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11月30日になると。。。思い出します。。。
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小池延幸@ Re:御厨さと美 (著)トゥィンクル・ノーラ (セレクト・コミック)(12/19) すいません、同じ文面を誤って二度も送信…
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小池延幸@ Re:御厨さと美 (著)トゥィンクル・ノーラ (セレクト・コミック)(12/19) 初めまして。65歳になる都内のバイク乗り…
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Mar 22, 2012
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DATSUNのブランド名が復活されますね

1981から一般車の名称がNISSANに統一され、DATSUNトラックのみ
それも2002年に排ガス規制でなくなり。。。

トラックだけでなく、Zにも復活しないかなぁ~


もともとは、快進社の後ろ盾三名の頭文字をとってDAT(九州炭鉱汽船社長の田健治郎男爵のD、逓信省技師、青山禄郎のA、九州炭鉱汽船役員の竹内明太郎のT)その車名で出品し
DATの息子で、ダットソン、損をしてはいけないので、DATSUNになったんですよね。
脱兎の意味もあったとか

ダットサン(英称:Datsun, DATSUN とも)とは「プリンス」ブランドと並び、かつての日産自動車を代表する小型車レンジのブランド(商標)の1つである。商標のみならず、車検証上の車名もダットサンであった。

型式(かたしき)では、十の位が「1」の乗用車と、「2」の商用車が相当する。排気量が大きい初代フェアレディZのみ、中型乗用車用の「3」が与えられている。1981年に日産ブランドへ統一する方針が発表され、それ以降順次新型車からブランド名が外されて消滅した。

2012年3月20日、日産のCEOであるカルロス・ゴーンによって新興市場向けの低価格ブランドとしてダットサンの復活が発表され、併せて新しいロゴも公開された。2014年からインドネシア、インド、ロシアで製造・販売を開始する計画である。

中国に関しては、現地の合弁企業である「東風日産乗用車公司」独自の「ヴェヌーシア」ブランドを展開する。

日産自動車では、かつて、「車といえばダットサン」、「一家に一台ダットサン」などと宣伝していたこともあり、国産大衆車の代名詞的存在であったが、1981年に、当時の石原俊社長の方針により、「DATSUN」ブランドが順次廃止されることとなった。移行過渡期の輸出向け車には、「DATSUN by NISSAN」のエンブレムが見られる。

「NISSAN」ブランドへの統一以降は、日産車の「車名」として唯一存在していたダットサントラックが2002年の排ガス規制で国内販売を終了し、同型の海外向けもフロンティアやナバラへと車名が変わったとため、「DATSUN」の名称が一時期途絶えていた。

米国では「ダットサン」と発音する人はほとんどおらず、「ダッツン」または「ダツン」("ダ"にアクセントが来る)と呼ばれている。北米でのダットサンの販路を築いた「Mr.K」こと片山豊本人は「僕は販売に際してダッツンなんて言わせなかったし、実際にアメリカ人の発音を聞いてみると、ちゃんとダットサンって発音しているんです。ダッツンって聞こえたのは日本人だけじゃないのかな」とアメリカ人が「ダツン」および「ダッツン」と発音していた事を否定している[4](ただ、実際にテレビCMで流れた発音は「ダッツン」に近い)[5]。

沿革
1924年 - 快進社、ダット3/4トントラックを軍用保護自動車として生産。
1926年 - 実用自動車製造株式会社と快進社自動車工場が合併し、ダット自動車製造(本社:大阪)設立。
1931年 - 鮎川義介がダット自動車の株を肩代わりする。戸畑鋳物株式会社自動車部となる。
1932年 - ダットサンのブランドが誕生。吉崎良造がダットサン商会を設立。
1933年 - 石川島自動車製作所がダット自動車製造株式会社を吸収合併して東京自動車工業株式会社に改称(後のいすゞ自動車)。
1933年 - 旧ダット大阪工場を戸畑鋳物が70万円で購入、自動車製造株式会社となる。鮎川義介が東京自動車工業株式会社に対し、ダットサンの製造に関する一切の権利を譲渡するよう嘆願し、無償でダットサンの製造権を譲り受ける。製造権と図面と技術者を得て、自動車製造が開始される。
1934年 - 自動車製造株式会社が日産自動車と改名。「ダットサン」をアジア、中南米などに向けて輸出を開始する。
1981年 - 輸出ブランド名を「NISSAN」に統一する方針発表。「ダットサン」ブランドの使用を停止。以後、新型車から「NISSAN」ブランドに変更する。
車名の由来 [編集]橋本増治郎が創業した 快進社自働車工場(のちに日産コンツェルンに吸収)の支援メンバーである、田健治郎の「D」、青山禄朗の「A」、竹内明太郎の「T」と、それぞれの頭文字を採り、早く走ることのたとえに使われる「脱兎(だっと)」に掛けた、「脱兎号(DAT CAR)」を始祖とする。
1930年に、DATの「息子」を意味する「DATSON」を商標として掲げたが、日本語読みで「損」を連想させるため、音が同じで太陽を意味する「DATSUN」に改められた。こちら葛飾区亀有公園前派出所では「DATSON」に対し「ダットソン」というカナ表記がされており、呼び分けている人もいる模様である。
日産自動車が協賛している映画若大将シリーズ(加山雄三主演)の第11作「ゴー!ゴー!若大将」(1967年、東宝)で、青大将(田中邦衛)がマドンナの澄子(星由里子)に上記の由来を説明する場面がある。
ロゴマークの由来 [編集]「ダットサン」のロゴマークは、吉崎良造と田中常三郎がシボレーのマークにヒントを得て、赤の日の丸と太陽をベースに天空をモチーフとしたコバルトブルーをいれ、真ん中に白で横一文字で「DATSUN」と書いた。このロゴマークは近年日産自動車に使われているロゴマークの前身である。

ダットサンブランドで販売された車種一覧

ダットサン15型ロードスター
510ブルーバード/Datsun 510
S30フェアレディZ/Datsun 240Zダットサン11型(1932年)
ダットサン・ロードスター
ダットサン・フェートン
ダットサン・セダン
ダットサン・110/210
ダットサン・スポーツDC-3
ダットサン・スリフト
ダットサン・サニー - B310型まで。B11型からニッサン・サニー。
ダットサン・ブルーバード - 910型まで。U11型からニッサン・ブルーバード。
ダットサンスポーツ フェアレディ
Datsun 240Z/260Z/280Z(日本名フェアレディZ) - SP310型まで。以後はニッサン・フェアレディZ。
ダットサントラック(通称:「ダットラ」)
ダットサンサニートラック - B120型まで。以後、ニッサン・サニートラック。
ダットサン・キャブライト/ダットサン・キャブスター - A320型まで。以後はニッサン・アトラス。
ダットサン220C/280C、300C(日本名:セドリック)
ダットサン240K(日本名:スカイライン)
ダットサン160J / New 510(日本名:バイオレット)
ダットサン・サニーキャブ - C20型まで。以降はバネットに改称。
ダットサンバネット/ダットサンバネット ラルゴ - C120型まで。
ダットサンADバン
その他、海外向け日産車に付けられ多数の車に使われていたが、石原俊元日産自動車社長の方針による海外向けブランド名をNISSANに統一するという戦略により、DATSUNブランドは消滅する事となった。過渡期の海外向けモデルには DATSUN by NISSAN の表記が見られた。




日産のルーツのひとつ
現在の日産自動車のルーツとなった快進社の創業100周年を記念する企画展が、東京・上野の国立科学博物館で開かれている。11日、創業100周年を祝いシンポジウム「人のために、社会のために、受け継がれる自動車技術の未来」が開かれ、日産のエンジニアや大学教授らが、自動車技術の過去と未来についてパネルディスカッションを繰り広げた。この日は休日とあって、多くの家族連れが展示に見入っていたほか、シンポジウム会場ではクルマ好きがエンジニアの話に熱心に耳を傾けた。記念展は7月24日まで。……と、久しぶりに新聞の地域版リードみたいに書きだしてみた。いや、地域版でリードにこんなに行数使ったら怒られるか。

■快進社とは
1911年、愛知県岡崎市生まれの橋本増治郎が現在の渋谷区広尾に快進社自働車工場を設立する。橋本は1895年に現在の東京工業大学を卒業後、農商務省海外実業練習生として渡米、石炭から石油への転換を体感し、自動車製造の夢を抱く。帰国後に勤めた越中島鉄工所が九州炭鉱汽船に買収され、そこで橋本の実力が経営陣の目にとまり、同社の後ろ盾を得て快進社自働車工場を設立する。橋本は社名に「自動車」じゃなく「自働車」を使った。設立から3年後、橋本は東京大正博覧会に「DAT」乗用車を出品する。DATとは橋本のパトロン3人の頭文字。九州炭鉱汽船社長の田健治郎男爵のD、逓信省技師、青山禄郎のA、九州炭鉱汽船役員の竹内明太郎のTだ。後年のダットサンのフロントグリルにはうさぎのエンブレムが付いているから、途中で「脱兎」の意味も込められたのだろう。

1911年の快進社自働車工場設立時の写真。会社は広尾に設立されたが、ほどなく豊島区南長崎のあたりに工場を建設したそうで、この写真がどっちかは不明。

■DATの息子
その後も快進社は乗用車やトラックなどを製造するも、不況、関東大震災、フォードの日本進出などによって経営状況は厳しく、1925年、橋本は社を解散してダット自動車商会に組織を縮小した後、翌26年に大阪の実用自動車製造と合併、社名をダット自動車製造に変更する。橋本は心機一転、大阪を拠点に自動車開発を続け、31年に会社を退く。その年、ダット自動車製造は乗用車「DATSON」(ダットソン=ダットの息子の意。「ソン」の響きが「損」を連想させるとして、後に「DATSUN」<ダットサン>に変更)を完成させるとともに、鮎川義介率いる戸畑鋳物の傘下に入る。この後、もう少し紆余曲折があって、1934年の日産自動車誕生へつながる。

ダット自動車製造時代に販売された「ダットソン號小型自動車」のカタログ。当時はDATSUNではなくDATSON。

■戦前の自動車産業
ところで、前述した関東大震災は1923年に発生する。その2年後にフォードが横浜に工場を建設し、日本でも自動車製造を始めたほか、全国に代理店を整備し始める。ライバルのGMはそのまた2年後の27年に大阪に工場を建設する。その結果、震災のあった23年に1万2765台だった日本の自動車台数は、フォード参入の25年に2万9164台に、GM参入の27年には5万1762台へと倍々ゲームで増える。機を見るに敏という言葉が適切かどうかわからないが、アメリカの二大巨頭は復興需要を見逃さず、よちよち歩きの国内自動車産業をあざ笑うかのように日本で自動車をバンバン作って売ったことになる。30年代、日本の自動車の台数は10万台を超えるが、その多くがフォードやGM(これらも統計上は国産車)製だったという。その後に第二次世界大戦に突入するも、戦後、日本の自動車産業は目覚しい発展を遂げるが、やはりそれはミラクルで、アメリカ資本を中心とした自動車産業になっていたとしても不思議じゃなかったのではないだろうか。

1920年代の軍用保護自動車の写真。軍用保護自動車とは、普段は民間が使い、有事の際には軍に差し出す契約になっている自動車のこと。左上は東京瓦斯電気製、右上は石川島造船所自動車部製、下は左右ともにダット。ちなみに東京瓦斯電気も石川島造船所自動車部も現在のいすゞのこと。






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Last updated  Mar 22, 2012 06:21:07 AM
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