本だけ日記。

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2007.09.15
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ドストエフスキーの『悪霊(上)』(新潮文庫)。
ここ何年もの間、ぼくにとって最良の小説は、
ドストエフスキーの『白痴』だったが、
その評価がついに覆される時がきた感じである。

■さて。このところ忙しくてあまり読めなかったが、
今日、気分が乗らず仕事もできないので、
『悪霊』の第一部まで読み終えた。

これは上巻の半分強の量だが、
第一部の大半はストーリーもほとんど動かず、
この小説の本質的テーマである「無神論」についても
あまり突っ込んだ議論はされず、
読み進めるのにやや苦労するが、
第一部の最終場面に向かって、
物語は一気に動き出す。
というより、決定的な場面が形成されるのである。

■その場面こそ、バフチンの言葉を借りれば、
大カーニバルといっていいだろう。
バフチンの著書については、
いずれしっかり読み直す予定だけれど、
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)から
参照するならば、「カーニバル小説」の特徴として、

  何よりもまず取り払われるのは、
  社会のヒエラルヒー構造

があり、

  自由で無遠慮な人間同士の接触が
  力を得ることになる。

■そして、

  人間の相関関係の新しい様態が作り出され

常軌を逸した人間の振舞いがなされるが、それは

カーニバルにおけるちぐはぐな組み合わせ

が引き起こしたものなのである。

■そのようなカーニバルが、
『悪霊』第一部終わりに設定されている。
当初その場に来る予定ではない人間たちが、
次から次へとワルワーラ夫人の屋敷に現れる。

主人公のステパン氏をはじめ、
ざっと数えただけで12人はいるだろうか。

■その集まりでさまざまなやり取りがあったのち、
シャートフ(元農奴の息子、役人)が、
突然、ニコライ(ワルワーラ夫人の息子)を
ぶん殴るのである。

なぜ殴ったのかについては、
現時点では明らかではないが、
この小説の記録者であるGの口調では、
すでにすべての事情が明らかになっているらしく、
とすれば、こうした事件の背後には、
十分な理由があることになる。

■ともあれ、第一部の最後、
あのような大人数がまったくの偶然のように
ひとつの部屋に集まるということに、
リアリティが感じにくく、
小説としての危うさを感じさせる。

■それだけに、大カーニバルがなぜ生じたのか、
という謎が残るわけで、
その謎をG氏が知っているだけに、
読み手の興味は増していく(^-^)。

この辺りのドストエフスキーの手法は巧い。
もちろん、これを巧いと捉えるのか、
汚いと捉えるのかは、読者それぞれだろうが。





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最終更新日  2007.09.15 17:09:11
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