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Dog photography and Essay
江蘇省--南京旅情1
「南京旅情1」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
今回から南京市内の写真を更新して行きたい。
日本人にとって「南京」と聞き思い浮かぶのは
「南京大虐殺事件」の事であろう。
南京事件は、1937年12月13日から6週間の間に
行われた南京城の城内外で大規模な残虐行為が
行われ30万人の中国人が虐殺された事件である。
私が「南京事件」を知ったのは1985年頃の事。
1993年中国へ来た時に「南京事件」の事は全く
気にも留めていなかったが中国人から責められた。
「南京事件」の事は「南京大虐殺記念館」の写真を
公開するときにコメントしたいと思う。
写真の大橋は「長江第一大橋」と呼び「長江」とは
揚子江の事を指しており「第一大橋」は1960年に
着工し1968年に完成している。
1960年以前はソ連の技術指導のもと橋を架けたが
長江第一大橋は中国独自の技術で最初に建設された。
長江(揚子江)は青海省の青藏高原から流れ出し
6300キロの旅をして東シナ海に流れ込んでいる。
長江の水の流れが速く、また川幅も広いので、
古くから多くの都市が流域に立地してきた。
「南京旅情2」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
長江に架かる「長江第一大橋」の上に
行くため、車を大橋の下に停め70mほどの
橋脚に造られたエレベーターで上がった。
橋の上に着くと2月の冷たい風が頬を刺す。
羽毛ジャケットのフードをすっぽり被り
厚い手袋を着けたまま撮影を続けた。
人民解放軍が手に持ち掲げている書物の
文字は見え辛いが毛沢東の選集である。
毛沢東選集の第一巻には第一次革命戦争の
時期と第二次革命戦争の著作が収められている。
第二巻と第三巻には抗日戦争の時期の著作が
収められ、第四巻には第三次革命戦争時期の
著作が収められている。
毛沢東の生涯は革命に始まり革命に終わった。
ソ連の工業を取り入れた産業革命、農民政策に
重きを置いた農業革命、また毛沢東の意思に反し
一人歩きを続けた文化大革命など多く収められる。
抗日戦争の時期は、国民党との内戦のための
充電期間でもあり、蒋介石に戦わせて日中戦争が
終結する頃には蒋介石の国民党軍の戦死者も多く
毛沢東率いる共産党軍は巨大な兵力を得て兵力の
劣った国民党を倒すこととなる。
写真の長江第一大橋の70m上には自動車が通り
下側には鉄道が走る両用2階建てになっている。
1960年から建設が始まり1968年に完成した橋は
コンクリートの質も悪く、また長年の風雨で傷み
1998年に大規模補修工事が行われた。
また中国の発展に伴い車の通行量も橋建設当時より
現在の交通量はその6倍にもなっている。
「南京旅情3」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
長江第一大橋の上があまりに寒いので
早めにエレベーターを降りた。
中ほどに売店があり中間の階を入った。
土産物売り場は観光客も多くはなかった。
土産物を撮影するとダメですと手で
遮られたが、片言の日本語の話せる従業員が
写真を撮ってもよいですと言ってくれた。
さほど欲しいものはなかったがシャッターを
切っている間、説明をしていた。
写真は撮影した橋の上のスナップ写真を
コーヒーカップに貼り付け焼いたものだが、
直ぐには出来ず後ほど郵送されるとの事。
真ん中のブレスレットは、雨花石で出来ており
腕に常時付けていると血行が良くなるとの事。
何となく偽物っぽい感じのするブレスレットだ。
下は雨花石で作られたペンダントだが、雨花石に
着色をしたのか、プラスチックなのかは
よく分からないが中国人は結構買っていた。
「南京旅情4」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
「長江第一大橋」の下を流れるのは揚子江。
川底に打ち込まれた橋脚基礎部分から
橋の一番高い地点まで70メートルある。
橋の上から下を眺めた時に足がすくんだ。
下に降り先ほどまで居た橋の上を眺めても
そぼ高さの程が感じられた。
大橋の上側は車が走り、下側は列車が
走っているが撮影中に貨物列車しか通らず
走り抜ける貨物の部分しか写っていない。
特急列車が通るシーンを撮影できればと
思っていたが、見ることは出来なかった。
橋脚に毛沢東指導が抜粋され刻まれていた。
革命では誰が我々の敵か、誰が我々の友か、
革命のいちばん重要な問題を問い掛けていた。
貧農は、農村できわめて数の多い大衆であり
農民問題は毛沢東が重要視していた問題である。
一部の知識人は敵であり、革命の指導勢力に
工業プロレタリア階級を友として挙げている。
毛沢東の中国共産党の指導理念の本質は
中国化されたマルクス主義といわれる。
下の写真には団結万歳と刻まれているが、
徒党を組めば直ちに武力弾圧されてしまう。
報道も監視され放映不利な報道はカットされ
インターネットに於いては批判的なページや
デモの呼び掛けは直ぐに閲覧できなくされてしまう。
「南京旅情5」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
南京へは今回で3度目の訪れとなる。
初めて南京を訪れたのは26年前のこと。
初めて訪れた時は北京・上海・南京や
浙江省杭州を12日間ツアーで回った。
中国に住むようになってからは1箇所に
1週間以上滞在しているので記憶に残るが
短期間で多くの場所を観光すると何が何だか
目まぐるしい事のみ思い出に残っているだけ。
南京市内南西の方角に莫愁湖公園がある。
ガイドから1時間ほどで入口へ戻るように
言われたので小さい公園と思って中へ入った。
公園内の案内図を見ると莫愁湖は一周5キロあり
とても1時間では戻れないかも知れないと思った。
一人で公園内を散策したが冬の観光客が
少なかったからなのか静かに感じた。
「南京旅情6」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
莫愁湖は三国時代から始まる六朝時代から
名勝地として「金陵第一名勝」や「江南
第一名湖」「金陵四十八景之首」等と
賞賛されてきたのは古文書に架かれている通り。
園内には華巌庵のほか、勝棋楼、郁金堂など
また園内には楼、軒、亭などが配置されている。
堤岸には枝垂れ柳や中国原産のバラ科の
花海棠が4月ともなれば紫色を帯びた花が
咲き乱れ、枝垂れ柳とのハーモニーは美しい。
莫愁の意味を電子手帳で調べてみたが
その意味は分からず、別々に調べた。
「莫」の意味は「するなかれ」で「愁」は
「心配する」と「心配するなかれ」との意。
近くに清掃のおばさんが居たので莫愁の
意味を聞いてみると、人の名前という事だった。
写真は莫愁画廊の入口付近だが、
画廊というほどなので絵画が展示されていると
思ったが莫愁湖の自然の美しい風景だった。
本来なら心や目を楽しませるところだったが、
春に訪れればきっと心和んだろうと思った。
「南京旅情7」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
莫愁公園の蓮華庵の中へ入った。
蓮華という文字が目に入って来たとき、
一瞬、仏教の一宗派かと思った。
だが実際は蓮華(ハス)の花が咲く池で
その池のほとりに庵が建てられており
ここも初夏に訪れれば、きっといい雰囲気に
めぐり合うことが出来たのかも知れない。
古の風格がある東屋の回廊に座って、
暫しの間、回廊から池を眺めていようかと
思ったものの待ち合わせ時間が気にかかり
撮影するだけに留め足早に去った。
冬の寒さに襟を立てて物思いにふけりながら
歩くのも寂しさが込み上げ、枯葉散る秋の
寂しさとはまた違う思いで歩いていた。
話しは変わるが、今中国ではネットで共産党の
一党独裁廃止や民主化などを求めた集会を
開くよう提唱する書き込みがあったが中国の
ネット監視システムにより即、削除されている。
反日デモ時のネット書き込みは中国政府は見て
見ぬふりだったが、自分に火の粉が降りかかると
ネット警察の強化を図り削除する有り様だ。
2月18日更新の最後の2行が強化されたようだ。
「南京旅情8」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
南京莫愁湖で風のないときに湖面を見ると
湖面が鏡のように周りの景色を映し出す。
だが冬場は吹く風も強く湖面にさざ波を
起こし湖面に映るはずの景色も崩れ去る。
莫愁湖に悲話物語が民間伝説として残っている、
莫愁六朝時代に洛陽の貧家の娘として生まれた。
だが幼少時に母を亡くし父と互いに頼り合って
生きていた莫愁は聡明で美しく、よく働き、
文を好み、何でも得意とする娘だった。
莫愁は父から薬草治療を学び高いレベルに
達していたが莫愁が15歳の時、父は崖から
転落し亡くなってしまった。
莫愁は泣き明したが家が貧しいため仕方なく、
自分の身を売って父の葬らいを行った。
莫愁は美貌さゆえ良縁も多くあり、その中の
富豪に見初められ身請けをすることとなった。
「南京旅情9」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
莫愁は身請けされた翌年に子供を生んだ。
莫愁の生活は裕福だったが不安を抱いていた。
不安とは貧しい暮らしから抜け出したものの
亡き父の貧しい人たちの為に漢方治療を
施せれないことであった。
悩んだ末、生家へ向い貧乏人の多い村人の治療に
当たる事が出来慰められやっと笑えるようになった。
村人達の願いもあり生家と身請け先と掛け持ちの
生活になってしまったが、莫愁のチューリップ
好きが知られるようになり人々は彼女の住まいを
郁金香(チュ-リップ)堂と呼ぶようになっていた。
莫愁を身請けした夫は以前、官職に就いた事があり
南北朝時代の王である梁武帝が莫愁の噂を聞き
水西門の庄園で莫愁を一目で心奪われてしまう。
武帝は莫愁を宮殿に連れて行き寝食を
共にしたいと計略を実行してしまった。
武帝は莫愁の夫を徴兵させ途中殺害してしまい
武帝は莫愁に宮殿に入り共に暮すよう話す。
夫を殺されたという真実を知った莫愁は武帝を
恨みながら湖に身を投じてしまったという。
莫愁湖では莫愁が身を投げた伝説が残っている。
「南京旅情10」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
莫愁湖公園の中に古い建築物の門が
見えて来たので8mほど離れた所から
南京古典家具館の門を撮影した。
古典家具と書かれてあるので中国各地の
観光地の建物に置かれている紅木の
机や唐明代の家具が置かれているのかと
思いながらも門を潜ろうとしていた。
私は待ち合わせの時間が気になり
腕時計を確認した所、時間も半分過ぎ
中国人に一周見て回る時間を聞いていた。
観光地に地元の中国人は少なく質問には
正確に答えられないようだった。
運転手に電話し、約束の時間には
間に合いそうにない事を告げると
ゆっくりと写真を撮って下さいと言われ
安心しながら中へ入って行った。
古典家具が置かれている館内には210件の
精巧で美しい造型を秘蔵している。
写真は、門に近寄り斜め方向から庭を撮影。
「南京旅情11」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
南京古典家具館の中に入ると正面に
置かれた石に彫られた「前置き」の説明を
見ると莫愁湖は六朝時代からの名勝地であり
清朝乾隆の頃が一番賑やかであったとある。
古典家具館に置いてある家具は18世紀の
イギリスのアンティーク家具も多い。
18世紀当時の家具には彫刻が施され
マホガニーの高級木材が使われていた。
18世紀ではダイニングテーブルの上に
2枚重ねにしてクロスセッティングが
正式な覆い方とされてきていた。
だが、マホガニーで作られたテーブルだけは
クロスを掛けなくても問題ないとの事である。
マホガニーの光沢は、木の象牙と言われ
昼間の太陽の光と夜のロウソクの灯りとでは
それぞれの光りで違った美しさが感じられる。
「南京旅情12」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
莫愁湖にある南京古典家具館の中を
急ぎ足で見て回ったが、上海豫園や
北京紅楼夢館や蘇州などで古典家具を
見ていたので時間を掛けず外に出た。
中国の家庭に行くと古典風の家具が
置いてあり家長が手で座るようにと
るように勧めら座ると緑茶が出てくる。
長い時間座り込んでいると慣れないと
お尻の骨が痛くなり何故クッションが
置いていないのかと思ったりもする。
褐色や茶紫色した家具は仏壇などに
使われる紫檀や紅酸枝が多く雲南省や
東南アジアの南方で採木される。
木目を見ても分かり辛いが表面を掌で
擦すりながら目を凝らすと木目が分かる。
表面が加工してあるので強く擦ると
擦った跡が微妙に残るので拭くより
叩いた方が良いようだ。
家具の中でも重要なまた高価な部分は
銅製の金具部分であり、中には白銀制の
金具の彫金技術が評価されるようである。
写真は、足早に見学した南京古典家具館を
出る時に、家具館の門出入口を撮影した。
「南京旅情13」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
莫愁湖の南京古典家具館を出て左に折れ
道なりに歩いて行くと200mほど前方に
「建国成仁」と彫られた石碑が見えた。
「建国成仁」とは正義のために自分を
犠牲にして仁を成し革命を成就すること。
道徳を重んじ儒教を教える儒家が道徳的な
規則にのっとり生命を捨てることである。
正義のために命を捨てることであるが
昭和の時代に教育を受けた私にとっては
意味は分かるが、理解し難い事である。
石碑には民国元年と彫られており
中華民国元年は西暦では1912年である。
中華民国は、1911年の辛亥革命を経て、
1912年1月1日、南京において成立した。
孫文は、民国初期の政治家であり革命家。
初代民国臨時大総統で革命の父と呼ばれる。
中国では孫文のことを孫中山と呼ばれ
中国各地の都市に中山の地名が多くある。
南京には中山陵として歴代の王朝の墓と
並んで中国はもとより各国から訪れている。
「南京旅情14」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
上の写真の石碑は粤軍の大将を
称えた碑で、粤軍とは広東や
広西方面の広東軍の事である。
1911年の江蘇省や浙江省地域では
資本主義が発達していた。
武昌武装蜂起の後で、革命軍は上海や
杭州などの重要都市を攻撃占領した。
江南方面の要塞の南京で清政府を攻撃し
22日間の血戦後、南京を攻撃占領する。
1912年1月1日、孫文は中華民国の臨時の
大統領に就任し中華民国の始まりとなる。
1912年に孫文は北伐を宣言し広東軍の
回復を支援することに重きを置き
革命の闘いの主力としていった。
粤軍の陳大将は左翼で北伐の諸軍の中で、
最初に決まり、最後に決まったのが
山東煙台の第四軍革命軍だった。
清国軍との戦いで当初革命軍は撃退され、
一旦撤退したが革命軍は総員の力を集中し
反撃に出て広東軍は徐州を攻撃占領する。
中華民国は国民党政府になる前は
北洋軍閥政府と呼ばれていた。
「南京旅情15」
「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。
莫愁湖公園出入口まで急ぎ足で帰った。
そんな時、運転手より電話が入った。
私は孫文の辛亥革命の事柄を運転手に
聞いたが、難しい事は分からないと話。
大事な事は貴方を無事に次の所へ
送り届ける事しかないと話していた。
辛亥革命とは簡単に言うと干支が5年周期
60年に一度訪れる辛亥の年に起こったので
辛亥革命と呼び今年で100周年を迎える。
革命の内容は清朝末の政治的閉塞感から
漢族の間に反満意識が生まれ清朝への
反発が革命へとつながった。
辛亥革命が勃発すると広東省恵州を
攻撃して粤軍第1軍は清軍の提督を
捕虜にし広州は革命派により掌握された。
孫文は広州に護法軍政府を開設し
護法運動を開始すると粤軍は福建省へ
進軍し各地の北京政府軍を
撃破して?州に駐屯した。
粤軍は孫文により結成されたが
中国国民党に合併吸収され粤軍の
大将達も国民党の中で力量を発揮する。
1912年の辛亥革命に参加した蒋介石は
後に孫文に認められ国民党内右派の
代表として頭角をあらわしていく。
同じく辛亥革命に参加した毛沢東は
孫文の元で蒋介石と共に革命に参加するが、
孫文の死後、共産党に入党し頭角をあらわす。
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