全67件 (67件中 1-50件目)
あちこち旅をしてまいりましたが・・・何気に見ていたテレビで、訪問した場所が、出て来ると、ちょっと嬉しく思うのであります。 昨夜は、ニュージーランドのクイーンズタウン おやおや~湖畔のお洒落な・・・レストラン 確かに、あの2階で食べたのですが・・・ そのステーキが、考えられない・・・硬さ! それが、昨日の放送では・・・ 「わ~ぁ!とっても 柔らかくて 美味しいわ~」 とのレポ・・・・・えええっ? 嘘や!嘘!!! テレビの時は、柔らかいのでしょうね? 未だに、あのステーキは、どうして あんなに硬かったのか・・・考える時があります。 でも、帰りに見た南十字星は、素敵でした☆ 先ほど・・・BSで放送されたのは クロアチアのスプリット 珍しい~と思いました。 クロアチアは、最近 よく 写るけど・・・ スプリットは、珍しいですよね~ とても懐かしかったです。 旅の楽しみは、終わってからも 何度も楽しめるものですね~ ぜひ、出かけてみて下さいね~きっと良い事が♪ それではぽち
2014.01.18
コメント(4)
2CELLOS・・・・意味は、そのまま2人のチェリスト 彼らは、クロアチア出身のチェロ演奏家 クラシックを勉強したチェロの達人 おまけに・・・かなり「イケ面」 まず聞いてみてくださいマイケルのカヴァー曲です♪ クオリティー高いです~ クロアチアの旧市街での演奏もお見事! 凄いでしょ~ 2CELLOS クロアチアの旅を思い出してしまう・・・ 世界の隅々まで知りたい気持ちは・・・どこまでも果てしない チェロを聞いてウキウキそんな日にもポチっとよろしく
2011.10.27
コメント(14)
クロアチア【世界遺産】プリトヴィツェ湖群国立公園で楽しみにしていたのは、プリトヴィツェ湖をまったりとクルーズする事であります。冬になると湖が凍ってしまいます。そうなっていたら・・・どうしょう!船は、中止・・・なんだけど 『クロアチア旅日記』・・・冬のクルーズ プリトヴィツェ湖が、凍っていたら・・・乗れませんが あああ・・・凍っていません・・・乗れます! おじさんが、雪かきしています・・・ 舟は、ゆっくりこちら岸へ 『プリトヴィツェ湖群国立公園』丸ごと・・・貸切状態 さぁ~クルーズ出発 凍る寸前の美しい湖面 静かです・・・・し~ん さかさ プリトヴィツェ なんと素敵な景色 朝まで降った雪で・・・白くお化粧して 舟を降りて 乗っていた船 【世界遺産】プリトヴィツェ湖群国立公園・・・堪能 ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアの国境に近い プリトヴィツエ国立公園で激しい戦いがありましたぽち 【動画】1992年~1995年「ボスニア内戦」 そんな激しい戦いが、あったなんて夢のようです。 沢山の方が亡くなり、家を失った事を考えらならの 静かなクルーズでした。 プリトヴィツェの平和にポチっとよろしこ→
2011.04.10
コメント(11)
クロアチアの世界遺産「プリトヴィツェ湖群国立公園」の景色を・・・・ぜひ見ていただきたいです。普通は、夏のプリトヴィツェ湖の景色ですが・・・私の自慢は、真冬の「プリトヴィツェ湖群国立公園」なのであります。 『クロアチア旅日記』・・・プリトヴィツェ湖群国立公園 12月15日(水)ホテルのお部屋のカーテンを開けると ホテル・マコラ☆☆☆お部屋の窓から きゃ~っ! 凄いです!コチンコチン 旅も8日目・・・超~大好きな雪景色 バスで「プリトヴィツェ湖群国立公園」までは、すぐです。 ユネスコ【世界遺産】モニュメント発見! 雪が、いっぱいだよ~ん! 気温は、マイナス20度かな? 可愛い現地ガイドさんとお友達になったよ さっらさらのパウダースノゥの上を歩く♪ ♪むっちゃ~楽しい♪ランラァラン♪ 第1ビューポイント到着 滝が幾重にも重なって凍りそうで凍っていない なんと言う事でしょう微妙な・・・絶景 絶景 えええ・・・その絶景の「滝」が見えないって!? 山を下って「滝」が見える所まで来ましたよ! 見事な「滝」がっ・・・見えたかな? 昨夜 降ったばかしの雪だから・・・絶景 滝の前に木橋があって・・・ このポージングしてよ! ガイドさんは頑張って ジャパニイズ短いし クロアチアギャル 足が・・・長いです! 公園の番犬「ブラッキー」君も一緒に これが・・・意外に寒くない・・・快適なんです! 冬の絶景にポチっとよろしこ→
2011.04.09
コメント(8)
世界危機遺産だった!「プリトヴィツェ湖群国立公園」お願い(^-^)読まないでね♪プリトヴィツェ湖群国立公園・・・・・・・・・・・・辞書ウィキペディアさまより参照 『プリトヴィツェ湖群国立公園』 クロアチアの国立公園の一つで、 ボスニア・ヘルツェゴビナ国境に近い プリトヴィツェ湖群市(Plitvice Lakes municipality)に位置する。 滝で結ばれる階段状に並んだ 16の湖が美しい景観を作り出しており、 1979年にユネスコの世界遺産に登録された。 プリトヴィッチェ湖群国立公園、 プリトヴィチェ湖群国立公園などとも表記される。 なお、「プリトヴィツェ湖群」は現地のクロアチア語ではPlitvi?ka jezera である。 【地理学的・地質学的特色】 プリトヴィツェ湖群は Li?ka Plje?evica山(Gornja Plje?evica山頂の標高1640m)、 Mala Kapela山(Seli?ki vrh山頂の標高1280m)、 Medve?ak山(標高884m)の 山間に広がるプリトヴィツェ台地に位置し、 湖群名もこの台地名によっている。 16の湖は、 山間から流れ出てくる水が標高636mから503mまで、 およそ8kmにわたって南北方向に流れる中で形成されており、 上流の湖群と下流の湖群がある。 湖群はおよそ2km?に渡って広がり、 下流端にある湖からコラナ川(Korana)に流れ出す。 一帯の地質は 主にドロマイト(白雲岩)と石灰岩のカルストからなり、 このことが際立って特徴的な景観が生まれる素因となっている。 湖群は、コケ類、藻類、バクテリアなどの 光合成が関与して生まれた石灰質堆積物(石灰華)の自然のダムからできている。 植物片を混じえた堆積物は年々積み重なり、 年1cmの割合で堆積物のダムが高くなっていく。 湖群は紺碧、紺青、灰色など、目を見張るような色合いをもつ。 水の色はミネラルや有機物の量、あるいは日照の角度などによって絶え間なく変化する。 【植物相と動物相】 プリトヴィツェ国立公園は主にナラやトウヒ、モミなどからなる鬱蒼とした森林に覆われアルプスと地中海の植生が渾然となっている。特に植物群落の多様性が特筆に価するがそれは微気候のラインナップ、多様な土壌、標高差などによって生み出されている。 一帯は同時に動物種や鳥類に関しても際立った多様性を示している。ヨーロッパ種のヒグマやオオカミ、ワシミミズク、ワイルドキャット、オオライチョウといった稀少な動物種が見られるほか、より一般的な動物種も多く棲息する。鳥類は少なくとも126種が記録され、そのうち70種以上がこの湖群を繁殖地としている。 【歴史】 人類は、この地では数千年来暮らしている。 人種も多様でイリュリア人、トラキア人、ケルト人、イアピュデス人(Iapydes)、 古代ローマ人、アヴァール人、スラブ人、テュルクなどがかわるがわる住み着いた。 1528年に一帯はオスマン帝国領となり 以降オーストリア帝国が奪取するまでの約150年の間、 オスマン帝国の支配下にあった。 オーストリアはその後、 一帯を軍政国境地帯に取り込んだ。 この地にはその頃既にクロアチア人が住んでいたが、 オスマン帝国の抑圧から逃れてきたセルビア人たちも住み着いた。 19世紀後半には、 プリトヴィツェ湖群は一大観光地となった。 1896年には最初のホテルが建設されたが、 それに先んじて早くも1893年には 今日の国立公園当局の前身である保全委員会が組織されていた。 1949年には ユーゴスラビア政府が湖群を国有化し、国立公園を設定した。 この国立公園はその傑出した自然美を評価されて、 1979年にユネスコの世界遺産に登録された。 プリトヴィツェ国立公園は ユーゴスラビア時代には最も人気のある観光地のひとつだったが、 1991年3月には クロアチア紛争の最初の武力衝突であった プリトヴィツェ湖群事件(Plitvice Lakes incident)の舞台となった。 公園はクロアチア内で独立を宣言していた クライナ・セルビア人共和国(Republic of Serbian Krajina)の軍隊が占領し、 ホテルや周辺施設をバラックとして使用した。 この過程で一帯はいくらかの損害を蒙った。 1995年8月になって、 クロアチア紛争を終結に導いた嵐作戦(Operation Storm)の際に クロアチア軍が一帯を奪還した。 この戦争に伴って、 ユネスコはプリトヴィツェ湖群国立公園を危機遺産リストに登録した。 クロアチア政府はこの国立公園の観光地収入の大きさに鑑みて、 一帯の地雷撤去を最優先課題のひとつとして取り組んだ。 ユネスコは1997年12月に地雷の撤去が進んでいることと、 セルビア人分離独立派の占領からも解放されていることから 危機遺産リストからの除去を決定した。 今日のプリトヴィツェ湖群国立公園は、 クロアチアでも最大級の観光地となっている。 1997年には 国立公園の範囲が100.2km?拡大され、 それを受けて世界遺産の登録範囲も2000年に拡大された。 【登録基準】 この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。 (7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。 (8) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。 (9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。 ・・・・・・・・・・以上ポチだけよろしこ→
2011.04.09
コメント(1)
世界遺産の街クロアチアのドゥブロヴニク旧市内で楽しみにしていたことは「美人になるクリーム」を買うことだけではありません!イタリアの巨匠ティツィアーノの作品があると言う大聖堂へ行くことであります。さて日曜日ですから・・・どうなるのでしょうか? 『クロアチア旅日記』・・・名画を見たいの! ティツィアーノの作品があるはずの大聖堂は メインストリートを右に曲がった突き当たり まだ日曜礼拝の最中で入れません 時間を・・・つぶしがてら港へ 日向で猫ちゃんが不思議なポーズのお昼寝 冬バージョンなのかな? 2匹が一緒ワンペアー ドゥブロヴニクには、動物がいっぱいです そろそろ教会のミサも終わったかしら? 信者さんたちは、お年寄りが多い 階段をゆっくり降りてくる姿を見送り・・・中へ うぁ~素晴らしい大聖堂です! 私の目的は・・・ティツィアーノ「聖母被昇天」の名画であります。 宗教画が、いっぱいです・・・ おおおお・・・ティツィアーノ発見!! ティツィアーノ作 「聖母被昇天」 マリアさま~素晴らしいです ティツィアーノ・ヴェチェッリオ Tiziano Vecellio 1488年~1576年 イタリアルネサンス期の巨匠 アドリア海の先のヴェネツィアで活躍したお方 宗教画でありながら・・・明るい色彩のティツィアーノさまが大好きです♪ なんと~癒される名画なのでしょうか? 感動して・・・写真をバチバチ 教会の椅子に坐っていた まかろんちゃんご夫婦に出会いました! ご主人が「きらりさん~ここは、撮影禁止なんですよ!」 ええええ・・・・入口に書いてなかったけど あああ・・・ゴメンナサイ また失敗癒しの名画にポチっとよろしこ→
2011.04.02
コメント(8)
クロアチアで一番有名な観光地ドゥブロヴニク旧市街を城壁の一番高い所から見渡し、すっかり満足してしまった・・・きらり。下を見るとドミニコ会修道院が見えていました。ヨーロッパで3番目に古い薬局は、魔法の秘薬が売っているのだそうです・・・ほほほっ♪ 『クロアチア旅日記』福祉国家の薬局 ドゥブロヴニクの城壁から旧市街が見える 教会発見!!!! ドミニコ会修道院・・・・どうしても行きたい場所 ダッシュで行かねば teapottoさんのお勧めがあった「美人にるクリーム」 美人になれるクリームとも? 若返るくりーむ? ドミニコ会修道院・・・狭い路地を入ります きらり。たった一人っきり・・・・ 修道院の中庭には、色々な植物が植わっています これは、全て「薬草」なのだそうです! 中世の時代にドゥブロヴニクは、完璧な医療福祉が整っていました。 病気になった人は、医師と薬は、無料にする決まりがあったとか その中心になっていたのが、この修道院 ヨーロッパで3番目に古い薬局が、ここには あると言う! しかし なんと居るのは、私ひとり・・・ 静か過ぎますコツコツコツきらりのブーツの音が響く回廊 確か?この辺りに・・・薬局が ここが入口 ええええ・・・閉まってる! なんでぇ~なんでぇ~ 遠くからジージャンを来たおじさんが来て 「今日は、日曜日だから、お休みなんだよ!」 ええええ・・・・お休みだなんて~遥々アジアのジャパンから来たのに! と、ジージャンのおじさんに懇願 おじさんは鍵を出して 緑の鉄扉をギギギギギ~ 電気をパチ~ッ あああ・・・ここですよ! 世界で3番目に古い薬局は・・・感動です。 おじさんは、ここは美術館なんだ 1321年と記してあるチケット 20リンギだと言う・・・20リンギ320円高いじゃん! でもお休みの所をわざわざ開けてくれて美術館が貸切ですもん! 320円でも、良いかな? ジージャンのおじさんと一緒に薬局で記念写真 美術館の中を撮影しても良いと言うので・・・ あらら~これは凄い マグラダのマリア発見 おっと~でかい 聖母被昇天も 素晴らしい宗教画が、いっぱいあります・・・ 「おじさんこれは、ティツィアーノなの?」と聞くと 「そうだよ~ティツィアーノだよ!」 「つたくぅ~本当は違うんでしょ?おじさん!」 おじさんのホッペが、ふっくら盛り上がり・・・ 「おじさん・・・やっぱし違うんじゃないの!?」 そこへ、もうひとり お友達が来て おじさん2人は、ペラペラ・・・ 薬屋さんは、お休みだそうで、 美人になるおクリームも、若返るおクリームも・・・今日は、お休み なに・・・ここまで東洋の端っこから来たのに売ってくれないのか? と粘ったけど・・・全然、無理 どうも、これ以上美人にも 若返りも必要が無い・・・と マグラダのマリアの声が聞こえそうなので 私が、薬局の美術館を出ると 2人のおじさんは、私に手を振り 美術館の外へ出て電気も消して緑の鉄扉も閉めて施錠 ええ・・・きらりだけに貸切だったんですね! コミニュケーションも結構~楽しかったし・・・一旦外へ出て 教会へ 大きな教会には、2名の老人のみ・・・私もお願いしょ~っと atamlinちゃんのベビちゃんが、元気に産まれて来ますように! 素晴らしいマリアの母子像が、いっぱいですね~これなら 安産間違いなしポチっとよろしこ→
2011.03.31
コメント(14)
アドリア海に突き出した形の【世界遺産】ドゥブロヴニク旧市街は、城壁でスッポリ囲まれております。ヨーロッパは、他国の攻撃から、お城や市民を守る為に競うように高い塀を築き安全で豊かな生活を得ようとしたのであります。 『クロアチア旅日記』・・・城壁の上から ドゥブロヴニク旧市街をグルリと囲む城壁 これから港のここら辺りからご一緒に登ってみましょう)) チケットは、70クーナ(約1120円)ツアー料金内 12月12日2010年9:20 これで・・・市内を囲む城壁を1周できます 階段を登ると・・・ 思っていた以上の気持ちの良さ♪ アドリア海に浮かぶロクルム島72ヘクタール 1192年リチャート1世が難破した船から助けられた島ですが 夏場は、ヌーディスト・ビーチ・・・きゃ~っ 階段を登り下り・・・気持ちいい冬の日 城壁の 一番高い所・・・発見! 登りたい志願者きらり。 きゃ~怖い階段です! 大聖堂に中世の街並みオレンジの屋根が美しいですね 1667年の大震災で、破壊され立ち直り コート発見 1991年~1992年の内戦で街は、めちゃめちゃに ユネスコ【世界危機遺産】となり・・・心配していましたが 見事に復活し、この見事なオレンジの屋根に紺碧の海と大聖堂 旧ユーゴスラビア強いです! サッカーも強いです! そう~日本人も強くゆきましょう・・・支援サッカーに感動 旧ユーゴスラビア出身のイケ面 Jリーグ側ストイコビッチ監督 城壁を半周した所でグループは、解散 城壁を1周しようか?ここから降りて、街を歩こうか? 迷わず・・・階段を駆け降り街へ走るきらり。 それには、深い深い訳がありまして・・・ その訳は若返りのぽちよろしこ→
2011.03.30
コメント(11)
ドゥブロヴニク旧市内をお散歩しています♪ピレ門から入り【世界遺産】マークを発見!オンファリオ大噴水で手を洗い♪ドゥブロヴニクのメインストリートであるプラツァ通りを歩きフランシスコ会修道院を通り、突き当たった所がルジャ広場・・・気にかかる建築を発見 『クロアチア旅日記』・・・旧市街の見物 ルジャ広場にある気になる建築 スポンザ宮殿・・・早朝なので扉が閉まっています! 右の横丁を入ると・・・グンドゥリチェヴ広場が 小さなコンビニ いつもならマーケットで賑わう広場も閑散期の日曜日なのでお休み その先まで行くと・・・ゆるい登り坂を登ると 映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の階段みたい? なんと・・・同じ建築家のディザインだそうです。 宮殿を右に曲がると・・・・正面に大聖堂 1667年の大震災に合い、1713年に再建されました。 朝から日曜礼拝をしていて入れないので・・・ ミサが終わってから見せて欲しい・・・ティツィアーノの名作 左へ曲がると・・・港 向かいの丘からドゥブロヴニクの前景を写したんですね ここで東欧風のテーブルセンターを購入 さて再び高い壁の中に入り 教会に入る為の長い階段は、半分から下が石で 女性のスカートの中を見れないような配慮だそうです。 さて、これからドゥブロヴニクを囲む城壁の上に登ります それは、ここで2週間振りのお日様が素晴らしい景色にスポットライト 絶景にポチっとよろしこ→
2011.03.29
コメント(10)
ユネスコ【世界遺産】を訪れると、世界遺産のマークが何処にあるのか?探してしまう・・・正面入口の近くが一番多く。石で出来ているか?石にプレートが貼ってある事が多いのであります。ドゥブロヴニクの世界遺産マークは、どこにあるのかな? 『クロアチア旅日記』・・・ピレ門より ドゥブロヴニクを囲んでいる壁 ロブリエナッツ要塞のメインゲートが見える 橋を渡りウキウキ 旧市街のメインゲート「ピレ門」 入口には、碑文が NON BENE PRO TOTO LIBERTAS VENDITUR AURO LIBERTASとは・・・「自由」と言う意味で 訳すと・・・ 「いかなる黄金を持ってしても自由を受け渡してはならない」 (THE世界遺産TBSで放送された時に説明済み) ヨーロッパの歴史は、宗教と領土の争いであります。 そんな歴史の中で海洋貿易に寄って豊かな発展を遂げた街 城壁の中に入ると 広場の一角 ユネスコの【世界遺産】マーク発見! 真っ直ぐ伸びる石畳の広いメインストリート 「プラツァ通り」 貿易で発展した時代の水道が存在 蛇口の顔が取れているのは、残念だけど 海洋貿易の舟も使った由緒あるお水です 大通りの左には、 修道院と博物館・・・古い薬屋さんであり 医療と福祉の街であった証であります。 このお話は、後に詳しくお話するとして・・・ 先を急ぎます お店のドアーと ショーウィンドーが一体になっています。 クリスマスの飾りも、いっぱいあります コンダクターおじさまとツーショット 夏場は、押すな押すなの大通りですが・・・閑散 大きなツリーが見えて来ると 「ローラントの像」 =ドゥブロヴニクのひじ= と言われ ロラントさんの手からひじの長さが、 貿易の時には、長さの単位にされたそうであります。 ココには、ドゥブロヴニクの歴史を見ることができる建物が ウキウキしながらポチっとよろしこ→
2011.03.28
コメント(5)
オレンジの屋根が美しい家々の周囲が城壁に囲まれた憧れの街【世界遺産】ドゥブロヴニク旧市街は、美しいアドリア海に面しております。アドリア海の真珠と呼ばれ早くから世界遺産登録がされた場所は、何処か?映像で見たような街であります・・・ 『クロアチア旅日記』・・・映画の世界 「アドリア海の真珠」と呼ばれる ドゥブロヴニク 【世界遺産】ドゥブロヴニクの旧市内 スタジオ・ジブリ作品の中に出てくる街 最初は「魔女の宅急便」 魔女が、ほうきに乗って宅急便を届けた街 その後「紅の豚」 飛行機から見えた街のモデルは、 ドゥブロヴニクであります。 宮崎さんだけでなく・・・ 映画「マイ・フェア・レディ」の 作家=バーナードショウは、 「ドゥブロヴニクを見ずして天国を語ることなかれ」 と、誉めたたえたそうであります。 宅急便が届く天国ってどんな場所なのでしょうか? 豚と魔女の世界にポチっとよろしこ→
2011.03.27
コメント(2)
クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツェゴビナ・モンテネグロを旅してみても・・・日本語が話せるガイドは、おりませんねぇ~これは、現地の人の生活ぶりを知る為には、ハンディーであります!聞きたいことが、いっぱいのきらり。不完全燃焼であります・・・さて 『クロアチア旅日記』・・・現地ガイド 一般旅行社が、案内するようになって まだ 4~5年であり・・・現地言葉は、スラヴ語であり どこのお店でも 日本語を話す人に出会う事がありません 現地で活躍しているのは、 現地スラブ語のガイドと・英語・イタリア語・スペイン語のガイド 日本語のガイドを育てるには、 あと10年は、かかるかも知れない? と、我コンダクターは、説明している。 【世界遺産】ドゥブロヴニクの要塞前に到着して 出迎えてくれた現地のガイドさん 英語ガイドさん 私のガイド=1年に3回も訪れるので顔なじみらしく? 即座に手渡すとウキウキ 現地ガイドは、大喜びでハグ! 日本のチョコが好きなのね ドゥブロヴニクのガイドさんの説明を 我コンダクターが ポイントで、通訳してくれる ですから、あまり詳しい説明は、心に残らず もう~ほとんど忘れてしまいましたが・・・ 今回の旅で一番の見所へとまいりましょうか? 中世のタイムカプセルにいざポチっとよろしこ→
2011.03.26
コメント(4)
クロアチアの ドゥブロヴニクは 過去に2回も破壊されています。 1回目は・・・・1667年の大地震(5000人以上が亡くなり) 2回目は・・・・1991年~1992年の内戦 【世界遺産】ドゥブロヴニクは、非武装化していたのに ・・・ ユーゴスラビア連邦軍の攻撃で 町は、壊滅的な被害を受け 【ユネスコの危機遺産リスト】にあげられました。 クロアチアは、ユーゴスラビアから独立 激しい内戦が終結し平和になり ドゥブロヴニクは、 市民の強い意志で 同じ材料で、同じ形の建物に 修復したのであります。 美しいオレンジ色の屋根もほとんどが、戦後復興したもの 東北地方は、チリ・ツナミで破壊され 東関東大震災で、街は再び破壊され 痛ましい事であります・・・ 2度も、全てを失うなんて・・・どんなに辛い事なのでしょう 同じ家を取り戻したいと願う気持ちは、 ドゥブロヴニクと同じ・・・・ 頑張りましょう! これは、日本全体 世界全体の問題です。 考えましょう~どうしたら東北を救えるか? どうしたら人類を救えるか? きらりも考えますポチっとよろしこ→
2011.03.25
コメント(13)
クロアチア一番の観光地である【世界遺産】ドゥブロヴニクDubrovnikの歴史についてウィキペディアさまで調べてみると・・・大震災によって大きな被害を受けていたり、ユネスコの危機遺産になる程の戦場になった事もあったんですが、長~い歴史なので読まないでね♪ きらりのシッポじゃなくて↑おばあちゃんのお散歩している犬です 『クロアチア旅日記』・・・ドゥブロヴニクの歴史 『ウィキペディア(Wikipedia)』さん・・・・・・・・・で、いちおう調べてみました♪ドゥブロヴニク(クロアチア語:Dubrovnik, イタリア語:Ragusa, ラテン語:Ragusium) クロアチア、アドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市及び基礎自治体 ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都 ボスニア・ヘルツェゴビナの唯一の海港であるネウムが回廊状態で分断しているため クロアチア本土とは陸続きではない→飛び地です 「アドリア海の真珠」とうたわれる美しい町並みを誇り 1979年【世界遺産】登録されアドリア海沿岸でも傑出した観光地で港 ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市 人口は2001年に行われた国勢調査で43,770人 クロアチア紛争以前の1991年に行われた国勢調査では49,728人 そのうち、約30,000人はドゥブロヴニク市街に居住しクロアチア人は住民の88.39パーセント ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で 中世のラグーサ共和国は アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなど と共に5つの海洋共和国に数えられ アドリア海東側では 唯一のライバルである都市国家はヴェネチア共和国だけであった 巧みな外交術と豊富な富に支えられ 15世紀から16世紀にかけてはとくに特筆するほど発展している。 1970年代、恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、 1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争で セルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され砲撃により多大な損害を蒙った。 =歴史= 町の起源は古くローマ帝国時代、あるいはそれ以前に溯るとされている。 町のイタリア語名ラグーサは、 当時のラテン語名ラグシウムに由来する。 歴史的に7世紀頃ラウス(Laus)と名付けられていた岩島に近くの都市エピダウロス(Epidaurus)からのダルマチア人の避難民が、 スラヴ人の侵略から逃れるために成立したとされる他、 8世紀からのビザンチンのバジリカや城壁の一部などの新たな考古学的な発見を基にした説もあり、 従来からの説が異議を唱えられることもある。 バジリカは当時、 相当に大きな居住地が形成されていたことを示している。 また、科学的な類似性によってラグーサは 紀元以前に大規模な建築が行われた説も増えてきている。 「ギリシャ説」は 最近の発見によって増えてきており、 ドゥブロヴニク港周辺での発掘で多くのギリシャ様式の遺物が発見されている。 市内の主要道路の穴からは自然な砂が現れ、ラウス(Laus)、ラウサ島(Lausa)説は否定された。 アントゥン・ニチェティッチ博士(Antun Nicetic)の 「ドゥブロヴニク港の歴史」(Povijest dubrovacke luke)によれば、 ドゥブロヴニクはギリシャ人船員によって成立されたとしている。 鍵となる要素は古代船は1日当たり45~50海里の航海をし、 夜間は休息と停泊するための砂浜が必要であったことである。 停泊地の理想としては新鮮な水源が付近にあることであった。 ドゥブロヴニクは2つを兼ね備えており、 ギリシャ人の居住地として知られたブドヴァとコルチュラ島の95海里離れた2つの地点を結ぶ中間に位置していた。 =ラグーサ共和国= 東ゴート王国崩壊後、 町はビザンティン帝国の下保護国の都市国家として沿岸部のセルビア人などと交流があった。 十字軍の後、 ラグーサはヴェネチア主権(1205年~1358年)の下に入り、 ダルマチアの都市として権利を得ている。 1358年、 ザダル平和条約が結ばれ隷属関係にあったハンガリー王国から独立を果たす。 14世紀から1808年までラグーサは自由国として存続した。 15世紀から16世紀にかけて最盛期を向かえヴェネツィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家がライバルであった。 1272年にラグーサ共和国は自治権を獲得し、 ローマ法や地元の慣習を成文化している。 法令には都市計画や公衆衛生上の検疫に関する規則も含まれていた。 ラグーサ共和国の時代、 この町ではイタリア系とスラヴ系の住民が一貫して共存し、共に繁栄を支えていた。 もともとイタリア系住民が住んでいた島の部分と スラヴ系住民の住む対岸の集落の間にある海峡を埋め立てることによって、 両者の一体化はさらに進んだ。 共和国では早い段階から現代的な法体系が整備されており、 1301年には医療制度が確立されおり1317年に現在でも営業している最初の薬局が開業している。 1347年に養老院が1377年には隔離病棟が開かれた。 1418年には奴隷貿易は廃止され、 1432年に孤児院が開かれている。 1436年に約20kmの水道施設が完成している。 そもそもこの町は後背地であるボスニアやセルビアで産出される鉱石の積出港として栄えていたが、 15世紀にオスマン帝国がバルカン半島の内部へと進出してくるとその宗主権を認め、 ヴェネツィアがオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは裏腹に、 かつてヴェネツィアが独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった。 貴族階級を含め、17世紀まで共和国の住人のほとんどはラテン由来の人々であったが 周辺部からクロアチア人が移住するようになった。 同時期、スラヴ系とラテン系の住民が一緒に住むようになり、 スラヴの要素とルネサンス期のイタリア文化が影響しあい ラグーサはクロアチア文学のゆりかごとなった。 共和国の経済は一部は土地の開発によってもたらされたが、 大部分は海洋交易によるものであった。 巧みな外交術は交易を助け、 ラグーサの商品は自由に海を行き交い都市には巨大な商船団が存在した。 各地で居住地も発見されている。 多くのスペインやポルトガルからのマラーノやユダヤ人をラグーサはひき付けた。 1544年、ほとんどをポルトガルの難民で占めた船が着岸したとバルタサール・デ・ファリア(Balthasar de Faria)がジョアン王に報告している。 隆盛を極めたラグーサ共和国だが、1667年に発生した壊滅的な地震の後、 アドリア海交易の不振と相まって徐々に後退を始める。 地震では5,000人を超える市民が死亡し、公共の建物のほとんどは破壊された 。 1699年、共和国はクロアチア本土にある2つの小区画の領地をオスマン帝国に売り、 前へ進めるベネツィアの軍とオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた。 今日、これらの土地はボスニア・ヘルツェゴビナに属し ボスニア・ヘルツェゴビナでは唯一、アドリア海に接する町であるネウムである。 1806年、周辺部をナポレオンの軍隊に包囲され、 ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によってラグーサ共和国は1ヶ月の包囲に降伏した。 ナポレオンの最初の要求は自らの軍隊の自由な通行で、 領土の占領や圧力ではなくフランスはラグーサの友人であるとした。 しかしながらその後、フランスの軍は 港を封鎖し共和国政府を強制し市内へ軍を進めた。 1808年、オーギュスト・マルモンはラグーサ共和国を廃しナポレオンの初の国家となるイタリア王国に統合され、 フランス支配下のイリュリア州となる。 =オーストリア・ハンガリー帝国= 1814年1月29日、オーストリア・ハンガリー帝国は町を占領しウィーン会議によって、 ハプスブルク領ダルマチア王国 (en) の一部とされた。 この時期の産業は限られており、いくらかの絹や皮革加工、酒造、油の生産などであった。 週に3度、トルコのキャラバンが町のバザールにやって来た。 ハプスブルク支配時の20世紀初期に観光開発が始まり、 新たな港や1970年代まで存在したドゥブロヴニク市電が整備されている。 フランツヨーゼフ1世やマクシミリアンの夏のヴィラが沖合いのロクルム島に築かれた。 =1921年から1991年= 第一次世界大戦後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が新たに後のユーゴスラビア王国となるセルブ・クロアート・スロヴェーン国の都市となる。 都市の名称もラグーサから公式に現在のドゥブロヴニク変えられた。 第二次世界大戦時にはナチスの傀儡国家であったクロアチア独立国の一部であった。 イタリア陸軍が最初に占領しドイツ国防軍はその後、1943年9月8日に占領し始めている。 1944年10月にチトー率いるパルチザンがドゥブロヴニクに入りその結果、 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となる。 パルチザンは市内に入ると直ぐに約78名の市民に対し裁判無しに死刑を宣告した。 その中にはカトリックの聖職者も含まれていた。 ユーゴスラビア崩壊 それまで観光客で賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃は1991年から1992年にかけて続いた。 1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアやスロベニアが独立を宣言した年で、 クロアチア社会主義共和国は現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている。 1970年代の早い段階で、世界遺産に登録されている旧市街地は 戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが 1991年の独立宣言後、 ユーゴスラビア人民軍に残っていたセルビア・モンテネグロによって町は攻撃されている。 当時モンテネグロの政権はセルビア人政府に忠誠を誓うモミル・ブラトヴィッチ(Momir Bulatovi?)が担っており、 ドゥブロヴニクがクロアチアに残ることは歴史的にモンテネグロの一部である為に容認出来ないと宣言している。 この宣言にも関わらず、ドゥブロヴニク市内で多数を占めるのはクロアチア人でモンテネグロ人の居住者は少数であり、 セルビア人は人口の6%を占めるだけであった。 この要求にはミロシェビッチが送り込んだ民族主義者の大セルビア主義が関係している。 1991年10月1日にドゥブロヴニクへユーゴスラビア人民軍(JNA)が攻撃を開始し、 その後ドゥブロヴニク包囲が7ヶ月間続いた。 12月6日には最大の砲撃が行われ、19人が死亡し60人が負傷している。 クロアチア赤十字社によればこの攻撃により114人が死亡したとされ、 ドゥブロヴニク包囲では犠牲者に著名な詩人であるミラン・ミリシッチ(Milan Milisi?)が含まれていた。 海外メディアは旧市街の損害や人的犠牲を大きく大袈裟なくらいに批判した。 紛争終結後は砲撃による旧市街の損害は復旧が進んだ。 修復はユネスコのガイドラインに忠実に元来の姿に戻されている。 2005年にはもっとも被害を受けた箇所も復旧しており、 紛争の被災地を示した地図を城門近くで見ることが出来る。 旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷でのJNAの大将や将校の起訴内容にはこの砲撃も含まれている。 おつかれさま(^-^)改めて歴史の重みを感じてポチっとよろしこ→
2011.03.22
コメント(2)
2010年12月12日(日)旅も「5日目」ドゥブロヴニクのホテルに1泊して・・・・朝から【世界遺産】ドゥブロヴニクにバスで出かけました。お天気は、最高でアドリア海を見ながら心は、ウキウキ・・・・ええ~昨日まで何週間も雨だったんですって? 昨夜は、むっちゃ~凄い雷で雨がドシャ降り・・・怖かったけどきらきらの朝が・・・・・♪ 『クロアチア旅日記』・・・絶景ドゥブロヴニク ドゥブロヴニクのホテルに1泊して (お部屋から撮影) 朝から・・・・ドゥヴロヴニクへGOoooo・・・ ドゥブロヴニクは、地中海の真珠と言われるらしい? 地中海を見ながら5分くらいドライブすると バスは、道路上にぴたっと停止 これから・・・ ドゥブロヴニクの絶景スポット ビューポインまで 勝手に登ってくださぁ~い いち早く階段を駆け登るきらり。 ウキウキ・・・はぁはぁ あああ・・・THE世界遺産が見えたかも? どうせなら・・・もっと上から撮影したい! 私と、マカロンちゃんご夫婦は、 もっと上に登る とっても気持ちが良いからドンドン高く あらら・・・地中海の真珠にしては 地味な島?? 真珠じゃないかも? この島 じつは・・・夏場は ヌーディスト・ビーチになる島 「ロクルム島」 正面の島・・・ ヌーディスト・ビーチを見るんじゃぁ~無くて もっと右よ右 あああああ・・・・・・・・・ 絶景です・・・地中海の真珠 おおお・・・感動の真珠 来ましたよ! 【世界遺産】ドゥブロヴニクの写真で見た事があるアングル 登って高い所からの写真 おばさまやおじさまたちが・・・下の丘に見えます 感動です~やっぱし旅は、良いですね! 旅の写真は、やっぱし重たい心を癒してくれますポチっとよろしこ→
2011.03.21
コメント(7)
クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツェゴビナ・モンテネグロの旅も4日目のランチであります。そろそろ「焼き魚定食」が、恋しくなる時分でありますが・・・・・スプリトの港を見ながらのランチ♪お魚好きには・・・・ 『クロアチア旅日記』・・・塩焼き魚ランチ 【世界遺産】スプリトの港 お昼ご飯に走りますなんと・・・逆光 パン 白身魚のグリル ポテト ズッキーニ にんじん まぁ~焼き魚定食 お魚 詳しくなくて「すずき」? あまりにも巨大なのでボラかな?・・・多分すずき? 新鮮なお魚 そして塩の名産地 塩焼き魚定食 美味しいかったです 完食 ビール11クーナ(176円) さて、これからクロアチア国境越え・・・ボスニア・ヘルツェゴビナにお買い物に行きます! 美味しい「お塩」買いに パスポート出してお買い物ドキドキ ポチっとよろしこ→
2011.03.10
コメント(8)
クロアチアのスプリトを観光しております・・・楽しいお買い物や「鐘楼」登りをエンジョイした♪フリータイム♪を終え・・・グループは、集合して2つの像を見に行きます。さて・・・・・・どんなお姿なのでしょうか?そしてそのご利益とは? 『クロアチア旅日記』・・・2つの像 石段の上には『礼拝堂』があります。 エジプトから連れて来られたスフィンクス様が・・・ 狭い空間に 寝そべって「礼拝堂」を守っていらっしゃいます。 お気の毒スフィンクスさま・・・・まぁ~最近は、エジプトも色々ありまして・・・大統領もどこか他所の国に脱出されておりますので、スフィンクス様も、海を越えスプリトで余生をおくってらっしゃる方が、よろしいのではないかと 「この道を通して下さいな!」と言う 名前が付けられた通り道 むちゃくっちゃ~狭い道を抜けました。 城壁の外に出て、かつての正門である「黄金の門」 Porta aurea(北門)へ 今まで「黄金の門」と呼ばれていた門 正門とすると・・・地味すぎるじゃん! 多分、修復された この外の門が、本来の「正門」??? 黄金の門 ではないかと・・・推測 「黄金の門」Porta aurea (北門)外に偉そうな銅像が立っていました! グルグリ・ニンスキ司教像 イヴァン・メストロヴィッチ(1929年作) グルグリ・ニンスキ司教様ってどんな方か分からないのですが・・・ 銅像を作ったイヴァン・メストロヴィッチさんは、 「クロアチアのロダン」と言われる有名な作家さん 我コンダクターの説明に寄ると・・・ 戦争で破壊された為に、 後に復元された銅像なのだそうであります。 なぁ~んだ!クロアチアのロダンじゃ無いじゃん!!!???しかし、この銅像は、とっても有名な銅像なのであります。 何故って? 銅像の足の指に触ると・・・ 幸せになるとか? 願い事が叶うとか? ええ・・・そりゃ~ 誰よりも先に足を磨きに行かねば・・・ きらり。猛ダッシュで階段を駆け登り 司教さまの親指をコシコシ グループの皆様が、私を見て 大爆笑 それを見ていた「難波のお兄様」も・・・ 年末ジャンボ! 年末ジャンボ宝くじ! と叫びながら・・・登って来て 司教さまの指を力強くコシコシ たのんまっせ~3億円 お陰で司教さまの親指はピッカピカポチっとよろしこ→
2011.03.09
コメント(8)
今回、訪問したクロアチアのスプリトにある【世界文化遺産】の名前は「ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群」であります。登録は、1979年でありますから早くから登録された素晴らしい人類の遺産なのであります。何度も戦争に巻き込まれながら生き残った建築と、修復しながら住み続けた人々には、感謝であります。 『クロアチア旅日記』・・・世界遺産の人々と 【世界遺産】スプリトの歴史的建造物群をさまよっております ブラブラ広場に出ちゃいました! 子どもたちと ママさんたちの前には・・・ スタンドマイク仮説の舞台があります。 クリスマスのイベントなのでしょうか? とっても若い美人さんがいっぱい 私も、参加したいけど・・・ 動物のカブリ物がありましぇ~ん! だから、テンション 何か?楽しいことが 始まりそうじゃん それでも 私は、狭い路地へと消える おおお古いパン屋さん発見 ガラスケースの左上に since1937 ・・・・・昭和12年と変わらぬ店構え むっちゃ~古いパン屋さんにポチっとよろしこ→
2011.03.09
コメント(6)
大変に申し訳の無い事なのですが・・・私きらり。世界を旅して見聞を広めて居る訳でありますが・・・どうしても「お買い物」に心が、ナビクのであります。もう~物欲など無いと思っているのですが・・・海外に出かけると買いたい病がフツフツと!! 『クロアチア旅日記』・・・4つの門にて クロアチア【世界遺産】ディオクレティアヌス宮殿(スプリト) 城壁に入る時には「4つの門」があります 銀の門(東門)Porta argentea ・・・ココを出ると市場 鉄の門(西門)Porta ferrea ・・・細い路地がいっぱいの住宅地 黄金の門 Porta aurea(北門) ・・・かつての表玄関 その前には、修復され ほぼ完成の ・・・立派な門が出来ていて 門の前には公園が 銅の門 Porta Aenea(南門) ・・・海側の一番最初に入った地味な門 ブラブラ歩いて偶然にも発見してしまった「4つの門」出会えて良かった♪ ディオクレティアヌス宮殿 11本の大列柱 前の 老舗=ネクタイ屋さんで 2枚のスカーフを買い すぐに見つけた 銀の門(東門)Porta argentea 門の右下にあった洋品店で ハイネック・ニットのワンピー発見 問題は、サイズなんだけど!? おばちゃんは、大丈夫大丈夫・・・似合うわ って言ってくれたけど・・・ ホテルに帰って着たけど 超・超・超~ミニスカート ダイナマイト・ボディがっ・・・強烈過ぎる だけど、次の日に着ちゃったけど(旅の恥は××××) さて、その衝撃写真は、さておき「銀の門」をくぐると そこは、お買い物天国・・・もとい「バザール」 すぐに見つけた 帽子屋さん モコモコ ベレー帽 800円 渋い帽子とマフラーのセット 茶色とグレー 共に800円 イタリアが近いので、イタリア製で・・・ 意外にも善いお品でした 他にも、道端では、安いスカーフなどが売っています。 ヨーロッパや中東で しばしば見かける物 どうも、それはお気に召さず・・・買わず このバザールは、 現地通貨のクーナしか使えませんのでご注意 2010年12月円高で 1クーナ=16円 ゴメンナサイショッピング三昧にポチっとよろしこ→
2011.03.08
コメント(14)
クロアチア【世界遺産】ディオクレティアヌス宮殿の大聖堂の前にある立派な「鐘楼」に登ろうと決意し・・・ひとりで、登りました!やっぱし登って良かったです。もし、ディオクレティアヌス宮殿にお立ち寄りの際は、登ってくださいね・・・きらり。お勧めスポット! 『クロアチア旅日記』・・・大聖堂の鐘楼 クロアチア【世界遺産】ディオクレティアヌス宮殿の鐘楼 ローマ時代の列柱の後ろに・・・そびえる 高さ = 60m 階段 = 183段 いけますね~楽勝じゃん! チケットは、どこに売っているんでしょう? 向かいにある大聖堂の・・・おっちゃんに聞くと 10クーナ(円高で160円)だよと 売ってくれる それで 絵葉書を 1枚くれたんだけど・・・ 大聖堂のおっちゃんは、 むっちゃ~暇らしく? 私が、どこから来たのか聞いて来た 日本から来たのよ! あ・あ~ノース・コーリアがっ・・・ 手で チャンチャンバラバラして(ウッシュシ) って笑っている! えええ・・・笑い事じゃ~無いと思うんだけど 昨年末は丁度、北朝鮮が韓国に向けて 砲撃を打った事件の直後で クロアチアでも、大きく報道されたみたいで ・・・だけど私は、コリアンじゃ~無くて ジャパニーズなんだけど・・・ おっちゃんには、 コリアンも ジャニーズも 同じに思えるのだろうか? 大聖堂のおっちゃんの見当違いの 興味本位な会話に苦笑しながら いよいよ・・・60mの鐘楼に登ります。 たった60m 183段 ・・・楽勝だよね! 何処が、入口なんだろう? ええ・・・ここが 狭ぁ~い! 現地の少年が降りてくるよ~ウェイト だって、一人が降りるのが、やっと むっちゃ~狭い こりゃ~世界的にも狭いですよ! さて、登りましょう~ あれっ? 足がっ 学生時代には「カモシカみたい?」って言われた足 がっ! 思い~~~っ切り、伸ばして やっと届く階段 1段の高さです! メキシコのピラミッド以来の デッカイ歩幅 えええええこれが 183段 だったら どうするの? 無理 無理 60m 183段 楽勝だなんて言ってしまって でも仕方ない 頑張るしかないです160円払ったし 横幅が、極端に狭いので 両手が しっかり壁につかまり ヨイッショ ヨイッショ ヨイショ 掛け声をかけて足を上げるしかないです! 前後を見ても 誰も居ないから・・・ ドッコイショ~ おおぅ~ドッコイショ~になり あれ~っ 10段位 登ったら 普通の歩幅の階段になってますよ・・・ あ~良かった これなら大丈夫 鐘の上から下を見ると うぁ~こんなん なってるんだぁ ここで、鐘が鳴ったら(( )) シャレにならないけど・・・ああ、鳴らなかった 鉄の螺旋階段を登っていると 同じグループのおじさまが・・・上から きらりの苦労して登る様子をパチパチ写しています! ひ~ひぃ ふぅ~ ふ~ぅ もうソコが頂上ですか? そうだよ!頑張れっ!!! 旅友は、ありがたいですね♪ おや~おじさまは、ひとり・・・ 奥様は「鐘楼」登りパスだったんでしょうか あああ・・・来ました! 60mの天辺にある・・・展望台 スプリトの街が一望 オレンジ色のスプリトの屋根に アドリア海も 港も見えて 宮殿の柱とのコントラスト 360度の展望です! そして お天気も100点満点 大興奮であります! 同じグループのギャルが、鐘楼の窓枠に坐り 何やら?物思いに・・・ グループの中の ひとり旅を楽しむ ギャルが増えた 事は、嬉しい事であります。 お互いに距離を置いてるけど・・・お互いの存在を認めている そんな、ひとり旅が好きです。 さて、展望台で、まったりしていたら おじさまが、すでに下っています きらりも下ると・・・下から登ってくる 同じグループの 最高齢83歳のちっちゃいおばあちゃまが 死にそうになりながら・・・鐘楼を登って来ます 後ろから、お孫さんが 押し上げています! ええええ・・・おばあちゃま~っ 登るんですか? はぁ~ はぁ~ もう命がけですぅぅ~ 冥土の土産に しかし、83歳ですよ きらりのおばあちゃんより年上なんだけど・・・(尊敬) おばあちゃまぁ~頑張って! 83歳で、 初めての海外旅行が お孫(男子)さんとの2人旅♪ 素敵であります・・・憧れであります♪ そんな【世界遺産】の旅にポチっとよろしこ→
2011.03.07
コメント(12)
ネクタイの発祥の地は、イギリスか?フランスだと思っている方が多いと思うのですが・・・どうも最初にネクタイらしき物をしめたのは、クロアチアの兵隊さんだったのであります。そのクロアチアでネクタイを買うのでは無くてスカーフを買いました♪ 『クロアチア旅日記』・・・ネクタイ物語 クロアチアに行ったら・・・スカーフを買ってと teapottoさんにすすめられて楽しみにしていたお店 地上のテラスに出て一番目立つ所にあります ネクタイ屋さんですが・・・ネクタイには、目もくれず スカーフ2枚も買っちゃいました お買い物に要した時間は、たったの5分くらいで 「これとこれ2枚くださ~い!」 有名なお店なので・・・ユーロで買えました とっても高級なスカーフなのできらりのお宝で~す! teapottoさん!買えたよありがとうございました。 「ネクタイ物語」 英語では「結んだネクタイ」の事で → necktie それを日本では、「ネクタイ」になったみたい? だけど・・・フランス → クラヴァット Cravate イタリア → クラヴァッタ Cravatta ドイツ → クラヴァッテ Krawatte スペイン → コルバータ Corbata ポルトガル → クラヴァータ Gravata ヨーロッパでは、だいたいクラヴァットとか言う感じの発音みたいですね!? 英語でのつづりは、 最後の e がつかない形で 「cravat」 になっているのですが この語源は何だったのでしょうか? 話は、フランスのルイ13世の時代 フランスの王様を守る為に雇われたクロアチア人の兵隊たちが 首に巻物をしているのを見て ルイ13世が お供の者に、尋ねました ルイ13世 「あの兵隊どもの妙な首巻はなんだ?」 お供の者は、王様が、あの兵隊たちは何者か?と聞き違えて お供の者 「クラバットで、ございます!」 クラバットとは、クロアチアの兵隊さんの事で 首に巻いたスカーフの事では、無かったのに それがもとで、その 「首の巻物」 は 「cravate」 と呼ばれるようになったそうであります。 この「首の巻物」は、 クロアチア兵の奥様や恋人が、兵隊さんの首に巻いたスカーフであります。 その意味は・・・弾除けのおまじないで 無事に帰って来ますようにと 日本で言う・・・千人針 的な? 「お守り」の意味であったそうであります。 ルイ13世は 最初は その気になる巻物をはずすように言っていたようですが クロアチア兵は、どうしても巻物を取らなくてルイ13世も、結局 「cravate」 をつけ始めたそうであります。 やっぱし「cravate」が、気に入っていたんでしょうかね!? クロアチアが、ネクタイの発祥地であると言う説でありました。 しかし、ルイ13世か? ルイ14世か? やや不確実であり そして、この説には、諸説あるので・・・一応こんな話が有るって事 その由緒あるネクタイ発祥の地で、一番古いネクタイ屋さん ネクタイには、目もくれず・・・スカーフを2枚GET! お宝増えてポチっとよろしこ→
2011.03.06
コメント(14)
ディオクレティアヌス宮殿は、ほぼ正方形の城壁に囲まれていて、東西南北に門があり、内部は、メインの十字路で4区画に分けられています。この十字路の交差する中心部分が宮殿中庭の広いテラスになっているのであります。今でも1000人が暮らす遺跡って? 『クロアチア旅日記』・・・地上のテラスの風景 古代ローマ時代の宮殿地下から階段を登ると 地上のテラスに出ます 左にはルクソールと書いたお店が 右には、高い列中が並ぶ あらら~ここは、エジプト? それとも、ローマの神殿? ディオクレティアヌスは、ローマ皇帝時代に エジプト遠征をして・・・いただいてきた! 花崗岩と大理石で出来た円柱の列柱が16本 その向こうには、 大聖堂がそびえております。 この宮殿も、ローマ帝国崩壊後は廃墟になり ゴミ捨て場となって埋もれてしまったらしい? 7世紀になって・・・スラブ人が入り ローマ人が、難民となってこの宮殿跡に住み着き 地上のテラス周辺には ゴシック・ルネッサンス・バロック様式の建造物が建った。 ローマの神殿みたいな建築物の周辺には 今でも、沢山の一般市民が住んでいる。 これは、世界的にもマレな【世界遺産】であり 宮殿の内部には、大昔からの土産物屋さん メインの道路には、ずらり~と並ぶバザール 洋服屋さん・帽子屋さん・スカーフ屋さん 食料品・雑貨屋さんなどが、びっしり・・・ 古代の【世界遺産】と、一般市民の生活が同時に 動き続けているなんて・・・不思議な場所であります。 それにしても、遺跡の中で住んで 思い切りお洗濯が干せるなんて・・・すてき♪ そんな素敵さに ポチっとよろしこ→
2011.03.05
コメント(8)
古代ローマ時代の皇帝ディオクレティアヌスは、キリスト教徒を迫害したことで知られるそうであります。ディオクレティアヌスが、すっぱりと皇帝の座を退いてから・・・生涯を終えるまでの隠居所として建てられた見事な宮殿でありますが・・・・ 住んだのは、数年だったそうであります。 『クロアチア旅日記』・・・ゴミを掘って? ヨーロッパに置いても、いえ世界的にも珍しい宮殿 【世界遺産】ディオクレティアヌス宮殿 その地下部分に入りましょう なんと古代ローマ時代の石積みがそのまんま なんと~素晴らしい保存状態なのでしょうか? それには、訳が・・・・ 話は、古くって深い深いゴミの中 ええ・・・なんと? 今、ゴミとか言ったでしょ・・・ そうです 古代ローマの皇帝「ディオクレティアヌス」の引退後の住まいは、305年に完成 生前、キリスト教徒を迫害したと言う怖い顔 ディオクレティアヌスの宮殿は、 ローマ帝国が、崩壊してしまうと 廃墟となり・・・ その後・・・上には、街が出来て 宮殿の地下部分には、 ドンドンゴミが、落とされ ギッシリと埋まってしまいました。 宮殿の存在は、忘れ去られてしまいましたが、 古代ローマ時代のタイムカプセルとなった地下部分を そう~ゴミの詰まった地下部分ですね! その地下部分を掘り返してみました。 きらりが、訪問したのは、 その掘り返しが、 やっとこさ~終わった直後であります。 何たる偶然なのでしょうか? きらりの為に掘り起こし タイムカプセルの中が全部見れるとは! ゴミをポイポイ捨てたのは・・・ 宮殿地下の天井部分から ここ宮殿地下には、後に住んだ市民のゴミが天井まで詰まって 1箇所だけ残してありました ああピンボケ しかし、何世紀も大昔のゴミを見たのは、初めてです。 ゴミは、土に返るんだポチっとよろしこ→
2011.03.03
コメント(9)
ディオクレティアヌス宮殿は、クロアチアのスプリトにあるのですが「ディオクレティアヌス」は・・・ローマ皇帝だったそうであります。ローマ皇帝の宮殿が何故クロアチアに建設されたのでしょうか?まずディオクレティアヌスって誰? 『クロアチア旅日記』・・・ディオクレティアヌス ディオクレティアヌス宮殿内にて 以下・・・ウィキペディア(Wikipedia)さまを引用しています。 ディオクレティアヌス Diocletianus ローマ皇帝(東方正帝) 在位 284年11月20日~305年5月1日 286年4月1日~305年5月1日まで 西方正帝マクシミアヌスと共治 全名 ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス 出生 244年12月22日 イリリクム 死去 311年12月3日 サロナ →・・・・ここ「ディオクレティアヌス宮殿」 継承者 ガレリウス ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス ラテン語:Gaius Aurelius Valerius Diocletianus 244年12月22日~311年12月3日 ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である 軍人皇帝時代を収拾し ドミナートゥス(専制君主制)を創始し テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。 ディオクレティアヌスの生涯 属州イリリクムの生まれ。 「ディオクレティアヌス」というのは 皇帝になる際につけた名で 本来は ディオクレス(Diocles)という。 一兵卒から 親衛隊長官にまで出世し 先帝ヌメリアヌスの死後 軍に推戴されて 小アジア西北のニコメディアで即位し皇帝となった。 当時 広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。 そこで、 軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として西方を担当させ 自身は ニコメディアを拠点に東方を治めた。 彼らは 国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に宮廷を置いたため 既に荒廃していたローマの重要性はますます低下し ローマ帝国の重心は東方におかれるようになった。 292年 それぞれの皇帝が「正帝」(アウグストゥス)として 「副帝」(カエサル)を任命し 彼らに ライン川とドナウ川の防衛線の維持に当たらせた。 この制度は テトラルキア(四分割統治、四分治制)と呼ばれ 帝国は 事実上4人の皇帝によって統治されるようになった。 だがこの制度は ディオクレティアヌスの巧みな政治手腕に依るところが大きかったため 彼が引退するとその均衡は崩れ、帝国は再び混乱した。 298年 ペルシアと講和 メソポタミア地方、ティグリス河彼岸一帯をペルシアから ローマの統治下へ繰り入れ イベリア地方を影響下に置く。 ディオクレティアヌスは 皇帝権と帝国防衛を強化するため 自らの軍事力を増強し 課税強化を図って官僚制を整備した。 合わせて 属州をおよそ100程度に再分割し属州総督の権力を削減した。 これ以降の帝政を こうした専制的な皇帝が官僚制を通じて人民を支配した構造から ドミナートゥス(専制君主制)と呼ぶ。 官僚制の整備によって軍政と民政が分離したことで 属州の自立はおさえられた。 この軍政と民政が分離する構造は 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にも受け継がれ 7世紀のイスラーム勢力侵入に合わせて軍管区制が導入されるまで続いた。 ディオクレティアヌス以降のローマ帝国における市民に課される税は ユリアヌス帝の時代を除けば厳しくなる一方であった。 土地・人口の調査が行われ 人頭税(ユガティオ)と土地税(カピタティオ)が導入された。 この二つは後に結びついて カピタティオ・ユガティオ制へと至った。 その他 最高公定価格の設定、手工業者に対する統制、公設の奴隷市場開設など 様々な経済政策が打ち出された。 ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加 治世を通じて融和的政策を採っていた皇帝も その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱き 303年キリスト教徒に対する令を発した。 強制的な改宗を迫る等々キリスト教徒への抑圧が行われ 概ね寛容な処置に留まったものの 国家に対し公然と反抗した一部急進派が処刑された。 その数はローマ全土で数千人を数えたという。 また 2度キリスト教徒による宮殿放火が企てられている。 キリスト教史を編纂する側は「大迫害」と呼ぶ。 ディオクレティアヌス宮殿305年 彼は健康を崩したこともあって退位し アドリア海に臨むサロナ(スプリト近郊)に ディオクレティアヌス宮殿を作って隠棲し 数年後にそこで亡くなった。 古代の歴代ローマ皇帝の中で 引退した例は彼のほかにはほとんど存在しない ただし、ローマ帝国がキリスト教化されて以降は、修道院へ引退という例が多くなる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上ウィキペディアさま引用 なるほどざっくり理解できた所でポチっとよろしこ→
2011.03.02
コメント(4)
ユネスコ【世界文化遺産】1979年登録「ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群」クロアチア・ダルマチア地方・スプリト市=英名Historical Complex of Split with the Palace of Diocletian仏名=Noyau historique de Split avec le palais de Diocletien クロアチア語=Dioklecijanova palaca♪いよいよ入城です。 『クロアチア旅日記』・・・宮殿入城 ディオクレティアヌス宮殿に入りましょう アドリア海側の門で 南門「銅の門」 Porta Aenea 門と言うより南口って感じ? ディオクレティアヌス宮殿の城壁には、4つの門がある。 南門 Porta Aenea 「銅の門」ここ 北門 Porta aurea 「黄金の門」 東門 Porta argentea 「銀の門」 西門 Porta ferrea 「鉄の門」 宮殿は、城壁に囲まれていて、一時期には・・・9000人以上も住んでいたんです。 4つの門の中では、一番ジミ~な門で アドリア海に直接出られる出入口で 王様が、お忍びで海に出る時に使ったり 海から城内に品物を搬入する為の「勝手口」だったらしい? 南の門 Porta Aenea「銅の門」から・・・・いざいざ入城)) あらっ? いきなりの店開き? ユネスコの【世界遺産】ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群に アクセサリーが、いっぱいの雑貨商 ええ・・・どうして? と、聞くと・・・ この人達は、ずっと ずっと 大昔から 先祖代々、この宮殿の ココで商売をしているんです~だから・・・ との説明。 それで、問題には ならないのかと心配なんですが 実は、ユネスコ【世界文化遺産】1979年の登録する時も、問題になったそうであります。 その後も居座ってしまった「雑貨商」の皆様・・・なかなか個性的なアクセサリーを売ってますが 買いたい欲しいけど・・・見なくては、いけないご城内は、まだまだ広いのでショッピング断念 お買い物ワクワクポチっとよろしこ→
2011.03.01
コメント(12)
ディオクレティアヌス宮殿・・・なんとクロアチアには、舌を噛みそうな宮殿が多いのでしょうか?ブログを書いていても誤字が多くなりそうですが・・・・あまりキツク突っ込まないようによろぴくであります(@@;)とりあえず3つ目の世界遺産「ディオクレティアヌス宮殿」へ 『クロアチア旅日記』・・・ディオクレティアヌス宮殿 宮殿が見えるスプリトの港に到着 アドリア海は、静かですね~なんと気持ちの良いこと むかし むかし ギリシャに統治された時代の スプリトの地名は、 アスパーラトス→ASPALATHOS その後 紀元前229年~219年にかけての 古代ローマ時代の地名は、スパラート SPALATO SPALATO PALAIS DIOCLETIEN 世界遺産マーク VUE GENERALE A VOL D’OISEAU アドリア海に面していました 海に面していた同じ場所が、今では ディオクレティアヌス宮殿の城壁は、高く・・・ 今は、埋め立てられ道路と港が出来ていてイメージが違う 城壁の1階部分はレストランやカフェが並んでいます。 歴史の校外学習なのでしょうか? 大きなジオラマを見ながらディオクレティアヌス宮殿の研究中 美しい先生とイケ面先生にツイツイ目が・・・・ では広い宮殿に入りましょうポチっとよろしこ→
2011.02.28
コメント(8)
今回の旅で巡るのは旧ユーゴスラビアの4カ国で、7つの【世界遺産】であります。9日間で7つも【世界遺産】を周るなんて凄い事だと・・・今更ながら、思い起こしておりますが、旅も中盤となり・・・クロアチアのスプリトへ 『クロアチア旅日記』・・・スプリトの世界遺産 ディオクレティアヌス宮殿 ユネスコ【世界文化遺産】1979年登録 ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群 クロアチア ダルマチア地方 スプリト市 英名 Historical Complex of Split with the Palace of Diocletian 仏名 Noyau historique de Split avec le palais de Diocletien クロアチア語 Dioklecijanova palaca 面積 = 20.8ha登録基準 この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。 (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。世界に稀な文化と伝統ワクワクポチっとよろしこ→
2011.02.26
コメント(0)
アドリア海をどんどん南へと下る旅を楽しんでおります。旅も4日目トロギールからバスで30分の「スプリト」Splitへやってまいりました。素晴らしい宮殿があるスプリトの始まりを知ろうと(ウィキペディアさまご協力により)ココに記して置きます。 『クロアチア旅日記』スプリト古代史 クロアチア スプリトには、舌を噛みそうな宮殿が ディオクレティアヌス宮殿・・・・再現図 スプリトは、 ディオクレティアヌス宮殿 が都市の起源とされているが それよりも早くに ギリシャ植民地 アスパーラトス(Aspalathos)が建設されていた。 ギリシャ人らは、 近郊の都市サロナに住む イリュリア人(多くがダルマチア人)との貿易を行って暮らした。 当時、 共和政ローマが アドリア海東岸で強い影響力を持つようになり、 紀元前229年~219年にかけての イリュリア戦争において イリュリア人を征服した。 揺るぎないローマの力のもと、 古代ローマ人は サロナを首都とする属州ダルマチアを建設した。 この時、 市名アスパーラトスから、 サロナに似せた スパラトゥムに変更された。 瀕死の病にかかったローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位:284~305年)は、 305年に政治から引退した。 彼は故郷の近くに隠居用の宮殿を建てるよう命じ、 故郷ディオクレア(サロナ近郊)にほど近い、 海辺の町スパラトゥムを建設の地に選んだ。 建設事業は、 政界引退をディオクレティアヌスが準備していた293年に始まった。 宮殿はどっしりとした構造をしており、 ほとんどローマの軍事要塞のようである。 当時8000人~10000人が暮らしていた 彼は、後に予定通りにきっちりと引退し、 自発的に自ら職を退いた最初のローマ皇帝となった。 476年に西ローマ帝国が滅亡すると、 スパラトゥムは 東ローマ皇帝の支配下に置かれた。 スパラトゥムは、 非常にゆっくりと、 遙かに大きな サロナの衛星都市のようになっていった。 しかし、 639年頃に サロナがアヴァール人とスラヴ人の侵攻で略奪されると、 住処を失った市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れた。 東ローマ支配が地域で復活するにつれ、 ローマ市民は 大セヴェルスと呼ばれる貴族の主導のもと、本土へ戻った。 彼らは スパラトゥムにある ディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択した。 宮殿が強固な要塞状だったためである。 この時には 宮殿は 長く打ち捨てられていたが、 建造物内部は サロナからの避難民によって、 新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造された。 今日、 宮殿はスプリト市の内核として存在しており、 今も 商店や市場・広場、住宅があり市民が暮らしている。 世界遺産に暮らす人にポチっとよろしこ→
2011.02.25
コメント(4)
外国に出かけると一番困るのは、おトイレであります。特に中世の街で、おトイレを探すとなると~それは、それは、大変でありまして・・・ひとり旅で治安を考えると有料でも仕方が無いと思うのであります。さてクロアチア【世界遺産】古都トロギールのおトイレとは・・・ 『クロアチア旅日記』・・・トロギールの女神さま 古都トロギール【世界遺産】の有料トイレは、 本土との境にある橋の近く トイレの神様・・・女神さま ダンボール風よけ トイレ料金8クーナ(128円) ええ・・・高っ!! いくら円高でも おトイレ128円高く感じるんだけど・・・ 「おばちゃん~ここ高いよね!?」 何て~言ったって おばちゃんは、クロアチア語・きらりは、日本語 おばちゃん・・・暇つぶしに編んでいる靴下のセールス開始 ええ~おばちゃんに 編んでるポーズお願いして 「おばちゃん~この帽子も編んだんだぁ~」 「そうよ~ほら、見てこれもよ」 おばちゃんは、スカートをめくり 足全体を覆う手編みソックスを見せてくれた! 「うぁ~おばちゃん凄いね~暖かい?」 「勿論よ!ここに あるわよ~買う?」 「えええ色がねぇ・・・ゴメンねだなぁ。いぃ~らない!」 クロアチア語と日本語・・・むっちゃ~ 言いたい事が、言えるから最高です クロアチア【世界遺産】の女神様とも コミュニケーション楽しんだし橋を渡りバザールへ ここにも貫禄のおばちゃまが・・・乾物屋か?花屋か? 干しいちじく大1袋・・・20クーナ(320円)買いました♪ お隣にポプリが売っていてオイル付き♪1袋30クーナ 職場の皆さんに1個づつお土産です・・・(男子1名含む) ホテルに帰ってから~むちゃむちゃ~香りますポチっとよろしこ→
2011.02.21
コメント(13)
クロアチアの【世界遺産】古都トロギールの主な建築物をご紹介しましたが・・・この小さな島には、古代から住民が暮らしておりました。そんな暮らしを見てみたくなってブラブラと・・・狭くて小さな街のなんと~狭い道なのでしょうかね・・・・ 『クロアチア旅日記』・・・トロギール散歩にて 古都トロギールをひとりでお散歩 トロギールの暮らし どんな~でしょう? 車が無い時代の街は、歩いてお買い物。 皆さんが、住んでいるらしき地域 広場に中世の建築 1階部分が薬局です 中世からある薬局 近くで見ると へびさんの マーク トロギールでは、病気になっても大丈夫だったんですね。 街をひとり歩いて1件の店に入りました。 美しい店員さんが、居ました。 クロアチアと言えば→サッカー ユニフォーム屋さんです・・・そう言えば旅も4日目何も買っていないじゃん! フォームとビジター両方お土産に・・・合計4枚 290クーナだと言う・・・ 5800円だけど・・・円高になって4640円 高い~負けてよ~ 美人の店員さん、断る文句は、世界共通です。 「私は、雇われていて勝手に負けるとオーナーに叱られます」 クロアチア語を知らなくても・・・何となく分かってしまうのが不思議 それでも粘って・・・お世辞言って彼女を笑わせ 290クーナ → → 260クーナに 5800円 円高で4640円 4160円 ちっそれが限度かな・・・・仕方ないお買い上げ 1枚1000円・・・案外安かったかも 【世界遺産】狭い城壁の中でのお買い物・・・ウキウキ楽しかった♪さてこれから城壁を出てバザール=朝市へポチっとよろしこ→
2011.02.18
コメント(10)
クロアチア古都トロギールは【世界遺産】であります。紀元前からあった城壁に囲まれた街は、とっても小さくて機能的だったのであります。見物するなら・・・まず街の中枢にある「ロヴロ大聖堂」を見てから次は・・・・・ 『クロアチア旅日記』トロギールの広場にて 街の中央にある広場 「イヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場」には 市庁舎 市庁舎は、現在でも使われていて 結婚届を提出できる おっと~戸籍謄本を持ってこなかった 【世界遺産】古都トロギールの「イケ面」と電撃結婚は、断念 なんと・・・元は~宮殿 19世紀の建築 市庁舎の右には クリスマツツリーと 「聖セバスチャン教会」 時計塔 「市庁舎開放柱廊」 カワイイ~屋根の時計塔です これは24時間時計じゃないので・・・読めます朝8:32 今でも現役で街中に時を告げる鐘が響く♪ らしい? おっと~何時に鳴るんでしょう 時計塔の左下は 「聖セバスチャン教会」 時計塔の右に茶色く見える・・・張り出した屋根は この地方独特の建築様式だそうで 入口が開いていたので・・・お邪魔しま~す♪ 階段を登って入ってみましょうドヤドヤドヤ この階段は、個性的な扇型なんです 建物は「市庁舎開放柱廊」 15世紀のもの さて・・・何に使ったのでしょうね? 中に入るとすぐ前 壁には、1つ目のレリーフが 王様の騎馬像 彫刻 左を向くと2つ目は、大きなレリーフ 位置は・・・時計塔 方向の壁 彫刻は 飛び出さんばかりの立体感 よ~く見ると天びん このディザインは、見た事があるぞ・・・サスペンスで 弁護士さんのバッチのマーク そうピンポン!・・・ここは、裁判所 中央に大きな大理石のテーブル ですから・・・ここは 木槌を))バンバンやる・・・法廷で 裁判官が、中央に坐って罪状を述べ 市民が有罪か? 無罪か?を決定した! おお・・・市民が判決まで!? 進んでます・・・しかし、15世紀を聞くと、怖いかも? 裁判の無い時には、集会所にも使われたそうです。 広場を囲んで 教会 時計塔 裁判所 集会場 宮殿 市庁舎 大聖堂 なんとコンパクトにまとまって便利 それから路地を抜けると・・・南門「海の門」へと出てしまう 1593年建造 ルネッサンス様式 対岸は・・・近いっ! 私達が泊まった「チオヴォ島」 アドリア海 帆船 カメレンゴ砦 城壁と海の門 旧市街から城壁外の海岸線の通り「オバラ・バナ・ベリスラヴィチャ通り」 うっとりしたら ポチっとよろしこ→
2011.02.17
コメント(16)
私は、中世の城壁に囲まれた都市を好んでか?沢山見て来ましたが・・・クロアチアの【世界遺産】古都トロギールの城壁の広さは、300m×500m・・・今まで見た中で一番狭いのではないかと思うのですが・・・・・そんな小さな中世のタイムカプセルへGO 『クロアチア旅日記』・・・聖ロヴロ大聖堂 さぁ【世界遺産】古都トロギールの城壁の中に入ります 街は、紀元前385年にギリシアの植民地として始まりました。 一番 目立つ建物は、聖ロヴロ大聖堂 街の中心「イヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場」に面し その歴史は、他のダルマチア地方と同様に複雑であります。 はじめに初期のキリスト教時代の教会があったのですが・・・ 土台を見るとそんな形跡をきらり。発見 13世紀~15世紀に 立替え現在の形になりました。 白く美しい大聖堂の正面に向かうと ロマネスク様式の立派な門 1240年 ダルマチア出身の巨匠=ラドヴァンが製作 ラドヴァンは、当時 大人気の彫刻家で 「ヴェネチアのサンマルコ寺院」の玄関のレリーフを作った後に ここまで来て製作されたと言う素晴らしい門 門は、1420年~1797まで ヴェネツィアに支配された時代の作品です。 門の前の彫刻は、どこかで見た「アダムとイヴ」? 何故だか・・・ クロアチアの人は、アダムイヴがお好き? アダム氏の下には、ライオン像 イヴ嬢の下にも、ライオン像 ライオンは、ヴェネチアの守り神だからでしょうね!? ロヴロ大聖堂を全体で見ると 高さ47mもある立派な鐘楼があります。 下が ロマネスク様式 その上は ゴシック様式 一番上は ルネッサンス様式の欲張ったお姿 鐘楼も、ヴェネチア時代に建てられたもので ダルマチア地方の文化と芸術、ヴェネチアとの 深~い関係にポチっとよろしこ→
2011.02.16
コメント(6)
前夜にクロアチア本土から、アドリア海に浮かぶ・・・さつま芋みたいな形のチオヴォ島(CIOBO)に渡り・・・チオヴォ島で1泊した私たちは、バスで一旦クロアチア本土に戻り【世界遺産】古都トロギールに入る為の唯一の橋を渡ると・・・そこは「中世のタイムカプセル」が 『クロアチア旅日記』・・・陸の門と海の門 中世のタイムカプセルは・・・・城壁 タイムカプセル「城壁」に入る為の 橋は、1つしかない・・・橋を渡ると 【世界遺産】古都トロギール 北門 → 「陸の門」 門の上には・・・12世紀の司教さまが (イヴァン・ウルスィニ) 「街の守護聖人」の代表として ・・・ 北門「陸の門」の上で街を守っている。 北門が、あるって事は・・・もしかすると? 南門「海の門」だってあります! 南門 「海の門」の外には、オレンジ色の小屋が 街は、防衛の関係で・・・日没になると門が閉められ トロギールの住人であっても・・・入れなかった 仕方が無いので・・・締め出された人は オレンジ色の屋根の小屋で一夜を明かすか きらりみたいな美人は、近所の旅館に泊まったらしい? そうやって 開門を待ったそうであります。 これが・・・ほんまの「門限」やぁ~ なぁ~んちゃってポチっとよろしこ→
2011.02.15
コメント(10)
4日目【世界遺産】古都トロギール到着です。トロギールに宿泊していたので楽ちん♪トロギールは、とっても古い街であります。ああ~っ朝市みたいなバザールがあるけど♪なんか~お買い物が楽しめそうな予感ウキウキ♪ 『クロアチア旅日記』・・・トロギール到着 トロギールTrogir クロアチア本土と さつま芋みたいな 形の ショルタ島の 間の 海峡に浮かぶ小さな街 「トロギール」 元々は、陸続きだったけど・・・ 水路を作り 切り離して 「出島」みたいな街を作りました。 その街は、 東西に500m 南北に300m せまっ! 20分で1週できる街 どうして切り離したか? 中世になり・・・ 敵が、度々侵入して来たから 半島の一部を切り離して 出島を作り 城壁で囲んだ 城壁の中は、全部が旧市街 全部が【世界遺産】であります。 城壁に囲まれた 「中世のタイムカプセル」を さぁ・・・開けてみましょう! 案内人は 「イケ面」現地ガイド 本土と切り離された橋の横に 【世界遺産】マーク発見! 密かに・・・世界遺産マーク見つけるマニア きらり この川は、本土との境 橋を渡っると・・・【世界遺産】古都トロギール 世界遺産より・・・・川の向こうのバザールが気になる おっと~お財布がパクパクポチっとよろしこ→
2011.02.14
コメント(6)
クロアチアのシベニク訪問は、12月10日であります。おっと~もう2ヶ月ですねブログのスピードを上げましょう!中世の町並みが残る「シベニク」のクリスマス☆イルミネーションを見ながら、シベニクの街を歩いて、シベニクを後にしましょう・・・ 『クロアチア旅日記』・・・シベニク♪ばいばい シベニクは、もうすっかり夜になりました・・・ 左はハプスブルク家に支配された時代の劇場 右は、銀行みたい シベニクの地味なクリスマスイルミネーション 背中のデッカイお兄さんがお邪魔です 小さなコンビニに入ったり・・・ かわいいショウウインドウをのぞいて 街の一番上は・・・・ お月様 城壁を利用して作った「図書館」勉強が捗りそう 勉強に疲れたら・・・外で 焼き栗を売っているお兄さん 城壁にそって道路を横断した所から見た 聖フランシスコ教会 シベニクを満喫して・・・トロギールへ向かいます トロギールどんな所かしらポチっとよろしこ→
2011.02.11
コメント(8)
クロアチアのダルマチア地方は、ディズニーのアニメ One Hundred and One Dalmatians 日本では「101匹わんちゃん大行進」の主役である白くて黒いブチ犬ダルメシアンの産地であります。ダルマチア=ダルメシアン=Dalmatian・・・そうとも読めるか? 何~僕の事? 『クロアチア旅日記』・・・水飲み場 クロアチアのシベニク旧市内には、 中世からの古~い「井戸」があります。 おっと~のぞいて見たい? もちろん・・・近くまで行って のぞいたけど 今は、飲めないみたい? 中世からの水が、あるなんて そんな古い水って危なくて飲めないし 夕方のシベニクをお散歩♪ 何? 道のはしっこ・・・ ここにも水飲み場がっ これは「犬の水飲み場」 ええ・・・これも当然 ブラチ島産かしら? 「犬の水飲み場」 と、聞くと・・・ 猫好きは・・・「猫のは無いのプンプン」 少し歩くと ありました・・・ 「お猫さま専用の水飲み場」 ディザインが少し違う それって区別が・・・ 出来てるのかしら? そこん所は、未確認であります。 ダルマチア地方はちゃんちゃんの天国であります 人に優しい動物にも優しい街にポチっとよろしこ→
2011.02.10
コメント(12)
ダルマチア地方には、石造建築が多いのであります。何故かと言うと世界屈指の石の産地があったからであります「ブラチ島」島の名前が、やっと思い出せました!今更なのですが「ブラチ島」について調べてみました。ここは、飛ばして下さい・・・ただの参考です。 『クロアチア旅日記』・・・ブラチ参考資料 ダルマチア地方の世界遺産と遺跡に道まで ニューヨーク の ホワイトハウス イスタンブール の アヤソフィア ギリシャ の パルテノン神殿? これ等は、みんな「ブラチ島」の石で建造したのだそうです。 ええ・・・「パルテノン神殿」ってむっちゃ~古いけど 気になるその辺りが、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ウィキュペディアさまを調べてみると・・・・ 『ブラチ島』 ~ふらちとう クロアチア スプリト = ダルマチア郡の島 面積は、ダルマチア諸島中 第3位となる396平方Km 島最高地点は、ヴィドヴァ・ゴラか、スヴェティ・ヴィド山の778m これはアドリア海の諸島中の最高地点でもある 島全体でおよそ13000人の住民が 最大の町である人口3500人のスペタルから わずか12人しかいないノヴォ・セロ村まで 小規模な町で暮らしている 歴史 島にあった人の定住地の発見された考古学的な日付は 旧石器時代に遡る それにもかかわらず 新石器時代以降の人類の痕跡は全くない 青銅器時代と鉄器時代に、イリュリア人が島内陸部で暮らしていた 数多くの村があったが、そのどれも現存していない 紀元前4世紀 ギリシャ人による植民地化が 多くのアドリア海諸島へ本土沿岸ともども広がったが 彼らはブラチへは定住しなかった ギリシャ人は島を訪れ イリュリア人と交易をしていた ギリシャの遺物は ロジシュツァ近郊のヴィツャで発見された ブラチ島はサロナからの交易路の交差する位置にあった (現在のソリンからヴィス島とポー川へ至る行路) 9世紀 長く続いた土着民族との戦いの末 ローマ帝国がとうとうダルマチアを征服した サロナは新たな県の首都となった ブラチは サロナに近接していたせいで、大きな村も町も作られなかった ローマ人住民の痕跡が島中で見つかっているが 彼らは常に独立した別荘で生活した 特に初期の採石場のあったシュクリプとスプリツカの間にある スプリツカは サロナやダルマチア全体へ石を運ぶ最重要港となっていった スプリトのディオクレティアヌス宮殿は ブラチから運ばれた石灰岩で大部分が建てられた そして ワインやオリーブ栽培中心の農業も、同時代に始まった スペタル港アヴァール人とスラヴ人によるサロナ破壊後 ブラチは沿岸部から逃亡してきた人々の最初の避難場所となった シュクリプは 避難してきたサロナ住民によって建てられたと代々言われてきたが 町そのものは実際はそれ以前からある 1268年から1357年 島はヴェネツィア共和国を宗主国とし 後にハンガリー王国の一部となった 1390年夏 この一帯全体と一緒に 島々はボスニア王トヴルトコ・コトロマニッチ(en)の支配を受けたが 彼は翌年に死去した 彼の死のすぐ後 ハンガリーが再び島を領有した この時代を通じて 島の基本的な自治権と古い構造は維持され続けた ハンガリー人が島の直接支配を望むほど島は豊かでもなく また戦略的な重要性もなかった 地元貴族たちが行政を行い ブラチを治め 議会は島中心部のネレジシュツァで開催された 首領は貴族の家系から選ばれた 1420年にヴェネツィア共和国が再び島の領有を求め 島を治める者を送り込んできた。 ヴェネツィアはさらに4世紀もの間 1797年まで島を治めた その後 フランス第一帝政との取引で 旧ヴェネツィア領土の多くがハプスブルク君主国へ併合された 公用語はラテン語であった この時代 ボスニアの宗主権はオスマン帝国が持っており 多くのボスニア難民が島へ避難していった 多くの町がこの時代に作られ 人口が島の内陸部から沿岸部へと移動を始めた ナポレオン戦争の間 ブラチ島は1806年に短期間だけナポレオンに征服された 1807、主教公であるモンテネグロのペータル1世・ペトロヴィチ・ニェゴシュが ロシア帝国海軍の支援を受けブラチを獲得した しかし、1815年のウィーン会議で島はオーストリア帝国へ戻された ブラチは、オーストリアの王領へ併合された 1867年以降は、オーストリア=ハンガリー帝国のトランスレイタニアの一部として併合された 1918年の帝国崩壊後、ブラチはセルブ・クロアート・スロヴェーン王国の一部となり、1929年以降ユーゴスラビアに属した。 島の人口は20世紀初頭には猛烈に減少した。 ラテンアメリカ(特にアルゼンチンとチリ)、ニュージーランド、オーストラリアへの大規模移住のためであった 20世紀の間出移民の波は続き、最近の世代だけがヨーロッパ諸国、特にドイツを移住先として好むようになっている。 イタリア王国軍が島を占領した。島の山地では、地元の反徒らがゲリラ戦を効果的に戦ったが、やがて占領者によって逮捕され処刑された。 1943年にイタリアが無条件降伏した後、ドイツ軍が1944年1月12日から13日にかけて島を占領した。 しかし7月にドイツ軍は敗退し、島は解放された。 ブラチはユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する国家の一つであるクロアチア社会主義共和国に1991年まで属し、クロアチアの独立でクロアチア領となった。 クロアチア紛争での戦いはわずかに島で起きたにすぎなかったが(ミルナが爆撃された)、戦争の余波で特に観光業が打撃を受け、島は悲惨な状況となった。ブラチ島は、10年に渡る長い不況から再生しつつある。 経済 ブラチ島の経済はほとんど観光業を基盤としている。 しかし、漁業と農業も非常に重要である(ワインとオリーブの生産)。 そして貴重な石灰岩の採石も行われている。 伝統的に、ブラチ島はヤギで有名であった。 プリニウスですら、 ブラッティア島(ブラチのラテン語名)は 優れたチーズとワイン、オリーブ油を生産すると言及している。 ブラチ島一つで、 ダルマチア諸島全体の約半分のオリーブ油を生産している。 ・・・・・・・・・・・・・・・以上ウィキュペディアさま参照・・・・・・・・・・・・ ギリシャの植民地だったとは、驚きです~大収穫ブラチ島の調査終了ポチぽちよろしこ→
2011.02.09
コメント(0)
クロアチアのシベニクを訪れたのは2010年12月10日(金)おっと~毎日ブログ更新しているのに・・・まだ3日目じゃん!急がねば・・・駄目ですね~とろとろブログお付き合いありがとうございます(^-^)♪ 『クロアチア旅日記』・・・道を解明 シベニク旧市内の道を歩きましょう! おっと~ここでも背中のデッカイ兄さんがお邪魔 どうして私の20m前を歩くの 中世の町並みに貴方は似合いましぇ~ん! 石で出来たツルンルツンピッカピカの道 ○そうそうこの石の産地を思い出しましたよ! シベニクの近くで・・・スプリト スプリト沖合いの「ブラチ島」から運ばれた 石です~ああ やっと思い出して・・・ホッ! ブラチ島は、 2000年前から 石灰石や大理石を掘り・・・世界に シベニクにも ブラチ島から運んだ石で造られた これから訪問するダルマチア地方の 素晴らしい【世界遺産】の宮殿も 産地は、ブラチ島であります。 そして・・・ なんと・・・ あの ニューヨークのホワイトハウス イスタンブールのアヤソフィアの石材も ギリシャのパルテノン神殿も? 産地は、ブラチ島なのだそうです。 世界遺産の産地にポチっとよろしこ→
2011.02.08
コメント(0)
シベニクの旧市内を歩いて行きましょう~中世から変わらぬ大理石の道は、とっても狭~くって・・・・両脇に並ぶ家も中世のままであります。中世のお姫様になった気分のきらり。こんな遠くまで、よくぞ♪やって来たもんだぁ~あら~っあれって変じゃない? 『クロアチア旅日記』・・・聖バルバラ教会 【世界遺産】聖ヤコブ大聖堂と市庁舎から狭い道を抜けると 「聖バルバラ教会」 少し暗くなって来ましたね! 今何時になったんだろう・・・ おや? あらっ? 時計が・・・・読めませ~ん! あらら~っ 2時10分前? 小学生じゃ~あるまいし 時計が読めない 24時間時計 えええ~っと、 さ~ぁ何時だと、思いますか? 【ヒント】夕方です(^-^)b賞金無いよポチっとなう。→
2011.02.06
コメント(16)
シベニクの旧市内は、坂が多く聖ヤコブ大聖堂も大きな階段を登ったのですが、そこにはレプブリカ広場があり、大聖堂に向かい合って「シベニクの市庁舎」があります。現在の1階は、素敵なレストランですが・・・あらっ冬休み? 『クロアチア旅日記』・・・シベニク市庁舎 【世界遺産】聖ヤコブ大聖堂の向かいには・・・ 市庁舎 レプブリカ広場から見ると 急な坂が多くて・・・長崎に住んでいた頃を思い出す やはり住んでいる人は大変だろうな? 市庁舎は、ルネサンス様式 中世の頃は、市庁舎だったけど 現在は 1階が レストラン 「GRADSKA VIJECNICA」 市庁舎って・・・意味らしい? 今日は、お休みかしら? 市庁舎には、白い柱が ここでも「恥の柱」はじのはしら 罪人を柱に縛りつけたらしい? ザダルのローマ時代の広場「恥の柱」 ダルマチア地方の広場には、どうも? 「恥の柱」が、沢山ありそうであります。 旅人は、気をつけながらポチっとなう。→
2011.02.05
コメント(8)
ヤコブ大聖堂の屋根の上には、3体の聖人が祀ってあります。聖ミカエル・聖ヤコブ・聖マルコだそうですが・・・あちこちの美術館や教会でお会いする割には、どんな方なのか分からずに旅してしまった事に反省し・・・改めて調べてみました♪ クロアチアの【世界遺産】シベニクのヤコブ大聖堂 屋根の上には、3人の聖人が・・・おります。 聖ミカエル・聖ヤコブ・聖マルコの像 聖ミカエルについて→ポチ 聖ヤコブについて→ポチ 最後に『聖マルコ』について ・・・・ウィキペディアさま参照・・・ 福音記者マルコのイコン キジ島(18世紀初頭) 福音記者マルコ イタリア語 San Marco Evangelista 英語 Mark the Evangelist 新約聖書の 『マルコによる福音書』の著者とされる人物 ギリシア語ではマルコス、マルクとも表記する マルコスというのは ギリシャ名としては 一般的なものであり また同書の中には 筆者の名は直接には記されていないが 伝承は『使徒行伝』から パウロの書簡にたびたびあらわれる マルコなる人物を同一人物と考え 福音記者とみなしてきた 聖人の概念を持つ全ての教派で 聖人として崇敬されている 記録と伝承 『福音記者マルコ』 エルサレムの住人であった マルコの名前がはじめて現れるのは 『使徒行伝』であり 天使によって牢獄から解放されたペトロが 「マルコとよばれるヨハネ」の家に行ったという記述である ヨハネ(マルコ)は パウロの最初の宣教旅行にバルナバと同行したが パンフィリア州から一人エルサレムへ帰ってしまった パウロはこのことを根に持っており 第二回宣教旅行では パウロがマルコの同行を拒否して バルナバと喧嘩別れしてしまう マルコは 結局バルナバと共にキプロス島へ向かった これは西暦50年頃のことと推定される 使徒行伝では マルコについての記述はここで終わっている 一方 『フィレモンへの手紙』では 協力者の一人として パウロはマルコの名前をあげている 獄中書簡である『フィレモン』の 成立時期は一般に上述の事件よりあとと考えられており ある説では 決別とフィレモンへの手紙の間に パウロとマルコが和解したと考える また パウロの書簡かどうか説が分かれている 『コロサイ人への手紙』では、 「バルナバのいとこ」マルコが パウロの協力者として挙げられている また マルコは 伝承によれば アレクサンドリアの教会の創建者であり 正教会(ギリシャ正教)と コプト正教会(非カルケドン派)の両派で 初代アレクサンドリア総主教とされている 『マルコ福音書』とその筆者問題 (詳細は「マルコによる福音書」を参照) 教会の古い伝承は マルコが ペトロの通訳であり ペトロから聞いたことをまとめて福音書を記したとしていた 伝承は 『ペトロの手紙一』および『テモテへの手紙二』などを根拠に 晩年のペトロおよびパウロとマルコが一緒にいたと伝えている この福音書が誰にかかれたものであれ 古代から 『マルコ福音』がもっとも古い福音書であるという認識は一貫しており 近代以降の聖書研究を通じてもこれは確かなこととされている エルサレム神殿崩壊に明確な言及がないことから 一般に成立年代は 70年より前の60年代と考えられているが それよりさらに早い時期のものとする説もある ヴェネツィアのサン・マルコ広場のライオンは、有名ですが・・・ シベニクのヤコブ大聖堂もベネツィアのデザイン とすると、少し変なライオンの彫刻が その上にアダム・・・もしかするとその上に「聖マルコ」? 今となっては・・・確認が出来ませんが福音記者マルコを象徴する マルコは正教会では七十門徒のひとりとされ 「使徒・福音者」と称せられる また初代アレクサンドリア総主教に数えられる マルコおよび『マルコの福音書』は しばしばライオンのシンボルであらわされる。 これは『エゼキエル書』に登場する 四つの生き物に由来し それぞれ 四人の福音記者と福音書にあてはめられている 828年 十字軍はアレクサンドリアにあった マルコの聖遺物(ないしそうみなされていたもの)を奪い ヴェネツィア共和国(現イタリアのヴェネツィア)に運んだ そして 聖マルコは ヴェネツィアの守護聖人となった ヴェネツィアの国旗は 聖マルコを指す聖書を持った有翼の金のライオンであり ヴェネツィアの大聖堂は サン・マルコ大聖堂と名づけられている その前の サン・マルコ広場をはじめとして ヴェネツィア共和国の勢力の及んだ各地には 今も有翼のライオン像が残っている。 ・・・・以上・ウィキペディアさま参照・・・ ライオンは、色々な名所にありましたね~そんなライオンは、聖マルコに関係があり?何も知らなくて損をしていましたランキングも知ってポチっとなう。→
2011.02.03
コメント(2)
クロアチアの【世界遺産】シベニクのヤコブ大聖堂・・・屋根の上に3人の聖人が立っています。聖ミカエル・聖ヤコブ・聖マルコの像であります。あまりにも知らなかつたキリスト教に登場する人物たち・・・おっと~聖人を調べてみました。聖ミカエルについて、驚く事があり・・・次いで「聖ヤコブ」についても知りたくなりました! 『聖ヤコブ大聖堂』なのですから・・・ 当然、聖ヤコブを祀った大聖堂であると思われます。 大聖堂の聖ヤコブ 聖ミカエル 聖マルコは、向こう側だったのでしょうか?これは推測聖ヤコブとは? (ウィキペディア様より参照) ヤコブ (ゼベダイの子) 『ヤコブ』さま エル・グレコ作(16世紀)ニジニ・ノヴゴロド美術館所蔵 ゼベダイの子のヤコブは 新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で 使徒ヨハネの兄弟である アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われる 聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている 正教会では 聖福音者 イオアンの兄聖使徒イアコフと呼ばれ 『マルコによる福音書』によると ヤコブは父ゼベダイ 兄弟ヨハネと共に ガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ そのまま父と雇い人を残してヨハネと共に弟子になった 彼ら二人は「ボアネルゲス」 (雷の子ら)とよばれていたようである(→ゼベダイの子) ヤコブはエルサレム教会においても一貫して中心的な立場を占めていたが 『使徒行伝』によると ユダヤ人の歓心を買おうとした ヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ 殉教したという44年頃のことと推定される 崇敬 9世紀遺体がサンティアゴ・デ・コンポステーラで奇跡的に発見された 時は イベリア半島において レコンキスタの最中で イスラム勢力と闘うキリスト教勢力を守護するシンボルとして崇められた このため スペインの守護聖人とされる 聖ヤコブは スペイン語で「サンティアゴ(Santiago)」となる サンティアゴ・デ・コンポステーラは イベリア半島のみならず 西方カトリック世界における代表的な巡礼地となり 三大巡礼地のひとつに数えられるに至った 巡礼路は整備され 巡礼を世話することを目的とする修道院が配置されるに至った いまも同地は巡礼の聖地として信仰を集めている 巡礼路の中核をなすものは 隣国フランスに発しピレネー山脈を越える巡礼路である (詳細はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を参照) ホタテ貝は ヤコブのシンボルで フランス語では ホタテ貝を「聖ヤコブの貝」 coquille Saint-Jacques コキーユ・サンジャックと呼ぶ 英語圏で多い ジャック(Jack)の名は 彼の名(ジェイコブ)か あるいは 旧約聖書に登場する ユダヤ人の祖ヤコブに因む Jamesまたは Jacobの愛称である ただし ヨハネを表す Johnの愛称である場合の方が多い なお フランス語の ジャック(Jacques)は ヤコブに相当する名前である (以上ウィキペディア様参照) 帆立貝が・・・そして ジャックのうんちく こう言う話は・・・なかなか役立つ話 そうだったんですね~納得のポチっとなう。→
2011.02.02
コメント(6)
大変に不勉強で・・・今更ながら 聖ヤコブ大聖堂の屋根にいらっしゃる3聖人の名前がわかりました。 聖ミカエル・聖ヤコブ・聖マルコの像 前世がイスラーム教徒で、今世が仏教徒であるきらり。来世はキリスト教徒かも? キリスト教の事を知らずして世界を旅して・・・分からない事だらけでありました。 今からでも遅すぎる事は無いと思い屋根の上の3聖人を調べてみました。 まず「聖ミカエル」さま 【世界遺産】シベニクのヤコブ大聖堂 屋根の上には、3人の聖人が・・・一番目立つ手前に 長い物を持った「聖ミカエル」さま 調べてみるとこの方 故「マイケル・ジャクソン」様との関係が ミカエルって何? (ウィキペディアさま参照) ミカエルという名前を直訳すれば 「神に似たるものは誰か」という意味になる 『タルムード』では 「誰が神のようになれようか」という反語と解される カトリック教会などでは ミカエルは・・・大天使ミカエル あるいは 聖ミカエルの称号で呼ばれる 日本ハリストス正教会では 現代ギリシャ語と ロシア語読みから転写し 神使ミハイルとよぶ また 英語の人名 マイケル(Michael) フランス語の ミシェル(Michel)は この天使の名に由来する 最初に・・・ ユダヤ教における ミカエルとは? 旧約聖書の中でミカエルの名前が出るのは 『ダニエル書』第10章 および第12章のみ その中では 断食後のダニエルの見た幻の中に ペルシアの天使たちと 戦うためにつかわされた イスラエルの守り手として現れる 聖書学者たちの中には 『ヨシュア記』の中に すでにミカエルの姿の原型が あらわれていると考えるものもある 旧約聖書そのものには ミカエルへの言及が ほとんどないにもかかわらず ラビ伝承によって ミカエルは さらに多くの役割を与えられることになった 『ダニエル書』に描かれる イスラエルの守護者というイメージから ミカエルと堕天使サマエルとの争いという伝承が生まれた サマエルは 時として サタンと同一視されることもあり もともと 天使であったが 天国から追放されて堕天使となったとされる サマエルが 天国から突き落とされたとき ミカエルの羽を押さえ込んで道づれにしようとしたが ミカエルは神自身によって救い上げられたという また ロトを壊滅するソドムから逃げ出させたのも イサクが いけにえにされるのをとめたのも モーセを教え諭して導びいたのも イスラエルに侵攻する センナケリブの軍勢を打ち破ったのも ミカエルであるとされている 旧約聖書外典『モーセの昇天』に 描かれたミカエルとサマエルの死闘は のちに 竜(悪魔の象徴)と争う ミカエルというイメージを生み出した ラビたちによって 天使へのゆきすぎた信心が規制されるようになっても ミカエルのみは 「イスラエルの守り手」として特別な地位を保たれた ユダヤ教では ミカエルへの祈りが盛んにつくられている ほかにも 天上のエルサレムへ ユダヤ教徒の魂を迎え入れるのも 終わりのときに ラッパを吹き鳴らすのも ミカエルであるとされている 中世以降 カバラ思想が発達していくと イスラエルの守りミカエルは、そのまま「ユダヤ人の守り手」となった。 聖ミカエルとは? キリスト教 カトリックにおいて 大天使ミカエルの 大天使とは? 偽ディオニシウス・アレオパギタが定めた 天使の九階級のうち 下から 二番目に属するものであるが これは中世初期の頃までは 大天使が天使の最高階級と考えられていたためとされる。 また ジャンヌ・ダルクに神の啓示を与えたのは ミカエルだとされている その後 ミカエルは 人ではないが 聖人の一人として カトリック教徒の間で広く崇敬されるようになった キリスト教徒たちは ミカエルをラファエル、ガブリエルとならぶ 三人の大天使の一人であるとみなした ミカエルは 守護者というイメージから しばしば山頂や 建物の頂上に その像がおかれた ルネサンス期に入ると ミカエルはしばしば 燃える剣を手にした姿で 描かれるようになった 中世においてミカエルは 兵士の守り手 キリスト教軍の保護者であった 現代のカトリックでは 兵士ではなく 警官や 救急隊員の守護聖人になっており 地域ではドイツおよびウクライナ、フランスの守護聖人とされている またミカエルは 地上における カトリック教会全体の保護者とされている カトリック教会には 大天使聖ミカエルへの祈りがある カトリック教会における日本の守護聖人も かつてはミカエルであるとされた これはフランシスコ・ザビエルによって定められたが のちに フランシスコ・ザビエル自身が日本の守護聖人とされている カトリック教会では ミカエルは ラファエル、ガブリエルと共に9月29日が祝い日になっており かつてイギリスの大学では この日が始業日であった カトリック教会では ミカエルにささげられた教会や修道院が 492年に作られた カシノ山の聖堂(イタリア)をはじめ多数つくられたが もっとも有名なものとして フランスのモン・サン・ミシェルがあげられる なぁ~んだ!今まで腐るほど見てきた宗教画の意味が・・・ 謎が? 少しだけ分かって来ましたよ! 聖ミカエルって、むっちゃ~強いんですね! 知らない事を知るって凄いですね~ マイケル・ジャクソンと聖ミカエルの関り モンサンミッシェルが・・・そうだったのね! いつか行く予定をしているイスラエルについても とりあえずランキングにポチっとなう。→
2011.02.01
コメント(6)
シベニクの聖ヤコブ大聖堂は、クロアチアの【世界文化遺産】に2000年に登録されました。英語での世界遺産名はThe Cathedral of St James in Sibenikでありますが、世界遺産でありながら・・・この教会には、面白い彫刻がいっぱいあります。 『クロアチア旅日記』・・・大聖堂の彫刻 【世界遺産】ヤコブ大聖堂は、とっても大きいが これが【世界遺産】 平凡な大聖堂だと・・・思うでしょ? 私は、この教会は面白い いや~すっごく面白い それは・・・ むっちゃ~ぁ 変わった彫刻があるからであります。 左側に周って 「教会の門」の彫刻は、素晴らしいんですが よ~く見ると・・・両脇に アダムと イヴが アダム氏イチジクの葉っぱでおさえるしぐさが不自然だし イヴさん=太目なのに・・・お腹と胸が、見えてるし 顔が・・・芸術的か? って言うより・・・申し訳ないけど 高級感が無い 笑える彫刻ですよね・・・おっと 【ユネスコの世界文化遺産】に向かって失礼です。 ゴメンナサイ ひときわ目立つ白亜の教会 「聖ヤコブ大聖堂」には、 世界的に珍しい彫刻があります それは並んだ「顔」 老若男女の顔が71個 大聖堂の壁に刻まれた顔の彫刻 当時の王さま? 王さまの家族? 貴族? ああ~聖書に出てくる「聖人」? では・・・無くって 全員が、違う顔だし・・・71人も 職業も違う・・・普通の市民 どうも? 71人の顔は、 大聖堂建設に情熱を燃やした 普通の「シベニク市民」の顔らしい? それを大聖堂の目立つ所に貼ってある! これは、教会としては、 ありえない事であります! 見た事も、聞いた事も無い話であります。 これは、イエス様も許して下さったのでしょうか? 大聖堂の一番高い所に「大天使ミカエル像」が、気高いお姿で・・・ あああ・・・そっか~下の人間達は、少し普通が 普通の人間で良かったのか~そっか~そっか~(勝手に納得) マリアさまにもポチっとなう。→
2011.01.31
コメント(20)
テーマ世界遺産紀行ブログを書いているのに・・・・【世界遺産】が、全然出てこないじゃん!なんて言われそう~ですから・・・・クロアチア・シべニクの2000年に登録されたカトリックの大聖堂をご紹介しようと思います。 『クロアチア旅日記』・・・ヤコブ大聖堂 シベニクの聖ヤコブ大聖堂 Cathedral of St. James Sibenik ザダルの大聖堂と同じじゃん!って言わないで・・・ こちらは・・・ 2000年にユネスコ【世界遺産】に登録された豪華な大聖堂 その理由は、 レンガや木の補助を全く使わずに建てられた 石造建築の教会としては、世界で一番大きい事 シベニクの都市景観ディザインを高める芸術である事 だそうですが・・・・ 大きな大聖堂を立てた理由は? 近くの都市に立派な教会が建ちはじめたのに・・・ 「おらがシベニクには、地味~な教会しかない!」 と言うので・・・どこよりも大きな教会をと シベニクが、1298年に市になった事もあり計画 もともと市民の声により始まった工事は、 ベネチァの職人と シベニクの市民との努力により 珍しい装飾が施されたのであります。 他では、見たことが無いユニークな装飾 そして、市民がいっぱいある そんな珍しい~大聖堂とは、如何なる建築なのでしょうか? ぼちぼちとよろしくなう。→
2011.01.30
コメント(10)
シベニクは、クロアチアのとっても古い街で、ダルマチア地方の中央に位置しています。住民のほとんどがクロアチア人であります。そんなクロアチア人の多く住むシベニクの歴史について・・・少しだけ♪そして素晴らしい「聖ヤコブ大聖堂は、【世界遺産】に登録されています。 『クロアチア旅日記』・・・シベニクの歴史 赤い屋根 白い壁 緑の窓 シベニクの街並 シベニクの港へ向けて大砲が向けられています シベニクを守る大砲何故に必要だったのでしょうか? 歴史(ウィキペディアさま参照) シベニクが初めて 今の名前で登場するのは 1066年 クロアチア王=ペトロ・ウラジミール4世の時代 他のダルマチアの町と違い シベニクのイリリア人と ギリシャ人と 古代ローマ人が建設した街 アドリア海東岸の クロアチアの都市では最古の町 1298年シベニクは「町」の地位と独自の司教区を与えられた。 それ以来 クロアチア人が 実際に定住する前の長い間 聖アンナの城の洞穴は 居住に利用されてきたと証明されている。 他のダルマチアの都市のように「シベニク」は 1412年まで ヴェネツィア共和国に抵抗し 15世紀の終わりには オスマン帝国がシベニクを脅かしたが 征服するには至らなかった。 16世紀には 聖ニコラスの要塞が建築され 17世紀までには、聖ヨハネ(Tanaja)と スビチェビッチ(Subicevac(Barone))の要塞によって シベニクの要塞化が再び促進された 1797年のヴェネツィア共和国の滅亡によって シベニクは ハプスブルク帝国の支配下に 第一次世界大戦後 ユーゴスラビア王国の一部となり 第二次世界大戦の間 イタリアファシスト政権とナチスに占領され 戦後は 1990年のクロアチア共和国の独立まで ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 の一部であった。 1991年~1995年 クロアチア紛争 クロアチアのユーゴスラビアからの分離独立および クロアチア人とセルビア人の民族対立をめぐる紛争 街は、破壊されたが、市民の努力により徐々に復興へと ざっくり歴史を理解し世界遺産ポチっとなう。→
2011.01.29
コメント(12)
クロアチアのダルマチア地方を旅する事は、随分と昔からの夢でありました♪アドリア海に沿って個性的な古い街を訪ねる・・・そんなワクワクする胸の鼓動が聞こえて来ますでしょうか?全然聞こえない・・・あら~残念ですがっ!? 『クロアチア旅日記』・・・黄昏のシベニク シベニクに到着した時には、 お日様は、アドリア海の向こうへ落ち 冬のヨーロッパの日暮れは早く・・・ ダルマチア地方の古い街シベニクの冬 港の風は、もう~少し冷たいです。 夏ならば、カフェで足を組みお茶を楽しんだり♪ 海を見ながら、ここに坐ってまったりしたいけど 今はクローズですね・・・・残念です。 これから素晴らしい【世界遺産】を見る為に 街の中へ吸い込まれて行きますポチっとなう。→
2011.01.28
コメント(6)
クロアチアのザダルからアドリア海の景色を見ながら1時間半バスは、国道8号線に沿って南下し・・・シベニクに到着。冬至に近いので、そろそろ黄昏時です~黄昏の【世界遺産】との対面を果たせるのでしょうか?まずその前に・・・・・ 『クロアチア旅日記』・・・トイレの女神さま ザダル発→シベニク到着 夕方 シベニクとは、どんな街なのでしょうか? ウキウキワクワク 何は、ともあれ・・・・ グループ旅行の基本はトイレ シベニクの有料トイレ トイレの入口には必ず・・・ 「トイレの神様」が トイレの女神さま このお姉さんの机の上にお金を置く 女神さまのお陰で・・・クロアチアのトイレは、 どこでもピカピカ気持ち良いです 日本にいるとトイレと水はタダだけど 海外旅行に出かけると・・・普通に有料であります。 黄昏時の【世界遺産】へポチっとなう。→
2011.01.27
コメント(8)
ザダル旧市内のドナット教会やローマ時代の広場からは、すぐの所に・・・・真っ青な海に出会う事が出来ます。冬だから真っ青なのか・どうかは分からないのですが海と空の青さに感動するのですから♪真夏のヴァカンスで訪れる事ができたとしたら♪happy~ 『クロアチア旅日記』・・・新しいザダル ザダルのドナッド教会やローマ時代の広場の すぐ近くには、信じられない程の真っ青な海が「アドリア海」 大きな観光船が出航 ヴェネチア行きかな~ぁ? 港を歩いて行くと・・・・ 不思議な世界が おっと背中のデッカイ兄さんが20m先で お邪魔していますいつも私の20m先でお邪魔なお姿 私の事を「昔、酷い目に遭った女に似ている!」と言った 美しい景色がダイナシに! これが ザダルの新システム ウォーターフロントの 「シーオルガン」Sea Organ 海岸には、階段があって・・・ 階段には、四角い穴が! 打ち寄せる波と風が 穴から入り・・・パイプを通り 丸い穴から出る時に・・・音が パイプオルガンみたいな音を奏でる ♪ぼぉ~ぼぉぉ~ん ♪ぼぉ~ぼぉぉ~ん なんと~不思議な音であります。 波と風に寄って鳴っている ♪ぼぉ~ぼぉぉ~ん 大聖堂のパイプオルガンみたいに神聖な音 そんな音を鑑賞するのにピッタシな木のベンチ あらぁ~ピアノの鍵盤になっていますね 学生時代ピアノを少々嗜んだ者として嬉しいベンチ そんな北風を受けて鳴り続けるシ-オルガンを聞きながら あら~っ? あの先にある・・・どデカイ丸い物は何? 「太陽の記念碑」Monument to the Sun と名づけた・・・ 新しいシステム ソーラーパネル 昼間に太陽のエネルギーを集め 夜に青く光るらしい? 公園のランプも これで光らせるのだと言う!? 2005年に完成したこのシステムは、 新しいザダルをアピールするものなのでしょうね。 広くて、明るい広場となったザダルの港は、 夏には、楽しいイベントが沢山企画されるそうであります。 そんなイベントを、ピアノの鍵盤ベンチで鑑賞したいと 思うきらりでありましたポチっとなう。→
2011.01.25
コメント(6)
ザダルの街は、城壁に囲まれています。何故に・・・?それは、3方を海に面していたから海からと陸から攻めてくる侵略者から街を守るためであります。出入りをする為の門の装飾は、ローマ風でしょうか?ギリシャ風でしょうか? 『クロアチア旅日記』・・・海の門 旧市内には、個性的な民家が・・・階毎に住民が違うのかな? 何百年もの歴史がある建物に住んでいる市民のこだわり 大きな教会が・・・ 小さな教会も・・・ つい入ってみたくなりますが 街は、城壁に囲まれています・・・外側から見た城壁 それは、侵略者から市民を守る為 歩いて行くと出入口・・・門がっ! これは『海の門』 門をくぐると・・・ 青い海が向かえてくれます。 アドリア海 海なのに・・・潮臭くない♪ さて、ザダルの海には、 最新のシステムが登場したのであります。 紀元以前からの歴史を保つ古い街に 21世紀の世界を見る事ができる・・・・ さてそれは・・・・何でしょうか? ランキングポチっとなう。→
2011.01.24
コメント(2)
全67件 (67件中 1-50件目)