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住宅保障会社からの使用停止通告と退去勧告に法的拘束力がない事は私にも分かっていたが、根本的原因は私が家賃を滞納したことだから仕方が無い。三月には一旦は、必要最小限の身の回りのものだけを知人のところに預けることにして部屋から退去することにした。ところが知人の車を借りて荷物を運ぶ最中に私は物損事故をおこしてしまった。その後、負債の督促に車の修理代の請求まで重なって、精神的ストレスは募るばかり。結局友人の弁護士の勧めもあってマンションのオーナーが裁判所に訴えるのを待ち、その判決が出るまで部屋に居座る事にした。社会人としてはやってはいけない、図々しい卑怯な始末の仕方だ。そして4ヶ月。有り金14円で1週間過ごしたり、3日4日食べれなかったり、電気、電話、ガス、水道、ネットを度々止められたが、それは収入を得るために働かなかったから当たり前のことで、むしろ充実した穏やかな癒される時間を過ごす事が出来て私は本当に幸せだった。読みたい本を読み(半年間に約70冊)、季節を感じさせる川辺の道を散歩し、走り、近くの川で釣りをしながら過ごす事の充実感。ネットの束縛から離れ、煩わしい電話に邪魔されることなく過ごしたゆったりとした時間の流れは本当に貴重なものだった。 そんな私に向かって、「将来の事を考えない浅慮! なんて自分勝手!」と多くの人は思うかもしれない。 実際元『相棒』はよく言った。「自分勝手な人! オーナーの事考えなさいよ!どれだけ迷惑してる事か!」って。 確かにその通りだろう。しかし彼女にとっては、私の事より、オーナーの事が心配だったのだろうか? 彼女の常識外の私の感覚をかたきの様に感じたのだろうか? 五月に判決が出て六月末日までに部屋を退去しなければいけなくなった。その決定は住宅保障会社の都合で、七月半ばに変更になった。引越し代も無い私は住宅保障会社の言う処理方法に従わざるを得ないのだ。やはり、熊本に帰ろうと私は思った。障害者であった妹のために熊本に帰る事は私にとって既定の事で、実際におよそ20年前、一旦は帰熊しようとした。それが色々な事が重なり、その事を果たせず、妹も亡くなってしまった。妹の事はさておき、それ以来私は熊本での自然との一体感のある生活を望んできた。平たく言えば、土いじりと釣りの出来ない生活に私は耐えられないのだ。ところが荷物を搬出する5日前、仕事仲間から連絡があって、熊本に帰るのを一ヶ月位延ばせられないかと言う。三食付けて彼の家に居候させてやるから、今度彼が手がけることになったプロジェクトを手伝えというのだ。突然の事でどう返事すれば分からなかったが、あまりリアリティーのある話にも感じられずとにかく断った。しかしそれから何回も電話がかかってきた。プロジェクトのテーマ自体は非常に面白い。すでに失いかけていた、仕事に対する興味が少し復活した。結局、引越しの前日OKの返事を出し、私は彼の家に3週間居候した。居候して早くも2日目に私は激しく後悔した。仕事仲間の彼は、気の良い優しい奴だが、私も彼も長年リーダーを務めてきた。二人とも個性は強い。そんな個性と自意識が強い人間が24時間一緒にいれば、哲学も社会感も生活感覚も違う人間から、激しくぶつかり合うのは当たり前の事で、しかも彼の奥さんも同じ仕事を以前やっていたので、たちまち仕事と言わず人間関係が大波に翻弄された。何の因果で…と思いつつ、それでも3週間我慢した。その間、私は彼から「お前は口を挟むな!」と怒鳴られ続けた。私は貝になって日を送った。本当はすぐにでも彼の家を出たかったのだけど、結局私の主張した方式でプロジェクトを進めていくのが、一番合理的だと彼も納得して、その方式でやる事になったので、言った手前責任も生じて、3週間我慢した。煮詰まったのは彼の方。大体の方向性が定まった日、体制が整ったのでお前はもう熊本に帰って良いよと言われた。態の良いお払い箱。でもホッとした。 同時に困ってしまった。実は私の熊本の実家はすでに無い。熊本には姉の家があって、部屋の家財はそこに送った。ところが姉は東京の人間と再婚しているので、熊本には月の内1週間位しかいないのだ。そしてその頃、姉は熊本にいなかった。つまり、熊本に帰っても、姉の家に入ることも出来ず、泊まる処が無いのだ。そこで以前から暫く過ごさないかと声を掛けてくれていたここ埼玉北部の街に2週間前にやって来たという次第。友人の父親が一人で暮らすこの家を訪ねたのは初めての事。父上とも始めて会った。それから2週間。人生の道半ばにして 正道を踏み外したわたしは 目が覚めると暗い森にいた(ダンテ『神曲』地獄偏1.1~3より) ここに来る時には電車でやってきたが、先週末東京に仕事の事で呼び出された帰り、電車賃も無くなったので、親戚に預けておいた自転車を走らせて帰ってきた。直線にすれば約60キロであるが寄り道をしたりしたので約90キロ。7時間かかった。12時を過ぎた夜中の道を一人帰ってきた。数日前までの暑さが嘘の様に肌寒い日であった。それは熊本まで自転車で帰れるかというテストも兼ねていた。自転車で熊本まで帰るかもしれないと話すと、周りから呆れられ、リアリティーがないと言われた。熊本までの航空運賃を出そうかと言ってくれた人間もいた。それらに対して私は上手く反論出来なかったけれど、私にとって、(実際にやるやらないは別にして)自転車を使って帰熊は凄くリアリティーのあることなのだ。釣りをしながら帰ることは私には生きる意味のある行動だと思える。決して航空運賃がないから自転車で行こうというのではない。第一自転車で帰った方が余程高くつくのだ。山口県防府市に生まれ、放浪の旅に生涯を送った自由律の俳人、種田山頭火。彼は熊本でも長く暮らし、熊本の事を第二の故郷と呼んでいる。分け入つても分け入つても青い山まつすぐな道でさみしい昨年仕事で御一緒した著名な劇作家は、以前NHKのためにその山頭火を主人公にしたドラマを書いておられる。打ち合わせをしている時に、その話が出て、「私、山頭火が好きなんです」と先生に話したら、「君、山頭火に気質が似てるかもしれないね」と笑いながらおっしゃった。おちついて死ねそうな草萠ゆるいい気なもんだと思うかもしれないけれど、自転車での帰熊は、私にとって山頭火の放浪吟行と同じなのだ。自然の呼吸と行為と感覚が一体になること。それこそが生きる意味だと思う。熊本では友人に頼んで熊本市から車で2時間程かかる九州山地の山の中(そこは祖父と父の生まれ故郷でもある)と海に面した天草の2箇所で仕事を見つけてもらっていたのだけど、それは、仕事の内容で頼んだのではなく、場所、生きる意味のある感覚を味わえる場所に行きたいと思ってリクエストしていた。別にどうしてもやりたい仕事だったわけではなかったから、熊本に帰るのを延ばして、仲間の仕事を手伝った。後から熊本での仕事は他の人を採用したと連絡があった。仲間の仕事を手伝って、改めて長年携わってきた仕事の面白さに興味を持った。その意味ではどっちつかずの宙ぶらりん。今までの仕事をしながら生きていければ幸せだろう。しかし、現実には、身に一銭の金も無く、オーダーが入っても意に叶わぬ仕事ばかり。だったら、やはり生きる意味を感じられるところで生きていった方が良いのかとも思う。高村薫の『照柿』の中に「階段を上りながら、この右足は憎悪、左足は未練だ等と考えた。一段事に入れ替わる。憎悪、未練、憎悪、未練」という一節があった。私は元『相棒』への激しい『想い』の中で生きてきた。つまり『未練と憎悪』。元『相棒』への想いだけではなく、仕事に対してもそうかもしれない。意味の無い仕事はもうやりたくないという想いは、ここ数年強くなっていたし、去年会社を辞めた時点でやはり人からオーダーされた仕事はもう止めようと思った。辞めた後仕事のオーダーは幾つかあったし、今でも営業活動をすれば幾つかの依頼はあるだろう。しかし、自分が意味があると思えるテーマ以外のものはもうやりたくない。この街に来てからも釣りに行った。この時期の私の釣りはヤマベの毛針釣りばかり。私は毛針が一番好きだ。毛針は基本的に『むこうあわせ』である。浮き釣りの様に、駆け引きしてこちらから仕掛ける事はない。相手の魚の引きに単純に反応して竿を上げる。 相手の(魚の)強い引きを待つばかりの釣り。今までの私の生き方もそうであったと思う。相手の思いと行動を待つばかり。こちらからは仕掛けない。行動しない。相手のアタリ-食いつき(想いと行動)を待つばかり。 やりたいテーマを持ちながら、自ら努力してその実現を目指すことの無かった仕事もそうであったし、元『相棒』との関係もそうだったのかもしれない。3月以来、「いつかは分かってくれる」と、じっと元『相棒』の心の変化を待って、そして結局元『相棒』との距離の遠さだけを感じ、1つの季節の終わりを実感した。 私の彼女に対する想いと彼女の私に対する想いの違い、遠さを実感した。 私は彼女を愛していた。しかし彼女は私をそんなには愛していない。その想いの違いに絶望した。 生きている意味が無いと思ったその絶望から立ち直り、それでも生きていこうと思ったのは、私の中から彼女への愛が薄らいできたからなのだろうか。私の日常から彼女の影が段々と消えていったからなのか?。 「何でそんなにいちいち彼女に過剰に反応したの? 彼女の事はもう放っておけば良かったのに! 人生失敗したね。もっと良い仕事が出来たのに」と言ったのは私の元助手。その言葉が改めて身に染みる。 後悔はしていないが、私は確かに人生を失敗したのかもしれない。まだ雨が降っている。けふも濡れて知らない道を行くわれとわれに声かけてまた歩き出すこゝろつかれて山が海がうつくしすぎる 山頭火
2008年08月25日
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死にそこなつて虫を聴いてゐる 山頭火一週間前にはかしましい蝉の声に包まれていたのに、今日聞こえるのはかそけき秋虫の泣き声である。まだ八月だというのに肌寒く秋雨の様な小糠雨が降っている。一年5ヶ月振りのブログ更新。現在私はやさぐれてホームレス状態。いや、言葉の正しい使い方から言えば、「家出をする」「家出人」が原義の「やさぐれる」という言葉はあっていない。明日まで埼玉県の熊谷近くの知人の家に寄留している。つまり居候。明後日、故郷の九州熊本に向けて出発する。夏の里帰りではない。言わば都落ち。熊本に帰ったらもう二度と東京で生活することは無いと思う。尤も悲壮感は殆どない。飛行機で行くのか新幹線で行くのか、はたまた自転車で行くのか、まだ決めていない。自転車と書くと「?」と思われる方も多いと思う。しかし、私は至極真面目にその選択肢も考えている。要は、道中好きな川釣り(毛鉤釣り)をしながら帰りたいと思っているだけだけど。状況から言えば、とてもそんなノンビリした事等考えられない刹那なのだけど…このみちやいくたりゆきしわれはけふゆくしづけさは死ぬるばかりの水がながれてこの書き出しで始まる種田山頭火の『行乞記』をここ二週間ばかり繰り返し読んでいる。山頭火の覚悟に比べれば私の感慨等甘いものだとしきりに想いながら。この一年色々な事があった。いや、色々な事をやらかした。後継者になってくれと社長に懇願されて役員で入社した会社は去年の年末近くに退社した。いや首になったと言う方が正確だろう。同時期私が連れて行った仲間を初め、私のいたセクションの半数の人間が退社した。その他の人間の辞表も預かっていたのだけど彼らには辞めない方が良いと言って引き止めた。つまり入社早々経営方針をめぐって対立した社長との争いに敗れたのだ。正直に言えば、仕事は楽だった。只精神的に疲れた。挫折と言えば言えるかも知れないけれど、本人にその自覚はあまり無い。辞めた後無気力になったのは事実だし、鬱病状態でもあったけれど、しかし、仕事的には失敗したとは考えていない。ただ何事に対しても意欲が無くなった。別に「死にたい」とは思わなかったけれど、「生きたい」とも思わなくなっていた。私本来の仕事もやりたくなくなっていた。その意味では本当に鬱状態。その精神状況から回復するのに二ヶ月近くかかった。只漫然として為す事なく時を過ごした。食欲は無く、夜も眠れなかった。救ってくれたのは、忙しさから忘れていた読書。例えば小説。例えば歴史の本。例えば民俗学の本。その中に息衝く人間達の「生命」の感覚。それを知る喜び。昔、仕事に疲れ、長期間唯々家で本を読みながら過ごす事が度々あった。朝から晩まで家の者とも殆ど言葉を交わず、寝っ転がって本ばかり読んでいる。そんな時でも、元女房は殆ど文句を言わなかった。収入の無さにも文句も言わず、もっと働けとも殆ど言わなかった。唯黙って生活の下支えをしてくれた。そんな生活を送りながら、仕事の師匠(もう90歳を超えているけど健在)と会うと、先生は「俺達はチエホフの『厄介叔父』やツルゲーネフの『余計者』の様にしか生きられないのだから」と言う。 良い気なものだと感じるかもしれないけれど、先生も私も現実にそんな風にしか生きられないのだから仕方がない。 所詮、生きる事の捉え方が人と違うのかも知れない。私には仕事上も個人的にもかなりの負債がある。去年暮れに退社した会社へ入社する条件が仕事上の負債の肩代わりだった。社長が提案した。それを信じて非常に安い給与設定にもOKした。ところが入社してみたらその約束は反故にされ、入社後数回支払われた会社からの負債への返済は、会社に対する私の借金という形になった。それを月々の給料から更に差し引かれるのだ。納得いかなかったが、返済に対する会社の関与を止めてもらった。すると会社からの給与だけでは、月20万の赤字になった。情けない話だが、月後半の昼飯代にも事欠く有様。私は意外とまめに毎日弁当を作って出勤していたのだけど、月後半は金欠病でそれも出来ない。月末には、砂糖を多めに入れた珈琲を昼飯代わりに飲む事が多く、若い女子社員に「常務はこの頃珈琲ばかり飲んでいますね」と言われる始末。接待費どころか営業経費も殆ど出してもらえず、名ばかりの役員に出るのはため息ばかりの有様だった。そして、まだ退社する前から、住んでいるマンションの家賃も払えなくなつてしまったのだ。退社の時にも色々あって、いよいよ金欠病は極まった。退社から日を置かず、マンションのオーナーとの間に入っている住宅保障の会社から、部屋の使用停止通告と退去勧告が出された。負債の督促も毎日の様に来る。日銭を稼が無ければいけない。それは重々分かっていた。しかし、現実には鬱状態の私は金を得るための勤労意欲が殆ど無かった。と言うか生きたいという気力がまるで無かったのだ。このまま何も食べずに死んでも良いと思っていた。多分このまま死ぬだろうと思っていた。言い訳めいて聞こえるかも知れないが、私の父が常日頃言っていた、金のため、生活の為の仕事を絶対にするなという戒めを思い出していた。私の父は、私が物心つく頃から脳梗塞で倒れるまで、始終、金のための、生活の為の仕事をするな! 只食うためだけの生きるためだけの仕事をするな! 意味のある仕事をしろ! それで無ければ死ぬ方がましだ!と言い続けた。父は研究のために生活を省みず、かなりあった祖父の身上を全て使い尽くしたからそれで良かったかもしれないが、使い尽くされて潰すべき身上のない私にそれを言われても…と、昔よく苦笑いしたもんだ。しかし、人が生きるのは唯食って寝てウンチをする為ではない、物理的に生き永らえるのではなく、精神的な生を全うしなければ、思想哲学、諸々を考えて、そのために生きていかなければ、生きていく意味がない。死んだ方がましだと改めて私は思っている。気力が回復したのは読書と体操と釣りのお蔭。鬱状態になってから二ヶ月目に、以前やっていたトレーニングを再開した。トレーニングと言っても、ストレッチとラジオ体操と木刀の素振りとジョギング。生きる気力が無いといってるくせに、何故に体を鍛えるんだ?と、自分でも笑いながら、徐々に運動量を増やしていった。以前やったことの無かった早春の鯉釣りから始めた今年の釣りは、一番好きな夏場のヤマベの毛鉤釣りまで続き、殆ど一日置きに通って、これが気力回復に一番効果があったかもしれない。実は生きる気力がなくなった原因は、対会社の仕事の事ばかりではない。深く信頼していた人間(同僚・先輩)に裏切られる事が再三あって、それも原因。一番大きな原因は、元『相棒』との事。私は今でも元『相棒』の事が大好きだし、女性として深く愛している。生涯のパートナーと決めていた元『相棒』とは一昨年一旦は別れた。しかし仕事上でも個人的にもグズグズとした腐れ縁が続き、去年末、会社を退社する頃は、付き合いが復活し、殆ど毎日の様に逢っていた。しかし、逢った時も電話でもメールでも、二回に一回はお互いの感情・考えを主張しあい、激しくぶつかってしまう。限りなく元『相棒』の事を好きだとしても、彼女に接するたびに感じてしまうやり切れなさ、絶望感、行き違う想いを起こさせない様にという緊張感、つまりはこんな事では、癒され幸せを感じる時間も空間も永遠にやってこないのではないかという想い。 つまりは彼女との『明日の幸せ』がどうしてもイメージ出来なかった。 例えば、元『相棒』と食卓を囲む幸せや癒しの時間をどうしても想像出来ない。 季節を感じさせる料理、例えば筍と若布の炊きあげの上に山椒の若芽を載せたものを肴に一杯やりながら、穏やかにたわいのない話をしながら笑うという、そんな時間・空間をどうしてもイメージ出来ない。 私の描く幸せのイメージ等そんなたわいないものだ。別れて暮らす息子や元女房とのそんな幸せな明日はイメージ出来ても(何故なら三人で暮らしていた頃は毎日がそんな風だったから)、元『相棒』とのそれはイメージで出来なかった。 実際、元『相棒』と逢う時は外で飲む事が多かったし、彼女もそれが好きだった。部屋で過ごす時は、彼女は一切料理をしなかった。実は私は、外で飲食するのはあまり好きでないし、外から出来合いのものやインスタント食品を買って来て肴にするのも大嫌いだ。 しかし、私が望んだのは、元『相棒』との幸せな明日であって、息子や元女房ととのそれではない。 私は、元『相棒』との幸せの明日のために生きていきたかった。しかし、そんな明日がどうしてもイメージ出来ないと分かった時、もう生きていても仕様がないと思った。 もし生きていくとしても、元『相棒』のいないところで彼女と縁を切って生きていくしかないと思った。二人の仲が以前の様になったと思っていた去年の暮れに、何故私が生きる意欲を失せたのか、恐らく彼女にはその訳が分からなかったと思う。マンションを出た後どうすれば良いのか?私は故郷熊本に帰ろうかなと思った。30年間やってきた仕事を一切辞めて熊本に帰ろうかなと思った。それはひとえに、元『相棒』と精神的にも物理的にも交わらない処で過ごしたかったから。 そして熊本でのより自然との一体感のある生活を望んだから。今年の初め、元『相棒』が仕事帰りに酔っ払って夜中に部屋を訪ねてきた事がある。その時、元『相棒』はタクシーの中に携帯電話を忘れた。次の日の朝、私は自転車で往復3時間かけてタクシー会社まで彼女の携帯電話を取りに行った。私にとってそう行動する事は当たり前のことだった。それは、そうすれば元『相棒』が喜ぶだろうという気持ちもあったけれども、それ以上に、彼女が物を忘れたなら私が取りに行くのは当たり前の事。つまり自分自身が物を忘れた時それを取りに行かねばならないというのと殆ど同じ様な感覚だった。 人を愛するとはそんなものだと思う。 愛する人のために何かをやるのではなく。自分の事の様に当然の事として何かをやる。 同じ頃、私は元『相棒』に対して、「施しはいらない」と言って、彼女を怒らせた。 私が生きる気が失せ、物理的には金欠病で生活が立ち行かなくなって来た頃だ。彼女は何くれと無く援助の手を差し伸べようとしてくれた。愛する誰かの〈為〉に何かをやる。しかしそれは往々にして愛する誰かの為でなく、愛する誰かの〈為〉に『私は(或いは私が)』何かをやるという想いの中にある。過剰な自意識。つまりそれは愛する誰かの為ではなく、結局『私』の愛するという想いを満足させるための、つまりは自分のために何かをやる事が多いのではないか。私はそう思う。本当に愛していたら、あなたのために等という想いはないはずだ。やるのが当たり前、ごく普通の事。自分が生きていくためにやらねばならないと同じ筈なのだ。元『相棒』の好意の中に、私はあなたのためにやっているという想いを感じたから、それを『施し』と表現した。彼女は激しく怒って、せっかく私が好意でやってあげたのにと言う。せっかく〈私〉が○△をしているのにという元『相棒』の想い。そんな行為はいらないと拒絶する私。 私は多分元『相棒』に過大なものを期待しすぎていたのだろう。 元『相棒』と出会い、彼女を愛し、彼女と付き合った事を後悔しているかと問われたら、後悔はしていないと答える。 何故なら、 彼女出会えて幸せだったし、 彼女を愛する事が出来て幸せだったし、 彼女付き合えて幸せだったから。 出会わないより、出会えて良かったに決まっている。 後悔はしていない。 後悔はしていないが… とにかく、これから生きていくとするならば、元『相棒』とは縁の無いところで生きていくしかないと思った。
2008年08月25日
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