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5月1日は若井伸之さんの命日です 本当に、ものすごい人物で、人柄で。。。若井さんがいたから、ほかのみんなが活躍できた。。。もう31年ですか。。。坂田さん、上田さんとともに、125ccで世界で大活躍して、250で頑張っていた矢先でしたね。当時は、γだったんだなぁヘレスで、ピットロードに入ってきた観客をよけて、、、、本当に信じられませんでした。。。陽気で人気者で、フラミンゴという愛称で海外のレーサー、ファンにも慕われていました。あの頃の日本人は、本当に強かったその先駆者として、本当にがんばっておられました。若井さんの速さと強さ、優しさは、ずっと忘れません。若井 伸之(わかい のぶゆき、1967年7月25日 - 1993年5月1日)は、千葉県八千代市出身の日本のオートバイレーサー。かつてロードレース世界選手権(WGP)の125ccクラス・250ccクラスに参戦していた。細身で長身な体格と、その長い手足を折り畳むライディングスタイルから「フラミンゴ」の愛称で親しまれた。1990年に全日本ロードレース選手権でランキング2位となった若井は、翌1991年から坂田和人・上田昇(当初はスポット参戦)とともにWGP・125ccクラスにフル参戦を開始。他の2人とともに、プライベート日本人ライダーの先駆者となった。当初はなかなか結果を残せずにいたが、最終戦マレーシアGPでは、トップ争いの末3位表彰台を獲得。翌1992年開幕戦日本GPでも、雨の中地元で3位に入るなど、結果を残すようになる。またドイツGPでは、怪我により欠場したウィルコ・ズィーレンベルグの代役として、スズキから250ccクラスにスポット参戦、7位入賞を果たしている。1993年、若井はスズキから型落ちのワークスマシンRGV250-γの貸与を受け、250ccクラスにステップアップ。しかし250ccクラスのマシンに馴染めず、同年から参戦した親友で弟分の原田哲也らが活躍を続ける一方で、結果を出せずにいた。第4戦スペインGPの予選中、タイムアタックを行うべく、フル加速でピットロードから飛び出そうとしていた若井の前に、突然観客が飛び出してきた。この観客はロリス・レジアーニの招待客であり、本来パスがなければ入れない場所に無断でいたところを、オフィシャルに見つかり逃げ出したところだった。若井が回避を試みたため、接触こそしたものの観客は軽傷で済んだが、若井本人はバランスを崩してピットロードのコンクリートウォールに激突。頭部を強打した若井は懸命の治療の甲斐無く死去、25歳没。1986年に完成したヘレス・サーキットで初めての死亡事故となった。若井の死を受けて、他の日本人ライダーは当初出走の辞退も考えたが、原田が出走を決意したのを皮切りに、最終的には「若井のために頑張ろう」と出場を決めた。250ccクラスの決勝では、原田がコースレコードをも更新する走りで、他に大差を付けて優勝。125ccクラスでも、坂田がラルフ・ウォルドマンを振り切り、WGP初優勝を遂げた。レース終了後、原田はバイクにまたがったまま号泣し続け、坂田も表彰台で悲壮な表情と涙をみせた。また、このレースで5位に入賞した上田はレース後、若井の事故現場まで自身のマシンで近づき、コンクリートウォールを軽く叩いて若井に別れを告げた。原田はこのときの優勝トロフィーを、若井の遺族に送ったという。2012年に、サンスポに若井さんを惜しむ記事がありました若井伸之を偲んで建てられたフラミンゴ像 4月27~29日にMotoGP第2戦が開催されるスペイン・ヘレスサーキットの片隅に、ひっそりとフラミンゴの像がたたずんでいる。レースに造詣の深い人には、この像の由来を今さら説明する必要はないだろう。ただし、近年になってレースに興味を持ち始めたファンには、あまり馴染みがないかもしれない。これは、1993年にこのサーキットで命を落とした日本人選手、若井伸之を偲んで建てられた像なのである。若井は、1990年に全日本選手権125CCクラスでランキング2位を獲得し、翌年から世界グランプリのフル参戦を開始した。この年には、坂田和人と上田昇も125CCクラスのフル参戦を果たしている。1991年のこの時、若井23歳、坂田24歳、上田23歳。開幕戦日本GPの舞台鈴鹿サーキットで上田は劇的なポールトゥウィンを達成。シーズン最終戦のマレーシアGPでは坂田が2位、若井は3位で表彰台を獲得した。身長の高い若井が、長い手足を折りたたむように小さな125CCマシンを操る様子はフラミンゴの姿にもたとえられた。 1992年、上田はランキング9位、若井10位、坂田11位。93年に上田と坂田は125CCで継続参戦する一方、若井は250CCに転向する。この年、彼らのもうひとりの親友、原田哲也が250CCクラスに登場した。原田は開幕戦オーストラリアで衝撃のデビューウィン、第2戦マレーシアは2位、第3戦日本GPで優勝、と快進撃を続けていた。そして第4戦のスペインGPを迎える。 土曜の予選で、若井がコースへ出ようとしたときに悲劇が発生した。ピットレーンに観客が飛び出し、この観客との接触を回避しようとした若井はピットロードの壁に衝突、頭部を強打した。懸命の治療の甲斐なく、25歳で逝去。翌日の決勝レースでは、125CCクラスで坂田が初優勝を達成。堪えていた涙が表彰台で一気に爆発した。5位でフィニッシュした上田は、自らのピットガレージへ戻る際、マシンに跨がりながら若井の激突したウォールに触れ、別れを告げた。250CCクラスでは原田が優勝。レースを終えてヘルメットを脱いだ後も、原田の涙は止まらなかった。若井の死を悼む意味から、このクラスの表彰式は行われなかった。 そして1994年2月、ヘレスサーキットにフラミンゴの像が建立された。その碑文には、以下のようなことばが記されている。「魂と肉体の翼いまだ衰えぬまま この地に止まりて挑むは 汝ら志ひとしき同胞 飽かず疾駆する勇姿なり」 コース脇のフェンス内側に立つフラミンゴの像が選手たちの姿を今も見つめ続けるなか、ヘレスサーキットは若井の事故から20回目のグランプリを迎える。(モータージャーナリスト・西村章)
May 1, 2024
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また、悲しい事故が。。。Facebookでも、最終戦で、挨拶周りして、来期もお世話になりますと書かれていたのに。。。残念ですご冥福を、お祈りいたします。鈴鹿サーキットでバイクレース中に4台が転倒する事故 男性1人死亡2023年11月19日(日) 22:39国内三重県の鈴鹿サーキットで、バイク4台が絡む事故があり、1人が死亡し、3人が軽いけがをしました。警察によりますと、事故があったのは、鈴鹿サーキットの国際レーシングコースで、19日午後3時すぎ、バイクレースの大会に出場していた、4台のバイクが相次いで転倒する事故がありました。この事故で、大阪市に住むオートバイ販売業、吉田和憲さん54歳が、全身を強く打ち、病院に搬送されましたが、その後死亡が確認され、ほか3人も軽いけがをしました。事故当時、4台は集団で走行をしていて、先頭を走っていたバイクが転倒し、その後ろを走っていた、吉田さんを含む3台が突っ込んだということです。事故は、レーシングコースの直線部分で起きていて、警察が事故の原因を調べています。鈴鹿サーキットでバイクレース中に事故、ライダー1人死亡毎日新聞 2023/11/19 20:24(最終更新 11/20 08:46) 290文字三重県鈴鹿市 19日午後3時5分ごろ、三重県鈴鹿市稲生町の鈴鹿サーキット国際レーシングコースで開かれていたレース中、バイク4台が絡む事故があり、ライダーの大阪市鶴見区、オートバイ販売業、吉田和憲さん(54)が全身を強く打って死亡した。 鈴鹿署によると、事故があったのはコースの「ホームストレート」と呼ばれる直線部分。1台のバイクが転倒したところに、吉田さんなど後続車3台が突っ込んだ。他の3台に乗っていた選手は病院に搬送されたが、いずれも軽傷だという。 レースは「第59回NGKスパークプラグ杯2023鈴鹿サンデーロードレース」の最終戦。レースには45台のバイクが参加していた。【寺原多恵子】鈴鹿サーキットのホームストレートでバイク転倒、4台絡み1人死亡2023/11/19 21:44 19日午後3時5分頃、三重県鈴鹿市稲生町の鈴鹿サーキット国際レーシングコースで、レース中のオートバイ4台が絡む事故があった。この事故で、レースに出場していた大阪市鶴見区鶴見、オートバイ販売業吉田和憲さん(54)が全身を強く打って外傷性ショックで死亡し、ライダー3人が軽傷を負った。 県警鈴鹿署の発表によると、サーキットでは、世界を目指すライダーの登竜門レース「鈴鹿サンデーロードレース」の最終戦が開かれ、45台が参加していた。ホームストレートで吉田さんの前を走るオートバイが転倒し、吉田さんなど後続の3台が巻き込まれたという。吉田和憲(icu racing team)/2023鈴鹿サンデーロード最終戦
Nov 19, 2023
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いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。もう、あれから16年ですか。。。ロッシが、あれから、ずっと、トップで走り続けたこと、引退を、どうねぎらったでしょうね。。。天国で、大ちゃんと、一緒にほめたたえてるだろうなあ。。。H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらいふらふらしていました。。。自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々がまだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。本当に辛いです。。。自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが誰からも、愛される人必要とされる人そんな人たちが、早く旅立って。。。私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック 1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック 阿部典史-流星伝説-より秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。そして1996日本GP、涙の初優勝!!Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました8耐最高!!ノリックも叫んでましたよニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。ノリックが交通事故死、トラックと衝突 死去した阿部典史さん(オートバイレーサー) 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。 ◇ 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。
Oct 7, 2023
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ヨシムラ、今シーズン初勝利!YART YAMAHA 年間チャンピオン!!22:21ヨシムラおめでとう!!!!22:35ヨシムラシーズン2位!!YART優勝!
Sep 17, 2023
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8月20日の事故から、ずっと頑張っていた谷本音虹郎選手が、旅立ってしまいました。。。まだまだ23歳。。。これからなのに。。。早すぎます。。。本当に悲しすぎます御冥福を、お祈りいたします。。。【訃報】意識不明の23歳ライダー、谷本音虹郎が亡くなる。全日本ロードJSB1000の決勝中に事故9/5(火) 11:35配信オートスポーツweb谷本音虹郎(Team TATARA aprilia) 9月5日、Team TATARA apriliaは2023MFJ全日本ロードレース選手権シリーズ第5戦もてぎ2&4レース JSB1000クラスの決勝レースでクラッシュを喫した谷本音虹郎(たにもとおとじろう/Team TATARA aprilia)が亡くなったと発表した。23歳だった。【写真】谷本音虹郎(Team TATARA aprilia) 栃木県のモビリティリゾートもてぎで、8月20日に全日本スーパーフォーミュラ選手権と全日本ロードレース選手権が、もてぎ2&4レースとして行われた。全日本ロードJSB1000クラスの決勝レースでは3周目にホームストレートエンドで谷本がクラッシュを喫してしまう。 大きな事故となってしまい、谷本はすぐに救急車でメディカルセンターに運ばれて、ドクターヘリで獨協大学病院まで搬送された。そして、同日16時30分に「首の骨折の疑いで意識不明の重体」だと警察が発表した。 その後、意識不明の状態が続いていたが、9月5日0時25分時に谷本が逝去したとTeam TATARA apriliaが発表した。 発表されたプレスリリースは以下の通り。INFORMATION 2023年9月5日谷本音虹郎がレース中のアクシデントにより逝去Team TATARA Apriliaから全日本ロードレース選手権シリーズJSB1000クラスに参戦していた谷本音虹郎がレース中のアクシデントにより9月5日(火)0時25分に逝去いたしました。享年23歳。故人のご冥福をお祈りし、謹んでお知らせいたします。8月20日(日)に開催されました全日本ロードレース選手権第5戦もてぎ2&4レースのJSB1000クラス決勝、3周目の1コーナーでアクシデントは発生。レースは中断され谷本は、すぐにドクターヘリで栃木県・獨協大学病院に運ばれ治療を受けました。その後、意識不明の状態が続いていましたが還らぬ人となりました。ご両親のコメント8月20日の決勝中にアクシデントに遭い、約2週間、音虹郎は頑張りました。オートポリスラウンドで音虹郎のステッカーを貼って走ってくださった選手の皆さまを始め、応援してくださった全ての皆さまにお礼を申し上げます。また、私たち家族に対してもお気づかいいただき感謝申し上げます。井上哲悟チームマネージャーコメントただただ残念という言葉しかありません。今シーズン開幕戦で代役としててチームに加わってくれた谷本音虹郎選手。その走りと人柄もあり、後半戦も引き続き走ってもらうことになった矢先のアクシデントでした。この2週間、いろいろな形で音虹郎を応援してくださった皆さまに感謝申し上げます。そしてチームにもお気づかいいただいた皆さまにお礼申し上げます。葬儀につきましては決まり次第、お伝えさせていただきます。谷本音虹郎(タニモト オトジロウ)2000年6月23日生まれ 佐賀県出身2018年 MFJカップ JP250 NATランキング23位2019年 MFJカップ JP250 INTランキング2位2020年 全日本ロードレース選手権ST1000クラスランキング17位2021年 全日本ロードレース選手権ST1000クラスランキング24位2022年 全日本ロードレース選手権ST1000クラス参戦2023年 全日本ロードレース選手権JSB1000クラス参戦[オートスポーツweb ]【訃報】もてぎ2&4レースJSB1000の決勝中の事故で意識不明だった谷本音虹郎が亡くなる/全日本ロードhttps://t.co/8v05Sv9hfS #全日本ロード #全日本ロードレース #JRR #JSB1000 pic.twitter.com/EqHyj8YpBj— autosport web/オートスポーツweb (@AUTOSPORT_web) September 5, 2023 音虹郎が亡くなりました。皆様、本当にありがとうございました。#谷本音虹郎 pic.twitter.com/23qFoIHY14— Masahiro Shinjo 新庄雅浩 (@MasahiroShinjo) September 4, 2023 谷本音虹郎選手が旅立たれました。これは5年前にディレクターとして制作した番組のシーンです。優しさと才能が光るライダーでした。危険な状態とレース後に聞かされました。彼の命を救おうと治療に尽力された医療従事者の皆様、ありがとうございました。心からご冥福をお祈り致します。 pic.twitter.com/391EGbuNHy— Hiroshi TSUJINO 🎤 (@hiroshitsujino) September 5, 2023 番組の制作ありがとうございました。心に残るレースでした。音虹郎くん、安らかに。向こうでも優しく素敵な笑顔でね。寂しくなります。 https://t.co/m93NBfa61c— AKANE#15 (@tyu1511) September 5, 2023 音虹郎が旅立ってしまいました。音の頑張りが九州のライダーを後押ししてくれたと思います。オートポリスまで一緒に頑張ってくれてありがとう!あっちでレースしたくてうずうずしてるライダーもいるだろうから、いいレースしてほしい!御冥福をお祈り致します。 pic.twitter.com/bAbWrI5ww5— 岩戸亮介 Ryosuke Iwato (@ryosukeiwato) September 5, 2023 音虹郎選手はJP250のころとても光る走りで速くなるだろうなと思ってました。今シーズン毎戦速さを増す姿を見てやっぱりなと思ってました。こういうライダーを走らせてみたいと思わせる、素晴らしいライダーでした。心よりご冥福をお祈りします。 https://t.co/pJgOprutM1— TONE RT SYNCEDGE4413 BMW (@syncedge4413) September 5, 2023 【訃報】谷本 音虹郎 選手を悼んで https://t.co/yhTkPWfbGO #レース情報— 日本モーターサイクルスポーツ協会-MFJ (@MFJoffice) September 5, 2023 INFORMATION【訃報】谷本 音虹郎 選手を悼んで2023年09月05日去る8月20日 モビリティリゾートもてぎで開催された「MFJ全日本ロードレース選手権第5戦もてぎ2&4レース JSB1000クラス」で負傷した谷本 音虹郎選手は 回復に向け懸命に闘っておられましたが9月5日帰らぬ人となりました。この悲報に接し、生前のサーキットでの雄姿が思い起こされ胸が痛みます。故人、そして故人の回復を信じ願ってきたご家族、友人、関係される皆様に心から哀悼の意を表します。一般財団法人日本モーターサイクルスポーツ協会会長 鈴木 哲夫「谷本音虹郎」その耳に心地の良かった名前がもう実況から聞こえて来ないと思うと寂しさが込み上げてきます。「谷本音虹郎」その響きを皆忘れる事はないでしょう。楽しませてくれて有難うございました。ご冥福をお祈り致します。 pic.twitter.com/XAlNullvIV— hiRotO (@photohiroto) September 5, 2023
Sep 5, 2023
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もう13年。。。大ちゃんの死から、暗く、光が見えていなかった日本レース界に、再び輝いた光大ちゃんが果たせなかったWGPチャンピオンまで、きっと届いてくれると、日本中が期待していた星ほんとうに、ショックでした。。。いまでも、あの多重クラッシュのシーンは見れません。。。そして、、、今年は、新しい光が。。。どうしたら、事故が減るのでしょうか。。。。富沢祥也、レース中に事故死 (Moto2) 【 F1-Gate.com 】ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する富沢祥也選手が、第12戦サンマリノGPでの決勝レースで事故に遭い、救急車で病院に搬送されたが死亡した。富沢祥也は、4位を走行中に転倒、後続のアレックス・デ・アンジェリスとスコット・レディングと接触。リッツィオーネの病院に搬送されたが、14時20分(現地時間)に死亡が確認された。享年19歳。富沢 祥也 (とみざわ しょうや、1990年12月10日 - 2010年9月5日)は、千葉県旭市出身のオートバイレーサー。2008年の全日本ロードレース選手権250ccクラスシリーズ2位。2009年から2010年までロードレース世界選手権に参戦した。
Sep 5, 2023
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今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、16年。。。Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。ずっと、心の中のヒーローです。私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日後でした。そのときのブログ記事です。このさらに二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでしたこの前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなくバイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことですご冥福をお祈りいたします練習中 二輪プロレーサーが事故死 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった 沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。デビュー~全日本時代1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。世界グランプリ時代スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。再び全日本へ1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。孤高の戦士 沼田憲保(ぬまたのりやす)は2年連続全日本チャンピオンのガンマ使い!スズキの至宝!沼田憲保はΓ使いの本格派沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日生まれ)茨城県日立市出身のオートバイレーサー。沼田選手は、1995年、1996年と2年連続の全日本ロードレース国際A級 GP250ccクラス全日本チャンピオンです。スズキのマシンRGV-Γ250を駆り、全日本を暴れまわりました。 沼田憲保選手についてミラージュ関東出身。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」と呼ばれました。1988年 ロードレースデビュー 22歳なのでまわりとくらべると遅いスタートでした。参戦クラスはSP250。1990年 SUGO選手権で3クラスを制する3冠チャンピオンとなる。1991年 国際A級に特別昇格 全日本GP250ccクラスへフル参戦この年からスズキワークス入りの大抜擢RGV-Γ250の開発兼ライダーとなるその後、1992年 初表彰台、1993年 初優勝、1994年 ランキング2位と着実にステップアップしていき、1995年にはついに全日本チャンピオン、1996年も2連覇を成し遂げます。1996年からは世界グランプリに舞台を移しますが……。 沼田選手の主な戦績 戦績1990年 SUGO選手権でSP250、NB-F3、NB250の3クラスでチャンピオン1991年 全日本選手権 GP250 ランキング14位1992年 全日本選手権 GP250 ランキング9位(初表彰台)1993年 全日本選手権 GP250 ランキング5位(初優勝)1994年 全日本選手権 GP250 ランキング2位1995年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン1996年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン(2連覇)1997年 世界選手権 WGP250 ランキング12位1998年 世界選手権 WGP250 ランキング16位1999年 世界選手権 WGP500 ランキング29位 Muz Weber 8時間耐久に参戦2000年 スーパースポーツ世界選手権 ヤマハ 8時間耐久に参戦2003年 スーパーバイク世界選手権 ドゥカティ 8時間耐久に参戦2004年 全日本選手権 ST600 ランキング4位 8時間耐久に参戦2005年 全日本選手権 ST600 ランキング6位 8時間耐久に参戦2006年 全日本選手権 ST600 ランキング23位2007年 全日本選手権 ST600 ランキング11位(第5戦終了時) RGV-Γ250で闘う沼田憲保選手(動画) ▼▼▼1994年SUZUKI全日本ロードレース情報(RGV-Γ250) ▼▼▼1994年の全日本GP250ccクラス第10戦 菅生サーキット ▼▼▼1996年の世界選手権日本GP鈴鹿ROUND沼田選手はゼッケン#52のラッキーストライクスズキ号です。 削除されていたらごめんなさい。 孤軍奮闘スズキのマシンRGV-Γ250での参戦は、開発とレースの同時進行。沼田選手はその両方を一手に任されて、孤軍奮闘の様子でした。しかも当時のライバルたちの顔ぶれときたら……マシンで言うなら、NSR250、YZR250。ライダーで言うなら、宇川徹や加藤大治郎、芳賀健輔といった強者達を退けてのチャンピオンには相当な価値があるように思います。 世界選手権参戦の苦労アリー・モレナー・レーシングチームのエースライダーとして、世界選手権のワールドグランプリに行ってからも、ますます苦労されていたように思います。マシンの開発や熟成度の差だけではなく、ホンダNSR250やヤマハYZR250には長年積み上げてきたデータなどもあり、セッティング出しなどについてのアドバンテージも相当大きかっただろうと思います。若井伸之選手が生きていたら随分違ったのかもしれません。そう思うと、もっと活躍して良かった選手なのだろうと思います。全日本復帰後の沼田選手2004年からロードレース全日本選手権に復帰。しかし、2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打って急逝した。享年41歳。惜しい人を亡くしました。RACERS, Vol.25, RGV‐Γ250 (サンエイムック) ムック – 2014/1/24大塚 克 (イラスト)バイクのおっさん5つ星のうち4.0 孤高のライダー2014年1月30日に日本でレビュー済みAmazonで購入多くのマシンがエントリーし、豊富なデータを持つホンダとヤマハに立ち向かっていった沼田選手とⅤガンマ。「スズキさん、もう少しなんとかしてやってよ!!」と当時は気をもむことが多かったことを思い出します(いまでもか)。才能ある日本人ライダーが次々と輩出されながらも、若くしてこの世を去った選手も少なくありませんでした。読んでいて、「そんな時代だったなあ」としみじみとしました。Harry素晴らしい内容です2014年6月24日Amazonで購入2スト全盛の記事と、沼田憲保選手の生き様がよくわかります。楽しい時代だったことを思い出しました。 池上 豊やっぱりいいですね!2014年3月7日Amazonで購入RACERSはいいですよね。1台のマシンに対する開発担当者さんたちの熱い思いや経緯などが明確に理解できるので当時、応援して若かりし自分の気持ちがあらためて湧いてくると言おうか・・・。とにかくイイですね! motorcycle-freak沼田憲保選手の話を聞きたかった。その一点だけが惜しまれる。2014年1月25日沼田憲保選手は、このRGV-γ250を駆り、全日本ロードレース選手権の1995年、1996年と連覇を成し遂げました。しかしスズキはマシンの進化を1996年で止めてしまい、1997年、1998年と、スズキと共に世界に出た沼田選手は世界で活躍する事は出来ませんでした。ホンダ、アプリリア、ヤマハの牙城に開発が止まったマシンで挑む。だけどRGV-γをここまで育て上げた沼田選手はスズキにこだわり、わずか二年で世界GPから撤退しました。1995、1996年当時の全日本ライダーと言えば、宇川徹選手、加藤大治郎選手、難波恭司選手、宮崎敦選手、芳賀健輔選手、松戸直樹選手、本間利彦選手、亀谷長純選手と、そうそうたるメンバーが揃っていました。その時代の全日本でチャンピオンになった沼田選手は、確かに世界に相応しい実力を持っていました。そしてスズキは1998年を持って250から撤退。沼田選手はそれだけの才を持ちながら、フル参戦GPライダーとしての道を閉ざされてしまいました。そして2007年9月、テスト中の事故で急逝。岡山国際サーキットのバックストレートエンドのヘアピンでオーバーラン、タイヤバリアに衝突して亡くなる、という世界レベルのライダーとしてはあり得ない形での逝去でした。一つの時代の頂点を極めたけれどメーカーの思惑に振り回されてしまった不運の天才、沼田憲保選手と、彼が駆ったRGV-γ250を解説した本です。このマシンの開発が止まらず、続けられていたなら、と思わさせられる高い完成度と、美学と理念のある設計。しかしスズキはこのマシンの改良を止めてしまった。「ミスター・RGV-γ250」と呼ぶに相応しい唯一のライダーである沼田選手の当時のストレスや不満は、戦い、勝つことを本能として持っているライダーにとってどれほど不本意であったのか。自分が作り、磨き、輝かせたRGV-γ250への熱い思い入れがビシビシ届く一冊です。最後のページ。沼田選手の奥様、高橋亨子さんのお言葉が涙を誘います。勝つ事に懸命で、誰より負けず嫌いで、実直で熱い。沼田憲保、という才能を生かし切れなかった日本のロードレース。今、世界に出たくても出られないライダーの悔しさ、悲しみ、怒りを誰よりも知れる人物であったかも知れません。マシンも人も「もったいない!」と強く思わされる一冊です。間違いなく強かった。間違いなく輝いていた。当時のレースが好きで、レプリカに乗っていた人にとっては必読の一冊です。RGV-γ250をこれ以上詳しく、真剣に紹介する本は今後も出ないと思います。Amazonのお客様 懐かしさと感動をもう一度。2014年1月29日レビューと言うほどのものじゃないですが…当時高校生だった私はTV放送など見てレースの世界に興味を持ち、TIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)へ一人で見に行きました。その時に「あの赤いマシンは何て言うんだろう?すごくカッコイイ!」そう思ったのがRGV−γと言うバイクでした。もちろん、当時は選手の名前すらわかりませんでした。ただトップ争いをしていた赤いバイクがとても印象的でした。そして新型RGV−γSPが発売、後日ラッキーストライクカラーが限定発売されました。それはまさに私がカッコイイと思ったバイクそのものでした。お店にカタログをもらいに行き、その写真に写っていたのが沼田憲保選手でした。もう迷うことなく買いました。沼田選手に憧れ、ガンマに乗る。ただそれだけで楽しかったのです。この本を買ったのは懐かしさだけでなく、実際どんなストーリーがあったのか知りたくなったからです。当時のレースの激しさや開発に関わる話など、読んでいて感動しました。自分が買ったガンマはこの人たちがいたからこそあったんだと。今思えばガンマをもっと大事にしておけば良かったです…そう思えた一冊です。私の思い出の本として大事にしたいですね。追記一度だけ沼田選手にお会いしたことがあります。その時はもうヤマハの沼田選手でしたが、明るい人だなって印象でした。そんな沼田さんが急逝したという日が奇しくも私の誕生日でした。毎年誕生日には思い出します。「あなたは私の憧れの一人です…」と。youichi夭折された全ての天才ライダーに祝福を。2014年2月5日昨年 2013年の春に長らく所有していたVJ23A RGV-ΓSPを手放した僕ですが、この本は発売と同時に手に入れました。内容は非常に濃く、大変満足です。沼田選手やワークスΓ250の栄光や悲運は、他の評者が詳しくされているので、控えますが下記URLの動画も本誌と一緒にご覧いただけたら、楽しめるかと思えます。www.youtube.com/watch?v=Hsr_ixMFBTQ夭折された全ての天才ライダーに祝福を。くーちゃん目から鱗2014年2月19日各ワークスマシーンには莫大な開発費をかけて造ったオリジナリティーがありますが、メインフレームであり、Vバンク角であり、排気デバイスであり・・・各マシーンそれぞれにオリジナイティはもちろんありますが、何か特別に興味を持つまでの内容はありませんでしたが・・・が、このV-Γに関しては『ヘッドの捩じれ』という当方には初耳の工夫が!!!まさに"目から鱗"的な驚きでした。旋回時のロードクリアランスの確保はもちろんのこと、エンジンを中心としたマスの適正化など。現在、4輪のハスラーが大人気となっておりますが、(初期のCTワゴンRもそうですが)レースの世界、一般市販車問わず、スズキの開発人の素晴らしいアイデア力、思考力を感じ取る事が出来たのも事実です。最後になりましたが、若干戦闘力の劣るマシンでゼッケン①を勝ち取った沼田選手のライディングも開発力も素晴らしかった事がよくわかる記事内容でした。
Sep 4, 2023
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そんな。。。安定しているとのことで、きっと、戻ってきてくれると。。。鈴鹿で、あんなに頑張った後に。。。。これから、絶対、世界に出ていくはずだったのに。。。残念で、しょうがありません。。。本当に残念。。。ご冥福を、お祈りいたします。。。22歳オートバイ選手、埜口遥希さん死去 インドネシアのレースで多重クラッシュ 鈴鹿8耐2位[2023年8月17日17時9分]死去した埜口遥希さん。今年の鈴鹿8耐では2位になり、表彰式で笑顔を見せていたホンダ・レーシングは17日、オートバイのアジアロードレース選手権に参戦中の埜口遥希(のぐち・はるき)さんが16日に死去したことを発表した。22歳だった。埜口さんは、13日にインドネシアで開催された同選手権第4戦、決勝レース2回目の4周目に発生した多重クラッシュにより重症を負い、現地の病院で治療を受けていた。現地時間16日午後5時40分に亡くなった。埜口さんは、奈良県出身で、立命館大に在学。5歳からキッズバイクに乗り始め、20年からは全日本ロードレース選手権ST600クラスに参戦。翌21年に王座を獲得した。昨年からはアジア選手権のASB1000クラスにステップアップして、同年ランキング2位に入った。今季も開幕戦で2勝を挙げて第3戦終了時点でランキング2位につけていた。今月6日に決勝が行われた鈴鹿8時間耐久ロードレースでは「SDG Honda Racing」の一員として代役で参戦し、2位に入っていた。鈴鹿8耐の表彰式では「この週からチームに合流したにもかかわらず、3スティント(走行の区分)を任せてもらえた。名越選手、浦本選手に教えてもらって無事こなせた。途中、雨が降ったが、その中で順位を上げていけたのはいい経験。引き続きアジア選手権でも頑張っていきたい」と喜びを語ったばかりだった。ホンダ・レーシングの渡辺康治社長は「鈴鹿8耐では見事な走りで表彰台に上がり、素晴らしい笑顔を見せてくれたばかり。まだ22歳とこれからの活躍が楽しみだった中での逝去が本当に残念でなりません」とコメントを発表した。ホンダ、アジアロードレース選手権参戦の埜口遥希選手の逝去を発表編集部:北村友里恵2023年8月17日 14:572023 FIM世界耐久選手権 第3戦 鈴鹿8耐に出場した埜口遥希選手 本田技研工業とホンダ・レーシングは8月17日、2023 イデミツFIMアジアロードレース選手権(ARRC)のASB1000クラスにSDG Motorsports HARC-PRO Honda PH(ショーワ・デンキ・グループ・モータースポーツ・ハルク・プロ・ホンダ・フィリピン)から参戦中の埜口遥希選手の逝去を発表した。 埜口選手は8月13日にインドネシアのプルタミナ・マンダリカ・インターナショナル・ストリート・サーキットで開催された第4戦決勝レース2の4周目にターン10にて発生した複数のクラッシュにより重傷を負い、現地の病院に搬送され治療を受けていたが、現地時間8月16日17時40分に亡くなった。 奈良県出身の埜口選手は5歳からキッズバイクに乗り始め、翌年からキッズバイクやミニバイクレース、地方選手権などで活躍。2017年からは若手ライダーの登竜門となるイデミツ・アジア・タレント・カップに参戦し、2年連続でランキング2位に、2019年にはレッドブル・ルーキーズカップでランキング3位になるなど、着実に成長してきた。2020年からはMFJ全日本ロードレース選手権 ST600クラスに参戦し、2021年に見事チャンピオンを獲得。2022年からはARRCのASB1000クラスにステップアップし、2022年には4勝を挙げてランキング2位、今シーズンも開幕戦で2勝を挙げて第3戦終了時点でランキング2位につけていた。 さらに、8月6日に開催された2023 FIM世界耐久選手権“コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース 第44回大会にSDG Honda Racingから参戦し2位に入るなど、これからさらなる活躍が期待されていた。 ホンダ・レーシング 代表取締役社長 渡辺康治氏は「埜口遥希選手の訃報に接し、突然のことに大きな驚きと深い悲しみを感じています。先日の鈴鹿8耐では、急遽参戦が決まり不慣れな環境下にも関わらず、見事な走りで表彰台に上がり、素晴らしい笑顔を見せてくれたばかりでした。また、昨年は大きな怪我のためにあと一歩のところでARRCチャンピオンを逃し、悔しい想いをしたのに対し、今シーズンは怪我から完全復活し開幕から順調に勝利を挙げていたところでした。レースのみならず何事にも前向き、意欲的に取り組む姿勢が印象的で、まだ22歳とこれからの活躍が楽しみだった中での逝去が、本当に残念でなりません。埜口選手ならびにご家族、チーム関係者の皆さまに対し、謹んで哀悼の意を表します」とコメントしている。22歳のバイクレーサー埜口遥希さん事故死 両親がコメント「多くの感動と喜びを与えてくれました」 ホンダ・レーシングは17日、インドネシアで13日に開催された『2023 イデミツFIM アジアロードレース選手権』(ARRC)のASB1000クラスに参戦した埜口遥希さんが複数のクラッシュに巻き込まれ、16日午後5時40分に亡くなったと伝えた。22歳だった。 同社は「2023 イデミツFIM アジアロードレース選手権(ARRC)のASB1000クラスにSDG Motorsports HARC-PRO Honda PH(ショーワ・デンキ・グループ・モータースポーツ・ハルク・プロ・ホンダ・フィリピン)から参戦中の埜口遥希(のぐち はるき)選手(22歳)は、2023年8月13日にインドネシアのプルタミナ・マンダリカ・インターナショナル・ストリート・サーキットで開催された第4戦決勝レース2の4周目にターン10にて発生した複数のクラッシュにより重症を負い、現地の病院に搬送され治療を受けていましたが、現地時間8月16日17時40分に逝去されました」と報告した。 「奈良県出身の埜口選手は、5歳よりキッズバイクに乗り始め、翌年からキッズバイクやミニバイクレース、地方選手権などで活躍。2017年からは若手ライダーの登竜門となるイデミツ・アジア・タレント・カップに参戦し2年連続でランキング2位に、2019年にはレッドブル・ルーキーズカップでランキング3位になるなど、着実に成長してきました」と経歴を紹介。 「2020年からはMFJ全日本ロードレース選手権ST600クラスに参戦し、2021年に見事チャンピオンを獲得。2022年からはARRCのASB1000クラスにステップアップし2022年には4勝を挙げてランキング2位、今シーズンも開幕戦で2勝を挙げて第3戦終了時点でランキング2位につけていました」と説明。今月6日に開催された『2023FIM世界耐久選手権“コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース第44回大会』では「SDG Honda Racingから参戦し2位に入るなど、これからさらなる活躍が期待されるライダーでした」と早すぎる死を惜しみ、「謹んでお悔やみを申し上げますとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます」と悼んだ。 同社の渡辺康治社長は「埜口遥希選手の訃報に接し、突然のことに大きな驚きと深い悲しみを感じています」と驚きを隠せない様子で、「レースのみならず何事にも前向き、意欲的に取り組む姿勢が印象的で、まだ22歳とこれからの活躍が楽しみだった中での逝去が、本当に残念でなりません。埜口選手ならびにご家族、チーム関係者の皆様に対し、謹んで哀悼の意を表します」と追悼した。 また、活動をサポートしていた昭和電気を通じて埜口さんの両親がコメントを発表。「遥希は、5歳からオートバイに乗り始め、私達家族に多くの感動と喜びを与えてくれました。今まで遥希を支え成長させてくれた多くの仲間やチーム、応援していただいた皆様に、感謝申し上げます」と記した。22歳のバイクレーサー埜口遥希さん事故死 両親がコメント「多くの感動と喜びを与えてくれました」https://t.co/sM2VPOQJYS #埜口遥希— ORICON NEWS(オリコンニュース) (@oricon) August 17, 2023 遥希は「俺と居たら絶対に毎日楽しいよ!」という言葉が口癖なくらい人を楽しませることが大好きな優しい人です。10年前に出会い本当に沢山の愛おしい想い出をくれました。こんな形でお別れをしないといけない事が本当に悔しいです。私はこれから先もずっとあなたを愛しています。ありがとう遥希。 pic.twitter.com/LxO8b84mTP— 片山 千彩都 (@chisato____93) August 18, 2023 埜口くんたまにしか話さなかったけど、同じレースに2年間出ててものすごい刺激をもらいました。彼のバトルスタイル正直憧れでした。そんな彼のバトル見れなくなってしまうのは本当に残念です…心よりご冥福をお祈りします。 #埜口遥希 pic.twitter.com/E7evymqMpb— 阿部恵斗 Keito Abe (@keito_abe03) August 17, 2023 世界に近い未来があっただろうなのに本当に残念バイクレースには一生懸命なライダーだった https://t.co/aUDvm5eYsm— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) August 17, 2023 どんなに速くなっても、追い越しちゃいけないこともあるんだぞ…そのうち会えるから気長に待っててな pic.twitter.com/qOFbgs9ZZM— 三好菜摘/Natsumi Miyoshi #72 (@Y72natsu) August 17, 2023 良いだろう別にそんな所で抜いて来なくってもって思うくらいにはパッシングが多いレースでお互いタイムも落とさなかったな。… pic.twitter.com/uh4nh6yjVq— 藤井 謙汰 (@kenta51171) August 17, 2023 昨日、56RACING チーム出身のライダー埜口遥希選手が、インドネシアでのレースアクシデントの後搬送された病院で息を引き取りました。人懐っこくて皆に愛された埜口選手は、卒業してからも我々チームスタッフの誇りでした。これまで埜口選手を応援して頂いた皆様、本当にありがとうございました。 pic.twitter.com/J069zfsCoG— 56design (@56design) August 17, 2023 【訃報】埜口遥希がアジアロード第4戦ASB1000の多重クラッシュで亡くなるhttps://t.co/XWGpT7QP45 pic.twitter.com/MYvVE7HiNl— autosport web/オートスポーツweb (@AUTOSPORT_web) August 17, 2023 広報個人として、全身全霊でレースに挑んだ埜口選手にはお悔やみの言葉ではなく心からの称賛と拍手を送ります。— 信州活性プロジェクトTeam長野🏍鈴鹿8耐応援ありがとうございました! (@rpteamnagano) August 17, 2023 埜口選手はATCの時にブレーキングが素晴らしく、いつかは走らせてみたいと思ったライダーでした。その後現在のチームで全日本出場となり、やはりそうだよな~と思っていました。心よりご冥福をお祈りします。 https://t.co/HJXJS4ZNtk— TONE RT SYNCEDGE4413 BMW (@syncedge4413) August 17, 2023 才能ある埜口選手の輝かしい未来を楽しみにしていました。ご冥福をお祈りいたします。 https://t.co/uLzOaYZSCS— バイクレースはドラマより面白い! ! (@osamufujita3) August 17, 2023 8耐で撮った写真に埜口選手写ってるものがあった画質荒いのが残念だけど、満面の笑みで貰ったトロフィー掲げてるこの1週間後に悲劇が起こるとは・・・😭😭ゆっくりお休みください#埜口選手 pic.twitter.com/UbsJErmEgJ— カズ@CB400SB🇯🇵&T595Daytona🇬🇧 (@CB400SB_kazu) August 17, 2023 埜口遥希選手残念でたまらない。美浜サーキットでキッズライダーの頃から速いはもちろんだけど、バトルに強くてファンに。動画は2012/11/25ライスポ美浜 美浜の主のチャンピオンを阻止したキッズはハルキ君だけだったと思う。改めてご冥福をお祈りします。@noguharu34 pic.twitter.com/nRpkDXKeWq— soraguuuuun (@soraguuuuun) August 17, 2023 今でも信じられません。とても悔しく、悲しいです。子供の頃、関東まで遠征に来た埜口選手には負けてばかりでした。その後はST600の1年だけで、一緒に出たレースは少ないけど、彼の走りは鮮明に覚えています。とても強く、そして誰もが認める速いライダーでした。ご冥福をお祈りいたします。 https://t.co/2s5OUprwlH— 岡本裕生 Yuki Okamoto (@yukiokamoto31) August 17, 2023 2023年 鈴鹿8耐遥希のラストスティント本当にカッコよかった👊#73 SDG Honda Racingを表彰台に連れてってくれて、ありがとうあの景色最高だったいつも全力で努力して前に向かって進むことの大切さを改めて気付かせてくれた#埜口遥希@noguharu34 pic.twitter.com/bi3cNeaV2e— AKANE#15 (@tyu1511) August 16, 2023 ご冥福をお祈りいたします。#埜口遥希 https://t.co/Xtpf3fFUNQ— 山科カワサキ KEN Racing (@KENRacing69) August 17, 2023 今までわくわくするレースをたくさん見してくれてありがとう。けちょんけちょんに言われて、なにくそ!て思って走ったり、たまに褒めてくれてめっちゃ嬉しかったり笑笑めちゃくちゃ尊敬してたよ!!ハルキの走る世界をもっと見たかった pic.twitter.com/HOCocFoTCL— 悠 (@Candyyu41314) August 17, 2023 勝つと喜びを爆発させて、負けると悔やしさを爆発させて、たとえ2位でも不機嫌になるほど負けず嫌い。写真の頃はまだ中学生だったけど、いつかは日本を飛び出して世界で戦うようになると思っていた。私が写真を撮ろうとするといつも邪魔してきたなぁ・・・ご冥福をお祈りします。#埜口遥希 pic.twitter.com/NYRktRrvqp— ラッキーウイング (@luckywing0123) August 17, 2023 #NoguHaru34 #埜口遥希 #HarukiNoguchiCredo fermamente che raccontare il motociclismo sia un privilegio. Hai la possibilità di scoprire, conoscere, approfondire e, di conseguenza, condividere storie che giocoforza ti portano ad empatizzare con questo mondo. Con questo sport che… pic.twitter.com/SiE4Ko3azg— Alessio Piana (@AlessioPiana130) August 17, 2023 先週の8耐も急な参戦ながらチームの2位表彰台に大きく貢献!自分自身はお話する機会こそありませんでしたが、タレントカップ時代から注目していたライダーでした。#埜口遥希 pic.twitter.com/AqLZvOKpW2— 堀内 ひろあき (@hiro_mvvr) August 17, 2023 21年の岡山国際での優勝はすごく印象に残っています。#埜口遥希 pic.twitter.com/1KOCVYLIUm— 堀内 ひろあき (@hiro_mvvr) August 17, 2023 世界で活躍出来るライダーだと思っていただけに残念でならない。ご迷惑をお祈りします#埜口遥希 https://t.co/reKLdkwnxZ— HICO masuda (@noteking62) August 17, 2023 才能のある若きライダーが逝ってしまいました。埜口選手のご冥福をお祈りいたします。#埜口遥希 pic.twitter.com/q84bYexIWz— まーたん🤖🍑🍥 (@masa_bros) August 17, 2023 ST600チャンピオンを取った時に存在を知り、今年8耐のトップ10トライアルをライブ配信で暴れながらアタックする姿を見てもっと活躍が見たいと思った矢先の訃報…言葉になりませんが…ゆっくり休んでください#埜口遥希#SDGHondaRacing#鈴鹿8耐2023 https://t.co/FCxQiZKulb— ユーノス(EUNOS) (@117Eunos) August 17, 2023 近スポ行った時に実感湧くんやろうなー皆の応援しながら、向こうでも思う存分走ってな🏍️#埜口遥希 pic.twitter.com/L2Qy0HBRg5— 有菜 (@y2912a9) August 17, 2023 ST600チャンピオンを取った時に存在を知り、今年8耐のトップ10トライアルをライブ配信で暴れながらアタックする姿を見てもっと活躍が見たいと思った矢先の訃報…言葉になりませんが…ゆっくり休んでください#埜口遥希#SDGHondaRacing#鈴鹿8耐2023 https://t.co/FCxQiZKulb— ユーノス(EUNOS) (@117Eunos) August 17, 2023 まさかつい先日鈴鹿8耐を走って、表彰台にも上がった埜口遥希選手が、インドネシアで行われたアジアロードレース選手権で他界するとは。まだ22歳の若さでした。写真は鈴鹿8耐でヘアピンを立ち上がる埜口選手。#埜口遥希 選手 #RIP pic.twitter.com/YeJSYvasBu— 藤井智弘 Tomohiro Fujii (@FujiiTomohiro) August 17, 2023 8耐で活躍してアジアロードでチャンピオン狙い活躍を期待してた若手が…選手関係者さんのツイートで非常に厳しい状況とは思ってましたが残念で悲しい…#埜口遥希 #SDG HONDA #ハルクプロ#73 https://t.co/tJ75808kx6— 3の3ん@SS頑張って乗ってるおっちゃん (@nqpgy828) August 17, 2023 きっとまた元気な姿を見せてくれる信じてました😢心よりご冥福をお祈りします#埜口遥希#harc-pro @noguharu34 https://t.co/IRNm8kMNKs pic.twitter.com/oIX1HUuvVf— 星野達也 (@3qiYqwQTjHDodOM) August 17, 2023 心よりご冥福をお祈りいたします。2023 #鈴鹿8時間耐久ロードレース#73 #埜口遥希SDG Honda Racing pic.twitter.com/MVQJrdsKvb— hikurata (@hikurata) August 17, 2023 #埜口遥希 選手のレース中の事故死に、心よりご冥福をお祈りします。 https://t.co/ONryzKbHcy— ピースケ【🇺🇦支持の🇯🇵国民】 (@abilistan777) August 17, 2023 えっ、ほんとうに…ご冥福をお祈りします。近スポのバイクレース観に行くと、スタッフとして走り回っていらっしゃいました。管制タワー下のレースモニター前で埜口選手が目の前にいる記憶が蘇ってきます。闘争心あふれる走りは魅力的でした。信じられない #埜口遥希 https://t.co/kQWfSoGUtn— masa (@masatw55) August 17, 2023 #鈴鹿8耐 で2位表彰台に立ってから、まだ二週間経ってないぞ。なんとか回復を祈っていたけど、本当に残念。まだ、22歳。これからの活躍を楽しみにしていたけど…こういう訃報はいつも虚しい。心から #埜口遥希 選手のご冥福をお祈りします。 https://t.co/hSTl87Fdrw— 🌲きむ・しげ🌳🚢😊 (@psrt_123) August 17, 2023 ハラハラなレース展開も最後は笑顔でお迎えに行く事が多かった。今回もそうだと思ってた。埜口遥希選手を応援出来た日々が私の宝です。またいつの日か笑顔のレースをみせてください。埜口君、ありがとう。心よりご冥福をお祈りいたします。安らかに pic.twitter.com/ONfqMUc0TV— 南武果歩 (@kah_savu12) August 17, 2023 埜口遥希選手がレース中の事故により亡くなりました。若く才能ある選手が亡くなるというニュースをみるのは辛く残念です。ご冥福をお祈りいたします。 https://t.co/m2nXW9nmag— 熱田 護 (@Mamo_photo) August 17, 2023この短期間で立て続けに身近な人が亡くなるのは、もう辛い。しかもどちらも大好きなレース中に。遥希は小さい頃から生意気で口悪くて好きになれない奴だったのに、ようやく8耐でわだかまりが解けた矢先また今度受け取るよ。と思い、56の帽子を返した時の寂しそうな顔。初めて見たよそんな顔— AKANE#15 (@tyu1511) August 17, 2023
Aug 17, 2023
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えっ、20周年を節目に終わり、って、なんかいい話みたいな感じだったけど、一方的で、情報公開もなくて、終了だったんだ。。会場の問題って、それは、市と話したりしなかったのかなあ。。。新城ラリー今年最後に 一方的な通告市長「不本意」2023/07/04 05:00今年3月に開催された「新城ラリー」(新城市で) 新城市は、2004年から20回開催されていた自動車の「新城ラリー」について、今年3月の開催が最終回になったと発表した。 同ラリーを主催するモンテカルロ・オート・スポーツ・クラブ(MASC)から同市に、来年以降は開催地を変更するとの通告があった。市内では10キロ以上のスペシャルステージ(競技区間)の新区間を確保できないこと、メイン会場である新城総合公園は手狭な上、代替地がないことなどを理由にしている。 04年に地方選手権の一戦として始まった新城ラリーは、07年に国内最高峰の全日本ラリー選手権に昇格。年々増加した入場者数は、全日本ラリーで最も多くなるまでになり、今年は会場だけで2万6500人が観戦した。 同市などは実行委員会を組織し、企画や運営を担当するほか、市民ら有志も支援委員会を結成し、ラリーを盛り上げてきた。また、同市は、来年の開催に向けて、関連予算489万1000円をすでに計上していた。 一方的な通告に対し、下江洋行市長は「情報を共有してほしかった。不本意で、残念な思い」と話した。
Jul 4, 2023
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もう2年ですか。。。本当に、ショックでした。。。 助かってほしいと祈っていましたが。。。19歳。。。。残念です。。。a href="https://plaza.rakuten.co.jp/hkages/diary/202105300000/">【訃報】Moto3ライダー、ジェイソン・デュパスキエが予選中の転倒事故で亡くなる/MotoGP第6戦イタリアGP【訃報】Moto3ライダー、ジェイソン・デュパスキエが予選中の転倒事故で亡くなる/MotoGP第6戦イタリアGPautosport webMotoGP | 【訃報】Moto3ライダー、ジェイソン・デュパスキエが予選中の転倒事故で亡くなる/MotoGP第6戦イタリアGP 5月29日、イタリアのムジェロ・サーキットで開催された2021年MotoGP第6戦イタリアGP Moto3クラスの予選Q2のセッション中に転倒事故を起こしたジェイソン・デュパスキエ(CarXpert PruestelGP)が30日に亡くなった。19歳だった。 ドライコンディションで行われたMoto3クラスの予選。デュパスキエはダイレクトにQ2に進出していたためこのセッションから予選を走った。 まずは1度目のアタックで2周走りピットインした。その後、最後のアタックを行うためにコースインして、2周目にベストラップを記録。15分のセッションが終了の時刻を告げ、ラストアタックに挑んだが、9コーナーの立ち上がりで転倒を喫した。2021Moto3:ジェイソン・デュパスキエ(CarXpert PruestelGP) このクラッシュはジェレミー・アルコバ(Indonesian Racing Gresini Moto3)と佐々木歩夢(Red Bull KTM Tech 3)との多重クラッシュで、デュパスキエは投げ出されてコースに横たわる形となり、レースディレクションは赤旗を提示後セッションを終了させた。 その後、メディカルカーと救急車が到着して、コース上で医師による検査が行われ、MotoGPフリー走行4回目はデュパスキエを救護するため遅延された。 そして、クラッシュから約20分後にドクターヘリが9コーナーに到着。しかし、コース上で医師による検査が続けられ、約35分後にヘリに乗せられ詳細な検査のためのフィレンツェのカレッジ大学病院に向かった。2021Moto3:ジェイソン・デュパスキエ(CarXpert PruestelGP) フィレンツェのカレッジ大学病院へ搬送された後、詳細な検査や救急蘇生の措置も行われたが、入院先の病院が30日に死亡を発表した。 デュパスキエは19歳のスイス人ライダーで、2020年にCarXpert PruestelGPからMoto3クラスにデビュー。今季はこれまで27ポイントを獲得しており、ランキング10位。今回の第6戦イタリアGPで参戦21戦目だった。 ロードレース世界選手権での死亡事故は、2016年の第7戦カタルーニャGP Moto2クラスのフリー走行2回目で亡くなったルイス・サロム以来となる。2021年シーズンにCarXpert PruestelGPからMoto3クラスに参戦しているジェイソン・デュパスキエ、山中琉聖We’re deeply saddened to report the loss of Jason DupasquierOn behalf of the entire MotoGP family, we send our love to his team, his family and loved onesYou will be sorely missed, Jason. Ride in peace pic.twitter.com/nZCzlmJsVi— MotoGP™🏁 (@MotoGP) May 30, 2021
May 30, 2023
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2017年5月17日、自転車トレーニング中の事故で、5月22日、残念ながら、35歳という若さで、天国に旅立ちました。。。もう6年。。。2003年、OVERのオイル原因での2周目第一コーナーでの、トップグループが全て絡む事故。。。ヨシムラ、桜井、セブンスターと、あっけなく終わった夏。。。2016年、鈴鹿8耐出場は、本当に驚いたし、すごく嬉しかった。。。きっと、そのあとも、鈴鹿8耐を盛り上げてくれると信じていたのに。。。Jun 10, 2016 ニッキー・ヘイデンが参戦決定!ホンダ、2016年鈴鹿8耐チーム参戦体制を発表Hondaは、三重県・鈴鹿サーキットにて、7月31日(日)に決勝レースが行われる「2016 FIM世界耐久選手権シリーズ第3戦”コカ・コーラ ゼロ”鈴鹿8時間耐久ロードレース第39回大会」に参戦する主なチームの体制を発表した。中でも注目は「MuSASHi RT HARC-PRO.」のチーム体制。JSB1000に参戦中の高橋巧、WSBで活躍中のマイケル・ファン・デル・マークの2連覇達成時コンビに加え、同じくWSBで活躍中の2006年MotoGPチャンピオン、ニッキー・ヘイデンの参戦が決定している。ヘイデンにとっては、13年ぶりの鈴鹿8耐参戦。「MuSASHi RT HARC-PRO.」は、この強力布陣で2年ぶりの優勝を目指す。「鈴鹿8耐のように歴史があるレースに出場することができて光栄です。ル・マン式のスタートやピットワーク、またチームメートとともに全員の一番良いセットアップを見つけ出す作業は、普段のレースとは全く異なります。長いサマーブレイクの間も、鈴鹿8耐というレースに参加して自分のスキルを維持できることをうれしく思います。多くの優れたチームとの長くタフな戦いになりますが、優勝して、鈴鹿8耐のトロフィーを自分のコレクションに追加したいと思います」ヘイデン兄『オートバイに乗る幸せなニッキーを覚えていて』 朝から涙が止まりません。。。。。ニッキーニッキーの走りを忘れない。。。。涙が止まらないし、言葉にならない。。。。絶対に死なない、不死身なやつだとおもってたのに。。。急ぎすぎた。。。ニッキー・ヘイデン逝去2017年5月23日 • SBK SuperBike, SuperBike 9『ニッキー・ヘイデン逝去、2輪レース業界が喪に服す』★ニッキー・ヘイデン逝去。★チェゼーナのブファリーニ病院が次のように発表した。《5月17日に深刻な多発性外傷によりチェゼーナ・ブファリーニ病院の集中治療棟に収容されたニコラス・パトリック・ヘイデンの死去が確認されました。》(2017年05月22日『Corse di moto』記事参照)ヘイデン兄『オートバイに乗る幸せなニッキーを覚えていて』2017年5月23日 • SBK SuperBike, SuperBike 1『トミー・ヘイデン:オートバイに乗る幸せなニッキーを覚えていて』★5月22日(月)午後5時35分(イタリア時間)、ニッキー・ヘイデン訃報が伝えられた。★ヘイデン選手の婚約者ジャッキーさんは病院へ搬送された時から、また、事故直後にアメリカから渡伊したご家族も終始、徹夜で付き添いを続けていた。★ヘイデン選手の兄トミーさんがファンに向けて、下記の感謝メッセージを公開した。《家族を代表して、そして、ニッキーの婚約者であるジャッキーに代わり、ファンの皆さんからいただいた励ましのメッセージに感謝します。ニッキーがこんなに多くの方々と、こんなにポジティブな形で繋がっていたことを知り、本当に大きな心の支えとなりました。当然のことながら辛い時ではありますが、皆さんには幸せだった時のニッキーを、マシンに乗っていた時のニッキーを覚えいていただければと願っています。子供の頃からプロライダーになるのが夢で、その夢を叶えただけでなく世界チャンピオンにまでなり、自身が選んだスポーツのトップへと上り詰めました。私達は本当にニッキーのことを誇りに思っています。こうした公の場での思い出のほか、私達にはケンタッキーの自宅で家族の真ん中にいたニッキーの素晴らしい思い出がたくさんあります。これから堪らなく寂しくなることでしょう。また、病院スタッフの皆さん全員にも心から感謝しています。信じられないほどのサポートをしていただき、本当に親切にしていただきました。今後は当局の支援を受け、ニッキーを早々に自宅に連れて帰れたらと思っています。》ニッキー・ヘイデン重体、自動車に轢かれる2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 10『ヘイデン:自転車走行中にリミニで事故、重体』hay.jpg★5月17日(水)午後2時過ぎ(イタリア現地時間)、ニッキー・ヘイデン(36才)がミザノ・サーキット隣で4輪車に轢かれた。★ヘイデン選手は頭蓋および胸部に多発性外傷を負い、危険な状態。★ヘイデン選手は友人らと自転車トレーニング中、ミザノ・アドリアティコ市の『Ca’ Raffaelli』通りと『Tavoleto』通りの十字路で、『Peugeot 206 CC』と衝突し、まず、ボンネットの上に乗り上げてフロントガラスに衝突し、その後、アスファルトに激しく叩きつけられた。incidente1.jpgincidente7.jpg★ヘイデン選手の自転車は道路沿いの溝に転がっていった。incidente2.jpg★ヘイデン選手は事故現場での応急処置の後、レッドコード状態でリミニの『Infermi di Rimini』病院に救急搬送された。その後、午後5時10分、チェゼーナの『Bufalini』の外傷センターへ移送され、おそらく、そこで意識不明に陥った模様。午後6時現在、手術が行われている。ニッキー・ヘイデン容態および事故経緯2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 6『ヘイデン:脳浮腫の抑制に向け頭蓋内を検査』wsbk-phillip-island-february-testing-2017-nicky-hayden-honda-world-superbike-team.jpg★5月17日(水)、イタリアの一般道でニッキー・ヘイデン(36才)が自転車トレーニング中に4輪車と正面衝突し、重体である。★ヘイデン選手はチェゼーナのブファリーニ病院で治療を受けており、広範囲にわたる脳浮腫が懸念されている。また、片足の複雑骨折により多量に出血もしている。背中にも複数の骨折を負っているが、さいわい、脊髄の損傷はない模様。★17日午後11時30分(イタリア時間)、ヘイデン選手の容態はいぜん重篤なままである。なお、頭蓋および胸部に負った多発性外傷により、現在は手術できない状態にある。★搬送先の病院にはPICプローブが設備されている。これは頭蓋内の圧をモニタリングし、浮腫を抑制するため切開の必要があるかどうかを検証するのに使用される。★警察の報告によれば、ヘイデン選手が乗っていた自転車はフレームは真っ二つに損壊し、4輪車の方はフロントガラスが粉々になっていた。★リッチョーネ警察のピエールパオロ・マルッロ警視長が事故の経緯について、次のように話した。「本日16時50分、事故発生から約3時間後、部下らは現在も事故現場の検証を行っていますが、深刻な事故だったことが見て取れます。部下らが現場に到着した際、救急隊員らが路上で負傷者に応急処置を施しており、その後、レッドコード状態でリミニの病院へと搬送されました。初見によれば、4輪車の右前部と衝突しており、同車はリッチョーネ方面に進んでいました(※ヘイデン選手は『Ca’Raffaelli』通りから右側を海方向へ進行、『Tavoleto』通りとの十字路の出会いがしらで衝突している)。また、負傷者はグループではなく、単独で走行していたようです。」★4輪車の運転手は30才男性、リミニ市民。ヘイデン選手と同運転手どちらの不注意運転が原因かは分かっていない。★ヘイデン選手の兄トミーさんと、母ローズさんは明日18日にチェゼーナに到着する予定。ロッシ『ニッキー、頑張ってくれ。僕らが付いている』2017年5月18日 • MotoGP, MotoGP category 0『ロッシ:ヘイデンへ励ましメッセージ』スクリーンショット 2017-05-18 12.08.43.jpg★ニッキー・ヘイデン重体の報を受け、昨日よりホルヘ・ロレンソやマルケス兄弟、ダニ・ペドロサ、アンドレア・ドヴィツィオーゾ、マルコ・メランドリらモトGP関係者らがネット上に応援メッセージを出している。★ヴァレンティーノ・ロッシが18日午前11時30分頃(イタリア時間)、インスタグラムに以下の励ましメッセージを掲載した。《ニッキーはパドックでできたベストフレンドの1人です。彼がルーキーだった2003年にホンダでチームメイトとなり…ニッキーはヨーロッパ初体験の新人ライダーでした。あの年、僕はタイトルを取り、ニッキーはフィリップアイランド戦で初表彰台を取っていました(※初表彰台獲得は茂木戦の間違いです)。その数年後、2006年には最終戦まで2人でタイトル争いを繰り広げ、僕にとっては残念なことだけど、ニッキーの勝利となり、彼はモトGPチャンピオンになりました。レース後、僕らは握手を交わし、肩を抱き合いました。その後、厳しかったドゥカティ時代、僕らはまたチームメイトになって、なんとかトップ5内に食い込もうと、何度も凄まじい戦いを繰り広げました。ニッキーはよく僕の『ランチ(私設コース)』にも来てくれて…みごとな走りを披露する彼の姿から、なんらかの秘訣を読み取ろうとしたものです。なんと言っても、ロードレース参戦前、彼は世界でも一、二を争うフラットトラックの最速レーサーで、『Peoria TT』等、アメリカの難関フラットトラックレースで優勝してきているんだから。ニッキーについての一番良い記憶は、2015年ヴァレンシアでの不幸なレースの後、クールダウンラップの時に握手をしに寄って来てくれたことです。彼にとってはモトGP最後のレースだったし、僕の方はタイトルを取り逃した直後でした。ヘルメット越しに見えた励ますような瞳は、あの日、僕が覚えている数少ないポジティブな思い出です。ニッキー、頑張ってくれ。僕らが付いているから。》ヘイデン容態変わらず、手術できず2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 3『ヘイデン:容態変わらず、手術できず』nicky_hayden_grid-630x415.jpg★5月18日(木)午後1時(イタリア時間)、ニッキー・ヘイデンの容態についてチェゼーナのブファリーニ病院より経過報告がなされたが、昨夜8時20分に出された報告以降、特に進展はなかった。なお、本日午後遅くに再度、経過が報告される予定。★今のところ、ヘイデン選手はなんらの手術も受けていない状態である。★ヘイデン選手には現在、婚約者やホンダSBKチームのスタッフらが付き添っている。★18日午後の早い時間に、アメリカから母ローズさんと兄トミーさん(元プロレーサー)がボローニャ到着する予定。父アールさんは最近、心臓に問題を抱えているため、長距離の渡航は医師から止められている。【8耐を走ったGP王者たち!vol.14】 ニッキー・ヘイデン2017-05-25宮﨑健太郎8耐を走ったGP王者たち!鈴鹿8耐"コカ・コーラ"鈴鹿8耐MOTORCYCLE歴史鈴鹿8耐2017今年第40回記念大会を迎える”コカ·コーラ"鈴鹿8耐。この日本一のビッグレースには、数多くの世界ロードレースGP(現MotoGP)王者が参戦しました。8耐を走ったGPチャンピオンを紹介する連載、今回は2006年にホンダでMotoGP王者になったニッキー・ヘイデンです。今年も貴方の走りを見たかった・・・ニッキー・ヘイデンは昨2016年の第39回大会、MuSASHi RT HARC-PROの一員として起用され話題を集めました。2015年、あのケーシー・ストーナーを擁しても防げなかったヤマハファクトリーチームを打倒することが、彼に課されたミッションでした。彼の抜群のファンサービスぶりは、2016年の鈴鹿8耐のパドックやステージでも発揮されました。パートナーは全日本で活躍する高橋巧とSBK(世界スーパーバイク選手権)を走るマイケル・ファン・デル・マーク。予選は5番手に甘んじますが、それまでに各ライダーたちが記録したタイムを考慮すれば、優勝候補の一角と誰もが認める強力なチームでした。第2ライダー登録のニッキーは、ホンダCBR1000RRを駆り2'08.479のタイムを予選で記録しています。決勝レースではニッキーの走行時にマシントラブルが発生! 残念ながら74周でリタイアという結果になりました。今年のホンダ系外国人ライダーのラインアップはまだ明かされていませんが、多くのファンが今年もニッキーの参戦を期待していたと思います。本当に、残念で仕方ありません・・・。ニコラス「ニッキー」パトリック・ヘイデン(Nicholas "Nicky" Patrick Hayden、1981年7月30日 - 2017年5月22日)は、アメリカ合衆国、ケンタッキー州オーエンズボロ出身のオートバイレーサー。2002年のAMAスーパーバイク選手権チャンピオン、2006年のロードレース世界選手権MotoGPクラスチャンピオン。ニックネームは"The Kentucky Kid"など。アメリカで有名なレーサー一家に生まれた。兄弟のトミー・ヘイデンとロジャー・リー・ヘイデンもプロのオートバイレーサーとして活躍している。生年月日 1981年7月30日ケンタッキー州オーエンズボロ死亡年月日 2017年5月22日(35歳)イタリア、チェゼーナ現在のチーム レッドブル・ホンダ・ワールド・スーパーバイク・チームゼッケン 69ウェブサイト nickyhayden.comMotoGPチーム:レプソル・ホンダ, ドゥカティ・コルセ, ドライブ M7 アスパーチーム, エストレラ・ガリシア 0,0 マルクVDS車両:ホンダ・RC211V, ホンダ・RC212V, ドゥカティ・デスモセディチ, ホンダ・RCV1000R, ホンダ・RC213V-RS, ホンダ・RC213Vデビュー戦:2003年4月6日 - 鈴鹿サーキット - 7位初表彰台:2003年10月5日 - ツインリンクもてぎ - 3位初勝利:2005年7月10日 - マツダ・レースウェイ・ラグナ・セカ優勝回数:3表彰台回数:28ランキング最高位:1位 (2006)スーパーバイク世界選手権チーム:アメリカ・ホンダ, ホンダ・ワールド・スーパーバイク・チーム車両:ホンダ・VTR1000 SP-1, ホンダ・CBR1000RRデビュー戦:2002年7月14日 - マツダ・レースウェイ・ラグナ・セカ - 4位初表彰台:2016年4月16日 - アッセン - 3位初勝利:2016年5月15日 - セパン優勝回数:1表彰台回数:4ランキング最高位:5位 (2016)AMAスーパーバイクチーム:アメリカ・ホンダ, HRC車両:ホンダ・VTR1000 SP-1, ホンダ・RVF750デビュー戦:1999年4月18日 - ウィロースプリングス・レースウェイ - 12位初勝利:2000年6月11日 - ロード・アメリカ初表彰台:1999年9月19日 - パイクス・ピーク・インターナショナル・レースウェイ - 3位優勝回数:17表彰台回数:30ランキング最高位:1位 (2002)AMA 600スーパースポーツチーム:アメリカ・ホンダ, エリオン・ホンダ, ハイパーサイクル・スズキ車両:ホンダ・CBR600F3, ホンダ・CBR600F4, スズキ・GSX-R600初勝利:1998年4月26日 - ウィロースプリングス・レースウェイ優勝回数:6ランキング最高位:1位 (1999)AMA 750スーパーストックチーム:ハイパーサイクル・スズキ車両:スズキ・GSX-R750初勝利:1998年4月19日 - マツダ・レースウェイ・ラグナ・セカ優勝回数:5ランキング最高位:4位 (1998)AMA フォーミュラ・エクストリームチーム:エリオン・ホンダ車両:ホンダ・CBR900RR初勝利:1998年4月17日 - ウィロースプリングス・レースウェイ優勝回数:7ランキング最高位:2位 (1999)自転車事故2017年5月17日、ヘイデンはイタリアのリミニ近郊で自転車でのトレーニング中に車と衝突した。事故はミザーノ・アドリアーティコのvia Ca' Raffaelliとvia Tavoletoの交差点で発生した。ヘイデンはカ・ラッファエーリを西に向かい、タヴェレントへ向かう通りとの交差点に入ったところで車にはねられた。車の運転手は「ヘイデンが停止標識を越えて突然目の前に現れた」と供述しており、運転手は衝突を避けることができなかった。車のスピードは不明だが、ヘイデンは車のフロントガラスを完全に打ち砕いて屋根をへこますほどの衝撃であった。ヘイデンの自転車は近くの側溝で発見され、そのフレームは半分に割れていた。ヘイデンは重傷を負いリミニ病院に搬送され、事故から4時間後の午後6時、リミニ病院のスタッフはヘイデンが外科手術を行うためチェゼーナのマウリツィオ・ブファリーニ病院の重傷ユニットに移されたと発表した。ヘイデンの父アールによると、ヘイデンは手術のため人工的に昏睡状態にされ、この事実はメディアによって広く伝えられた。ヘイデンは昏睡状態ではなかったが、病状が手術を行うにはあまりにも重症であったため手術は行われずにいた。ヘイデンの状態は外傷性の脳損傷、大腿骨と骨盤の骨折および複数の脊椎の骨折であった。5月19日、彼は生命維持装置に繋がれ危険な状態にあり、今後の治療等の展開が難しい状態にあった。そして、事故から5日後の5月22日に病院で死去した。35歳という若さであった。
May 22, 2023
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3年前に筑波で亡くなられた岩崎哲朗選手の弟、岩崎朗選手が、同じSUGOでのテスト中の事故により、お亡くなりになられたそうです。Aug 10, 2020 ST1000出場の岩崎 哲朗選手が亡くなられたそうですあまりにも、突然で、言葉かありません。。。岩崎朗選手のご冥福をお祈りいたします。Iwazaki taku@iwazaki3kyoudai昨日のSUGOテストで朗が他界しました。赤旗を出してしまい申し訳ございませんでした。テイストも出られなくなってしまいました。楽しみにしてくださってた方々申し訳ないです。葬儀の日程が決まりましたのでご報告いたします。昨日のSUGOテストで朗が他界しました。赤旗を出してしまい申し訳ございませんでした。テイストも出られなくなってしまいました。楽しみにしてくださってた方々申し訳ないです。葬儀の日程が決まりましたのでご報告いたします。 pic.twitter.com/Xm3HfgP3AA— Iwazaki taku (@iwazaki3kyoudai) May 11, 2023 なんで俺のツイート弟死んだツイートばっかりなんだよ!わけわかんねーよ!— Iwazaki taku (@iwazaki3kyoudai) May 11, 2023 また1人大切な仲間が亡くなった。今回のSUGOのテスト中に岩崎朗さん。テツローさんの弟。しかも同じSUGOで。そんなとこ仲良くしなくていいのよ今週もテイストで戦うはずだったし、そんな話を朝してたのにテストどころの心境じゃなかったけど2人はそんな姿望んでないなって先ずは今週勝つね! pic.twitter.com/OzayD9DxpN— Masahiro Shinjo 新庄雅浩 (@MasahiroShinjo) May 11, 2023 パワービルダー #70 岩崎朗選手@misakura3396 #テイストオブツクバ#tot#shoei#ヘルメット#ヘルメットペイント#オートバイ#バイク#オリジナルペイント#カスタムペイント#エアーブラシ#塗装#custompaint #pathosdesign #パトスデザイン pic.twitter.com/gOi9G2SPvV— パトスデザイン (@PATHOSDESIGN) May 10, 2023 菅生入りしていた岩崎朗君が亡くなってしまったしかも兄貴の哲っちゃんも同じ菅生で2020に亡くなっているイントラ手伝ってくれたし自分より若い人の訃報は辛い😓— ひろ (@hiro_moto_55) May 11, 2023 SUGOで悲しい事故が起きたようですね。モータースポーツは危険と隣り合わせ自分も5年前、トップで走行中に転倒後続車と接触して記憶が飛びました。ムチウチで済みましたが後続車が自分の首を轢いてたら…もしかしたら命は無かったかもしれません岩崎朗選手のご冥福をお祈りいたします。 pic.twitter.com/V4pPXIBnbM— がんばれ源さん♪ (@tatsuhiko38) May 11, 2023 僕の目の前で起きた事でした。言葉になりません。ただ変な憶測だけはやめていただきたいです。見させていただいた熱い背中はお兄さんのようで、忘れられません。今はただ御冥福をお祈りいたします。 https://t.co/gKrzxC6lFu— 岩戸亮介 Ryosuke Iwato (@ryosukeiwato) May 11, 2023 【訃報】岩﨑朗が全日本ロードSUGO公開テストで転倒して死去 スポーツランドSUGOで全日本ロードレース選手権第3戦SUGOの公開テスト2日目が行われていた5月10日(水)に岩﨑朗(あきら)が亡くなるアクシデントが発生した。 ST1000クラスの1本目の走行が30分ほど経過したころにSPインコーナーで転倒。マシンを追うようにクラッシュパッドに叩きつけられてしまった岩﨑は、頭部と胸部を強く打ち帰らぬ人となってしまった。 岩﨑は、5月20日(土)・21日(日)に開催される全日本ロード第3戦SUGOのST1000クラスにMISAKURA with RIDE INからスポット参戦。12年振りに走るSUGO、初参戦となる全日本ロードST1000クラスだけに慎重にペースアップしていたのだが……。岩﨑朗、岩﨑拓朗 兄の哲朗は、2020年にSUGOで行われた全日本ロード第1戦のST1000クラス決勝中のアクシデントで亡くなっており、今回は“一緒にチェッカーを受ける”と意気込んでいた。テイスト・オブ・ツクバでは、HERCULESクラスでパワービルダー&RIDE INのカワサキZをライディングしトップライダーとして活躍していた。今週末(5月14日)は、そのレースでもあったのだが……。 かつて岩﨑Ⅲ兄弟としてミニバイクで名を馳せ、筑波ロードレース選手権では兄・哲朗とともにトップ争いを繰り広げ、全日本ロードST600にも参戦していた。哲朗の好きだったレースを楽しんできたが、よりによって同じスポーツランドSUGOでアクシデントに遭ってしまうとは……。長男の拓朗氏は、自身のレース活動は早くに退き、二男・哲朗、三男・朗をメカニックとしてサポートしていた。今回も朗に同行していた。その心中は察するに余りある。その魂が安らかにあることを願うばかりだ。 葬儀日程は以下で執り行われる。さがみ典礼 日光栃木県日光市瀨尾381-10288-30-4600通夜 5月16日 18時 開式葬儀 5月17日 12時 開式※ご参列頂ける皆様にお願いがあります!哲朗の時同様できる限りサーキットですごしてる服装でご来席頂きたいと思いますのでご協力をお願いします!チーム関係の方はピットシャツ又はチームシャツで、応援してくださってる皆様はサーキットにお越し頂いてるご容姿で来てくださると有難いです。勿論礼服でも問題ありません。皆様で朗を送ってあげたいと思います。よろしくお願いします。兄 拓朗岩崎朗のブログ中須賀がトップタイム、岡本も肉薄。ST1000は榎戸が好調/全日本ロード SUGO公開テスト2日目5/10(水) 20:16配信中須賀克行(YAMAHA FACTORY RACING TEAM)、水野涼(AstemoHondaDreamSIRacing)/2023全日本ロード SUGO公開テスト2日目 全日本ロードレース選手権シリーズ第3戦SUGO(5月20日、21日)の公開テスト2日目が5月10日(水)に当地スポーツランドSUGOで行われた。天気は、この日も快晴となり、前日より気温も上がり、風も弱く絶好のコンディションとなった。路面コンディションも前日よりはよくなっていたが、転倒は少なくなく、度々赤旗が提示されることになっていた。 2日目は、各クラス45分のセッションが2回行われ、この日からJ-GP3クラスは走行を開始。初日の4メーカー合同テストを走っていないJSB1000クラスの水野涼(AstemoHondaDreamSIRacing)、秋吉耕佑(MurayamaUnso.Honda.Dream.K.W)、ST1000クラスの高橋裕紀(JAPAN POST Honda Dream TP)なども、2日目から走り始めている。 JSB1000クラスは、2回目のセッション前半に中須賀克行(YAMAHA FACTORY RACING TEAM)が1分26秒249をマークしてトップタイムとなった。「2日間、マシンセットはもちろん、カーボンニュートラル燃料に対することやタイヤの確認、ロングランなど充実したテストになりました。あとはレースウイークのコンディションに合わせ込んでいくのが重要なポイントになります。来週末もいい天気になることを望みますし、ぜひレースを見にスポーツランドSUGOにお越しください」と中須賀。 2番手の岡本裕生(YAMAHA FACTORY RACING TEAM)はロングラン中に1分26秒730をマークするなど、こちらも仕上がりは上々だ。「SUGOは得意なサーキットなので、今回が勝つチャンスだと思っています。中須賀選手は本当に強いライダーですが、全力でぶつかって表彰台の真ん中に上がりたいですね」と岡本。昨年のSUGOラウンドでは、JSB1000で4戦目にも関わらず中須賀を追い詰めるレースを見せた。あれから経験値は確実に上がっているだけに、今年はどこまで中須賀に迫れるか楽しみなところだ。 3番手に亀井雄大(YOSHIMURA SUZUKI RIDEWIN)が1分26秒857で続き、トップ3が1分26秒台だ。 亀井は「今回のテストは、今までで一番といっていいほど、とにかく走り込みました。マシンの理解度も進んだので、レースウイークは、さらにいいペースで走ることができると思います。レースを見据えて、いい結果を出せるように全力で走ります」とコメントした。 4番手に1分27秒073の名越哲平(SDG Honda Racing)、5番手に1分27秒103の津田拓也(AutoRace Ube Racing Team)、6番手に1分27秒147の清成龍一(TOHO Racing)と僅差で続いた。 ST1000クラスは、初日トップタイムをマークした榎戸育寛(SDG Motor Sports RT HARC-PRO.)が2日目も好調。1本目に1分28秒240でトップにつけると、2本目には1分27秒台に突入。1分27秒888で連日のトップタイムとなった。これに岩戸亮介(Kawasaki Plaza Racing Team)が1分27秒968で続き、トップ2が1分27秒台をマーク。 3番手に荒川晃大(MOTOBUM HONDA)が1分28秒187、4番手に渡辺一馬(AstemoHondaDreamSIRacing)が1分28秒217、5番手に國井勇輝(SDG Motor Sports RT HARC-PRO.)が1分28秒444、6番手に高橋巧(JAPAN POST Honda Dream TP)が1分28秒555で続き、ここまでが非公式ながらコースレコード越えのタイムとなった。 ST600クラスもコースレコード越えのタイムが記録された。2回目に1分30秒269をマークした西村硝(51GARAGE kupu Racing YAMAHA)がトップタイム。2番手に長尾健吾(TBB TEAMKENKEN Ytch)が1分30秒468、3番手に伊達悠太(AKENO SPEED)が1分30秒491、4番手に芳賀涼大(WORK NAVI Nitro Racing)が1分30秒492で続いている。 1本目に1分30秒521をマークしトップにつけていた阿部恵斗(51GARAGE kupu Racing YAMAHA)が総合では5番手となった。阿部は、アジアロードレース選手権(ARRC)SS600クラスにも参戦していることもあり、1本目を走り終えたあと、マレーシアに向かった。 J-GP3クラスは、尾野弘樹(P.MU 7C GALESPEED)がセッションをリード。2本目の最後に1分34秒873をマークしトップで初日を終えている。2番手に彌榮郡(MARUMAE with Club PARIS)が1分35秒383、3番手に1本目のタイムで木内尚汰(Team Plusone)が1分35秒654、4番手に大和颯(BREASTO B-TRIBE RACING)が1分35秒830、5番手に若松怜(JAPAN POST Honda Dream TP)が1分35秒999で続き、ここまでが1分35秒台をマークした。 全日本ロードレース選手権 SUGO公開テスト2日目のタイム結果は以下の通り。■全日本ロード SUGO公開テスト2日目 JSB1000 特別スポーツ走行 1回目 タイム結果Pos./No./Rider/Team/Best Time/Laps/Total1/3/岡本裕生/YAMAHA FACTORY RACING TEAM/1’26.275/19/222/1T/中須賀克行/YAMAHA FACTORY RACING TEAM/1’26.525/15/163/1/中須賀克行/YAMAHA FACTORY RACING TEAM/1’26.797/3/74/4/作本輝介/Astemo HondaDream SI Racing/1’27.118/6/195/37T/津田拓也/AutoRace Ube Racing Team/1’27.422/24/246/5T/亀井雄大/YOSHIMURA SUZUKI RIDEWIN/1’27.584/16/177/15T/名越哲平/SDG Honda Racing/1’27.594/18/188/10/清成龍一/TOHO Racing/1’27.996/18/249/38/伊藤和輝/Honda Dream RT SAKURAI HONDA/1’28.325/15/2310/12/秋吉耕佑/MurayamaUnso. Honda.Dream .K.W/1’28.412/16/1611/36/水野涼/AstemHondaDreamSIRacing/1’28.439/10/2012/7T/岩田悟/Team ATJ/1’28.730/10/1113/7/岩田悟/Team ATJ/1’29.226/3/814/5/亀井雄大/YOSHIMURA SUZUKI RIDEWIN/1’29.471/1/115/17T/児玉勇太/Team Kodama/1’29.846/10/1716/22T/星野知也/TONE RT SYNCEDGE4413 BMW/1’29.931/15/2217/14T/中冨伸一/WaveinnR/1’30.507/17/1818/11/柳川明/KRP SANYOUKOUGYO RSITOH/1’30.517/11/1319/13/津田一磨/Team Baby Face/1’30.689/17/1820/39/芳賀瑛大/WORK NAVI Nitro Racing/1’30.744/4/1621/27/新庄雅浩/Team TATARA aprilia/1’30.973/17/1922/9T/関口太郎/SANMEI Team TARO PLUSONE/1’31.973/11/1123/35T/杉山優輝/Sofukai Honda Suzuka Racing Team/1’32.283/18/1924/40/須貝義行/TEAM SUGAIO RACING JAPAN/1’32.973/14/2225/32/谷本音虹郎/Team TATARA aprilia/1’40.894/1/126/9/関口太郎/SANMEI Team TARO PLUSONE/1’42.024/7/8■全日本ロード SUGO公開テスト2日目 JSB1000 特別スポーツ走行 2回目 タイム結果Pos./No./Rider/Team/Best Time/Laps/Total1/1/中須賀克行/YAMAHA FACTORY RACING TEAM/1’26.249/4/222/3T/岡本裕生/YAMAHA FACTORY RACING TEAM/1’26.630/18/243/5T/亀井雄大/YOSHIMURA SUZUKI RIDEWIN/1’26.857/19/194/15T/名越哲平/SDG Honda Racing/1’27.073/19/235/37T/津田拓也/AutoRace Ube Racing Team/1’27.103/12/156/4/作本輝介/Astemo HondaDream SI Racing/1’27.106/5/97/10/清成龍一/TOHO Racing/1’27.147/13/188/12/秋吉耕佑/MurayamaUnso. Honda.Dream .K.W/1’27.590/15/179/5/亀井雄大/YOSHIMURA SUZUKI RIDEWIN/1’27.688/4/510/37/津田拓也/AutoRace Ube Racing Team/1’27.691/6/711/36/水野涼/AstemHondaDreamSIRacing/1’27.759/15/1712/38/伊藤和輝/Honda Dream RT SAKURAI HONDA/1’28.221/10/2313/7/岩田悟/Team ATJ/1’28.429/17/2014/17T/児玉勇太/Team Kodama/1’28.522/9/2215/27/新庄雅浩/Team TATARA aprilia/1’29.050/14/2016/14T/中冨伸一/WaveinnR/1’29.178/17/1817/11/柳川明/KRP SANYOUKOUGYO RSITOH/1’29.466/17/1818/9/関口太郎/SANMEI Team TARO PLUSONE/1’29.662/21/2119/39/芳賀瑛大/WORK NAVI Nitro Racing/1’30.117/19/1920/22T/星野知也/TONE RT SYNCEDGE4413 BMW/1’30.186/9/1321/13/津田一磨/Team Baby Face/1’30.531/19/2522/35T/杉山優輝/Sofukai Honda Suzuka Racing Team/1’30.876/5/1923/32/谷本音虹郎/Team TATARA aprilia/1’32.467/16/1724/40/須貝義行/TEAM SUGAIO RACING JAPAN/1’32.655/19/21-/1T/中須賀克行/YAMAHA FACTORY RACING TEAM/計測出来ず/-■全日本ロード SUGO公開テスト2日目 ST1000 特別スポーツ走行 1回目 タイム結果Pos./No./Rider/Team/Best Time/Laps/Total1/32/榎戸育寛/SDG MotorSports RT HARC-PRO./1’28.240/12/142/100/渡辺一馬/Astemo HondaDream SI Racing/1’28.814/7/173/6/岩戸亮介/Kawasaki Plaza Racing Team/1’28.849/4/124/33/國井勇輝/SDG MotorSports RT HARC-PRO./1’29.134/13/175/27/荒川晃大/MOTOBUM HONDA/1’29.169/12/166/13/豊島怜/DOG FIGHT RACING/1’29.412/8/167/8/前田恵助/Team GYTR/1’29.474/5/128/360/高橋巧/JAPAN POST HondaDream TP/1’29.611/9/149/28/佐野優人/KRP SANYOUKOUGYO RSITOH/1’29.967/12/1510/3/高橋裕紀/JAPAN POST HondaDream TP/1’30.047/12/1611/9/村瀬健琉/Team TKR performance/1’30.108/14/1512/30/横山尚太/OGURA CLUTCH ORC with RIDE IN/1’30.218/2/1713/2/國峰啄磨/TOHO Racing/1’30.369/15/1614/14/中村竜也/MATSUBA RACINGPROJECT&RS-ITOH/1’31.132/3/1215/35/綿貫舞空/TONE RT SYNCEDGE4413 BMW/1’31.134/17/1916/170/松本隆征/FineTechnicalRacng/1’31.253/6/1517/15/柴田義将/Taira Promote Racing/1’31.876/5/1318/48/高田昌明/113enac racing/1’32.650/8/919/34/成田彬人/FineTechnicalRacng/1’32.865/12/1620/6T/岩戸亮介/Kawasaki Plaza Racing Team/1’33.161/1/221/18/中村修一郎/MATSUBA RACINGPROJECT&RS-ITOH/1’33.688/4/1122/40/佐藤直之/TeamSTR&OM-STAINLESS+Ai/1’33.894/6/1323/51/関一正/Team SEKI + TRP Challenge/1’34.583/4/1224/23/和田留佳/Team TATARA aprilia/1’35.482/8/925/45/岩崎朗/OGURA CLUTCH ORC with RIDE IN/1’36.316/4/826/29/新井久美/OGURA CLUTCH ORC with RIDE IN/1’36.896/7/1327/39/吉田愛乃助/TONE RT SYNCEDGE4413 BMW/1’50.279/1/3-/31/坂本崇/OGURA CLUTCH ORC with RIDE IN/計測出来ず/-■全日本ロード SUGO公開テスト2日目 ST1000 特別スポーツ走行 2回目 タイム結果Pos./No./Rider/Team/Best Time/Laps/Total1/32/榎戸育寛/SDG MotorSports RT HARC-PRO./1’27.888/14/242/6T/岩戸亮介/Kawasaki Plaza Racing Team/1’27.968/11/133/27/荒川晃大/MOTOBUM HONDA/1’28.187/11/244/100/渡辺一馬/Astemo HondaDream SI Racing/1’28.217/18/225/33/國井勇輝/SDG MotorSports RT HARC-PRO./1’28.444/18/196/360/高橋巧/JAPAN POST HondaDream TP/1’28.555/10/197/8/前田恵助/Team GYTR/1’28.818/7/248/13/豊島怜/DOG FIGHT RACING/1’29.051/13/199/28/佐野優人/KRP SANYOUKOUGYO RSITOH/1’29.208/13/1810/2/國峰啄磨/TOHO Racing/1’29.240/3/2311/3/高橋裕紀/JAPAN POST HondaDream TP/1’29.241/10/2212/6/岩戸亮介/Kawasaki Plaza Racing Team/1’29.259/2/713/9/村瀬健琉/Team TKR performance/1’29.542/2/1814/30/横山尚太/OGURA CLUTCH ORC with RIDE IN/1’30.074/18/1915/170/松本隆征/FineTechnicalRacng/1’30.126/8/1516/14/中村竜也/MATSUBA RACINGPROJECT&RS-ITOH/1’30.243/15/2017/35/綿貫舞空/TONE RT SYNCEDGE4413 BMW/1’30.414/4/2218/15/柴田義将/Taira Promote Racing/1’30.663/14/1519/23/和田留佳/Team TATARA aprilia/1’31.294/11/1620/48/高田昌明/113enac racing/1’31.868/22/2221/21/松川泰宏/MOTOBUM HONDA/1’31.947/12/1422/18/中村修一郎/MATSUBA RACINGPROJECT&RS-ITOH/1’31.961/18/1823/34/成田彬人/FineTechnicalRacng/1’32.310/13/2024/51/関一正/Team SEKI + TRP Challenge/1’33.470/15/2225/40/佐藤直之/TeamSTR&OM-STAINLESS+Ai/1’33.871/11/1726/38/仲村優佑/FEEVIL OKINAWA/1’34.424/7/2227/29/新井久美/OGURA CLUTCH ORC with RIDE IN/1’36.207/10/2128/39/吉田愛乃助/TONE RT SYNCEDGE4413 BMW/1’36.242/27/27[オートスポーツweb ]Jan 7, 2013 2012 #50 岩崎 朗 岩崎3兄弟+NIKKO+aZ CBR600RR武田雄一が12年振りに全日本ロードフル参戦! 岩﨑哲朗との夢を追い続けるOGURA CLUTCH ORC with RIDE INが2022年体制発表
May 11, 2023
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5月1日は若井伸之さんの命日です 本当に、ものすごい人物で、人柄で。。。若井さんがいたから、ほかのみんなが活躍できた。。。もう30年ですか。。。坂田さん、上田さんとともに、125ccで世界で大活躍して、250で頑張っていた矢先でしたね。当時は、γだったんだなぁヘレスで、ピットロードに入ってきた観客をよけて、、、、本当に信じられませんでした。。。陽気で人気者で、フラミンゴという愛称で海外のレーサー、ファンにも慕われていました。あの頃の日本人は、本当に強かったその先駆者として、本当にがんばっておられました。若井さんの速さと強さ、優しさは、ずっと忘れません。若井 伸之(わかい のぶゆき、1967年7月25日 - 1993年5月1日)は、千葉県八千代市出身の日本のオートバイレーサー。かつてロードレース世界選手権(WGP)の125ccクラス・250ccクラスに参戦していた。細身で長身な体格と、その長い手足を折り畳むライディングスタイルから「フラミンゴ」の愛称で親しまれた。1990年に全日本ロードレース選手権でランキング2位となった若井は、翌1991年から坂田和人・上田昇(当初はスポット参戦)とともにWGP・125ccクラスにフル参戦を開始。他の2人とともに、プライベート日本人ライダーの先駆者となった。当初はなかなか結果を残せずにいたが、最終戦マレーシアGPでは、トップ争いの末3位表彰台を獲得。翌1992年開幕戦日本GPでも、雨の中地元で3位に入るなど、結果を残すようになる。またドイツGPでは、怪我により欠場したウィルコ・ズィーレンベルグの代役として、スズキから250ccクラスにスポット参戦、7位入賞を果たしている。1993年、若井はスズキから型落ちのワークスマシンRGV250-γの貸与を受け、250ccクラスにステップアップ。しかし250ccクラスのマシンに馴染めず、同年から参戦した親友で弟分の原田哲也らが活躍を続ける一方で、結果を出せずにいた。第4戦スペインGPの予選中、タイムアタックを行うべく、フル加速でピットロードから飛び出そうとしていた若井の前に、突然観客が飛び出してきた。この観客はロリス・レジアーニの招待客であり、本来パスがなければ入れない場所に無断でいたところを、オフィシャルに見つかり逃げ出したところだった。若井が回避を試みたため、接触こそしたものの観客は軽傷で済んだが、若井本人はバランスを崩してピットロードのコンクリートウォールに激突。頭部を強打した若井は懸命の治療の甲斐無く死去、25歳没。1986年に完成したヘレス・サーキットで初めての死亡事故となった。若井の死を受けて、他の日本人ライダーは当初出走の辞退も考えたが、原田が出走を決意したのを皮切りに、最終的には「若井のために頑張ろう」と出場を決めた。250ccクラスの決勝では、原田がコースレコードをも更新する走りで、他に大差を付けて優勝。125ccクラスでも、坂田がラルフ・ウォルドマンを振り切り、WGP初優勝を遂げた。レース終了後、原田はバイクにまたがったまま号泣し続け、坂田も表彰台で悲壮な表情と涙をみせた。また、このレースで5位に入賞した上田はレース後、若井の事故現場まで自身のマシンで近づき、コンクリートウォールを軽く叩いて若井に別れを告げた。原田はこのときの優勝トロフィーを、若井の遺族に送ったという。2012年に、サンスポに若井さんを惜しむ記事がありました若井伸之を偲んで建てられたフラミンゴ像 4月27~29日にMotoGP第2戦が開催されるスペイン・ヘレスサーキットの片隅に、ひっそりとフラミンゴの像がたたずんでいる。レースに造詣の深い人には、この像の由来を今さら説明する必要はないだろう。ただし、近年になってレースに興味を持ち始めたファンには、あまり馴染みがないかもしれない。これは、1993年にこのサーキットで命を落とした日本人選手、若井伸之を偲んで建てられた像なのである。若井は、1990年に全日本選手権125CCクラスでランキング2位を獲得し、翌年から世界グランプリのフル参戦を開始した。この年には、坂田和人と上田昇も125CCクラスのフル参戦を果たしている。1991年のこの時、若井23歳、坂田24歳、上田23歳。開幕戦日本GPの舞台鈴鹿サーキットで上田は劇的なポールトゥウィンを達成。シーズン最終戦のマレーシアGPでは坂田が2位、若井は3位で表彰台を獲得した。身長の高い若井が、長い手足を折りたたむように小さな125CCマシンを操る様子はフラミンゴの姿にもたとえられた。 1992年、上田はランキング9位、若井10位、坂田11位。93年に上田と坂田は125CCで継続参戦する一方、若井は250CCに転向する。この年、彼らのもうひとりの親友、原田哲也が250CCクラスに登場した。原田は開幕戦オーストラリアで衝撃のデビューウィン、第2戦マレーシアは2位、第3戦日本GPで優勝、と快進撃を続けていた。そして第4戦のスペインGPを迎える。 土曜の予選で、若井がコースへ出ようとしたときに悲劇が発生した。ピットレーンに観客が飛び出し、この観客との接触を回避しようとした若井はピットロードの壁に衝突、頭部を強打した。懸命の治療の甲斐なく、25歳で逝去。翌日の決勝レースでは、125CCクラスで坂田が初優勝を達成。堪えていた涙が表彰台で一気に爆発した。5位でフィニッシュした上田は、自らのピットガレージへ戻る際、マシンに跨がりながら若井の激突したウォールに触れ、別れを告げた。250CCクラスでは原田が優勝。レースを終えてヘルメットを脱いだ後も、原田の涙は止まらなかった。若井の死を悼む意味から、このクラスの表彰式は行われなかった。 そして1994年2月、ヘレスサーキットにフラミンゴの像が建立された。その碑文には、以下のようなことばが記されている。「魂と肉体の翼いまだ衰えぬまま この地に止まりて挑むは 汝ら志ひとしき同胞 飽かず疾駆する勇姿なり」 コース脇のフェンス内側に立つフラミンゴの像が選手たちの姿を今も見つめ続けるなか、ヘレスサーキットは若井の事故から20回目のグランプリを迎える。(モータージャーナリスト・西村章)
May 1, 2023
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あの悲しい事故から12年ですか。。。震災の年だったんですよね。。。チャリティとかでもがんばっておられたのに。。。高橋江紀が交通事故で死去まだ23歳…。これからと言うときのアクシデント News 2011/04/25 12:17:36 20110425_01.jpg高橋江紀が4月24日(日)に交通事故に遭い死去した。享年23。高橋は、2005年に全日本GP250クラスにフル参戦を開始。その緒戦で青山周平を破り劇的な初優勝を達成、ランキング3位となる。2007年よりST600クラスにスイッチ。昨年は、新設されたJ-GP2クラスに出場。MotoGPロードレース世界選手権日本グランプリにもスポット参戦した。今シーズンよりRS-ITOに移籍。心機一転、カワサキZX-6Rを駆り、ST600クラスに参戦する予定だった。シーズンオフから筑波サーキットで走り込み調子も上々だったが、東日本大震災の影響で開幕戦筑波が中止となってしまい、その成果は発揮できずにいた。4月上旬には、オートポリスに遠征、コンディションに恵まれず満足に走れなかったが、自己ベストを更新したと好調ぶりを語っていた。違う環境に飛び込み、まさにこれからというときに起きたアクシデントだった。高橋は、東日本大震災の被災者の支援も積極的に行っており、20日(水)には、所属チームの一員として川越駅前で募金活動を行い、23日(土)には、自身がインストラクターも務める桶川スポーツランドで「RT311」と題したチャリティーイベントを開催していた。心からご冥福をお祈りいたします。
Apr 24, 2023
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3月9日はアンソニー・デラールの命日です2017年3月9日もう6年ですか。。。 本当に悲しい事故でした。。。偉大なライダーを失いました。。。。二度と、このようなことがないように祈ります。。。Anthony Delhalle nous a quittésアンソニーDelhalleは、我々のもとを去りましたTerrible nouvelle en provenance de Nogaro où les équipes d’endurance GMT94, Motors Events et SERT effectuaient des essais privés pour préparer la prochaine épreuve du championnat du monde au Mans. Anthony Delhalle a en effet été victime d’une sortie de piste au premier virage du circuit Gersoi en milieu de matinée. Rapidement pris en charge par les pompiers, ces derniers ne sont pas parvenus à réanimer le pilote Suzuki. 5 fois champion du monde d’endurance avec le SERT, Anthony était à 35 ans un champion discret, profondément gentil et unanimement apprécié du paddock. Sa disparition laissera un grand vide dans nos cœurs et toute l’équipe de Moto Revue adresse ses pensées les plus sincères à sa femme Jessie et à ses deux enfants Sophia et Andrea.浦本 修充さんがSuzuki Moto Franceさんの写真をシェアしました。6時間前 昨年のスペイン選手権の最終戦に参戦した際にチームメートだったアントニー選手がテスト中のアクシデントで亡くなりました。初めてで何もわからなかった僕にも気さくに話しかけてくれて心優しい人なんだなと言うのが短い間でも伝わる本当に良い選手でした。ご冥福をお祈りいたします。新庄 雅浩さんはAnthony De La Halleさんと一緒です。5時間前 I love you Anthony尊敬するライダーがまた亡くなってしまいました。突然過ぎて現実なのか整理つかないけど出会えて一緒に走れて本当に自分を成長させてくれたました。ゆっくり休んでくれるといいな。みんなの心に少しだけでもAnthonyを残していて欲しいです。もう松下さんとルマンの話で盛り上がってるかな。北川 圭一5時間前 ホント参ったアントニーが亡くなったって知って、、、バンソンと毎年8耐来ていて何度も京都に遊びにきていたのに、、、ホント控えめないい奴だったのに、ショック、、、モータースポーツの危険性を改めて、感じさせられます。心よりご冥福をお祈りします。加賀山 就臣さんが写真6件を追加しました。6時間前 神奈川県横浜市 参ったな〜。共に戦った、アントニーが亡くなった。テスト中のアクシデントだったらしい。ご冥福を祈る。R.I.Pアントニーとは2012年、SERTで鈴鹿8耐や世界耐久で共に戦った戦友。共に優勝もした、共にチャンピオンも獲得した。その後も、いつも俺の所に来てくれる。本当、控えめでいい奴だった、いつかまた組みたかったな〜……。参った……。https://www.facebook.com/anthony.delhalle.1/スズキで5度の耐久レース王座を獲得したアンソニー・デラールがテスト中に事故で亡くなるAUTOSPORTwebアンソニー・デラール SERT(スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)から世界耐久選手権(EWC)に参戦するアンソニー・デラールが、9日にフランス南部のノガロ・サーキットで行っていたプライベートテスト中の転倒事故により亡くなった。 EWC第2戦ル・マン24時間耐久ロードレースに向けノガロ・サーキットでプライベートテストを行っていたデラール。EWCのオフィシャルサイトによれば、今回の死亡事故はストレートエンドで発生したという。事故後、現場にはレスキュー隊が駆けつけ、救助作業が行われたものの、そのかいむなしく死亡が確認された。 デラールは35歳のフランス人ライダーで、2004年に初めてル・マン24時間耐久ロードレースに参戦。EWCでは、スズキGSX-R1000を駆って2011年、2012年、2013年、2015年、2016年と5度のチャンピオンを獲得した。
Mar 9, 2023
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高杉さん、届きました!!ありがとうございます!!!高杉さんより無事に届いてよかったです😊長年応援本当にありがとうございます。またグルメ記事楽しみにしていますDec 27, 2022 #ザ・ヒューマン バイクレーサー #高杉奈緒子 “音のない世界”を走る皆さんも、応援お願いいたします!!!【27日夜9:00】 #ザ・ヒューマン バイクレーサー #高杉奈緒子 “音のない世界”を走る国内最高峰のバイクレースで、耳の聞こえない選手が活躍する。高杉奈緒子(45)。音のない世界を爆走、悲願のチェッカーフラッグを目指した壮絶な戦いに完全密着する![BS1]https://t.co/tHbrp0cSST— NHKドキュメンタリー (@nhk_docudocu) December 26, 2022 あと2時間後に放送ですたくさんの人達に見てもらいたいですドラマではなく本当のsilentドキュメンタリーを私は、見れないですが😅見た感想をSNSで教えてください。#silent https://t.co/KfNykjLPmJ— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 27, 2022 #拡散希望RT「バイクレーサー #高杉奈緒子 “音のない世界”を走る」を、ご視聴ありがとうございました。今年の振り返りと、来年の活動目標を簡単な動画に纏めました。改めて、高杉奈緒子を知っていただくと共に、応援いただけると嬉しいです。https://t.co/S1F5iqqcVS— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 27, 2022 #拡散希望RT「バイクレーサー #高杉奈緒子 “音のない世界”を走る」を、ご視聴ありがとうございました。今年の振り返りと、来年の活動目標を簡単な動画に纏めました。改めて、高杉奈緒子を知っていただくと共に、応援いただけると嬉しいです。https://t.co/U9MyfxxJuq— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 27, 2022 皆様おはようございますテレビ見て、たくさんのコメントやサポーターで応援してくださり本当にありがとうございます2023年応援して下さった方様大阪に戻ってからメッセージしますので待ってください今日は、オーストリアKTMから帰国しています、ともさん、純さんに今年と来年の挨拶をしてきます— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 29, 2022 2022年今年が終わります振り返れば今年も、勝ちに行くつもりで挑んだ2022年目標を達成することが出来ませんでした。得意なコーススポーツランドSUGOで転倒して右手の大怪我をしてしまい今年は、厳しい戦いとなりました。それでも諦めずに向き合っていきました pic.twitter.com/faFHox4boz— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 30, 2022 #拡散希望RT見逃した方見てください【再放送のお知らせ】バイクレーサー高杉奈緒子 “音のない世界”を走るNHK BS1 1月7日(土) 10:00-10:50#NHKオンデマンド 後日視聴可能#TEAMNAOKO #KTM #高杉奈緒子#全日本ロードレース選手権 #JGP3参戦中#FIM世界耐久選手権 #ル・マン #24時間耐久2013年出場— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) January 5, 2023 NHKBS1 #ザ・ヒューマン ドキュメンタリーを見てくださり本当にありがとうございました😊これが高杉奈緒子です不器用な人間ですが何も知らない状態のゼロからここまで道を作ってきました。たくさんの方々様が助けてくれ支えてくださったお陰ですこれからの #高杉奈緒子 を見守ってください pic.twitter.com/PGOTZoO5fE— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) January 7, 2023
Jan 25, 2023
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高杉奈緒子さんのドキュメント最初から泣きまくり。。。感動しました。。。【27日夜9:00】 #ザ・ヒューマン バイクレーサー #高杉奈緒子 “音のない世界”を走る国内最高峰のバイクレースで、耳の聞こえない選手が活躍する。高杉奈緒子(45)。音のない世界を爆走、悲願のチェッカーフラッグを目指した壮絶な戦いに完全密着する!皆さんも、応援お願いいたします!!!【27日夜9:00】 #ザ・ヒューマン バイクレーサー #高杉奈緒子 “音のない世界”を走る国内最高峰のバイクレースで、耳の聞こえない選手が活躍する。高杉奈緒子(45)。音のない世界を爆走、悲願のチェッカーフラッグを目指した壮絶な戦いに完全密着する![BS1]https://t.co/tHbrp0cSST— NHKドキュメンタリー (@nhk_docudocu) December 26, 2022 あと2時間後に放送ですたくさんの人達に見てもらいたいですドラマではなく本当のsilentドキュメンタリーを私は、見れないですが😅見た感想をSNSで教えてください。#silent https://t.co/KfNykjLPmJ— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 27, 2022 #拡散希望RT「バイクレーサー #高杉奈緒子 “音のない世界”を走る」を、ご視聴ありがとうございました。今年の振り返りと、来年の活動目標を簡単な動画に纏めました。改めて、高杉奈緒子を知っていただくと共に、応援いただけると嬉しいです。https://t.co/S1F5iqqcVS— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 27, 2022 #拡散希望RT「バイクレーサー #高杉奈緒子 “音のない世界”を走る」を、ご視聴ありがとうございました。今年の振り返りと、来年の活動目標を簡単な動画に纏めました。改めて、高杉奈緒子を知っていただくと共に、応援いただけると嬉しいです。https://t.co/U9MyfxxJuq— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 27, 2022 皆様おはようございますテレビ見て、たくさんのコメントやサポーターで応援してくださり本当にありがとうございます2023年応援して下さった方様大阪に戻ってからメッセージしますので待ってください今日は、オーストリアKTMから帰国しています、ともさん、純さんに今年と来年の挨拶をしてきます— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 29, 2022 2022年今年が終わります振り返れば今年も、勝ちに行くつもりで挑んだ2022年目標を達成することが出来ませんでした。得意なコーススポーツランドSUGOで転倒して右手の大怪我をしてしまい今年は、厳しい戦いとなりました。それでも諦めずに向き合っていきました pic.twitter.com/faFHox4boz— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) December 30, 2022 #拡散希望RT見逃した方見てください【再放送のお知らせ】バイクレーサー高杉奈緒子 “音のない世界”を走るNHK BS1 1月7日(土) 10:00-10:50#NHKオンデマンド 後日視聴可能#TEAMNAOKO #KTM #高杉奈緒子#全日本ロードレース選手権 #JGP3参戦中#FIM世界耐久選手権 #ル・マン #24時間耐久2013年出場— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) January 5, 2023 NHKBS1 #ザ・ヒューマン ドキュメンタリーを見てくださり本当にありがとうございました😊これが高杉奈緒子です不器用な人間ですが何も知らない状態のゼロからここまで道を作ってきました。たくさんの方々様が助けてくれ支えてくださったお陰ですこれからの #高杉奈緒子 を見守ってください pic.twitter.com/PGOTZoO5fE— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) January 7, 2023
Dec 27, 2022
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10月23日はシモンチェリの命日です。 もう11年ですねまだ、24歳、これからでした。。。ついてないとしかいいようがない事故でした。。。今年も、事故もなく、シモンチェリの分まで、すばらしいレースを見せてくれることを祈ります。【MotoGPマレーシアGP】シモンチェリが事故死23日、マレーシアのセパンで開催されたロードレース世界選手権マレーシアGP、MotoGPクラス決勝レースで、マルコ・シモンチェリ(ホンダ)が事故死した。24歳。2列目5番手スタートのシモンチェリは4番手走行中の2ラップ目、11コーナーで転倒、後続車と接触、頭、首、胸を強打した。医療班が事故現場に到着した時はすでに意識不明で、ただちにサーキット医療センターへ搬送された。移動の救急車中から心肺蘇生がほどこされたが、手当のかいなく、約45分後の16時56分に死亡が宣告された。レースは事故直後に赤旗中断、キャンセルされた。MotoGP、マルコ・シモンチェリの事故死の状況を説明2011年10月24日MotoGPのレースディレクションは23日、セパン・インターナショナル・サーキットのプレスカンファレンスルームで、第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死したマルコ・シモンチェリの状況に関して共同会見を行った。レースディレクションの代表であるポール・バトラーは、「この記者会見の目的は、マルコ・シモンチェリの悲劇的な死亡の状況を検証することです」と説明を始めた。 「皆様がご存知のように、我々レースディレクションのメンバー全員がここに出席します。FIM国際モーターサイクリズム連盟の代表であるクロード・ダニス、ドルナスポーツの代表であるハビエル・アロンソ、ライダーの代表であるフランコ・ウンチーニ、そして私はIRTA国際レーシングチーム連盟の代表兼レースディレクションの代表です。ミケーレ・マッキアゴデーナは我々のメディカルディレクターであり、彼が死亡に関して状況を説明します。」マッキアゴデーナは、「友人であるマルコ・シモンチェリの死亡に関して報告するために、ここにいることは大変悲しいです。他のライダーたちに激突したレース中の転倒でした。彼は頭部と首、胸部に深刻な外傷を負いました。」「我々のメディカルスタッフが彼のところに駆けつけたとき、彼は意識不明でした。心停止だったことから、救急車で、CPR(心肺蘇生)を始めました。」「緊急に、メディカルセンターでクリニカモービルのスタッフと地元医師の助けを借り、挿管を施行し、胸部から少量の血液を吸引することが可能でした。」「我々は彼を助けるために治療を尽くし、可能だと考えて、CPRを45分間継続しました。不運にも彼を助けることができず、現地時間の16時56分に死亡を宣言しなければいけませんでした」と、状況を説明した。バトラーは、ヘルメットが外れたことに関する質問に対して、「他の機会に答えることができると思います。事故の状況や結果を徹底的に調査します」と、事故検証を実施することを説明。コーリン・エドワーズの負傷状態に関して、マッキアゴデーナは「肩を脱臼しました。麻酔を受け、正しい位置に戻りました。彼は大丈夫です」と説明。「我々は彼の家族に同情します。可能な限り、あらゆる点を示したい」と、バトラーは付け加え、会見を締め括った。マルコ・シモンチェリ 経歴1996年から2000年にかけて地元イタリアのミニバイク選手権で活躍し、2年連続のチャンピオンに輝く。01年にイタリア選手権125ccクラスのホンダ・トロフィーに参戦。翌02年には、欧州選手権の125ccタイトルを獲得するとともに、ロードレース世界選手権(WGP)にも出場。03年からWGPにフル参戦を開始し、05年には125ccで総合5位と躍進すると、翌年から250ccにステップアップを果たした。08年には250ccのタイトルを獲得し、09年は、最終戦までライバル青山博一選手とタイトル争いを繰り広げ、総合3位となった。2010年に最高峰のMotoGPにステップアップ。参戦2年目の2011年、第17戦マレーシアGP決勝レースにおけるアクシデントで負傷し、サーキットのメディカルセンターで救命処置が行われたが同日逝去。享年24歳。故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに 故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに2011年10月にレースアクシデントにより事故死した故シモンチェリが、アゴスチーニ、ニエト、ドゥーハン、ヘイルウッド、リード、マング、ローソン、レイニー、ロバーツ、スペンサー、シーン、加藤、ストーナーらに続き、21人目のレジェンドライダーとして殿堂入りすることが決まった。ドルナスポーツは3日、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故マルコ・シモンチェリをレジェンドライダーとして殿堂入りすることを発表した。2008年10月19日に同地で開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで3番グリッドから3位に入り、250ccクラスのチャンピオンに輝き、2010年から最高峰クラスへの挑戦を開始。事故の1週間前には自己最高位となる2位を獲得していた。レジェンドライダー就任のセレモニーは、ムジェロ・サーキットで開催される第6戦イタリアGPで実施される。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナーTags:MotoGP, 2014故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー 故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー Marco Simoncelli - MotoGP Legend Marco Simoncelli MotoGP Legend元250ccクラス王者で、2011年10月の第17戦マレーシアGPで事故死した故シモンチェリがレジェンドライダーに就任した殿堂入りのセレモニーが、第6戦イタリアGP開催中のムジェロで行われ、ドルナスポーツの代表から父親パオロに記念のメダルが贈呈された。ドルナスポーツは30日、第6戦イタリアGPの開催地、ムジェロ・サーキットのプレスカンファレンスルームで、故マルコ・シモンチェリがレジェンドライダーとして殿堂入りするセレモニーを実施した。2月3日、2008年に250ccクラスのチャンピオンに輝き、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故シモンチェリの殿堂入りを発表。当社CEO最高経営責任者のカルメロ・エスペレータが父親パオロにレジェンドライダーのメダルを贈呈した。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナー
Oct 23, 2022
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いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。もう、あれから15年ですか。。。ロッシが、あれから、ずっと、トップで走り続けたこと、引退を、どうねぎらったでしょうね。。。天国で、大ちゃんと、一緒にほめたたえてるだろうなあ。。。H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらいふらふらしていました。。。自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々がまだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。本当に辛いです。。。自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが誰からも、愛される人必要とされる人そんな人たちが、早く旅立って。。。私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック 1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック 阿部典史-流星伝説-より秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。そして1996日本GP、涙の初優勝!!Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました8耐最高!!ノリックも叫んでましたよニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。ノリックが交通事故死、トラックと衝突 死去した阿部典史さん(オートバイレーサー) 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。 ◇ 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。
Oct 7, 2022
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もう27年なんですね。。。。当時では少ない海外のスーパーバイクで活躍する選手でした。前の選手のオイルに乗ってしまい、そして、転倒後のバイクの下敷きとなるという、ものすごく不幸が重なってしまいました。。。永井選手の事故のあと、カウル内にオイルを吸収するパッドが義務付けられました。。。YAMAHAを代表する、日本を代表する、本当にすばらしいライダーでした。。。当時、亡くなった後に、日本での走行が録画でやってて悲しんだのを覚えています。。。本当に、好きなライダーでした。。。。永井 康友(ながい やすとも、1965年10月29日 - 1995年9月12日)は、埼玉県出身のオートバイ・ロードレースライダー。日本人で初めてボルドール24時間耐久ロードレース優勝。略歴1989年、全日本ロードレース国際A級デビュー。以後、ヤマハのワークスライダーとして活躍。1995年、スーパーバイク世界選手権に日本人として初めてのフル参戦開始。第10戦オランダ(アッセン)第2ヒートで、エンジンブローを起こしたファブリツィオ・ピロバーノのドゥカティ916のオイルが撒き散らされていた。ピロバーノは自らのオイルに乗って転倒。立ち上がると即座にコースマーシャルに対して、オイルフラッグを出せとアピールしたという。しかし、永井はそのオイルに乗ってしまい転倒。投げ出され滑走する永井の前を滑走するマシンが宙に舞い上がり、その間に、滑走し続ける永井の体がマシンに追いつき、そこへマシンが降り落ちてきた。マシンに押しつぶされた永井は、意識不明のままアッセン市内の病院へ運ばれた。事故の報を受けて日本から駆けつけた家族と婚約者が見守る中、9月12日(日本時間9月13日)息を引き取った。29歳。1996年、永井の遺志を継ぐべく、吉川和多留が(1995年ランキング5位で終えた)永井のナンバー「5」でフル参戦した。1986年 - ロードレースデビュー(筑波選手権SP2)1987年 - SP忠男レーシング加入筑波選手権ノービスF3 チャンピオン筑波選手権ノービスSP400 チャンピオン筑波選手権ノービスGP250 ランキング2位鈴鹿4時間耐久ロードレース6位(加藤義昌)1988年 - ジュニア昇格全日本選手権ジュニアGP250 チャンピオン(4勝)全日本選手権ジュニアTT-F3 ランキング3位(2勝)鈴鹿ジュニア4時間耐久レースリタイヤ(福智学)1989年 - ヤマハワークス加入、国際A級昇格全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング3位TTフォーミュラ世界選手権SUGO大会TT-F1 2位鈴鹿8時間耐久ロードレースリタイヤ(斉藤光雄)1990年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング11位鈴鹿8時間耐久ロードレース4位(加藤信吾)1991年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング2位(1勝)鈴鹿8時間耐久ロードレースリタイヤ(藤原儀彦)1992年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング5位(1勝)鈴鹿8時間耐久ロードレース11位(藤原儀彦)1993年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング3位(4勝)鈴鹿8時間耐久ロードレース32位(藤原儀彦)1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク ランキング6位(2勝※ヒートレース含)スーパーバイク世界選手権SUGO大会 第1ヒート3位、第2ヒート5位鈴鹿8時間耐久ロードレース4位(エディ・ローソン)ボルドール24時間耐久ロードレース優勝(クリスチャン・サロン、ドミニク・サロン)1995年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング5位(ヒート最高位2位)鈴鹿8時間耐久ロードレース5位(コーリン・エドワーズ)デイトナスーパーバイク200マイルレース7位
Sep 12, 2022
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もう12年。。。大ちゃんの死から、暗く、光が見えていなかった日本レース界に、再び輝いた光大ちゃんが果たせなかったWGPチャンピオンまで、きっと届いてくれると、日本中が期待していた星ほんとうに、ショックでした。。。いまでも、あの多重クラッシュのシーンは見れません。。。富沢祥也、レース中に事故死 (Moto2) 【 F1-Gate.com 】ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する富沢祥也選手が、第12戦サンマリノGPでの決勝レースで事故に遭い、救急車で病院に搬送されたが死亡した。富沢祥也は、4位を走行中に転倒、後続のアレックス・デ・アンジェリスとスコット・レディングと接触。リッツィオーネの病院に搬送されたが、14時20分(現地時間)に死亡が確認された。享年19歳。富沢 祥也 (とみざわ しょうや、1990年12月10日 - 2010年9月5日)は、千葉県旭市出身のオートバイレーサー。2008年の全日本ロードレース選手権250ccクラスシリーズ2位。2009年から2010年までロードレース世界選手権に参戦した。
Sep 5, 2022
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今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、15年。。。Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。ずっと、心の中のヒーローです。私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日後でした。そのときのブログ記事です。このさらに二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでしたこの前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなくバイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことですご冥福をお祈りいたします練習中 二輪プロレーサーが事故死 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった 沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。デビュー~全日本時代1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。世界グランプリ時代スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。再び全日本へ1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。孤高の戦士 沼田憲保(ぬまたのりやす)は2年連続全日本チャンピオンのガンマ使い!スズキの至宝!沼田憲保はΓ使いの本格派沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日生まれ)茨城県日立市出身のオートバイレーサー。沼田選手は、1995年、1996年と2年連続の全日本ロードレース国際A級 GP250ccクラス全日本チャンピオンです。スズキのマシンRGV-Γ250を駆り、全日本を暴れまわりました。 沼田憲保選手についてミラージュ関東出身。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」と呼ばれました。1988年 ロードレースデビュー 22歳なのでまわりとくらべると遅いスタートでした。参戦クラスはSP250。1990年 SUGO選手権で3クラスを制する3冠チャンピオンとなる。1991年 国際A級に特別昇格 全日本GP250ccクラスへフル参戦この年からスズキワークス入りの大抜擢RGV-Γ250の開発兼ライダーとなるその後、1992年 初表彰台、1993年 初優勝、1994年 ランキング2位と着実にステップアップしていき、1995年にはついに全日本チャンピオン、1996年も2連覇を成し遂げます。1996年からは世界グランプリに舞台を移しますが……。 沼田選手の主な戦績 戦績1990年 SUGO選手権でSP250、NB-F3、NB250の3クラスでチャンピオン1991年 全日本選手権 GP250 ランキング14位1992年 全日本選手権 GP250 ランキング9位(初表彰台)1993年 全日本選手権 GP250 ランキング5位(初優勝)1994年 全日本選手権 GP250 ランキング2位1995年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン1996年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン(2連覇)1997年 世界選手権 WGP250 ランキング12位1998年 世界選手権 WGP250 ランキング16位1999年 世界選手権 WGP500 ランキング29位 Muz Weber 8時間耐久に参戦2000年 スーパースポーツ世界選手権 ヤマハ 8時間耐久に参戦2003年 スーパーバイク世界選手権 ドゥカティ 8時間耐久に参戦2004年 全日本選手権 ST600 ランキング4位 8時間耐久に参戦2005年 全日本選手権 ST600 ランキング6位 8時間耐久に参戦2006年 全日本選手権 ST600 ランキング23位2007年 全日本選手権 ST600 ランキング11位(第5戦終了時) RGV-Γ250で闘う沼田憲保選手(動画) ▼▼▼1994年SUZUKI全日本ロードレース情報(RGV-Γ250) ▼▼▼1994年の全日本GP250ccクラス第10戦 菅生サーキット ▼▼▼1996年の世界選手権日本GP鈴鹿ROUND沼田選手はゼッケン#52のラッキーストライクスズキ号です。 削除されていたらごめんなさい。 孤軍奮闘スズキのマシンRGV-Γ250での参戦は、開発とレースの同時進行。沼田選手はその両方を一手に任されて、孤軍奮闘の様子でした。しかも当時のライバルたちの顔ぶれときたら……マシンで言うなら、NSR250、YZR250。ライダーで言うなら、宇川徹や加藤大治郎、芳賀健輔といった強者達を退けてのチャンピオンには相当な価値があるように思います。 世界選手権参戦の苦労アリー・モレナー・レーシングチームのエースライダーとして、世界選手権のワールドグランプリに行ってからも、ますます苦労されていたように思います。マシンの開発や熟成度の差だけではなく、ホンダNSR250やヤマハYZR250には長年積み上げてきたデータなどもあり、セッティング出しなどについてのアドバンテージも相当大きかっただろうと思います。若井伸之選手が生きていたら随分違ったのかもしれません。そう思うと、もっと活躍して良かった選手なのだろうと思います。全日本復帰後の沼田選手2004年からロードレース全日本選手権に復帰。しかし、2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打って急逝した。享年41歳。惜しい人を亡くしました。RACERS, Vol.25, RGV‐Γ250 (サンエイムック) ムック – 2014/1/24大塚 克 (イラスト)バイクのおっさん5つ星のうち4.0 孤高のライダー2014年1月30日に日本でレビュー済みAmazonで購入多くのマシンがエントリーし、豊富なデータを持つホンダとヤマハに立ち向かっていった沼田選手とⅤガンマ。「スズキさん、もう少しなんとかしてやってよ!!」と当時は気をもむことが多かったことを思い出します(いまでもか)。才能ある日本人ライダーが次々と輩出されながらも、若くしてこの世を去った選手も少なくありませんでした。読んでいて、「そんな時代だったなあ」としみじみとしました。Harry素晴らしい内容です2014年6月24日Amazonで購入2スト全盛の記事と、沼田憲保選手の生き様がよくわかります。楽しい時代だったことを思い出しました。 池上 豊やっぱりいいですね!2014年3月7日Amazonで購入RACERSはいいですよね。1台のマシンに対する開発担当者さんたちの熱い思いや経緯などが明確に理解できるので当時、応援して若かりし自分の気持ちがあらためて湧いてくると言おうか・・・。とにかくイイですね! motorcycle-freak沼田憲保選手の話を聞きたかった。その一点だけが惜しまれる。2014年1月25日沼田憲保選手は、このRGV-γ250を駆り、全日本ロードレース選手権の1995年、1996年と連覇を成し遂げました。しかしスズキはマシンの進化を1996年で止めてしまい、1997年、1998年と、スズキと共に世界に出た沼田選手は世界で活躍する事は出来ませんでした。ホンダ、アプリリア、ヤマハの牙城に開発が止まったマシンで挑む。だけどRGV-γをここまで育て上げた沼田選手はスズキにこだわり、わずか二年で世界GPから撤退しました。1995、1996年当時の全日本ライダーと言えば、宇川徹選手、加藤大治郎選手、難波恭司選手、宮崎敦選手、芳賀健輔選手、松戸直樹選手、本間利彦選手、亀谷長純選手と、そうそうたるメンバーが揃っていました。その時代の全日本でチャンピオンになった沼田選手は、確かに世界に相応しい実力を持っていました。そしてスズキは1998年を持って250から撤退。沼田選手はそれだけの才を持ちながら、フル参戦GPライダーとしての道を閉ざされてしまいました。そして2007年9月、テスト中の事故で急逝。岡山国際サーキットのバックストレートエンドのヘアピンでオーバーラン、タイヤバリアに衝突して亡くなる、という世界レベルのライダーとしてはあり得ない形での逝去でした。一つの時代の頂点を極めたけれどメーカーの思惑に振り回されてしまった不運の天才、沼田憲保選手と、彼が駆ったRGV-γ250を解説した本です。このマシンの開発が止まらず、続けられていたなら、と思わさせられる高い完成度と、美学と理念のある設計。しかしスズキはこのマシンの改良を止めてしまった。「ミスター・RGV-γ250」と呼ぶに相応しい唯一のライダーである沼田選手の当時のストレスや不満は、戦い、勝つことを本能として持っているライダーにとってどれほど不本意であったのか。自分が作り、磨き、輝かせたRGV-γ250への熱い思い入れがビシビシ届く一冊です。最後のページ。沼田選手の奥様、高橋亨子さんのお言葉が涙を誘います。勝つ事に懸命で、誰より負けず嫌いで、実直で熱い。沼田憲保、という才能を生かし切れなかった日本のロードレース。今、世界に出たくても出られないライダーの悔しさ、悲しみ、怒りを誰よりも知れる人物であったかも知れません。マシンも人も「もったいない!」と強く思わされる一冊です。間違いなく強かった。間違いなく輝いていた。当時のレースが好きで、レプリカに乗っていた人にとっては必読の一冊です。RGV-γ250をこれ以上詳しく、真剣に紹介する本は今後も出ないと思います。Amazonのお客様 懐かしさと感動をもう一度。2014年1月29日レビューと言うほどのものじゃないですが…当時高校生だった私はTV放送など見てレースの世界に興味を持ち、TIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)へ一人で見に行きました。その時に「あの赤いマシンは何て言うんだろう?すごくカッコイイ!」そう思ったのがRGV−γと言うバイクでした。もちろん、当時は選手の名前すらわかりませんでした。ただトップ争いをしていた赤いバイクがとても印象的でした。そして新型RGV−γSPが発売、後日ラッキーストライクカラーが限定発売されました。それはまさに私がカッコイイと思ったバイクそのものでした。お店にカタログをもらいに行き、その写真に写っていたのが沼田憲保選手でした。もう迷うことなく買いました。沼田選手に憧れ、ガンマに乗る。ただそれだけで楽しかったのです。この本を買ったのは懐かしさだけでなく、実際どんなストーリーがあったのか知りたくなったからです。当時のレースの激しさや開発に関わる話など、読んでいて感動しました。自分が買ったガンマはこの人たちがいたからこそあったんだと。今思えばガンマをもっと大事にしておけば良かったです…そう思えた一冊です。私の思い出の本として大事にしたいですね。追記一度だけ沼田選手にお会いしたことがあります。その時はもうヤマハの沼田選手でしたが、明るい人だなって印象でした。そんな沼田さんが急逝したという日が奇しくも私の誕生日でした。毎年誕生日には思い出します。「あなたは私の憧れの一人です…」と。youichi夭折された全ての天才ライダーに祝福を。2014年2月5日昨年 2013年の春に長らく所有していたVJ23A RGV-ΓSPを手放した僕ですが、この本は発売と同時に手に入れました。内容は非常に濃く、大変満足です。沼田選手やワークスΓ250の栄光や悲運は、他の評者が詳しくされているので、控えますが下記URLの動画も本誌と一緒にご覧いただけたら、楽しめるかと思えます。www.youtube.com/watch?v=Hsr_ixMFBTQ夭折された全ての天才ライダーに祝福を。くーちゃん目から鱗2014年2月19日各ワークスマシーンには莫大な開発費をかけて造ったオリジナリティーがありますが、メインフレームであり、Vバンク角であり、排気デバイスであり・・・各マシーンそれぞれにオリジナイティはもちろんありますが、何か特別に興味を持つまでの内容はありませんでしたが・・・が、このV-Γに関しては『ヘッドの捩じれ』という当方には初耳の工夫が!!!まさに"目から鱗"的な驚きでした。旋回時のロードクリアランスの確保はもちろんのこと、エンジンを中心としたマスの適正化など。現在、4輪のハスラーが大人気となっておりますが、(初期のCTワゴンRもそうですが)レースの世界、一般市販車問わず、スズキの開発人の素晴らしいアイデア力、思考力を感じ取る事が出来たのも事実です。最後になりましたが、若干戦闘力の劣るマシンでゼッケン①を勝ち取った沼田選手のライディングも開発力も素晴らしかった事がよくわかる記事内容でした。
Sep 4, 2022
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もう1年。。。安河内徹也さんが交通事故でお亡くなりになったとの訃報が届き、本当に驚きました。。。いろんなSNSで、レーサーさんたちとの仲良い姿を、たくさん見ていて。。。本当に、残念。。。昨年の書き込み-----------------------------------------バイク関連のカメラマンとして、活躍されていた、安河内徹也さんが、交通事故でお亡くなりになられたとのニュースが。。。いろんな方のtweetなどでも、お土産とか、いろんな話をしたと、頻繁に出て来られる方で、誰もに愛される方だったと。。。残念です。。。御冥福を、お祈りいたします。訃報です。モトチャンプ杯を始め、長年に渡りバイクのカメラマンとして活躍された安河内徹也さんが、交通事故により永眠されました。52歳でした。ここに哀悼の意を表します。https://t.co/XdMBDvX6ZG— 野口勝朗 (@KatsurouNoguchi) August 21, 2021 やすこうちさん、つい一昨日くらい桶スポの横通ったよ〜って連絡くれたばっかりだった。写真のことでよく構ってもらった。また今年も年末"勝手にCBRカップ"のときに来るねってバカ話してたのに…— 桶の社の長 (@nekoyocchi) August 21, 2021 はらださんにこっち来るのはやすぎるでぇ〜って怒られますよ、やすこうちさん…— churu@W800 (@motospo_nyan) August 21, 2021 訃報私の昔からの知人であるカメラマンの安河内徹也さんが、本日事故で亡くなってしまいました。彼は撮影で全国飛び回ってましたので懇意にされていた方も多いかと思います。私もまだ状況が掴めておらず、おろおろしています。まずは一報まで。— モバイラーTOM (@PRESS_KKW) August 21, 2021 やすこうちさん事故で亡くなってしまったんだ(ノ_<)何でよ52歳じゃ若すぎるなんで業界盛り上げてくれてたカメラマンさんが…辛い、、、 pic.twitter.com/qzsYnXjpRn— nobu 🐈⬛ (@nitro_nob) August 21, 2021 うそやろ。。。 pic.twitter.com/EM50wrPPEO— KENZ.K@北九州 (@KENZK_kitaQ) August 21, 2021 いいでしょーーーこのカメラバッグ!長年バイクのレース撮ってきたカメラマンの人にもらったんだわ。でも、チェーンロックの番号教えてもらってない…チェーンロックの番号教えてよ。やすこうちさん… pic.twitter.com/NlPcl6c3DZ— あッシ (@Atsu_26x) August 21, 2021 私は安河内さんとはそんな仲良しと言う訳ではなくて自分でも意外ですがお酒もご一緒した事がないと思います。機会はあったと思うんですが。。高杉奈緒子選手を通じてお知り合いになりました。同じ福岡県と言う事もありサーキットのピットでよくお話していただきました。— KENZ.K@北九州 (@KENZK_kitaQ) August 21, 2021 安河内さん…ご冥福をお祈りします。悲しい。何かと世話を焼いてくれる優しいおじさんでした。— 藤原らんか (@fujiran) August 21, 2021 やすこうちさん明日パソコンの前であなたの写真を涙なしで見返せる自信がないですよ。まだ、もっと写真撮ってもらってたくさんその写真でモータースポーツの良さをアピールしたかったんですよ。R.I.P. 安河内徹也さん— Nanami Dai (@NANAMID2) August 21, 2021 俺の30年来の大親友で最愛のアスペ、安河内徹也くっだらん死に方しやがって、せめてバイバイくらい言わせろや。先に行って待ってろ、あの世でまたラーメン食べよう。じゃぁね。— ポンコツレーベル (@ponkots758) August 21, 2021 主人が現役の頃は写真いっぱい撮ってもらった安河内さんが亡くなったって聞いてびっくり。事故の写真見たら安河内さんのハイエースよね。明智でうちのハイエースと並んでサーキットの門が開くの待ってたのを思い出しました。主人とおない年の人が亡くなるとちょっとやるせないです。。 https://t.co/MUevOxZJNV— 徳島の人参農家 あかざわ農園 (@akazawafarm) August 21, 2021 安河内さん、鈴鹿での全日本でのパドックやスーパーモトで大変お世話になりました。突然すぎて、ショックすぎて・・・ご冥福をお祈りいたします。 https://t.co/7PF2IUKcY6— MAL (@StudioMAL) August 21, 2021 はじめてお会いしたのは2001年くらいのビーチサイドGPだったかな、KEHOEが紹介してくれたんだよな…うちで初めてのデジイチは安河内さんが使ってた1Dを中古で譲ってもらったやつだった…亜美の事も気に掛けてくれて面倒見の良い方だった…ご冥福をお祈りします。— 内野 共樹 (@TOMx2) August 21, 2021 安河内徹也さんのご冥福をお祈りいたします。— 高原 (@alicebluepoet) August 21, 2021 高杉 奈緒子さんはやすこうち てつやさんと一緒にいます。心配かけさせちゃいけないから書くべきか悩んだでも思いは伝えたいやすこうちさんレースは帰宅するまでがレースゴールは無事に家に帰ってくることやすこうちさんが家族に伝えたメッセージ『帰ったら風呂入るから沸かしとして』という電話が最後だそうでしたあともう少しで家に帰れたのにどうして?どうして?昨日メッセージくれて岡山全日本行けるかもとオートポリス帰りにやすこうちさん家泊まりと朝にモヒカンラーメン行こうとオートポリス全日本に、うかれ亭さんたくさん食べさせてあげると大阪福島焼き肉行こうと姫路焼き肉行こうと姫路翌日には洋食屋いこうとオートポリス写真たくさん撮るよといっぱい写真撮ってくれたりちょっかいいっぱい出してくれたりスポンサーつくように人を紹介するよとずっと応援してくれると言ってくれた走り屋時代からミニバイクへロードレースと長年見届けてくれた高杉の苦労も道のりも知ってくれているやすこうちさんお兄ちゃんみたいに思ってた一緒に原田さんお墓参り行ったり原田美容院で仏壇にお参りしたりご飯たくさん食べさせてくれたプロティンやサプリメントも送ってくれたたくさん思ってくれたどうして?早すぎるよやすこうちさんも向こうに行っちゃ駄目だよ涙が止まらないよ本当に悲しいよまだ約束も終わってない勝つところを見せてない高杉奈緒子の道のりを最後まで見届けて欲しかったよ人はこんなに泣けるんだと教えていらないよやすこうちさん身近すぎるよどれだけたくさんの元気と優しさと温かさをくれたことかまだ先があり約束したことがたくさんありすぎてそれももう叶わなくなっちゃったそう思うと本当にただ悲しくて涙が止まらないまだサヨナラは言えないし言わない私のレース人生が終わるまで見守っていてください勝ちたいという目標に向かい一生懸命に向き合っていくから私の生き甲斐 レース人生は続けていくよやすこうち兄ちゃん本当に大好きだったよやすこうちさんに撮ってもらった2ショットの一番いい写真最後の写真になっちゃった人生は旅であり冒険だレースは家に無事に帰るまでチェッカーフラッグ🏁は振られないだから必ず2人で無事に毎回帰ることを心掛けます私達は最後まで一生懸命に取り組んでいきますやすこうちさんたくさんの思い出ともにありがとうやすこうちさんが撮ってくれた2人のベストな写真をありがとう pic.twitter.com/ds91RHQRo0— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) August 22, 2021 関門自動車道で車2台絡む横転事故…男性1人死亡2021/08/21 18:06KBC九州朝日放送関門自動車道で車2台絡む横転事故…男性1人死亡(KBC九州朝日放送)21日朝、北九州市の関門自動車道で、車2台が絡む事故があり男性1人が死亡しました。警察や消防によりますと、21日午前6時半すぎ、北九州市門司区の関門自動車道下りで、「車が横転して2台が止まっている」と110番通報がありました。横転していたのは、糟屋郡志免町の会社員・安河内徹也さん(52)が運転する車で、安河内さんは、もう1台の車を運転していた23歳の男性とともに、山口県下関市内の病院に搬送されましたが、およそ2時間後に死亡が確認されました。警察が、事故の原因を調べています。北九州の関門道で事故 男性死亡 約4時間 通行止めに08月21日 15時08分21日午前、北九州市の関門自動車道で事故があり、トラックを運転していた志免町の52歳の男性が死亡しました。現場付近は、およそ4時間にわたって通行止めになりました。21日午前6時半すぎ、北九州市門司区の関門自動車道の下り線で事故が起きているという通報が警察にありました。警察が現場を確認したところ、トラックが横転し、数十メートル離れた場所に、フロント部分が破損した普通乗用車が止まっていました。警察によりますと、トラックを運転していた志免町の会社員、安河内徹也さん(52)が救助されて病院に搬送されましたが、およそ2時間後に死亡しました。また、乗用車を運転していた山口県の20代の男性も、足の骨を折るなど大けがをしていて、病院で手当てを受けているということです。現場は、門司インターチェンジからおよそ300メートル離れた片側2車線の道路です。警察は、2台の車両がそれぞれ単独事故を起こした可能があるとみて、詳しい状況や事故の原因を調べています。この事故の影響で、関門自動車道は門司港インターチェンジと門司インターチェンジの間の下り線で、午前7時半前からおよそ4時間にわたって通行止めが続きました。
Aug 21, 2022
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応援してます高杉奈緒子さんより、アクリルキーホルダー届きましたありがとうございました!!
Jul 20, 2022
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5月1日は若井伸之さんの命日です 本当に、ものすごい人物で、人柄で。。。若井さんがいたから、ほかのみんなが活躍できた。。。もう29年ですか。。。坂田さん、上田さんとともに、125ccで世界で大活躍して、250で頑張っていた矢先でしたね。当時は、γだったんだなぁヘレスで、ピットロードに入ってきた観客をよけて、、、、本当に信じられませんでした。。。陽気で人気者で、フラミンゴという愛称で海外のレーサー、ファンにも慕われていました。あの頃の日本人は、本当に強かったその先駆者として、本当にがんばっておられました。若井さんの速さと強さ、優しさは、ずっと忘れません。若井 伸之(わかい のぶゆき、1967年7月25日 - 1993年5月1日)は、千葉県八千代市出身の日本のオートバイレーサー。かつてロードレース世界選手権(WGP)の125ccクラス・250ccクラスに参戦していた。細身で長身な体格と、その長い手足を折り畳むライディングスタイルから「フラミンゴ」の愛称で親しまれた。1990年に全日本ロードレース選手権でランキング2位となった若井は、翌1991年から坂田和人・上田昇(当初はスポット参戦)とともにWGP・125ccクラスにフル参戦を開始。他の2人とともに、プライベート日本人ライダーの先駆者となった。当初はなかなか結果を残せずにいたが、最終戦マレーシアGPでは、トップ争いの末3位表彰台を獲得。翌1992年開幕戦日本GPでも、雨の中地元で3位に入るなど、結果を残すようになる。またドイツGPでは、怪我により欠場したウィルコ・ズィーレンベルグの代役として、スズキから250ccクラスにスポット参戦、7位入賞を果たしている。1993年、若井はスズキから型落ちのワークスマシンRGV250-γの貸与を受け、250ccクラスにステップアップ。しかし250ccクラスのマシンに馴染めず、同年から参戦した親友で弟分の原田哲也らが活躍を続ける一方で、結果を出せずにいた。第4戦スペインGPの予選中、タイムアタックを行うべく、フル加速でピットロードから飛び出そうとしていた若井の前に、突然観客が飛び出してきた。この観客はロリス・レジアーニの招待客であり、本来パスがなければ入れない場所に無断でいたところを、オフィシャルに見つかり逃げ出したところだった。若井が回避を試みたため、接触こそしたものの観客は軽傷で済んだが、若井本人はバランスを崩してピットロードのコンクリートウォールに激突。頭部を強打した若井は懸命の治療の甲斐無く死去、25歳没。1986年に完成したヘレス・サーキットで初めての死亡事故となった。若井の死を受けて、他の日本人ライダーは当初出走の辞退も考えたが、原田が出走を決意したのを皮切りに、最終的には「若井のために頑張ろう」と出場を決めた。250ccクラスの決勝では、原田がコースレコードをも更新する走りで、他に大差を付けて優勝。125ccクラスでも、坂田がラルフ・ウォルドマンを振り切り、WGP初優勝を遂げた。レース終了後、原田はバイクにまたがったまま号泣し続け、坂田も表彰台で悲壮な表情と涙をみせた。また、このレースで5位に入賞した上田はレース後、若井の事故現場まで自身のマシンで近づき、コンクリートウォールを軽く叩いて若井に別れを告げた。原田はこのときの優勝トロフィーを、若井の遺族に送ったという。2012年に、サンスポに若井さんを惜しむ記事がありました若井伸之を偲んで建てられたフラミンゴ像 4月27~29日にMotoGP第2戦が開催されるスペイン・ヘレスサーキットの片隅に、ひっそりとフラミンゴの像がたたずんでいる。レースに造詣の深い人には、この像の由来を今さら説明する必要はないだろう。ただし、近年になってレースに興味を持ち始めたファンには、あまり馴染みがないかもしれない。これは、1993年にこのサーキットで命を落とした日本人選手、若井伸之を偲んで建てられた像なのである。若井は、1990年に全日本選手権125CCクラスでランキング2位を獲得し、翌年から世界グランプリのフル参戦を開始した。この年には、坂田和人と上田昇も125CCクラスのフル参戦を果たしている。1991年のこの時、若井23歳、坂田24歳、上田23歳。開幕戦日本GPの舞台鈴鹿サーキットで上田は劇的なポールトゥウィンを達成。シーズン最終戦のマレーシアGPでは坂田が2位、若井は3位で表彰台を獲得した。身長の高い若井が、長い手足を折りたたむように小さな125CCマシンを操る様子はフラミンゴの姿にもたとえられた。 1992年、上田はランキング9位、若井10位、坂田11位。93年に上田と坂田は125CCで継続参戦する一方、若井は250CCに転向する。この年、彼らのもうひとりの親友、原田哲也が250CCクラスに登場した。原田は開幕戦オーストラリアで衝撃のデビューウィン、第2戦マレーシアは2位、第3戦日本GPで優勝、と快進撃を続けていた。そして第4戦のスペインGPを迎える。 土曜の予選で、若井がコースへ出ようとしたときに悲劇が発生した。ピットレーンに観客が飛び出し、この観客との接触を回避しようとした若井はピットロードの壁に衝突、頭部を強打した。懸命の治療の甲斐なく、25歳で逝去。翌日の決勝レースでは、125CCクラスで坂田が初優勝を達成。堪えていた涙が表彰台で一気に爆発した。5位でフィニッシュした上田は、自らのピットガレージへ戻る際、マシンに跨がりながら若井の激突したウォールに触れ、別れを告げた。250CCクラスでは原田が優勝。レースを終えてヘルメットを脱いだ後も、原田の涙は止まらなかった。若井の死を悼む意味から、このクラスの表彰式は行われなかった。 そして1994年2月、ヘレスサーキットにフラミンゴの像が建立された。その碑文には、以下のようなことばが記されている。「魂と肉体の翼いまだ衰えぬまま この地に止まりて挑むは 汝ら志ひとしき同胞 飽かず疾駆する勇姿なり」 コース脇のフェンス内側に立つフラミンゴの像が選手たちの姿を今も見つめ続けるなか、ヘレスサーキットは若井の事故から20回目のグランプリを迎える。(モータージャーナリスト・西村章)
May 1, 2022
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あの悲しい事故から11年ですか。。。震災の年だったんですよね。。。チャリティとかでもがんばっておられたのに。。。高橋江紀が交通事故で死去まだ23歳…。これからと言うときのアクシデント News 2011/04/25 12:17:36 20110425_01.jpg高橋江紀が4月24日(日)に交通事故に遭い死去した。享年23。高橋は、2005年に全日本GP250クラスにフル参戦を開始。その緒戦で青山周平を破り劇的な初優勝を達成、ランキング3位となる。2007年よりST600クラスにスイッチ。昨年は、新設されたJ-GP2クラスに出場。MotoGPロードレース世界選手権日本グランプリにもスポット参戦した。今シーズンよりRS-ITOに移籍。心機一転、カワサキZX-6Rを駆り、ST600クラスに参戦する予定だった。シーズンオフから筑波サーキットで走り込み調子も上々だったが、東日本大震災の影響で開幕戦筑波が中止となってしまい、その成果は発揮できずにいた。4月上旬には、オートポリスに遠征、コンディションに恵まれず満足に走れなかったが、自己ベストを更新したと好調ぶりを語っていた。違う環境に飛び込み、まさにこれからというときに起きたアクシデントだった。高橋は、東日本大震災の被災者の支援も積極的に行っており、20日(水)には、所属チームの一員として川越駅前で募金活動を行い、23日(土)には、自身がインストラクターも務める桶川スポーツランドで「RT311」と題したチャリティーイベントを開催していた。心からご冥福をお祈りいたします。
Apr 24, 2022
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とうとうシーズンインですね。。。すいません、ものすごくバタバタしていて。。。おまけにお金もなくて。。。今月は残業を、そこそこしてるので、来月のカード払いで、いけるかな(笑)と思って、少ししか力になれませんが。。皆様、カード払いでも可能ですので、ぜひ、高杉奈緒子選手の応援を、よろしくお願いいたします!!!!高杉奈緒子の2022年オートバイロードレースに関する活動へのサポートをしていただける会員様を募集しています。耳が聞こえなくても、ここまで出来るということを証明していきたい。最高峰ロードレースへの挑戦はOLである私の給料だけでは足りず、多くの方々に支えられて成り立っています。今年は、RC250Rマシンを1台廃車にてしまったので2022年部品も合わせてスペアパーツも追加注文しました。来年はまた更に高額費用出費なります。2022年も頑張る高杉奈緒子を応援してください。2022年も高杉奈緒子と一緒に共に走ってください。一緒に舟に乗って高杉奈緒子に夢を託してください。皆様どうぞよろしくお願いいたします。
Mar 18, 2022
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中山翔太さんの訃報。。。もう7年なんですね。。。高校を卒業して、これからという時の事故。。。それも自転車でのもらい事故。。。ほんとうに、たくさん泣きました。。。愛理さん、お兄さんの分まで、ずっと頑張っておられましたが、2019シーズンで一線を退くと。。。。お兄さんがいけなかった大学を卒業。。。就職ということで、全日本の前線からは引退されました。。そして弟の中山耀介さんと妹の中山恵莉菜さんに、夢は引き継がれたのだと思います。。。中山翔太が交通事故で死去新しいシーズンの開幕を前にして痛ましい事故が起きてしまった。2015年は、ゼッケン13をつけて全日本フル参戦3年目のシーズンを迎えようとしていた中山翔太が3月16日(月)夕方に交通事故に遭い還らぬ人となってしまった。教習所に向かっているときにクルマにはねられてしまったそうだ。まだ18歳の若さだった…。1996年5月30日・兵庫県姫路市出身の中山は、岡山国際サーキットを中心に活躍し、2013年より全日本J-GP3クラスにフル参戦を開始。昨年は、ランキング13位となっていた。今年は、J-GP3クラスチャンピオンチームのTEAM PLUSONEに移籍し、まさにこれからという時だった。これから開花するであろう若い才能が、また一つ失われてしまった。心からご冥福をお祈り申し上げます。兄妹の高校生ライダー、全日本選手権で活躍誓う 姫路「高校生ライダー」として全国で活動する兵庫県姫路市白鳥台の中山翔太さん(18)=琴丘高3年=と愛理さん(16)=姫路東高2年=の兄妹が1、2日、鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開かれるバイクレース「全日本ロードレース選手権」に出場する。バイク歴10年を超え、大人に混じって実力を蓄えてきた2人。あこがれの舞台で活躍を誓う。
Mar 16, 2022
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3月9日はアンソニー・デラールの命日です2017年3月9日もう5年ですか。。。 本当に悲しい事故でした。。。偉大なライダーを失いました。。。。二度と、このようなことがないように祈ります。。。Anthony Delhalle nous a quittésアンソニーDelhalleは、我々のもとを去りましたTerrible nouvelle en provenance de Nogaro où les équipes d’endurance GMT94, Motors Events et SERT effectuaient des essais privés pour préparer la prochaine épreuve du championnat du monde au Mans. Anthony Delhalle a en effet été victime d’une sortie de piste au premier virage du circuit Gersoi en milieu de matinée. Rapidement pris en charge par les pompiers, ces derniers ne sont pas parvenus à réanimer le pilote Suzuki. 5 fois champion du monde d’endurance avec le SERT, Anthony était à 35 ans un champion discret, profondément gentil et unanimement apprécié du paddock. Sa disparition laissera un grand vide dans nos cœurs et toute l’équipe de Moto Revue adresse ses pensées les plus sincères à sa femme Jessie et à ses deux enfants Sophia et Andrea.浦本 修充さんがSuzuki Moto Franceさんの写真をシェアしました。6時間前 昨年のスペイン選手権の最終戦に参戦した際にチームメートだったアントニー選手がテスト中のアクシデントで亡くなりました。初めてで何もわからなかった僕にも気さくに話しかけてくれて心優しい人なんだなと言うのが短い間でも伝わる本当に良い選手でした。ご冥福をお祈りいたします。新庄 雅浩さんはAnthony De La Halleさんと一緒です。5時間前 I love you Anthony尊敬するライダーがまた亡くなってしまいました。突然過ぎて現実なのか整理つかないけど出会えて一緒に走れて本当に自分を成長させてくれたました。ゆっくり休んでくれるといいな。みんなの心に少しだけでもAnthonyを残していて欲しいです。もう松下さんとルマンの話で盛り上がってるかな。北川 圭一5時間前 ホント参ったアントニーが亡くなったって知って、、、バンソンと毎年8耐来ていて何度も京都に遊びにきていたのに、、、ホント控えめないい奴だったのに、ショック、、、モータースポーツの危険性を改めて、感じさせられます。心よりご冥福をお祈りします。加賀山 就臣さんが写真6件を追加しました。6時間前 神奈川県横浜市 参ったな〜。共に戦った、アントニーが亡くなった。テスト中のアクシデントだったらしい。ご冥福を祈る。R.I.Pアントニーとは2012年、SERTで鈴鹿8耐や世界耐久で共に戦った戦友。共に優勝もした、共にチャンピオンも獲得した。その後も、いつも俺の所に来てくれる。本当、控えめでいい奴だった、いつかまた組みたかったな〜……。参った……。https://www.facebook.com/anthony.delhalle.1/スズキで5度の耐久レース王座を獲得したアンソニー・デラールがテスト中に事故で亡くなるAUTOSPORTwebアンソニー・デラール SERT(スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)から世界耐久選手権(EWC)に参戦するアンソニー・デラールが、9日にフランス南部のノガロ・サーキットで行っていたプライベートテスト中の転倒事故により亡くなった。 EWC第2戦ル・マン24時間耐久ロードレースに向けノガロ・サーキットでプライベートテストを行っていたデラール。EWCのオフィシャルサイトによれば、今回の死亡事故はストレートエンドで発生したという。事故後、現場にはレスキュー隊が駆けつけ、救助作業が行われたものの、そのかいむなしく死亡が確認された。 デラールは35歳のフランス人ライダーで、2004年に初めてル・マン24時間耐久ロードレースに参戦。EWCでは、スズキGSX-R1000を駆って2011年、2012年、2013年、2015年、2016年と5度のチャンピオンを獲得した。
Mar 9, 2022
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Jujuが全国紙に!頑張ってほしいですよね~もっと、注目浴びて、スポンサーもたくさんついてほしい!野田担当相、15歳女性レーサーを激励「わくわくする」2021/12/6 22:02野田樹潤さんの表敬訪問を受ける野田聖子女性活躍担当相(左)=6日午後、東京・永田町(永原慎吾撮影)野田聖子女性活躍担当相は6日、レーシングドライバーとして活躍する高校生の野田樹潤(じゅじゅ)さん(15)の表敬訪問を受けた。野田氏の補佐官を務め、自らも元レーサーの三原じゅん子前厚生労働副大臣も同席した。野田氏は「女性がこんなに頑張っていることはわくわくする」などと激励。樹潤さんは「ありがとうございます」と笑顔で応じていた。樹潤さんは東京都出身で、父親は元レーサーの英樹さん。現在は欧米を中心に活動している。
Dec 6, 2021
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長い間、たくさんの感動と夢を、本当にありがとう!!!
Nov 14, 2021
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10月23日はシモンチェリの命日です。 もう10年ですねまだ、24歳、これからでした。。。ついてないとしかいいようがない事故でした。。。今年も、事故もなく、シモンチェリの分まで、すばらしいレースを見せてくれることを祈ります。【MotoGPマレーシアGP】シモンチェリが事故死23日、マレーシアのセパンで開催されたロードレース世界選手権マレーシアGP、MotoGPクラス決勝レースで、マルコ・シモンチェリ(ホンダ)が事故死した。24歳。2列目5番手スタートのシモンチェリは4番手走行中の2ラップ目、11コーナーで転倒、後続車と接触、頭、首、胸を強打した。医療班が事故現場に到着した時はすでに意識不明で、ただちにサーキット医療センターへ搬送された。移動の救急車中から心肺蘇生がほどこされたが、手当のかいなく、約45分後の16時56分に死亡が宣告された。レースは事故直後に赤旗中断、キャンセルされた。MotoGP、マルコ・シモンチェリの事故死の状況を説明2011年10月24日MotoGPのレースディレクションは23日、セパン・インターナショナル・サーキットのプレスカンファレンスルームで、第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死したマルコ・シモンチェリの状況に関して共同会見を行った。レースディレクションの代表であるポール・バトラーは、「この記者会見の目的は、マルコ・シモンチェリの悲劇的な死亡の状況を検証することです」と説明を始めた。 「皆様がご存知のように、我々レースディレクションのメンバー全員がここに出席します。FIM国際モーターサイクリズム連盟の代表であるクロード・ダニス、ドルナスポーツの代表であるハビエル・アロンソ、ライダーの代表であるフランコ・ウンチーニ、そして私はIRTA国際レーシングチーム連盟の代表兼レースディレクションの代表です。ミケーレ・マッキアゴデーナは我々のメディカルディレクターであり、彼が死亡に関して状況を説明します。」マッキアゴデーナは、「友人であるマルコ・シモンチェリの死亡に関して報告するために、ここにいることは大変悲しいです。他のライダーたちに激突したレース中の転倒でした。彼は頭部と首、胸部に深刻な外傷を負いました。」「我々のメディカルスタッフが彼のところに駆けつけたとき、彼は意識不明でした。心停止だったことから、救急車で、CPR(心肺蘇生)を始めました。」「緊急に、メディカルセンターでクリニカモービルのスタッフと地元医師の助けを借り、挿管を施行し、胸部から少量の血液を吸引することが可能でした。」「我々は彼を助けるために治療を尽くし、可能だと考えて、CPRを45分間継続しました。不運にも彼を助けることができず、現地時間の16時56分に死亡を宣言しなければいけませんでした」と、状況を説明した。バトラーは、ヘルメットが外れたことに関する質問に対して、「他の機会に答えることができると思います。事故の状況や結果を徹底的に調査します」と、事故検証を実施することを説明。コーリン・エドワーズの負傷状態に関して、マッキアゴデーナは「肩を脱臼しました。麻酔を受け、正しい位置に戻りました。彼は大丈夫です」と説明。「我々は彼の家族に同情します。可能な限り、あらゆる点を示したい」と、バトラーは付け加え、会見を締め括った。マルコ・シモンチェリ 経歴1996年から2000年にかけて地元イタリアのミニバイク選手権で活躍し、2年連続のチャンピオンに輝く。01年にイタリア選手権125ccクラスのホンダ・トロフィーに参戦。翌02年には、欧州選手権の125ccタイトルを獲得するとともに、ロードレース世界選手権(WGP)にも出場。03年からWGPにフル参戦を開始し、05年には125ccで総合5位と躍進すると、翌年から250ccにステップアップを果たした。08年には250ccのタイトルを獲得し、09年は、最終戦までライバル青山博一選手とタイトル争いを繰り広げ、総合3位となった。2010年に最高峰のMotoGPにステップアップ。参戦2年目の2011年、第17戦マレーシアGP決勝レースにおけるアクシデントで負傷し、サーキットのメディカルセンターで救命処置が行われたが同日逝去。享年24歳。故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに 故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに2011年10月にレースアクシデントにより事故死した故シモンチェリが、アゴスチーニ、ニエト、ドゥーハン、ヘイルウッド、リード、マング、ローソン、レイニー、ロバーツ、スペンサー、シーン、加藤、ストーナーらに続き、21人目のレジェンドライダーとして殿堂入りすることが決まった。ドルナスポーツは3日、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故マルコ・シモンチェリをレジェンドライダーとして殿堂入りすることを発表した。2008年10月19日に同地で開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで3番グリッドから3位に入り、250ccクラスのチャンピオンに輝き、2010年から最高峰クラスへの挑戦を開始。事故の1週間前には自己最高位となる2位を獲得していた。レジェンドライダー就任のセレモニーは、ムジェロ・サーキットで開催される第6戦イタリアGPで実施される。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナーTags:MotoGP, 2014故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー 故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー Marco Simoncelli - MotoGP Legend Marco Simoncelli MotoGP Legend元250ccクラス王者で、2011年10月の第17戦マレーシアGPで事故死した故シモンチェリがレジェンドライダーに就任した殿堂入りのセレモニーが、第6戦イタリアGP開催中のムジェロで行われ、ドルナスポーツの代表から父親パオロに記念のメダルが贈呈された。ドルナスポーツは30日、第6戦イタリアGPの開催地、ムジェロ・サーキットのプレスカンファレンスルームで、故マルコ・シモンチェリがレジェンドライダーとして殿堂入りするセレモニーを実施した。2月3日、2008年に250ccクラスのチャンピオンに輝き、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故シモンチェリの殿堂入りを発表。当社CEO最高経営責任者のカルメロ・エスペレータが父親パオロにレジェンドライダーのメダルを贈呈した。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナー
Oct 23, 2021
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いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。もう、あれから14年ですか。。。ロッシが、あれから14年トップで走り続けたこと、引退を、どうねぎらったでしょうね。。。天国で、大ちゃんと、一緒にほめたたえてるだろうなあ。。。H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらいふらふらしていました。。。自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々がまだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。本当に辛いです。。。自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが誰からも、愛される人必要とされる人そんな人たちが、早く旅立って。。。私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック 1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック 阿部典史-流星伝説-より秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。そして1996日本GP、涙の初優勝!!Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました8耐最高!!ノリックも叫んでましたよニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。ノリックが交通事故死、トラックと衝突 死去した阿部典史さん(オートバイレーサー) 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。 ◇ 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。
Oct 7, 2021
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まだ15歳。。。これから、必ず、世界に出て活躍していただろうに。。。残念です。。。御冥福を、お祈りいたします。【訃報】WSS300の多重クラッシュでマーベリックのいとこディーン・ベルタ・ビニャーレスが亡くなる。SBK第10戦スペインのレース1は中止9/25(土) 23:02配信オートスポーツwebマーベリック・ビニャーレスのいとこディーン・ベルタ・ビニャーレス(Vinales Racing Team) 9月25日、スペインのヘレス・サーキット‐アンヘル・ニエトで2021年SBK第10戦スペインが開催されている。併催されているスーパースポーツ世界選手権300(WSS300)のレース1では多重クラッシュが発生し、ディーン・ベルタ・ビニャーレス(Vinales Racing Team)が重傷を負い、現地時間15時10分頃(日本時間22時10分)に亡くなったことが発表された。【写真】2021WSS300:ヤマハYZF-R3を駆るディーン・ベルタ・ビニャーレス(Vinales Racing Team) SBK第10戦スペインでは、最高峰のスーパーバイク世界選手権(SBK)、中量級のスーパースポーツ世界選手権(WSS)、軽量級のスーパースポーツ世界選手権300(WSS300)の3クラスのレースが行われている。 25日にはSBKのFP3と3クラスの予選(スーパーポール)、そして3クラスのレース1がスケジューリングされていた。 午前のFP3と3クラスのスーパーポールは無事終了。しかし、現地時間午後12時45分から行われたWSS300のレース1では、1コーナーで複数台が絡むクラッシュが発生し、赤旗中断となる。 すぐに、メディカルカーが駆けつけ、ディーン・ベルタ・ビニャーレスが救急車でメディカルセンターに運ばれたが、頭部や胸部に重傷を負っていた。 その後、SBKとWSSのレース1は中止されることが明かされていたが、現地時間15時10分頃(日本時間22時10分)にはディーン・ベルタ・ビニャーレスが亡くなったことも発表された。 ディーン・ベルタ・ビニャーレスは、MotoGPライダーのマーベリック・ビニャーレスのいとこ。スペイン出身の15歳のライダーだ。 2019年と2020年にはヨーロッパタレントカップに出場し、今季からマーベリック・ビニャーレスの父が設立したVinales Racing TeamからWSS300に参戦していた。 アンドレア・ドソーリ(ヤマハ・モーター・ヨーロッパ ロード・レーシング・マネージャー)は「モーターサイクル・レースに潜むリスクについては誰もが認識しているが、今日のようにスポーツが人命を奪うことになれば、それは容易なことではない」とコメントした。「ディーン・ベルタ・ビニャーレスは、今シーズンから世界選手権でのキャリアをスタートさせ、最近の成績はこのクラスの将来のスターとして注目されていた。現時点では、言葉だけで慰めることはできないが、ヤマハ・レーシングのスタッフ一同、ディーンのご家族、ご友人、そしてチームの皆様に心からお悔やみ申し上げます」[オートスポーツweb ]
Sep 25, 2021
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もう11年。。。大ちゃんの死から、暗く、光が見えていなかった日本レース界に、再び輝いた光大ちゃんが果たせなかったWGPチャンピオンまで、きっと届いてくれると、日本中が期待していた星ほんとうに、ショックでした。。。いまでも、あの多重クラッシュのシーンは見れません。。。富沢祥也、レース中に事故死 (Moto2) 【 F1-Gate.com 】ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する富沢祥也選手が、第12戦サンマリノGPでの決勝レースで事故に遭い、救急車で病院に搬送されたが死亡した。富沢祥也は、4位を走行中に転倒、後続のアレックス・デ・アンジェリスとスコット・レディングと接触。リッツィオーネの病院に搬送されたが、14時20分(現地時間)に死亡が確認された。享年19歳。富沢 祥也 (とみざわ しょうや、1990年12月10日 - 2010年9月5日)は、千葉県旭市出身のオートバイレーサー。2008年の全日本ロードレース選手権250ccクラスシリーズ2位。2009年から2010年までロードレース世界選手権に参戦した。
Sep 5, 2021
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今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、14年ですか。。。Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。ずっと、心の中のヒーローです。私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日後でした。そのときのブログ記事です。このさらに二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでしたこの前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなくバイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことですご冥福をお祈りいたします練習中 二輪プロレーサーが事故死 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった 沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。デビュー~全日本時代1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。世界グランプリ時代スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。再び全日本へ1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。孤高の戦士 沼田憲保(ぬまたのりやす)は2年連続全日本チャンピオンのガンマ使い!スズキの至宝!沼田憲保はΓ使いの本格派沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日生まれ)茨城県日立市出身のオートバイレーサー。沼田選手は、1995年、1996年と2年連続の全日本ロードレース国際A級 GP250ccクラス全日本チャンピオンです。スズキのマシンRGV-Γ250を駆り、全日本を暴れまわりました。 沼田憲保選手についてミラージュ関東出身。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」と呼ばれました。1988年 ロードレースデビュー 22歳なのでまわりとくらべると遅いスタートでした。参戦クラスはSP250。1990年 SUGO選手権で3クラスを制する3冠チャンピオンとなる。1991年 国際A級に特別昇格 全日本GP250ccクラスへフル参戦この年からスズキワークス入りの大抜擢RGV-Γ250の開発兼ライダーとなるその後、1992年 初表彰台、1993年 初優勝、1994年 ランキング2位と着実にステップアップしていき、1995年にはついに全日本チャンピオン、1996年も2連覇を成し遂げます。1996年からは世界グランプリに舞台を移しますが……。 沼田選手の主な戦績 戦績1990年 SUGO選手権でSP250、NB-F3、NB250の3クラスでチャンピオン1991年 全日本選手権 GP250 ランキング14位1992年 全日本選手権 GP250 ランキング9位(初表彰台)1993年 全日本選手権 GP250 ランキング5位(初優勝)1994年 全日本選手権 GP250 ランキング2位1995年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン1996年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン(2連覇)1997年 世界選手権 WGP250 ランキング12位1998年 世界選手権 WGP250 ランキング16位1999年 世界選手権 WGP500 ランキング29位 Muz Weber 8時間耐久に参戦2000年 スーパースポーツ世界選手権 ヤマハ 8時間耐久に参戦2003年 スーパーバイク世界選手権 ドゥカティ 8時間耐久に参戦2004年 全日本選手権 ST600 ランキング4位 8時間耐久に参戦2005年 全日本選手権 ST600 ランキング6位 8時間耐久に参戦2006年 全日本選手権 ST600 ランキング23位2007年 全日本選手権 ST600 ランキング11位(第5戦終了時) RGV-Γ250で闘う沼田憲保選手(動画) ▼▼▼1994年SUZUKI全日本ロードレース情報(RGV-Γ250) ▼▼▼1994年の全日本GP250ccクラス第10戦 菅生サーキット ▼▼▼1996年の世界選手権日本GP鈴鹿ROUND沼田選手はゼッケン#52のラッキーストライクスズキ号です。 削除されていたらごめんなさい。 孤軍奮闘スズキのマシンRGV-Γ250での参戦は、開発とレースの同時進行。沼田選手はその両方を一手に任されて、孤軍奮闘の様子でした。しかも当時のライバルたちの顔ぶれときたら……マシンで言うなら、NSR250、YZR250。ライダーで言うなら、宇川徹や加藤大治郎、芳賀健輔といった強者達を退けてのチャンピオンには相当な価値があるように思います。 世界選手権参戦の苦労アリー・モレナー・レーシングチームのエースライダーとして、世界選手権のワールドグランプリに行ってからも、ますます苦労されていたように思います。マシンの開発や熟成度の差だけではなく、ホンダNSR250やヤマハYZR250には長年積み上げてきたデータなどもあり、セッティング出しなどについてのアドバンテージも相当大きかっただろうと思います。若井伸之選手が生きていたら随分違ったのかもしれません。そう思うと、もっと活躍して良かった選手なのだろうと思います。全日本復帰後の沼田選手2004年からロードレース全日本選手権に復帰。しかし、2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打って急逝した。享年41歳。惜しい人を亡くしました。
Sep 4, 2021
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バイク関連のカメラマンとして、活躍されていた、安河内徹也さんが、交通事故でお亡くなりになられたとのニュースが。。。いろんな方のtweetなどでも、お土産とか、いろんな話をしたと、頻繁に出て来られる方で、誰もに愛される方だったと。。。残念です。。。御冥福を、お祈りいたします。訃報です。モトチャンプ杯を始め、長年に渡りバイクのカメラマンとして活躍された安河内徹也さんが、交通事故により永眠されました。52歳でした。ここに哀悼の意を表します。https://t.co/XdMBDvX6ZG— 野口勝朗 (@KatsurouNoguchi) August 21, 2021 やすこうちさん、つい一昨日くらい桶スポの横通ったよ〜って連絡くれたばっかりだった。写真のことでよく構ってもらった。また今年も年末"勝手にCBRカップ"のときに来るねってバカ話してたのに…— 桶の社の長 (@nekoyocchi) August 21, 2021 はらださんにこっち来るのはやすぎるでぇ〜って怒られますよ、やすこうちさん…— churu@W800 (@motospo_nyan) August 21, 2021 訃報私の昔からの知人であるカメラマンの安河内徹也さんが、本日事故で亡くなってしまいました。彼は撮影で全国飛び回ってましたので懇意にされていた方も多いかと思います。私もまだ状況が掴めておらず、おろおろしています。まずは一報まで。— モバイラーTOM (@PRESS_KKW) August 21, 2021 やすこうちさん事故で亡くなってしまったんだ(ノ_<)何でよ52歳じゃ若すぎるなんで業界盛り上げてくれてたカメラマンさんが…辛い、、、 pic.twitter.com/qzsYnXjpRn— nobu 🐈⬛ (@nitro_nob) August 21, 2021 うそやろ。。。 pic.twitter.com/EM50wrPPEO— KENZ.K@北九州 (@KENZK_kitaQ) August 21, 2021 いいでしょーーーこのカメラバッグ!長年バイクのレース撮ってきたカメラマンの人にもらったんだわ。でも、チェーンロックの番号教えてもらってない…チェーンロックの番号教えてよ。やすこうちさん… pic.twitter.com/NlPcl6c3DZ— あッシ (@Atsu_26x) August 21, 2021 私は安河内さんとはそんな仲良しと言う訳ではなくて自分でも意外ですがお酒もご一緒した事がないと思います。機会はあったと思うんですが。。高杉奈緒子選手を通じてお知り合いになりました。同じ福岡県と言う事もありサーキットのピットでよくお話していただきました。— KENZ.K@北九州 (@KENZK_kitaQ) August 21, 2021 安河内さん…ご冥福をお祈りします。悲しい。何かと世話を焼いてくれる優しいおじさんでした。— 藤原らんか (@fujiran) August 21, 2021 やすこうちさん明日パソコンの前であなたの写真を涙なしで見返せる自信がないですよ。まだ、もっと写真撮ってもらってたくさんその写真でモータースポーツの良さをアピールしたかったんですよ。R.I.P. 安河内徹也さん— Nanami Dai (@NANAMID2) August 21, 2021 俺の30年来の大親友で最愛のアスペ、安河内徹也くっだらん死に方しやがって、せめてバイバイくらい言わせろや。先に行って待ってろ、あの世でまたラーメン食べよう。じゃぁね。— ポンコツレーベル (@ponkots758) August 21, 2021 主人が現役の頃は写真いっぱい撮ってもらった安河内さんが亡くなったって聞いてびっくり。事故の写真見たら安河内さんのハイエースよね。明智でうちのハイエースと並んでサーキットの門が開くの待ってたのを思い出しました。主人とおない年の人が亡くなるとちょっとやるせないです。。 https://t.co/MUevOxZJNV— 徳島の人参農家 あかざわ農園 (@akazawafarm) August 21, 2021 安河内さん、鈴鹿での全日本でのパドックやスーパーモトで大変お世話になりました。突然すぎて、ショックすぎて・・・ご冥福をお祈りいたします。 https://t.co/7PF2IUKcY6— MAL (@StudioMAL) August 21, 2021 はじめてお会いしたのは2001年くらいのビーチサイドGPだったかな、KEHOEが紹介してくれたんだよな…うちで初めてのデジイチは安河内さんが使ってた1Dを中古で譲ってもらったやつだった…亜美の事も気に掛けてくれて面倒見の良い方だった…ご冥福をお祈りします。— 内野 共樹 (@TOMx2) August 21, 2021 安河内徹也さんのご冥福をお祈りいたします。— 高原 (@alicebluepoet) August 21, 2021 高杉 奈緒子さんはやすこうち てつやさんと一緒にいます。心配かけさせちゃいけないから書くべきか悩んだでも思いは伝えたいやすこうちさんレースは帰宅するまでがレースゴールは無事に家に帰ってくることやすこうちさんが家族に伝えたメッセージ『帰ったら風呂入るから沸かしとして』という電話が最後だそうでしたあともう少しで家に帰れたのにどうして?どうして?昨日メッセージくれて岡山全日本行けるかもとオートポリス帰りにやすこうちさん家泊まりと朝にモヒカンラーメン行こうとオートポリス全日本に、うかれ亭さんたくさん食べさせてあげると大阪福島焼き肉行こうと姫路焼き肉行こうと姫路翌日には洋食屋いこうとオートポリス写真たくさん撮るよといっぱい写真撮ってくれたりちょっかいいっぱい出してくれたりスポンサーつくように人を紹介するよとずっと応援してくれると言ってくれた走り屋時代からミニバイクへロードレースと長年見届けてくれた高杉の苦労も道のりも知ってくれているやすこうちさんお兄ちゃんみたいに思ってた一緒に原田さんお墓参り行ったり原田美容院で仏壇にお参りしたりご飯たくさん食べさせてくれたプロティンやサプリメントも送ってくれたたくさん思ってくれたどうして?早すぎるよやすこうちさんも向こうに行っちゃ駄目だよ涙が止まらないよ本当に悲しいよまだ約束も終わってない勝つところを見せてない高杉奈緒子の道のりを最後まで見届けて欲しかったよ人はこんなに泣けるんだと教えていらないよやすこうちさん身近すぎるよどれだけたくさんの元気と優しさと温かさをくれたことかまだ先があり約束したことがたくさんありすぎてそれももう叶わなくなっちゃったそう思うと本当にただ悲しくて涙が止まらないまだサヨナラは言えないし言わない私のレース人生が終わるまで見守っていてください勝ちたいという目標に向かい一生懸命に向き合っていくから私の生き甲斐 レース人生は続けていくよやすこうち兄ちゃん本当に大好きだったよやすこうちさんに撮ってもらった2ショットの一番いい写真最後の写真になっちゃった人生は旅であり冒険だレースは家に無事に帰るまでチェッカーフラッグ🏁は振られないだから必ず2人で無事に毎回帰ることを心掛けます私達は最後まで一生懸命に取り組んでいきますやすこうちさんたくさんの思い出ともにありがとうやすこうちさんが撮ってくれた2人のベストな写真をありがとう pic.twitter.com/ds91RHQRo0— 高杉奈緒子NAOKO TAKASUGI聴覚障害者オートバイロードレーサー (@NaokoKTM) August 22, 2021 関門自動車道で車2台絡む横転事故…男性1人死亡2021/08/21 18:06KBC九州朝日放送関門自動車道で車2台絡む横転事故…男性1人死亡(KBC九州朝日放送)21日朝、北九州市の関門自動車道で、車2台が絡む事故があり男性1人が死亡しました。警察や消防によりますと、21日午前6時半すぎ、北九州市門司区の関門自動車道下りで、「車が横転して2台が止まっている」と110番通報がありました。横転していたのは、糟屋郡志免町の会社員・安河内徹也さん(52)が運転する車で、安河内さんは、もう1台の車を運転していた23歳の男性とともに、山口県下関市内の病院に搬送されましたが、およそ2時間後に死亡が確認されました。警察が、事故の原因を調べています。北九州の関門道で事故 男性死亡 約4時間 通行止めに08月21日 15時08分21日午前、北九州市の関門自動車道で事故があり、トラックを運転していた志免町の52歳の男性が死亡しました。現場付近は、およそ4時間にわたって通行止めになりました。21日午前6時半すぎ、北九州市門司区の関門自動車道の下り線で事故が起きているという通報が警察にありました。警察が現場を確認したところ、トラックが横転し、数十メートル離れた場所に、フロント部分が破損した普通乗用車が止まっていました。警察によりますと、トラックを運転していた志免町の会社員、安河内徹也さん(52)が救助されて病院に搬送されましたが、およそ2時間後に死亡しました。また、乗用車を運転していた山口県の20代の男性も、足の骨を折るなど大けがをしていて、病院で手当てを受けているということです。現場は、門司インターチェンジからおよそ300メートル離れた片側2車線の道路です。警察は、2台の車両がそれぞれ単独事故を起こした可能があるとみて、詳しい状況や事故の原因を調べています。この事故の影響で、関門自動車道は門司港インターチェンジと門司インターチェンジの間の下り線で、午前7時半前からおよそ4時間にわたって通行止めが続きました。
Aug 21, 2021
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高杉奈緒子さんから、マスクが届きました!!封筒のほうに、手書きのメッセージも!本当に、ありがとうございます!!!これからも応援させて頂きますので、私達の夢も乗せて、頑張ってください!!WEB Mr.Bikeで高杉奈緒子さんについての記事が掲載されています。こちらも、ぜひ読んでみて下さい。バイクがくれた、笑顔。 高杉奈緒子、15年目の表彰台高杉奈緒子というライダーがいる。現在は全日本ロードレース選手権のJ-GP3クラスにエントリーしている。重度の難聴である彼女が、どうしてバイクに乗り、レースを始めたのか。そして15年目の初めての表彰台。笑顔と涙の中にある、高杉奈緒子の壮絶なレース人生。■レポート:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝2021年 高杉奈緒子サポートクラブ年会費5,000円高杉奈緒子の2021年オートバイロードレースに関する活動へのサポートをしていただける会員様を募集中です。よろしくお願いいたします。
Aug 17, 2021
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赤旗中断!!ペドロサが滑って、そこに突っ込んだか。。。moto2の小椋もおしかったなあ。。。あとちょっと気を付けてたら。。。ほんとおしい。。。波乱が多かった。。。
Aug 8, 2021
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助かってほしいと祈っていましたが。。。19歳。。。。残念です。。。御冥福を、お祈りいたします。。。。。。。。。。。。。【訃報】Moto3ライダー、ジェイソン・デュパスキエが予選中の転倒事故で亡くなる/MotoGP第6戦イタリアGPautosport webMotoGP | 【訃報】Moto3ライダー、ジェイソン・デュパスキエが予選中の転倒事故で亡くなる/MotoGP第6戦イタリアGP 5月29日、イタリアのムジェロ・サーキットで開催された2021年MotoGP第6戦イタリアGP Moto3クラスの予選Q2のセッション中に転倒事故を起こしたジェイソン・デュパスキエ(CarXpert PruestelGP)が30日に亡くなった。19歳だった。 ドライコンディションで行われたMoto3クラスの予選。デュパスキエはダイレクトにQ2に進出していたためこのセッションから予選を走った。 まずは1度目のアタックで2周走りピットインした。その後、最後のアタックを行うためにコースインして、2周目にベストラップを記録。15分のセッションが終了の時刻を告げ、ラストアタックに挑んだが、9コーナーの立ち上がりで転倒を喫した。2021Moto3:ジェイソン・デュパスキエ(CarXpert PruestelGP) このクラッシュはジェレミー・アルコバ(Indonesian Racing Gresini Moto3)と佐々木歩夢(Red Bull KTM Tech 3)との多重クラッシュで、デュパスキエは投げ出されてコースに横たわる形となり、レースディレクションは赤旗を提示後セッションを終了させた。 その後、メディカルカーと救急車が到着して、コース上で医師による検査が行われ、MotoGPフリー走行4回目はデュパスキエを救護するため遅延された。 そして、クラッシュから約20分後にドクターヘリが9コーナーに到着。しかし、コース上で医師による検査が続けられ、約35分後にヘリに乗せられ詳細な検査のためのフィレンツェのカレッジ大学病院に向かった。2021Moto3:ジェイソン・デュパスキエ(CarXpert PruestelGP) フィレンツェのカレッジ大学病院へ搬送された後、詳細な検査や救急蘇生の措置も行われたが、入院先の病院が30日に死亡を発表した。 デュパスキエは19歳のスイス人ライダーで、2020年にCarXpert PruestelGPからMoto3クラスにデビュー。今季はこれまで27ポイントを獲得しており、ランキング10位。今回の第6戦イタリアGPで参戦21戦目だった。 ロードレース世界選手権での死亡事故は、2016年の第7戦カタルーニャGP Moto2クラスのフリー走行2回目で亡くなったルイス・サロム以来となる。2021年シーズンにCarXpert PruestelGPからMoto3クラスに参戦しているジェイソン・デュパスキエ、山中琉聖We’re deeply saddened to report the loss of Jason DupasquierOn behalf of the entire MotoGP family, we send our love to his team, his family and loved onesYou will be sorely missed, Jason. Ride in peace pic.twitter.com/nZCzlmJsVi— MotoGP™🏁 (@MotoGP) May 30, 2021
May 30, 2021
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へえ、いいなあ。。。ヨーロッパの耐久レースっぽい鈴鹿8耐でも、やってくれたらいいのに。。。テントコーナーとか、むちゃ高いしなあ。。。ゆるキャン△×FUJI SPEEDWAYコラボ。富士24時間レースに “野クル”山崎健太郎2021年5月12日 18:30富士スピードウェイで5月21日、22日、23日に開催される「スーパー耐久シリーズ 2021 Powered by Hankook 第3戦 NAPAC 富士 SUPER TEC 24時間レース」において、「ゆるキャン△ × FUJI SPEEDWAY」コラボレーションイベントが開催される。なお、イベントの参加には観戦チケットの購入が必要。「ゆるキャン△」のモデル地にもなっている静岡県。その東部に位置する富士スピードウェイでは、キャンプを楽しみながらレースを観戦するスタイルが定着。特に国内唯一の24時間レース「富士SUPER TEC24時間レース」では場内各所に色とりどりのテントが張られ、BBQ等を楽しみながらゆる~くレースを観戦する事が定番になっている。そんな富士SUPER TEC24時間レースを舞台に開催する「ゆるキャン△×FUJI SPEEDWAY」コラボイベントでは、富士スピードウェイ限定・オリジナルデフォルメイラストが初披露。さらに、そのデフォルメイラストが描かれた「ゆるキャン△」× GR Supraオリジナルラッピングカーも登場する。イベント広場にある「ゆるキャン△×FUJI SPEEDWAY」ブース内には、YAMAHAビーノ&トリシティの志摩リンモデルも展示。コラボイベント会場限定グッズの販売や、アニメ(第1作目・SEASON2)のビジュアルイラスト&設定画の特別展示も実施する。
May 12, 2021
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5月1日は若井伸之さんの命日です 本当に、ものすごい人物で、人柄で。。。若井さんがいたから、ほかのみんなが活躍できた。。。もう28年ですか。。。坂田さん、上田さんとともに、125ccで世界で大活躍して、250で頑張っていた矢先でしたね。当時は、γだったんだなぁヘレスで、ピットロードに入ってきた観客をよけて、、、、本当に信じられませんでした。。。陽気で人気者で、フラミンゴという愛称で海外のレーサー、ファンにも慕われていました。あの頃の日本人は、本当に強かったその先駆者として、本当にがんばっておられました。若井さんの速さと強さ、優しさは、ずっと忘れません。若井 伸之(わかい のぶゆき、1967年7月25日 - 1993年5月1日)は、千葉県八千代市出身の日本のオートバイレーサー。かつてロードレース世界選手権(WGP)の125ccクラス・250ccクラスに参戦していた。細身で長身な体格と、その長い手足を折り畳むライディングスタイルから「フラミンゴ」の愛称で親しまれた。1990年に全日本ロードレース選手権でランキング2位となった若井は、翌1991年から坂田和人・上田昇(当初はスポット参戦)とともにWGP・125ccクラスにフル参戦を開始。他の2人とともに、プライベート日本人ライダーの先駆者となった。当初はなかなか結果を残せずにいたが、最終戦マレーシアGPでは、トップ争いの末3位表彰台を獲得。翌1992年開幕戦日本GPでも、雨の中地元で3位に入るなど、結果を残すようになる。またドイツGPでは、怪我により欠場したウィルコ・ズィーレンベルグの代役として、スズキから250ccクラスにスポット参戦、7位入賞を果たしている。1993年、若井はスズキから型落ちのワークスマシンRGV250-γの貸与を受け、250ccクラスにステップアップ。しかし250ccクラスのマシンに馴染めず、同年から参戦した親友で弟分の原田哲也らが活躍を続ける一方で、結果を出せずにいた。第4戦スペインGPの予選中、タイムアタックを行うべく、フル加速でピットロードから飛び出そうとしていた若井の前に、突然観客が飛び出してきた。この観客はロリス・レジアーニの招待客であり、本来パスがなければ入れない場所に無断でいたところを、オフィシャルに見つかり逃げ出したところだった。若井が回避を試みたため、接触こそしたものの観客は軽傷で済んだが、若井本人はバランスを崩してピットロードのコンクリートウォールに激突。頭部を強打した若井は懸命の治療の甲斐無く死去、25歳没。1986年に完成したヘレス・サーキットで初めての死亡事故となった。若井の死を受けて、他の日本人ライダーは当初出走の辞退も考えたが、原田が出走を決意したのを皮切りに、最終的には「若井のために頑張ろう」と出場を決めた。250ccクラスの決勝では、原田がコースレコードをも更新する走りで、他に大差を付けて優勝。125ccクラスでも、坂田がラルフ・ウォルドマンを振り切り、WGP初優勝を遂げた。レース終了後、原田はバイクにまたがったまま号泣し続け、坂田も表彰台で悲壮な表情と涙をみせた。また、このレースで5位に入賞した上田はレース後、若井の事故現場まで自身のマシンで近づき、コンクリートウォールを軽く叩いて若井に別れを告げた。原田はこのときの優勝トロフィーを、若井の遺族に送ったという。2012年に、サンスポに若井さんを惜しむ記事がありました若井伸之を偲んで建てられたフラミンゴ像 4月27~29日にMotoGP第2戦が開催されるスペイン・ヘレスサーキットの片隅に、ひっそりとフラミンゴの像がたたずんでいる。レースに造詣の深い人には、この像の由来を今さら説明する必要はないだろう。ただし、近年になってレースに興味を持ち始めたファンには、あまり馴染みがないかもしれない。これは、1993年にこのサーキットで命を落とした日本人選手、若井伸之を偲んで建てられた像なのである。若井は、1990年に全日本選手権125CCクラスでランキング2位を獲得し、翌年から世界グランプリのフル参戦を開始した。この年には、坂田和人と上田昇も125CCクラスのフル参戦を果たしている。1991年のこの時、若井23歳、坂田24歳、上田23歳。開幕戦日本GPの舞台鈴鹿サーキットで上田は劇的なポールトゥウィンを達成。シーズン最終戦のマレーシアGPでは坂田が2位、若井は3位で表彰台を獲得した。身長の高い若井が、長い手足を折りたたむように小さな125CCマシンを操る様子はフラミンゴの姿にもたとえられた。 1992年、上田はランキング9位、若井10位、坂田11位。93年に上田と坂田は125CCで継続参戦する一方、若井は250CCに転向する。この年、彼らのもうひとりの親友、原田哲也が250CCクラスに登場した。原田は開幕戦オーストラリアで衝撃のデビューウィン、第2戦マレーシアは2位、第3戦日本GPで優勝、と快進撃を続けていた。そして第4戦のスペインGPを迎える。 土曜の予選で、若井がコースへ出ようとしたときに悲劇が発生した。ピットレーンに観客が飛び出し、この観客との接触を回避しようとした若井はピットロードの壁に衝突、頭部を強打した。懸命の治療の甲斐なく、25歳で逝去。翌日の決勝レースでは、125CCクラスで坂田が初優勝を達成。堪えていた涙が表彰台で一気に爆発した。5位でフィニッシュした上田は、自らのピットガレージへ戻る際、マシンに跨がりながら若井の激突したウォールに触れ、別れを告げた。250CCクラスでは原田が優勝。レースを終えてヘルメットを脱いだ後も、原田の涙は止まらなかった。若井の死を悼む意味から、このクラスの表彰式は行われなかった。 そして1994年2月、ヘレスサーキットにフラミンゴの像が建立された。その碑文には、以下のようなことばが記されている。「魂と肉体の翼いまだ衰えぬまま この地に止まりて挑むは 汝ら志ひとしき同胞 飽かず疾駆する勇姿なり」 コース脇のフェンス内側に立つフラミンゴの像が選手たちの姿を今も見つめ続けるなか、ヘレスサーキットは若井の事故から20回目のグランプリを迎える。(モータージャーナリスト・西村章)
May 1, 2021
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あの悲しい事故から10年ですか。。。震災の年だったんですよね。。。チャリティとかでもがんばっておられたのに。。。高橋江紀が交通事故で死去まだ23歳…。これからと言うときのアクシデント News 2011/04/25 12:17:36 20110425_01.jpg高橋江紀が4月24日(日)に交通事故に遭い死去した。享年23。高橋は、2005年に全日本GP250クラスにフル参戦を開始。その緒戦で青山周平を破り劇的な初優勝を達成、ランキング3位となる。2007年よりST600クラスにスイッチ。昨年は、新設されたJ-GP2クラスに出場。MotoGPロードレース世界選手権日本グランプリにもスポット参戦した。今シーズンよりRS-ITOに移籍。心機一転、カワサキZX-6Rを駆り、ST600クラスに参戦する予定だった。シーズンオフから筑波サーキットで走り込み調子も上々だったが、東日本大震災の影響で開幕戦筑波が中止となってしまい、その成果は発揮できずにいた。4月上旬には、オートポリスに遠征、コンディションに恵まれず満足に走れなかったが、自己ベストを更新したと好調ぶりを語っていた。違う環境に飛び込み、まさにこれからというときに起きたアクシデントだった。高橋は、東日本大震災の被災者の支援も積極的に行っており、20日(水)には、所属チームの一員として川越駅前で募金活動を行い、23日(土)には、自身がインストラクターも務める桶川スポーツランドで「RT311」と題したチャリティーイベントを開催していた。心からご冥福をお祈りいたします。
Apr 24, 2021
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中山翔太さんの訃報。。。もう6年なんですね。。。高校を卒業して、これからという時の事故。。。それも自転車でのもらい事故。。。ほんとうに、たくさん泣きました。。。愛理さん、お兄さんの分まで、ずっと頑張っておられましたが、2019シーズンで一線を退くと。。。。お兄さんがいけなかった大学を卒業。。。就職ということで、全日本の前線からは引退されました。。そして弟の中山耀介さんと妹の中山恵莉菜さんに、夢は引き継がれたのだと思います。。。中山翔太が交通事故で死去新しいシーズンの開幕を前にして痛ましい事故が起きてしまった。2015年は、ゼッケン13をつけて全日本フル参戦3年目のシーズンを迎えようとしていた中山翔太が3月16日(月)夕方に交通事故に遭い還らぬ人となってしまった。教習所に向かっているときにクルマにはねられてしまったそうだ。まだ18歳の若さだった…。1996年5月30日・兵庫県姫路市出身の中山は、岡山国際サーキットを中心に活躍し、2013年より全日本J-GP3クラスにフル参戦を開始。昨年は、ランキング13位となっていた。今年は、J-GP3クラスチャンピオンチームのTEAM PLUSONEに移籍し、まさにこれからという時だった。これから開花するであろう若い才能が、また一つ失われてしまった。心からご冥福をお祈り申し上げます。兄妹の高校生ライダー、全日本選手権で活躍誓う 姫路「高校生ライダー」として全国で活動する兵庫県姫路市白鳥台の中山翔太さん(18)=琴丘高3年=と愛理さん(16)=姫路東高2年=の兄妹が1、2日、鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開かれるバイクレース「全日本ロードレース選手権」に出場する。バイク歴10年を超え、大人に混じって実力を蓄えてきた2人。あこがれの舞台で活躍を誓う。
Mar 16, 2021
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3月9日はアンソニー・デラールの命日です2017年3月9日もう4年ですか。。。 本当に悲しい事故でした。。。偉大なライダーを失いました。。。。二度と、このようなことがないように祈ります。。。Anthony Delhalle nous a quittésアンソニーDelhalleは、我々のもとを去りましたTerrible nouvelle en provenance de Nogaro où les équipes d’endurance GMT94, Motors Events et SERT effectuaient des essais privés pour préparer la prochaine épreuve du championnat du monde au Mans. Anthony Delhalle a en effet été victime d’une sortie de piste au premier virage du circuit Gersoi en milieu de matinée. Rapidement pris en charge par les pompiers, ces derniers ne sont pas parvenus à réanimer le pilote Suzuki. 5 fois champion du monde d’endurance avec le SERT, Anthony était à 35 ans un champion discret, profondément gentil et unanimement apprécié du paddock. Sa disparition laissera un grand vide dans nos cœurs et toute l’équipe de Moto Revue adresse ses pensées les plus sincères à sa femme Jessie et à ses deux enfants Sophia et Andrea.浦本 修充さんがSuzuki Moto Franceさんの写真をシェアしました。6時間前 昨年のスペイン選手権の最終戦に参戦した際にチームメートだったアントニー選手がテスト中のアクシデントで亡くなりました。初めてで何もわからなかった僕にも気さくに話しかけてくれて心優しい人なんだなと言うのが短い間でも伝わる本当に良い選手でした。ご冥福をお祈りいたします。新庄 雅浩さんはAnthony De La Halleさんと一緒です。5時間前 I love you Anthony尊敬するライダーがまた亡くなってしまいました。突然過ぎて現実なのか整理つかないけど出会えて一緒に走れて本当に自分を成長させてくれたました。ゆっくり休んでくれるといいな。みんなの心に少しだけでもAnthonyを残していて欲しいです。もう松下さんとルマンの話で盛り上がってるかな。北川 圭一5時間前 ホント参ったアントニーが亡くなったって知って、、、バンソンと毎年8耐来ていて何度も京都に遊びにきていたのに、、、ホント控えめないい奴だったのに、ショック、、、モータースポーツの危険性を改めて、感じさせられます。心よりご冥福をお祈りします。加賀山 就臣さんが写真6件を追加しました。6時間前 神奈川県横浜市 参ったな〜。共に戦った、アントニーが亡くなった。テスト中のアクシデントだったらしい。ご冥福を祈る。R.I.Pアントニーとは2012年、SERTで鈴鹿8耐や世界耐久で共に戦った戦友。共に優勝もした、共にチャンピオンも獲得した。その後も、いつも俺の所に来てくれる。本当、控えめでいい奴だった、いつかまた組みたかったな〜……。参った……。https://www.facebook.com/anthony.delhalle.1/スズキで5度の耐久レース王座を獲得したアンソニー・デラールがテスト中に事故で亡くなるAUTOSPORTwebアンソニー・デラール SERT(スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)から世界耐久選手権(EWC)に参戦するアンソニー・デラールが、9日にフランス南部のノガロ・サーキットで行っていたプライベートテスト中の転倒事故により亡くなった。 EWC第2戦ル・マン24時間耐久ロードレースに向けノガロ・サーキットでプライベートテストを行っていたデラール。EWCのオフィシャルサイトによれば、今回の死亡事故はストレートエンドで発生したという。事故後、現場にはレスキュー隊が駆けつけ、救助作業が行われたものの、そのかいむなしく死亡が確認された。 デラールは35歳のフランス人ライダーで、2004年に初めてル・マン24時間耐久ロードレースに参戦。EWCでは、スズキGSX-R1000を駆って2011年、2012年、2013年、2015年、2016年と5度のチャンピオンを獲得した。
Mar 9, 2021
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本当に残念。。。まだ若すぎます。。。若井、坂田、上田の前に立ちふさがったチャンピオンそして、大ちゃんはじめ、若いライダーをたくさん育ててくれた名監督御冥福を、お祈りいたします。【訃報】ファウスト・グレシーニが新型コロナで亡くなる。2度のWGP125ccクラス王者autosport webMotoGP | 【訃報】ファウスト・グレシーニが新型コロナで亡くなる。2度のWGP125ccクラス王者 2月23日、ロードレース世界選手権MotoGPクラスに参戦しているグレシーニ・レーシングは、125ccクラスで2度の王者に輝き、現在はチームマネージャーを務めるファウスト・グレシーニが新型コロナウイルスにより亡くなったと発表した。60歳だった。 ファウスト・グレシーニは、2020年12月末に新型コロナウイルスの検査で陽性となり、自宅で隔離していたが、12月27日からはイタリアのイモラにあるサンタ・マリア・デッラ・スカラレッタ病院に入院した。 12月30日からはボローニャのマッジョーレ・カルロ・アルベルト・ピッツァルディ病院に移り、より専門的な病棟で治療を受けており、医療的な昏睡状態に置かれ、人工呼吸器で血液中の酸素量を十分に保つ措置がとられていた。 その後、一時は意識を戻し、1月12日にファウスト・グレシーニがビデオ通話で娘の誕生日を祝ったこと、2月1日に熱が1週間以上ない状態で安定した状態だとチームが報告していた。 しかし、重度の呼吸不全のため、2月中旬から再び医療的な昏睡状態に置かれ、人工呼吸器を装着して回復を待たれたが、新型コロナウイルスの感染から約2カ月が経った2月23日に亡くなったことをチームが明かした。WGP125ccクラスで2度の王者に輝いたファウスト・グレシーニ ファウスト・グレシーニは1983年から1994年まで12年間、ロードレース世界選手権125ccクラスに参戦したライダーだ。1985年と1987年に2度のチャンピオンに輝き、通算21勝を含む47度の表彰台を獲得した。 現役引退後の1997年には、グレシーニ・レーシングを設立して500ccクラスに参戦し、初年度にアレックス・バロスが表彰台を獲得。1999年からは250ccに参戦し、2001年に加藤大治郎が11勝をマークしてチャンピオンに輝き、翌年は加藤をMotoGPクラスに参戦させた。 そして2003年の開幕戦日本GPで加藤がレース中のクラッシュで亡くなるが、次のレースでチームメイトのセテ・ジベルナウが勝利し、チームとして最高峰クラスで初優勝を達成した。2003年と2004年はセテ・ジベルナウがランキング2位となる活躍を見せたほか、2010年にはMoto2クラスでトニ・エリアスがタイトルを獲得。Moto3クラスでは2018年にホルヘ・マルティンが王者となった。 現在は、MotoGPクラスにアプリリア・レーシング・チーム・グレシーニとして参戦しており、Moto2クラス、Moto3クラスにもグレシーニ・レーシングとしてエントリーしている。 また、日本人ライダーでは、上述の加藤のほか、清成龍一、中野真矢、青山博一、高橋裕紀がグレシーニ・レーシングでレースを戦った経験がある。😢ファウスト グレシーニ。 pic.twitter.com/88jFUb4vfl— コルチャックK (@1NYfbQ2S4qclUOn) February 23, 2021 【1991年 日本GP鈴鹿】僕らが若かった頃グレシーニは正真正銘のトップライダーだった。予選は雨雨晴れで上田選手に2.6秒遅れの2分27秒320で3番手。しかし決勝では無名のダークホースの後ろで走りを分析11周目にレコードの22秒台にペースアップしトップに浮上!ラストラップは追尾せず2位でチェッカー! pic.twitter.com/gn1ySoZAZM— バイクレースはドラマより面白い! ! (@osamufujita3) February 24, 2021 ファウスト・グレシーニが亡くなった。2ヶ月ほど前からCOVID-19に感染し、苦しみながらも戦い続けていた。しかし22日、60歳で彼は大ちゃんやシモンチェリがいる場所に旅立ってしまった。レースを愛し、数々の名ライダーを輩出してきたグレシーニ。本当にありがとうございました。 pic.twitter.com/rIBfWylDvV— 鈴鹿風燐子 (Rins Suzukaze) (@GAScharge10) February 23, 2021 グレシーニ監督、安らかに。。。大ちゃんと一緒に獲得した世界チャンピオンの記憶を僕は生涯忘れません(´;ω;`)…R.I.P#MotoGP_jp https://t.co/yTFzc7qKRp pic.twitter.com/E8tFyDAX50— ゆーきん ex.LUCY☆JUICY ex.JE-toi@UE船橋津田沼 (@YUKIN_MUSIC) February 23, 2021 今の世代はチーム監督としてのグレシーニさんだと思うけど、アタシらの世代からすると坂田和人、上田昇、若井伸之の3人に立ちはだかるイタリアの英雄的ライダー。ライダーって怪我が原因の疾患とかある方もいるからコロナは危険なんだろうなと。合掌— yasu!(1号機) チタンレス仕様 (@YasuYasukawa) February 23, 2021 大治郎がWGP250チャンピオン時に所属したチーム、グレシーニがコロナで60歳で死去😨早すぎ残念😢ご冥福をお祈りします。 pic.twitter.com/z6qLpGeLpn— 広島ぼっちょん・ (@634CBR) February 23, 2021 あの天才ライダーであった加藤大治郎との関わりも深かった、ファウスト·グレシーニ氏が新型コロナで亡くなられた🥺ご冥福をお祈りします🥺天国でも、大治郎の事を宜しくお願いしますね··· pic.twitter.com/d3376a74p6— おーたん (@vU2R65tfzeYa9Nn) February 23, 2021 回復に向かってると聞いてたのに信じらんない…。天国で加藤大治郎と思い出話して下さい。安らかに。https://t.co/XMSzmJ5zlqファウスト-グレシーニが死去/361715 pic.twitter.com/SRmhH6Z2Q7— K2@ワクワクさん (@wak2racing) February 23, 2021
Feb 23, 2021
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10月23日はシモンチェリの命日です。 もう9年ですねまだ、24歳、これからでした。。。ついてないとしかいいようがない事故でした。。。今年も、事故もなく、シモンチェリの分まで、すばらしいレースを見せてくれることを祈ります。【MotoGPマレーシアGP】シモンチェリが事故死23日、マレーシアのセパンで開催されたロードレース世界選手権マレーシアGP、MotoGPクラス決勝レースで、マルコ・シモンチェリ(ホンダ)が事故死した。24歳。2列目5番手スタートのシモンチェリは4番手走行中の2ラップ目、11コーナーで転倒、後続車と接触、頭、首、胸を強打した。医療班が事故現場に到着した時はすでに意識不明で、ただちにサーキット医療センターへ搬送された。移動の救急車中から心肺蘇生がほどこされたが、手当のかいなく、約45分後の16時56分に死亡が宣告された。レースは事故直後に赤旗中断、キャンセルされた。MotoGP、マルコ・シモンチェリの事故死の状況を説明2011年10月24日MotoGPのレースディレクションは23日、セパン・インターナショナル・サーキットのプレスカンファレンスルームで、第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死したマルコ・シモンチェリの状況に関して共同会見を行った。レースディレクションの代表であるポール・バトラーは、「この記者会見の目的は、マルコ・シモンチェリの悲劇的な死亡の状況を検証することです」と説明を始めた。 「皆様がご存知のように、我々レースディレクションのメンバー全員がここに出席します。FIM国際モーターサイクリズム連盟の代表であるクロード・ダニス、ドルナスポーツの代表であるハビエル・アロンソ、ライダーの代表であるフランコ・ウンチーニ、そして私はIRTA国際レーシングチーム連盟の代表兼レースディレクションの代表です。ミケーレ・マッキアゴデーナは我々のメディカルディレクターであり、彼が死亡に関して状況を説明します。」マッキアゴデーナは、「友人であるマルコ・シモンチェリの死亡に関して報告するために、ここにいることは大変悲しいです。他のライダーたちに激突したレース中の転倒でした。彼は頭部と首、胸部に深刻な外傷を負いました。」「我々のメディカルスタッフが彼のところに駆けつけたとき、彼は意識不明でした。心停止だったことから、救急車で、CPR(心肺蘇生)を始めました。」「緊急に、メディカルセンターでクリニカモービルのスタッフと地元医師の助けを借り、挿管を施行し、胸部から少量の血液を吸引することが可能でした。」「我々は彼を助けるために治療を尽くし、可能だと考えて、CPRを45分間継続しました。不運にも彼を助けることができず、現地時間の16時56分に死亡を宣言しなければいけませんでした」と、状況を説明した。バトラーは、ヘルメットが外れたことに関する質問に対して、「他の機会に答えることができると思います。事故の状況や結果を徹底的に調査します」と、事故検証を実施することを説明。コーリン・エドワーズの負傷状態に関して、マッキアゴデーナは「肩を脱臼しました。麻酔を受け、正しい位置に戻りました。彼は大丈夫です」と説明。「我々は彼の家族に同情します。可能な限り、あらゆる点を示したい」と、バトラーは付け加え、会見を締め括った。マルコ・シモンチェリ 経歴1996年から2000年にかけて地元イタリアのミニバイク選手権で活躍し、2年連続のチャンピオンに輝く。01年にイタリア選手権125ccクラスのホンダ・トロフィーに参戦。翌02年には、欧州選手権の125ccタイトルを獲得するとともに、ロードレース世界選手権(WGP)にも出場。03年からWGPにフル参戦を開始し、05年には125ccで総合5位と躍進すると、翌年から250ccにステップアップを果たした。08年には250ccのタイトルを獲得し、09年は、最終戦までライバル青山博一選手とタイトル争いを繰り広げ、総合3位となった。2010年に最高峰のMotoGPにステップアップ。参戦2年目の2011年、第17戦マレーシアGP決勝レースにおけるアクシデントで負傷し、サーキットのメディカルセンターで救命処置が行われたが同日逝去。享年24歳。故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに 故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに2011年10月にレースアクシデントにより事故死した故シモンチェリが、アゴスチーニ、ニエト、ドゥーハン、ヘイルウッド、リード、マング、ローソン、レイニー、ロバーツ、スペンサー、シーン、加藤、ストーナーらに続き、21人目のレジェンドライダーとして殿堂入りすることが決まった。ドルナスポーツは3日、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故マルコ・シモンチェリをレジェンドライダーとして殿堂入りすることを発表した。2008年10月19日に同地で開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで3番グリッドから3位に入り、250ccクラスのチャンピオンに輝き、2010年から最高峰クラスへの挑戦を開始。事故の1週間前には自己最高位となる2位を獲得していた。レジェンドライダー就任のセレモニーは、ムジェロ・サーキットで開催される第6戦イタリアGPで実施される。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナーTags:MotoGP, 2014故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー 故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー Marco Simoncelli - MotoGP Legend Marco Simoncelli MotoGP Legend元250ccクラス王者で、2011年10月の第17戦マレーシアGPで事故死した故シモンチェリがレジェンドライダーに就任した殿堂入りのセレモニーが、第6戦イタリアGP開催中のムジェロで行われ、ドルナスポーツの代表から父親パオロに記念のメダルが贈呈された。ドルナスポーツは30日、第6戦イタリアGPの開催地、ムジェロ・サーキットのプレスカンファレンスルームで、故マルコ・シモンチェリがレジェンドライダーとして殿堂入りするセレモニーを実施した。2月3日、2008年に250ccクラスのチャンピオンに輝き、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故シモンチェリの殿堂入りを発表。当社CEO最高経営責任者のカルメロ・エスペレータが父親パオロにレジェンドライダーのメダルを贈呈した。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナー
Oct 23, 2020
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いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。もう、あれから13年ですか。。。H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらいふらふらしていました。。。自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々がまだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。本当に辛いです。。。自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが誰からも、愛される人必要とされる人そんな人たちが、早く旅立って。。。私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック 1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック 阿部典史-流星伝説-より秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。そして1996日本GP、涙の初優勝!!Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました8耐最高!!ノリックも叫んでましたよニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。ノリックが交通事故死、トラックと衝突 死去した阿部典史さん(オートバイレーサー) 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。 ◇ 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。
Oct 7, 2020
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もう10年。。。大ちゃんの死から、暗く、光が見えていなかった日本レース界に、再び輝いた光大ちゃんが果たせなかったWGPチャンピオンまで、きっと届いてくれると、日本中が期待していた星ほんとうに、ショックでした。。。いまでも、あの多重クラッシュのシーンは見れません。。。富沢祥也、レース中に事故死 (Moto2) 【 F1-Gate.com 】ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する富沢祥也選手が、第12戦サンマリノGPでの決勝レースで事故に遭い、救急車で病院に搬送されたが死亡した。富沢祥也は、4位を走行中に転倒、後続のアレックス・デ・アンジェリスとスコット・レディングと接触。リッツィオーネの病院に搬送されたが、14時20分(現地時間)に死亡が確認された。享年19歳。富沢 祥也 (とみざわ しょうや、1990年12月10日 - 2010年9月5日)は、千葉県旭市出身のオートバイレーサー。2008年の全日本ロードレース選手権250ccクラスシリーズ2位。2009年から2010年までロードレース世界選手権に参戦した。
Sep 5, 2020
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今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、13年ですか。。。Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。ずっと、心の中のヒーローです。私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日後でした。そのときのブログ記事です。このさらに二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでしたこの前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなくバイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことですご冥福をお祈りいたします練習中 二輪プロレーサーが事故死 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった 沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。デビュー~全日本時代1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。世界グランプリ時代スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。再び全日本へ1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。孤高の戦士 沼田憲保(ぬまたのりやす)は2年連続全日本チャンピオンのガンマ使い!スズキの至宝!沼田憲保はΓ使いの本格派沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日生まれ)茨城県日立市出身のオートバイレーサー。沼田選手は、1995年、1996年と2年連続の全日本ロードレース国際A級 GP250ccクラス全日本チャンピオンです。スズキのマシンRGV-Γ250を駆り、全日本を暴れまわりました。 沼田憲保選手についてミラージュ関東出身。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」と呼ばれました。1988年 ロードレースデビュー 22歳なのでまわりとくらべると遅いスタートでした。参戦クラスはSP250。1990年 SUGO選手権で3クラスを制する3冠チャンピオンとなる。1991年 国際A級に特別昇格 全日本GP250ccクラスへフル参戦この年からスズキワークス入りの大抜擢RGV-Γ250の開発兼ライダーとなるその後、1992年 初表彰台、1993年 初優勝、1994年 ランキング2位と着実にステップアップしていき、1995年にはついに全日本チャンピオン、1996年も2連覇を成し遂げます。1996年からは世界グランプリに舞台を移しますが……。 沼田選手の主な戦績 戦績1990年 SUGO選手権でSP250、NB-F3、NB250の3クラスでチャンピオン1991年 全日本選手権 GP250 ランキング14位1992年 全日本選手権 GP250 ランキング9位(初表彰台)1993年 全日本選手権 GP250 ランキング5位(初優勝)1994年 全日本選手権 GP250 ランキング2位1995年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン1996年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン(2連覇)1997年 世界選手権 WGP250 ランキング12位1998年 世界選手権 WGP250 ランキング16位1999年 世界選手権 WGP500 ランキング29位 Muz Weber 8時間耐久に参戦2000年 スーパースポーツ世界選手権 ヤマハ 8時間耐久に参戦2003年 スーパーバイク世界選手権 ドゥカティ 8時間耐久に参戦2004年 全日本選手権 ST600 ランキング4位 8時間耐久に参戦2005年 全日本選手権 ST600 ランキング6位 8時間耐久に参戦2006年 全日本選手権 ST600 ランキング23位2007年 全日本選手権 ST600 ランキング11位(第5戦終了時) RGV-Γ250で闘う沼田憲保選手(動画) ▼▼▼1994年SUZUKI全日本ロードレース情報(RGV-Γ250) ▼▼▼1994年の全日本GP250ccクラス第10戦 菅生サーキット ▼▼▼1996年の世界選手権日本GP鈴鹿ROUND沼田選手はゼッケン#52のラッキーストライクスズキ号です。 削除されていたらごめんなさい。 孤軍奮闘スズキのマシンRGV-Γ250での参戦は、開発とレースの同時進行。沼田選手はその両方を一手に任されて、孤軍奮闘の様子でした。しかも当時のライバルたちの顔ぶれときたら……マシンで言うなら、NSR250、YZR250。ライダーで言うなら、宇川徹や加藤大治郎、芳賀健輔といった強者達を退けてのチャンピオンには相当な価値があるように思います。 世界選手権参戦の苦労アリー・モレナー・レーシングチームのエースライダーとして、世界選手権のワールドグランプリに行ってからも、ますます苦労されていたように思います。マシンの開発や熟成度の差だけではなく、ホンダNSR250やヤマハYZR250には長年積み上げてきたデータなどもあり、セッティング出しなどについてのアドバンテージも相当大きかっただろうと思います。若井伸之選手が生きていたら随分違ったのかもしれません。そう思うと、もっと活躍して良かった選手なのだろうと思います。全日本復帰後の沼田選手2004年からロードレース全日本選手権に復帰。しかし、2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打って急逝した。享年41歳。惜しい人を亡くしました。
Sep 4, 2020
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