Dog photography and Essay

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「更級(さらしな)日記」を研鑽-1


「とても不憫に見捨てがたく思う」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



乳母である人は夫も亡くして、この国境で子を生んでいたので
出産の穢れを避けるとうことで、私たちとは別に上京していた。

私はこの乳母のことがたいへん恋しかったので、訪ねていきたく思い
兄である人が私を馬に抱き乗せて、連れて行ってくれた。



人はみんな私たちの宿を借りの宿などと言うけれど、それでも風が吹くのを
避けるために幕を引き渡し居心地良くしているのに対し乳母の泊まる宿は
夫も連れ添っていないので、とても手抜きで雑な感じでだった。



菅 (すげ) や茅 (かや) などを粗く編んだむしろの苫(とま)というものを
一重ふいただけのもので、月の光がそこらじゅうにさし入るので
乳母は紅の衣を上に羽織って、辛そうに臥している姿が月の光に
照らし出されたその様子は、とても上品に見えていた。



乳母などという身分の人には無いほど、たいそう白く清らかで
乳母は私と久しぶりにあったので珍しく思って私の頭をかき撫でつつ
泣くのを、とても不憫に見捨てがたく思うけれど、急いで兄に連れられて
出発していく心の内は、たいそう物足りなくてどうしようもない感じだ。


「松里の渡りの船着き場に泊まった」

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愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



十七日の早朝、出発したが、昔、下総の国に「まののちょう」という人が
住んでいたといい、匹布を千むら万むら練らせ、晒させた家の跡といって
深い川を舟で渡り、昔の玄関の柱がまだ残っているということで
大きな柱が、川の中に四つ立っている。それを見て人々が歌を詠む。



「雨に濡れた多くの物を水洗いした」

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愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



門出にあたって一時的に滞在した所は、垣根などもなくて
茅葺(かやぶき)の仮小屋で吊り上げて開閉する蔀戸(しとみど)もない
簾(すだれ)をかけ、幕などを引いた。南ははるかに野の末まで見渡せる。



東と西は海が近くてたいそうおもむき深く、夕霧が立ちわたって趣深いので
朝寝などもせずに早起きして、あちらこちらと見ながら、こころでは
ここを出発してしまうのもひどく名残惜しく悲しくてならなかった。



同じ月の十五日、雨があたりを暗くするほど降っている中
上総と下総の境を出て、下総の国いかだという所に泊まった。
草ぶきの小屋も雨水で浮かんでしまうほどに雨漏りなどするので
その音が耳に付き恐ろしくてなかなか寝られなかった。



野原の中頃付近の丘のようになっている所に、ただ木が三つ立っている。
その日は雨に濡れた多くの物を水洗いして干して乾かした。
上総に後処理のために残してきた人たちが遅れて追いつくのを
待ってより共に出立するということで、そこで一日過ごした。


「引っ越しの準備におおわらわ」

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たいそう心細いままに、等身大の薬師仏を作らせて、手洗いなどして
人目の無いときに密かに持仏堂に入って額づいて身を乗り出して
京に早く上がれますように。物語がたくさんあると聞いています。



物語のある限り見せてくださいと、身を投げ出して祈った。
願いがかなったのか、十三になる年、父の任期が切れ京に上るという事で
九月十三日、門出して、ひとまず、いまたちという所に移った。



長年の間遊び馴れた家を、外から丸見えになるまでに壊して家具などを
取り外して人々は引っ越しの準備におおわらわだった。



日の沈みぎわ、たいそうひどく霧が立ち込めているところ
車に乗るにあたって家のほうを見やると、人目をしのんで参りつつ
額づいていた、あの薬師仏がお立ちになっているのをお見捨て
申し上げる悲しさに、人知れず泣けてきたのだ。


「過ぎ去った日々は帰って来る事はない」

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愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



石山寺は、西国三十三所巡礼の第十三番札所になっている寺である。
紫式部、孝標の娘や枕草子の清少納言や和泉式部日記の和泉式部も訪れている。
等身大の薬師如来像を作り祈った孝標の娘は石山寺の観音をどう見たのだろう。



私は自分の人生を振り返れば、必ずと言ってよい程後悔の念に駆られてしまう。
やり直せるものであるならばと思ったりもするが、過ぎ去ってしまった日々は
どんなに祈ろうとも、帰って来ることはありえず、償いの日々でしかない。



あづま路の道のはてと歌に詠まれた常陸の国よりさらに田舎に生まれた私が
どれほど人目には、みすぼらしく見えただろうに、何を思ったか
世の中に物語というものがあるのを、どうにかして見たいと思った。



昼間の暇な時や、夕食後の団らんのひとときなどに、姉や継母といった人々が
あの物語、この物語、光源氏のありようなど、所々語るのを聞いていると
話全体を読みたいと思えてくるのだが、どうして私の希望どおりに
ぜんぶ暗記していて語ってくれたりするだろうか。


「京周辺は平安女流作家ゆかりの地が多い」

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愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



過去を振り返っても楽しい思い出は思い出せず辛い思い出に後悔する。
過去を振り返らず、前だけを向いてと言われても、つい振り返ってしまう。
確かに過去を振り返ったとしても、過去を変えることは出来ない。



自分の過去は自分だけが知っており、他人はほとんど知らないか記憶にない。
更級日記は過去を振り返った物語であり克明に描かれている。
更級日記により自身の人生を振り返れるのかも知れない。



更級日記を書いた千年前と千年後の今、更級日記を紐解いて何を感じるのか
想像するだけでも、文学が過去や未来をつなぎ、心の変化はないように思う。
菅原孝標の娘のまどろんだ姿は愛らしく、ほっこりするような癒しをくれる。



西国である大津にある石山寺は、紫式部が源氏物語の構想を得たとされる。
更級日記の作者の孝標の娘や蜻蛉日記の作者の藤原道綱の母も訪れている。
西国である京の都周辺は平安時代の女流作家ゆかりの地が多く点在する。


「平安女性の気持ちに思いを馳せる」

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千年前、平安女性が歩んだ道のりは、現代の我々の心をも捉え続ける。

物語作家となった、菅原孝標の娘。晩年に綴った更級日記には
10歳から53歳までの人生を回想した瑞々しい文章が綴られている。



千年前の女性の心の内をたどる貴重な記録であるが、ただ、作家である事を
書かなかった原因に大好きな物語を出世の道具にしてしまったという
後悔の念があり、更級日記のどの部分にも自分が書いた事は書いていない。



大切な人を失った幼い少女の孝標の娘は源氏物語によって心癒された。
物語は現実のほうにはみ出して力を及ぼし、そして、人を強くする。
物語という創作の世界から、勇気や力をもらう事はよくある。



更級日記には、身近な人を亡くした経験や道中での景色などが
晩年になって回想したとは思えないほど、細やかに記されている。
孝標の娘が忘れたくない気持ちや経験を書き残している。

平安時代の女性の気持ちに思いを馳せる良い機会だと研鑽勉強したい。


「主人公の心の動きや様子が共感できる」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



かつての少女時代の自分の姿を読むにつけ、もう一度生き直そうと思い
その事が自分自身の人生を受け入れていくことが出来、認められるようになる。
自分自身の人生を本当に、いとおしむように言葉の世界にもう一度移し変えて
新たにもう一つの更級日記を通じた孝標の娘の人生をそこに創り出してみせた。



このようにして40年もの歳月を振り返った回想録更級日記が生まれた。
53歳の頃に更級日記を書き終えた菅原孝標の娘のその後は詳しく分からない。
しかし、更級日記のあとに書いたとされる浜松中納言物語が残っている。



浜松中納言物語のテーマは「生まれ変わり」で、主人公は出世を望まず
ひたすら愛する人たちの生まれ変わりを探して唐の国まで渡る。
孝標の娘は、その長い半生の中で、たくさんの大切な人たち、特に家族
その中には乳母も含まれて、そうした人たちとの別れを体験した。



これら大切な家族たちが、また生まれ変わって自分の前に現れてほしい
また会いたい、そういった思いを抱いて最後の物語の浜松中納言物語を
書いたのだろうと思えてならなく、孝標の娘の作品は高い評価を受ける。
物語の工夫が新鮮で主人公の心の動きや様子が共感でき素晴らしいと思う。


「自分の生きた時間が生々しく蘇ってきた」

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乳母の事柄についても孝標の娘は、乳母が旅の途中子を産んだので
別れて旅をする事になったが、恋しさのあまり乳母に会いに行った。
乳母は紅の衣を掛け、苦しそうな表情で横になっていたと書き記す。



乳母は私に気付き、何故、かような所へと私の訪問に驚いていた。
孝標の娘は横たわる乳母に抱き着き、乳母は見舞いに来てくれたと涙を流す。
乳母は孝標の娘の心の優しさを思い、姫は本当にお優しいことと喜ぶ。



この情景を、月の光を浴びた乳母は、とても白く清らかだったと記している。
とても恋しくて、このまま置いてはいけないと、一緒に行けないのかと思う。
乳母は、少し遅れるが必ずや追いつきますからと孝標の娘を慰める。



そして、京の都で物語を一緒に読みましょうと、しきりに私の髪をなでながら
泣く乳母の姿が忘れられないと書き記し、晩年の孝標の娘は、その覚え書きを
読み、私って子供の頃は、こんな子だったのだと、かつて自分の生きた時間が
生々しく蘇り対面し、もう一度生き直そうと思い、それが救いにもなった。


「もう見られないかも知れない」

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愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



上総から京の都へ旅した時の覚え書きのようなものが残されていてその中に
十三歳当時の文体が残っていて、それをあえて更級日記にも使った。
覚え書きをもとにした文章は具体的な描写に満ち溢れていた。



野中に丘だちたる所に ただ木ぞ三つ立てると、木が三本などと、こうした
数の記述は他に、いくつもあり、大きなる柱川の中に四つ立てりとか
葵のただ三筋ばかりあるなど具体的な数が何度も出て来て、他の物語にはなく
更級日記の特徴と言え大切な記憶をありのままに再現したいと数字を用いた。



正確さを支えると言う意味では数字は客観性を持ち、具体的な事が作品の中に
満ちあふれることにより自分自身がかつて生きた時間がリアルに表現でき、
もう一度、目の前に立ち現れると言う感覚を物語を書きながら味わっていた。
晩年、少女の頃だった自分はどんな姿だったのだろうかと振り返る。



富士の山があるのは駿河の国、これまで見たほかの山とは違うその姿は
まるで濃い青色を塗ったようと、心に思うがまま綴っている。

まどろまじ 今宵ならでは いつか見む くろとの浜の 秋の夜の月
眠ったらだめ 今夜を逃したら このくろとの浜の 秋の夜の月は
もう見られないかも知れないのだからと、そして乳母との思い出も。


「子供っぽさや未熟さを感じさせる表現」

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更級日記を丹念に読んでいくと40年に及ぶ人生をどう振り返ったのかが
見えて来るが、その手掛かりになるのは日記に出て来る88首の和歌。
散る花も また来む春は 見もやせむ やがて別れし 人ぞ恋しき
少女時代孝標の娘が乳母の死を悲しんで詠んだ和歌である。



和歌の前の文を読むと、夕日のいとはなやにさしたるとあり
夕日がはなやかに差し込み、その中を桜の花が散っていたと詠んでいる。
おそらく孝標の娘はかつて自分が詠んだ歌を読む事により、その時の
情景を鮮明に思い出して詠んだ歌と言えるのではないだろうか。



かつて詠んだ歌の時間に戻り、そしてその時の事を思い出して書いた。
さらに、彼女の人生を振り返るための手がかりがもう一つある。
きたなげなくて、いときたなげなきに、ありぬべき、ありぬべし
あはれがる、あはれがり、声すべて似るものなく、声さへ似るものなく



めでたく歌をうたふ、めでたくうたひたりなどと繰り返し使われている。
これほど多くを近接して使うと子供っぽさや未熟さを感じさせる表現になる。
このような未熟な表現が見られるのは更級日記の前半に集中している。
十三歳の少女の頃、上総(かずさ)から京の都へ旅をした部分である。


「晩年になり書きまとめた更級日記」

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孝標の娘は自分の物語を作りたい、だから作家の道を志し打ち込んだ。
それなのに、本来憧れの存在である物語を出世の道具にしてしまった。
そういうことに対する痛切な悔いの思いと言うものを抱いた。



その事がひいては、自身の物語創作を書かないという選択させる要因となった。
更級日記に作家であると言う事を書かなかった孝標の娘には強い後悔があった。
失意の中で孤独な日々を送る事にり、我が身を重ねた場所が長野にある。



つきもいでて 闇にくれたる おばすてに なにとて今宵 たづね来つらむ

月もないような暗い 闇に沈む 姨捨山に捨てられたような私である
なんと言っても 今宵も誰も私を訪ねては来ないと詠んでいる。



この姨捨山のふもとを「さらしな」と呼ばれており、そのため
孝標の娘が晩年に書いた日記は、いつしか「更級日記」と名付けられた。
一人自らの人生と向き合い日記を書き続け、孝標の娘が求めたものは
彼女自身の心の癒しであり晩年になり書きまとめた更級日記である。


「自分の思い描いた人生とはいかない」

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夢見る少女だった孝標の娘が社会的立場のために裕福になりたいと願う
気持ちは孝標の娘が大人になったという事なのだろう。
更級日記にも、今はひたすら豊かな身となりたいと書き綴っている。



自分の将来について夢占いをしてほしいと奈良の長谷寺初瀬をした。
御簾が青々として几帳の下から色とりどりの装束がこぼれ出ている。
梅や桜が咲き乱れウグイスが鳴いていると、夢が帝の内裏になる証と喜ぶ。



順風満帆な人生を歩む孝標の娘だったが、宮仕えを初めて6年後のこと
後朱雀天皇が崩御されることとなってしまい後冷泉天皇が即位する。
だが皇子がいないため腹違いの弟の尊仁親王が皇太子となり頼通とは
関わりのない皇太子となり孝標の娘の夢は消え失せてしまうことになる。



翌年、天皇即位に伴う大嘗会があり、更級日記には、鴨川で大嘗会の禊が
行われ都中騒いでいたとあるが、孝標の娘は大嘗会を見たくないと京を出る。
自分の思い描いた人生とはいかず不可抗力のような力に潰されてしまった。
その10年後に夫は病で世を去り子供は独立し、孝標の娘は人生を振り返る。


「乳母は優れた才能が求められる」

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宮仕えを始めてより一年後、藤原家に仕える男性にみそめられ結婚。
翌年34歳で出産した。夫の名は橘俊道で奈良時代からの名家であるが
源氏の君のような、ときめきはなかったようである。34歳で出産とは驚く。



まもなく孝標の娘の夫は豊かな下野国の国司に抜擢され、大事に育てた姪が
関白の元へ宮仕えする事になるが、いずれも孝標の娘の働きに報いたのだろう。
この時代の人事は高貴な人たちのさじ加減で決められ孝標の娘も現実的な
報酬と言うもの、具体的には一族の出世に期待していくという形に変わった。



物語で人生を切り開いていく孝標の娘は、ある野心を抱くようになる。
更級日記にも夢は皇太子の乳母になり帝の庇護をたまわりたいと書き綴る。
皇太子に父を与える乳母は教育係でもあり優れた才能が求められる。



皇太子が成長し天皇となれば乳母は秘書である典侍(ないしのすけ)となり
朝廷の人事に影響力を持て、皇太子の乳母になる事は羨ましがられた。
頼通は当時皇太子親仁親王の後見をして、頼通の姪との間に皇子が生まれれば
孝標の娘が乳母に選ばれる可能性が出て来るが、思うようにはいかなかった。


「憧れの仕事に就け人生は大きく変わる」

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(帰宅途中の小学生に「もも」を持って頂いた)

孝標の娘は父が引退したため32歳の独身で家の主となり更には病で
母を亡くした姪たちの面倒までみる事となり、二人の姪に物語を聞かせた
その噂は宮中にまで届き、宮使いをしないかと誘いがあった。



孝標の娘を宮使いに引き入れたのは時の関白藤原頼通で藤原道長の息子だ。
藤原親子は政治の実権を握るため盛んに優れた作家を召し抱えていた。
一族の娘のもとで物語を書かせるためで、文学好きの天皇が娘の所へ
通うようになり皇子が誕生し、その王子が天皇にでもなれば後見人となれる



紫式部の源氏物語もこのような思惑で藤原道長が紙を提供し生み出された
政治上の主導権を握るという点においても物語の創作というものは
源氏物語以降政治上意味を持っていたとされ、頼通は孝標の娘に
物語を書かせようとしたのではないだろうか。



宮仕えをしてからも孝標の娘は自宅で執筆活動をして書き上げてより
出仕するという住み込みで宮仕えする女性たちとは待遇面で違っていた。
宮仕えという憧れの仕事に就けた孝標の娘、人生は大きく変わって行く。


「少女から大人への心の変化が読み取れる」

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千年も昔に女性の気持ちが率直に、そして生き生きと描かれた更級日記。
更級日記のような個人的な記録は、まさに孝標の娘が生きた平安中頃に現れた。
日本独特の文化を生み出したのは中国からの漢字ではなく平仮名だったのでは。



日本語の発音を文字にした平仮名の誕生が日本人の心の機微を記す事が出来た。
古今和歌集に、心に思う事や見るもの聞くものについて言えるようになったと。
もっぱら女性に広まったこともあり、女性ならではの作品が生まれていった。



作品は浮気ばかりする夫への不満や職場の同僚の人物評価や恋の話まで綴られた
なかでも更級日記は、少女から大人に至る心の変化が読み取れる唯一の作品。
物語への憧れをはじめ、自らの気持ちを、つぶさに記録した菅原孝標の娘。
現存する更級日記は鎌倉時代の著名な歌人である藤原定家が書き写したもの。



菅原孝標の娘は、夜半の寝覚、御津の浜松、みづからくゆる、あさくら等
四つの物語を書いたが、自らの執筆活動については何も記してはいない。
孝標の娘は何故輝かしいキャリアを隠したのだろうか。その謎を解く鍵は32歳
以降の日記に記述があり、孝標の娘は独身のまま家の主(あるじ)となった。


「物語に魅せられ育てられた少女」

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孝標の娘の現実に降りかかる辛い事を物語の中に逃げ込んで
忘れる事も出来るし、物語はすごく現実の方にはみ出し力を及ぼす。
そして物語を読む事で人を強くし たくましくもすると感じた。



更級日記に書いた事は、昼は一日中、源氏物語を読み、夜になっても
灯りをともして灯りの近くに行き読んだとあり、やがて薄雲を暗唱。

夕日はなやかにさして 山際の梢(こずえ)あらわなるに 雲の薄く
わたれるが鈍色なるを 何ごとも御目とどまらぬころなれど
いとものあはれに思さる(源氏物語の薄雲より)



更級日記には、自然と物語が頭の中に浮かぶので素晴らしい事だと思ったと
源氏物語を暗唱できてしまうほどの読み込みぶりに、凄いと書き記している。
本を読む事を通して 書を学んだり いわば自分磨きにつながって行った。



何よりも源氏物語は孝標の娘の心に、ときめきを与えてくれたのではないか。
更級日記には、年頃になれば容姿もとても良くなって髪も長くなるはず
そうすれば光源氏が愛した姫君のようにきっとなると綴っている。
菅原孝標の娘も物語に魅せられ育てられた少女だったのだろう。


「物語には人を元気にする力がある」

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散る花も また来む春は 見もやせむ やがて別れし 人ぞ恋しき

散った花は 春が来ればまた 見られるけれど
別れた人にはもう会えない こんなに恋しいのにと心の内を詠んだ。



悲しくおもい嘆いて 物語を読みたいと言う気持ちがなくなりましたと
世を去って行った人を思い悲しみ 物語はいつの日か読まなくなった。
孝標の娘が塞ぎ込む日々に、叔母がある物を見つけて来て差し出した。



孝標の娘が贈り物の包みを解き箱を開けて見るとそこには源氏物語だった。
孝標の娘に叔母は、貴女があんなに読みたがっていた物語よと差し出し
これを読んで元気を出しなさいと源氏物語五十余巻をプレゼントした。



孝標の娘は更級日記の中で、部屋の中で横になりながら源氏物語を
一の巻から読んだが、自然と気持ちが慰められたと書き綴っている。
物語には人を元気にする力があり、時には辛い現実から逃避にもなり
それはとても自然な心持ちで受け入れる事が出来たのであろうと思う。


「悲嘆にくれる孝標の娘が詠んだ歌」

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京の都の中で物語の書物を探して見せてとお願いしていたが直ぐに見つかる。
父の孝標の赴任先が京の都になり家も三条坊門小路と高倉通りに邸があった。
天皇が住む大内裏が近く、位の高い人の屋敷が集まっている所にあった。



位の高い屋敷には和歌や音楽など文芸に秀でた女性が多く働いていた。
中でも「ものがたりのかみ」と呼ばれた女性たちは正に物語を書くのが仕事。
物語りは主や家族や仕える人たちに読まれた後、家の外へと広まって行った。



孝標の娘に届いた物語もこのような天皇家の姫君からのお下がりであった。
元の物語の持ち主は天皇家の姫君に仕えた女性で、まだ幼い孝標の娘を
めずらしがりプレゼントしてくれたようであった。春はあけぼのの
清少納言の枕草子もあったが紫式部の源氏物語はなかった。



そんな中、義理の母が父孝標と離婚し家を出てしまい悲しい気持ちに。
その三カ月後追い打ちをかけるように乳母が流行り病を患い亡くなる。
悲嘆にくれる孝標の娘がこのとき詠んだ歌が

散る花も また来む春は 見もやせむ やがて別れし 人ぞ恋しき


「更級日記は少女の頃からの日記の回顧録」

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研鑽-1では平安時代古文でドン引きされた方もいたのではと思い
取りあえず古文のひらがなは削除し極力現代文で書き綴って行きたい。

更級日記の作者の父は菅原道真の曾孫の菅原孝標の娘である。
名前は分かっておらず菅原孝標の娘として語り継がれ、孝標の娘は
小さい頃より源氏物語に憧れ義理の母や姉や乳母から物語を聞いて育つ。



退屈な日々の唯一の楽しみは義母や姉たちから光源氏の物語りを聞くこと。
紫式部が源氏物語を世に出して10年が過ぎた頃で京の都から遠い上総では
とても手に入らず読んだ事のある大人に内容を聞くしかなかった。



義理の母や姉、乳母(めのと)の話を聞くが、それぞれ物語の記憶が曖昧で
更級日記の中で、私の望み通りちゃんと覚えて語ってもらう事は出来ないと。
夕顔の物語りでも見舞いに行く時だったか、帰りだったかそれぞれ違い
まだ十歳ほどの孝標の娘は等身大の薬師如来像を作り願い事をしていた。



光の君はあの後どうしたのかしら、知りたくてもどかしいとも書き記している。
少しでも早く京の都へ上がらせて下さいと願掛けをし三年後十三歳の年に
念願の京の都へ行く事になり、物語をさがして見せてと乳母たちへ告げた。
更級日記は孝標の娘が少女の頃から書いた日記の回顧録で53歳で完成する。


「門出-原文 次回は簡単な紹介」

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更級日記の作者は菅原道真の曾孫にあたる菅原孝標の次女・孝標の娘。
母の異母姉は蜻蛉日記の作者・藤原道綱母。夫の死を悲しんで書いた回想録。
作者の孝標の娘が13歳から、52歳頃までの約40年間を回想し綴られている。

あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人
いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひけることにか



(源氏の君の物語を聞くが皆の話はいい加減で想像が膨らむ)

世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ
つれづれなるひるま、宵居などに、姉、継母やなどやうの人々の
その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに
いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。



(薬師如来に願掛けし13歳で京の都に住むことになり物語に出会う)

いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして
人まにみそかに入りつつ、京にとく上げたまひて、物語の多くさぶらふなる
あるかぎり見せたまへと、身を捨てて額をつき祈り申すほどに
十三になる年、上らむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所にうつる。



年ごろ遊び馴れつる所を、荒はにこほち散らして、立ち騒ぎ手、日の入りぎはの
いとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば
人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを
見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。


私は、歌を詠むのを見て、朽ちることもなくこの川柱が姿を
とどめていなければ、昔の跡をどうやって知っただろう。

その夜は、くろとの浜という所に泊まった。
片方は広い山になっており、はるか向こうまで砂浜が白く広がっている。



松原が茂って、月がたいそう明るく、風の音もひどく心細く感じた。
人々が風情を感じて歌を詠んだりしている中、私も今夜は一睡もしない事に
だって今夜をおいて、くろとの浜の秋の夜の月をいつ見るのです。



江戸川の下流の太井川で、下総と武蔵の境に流れるのは隅田川。早朝
そこを出発して、下総の句にと武蔵の境にある太井川という川の上流の浅瀬に
松里の渡りの船着き場に泊まって、一晩中、船にてなんとか荷物を渡す。


「風が吹くと自然と梅の香が香る」

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父である人も不思議に哀れなことで、大納言殿にご報告しようと
言っていたところだったので、しみじみ悲しく、惜しいことに思われた。



かつての住まいは広々として、人里離れた深山のようではあったが
桜や紅葉の折には四方の山辺も比べ物にならないほど素晴らしかった。



それを見慣れていたので、新しい住まいのたとえようも無く狭い所で
庭というほどの広さもなく、木などもないので、たいそう憂鬱な気分である。



向いにある家には、白梅・紅梅が咲き乱れて、風が吹くと自然と梅の香が
香って来ると、住み慣れたかつての住まいが思い出されるのだった。


「火事で可愛がっていた猫も焼けて」

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先払いをしながら車に乗って来た主は車から下りて来ず供の者に
荻の葉と呼ばせるが、答えないようで、車の主は呼びあぐねて
笛をとても優雅に吹きすまして、過ぎていってしまった。



笛の音が、まさしく雅楽の秋風楽のように聞こえていたのに、
なぜ、荻の葉はそよとも答えなかったのだろうと言ったところ、
姉は本当だねといって、荻の葉が答えるまで笛を吹き続けないで
そのまま通り過ぎてしまった笛の音の残念なことはない。



このように夜が明けるまで物思いに沈んで秋の夜空を
ぼんやりながめ夜が明けしらみがかってからみな人は寝た。



その翌年、四月の夜中ごろ火事があって、大納言殿の姫君と思い
かわいがっていた猫も焼けてしまい、大納言殿の姫君と呼ぶと
その言葉を聞き知っているような顔で歩み来たりしていた。


「天の川の川辺に心惹かれて思い巡らした」

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玄宗皇帝と楊貴妃が契った昔の今日の日がどんなふうか知りたいばかりに
彦星のわたる川波のように、思い切ってあなたに、貸してほしい旨を
打ち明け、返しに、牽牛と織女がその両岸に立って逢うという
天の川の川辺には私も心惹かれて何かと思い巡らした。



普段は不吉な書物なので人には貸さないのですが、と言って
今日はそんなことも忘れて、お貸しいたしましょうと微笑む。



同じ年の十三日の夜、月が隈(くま)なく明るい晩に人も寝てしまった
夜中ごろ、縁側に出て、姉である人が、じっと思いを込めて空を眺めて
たった今私が理由もなく飛び失せてしまったら、あなたはどう思うだろう。



そう尋ねるのも、なんとなく恐ろしく思っている私の様子を見て
姉は、別の話題にとりつくろって、笑いなどして聞いていると
かたわらの家の前に先払いをしながら進んできた車がとまった。


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