Dog photography and Essay

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甘粛--蘭州・敦煌1


「魏の曹操も欲しかった馬」

「中国上海写真ライフ」では、
甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。

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1日千里を走るという名馬「赤兎馬」は中国三国志に、
登場する汗血馬でもあるが、魏の曹操が軍隊を、
繰り出してまで手に入れたかった名馬だという。
蘭州一帯で馬のブロンズ像を沢山見かける。

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蘭州駅を出て、携帯に連絡のあった場所でと思ったが、
先に撮影を続けていたのと、ガイドは私を探すのとで、
余計に離れてしまったが、蘭州ラーメンをご馳走し、
何とかその場を凌いだという感じになった。

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タクシーで蘭州シンボルの「黄河母親像」まで直行。
2年半前に修復されたという事で、綺麗な外観だったが、
思っていたより小さな、黄河母親像だった。

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縦6m、横2.2m、高さ2.6mと中国のガイドブックを読んで、
写真のみで判断しており、期待のみ膨らんでいた。
「黄河母親」は1986年に製作され、23年が経過している。

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「黄河母親」の意味は、優しい母親は黄河で、男の子は、
黄河の水を飲んでいる我々であるということが言われている。
この「黄河母親」の彫塑は蘭州で一番有名な彫塑である。

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「羊の皮を風船のように」

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8年ほど前に黄河を訪れた事があるが、
その時の黄河の河の色は黄河の名前の如く、
雨の後の川の土と入り混じった黄色であった。

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写真の黄色いゴムを膨らませた物は羊の皮で出来ており、
羊の皮に空気を吹き込み、それを複数個組み合わせて、
つなぎ合わせて作った筏の事で、この上に乗り遊覧する。

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昔、黄河に橋が無い時代に、筏を使って黄河を、
渡ったが、現在は蘭州の観光用使われている。
一回遊覧するのに20元(300円)で、安全のために、
救命胴衣を着け筏に乗る事が義務付けられている。

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私は黄河ではないが、以前に羊皮遊覧をした事があり、
今回は団体ツアーで予約もしていなかったので、
遊覧はせず、ガイドに先を急ぐように促した。

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「年老いて心も枯れ果てて」

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「黄河母親像」を見てより、黄河まで降りて行った。
黄河を遊覧する羊の皮を膨らませた筏を見た後、
私はガイドと一緒に、河川に造られた歩道を歩いた。
歩きながらも歩道両脇の柳の木より綿状の花が、
ふわりふわりと飛んできて歩道の隅や芝生の上に落ちる。

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その光景はまるで雪が積もったかのようにみえた。
ガイドからも、今年の柳絮(りゅうじょ)は例年より多い。
柳絮が一杯に飛び乱れるのも温暖化が進んでいるのかもと、
私は、呼吸するのも支障を来たすような柳絮を見たのは、
初めてであり、観光客にとっては情緒溢れる光景である。

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6年ほど前は、北京へよく出張へ行く機会があり、
5月初め、出張の合間を見て北京大観園へ行き、そこで
柳絮を見かけたが、こんなに沢山の柳絮は初めてだった。
蘭州黄河の歩道でも柳絮が飛び交い風情が感じられた。

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中国では古来歓迎や旅立ちに際して、柳の枝を輪にして、
手渡す習慣があるため、柳には別れのイメージがある。
ましてや柳絮(りゅうじょ)のように花が舞う折には、
その歓迎や旅立ちの思いに拍車をかけているようだった。

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中国の唐代の詩人「白居易」が柳の詩を作っている。
私が訳しているので、かなり感傷的になってしまった。

「年老いて心も枯れ果てて、昔遊んだ跡を訪ねると、
至る所で魂の消えいるような思いに駆られるが、
柳の長い枝やその花が、昔馴染みのように棉を降らせ、
私の頭を優しく撫でてくれることは有りがたい事だ」

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「中国より遅れる事500年」

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蘭州水車園へ入ったが、入園料は4元(60円)で、
ガイドの入園料も出そうとすると、ガイドから、
ガイドは入園料要らないわよ!と言われ、自分の分のみ、
購入して中に入ったが、入り口を潜るとトウモロコシが、
沢山販売されていて、後から許可を取り撮影した。

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入り口を左に折れると大きな水車の姿が目に入って来た。
水車の起源は古く紀元前より水車がつくられ、最初は、
穀物を粉にする石臼を動かすために水車が考えだされた。
三国時代が来る前の後漢の時代に水車を利用した。

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三国時代の時代には、水車の動力によるローラーで、
穀物をひきつぶす石臼や、水車を利用した磨り臼が、
使われ、唐から宋の時代には、水車に灌漑で水を汲む、
バケツ状の水車が発達し、一般に普及し稲作に貢献した。

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日本に水車が伝わったのは、中国より遅れる事500年後の、
610年ごろだが「日本書紀」には、聖徳太子が高句麗の僧、
曇徴(どんちょう)を斑鳩宮に招いて、法隆寺に止住させた。
その曇徴が、製粉を目的とした臼を作った。

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829年には平安時代初期の公家である桓武天皇の皇子の、
良峯安世(よしみねのやすよ)が灌漑用の水車を諸国に、
作らせ、水車を使って水田に水を汲み入れさせた。
江戸時代中期に入ってから、水車は本格的に精米用の、
動力源として利用され、現在でも利用されている。

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「思考力の低下や疲労感」

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蘭州水車園を足早に見た後、西洋風のアーケードを、
潜り抜け入り口の方へ帰って来たがトウモロコシが、
気になり、干しトウモロコシから実を取り売っていた。
撮影しても良いですかと許可を得て撮影した。

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トウモロコシの栽培は今から5千年前から始まっていて、
メキシコやペルーで栽培されており、4千年前には、
現在のようなトウモロコシになり、コロンブス1492年、
キューバ島に上陸した際に、トウモロコシを発見した。
16世紀初頭にポルトガルからインド、チベット経由で、
中国や東インドへと伝わり、その後世界へと伝わった。

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ではトウモロコシが日本へ伝来したのは1580年ごろに、
ポルトガル人によって九州へ初めて伝えられが、当時は、
飼料用に使用する硬いトウモロコシだった。
日本で本格的にトウモロコシ栽培が始まったのは明治からで、
甘味のトウモロコシを輸入し北海道で栽培が始まった。

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トウモロコシの炭水化物は身体のエネルギー源となる重要な、
栄養素で、脳のエネルギー源にもなり、頭を動かす際に、
必要な栄養で、不足すると思考力の低下や疲労感を感じる。
トウモロコシに含まれるビタミンB1が不足すると、肩こり、
足のだるさ、手足のしびれなどが現れる場もある。

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激しい運動時や糖分の多いジュースを飲んだ時など、
ビタミンB1が消費量も増える為、普段よりビタミンB1の、
摂取を心掛け、過剰に摂取しても無害と物の本にはある。
その他トウモロコシには、ビタミンB2、E、リノール酸、
カルシウム、カリウム、鉄分も含みヘルシー食物の一つ。

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「信頼関係を築く事こそ大切」

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蘭州水車園を出て更に中山橋の方へ進むと、
左手に西遊記の登場人物像が見えてくる。
西遊記は、16世紀の明の時代の伝奇小説で、
唐僧・三蔵法師が白馬に乗り、孫悟空、猪八戒、
沙悟浄を従え、天竺へ経を取りに行く物語である。

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私自身、西遊記は小学校時代より良く見た物語である。
登場人物やその名前も知っていたので、中国へ来てより、
中国人と西遊記の話になると話に花が咲いたものである。
唐代に天竺より仏教の経典を持ち帰った三蔵法師の、
旅の記録を元に、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や、
妖怪や仙人など虚実が入り乱れる伝奇小説である。

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物語は玄奘三蔵の生き様と孫悟空の活躍を描きながら、
三蔵一行が天竺まで経典を求め旅に出て果たすまでを、
描いたものであるが、玄奘三蔵や唐の太宗皇帝以外は、
当然の如く物語はフィクションであり、史実とは違う。
唐代では誰人も中国を出る事を禁止されていたが、
三蔵は国法を破ってまで天竺へ経典を取りに行った。

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天竺往復の旅は西暦629年から645年の17年間掛かった。
17年間の旅で天竺への行きは15年半の歳月が掛かり、
帰りは1年半で帰って来れたが、理由があった。
行きは各国の国王からの要請で何ヶ月も滞在しながら、
仏教を教え、また次の国へと、しかし帰りはその国王が、
三蔵を守るため兵士を出し国境まで送り次の国王へと、
膨大な経典と共に無事に送り届けたのである。

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玄奘が天竺へ行く前にも多くの僧侶が天竺を目指したが、
途中で災難に会ったか誰も帰り着く事が出来なかった。
玄奘一人だけ無事に帰り着けた訳は、急いでいても、
やはり時間を掛けて行く先々の国王の要請どおりに、
家臣達に仏教を教えコミュニケーションを取って行った。
大切な事は急ぐ事より、信頼関係を築く事こそ大切である。

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「黄河増水時にも問題ない」

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蘭州黄河沿いを歩いて行くと前方に橋が見えてきた。
黄河の上に架かるその橋の名前は蘭州中山橋と呼ぶ。
中山橋の麓には明代に建てられた浮き橋の、
「黄河第一橋」の跡が残っており石碑もあった。

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中山橋は1907年に完成し第一橋と命名されたが、
1942年に中国革命の父孫文の中国名孫中山にちなんで、
中山橋と改名し以前は車の往来もあったが、
現在では文化遺産保護の為、全面通行禁止である。

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中山橋は蘭州市の中心部からチベット仏教寺院の、
白塔山に向かう黄河にかかる重要な橋であり、
黄河に架けられた最初の鉄橋として知られている。

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元々は明代に各地で作られた船を並べた浮橋として、
市民の生活を支えていたが清の光緒年間に鉄橋が、
架けられてのち黄河増水時にも問題なく現在に至る。

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「シルクロードの重要な地点」

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中山橋を渡る前に「天下黄河第一橋」の石碑を見た。
中山橋は天下に名だたる黄河の最も上流に、
架かっている橋という意味も含め第一橋との事。
蘭州は白い帽子を被った回族の人達を多く見かけた。

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蘭州は古くからシルクロードの重要な地点とされ、
秦の昭王の時代に隴西郡の地となったが三国時代に、
移転され、唐代には隴西郡の名称が消滅する事となる。

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漢代に金城郡が設置される事となったため金城の名が、
蘭州の古名となったが、隋代に蘭州が設置されて、
現在の蘭州の名称になった。

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清代には甘粛布政使が駐在し、中華人民共和国成立後は、
元満鉄の日本人技術者とソ連の援助によって、
宝鶏からの鉄道が開通する事となる。
写真は、中山橋を渡りきり対岸の白塔山公園より撮影。

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「紆余曲折だったが無事太平」

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中山橋を渡ると直ぐに信号があり通り抜けると、
白塔山の正門へ着いたが、ガイドは正門横の、
瓢箪に彫刻を施した夫婦が営む店に入った。

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暫しの間、瓢箪売り場の中でお茶を頂き、
休憩したあと、ガイドと共に正面入り口の写真を、
撮影したが、何となく様子がおかしいので聞いてみると、
瓢箪の彫刻の売店の夫婦とは久しぶりに会ったと言う。

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私は引き続き白塔山の正門の写真の撮影を続けた。
ガイドは中に入って楽しそうに話し込んでいる。
白塔山の正門の上の奉納額に「九曲安瀾」と、
大きく書かれてあったが、曲がりくねった道でも、
無事太平であった事の意味を表す文字だろうか。

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既に観光を終えて白塔山より降りてきた人に、
「全部見ると時間はどれ位掛かりますか」と聞いてみた。
「1時間くらいでしょうかね~」と応えてくれる。
ガイドは話に花が咲いているようなので、気を利かし、
ガイドに「私一人でゆっくり登って来ます」と話すと、
ニコッと笑顔を見せ「気を付けてね」と手を振った。

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