「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2021.11.07
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カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​アンリ・ド・トゥールズ=ロートレックは、もっと自由に制作できるようにと両親から独立してアトリエを借ります

​​ ​♫ロートレック『モンマルトル』へ♪ ​​​

Pari Montmartre



アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
​Henri de Toulouse-Lautrec​

1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)
フランスの画家。
ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。


1883年 12月(20歳 )​ ロートレックは、

もっと自由に制作できるようにと!

ルピック街にアトリエを借りた。


家族から初めての独立だったが・・・

それは簡単にはいかなかった


彼の母親は、財布の紐をゆるめず、

芸術家仲間の暮らしに不信感を表明した。

「アトリエでの生活は、

 画家の腕を磨くには

 都合が良いでしょうが

 若い男にはひどい環境です」。


そしてモンマルトル

あの ​「いかがわしい地区」 にも母は我慢がならなかった怒ってる


​「僕はすっかり画家の卵です」。​


彼は仲間たちと同じように ​顎髭をたくわえ

​「馬のように制作した」。​


しかし、何が彼にふさわしいかは、まだ定かではなかった。


アンクタンは・・・

彼より優れて見えたが、「印象主義の道」に従っていた。


ロートレックは・・・

すでに印象主義が自分の手法ではないことを気づいていた。

彼の絵画はますます人間を主題に選ぶようになっていた。


1884年 (20歳 )​ は、南西フランスに出かける代わりに

彼はパリで を過ごす。


国立美術学校の選抜試験に通るのを断念したばかりの折に、

コルモンが、ヴィクトール・ユーゴ全集の

挿絵の仕事のための協力者に選んでくれたからである。


さらに友人:グルニエがフォンテーヌ街19番地第2号の

新居に移るのに便乗してそこに同居を始める。


その建物には、

ドガ 、もアトリエを構えていた。

今度は家族からの断絶も完全に成し遂げられた

それは単なる住居の問題を超えて、

彼における絵画の定義そのものが変わったのだ


ロートレックの母は、

そしておそらくは父も、

アンリの将来をボナのような社交界の画家として慣習を尊重し、

フランス学士院の会員に推挙されるようなものと思い描いていた。


ところが、ロートレックが絵画に見いだしたものは、

まったく別の方向に導くことになる。


1880年代 のモンマルトルは・・・​

われわれがロートレックの作品を見て

以後に抱くようになったイメージとは

たぶんまだ同じものではなかった。


むしろこの地区がパリの他の場所から際立っていたのは、

村のような鄙びた眺めと、

芸術家と娼婦と職人と、

つまらないごろつきたちが

ごた混ぜになっているその住民であった。


彼らが間もなくダンス・ホールやバーなどで

「社交界の人びと」と関わりを持ち始める。


ロートレックも熱心にこうした場所に通った。

そこでは彼の姿もほとんど奇異なものではなかった。


【コルモン画塾】に通ったり、

友人たちの家を訪問するときに

(ラッシャーはモンマルトル墓地の ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​麓のガヌロン街に住んでいた)

行き交う人の姿、

歩き方

振る舞いなどに無感覚ではいられなかった。


店員の娘、

肌着売りの女、

お針子あるいは娼婦たち、

また流行の沖仲士の格好をした娘や、

ブルジョワ市民、

商人、

そしてあまり公にできないような「仕事」をする

とらえどころのない人物たちが次々と街角を通り過ぎる。


こうした住民たちは、

同時代の画家からまったく顧みられることはなかった。


というのも彼らは画家たちが伝えようとする価値や観念に

まったくすごわなかったからである。


彼らに興味を持ったのは、

ヴィレットや、スタンランのような「挿絵画家」だけであった。


しかしながら、もっとも先鋭的なやり方でものを見、

それを紙もしくは画布の上に、

あらかじめ設定された感覚を盛り込むのではなく

あるがままに写し取ることによって

新しい世界の創造を目指すのは、

通常の世界の裏側、

もしくは少なくともその周縁部分からであろう。


1884年 (20歳 )​ 頃には、

一方で素描の制作は抑えられていないのに、

ごくわずかの絵画(10点余り)しか描かれていないが、

それはロートレックが絵画の改革を

自分の役目として考えるのに躊躇や困難を感じたことを示している。


『泥寧にはまった荷馬車』『下生え』

『猟犬とともに獲物を追う騎馬の男』 などは、

それ以後描かれなくなる主題の最後の作品である。


『男の半身像』『笛を吹く男』 などは、

いまだアカデミックな習作の範囲にとどまるが、


次の2点の裸婦は、

ロートレックが達成しつつあった方向転換を示している。


そのうち 『ジャンヌ』

オッテルロー「クレラー=ミュラー美術館」は、

斜め正面を向いて座る伏し目がちで

のっぺりした肉体の裸婦という具合に、

なお型にはまった構図に属するにしても、


『太ったマリア、モンマルトルのヴィーナス』

ヴッパタール「フォン・デア・ハイト美術館」は、

ぎごちないデッサンや凡庸な光の効果にもかかわらず、

現実を装うことなしに提示しょうとする意思が際立っている。

描かれた娼婦は見る者の視線を正面から見返し、

その顔には、軽侮と挑戦の気配を漂わせる。

拘束のないこうした肉体の態度が、

あたかも、

これまで現実から絵画(および見る者の視線)を守ってきた

表面のヴェールやワニスをはぎとってしまった蚊のようである。


1884年 11月(20歳 )​ ロートレックは母に宛てて書く、


「僕は春まで続くかと思われるような

 単純な仕事の繰り返しをしています。

 でもおそらくそのうち、

 珍しいものを作ることができるでしょう。

 まだどんなものか良く分かりませんが」。


2か月後には彼は、

​「サロンのための作品を準備したものかどうか」​


躊躇っていて、

​「いっさいが野心的な計画で、熟考を要します」。​


しかし、この熟考も長くは続かず、

すぐに彼のなかにあるモンマルトルへの魅惑が

サロンを打ちかましたのである。


​「ブリュアン」との出会い・・・とは? ​​

ロートレックが足繁く訪れたモンマルトルは、

丘よりもむしろ大通りであった。

実際、クリシー大通り、ロシュアール大通りに沿って、

キャバレーやカフェ・レストランが立ち並び、

彼はその常連になりつつあった。


ラ・モール、

ブール・ノワール(1887年以降=ラ・シガール)、

カフェ・デ・コロンヌ、

エリゼ=モンマルトル、

そして1881年に、

​ロドルフ・サリス​ が開店した

シャ・ノワール などがある。


​​サリスは・・・​​

見せかけの媚びへつらいと放漫さの入り混じった

口達者によって店の評判を確立した。


さらにヴィレットによる巨大な油彩画をはじめとした

店内のがらくたのような装飾によっても、

画家や作家たちの興味を引く機会をとらえた。


ロートレックが、サリスの個性に

惹きつけられたかどうかは明らかではないが、



​アリスティド・ブリュアン​ ​​ がデビューを飾ったのは、

この シャ・ノワール である。

ブリュアンこそ、

ロートレックの人生にサリスよりも

はるかに大きな関わりを持つ人物となる。


サリスが移転した後のこの場所を買い取り、

ブリュアンは、

ミルリトンと名付けられた自分の店を開店し、

瞬く間に人気を獲得した。


その評判は、

巧妙に作られた隠語でいっぱいの彼の歌

「哀れな一節」や「報復のルフラン」によるばかりではなく、

増える一方のお客たちへの

彼の一風変わったもてなしのお陰であった。


「彼は客の大群を迎え入れ、

 アカデミーと乾杯し、

 粗野な輩に邪険にしたかと思うと、

 愚か者を誉め上げ、

 時流に乗った実力者を怒鳴りつけ、

 ロシアの大公をコサック呼ばわりし、

 王族におまえ俺で話しかける」

という具合だったという。


ロートレックは、ブリュアンのお陰で、

モンマルトルの空気のなかに

今まで嗅ぎとっていただけのものをついに発見し、

この二人の男は本物の友情で結ばれた。


彼が見いだしたものは、

確立された価値の取るに足らなさ、

社会的な階層の混在、

公式芸術では触れることのできない現実の露呈であった。


彼は相変わらずコルモンの画塾に制作に通い続けたが、

今やブリアンの歌の一節を声を限りに歌っては

アトリエを陽気にしていた。


この風刺歌謡作者 (シャンソニエ) は、

過剰な民衆主義を備えていたが、

それは社会が極端に隠蔽し、

秘密にしているものに興味を集めるうまい方法はなかろうか?


ブリュアンはロートレックのうちに、

自分の歌謡集「街角にて」の挿絵を描かせた

ヴィレットやスタンランとは違う次元の芸術家を認めていた。

そして、ブリュアンが彼固有のやり方で

ロートレックに影響を与え、

そのとき彼のものであった方法に進ませることは不可能ではなかった。


1885年 (21歳 )​ ロートレックは、

急にアトリエのモデルを使っての制作を止め、

周辺の友人たち(リリー・グルニエやエミール・ベルナールの肖像)

ばかりか、

女工のカルメン・ゴーダンのような

街角に行き交う女たちにも興味を向け始めた。

カルメンの肖像 は4点描かれている。

これらの肖像画を描く視点には、

コルモンやボナの教えが反映されているのも事実だが、

同時にロートレックは、

ドガにも魅せられていたことがわかる。

彼の 『踊り子たち』 は、ドガに多くを負っているし、

この年の冬、 数日を過ごしたヴィリエ=シュル=モランで

宿屋の壁に描いた油彩 『舞台監督』『楽屋の踊り子』

『バレーの場面』『天井桟敷』 などは、

ドガからひじょうに豊かな借用を示している。


彼の努力は、あらゆる形式から離れて、

現実の動きや正しい姿勢を捉える方法に向かっていた。


それこそドガの真骨頂であり、

オクターヴ・ミルボーの叙述によれば、

ドガは 「生命ある布の下の生命ある肉体あるを正確に」

再現したのである。


このときはロートレックもまだタイツとチュチュを着た

「きちんとした」ベレリーナを描いていた。


1886年 (22歳 )​

『エリゼ=モンマルトルのルイ13世の椅子カドリール』 になると、

古典的な演出は別のジャンルの振付けに置き換えられた。


優雅さは大股開きに、

トーダンスは月への足蹴りに、

そして女性の体の軽やかなイメージは、

挑発的な見せびらかしに取って代わられている。


グリザイユ(灰色の濃淡だけの描法)で描かれた

『カドリール』 は、ミルトンの壁を飾り、

この年の終わりに

ブリュアンの新聞「ル・ミルリトン」の表紙に印刷されたが、

その画面には、

モンマルトルの狂熱の夜を象徴する定めの人物たちが描かれている。


踊り子たちの肉体の露出が行き過ぎにならないように監視する

「羞恥心親父」 (ベール・ラ・ピュドウール) や、

まもなく有名になる踊り子「ラ・グーリュ」と「グリーユ・デグー」

しかしこの栄光は彼女たちの踊りの才能よりも

ロートレックに多くを負っている。



さほど大きくない寸法(45cmx56cm)にも関わらず、

この 『カドリール』 は、

前兆としての価値を持っている。


血気盛んなモンマルトルの中心でのブリュアンとの付き合いを通して、

ロートレックがいまやどれほどこの地域に密着し、

そのきわめて特殊な見世物に彼の視線が

どれほど引き寄せられているかを知らせているのである。


(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)
(写真撮影:ほしのきらり)


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最終更新日  2021.11.07 00:10:08
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