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カネミ油症五島市の会の宿輪敏子さんが、3月21日の判決 が 出る2日前に、裁判長あてにFAXで届けた文書を載せさせていただきます。 福岡地方裁判所 小倉支部 第3民事部 岡田 健 裁判長へ岡田裁判長、突然のお手紙をお許しください。カネミ油症新認定原告団への判決の日を目前にして、溢れる思いを我慢できず、こうして裁判長宛に、私の思いを書き始めました。この期に及んで、どんなことを書こうと、判決にはなんの影響も与えないことは、重々、承知しております。 しかしながら、どうか、読んで欲しいのです。私は、6歳でカネミ油を食べ、1970年に認定された宿輪敏子です。こんなに早く認定された油症患者でありながら、2000年までPCBだけでなく、その何千倍もの猛毒のダイオキシンを食べさせられた事件であったことを知りませんでした。 父も母も、いいえ、ほとんどの被害者が知らなかったのです。事件発生から7年後には、既にわかっていたにも関わらず、油症研究班も行政も、もちろんカネミ倉庫も、誰も被害者に周知させることはしませんでした。当初は、全く想定していなかったダイオキシンという猛毒が検出された後も、なんら診断基準も変えず、真の追跡調査もなされず、何事もなかったかのごとく、只ただ、放置され続けてきたのです。ダイオキシンが主たる原因であることを、私たちに最初に教えてくださったのは、『黒い赤ちゃん』 を かかれた明石昇二郎や、YSCの方々でした。 また、現在も苦しみ続けている油症被害者の実態も教えていただきました。 その頃の私は≪ダイオキシン≫という言葉は、環境汚染物質として聞いたことがあるくらいで、その毒性など全く知りませんでした。 体の不調も疲れやすさも、奇病も、生まれつきの特殊体質かと思っていました。 当時、皮膚症状があった人だけが認定されていたことから、被害者たちは、カネミ油症は、主に皮膚症状であると思わされてきたのです。しかし、ダイオキシンの人体に及ぼす影響を調べ始めると、私に起きたこと全てが説明がつくことに驚きました。 そして、被害者の聞き取りを始めると、成長期に暴露した被害者の大半が、私と大変似た症状を持っていることを知りました。 また、私とは全く違う症状や、病も、同時に抱えていることも知りました。 しかし、多くを聞き取るにつれて、私とは違うそれらの病が、多くのカネミ油症被害者に発症していることもわかりました。また、被害者である従姉妹が、その全身的な病を苦にして、『死にたい』 と 言っていること。 黒い赤ちゃんとして生まれ、高校生で白血病のような病で亡くなった少年。 鼻血が止まらずに病院に運ばれた後、亡くなった中学生の少女。 油症を病んで、割腹自殺をした青年のことなど、次々とカネミ油症のもたらした許しがたい悲劇を知りました。更に、働き手のご主人も亡くされ、自分が毒を食べさせたと、その心の痛みに耐えながら、貧しさと病苦に苦しむ女性のところに、亡くなった子どもや夫の分も含めて≪仮払金を返せ≫という国からの請求文書が送りつけられており、国が被害者を追い詰めているいる現実がありました。 そのお母さんは、か細い声で、「これは、国が私に 『死ぬれ』 と 言っているのでしょうね・・」 と、ポツリと言われました。 私は、このとき、聞いたこの言葉を一生忘れることはできません。なぜ、カネミ倉庫は支払能力がないという理由で、賠償金も支払わず、医療費の支払いにおいても、実質、国が支援し、こんなにも恵まれた環境で会社を存続させることができてきたのでしょうか。 被害者の中には、自分や家族の入院医療費が支払えず、借金をしてきた人が大勢います。 借金地獄に苦しむべきは、カネミ倉庫ではないでしょうか。 国に莫大な借金をしてでも、裁判で確定した賠償金を支払い、医療費なども誠実に支払うことが、健康を破壊した油症被害者へのせめてもの償いではないでしょうか。今回は、初めてカネミ倉庫だけを被告にした裁判が行われました。 これまで、カネカや国を隠れ蓑にし、自分の罪と真正面から向き合うことのなかったカネミ倉庫が、この甚大な罪とどのように向き合うのかを、私は見て来ました。 まず、自社の罪を認めようとしない弁護士の卑劣な言葉に、私は大変、驚きました。 過去の裁判で確定されている罪であるにも関わらず、何とか免れようと、あらゆる手段を講じるカネミ倉庫を見て、この上なく空しく、悲しい思いでこの裁判を見ておりました。カネミ倉庫のこれまでの被害者に対する接し方も、大変、ひどいものでした。理屈が言える被害者には医療費を支払い、言えない人には支払わない。 強いリーダーがいる地域と、いない地域での医療費の支払い内容も全く違うなど、被害者を完全に差別してきたのです。 私も、過去にそうされた一人でした。 当時の2陣の団長に交渉してもらって、やっと支払ってもらいました。 最近、メディアの注目を集めるようになってからは、誠実を装うようになりましたが、どんなに酷い会社であるか、私は良く知っております。‥ ( 略 ) ‥カネミ倉庫は、誠実とは程遠い許しがたい犯罪企業です。なぜ、それまで流通していなかったのに、毒にまみれた油だけが五島で販売されたのか。 福岡では、健康に良いと一段高い値段で売られていた油が、なぜ、奈留島や玉之浦では大安売りされたのか、文書で聞いても、「そのような事実はありません」 と、真実を決して明らかにしません。‥ ( 略 ) ‥岡田裁判長、どうか、新認定の被害者が、長年、認定されてこなかった無念と、甚大な健康被害をご理解ください。 裁判長が、カネミ油症被害者の人権を侵害するような、あんな酷すぎる和解勧告を出されたとき、私は血の気が引く思いがしました。 なぜ、これまでの医療費が30万円なのですか? 仕事ができなくなった私の従姉妹も原告におりますが、その医療費は莫大です。 働けなくなった補償は、なぜ、ないのでしょうか。岡田裁判長、被害者の人生を破滅に追い込み、子や孫の人生までも狂わせてしまうようなこの食品公害事件に、どうか、正義ある判断を下していただきますようお願い致します。 ダイオキシン被害の真実がわかってきた今、病のために人生を台無しにされてきた被害者の中には、社会を変えるような裁判を起こさなければ、このようなことがまた起きると、差別を恐れず、顔を出して立ちあがろうとしている勇気ある被害者も現われてきました。初期の段階では、大変、わかりにくい慢性毒性による食品公害を繰り返さないために、国や企業が有効な対策を講じ、被害者には最低限の補償がなされる仕組みを作るべきだと私は思います。 次世代にまで影響を及ぼす環境ホルモン被害に時効なんて存在してはなりません。裁判長が万が一でも、カネミ倉庫が主張している≪時効≫を認めるなら、それは、すなわち私たちの子どもたちも含めて、カネミ油症被害者の救済の道を一切、閉ざしてしまうことになりうる大変なことです。 ‥ ( 略 ) ‥昨年、制定されたカネミ油症被害者のための法律は、甚大なダイオキシン被害に対して、あまりにも貧弱なものであることは、ご承知のことと思います。 超党派の議連の先生方もよく理解してくださっており、3年後には被害者の福祉の向上の面から、この法律を改正することができるという条文を添えていただきました。 この裁判の判決が、3年後の法改正にも大きく影響を与えるものになり得るものであることもご承知ください。‥ ( 略 ) ‥司法の判断は、後世に良い世の中を残して行くためのものでなければなならないと、私は思っています。 21日には、私も判決を聞きに行きます。 正義ある審判が下されますよう、神に祈っております。以上、カネミ油症五島市の会 の 宿輪敏子さんが、判決の出る2日前、裁判長あてに届けた文書です。宿輪さんの訴えも空しく、判決は ≪棄却≫ でした。日本の裁判所は犯罪企業を守る所なのでしょうか。【カネミ油症のこと】 私たち国民は、カネミ油症の判決を どう思うか?
2013年03月25日
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きょう、カネミ油症関東連絡会の2回目の集まりがあり、いただいた資料のひとつ‥ カネミ油症五島市の会 の 宿輪敏子さんからのYSCあてメッセージを紹介させていただきます。ダイオキシンが、認定の基準に加えられて以降に認定された55人が5年前に原告となった裁判で3月21日の判決は、棄却 でした。検診を受けても認定されなかった1989年には、除斥期間が過ぎてしまっているという理由でした。 除斥期間 というのは、殺人事件などでいう いわゆる≪時効≫にあたるものです。 YSCとは、カネミ油症被害者支援センターの ことで、わたしは会員ではないのですが‥ YSCの皆さまへ大変、ひどい判決でした。判決を直接、聞いたときには、これが現実なのかと呆然としてしまいました。次世代にまで続く被害に、除斥期間を適応するなんて・・・除斥期間の問題は、これから認定される被害者の救済を完全に閉ざしてしまうものであり、去年成立した法律の3年後の見直しにも大きく影響を与えるものとなる重大な問題なので、全被害者の問題です。 また、これから起こりえる合成化学物質や放射能汚染などによる慢性毒性被害にも大きく影響を与えるものだと思うので、国民全体が議論すべき問題であると思います。加害企業が、人を死に至らしめても、その子や孫が働けなくなっても、20年たてば無罪放免になるという社会を国民は許すのか、そんな社会を国民は望んでいるのか、社会に問いたいです。また、争点が除斥期間に絞られたことによって、認定問題の矛盾や、PCB・ダイオキシン被害の本質に迫る必要が出てきたと思います。これからは、社会的にも大変、意義のある闘いになると思います。さっき、玉の浦のNKさんから電話があり、次のように言っていました。「わたしは、この(除斥期間に関する)法律ば 変えんばじゃなかろかって思う。昨日は、怒りで眠れんかった。 ぜったい、どう考えても、この判決はおかしか。集会があったら、わたしは本音で、この気持ちばみんなの前で言いたか。これからも一緒に闘ってください。 よろしく、お願いします」これらを受けて、被害者集会を持てればいいなと考えています。五島市の会の会計や総会の準備・・・(略)・・・目の回る忙しさですが、この判決に対して、被害者全体の怒りが伝わるような集会を、時期を逃さず行うことは、大変、重要だと思っています。 近いうちに、具体的な提案ができればと思っています。 YSCでも考えていただけたら嬉しいです。 どうぞ、よろしくお願いいたします。 ≪追 伸≫判決の前々日に、裁判長にFAXした手紙を添付します。ひどい判決を下すならば、せめて良心の痛みを感じながら読んでほしいと思って書きました。 宿輪 敏子 3月21日に下された判決を、わたしたち国民は 認めて、許してしまうのか‥今、それが問われていると思います。宿輪さんから 岡田 健 裁判長あての手紙は こちら です。【カネミ油症のこと】 カネミ油症の判決、裁判って 誰の味方?
2013年03月24日
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カネミ油症の新認定患者ら55人(うち4人死亡)がカネミ倉庫などに慰謝料など1人1100万円の支払いを求めた訴訟の判決が、21日にあり、『損害賠償請求権は消滅している』 と患者さん方の請求が 棄却されました。この裁判で 原告になった患者さんたちは、カネミ油症の主原因が、PCBとともに猛毒のダイオキシンであると認められ、その血中濃度が、認定基準に加えられた2004年以降に 認定された方たちです。発症から30年間余も 苦しみ、ようやく認定されて、裁判を起こしてから5年後にでた判決が棄却です。判決では、不法行為から20年が過ぎると損害賠償を求める権利が消える民法の≪除斥期間≫の起算点を、『患者のほとんどは1968年に発症している。起算点は、カネミ油を摂取した時期。遅くとも1969年末』 とし、1989年には請求権が 消滅したと結論づけ、『起算点は、油症と認定された時点』 とする患者側の主張を退けた ‥ とのことです。 (以上、朝日新聞を参考)家族の中でも 認定された人認定されなかった人がいて、圧倒的多くの人は 認定されず、その間に、20年が過ぎたから‥損害賠償を求める権利が消えてしまったこういうことが、どうして まかり通るのでしょう? 朝日新聞 「今までの苦しみや苦痛を、何も反映していない」。1968年に発覚したカネミ油症事件で、原因企業のカネミ倉庫(北九州市)に損害賠償を求めた訴訟は21日、請求ができる期間の20年が過ぎているとして棄却された。患者と弁護団は、判決後の会見で怒りの声をあげた。 毎日新聞<カネミ油症>新認定患者らの賠償請求を棄却…地裁小倉支部1968年に発生した国内最大の食品公害「カネミ油症」を巡り、89年以降の認定患者や遺族59人が原因企業のカネミ倉庫(北九州市小倉北区)などを相手に、総額6億500万円(患者1人あたり1100万円)の損害賠償を求めた訴訟の判決で、福岡地裁小倉支部は21日、不法行為で被害を受けた場合に20年で損害賠償請求権が消滅する「除斥期間」を理由に、患者側の請求を棄却した。69年以降、計7件あったカネミ油症を巡る訴訟のうち、患者側の全面敗訴は初めて。患者側は控訴する。 岡田健裁判長は、原因物質のPCB製品カネクロールの蒸気で目やのどの痛みを訴えるカネミ倉庫従業員がいたことなどから、カネクロールが混入した油の有害性について「予見可能性はあった」とカネミ倉庫側の不法行為責任を認定した。 そのうえで、除斥期間がどの時点から始まったのか、その起算点について検討。「68年に発症した患者がほとんどで、当時からカネミ倉庫が原因事業者だったことも明らか」とし、除斥期間の起算点を患者が最後に油を摂取した69年末と判断。「20年後の89年末が経過した時点で損害賠償請求権は消滅した」とし、08年5月に提訴した患者らの請求を退けた。 原告の大半は、認定基準が改定された04年以降に新たに認定された患者と死亡した患者の遺族。患者認定まで医療費を自己負担し、訴訟では除斥期間の起算点を「油症認定時」と主張していた。 判決について、患者側弁護団は「油症認定の実態や被害者の状況を全く理解していない」と反発。カネミ倉庫は「判決確定前のため、司法判断についてのコメントは差し控えたい」とした。 提訴時の原告55人の居住地の都道府県別内訳は、長崎27人▽広島16人▽福岡4人▽愛知3人▽神奈川、千葉、栃木、島根、大阪各1人--で、うち3人が結審までに亡くなり遺族が訴訟を引き継いだ。【カネミ油症のこと】 カネミ油症の裁判、どうして こんな和解案?!
2013年03月22日
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こちら によりますと、カネミ油症賠償訴訟、患者側が和解案を拒否食品公害・カネミ油症を巡り、1989年の国への訴訟終結以降に認定を受けた患者ら55人が、カネミ倉庫などに、1人あたり1100万円の損害賠償を求めた訴訟の和解協議が21日、福岡地裁小倉支部で行われた。原告側は同支部が提示した和解案を拒否した。 協議は決裂し、3月21日に判決が言い渡されることになった。和解案は、カネミ倉庫が患者1人につき、〈1〉認定前10年分の治療費として30万円を支払う〈2〉解決金として500万円の支払い義務を負うが、請求できるのは 同社が破産や再生手続きを開始した場合などに限る―― という内容だった ‥ とのことです。500万円については、カネミ倉庫が 経営難に陥ったときなどに支払うとのことのようで、実際に倒産した場合には 払えないと思うのに、どうして、こういう和解案がでてくるのでしょうか?!原告全員が、「これまでにかかった医療費や苦しみにはとても足りない」 などとして、受け入れを拒否した‥ということですが、全く、そのとおりだと思います。和解案に対して、原告団がつぎの声明を出しています。和解案に対する原告団 声明2008年5月23日に提訴してから5年、当然の勝訴を信じてきた私たち 原告らにとって、最後の最後に、まさかこの様に情けない和解案を裁判所から突きつけられることになるとは、未だに 信じられない思いでいっぱいです。今回、裁判所から提示された和解案を目にした時、なぜ、これ程までに 被告であるカネミ倉庫側に片寄った内容の和解案であるのかと 納得がいきませんでした。新聞報道により、これまでの協議の中で、カネミ倉庫側からの和解案の提示額が10万円であったことを知った時、何と原告をバカにしているのかと思いましたが、今回の裁判所の和解案もそれと同じく、私たち原告をバカにしている、愚弄しているとしか 言いようがありません。裁判長は、私たちのこれまで味わってきた経済的、肉体的、精神的な痛み、苦しみ、悲しみに対する対価が30万円などという金額で済まされるものだと考えているのでしょうか。なぜ、旧原告らが受けることのできた最低限の補償を私たちには必要がないと考えたのでしょうか。裁判長は、真実、私たち 新認定患者は、旧認定患者と比べて症状の程度が軽いと思われているのでしょうか。2月19日に、五島の原告がなくなりました。彼で4人目です。 無念の思いを抱えて 亡くなっていった 仲間に、どの様にすればよいのか、情けなさでいっぱいです。私も含めて、命がけで これまで本訴訟をたたかってきた原告らが今、感じているのは、怒りと 絶望感と 情けなさです。弁護団の先生方からは、この和解案を受け入れなければ、私たちにとって 厳しい判決が予想されるであろうと聞いています。しかし、未だに未認定である私の子どもらを含め、何の補償も、救済も受けていない被害者らが多数、存在する現実を考えればこのまま私たちがこの様な貧弱な内容の和解案を受け入れることなど絶対に出来ません。私には、もう小倉まで行く健康な体はありません。私自身、いつまで生きられるのかも分かりません。そのため、本日は、この声名文を 原告団の先生方に預けました。 いつもご支援下さる皆様、報道関係の皆様、どうか、今後とも新認定訴訟原告らの実情を御理解のうえ、御支援を賜りますようお願い申し上げます。 以 上平成25年2月21日 原告団 団長 古木 武次 【 追 記 】 長崎新聞の こちら に古木さんのことが載っていました。カネミ油症新認定訴訟結審 「神様、味方するはず」 原告団長 古木さん 「救済法ができても不誠実で謝罪さえない。 許せない」。 30日午前、北九州市のカネミ倉庫本社前で決議文を同社に手渡した原告団長の古木武次さん(82)=五島市奈留町=は憤った。 同日午後、福岡地裁小倉支部で同社などを被告としたカネミ油症新認定訴訟は結審。 最終意見陳述に臨んだ古木さんは汚染食用油の摂取から44年、提訴から4年の歳月を振り返った。 1968年、38歳だった。奈留島で半農半漁、自給自足に近い生活。 「安くて良い油」という食用油が島に出回り、魚やイモの天ぷら、野菜いためが食卓に並んだ。 家族6人でよく食べた。疲れやすくなり、妻や息子に吹き出物が出始めたが、油のせいとは考えもつかず食べ続けた。 辺地で行政の情報もなかなか入らず、油症についてはっきり知ったのは13年後の81年ごろ。 知人の勧めで油症検診に足を運び、以来ほぼ毎年受診。 油症認定を求めたが、20年以上却下され続けた。 通院とはり治療で出費はかさみ生活苦に悩んだ。 2004年、診断基準改定でようやく認定された。 最初から油症被害者だったのに、カネミ倉庫は認定前の36年間の医療費を払おうとしない。 昨年から足の痛みがさらに強まり歩行さえ困難な状況だ。 最終意見陳述では、PCBを製造したカネカの責任を主張するカネミ倉庫に「責任逃ればかり。 (それなら)カネミがカネカを提訴すればいい」と怒気を込めた。 命懸けの裁判は和解か判決を待つだけとなった。 古木さんはこう力を込める。 「神様がいるのなら、必ず私たちに味方するはずだ」古木さんが住んでおられる 五島列島の奈留町から小倉まで どれ位かかるのかな~と思って、ヤフーの≪路線≫で検索してみました。 裁判所が10時からとして、小倉駅に、朝の9時に着くためには‥奈留港を前日の昼12時35に出発九州商船で長崎港に着くのが、16時 5分そこから10分余、歩いて 大波止 16時22分 発 長崎電気軌道で 長崎駅前に着き、長崎 発 16時53分JR特急かもめ36号で新鳥栖着 18時26分新鳥栖発 18時39分 JR新幹線つばめ358号で博多 着 18時52分 着JR新幹線のぞみ64号で博多 発 18時55分 で小倉 着 19時10分時間: 7時間29分(乗車5時間34分)運賃: 片道 9,270円(乗車券6,300円 特別料金2,970円) 裁判所に行くためには、1日かけて小倉に着きホテルに1泊しなければなりません。 その日もそのまま、帰宅するのは 難しいと思われます。乗りかえも多く、乗りかえ時間が 短いところも ありますので、もっと かかってしまいそうです。そういうことも考えると、長いこと苦しみ、認定されたあとも、また 5年もかかって‥今回の和解案では‥とても納得できません。3月21日には、被害を受けた方々の苦しみが、少しでも救われる判決がでるよう願っています。【カネミ油症のこと】 カネミ油症は終わっていない
2013年02月23日
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1月18日の朝日新聞に掲載された藤山 圭 記者による ≪記者有論≫から引用させていただきますカネミ油症は終わっていない救済の認定 拡大 国内最大の食品公害とされるカネミ油症の患者の認定基準が、昨年12月、同居家族の間で患者認定が別れることがないように拡大され、各地で申請の受け付けが始まっている。 昨夏、成立した被害者救済法に基づく措置だが、なお救済されない患者は多い。 1968年、ダイオキシン類が混入したカネミ倉庫(北九州市)製の米ぬか油を食べた人に健康被害がみつかり、西日本一帯で、約1万4千人が被害を届け出た。 昨年3月末段階で1966人が患者に認定されている。 これまでの認定基準では、認定患者と同居し、同じ食事をして症状が出ても、ダイオキシン類の血中の値が基準値を下回れば、患者と認定されないという問題があった。 拡大で、こうした被害者は認定患者として救済される。 だが例えば、週末に実家でカネミ油を使った料理を食べた被害者は、同居の事実がないため対象外。 また、大量に油を購入して隣近所で分け合った場合などは、家族内に認定患者がいなければ救済されない。 『同じように食べて苦しんでいて、なぜ、認定と未認定に分かれなければならないのでしょうか』。 患者らは今でも、被害を訴える集会などで、口々に語る。 今回の拡大にとどまらず、患者がカネミ油を食べた時の生活環境や、訴える症状に、もっと目をむけるべきだ。 そうした中で、油症被害を後世に伝えようとする動きがある。 福岡工業大学で、昨年11月、「油症学」 フォーラムが初めて行われ、研究者や被害者が、学生らに油症の歴史や現状を説明した。『2世、3世にも被害は広がっている。そんなカネミ油症を知って下さい』 被害者の一人は、涙を浮かべて語った。 油症学を主催した同大客員研究員の長山淳哉さん(65)は 『二度と同じような被害を出さないように、教訓を語り継ぐことが必要だ』 と、その意義を語る。 今回の基準拡大で、救済への道は確かに広がった。 だが一方で、一定の政治決着をもって政治的、社会的に ≪過去のこと≫となる懸念もある。 法制定を主導した政治家の多くは、先の総選挙で引退、落選してしまった。 だからこそ、言いつづける。 『カネミ油症はおわらない』 と。 被害者の高齢化は進んでいる。 まず国は、現在、どのくらいの被害があるのかを、未認定患者も含め、調査すべきだ。 実態にあった救済を一刻も早く行う必要がある。一昨夜、MXテレビで上映された カネミ油症ドキュメンタリー≪救済の時≫では、救済法が成立するかどうか危ぶまれているところで終りましたが、昨年の8月に 成立したとのことです。カネミ油症の救済法が成立へ によると、法案の概要を知ったとき、悔しさに「泣いていた」「この法案に反対すればゼロからのスタートとなる。法制化は大きな一歩。私たちの力でよりよいものにしていくしかない」と 涙を浮かべ、苦渋の決断‥被害者にとって 十分なものではありませんでした。それでも、今が 第一歩‥と考え、より多くの被害者が救済されていくよう活動していこう。そのために、この法案ができたことを、知らない人たちにも伝えていくこの法案で対象外の被害者も救済されるよう訴えていく‥などのことが必要なのだと思われます。明日、カネミ油症関東連絡会 第一回の集まり ではそのために、どのようなことをしていったらよいのか‥などについて話し合うのだと思います。これまで、カネミ油症のことに 全くかかわりのなかった方も、どうぞ お気軽にご参加下さい 【カネミ油症のこと】 カネミ油症の患者として、40年前の証言(3)
2013年02月21日
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『カネミ油症の患者として』 40年前の証言『カネミ油症の患者として』 40年前の証言 (2)からの つづきです。 このことに関連して申し上げるんですけど、家内が亡くなりまして四年目ですか、普通世間一般的に言いまして、まあつまり、僕いま男やもめなんですけど、僕の人格とかいろんなものは別にしまして、世間一般的に言いまして、だいたい奥さんに亡くなられたりされた方はわかると思いますが、4~5年たつまでに、黙っていてもまわりが放っておきません。再婚をすすめてきます。僕の周囲でもそれを見ていますし、僕自身もすすめたことがございます。まあそういうことから当然、まあほんとはそんなこと関係ないのかもしれませんけど、世間一般的に考えて、そうじゃないかと僕は思うんですけど、いまだに僕のところには話がまいりません。こなくて当然だと僕は思うんです。 油症の黒いイメージ それは、皆さんご存知のとおり、こんなふうな、まあ皆さんは本当は、あまり接触しておられないのでおわかりにならないかもしれませんけど、とにかくこういう、まあ軽いほうなんですけど、それと油症がどんなふうに結びつくのかわかりませんけれども、とにかく黒いイメージだろうと思います。そして、油症で死んだ、その他いろいろあると思うんです。黒い赤ちゃんだとか。 そういうイメージが、ひとつの世間のできごととしては、すでに忘れさられているけど、油症患者である僕自身の問題については、僕は決して世間の人は忘れてないと思うんですね。僕自身が逆であってもそうだろうと思います。すすめないと思います。どうなるかわからないし、こわい病気になっている人を、どうして責任もって、縁談の話をすすめられるでしょうかと思うんですねえ、僕も。ですからこなくても当然なんですけど、ただ僕がこの話を、僕はとっくにあきらめていますけれども、あきらめているというのは、再婚したいと思っていたけど、できないからあきらめるということではなくって、まあこの心情を話すと長くなりますのでやめますが、あまりたいした問題じゃないので。 とにかく、この問題から考えていきますと、実は油症は忘れられているようであっても、たとえば今度、子どもが就職するとき、ひょっとして、いまのような形で社会から疎外されるんじゃなかろうか。子どもたちがやがて適齢期になって、縁談があったときに、仮に油症が完全に治っていたとしても、そしてそれ以降、影響がなくなっていたとしても、その油症のイメージが人々の記憶から消え去ってしまわないかぎり、僕は、いま申しあげましたような形で疎外されるんじゃないかと思うんです。 そういうこともあるので、できたら誰も知らない所へ行った方がいいんじゃないか。できるだけ油症を隠して、なんでもないんだというようにして、だんだん人の記憶から薄れさせていきたい。もうそっとしておいてほしい。 以上、1973年5月14日、公害自主講座での I・S さんのお話を『公害自主講座15年 宇井 純 』 (亜紀書房)より転載させていただきました。I・S さんと、ご家族のみなさま、その後、長く苦しい40年間をお過ごしになられたことでしょう。貴重な証言をして下さいましたこと心より、感謝申しあげます。この翌週、40年前の5月21日にあった矢野トヨコさんのお話 『カネミ油症の最初の認定患者』 は、後日に‥矢野トヨコさんは、86年間の生涯の後半生をカネミ油症被害者として 生きられた方です。矢野トヨコ追悼文集刊行会 によりあるカネミ油症被害者の歩み矢野トヨコ かく生きたりが 刊行されています。 【カネミ油症のこと】 カネミ油症の患者として、40年前の証言(2)
2013年02月21日
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『カネミ油症の患者として』 40年前の証言からの つづきです。 娘はおかっぱにして髪をのばしているんです。髪にかくれた部分がひどいんです。そのために、私、実はその日まで気がつかなかったんですけど、毎日毎日、そうしてむしっていたんですね。押し出してるんじゃなくて。鏡を見ては、ヘヤ―ピンや、爪で肉ごとむしり取ってたんです。 その時、気がついて、僕はびっくりして、『そんな取り方しちゃいけない。あとに傷痕が残るから』‥それから、私が取ってやるようにしたんです。あまりつつきますと傷痕がひどくなりますので、できるだけ控えるようにした方がいいわけなんですけど、ちょっと目を離すと、あるいは私がやってやらないと、さっきも言いましたように自分でやるわけなんです。 それをやっていて、娘は娘なりに、『どうして、こんなことになったんだろう。なぜ、こんな目に会わなきゃならないんだろう』 と‥。そうしてまあ、多感な年ごろでしょう、学校へ行ったら、どうしてもそういう顔を見られるということ、耐えがたかったと思うんです。ま、何か、針のむしろにでも座るような気持ちじゃなかったかと思うんです。 まあ、そんなことから、そういうふうにして鏡を見て出している間に、自分の顔を見れば見るほど、もう、どういうんですか、居ても立ってもいられない気持ちとでも言うんでしょうか。一種の錯乱状態でしょうかね、半狂乱のようになったんじゃないかと思うんです。そしてガァーと自分の爪で、顔をかきむしったわけなんですね。そうして、血だらけになって、もう、放心状態になっている時に、私がふすまを開けて入ったわけなんです。 まあ、驚くというより、何か、『このままではどうなるんだろうか』 ということですかね。このまま、この子たち大きくなって、本当に今言いましたような肉体的な成長もさることながら、やっぱり人間形成の一番大事な時期でもありますし、こういうことがこの子たちの精神状態に、どんなふうに影響するのかなあ、決して良くないことはわかっているわけですね。もっとも、そういうものを乗り越えてでも、まあ油症と限らないわけですけど、小児マヒでも克服して、りっぱに立ち直ってる人がおるわけですから、そういうことを考えますと、くじけちゃいけないとは思いますものの、まだこれから先、どんなふうな症状が現われるのか、どうなるのかわからないという不安があるわけなんです。それだけに、子どもたちに対して、『勇気を持て、元気を出せ』 と言いたいんですけど、言えないんですね。『どうしてこんなになったの』 と聞かれたら、説明のしようがないんです。 そして、子どもたちは子どもたちなりに、その、どういうんですか、まだ十分によくわからないわけですから、理由も何もわからずにいきなりひっぱたかれたようなものじゃないかと、僕は思うんですけど。 そうすると、一番ちっちゃいのなんか、さっきも言いましたように、あまり表面に出てないんですけど、とにかく突然、40度から41度の熱が出たり、もうずいぶん学校を休むんです。ノドが痛い、扁桃腺がはれる、まあ何だかんだで、涙が出る、休む。休むから成績が悪くなる、おくれる、学校に行くのが嫌だ。そういうくり返しになるわけです。 だから、あのちっちゃい目でどんなふうに考えているのかな、と僕は思うんですけども、あまり油症のことは話しませんが、子どもたちに。やはり何か、触れたくないんだろうと思います。まあこれから先、どんなふうな形で病気が出てくるかもわからんということと同時に、いま言いましたようなものが、今度は社会的に対応していく場で、好むと好まざるとにかかわらず、どうしても身上調査だとか、いろんな面で、この油症が意外な形で、これから出てくるんじゃないかと思うんです。症状とか、そういうものは別にして、そういう場合に、たとえば就職、進学、もっと進めていきまして、たとえば結婚、縁談ですか、こういった時に症状とはまったく別個な場所で、思わぬ時に出てくるんじゃないか。 いま現在、ほとんどの人が、油症というのはもうすでに終わった事件、そういうふうに感じておられるんです。たとえば、先ほど申しましたようにわずかの差ですり抜けて、まあ何百万円になるか、あるいは何十万円になるか知らないけど、補償金をもらえる。実はラッキーだったという、まあそういうとらえ方もあるわけなんですね。 隠したい、しかし終っていない そうしてみると、何かこう油症そのものは、あの黒いブツブツの症状だけでとらえられていて、もしそういうものが終わってしまう。治ったらそれで終わったものだというとらえ方もあるわけなんですね。だけど、その被害者、患者自身にしてみますと、まだまだこれから先あるわけなんです。ですから私、油症はすでにもうある意味においては忘れ去られる。終わったかのように見えますけど、いつどこでどんなふうにして、あらわれるかわからないわけなんです。いまも潜在しているわけなんですけど、潜伏しているとでも言うんですか、そういう面を本当は、私、実は今日ここへ来て、そういうことをお話したかったわけなんです。 『隠したい。本当はそっとしておいて欲しい』 という気持ちが、強いんです。でも一面において、重症の方が座り込みやら、いろいろやっておられます。たいへん勇気のいることだと思います。私自身、さっき玉の浦の方ですか、『実に得がたい体験をさせてもらった。充実した一生だった』 というふうに言っておられるわけですけど。本当、これが充実したかどうかは別にしまして、こういう体験をした以上、そのことを訴える。何かこうそれがわずかなものでも、ささやかなものでも、歯止めするための、患者としての義務みたいなものも感じるんです。 ですから本当は、私、広島県の 『被害者の会』 に入っているんですけど、そういう面で活発に活動しなきゃならないと思うんです。でも、わずか2~3回行っただけで、ほとんど参加していません。まあそれは、向うから通知がくるのが、前日の夜だとか、まあ、そんな関係で思うように休暇が取れないということもあります。 そんなこんなで、申しわけないと思っているのですけど、このたびこの自主講座を開くにおよびまして、そしてその内容を知るにおよびまして、今まで誰にも触れられたくない、隠していよう、さっき言いました家内の死因にしてもそうなんですけど、本当は全く油症とは関係なく、乳ガンだけで死んだと言い張ったことも、何かすべて含めて、このままではいけないな、そんな気持ちになるわけなんです。 実際に、私自身、この油症になりますまでは、水俣病にしても森永にしても、新聞の記事をチラッと見る程度で、まあもっとも人並みに同情もしますし、そしてそれが話題になった時にはいっぱしの意見もはいたりしてました。でもやっぱり、本当の痛さはわからなかったんだと思うんですね。今度、この油症を経験しまして、これが本当の痛さだということがわかって、いま思い返しますと、やっぱり僕もかつてはそういう傍観的な立場だったんだな、と思うんです。 それだけに、この 『油症とは何か』 ということ、非常にむずかしい思うんですね。やっぱり僕自身がそうであったように、どうしても自分の身にふりかかってみないと、その痛さというのものはよくわからないと思うんです。わからないからって、わかってもらえないからって、別に言っているわけじゃないんです。ですけどやっぱり、そういう目に触れた部分だとかいろいろありますけど、それ以外に本当に患者としての気持ち、心情は、これから先にも残されていますし、いつ、どんなふうな形であらわれるかもわからない。 実は、この話も本当はしたくなかったんですけど、私、満45歳になったんです。いままで油症になるまでは、どちらかというと五つもしくは六つ、七つ、ひどい時は十くらい若く見られていたんです。まあ、あまり賢くないから若く見えたのかもしれませんけど、いつも 『若い若い』 と言われてたんです。ところが、この油症以来、今度はあべこべなんです。よく、初めて会った人なんかに‥まあ、いつも年を聞かれたり、年を言ったりするわけじゃないんですけど‥たまたまそういう機会があった時に、50歳ぐらいだと言われるわけなんです。 さっき申しましたように、いろいろ手入れをしたり、やっと自分自身をなんとか納得させて、「夜目 遠目笠のうち」 というんですか、習性になってしまったんですけど、なるべく明るいところに出ないようにする。そして、白色蛍光燈の下を避けたり、そんなふうなことがなんとなく身についた生き方をしてるんです。 なんとかうまくごまかしてるんですけど、人に仮に見られたとしてもねえ、そうも思わないんですけど、それがフッとどうかしたはずみに鏡を見るんですね。ジッと見てたときに、さっき申しましたように、『ああ、もうやめた』。 なんか絶望的になるんですねえ。それはどういうことかというと、顔が醜くなったということだけじゃあなくて、なんかもう、ここでうまく言えませんけど、とにかくもう 『ああ、どうしようもないなあ』 という気持ちになるわけなんです。つぎへ つづきます。【カネミ油症のこと】 『カネミ油症の患者として』 40年前の証言
2013年02月20日
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1991年発行の500頁をこえる本です。私が就職した当時、一般の人にも参加できる『公害原論』 自主講座が 週1回 開かれていて私も参加させていただいていました。その15年間のまとめです。 発行日が11月15日で、21日付けの宇井 純 さんからのお手紙と共に 贈っていただいた本です。読み返してみると、宇井さんは 大変なご病気をされ、療養中だったとのこと。今、本の重みを感じながら開いてみました。カネミ油症のことが書いてあったはずと思ってみましたら、やっぱり ありました。呉市にお住まいの I さんと、北九州市の矢野トヨ子さんの 講座での証言録です。講座では、毎回、テープおこしをして、冊子にまとめて下さっていた多くの協力者がいました。 そういう方々も、故 宇井 純 さんも、このご本の中から転載させていただくことを、きっと許して下さると信じて おふたりのお話を、載せさせていただくことにしました。本の中では I さんのお名前とお住まいも実名ですがここでは、仮称にさせていただきました。 カネミ油症の患者として I ・S (1973・5・14) カネミライスオイルが 呉に 私、呉の東側に位置しますFという田舎町に住んでおります。ここにどういうわけか、北九州から問題のライスオイルが入ってきたわけなんです。昭和43年の2月に、私どもの家庭まで入ってきたことになっております。本当はどうだかわからないのですが、もっと前から入っていたと思うんですが、何かその方面の調査では、2月から入ったことになっています。そうして10月までの約8ヵ月間、私どもはこのライスオイルを食用しておりました。 で、まず最初に症状があらわれたのは43年の5月頃だったと思うんですが、ツメが黒ずんできました。家族全部が同時ということではなかったと思うんですが、だいたい前後してそうなったと思います。後になって子どもたちに問いただしても、はっきりと覚えておりませんので、だいたい私を基準に申しますとそういうことになるんです。 それから8月から9月にかけまして、目ヤニが出て、目が充血する。今、ご覧になってわかるかもしれませんけれど、あのスライドを見ただけで、まぶたが重くはれ上がって目が充血してくるんです。こういう症状がカネミ油を食用としまして、約半年目ぐらいから現れてきました。 同時に、夏過ぎて9月頃から、首筋にまずニキビ状のものが出始めまして、私は当時40歳ですが、何か回春のきざしが見えたなんて言っていたんですけれども、回春どころかやがて広がってきまして、痛みもおぼえますし何かみっともなくて、外を歩いても首筋のあたりが、くすぐったいような視線を感じるようになったんです。これはニキビじゃないと―ここから話がややこしくなるんですけれども、一応公表されているもんで、後ほど筋を追って話しますけれども―そういうことで、皮膚科をおとずれました。そこで診てもらいましたところ、初めからじゃなくて、何か2~3べん、通ったように思うんですが、ここではじめて油症じゃないかと言われたわけです。 でも、ここではどうもおかしいんですがね。先生のおっしゃっていることと、僕の記憶と、どうもくい違いがあるんで、よくわかっていただけるかどうかわかりませんが、もう一度、繰り返します。僕の記憶では、9月頃に皮膚科に行ったと思うのです。その時はわからなくて、やがてテレビや新聞の報道で油症という事件を知ったわけなんです。その時、わが家で使っている油が、はたしてカネミライス油であるかは確かめず、その時もいろんな公害問題ありましたし、どんな油を使っているかはわからずに、ただ、当分の間は食用油を使うのは避けようということで、使わないことにしたんです。 それからまた皮膚科に行ったところ、油症ではないかということだったので、まさか北九州の問題がめぐりめぐって、運悪く、家へくるようになったんだろうかと油を販売店に行って調べてみたわけなんです。ところが、使っている油はカネミのライスオイルだという事実がわかりまして、何だか、ガツンと頭をなぐられたようなショックをうけました。そんなことないだろうと思っていたものが、何か、事実をつきつけられたようになりました。 それからあけまして、家族を全部連れて行きまして、皮膚科に診てもらったわけです。そしたら、本人自身も気がつかず、僕もあまり注意していなかった症状が、もうその頃、子どもに現われ始めていたわけです。 そんなこんなで家族全員が油症にかかったことがわかったわけです。当時、私の母親が同居しておりまして、都合、家族が6人おったわけです。私と、亡くなりました家内と、長男、長女、次女、それに私の母親の6人おりました。ところが母親は老齢のため油物を一切、食べなかったのです。そのおかげで難をのがれまして、現在、別居していますけれど、別にそれらしき症状も出ておりませんし、健在なわけです。同時に、国立呉病院に家内が乳ガンで診てもらっておりました関係から、国立病院にも行きまして、病理検査室というのがありまして、そこの桐本という先生に診てもらったわけです。 その先生が非常に熱心に精密検査をして下さいまして、当時としては雲をつかむような話であったものが、その先生のお話やその他のことで、私どもにもある程度わかるようになったわけです。しかしその段階ですでに、皮膚科のほうから保健所に届け出てもらっていたんですが、問い合わせに行きましても、手紙を出しましても、県の衛生のほうから何の返事もないわけです。当時としましては、私、まったくどうしていいのかわからないし、どこへ訴えていいのかわからない。 内蔵にも異常 臨床例がないだけに非常に不安な気持ちに襲われまして、黒い赤ちゃんの話などを聞きますと、ひょっとしたら、という悪い予感といいますか、そんな心配がだんだん現実なものとなってきて、そして、今度は外型的症状もさることながら、内型的症状がだんだん自覚されるようになってきたわけです。もう、立ち居振舞いが非常におっくうになる。その他、下痢症状が続く。そういった症状が出てくるに及びまして、ひょっとしたらこのまま家族全滅してしまうんじゃなかろうか、という不安が襲ってきました。 過去の森永の例にしましても、イタイイタイ病の例にしましても、行政面で何かこう、頼りなくて、仮に裁判などをやってはいますけれど、十年もそれ以上もかかったりする。それまでに、皆が死んでしまったらどうなるんだ。そんな不安もありまして、そうなるまでに何をどうしたらいいかわからないけれど、とにかく何が何でも、このままではいられないという気持ちと、子どもたちのそういう症状を見ていますと、じっとしていられなくなって、直接、カネミの会社に手紙を出しまして直接交渉を始めたわけなんです。 僕は、わっと患者が一勢にカネミの会社に手紙を出したり、直接、押しかけたりして、かなり殺到しているものと想像していたわけなんです。しかもそれが、地域的にと言いますか、北九州のほうに集中していましたから、広島県の片隅の田舎のほうから一通や二通の手紙を出したってとても相手にしてもらえない。そう思ったから一通や二通であきらめてはいけない。そういう気持ちから積極的にやらなきゃいけない。 同時に、この子どもたちの姿を見ていましたら、何ですか、もう言葉では表せませんけど‥。どうしてそうなったか、とにかくもう誰も電灯をつけないんです。会社から帰りましても部屋の中が暗いんです。いないのかなと思ったら、みんなそれぞれあちらの隅、こちらの隅にじっとしている。別に眠っているわけでもないんですけれど、そんな状態を見ているうちに、夜中に突然とび起きて、じっとしておれなくなるわけですねえ。 そんな気持ちがだんだん、昂じてきまして、日々重なっていって、そして、こうなったら、どうせ死ぬのなら、まあ、死ぬと決まったわけじゃないけど、どうせ死ぬんだったら何かやってやろう、そんな気持ちになったわけです。ほんとは、ひっそり死んだらこれはもうわかりっこないのだから、皇居前かどこかで焼身自殺してやったらわかるだろう。こんなふうに説明しますと、かなりとっぴで突然そうなったように思われるかもしれませんけれど、実はまあ、あとで説明しますけれど、長い間にそんなふうに徐々に昂まっていった気持ちなんですね。 顔をむしってしまう娘 ある日、それは昼でしたけれど、休みの日だったかどうか覚えていませんけれど、誰もいないなと思ってふすまを開けました。開けてみたら、ちょうど姿見があるんですね、娘が姿見にむかって座っていて、つまり入っていった私に対しては背中を向けているわけなんです。だから私からみますと、鏡には娘の顔が写っているんです。その鏡に写っている娘の顔を見た瞬間に、私、とっさに、ハサミを連想したんです。なぜハサミを連想したのか、ハサミが凶器につながる、そう連想したのかわからないんですけど‥。 それがどういうことだったかと申しますと、顔中、血だらけになっているんです。僕は胸をどやされたような感じになって、ビックリして駆け寄ってみたんです。そしたら顔中、血だらけになって、その血が涙といっしょになってこびりついているんですね。 娘は虚脱状態みたいになって、なんかこう、僕も声をかけにくいような、そんなものを感じて、じっと顔をみてたんですけど、肩ゆすっても返事をしないんですねえ。完全に放心状態っていうんですか、それで後でわかったことなんですけれど、娘は娘なりに、なんとか醜い黒いものを早く取り去ってしまいたいという気持ちから、ヘアーピンだとか爪だとかで、それを一生懸命に出していたんです。子どもだから下手なんでしょうかね。上手、下手の問題ではないのかもしれませんけれど、もうむしりとってしまっているんです。押し出しているんじゃなくて、肉ごとむしりとってしまっているんです。そのために顔中、傷だらけになって‥血だらけになっているわけなんですね。つぎへ つづきます。【カネミ油症のこと】 カネミ油症、未認定の人たちの会
2013年02月19日
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すてきなHPを見つけましたのでご紹介を させていただきます。カネミ油症のことから、食べものの安全性や環境子どもたちの未来について考えていこう、そして、同じように カネミ油を食べて、苦しんでいるのに、 認定された人と 認定されていない人がいることの理不尽さ‥などを訴え、考えていく会のようです。 こちら から 転載させていただきました。 ごあいさつ子どもの未来を考える会 重本加名代 代表 福岡県中間市中底井野 食品や日用品の中には、本当にたくさんの添加物やダイオキシン類が入っています。その添加物やダイオキシン類は、環境はもとより植物や動物にとって非常に悪い物であり、それらが体内に入ると実に様々な病気にかかってしまいます。しかも、近頃では次世代にまで影響を及ぼすものも多く含まれ、本当に子供たちの未来が危ぶまれています。私たちだからこそ伝えられることがあります。子供たちの未来が、健全でありますように健やかに育ちますようにと、 願いを込め私たちは 「子どもの未来を考える会」を発足させました。このサイトを通じて 少しでもリスクから身を守ることを 知ってもらえると うれしいです。カネミ油症未認定・ダイオキシン汚染を止める会/グリーン・アース 重本加名代 代表 福岡県中間市中底井野 この会は、カネミ油症未認定で苦しんでいる者たちの会です。カネミ油症とは、猛毒ダイオキシン類の混入による国内最大の食中毒被害です。そのダイオキシン中毒が発症すると一生涯、治ることはありません。死ぬまで苦しまなくてはならないのです。そして現在、私たちカネミ油症被害者ではない方々も ダイオキシン中毒を 発症されています。食品や日用品の中に含まれた添加物や ダイオキシン類を 知らず知らず口にしてしまってるのです。こんな苦しみは私たち被害者だけで十分です。いま 健康な一般の方々が、新たに ダイオキシン中毒を発症しないようにとの願いと、私たち カネミ油症被害者が 救済されるために 日々 活動しています。‥とのことです。 そして、代表者の重本さんご自身が、カネミ油症で被害を受け苦しまれた体験を 綴って下さっています。ダイオキシン汚染の悲劇~カネミ油症~カネミ油症被害の初期症状カネミ油症被害の初期症状 続きカネミ油症被害の症状 二十歳~二十七歳ダイオキシンによる世界初、世界最大の人体被害ダイオキシン被害 カネミ油症事件被害者の検診~油症班~認定と未認定ダイオキシンによる世界初、世界最大の人体被害 で‥日本は ダイオキシン大国となり、ダイオキシン類は食べ物の中や 日用品の中に 我が物顔で入っている。ゴミ処理場からもダイオキシン類などの化学物質が出ている。なので 現代の人間は、いずれ 私たち油症被害者のような体になるのは間違いない。 また、すでに油症被害者でないものの中から、ダイオキシン中毒を 発症している者が 出ている。‥とのことですが、確かにそうかもしれない‥と思います。原因がはっきりしないのに、具合が悪い人が 増えているように思いませんか? 【カネミ油症のこと】 食品公害の原点、カネミ油症
2013年02月16日
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1.カネミ油症、41年前のレポート2.カネミ油症、歯のない子どもたち3.会社に責任があると認めなければ金を支払う4.不良品と知っていて?!離島に安売り‥‥からの つづきです。 十倍も、千倍も長い夜 五島列島のほぼまん中に位置する奈留島では、88人(1972年当時)の 油症認定患者さん全員が、裁判で闘っている。 患者の会会長のMYさんは、ある雑誌に次のように書いている。 「ある家庭では、おくさんが妊娠中に カネミ油を食べ、生まれた子は先天性脱臼である。 生まれながらにして 病院がよい。 脱臼はいくらかなおり、ようやく立って歩けるようになった。 然し、発育は遅れ、食べものは丸呑みである。 おまけに言葉がわからない。 夫は子どもの将来を考えて出稼ぎに行った。 頼みとする夫はいなくなり、障がいを持つ子どもと生きる日々は 若い妻にとって、不安に耐えきれなかったのだろう。 私のところに 『金はいらないから夫を早く帰してくれるよう』 にと 頼みにきた。 私は、 『あなたばかりがつらいんじゃない。出稼ぎにいってる 夫の方もつらいんだ。 子どものために がんばるんだ。 強く生きなければ 駄目だよ』 と 励ました‥」 また、福岡県の23歳で発病した女性は、 「今も、その吹出物は、すべての人が安らかに寝静まった 夜中まで、痛みとかゆみとに私をおののかすのです。 枕をすけると、首筋の吹出物が痛くて、悲鳴をあげてしまう有様です。 背中は、大きな吹出物が痛み、横向きにそっと枕に 頬をあてるのですが、痛み続ける夜が幾晩となく続きます。 いつしか、あふれ出る涙で枕が濡れます。 体のうずきに苦しむ夜は、健康であった日の夜に比べ、 十倍も、千倍も長い夜でございます。 待ちこがれた朝、私はまた病院へと急ぎます‥‥」 (深田俊祐 著 『人間腐蝕』 より) ‥と、訴えている。 玉の浦町のB浦では、日雇いにでている母親が多い。 偏食もはげしく、歯に支障のある子どもたちが食欲なくても 忙しい母親には、どうすることもできない。 そして、学校給食は脱脂粉乳だけである。 弁当を持参しない子は、菓子パンですませることもあるという。 このような地域にこそ、国の手がさしのべられてしかるべきなのに‥ 反対に、物言えぬ≪へき地≫に わずかばかりの支援もせず、 国家的規模での差別もはなはだしいと言えるのではないだろうか。 現在、玉の浦町油症対策患者の会では、T会長を中心にして 長崎県下の油症患者と合流して、裁判で闘っている。 長崎まで出るには、数日間、仕事を休まなければならない。 生活に支障をきたす上、なによりも、都市部から遠く はなれているので、情報もとだえがちである。 現在の油症患者の闘いは、明日、どんな被害を 受けるかわからない 私たちの問題でもある。 子を持つすべてのお母さんたちと、これから母親に なることを希望するすべての女性たちに、また 少なくとも、当面の生活に困らないすべての人たちに 玉之浦の油症患者を支援することを心から訴えます。以上、41年前、25歳のときにまとめた小冊子から、一部を 載せてみました。今、読み返してみると、ずい分と気負っていたり傲慢であったりと‥ 全く、冷や汗をかく思いでした。当時、故 宇井 純 さんらが 主催しておられた『 公害原論』 という 自主講座の会場でこの冊子を配ったりしました。文中での Tさんこと 鳥巣 守 さんは、現在90歳位です。毛筆の宛名書きで、ほぼ毎年、年賀状を 下さいました。7年前の年賀状では、『私も、83歳となりました』 と書いてあり、今、会いに行かないと会えなくなるかも五島に行くことは、もう ないだろうし‥ とも 思 って、 スケッチをしながら、五島列島の 6島をまわりました。私としては、初めての 本格ひとり旅でした。7年前に訪ねたころの、鳥巣さんの一日は、朝4時に起きて、まず、10か条の誓詞文を書く。お茶をわかした やかんを持って、小高い丘の上のお墓参りをする。 ご自分の家のお墓と、親戚や友人、身寄りがない方のお墓、10軒分位の‥そして、向こう側に下って、海べりをぐるっと歩いて、帰宅。 そして また夕方にも お墓参りをされるとのこと。それで、夕方のお墓参りに お供をさせていただきました。私がするお墓参りと違い、雑巾で墓石を丹念に拭いてました。毎日のそういう日課が、長寿の秘訣かとも思いましたが、今年は、お医者さんから 寒い間のお墓参りはやめるようにと 止められているとのことです。41年前の小冊子の最後には、玉の浦町油症対策患者の会 への激励先として、長崎県南松浦郡玉の浦町玉の浦鳥巣 守 さん と 記させていただきました。現在は、南松浦郡ではなく、五島市です。カネミ倉庫が 一軒一軒をまわって、示談に応じるようにと 説得にまわっていた中で、ご家族で 油症を発症された 鳥巣さんは、 長崎の被害者と共に裁判で闘おうと呼びかけ林業の仕事を他の人にゆずって、油症のことに 打ち込まれました。半生を カネミ油症被害に苦しみ、闘ってこられた鳥巣さんに、もし、今 また、みなさまから 励ましのお便りなどをさしあげていただけたら 嬉しいです。ここのところ、私も 憂鬱な気持が つづきます。カネミ油症のことは、ずっと 気になってはいましたが、ニュースなどで 和解が成立した などと報道されると、少しは 救済されたのだろうと思ってしまっていました。けれども ネット上だけでも、書いてあるのは、悲観することばかり‥ 食品公害の原点とも言われる カネミ油症被害者が救済されないまま、45年間も過ぎてしまった‥PCBだけではなく、PCBより 100倍も、1000倍も毒性が強い ダイオキシンも多く含まれていた。 しかも ダイオキシン混入の事実を 国が 隠していた‥とのこと。西日本一帯で、何十万羽もの ニワトリが死んだダーク油事件との関連で、国の責任があるはず なのに‥などなど‥気が 重くなることばかりです。美容と健康に良い と 宣伝をし、他の油より高価なものとして売られたカネミ油。 一方でダーク油事件のあと、不良油を、遠く離れた五島列島に安く、強引に売った。社長は 罪に問われず、会社も 存続。和解金さえ、全額を支払っていない‥カネミ油症で被害を受けた人たちの現在は明日は わが身‥ とも 言えることです。そして、原発事故で 放射能を あびた人たちの、まさに40年後の姿‥ とも 重なります。 【カネミ油症のこと】 不良品と知っていて?!離島に安売り‥
2013年02月14日
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1.カネミ油症、41年前のレポート2.カネミ油症、歯のない子どもたち3.会社に責任があると認めなければ金を支払う‥からの つづきです。 」 ガンが 異常発生 軒に ミズイカがいっぱい干してある Hさんのお宅を訪ねた。 『カネミ油症についておたずねしたいんですが』 と 言うと、 『もう、東京からもどこからも多ぜい来ちゃったよ。 どうせ来るんなら 金でも何でも持ってきてくれれば、わしら助かるがな』 と 奥にいたおじいさんが 明るく答えた。 Hさんは、家族8人のうち、顔に吹出物ができていなかった おばあさんの他、みんな認定されている。 カネミ倉庫との示談契約には応じている。 最近は へ の つんばりも出なくなったというおじいさんは、 肛門に腫れ物が三回もできた。 手足はしびれるし、 胃もめっきり弱くなった。 口もねばねばする。 頭には、できもののため禿げができてしまったそうだ。 玉の浦町のガンの発生率は、異常なほど高くなっている。 歯医者のKさんの死亡診断は肺ガンであるし、私たちが帰京してからも 福江の病院に入院していた油症患者が胃ガンで亡くなっている。 ガン患者の多くは老人であるが、抵抗力の弱い老人がPCBによって 致命的な打撃を受けているのは、子どもの場合と同じようだ。 『あんまり痛いんで、きょうは灸をすえた』 という Hさんのおじいさんは まだまだ元気そうだが、いつ原因不明の症状 (たぶん、ガンとでも 診断されるのだろう) が あらわれるかは わからない。 不良品と知って、売った? 人口4000人余の玉の浦には、未認定を含めて 約1000人の油症被害者がいると言われている。 なぜ、離島の狭い地域に被害者が集中しているのだろうか。 町のN商店が福江からドラム缶10本のカネミ油を仕入れ、 市価330円のものを280円で安売りした。 油症被害者の中には、この時だけ N商店から油を買って食べたという人が多い。 自家製の椿油を800円で売って、安いカネミ油を買った人もいる。 B浦には、N商店がライトバンに積んで売りにまわった。 被害者たちが、N商店を恨んでいるかと思ったらそうでもなかった。 ともすれば、加害企業への怒りを個別の怒りにおきかえて しまうことの多い日本で、ひとつの救いであった。 長崎市内では、高いから買いたくても買えなかったという このカネミ油を 安売りするためには、仕入れも安くなければできない。 N商店では、福江で50本買わないかとすすめられたが、 金の工面ができず10本でやめたのだという。 (後述) これらのことからも、カネミ倉庫は不良品と知っていて品物を流した、 しかも、万が一の場合、交通も情報も不便な五島を 選んだのではないだろうか、という疑問がわいてくる。 そうだとしたら、たいへんな差別である。41年前の私のレポートの途中ですが、ここで2008年5月18日に 長崎新聞に掲載された 売った苦悩-毒入り、知っていれば より 一部を 転載させていただきます。 自らも被害、口に出せず 「カネミはなぜ毒入りの油ば出荷したとか。 へき地で売ってしまえば分からんだろうと 田舎者ばだました。 金にしようとたたき売った」。 五島市に住む男性(63)の 総入れ歯のくぐもった声が 震えた。 男性は、四十年前、カネカ(旧鐘淵化学工業、大阪市)製 ポリ塩化ビフェニール(PCB)が 混入したカネミ倉庫 の食用米ぬか油を、汚染されていると知らず五島市内で 販売した。 自分も家族も油症被害を受けながら、油を 地域で売ってしまった苦悩を抱え、生きてきた。 当時、市内でスーパーなどを営んでいた男性の父が、 トラックで 福江に米の仕入れに行った際、声を 掛けられたのが始まりだった。「安か油のある」。 別の食用油を扱っていたので断ったが幾度も頼まれ、 根負けし、一斗缶で五十缶を仕入れた。 男性は 当時二十三歳。 軽トラックで缶のまま売った。 安いので皆、飛び付いた。 えたいの知れぬ病気が広がった。 吹き出物、皮膚や つめの変色、異常な倦怠(けんたい)感-。 「この店が毒ば売って金ばもうけた」。 店先で会話が聞こえるたび、母は奥に逃げ込んだ。 男性や家族も、汚染油を摂取していたため吹き出物と 大量の膿(うみ)、寝汗、脱力感などに悩んでいた。 朝起きると、布団に染み出た膿で体が接着され、 はがすのが痛かった。 男性は逃げるように島を離れ、 長崎市でタクシー運転手に。 歯が軟らかくなり、溶けるように抜けていった。 体の骨が溶解する恐怖に耐えながらハンドルを 握った。 数年後、男性は五島に戻ってきた。 入退院を繰り返した母は、目が悪くなり、 十二年前、 近くのがけから 誤って落ちて死んだ。 父は今年一月、急死した。 「自分たちも患者だ」。 涙を流して語った 父の顔が忘れられない。 「もし買ってきて売らなかったら。 そのことばかり考える。 でも毒入りとは知らなかった」。 男性は、カネミ倉庫への強い憤りがある。 だが、引け目から口を閉じ、救済を求める 活動にもかかわれなかった。 今も膿が出るという首筋を触りながら、 「毒油に体も心も家族もずたずたにされた」と語る。 「一つ望むことがある。 カネミでもカネカでも国でもよか。 原爆(被爆者)の何分の一でよかけん 油症患者に援助ばしてほしか。そうしたら 父もいくらか、浮かばれるかもしれん」同じく、2007年6月2日の長崎新聞より ようやく、スタートライン 転載を させていただきます。 漁業の島、奈留島。 一九六八年、腕のいい漁師だった矢口は、 妻と四人の子の六人暮らし。 社交的な妻は、 島内の飲食店経営で才能を発揮した。 休漁の夜は特に繁盛し、 子どもたちの将来のため、懸命に働いた。 同年三月ごろ、体に良くて安いと評判の 食用米ぬか油を島内で購入。家でも店でも使った。 数カ月で一升瓶七、八本を使ったころ、 家族全員に異変が起きた。膿(うみ)を 伴った吹き出物が顔や太もも、 背中、皮膚の薄い局部に広がった。 熱とかゆみ、大量の目やに、異常なだるさ、 顔や体の腫れ、痛み、つめの変形、変色、脱毛-。 「何が起きたか、訳が分からなかった」 十月に油症が新聞報道されたことも知らず、 病院でも原因は分からなかった。 その間も油を使い続けた。 「安売り油に毒が入っていた」。 うわさが島に広がり、矢口らがようやく 油症と認定されたのは 六九年九月だった。 「店のお客さんにまで毒油を食べさせてしまった」。 妻は今も罪悪感に苦しんでいる。 その妻も当時、肝臓が化膿(かのう)して 無数の石ができ、高熱で生死をさまよった。 島にも被害者の会ができ、矢口らは七〇年、 カネミ倉庫、鐘淵化学工業(現カネカ)、 国を相手取った集団訴訟に参加。 闘いは十七年間も続いた。 二審の勝訴で、損害賠償の仮払金を家族五人分受け取ったが、 裁判費用や 医療費、生活費などに消えた。 その後、最高裁で逆転敗訴の可能性が高まり、 原告側は国への訴えを取り下げた。 九七年、国は 「仮払金は不当利得」として 返還請求の調停を申し立てた。 「国は被害者を救うどころか、地獄に突き落とした」。 無数の病と返す当てのない借金。 底無しの失望感が残った。(敬称略) ※ 新聞記事の冒頭に戻ります。 カネミ油症事件の仮払金返還免除特例法が一日、成立した。 「心の重しが取れ、ようやくスタートラインに着いた」。 そう言いながら、カネミ油症五島市の会会長、 矢口哲雄(83)の表情はさえなかった。 苦しみながら死んでいった人、 仮払金返済に耐えきれず自死した人、 今も油症を隠して暮らす人 自身と仲間たちの四十年間の苦悩、 そしてこれからを思えば、手放しで喜べなかった。つぎへ つづきます。【カネミ油症のこと】 カネミ油症ドキュメンタリー見て下さい
2013年02月12日
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ゆーりっくさんのブログ から 転載させていただきましたKBCが制作した カネミ油症 ドキュメンタリー 2作品が東京メトロポリタンテレビで放送されます。明日の夜の8時と来週の2週連続です。東京のみなさま、ぜひご覧ください。カネミ油症って ご存知ない方々にぜひ 見ていただきたいです。<東京メトロポリタンテレビ> 2月12日(火)20:00~背負いし十字架 (2009年) 2月19日(火)20:00~救済のとき (2010年) 東京メトロポリタンテレビって、隣接している県でも入るのかな…? ということですが、テレビのない私は、東京メトロポリタンテレビって初めて聞きますが、ふつうのテレビで見られますか?【カネミ油症のこと】 カネミ油症、会社に責任ないと認めれば金を支払う
2013年02月11日
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1.カネミ油症、41年前のレポート2.カネミ油症、歯のない子どもたち‥からの つづきです。 会社に責任ないと認めれば 金を支払う YYさんも、I Kさんも、いわゆる≪起訴派≫に属するが、 起訴した動機について語ってくれた。 『示談にして、十何万円かの金をもらっても、カラーテレビ一台を 買ってしまったらおしまいでしょ。 先行きの短い私たちはよいとしても 子どもたちの将来を考えるとね‥‥大きくなって、 ≪とうちゃん、あの時、どうして金をもらっちまったんだよ≫ と 恨まれるようなことになるかもしれませんし』 と。 集落の人たち大半がむすんだ示談契約を要約してみよう。 重症 40万円 中症 30万円 軽症 20万円 ★ 小学生以下は、この70%、老人は80%、 すでに支払われた見舞金 何万円也はこの中から差引く。 ただし、右の金は、油症問題につき、会社には何ら法的責任が ないことを認め、ほとんど治療が必要なくなったものにだけ支払う。 示談金支払い後は、いっさい金の請求はしない。 もし、あなただったら、どうするだろうか。 食卓をかこんだ家族の顔は、みんな≪ばけ物≫のように 黒く、変色し、吹出物ができている。 痛みとかゆみで、夕べは眠ることもできなかった。 背中や肩、首すじからは膿が出て、ただれてしまった。 衣類やシーツにはりついて、寝がえりをうつのも死ぬ思いだ。 けさも、食欲がない。 何か食べなければと思い、口にいれるのだが、むかつく。 油ものは見るのも嫌になった。 遊びざかりだというのに、子どもたちは全く元気がない。 だるそうだ。 はたして、人並みに育つだろうか。 油症にかかってから、両親ともに働くのも不自由になり、収入もほとんどない。 そのうち、子どもたちに弁当をつくってやることもできなくなるかもしれない。 待つのもくたびれた。 赤ん坊にミルクを買ってやらなければ‥ 医者にみてもらわなければ‥ 大学病院にかかりたいが、交通費もかさむ。 数日がつぶれる。 途中で、食事もしなければならない。 裁判をして、十年も二十年もかかるのでは、とても辛抱ができない。 いや、今ここで示談をむすんでしまったら、将来、どうなるか。 たしかに、金は今すぐにでも欲しい。 一万円でもあれば、どんなにか助かるだろう。 でも、子どもたちが無事に育ってくれればよいが、 もし一生、身動きのできない体にでもなったら、 誰が責任をとってくれるというんだ。 示談をめぐって、被害者たちは分裂した。 カネミ倉庫と示談交渉をすすめてきた≪患者の会≫ 会長のMHさんたち役員は、会社から、金やカラーテレビ、 電気あんま器をもらったのではないか、と 噂された。 示談契約をすすめたMHさんは認定患者ではないが、 おくさんが認定されている。 会社から金をもらったというのが、もし、噂どおり本当だったら‥ 黒い赤ちゃんを 三人産んだ 家の前に、夏みかんの木が植わっている UYさんのお宅を訪ねた。 ≪起訴派≫の会長をしている TMさんに、 『UYさんは、あなた方に会ってくれますかね。 かなり気性の激しい人だし、今までも報道関係者には、ずい分、 悩まされているから‥』 と 言われていたので、緊張した。 UYさんは、三人の黒い赤ちゃんを産んだ。 B浦では、もっとも早く発症したひとりで、テレビなどでもうつされた。 報道人は 極力さけ、TM会長とも ようやく話をするようになったという UYさんだが、歯のことから始まってポツリポツリと話し始めてくれた。 黒い赤ちゃんを三人も産んだというので、子どもは三人と思っていたら、 まだ上に三人いた。 計 6人。 全員が油症。 油は 6升、食べた。 まっ黒で生まれてきたKくんは、まもなく3歳になる。 胎内にいる時、母親がカネミ油を食べている。 生まれてからも母乳を飲んだから、Kくんの小さな体内には、 PCBがたくさん入り込んでいる。 今でも皮膚が普通以上に黒い。 特に、目のまわりや歯ぐきが目立つ。 お母さんのそばで遊ぶ Kくんは、とてもおとなしい。 話の途中に、となりの部屋で泣きはじめた赤ん坊を、UYさんが抱いてきた。 色がまっ白で、これが黒い赤ちゃんかと思うくらいだ。 町の助産婦さんの話によると、PCBが母乳とか血液などから体の外に 出ているためか、あとから生まれる子の方が少し軽くなっているようだ、という。 なるほど、この赤ちゃんが、下の三人の子どもたちの中では いちばん元気のようだ。 母乳を飲ませなかったのはよかったと思うが、 母乳を止めてしまわないで出しつづけていたら、あるいは母体から PCBが、少しでも出ていったのではないだろうか。 そういう指導が、医師や医療関係者などからなかったのは残念だと思う。 母親に蓄積されたPCBが、Kくんたちに移ったことで、 母体のPCBが減少したとも言えよう。 出産によってのみ、人体からPCBが排泄される。 (しかも、胎児に移されることによって) この事実を、わたしたち女性は何と受けとめるべきであろうか。 医者は 頼りない 医師といえば、現在、医療制度が問題になっているが、この玉の浦に おいても、油症問題ではたした医師の役割に対する批判は強い。 はじめの頃、町の診療所では油症の診断をうけても、 別な時に、長崎などの教授にみてもらうと、 『油症とは関係ない』 と されることがあった。 これが、たびたび重なるうちに、診療所の医師は 油症と診断することが、ほとんどなくなった。 大学の先生と違う 診断をしたのでは、信用問題だというわけなのだろうが、結果的には、 油症を発生させた会社にとって、きわめて有利にさせている。 また、めったにしか行なわれない検診の時にも、まだ 終わらないうちに、大学から派遣された医師が記者会見をして、 きょうの新認定患者はいない旨を発表したこともあったそうだ。 被害を受けた人たちにしてみれば、この日を待ちわびて 身体の苦痛や、生活の苦しみを訴え、知ってもらおうと、 どれだけ期待をかけているかははかりしれない。 にもかかわらず、医者の方で認定する気がないのでは、 わずかばかりの治療費すらも会社に請求することができない。 B浦とは反対側にある K浦の集落にすむOZさんの赤ん坊は 昨年7月の検診で、心臓に穴があいていることがわかった。 この赤ん坊も生まれた時、黒かった。 検診の時には、すでに黒味は消えていたが、 医者に見せると、即座に異常なしの診断が下された。 OZさんのおくさんは、翌日、助産婦に黒い赤ちゃんだったという 証明書をつくってもらって、再び、検診を受けた。 そして初めて、心臓に穴があいていることがわかったのだ。 このようだから、他にも、まだまだ想像もできない 症状を持つ子どもたちがたくさんいるかもしれない。 歯についても、油症との関係を指摘した医者は、 今のところ いないらしいが、PCBに カルシウム代謝を不調にする働きがある以上、 油症が歯の発育に影響していることはまちがいないだろう。不良品とわかっていて離島に安売り?! へ つづきます。【カネミ油症のこと】 カネミ油症、歯のない子どもたち‥
2013年02月09日
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カネミ油症、41年前のレポート からの つづきです。 『背中から腰から、足元まで節々が痛むんです。 吹き出物で体中がぶつぶつになって‥』 と 言いながら、 YYさんは、首や 背中の痛みを 確かめているようだった。 わたしは、水俣病の患者さんに聞いた 言葉を 思い出した。 『正座をしてしびれるのとは 違うんです。 何ていうか、 医者が手術のとき、うすいゴムの手袋をしているでしょ。 そんなふうに、いつもうすい膜でおおわれているようなんです。 はがしたくってもはがれない。 それが全身なんです。 もう、自分の体じゃないみたいですよ』 運動直後に 急死 YYさんたちの場合、人間の体とは相入れない物質が 意志とは全く かかわりなく入り込んで、いつまでも いすわりつづけている。 この点ではPCBも水銀もおなじだ。 どちらも栄養になると思って食べた 油や魚にまじって体内に入りこんだ。 油になじみやすいPCBにとって、人間の脂肪は とても居心地がいいにちがいない。 肝臓や 胃や 腎臓などに どんどん 入り込んでいく。 多量のPCBに汚染された鳥の中には、産卵直後に 死ぬものがよくあるという。鳥は、産卵によって、 急激に体力を消耗し、脂肪が使い果たされたため、 PCBは行き場がなくなって、能や内臓などに 一度に入りこむ。そのため、急死するのだ。 人間も同じだ。 被害者の中には、運動して汗を流した その日の晩から症状が悪化し、数日後に死亡した人がいる。 また、抗生物質が全く効かないというから、油症で 弱っているところに、新たに病原菌が侵入したら 死期が早まることも、充分、考えられる。 YYさんの子どもが聞いてきたように、油症患者が 十年早く死ぬというのも、あるいは本当かもしれない。 YYさんの一番上の娘さんは東京にいる。22歳だが、 最近、准看護婦の資格をとり、こんどは、三年以内に 保健婦の資格をとる‥と、はりきっているそうだ。 この娘さんは上京して以来、長崎で下宿している弟に 毎月、欠かさずに1万5千円ずつ仕送りしている。また、 YYさんが家を新築したときには、10万円を送ってくれた。 『そんなにいいお姉さんがいるんじゃ、弟さんも 勉強に身が入るでしょうね』 と 言うと、この 息子さんもやはり油症にかかっているのだという。 『親には 気づかれたくないようなんですが、春と夏の 休みに帰ってきたとき、カネミの油を食べてるんですね。 検診のとき、いなかったんで、認定されてませんが、 体には、ぶつぶつができているはずです。 体力もなくなってきているようです』 来年の四月には、大学を受けたがっているというが、 親からはなれ、誰ひとり相談するものもなく、 『奇病』 に苦しみながら暮らしているのかもしれない。 高校二年といえば、もっとも人生に悩む年頃であろう。 被害者の中には、学校に行っても、友だちを避け、 吹出物のできた顔を見られないように、教室の隅で うずくまっていて、便所にいくのも人がいなくなった 休み時間の終り頃をみはからっていくものが多いと聞く。 YYさんが、息子さんたちへの期待を話してくれるのを聞きながら、 少年のあの残酷さの抜けきらない年頃の仲間たちに、 息子さんが手痛い仕打ちを受けることがなければよいが、 受けたとしても乗り切ってくれればよいが、と思うことであった。 けつぺたに トンコブができた YYさんの家の近くに住む IKさんは、顔としもに 吹出物ができ、髪の毛がはげたうえ、最近では、 『けつぺたにトンコブができている』 そうだ。 好きだった酒を飲むと、むかつくので やめた。 昭和43(1968)年の田植え時、カネミ油を 一斗 買いいれた。 小麦粉でドーナツを たくさん揚げて、近所にもふるまった。 忙しいからドーナツばかりを食べていた。 吹出物やむかつきが、この油のためだとわかったときまで、 約9升の油を食べた。 家族のうち6人が認定された。 末っ子のAちゃんは、未熟児で生まれた。ミルクも牛乳も食事も あまりとらないというAちゃんの体は小さく、油症のため、色が黒い。 現在、集落内の保育園にかよっている。2~3歳で乳歯が出そろったが、 まもなく、ほとんどの歯がぬけてしまい、今では2本しか残っていない。 起きたばかりで、仕たくのしていないAちゃんを呼びにきた近所の女の子に IKさんのおくさんは、『餅を持ってきたか』 と 聞いた。 『持ってこない』 と 答える女の子に、 『保母さんが二つ持ってくるように言ったってよ。 取りに行っておいで』 と 言いながら、家に戻らせた。 この女の子の方が一つ年下だというが、Aちゃんの体の方が小さい。 Aちゃんに限らず、油症にかかった子どもたちの中には歯のない子が多い。 乳歯のはえそろうのも遅く、永久歯にはえかわる頃、 カネミ油を食べたものには、乳歯が一本残らず欠けてしまってからも、 なかなか永久歯がはえてこない場合があるのだ。 おまけに偏食の傾向がはげしい。 Aちゃんの姉にあたる小学校4年生のSちゃんも、 今頃になってようやく永久歯がはえてきた。 野菜も魚も嫌う。 以前は、背も高く肥っていたのに、今ではやせて、他の子に どんどんぬかれている。 顔などもスミを塗ったように黒い。 11人もの子どもを産み、49歳とは思えないほど体格のよい IKさんのおくさんも、いつも涙や目やにが出ている。 吹出物は、身ぶるいするほどかゆくて、一度、夢中になって 思いっきりかいたら、臭い汁が出て、はれた。 息切れもはげしくなったそうだ。 油症でさえなければ、 野良仕事に出て、十二分に働ける人なのに‥‥。 罪をおかしたのは 誰か? B浦のほとんどの人が、カソリック教徒だ。 神父さんは教会改築のため、寄付集めに長崎に出かけられて留守だった。 花壇の手入れをしていた中年のおばさんに話しかけた。 この方は、未認定の被害者だった。 『認定されんということは、それだけPCBの量が少ないのでしょ。 認定患者より軽いのだと思って、安心してるんです』 と 陽気にしゃべるおばさんを、わたしたちは、 『いえ、PCBはいつどんな症状であらわれるかわからないから安心できませんよ』 と おどかしてしまった。 事実、玉之浦にただ一軒ある歯科医のKさんも、油症に認定されて、 まもなく亡くなった。しかも、認定では軽症の判定だった。 話の途中、遠くの方で働いていた同年輩の女性が、何を 話しているのかと大声で聞いてきた。 おばさんは‥ 『罪を犯したんで、告白してるのよっ』 と 笑いながら答えた。 PCBの混入した油を、美容と健康によい、 このまま毎日 飲んでも効果的だ、と 宣伝して、 大量に販売したカネミ倉庫の加藤三之輔社長より、 はるかに罪が軽いと思われるこの集落の人たちに、 神父さんはいつも何を告白させているのだろうか。 B浦50戸のうち、ほとんどが被害者家族だというのに、 会社を告訴しているのは四家族だけだ。 新聞を購読しているのは神父さんだけだという。 この地域の人たちは、カネミの流した噂を本当に信じている。 『裁判になれば10年も、20年もかかる。 莫大にかかる裁判費用があるのかね‥』 と。会社に責任ないと認めれば金を支払う へ つづきます。【カネミ油症のこと】 カネミ油症、41年前のレポート
2013年02月08日
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今から 41年前、長崎県の五島列島や、福岡、広島などを 訪ねて、カネミ油症で苦しんでいる方々に お会いしました。西日本一帯に奇病が発生‥ その原因が カネミの米ぬか油(ライスオイル)に PCBが混入したためと わかってから四年目、私が20代半ばのことでした。その後、PCBだけでなく、ダイオキシンも混入していて、複合による被害であったこともわかりました。申請した人が1万4000人であるのに、認定された人は、2000人弱とのこと。申請しなかった人や、カネミ油症が原因とわからないで今も苦しんでいる人が 他にも多く、いると思われます。カネミ油症の11年後、台湾でも 油症の被害がありましたが、会社の会長と取締役、販売店主らは、懲役10年の実刑判決。会社は潰れて、治療費は全額、働けなくなった人の生活費など、被害者の救済は、台湾政府がしている。これに対して、日本では、カネミ倉庫の社長は 無罪。 工場長が1年半の実刑判決。治療費は、被害者の健康保険と、ごくごく一部をカネミ倉庫が負担している。カネミ倉庫は、今も 健在。日本では、企業犯罪に甘いのは なぜ?発症した時、子どもだった人たちが、今、40代、50代となり被害を 広く訴えていこうという動きがあるのを 知りました。油症の深刻さを知っているのに何もしてこなかった反省をこめて、41年前にまとめた冊子から 載せてみます。1972年3月 (清水ゆり子 記) 鯨は魚と違って、一度に一頭の子どもしか産まない。 親鯨は、子が大きくなるまで、ずっと そばにいる。 もし、子鯨が人間につかまって、姿を消してしまったら、 二日でも、三日でも、同じところを泳ぎまわっている。 ひゅーう、ひゅーうと、鳴きながら‥ 東シナ海の鯨は、とても残念なことに、乱獲のため、 昭和28年から5年間で、とりつくされてしまった。 その頃、栄えた五島列島の漁港の ひとつに 玉の浦港がある。 狭い舟つき場だが、かつては、24軒の 遊郭があったという この玉の浦。 真冬。 玉の浦の島には、ツバキ と スイセンとが 咲き乱れている。 ツバキは野生だが、実を結ぶと人々は油をしぼる。 都会の罪悪とは、およそ縁のないようにみえる この離島に、もっとも都会的な物質である PCBこと、ポリ塩化ビフェ二―ルが わがもの顔にいすわっているのだ。 長崎から船で4時間。 五島列島の南端の福江からバスで1時間。 そこから渡海船に乗りついで、ようやく 玉の浦につく。 玉の浦の舟つき場から40分歩くと、B浦につく。 ここの子どもたちが、朝、学校に出かける ちょうど同じ頃、 わたしたちは 逆に 町から B浦へ むかった。 何人かずつのグループになって登校する児童の 7~8割は、カネミ油症であるといわれている。 油になじみやすく、水にはとても溶けにくいので、 生体内に侵入したら 絶対に排泄されないPCB。 構造が安定しているため、一度、生産されたら 最後、地球上のどこかで 生存しつづける。 人体には、皮膚からはもちろん、鼻からも入る。 そして、食べものにまじって 大量のPCBが 口から入ったのが カネミ油症である。 カネミ油症の 悲惨さをみて、PCBの 製造をいち早く禁止した国もあるという。 日本では、年間一万から一万二千トンものPCBが いまだに 生産されているというから おそろしい。 油症患者は 十年も 早く死ぬ? 子どもたちにまじって、YYさんが自転車に乗って やってきた。 YYさんは、昼におひつ一杯の飯を食べ、お茶時には パンを八つもたいらげたという三人力の漁師だった。 そのYYさんも、今では すっかり 体が だめになってしまった。 四年前、西日本に出まわったPCB入り カネミ米ぬか油を 食べたためだ。 YYさんの子どもも 油症にかかっている。 小学校3年生の男の子だ。 ある夜、 YYさん夫婦にむかって いきなり叫んだ。 『うちの家族は、みんなより十年も早く死んでしまうのか。 だって、町の人たちが油症患者の寿命は 十年 短いと言ってたもの。 それなら、おれ、勉強なんか しない!』 YYさんは 胸をつき刺される思いがして 知人のところに 駆け込んだという。 うでっこきの漁師だったかれは、油症にかかってからというもの、 早朝に舟に乗って、仕かけた網を 引きにいくのが やっとだ。 あとは、誰もいない家の中で 痛みを じっと こらえている。 たまらなくなって、診療所で 痛み止めの注射を うってもらうことが 連日 つづくこともある。 わたしたちが訪ねたときも やはり YYさんは ひとりで 家にいた。 こたつには 手編み機がはなえられ、何やら編みかけてある。 そのままにしておいてくれるように頼んだのに、 YYさんは ねじをはずして、はじへ寄せて かたづけた。 『何を編んでいるんですか』 と 聞くと、 『何とかって言ってましたけど。何ですかね、それ‥』 と 逆に 聞きかえされた。 『あいつ(おくさんのこと)も アブラ症にかかてから疲れるらしく、 背中が痛い、目がかすむ、とか 言って、なかなか進まないんです。 30分くらいでやめてしまうんですよ』 と 不服そうだったが、 『わたしのこのセーターも あいつが編んだんですがね‥』 と 言って、上着の襟をひろげてセーターを見せてくれた。 くすんだ緑色とベージュ色のしゃれた模様編みだ。 日焼けと油症のために黒くなったYYさんの顔によく似合う。 『編み物の学校には一度も行かなかったんですよ。 機械を買ったところに習いに行ったけど、混んでいて、 教えてもらえなくて、それで しかたなく、 見よう見まねではじめたらしいんですがね』 YYさんのおくさんは、昼、日雇いに出ている。 700円の日当は、家計をささえるのに欠かすことはできない。 朝8時から夕方5時までの土方仕事は、油症被害を受けた おくさんにとってこたえるはずだ。 家の中がとても広々としていると思って、よく見ると天井がない。 数年前、この家を建てている途中、お金がなくなってしまって、 仕あげができないので、そのままになっているのだという。 話の途中で、何やら思い出したように 急に立ちあがり、台所に行った。 『今、餅を焼きます。忘れてました‥ 遅くなってしまって。 餅だけは たくさん つくんです。 余った米は みんな ついちゃうんです。 水につけとくんです。 悪くならないように‥』 丸くて大きい餅は ねばりがあっって、美味しかった。 豆が入っている。 砂糖と醤油をつけて ご馳走になった。 『飯も炊けるんですが、家内がいないと わからなくて‥』 と 申しわけなさそうにしてくれた。 家の中は、整理がゆきとどいている。 おくさんは 日雇いから帰って、夕食の仕たく。 編みもの。 朝は 早く起きて、きれいに掃除をして出かけるのだろう。 おくさんの内股には、こぶし大のコブができているという。 正座したYYさんは、右手でこぶしをつくって股にあてて言った。 『大きくて、ぐりぐりしてるんです』 左手で、こぶしをさすりながら大きさを示した。 漁できたえた YYさんのこぶしは 節くれだって大きい。 『わたしの左のひざも、ホラ、右と比べて、この分だけ、 ふくらんどるでしょ。 やっぱりコブになってるんですね。 こんなのが 体のあちこちにできるんです。 今日できたかと思うと、4~5日たつと消えてしまい、 こんどは別のところにできている。 このくり返しです。 背中から腰から、足元まで、節々が 痛むんです。 以前は、吹き出物で 体中が、ぶつぶつになって‥』カネミ油症、歯のない子どもたち‥ へ つづきます。【カネミ油症のこと】 カネミ油症関東連絡会 が 発足しました
2013年02月06日
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久しぶりで電車に乗って、池袋の街を歩きました。会場をさがしながら‥ そう言えば、昔、何かの集まりできたことがあったかな~と思いました。豊島区勤労福祉会館今日の集まりは、カネミ油症被害者支援センターの呼びかけによるもので、参加者は17~18名。 初めに、みんなが自己紹介をしました。発症した当時、1歳だったという五島列島 奈留島出身のMさんなんと、私が40年前、お宅に訪ねて行き採れたてイワシのタタキをご馳走になった漁師さんの 息子さんだったんですよ~!イワシのお刺身が 実に甘くて、美味しくて、以来、青み魚のお刺身が好きになりました。そして、おみやげに カタクチイワシの干したのもいただいて帰ってきました。訪ねたのは、油症が問題になって4年目‥ですから、その頃、5歳位で、あのお宅に いらしたんだと、何かのご縁を感じました。 昨年の11月に≪カネミ油症救済法≫ができて、 厚生労働省からの連絡は、被害者の会にしかない。 まだまだ カネミ油症とは知らないで苦しんでいる人や、未認定の人も多いので、関東地区でも 被害者の会があった方がよい‥ということで、カネミ油症関東連絡会 が 発足しました。44年経って、ようやくできた≪救済法≫ですが、課題や 問題も多いそうです。カネミ油症被害者認定の申請は1万4000人なのにそのうち、認定されている方は 2000人弱とのこと。 支援センターの方々の調査や行動にはたいへん、力強いものを感じました。 定例会への参加のお誘いもいただきましたが‥参加したら のめりこんでしまいそうでそれだけは 止めることにしました。 いただいてきた資料を読んだりして、また 集まりがあったら参加したいと思いました。【追記】 ゆーりっくさんのブログ にもっと詳しく載っています。 ゆーりっくさんには、3年ほど英会話のレッスンをしていただいていましたが、恥ずかしながら‥私が 投げ出してしまっているところです。長崎新聞 ≪カネミ油症を追う≫ ご覧下さい。【カネミ油症のこと】 40年前に見聞きしたことが、私の原点に‥
2013年01月27日
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若くて 美しい 私の友人である Yさんがカネミ油症 の 項目を 追加されました。 そして、1月27日(日) 午後1時半~3時半カネミ油症 被害者・支援者の 関東地区 集会が あるとのことなので、参加してみようかと思っているところです。 場所は、池袋エポック10(豊島勤労福祉会館3F)03-5952-9501 JR池袋駅西口下車徒歩7分参加費:無料主催:カネミ油症被害者支援センター連絡先佐藤 03-3982-1498、080-5078-2573石澤 042-427-6561、090-8112-2787Yさんは、一見、元気そうなのに、体調がよくないことを、時々 こぼしていました。ある時、遠方にお住まいのお父さまに電話で、遺伝?と たずねてみたら、「カネミ油症だ」と断言されたとのこと。美容と健康にいいと宣伝をして、他の油より高く売っていた‥と、40年前に聞きました。それは、西日本の人たちのことと思っていました。でも、カネミ油を食べて、苦しんでいた人が私の身近なところにも いらしたんだと、Yさんも驚かれたでしょうが、私もショックでした。Yさんは、悩み、迷われたと思いますが、資料を調べたり、検診を受けたりされ、ブログにも 書かれるようになりました。私は、20代の半ばころ、もう40年も前ですが、多くのカネミ油症の患者さんに お会いしました。でも、その後、原発の絵本づくりなどを始めてしまって、何もしてきませんでした。カネミ油症の被害を受けられた方々がどのように考えていらっしゃるかもわからなかっったし‥ でも、今40年前に 私が見聞きしたこと、憶えていることを、伝えていくことは できるし、それは 必要なことだと思って‥ それに今、カネミ油症のことが、どうなっているのかも知りたいし‥ それで、あさって 27日の集りに 参加させていただこうかと思いました。このブログを始めたのも、7年前に10日間ほど、五島列島めぐりのことを 載せようと思ったから‥。私としては、初めての本格ひとり旅でしたが、 空港の 手荷物検査で アウト!カッター、ナイフ、ハサミ、爪きり‥を、機内に持ち込もうとしてしまいました。福江城跡のお堀端では、ひとりぽっちの猫と乏しい食べものを 分かちあいました。「私も83才になりました」という Tさんにお会いするために、福江から バスに乗って、玉之浦町へ‥真冬でも、野生の椿と水仙が咲く島 です。二十代の頃、PCBのことを知りました。身の回りのいろいろなもの、電化製品や 印刷インク…忘れてしまったけれど、その他たくさんそれらの製品が捨てられたとき、環境汚染は深刻で、食物連鎖で私たちの体の中に入ってかなりの悪い影響を及ぼすこと。PCBが入った油を食べて、苦しんでいる人たちがいる。しかも、集中して、離島に…初めて、玉之浦に行ったのが1972年の1月でした。その4年前に、カネミの油で、多くの人たちが 発症。原因がわからず、各地で、何重にも苦しんでいて、PCBが原因とわかり、ほっとしたものの、治療法はありませんでした。 会社は、玉之浦町の被害者のお宅を 一軒一軒歩いて、示談契約を 結びました。重症 40万円中症 30万円軽症 20万円 ★ 小学生以下はこの70%、老人は80%★ すでに支払われた見舞金はこの中から差引く★ 示談金支払い後は、いっさい金の請求はしない というものでした。情報も少ない中で、Tさんは 長崎や福岡の被害者と連絡をとって、『 玉の浦町油症患者の会 』 として、裁判等をしてきました。長崎に出るのにも泊りがけで行かなければなりません。 Tさんは、林業の仕事を他の人にゆずって、油症のことに取りくまれました。34年前にお会いしてお話を伺ったほとんどの方は亡くなり、自殺された方も… 何も出来なかった自分が… 今ごろ何のために、ここにいるのか? 暗く、居たたまれない気持ちになりました。これは、Tさんを訪ねたあと、暗い気持で、福江島から船に乗って、久賀島、奈留島、中通島、小値賀島、宇久島をまわって帰宅してから 書いた文章からです。玉之浦で おひとり住まいをされているTさんは 今は、90歳くらいのはず‥27日の集りの連絡先になっている、石澤さんは五島にも、10回位も いらっしゃった‥とのこと。『カネミ油症で、 今もなお、大勢の人たちが苦しんでいる たいへん、大きな問題です』と おっしゃってました。40数年前に出まわった、PCB入り米ぬか油のために今もなお、若い人たちも 苦しんでいる。 その原因が、カネミ油によるものであると証明し、認定されるのは限りなく 難しいのが 現実だと思います。これって、原発事故のこれから先、40年後のこと‥とも重なってきて、胸が苦しくなってきます。
2013年01月25日
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