カメルーンの旅 その4




カメルーンの空



―― トカゲとカメレオンのフジラの谷で ――



「ワザワザ、来るところでなかったですね・・・・・」
シャレもむなしく空回りで、「ワザ国立公園」をあとにし、ウジラへ向っている。
 カメルーンは特徴ある自然・地理的条件のおかげで「プチ・アフリカ」または「アフリカの縮図」といわれる名に恥じず、ひとの多数の文化・部族ばかりか、アフリカで最も豊かで変化に富んだ動物相をもっている。
カメルーンでは熱帯性森林地帯のドゥアラ・エディア保護区、ジャ保護区など中南部に6つの動物保護区を、そして北部サバンナ・ステップ地帯にベヌエ国立公園、モコロ近郊のモゾゴ・ゴクロ国立公園など6つの国立公園をもつ動物天国でもある。
森林地帯ではゴリラやチンパンジー、北部サバンナではゾウ、ライオン、カバ、キリン、ヒョウと東アフリカ、ケニアやタンザニアばかり脚光を浴びる動物サファリであるが、カメルーンもなかなかどうして負けず劣らず動物観察天国なのだ。
サファリ、なつかしい響きでもある。
なかでも今回訪れたワザ国立公園は、カメルーンの国土が横を向いたキリンと例えるならちょうど目の
あたりに位置するのだが、17万ヘクタールの広さをもち、西部アフリカに住む動物のすべての種類が
生息しているといわれる、カメルーン最大の動物国立公園である―――。

「さあ、飽きるほど動物を見よう~~」
ワザ国立公園に隣接した、広大な敷地に点在したコテージ(こちらはルムスキィどころか、丘の上にレストランなどの本館があり、アタシのコテージは最も遠い麓の入口近くのコテージだった<涙>)を時間をかけて何往復もしたのだ。
今日一日はバスのなかでゆったりまったり動物ウオッチングといきましょう。
しかし、早朝6時30分、スタート―――。
正午過ぎて12:30分。
約6時間の間で見たのは枯れたブッシュと、道よりかなり遠くのブッシュにトピ数匹、アンテロープ(コープ)、そして赤アカシアの木にペリカンやアフリカハゲコウ(マラブー)・・・・・・・これだけなんですけど・・・・・。
 ホテルに戻り、ワザの大平原を一望に見渡すことができるレストランのテラスで昼食。
キャベツのサラダにナマズのフライ、そしてジャガイモの煮込み。
そして、休息をとったあと、ケニアと同じく日没前のサファリ。
「こんどはたのむでぇ~」とワザ国立公園専属のレインジャーにハッパをかける。
しかし、約3時間、レインジャーが指示する道行けども、サイードが運転する我らがバスの車中みたのは、トムソンガゼルの行列、一匹のジャッカル、イポットラー・アンテロープ、車の音にびっくりして森の中に逃げて行ったキリン・・・・・・・以上である。
月夜のサバンナをホテルに帰る車中、皆ついにだまりこんでしまった。
「今度来たときはたのむでぇ~~」
最後部席でふんぞりかえっていたアタシは誰に言うでもなく嘲笑をこめて叫んだ。
車中は冷ややかな笑いが洩れたのみだった―――。

 ワザを後にしだして、アタシは今回の旅で薄々気づきはじめたことがあった。
それは――――。
それは、何もかもが順調というものに反して事が運んでいる、という事実にだ。
ワザを遠く離れるに従い、アタシは密かにその思いを強くしていた。
〇ドゥアラ空港を発ち11時に到着予定の飛行機を正午過ぎまで待つ。
〇そのおかげで、モコロの水曜市は見られずじまい。
〇ジュリアンはさりげなく言ったが、悪路のためらしくマバス村へは行っていない。
〇そして、このワザでの2日間である。中央アフリカ最大のサファリコースで鹿類と鳥しか見てない。
どうも、このカメルーンの旅はあとからジワリジワリと効いてくるボディブローを受けたような気がしてならなかった。
しかし、これまではまだまだジャブの応酬程度であることをこのときは知る由もない。
いや、そもそも旅のはじめから調子が狂っていたではないか?
 さて、そんなことは露とも知らず、アタシたちはウジラに向っている。ポドコ族の村である。
南西海岸のカメルーン山からナイジェリア国境に連なる山脈の北端マンダラ山(マンダラ山辺りは第2次世界大戦中ドイツと交戦を交えた場所だそうだ)にある村だ。
この村の族長の宮殿を訪れ、収穫・結婚・葬祭時に踊られるキルディダンスを見学する予定だ。
しかし、アタシは2日前、この参加は断っていた。
村まではケモノ道を往復約1時間歩く。とても今のアタシの状態では無理だからだ。
アタシはジュリアンにビデオとカメラを預け、ジダとサーディとともにウジラの麓の村でみなの帰りを待つのだった。
行かなくてよかった。いや、行けるわけがなかった。麓から見上げた山道とはケモノ道のことで、炎天下はやいひとでも、しっかり往復3時間もかかったのだから―――。
 アタシはみなを待つ間、アシスタントの若い青年ジダ君におねだりをした。
「ここで待っていてもなんだからクセリに行かない?(微笑みつき)」
クセリは、最北端に近い町で、ここから地図上では80キロたらずだ。クセリ近くのムラー村にはカプシキで見てきた土壁に干したミレット類をとんがり帽子のような屋根のカプシキハットとも呼ばれるサレとは全く違う、骨組みなしの土だけのアリ塚のようなドーム状の家があるらしい。ワザのコテージはこのクセリの村のドームを模倣したものだった。
チャドとの国境近く湿地帯の漁労部族ムズガム族の伝統的な家で、最近では姿を消したともいわれる「ムズガムドーム」だ。
「そこは遠い。無理です」とジダは即座に拒絶した。
「じゃあ、そこは無理でもどこか行かない?ここでじっと待っていても・・・・・」
ジダとサイードと3人で静かに時を待つ・・・・・とはいかないようなのだ。
麓のこの村からいつのまにか、すばらしい伝達手法に感心するくらい、大勢の子どもに囲まれていたのだから(笑)。
「では、ミスター、モラへ行きましょう」サイードのバスにジッダと3人、かなり贅沢な小旅行だ。
約30分でモラに着く。
「SONG Le PODOKO」というユースホテル兼レストランのようなドライブインで過ごす。
2人ともアタシをどこかへ観光に連れて行く気は毛頭ないようである(笑)。
「何か飲むかい」とサイードとジッダに告げる。
サイードは申し訳なさそうにオレンジシュースを頼む。ジッダはか細い声で「ギネスを」という。
ビール?夕刻の礼拝にも真摯に行うムスリムの君が?しかもプリムスではなく輸入物のギネス?
アタシはこのとき、ジュリアンに忠実に従い番犬のように皆の安全を守るため黒子に徹して寡黙に働いていたジッダが突然日の光を浴びてアタシの目の前に現れたような気がしてならなかった。
アカシアの葉がかすかに揺れるポドコの中庭でビールを飲みながらボーッとしてると、真鍮のお盆を頭に載せた少年が近づいてきて、お盆に乗せた小さなビニール袋をさしだしてきた。
ゴルフボールくらいの数個の揚げパンである。玄関の椅子に座っているサイードに聞けば、「一袋50CFA」だそうだ。ひとつ買って食べてみると、サータンギーのような揚げドーナツでなつかしい味がした。小麦粉を揚げたアフリカでおなじみでこの地域では「サンフラン」という。サイードとジッダにも買い、ビデオとカメラ撮影に奔走しているであろう(笑)ジュリアンたちもお土産代わりに数袋買う。
ビールと揚げ菓子で腹を肥やしながらお天道様を眺めていると、アカシアの木陰にいつの間にか足の不自由な老人がいた。彼は両足が太ももあたりからなく、障害者用自転車に乗っている。
アタシと目があうと、「サバ(元気?)」と微笑んで、また元の鞘に収まった。
日中何もすることがないとき、ここに時間を潰しに来ているのだろうか。
アタシは彼に煙草を勧めたが「吸わないから」と笑って断ってきた。
かわりにアタシはチューインガムを2,3枚彼に渡した。彼は礼を言い受け取った。
木陰にピタリと動かない老人はこの風景によくなじんでいた。
店のひとが通りかかって一言二言言葉を交わしていた。
物乞いではなさそうだと思っていたが、そうではなくやはり彼は喜捨を求めるムスリムだった。
バスに乗り込む前、彼を見やると、ちょうど店に訪れた客に手をさしだしていたからだ。
どうやら老人はアタシが足を引き摺っていたのをどこかで見たのかもしれない―――。
「――アフリカの考えと、イスラムの教えは重なる部分がある。彼らはこう言う。
『持たない人がなにがしかを渡すのは自分のためである。こうすることによって神の加護を受けるのだから』
特を高めるために、神の加護を受けるととれる。しかし、それ以上に罪悪感や偽善と闘っていた人の救いとなる。自分のためにすることは偽善でもなんでもないのだから。
自然にできるようになってしまえば、そんなちっぽけな思惑からも解放される―――。
『アフリカ喜・気・樹(kikiki)―太陽がくれた詩と写真 板垣真理子著作・写真 理論社―より 」

何を語るわけでもなかったのに、今回の旅で思い出に残る1シーンになっているのだ。
一陣の風が吹くように、爽やかに―――。

 アタシは老人に気づかれないようバスの奥に座った。
「ウジラの宮殿に行ったひとは正午には帰ってくる」というジッダに促され、ウジラの麓の村へ戻る。
 今日は雲ひとつなく、格別暑い。それでいて乾いた空気もせいか、風がないのに涼しくさえ感じる。
アタシは時間つぶしにこの村の風景をメモ帳にスケッチしはじめた。
山へ登った一行は、族長の盛大な接待でも受けているのか一向に降りてくる気配はなかったが、かわりにすぐさまアタシのまわりには子どもたちが集まってきた。
大きな木に登り大騒ぎしてアタシの気を引こうとする者や、アタシがスケッチをとるのを楽しそうに最期まで静かに見守り続ける者など、それぞれのスタイルではあるが、なかなか穏やかで友好的な時間を過ごすことを彼らは許してくれた。
ここで待つ間中、ずっと「ガドゥー」攻勢ではたまったものではないから(笑)。
 日中の一番暑い盛りに無為にときは過ぎていく。
アタシはこれまでよく知らなかったジッダとしばらく話をした。
彼は片言ながら英語が喋れるようだ。お互いが片言の英語というのは、一番コミュニケーションがとれるというものだ(笑)。
彼はマルア北の近郊ミンディフ村の出身だ。今彼はマルアでひとり暮らしだが、機織をする母親が顕在で幼い弟や妹も暮らしており、彼は8人兄弟の長男らしい。
ミンディフは、祭礼ともなると色とりどりの民族衣装の騎士たちが、馬に乗ってファンタジアを行う。
モロッコなど北アフリカでおなじみのイスラムの祭だ。
ヒデ族はフルベ族を馬に乗った民、という意味のプラサルと呼ぶことに頷ける。
ジダは、ミディフの観光パンフレットをアタシにくれ、ドイツ人、カナダ人など多くの旅行者が訪れ、彼の実家に宿泊したときの写真を交えその様子を楽しそうに話してくれた。
彼の実家のすぐ裏には「ミンディフの歯」と呼ばれる岩山があり、ロッククライマーに人気のスポットらしい。彼は誇らしげにそのことをアタシになんとか伝えようとし、ぜひミンディフへと誘われた。
「いつか、いつかカメルーンへ来たときは必ず君の生まれ故郷ミンディフへ行くよ!」
言葉について少し尋ねた。このフジラの子どもたちの話す言葉はジダにも全然わからないらしい。
彼にミンディフの言葉を少し教わった。
「おはようはジャンバルナ、ありがとうはウセコ、すみませんはセーファン、ごめんなさいはミソミ、
ママはジャヴァン、美しいはボドゥン、お金はファンドゥラン、水はリアム、こんばんわはホシラリジャマ、さようならはセイエリ―――」こんなところだ。これくらい知っていればコミュニケーションは成り立つ(笑)。あとはメシぐらいか(笑)
「もうとっくにお昼過ぎてるんですけど(苦笑)」
彼は真顔に戻り、慌ててバスに行って籠を持ってきた。
そこから取り出したポットのお湯で、即席の「LIPO」という甘い甘いコンシデレンスミルクのサービスを受けた。あんまり好みではなかったがそれを飲み干した。
そして、木陰で遊んでいる子供たちやジダから離れ、再びスケッチにとりかかった。
村は岩山に囲まれた谷にあたり、家々はところどころ点在する。サレに似ているがそれぞれが独立した家だ。むしろブルキナファソなどのモシ族の家に似ている。
緑はアカシアのほか、真っ直ぐのびた数本のパルメイヤヤシ、そして、柱に扇子をつけたような、旅の木に似た形をしたユーフォルビア・インゲスというサボテンが家のある谷や岩山に点在している。
大きな実をつけた葉も多い、幹が松に似た木に赤と青色のトカゲがいる。はじめて見る種類だ。さきほどのモラのドライブインでもこれとは違う灰色一色だった。
カメルーンはほんとうに色々な種類のトカゲがいるものだ。
スケッチを終えて、顔をあげると太陽の軌道は頂点からだいぶ西に傾きかけていた。
今日も快晴だ。明日にはもう北カメルーンを離れるときがやってくる。
子どもたちが遊ぶ歓声がとてもなつかしい気にさせられる。
日本に帰ったら妻はまたいちだんとお腹がおおきくなっていることだろう。
「――かわいた風にのり
      どこからか
      タイコの音が
      きこえてくる――
『アフリカの音 A story of west African drum & dance』作・絵 沢田としき 講談社 より―」

モラの木陰とウジラの木陰、どちらもとても心地よい風が吹いていたような気がする。
こんなささやかなことこそが、一番の旅の醍醐味なのだとアタシは知っている―――。



―― マルワのマーケットで日向ぼっこ 空港で待ちぼうけ その1――



― いつかきっと ミンディフへ ―

「いつか、いつかカメルーンへ来たときは必ず君の生まれ故郷ミンディフへ行くよ!」
フジラの谷の木陰でお互い微笑みながら、ジダ君に誓った。
ミンディフの歯とよばれる岩山がこんなに小さい岩山だとは思わなかった(笑)―――。
まさかまさか、翌日行くことになるとは夢にも思わなかった(爆笑)。

今日の長くて短い一日をどうぞ―――。

昨日―――、ウジラの宮殿見学組みが麓へ降りてきたのは、結局午後2時の一番乗りのひとをはじめ最終的に3時30分になった。
昼食はなんと3時になった。
どこで食べるのかと思いきや、なんとさきほどサイードとジッダの3人で訪れた「SONG Le PODOKO」ではないか。
 そして、あの肢体不自由障がい者用自転車に乗った老人は、まだ木陰にいた。
アタシは罰悪いながらも、元気に「サバ!」と、老人に声かけた。
老人も嬉しそうに「サバ」と応えた。
 遅めの昼食だか早めの夕食だかわからない状態であったが、ここで供された骨付き鶏の炭焼きは絶品だった。
イエメンのマナーハの骨付き炭焼きとエジプト、ギザ・フェルフェラの鳩の炭火焼、アタシのふるさとの名物「焼き鳥(骨付き鶏足の素揚げ、これをアタシたちの世界(笑)では焼き鳥という(笑)」であるTという焼肉屋、この3点が今でもアタシの偽らざる3大ご馳走だが、それに双璧をなすのだ。
ワリ(蒸しごはん)にトマトソースをかけたものやニンジン、タマネギに玉子のサラダも美味い。
ビールがドゥアラの一流ホテルの約1/3の500CFA、安い!のである。至福なのである。
でも、ウジラ宮殿トレッキングコースのみなさんはかなりゲンナリの様子であった。
上半身がかなり太い、加齢を感じさせる(笑)ジュリアンもかなりお疲れの様子だ。
アタシから、託されたビデオとカメラを撮るのに必死だったのではと想像する。
ウジラの麓でジダに教えてもらった「ミソミ(ごめんなさい)、ウセコ(ありがとう)」とジュリアンに伝えても、全く通じなかった。
ジュリアンもジダと違う部族なのだ。
ジュリアンに用意していたサンフランを一袋あげる。
かなり遅めのお昼時、というかもうおやつの時間の3時ですが(笑)、安いビールについつい追加を頼みつつ、ウジラの旅がどうであったのか教えてもらう。
「ジュリアン、かいつまんで教えてください(笑)」
―――ポゴト族の村、ウジラの族長がいる宮殿までは行きで平均1時間半、帰りで1時間要した。
ウジラの族長はモズゴ。彼は留守。次のチーフは第一夫人の次男ウマール・サロモン。族長モズゴには
妻が50人(!!!!!!)、子どもが(子どもですよ!!)113人(!!!!!!!!)いるそうだ。宮殿内を第一夫人の三男ホシに案内してもらう。
宮殿(といっても麓の家と同じく土壁でミレットの茅葺だが)内のレセプションルーム、祭のとき牛を犠牲に捧げる部屋、夫人たちの台所などを案内してもらう。
そのあと、山の中腹にあたる宮殿の広場からウジラ村をパノラマに見渡し写真撮影。
そして、いよいよ今旅行の北カメルーン最大のメインイベント、キルディダンスがはじまる。
50人いるといわれるモズゴ族長の夫人約20人が参加。
ダンスは半月の土器を持ち円になり同進行し、ステップを踏む案外単調な踊りだ。
この伝統的キルディダンスは3つの行事に踊られるそうだ。
すなわち、収穫、村人の結婚、村人の死と葬祭である。どの踊りも形は同じなのだが、音楽が違うそうだ。とても単調な踊りである意味興ざめでしたが、とても大切なものを見せていただいたのだと、山を汗かき往路したことで満足だと自分に納得させながら山を降りて来ました(笑)―――。
 麓を降りてきた一同のなかに宮殿を案内してくれたという、ミスター・ホシの姿もあった。
彼はアタシたちのバスでモラまで同乗させて欲しいとのこと。
帰りはどうするのだろうか?「なんとかなるさ」らしい(笑)。
今も、岩山深い村でわずかなミレットや穀物類を栽培しながら暮らす族長がいることに驚く。
妻を50人、子どもが113人、村同然の身内を養うのに、自給自足で事足りえているにかどうかジュリアンを通してぜひとも聞いておきたかったが、それは適わなかった。
普段族長や113人の子息たちがどんな伝達手段を使うのかは存ぜぬが、マルアのジュリアンたち旅行会社とは最初から織り込み済みだったのではないか?そのかわり轍に落ち込んだバスがエンストし、かなり長い距離、アタシ以外のみなが降りて、総勢14名のなか族長の息子ホシまでもが汗だくになってバスを押さなければならないハメになったのだ、これは予定外(笑)―――。
ホシはアタシが足を痛めているのを気づき、「あなたはバスに乗っていなさい」とドア付近で一生懸命押していた。なかなかよいしつけができており、好青年のようである(笑)。
 その夜の夕食後(鶏の炭焼きを食べたわずか3時間後にマルアのホテルで―鶏の煮込みだった(笑))、フロントで、ドゥアラ空港にて大歓声でもって迎えられたカメルーン・ナショナルチーム対フランス・ナショナルチームのパリでのサッカー親善試合の模様をBSテレビ放送していたのを観る。
つい、3・4日前に会った、ちょっと知ってるひとたちだから(笑)応援に熱が入る。
フランス代表ジダン、アンリ、トレゲゼ、チュラム、リナレス、ブルッフ、みな顕在だ。
シュートの雨嵐であったが、カメルーン相手に0-0はあまりにも残念無念(あれ??)。
アタシはフランスのシャンパンのようにはじける、ファンタスティックでスペクタクルなサッカーが世界一好きだ。
おしむらくば、もっともっと体力と規律とを持ち合わせて、本来持つイマジネーションある芸術的をさらに高度なものにしたサッカーでアタシ(たち)を魅了して欲しいと願う。
その夜、北カメルーン最期のお別れに鳴いているカエルの合唱かと思いきや、窓じゅうにへばりついたトカゲたちだった。トカゲが鳴くのもはじめて聞いたが、ヤモリのようにこんなに明かりに集まってくる習性も始めて知った。
ドゥアラで明け方めざめたのもトカゲの鳴き声だったのかもしれない―――。
 朝、トカゲたちは木や草陰に退散していた。
マルアのホテルにもワザのコテージのゲートと同じレプリカのムズガムドームがあった。
中を覗いてみると、資材や1輪車、掃除道具などが置かれ倉庫がわりになっていた(笑)。
 バスでマルワ空港に向かう前にマルワ郊外にある鍛冶屋のマーケットに寄る。
そして町の中心部に移り、マルア博物館と隣接したマーケットを訪れた。
博物館はマルワ中心の民族伝統工芸品、そしておもにイスラム化した歴史を伝えるものがわずかながら展示してあった。北カメルーンは先住民おもにバウハ族などをフルベ族=イスラムの民がジハード(聖戦)という征服・支配化により「――西アフリカのナイジェリア北部に達したハウサ・フルベ都市文化のフロンティアであるといえる――『アフリカを知る 15人が語るその魅力と多様性』―アフリカのまちの人々の暮らし ウジジとガウンデレ、植民地に形成された二つの都市を訪れる― 日野舜也 「少年ケニヤの友東京支部編」 スリエーネットワーク刊行 」。
カメルーン北部アダマウ高原の中心的都市ンガウンデレを例に街を散策してみよう。
著によれば、「――ガウンデレは、――この地域にいたフルベ牧畜民が周囲の異教徒を征服して作ったイスラーム首長国の首都として発達しました。
 旧市街のフルベ王国の首都には、ウジジには見られない特徴があります。それは、まず第一にはフルベのイスラームの首長であるラーミードがいることですが、もう一つは、いまなお住民の間に、リンベ(自由民)とマチュベ(不自由民)の区別がはっきり見られることです。マチュベは、フランス語ではEsclaveつまり奴隷と訳されます。奴隷というと多くの方々が、アメリカ南部の綿花畑で働く、
かつてアフリカから連れてこられた、たとえばオールドブラックジョーなどを連想されるでしょう。このマチュベは、いわばラーミードやフルベの自由民に帰属する家つきの不自由民で、売買の対象になることはありません。主人の畑で働いたり、家事を手伝ったりし、そのかわり、衣食住、生活の面倒はもちろん、お嫁さんの婚資の支払いまで、すべては主人の責任になります。今もラーミードは、そういうマチュベを何十人も持っています。広大な畑の耕作、千頭を超える牛、百頭を超える馬、ラーミードはとても裕福です。数十年前まで、ラーミードは、家臣に重臣のタイトルを与えたり、マチュベの女をご下賜になったり、刺繍入りの大きな貫頭衣をくれたり、そのたびに、家臣は牛をラーミードに献上しました。かつてもラーミードと家臣たちの支配・被支配の関係は、この牛とご下賜物の交換で成り立っていたのです―――。『アフリカを知る 15人が語るその魅力と多様性』―アフリカのまちの人々の暮らし ウジジとガウンデレ、植民地に形成された二つの都市を訪れる― 日野舜也 「少年ケニヤの友東京支部編」スリエーネットワーク刊行 」のだそうだ。
 申し訳程度の仮面やブロンズ像などわずかな展示品は閑散としており、建物の半分は服や鞄などの店があり、ずいぶん安っぽい博物館だ。
マーケットへ移るが、普通の町場の市場でひょうたん帽子の女性のトゥルの市場から比べると、もの足らないことこのうえない。
アタシはマーケットをひととおり見て周ったあと、しばらくボーッとしていた。
いつもボーッとしているのだが、今日は意識してボーッとしていた。
博物館入口のすぐ隣にあった店に気づかないでいたことに後悔した。テープ屋さんだ。カメルーンはザイールのリンガラ、そして西アフリカのアフロ・アフリカンミュージック、ナイジェリアのジュジュ、などアフリカ音楽の宝庫だ。もちろん、キルディダンスやルカプシキダンスの伝統音楽や、カメルーンのポップスも求めよう。
縦長の4畳ほどの店内は薄暗く、奥に小さなカウンターがありそこにスポーツ刈りの若いお兄さんがいて、顔を合わせるなりまっすぐ歩みよりまくしたてた。
「キンシャサ(旧ザイール、コンゴ民主共和国の首都)のリンガラある?プラザビル(コンゴ共和国)のではだめだよ!(笑)」
彼はニコニコとうなずいて、すぐさまテープをカウンターに出してくれた。
なんとDEFAOである――――。

「―――ナイロビは海抜1700メートルの高地で、年平均気温は17度前後。避暑地のようなイメージがあるが、やはり汗ばむ額をぬぐいながらキマシ通をどんどん歩いた。 めざすのは、レコードショップだ。通にある何軒かの店を覗き、店内が比較的広く明るく、そして何より良心そうな店をくぐることにした。お目当ては、もちろん、リンガラだ。くぐったショップのカウンターで、「今一番ケニヤで流行っているいかしたバンドのテープを出して」と頼むと、大柄な店員はすぐに棚から出してくれた。「DEFAO&BIG STARS」の「SARA NOKI(急げ、、の意)」だった。幸福の出会いと始まりだった――――。  
『 ケニアの旅― ONCE IN A LIFETIME まるくんの旅は青空―より 』
 デファオ・マトゥモナ。91年、ビッグスターズを結成し、巨体な体を揺らせながら、リンガラ第3世代の頂点に立とうとしてる男。あの巨体からは想像できない甘美なボーカル。ビッグスターズのギター、ドラム、ベースの一音一音がキラキラと眩しい。なんて、ダイナミックで甘美なルンバだろう。今では望めない、生き生きとした「僕の」時代を彷彿させる、生き生きとした音群。キンシャサから発したオーラ、それはザイールにしか存在しえないルンバのリンガラの美学がそこにある―――。



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