「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2021.11.12
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カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは娼婦たちを多く描いていますが、それにはかなりこだわりがありました

Pari



​​ロートレックお気に入りのモティーフとは? ​​​


アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
​Henri de Toulouse-Lautrec​

1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)
フランスの画家。
ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。
(ポスター)広告芸術の革新!
​​「近代」ポスターの真の創始者。


​1891年​ から

「ジャーヌ・アヴリル」 は、

いつもの挑発的な態度で腰を振って踊ってるラ・グリュが、

前景に描かれた画面の背景に登場するようになった。


1892年〜1893年 ジャーヌ・アヴリルは、

ロートレックのお気に入りのモデルとなり。

次第にラ・グーリュをしのぐようになった。


彼女は ​「ラ・メリニット(爆薬)」

もしくは ​「気違いジャンヌ」​ とあだ名されたが、

ロートレックの興味をかき立てる最高の存在となった


それはラ・グーリュが、

結局は何の秘密もない活力あふれる「遊び女」という

表面的な存在に過ぎなかったのと対照的である。
​​

ジャーヌ は、より繊細で教養もあり、

その環境における波乱に満ちた

卑俗な過去(私生児、娼婦、失踪癖など)の後、

ムーラン=ルージュのカドリールに踊り子としてデビューしたが、

ここではそこそこの批判しか呼ばなかった。


彼女はむしろ一人で踊るときに魅力を発揮した。

独自の振り付けを考案し、

表現力豊かな身振りを使いこなすことができた。


あらゆる悪徳やかなりの邪悪さは、

その謎に満ちた個性ゆえのものであり、

彼女の魅惑は考え抜かれた化粧と同様、

彼女のうちにある抑制されたエネルギーに由来しているのだ。


彼女とロートレックの暗黙の了解は完全なものだった。

彼がジャーヌをアトリエに呼ぶと家庭の主婦の役割を果たしたし、

ロートレックも彼女を最上のレストランに連れていき、

喜んで一日中一緒に過ごした。

彼女にポーズしてもらいたいときには、

辻馬車で探しに行ったし、

なによりジャーヌは・・・

ロートレックの絵画を心から称賛していた。


「エスタンプ・オリジナル」の表紙 では、

彼はアンクール印刷所で、

リトグラフの刷りの具合を見るジャーヌを描いている。

このように彼女の判断の確かさに当然の信頼を捧げていたのである。


ジャーヌの影響の重要さは、

ロートレックがその習慣を変更したことに現れている。

彼はもはや舞踏会に興味を失い、

娼婦たちの肖像画や娼館の情景は描き続けながら、

カフェ・コンセールや劇場に新たな関心を注ぎ始めていた。

大衆の集まる、しかも、

厳格な職業意識が要求されるこうした場所は、

その後、身振り、視線が最大級の意味を負わされる。


しかしもっとも優れた芸術は

身振りや姿勢に意識を集中させることで

過ぎ去った時を忘れさせることができるのである。


そして、ある心理や事物が存在する背景を明らかにし、

ついに究極の真実に到達し得るのである。


こうした場面では計画を立てたり、

全体を総括する効果ははっきり現れる。


娼館であるのに、娼婦たちがロートレックを魅了したのは

彼女たちのプロの主管以外の部分であった。


お客を送りだしたあと休んでいるところ、

肉体の要望に従ってつくろいでいるところなどである。


もう一方には自然そのままの誇示がある。

その両方の場合において、

ロートレックは彼以外の誰もまた

機会のなかった真実を捉えようとしたのである。


​1893年 (ロートレック=29歳の時 )​

友人のブールジュ博士が結婚することになり、

もう彼と同居できなくなったロートレックは、

途方に暮れてしまった。


ドゥーエ街にあった母のアパルトマンに食事をしに行くようになったが、

彼の新しい孤独感をうまく紛らわすことはできず、

「売春宿」に滞在を続けるようになった。


彼は、そこで娼婦たちに信頼される友となり、

彼女たちに贈り物をし、

その疲れを癒す時間を分かち合う親密さのなかで暮らした。


日曜日、娼婦たちは「くじを引いて」彼の相手を決めた。

ロートレックの性的能力はずっと以前から、

「コーヒー沸かし」という意味深長なあだ名を進呈されるほどだった。


しかし、むしろロートレックは束の間の見世物に熱中し、

女同士の接吻や優しい仕種を捉え、

眠っている二人の体や、

ゆだねきった態度、

お喋り、

カード・ゲームをする様子などを素描した。


彼はこれらのデッサン、クロッキー、

素早いスケッチを積み重ね、

それをもとにトゥールラック街のアトリエに帰ってから肖像画や、

裸婦、娼館の情景などの油彩を描いた。


しかしその際にけっして「扇情的」で

露骨な場面を構成することはなかった。

(『ムーラン街の階段』の3点の異作は例外)、

なぜならロートレックは、

覗き屋にも道徳家にもなりたくなかったからである。


彼は娼婦たちがその職業の要する強いられた微笑みや

見かけだけの華やかな衣装を取り去り、

その下の自分を露わにしているさまを描いた。

彼女たちの肉体、

態度、

顔つきを透かして、

倦怠や退屈、

衰え、

若い頃の希望の名残り、

時の刻印、

そして、ほんとうに楽しい時間はめったに訪れないという存在の

悲惨な側面を秘めやかに見せるのである。


1893年 (29歳)​ 以来、

『ムーラン街のサロンにて』1894年

11.0cmx132.0cm アルビ「ロートレック美術館」蔵

・・・をその頂点として、

娼婦の主題に捧げられたロートレックの

15点以上の一連の絵画に一貫しているものは、

このような場所で経験する

「一時的な死(オルガスムス)」以上のものとして、

エロスとタナトスは結びついているということである。


このことはウィーンでも、

ジークムント・フロイトの周囲で知られていたが、

パリでロートレックが、それを明らかにしたのは、

造形的な方法によってである。


すなわち、彼の描く「娼婦たち」の生気を失った肌。

むくんだ顔によってであり、

引きつり、

こわばった微笑みや、

頬骨のこちら側にその骨が透けて見えることを

暗示してみせるというやり方を通してであった。


(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)
(写真撮影:ほしのきらり)

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最終更新日  2021.11.12 00:10:08
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