パワースポット@神の島「Okinawa」

パワースポット@神の島「Okinawa」

PR

プロフィール

kasurichan1010

kasurichan1010

カレンダー

カテゴリ

コメント新着

gomagoma0610 @ 恩納ナビーの墓について 佐野哲寛さんへ コメントを下さり誠に有…
佐野哲寛@ Re:恩納ナビーの琉歌の里@恩納村「恩納ナビーの歌碑/恩納集落」(10/05) 恩納ナビーのこの写真のお墓はどの辺りに…
地域の人@ Re:七神を祀る霊域と美女伝説の湧き水@那覇市「松川殿之毛/松川樋川」(06/17) 初めまして、松川樋川は「松川ミーハガー…
まるぴ@ Re:集落発祥の秘話と四方神の恵み@沖縄市「登川/ニィブンジャー集落」(01/25) 母方の名前が登川です。 今人生の折り返し…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2022.10.06
XML
カテゴリ: 西原町

(シージマタノ嶽のイビ)

沖縄本島中部にある中城村「津覇集落」の「ミーヤシチ/新屋敷門中」の祖先は沖縄本島北部の今帰仁から「中城グスク」の南東側に広がる中城村「字泊」に移り住み「トゥマイウフヤ/泊大屋」という家を作りました。その分家である「アガリウフヤ/東大屋」の三男である「ザキミシー/座喜味子」が「ミーヤシチ門中」の元祖であると伝わります。その元祖の時代には現在の西原町千原にある琉球大学千原キャンパスの敷地内に広がる「シージマタ」の森に住んでいました。しかし、西原の「棚原門中」との戦いに敗れた「ミーヤシチ門中」は東部の「糸蒲」に移り、その後は更に東側の「津覇集落」に移り住んだと言われています。この「ミーヤシチ門中」は「ウェーグン/親根門中」とも呼ばれ、姓は「新垣」となっています。


(以前のシージマタノ嶽のイビ)

(シージマタの森)

(シージマタの森)

「シージマタ」の「シージ」は「しのぐ」の事で「マタ」は「川の合流地点」を意味します。昔、戦に敗れた落武者がこの土地に隠れて命を凌いだ事が地名の由来であると伝わります。「シージマタノ嶽」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『棚原村 シギマタノ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ』と記されています。以前のイビ(神が宿る最も重要な場所)は、現在のイビがある拝所の南側の川沿いに生える「ホソバムクイヌビワ」の根元辺りにあったと言われています。この場所から更に南側には「シージヌマタヌカー」という井戸があったと伝わります。一説では、この森は「棚原集落」の発祥地であると伝わり、集落の草分けで「ニーヤー/根屋」と呼ばれる「宮里門中」の元祖が暮らした屋敷があったと言われています。そのため戦前まで「棚原集落」のカミンチュ(神人)が年中行事で祭祀を行なっていたとの伝承があります。


(シージマタノ嶽の遥拝所)

(津覇集落のミーヤシチ門中)

「棚原門中」との戦いに敗れた「ミーヤシチ門中」が逃れた「糸蒲」の地に「シージマタノ嶽」への遥拝所があり、石造りのウコール(香炉)が御嶽に向けて祀られています。「ミーヤシチ門中」が「津覇集落」に移り住んで暮らした屋敷の土地が現在も残されており、戦前までこの門中は「津覇集落」で馬車を所有する「馬車ムチャー」として働いていました。黒糖を詰めた「タルガー/樽」や「ウミイシ/海の石」など、依頼主の要望に応じて様々な物資を運んでいました。「津覇集落」に「サーターヤー/製糖場」が多く存在した事に比例して「馬車ムチャー」の数も多かったと伝わります。「津覇集落」の「馬車ムチャー」は「ミーヤシチ門中」の他にも「東比嘉・前田場・三男森田・酒庫理・森田小・栄眞境名」が存在したと言われています。


(球陽橋/きゅうようばし)

(ナービグムイ)

(千原池/せんばるいけ)

「シージマタノ嶽」の森に沿って「千原池/せんばるいけ」と呼ばれる人工池があり「球陽橋/きゅうようばし」が架けられています。かつて「千原池」の上流域に「ナービグムイ」という直径1メートル、深さ1.6メートルの鍋状をした溜池があり「ナービ」は「鍋」の事で「グムイ」は「溜池」を意味しています。伝承では中城の「津覇集落」の古代マキョと呼ばれる血縁部落の「糸蒲ノロ」が戦に追われてこの溜池で水死し、そのノロ墓が「ナービグムイ」の近くにありました。また昔、ある遊女がこの溜池で自殺したと言われており、水面には遊女が使っていたと思われる「サバチ箱/用具箱」が浮いていたため「ナービグムイ」は幽霊が出ると人々に恐れられていたそうです。現在の「ナービグムイ」と「ノロ墓」は琉球大学がこの土地に移転した際に作られた人工池の「千原池」に沈んでいます。


(ウフタチグムイ)

(千原池に架かる球陽橋)

(千原池/せんばるいけ)

「ナービグムイ」から南側に約20メートル離れた場所に、かつて「ウフタチグムイ」と呼ばれる溜池がありました。「球陽橋」の東側の川が湾曲した所に位置し、かつてこの溜池で馬を水浴びさせたり子供達が泳いだりしていました。しかし、この溜池は溺死する事故も多く、大人達は子供だけで泳がないよう注意していたそうです。「ウフタチグムイ」は一番深い場所で約2メートル、広さは約100坪ほどあったと伝わります。「球陽橋」が南北に架かる「千原池」は琉球大学が那覇市首里から西原町の現在地に移転した1977年に作られた人工池で、農学部農場用の用水ダムでもあります。池の面積は約20,000平方メートルで平均水深は約1.5メートルとなっており、野鳥を始めとする多くの生物の生息地として重要な役割を担っています。


(チカジャングヮーカーの森)

(ガチマタ)

「千原池」に架かる「球陽橋」を渡った南側に大学会館(全保連ステーション)があり、この建物に隣接した場所にはかつて「チカジャングヮーカー」と呼ばれる井戸がありました。戦前まで周辺に暮らしていた屋号「チカジャングヮー/津嘉山小」が井戸の名称に由来していると考えられています。「チカジャングヮー」を使用していた「津嘉山門中」は18世紀の初めに首里や那覇から農村地域に人口移動が行われた「士族帰農」でこの土地に移転しました。『首里系士族 向氏 元祖尚質王三子尚弘仁義村王子朝元 名乗頭 朝』で、本家は琉球王族の「名護御殿/なごうどぅん」であると言われています。さらに大学会館の周辺は「ガチマタ」と呼ばれる深い森で覆われており、昔は川が合流して滝が流れていたと伝わっています。


(トーフクエーマーチ/豆腐喰松があった場所)

(トーフクエーマーチ/豆腐喰松の拝所)

(トーフクエーマーチ/豆腐喰松の拝所)

「トーフクエーマーチ/豆腐喰松」は琉球大学千原キャンパスの北食堂入り口付近にあったと言われています。「トーフクエーマーチ」は「ターチマタマーチュー」とも呼ばれ、その名前の通り2本の松の木で大きい方の幹は直径約1メートル、高さ約10メートルあった大松であったと伝わります。木の根元にウコール(香炉)が祀られ、拝所として「棚原集落」や他の村から拝みに来ていました。その木の根元に豆腐をお供えしたら、いつの間にかそれが無くなっていたので「トーフクエーマーチュー/豆腐を食べる松」と呼ばれるようになりました。この松は昭和8年頃まで生えていましたが、その後無断で伐採されてしまったと伝わります。現在「トーフクエーマーチ」の拝所は大学生寮の北側にある駐車場の角に移設されており、3基のウコールが祀られた拝所となっており人々に拝されています。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.11.05 00:12:58
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: