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小著新刊『人間賛歌 生きているから』をご覧くださった方からお便りが届く。作者にとっては、嬉しいかぎりである。見ず知らずの方から戴くこともあり、小さな本の取り持つご縁に感謝する。中学の恩師からは、「父よ 母よ」にお母様を思い出しました・・とあった。もう半世紀程も前の、その時代を鮮明に記憶に留められているご様子に唯々驚嘆する。時折のぞく、語りかけるような文体に胸が熱くなる。きっと先生は、生徒を前にして話される思いだったのだろう。前回お目に掛かってから早15年、優しく美しいその先生は、今もって生徒の憧れでもある。ああ 父よ 母よちちのみの父は逝きははそばの母も逝き会えなくなって久しいけれど・・先生、どうぞお健やかに ・・・・・・・・・・・・・
2009年09月13日
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慌しいうちに年を越し、2008年の1月も早半ば。恒例の書展が1月4日から始まり、5日のHオークラでの授賞式と祝賀会を控え、ゆったりとお正月気分に浸る暇も無いくらいだ。それでも、<箱根駅伝>がお正月を運んでくれる。例年、返礼賀状を書きながらテレビで楽しむ。42.195キロを一人で走りぬくマラソンは長い時間、自分との闘いであり、相当厳しいに違いない。しかし、チームプレーの駅伝は、また異なった意味で精神的なハードルは高いだろう。今年もドラマがあった。様々な理由による途中棄権、観ている者も切ない。選手の心中は如何ばかりか。それを示唆する監督も心中穏やかではないだろう。 無理を押して成果を残すか、選手個人の選手生命を思うか・・監督の親心。真っ先に考えるのは、当然、選手の身体と選手生命に他ならない。選手の将来を潰して成果を上げたとて何のことがあろうか。将来に夢を託せばよい。しかし、復路最終の10区に至ってのこととあれば、その落胆を思い 言葉を失う。何よりも、選手の思いに胸が痛む。将来、これをバネとしてどうぞ立ち直って欲しい。必要以上の責任感にさいなまれぬように・・心に大きな傷を残さぬように・・陰を落とさぬように・・糧として逞しく成長すればいい。ひたすら祈る思いである。こうして、我家は例年、「箱根駅伝」を楽しむ。☆・・・・☆・・・・☆・・・・☆・・・・☆小正月の今日、遅ればせながら皆様にご挨拶申し上げます。そして新成人の皆様おめでとうございます。気まぐれな更新のページに、いつも多くの皆様のご訪問を戴き有難うございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。かねがね心に期すことがあり、仕事を少々整理致し、今年は、たまには温泉や音楽を楽しみ、ゆとりをもって見聞を広めながら、勉強と制作に打ち込むつもりです。後進の成長にも、もう少し寄与できることと楽しみにしています。後輩の皆様、一緒にご精進ください。 raku-sa /SAWA
2008年01月15日
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あかときの静寂を破る高き一声叢林を抜け空高く吸われゆく何を見 何を思うか暁雲に向かう鳥の一羽こころ 解き放つ暁の空に
2007年07月06日
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暖冬で桜が早く咲くかと思ったら、早いのは早いけど、とびきり早いという印象でもなかった。ただ温かければ早く咲くという訳でもなく、開花前に気温が低くなることも必要らしい。身の引き締まる寒さを越えなければ開花出来ないとは・・花の命も短い上に、なんとまあ、けなげな花であることか。どちらかと言えば、凛とした梅の花を好んできたが、潔いその散り方と相俟って、今年はとりわけ 桜をいとしく思う。桜といえば西行、と言われるように、西行の和歌には桜を詠んだものが多く、それらはみな人口に膾炙されているが、晩年、西行はこんなことを話した。毎年 桜が咲くと思うだけで 私(西行)は嬉しさに胸が膨らむ。それだけで 私(西行)は生を成就している。桜が咲いて 人々が心浮き立つ時その喜びの中に 私(西行)はいつもいるのだ。 願はくは 花のしたにて春死なむ そのきさらぎの 望月の頃 その願いどおり、皓皓と光る満月の夜、西行は73年の生涯を閉じた。後に俊成は詠う。 願ひおきし 花のしたにて をはりけり 蓮(はちす)の上もたがはざるらむ西行にはこんな歌も残る。 仏には 桜の花をたてまつれ わがのちの世を 人とぶらはば・・・・・・・・・・・・・・・風が鳴る。26年前も春の嵐が吹き荒れた。・さくら散る お洒落な君が図りしか 空には激し 告別の舞 (「春嵐」より)
2007年04月01日
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中国文学者の第一人者であった 駒田信二先生は、「中国書人伝」というエッセーを、4年間雑誌に書かれたことがあった。(後年『中国書人伝』(芸術新聞社刊)に纏める)それは書法についての論評ではなく、書聖といわれた王羲之や鄭道昭など中国の代表的な書人を取り上げ、古くから言われる「書は人なり」との観点から書人を見つめたものである。「書は本来、彫るもの」であり、中国の書人たちの「書」がそれを教えてくれた、と言われる。「筆を動かして字の(あるいは字に似た)形を書いているだけのもの」は(日本の)書道かもしれないが「書」ではない、と。手厳しいが慧眼と言わざるを得ない。純文学の同人誌『まくた』の題字は、200号の記念に駒田信二先生が揮毫されたものである。さすがに墨は紙背を徹し、深みがあり、何よりも品がいい。厳しさとふくよかな優しさとを併せ持ち、頑固さとどこか可愛らしさをちらりと覗かせる。不遜をお赦しねがって分析を続けさせて戴くならば、唐様(からよう)つまり、中国の書法に則り、始筆は蔵鋒で重く送筆部は静か。慎重な筆遣いが随所に見られ、終筆からは、何事もきちんと対処される几帳面さが窺える。強靭な思想であるがゆえに多くのものを包容しうる、威厳と温かさと品格に満ちた中国文学者<駒田信二>そのままの「書」だと思う。以前、漢詩を編んだ著書を戴いたことがあるが、ページを繰るごとに私は息を飲んだ。誤植のすべてを、ルビの一つ一つまで、赤鉛筆で直されていたのである。地名の横には、東へ○○キロメートルなどと加筆されているものもあり,費やされた時間とエネルギー、その煩しさとを思うと胸が痛む。数年前、同人誌『まくた』が月刊から季刊に変る時表紙のデザインを担当させていただいた。先生の題字を横書きに変え、抽象的な図柄(心象)を下部に入れて一新した。おこがましくも、先生との合作ということになり、記念すべき仕事のひとつとなった。暮れに『まくた・紅柳忌増刊号』が届いた。「書きつづけて死ねばいいんです」との師 駒田信二の言葉そのままに、「まくた」の同人達は頑張って書き続けているようである。扉の、痩身の遺影は、あくまでも清々しく凛々しい。次ページにはタクラマカンの熱砂に咲く紅柳、その2葉の写真に、ウルムチからの帰朝報告会や、千駄木での葬儀を思い出す。あなたはフリーパスですから、と笑顔で出入りをお許しくださったものの、伺ったのはほんの僅かばかりであった。威厳があり、凛として近寄りがたい存在ながらも、その笑顔は実に親しみ深いものであった。結びに、もう落手する術なき先生からの賀状の最期の詩句を引く。「春来還發舊時花」ゆるぎない文字が認(したた)められてあった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新年おめでとうございます。お訪ね下さった多くの皆様、いつもいつも申訳ございません。更新ままならず、お詫び申し上げます。 2007年 元旦 raku-sa
2007年01月01日
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再び カフェド・ラ・プレス最近、週1回は出かけることになった仕事場近くのフレンチレストラン。以前も紹介したことがあるが、静かないい雰囲気とランチがお気に入り。窓から日本大通りの大銀杏を眺めながら食事が出来るのは、多忙な日常からすれば、暫しの贅沢な時間である。シェフの腕前とセンスの良さからか、お洒落な料理がいい。味もデコレーションも、いつも小さな驚きを与えてくれる。メインデッシュのプレートを飾る付け合せが何ともいい。何時だったか、折れた木の枝のようなチョコレート色の細長いものが出てきた。不思議な思いで恐る恐る口に運ぶと、それは何と歯ごたえのある”ごぼう”である。ビネガーの酸味を加味して、さっぱりした味付けは申し分なかったが、何よりも、その姿に驚きと楽しさが加わった。厚切りの白い大根の時も感動したものである。おでん、ふろふき大根、ぶり大根・・大根はじっくり煮込んで、とろけるように柔らかくしたい。が、少し違う。ナイフを入れると少し硬い。いや、かなり硬い感じだ。さすがのシェフも急ぎすぎたか、と失礼ながら思ったのは大きな過ち。やや硬い大根は、噛むほどに甘味がじゅわあっと口中に広がる何ともいえぬ美味しさ。大根の旨味を改めて実感したものである。あるときはサツマイモ。縦に極く薄く、煎餅状というか長い小判状に削いでから揚げ。チキンのソテーに乗せた2枚のチップは、透明な黄金色をして微かにチキンを透かしている。他の野菜との織り成すハーモニーは、芸術的、いやもう立派な芸術であった。どちらかと言えば、私はあまりしつこいものを好まないが、ホテルでのパーティーとなればフランス料理である。あちこちでかなりの頻度で催されるから、作ってくださったシェフには申し訳ないけれども、少しづつ残しながら戴くのが常となり、平素は、フレンチを敬遠しがちとなったのだが・・。今 認識を改めざるを得ない。この、横浜の日本大通にあるフレンチレストランのシェフは、私の心をすっかり捉えてしまった。素材の持ち味を生かして調理する、手を加え過ぎぬそれは、人の教育にも通じるようにさえ思える。最近富みに、教育論がかまびすしい。それもそのはず、日本人の多くはもうかなり病んでいる。自然治癒には難しい重病と見る。どうしたらいいのか、どうすべきなのか、真剣な論議と対策が望まれよう。深刻な問題である。いつか、これも論じたいと思う。
2006年10月10日
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早朝ホテルを出て、新神戸から再び新幹線に乗車、岡山からは瀬戸大橋を渡り四国に入る。轟音と共に通過する大橋、眼前に広がる海、幾層にも連なる島々は、濃緑からやがて青色となって空に同化する。波穏やかな内海は、初夏の日を受けて今日も鏡面のようにきらきらと輝いている。伸びていく白い航跡、漁(すな)どる船の幾隻か。それもこれも心癒すものにはなりえなかった。3ヶ月前母校に向かう時は、春の陽光に包まれ、少なからず、心躍る面持ちで海を渡った。前夜ホテルで催された「美を継ぐ者たち展」の祝賀会の華やぎは既に跡形もない。私は、硯を思いだす。前日ホテル1階にある骨董屋で見つけた硯である。飾り彫りも美しく、かなりの年代物に違いない。到底手の出せる代物(しろもの)ではなかった。愛想のいい店員に会釈して店を出た。そして、もう一面の硯・・・照れくさそうな、遠慮勝ちな義兄の笑顔が浮かぶ。高級品じゃあ ないんじゃきんど 使ってくれるか、私の前に差し出した。それは値打ちがあるとされる古端渓ではなく、見るからに色も新しい、新端渓と呼ばれる物のようであった。硯は採掘した場所や石の種類によって名前が付けられている。古い物が珍重されるが、素人には、古端渓と新端渓を見分けることは至難である。何も解らんきんど・・穏やかな言葉が私の胸に沁みた。初めての個展の時には、横浜まで駆けつけてくれた義兄である。その義兄が言う。また神戸に来るときには寄ってくれ、もう、なごうはないきん。ええ、また帰ってまいりますから、お大事にね。1ヶ月後、私はまた瀬戸大橋を渡った。真夏の太陽は既に沈み、薄黒い海が広がっていた。マイクロバスのシートに身体を埋める。義兄は骨灰と化し、長男に抱かれて生家に向かう。静かに悲しみが私を襲った。拭いても拭いても涙は留まることを知らない。更に深くシートに身体を埋めて私は空を見上げた。
2006年08月28日
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今頃気付いたが、前回の日記が150、これが151回目となるようだ。気まぐれに始め、多忙続きの昨今は、休むことが多くなってしまったけれど、いつの間にか150回も書いていたことに驚く。いつもよく訪ねる方々の日記には、驚嘆することが多く、暫し楽しませていただいた後は、どうしてこんなことができるのかと、その技と心意気と美しさに感服してしまう。ところで、今日からついに、冨嶽百太郎さんが、1ヶ月、いや、それ以上かもしれないがお休みに入るという。やはり寂しい。 でも、お気持ちは何となく理解出来る。真面目で何事にも真摯にぶつかっていかれる方だから・・ご本名が付記された日記に、そのお気持ちの深さと重さを感じる。熟慮の上でのことだと思う。またの再開を、そして「コラムDEキビダンゴ」での再会を心待ちにしている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冨嶽百太郎様 三寒四温のこの頃、今日は風の冷たさに震えました。お休みされるのですね。いつもお訪ねする度に啓示を受け、共感していました。私からのbook batom にも、貴重なお時間の中を、これ程までに詳しくご丁寧に受けて戴き恐縮の限りです。 私の処へも度々お訪ねくださり、感謝いたします。温かいメッセージは、いつも心に沁みました。有難うございました。過日のbook baton から読書歴を拝見。やはり、と重厚な内容に納得するばかりです。作家というよりも、更に奥深い思考回路を構築され、その哲学は、すでに百太郎さんお一人のものだけではなく、多くの人たちに影響を与えています。誠実で謙虚で、ものごと全てを真摯に全身で受け止められる。これでもか、これでもか・・と。熟考を重ねた上での休息でしょう。いつの日か、再び、また、「コラムDEキビダンゴ」での再会を心待ちにしています。くれぐれもご自愛を、偏にそれを祈っております。 rakusa/SAWA 拝
2006年03月07日
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冬ばれ。冷たい風を切って駅に向かう。満員電車に飛び乗り・・今日も一日が始まる。川沿いの道を、犬を連れて散歩する人、土手の上の小道を急ぐ自転車、背中にはバックパックが見える。車窓にみる朝の風景に、なぜか泰治の画を思い出す。今日は立ちんぼウなので、いい筋トレになりそう。カシャカシャ カシャカシャ・・何とも騒がしい音が背後から聴こえる。否応なく耳につくが、ヘッドフォンから洩れる音がこんなに大きいとは。この坊やは、さぞかし大音響で音楽を楽しんでいるのだろう。公共の場を、自室と錯覚してしまったらしい。注意するのも、お願いするのも面倒臭くなって、人を掻き分けながら移動した。やれやれ、これで静かになった。メールで仕事の連絡を2件、ご無沙汰のお詫びを友人に2件、携帯も使いこなせば便利この上ない。再び車窓を見ながら思索を廻らす。今日は不思議と本を開く気にはならない。懸案のことをどう処理するか・・あれこれと思いを廻らすうちに目的の駅に到着した。詩に興り、礼に立ち、楽を成す。論語の一節だが、書を読み、学問を積み、人の社会生活には欠かすことの出来ない礼を重んじ、その礼を身に付けることで、人としての骨格も出来るというものだろうか。孔子さまは「楽」を重んじられたが、音楽を代表する趣味教養が人に厚みを加え、円熟味を具えることになるのだろう。再び、「詩に興り、礼に立ち、楽を成す」今年もいい年でありますように、精進あるのみ。
2006年01月12日
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師走になると、郵便物の中に、一・二通は喪中のはがきが交じって届くようになる。灰色の線で縁取られたそれを手にする度に、私は心が重くなってしまう。亡くなった方が八十歳以上であれば、天寿を全うされたのだと、些かでもほっとするが、若くして旅立たれていると、たとえ面識はなくとも胸が痛む。まして、子供を亡くされた場合など、葉書を手にしたまま唯、茫然とするのみである。輪廻転生は人の世の常であるとはいえ、子が親に先立つほど残酷なものはない。私の兄や姉も早逝し、両親は子供達を見送った。教員をいていた姉が逝った翌年、法曹界にいた兄が相次いで逝去した朝、幼い私は、母の腕の中で息が詰まりそうになりながら、号泣する母の姿を見た。そして、雄雄しく涙を見せぬ父に、男というものは悲しくても泣いてはいけないのだ、とその時初めて知った。いずれもその悲しみの大きさはいかばかりか。父と母のその悲しみようを未だ忘れることはできない。両親よりも、決して先に死んではならない、と幼いながら強く心に期したのを覚えている。幸いにも父は85で、母は90で鬼籍に入り、その心配はなくなったものの、寂しがりやの子供のためばかりでなく、私を取り巻く多くの人達のために、そして自身の仕事への執着もあってか、後数十年は生き延びたいと思うばかりである。今日もダイレクトメールなど共に、年賀欠礼の挨拶状を二通受け取った。一通目は誰が亡くなったのか記されていない。友人からのものであるが、自身の両親なのか、それとも連れ合いの身内なのか、子供は確かいなかったから・・とあれこれ心配する。もう一方のは、見慣れぬ筆跡である。怪訝に思い裏返してみる。差出人にも覚えがない。本文を読み始め、私は愕然とした。信じられない思いで何度も読み返す。何度見ても、そこには確かに友人の名前が記されてあった。それは友人の夫人からのものであった。迂闊であった。新聞の死亡通知欄も見落としたらしい。私は悪寒が走った。死亡したとある3日前、珍しく彼から電話を受けていた。その朝、依頼された仕事のために能登へ発つことになっていた私は、その旨を伝えて電話を切った。あの時、どんな用件だったのか、何を言おうとしたのか、今となっては知る由もない。いつも多忙を極め、会合も掛け持ち、秘書のスケジュールに合わせて正に東奔西走の日々であったように思う。それでも、都合がつくと個展には訪来、昔の仕事仲間の集まりでたまに顔を合わすときも、芸術の世界はいいねえ、といつもしみじみと話していた。何かにつけて金銭的な思考回路を要する現実的な生活に比して、詩だの歌だのと、文学の話がその大半を占める私の仕事がいいと言った。現実からかけ離れた、苦労知らずの夢のような世界に写ったのだろう。その実、こちらにはこちらの苦労というものがあるのだが。「今度ゆっくりお酒でも飲みましょう」というのが口癖だった。アメリカのC大学の講習会や、パリのホテルでの研修旅行には、生徒を引率して毎年出向き、一年のうち、四、五回は海外出張があったらしい。が、今度ばかりは、二度と再び戻ることのない国に旅立ってしまった。ゆっくりお酒でも、と誘われることも永久になくなった訳である。もしかしたら、あの電話は、旅立ちを予期した、彼の最期の別れの挨拶であったのかもしれない。そういえば、いつもの言葉は聞かれなかった。
2005年12月20日
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11月最後の日曜日、私は都内屈指のホテルに出かけた。教え子の結婚披露宴に出席するためである。いつだったか、彼女のことを書いたことはあったが、幼児の頃から書熟に通ってきた生徒である。その彼女が白無垢の打ちかけに角隠しの花嫁姿で迎えてくれた。席に案内されると、私のテーブルには既にお絞りと水の用意がしてあった。さすが、一流ホテル!その細やかな心配りに感心する。普段から話すことに馴れている私は、スピーチを依頼されることが少なくない。この日も例外ではなかった。が、その日は何故か口が渇く。いつになく緊張していたのかもしれない。何度か、喉というより口を湿らせるために私は水を含んだ。これが、サービスなのだ。その他、一事が万事という言葉どおり、終始細やかな配慮の行き届いた心配りにもてなされ、飛び切りのフレンチと共に、心豊かな気分に浸らせて戴いた。終始、明るく、こぼれるほどの笑顔の新郎新婦、一抹の寂しさを漂わせるのは、やはり新婦の父親。娘を嫁がせた経験のある私には、そのお気持ちを察することも出来る。花嫁の親、とりわけ父親にとっては些か残酷なものでもある。「巣立ち」などというものは、めでたくもありめでたくもなし、とも言えようか。だが、大抵はいつの時も、子供には無条件で無償の愛を施す、それが、「親」でもある。
2005年12月02日
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・わが裡の磁石の針は故郷の西を指しをり コスモスの咲く・死に近き義父の笑顔に心置く 車窓に櫨(はぜ)は紅く燃えをり・秋の葉の風のさやぎを聴きしとき ツルゲーネフは甦りくる・交々の憂いは闇をつらぬくか 幽かなる火はまだ裡に秘む・秋深し 京の高雄に照る紅葉 鳥獣戯画の高山寺はも
2005年11月08日
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久し振りに高校の同窓会に出掛ける。仕事のために30分遅れて水道橋の会場に合流した。着いたときは既に宴たけなわ、懐かしい皆の顔が紅潮している。遠く四国を離れて関東に生活の拠点を置く人達ばかりの集いである。今年初参加の人が3人もいる。思わず、あの方だあれ? と35年振りに会う人の名を尋ねて笑われてしまった。記憶力など当てにならないものである。頭の中で、詰襟の学生服を着せてみようとしても、若い顔立ちに直そうとしても、私の脳細胞だけでは記憶を呼び覚ますことが出来なかった。いつの間にか、一人一人の挨拶にも解説をつけて進行役を務めるI、お洒落が嵩じてか、アパレル会社の社長になって頑張っているS、いつ会っても駄々っ子のようで憎めないM,“気は優しくて力持ち”誠実で頼もしく、剣道に加えて少林寺の達人にもなったY、甲斐甲斐しく皆の世話を焼き、終始こまごまと気配りをする、まるで私達のお姉さんのようなYの奥方のIY、学生時代から美人で人気者の、富士の裾野でルームアクセサリー店を営むE、娘の結婚相手を心配するT、人材派遣業で頑張ってるS、などなど。それぞれの顔にはその人の人生が現れていた。高校卒業して数十年という長い間に、大病をして人生観の変わった人もいれば、順風満帆の人もいて、話す内容も話し振りも人生そのものである。一年間の猛勉強をして見事「宅建」の資格を取得した不動産業を営むMなどは、「これで主人がどうかなっても家業は大丈夫ですので・・」とユーモアたっぷりのスピーチで喝采を浴びた。私はといえば、人生を楽しんでいます、などと言い、「うまいこと言うなあ、誰に教わった?」と野次られる始末。前向きに生きてる人は、目の輝きが違うね、と嬉しいことを言ってくれたのは35年振りに再会したK、何事にも真面目に取り組む姿勢は今もって変わりなく、噛みしめるようなに話し方が懐かしかった。宴たけて多弁となりし我等みな 少年少女となりて輝く同じ故郷を持つ者の集まりは楽しい。首都圏に住み古り、「おれはサ、そう言ったけどサ・・」とすっかり東京弁を操るようになったHだって、そのアクセントの違いは時として隠せない。わざと方言を飛ばして笑いをかう者もいるが、「ほんじゃきんどナア」 (※そんなこといっても、だけど、などの逆接)などという懐かしいふるさとの言葉を聞こうものなら、もう一気に30年も40年も前に引き戻されてしまうのである。たとえ見ず知らずの初対面でさえ、関西方面のアクセントを聞き逃すことはなく、耳さとく聴き取ると、急にその人に親しみを感じる。四国出身の人でもいようものなら、旧知に出会ったような気さえする。あちこち旅行をして素晴らしい景色に出合っても、瀬戸内の夕日を忘れることはない。新幹線を降り、岡山で宇野線に乗り換える。今は瀬戸大橋線となったが、その大橋を渡ると四国である。郷里に入る前に、真っ先に瀬戸の海が出迎えてくれる。大小無数の島が、行き交う漁船が、そして優しく穏やかな海が、私をいつでも歓迎してくれるのである。富士も冠雪。木々の色付きも近いだろう。巡り来る美しい四季の彩にも似た、多くの人達のエールを受けて人はみな明日に繋いでゆく。
2005年10月14日
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木犀の香に思わず足を止めた。通い馴れた道だから、それが何処から漂ってくるのかすぐ判る。月明かりを受け、艶やかな葉が浮かんで見える。もうそんな季節なのだ。気忙しく通り過ぎることの何と多かったことか。私はもう久しく母の手紙を受け取っていない。丹精の花々のことが克明に記された便りは、遠く離れている私にも、母の生活や庭の様子、そして天候さえも手に取るように伝えてくれる。明治の人らしく、文字が途中で乱れることもなければ、自分の娘に宛てたものでさえも、丁寧な言葉で結ぶ。母は、片道5キロの山道を越えて高等女学校に通った。裁縫よりも読書を好み、袴でテニスに興ずる、どちらかといえば、進歩的な女性であったらしい。それでも、戦後の一時期には仕立物をし、私が高校の時などは、家庭科の裁縫の宿題まで手伝わされることもあった。が、娘のパジャマを半分以上縫わされる羽目になった私を見れば、母は、「歴史は繰り返すのねえ・・」と嘆くかもしれない。秋には少し膨らんだ封書が届いた。中には決まって、懐紙に包まれた金木犀の花が入っている。黄色の可憐な花は、懐紙をうっすらと滲ませ、香をほんのかすかに残すだけとなった、乾涸びた哀れな姿ではあったけれども、添えられた母の短歌と共に、否応なく私を故郷の思い出に浸らせてくれた。薄茶色の染みがいとおしく、飛び散りそうなそれを掌にやさしく包み込み、私は目を閉じて残り香を楽しんだ。故郷を後にする時、花の季節は終り、葉だけがこんもりと繁っていた。今、生家の花も盛りに違いない。惜しげもなく辺りに芳香を撒き散らす花を見上げながら、出来ることなら手折って母の仏前に供えたいと思った。
2005年10月12日
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私は今も些か悲観的である。が、それでも希望は捨てていない。礼儀やマナーをわきまえた「上質」の人が少なくなったと嘆きながらも、反面、素晴らしい人達も多いからである。「悪貨は良貨を駆逐する」との言葉どおりに、戦後、安穏な悪癖は急速に伝染していっただけである。日本人が自浄能力を完全に失った訳ではないだろうから。しかし、私は、「家庭教育」での再生に悲観的なのである。家庭教育をすべき親達の多くが、既にその能力を備えていないように感じるからである。若者や子供達が、礼儀をわきまえないのは、礼儀作法を知らないだけのことで、教えると「なるほど」と納得する。先日も学校で、ドアを開放している部屋に高校生が入室するや、「こんにちはー」と元気のいい声を掛けながらそのまま大股で自分の教材置き場に向かった。目上の人には、歩きながら挨拶をするものではないのよ。私のたしなめを受けて、真面目な彼は挨拶をし直した。社会人になった時、彼はきっと、この日のことを思い出すことがあるに違いないと思う。彼らは知らないだけである。以前どこの家庭でも、なされた躾が、近年は、親そのものにもその能力が減少している。目に余る光景は、大抵いい歳をした人達であることを思えば、社会風潮も加わり、礼節を踏まえるべき教育は、殆ど姿を潜めてしまったとも言えよう。なれば、学校や地域や、あるいは、社会教育の場で、未来の親となる子供達を教育しながら、一方では、同じく、地域や社会教育の場に於いて、いま、現在の、親達の教育を施す必要があるのだと思う。礼儀などは大したことではない、と考える向きもあるかも知れない。しかし、決してそんなものではないのである。日本国内は勿論のこと、世界に目を向けた時、信頼を得る人達、一流と言われる人達には、厳然と礼節は存在する。それをわきまえない品性のない人達を、彼等は決して信頼することはなく、その輪の中に加えることはない、ともいえる。私達が、国の内外を問わず、確固たる信頼を得て活躍するためには、否、そんなことよりも何よりも、人とのコミニュケーションを円滑にはかる為にも、ご近所の皆さんと気持ちよく暮らす為にも、自分自身がより美しく生きる為にも、子供達を立派に育て上げる為にも、尊敬と謙譲の美徳、礼節やマナーは、現代も未来においても、なくてはならない教養の一つなのである。過日嬉しい電話があった。幼児期から成年に至るまで、私の書熟に通っていた女の子の母親からである。その子は、大学卒業後の就職先を選択する時、小さい頃からスチュアーデスに憧れながらも、都内屈指の一流ホテルを選んだ。私はその選択を賢明だと賛成したことを思い出した。そのお嬢さんがいよいよご結婚となった由で、多忙な私を気遣って早めに予定を知らせてくださったものである。このご両親はいつもこうである。微に入り細に亘って、細やかな気遣いを施される。教養ある礼儀正しいご両親に育てられた彼女には、いつ出会ってもその折り目正しさに感心させられたものだ。その子が花嫁に・・深みゆく秋がひとしお楽しみとなった。
2005年09月04日
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人を指して「上質」などと言えば異論はあるかも知れないが、近年、上質の人に出会うことが少なくなった。対向者への気遣いもなく道いっぱいになって歩き、エレベーターなどでの「お先に」という言葉も余り耳にしない。NHKの朝ドラでは、目上の人に謝る時でさえ、トーとバッグを肩に掛けたままで深々とお辞儀をする。マフラーを巻いたままで室内に入っての挨拶はもとより、外套着用のまま室内に入り挨拶する始末。車内での大声はいい方かも知れないが、表彰式や茶席にいたってまでお喋りに余念がない。どうしてこんなにも周囲への配慮や状況認識に欠ける、お行儀の悪い品性のない人達が増えてしまったのか。子供や若者だけでなく、彼等に躾をする立場の親や、手本となるべき大人達の質が落ちているのである。戦後の教育と社会風潮の結果であることに間違いはあるまい。高潔とまで行かずとも、せめて人としての上質を目指したい。「書は紳士淑女の学問」と言ったのは先師。そこに「書」を学ぶ意義もあるのだと思う。子供達には、将来の、社会のリーダーとなる人達には、特に、「書道」や「茶道」を学校での必修教科にして自国の伝統文化への理解と造詣を深め、人格の育成に寄与させたいと思う。
2005年09月02日
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我家から新横浜に向かう桜並木の途中にサッカー練習場がある。少年専用の小振りなものだが、高いフェンスに囲まれたその練習場は毎日のように賑わっている。小さな子供たちが集い、歓声を上げて走る姿は何とも微笑ましい。3,4歳かと思うほどのちびっ子もいて、ゲームの時などは、真剣な顔つきでボールを追いかけている。保護者らしき観戦者たちからの大きな歓声につられて見てみると、ゴールを決めたらしく、ちびっ子の一人が、プロ選手さながらのガッツポーズを見せて駆け抜けている。そのあまりの可愛さに思わず笑いがこみ上げる。その練習場は、工事現場に置いてあるような簡易トイレを備えているだけの、単なる遊び場のようでもある。周囲には草が生い茂り、蔓草が高いフェンスに伸びている。深い草むらに蛇でも出なければいいが、との心配をよそに、彼らは無邪気に練習に励んでいるのである。ある日、小さな札がいくつも立てられた。目を凝らして読んでみると、「コスモスの種をまきました」とある。コスモス・・私の好きな花である。コスモスの名所とも言うべき黒姫高原にはまだ行ったことはないけれど、10年ほど前に友人が連れて行ってくれた、郷里の「遂波の嶺」を思い出した。何万本だったか、数はもう忘れてしまったが、盛りは過ぎていたものの、見事な花野であった。風にそよぐコスモスに埋まり、花を嗅ぎ花と戯れ・・私は少女のように駆け抜けた。そして、その花の香に、懐かしい母の香を嗅ぐようであった。倒れても倒れてもまた立ち上がり、そしてすずやかに微笑む。コスモスの逞しさとその優しさに、私は生き方の範を見る。すずやかに微笑み、しなやかに強く、私の理想でもある。猛暑が終りを告げる頃、あきあかねが飛来し、すずやかなコスモスの花が、この練習場を包むだろう。そして、爽やかな高原の風を運んでくれるに違いない。
2005年07月23日
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見えない所で人はこっそりいいことをする。誰かが見ている所でなら、気恥ずかしくて止めるかもしれない。でも、人の見ていないところでいいことをするのは難しいことでもある。それはまさしく本物。人に見られているところでなら、みんなと一緒なら、困っている人に手を差し伸べてもいいと思う。誰かが見ている所でなら、ゴミを捨てるのを躊躇する。誰も見ていない所でなら、後ろめたい思いがあっても、捨ててもいいかな、捨ててしまおう、となりやすい。そこで不法投棄となるのだろう。粗大ゴミ、はては車に至るまで、人知れず放棄していく人もいる。人ってそんな所もあるのだ。人知れず、善行をしていた人がいた。それも10年という長い間。kiyさんである。ユニセフから感謝状が届いて初めて、10年が経過したことに気付かれたという。その写真がアップされている。7月18日付け「こんなの貰っちゃいました」自分の幸せを追い求める人は多い。けれども、世界を見渡せば、いや、すぐ近くにだって、救いの手を求めている人はいる。少しでもいい、ほんの少しだけでもいい。自分が生きていられる幸せに感謝してその幸せをお裾分けするのはどうだろう。好むと好まざるとにかかわらず、明日の食事もままならない、病気になっても治療の薬も手に入らない、勉強するための、本もノートも鉛筆もない、ただ家族で一緒に暮らすことさえも、当たり前の、そんなささやかなことさえも、望めない、そういう人が、この地球上には大勢いる。考えてみて、みんなが普通に生きていけるように。考えてみて、みんなが笑顔で暮らせるように。考えてみて、今 何が出来るかと。kiyさん、私はとても嬉しく思います。私がブログをアップした時、はじめて書き込んでくれたkiyさんが、人知れずそんなことを続けてこられていたことを。私は不思議なご縁を感じます。
2005年07月20日
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季節の便りにまじり、ふるさとの懐かしい香が届いた。箱を開けると、ひとつひとつ丁寧に和紙でくるまれ、こうばしい。上品な甘さも未だ堅持。銀座の「空也(くうや)」のモナカは絶品で・・と評判が評判を呼び、愛好家も多い。小振りで茶席にも適していることから予約していなければなかなか手に入り難いようだ。さすがに皮はこうばしい。一口噛んだ時のさくっとした食感はよい。が、餡の甘さは、やや濃いと感じる。食べ終ったあとに、甘さが口に残るのである。「空也のモナカ」とのバトルを演じるわけでもないがふるさとのモナカは絶品である。贔屓目を割り引いても、川之江(四国中央市)の「柴田のモナカ」は劣らない。いや、充分勝るのである。一度召し上がった方はこの味を忘れられず・・必ずファンになる。私の周囲の東京人にも、確か、十数人。思うに、西の人の方が味覚は多分に優れていると思う。素材の味を大切にして薄味で纏める。その料理法ひとつをとっても頷けるのである。吾がふるさとには、大阪北の高級クラブに行くとバカラのグラスで出される、という銘酒もある。それについての自慢は また別の日に。一どきに出すのは惜しい気もする。楽しみは多い方がいい。江戸中期 安永の創業以来、参勤交代の折には川之江宿場に於て土佐山内公の御用を承っていた、というから歴史はかなりのものである。※御用 土州 御菓子司 柴田辧治 栞には鑑札らしい図の表記があった。
2005年07月17日
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「MUSICAL BATON」海外の音楽好きブローカーから始まった遊び。《 音楽に関する4つの質問に答えて、5人の方に回す 》のだそうです。「こぞう01さん」からご指名いただいたようですので・・どうなりますか、試してみます。☆Q&A1.あなたのPC上にある音楽ソフトの容量は? PCで音楽を楽しむことはしていません。 容量は?です。2.最後に購入したCDは? LEONARD BERNSTEIN 指揮 「PICTURWS AT AN EXHIBITION3.今 聴いている曲 NARCISO YEPES (Guitar)4.心に残った、もしくは毎日聴いている5曲 ☆1:RAY CHARLES「Thanks For Bringing Love Around Again」 最期のアルバム。実にいい。感動!☆2:NARCISO YEPES (Guitar) アルハンブラの思い出 他 ギターの音色に魅了される。☆3:ベートーベン・ピアノソナタ第8番「悲愴」 一番好きなベートーベンの、何十年来の好きな曲。☆4:ショパン・幻想即興曲 文句なしに大好き、何故か身体が震え、涙が出てくる。☆5:ラフマニノフ・「ロマンス」 ラフマニノフらしからぬ小品。 理由があるけど、今はヒミツです。5.バトンを渡したい方5人 ご迷惑でなければ、バトンをお受けとりください お気が進まないようでしたら無視してくださって結構です。 ・星組Bさん ・たか・たか・たかしさん ・shippoさん ・悪代官1号さん ・blue rose 2792さん ※お名前をあげさせて戴いた皆様は、 私と違ってアクセス数やコメント数の多い方々です。 ご迷惑かも知れませんが、お願いします。 ・
2005年06月30日
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「富嶽百景」でお馴染みの葛飾北斎の言葉にしびれる。いや、しびれるなどど、軽い言葉は相応しくないのだが。北斎はいう。永年絵を描いてきたが、60歳にして漸く鳥や動物が描けるようになり、90歳になって絵師と言われるようになった。10年経って百歳になれば神妙となるだろう。あと10年生きたい。いや5年でいい。北斎にしてこうなのだ。いや、それゆえ、北斎が世界の北斎になりえたのだ。
2005年06月22日
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母の命日。花が殊の外好きだった母は、丹精こめて四季折々の花を育て、菊作りに熱中したこともあった。誤って崖から落下、骨盤骨折してからは、足が少し不自由になり、外出を控えるようになった。旧家に生まれ育った母は気位が高い。不自由な歩行を人前に曝したくなかったようだ。「生まれつき身体の不自由な方だっているのに・・」私は母を責めたこともあったが、頑なな母の心を変えることは出来なかった。「あなたにお願いしておくからね。 姉妹のなかで一番お花が好きだから・・ 私が死んだら、お花を持ってお参りにきてね。 ほっとけさまにしないでね。 私がいなくなっても、時々くるのですよ」母は私に言い置いた。その言葉を裏切り、私は姉の家を頻繁に訪ねることはなくなった。疎遠になっているわけでも、仲違いをしている訳でもない。多忙にかまけて、訪ねる回数が減ったというだけである。母に済まないと思う。約束を違えてしまって、親不孝の限りだと思う。昨日、6月18日は、母の命日だが、終日仕事のため、一日早い金曜日に出かけることにする。高島屋で母の好物だった桃とメロンを、ダイアモンド地下街で花を求めた。淡いピンクのトルコ桔梗と、優しいブルーの小花を選び、仏花らしいものは避けた。良妻賢母教育を受けた、昔気質ではありながら、どちらかと言えば、モダンなお洒落を好む母に合わせたのである。仏壇の扉は既に開かれ、仏壇の中に置かれた過去帳も、母の法名が記されている頁である。毎年忘れずにそうしているのだろう。母だけでなく、父や兄や、祖父母に至っても。姉の心遣いを嬉しく思う。家を守るとは、こういうことなのだろう。線香の白檀の香りが、生前の母の笑顔を運んでくれるようであった。
2005年06月19日
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「せんせい、くるしたぬいでもいい?」お稽古に来るとしゅうちゃんは決まって言う。冬でも、暑いといって、くるしたならぬ靴下を脱ぐのである。脱いだ靴下を丸めて机の下に置き、おけいこバッグから硯(すずり)や筆の道具を出して机上に置く。初めてお稽古に来た時、準備の仕方、道具の使い方などを教えると、次からは間違うことなくきちんと、一人で準備も片付けも出来るようになった。しゅうちゃんは3歳で一人っ子。大人の間で育ったせいか、時折大人びた会話をするおしゃまさん。鉄道や天体に興味を持ち、知識欲旺盛で利発なちびっこである。「せんせい、みょうじょうってしってる?・・きんせいのことだよ」答えを待ちきれず、自分で答えてしまう。「夕方一番に光る星のことね」「わくせいのひとつなんだよ」私は昔から目だけは自信があり、視力は常に1,5を維持していた。30歳を過ぎて1.5というのは遠視ですよ、近所の眼科医に言われるまで自慢に思っていたのである。40を超えると、自分にも遠視というか少々早すぎる老眼を実感するようになり、眼鏡を調達した。小さな文字を読んだり書いたり、しかも夜遅くまで目を酷使しているのだから仕方がない、といえばそれまでだが、普通の人より早くから眼鏡のお世話にならざるを得なくなった。私は煩わしさと恥ずかしさもあって、人前ではなるべく眼鏡を掛けないでいた。子供達のお稽古中も。幸いなことに眼鏡をそれ程必要とはしなかったのである。ある日、生徒の一人が、母親からの手紙を持参した。例によって私は眼鏡を着用していない。が、その手紙の文字は小さくて少々読み辛い。そう思った時、しゅうちゃんが言った。「せんせいおこってるの?」「・・・・・?」「うちのははうえはね、おこるとき ひたいに たてに せんがあるよ」そのしゅうちゃんも、年賀状に自作の漢詩「五言絶句」を書いてよこす立派な高校生になった。
2005年06月10日
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白く可憐な花を咲かせるどくだみは、路傍に群生することも多く、通い馴れた道にも新しい表情を届けてくれる。どんよりと重く垂れ籠める日の多いこの時期、可愛い花の姿を見ると心楽しくなる。数日前、友人は可愛いブーケをプレゼントしてくれた。「あなたなら、好きだと思って」そう言って差し出したブーケは、独特の香を放っている。この香・・「臭いから、とは思ったんだけど・・」躊躇いがちに友人は言った。葉はまぎれもない どくだみである。が、姿が何処か違う・・そうだ、八重なのだ。どくだみの花は八重だった。白い小さな花びらは、上に行くほど小さくなり、それが松傘状に重なっている。小手毬の花をうんと小さくしたような、初めて目にする花の姿であった。「手が臭くなるから・・」友人の制止も聞かずに、私は暫くあれこれと触って確かめた。先端の淡黄色の花芯らしきものには、針の穴ほどの小さい粒粒が着いている。直径2センチ位で花高はまちまちである。花びらはざっと数えても20枚以上はあり、花の大きさによって枚数は異なっている。花びらが段々大きく成長して松傘状を形成していくようだ。触れる度に花は芳香を放つ。ここにいますよ、と主張するかのようである。ウェイターがスープを運んできたので、私は仕方なくそのブーケを紙袋にしまい込んだ。「良かった!」友人は満足そうに言った。「主人ったらね、何だ! どくだみか。そんなもん! そう言ったのよ・・」一般的な男性はそう思うかも知れない。そう言う人の方が多いだろう。「価値観の相違よね。」初めて出合った八重のどくだみを横目で眺めながら、私は呟くように言った。
2005年06月08日
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今日(2日)は午後から雨になり、肌寒い一日となった。この時期、着る物には本当に困ってしまう。夕方帰宅する頃には気温が下がり、雨の為か、体感温度も下がっているように感じた。サマーウールの一重のジャケット着用の私は、些か寒い。疲労感も加わって、仕事帰りにとうとう喫茶店に立ち寄る羽目となる。「熱~い ロイヤルミルクティーを」とお願いする。運ばれてきたトレーの上の、小さなポットとティーカップを触ってみた。熱い! 良かった。ほっとしてそのポットを取り上げ紅茶を注ぐ。店によっては時々生ぬるい紅茶を出すこともある。カップが温められてなく、戴いているうちにすぐ冷めてしまうものもある。何といっても紅茶は熱々がいい。ましてや、今日のように肌寒い時などは、とびきり熱いものにして欲しい。そんな時私はいつも、「熱~いのをお願いね」という。電車を降りてすっかり暗くなった道を我が家へ急いだ。ミルクティーは、疲れを癒してくれると共に、心も豊かにしてくれるのだ。激しい車の往来の音に交じり、折り畳み式の小さな傘に当たる雨粒の音が聞こえる。私は立ち止まり、歩道の植え込みを見た。今年も咲いたらしい。おどろおどろしい名前に反して、可愛く清楚なその花を私は好きで、見掛けると必ず手折って持ち帰る。その花の匂いを嗅いだのである。はたして、街路樹の桜の大木の根元の躑躅(つつじ)に交じり、街灯に照らし出された、白い小さな花の群れがあった。茶の花に似た、そのどくだみの花は、姿には似つかわしくない独特の香を放つ。その花の香というか、匂いが厭だという人も多い。私はしゃがんで花を手折った。雨で柔らかくなった土のせいで、根っこごと採れてしまったものもあったが、逞しいその繁殖力を思えば心配することもない。花をどれに活けようか・・私は春慶塗りの花入れを選んだ。直径10センチ位、高さも25センチ位の小ぶりなものである。雨に濡れて、いっそう艶やかに美しい深緑の葉も、その葉に包まれるようにして咲いている可憐な白い花も、茶色がかった春慶の朱に清清しく映えた。根のついている一本は、空き瓶に活けてある。明日、鉢に植えよう。散歩がてらに、道端から萱も一株頂戴してきて、以前のように寄せ植えをしよう。風にそよぐ萱もまた風情があっていい。四季を彩る私の好きな植物のひとつでもある。疲労感はまだ残っていたが、キッチンに立つぐらいは出来た。今夜も後で開いてみよう。昨日手掛けた、ブログのリニューアルの反応が気になった。
2005年06月03日
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「きっと、おばあちゃんが喜ぶから・・なんたって袴でテニスをした人なんだから」大学の卒業式を終えたばかりの娘の発案で母のもとを訪ねた。九十に近い母は、日中は殆どこたつに入って過ごす。その母の前で、紫紺の袴を腰高にきりりと履いた娘は、ゆっくりと回って見せた。娘は、看護婦のちょっとしたミスで、初めてミルクを含ませた時から噴水のように勢い良く吐いた。生理的体重減少などというものではなく、みるみる骨と皮だけに痩せ細り、産院を退院した後改めて未熟児センターに入院した。保育器に入り、鼻から管でミルクを少しづつ流し込まれる鼻の下に管が絆創膏で貼りつけられている娘の痛々しい姿を毎日廊下越しに眺めた。産後の養生どころではなかったのである。「生きてるだけで儲けもの」とは夫の口癖であったが、良く育ったものだと思う。成人式を終え、大学を卒業して社会に巣立とうとしている娘を、私は感慨深く眺めた。 今日は卒業式だったの? おめでとう・・ 短大なの? 四年生なの?・・学部は? ・・ 今日は卒業式だったの・・ おめでとう・・ 短大なの?四年生なの? 学部は? ・・母の質問は繰り返し繰り返し続く。老化現象の一つであり、母の年齢なら当たり前のこととはいえ、毎度のことになると、相槌もなかなか骨が折れる。娘はその都度、耳の遠い母のために大きい声でゆっくりと答えている。が、やがて苦笑しながら言った。「おばあちゃんは、メリーゴーランドね」「わたしが? どうして?」母は不服そうであった。今日から6月。間もなく母の命日が来る。何度目であったか、手帳を見なければ判らない親不孝者である。生前、ほっとけ様にしないで、私がいなくなっても来てね、お花を持ってお参りにきてね。raku-saにだけは頼んでおくからねそう言った母の言葉が思い出される。それでも、私は姉の家を訪ねることが少なくなった。行かなくっちゃあ、と気にはなりながらも、ついつい多忙に明け暮れてしまう。母を思い出しては、薄情な親不孝者であることを恥じ入るばかりである。今年の命日には、必ず母を訪ねようと思う。花菖蒲 伝えられなき母の味かな
2005年06月01日
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昨日紹介したメールの送り主から、再び、次のようなコメントが届いた。(承諾済)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ブログ拝見。私は親から頑張ったねとか、よくやったとか認めてもらった事がありません。人に誉めらられる事になれていません。だからかどうかわかりませんが、涙がグワーと出てきてしまいました。私が成長したと言ってくださるのならば、それはまぎれもなく○○のおかげです。○○に出会えた事で私はトンネルから出られました。人生が変わった瞬間です。大げさに聞こえるかもしれませんが私の分岐点であったことには間違いありません。(略)♪夢のある素敵な道に連れてきてくれてありがとうございます。今夜は最高な気分で眠れます☆ (略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私自身の経験からも、親というものは子供の成長を期待するあまり誉めることをあまりしない。誉めるよりも、つい叱咤激励に終始してしまう。もしかしたら、そのことで子は逆に自信を失ってしまっているかもしれないが、それはそれとして敏感に受け止め、子は逞しく成長していってくれるものでもある。子供に限らず、大人だって誉められる方が気持ちいい。とはいうものの、現代では、叱られることのないまま大人になっていく人もいて、大きな問題を孕んでいる。人が成長するということは、何かのきっかけで、眠っている内なるものが目覚め、開花していくことなのだろう。目の前の事象から学習して変化(成長)していく。しかし、環境や同じ体験を積んでも、変化や成長の度合が異なるのは、その人の内なるもの、資質の違いによるのだろうと思う。多少の違いはあるとしても、誰もが皆、成長する因子をもっているものだが、個体差はやはり拭えないだろう。人生に様々な出会いがあり、その出会いによっても人は変化していく。出会いを生かして大きく変化する人もあれば、チャンスに巡りあい、それをチャンスだと気付きながらも、そのチャンスを生かしきれず、みすみす逃してしまう人もある。また、チャンスに巡りあっても、素晴らしい出会いがあっても、それに気付かず素通りしてしまう人もいるのである。ここが人生の大きな分かれ目かもしれない。「袖擦り合うも他生の縁」人の為に尽くしてこそ、自分に運も向いてくるような気もする。「自分が自分が」の生き方ばかりでは、運からも見放されるかもしれない。若い人は、潔癖である。それはそれで貴重なことではあるが、さまざまな経験を積み、年齢を重ねながら、他を受容する寛容さや柔軟さも身に着けてほしい、と希う。
2005年05月28日
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今日は嬉しいニュースが書ける。5月26日付毎日新聞朝刊には、「この仕事で人生取り返したい」の大きな活字が躍り、こぼれるような満面笑顔の蓮池薫さんが登場。北朝鮮に拉致された蓮池薫さんが翻訳本を上梓したのだ。韓国の歴史小説「孤将」(新潮社)が出版されるという。蓮池さんは、拉致された後、北朝鮮で日本語を朝鮮語に直す仕事をさせられていたが、朝鮮語の翻訳は初めてで、1行訳すのに2,3日かかることもあった、という。「どこまでやれるか試したい」と顔をほころばせ、「まだ帰国できない被害者も、新しい道を歩めるよう 救出に協力してほしい」と訴える。突然拉致され、他国での暮らしを強いられ、長い年月を経て帰国を果たせたものの、ご苦労は想像を遥に超えていたと思う。希望や目標を見出すまでに、どれ程の不安がよぎっただろうか。「抱負をもって生きられることの喜びを今感じている」蓮池さんのこの言葉の重みを、私は深く受け止めたい。暗い記事が続くなか、この明るいニュースを嬉しく思う。「この仕事で人生取り返したい」という蓮池さんの心中にはなみなみならぬ決意が籠められているのだろう。既に、次の翻訳も手掛けているようだ。翻訳家としてのデビューに、心からのお祝いとエールを送りたい。蓮池薫さん、 おめでとうございます!!!
2005年05月26日
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旅行好きの父はまた何処かへ出掛けるらしく、愛用の旅行鞄を網棚に乗せ、窓側の座席に腰を掛けていた。車窓には穏やかな瀬戸の海が見える。父は優しく微笑みながら、しきりに私を手招きしている。乗客は父一人であった。次の日、父はまた笑顔で私を手招きした。そして、その次の日も。三日目の朝、目覚めたとき私は些か疲れていた。父の死後一週間位のことである。不気味でさえあった。家人を送り出してから、私は父の写真の前に坐し、父に語りかけた。私のことは心配しなくていい、天国はとてもいい処らしいから早く行った方がいい、私はまだお父さんの傍には行きたくないし行けないのだ、と。何分ぐらいであったか。ほんの僅かの時間であったかも知れないし、かなり長い時間であったような気もする。二、三日ののち、仕事の合間を縫って、父とよく訪ねた北鎌倉の寺に出掛けた。庭に置かれた床机(しょうぎ)も、その上に敷かれた緋毛氈も以前のままである。私は腰をおろし、いつものように茶を所望した。口に含むと、落雁がとろけたばかりの口中に茶の香がふわあっと広がる。息苦しいほどに新緑の萌えたつ季節であった。帰り際、門の傍の売店で観音様の形をした土鈴を見つけた。高さ10センチ程のごく小さなものである。音はさほどよくはないが、土鈴の上の観音様の表情がいい。私はそれを求めて父の写真の傍らにおいた。お父さん、観音様のお傍に並べてあげるね、もう寂しくないでしょ!私は写真の父に語りかけた。我が家には時々小さな訪問客がある。彼らは、珍しいものや、新しいものを目ざとく見つける。観音様の土鈴も例外ではなかった。土鈴の鈍い音が聞こえた時は、観音様は転がっていたり、父の写真から遠く離れていたりする。時には、後ろ向きになっていることもあり、小さな訪問客が帰った後は、決まってそれを父の傍に戻す。その年の夏、父への挽歌を詠んでそれを書にしたためた。記念にと、友人が撮ってくれた写真には、真っ赤な火炎に包まれた作品があった。否、そう思わせる写真であった。心霊写真だ吉兆だと騒ぐ人もいたが、私はそのどちらでもよかった。一緒に撮った多くの写真のなかで、何故、その写真だけそうなったのか不思議に思っただけである。ただ、世間でいうように、この世に守護神というものがあるとしたら、私のそれは、父なのかも知れない。いや確かに父である。そう思うことがしばしばあった。
2005年05月21日
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父とはよく鎌倉を訪ねた。観光客のいない境内で一服の茶を啜り、疲れを癒す。言葉はさほど必要ではなかった。床机(しょうぎ)の緋毛氈(ひもうせん)に腰を下ろし静寂を楽しむ。歯の丈夫な父は供された落雁をこりこりと噛んだ。その音が私の耳に心地よく響く。茶は見晴台の甘酒に替わることもあった。私は書の手ほどきを父から受けた。私にとっては、近寄りがたい厳格な父と身近に接する唯一の機会であったかもしれない。父は書家ではなかったが、教養としてたしなんだらしく、今振り返ってみてもなかなかの達筆であった。「鐘の声・花の色」と書いた父の手本が、なぜ「鐘の音」ではないのか不思議に思ったこともあったが、その文学的意味を理解できたのは後年になってからである。父は言葉を一語一語かみしめて話す。私はその静かな語り口が好きであった。「学問」は「グァクモン」であり、決して「ガクモン」ではなかった。巧言令色や饒舌を嫌う父の含蓄のある言葉が日本語の美しさを教えてくれる。時には、中学生を相手に英語で喋る茶目っ気も持ち合わせていた。明治の気骨を持った厳しさ一徹の父は、老いてますます頑固になりながらも、晩年は笑顔のよく似合う人となった。亡くなる一ヶ月ほど前のある日、もう一度読みたいから、と『ダンテの神曲』を所望した。私の書棚から届けた岩波のそれは、父の枕辺に置いてあった。通夜には父の短歌を浄書して過ごした。書くことで父の思いを共有したかったからである。ときおり香を焚き、また書き続ける。全部は書ききれなかったが、朝、それを父の柩に納めた。私は枕辺にあった『ダンテの神曲』を、父の愛用の眼鏡と共に父の傍らに置いた。旅立つ父への、最期の最期の贈りものである。パナマ帽の老人を見ると思わず足がすくむ。父が逝ってもう既に長い年月を経ているというにのに、いまだに見紛うのである。人は逆境にある時、その人の真価が判るという。乗り越えねば、と思いながらも、あの時、私は醜態を曝してしまった。厳しい父の叱声が聴こえるようであった。いま一度立ちて行かまし鎌倉の森は緑に萌え立つものを嫁ぎくる時に賜ひし紋服の袖 通し初むる日春嵐吹く今は昔父の詠み給ひし歌幾首書きて迎ふ葬り(はふ)り日の朝亡き父に涙賜ひて御仏との永久の縁(とわのえにし)をうれしと僧は (挽歌「春嵐」より)
2005年05月20日
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橋本さんちの元ちゃんは、貰われてきた時あまりにも元気がなかったので、元気がでるようにという願いをこめて「元」と名付けられたその甲斐あってか元ちゃんはすっかり元気になり、毎日散歩に出掛けると、近くの公園で駆け回り、時にはよそ様の庭にまで侵入して橋本さんをてこずらせている。でも、玄ちゃんは吠えない。と言っても初めから吠えなかった訳ではない。橋本さんちに同居するようになり、やがて元気が出てくる程に、元ちゃんはしきりに吠えるようになった。余りに良く吠えるので、近所から苦情が出ないかと心配した橋本さんは獣医さんに相談した。その獣医さんの助言で、吠えるたびに元ちゃんの口を上下からぎゅっと掴んで閉じていると、いつの間にか、元ちゃんは吠えなくなってしまった。ただ、救急車にだけは反応して「うーうー」と同じように声を出す。橋本さんちは丘の上にある高級マンションの3階と四階に位置するメゾネットタイプ。4階というかその広すぎる程の2階に、元ちゃんは二人のお嬢様と一緒に暮らしている。ある日、電機工事に来た人が2階への階段を上り始めた時、橋本さんははっとしてその人の横をすりぬけ、駆け上がりながら言った。 「すみません。2階に犬がいるものですから」「大丈夫ですよ。僕、犬は怖くありませんから」「いえ、犬が怖がりますから」・ ・ ・ ・90歳になるご主人の母上が上京された夜、母上が床に着かれた後、いつものようにBGMにクラシック音楽を流した。その頃元ちゃんは、何故かクラシック音楽を聴くと、静かに眠るようになっていた。リビングで家族団欒というかお喋りを楽しみ、そろそろ寝ようかと思った時、橋本さんはBGMを止めるのを忘れていたことに気付いた。30分ほどで止めるつもりが、夜も更けて深夜までBGMは鳴り続いていたのである。慌ててスイッチを切り、母上の様子を窺うと寝息が聞こえる。勿論、玄ちゃんも熟睡している。橋本さんはホットして寝室に向かった。ところが、翌朝、朝食の支度をしている橋本さんに母上は仰った「こんうちはなんかね、犬と年寄りば、音楽家にでんしようと思うちょルとね」そしてある時は、母上が休まれた後、皆でひそひそ話をしていた。母上は耳が少し遠い。が、出来れば聞かせたくない話である。でも心配になってそっと母上の様子を見に行くと、布団に起き上がって橋本さんの方を見ている。そしておもむろに仰った。「だいじょうぶたい、真知子さん。あんたたちが聞かせとうない話は、よーく聞こえちょルバイ」・ ・・・・・・占い師によると、この母上は将来つまり来世は、九州の修験者の集う英彦山の神となられるお方とのことである。橋本さんは昨夏、母上に代わって修験者の登る険しい参道を登り英彦山を参拝した。嘗ての名女優、京マチ子に似た美しい、少しふくよかな身体に汗をしたたらせながら、黙々と登ったに違いない。土産に戴いた土鈴は、直径2センチほどの小さなもので、藁しべの先に付けられて5個束ねてある、いとも可愛らしいものであった。
2005年05月19日
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ストリートライブの保刈あかねちゃん!新横浜駅前。金曜午後8時過ぎにあかねちゃんが現れる。そう聞いていつも気にしてはいたのだが、中々会えなかった。今日始めて、あかねちゃんを見つけた。やっと会えた。保刈あかねが歌っていた!私の元に出入りする大学生が、高校生の頃から噂にしていたあかねちゃんだ。彼女が書き写してきた詩を読んだことがあった。若いっていいなあ、羨ましくなる詩だった。彼女はあかねちゃんと高校の同期生である。保刈あかねは、詩を書き曲を創りギターの弾き語りをする。プロのアーティストを目指す20歳の女の子である。初めて出会ったあかねちゃんは、少年のようにキャップを後ろ向きに被り、可愛いい風貌に似合わぬ太い声で、時にはささやくように、また時には力強く謳いあげ、なかなかの演奏ぶりで好感をもった。一曲終ったところで、集まった聴衆にぴょこんとお辞儀をしてお礼を言った。笑顔がなんとも愛くるしく、ライブの予定表を受け取る時に思わず頑張ってね、と声を掛けた。「有難うございます」あかねちゃんは、何度も何度もみんなにお辞儀を繰り返し、再び演奏を始めた。あかねちゃんが羽ばたいていくのを楽しみにしながら、期待していたいと思う。今後の予定5月14日・・「ぶちぬき総集編」テレビ東京12時半~13時55分のどこかに5月18日・・青山5月29日・・渋谷Road &sky6月 3日・・御茶ノ水KAKADO6月 7日・・関内BBストリート6月14日・・渋谷タタ作6月22日・・渋谷Tau kichinHP・・インターネット検索「保刈あかね」でご覧になれます。
2005年05月13日
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今日は一日仕事。自分が疲労している時は、元気な若者を相手にすると些か疲れを覚える時がある。空元気で陽気に振舞い、自分自身を奮起させる。今日は正にそれだった。夜、手術後の友人と3人で快気祝の祝杯をあげる。歩けるようになって、友人は以前より明るくなっていた。種が落ちて沢山生えてきたから、と彼女は山椒の苗木を2本持参。もう買ったかもしれないけど、と。彼女は2年も前の話を覚えていてくれたのだ。山椒を枯らしてしまった、と話したことがあった。苗木を買って育てていたのに、と悔しがる私に、大木があるから芽が出たらね、とプレゼントしてくれる約束をした。私はすっかり忘れていたのに、友人は覚えていてくれたのだった。見るからに柔かそうな山椒の新芽は、若緑にやや赤みがかった所もあって、それでも、小さいながら幹の下の方には、一人前の立派な葉をつけている。私は昨日買った筍を思い出した。穂先を木の芽和えに、と山椒を探したが見当たらなかった。そしてその時、枯らしてしまった鉢植えの小さな山椒も思い出していたのだった。以心伝心である。山椒の苗木は、小さいながらも、その独特の芳香をしっかりと撒き散らしている。帰途、明るい電車の中で見ると、先端に無数のキラレ(油虫ともいう)がいた。彼らも一番美味しい所を知っているのだ。帰宅後、その先端部分を水で丁寧に洗って植木鉢に植えようとして供の居ることに気付いた。私の手をくすぐる一匹の蟻である。
2005年05月12日
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今朝、辞書を引いていて偶然目にした「老化」。 ◎年をとるにつれて生理機能がおとろえること。 ◎時間の経過とともに性質が変化すること。 ゴムが硬化・ひび割れ・軟化・粘着などをおこす類。劣化。正に言い得ている解説。一人で感心してしまった。人間もゴムも、劣化の症状は似ているというより同じのようだ。人間がゴムと同じであることが可笑しい。だらしなくビヨ~ンと伸びたゴムが、いつの間にか可愛い何処かのおじさんになり、私もいつか、ひび割れたごわごわの黄色いアメゴムみたいになるのかしら。加齢とともに生理機能がおとろえ、自立神経失調症だの、更年期障害を伴いながら、自分の意志とは無関係に、早い遅いの差はあるものの、寂しいけど人は確実に衰えて行く。肉体だけでなく、性格やものの考え方も変化する。考え方も硬化し、柔軟さを失っていく人が多い。頑固一徹はそれなりに芯が通っていていいが、単に頑なになり、他を一切受け入れなくなるのはいただけない。ああ、自分もいずれその道を辿るのだ。でも、私は可愛いおばあちゃんになろう!宣言したら周囲は嘲笑した。いじわるばあさんが似合う、と。やっぱり! 自分でもそんな気がしていた。※文を推敲しました。
2005年05月11日
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昨日、仕事を終えて赤い電車の地下鉄丸の内線に乗る。赤坂見附で銀座線に乗り換えるが、どちらもそれ程混んではいない。続いて渋谷で東急東横線に乗り換えた。みなとみらい線直通の中華街行の電車である。特急には乗らず、各駅停車に乗った。五月五日 子供の日。祝日の夕方とあってか、渋谷駅はいつもよりかなり混雑している。発車間際だから、座席はもう埋められている。代官山駅でカップルが降りた。ラッキー!!!今日 何か人助けしたかな?決まったばかりの新しいスケジュールを手帳に書き込む。そのうち睡魔に襲われて、うとうと・・大勢の人に会って疲れたらしい。自由が丘で、赤ちゃんが乗ってきた。母親に抱かれて隣に。生え始めたばかりの可愛い歯が見える。私の肩に手を伸ばして何か言いながらブラウスを引っ張った。顔を向けると、ニッと笑う。やがて隣にいた初老の男性が降りたので、腰を少しずらして席を空けた。パパもどうぞ、と。ベビーカーを持って出入り口付近に立っていた父親は、妻に促されて腰を下ろした。赤ちゃんは、父親の向こうから身を乗り出して私を覗く。私は首を倒して微笑む。赤ちゃんが覗く。私も微笑む。何だかまるで 「いないいないばあ」だ。降り際に、バイバイというと、母親がバイバイと言いながら、赤ちゃんの手でバイバイした。帰りに立ち寄った和菓子屋では、近所の大学生のお嬢さんが笑顔で迎えてくれた。忙しい時だけのバイトとか。柏餅を買い、ついでに粽(ちまき)も買って気分良く我が家に辿り着く。夜になって菖蒲の買い忘れに気付いた。まあいいかっ。端午の節句に入浴剤とは、何とも無粋なことだけれど、あの、天使の笑顔に遇えたればこそ我慢も出来る。朝、ブログを開くと、「お気に入りに追加」のメッセージが・・。嬉しい。天使の笑顔が甦った。
2005年05月06日
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高校生ともなると、結構親のことを冷静に見つめている。ある女生徒、母親が可愛そうだから私がしっかりしなければいけない、と言った。父親が浮気をいているために毎日泣く母親を見て、妹には可哀想で言えないから、私が一人で母親を支えるのだ、と。それでも誰かに聞いてもらいたくて涙ぐみながら、けなげに話す。両親は食事を一緒にすることもなく、言葉を交わすこともない、と嘆き、お父さんなんて大嫌い、お小遣いをくれるけど、そんなもの欲しくない、と。潔癖な思春期なら当たり前の反応である。みんなが嫌って口をきかないと、帰ろうかな、と思っても帰れなくなるんじゃないの?やっぱりうちはいいなあ、とお父さんが思うようになると仲直り出来るかもしれないわよ。私は、もっともらしく言うしかない。根が深ければどうしようもないが。2ヶ月ほど経って女生徒は笑顔で訪ねてきた。お父さんが帰ってきた! と。やれやれ、父親の病気はまだ軽症だったようである甘え上手の娘のお蔭だったかもしれないが。
2005年05月01日
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朝から仕事で外出。風邪から完全に復調していない身体に疲労感がかなり残る。夜になってもまだ読んでいない朝刊を手に取り、ざっと目を通すつもりで開いた。いつものように、最初は<星の占い>信じるわけでもないけど、矢張り見たい。 「注目が集まり、今日の行動が今後のあなたの信用に。」なるほど、なるほど。一人納得する。やおら一面に戻ると、「ゆとり世代 成績アップ」「郵政民営化合意文書で決着図る」「日中首脳が今夜会談」めくってもめくっても大見出しの続出。「中国日本 国内事情受け神経戦」「好成績戸惑う文科省」論点で、は憲法論議。田中元経企庁長官・桜井よし子・三浦朱門の3人が寄稿。ベトナム戦争終結30年特集では、枯葉剤の後遺症に病むベトナム人の写真入り記事。「非営利法人 税制を前面見直し」・・目を通すだけではすまない盛り沢山の記事に、結局じっくり読むことになった。韓流ミュージカル「GAMBLER」の記事にも興味がそそられる。韓国の歌手の歌唱力は抜群だから、行ってみようか・・。背後から流れる音楽に思わず聴き入る。哀愁のある太い声、尾崎豊だ! 「僕が僕であるために 歌い続ける・・」 白いTシャツにジーンズ姿の、そう、まぎれもなく、汗をしたたらせて熱唱する尾崎豊だった。死後も尚、人々の心を捉えて放さない。そんなに必死に歌わなくてもよかったのに・・だから、君は逝ってしまったんだね。そんなにも純粋に追い詰めて・・。
2005年04月23日
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パリとイギリスを旅行してきた友人からの土産は、「書」の教則本だった。「中国書法」楷書基本初歩とあるそれは、何と英語版である。(イギリスで買ったのだから当たり前)好奇心旺盛の私は早速ページをめくった。実によく出来ている。象形文字を例に、漢字の成り立ちを説明し、道具の机上でのセッティングの説明があり、写真の下には、右利き用だから左利きの場合は反対にセッティングをとの注もある。およそ日本の本にはここまで記載されていることはなく、左利きの人も、硯や筆などの道具を右利きも左利きも皆、右側に置いて書いているように思う。道具は右に置かねばならない、と思っているようだ。筆の持ち方、漢字の部首、筆順、字形の取り方、分割書法があり、書写法については、かなり科学的である。小学4年から「習字の時間」はあったが、科学的な書写法で学んだことなどなかった。手本を眺め、つかんだものを感覚的に表現したものである。漢字を創り長い歴史を超えて、様々な書体をも創造し育くんできた国ならではのこと、さすがにその学習法も徹底している。最後に、中国古典の名品の写真が掲載され、実に、至れり尽くせりの教本である。しかも、英語の訳し方が面白い。「しんにょう」の説明にいたっては、Shallow right sweep:・・not straight but like a wave.there is a saying: "One wave, three curves". 1ページを使って「心正則筆正」の作品を載せ、Sincerity makes for correct brushwork と脚注がある。日本人も好んで使う言葉でもある。ところで、この興味ある土産本を持ってきてくれた友人は、大学で神官学を専攻し、書道教室にも通い、大学卒業後は一足早く神社に嫁ぎ、その後も神官を目指して勉強をつづけていた。この春、神官試験に合格してめでたく 神主さんとなったそうである。
2005年04月12日
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上野の森は花見の宴たけなわ。公園入り口辺りに物凄い人の波が押し寄せている。「立ち止まって写真を撮らないでください」と公安からの放送を繰り返し流す。些か狂気じみた雰囲気である。花見には少し遅いくらいで、もう葉桜に近いものもある。それでも広い公園内の到る所に青いシートが敷かれ、あちこちで宴席が設けられている。久しぶりに見る花見の宴である。新入社員が場所取りしたのだろうか。仕事仲間らしき一団を見て思う。先輩に言われての一気飲みだけは減ったようだが・・酔客の中の、新入社員らしき赤ら顔は、ういういしく微笑ましくもあった。東京国立博物館の庭園内にある応挙館には、円山応挙が眼病で滞在していた際に揮毫したという墨画が残る。書院の床の間の壁(床張付)には老松と石、そして竹が、待合室となった別室の障子の腰板の部分(腰障子)には稚松や鴨、葦などが描かれていた。気の張らない茶席との事で出席したが、どうしてどうして、なかなかに本格的なもの。ただ、床に活けられた花入れの牡丹だけは、少し華やか過ぎる観もあった。真っ白い薯蕷(じょうよ)饅頭を戴き、やや熱めの茶を一口啜る。掌に包みこんだ茶碗を覗き込むと細かく泡立てられた真緑の茶が見えた。また何度か啜る。口中で茶の香を広げ、残っていた菓子の甘さを消してくれた。明るく白っぽい茶碗には、桜色と織部の緑の釉がはいされている。多分女性の作家の物にちがいない、そう感じさせる雰囲気があった。いつも駆け足で過ぎてしまう時計が、今日は嘘のようにゆっくりと時を刻む。そうだ、茶席に腕時計は禁物だった。携帯の電源を切ったものの、腕時計を外すことをすっかり忘れていた。というより、時計は、もう私の身体の一部になってしまっているのかもしれない。時間に追われる日頃のその多忙さが、些か恨めしくもあった。一陣の強い風が吹いた。桜の花びらは空を切って飛び、真横に走り、群れを成して廊下から侵入してきた。畳の上に、毛氈の上に・・茶席の客を歓迎してか、応挙の墨画に別れを告げに来たのか。茶会を終えて外に出た。日はもう傾いている。宴はまだ続いているが、所々で空席も目立つ。広場の中央でつむじが舞い上がった。せつなさよりも、一春だけの、その花の終焉を訴える激しさであった。
2005年04月10日
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