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2016.10.21
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カテゴリ: 旅のアイテム
スペイン España ・・・とは?

スペイン

España

スペイン国

Estado Español

または

スペイン王国

Reino de España

ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、

同半島の大部分を占める立憲君主制国家。

西にポルトガル、

南にイギリス領ジブラルタル

北東にフランス

アンドラと国境を接し、

飛地のセウタ、

メリリャでは

モロッコと陸上国境を接する。

本土以外に、

西地中海のバレアレス諸島や、

大西洋のカナリア諸島、

北アフリカのセウタとメリリャ、

アルボラン海のアルボラン島を領有している。

首都はマドリード

(マドリッドと表記されることもある)


【国名】

正式名称は特に定められていないが、

1978年憲法ではスペイン語で、

España([esˈpaɲa] ( エスパーニャ)

Estado Español(エスタード・エスパニョール)などが用いられている

Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ)も用いられることがある。

日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン国、スペイン王国。

これは英語の Spain に基づく。

漢字による表記は西班牙で、西と略す。

ただし、江戸時代以前の日本においては、

よりスペイン語の発音に近いイスパニアという呼称が用いられていた。

語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名ヒスパニアである。

España(「スペイン」)という名称は

長らく同地を指す俗称だった。

1492年の王国統合以降でも

国王はあくまで連合王国の共通君主に過ぎず、

宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている複合王政だった。

1624年宰相オリバーレスは

国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。

1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、

単一の中央集権国となった。

しかしこの時もスペインは国号とはならず、

1808年ナポレオンの兄ホセ・ボナパルトの即位時に

正式に「スペイン国王」が誕生した。

現在のスペインは、

国王を元首とする王国であるが、

スペイン1978年憲法では、

それまでの憲法では明記されていた国号は

特に定められていない。

憲法で国号が定められなかったのは、

君主制は維持するものの、

その位置付けは象徴的な存在に変わり、

国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心に

なることを明確化するために採られた措置であった。


【歴史】

先史時代から前ローマ時代

アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前には

イベリア半島に人類が居住していたことが分かっている。

3万5000年前にはクロマニョン人が

ピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。

有史以前の最もよく知られた遺物が

北部カンタブリア州のアルタミラ洞窟壁画で、

これは紀元前1万5000年の物である。


鉄器時代の半島には

北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、

北部から北西部の大西洋側には

ケルト人が住んでいた。

半島の内部では

2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。

またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。

アンダルシア地方には

幾つものその他の民族が居住している。

南部の現在のカディス近くには

ストラボンの『地理誌』に記述される

タルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。

紀元前500年から紀元前300年頃に

フェニキア人とギリシャ人が

地中海沿岸部に植民都市を築いた。

ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に

地中海沿岸部の大半を支配したものの、

彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった。


ローマ帝国とゲルマン系諸王国

紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは

沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、

その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとし、

法と言語とローマ街道によって結びつけ、

その支配はその後500年以上続くことになる。

原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、

部族長たちはローマの貴族階級に加わった。

ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、

港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。

キリスト教は1世紀に伝えられ、

2世紀には都市部に普及した。

現在のスペインの言語、宗教、法原則の

ほとんどはこの時期が原型となっている。

ローマの支配は409年にゲルマン系のスエビ族、

ヴァンダル族、アラン族が、

それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。

410年頃、スエビ族は

ガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地に

スエビ王国(ガリシア王国)を建て、

その同盟者のヴァンダル族も

ガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。

415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、

418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。

552年には東ローマ帝国も

ジブラルタル海峡の制海権を求めて

南部に飛び地のスパニアを確保し、

ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。

西ゴート王国治下の589年に

トレド教会会議が開催され、

国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の

主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、

以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。


イスラームの支配

711年に北アフリカから

ターリク・イブン=ズィヤード率いる

イスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、

西ゴート王国は

グアダレーテの戦いで敗れて718年に滅亡した。

この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、

イスラームに征服された半島は

アラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。

他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部

(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)

に逃れてアストゥリアス王国を築き、

やがてレコンキスタ(再征服運動)を始めることになる。

イスラームの支配下では

キリスト教徒とユダヤ教徒は

啓典の民として信仰を続けることが許されたが、

ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた。

シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝は

アッバース革命により750年に滅ぼされたが、

アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の

王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、

756年に後ウマイヤ朝を建国した。

後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは

当時西ヨーロッパ最大の都市であり、

最も豊かかつ文化的に洗練されていた。

後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、

ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。

更に、新たな農業技術や農産物の導入により、

農業生産が著しく拡大した。

後ウマイヤ朝の下で、

既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、

10世紀頃のアンダルスでは

ムデハル・イベリア半島出身のムスリムが

住民の大半を占めていたと考えられている。

イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、

度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、

多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、

山岳地域のグラナダに居住するようになっている。

11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、

イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。

イスラーム勢力の分裂は、

それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、

アラゴン王国などのキリスト教諸国が

大きく領域を広げる契機となった。

キリスト教勢力の伸張に対し、

北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、

北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。


イスラーム支配の終焉と統一

レコンキスタ(再征服運動:Reconquista)は

数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。

レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨが

722年のコバドンガの戦いに勝利したことに始まると考えられ、

イスラームの支配時期と同時に進行していた。

キリスト教勢力の勝利によって

北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。

イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、

トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。

その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、

エブロ川とドウロ川を境界とする。

739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。

しばらくのちにフランク軍は

ピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、

後にこれらは王国へ成長した。

これらの領域はバスク地方、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる。

アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、

キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。

1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は

半島の北半分に及ぶようになった。

12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、

13世紀に入り、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦いで

キリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、

イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。

1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、

ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった。

13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、

イスラームの支配を再建することはできなかった。

13世紀には

アラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた。

この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)と

サラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。

1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した。

1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、

カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合される。

再征服の最終段階となり、1478年にカナリア諸島が、

そして1492年にグラナダが陥落した。

これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。

グラナダ条約ではムスリムの信仰が保障されている。

この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスが

アメリカ大陸に到達している。

またこの年にスペイン異端審問が始まり、

ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた。

その後同じ条件でムスリムも追放された。

イサベル女王とフェルナンド国王は

貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、

またローマ時代のヒスパニア (Hispania) を語源とする

エスパーニャ (España) が王国の総称として用いられるようになった。

政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、

スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。

【スペイン帝国】

スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代の

スペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)

1516年、ハプスブルク家のカール大公が

スペイン王カルロス1世として即位し、

スペイン・ハプスブルク朝が始まる。

カルロス1世は1519年に

神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まった

プロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。

16世紀前半に

エルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとする

コンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明など

アメリカ大陸の文明を滅ぼす。

アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、

奴隷労働によって金や銀を採掘させられ、

ポトシやグアナフアトの銀山から流出した富は

オスマン帝国やイギリスとの戦争によって

イギリスやオランダに流出し、

ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国の

資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。

これにより、以降5世紀に及ぶ

ラテンアメリカの従属と低開発が規定された。

スペイン帝国はその最盛期には

南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、

フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、

南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、

現代のフランスとドイツの一部、

ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた。

また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去し

アヴィシュ王朝が断絶すると、

以後スペイン王がポルトガル王を兼ねている。

植民地からもたらされた富によってスペインは

16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。

このハプスブルク朝の

カルロス1世(1516年 - 1556年)と

フェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期であり、

スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。

海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、

大洋を越える新たな貿易路が開かれ、

ヨーロッパの植民地主義が始まった。

探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに

新世界に関する新たな知識をもたらした。

この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。

なお、1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移し、

以後マドリードは今日に至るまでスペインの首都となっている。

この時期にはイタリア戦争(1494年 - 1559年)、

コムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)、

ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、

モリスコの反乱(1568年)、

オスマン帝国との衝(レパントの海戦, 1571年)、

英西戦争(1585年 - 1604年)、

モリスコ追放(1609年)、

そしてフランス・スペイン戦争(1635年 - 1659年)が起こっている。

16世紀末から17世紀にかけて、

スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。

急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、

イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。

さらに、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。

その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった。

1588年のアルマダの海戦で

無敵艦隊が英国に敗れて弱体化を開始する。

三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。

白山の戦いの勝利に貢献し、

ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となるなど

神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。

しかしその見返りにスペインが期待していた

皇帝軍の八十年戦争参戦や

マントヴァ公国継承戦争への参戦は実現しなかった。

戦争の終盤には

フランスに手痛い敗北を受けている。

これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。

1640年には

ポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、

1648年には

オランダ共和国独立を承認、

1659年には

フランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約を不利な条件で締結するなど、

スペインの黄金時代は終わりを告げた。

18世紀の初頭の

スペイン継承戦争(1701年 - 1713年)が衰退の極みとなった。

この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、

ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる。

しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀初めまで維持拡大し続けた。

この戦争によって新たにブルボン家が王位に就き、

フェリペ5世がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、

それまでの地域的な特権を廃止し、

二国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている。

1713年、1714年のユトレヒト条約と

ラシュタット条約によるスペイン・ブルボン朝の成立後、

18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。

1759年に国王に即位した啓蒙専制君主カルロス3世治下での

フランスの制度の導入は、行政と経済の効率を上げ、

スペインは中興を遂げた。

またイギリス、フランス発の啓蒙思想が

ホベジャーノスや、フェイホーによって導入され、

一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。

18世紀後半には貿易が急速に成長し、

1776年に勃発したアメリカ独立戦争では

アメリカ独立派に軍事援助を行い、国際的地位を向上させている。

【斜陽の帝国】

フランシスコ・デ・ゴヤ画「マドリード、1808年5月3日」 プラド美術館

スペイン独立戦争の一局面を描いている。

1789年にフランス革命が勃発すると、

1793年にスペインは

革命によって成立したフランス共和国との戦争

(フランス革命戦争)に参戦したが、

戦場で敗れて1796年に

サン・イルデフォンソ条約を結び、講和した。

その後スペインはイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、

ナポレオン率いるフランス帝国と結んだスペインは、

フランス海軍と共に1805年にイギリス海軍と

トラファルガーの海戦を戦ったものの惨敗し、

スペイン海軍は壊滅した。

19世紀初頭には

ナポレオン戦争とその他の要因が重なって経済が崩壊状態になり、

1808年3月にスペインの直接支配を目論んだフランスによって

ブルボン朝のフェルナンド7世が退位させられ、

ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。

この外国の傀儡国王は

スペイン人にとっては恥辱とみなされ、

即座にマドリードで反乱が発生した。

これが全土へ広がり、

1808年からいわゆるスペイン独立戦争に突入する。

ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、

連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を

相手に幾つかの戦勝を収めるものの、

スペイン軍のゲリラ戦術と

ウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。

その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、

1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、

フェルナンド7世が復位した。

フェルナンド7世は

復位後絶対主義への反動政策を採ったため、

自由主義を求めるスペイン人の支持を受けて

1820年にラファエル・デル・リエゴ将軍が率いる

スペイン立憲革命が達成され、

戦争中にカディスで制定された

スペイン1812年憲法が復活したが、

ウィーン体制の崩壊を恐れる神聖同盟の干渉によって

1823年にリエゴ将軍は処刑され、

以後1世紀に及ぶ政治的不安定と分裂を決定付けた。

また、挫折した立憲革命の成果もあって、

1825年にシモン・ボリーバルをはじめとするリベルタドーレスの活躍によって

南米最後の植民地ボリビアが独立し、

キューバとプエルトリコ以外のアメリカ大陸の植民地を失った。

立憲革命挫折後の19世紀スペインは、

王統の正統性を巡って三次に亘るカルリスタ戦争が

勃発するなどの政治的不安定と、

イギリスやベルギー、ドイツ帝国、アメリカ合衆国で進行する

産業革命に乗り遅れるなどの経済的危機にあった。

1873年にはスペイン史上初の

共和制移行(スペイン第一共和政)も起こったが、

翌1874年には王政復古した。

また、19世紀後半には

植民地として残っていたフィリピンと

キューバで独立運動が発生し、

1898年にハバナでアメリカ海軍のメイン号が爆沈したことをきっかけに、

これらの植民地の独立戦争にアメリカ合衆国が介入した。

この米西戦争に於いて、

スペイン軍の幾つかの部隊は善戦したものの、

高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。

この戦争は

"El Desastre"(「大惨事」)の言葉で知られており、

敗戦の衝撃から「98年の世代」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。

【スペイン内戦終結まで】

スペインはアフリカ分割では僅かな役割しか果たさず、

スペイン領サハラ(西サハラ)とスペイン領モロッコ(モロッコ)、

スペイン領ギニア(赤道ギニア)を獲得しただけだった。

スペインは1914年に勃発した第一次世界大戦を中立で乗り切り、

アメリカ合衆国発のインフルエンザの

パンデミックが中立国スペインからの情報を経て世界に伝わったため、

「スペインかぜ」と呼ばれた。

第一次世界大戦後、

1920年にスペイン領モロッコで始まった

第3次リーフ戦争では大損害を出し、

フランス軍の援軍を得て1926年に鎮圧したものの、

国王の権威は更に低下した。

内政ではミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の

愛国同盟(後にファランヘ党に吸収)による

軍事独裁政権(1923年 - 1930年)を経て、

1930年にプリモ・デ・リベーラ将軍が死去すると、

スペイン国民の軍政と軍政を支えた国王への不満の高揚により、

翌1931年にアルフォンソ13世が国外脱出し、君主制は崩壊した。

君主制崩壊によりスペイン1931年憲法が制定され、

スペイン第二共和政が成立した。

第二共和国はバスク、カタルーニャそしてガリシアに自治権を与え、

また女性参政権も認められた。

しかしながら、左派と右派との対立は激しく、

政治は混迷を続け、1936年の選挙にて左翼共和党 (IR)、

社会労働党 (PSOE)、

共産党 (PCE) ら左派連合の

マヌエル・アサーニャスペイン人民戦線政府が成立すると

軍部が反乱を起こしスペイン内戦が勃発した。

3年に及ぶ内戦はソビエト連邦の支援を受けた

共和国政府をナチス・ドイツとイタリア王国の支援を受けた

フランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍が打倒することで終結した。

第二次世界大戦の前哨戦となったこの内戦によって

スペインは甚大な物的人的損害を被り、

50万人が死亡 、50万人が国を捨てて亡命し、

社会基盤は破壊され国力は疲弊しきってしまっていた。


【フランコ独裁体制】

フランシスコ・フランコ総統。

1939年から1975年までスペインの事実上の元首として君臨した。

1939年4月1日から1975年11月22日まで、

スペイン内戦の終結からフランシスコ・フランコの死去までの36年間は、

フランコ独裁下のフランコ体制下のスペインの時代であった。

フランコが結成したファランヘ党(1949年に国民運動に改称)の一党制となり、

ファランヘ党は反共主義、カトリック主義、ナショナリズムを掲げた。

第二次世界大戦ではフランコ政権は枢軸国寄りであり、

ソ連と戦うための義勇兵としてナチス・ドイツに青師団を派遣したが、

正式な参戦はせずに中立を守った。

第二次世界大戦終結後、

ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、

1955年まで国際連合にも加入できなかった。

しかし、東西冷戦の進展とともにアメリカは

イベリア半島への軍事プレゼンスの必要性から

スペインに接近するようになり、

スペインの国際的孤立は緩和した。

また、フランコは

1957年にモロッコとの間で勃発した

イフニ戦争(Ifni War)などの衝突を経た後

国際的な脱植民地化の潮流に合わせて

徐々にそれまで保持していた植民地を解放し、

1968年10月12日には赤道ギニアの独立を認めた。

フランコ主義下のスペイン・ナショナリズムの高揚は、

カタルーニャやバスクの言語や文化への弾圧を伴っており、

フランコ体制の弾圧に対抗して1959年に結成された

バスク祖国と自由(ETA)は

バスク民族主義の立場からテロリズムを繰り広げ、

1973年にフランコの後継者だと目されていた

ルイス・カレーロ・ブランコ首相を暗殺した。


【王政復古から現在】

1975年11月22日にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により

フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、

王政復古がなされた。

フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、

スペイン1978年憲法の制定により民主化が達成され、

スペイン王国は制限君主制国家となった。

1981年2月23日には軍政復帰を目論む

アントニオ・テヘーロ中佐ら一部軍人による

クーデター未遂事件が発生したものの、

毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、

この事件は無血で鎮圧された (23-F)。

民主化されたスペインは

1982年に北大西洋条約機構(NATO)に加入、

同年の1982年スペイン議会総選挙により、

スペイン社会労働党 (PSOE) から

フェリペ・ゴンサレス首相が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生した。

1986年にはヨーロッパ共同体(現在の欧州連合)に加入。

1992年にはバルセロナオリンピックを開催した。

一方、国内問題も抱えており、

スペインはバスク地域分離運動のETAによる

テロ活動に長年悩まされている。

1982年に首相に就任したゴンサレスは

14年に亘る長期政権を実現していたが、

1996年スペイン議会総選挙にて右派の国民党 (PP) に敗れ、

ホセ・マリア・アスナールが首相に就任した。

21世紀に入ってもスペインは

欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、

住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている。

2002年7月18日、ペレヒル島危機が起こり、

モロッコとの間で緊張が高まったが、

アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。

同年9月、アスナール首相が

イラク戦争を非常任理事国として支持、

2003年3月のイラク戦争開戦後は

有志連合の一員として、

米英軍と共にイラクにスペイン軍1400人を派遣した。

2004年3月11日にスペイン列車爆破事件が起き、

多数の死傷者を出した。

選挙を3日後に控えていた右派のアスナール首相はこれを政治利用し、

バスク祖国と自由 (ETA) の犯行だと発表したが、

3月14日に実施された2004年スペイン議会総選挙では

左派の社会労働党が勝利し、サパテロ政権が誕生した。

サパテロ首相は就任後、2004年5月に

イラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。

また、後に2004年の列車爆破事件は

アルカーイダの犯行と CIAからの発表があると、

この対応を巡って政治問題となった。

サパテロ政権は2008年スペイン議会総選挙でも勝利したが、

同年9月のリーマン・ショック勃発により、

スペインの経済は壊滅的な打撃を受けた。

2011年スペイン議会総選挙では国民党が勝利し、

マリアーノ・ラホイが首相に就任した。

2016年9月、去年と今年の2度の総選挙を行っても

政権を樹立出来ないままだったが、

第一党の国民党のラホイ首相を首班とする

政権樹立を下院で反対多数で否決し、

またもや政権樹立に失敗した。

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最終更新日  2016.10.21 21:28:28
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