「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2011.04.06
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『ボスニア・ヘルツェゴビナ』とは?・・・・・・・・・辞書ウィキペディアさま参照

東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家、地域。

首都は、サラエヴォ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と

スルプスカ共和国(セルビア人共和国)の

ふたつの構成体からなる連邦国家である。

ほぼ三角形の国土を持ち、

国境のうち北側2辺をクロアチア、

南側1辺をセルビア、

モンテネグロと接する。

ユーゴスラビアからの独立時、

独立の可否や国のあり方をめぐって

ボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人が

それぞれ民族ごとに分かれて

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。



・・・歴史・・・

【古代・中世】

現在のボスニア、ヘルツェゴビナには

当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでいたが、

紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。

その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、

中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。

この地域は地理的環境から、

カトリックと正教会の対立の最前線となり、

両宗教の激しい布教争いの場となった。

このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。

12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。


【オスマン帝国統治時代】

15世紀後半までには

ボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。

正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていた

ボゴミル教徒たちの多くは、このときイスラム教に改宗した。

またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んで

ボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、

この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。

サラエヴォはオスマン帝国のボスニア州の中心となり、宮殿が築かれ、

帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。

多くの住民がイスラム教を受容していたことや、

その戦略的重要性のために、

ボスニア・ヘルツェゴビナでは

他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。

16世紀から17世紀にかけて、

オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、

ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしている。


【近代】

19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島は

オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。

1875年にボスニア蜂起が起きると、

この反乱を口火として露土戦争が起こった。

戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより

1878年に開かれたベルリン会議によって、

オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。

オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。

このことがセルビアの大セルビア主義や、

汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。

第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 により

オーストリア・ハンガリー帝国は解体され、

セルビアの南スラブ連合構想に基づいて

セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、

ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。


【第二次世界大戦】

第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、

ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。

クロアチア独立国の支配下では、

クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、

セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、

数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。

また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、

クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。

この時代、フォチャをはじめとする各地で、

ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。

これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、

多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、

ボスニア各地で戦いを繰り広げた。

パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の

第1回の会合はビハチで、

第2回の会合はヤイツェで行われた。


【社会主義時代】

ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、

1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、

ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとして

ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。

戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、

クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、

多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、

地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。

ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、

ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、

経済活動や政治的権利は、より下位の単位に移管されていった。

ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは、

多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、

固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。

1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、

ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。

これは、連邦の中央政府の意向によって、

ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、

ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。

長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、

都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。

また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、

言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。

体制批判的な映画も製作され、

またサラエヴォはユーゴスラビアのロック・ポップスの一大拠点となった。

また、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・以上ウィキペディアさま参照・・・・・・・・・・歴史つづく

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最終更新日  2011.04.06 23:16:52
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