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● 突然の退去依頼が 2014年3月より東急池上線荏原中延駅商店街の外れで営業してきた「隣町珈琲」は、地域のお年寄りや、主婦が気軽に憩える喫茶店としてスタートし、その後、講演会、勉強会、古典芸能のイベントやこども食堂、書店営業などを展開してきました。現在は、地域文化の発信拠点として、荏原中延という町のシンボル的存在になっています。 2020年には、地域文芸誌「mal”」を創刊し、大田区の作家にして旋盤工の小関智弘を特集しました。 同誌には、内田樹、岡田憲治、小田嶋隆、川本三郎、小池昌代、佐々木幹郎、関川夏央、鶴澤寛也、豊崎由美、中田考、名越康文、古屋美登里、三砂ちづる、宮内悠介、森本あんり、安田登(以上敬称略)ら錚々たる面々が寄稿してくれました。 何よりも、「隣町珈琲」の講座に集ってくれた地域の書き手の皆さまが作品を発表するなど、地域の文芸運動、文化活動の拠点としての役割を担えたことに意義があったと思います。 この度、「隣町珈琲」が入居している建屋の取り壊しが決まり、急遽移転を余儀なくされることになりました。建屋のオーナーが、売却によって突然変わってしまい、別用途で現在の建屋を使うということで、不動産業者より6ヶ月以内での退去の依頼があったのです。「隣町珈琲」のような施設は、不動産オーナーや地域の人々との良好な関係がなければ、安定的な経営は難しいと判断し、わたしはこの退去願いをお受けすることにしました。突然の決定で「隣町珈琲」としても、事業継続の危機を迎えました。 この危機をこれまで以上に「隣町珈琲」の活動の幅を広げ、地域文化拠点として、町の活性化にも寄与するために、より広く汎用性の高い場所を確保しようと決意したところです。幸い、荏原中延アーケード商店街の中に、格好の物件が見つかり、資金的な準備に入ることになりました。ただ、引っ越し、造作、内装、装備品などで、かなりの費用を工面しなければなりません。自転車創業の喫茶店には内部留保などありませんし、最近の著作にも書きましたが、わたし個人も蓄えがほとんどない状態です。● クラウドファンディング的な投げ銭による資金調達 これまで、日本全国から「隣町珈琲」を支援してくださった皆さまに、資金のご支援を賜りたく、ここに「隣町珈琲の会」を設立しました。簡単に言えば、喜捨の窓口を作ったということです。喜捨ですので、金額の多寡は問題ではありません。直接のリターンもありません。これまでの「隣町珈琲」の活動にご賛同していただける方、皆さまのご援助をよろしくお願い申し上げます。集まったお金は、全て、引っ越し、内装、備品、会場の設営に使い切ります。何故、クラウドファンディングのプラットフォームを使わずに、喜捨という形式を選んだのかは、ちょっと悩みました。ファンディングに伴う、投資&リターンという考え方ではなく、贈与に対する返礼は、面白い拠点を作ることでお返しするのが本筋だと考えました。贈与に対するお礼は、第三者への再贈与というのが贈与経済の基本であり、それに則りたいということです。偉そうで、恐縮なのですが、この喜捨の仕組みが、これから先の、成長なき社会を支える贈与経済のきっかけになったら、これほど嬉しいことはありません。ただ、何らかの形で、今回喜捨していただいた方々への具体的なお礼ができればとも考えております。勝手なことを書き連ねましたが、心情をお汲み取りいただきたく、よろしくお願い申し上げます。● 口座情報など ご寄付は、下記の口座へのお振込でお願いいたします。目黒信用金庫 荏原支店 エバラシテン普通預金口座番号 0162347口座名称 トナリマチコーヒーノカイ ヒラカワカツミなお、お振込の際に、お振込人のお名前が判るようにしていただけると幸いです。 コロナ禍で、ご不便な日々を送られている皆さまにおかれましては、このようなお知らせをすることは恐縮なのですが、よろしくご支援のほどお願いを申し上げます。 2020年6月22日合同会社 隣町珈琲 代表社員 平川克美
2020.06.22
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ずいぶん前(2011年8月15日)になるが、東京新聞に寄稿したものを掲載しておこう。お金で買った安全神話 平川克美 3.11の原発事故以来、多くの専門家がメディアに登場した。事故はいつ、どのように収束するのか。原子炉のどこが破損していて、どのような対策が可能なのか。漏れ出ている放射能はどの範囲まで届き、どのような防衛策があるのか。人間は、何ミリシーベルトの被曝まで受容できるのか。見解はさまざまで、そのいくつかは事実によって覆された。科学的な思考が要請されたが、信憑やイデオロギーが混入しているようにも思えた。そもそも専門家のあいだで、これほど見解が分かれるのはどういうことなのか。 ■専門家の語り口 理由はふたつしかない。多くの専門家と称する人々にとっても原発や放射能について本当には分かっていないか、あるいは多くの専門家が自分の分かっていることよりも優先するものがあるために、嘘をついているかだ。素人である私にはそれ以外の理由が見つからない。…… ……専門家である以上、先行研究者の知見については知悉しており、さまざまなデータを分析しているはずである。だから、自分が研究している分野のことは、分かっているはずである(そうでなければ専門家とはいえない)。しかし、専門家が自分の分かっていることがどこまで適応可能であり、どこから先は類推でしかないかということについて分かっているのかというと、疑わしいと言わざるを得ない。……では、嘘をついているという可能性はあったのか。いかに政治色の強い課題であったとしても、かりそめにも科学を志す専門家が自らすすんでデマを撒き散らすとは思えない。だとすれば、彼らはデマにならない範囲で、自らの言説に手心を加えたり、いくつかある可能性の一つを拡大したり、語るべきことを語らなかったりといったことをしたのだろうか。もしそうだとすれば、そうしなければならない理由は、彼らが無意識的ではあっても科学的真実に優先させるなにものかに配慮したということである。 ■「国策」の正当化 専門家によって見解が異なると書いたが、原発が大変危険なものであるということだけは、ほぼ全員が一致した見解であるだろう。では、かくも危険で厄介なものをなぜ開発し、運転し続けばならなかったのか。……重要なことは、原発を推進するという「国策」だけが、明確な説明と住民合意なしに先行し、その「国策」を正当化し、実行するために、大量のお金が使われたという事実である。それらの大金は原発の安全確保ではなく、安全神話をつくるために使われた。それが問題を、科学技術上の問題からまったく別の問題へとミスリードしていった。 原発が立地された場所を歩くと、原発記念の箱物が並び、あるいは補助金がおり、雇用を生み出している。広告代理店は本来不要なコマーシャルを作り、多くのタレントや文化人が名を連ねる。それぞれに大量のお金が動き、お金の争奪が始まり、本来のエネルギー問題とは別の問題が生まれる。利権である。原発は遺伝子を狂わせる放射能だけではなく、人間の判断を狂わせる利権をもまた排出したのである。利権は一度生まれてしまえば、その保守に加担するステークホルダー(利害関係者)が増殖する。本来ステークホルダーではあってはならない専門家が、いつの間にかステークホルダーになっている。専門家の意見がかくも分断されているという理由のひとつがここに起因しているとはいえないか。 二十世紀はテクノロジーとマネーの勝利の世紀だった。どちらも万能性を志向するが、万能のパワーの使い方を必ず誤るのが人間というものである。 (ひらかわ・かつみ 立教大特任教授、著書に『移行期的混乱』など)
2019.10.09
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お客様は神様です 現代という時代は、この子供と大人の境界線があいまいになった時代だといえるだろう。その理由は様々あるのだろうけれど、私は市場経済の隆盛というものが、大きな理由のひとつではないかと考えている。 今回はそのことを考えてみようと思う。 もともと、定義も公準もない「大人」や「子供」といった言葉をめぐる考察なので、科学的な根拠のある話ではないし、何か明確な答えが出てくるような問題でもない。寝転んで、お腹でも掻きながら、読んでほしい。 お客様は神さまです さて、市場経済の席巻というものが、大人を消失させたひとつの原因であると書いたけれど、この市場経済は、ある物語を伴って私たちの生活の中に突如として立ち現れてきた。その物語とは「お客様は神様です」という物語だ。 リアルタイムで、この言葉を聞いた経験を持つ年代は、すでに還暦を跨いでいるかもしれない。この物語を宣言した人物は、浪曲師の南篠文若、後に三波春夫という国民的な流行歌手となった男である。三波春夫は、大変に興味深い人物であり、彼が歌って大ヒットした「ちゃんちきおけさ」に関しては、是非ともお聴きいただきたい秘密があるのだけれど、その話は後半に譲って、まずは「お客様は神様です」について。 三波春夫がこの言葉を使ったのは、今は亡き名司会者・宮尾たか志との対話の中らしいのだけれど、私たちの世代にとっては、関西のお笑いトリオ「レッツゴー三匹」の、真ん中にいた背の低いリーダーが、白塗りで三波春夫の物まねをして、「お客様は神様です」とやっていたのが、なつかしく思い出されるだろう。紅白歌合戦でも、三波春夫自身が「お客様は神様です」とやっていた。 金糸銀糸の着物を着て、両手を広げて発声された「お客様は神様です」というフレーズは、その後数奇な運命を辿ることになる。いや、数奇なんて大げさなことではないかもしれないけれど、とにかく微妙にニュアンスを変化させながら人口に膾炙されていくことになる。 最初は、お客様を持ち上げるというのは悪趣味な太鼓持ちみたいなイメージだったかもしれない。しかし、三波春夫にとってはこの「お客様」はちょっと違う意味を持っていたようだ。彼は、インタビューに応えて、ここで言う「神様」とは文字通り「神様」なんだ、農業の神様とか、技芸の神様とか、観音様と同じなんだという説明をするようになった。おそらく三波春夫にとっては、歌を唄うという行為は神様の面前で執り行う神事のようなものであり、雑念を祓い、虚心になって、誠心誠意その気持ちと声を届けるのだといった、技芸の発生史的な精神が込められていたのだろう。 同時にまた、そこには戦争で亡くなった同胞に対しての遥かな気持ちもこめられていたはずだ。おそらくは、その戦争で亡くなった同胞に対する思いこそが、三波春夫を他の多くの民謡歌手や、流行歌手と隔てるものなのだけれど、結論を急ぐのは止めよう。まずはこの「お客様は神様です」がどのように読み替えられていったのかを追っていくことにしたい。 消費者は神さまである 一九七〇年に大阪で世界万国博覧会が催され、三波春夫はそのテーマソングである「世界の国からこんにちは」を唄うことになる。その万国博覧会を契機にして、日本に消費資本主義とでもいうような、消費文化が隆盛を極めていく。まさに、市場経済隆盛の時代である。 それ以前の高度経済成長期には、冷蔵庫、電気洗濯機、テレビといったいわゆる白物家電が日本中の電気屋に並び、それらが飛ぶように売れていくことで日本人は豊かさを実感したわけだが、七〇年代になると、もはや耐久消費財に対する旺盛な需要は一段落し、専らオシャレや美食、健康といったものにお金を使い始めるようになった。核家族化が進行するのもこの頃で、歩行者天国が始まったのもこの時代だった。 冷蔵庫や、電気洗濯機といった耐久消費財は、一家に一台というものだったので、それらの購入を決定するのは、一家の大黒柱である父親か、それを裏で支える(あやつる)母親であったわけだけれど、市場に並ぶものが装飾品や、美食のメニューということになると、それらを購入するのは個人であり、多くの場合、若者が小金を持って、自分の好きなものを自由に選び、自由に買えるようになった。 「お客様は神様です」という言葉は、この頃より「消費者は神さまである」というように読み替えられるようになっていった。 耐久消費財が一般家庭に行き渡って以後、売り手の側は消費者を探す、探してもいないなら作り出す、ということに躍起になっていった。その中で、市場経済の動向が個々人の消費者によって左右されるという状況が生まれてきたわけである。しかも、その「消費者」とは一家の大黒柱ではなく、ひとりひとり、とりわけ若年層に的がしぼられていったのだ。 なぜなら、戦後の極貧生活を共有していた大人にとっては、「ぜいたくは敵」という観念がしみついており、自分達の生活の安定もまた儚い楼閣のようであることを知悉していたので、もっぱら剰余の金は貯蓄に回していたからだ。 金で買えないものはない 当時、市場で旺盛な消費欲を開放していたのは、若年層だった。伝統的な家父長制度の遺制のなかでは、人間を差別化する指標は家柄であったり、血筋であったり、知識や経験の総量であったり、人脈であったり、人柄であったりしたわけだが、市場経済はそれらの「しがらみ」をあっさりと洗い流し、貨幣という単一の物差しだけが大きくクローズアップされるような傾向が見られるようになった。 人間というものは、他者と同じでありたいと望むと同時に、他者から羨望されたいと望むという複雑な心性をもった生きものであり、家柄や、人柄、血脈や学歴といったものがもはや価値基準たりえなくなった時代においては、金銭だけがその羨望の対象になるほかなかったのだろう。 高額なブランド品に多くの若者が魅せられたのは、その商品の使用価値の故でないことは明らかである。かといって、交換価値だともいえない。だとすれば、それは富の象徴としての象徴価値だということになる。 封建遺制の中では、象徴価値は生まれながらに備わったいわば不公平な価値だったものが、個人の努力しだいで誰にでも手に入る(つまり金を積めば手に入る)時代になったということが言えるのかもしれない。年若い経営者が、市場から吸い上げた金を背景にして「金で買えないものはない」と豪語したとき、貨幣は他の何ものも太刀打ちできない強大なパワーそのものになったのだと私は思った。それはたとえば、大人が大人である条件としての、失敗の経験や知性の蓄積といった、長い時間をかけて積み上げていってはじめて身につくような価値をもなぎ倒していくことができるほどのパワーである。 この貨幣の万能性信仰が、大人と子供の境界をあっさりと消失させる結果をもたらしたのである。 敗残者の嘆き節 さて、三波春夫の話である。 ウィキペディアを見ると、三波の経歴としてこう書かれている。 「一九四四年に陸軍入隊し、満州に渡る。敗戦を満州で迎える。敗戦後ハバロフスクの捕虜収容所に送られ、その後約四年間のシベリア抑留生活を過ごす」 敗戦の満州で、三波のいた軍隊は置き去りにされる。そして、捕虜となりシベリアでの抑留体験が始まった。このシベリア抑留の体験がどれほどのものであったかを、戦後に生まれた私たちはうまく想像ができない。いや、おそらく同時代の内地で戦ったものたちでさえ、それは理解を絶した体験であっただろうと思う。 シベリア抑留の体験を原点として詩を書いた石原吉郎は、このときの凄絶な体験をいくつかのエッセイとして残している。ただ、その語り口はエッセイというには、何かを深く断念した者の遺言のように、沈鬱で重いものであった。ハバロフスクでは、栄養失調と発疹チフスによって多くの捕虜たちが死んでいった。彼はこのときのことを「いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまった」と綴っている。 彼らを待ち受けていたものは、極東軍事裁判とは無関係の「かくし戦犯」としての地位と、ソ連という国家への犯罪者という烙印、さらには抑留後の日本での「アカ」とみなされて生活しなければならない故郷喪失者としての帰還であった。 しかし、三波春夫には石原吉郎のような悲壮は感じられない。誰もが精神的な負債なしでは潜り抜けることができないような状況にあって、三波はつねに明るい歌声を響かせていたのだ。 「三波の明るさは、天性のもの。遺伝子そのものが明るい。おそらく、この明るさが戦場やシベリアにおいて多くの人間の命を救ったのだと思う」 三波春夫をNHKの番組で紹介した作家の森村誠一は、こんなことを語っていた。作家・森村誠一の精神は、三波春夫の何に共鳴したのだろう。 三波がデビューした当時、作家以前の森村もまた苦しい独り身の修行時代を送っていた。無産にして、頼るもののない一人暮らしの青年にとっては、年の瀬は一年で最も過酷な月である。その象徴が、紅白歌合戦というものを、安アパートの一室で見る大晦日だった。 「紅白歌合戦というものは、団欒の中で見るものであり、独りで見るものではないとつくづく思いました。独りで見るということは、つらく残酷なことです」 番組の中で、森村誠一はこんな述懐をしていたのを記憶している。 当時、紅白歌合戦は日本人が日本人であることを確認する共同体的な儀式の地位を持つ番組であり、同時に全国の屋根の下にはささやかだが手ごたえの確かな家族の団欒があった。要するに、それは親しい者たちと、小さな平安と娯楽を共有するための年に一回の貴重な時間であった。そしてそれが豊かで暖かいものであればあるほど、この共同体の時間の外にいることは、寂しく辛いことのように感じられたはずだ。 しかし、と森村は続けた。「三波春夫の歌だけは、独りで聞いていても侘しくなく、楽しめたのです」。そして、最も好きな歌として、「チャンチキおけさ」を挙げたのだった。 私はどちらかといえば、三波春夫よりも、ライバルと目された村田英雄や、三橋美智也が好きだった。しかし、いつだったか、たまたま運転していた車の中で三波の歌を聞いて、凄いな、こりゃ凄いよと思った。そのとき、カーラジオから流れてきたのが「チャンチキおけさ」であった。 それまで「チャンチキおけさ」という歌に対して私は勝手なイメージを抱いていた。温泉で、芸者をあげて、さあ無礼講という場面で流れるのが「チャンチキおけさ」だったからだ。ガード下の屋台で、上司に対する罵詈雑言で盛り上がり、小皿叩いて怒鳴るように歌うのがチャンチキおけさである。そう思っていたのだ。 このときのラジオ番組がなければ、私は三波春夫という歌手も、「チャンチキおけさ」という歌も誤解したままであったかもしれない。 「こんな悲しい歌はありません。にぎやかで、陽気な歌だと勘違いされている皆さんが多いのですが、これほど、悲惨で、孤独で、暗い、辛い歌はありません」 曲が流れた後で、三波はこのように、自分の歌を解説しはじめた。いったい、「チャンチキおけさ」とはどんな歌なのだろう。 時代は一九五七年。一九五〇年生まれの私が七歳のときにさかのぼる。私にはその当時の記憶のかけらがまだ、身体にかすかに残っている。日本が、戦前よりも貧しかったと言われた戦後の数年間を経て、相対的には安定期に入りかけた時代であった。川本三郎に言わせれば「ベルエポック」ということになる。 しかし、戦争の傷痕が癒えるに従って、新たな敗者も生まれていた。 陽気で、馬鹿騒ぎの歌と思われている(私が思っていた)チャンチキおけさ。これが、浪曲師・三波春夫の歌謡曲デビューだった。しかし、この歌詞の底にあるのは、出稼ぎや、集団就職で東京へ出てきたけれど、ついに芽が出ない敗残者の嘆き節であった。無産で、無国籍な人々が吹き寄せられた場末の風景であった。やけっぱち、というよりはデスペレートな空気が全体を覆っていた。とても、芸者をあげて大騒ぎする歌ではないのだ。 ラジオの中で三波は「どうやって、この悲しみを表現したらいいのか。そこがいちばん悩んだところでした」と言っていたと記憶している。明るい三波が、悲しみをどうやって表現するのか。それはハバロフスクで悲しみを潜り抜けてプロの歌い手となった歌手・三波春夫が、自分に突きつけた問いでもあったのだ。 私は、三波春夫は「大人が大人でありえた時代」の最後の歌い手であったと思う。さまざまな矛盾を自らの身体で引き受けるもの。それが大人が大人であることの条件のひとつだろうと思うからだ。 森村誠一が出演したNHKの番組で、その「チャンチキおけさ」を歌っている三波春夫の映像を見ることができた。金糸銀糸の見事な和服の衣装でマイクの前に立った三波は思ったよりも静かな調子でこの歌を歌い出した。そして、その瞬間、鳥肌が立った。「明るさを消すことなく、悲しさを表現する」この三波が悩んだアポリアを、彼はその歌の全体で、見事に突き抜けているように思えたのだ。
2019.02.23
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借金からわたしが学んだこと。人類学の知見は、わたしの経験と相容れるのか。自分を勘定にいれながら、贈与と全体給付の問題を考えた哲学的エッセイです。では、その一部を抜粋してみます。こんな感じです。貨幣とは非同期的交換のための道具である 現代のほとんどの等価交換は、貨幣と商品の交換という形式をとっています。しかし、もし、交換物が使用価値という尺度によって計量されるのならば、この交換はどんなに大雑把に見ても等価交換とはいえないでしょう。一方は何かの役に立つ商品であり、いっぽうは何の役にも立たないただの紙切れなのですから。では、一体何が交換されたのでしょうか。それが、貨幣の謎を解き明かす最初の問いでもあります。わたしの答えはこうです。 交換が成立するのは、貨幣というものが、それを受け取ったときに交換した商品と同じ価値のものを、いつでも、どこの市場でも買い戻すことができることが約束されているからです。(あるいはそう信じられている)。ですから、この交換(貨幣と商品の交換)で行われたことは、本来の交換(等価物の交換)の延期の契約だというべきなのです。いつまで延期するかは、貨幣を受け取った側の裁量で決まります。借金とは遅延された等価交換と書きましたが、借金の場合は、遅延の時間は、主として貸した側の裁量で決まるのです。それがいやだったら、貸さないよというわけです。交換不成立。実際には、よくあることです。遅延された等価交換を決済するに見合う担保がなければ、銀行は金を貸してくれませんよね。同じことを別の側面から見ると、貨幣交換とは「非同期的交換」であり、貨幣とは非同期的交換を可能にするマジックツールだということです。交換の、本当の実行日を自由にずらすことができる。これこそ、貨幣交換が爆発的に普及した本当の要因なのです。他の部分からも抜粋します。楕円の柔軟性を取り戻せ ここまで、わたしたちは、「贈与と全体給付の経済」と「等価交換の経済」の二つの焦点をめぐる攻防について考えてきました。それはまた、「贈与のモラル」と「交換のモラル」をめぐる攻防でもありました。現代という時代ほど、金銭の万能性が強まった時代は無いように思えます。世の中には「等価交換のモラル」がだけしか、なくなっているかのように見える。しかし、それは、「贈与のモラル」が消え去ったということではないのです。日蝕、あるいは月蝕のように、ふたつの焦点が重なってしまい、「贈与のモラル」が「等価交換のモラル」の背後に隠されてしまって見えなくなっているということに過ぎません。隠されているだけであって、「贈与のモラル」は現代社会においても、存在しており、それが時折、顔を覗かせているということは、まえに、書いた通りです。 一方、現代に先行する時代における贈与と全体給付システムを駆動していたものも、必ずしも持たざる者を救済するという慈悲心ではないといわなければフェアではないでしょう。むしろ、反対に、名誉や、威厳の競争という側面も強かったのです。この場合の、全体給付システムの原理は、競争と敵対であり、それはいつでも、闘争に発展する危険性と隣り合わせていました。マルセル=モースはこれを「闘争型の全体給付」と呼びました。競争が激しいものになれば、お互いがお互いを滅ぼしてしまうような蕩尽という現象に繋がることもありました。見方を変えれば、全体給付システムもまた、共生と競争の両面を持っていたのです。 ここまでの議論の中で、わたしは等価交換モデルと、贈与モデルをあたかも対立し、相反するものとして戯画化し過ぎてきたのかもしれません。実際には、それらはほとんど同時に存在し、相互に、斥力と引力によって結び付けられており、一方が他方に反発していると同時に必要としているという関係にあったというべきなのかもしれません。 わたしたち現代人が陥っている陥穽は、こうした楕円的で両義的な構造をもつ、異なる経済・社会システムや、モラルの体系というものを、二者択一の問題であるかのように、錯覚してしまうということです。 現代社会を覆っているのは、むしろ、この「これだけしかない」という見方の硬直性であるといえるかもしれません。それは、一種の強迫神経症のようなものかもしれません。わたしは、もう一度、日蝕の裏側に隠されている太陽の光を取り戻す必要があるだろうと感じています。あるいは、月蝕の後ろにある闇の暗さを取り戻す必要があります。現代社会のなかに、もう一つのやり方、全体給付のモラルを取り戻すということです。
2018.01.18
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選挙翌日に、朝日新聞の取材を受けました。取材では、もっといろいろお話しましたが、スペースの関係で、こんな記事にまとめてもらいましたが、ちょっと表現が柔らかすぎるかな。Jアラートは、本当に悪質なプロパガンダで、結構効いちゃったと思っています。
2017.10.26
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北海道新聞10月7日掲載
2017.10.10
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Twitterにこんな書き込みをした。(ちょっと修正版)隣に座っていた男が、枝豆を食いながら言った。「枝野ってえのは、不思議な男だな。演説を聴いているだけで胸が熱くなる。なんでかなあ」唐揚げを食いながら俺は思った。「最初はうまいと思っていたが、ずっと中身がよくわからない唐揚げを食い続けていたら胸糞が悪くなった。この数年間、ずっと胸がむかむかしていた」おためごかしや、いいのがれや、うそや自慢話ばかり聞かされてきた政治シーンに、おそらくは初めて、自分の言葉で、情理を尽くして語ろうとする政治家が現れた。
2017.10.04
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高橋源一郎、内田樹両氏とわたしは、同じ年である。世代論で、思想性を語るのは趣味ではないが、音楽と、言葉に対する感覚には、同時代性というものが深く係わっているように思える。五歳違えば、日々聴いていた音楽は全く違う。音楽の流行りすたれは激しく、五年前の音楽はすぐに懐メロになってしまう。おそらくは、言葉に関してもそれは言えるだろう。流行語という言葉があるように、時代時代での流行り言葉があり、それぞれの言葉に対する感性も微妙に変化している。わたしの時代「ヤバイ」は、背後に公安警察の影を感じるような状況で浮かぶ言葉であり、ヤクザか、左翼運動家以外の堅気の人間が使う言葉ではなかったが、いまは誰もが「ヤバイ」という。しかもその意味は、反転して凄い、かっこいい、おいしい、気持ちがよいというようなことになっている。 わたしたち三人は、それぞれ別々の道を歩いていたが、どこかで言葉に関わる同じ太い道で出会うことになった。その三人は、現在の政治プロセスの中で跋扈し、瀰漫する言葉に対して、何を思うだろうか。こういう機会に、高橋、内田のご両人のお話を聞く機会を得たことをうれしく思う。(このイベント)
2017.10.03
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肺がんの手術後、何度か登山を計画したのだが、いつも天候が悪くなって、断念していた。今日は、晴れると分かっていたので、5時起きして、あずさに乗り込んだ。思ったほど体力は落ちていなかったが、それでも小さな子供や、お母さんたちに抜かれてハーハ―ゼーゼ―しながら、山頂へ。完全回復には、まだ三つ四つピークハントしないとだめだと思うが今日は、まず登れたことに感謝したいと思う。やはり、山はいいよ。
2017.10.01
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極右対極右の対決で、リベラルは蚊帳の外のような外観を呈している選挙で、うんざり感満載なのだが・・・。想像力を巡らせて、今回の選挙を別の角度から観てみると、こんな光景が浮かんでくる。今回のような政権選択の選挙には、表のプレイヤーと、裏のプレイヤー(台本書き)がいる。表のプレイヤーは、政策や政治的信念で、自らの立ち位置を語るのだろうが、裏のプレイヤーにとっては政策も信念も二義的、戦術的な問題に過ぎず、もっぱら政局を動かすための仕掛けをすることに奔走する。場合によっては、ひとりの政治家がそのどちらも兼ねて、役割を使い分けるので、テレビや新聞だけ見ていてもよくわからないことが多い。わたしの見立てでは、今回の選挙結果は、第一幕で、その後第二幕としての大連立のような仕掛けを考えている人間が必ずいるだろう思う。そこで問題となるのが、民進党は金と組織を何とバーターしたのかということである。民進党にとって、自殺行為に等しいようにしか見えないような、身売り行為である。しかし、裏のプレイヤーから観れば、これはいくつかある選択肢の一つでしかないのかもしれない。可能性として考えられるのは、前原首班指名である。民進党は、前原総理大臣という密約と、民進党の資産をバーターした。 まったくの、思い付きなのだが、そうでも考えなければ、組織と金をまるごと差し出すようなバーゲンに釣り合う「実」が思い浮かばない。ただ、政治の世界は、騙し合いと権謀術数が、主義主張や正義の背後で蠢く世界でもある。取引したつもりが、騙されていたということも考えられるけれど。では、誰に投票すればよいのか。それはまた別問題である。
2017.09.29
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すすり泣く美術館信州に無言館を訪ねる 先月の長岡に続いて、今月は長野に講演にやってきた。会場は、善光寺からほど近いホテル。長野駅に降り立つのは二十年ぶりのことである。二十年前、この地で冬季五輪が開催された。わたしが経営していた会社で、オリンピックのガイドブックと、公式記録集の制作を請け負い、打ち合わせのために何度かこの地を訪れていた。そのとき、善光寺さんにお参りに行ったかもしれないのだが、記憶が確かではない。善光寺までの参道も、当時とは比較にならないほどモダンになっている。それにしても、長野駅前の変化には目を見張った。二十年という歳月の凄まじさを感じないわけにはいかない。昔はよかったなどと言うつもりはないが、駅前の風景は、まるで別の都市に降り立ったのかと錯覚したほど賑やかになっていた。これでは、ほとんど東京近郊の、たとえば八王子や、溝の口の駅前と変わらない。味気ないと言えばそれまでだが、新幹線の駅前はどこも、こんな感じで、地元の人々には歓迎すべき変化なのだろう。それもこれも平和の恩恵である。それでも、長野新幹線が金沢まで延長してからは、長野は通過点としての地位に甘んじなければならなくなったとは、タクシーの運転手から聞いた話である。 講演が終わった日は、参道沿いにある古い旅館に一泊し、翌日わたしは友人の画家伊坂から聞いていた無言館へ向かった。無言館とは、画学生戦没者の作品を展示した美術館。美術評論家で作家の窪島誠一郎氏が、やはり出征の経験を持つ画家の野見山暁治氏と日本全国を回って収集した作品および、手紙、写真などが展示されている。講演が終わったあとで、明日は無言館を訪ねてみようと思うと主催者に告げると、是非お出でください。衝撃を受けると思いますとも言われていた。わたしは、上田駅から無人のローカル線である別所線に乗り込み、無言館までのシャトルバスの発着駅である塩田町を目指した。ところが、ローカル線から見える長野の風景に見とれているうちに、何故か途中の下之郷駅で下車してしまう。駅前には何もない。かつてはここから上田丸子電鉄西丸子線という支線が出ていたらしく、その発着ホームだけが今も残っている。 下車駅を間違えた自分を責めたい気持ちにもなったがが、これもまた風情と、近隣を歩いたのちタクシーを呼んで、直接無言館を目指した。三十分ほどのドライブの後、車は木々の間を抜けるように、坂の上にある美術館に到着した。 数人の年配客が、庭にある戦没画学生の名前を彫り込んだオブジェをのぞき込んでいた。その奥に、戦没画学生慰霊美術館、無言館と刻られた、打ちっぱなしのコンクリートのファサードがあった。一瞬、入り口がどこなのかわからず、わたしは館を一周して、再び正面にに立ち、木製のドアを開けた。薄暗い館内の壁に、いくつもの絵が展示され、中央にはガラスケースの中に写真や、肉親に宛てた手紙やはがきが展示されていた。説明用のパネルには、おそらくは館長の窪島氏の印象的な文章が添えられていた。「あと五分、あと十分、この絵を描きつゞけていたい。外では出征兵士を送る日の丸の小旗がふられていた。生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから…安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういゝのこして戦地に発った。しかし、安典は帰ってこれなかった。」ルソン島バギオで戦死した日高安典さんの絵に添えられた文章が心に染みる。この無言館には、百人以上の画学生のみごとな作品が展示されている。そのどれもが、観る者の心に直接訴えかけてくる。帰ってきたら続きを描こうと思いつつ戦地に散った人々の作品である。遺族が、大切に保存していた形見が、窪島氏らの努力によって、美術館に所蔵され、毎日心ある人々の目に触れられるようになった。 わたしは、しばらくの間、絵に没頭していた。自然に目頭が熱くなる。気が付くとあちらこちらから、すすり泣きが聞こえてくる。誰かが「すすり泣きの聞こえてくる美術館」と評していたが、それは誇張ではない。入館料は出口で支払うようになっているのだが、わたしは誰かと話がしたくなって、途中で出口の受付に行った。「いやあ、衝撃を受けました。素晴らしい作品ばかりです」と受付の女性に告げて入館料を支払い、何枚かの絵ハガキと窪島氏の画文集を購入した。支払いの時、「ここに、天皇陛下はお見えになったのでしょうか。天皇は、是非ここに来るべきです。いや、天皇にこそ、観てもらいたい」そんな言葉がのど元にこみあげてきたのだが、そのときはそのまま飲み込んだ。いや、いいではないか。この信州の山の中を訪ねてきたひとたちの口伝えで、多くの人々がこの地を訪ね、絵を見てくれること。それが戦没者画学生の栄光であり、遺族への慰撫になる。 来年もまた来よう。いや、この美術館の四季を味わうために、何度でも来たいものだと思いながら、わたしは木漏れ日の降る路を降りていった。(雑誌『望星』平成29年7月号からの転載です)
2017.09.27
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「路の記憶」より湯田川温泉 友人の内田樹のお兄さんが、肺がんで亡くなってから一年が過ぎた。わたしと同じように、若くして起業したが、わたしとは違って立派な会社に育て上げた。ビジネスの才能があるようには思えなかったが、将来を見る独特の見識眼があった。何事も自分の頭で考え、思い立ったら真っ直ぐに行動した。徹底した合理主義者だったが、会社を離れれば情のひとであった。最終的には大手の医療機器メーカーに全株式を売却して、悠々自適の生活に入った。 生前、公私ともにお世話になり、亡くなるまでの十数年は、毎年箱根の吉池という宿で二泊三日の麻雀を楽しんだ。「生きていれば返してもらうが、俺が死んだら君にあげるよ」といって貸してくれた五本のチャン・イーモウのDVDは返さずじまいになった。 一周忌ということで、内田樹くんをはじめ、ご一族がお墓のある鶴岡に集合した。わたしは、前日に飛行機で庄内に飛んで、そこからタクシーで前泊予定の湯田川温泉を目指した。 「湯田川温泉までやってください」「久兵衛旅館かい」とこちらが旅館名を言う前に運ちゃんが言った。「いや、つかさや旅館です」 鶴岡といえば、ほとんどの観光客は、温海温泉か、湯の浜温泉へ流れていく。どちらの温泉場にも、近代的で快適な旅館が多く、日本海を眼下にする露天風呂の施設も充実している。いっぽうの湯田川は、三方を山に囲まれ、かつては湯治客が長逗留する温泉場として栄えていたようだが、今はひなびた温泉街であり、宿もどちらかといえば、古風な日本家屋である。 空港から二十分も車を走らせると、こんもりと常緑樹が茂った山が間近になり、隠れ里のような末枯れた温泉街に突き当たる。 つかさ屋の説明書には、「庄内藩主酒井家の湯治場として、また出羽三山参拝の精進落としの歓楽街として賑わっていた湯田川温泉にあって、つかさや旅館は湯のぬくもりが時代を経ても決して変わらぬように、一貫して訪れる人々の心をねぎらうおもてなしに心掛けてきました」とある。現在の当主は9代目だそうで、江戸時代から続く旅館の風情を味わうには、もってこいの宿であった。 宿の隣に、正面湯という共同浴場があった。わたしは手ぬぐいも持たずに、いきなりこの正面湯の、正方形の湯に浸かった。湯船の他に何もないが、加温、加水なしの源泉かけ流しである。いまや、こうした純粋な源泉かけ流しの温泉は、全国でも一パーセントしかない。透明で、やはらかい湯に浸かりながら、いいところへ来たと思った。 当地の湯の守り神である、由豆佐売神社(ゆづさめじんじゃ)の正面に位置しているので正面湯という。 風呂から上がって、しばらく身体を乾かしてから、浴衣に着替え、由豆佐売神社まで、散歩をすることにした。苔生した参道に続く石段を登り切ったところには県指定天然記念物の乳イチョウの巨木がそびえ立っている。銀杏の幹が、途中でおっぱいのように地面に向かって垂れ下がっている不思議な巨木で、なんとも奇妙な光景である。 寺の上り口に、藤沢周平原作、山田洋次監督による映画「たそがれ清兵衛」のロケーションが、この湯田川で行われたという説明板があった。そう言われれば、あの貧乏侍が暮らしていた山里の光景は、この神社周辺の光景そのままであり、誰が保存するでもなく当時の空気が保存されていることに改めて気づかされる。夕暮れ間近の神社には、セミの声だけが反響している。 この地には、柳田国男、種田山頭火、斎藤茂吉、竹久夢二、横光利一など錚々たる文人墨客が来湯しており、あちこちにその碑があるということなのだが、神社の境内のあまりの蚊の多さに辟易して、すぐに退散した。東京もんには、この地の蚊の凶暴さに打ち勝つ免疫は備わっていないようだ。 正面湯の向かい、神社への参道の横手には、四角い足湯があった。観光客もない平日の夕方に、足湯を利用するのは、近所の家族三人だけであった。裸の足を湯に浸しながら、楽しそうに今日一日の話をしている若い母親と二人の子どもの光景が、目に焼き付く。こんな風に少年や少女の時代が過ぎていく。 東京では失われた景色である。 宿に戻り、夕食をいただいて、風呂に直行した。風呂は二つしかない。一つは四人ほどは入れる四角い「ゆったりの湯」で、もうひとつは二人入ればいっぱいの「こじんまりの湯」である。時間制で、男湯女湯が入れ替わるしくみ。 この宿には、露天風呂はないけれど、千三百年前から湧出し続けている本物の硫黄泉、かけ流し温泉がある。当今の観光旅館としては、質素過ぎて物足りないと思われるかもしれないが、ひとり旅のこちらとしては、その素っ気なさがありがたいのである。宿のホームページを覗いてみると、「当館がお客様にとって第二の田舎のような、何かほっとして安らげる、そんな場所に感じていただけたら幸いです」とあった。お料理にしても、中居さんや女将さんの対応にしても、みごとなほど自然なやわらかさがある。 本当に、ここを第二の田舎にしてもいいなと思った。
2017.09.26
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ミシマ社、10年でいい会社に育ったなあと思う。結婚、出産で辞めた元社員も家族で参加して、あちこちで、子どもが駆け回り、その間に爺さんたちがうずくまっている光景を見ていて、なんだかうれしくなった。会場は自由が丘支社。一戸建てのボロ屋である。バイクで駆け付け、小田嶋さん、三島社長とわたしの鼎談イベントも。写真はイベントが始まる前の、イラストコーナーで描いてもらったもの。いかにも、ミシマ社である。ミシマ社には、ミシマ社にしかないものがある。
2017.09.25
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この写真大好きである。なんでだか、『青い山脈』を思い出す。さきほど、一本記事書いたのだけれど、ちょっと確かめる必要が出たので、いったん削除しておきました。さて、今日のおことば。ずっと、D・グレーバーを引きづっております。「わたしたちはみな、親しい友人のあいだではコミュニストであり、幼いこどもに接する際には封建領主となる」こんな短い言葉で、人類学的本質を表現してしまうのが、グレーバー。 ではこれからミシマ社10周年へゴー。
2017.09.24
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先々月の、100秘湯巡りの第二回目。姥湯温泉の写真。たまらん。
2017.09.23
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日本空手道松濤会の新館長就任式の帰り隣町珈琲に立ち寄る。四国から読者の方がいらしてくれていたらしいのだが、お会いできなくて残念であった。遠方よりはるばるありがとうございました。隣町珈琲に着くと、駒場くんと、荻原くん(ふたりとも中学校の同級生)と偶然の邂逅。こういうのは、うれしいね。駒場くんに家まで送ってもらって、さっそく銭湯用具一式をかかえて明神湯へ。このところ、いちにちおきに明神湯である。やはり、この銭湯は俺のオールタイムベスト銭湯で、とにかく、気持ちのいいことこのうえない。先だっては、某雑誌の取材でお世話になり、番台にすわらせていただいた。旦那さんとおかみさんは、無類の好人物で、今日はおかみさんが番台に座って、無くしてしまった下足札を一緒にさがしてくれました。何はなくとも、銭湯だな。帰途、西の空が夕焼けに染まっておった。(写真は、別の日のもの)
2017.09.23
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本日は、日本空手道松濤会の、新館長、新理事長就任の式典に出席。癌の治療後、空手の稽古はしていない(できない)のだが、こういった式典には出席している。また、ぼちぼち稽古をしたいですな。
2017.09.23
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『その日暮らしの哲学』(仮)という本を書いています。年内には書き上げるつもりですが、その中からすこし、抜き書きしてみましょうか。こんな感じです。ところで最近『負債論』っていう本が出たので、読んでみました。「負債」で、世界を説明してしまおうという大著です。ものすごく厚い本です。ですから、いくつかの重要な章以外は流し読みなのですけどね。でも、この本はとにかく面白くて、こちらの興味のあることが次々と出てきます。一言で言えば、世界の歴史や現代のシステムを「負債」という言葉で説明してしまおうという本です。同時に、わたしたちが現在考えているような負債の概念そのものをひっくり返してしまうようなことが書かれているのです。 たとえば、この本の中でデンマークの著述家ピーター・フロイヘンの『エスキモーの書』が紹介されますある日、セイウチ猟がうまくいかず腹を空かせて帰ってきたとき、猟に成功した狩人の一人が数百ポンドの肉を持って来てくれたことについて、フロイヘンは語っている。彼はいくども礼をのべたのだが、その男は憤然と抗議する。そして、こんなことを語りだしたのです。その狩人はいった。「この国では、われわれは人間である」。「そして人間だから、われわれは助け合うのだ。それに対して礼をいわれるのは好まない。今日はわたしがうるものを、明日はあなたがうるかもしれない。この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだいやあ、面白いですね。日本にも、「困ったときは相身互い」なんていうことばがありますが、「負債」というのは、人間にとってそれほど、本質的なものなのかもしれません。イヌイットにとって、「負債」と「返済」あるいは、「贈与」と「返礼」といった等価交換は、人間がするべきものではないと考えているかのようです。負債の計算をすれば、それは奴隷をつくることになり、犬をつくることになるのだということですね。
2017.09.22
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Twitter社とは、いったいどうやって利益を確保しているのでしょうか。Twitter社による説明によれば、利益のほとんどは、広告収入だということになっています。ツイッター社とはいったい、どうやって利益を確保しているのか。公表されている投資家向けの資料などによれば、この会社は、創業以来赤字を続けてきており、累積赤字は2017年6月末で、約3034億円ということになっています。では何で事業を存続できるのかと言えば、この会社に対する投資家の期待値が非常に高く、投資のお金がたくさん集まっていること、その資本金によっていくつかの事業体を買収して、そちらからの利潤があるということです。なぜ、赤字の会社に投資のお金が集まるのか。これはひとえに、この会社が囲いこんだ潜在顧客の膨大な多さを、爆発的な増加率によっている。本業で赤字にもかかわらず、この会社は無料で、コミュニケーションの場を提供しており、誰でも自由にその場を使って情報発信ができる。会社側から見れば、この会社が無料でコミュニケーションの場を提供しているのは、潜在顧客を集めるための方法でしかありません。もともと、それがどのような性格を帯び、どれほどの公共性を獲得し、社会にどんな影響を与えるのかについて、大きな興味は持っていなかったはずです。とにかく、顧客を集めろ!ですね。でも、それを続けていたら、巨大な公共空間のようなものが出来上がった。しかし、あくまでもこの場の主催者は、いち私企業であり、この場の使用に関するルールや運用に関しての権限はこの会社に属しているということが、言おうと思えば言える。しかし、この会社の経済的基盤である、企業価値を保証しているのは、この場を自由に出入りしているユーザーがいるからこそなのです。だとすれば、ユーザーと、主催者たるTwitter社は相補的な関係にあるわけで、一方的にユーザーに対して、お前はフリーライダーなのだから、いやなら利用しなければいいだけだとも言えない気がします。わたしのところにも、「投稿を控える」宣言をして以来、信頼できないなら止めればいいだけとか、いつまで続くかなといった冷笑系のツイートが来ているわけですが、何か、こういうすべてに、嫌気がさしているのが正直なところです。ツイッター社のビジネスモデルは、一時期流行した、いわゆるシリコンバレーモデルで、収益とか、商品とか言う前に、とにかく顧客を大量に囲いこんで、顧客データを集積すれば、広告媒体としての価値が生まれるというわけです。駅前でティッシュ配って集客するキャバクラと基本は同じで、顧客に対して無料サービスを提供して、顧客を集める。集まった顧客の情報が商品であり、この場合の本当の顧客は、マーケティング情報が欲しい企業や、場合によっては政府機関、自治体ということになるのかもしれません。世界で数億人が利用している、ツイッター空間は、確かに公共空間という側面を持っており、これを公共空間として確かなものにしていこうという努力も、さまざまな形で行われているようですが、わたしは、やはりこれは私企業が収益のために作り上げた仕掛けであるということも忘れてはならないと思います。そのうえで、今回の事件は、ツイッターという、私企業が運営する公的空間という矛盾した存在を見直してみる良い機会だったのではないかと思っています。
2017.09.21
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「控える」宣言をしてから、一日、ツイッターから離脱しているわけだが、止めてみればどれだけ、自分がこのSNSに依存していたのかがよくわかる。一種の、依存症である。手慰みというものが、突然消失した気分。なにかが物足りない。残尿感。一番似ているのは、ニコチン中毒症状。そんなわけで、この依存症から脱出するために、もうしばらくは、ツイッターから離れようと思っている。いや、もう戻らないかもしれない。 離れてみれば、ツイッターというのは、一民間企業がお金儲けを目的としてやっているビジネスで、見世物客を囲い込むことで、「場」の広告価値を高めるという、2000年当時シリコンバレーを席巻したビジネスモデルを基本としている。 その意味では、すべてのSNSは同じビジネスモデルを採用している。あるレポートによれば(http://www.garbagenews.net/archives/2098071.html)営業利益率は、創業以来赤字を続けているようで、当該のレポートは以下のように報告している。「売上高は累乗的に増加する一方、営業利益率はマイナス圏のまま。つまりツイッター社は本業の上では赤字を計上し続けている。累積赤字(Accumulated deficit)は2017年6月末時点で27億4171万3000ドル(約3034億円、1ドル110.65円で換算)にのぼっている。無論グラフの動きを見れば分かる通り、収益状況はともあれ売上は上昇し続けており、上場で得た資金を用いて各種投資をした上で、さらなる規模の拡大と収益改善を図る目論見のようだ。」なるほど、広告だけではやはり無理があるということで、ツイッター社これが何であるのか。以前、化粧品のネット販売会社の経営について、調べたことがあった。その会社は、アクセス数が多いことで名を馳せていた。会社の表の収益は、もちろん化粧品小売販売なのだが、裏でもう一つのビジネスがあった。それは、アクセスする人々の購買動向を分析して、それをレポートにして他の企業に販売するというもの。勿論、このビッグデータ解析は、購買企業がマーケティングに利用する。わたしは、唖然としながら、インターネットが危ういところに差し掛かっていることを直感したものだ。ツイッターには、ひとびとの思想、信条、政治的立ち位置、生活など、プライバシーにかかわる重要な情報が無防備に氾濫している。もし、ツイッター社がやろうと思えば、これらのビッグデータから特定の人物のプライバシーを暴き出したり、あるいは反政府的な人間のグループリストを作成したりすることなどたやすいことである。そのデータを欲しがる企業は多いだろうし、政府もまたそれを利用したいという誘惑に勝てないだろう。スノーデンがデビットカードとメトロカードのデータがあれば、人々のプライバシーは丸裸になると言って、米国家情報局の活動を暴露し、実際の多くの米企業が国家情報局に協力したようである。 わたしたちは、あまりに無防備に、ツイッターを使い、ついには、依存症になりつつあることに、もう少し自覚的であるべきだろう。
2017.09.20
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笹本Twitter Japan社長が次のようなツイートをしている。「日本のTwitterの代表として皆様からのご意見・ご指摘をお寄せ頂いていることにお礼を申し上げると共にご指摘を頂いている問題に関しては真摯に受け止めております。Twitter社員は全員がNo Hateを願い、この問題に対応する為に人的にも技術的にも拡充・改良して参ります。」(9月7日付)社長が自ら、このような見解をツイートすることに敬意を表したい。そのうえで、Twitter社がNo Hate を掲げているというのであれば、なおさら、菅野氏が、どのような文脈で禁止ワードを使ったのかを明示すべきだろう。わたしの見た限りでは、菅野氏が反応したのは、Hateツイートに対してのものだったからである。そして、Hateツイートしたほうの側は、今でもアカウント凍結されていないようである。確かに、どのあたりにHateの基準を置くかは難しい問題だろうが、Twitter社がNo Hateを掲げているのであれば、判断の公平性に対して、もう少し慎重であってほしいと思う。
2017.09.19
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菅野氏のアカウント凍結に関する、Twitter社の見解がネット上で見ることができた。確かに、菅野氏の発言に関しては、眉を顰めたくなるような言葉遣いが見られるが、一発退場となるような種類のものではないように思える。Twitter社が菅野氏に直接返答したことに対しては、了解すべき点があることを認めたうえで、菅野氏の次の質問に対しては、どう応えるのだろうか。それとも、ここから先は門前払いということになるのか。1)まずこちらが攻撃的なメンションを受け、それへの対応をした2)著名人・政治家等が、自己の影響力を省みず、差別的言動(これもTwitterルールで明確に禁止されているはずです)をおこなったため、批判したという事例以外、心当たりがありません。 この場合重要なのは、Twitterで行われている批判、反批判、罵詈雑言の類は、それがどのような文脈の中で行われたのかということである。もし、菅野氏の質問が、虚偽的なものでないとするならば、どのような発言に対して、菅野氏がどのような応答をしたのかを明らかにしなければ、判断のしようがないということだ。
2017.09.19
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BUZZ FEEDによれば、Twitter社から菅野氏に対して、「特定の人物に向けた嫌がらせ行為に関するルール」に違反したという回答があったようである。記事を転載しておく。Twitterルールの該当箇所には、次のように書いてある。以下のような行為をしているアカウント、およびこれに関連するアカウントは、一時的にロックまたは永久凍結されることがあります。・嫌がらせ: 特定の人物に向けた攻撃的な行為や嫌がらせを禁じます。攻撃的な行為に該当するかどうかの判断では、以下の点が考慮されます。報告されたアカウントが、主に他者に向けて嫌がらせや攻撃的なメッセージを送信するために使用されている場合報告対象の行為が一方的であるか、あるいは脅迫を含む場合報告されたアカウントが他のアカウントへの嫌がらせを扇動している場合報告されたユーザーが複数のアカウントから1つのアカウントに向けて嫌がらせのメッセージを送信している場合一方で、Twitter社からの返答には、具体的にどのツイートがダメだと判断されたかが書いていない。この返答を受けて、菅野さんはTwitter社に次のような反論メールを送った。当方がどの人物にどのような嫌がらせをしたのでしょうか?1)まずこちらが攻撃的なメンションを受け、それへの対応をした2)著名人・政治家等が、自己の影響力を省みず、差別的言動(これもTwitterルールで明確に禁止されているはずです)をおこなったため、批判したという事例以外、心当たりがありません。菅野さんは、Twitter社に送ったメールで、次のようにも主張している。もしそこまで厳密に「ルール」を適用するのであれば、なぜTwitter Japanはヘイトスピーチを放置しつづけるのでしょう?なんだったら、検索したらすぐみつかる「人種、民族、出身地、性的指向、性別、性同一性、信仰している宗教、年齢、障碍、疾患を理由とした他者への暴力行為、直接的な攻撃、脅迫の助長を禁じます。また、以上のような属性を理由とした他者への攻撃を扇動することを主な目的とし」た書き込みを、列挙していきましょうか?整合性のある回答を、再度強く求めます誰に対するどんな発言だったのか?Twitterはいち民間サービスだが、政治家や行政なども利用するなど、「言論プラットフォーム」としての公共的な役割も担っている。さまざまな表現がある中で、利用ルールが幅のあるものになるのは、ある程度仕方ない。ただ、「特定の人物に向けた攻撃的な行為」があったというなら、それが誰に対するどんな発言だったのかを知らせたほうが、納得感は高まるのではないか。
2017.09.19
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共同通信より配信された書評:「大学改革という病」山口裕之 本書は、現在声高に叫ばれる大学改革なるものの病理を剔抉し、本来のあるべき姿を模索するための格好の見取り図を提示している。 大学は、その草創期以来、教育の理念と国家や企業からの要請との間で揺れ動いてきた。今日多くの企業は大学に、教育機能よりも選抜機能を期待している。企業は採用の際に、何をどのように学んできたのかを問わずに、どこの大学を卒業したのかを優先的に配慮している。 教育の理念の中には、国家形態や企業経営に対する批判も含まれる。それゆえ、教育理念と国家的な要請とはしばしば背馳する。 教育理念とは、よき市民を育成することであって、その時代の国家や産業ニーズに迎合することではない。 教育の本質は、それを学ぶ前のみならず、学んでいる最中も、自分が何を学んでいるのかよく知らないというところにある。自分が何を学んだのかを知るのはずっと後になってということもある。これが、学びによる知的成長の意味であり、自分で考えることのできる人間を育成することが教育の本義である。 本書は、 大学の歴史をその起源まで遡り、近代国家の形成にともなって大学の役割が変質してきたことを示し、当今もてはやされているアメリカ型の株式会社化した大学や、産業界が要請する機能主義的な実学志向に疑問を投げかけている。大学の現場もまた、サービスと消費者という受益者負担のモデルや成果主義から脱皮できないでいる。 著者は「教育とは、消費者が欲するものを提供するサービスではなく、何を欲するべきかを考える力を与えるための営みである」「それゆえ教育が消費者獲得競争に走ってはならない」と主張し、歪んだ予算配分を是正するための方策や、その財政基盤にまで思考のリーチを伸ばしている。
2017.09.19
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菅野完氏のツイッター永久凍結に抗議する意味で、ツイッター社からの説明がないか、凍結解除されるまで、ツイッターへの投稿を控えることにした。様々なご意見があろうが、今回のことは、それが、問答無用であることが、どうしても釈然としない。フィルターロボットによる突発的な出来事だという可能性もあるだろうが、それなら、速やかに凍結解除すべきだろう。もともと、便利なツールにただ乗りしているわけなので、(もちろん、持ちつ持たれつの関係だが)、ツイッター社は開示要求にこたえる義務はないのかもしれないが、プラットフォーム提供事業社とユーザーの相互信頼の上で成り立っているのがSNS。信頼が揺らげば、使う気持ちにならなくなるのも当然だろう。
2017.09.19
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「そもそも」には「最初から」の意味があることを閣議決定って、この政府は終わっているわ。誰も安倍晋三を諫められないのか。写真は、岩手県湯の浜温泉にて、日本海に沈む夕日。自民党は、もはやかつての自民党ではない、
2017.05.16
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前のブログがあまりに、見苦しいので、清涼感のある写真を貼っておこう。せんだって、鶴岡に講演でお伺いした時の新潟・鶴岡間の風景。日本海と、瓦屋根。こういう風景に惹かれる。
2017.05.15
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ブログを復活したら、いきなり風邪をひいてしまった。昨日より、喉が痛く、鼻がつまる。一月ちょっと前に、肺がんの手術をして右肺の三分の一を切除しており、調子が戻らないうえに、風邪である。泣きっ面に蜂とは、このことか。まあ、今日一日おとなしくしていれば明日は元気になるだろうと、期待。
2017.05.15
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図書新聞に投稿した記事をブログに採録しておきます。よろしくです。言葉がインフレ化した時代の憲法言葉のハイパーインフレ 1950年生まれのわたしは、戦後の日本の歴史とともに生きてきた。焦土と化した日本が、高度経済成長を遂げるまでの戦後20年がわたしの少年期であり、1973年のオイルショック後の、相対的な安定期に青年期を過ごしてきた。明日は、今日よりきっとよくなると信じられた時代であり、事実、経済は着実に発展した。教育勅語に象徴される戦前的な価値観については、知識としてはあったが、自分が臣民であるとの自覚を持ったことはない。それでも、少年期のころの日本には、まだまだ儒教的な価値観が濃厚に残っていた。男尊女卑はもとより、長幼の序は学校の運動部にも、会社にも残り続けた。民主化は、まだ先の話であった。 70年代以降、日本に消費資本主義の時代が訪れ、核家族化が進行し、気が付けば戦前的な封建的価値観は陳腐化し、個人主義的な考え方が消費者全般に広がっていった。衣食足りて日本人は、民主主義を知り、個人に目覚めた。もちろんそこには、金さえあれば贅沢も自由も手に入るというような金銭一元的な価値感が支配的になり、新自由主義と親和性のある自己責任論が横行するという問題もあった。思想的には、国民国家、国民経済の底上げを目指した日本独特の再分配システムから、トリクルダウンという言葉に象徴される市場原理主義へと日本経済は舵を切った。わたしは、どちらかといえば、日本的システムを擁護する文章を書き、同時に、現在という時代は、人口減少社会を見据えた定常経済へと移行してゆく準備段階であると捉えていた。 思想的には様々な考え方があったが、日本という国家も、日本国民も、少しずつではあるが、過去の失敗から学び、普遍的な価値を共有し、すこしでもましな方向へ向かっていると信じていた。多くの日本人もそう考えていたのではないだろうか。 ところが、そういった、戦後日本の政治と経済の評価と、将来をめぐる議論をしているあいだに、考えてもいなかった劣化現象が進行していた。一言でいえば、反知性主義ということなのだが、言葉というものに対する信頼が急速に衰えるという現象が起きてきたのである。 言葉というものは、貨幣と似ている。よく言われるように、貨幣が貨幣として流通しているのは、皆がそれを貨幣として流通していると信じているからである。もし、貨幣の流通性に対する信頼が失われれば、貨幣はたちまち、紙くずへと変貌する。ハイパーインフレーションである。第二次安倍政権以降、端的に言って、言葉は重みを失い、憲法の条文も空言となった。わたしは、自分が生きている間に、これほどまでに、言葉が毀損される時代が来ることを、うかつにも予想していなかったのである。積極的平和主義 戦後の憲法解釈を変更してまで立法化しようという安保法制に関して、その全体を論理立てて説明することができる与党議員はいるのだろうか。自民党が提案した法案には、さまざまな、「事態」が登場するが、「存立危機事態」とか「武力攻撃事態」とか「重要影響事態」とか「国際平和共同対処事態」とか、(あと何でしたっけか)そういった事態の数々と、それらの事態に対応して自衛隊が、何が出来て、何ができないのかを明確に説明することにはかなりの困難が伴うだろう。 安倍総理の口頭での説明を聞いていると、切れ目のない防衛安全法制だとか、積極的平和主義だとか、わかりやすそうではあるが、よく考えると何を言っているのかよくわからない意味不明のスローガンを繰り返しているだけのように思える。そして、最後には必ず、「総合的に判断して」決めるということになる。 最後に、総合的に判断しなければ、法の執行ができないような法律とは、法律と呼ぶに値するものとはいえない。日本は、法治主義を捨てて、人治主義の国になったのだろうか。 あらゆる〈法〉には、法制定の根拠となる〈法の精神〉というものがあるはずで、憲法の解釈改憲をして実現した安保法制にある精神は、憲法の精神とは最初から食い違っている。我が国の憲法の場合には、いかなる場合にも、国家間の紛争の問題を解決するために、武力の行使という手段を用いずに平和的手段を尽くす、それこそが憲法の〈精神〉であると私は理解している。これは、かなり積極的な平和主義である。そもそも、安倍首相の言う「積極的平和主義」なる言葉は、安全保障のために、自衛隊を展開するということであり、言い換えるなら平和のために、戦争をするという自家撞着の言葉である。 過去に、「みっともない憲法ですよ、はっきり言って」と語った安倍首相もまた、憲法に対する侮蔑を隠そうとはしていない。 自ら侮蔑を公言するような憲法に従って、憲法に抵触する可能性のある法案の合憲性を主張しなければならないところに、本法案のわかりにくさの原因がある。中谷元防衛大臣(当時)の「現在の憲法を、いかにこの法案に適応させていけばいいのか、という議論を踏まえて閣議決定を行なった」という発言には、この法案の作成プロセスが、本末転倒の議論であったことが明確にあらわれている。 かくして、今の内閣による憲法の、恣意的な解釈が行われたあたりから、<法>の言葉はもはやその効力を失った。これ以降、現在にいたるまで、安倍政権の閣僚が次から次へと繰り出した嘘、食言の数々を列挙するまでもあるまい。条理の通らぬ言葉が、担当大臣の口から次から次へと吐き出されても、辞任することはない。森友問題においては、官僚は明らかに嘘と分かる答弁を国会で繰り返して、謝る気配はない。 <法>の言葉に限らず、あらゆる言葉に対する信頼を醸成することは、社会の公正さや秩序を維持することと密接に関連する。この内閣がしたことは、そうした歴史的努力を反故にしてしまうほどの、言葉に対する信頼の破壊であると言わざるを得ない。
2017.05.08
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2017年、5月8日。本日より、こちらへ戻ってきました。引っ越し先が取り壊しになったために、旧住所を探していたら、まだ以前のところに存在してくれていたので、以後は、こちらに、ブログを掲載していこうと思います。宜しくお願いいたします。
2017.05.08
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このたび住みなれたこの場所からラジオデイズ界隈の長屋へと引っ越しました。新しい住所はhttp://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/です。店主敬白
2009.04.23
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川治さんからお電話があり、重版決定ということで、うれしい限りです。
2009.04.21
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なーんか、調子悪い。食道のあたりが、しくしくと泣いているのである。お客さんにご心配をおかけするのも何なのだが、病院にいくとするか。めんどうだけど。『経済成長という病』は、お蔭様で好調な出足のようである。BK1の、経済・ビジネス部門の四位にランクインしてきた。講談社の岡本さんからも、心温まるメールをいただいた。「週末に改めて『経済成長という病』を通読しました。 本当にいい本だなあと、嬉しくなりました。」嬉しくも気恥ずかしい限りであるが、よい本であるとの声をちらほらといただき、著者としては冥利に尽きるというものである。で、もうひとつ書いているものがあってこちらはまだ発表の予定が無いのだがタイトルは『店主の囁き』(仮)というものでこのブログに近い内容の、どうでもいい話を、俺にとってはどうでもよくねぇんだといったスタンスで書き綴った、極私的社会時評(すでに言語矛盾だね)なのである。このラインは俺が最もやりたい仕事なのであるが、出版社の営業的にはもっとも手を出したくないジャンルの本なのかもしれない。だから引き取り手がいない。バジリコの安藤さんには、ビジネス原理論三部作の最終作を書きますからとお約束しているのであるが、こっちは、まだ時間がかかりそうである。生きているうちに書けるかどうか(みたいな)気の遠くなる作業なのである。「春は鉄までがにおった」と、小関智弘さんは小説『錆色の町』を結んでいる。そして、後にルポルタージュ作品『春は鉄までが匂った』を書き上げる。まさに、鉄の匂いがする本だが、この鉄の匂いをありありと実感できる読者がどれだけいるのだろうかとも思う。鉄の匂いを肌身に感じることのできる人々の多くは、小関さんの小説を読まない。ただ、あまり多いとは思われないごく少数の読者にとっては、この作品が語りかけてくる風景は、もはやつくりものの世界(虚構)であることを超えた確かさと重さをもったものとして実感されるはずである。俺も、こんな本が書きたいがなにぶん才能がないので、原理論のようなものを書いているのである。
2009.04.21
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店主の新本、好評(贔屓目ですが)発売中です。さて、自分で言うのもおこがましいが、ラジオデイズのラインアップの充実振りが凄い。トップの電子紙芝居に出てくる面々は立川談笑(店主イチオシ)米粒写経(一平君の顔が笑える)加藤和彦(あの加藤和彦でんがな)大瀧詠一(ご存知師匠)大貫妙子(ご存知歌姫)柳家小ゑん(卒業写真って)三遊亭白鳥(だいじょうぶなのか)半藤一利(昭和史の語り部)田中宇(国際経済解説まくしたて)雨宮処凛+湯浅誠(格差社会批判の旗手)といった具合である。『ラジオの街で逢いましょう』では内田樹教授と店主の漫才を二週連続でインターFMから放送したものもインターネット放送している。と云うわけで、騒がしくも、活気に満ちた風景が展開されているというわけだ。本日より書店に『経済成長という病』が並んでいる。いつもながら、うれしいような、はづかしいような、先行きが思いやられるような、新鮮な気分である。自分で言うのもなんですが、この本、けっこう面白い。「終章」の「本末転倒の未来図」だけでも、立ち読みで、是非お読みいただけると幸いです。さて、長年住みなれたこの長屋とももうすぐお別れである。現在某所に新築中の長屋へ引っ越すことにしているからである。大家さんの楽天さんには随分お世話になりました。お世話になっておきながら、なんなんですが、ここのデータは、エクスポートできないのでこのままこの長屋に塩漬けにして残しておくことにします。もうひとつは、ある日から突然、店子に無言で、コマーシャルが居座り始めたことです。無料長屋とはいえ、せめて店子にひとことあってもよろしいんじゃないのかと思うわけですよ。でもまあ、「いろいろあるよいろいろね」ってことで、大家さんのお陰で、随分面白い体験をすることができました。感謝しております。ええ、感謝しておりますとも。新天地の住所は、後日当ブログにてお知らせいたします。お客様におかれましては、今後とも、引き続きご贔屓に。
2009.04.17
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来週あたまには書店に並びます。よろしくです。講談社現代新書。777円。スリーセブンですな。140Bの中島社長が、最初の心温まる書評を書いてくれました。
2009.04.15
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ミシュランガイドの阪神間格付けに関して地元で格付け拒否があったり、格付けされることへの反発があったりと、ちょっとした騒動になっているらしい。で、騒動の中心には、いつもこの男がいる。江弘毅。岸和田で、だんじり遣り回しという伝統的騒動の中心にいる男である。その、江さんから興奮した電話があり、メールが飛んでくる。「週刊誌に頼まれて、こんなん、書きましてん。もう、えらいこっちゃ」何がえらいことなのか、不明であったが、漸く事の次第が飲み込めてきた。事の顛末に関しては、やはり江さんから襲撃を受けていたウチダ教授が江理論の分析も含めてブログで書いている。阪神間の料理人、関係者、一般人の気持をひとことでいえば、「ミシュラン、なにを偉そうな」ってことだろう。「てめえらなんぞに、格付けされてたまるか」ということである。でも、「ミシュランはやっぱり偉くなくはないわけであって、影響力もあるし、星くれたら嬉しいし、でもくれなかったらえらいこっちゃし・・・」ってな気持もどこかにある。文句をいいながらも、それが顔に出ている。この微妙な心理が面白いところである。もし、何の権威も無いやつが、偉そうに「格付けしたるわ」と言ったとしても「あほか」といった感じで、誰も相手にはしないだろう。ミシュランは腐ってもミシュランなのである。問題は、ミシュランは本当に腐っているのかどうかということである。で、江さんの記事を読むと(全文は、たぶんどこにも掲載されないとおもうが)どうも、腐りかけているという印象である。責任者の態度が、どことなく横柄になっており、料理の本質について知悉しているとは思えないような覆面調査員が街場をうろついていたり、調査と称して、客としての最低のマナーを逸脱したりといった話があちこちから聞こえてくるようになる。そのどれかは、ガセネタであり、どれかは真実であるだろう。だが、それらのほとんどすべてがガセネタだったとしても、格付けをやっているミシュランが腐るのは当然だと俺は思うのである。長い間、人様の仕事を格付けし、しかも、その格付けがある程度の権威を獲得しているとなれば、そこにかかわる人間は当然のように、自分には格付けする資格があると思い込んでしまうだろう。俺がその立場にあったとしても、おそらく事情は変わるまい。格付けという言葉には、そこにすでに格付けするものとされるものという上下序列の関係が含まれている。そして、絶対的な権力は絶対的に腐敗するように格付けするものもまた絶対的に腐ってくるのは世の常なのだ。料理を「もてなし、もてなされる」というコミュニケーションだと考えれば、料理人と客は、相互に対等であり、相互に相手に対して敬意を贈与するというのが理想だろう。威張って客を選ぶラーメン屋とか、店を格付けする調査員とかは、はなからコミュニケーションの邪道なのである。邪道がいけないと俺はいいたいのではない。邪道を楽しむ自分は外道であるとの自覚があれば、邪道も外道も案外楽しめるものである。ただ、邪道を自覚せずに権威だと勘違いしたり、外道なのに、食通ぶったりしているのを見るのはご勘弁願いたいということである。だいたいさ、星が何個とか、ミシュランが選んだとかの講釈を垂れられたら酒が不味くなるじゃねぇか。酒は静かにのむべかりけり。これが基本というものである。
2009.04.14
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午後護国寺の講談社で、週刊現代の取材を受ける。来週末より発売予定の『経済成長という病』の著者インタビューである。久しぶりの、講談社。随分立派なタワーになっている。待っていてくれたインタビュアーは、なんと、ミシマ社の大越くんであった。確か以前は、S会議という出版社におられたが、「いやぁ、ヒラカワさんの『反戦略ビジネスのすすめ』を読んで会社を辞めちゃったんです」と第一声があった。そういえば、あの本は、随分ひとさまの人生の決断に関わったようである。恐ろしいような、申し訳ないような心持ちである。で、質問の第一声は「この本を書いた動機は?」というものであった。リーマン・ショック以後、経済的な問題点に関しては、いろいろな人が、様々な媒体で発言し、総括をしている。その総括の仕方そのものに対しての疑問がひとつ。もっと重要なことは、ここに至るまでの、おれ自身をふくめて人々の心理的な問題点に関してはまだ総括の糸口さえ見出せてはいないということである。経済成長至上主義、市場万能主義を下支えしたのは、消費者の欲得そのものであり、その欲得と無縁であったといえるものはいないだろう。そのこと自体が悪いといっているのではない。ただ、過剰な欲得をうちに抱いている俺たちは意図してであれ、否応無くであれ、「時代の加担者」であったのであり、そのことを抜きにして、心理的総括などできないだろう、というようなことを、一気にまくしたてる結果となった。夕方、大阪の140Bのいがぐり社長中嶋さんから携帯に電話。今晩はかれとお会いする約束をしていたのである。当然のように、忘れていたのであるが、「了解了解、目黒あたりでね」と答えて目黒へ向かう。いつも大阪で飯をおごってもらっているので、今日は俺が日本一うまいと思っている「こんぴら茶屋」の牛カレーうどんをおごる番なのである。「どうだい、うめぇだろ。で、中嶋さんは大食いなの?大食いのひとは、残り汁にご飯を入れて食べるといいぜ」と解説しはじめたら、「じつは、ちょっとお待ちしている間に吉ぎゅうで牛丼を軽く・・・」との返答である。あきれた、いがぐり社長である。それでも、最後の一滴まで汁をすすってけろりとしているのである。「来週あたり、新しい本が出る」と本の宣伝をしたら「こんどのは、なんちゅう病(やまい)でしたっけ」ときた。俺も、すっかり病が板についてしまったようである。
2009.04.10
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写真は、白髭橋に沿って立つビルの谷間のビオトープに浮かぶ桜の花弁2枚。地上は、本日満開。今週日曜日夜11:00よりインターFM(76.1MHz、関東エリアのみ)で、ウチダくんと漫才やります。
2009.04.09
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まるの一周忌である。(合掌)以前にも掲載した、『飼い犬の遺言』を再録して、桜の季節に西行のように逝った(そんなかっこよくはないか)まるを偲ぶこととする。「犬を飼おうと思うが、どうだろうか」何となく発した一言は、食卓での会話ではなく、オフィスでの管理部員たちとの世間話の中においてであった。会社で犬を飼おうというのである。駄目ですよ、無理ですよ、という答えが返ってくるかと思ったら、意外にも社員たちは歓声を上げたのである。それが、私と駄犬まるの不思議な道行きの発端だった。 それからほどなくして、生まれたばかりの真っ黒いラブラドール犬がダンボールの箱に入って会社にやってきた。よちよちと歩くぬいぐるみのようなその生き物が現れたときには、社員全員が息を飲み、拍手が起こった。何でも両親はアメリカのチャンピオンなんだそうである。血統書つきである。代金不要、しかもとんでもない器量よし。 数日は、私が家に持ち帰ってその犬の面倒を見ていた。 ところが、である。 「会社でラブラドール・レトリバーを飼うなんて、無謀だと、捨て犬救助のボランティアの方に言われました。犬にもかわいそうだって。レトリバーは、いつもそばに人がいられるような環境で、走り回れるような場所がないと神経衰弱になってしまうそうですよ。」奇特なボランティアの方は金木さんという方で、その方面では有名な方であった。 確かに私の会社のオフィスは秋葉原の電気街の真ん中にあり、とてもではないが運動量の多い大型犬を飼うような場所ではなかった。週末に飼い犬禁止の私のマンションにつれて帰るわけにもいかない。黒いちび犬は、丸い目で私を見つめている。どうしたものかと唸っていると、金木さんからひとつのアイデアが出された。 彼女の家には、保健所から救い出した雑種犬がおり、レトリバーは別の引き取り手を見つけるので、その雑種犬と交換したらどうかというのである。 そんないきさつがあって、まるが会社にやってきた。レトリバーの子犬は、築地の刑事さんが引き取り手となった。(二年後に送られてきた写真を見たら、すでに面影は消えて堂々たる大型犬になっていた。)さて、アメリカズチャンピオンの令嬢と交換されてやってきたのは、人の目を直視できないおどおどした冴えない雑種犬であった。何処をうろついていたのか、痩せていて、毛並みはあまりよくない。年齢不詳。ミッキーマウスのような黒柴犬模様だが、耳は垂れている。いや、垂れているというよりは、グライダーの羽のように水平に広がっている。無様だが、歩くたびにそれがひらひらと揺れる姿は愛嬌があった。特徴といえばそれくらいのもので、いつも伏目がちで何かに怯えているようでもあった。聞けば、保健所で、あと二日後に処分される運命だったところを、金木さんが救い出し、里親を探していたということであった。 出会った最初の頃は、目を合わせようとすると顔を背けた。助手席に乗せると、立ったまま身体を硬直させている。声は全く出さない。どこか、人間を避けている風でもあった。虐待という言葉が浮かんだ。私は当分の間、こいつと一緒に会社に寝泊りすることにした。どうも、目が離せないような心持ちになってしまったのである。時折自宅へ連れ帰ったが、自宅マンションは飼い犬禁止なので、夜中にそっと自室へ入り、早朝は車に乗せて家を出るという生活であった。どこかに留め置くことができなかったので、いつでも、どこへでもこいつを連れて回るということになった。客先へ回るときも連れて行き、商談の間は車で待たせた。平日は会社に泊まり、休日は広尾にある、ドッグ入店可の喫茶店で何時間も過ごすという変則的な日常であった。この難民生活が三ヶ月続いた。人と目を合わせなかったまるが、私には徐々に心を開くようになり、散歩をねだったり、食べ物を要求するようになった。何より、多摩川の川原を走るのが大好きで、尻尾を振って跳ねるように駆ける姿を見ていると、こちらまでうれしくなったものである。「元気になりやがった・・・」 そして四年半が経過した。昨晩、夜中の一時二十分まるが死んだ。唐突な死であった。一週間前あたりから急に歩行が覚束なくなり、昨晩八時ごろ、三宿の病院へ運び込んだときには自分の足で立てない状態で、荒い呼吸がお腹を波打たせていた。日曜日で、休診日であったが、外出先から急遽戻ってくれた先生は、白衣に着替える閑も無くすぐに点滴を開始し、検査をしてくれた。ひどい貧血状態で、体内で出血している様子であった。しばらく小康状態となったが、時折、悲鳴のような泣き声を出して、手足をばたつかせた。動かすこともできず、とりあえず一日は、入院して様子をみようということになった。夜十時ごろ先生から電話があった。大量に吐血したという。その後は苦しがる力も無くなって脈が遅くなり、月曜の朝を迎えることは無かった。多臓器不全ということであった。 享年、不明。野良犬らしい死に方であった。 「始めより今にいたるまで、曾て端首無し」空海の『三教指帰(さんごうしいき)』の言葉である。われわれは、何処から来て何処に行くのかを知ることはできない。端首は、人間の知性の埒外に朦朧と霞んでいる。まると私には、そんなに、哲学的な話は、似合わないが、まるもまた、何処から来たのか分からない野良犬であった。今にして思えば、不思議な機縁が重なって、私のところへやってきた。私は、生まれも、育ちも、年齢もわからない野良犬をハッチバックに乗せて東京の町を放浪し、会社に寝泊りした。食うことと、走ることだけに貪欲な、取り柄のない犬であったが、ただひとつだけ美点があった。それは底抜けに優しいということであった。どんな犬に寄せていっても、吼えたり、噛みついたりすることはなかった。吼える犬の前を通るときは、見て見ぬ振りをしていた。噛みつかれたこともあったが、反撃することはなかった。それでも、どんな犬にでも、誰にでも寄って行って頭をなでられるとすぐに踵を返して帰ってきた。まるが吼える声を聴いたのは四年半で数えるほどしかない。 優しさとは何だろう。レイモンド・チャンドラーではないが、強くなければ優しくはなれないというのは尤もな気がする。しかし、まるに限っていえば、どこをどう見積もっても強い犬ではなかった。弱い犬ほどよく吼えると言うが、まるは臆病者だが吼えることもなかった。カウリスマキの映画の主人公のように、ハードボイルドとは無縁な、臆病を絵に描いたような負け犬ぶりであった。そして、そのことと、優しさは表裏しているように見えた。臆病なものには、臆病者の領分というものがある。征服欲や上昇志向などは、はなから断念している。そんな風であった。それはこの犬の意図せぬ美徳であると言ってもよいと思えた。わたし(たち)は、どこかで勇気のある強い男になりたいと思って生きている。しかし、もし臆病であるがゆえに、優しさを獲得できるのだとすれば、勇気など必要ないのかもしれない。臆病もまた力になりうる。それが、まるの遺言であったと思う。
2009.04.07
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上野の杜の花見のように、カフェ・ヒラカワのコメント欄が騒々しい。理想化された読者のお一人であるまろさんの貴重なご意見もあって、店主の見解も、書いておきたいと思う。ここのコメント欄に関していえば、いや、どこのコメント欄も、コメントと呼べるものもあれば、どうでもいいような雑言の類もある。何だか意図がよく判らないような、サイト誘導もあれば、笑えないおちゃらけのようなものもある。まことに誠意のある助言もあれば、人の背後から石を投げるものもいる。要するに味噌も糞も一緒に落ちているのが、コメント欄というものの宿命であり、インターネット空間の可能性であると同時に限界でもあるということだ。ここは、その名前のとおり、バーチャルなカフェであるから原則としてどんな客がこようと、お客はお客である。ただ、原則としてお金を戴いている商売をしているわけではないので、お客はお客だが、実商売におけるお客様に対する前だれ精神は、このカフェの店主にはない。面倒になれば、すぐにでも店を閉じることにしている。どんな客が来ているのかは、確かに店主の責任でもあるが、ほとんどのお客はコメント欄に書き込みをしない方だろうから、実際のところは、どのようなお客さんがいるのかはよく判らない。どんな書き込みがあるのかに関しても、店主の責任という考え方も理解できなくはないが、俺はどんな書き込みを残すかに関しては、一切の責任はないと考えている。どれを俺が読んで、どれを嗤って、どれを無視して、どれを晒しておこうがそれは俺の密かな楽しみであり、あらゆるブログ主が持つべき愉悦のひとつだろうと思っている。興味深く思うこともあれば、つまらないと思うこともある。客が店を品定めするのと同じように、店主も密かに客を品定めしているだけである。人間には実にいろいろな思考をするものがあり、実にいろいろな言葉を発するものがあるものだと思うだけである。それでも前に、面倒くせぇなぁと思って一度店を閉じた。しかし、そのことによって、大切なご指摘や、俺のカン違い、いい間違いのご指摘まで封鎖してしまうことには、躊躇があった。このブログに書き込む記事に関していえば、昼休みに喫茶店で大急ぎで書き込んだり、ほとんどメモ代わりに速攻で書き付けることもあって、いや、そもそも俺は、よく間違えるのであり、それをご指摘いただけるのはまことにありがたい事なのである。ただ、このコメント欄で何か議論をしたいとは到底思わない。議論を尽くすには、はなはだ不便な場所であるし、条件反射的な反応をする野次馬も多い。議論のための議論にはほとんど意味はないだろうし、興味も無い。もし、本当に議論が必要であれば、お互いの重要なものを賭して、実名を持って、言葉のやり取りをしたいと思う。場合によっては、生存を賭して、言葉に全重量を賭けなければならないこともありうる。だか、その場はこんな場末のカフェの片隅ではないはずである。異論は、ご自分のブログで思う存分発信していただければよい。それが、意味のある意見であれば必ず人はそれを発見し、その言葉は届けられるべき人に届くはずである。もし、それほどにも「言葉」というものを信じていなければ、まだるっこしくも、迂遠な道すじを経て届けられる「言葉」を使ってやりとりする必要もまたないだろう。「言葉」のやりとりに関していえば、自分が相手の「言葉」から受け取れたものと同等以上のものを相手に届けることもまたできないだろうし、自分が相手に届けようとしている「言葉」の水準以上のものを、相手から届けられると期待することもできないということである。というわけで、このコメント欄は今までどおり、カフェの裏手に放置された空き地のようなものと俺は考えているし、お客さんもそのようにお考え戴きたい。空き地には、素敵な拾い物が落ちている場合もあれば、ガラクタが吹きだまることもある。必要なものがあれば、俺が取りに行くだけである。お客さんが必要なものを、店に取りに来るようにである。
2009.04.06
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先週の木、金、土は、箱根某所にて恒例の二泊三日『中国語研究会』。面子は、ウチダ極道兄弟とアゲイン店主。いやぁ、いつも敗残の憂き目に会っている俺も、今回は四暗刻を三度聴ぱり、二度上がる極楽旅で大勝。勿論、恒例のチョンボもしたのだが、これもまたトーシローもやらないような奇妙なもので、すでに六対子あって三筒単騎待ちで立直。捨牌には、筒の表筋裏筋の迷彩が十分すぎるほど施されており、自信の立直。で、立直をして気付いた。すでに三筒の対子は手の内に並んでいるではないの。ということで、親の満願払い。まったく、場の迷彩に酔って、手元の暗がりが見えていないのである。(やらない方には、何のことかわからんですよね)木、金はもちろん、ウイークデイで堅気の皆様はお仕事である。朝から風呂に入り、大めしを喰らい、遊びに興じる。以前も書いたことがあった。究極の贅沢とは、億ションに住み、美食に飽き、ブランド品で着飾るということではない。人生で最も貴重な時間を、何の足しにもならないものに浪費し、蕩尽することだと。二泊三日の蕩尽旅行は、贅沢の極地であった。何か文句ある? あるよね。(これも以前書いたフレーズである)土曜日は、ウチダくんを車に乗せて、そのままラジオの収録スタジオへ。そこで、二週分プラスラジオデイズ配信分をたっぷり収録。とくに、ラジオデイズのものは、ふたりで名曲『ホンダラ行進曲』を大合唱。大瀧師匠のお説にもあったが、明治末期の名曲『軍艦マーチ』にはじまり、戦後復興の空気のなかで藤山一郎と一緒に『丘を越えて』行こうよと唄ってきた日本人が、青島幸夫(作詞)、萩原哲晶(作曲)、植木等(ボーカル)のコンビを得て、たどり着いた境地が、この『ホンダラ行進曲』なのであった。♪ひとつ山越しゃ、ホンダラダホイホイ。もひとつ越しても、ホンダラダホイホイ。越しても、越してもホンダラホダラダホイホイ。で、秀逸なのは、この歌の後半である。 あっちへ行っても、ホンダラダホイホイ。 こっちへ行ってもホンダラダホイホイ。 行っても、行ってもホンダラホダラダホイホイ。 どうせどこでもホダラダホイホイ。 だから行かずにホダラダホイホイ。いや、この行進曲は、どこにも行かないのである。見事な内向き志向。見事な内省。見事な立身出世主義批判(野暮な言い方だけど)。これ、ダウンロードして聴いたひとは怒るんじゃなかろうか。そりゃ、怒るよね。収録が終わり、ウチダくんに、その日の予定をきいたら、講談社の編集者と打ち合わせとのこと。おお、俺も講談社のサーファー編集者と打ち合わせがある。じゃ、ご一緒にということで、丸の内ホテルで平行打ち合わせ作業と相成る。翌日曜日は、晴れて国民的休日なので目黒に繰り出す。ルノアールで、校正作業をのんびりとコーヒーでも飲みながらと思ったのであるが、行ってみたら、あるべきところに、あるべきものがない。目黒ルノアール弊店。おっと、どういうことなんだ。なにがあったんだ。この衝撃、ちょっと言葉にならない。俺と目黒ルノアールの因縁は、また日をあらためて。
2009.03.31
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本日新宿にて開催されたラジオデイズ立川談笑独演会。ゲストは米粒写経。俺が落語担当プロデューサーの大森さんにお願いして(恫喝してともいうが)組んでもらったカードである。ありえない組み合わせでもある。前回の落語会は、小田嶋隆さんと並び座布団で、大友浩プロデュースのきわめつけの古典を聞いたが、今回は、やや離れた席で、とんでもない新作というか、本歌取り落語。『天災』を談笑がやると、こうなる。『芝浜』は、『シャブ浜』になる。さすがは、立川流四天王である。とにかく、俺はこの師匠には天才的な広がりを感じているのである。さきほど、小田嶋さんちを覗いてみたら、ちゃんと談笑師匠がコメントを入れていた。(いいなぁ)この律儀さにも敬服する。テレビでは見られない暴走漫才、米粒は、どんどん凄い世界に入っている。談笑、米粒、談笑の順であったが、米粒の爆裂漫才の後は、普通の噺家ではどうにも始末がつかなくなる。しかし、談笑師匠は平気な顔でまくらなしで、シャブを打つのである。凄いものをみさせてもらった。次回は、瀧川鯉昇独演会。腹の皮がもたない。
2009.03.23
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いま書いている本の校正が、ほぼ終了した。いくつかのトピックは、全面的に書き換えたり、あるいは、まったく別のものと入れ替えたりした。一冊の図書においては、が重要であると考えて、惜しいものもあったが、敢えて削除したのである。削除したものの中に、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに関する文章もあった。以前、ブログで書いたものと重複する部分が多いが、書き足したところもある。それをここで公表しておくことにしたいと思う。政治的な現在、文学的な立ち位置さて、村上春樹についての文章で本書を締めくくろうとしていたとき、その村上春樹がエルサレム賞を受賞との報があった(二〇〇九年二月十五日)。このエルサレム賞受賞に関しては、賛否両論があった。イスラエルによるガザ攻撃の直後ということもあり、かれがどのような行動をとるのかが注目されたのである。大阪の「パレスチナの平和を考える会」は、かれに受賞を辞退するよう求めていた。賞を辞退すべしの論拠は、この賞をスポンサードしているのがエルサレム市であり、エルサレム市長から賞が手渡されるその式典に村上春樹が出席することは、イスラエルによるガザの一般人虐殺の犯罪性を隠蔽することに加担することになるというものであった。もちろん、村上春樹の小説や、洩れ聞こえてくるかれの言動から、かれがガザ虐殺(こう呼ぶべきものだとおもう)のような行為に対して同意を与えてはいないということは明らかである。だからこそ、市民運動の立場から見れば、その村上さんが、無辜の犠牲者の「敵」が贈る賞を嬉々として受け容れるべきではないということになる。この賞が「社会における個人の自由」を標榜しており、エルサレム市がそれを掲げる事自体が欺瞞であり、イスラエルはこれを政治的プロパガンダとして、自らの行為の正当性を根拠付けることに利用するだろうというのが、その理由である。この理由、つまり今回の式典がイスラエルの政治的プロパガンダに利用されるだろうということに関しては、私にはまったく異論がない。ガザ虐殺で世界中の非難を浴びているイスラエルの当局者にとって、少しでも自国の正当性を主張できる機会があればそれを利用するのは当然のことだと思うからである。しかしそのことと、この度のイスラエルの行為に正当性があるかどうかということとは別の問題である。あらゆる人間の行為は、歴史の中では必ず政治性として抽出される宿命にある。世間の耳目を集める出来事に、高名な作家がどう関わるかということになれば、その政治性はさらに鮮明度を増すことになる。私はイスラエルの今回のガザ攻撃には、どのような意味においても正当性はないという気持を持っているが、そのこととイスラエルという国家を地上から抹殺せよと主張するハマスに陣営に立って政治行動をするということは別の問題であると思っている。ほんとうは、中東問題を引き寄せて考えるということは、(自分の問題としては)できればスルーしたい問題である。政治的な課題に関しては誰にも、それをスルーする権利があると思いたい。もし、政治的な課題をひとりの個人がスルーすることが、別のかたちでの政治的な立場の表明であるといわれるかもしれない。確かにどのような立場も政治的には何らかの意味を持つものだということには同意できるが、そのこととどちらか一方の陣営に同意署名して戦列の末端に組み込まれることとはまったく別のことであると答える他はない。それゆえ、今回のエルサレム賞受賞に関して言うなら、それがどのような政治的な背景のものであったとしても、それを受賞するか辞退するかという決断に対して、それが政治的に利用されるという理由によって、他者がその決断に関与するということに関しては大いなる違和感を感じざるを得ないのである。私は、この問題を聞いたときに、受賞を拒否するにせよ、イスラエルに行くにせよ、村上春樹はかれらしいやり方をご自分で決めるだろうと思ったし、そうしなければ意味はないだろうと思った。同時に、かれはきっとイスラエルに行って自分の言葉で喋るだろうと思ったのである。この問題に関しては、これまでも様々な論争のバリエーションがあった。かつてサルトルが「飢えた子どもの前で文学者は何ができるのか」と問うて以来、文学者による文化大革命支援声明のときも、文学者の反核声明のときもこの問題が議論されてきたと思う。それぞれ、場面も登場人物も異なっているが、中心にある問題は同じである。人間は、とくにかれが作家であるならば、主観的にはたとえば文学的人間でありたいと思ったり、政治的に正しい人間でありたいと思ったりすることはできる。しかし、生きている限りかれは、文学的なものと、政治的なものとの両方にいくぶんかの影響を与え、両方からいくぶんかの規制されることを逃れることはできない。政治的であるとはどういうことか。最も極端な比喩で言い表すなら、それは敵の敵は味方であり、味方の敵は敵であるというところに立ち位置を定めるということである。文学的であるとはどういうことか。それはまさに人間が政治的であること自体を拒否することであり、政治的言表を相対化し、無化することである。もちろん、現実はそれほど単純でもなければ、旗色が鮮明でもないことは承知している。重要なことは、人間は社会的な存在であると同時に、個人的な存在でもあるということである。そして、その上で、人間はひとつの行動を選ばなくてはならない。人間は自分が意図しようがしまいが、必ず政治的な加担者になってしまうがゆえに、文学というものが存在するのだ。村上春樹は、最終的にエルサムに行くことを選んだ。なぜならかれは政治家ではなく、小説家であるからである。それはまさに、政治的な色合いを帯びざるを得ないこの授賞式というものに対して、小説家というものに何ができるだろうかという問いを携える旅であっただろうと思う。つまりは、政治的であると同時に文学的でもあることはどういうことかという解けない問題に、どう答えるのかということである。その答えを、村上春樹はそのスピーチの中に潜ませていたはずである。そのひとつは、すでに有名になった「壁と卵」の件りである。 ええ、どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。この卵と壁の比喩は、ある意味ではわかり易い。前者はひ弱な人間であり、後者は冷酷な政治システムで、村上春樹はあくまでも人間の側につくというように解釈された方が多いだろうと思う。確かにそういう意味でこの比喩は使われている。だが、そんなことは村上春樹でなくとも言える事であり、ことさら小説家を自認するかれが問題の地で発言することだろうか。私は村上春樹の重点は、この比喩の後段にあると思っている。つまり、小説家(自分)というものは、善悪正邪の判定者という立ち位置をとらないのだということである。では、かれは何処に自分の立ち位置の重心を置いているというのか。その答えもまたスピーチの中にある。かれはそれを直接名指しはしないけれど、「毎朝、朝食前に自宅の仏壇に向かって、長い祈りをささげている父親の姿」の上に、あるいは「死んだ人みんなの冥福を祈っているんだよ、味方も敵もみんなだよ」という言葉の中にその答えを暗示している。そして、こう続けるのである。私たちはそれぞれ形のある生きた魂を持っています。体制にそんなものはありません。自分たちが体制に搾取されるのを許してはなりません。体制に生命を持たせてはなりません。体制が私たちを作ったのではなく、私たちが体制を作ったのですから。(村上春樹エルサレム賞受賞スピーチの翻訳は、二〇〇九年三月二日および三日の毎日新聞夕刊掲載に拠る)どうだろうか。読者はかれの発言に、物足りなさ、中途半端、政治的な日和見的主義を読み込むだろうか。その惧れは十分にありうるだろうと思う。しかし、私は、この稀有の作家が続けてきている努力、それは効率と正邪に依拠する政治的な言語(体制を支えるもの)から身を離してなお、否応無く向き合わなければならない政治的な場所に、小説家としてどのようにしてコミットしうるのかと問い続けていることに敬意を払いたい。かれは人間のヒューマニズムや善意に対して誠実な態度をつらぬこうとしているが、それと同じ分だけ愚かさや悪意に対しても誠実であろうとしているからである。本書の筆をおくににあたって、私は政治的であることを拒む作家への共感を記した。同時に経済的であることもまた拒む立ち位置に立ちたいと思うのである。人間は誰もそれらから自由にはなれない。しかしそうであるがゆえに、政治的な力学関係や経済合理主義的な思想に回収されることのない「個の思想」の立ち位置というものを確保しておきたいと思っている。
2009.03.22
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ご注意:最近(というか以前より)スパムコメントが多く、ドメインでフィルターをかけています。このブログシステムがそれ以外のフィルターがないので、そうしているわけですが、これによって善意のコメントも一部フィルタリングされてしまう場合があります。悪しからずご了承下さい。(店主敬白)国際問題解説者の田中宇さんとの連続対話六回が、昨日で終了した。世界の膨大な情報を読み続けている田中さんの身体は、すでに巨大なハードディスクのようになっており、その情報の堆積の中から、本当らしいものとジャンク、新鮮なものと腐りかけたものを分別し、ひとつのストーリーが生れてくる。奇想天外なものもあれば、たんに俺が知らなかったこともある。いや、ほとんど俺は何も知らねぇなと思い知らされることが多い。六ヶ月もご一緒にやっていると、呼吸も随分合ってきて、話がどこへ転がっていくのかが楽しくてしょうがないといった状態になっていたのである。四月からは、年越し派遣村で一躍、社会運動のリーダーになった『反貧困』の著者、湯浅誠さんと数回の対話をする予定である。ご両人とも、俺が普段立っている場所とは異なるところで、着実な成果を上げている異分野の方であり、必ずしも阿吽の呼吸で話が通じるわけではないのだが、異なる角度、異なる立ち位置、異なる見方を発見する時間を持つことは俺にとってうまい煙草やコーヒーを味わう以上の感興がある。どちらも、ラジオデイズでお聞きいただければ幸いである。ということで、本日も現在執筆中の『経済成長という病』の中から、新原稿のちょっと出しをしてみることにする。もうすこして、執筆地獄から抜け出せる。本末転倒の未来図 こどもの頃、私は身体を動かすのが大好きな落ち着きのない悪がきだったが、絵を描くことも大好きだった。とりわけ、「未来の東京」といった題材は私を魅了した。モノレールが高層ビルの間を走り、高速道路がクローバーのように交差し、美しいループを描いている未来都市。あれから半世紀が経過して東京の景観、例えば赤坂見付あたりの高速道路とビル群と掘割がつくりだす光景は、私がこどもの頃描いた絵とほとんど変わりがないように見える。ひとつだけ違いがあるとすれば、私の絵のなかでの東京は光り輝く未来都市だったが、半世紀後の実際の東京は少々くたびれ、薄汚れているように見えることである。しかし、それでも東京は、ニューヨークやロサンゼルスと並んで、人間が作り上げた最もエネルギッシュで、文明化された都市であることに変わりはない。少年だった私は、未来を見通す透視力で、あれらの絵を描いたのだろうか。いや、そんなことはない。実際のところ、まだお尻の蒙古斑の残っているようなこどもに未来を構想するなどということはできまい。本当は当時、自宅に毎月配達されてきた科学画報の口絵のイメージを、自分なりにアレンジしたり、誇張したりして味付けしただけの話である。私は自分の過去の体験(画報を読み耽ったという体験)を引き伸ばして未来図を作り上げたに過ぎない。 このことは、私に二つの重大な(と私が思っている)ことを想起させる。ひとつは、多くの人間は、未来を思い描いていると思っているが、実はただ自分が知っている過去をなぞっているだけなのではないのかということである。丁度わたしが、数ヶ月前の雑誌の口絵をなぞりながら、未来図を描いたようにである。私たちにとって、未来とは成長を成し遂げてきて現在に至ったというその成長の残像を、未来に引き伸ばせばそれでよかったのである。こどもの私には、そのときまだ日本の社会が、社会発展史のどの段階にあるのかについて何も知りはしなかった。ただ無邪気に、目に焼き付けられた未来図の残像を信じていたのである。経済成長を至上の命題として、経済政策をつくりあげようとしている今日の政策担当者の場合はどうだろうか。かれらもまた、戦後六十年の経済成長の残像を、ただ未来に引き伸ばしているだけではないのか。人口減少社会に突入した現在社会というものがほんとうに見えているのだろうか。 もうひとつの重大なこと。確かにこどもだった私は、過去を参照しながら未来図を描いた。しかし、それでも未来図は未来図である。そこには当時の私たちの生活を一変させる便利さと、スピード感、合理的な美しさがあった。それは、当時はまだ改善されるべき不便や不合理が身のまわりに、街のいたるところにあふれていたということを意味している。あれから半世紀、高度消費資本主義社会の最先端を走ってきた私たちの国において、産業の発展が解決し得るような不便、不合理というものが、どれほど私たちの身の回りに残っているのだろうか。私にはむしろ、利便性や贅沢の過剰が、処理しきれないゴミとなって人間の社会を圧迫しはじめているように見えるのである。インターネット空間の八割を占めるといわれるジャンクメールは、そのひとつの現れかもしれない。私が未来図を描いた時代とは、私じしんがこれから成長してゆくとば口に立っていたように、私をとりまく世界もまた成長のとば口にあったということはいえるだろう。このことは案外重要なことだ。そして、私は思う。果たして今のこどもたちはどのような未来図を描くのだろうかと。リドリー・スコットの『ブレードランナー』や、リュック・ベッソンの『フィフスエレメント』が描いた未来都市の姿は、今の東京の姿とあまり変わらないように見える。確かに空飛ぶ流線型の飛行体や、奇妙にメタリックな服装は目に付くが、そのどれもがことさら目新しいものではなく、すでにあるもののバリエーションに過ぎない。私たちは、これらの映画を見ながら、輝く未来なるものが実は合理を欠いた無理筋であることをすでに知っているのである。交通渋滞や排気ガスによる公害といった文明の裏側の実態をすでに知っている私たちにとって、自由に空中を飛ぶ高速飛行船や、技術は一方で高度に繁栄した社会を描き出すが、同時に事故や渋滞、さらには公害といった問題と無縁には存在し得ないことも経験済みというわけである。もちろんそれは、莫大な資本を投下され、石油資源をふんだんに使って作り上げられた超近代的な都市に住んでいるからこそ云えることである。世界には今も圧倒的な非対称が存在しており、富の配分は公平でもなければ均一でもない。だからここでの視点は、あくまでも消費文明の最先端にある国家、都市に限定したものだとお考えいただきたい。そこでもう一度問いたいのだが、今のこどもたちは、半世紀前こどもだった私のように、無邪気な未来図を描くことができるのだろうか。もし、できるとすればそれはどんな絵になるのだろうか。実際に、こどもたちに未来図を描けと命じたことがないので、よく判らないのだが、私には、今のこどもたちにとって未来図を描けというのは、案外難しい課題なのではないかと思われる。(もし小学校で実際にやっているのならば、是非見学したいところである)。想像をたくましくする他はないのだが、ロボットが何でもやってくれる社会、バーチャルリアリティの中での生活、あるいは反対に孤島でのロビンソンのような社会への憧れが描かれるのだろうか。よく判らない。よく判らないが、私にはそれがあまり楽しそうな世界だとは思えないような気がする。今日はここまで。実はこの後に、人口減少社会というものに関する、俺の「驚くべき」見解が続くのであるが、それは4月に発売される講談社の新書でお読みいただきたい。(って、講談の「切れ場」だね。そうです、宣伝活動中なのであります。)
2009.03.20
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4月に講談社から発刊される予定の『経済成長という病』(仮)の中の一文。まあ、こんなことを毎夜だらだらと書いているわけです。でも、もうひと踏ん張りといったところだ。そして、仕事に戻る。 私は、経済的な打撃とそれが生み出した社会不安や格差の拡大という現象は確かに大きな問題だが、経済成長至上主義が人々に与えた心理的な影響、それによってこの十数年に起きた効率主義、合理主義に対する盲目的な信仰は将来に計り知れない禍根を残すのではないかと心配しているのである。人々の心理に及ぼす影響は、徐々にしかし、確実に目に見えるようにその姿を現す。たとえば、教育の場面で、労働の現場で、家庭の中で。繰り返すが、どのような経済システムを採用しようが、そこには必ずプラス面とマイナス面がある。だから、日本が現在陥っている状況のすべての責任を、為政者に求めているわけではない。たとえば、この十年間に急速に増加した非正規労働についても、もちろんその根本要因は派遣法の施行にあるが(その理由はここでは述べない)、どこかで国民もそれに加担していなかったとは言えないと私は思っている。それを象徴的に示しているのは、「消費の多様化」「労働の多様性」という言葉である。 確かに、消費者のニーズは多様化し、街は若者向け、あるいは中高年向けといった具合に分化し、商店やデパートにも多様なニーズに合わせて多種多様な商品が並んでいるように見える。私は、しかしこの「多様なニーズ」などという言葉は、実は多様でも何でもなくて、ただ供給側が消費者の欲望を刺激するために作り出した虚構であると思う。ほんとうは、消費者のニーズは多様化などしていない。ただ過剰な商品が過剰な欲望を喚起しているだけであり、消費の選択肢が膨らんでいるように見えるだけである。つまり個人の欲望が限りなく細分化されているだけである。失礼を承知で言えば、ニーズなどという言葉を嬉しそうに語っているマーケターだとか、ビジネスコンサルタントも、時代という人形師に操られた腹話術の人形みたいなものに見えてくる。 多様な消費生活。いつの頃からか、そのような言葉が生まれ、これまで見なかったような光景が出現し、やがてそれが当たり前のようになった。おそらくは、(吉本隆明も何処かで書いていたが)週休二日制が採用され、人々の関心が労働から消費へと移った八十年代にはすでにその兆しがあったということだろう。消費は金と時間さえあれば、誰もが自由気ままにその対象を選択し、必要とあれば交換したり廃棄したりすることができる。しかし、労働=生産の形態は本来多様でもなければ、自由に選択したり交換したりすることができるわけではない。もちろん、職業の選択の自由は国民に保障された権利だが、現実的には生まれ育った環境や、能力などに応じて職に就き、働きながら技術・技能を蓄積して成熟した働き手となってゆく。多様な働き方というような言い方は、虚構でしかない。秋葉原に行けば、不景気の今でも家電製品が圧縮展示されている。数え切れないほどのゲームソフトを並べている店がある。家電もゲームも新商品が次々と販売される。塾通いの子どもがいれば、ゲームばかりやっている子どもがいる。子どもばかりではない、大人もゲームに夢中になる。韓流ドラマに明け暮れている主婦もいれば、スポーツジムでダイエットに勤しむ主婦もいる。一方で食べていくのに精一杯のフリーターがいれば、親の脛をかじって外車を乗り回している学生もいる。研究室で毎夜データとにらめっこしている勉強家もいればフィギュアと添い寝しているオタクもいる。そしてそれぞれが、違う国の言葉を話しているかのごとく、仲間内だけで通じるジャーゴン(=符丁)を交わしてお喋りする。これだけ、生活の場面が多様化してくれば、当然、消費も多様化する。消費が多様化すれば生活も多様化する。生活が多様化すれば、働き方も多様化する。ほんとうだろうか。これが多様化した社会なのだろうか。インターネット技術も、金融技術も、それ自体は人間が利便性や、金儲けというものを志向する限り発展を止めることはないし、そのこと自体に良いも悪いもないであろう。ただそのことと、人間の社会が営々として築いてきたアナログ文化や、職人的な矜持や、労働倫理といったものを、ただそれが非効率で非生産的であるという理由で、別なものに置き換えるということとは、まったく別のことだといわなければならない。あるいは欧米に遅れをとるなと、小学校で株式取引を教えろといい、大学は実学優先、即戦力の育成機関にしろといい、国際語である英語教育の時間を増やして国際人を養成すべしというような声があちこちから洩れ聞こえてくるが、そのあまりの無邪気さに唖然とする他はないのである。たとえば日本語。最近では、電車に乗っていても、街を歩いていてもやたらと、英会話スクールの看板が目に付く。ビジネスマンも、主婦も、学生も、流暢な英語を話せるようになるために資本投下することを躊躇しない。英語こそはインターネット時代の、世界の共通語であり、世界の共通語を操れなければ、世界に伍してたたかうことはできない。いや、何も世界に伍してたたかわなくとも、この日本での就職やキャリアアップ、はては結婚相手探しにいたるまで、英語を喋れないことは機会損失につながるとでも考えているかのようである。経済学者も評論家もしばしば、アメリカでは小学生から株取引を教えている、アメリカの会社では・・・、アメリカの大学では・・・、とアメリカがいかに合理的なシステムを遂行しているかのようなもの云いである。そして多くの日本人が、このグローバル化の掛け声を背景にして、漢詩や、旧仮名遣いの近代文学を読むことが出来なくなってもほとんど気にかけずに、むしろ英語のできないことを恥じるようになっている。英語が今やユニバーサルランゲージであり、世界の覇権語であることは誰も否定できない事実である。しかし、そのことと日本語でしか表現できないような感情や、日本語があったからこそ育まれた感覚は、あいまいで閉鎖的であり、無価値であるかのように思ってしまうこととは、まったく別なことだといわなければならない。この十年間に書かれた日本語論、グローバリズム批判の書として最も重要な本『日本語が亡びるとき』(水村美苗著、筑摩書房2008年10月)の中で、著者の水村氏はこう書いている。だからこそ、日本の学校教育のなかの必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらないという前提―すなわち、さきほどもいったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、英語の世紀に入った今、「もっと英語を、もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。まったく同感である。この本は日本人のすべてに読んで欲しいが、彼女が何故このような認識に至ったのか、堂々たるバイリンガルが日本に生まれることを可としながらも、何よりも日本語が読めることの枢要を説くに至ったのかを知る必要がある。その理由は十九世紀の後半から始まった日本近代文学の多様性に、まさに世界文学に伍して次ぎ次ぎに生れた作品に直接触れながら成長してきたからだろう。『浮雲』『たけくらべ』『にごりゑ』『坊ちゃん』『三四郎』『道草』『銀の匙』『阿部一族』『渋江抽斎』『歌行燈』『或る女』『墨東奇譚』『春琴抄』『細雪』などを始めとして、枚挙にいとまないほどの優れた作品―それも、ひとつひとつが、驚くほど異なった世界を提示する作品があとからあとから書き継がれ、日本人の心を大きく豊かに形作っていった。(同書)多様であるとは、このようなことを言うのであり、同じことをして多様な表現、多様な感覚、多様な形式、多様な方法を、お互いがお互いを参照しながら模索し、追及し、表現できることを言うのである。今日、多様なライフスタイル、多様な趣味、多様な働き方と言われているものに含まれる多様性、アメリカ合理主義の参照者が褒め称えられるダイバーシティーという価値観は、多様というよりは、個々の欲望の目先が細分化し、お互いがお互いを参照する必要のないところで自己決定、自己実現しようともがいている光景だとしか思えないのである。
2009.03.16
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大阪に向かう新幹線の中で読んだ本は、『街場の大阪論』(江弘毅 バジリコ出版)である。たまに、知人の著書を読むと、そのひと本人と、書かれていることのギャップに違和感を感じることがあるが、この本からは、江さんの肉声がそのまま聞こえてくる。見た目は豪快、がさつ、いつもガハハと大笑いしている大阪の名編集者だが、ほんとうは気づかいと、やさしさ、含羞をうちに隠した知性人である。この見た目と内実の落差が、絶妙な文体を作り出している。磊落な放言をしているような言葉遣いの下には呻吟し、吟味し、ときに照れているような作家の精神が息づいている。その微妙なずれは、大阪という町が持っているずれをそのまま体現しているかのように思える。「コテコテ、お笑い、たこ焼き、あきんど、おばちゃん、ヤクザ、阪神タイガース・・・」は確かに大阪の一面ではあるが、そんなことを繰り返し刷り込んでいるメディアも、ひとも、いつも重要なことを見失っている。そこには、ステロタイプ、書割り的な大阪はあるが、生きている大阪の街の風貌は、その分だけ隠蔽され続けてきたのだ。こう、江さんは言っているように思える。「けれども断言するが、街の中にいて、聞いていても話していても何といっても断然おもろいのは、やっぱり商売人のえげつない銭もうけやおばちゃんの無自覚やヤクザ者の与太や店の食べ物についての街場の話であったりする。」しかし、これもまた、大阪を語るもうひとつのステロタイプであることを江さんは気付いている。ほんとうは断然おもろいのは、もの心がついた頃より、大阪のディープサウス岸和田のだんじり遣り廻しの人の渦の中でもまれ、考えてきた街場の知識人である江弘毅の大阪に対する「婀娜(あだ)な深情け語り」なのである。いや、深情けと知性という相反する精神のせめぎ合いが面白さの源泉だろう。― 若いOLの娘が忘年会などの後、家に帰ってきて「てっちりだった。ヒレ酒がおいしかった」などと言おうものなら、親は「この娘は、なんというものを・・・・」と顔をしかめる。大阪では少し前まではてっちりは玄人筋のヤクザな食べ物であったのだというこの江さんの指摘には、少なからず驚いたが、かれの文章もまた玄人筋のヤクザな文体を隠しているといってもよいかもしれない。
2009.03.11
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いやぁ、忙しい。で、そこいら中で予定が重なっている。ナイス・バッティング!今週と来週は、大阪出張があり、ラジオの収録が二本あり、さらには落語会がひとつ、勉強会がひとつ。来週は、某社株主総会と、箱根極楽麻雀が重なり、談笑と米粒の落語演芸競演がひとつ。楠美津香のロンリー・シェークスピア・ドラマもある。もちろん、それ以外は本職の仕事がびっしりと入っており、気が抜けない。空手の稽古日はほとんど他の予定に重なっており調整不能。もう還暦手前の爺だぜ。こんな日程を調整しながら動き回るのは無理がある。と、前振りをしたところで四月の予定を見たら、な、なんと本願寺落語会と俺の主催する二宮清純さんを囲む箱根一泊経営者ブレストが重なっているではないか。まいったをしたのだが、誰も許してくれない。というわけで、スマン、フジモト!本願寺には手抜かりなきよう社長以下、ラジオデイズのスタッフが駆けつけますのでお許しください。このところ、毎日毎日聞き続けている大瀧詠一師匠の『日本ポップス伝2』(面白いのなんのって)について書こうとおもったのであるが、ケツに火がついているので、火が消えてからゆっくりとやっつけたい。というわけで、ひとまず、ドロンさせていただきます。
2009.03.10
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ほとんどあらゆる問題に対する答えが「さらなる経済成長」なのだ。失業率が高まっている―雇用を創出できるのは経済成長だけだ。学校や病院の予算が足りない―経済成長で予算は増額できる。環境保護がふじゅうぶんだ―経済成長で解決できる。貧困が広がってきている―経済成長によって貧しい人々は救われる。収入の分配が不公平だ―経済成長でみんなが豊かになれる。何十年にもわたって、経済成長は過去の世代が夢に見ることしかできなかった可能性を実現するための鍵なのだといわれつづけてきた。(クライヴ・ハミルトン『経済成長神話からの脱却』アスペクト刊、嶋田洋一訳) 経済成長それ自体は、良いも悪いもない。文明化が進み、都市化が進み、消費生活が活発になれば総需要は拡大し、生産もそれにつれて拡大して経済は成長する。もし、問題があるとすれば、それは社会の発展プロセスは均一ではなく、まだら模様であり、発展の進捗は地域によって大きな差があるということである。そもそも経済成長とは、何を意味しているのか。話をわかりやすくするために実質国民総生産の増加を経済成長だと定義してみる。要するに市場に供給する生産物、サービスの増加が経済成長だと考えてみる。文明化が一定の水準に達し、消費者の手元に必需品としての生産物がいき届いた時点で、需要は原則としては買い替えのための消費だけになるので経済は成長することを止めて均衡へと向かう。もし、この段階で人口減少が起これば総需要はさらに減少することになり、経済成長はマイナスの局面に入ることになる。簡単な算術である。しかし、何故か現実の世の中では、与党の政治家も野党の政治家も、企業家も、経済学者も、メディアも、一般の人々も「経済は成長しなければならない」という観念に支配され続けている。小泉政権下のスローガンは、「改革なくして成長なし」というものであった。二〇〇八年の米国大使館のホームページには、米国国際開発庁長官ヘンリエッタ・フォアの次のようなアナウンスメントを掲載していた。「経済成長は、私たちが推進している分野です。なぜなら、経済成長はほかのすべての活動の基礎であり、貧困の低減の主な原動力になるからです。経済が成長すれば、人々が教育や医療の費用を負担することができ、自らや家族が当事者意識と安定感を感じられる活動にかかわることができます」。 また、OECDの広報誌「オブザーバー」は、「全体として,ゼロ成長シナリオはすべてに不利に作用する。特に開発途上諸国では失業と環境の悪化が広範囲に広がるだろう」と述べている(一九九九年夏号掲載論文「経済成長は人口問題を解決するか?」)。かくして、経済対策も、医療政策も、教育方針も、人口対策も、経済を持続的に成長させるという前提のもとに設計され、施行される。経済成長は、人間の社会が達成しなければならないほとんど唯一の目標となる。ほんとうは、経済が成長するか鈍化するかは人間の社会の様々な要因が生み出す結果であり、成長への妄信はただの願望に過ぎないとしてもである。しかし、何故か経済がマイナス成長するという前提は、禁忌とでもいうように遠ざけられ、よくとも見て見ぬ振りをしてきたのである。何故、私たちは経済成長という神話から自由になれないのだろうか。 その理由はいくつか考えられるだろうが、世界中の国家という国家は、一時的な移行的混乱はあるにせよ、文明化、都市化、民主主義化といった歴史を辿っており、いまだ明確な衰退局面といったものを経験していないということがあるだろうと思う。「軍人はいつも過去の戦争を戦っている」の喩えどおり、私たちの思考の基底には、すでに経験済みの事象が共同的な記憶として堆積しており、私たちはその既知の堆積物をさまざまに組み替えながら現在の世界観というものを無意識的に構成してしまうのである。私たちは、私たちとその祖先がまったく経験したことの無い、未知の事象に関しては、ほとんどうまくイメージすることができない。ほんとうは、イメージできないということと、それが私たちの上に到来しないかどうかということとはまったく関係が無いにもかかわらず、私たちはその未知の可能性を勘定に入れて思考することができない。(中略)人口が減少する。経済が均衡する。これらは、原因ではなく結果である。すくなくともそのように考える余地を残しておくべきだろう。もし、そうだとすれば、経済が右肩上がりを止めた後の社会の作り方というものを、冷静かつ具体的に考想しておくべきではないだろうか。私には理論的にも実感としてもそれが自然な考え方であると思われる。経済成長というものを至上の命題として、飽食した市場にさらなる商品を投入し続け、その結果として人々が過剰消費、過剰摂取に明け暮れる光景は滑稽を通り越して悲惨なものがある。卑近な例を挙げるなら、世間にダイエットという言葉が流行しはじめたとき、すでに経済成長はその本来の動機を失いつつあると思うべきではないのか。食料を必要以上に摂取し、肥え太って動けなくなり、何とかしなければならないと思ってスポーツジムに通い、ルームランナーで余分な水分を搾り取るというのは、どう見ても間尺に合わない行動である。しかし、自分がブロイラーのニワトリのような生活をしていてもやがてそれを奇妙だとは思わなくなる。より効果的なダイエット器具が開発され、新しい需要が喚起される。しかし、こんなことが永遠に続くと考える方が不自然である。(続きは五月頃発刊の新書で)
2009.03.05
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三月一日日曜日、松濤館流空手の始祖である船越義珍先生生誕百四十周年松濤館創建五十周年の式典が、菊川の本部道場で行なわれた。写真は、式典の開始を待つ樽酒。麒麟山。麒麟山はリナックスカフェの桃ちゃんの生家が造る酒で、新潟から車に揺られて道場に着いた。あけて月曜日、朝オフィスに着いたら本が二冊、雑誌が一冊届いていた。いづれも、いただきものである。まずは、大阪の盟友江弘毅だんじり親父から『街場の大阪論』。バジリコ出版の安藤さん経由でお送りいただいた。おっさん、忙しいのによく書いている時間があるなと思っていたが、ミーツに連載していたものをまとめたものらしい。帯文は、うちだたつるである。「江さんの文章には、読んだ人間に何かをはじめさせる力がある」いや、会った人間はみんな得体の知れないエネルギーを注入されるのである。だんじりを遣り回すのも天職かもしれないが、編集者としてこのおっさんの天賦の力を感じないわけにはいかない。もう一冊は、『トヨタ・ショック』(講談社)これも、もとはといえば江さんつながりでお会いし、ラジオにもお呼びした井上久男さんのトヨタレポートである。今回は、伊藤博敏との共著。あの、トヨタに何が起こっているのかを知るには格好の本である。先日も江さん繋がりで釈徹宗先生から、『仏教ではこう考える』(学研新書)『いきなりはじめるダンマパダ』(サンガ)『不干斎ハビアン』(新潮選書)の三冊をお贈り戴いたばかりであった。ラジオ仲間の田中宇さんからは『世界がドルを棄てた日』(光文社)も届いた。この場をお借りしてお礼申し上げたい。さらには文芸春秋の『諸君!』なんで、この雑誌がと訝る読者もあるかもしれないが、書評を頼まれて書いたのである。今回の号には、養老さんが面白い論文を寄せている。田母神論文の真贋論争を秦郁彦と西尾幹二がやっていて読みごたえがある。テレビで幾度かご意見をお聞きした限りでは、秦という人をあまり好ましく思っていなかったのだが、この論争を読む限り、歴史家として公正な態度をもつ方だと思った。この雑誌への書評は、二回目で、前回は今話題の神谷秀樹さんの『さらば、強欲資本主義』今回は、半藤一利さんの『幕末史』。『昭和史』とならんで、半藤節が冴え渡る歴史語りである。俺は半藤さんが好きである。この人の歴史観というものには、人柄から滲み出る味わいと、信頼できる立ち位置というものを感じることができる。文芸春秋の山口さんからお電話いただいたときは大変忙しかったのであるが半藤さんのご著書であれば、お断りするわけにはいかない。何人かの書き手には、こういう気持にさせられる。中野翠さんもそうだし、もちろん川本三郎さんの本はほとんど涎をたらしながら読んでいる。
2009.03.02
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年に一度だけ、ラジオデイズの顧問である演芸研究家の大友浩さんがこの人のこの落語が極めつけであるという組み合わせを選んでプロデュースする落語会が『きわめつけ落語会』である。その第二回目が3月18日水曜日、お江戸日本橋亭にて行なわれる。春風亭小柳枝「井戸の茶碗」八光亭春輔「旅の里扶持」立川談四楼「浜野矩随」の三題ネタ出しである。「井戸の茶碗」は、色々な噺家さんのものを何度も聴いているが通の間で評価の高い小柳枝師匠のものはお聴きしていない。「浜野矩随」は、講談話からきたもので、できそこないの職人が、きっかけをつかんで名人になるまでの話である。春輔師匠の「旅の里扶持」は、一度も聴いたことのない落語なのでどんなものなのか見当がつかないのだが、長谷川 伸作の泣ける噺のようである。落語は、笑いだけではない。今回はおそらくは、笑いながらもしみじみとして、そして動けなくなるという体験をすることになるはずである。大友さんの選択なので、間違いはない。落語の奥深さをじっくりと味わう絶好の機会で、俺が一番楽しみにしている。ああ、待ち遠しい。まだ、残席があるようなので、ラジオデイズから是非お申し込みを。
2009.02.27
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