わってまんのです。シャムネコみたいに、上品な毛色ではおまへん、三毛猫みたいに茶色と白黒でもおまへん。もらわれてきて、生まれて間もない頃は、グレーがかったブルーの、それは珍しい色でしたが、だんだんと大きくなるにつれ、鼠色が濃くなり、生まれてから1年近くの今頃は、とうとう鼠色になってしまいました。鼠を獲る猫が鼠色になった。これは今はやり地球温暖化のせいかも知れまへん、どうかお許しくだされ。 ワテのお父ちゃんも“ちゃん”付けで呼ばれるから猫と思いはりまっしゃろうが、猫ではおまへん。“お父ちゃん”と呼ばれても、ちゃんとした人間様でおます。お父ちゃんの名前はフリムン徳さんと申します。4年前までは、立派な大工の徳さんと、さん付けで呼ばれていたのですが、長年のビールの飲みすぎで4年前に痛風で倒れて、大工仕事が出来ん身体障害者になりました。難儀な男はんです。 ベッドの上で四つん這いになって、文章の書き方を勉強して、「フリムン徳さんの波瀾万丈記」という本を文芸社から出版してからは、フリムン徳さんと呼ばれるようになりました。 フリムンとは喜界島の方言で、常識はずれの行動をする人のこと、大阪弁の(アホ)に似た言葉です。自分ひとりがフリムンと呼ばれるのは淋しい気持ちもあったから、一人でも仲間がおれば心強いと思って、私にもフリムン太郎と付けた様に思います。 ワテに男の名前を付けた理由はそれだけではおまへん。もっと深い理由があったのです。彼は病気で倒れるまではバリバリの大工さんでした。59歳に倒れるまで、26年間、大工仕事とビール一筋にわき目も振らず、わが道をまい進してきた男はんです。お客さんには気を使っても、嫁はんには気を使うことをしなかった男はんです。 ところが病気になってからは、目が覚めて、嫁はんにも他人様にも気を使うようになりました。少し世間様の男はんと同じようになったのです。特に、嫁はんには、今までと打って変わったように、気を使うようになりました。これはえらいことです。大工さんの頃のように、朝、早よう家を出て、夜遅そう、家に帰ってくるのではありません。今は1日中家にいて、コンピューターに向かってエッセーばかりを書いているのですから、息抜きの相手にワテを飼ってくれたのです。エッセイを書きながら、うまく書けない時は頭を掻いていたようですが、私を飼ってからは、「太郎、太郎」とうるさく私をしょっちゅう呼びつけて、撫で回して触るのです。 ある日、ワテハアタスカデーロのペット病院へ検診に連れて行かれました。お父ちゃんは医者にワテの名前を聞かれて、「太郎」と言いました。そしたら医者は「トロですか、おいしそうな前ですねえ」とニヤニヤしながら「トロ、トロ」と呼んでくれました。その医者は寿司が大好きで、サンルイス・オビスポのすし屋さんへ毎週1回寿司を食べに行くそうです。どうも寿司好きのアメリカ人には、「太郎」は「トロ」に聞こえるようです。ワテは、トロか、太郎かどっちを取ろうか迷いました。 ワテは女だから、男の名前よりは魚のトロの方が皆さんに喜ばれるから、ええなあと思いますが、これだけはおとうちゃんが付けてくれた名前ですから、どうにもなりまへん。ワテは1年近くフリムン徳さんと一緒に住んで、なぜ女のワテに男の名前「太郎」と付けたかその理由が分かりました。お父ちゃんはエッセイがうまく書けないと、すぐに、「太郎、太郎」と私を呼びます。1日中、朝から晩までです。そうしたら、私も「私はひょっとしたら男かもしれない」と錯覚しそうになる時があるのです。私の場合はそうです。ところが徳さんの嫁はんにしてみれば、また違う受け取り方をするはずです。 たとえば、私の名前が女の名前で、「愛子、愛子」と徳さんが毎日呼んでいたら、嫁はんはヤキモチを焼くに違いありません。ワテは徳さんが女のワテに男の名前「太郎」と付けた理由が分かりました。フリムン徳さんはフリムンでも、立派なフリムンだとワテは尊敬しています。だからワテは、徳さんのために、このまま男の名前太郎で生きていきます。 フリムン徳さん
2011.03.30
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「昔に戻ろう」人間が飲み込まれた犬も、猫も、家も、学校も車も、電柱も、田んぼも、畑も、道も全部飲み込まれた親も子供も殺された兄弟も、親戚も、友達も、殺された犬も、猫も、家も、学校も、車も、電柱も、畑も、田んぼも、道も殺された噛み砕かれた吐き出されたあっという間に!!吐き出されたものは瓦礫の山になった街中が瓦礫の山になった生き物のいない音のない動きのない瓦礫の山は死の街である怖い!!地獄の街である街がなくなった村がなくなった故郷がなくなった住む家がなくなった寝るところがなくなった水がなくなった食べるものがなくなったガソリンがなくなった電気がなくなったトイレットペーパーが無くなったと思ったら便所が使えなくなったエレベーターが動かなくなったあっという間に!!地球の神様が怒ったのだいつもはおとなしい地面が大揺れに揺れて、怒った千年も辛抱していた海は大津波を起こした大津波は真っ黒い顔になって怒った人間どもにとられた美しい海岸線を自分の領分の海岸線を欲張りの人間どもから取り返すために大きく、早く、きれいに、贅沢に、楽に、便利に、楽しく、清潔にを求めすぎて、欲張りの人間どもは歩いても行けない車でも行けない電車でも行けない飛行機でも行けない怖いところを造ったそこはどこかそこは地獄だそこは福島の原子力発電所だそこはアメリカの原子力発電所だそこはフランスの原子力発電所だそこは原子力発電所のある国であるそこは欲張りの人間どもの住む国である欲張りの人間どもは盲欲のために猛欲に働いている会社を大きくするために働いている会社は大きくするためのものではない会社は生活するための金を儲けるためのものである金は汗水流して儲けるもの金で金を儲けたらアカン魚は今日食べる分だけ獲ったら、ええ儲けるために獲ったら、アカン贅沢しすぎる楽をしすぎる生活は便利すぎる生活速度は早すぎる年寄りはついて行けない貧乏人はついて行けないウヤフジもついて行けない幽霊さえもついて行けないそれに気がついていない津波で吐き出された瓦礫の山地震で吐き出された瓦礫の山あれは多すぎるイランモノが多すぎるイランモノを作るために人間どもは機械を使う身体を使わない身体を使わないから、肥満児になるそのうち、地球は肥満児だらけになるもっと貧乏に生きようもっと不便に生きようもっと痩せよう地球を怒らさないためにもっと、地球のことを考えようもっと、ほかのものの事も考えようもっと、ほかの生き物のことも考えようもっと、他人のことも考えようもっと、優しくなろう貧乏であっても、いいのどかにのんびり生きよう昔の喜界島のように フリムン徳さん
2011.03.29
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フリムン徳さん応援団の皆さん、こんにちは!!フリムン徳さんです。このアメリカ便りは日本の応援団友田英助さんから、ロスの応援団テディイ 金子さんへ行き、その次に私に回ってきます。最後に私がブラッドレー支部92名に配信しています。とうとう今年はアメリカ便りを配信する応援団が270名になりました。ありがたいことです。ウヤフジのおかげです。Eメール配信が212名、FAX配信4名、手紙配信54名です。このアメリカ便り37号が今年最後の頼りになりそうです。皆さん、楽しい、うれしい、ハッピーな新年をお迎えください。フリムン徳さん――――――――――――――――――――――――――――フリムン徳さん応援団ロス支部の皆様 こんにちは!. 雨あがりのロスもすっかり12月らしい気温になりましたが、皆さん風邪のほうは大丈夫でしょうか? 東京の友田さんより「フリムン徳さんアメリカ便り」第37号「サンフランシスコの夜と昼と裏と表」が届きましたのでロス支部108名の方に配信いたします。 徳さん流の人間観察面白いですね、旅行ガイドに載せても受けるのでは? タイトルも普通流れからして昼夜 表裏の順序も意図的なのか?今は”執筆一筋”気合のせいでしょうか。文章表現が変わって来た様に見えるのは私だけでしょうか? Teddy Kaneko 112/2/2007 フリムン徳さんのアメリカ便り第37号「サンフランシスコの夜と昼と裏と表」――――――――――――――――――――――――――――――― 「フリムン徳さん応援団」の友田です。このメールは「フリムン徳さん応援団」の70名の方に、一斉同報しております。=========================================================== あと2,3日で今年の最後の月になります。公園のケヤキの下は金色の絨毯を敷いたようでこれまでの景色が一変しました。一方、生活の場では何となくせかせかとせわしい気分になってきます。 このような中で、カリフォルニアの「フリムン徳さん」から、「アメリカ便り」が送られてきました。お忙しいところ恐縮ですが目を通していただければ幸いです。===========================================================フリムン徳さんのアメリカ便り第37号「サンフランシスコの夜と昼と裏と表」 (1)バスの旅、サンフランシスコ アメリカ人が一番行きたいアメリカの街はどこか? ある新聞で統計を見たことがある。それは異国情緒豊かな街サンフランシスコと書いてあった。隣と壁が引っ付いた積み木のような小さな家が、坂道に沿って、丘の上にずらりと並ぶ、色とりどりの家並み。摩天楼の高いビルの裾をぐるぐる巻きにして並んで、ケーブルカーに乗るのを待っている人間たち。芋の子を洗うようなマーケットストリートの沢山の人間達。東洋人、ヨーロッパ人、アメリカ人、顔かたちの変わった世界中の人間たちが、何かを求めて、うようよと歩いている街、サンフランシスコ。 行列の出来ている有名なピザ屋で、英語を話すはずと思っている白人が、何語かわからん言葉で、ピザを注文して、店員が首をかしげて難儀している。白人は英語ばかりを話さない。ほかの国の言葉も話す白人を目の前にして、めずらしがる。でもここは英語を国語とするアメリカのサンフランシスコなのだ。ここでは誰もの顔が平等に見える。金持ちでもない、貧乏人でもない、中間層の顔をしている。旅行スタイルの服装がそうさせるのか。 私は 10月16日と17日、2日間、グレイハンドバスでそのサンフランシスコへ「人間観察」に行ってきた。コンピューターで切符を2週間前に予約すると、84ドルの往復切符が58ドルで買える。私の住む山の砂漠と呼ばれるブラッドレーから車で北へ3時間のところだが、バスだと5、6時間以上もかかる。いろんな町でお客さんをピックアップするからだ。いや運転手が道を間違えたり、コースを変更したりするからでもある。私はこの頃グレイハンドバスで、ロスへ何回も行っているから、グレイハンバスの事情がわかってきた。 町に住んでいる人は田舎へ行って自然を楽しみたい。山の中に住んでいる私は、町の人ごみの中へ行って、歩いてみたい。私の場合は街の見物よりも人間観察が興味がある。もっと欲をいえば、人と触れ合って、何か楽しい思い出を作りたい気持ちが心の奥にあるようだ。でも知らん人に声をかけて、そう簡単に友達にはなれない。触れ合いというのは何かよっぽどのチャンスがないとできないように思う。 朝5時50分に隣町パソロブレスのターミナルで、グレイハンドバスに乗った。手擦りを持って、4階段を上り、座席に座ったとたんに、これから旅に出るんだという、「旅」という字が目の前に見えたような気がした。窓寄りの座席に腰を下ろすと、2階建てのバスに乗ったような気持ちになる。目に見える景色が変わる。私が立ってバスを待っていたコンクリートの道が、少し変わったようにも見える。今まで見上げていた建物の軒下が、同じ高さに見える。自分で車を運転して、見ている同じ景色が少し違って見える。同じ景色なのに、少し高いバスの座席から見る見下ろしの景色が『旅』という気分になるのだろうか。飛行機の旅は空港に着いた瞬間から旅の始まりを感じるが、バスの旅はバスの椅子に乗ったら旅の始まりを感じる。 午前11頃、バスはサンフランシスコ・ダウンタウンのバスターミナルに着いた。ミッッションストリートと1番街の交差したところで、マーケットストリートのすぐ近くだ。10年前、ほんの少しの間、リムジンで、バスガイドとして、日本からのお客さんをホテルに送り迎えして、マーケットストリートはよく通った。10年で、これだけ沢山の新しい高いビルディングが建ったものかと、様変わりに驚いて、地図を頼りに3ブロック離れたマーケットストリートまで歩くことにした。たった15分か20分歩くのがえらい、しんどい。いつも車を乗っている自分が目の前をスイスイと走っていく車を見たら、歩いている自分が、車を乗らない自分が貧乏人のような気がして、気落ちする。ほんまは貧乏人やのに、その貧乏人自身が自分を貧乏人やと思うことに、おかしくなる。 1ドル50セントを払って古いチンチン電車に乗った。乗っている人間に白人が少ない。どの人の顔も、肌色も違う。電車は人種の混ぜご飯の釜みたいや。私の住んでいるブラッドレーは白人だけの白いご飯の茶碗みたい。まったく雰囲気が違う。こんな混ぜご飯の中にいると、人種差別という言葉が要らなくなる。劣等感も消えてくる。でも混ぜご飯の中では言葉が通じんから、困るような気もした。サンフランシスコは変な街だ、おもろい街の様だ。 チンチン電車はビルの谷間を縫ってすぐに海の見えるフィッシャーマンワーフに着いた。海岸通に沿って、びっしり建ったじゃなく、びっしり並んだみやげ物店を世界中からの見物客がこれまたびっしりと、物色しながら、ぞろぞろ歩いている。世の中景気がいいのだろう。同じカニを売る店、同じカニの料理を食べさせる店が同じ通りに沢山並んでいるが、10年前と違う。店のオーナーが東洋系、アラブ系の人が増えてるように思われる。そのうちアメリカは白人は外国系におされ気味のようだ。 増えたのは見物客だけではない。それを目当てに大道芸人が増えている。唄って、踊って、似顔絵を描いて、自分の芸で歩く人からお金をもらう。ところが、その中で、お金をもらうだけじゃなく、たまにはものをお客さんに渡している芸人を見つけた。「これはおもろい」と私は近くのベンチに腰を下ろして観察することにした。 顔中、目も、耳も、鼻も、口も、首筋も、頭にかぶった鳥打ち帽も、着ている作業服みたいな雨合羽も、すべて、銀色がかったねずみ色に塗りたくっている。でも全体の輪郭から黒人とわかる。黒人はねずみ色になっても黒人とわかる。独特の顔の輪郭だからなのだろう。両膝を少し曲げて、顔を少し斜めにして、口を尖らせて、少し口を開けて、右手の先に飲み物の紙カップを持って、20センチほどの台の上にじっと静止している。銅像、銅像と思い込んで、ただ通り過ぎる人も多い。そんな時、彼は手に持った、紙コップを少しだけ動かす。それに気づいた人ははっとした表情になる。「銅像」が「金を入れてくれ」とコップに言わせているのだ。 「銅像」は口を利いたらアカンのだ。私が若い頃、大阪で叩き売りをしていた時は、大声を張り上げて、わめいて、おもろいことを言ってお客さんの足を停めていた。この「銅像」になった彼は声を出さないで、お客さんの足を止めている。お客さんの足の止め方にも色々ある。1ドルをコップに入れて、「銅像」と一緒に記念写真をとる子づれの人達が多い。「銅像」はこれらの子供達に、足元においてある缶の中から、キャンデーをやっている。この時は「銅像」は動く銅像になる。これを無愛想な銅像の愛嬌と言うのやろうか。 見るだけで1ドルやる人もおれば、彼と一緒に写真を撮って1ドルやる人もいる。どうも相場が1ドルのようだ。貧乏人のフリムン徳さんはベンチに座り込んでじっくりと観察をさせてもらったから、気前よく、1ドルをやった。日本のサンフランシスコ観光案内の本に「1ドルやりましょうね」と書いてあったからでもある。もとレストランで働いた経験のある嫁はんは、レストランへ行くと目いっぱいチップをやる。嫁はんの影響が少しあるかもしれない。でもそればかりではない。チップ社会のアメリカに住んでいることの影響が大きい。映画を見に行っても金を払う、芝居を見に行っても金を払う。だから大道芸人の芸を見て金を払うのは当たり前と思うようになった。 「銅像の芸」を見て立ち止まる人も多いけど、「銅像の芸」にお金をあげていく人は非常に少ない。「銅像」はどのように生活しているか気になる。1時間ほどして彼は店仕舞いをして帰りかける。私は、動き始めた「銅像」に歩み寄り、「もう帰るのか」と聞いた。「今日は潮の流れが悪い」。銅像はぽつりと言う。魚釣りのようや。彼は「金釣り」をしていたのだ。私が今日昼間に声をかけたのは、「銅像」がたった一人だった。たった一人とのたった一言の触れ合いだった。旅先で触れ合いのチャンスを作るのは難しい。 日が暮れた。サンフランシスコ見物をあきらめ、帰ることにした。グレイハンドバスターミナルへ行った。そこで私は朝の6時まで12時間ほどの足止めを食らう羽目になった。ただその12時間はホームレスとの「貴重な」触れ合いの時間となった。見たこともない、聞いたこともない、開いた口が塞がらんばかりのサンフランシスコのホームレスの生き様との触れ合いを経験した。 ≪続く≫
2007.12.03
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