Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

「枕草子(まくらのそうし)」を研鑽-2



「いつもあなたを深く思っている」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



春の歌や花への気持ちなど、何でもいいのよと、そうは言いながらも
身分の高い女房たちが二つ三つぐらい書いて、その後でわたしに
ここへ書きなさいということなので、冊子を受け取り書いた。



年経れば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし

いつのまにか年月がたったので、私は年をとってしまった。
しかし美しい花を見ていると何の心配もないと書いたが

花をし見ればのところを、君をし見ればに書きかえたけれど、中宮様は
それを見比べられて、ただそれぞれの機転が知りたかったと仰せになる。



円融院(円融天皇 父村上天皇. 母藤原安子)の御代に帝が、この冊子に
歌を一つ書けと殿上人に仰せになるが、歌を、お断りする人々もいた。
字が上手だとか下手だとか歌が季節に合ってなくてもよいと言われ
困ってみんなが書いた中に、今の関白殿が、三位の中将と申し上げた時に



しほの満つ いつもの浦の いつもいつも 君をば深く 思ふはやわが

潮の満ちるいつもの浦のように、いつもいつもあなたを深く思っている私は
という歌の末の句を「頼むはやわが(帝のご恩寵を頼りにしています)」と
お書きになったことを、 ものすごく誉められたなどとおっしゃる。


「古今集を沢山書き写したりしている人は」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



歌の下の句を書くのも、むやみに汗が流れるような気がしてならない。
年若い人なら、とてもこんなふうには書き変えられないように思われる。
普段なら何も問題なくとても上手に書く人も、情けないことに
皆気後れがして、書き汚したりした人もいる。



「古今集」の綴じ本を中宮様は御前に置かれて、いろいろな歌の
上の句をおっしゃって、この下の句は何とお尋ねになるのが夜も昼も
気になって仕方がない、覚えている歌もあるのに、すらすらと口に出して
申しあげられないのは、どうしてなのかとじれったくなる。



宰相の君(藤原豊子)がやっと十首ほど。 それも覚えているとは言えないが
まして五首、六首などは、ただ覚えてないことを申しあげるべきだが
そんなにそっけなく、お尋ねになった甲斐がないことをするのはと
がっかりして、残念がっているのを見るのも面白い。



知っていると言う人がいない歌は、そのまま全部読み続けて竹の栞を
挟まれるのを、これは知っている歌だわ。どうしてこんなに
頭が悪いのかしらとため息をつく。古今集をたくさん書き写したり
している人は、 全部覚えているはずなのにと思う。


「間違って覚えたり忘れていたりしたら」

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愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



中宮様(藤原定子、第66代天皇一条天皇の皇后)が、村上天皇の御代に
宣耀殿(せんようでん)の女御と申しあげたのは小一条の左大臣殿の
お嬢様だと、知らない人は誰もいないでしょう。



まだ姫君と申しあげていた時に、父の大臣が教えられたことは、第一に
習字をなさい。次には琴を人より上手に弾こうと思いなさい。
古今集の歌二十巻を全部暗記できるように学問にしなさいということ。



左大臣がそう姫君に申しあげたのを、帝は以前に聞いていらっしゃって
宮中の物忌の日に、古今集を持って女御の部屋にお越しになり几帳を引いて
女御との間を隔てられたので、女御は、いつもと違って変ねと思われた。



帝は古今集の綴じ本を開かれて、何月のいつ、誰かが詠んだ歌は
何という歌かとお尋ねになるので、女御は、几帳で隔てられたのは
こういうことだったのかと理解なさって、面白いと思われるものの
間違って覚えたり、忘れていたりしたら大変なこと心配したに違いない。


「灯火をつけ夜が更けるまで読まされた」

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愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



帝は、歌の方面に疎くない女房を二、三人ほど呼ばれて、間違った歌は
碁石を置いて数えることにして、女御に無理にお返事をおさせになった時など
どんなに素晴らしく面白かったことだろうと思った。



御前にお仕えしていた人までも羨ましく、帝が強いてお尋ねになるので
利口ぶってそのまま終わりの句まではおっしゃらないけれど
女御のお答えはすべて少しも違ってはいなかった。



帝は、なんとかして、やはり少し間違いを見つけてから終わりにしようと
腹立たしいほどに思われたが、十巻にもなってしまい、全く無駄だったなと
おっしゃり、綴じ本に栞を挟み、お休みになったのも、また立派である。



長い時間が経ってからお起きになったが、やはり、この勝負がつかないで
止めてしまうのは、非常によくないとおっしゃって、下巻の十巻を
明日になったら、別の本で調べられるからということで、今日決着を
つけようと、灯火をつけられて、夜が更けるまで読まされたが
だが女御は、ついに負けることなく終わってしまった。


「将来の望みもなく見かけだけの幸福など」

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帝が女御のお部屋にお越しになって、こういうことがと、女御の父の
左大臣殿に人を遣わして知らされると、父君は大変心配してお大騒ぎになり
僧に読経させたり、内裏の方に向かってお祈りをしてお過ごしになった。



風流で情の深いこととお話になるのを、帝もお聞きになって感心なさる。
わたしは三巻、四巻でさえ、最後まで読めないなとおっしゃる。



昔はつまらない人でも、みな面白味があったが、この頃はこのような話は
聞かないわねなどと、帝にお仕えする女房で、こちらに伺うのを
許された人がやって来て、口々に話したりしている時は
本当に少しも心配することがなく素晴らしく思われる。



将来の望みもなく、見かけだけの幸福などを夢に見ているような人は
うっとうしく軽蔑したく思われて、やはり相当な身分の人の娘などは
宮仕えをさせて世の中の様子を見せて慣れさせて、典侍(てんじ)などで
しばらくお仕えさせたいと思われる。典侍とは宮中の女官の最高位。


「宮仕えは奥ゆかしくないと思われるのは」

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宮仕えする人を、軽薄で悪いことと言ったり思ったりしている男は
本当に憎らしいが、だが男がそう思うのもなるほどもっともなことだ。
宮仕えすれば、口にするのも恐れ多い帝をはじめとして、上達部や殿上人
五位、四位は言うまでもなく、顔を合わせない人は少ないだろう。



女房の従者、長女(おさめ/雑用係)、御廁人(みかわようど/便所掃除)の従者
礫瓦(たびしがわら/身分の低い者)といった者まで、宮仕えする人が
恥ずかしがって隠れたりしたことが、いつあっただろう。



男の方たちは、宮仕えする女ほどいろいろな人に会うことはないだろう。
だが宮中にお仕えしている限りは、やはりいろいろな人に会うのは同じだろう。



位の高い人は大切にするが、宮仕えをしたから奥ゆかしくないと思われるのは
もっともだが、それでも宮中の典侍(てんじ)などと言って、時々参内して
賀茂祭の使いなどで行列に加わったりするのも、実に名誉なことである。


「興ざめなものは昼に吠える犬」

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宮仕えした後で家庭におさまっているのは、なおさら素晴らしい。
受領が五節(ごせち)の舞姫をさし出す時などに、北の方が宮仕えした人なら
ひどく田舎臭くて、言い方が分からないことなどを人に尋ねたりはしない。
奥ゆかしいものだ。五節(ごせち)の舞姫とは、公卿・国司の子女の中から
新嘗祭では四人、大嘗祭では五人の未婚の少女を召したとされる。



興ざめなものは昼に吠える犬。時期ではない春にしかけてある網代。
三、四月に着る紅梅の着物。牛が死んだ牛飼。赤ん坊が亡くなった産屋。
火をおこさない角火鉢、囲炉裏。博士が女の子ばかり生ませているの。



方違えに行ったのに、もてなしてくれない所。ましてそれが節分の時だったら
本当に興ざめで、地方から送ってきた手紙の贈り物がついてないの。
京からの手紙も相手はそう思うかもしれない、でも、それは知りたいことを
書き集め、世間の出来事などを聞けるのだから手紙だけで十分。



人のところに特にきれいに書いて送った手紙の返事を、今はもう
持って帰ってるだろう、妙に遅いと、待っていると、渡した手紙を
正式の書状でも略式の結び文でも、ひどく汚ならしく扱って、けばだたせて
結び目の上に引いた墨なども消えて、いらっしゃいませんでしたとか言う。


「牛だけをはずして行ってしまうの」

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手紙は物忌みで受け取ってくれませんと言って持って帰ってきたのは
ひどくがっかりして興ざめであるが、必ず来るはずの人の所に
車を迎えにやって待っていると、来る音がするので、来たみたいと
人々が出ていって見ると、車を車庫に引き入れているところだった。



轅(ながえ 牛車の牛に繋げる2本の棒)をぽんと打ち下ろすので、尋ねると
今日はよそにお出かけというので、お越しになりませんなどと
ぼそっと言って、牛だけをはずして行ってしまうの。



また、家に迎えている婿君が来なくなったのは、ひどく興ざめである。
相当な身分で宮仕えする女に婿を取られて、恥ずかしいと思っているのも
ひどくつまらない感じがするし、赤ん坊の乳母が、ほんのちょっとと
言って出かけたので、なんとかあやして、早く帰って来てと言ってやった。



だが、今夜は帰れませんと返事をしてくるのは、興ざめどころか、とても
憎らしく耐えがたい。女を迎える男なら、なおさらどんな気がするだろう。
待っている人がいる女の家で、夜が少し更けてから、そっと門を叩くので
胸が少しどきりとして、人をやって尋ねさせた。


「たまらなく眠いと思っているのに」

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夜が少し更け、そっと門を叩く別のつまらない男が名乗って来た事は
まったく興ざめなどという言葉ではとても言い尽くせない。
修験者が、物の怪を調伏(ちょうぶく)しようとしていた。



大変得意顔で、独鈷(とこ 密教で使う仏具)や数珠などを持たせて
蝉のような声をしぼり出して経を読んで座っているけれど、物の怪は
少しも去る様子もなく、護法童子もよりましにつかないので、家の者が
集まって祈っていて、男も女も徐々に変だなと思い出していた。



修験者は二時間も読み続けて疲れて、まったくつかない。
立ってしまえと言って、よりまし(神霊がよりつく人間)から数珠を
取り返して、ああ、全然効験がないなと言って、額から上に頭を撫で
上げてあくびをして、じぶんから先に物に寄りかかって寝てしまう。



たまらなく眠いと思っているのに、それほど親しいとも思えない人が
体を揺り起こして無理に話しかけてくるのは、本当に興ざめする。
除目(じもく/官吏任命式)で官職を得ることができなかった人の家。
今年は必ずと聞いて、以前仕えていた者たちで、あちこちよそに行った。


「何になられたのですかなどと尋ねる」

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田舎めいた所に住む者たちが、皆集まって来て、出入りする牛車の轅に
隙間がないほどで、任官祈願の参詣のお供に、わたしもとついて行き
ご馳走を食べたり酒を飲んだり、大騒ぎしているのに、除目が
終わる三日目の夜明けになっても門を叩く音もしない。



おかしいななどと、耳をすまして聞くと、先払いの声などがして
上達部(かんだちめ 三位以上の人の総称)などみな宮中を
退出してしまわれたが、除目の様子を聞くために出かけて、前夜から
寒がって震えていた下男が、とても憂鬱そうに歩いて来る。



その下男を見る者たちは、どうだったと尋ねることさえできない。
よそから来た者などが、殿は何になられたのですかなどと尋ねると
何々の国の前の国司ですよなどと必ず答える。
本当に頼りにしていた者は、あまりにも情けないと思っている。



翌朝になり隙間なくいた者たちも、一人、二人とすべるように出て行く。
古くから仕えている者たちで、そうあっさりと離れることのできない者は
来年の国司交替がある国々を指折り数えたりして、殿が任官できるか
どうかと不安そうに歩き回っているのも、おかしくてならない。


「わくわくして行ったのにも関わらず」

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不安そうに歩き回っているのも、おかしいが、まさに興ざめである。
歌も、まあまあ良く詠めたなと思う歌を、ある人に送ったのに返歌こず
そのままにしており、恋をしている人なら返歌が来なくても仕方がないが。



でもそれだって、季節の風情がある時に送った手紙に返歌をしないのは
思っていたより劣った人と思ってしまう。また、忙しく時勢にあって
栄えている人のところに、時代遅れの古めかしい人が、自分は何もする事も
なく暇だから、昔を思い出してどうということのない歌を詠んで寄越したの。



儀式用の扇を、特別なんだからと思って、情趣がわかる人に渡しておいたのに
その日になって、思いもしない絵など描いて渡された。出産の祝宴や
旅立ちの餞別などの使いに、ご祝儀を与えないが、ちょっとした薬玉や
卯槌(うづち)などを持って歩く者などにも、やはり必ず与えるべきである。



思いもしなかったのにもらったのは、使いのしがいがあったと思うに違いない。
これは必ず祝儀がもらえる使いと思って、わくわくして行ったのにも関わらず
もらえなかったのは、特に興ざめしたに違いない。


「頼ることができなくて興ざめ」

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婿を迎えて、四、五年も産屋の騒ぎをしない家も、ものすごく興ざめ。
成人した子供がたくさんいて、最悪の場合、孫なども這い回っていそうな
年輩の親同士が昼寝している。そばにいる子供の気持ちとしても
親が昼寝している間は、頼ることができなくて興ざめなの。



大晦日の夜、寝て起きてすぐに浴びる湯は、興ざめどころか
腹立たしいほどである。大晦日の長雨。こういうのを一日ほどの
精進潔斎(しょうじんけっさい 肉食を断つ)と言うのだろう。



気がゆるむもの。精進の日のお勤め。先の長い準備。寺に長い間
籠っているの。人にばかにされるもの。土塀の崩れ。
あまりにもお人好しと人に知られた人。



憎らしいもの。急用のある時にやって来て、長話をする客。
遠慮がいらない人なら、あとでとでも言って帰せるけれど
気後れする立派な人だと、ひどく憎らしく面倒だ。


「硯に髪の毛が入ってすられている墨」

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憎らしいもの。硯に髪の毛が入ってすられている墨。
また、墨の中に石が交じっていて、するときにきしんで鳴っているとき。
急に病人が出たので、祈らせようと修験者を探すと、いつもいる所には
いないので、別の所を探していると、待ち遠しいほど長い時間が経つ事。



やっとのことで待ち迎えて、喜びながら加持をさせると、この頃物の怪に
かかわって疲れきってしまったのか、座るやいなや読経が眠り声なのは
ひどく憎らしい。大した事もない平凡な人が、やたらとニコニコして
盛んに喋っているのを見るのも憎らしくおもえる。



火鉢の火や囲炉裏に、手のひらをひっくり返し手を押しのばしたりして
あぶっている者や、いったいいつ若い人などが、そんな見苦しいことを
したのだろうかなどと、年寄りじみた人に限って、火鉢のふちに足まで
持ち上げて、話をしながら足をこすったりするのを見るのは嫌。



そういう無作法者は、人の所にやって来て、座ろうとする所を、まず扇で
あちこち扇ぎ散らして塵を掃き捨て、座る所も定まらないでふらふらして
狩衣(かりぎぬ)の前を膝の下に巻き込んで座る人は、取るに足りない身分の
者がする事だと思うが、式部の大夫などと言った人はこう言う事はしない。


「自分の身の上を嘆いて人を羨ましがり」

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酒を飲んでわめき、口中を手でいじくり、髭のある者はそれを撫でながら
盃をほかの人に押しつける様子は、ひどく憎らしく思えてならない。
きっと、もっと酒を飲めよと言ってるのだろう。



体を震わせて、頭を振り、口角を垂れ下げて、子供たちが
こう殿(国府殿)にまいりてなどを歌う時のような格好をする。
それはよりによって、本当に身分の高い人がなさったのを見たので
何とも気にくわないと思うのである。



何かと人のことを羨ましがり、自分の身の上を嘆いて他人の身の上を
あれこれ言い、ちょっとしたことでも知りたがり聞きたがり、話して
知らせないと恨んで悪口を言い、また、ほんの少し聞いた事を自分が元から
知っていたるように、別の人にも調子に乗って話すのも、ひどく憎らしい。



何か聞こうと思う時に泣く赤ん坊の声。烏が集まり飛びまわり騒がしく
鳴いている音。忍んで来る人を見知っていて吠える犬も憎らしい。
やむを得ず無理な場所に隠れさせて寝かせておいた男が
いびきをかいているのも憎らしい。


「端を静かに引き上げて入れば」

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忍んで来る場所に、長烏帽子を被って来て、それでも人に見られないように
慌てて入る時に、何かに烏帽子があたり、がさっと音を立てた時、気になる。
伊予簾(いよすだれ)などが掛けてあるのに、くぐって入る時に
頭があたって、さらさらと音を立てたのも、ひどく憎らしい。



帽額(もこう/御簾の上部に横に長くつけた布)の簾は、まして持ち上げた
木端(こわじ/簾を巻き上げるしんにする細長い薄板)を下に置く音がハッキリと
響くときで、それだって端を静かに引き上げて入ればまったく音はしない。



遣戸(やりど/引き戸)を荒々しく開けたりするのも、とても見苦しい。
少し持ち上げるようにして開ければ、鳴りはしないのにと思う。
下手に開けると、襖などもごとごと音がするのが際立って聞こえる。



眠たいと思って横になっているのに、蚊が細いかすかな声で寂しそうに
ぶーんとうなって、顔のあたりに飛び回る事や羽風(はかぜ)まで
蚊の体相応に音を立てて飛び回るのが、ひどく憎らしい。


「物知り顔で教えるようなことを言う」

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ぎしぎしと鳴る牛車に乗り出歩く人は、耳が聞こえないのかと酷く
憎く思う。じぶんが乗っている時は、その車の持ち主さえ憎らしい。
また、話をしてる時に、出しゃばって、じぶん一人先回りする者。
すべて出しゃばりは子供も大人もひどく憎い。



ちょっと遊びに来た子供や幼児に目をかけ可愛がりおもしろい物を
与えるうちに慣れるのはいいが、いつもやって来て座り込んで
道具を散らかしてしまうのは、ひどく憎い。



家でも宮仕えしている所でも、会わないことにしようと思う人が来たので
寝たふりをしているのを、私の従者が、起こしに寄って来て寝坊だと
思っているような顔つきで揺すったのは、ひどく憎らしい。



新しく仕えた人が古い人をさしおいて、物知り顔で教えるようなことを言い
世話を焼いているのは、ひどく憎い。今の恋人が、以前に関係した女のことを
誉めたりするのも、随分前のことでも、やはり憎らしい。ましてその関係が
今のことなら、その憎らしさは思いのほか強くなる。


「胸がどきどきしてしまうときって」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



くしゃみをしながら、まじないを唱える人。大体、一家の主人でも
ない人が、音高くくしゃみをするのは、ひどく憎らしい。
蚤(のみ)も酷く憎らしい。着物の下で踊りまわって、着物を
持ち上げるようにするのも憎らしいと思う。



犬が声を合わせて、長々と吠えるのは、不吉な感じがするほど憎らしい。
開けて出入りする戸を閉めない人は、すごく憎らしい。

胸がどきどきすることは、雀(すずめ)の子を飼うこと。
赤ん坊を遊ばせている所の前を通ること。



上等の香を焚いて一人で横になっているとき。唐鏡が少し曇っているのを
見ている時。身分の高い男が、牛車を止めて、従者に取り次ぎを頼み何かを
尋ねさせているとき。頭を洗い化粧をしているとき。



香がよく染みている着物など着ているときどきどきする。その場合
別に見る人がいない所でも心の中は、やはりとても快い気がする。
男が来るのを待っている夜、雨の音や、風が吹いて音がするのも
ふと胸がどきどきしてしまう。


「お供の男たちが大勢付き添って」

「Dog photography and Essay」では、
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過ぎ去った昔が恋しいものは、枯れている葵や人形遊びの道具など。
二藍(ふたあい)染や葡萄染などの布の切れ端が押しつぶされて綴じ本の
中などにあったのを見つけた時や、しみじみと心を動かされた人からの
手紙を、雨などが降って退屈な日に探し出した時。去年使った夏の扇。



心が晴れ晴れするものは、上手に描いた女絵の説明の文をおもしろく
たくさん書いてあるものや見物の帰りの牛車に、女房たちが着物の
袖口がはみ出るほどいっぱい乗って、お供の男たちが大勢付き添って
牛を上手にあやつる者が、快く牛車を走らせている時。



白くてきれいな陸奥紙(みちのくがみ/厚手の和紙)に、とても細く
書けそうにもない筆で、手紙を書いたている時。美しい糸を灰汁(あく)で
煮たのを、よりあわせて束ねたもの。調半(ちょうばみ/二つの賽を振って
同じ目を出すことを競う遊び。目がそろうのが調、そろわないのが半)



雄弁な陰陽師に頼んで、河原に出て、呪詛(ずそ)の祓えをした時。
夜中、寝起きに飲む水。退屈な時に仲が良いというわけでもない客が来て
この頃のおもしろい出来事や憎らしいのもや不思議なものを、あれこれと
聞き苦しくない程度に話したのは、とても心が晴れ晴れする気がする。


「説教の講師は顔がいいのがいい」

「Dog photography and Essay」では、
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神社やお寺にお参りして、願事を祈ってもらうのに、寺では僧侶
神社では神官などが、はっきりとさわやかに、思っていた以上に
よどみなく聞きやすく願いを申し述べた時なども晴れ晴れするものだ。



檳榔毛(びろうげ)の車は、ゆっくり進ませているのがよい。
急いでいるのはみっともなく見える。網代車は、走らせた方がよい。
人の家の門の前などを通って行くのを、ふと見る間もなく通り過ぎて
供の人だけが後から走るのを、誰なのだろうと思ったりするのはおもしろい。



説教の講師は、顔がいいのがいい。講師の顔をじっと見つめていればこそ
その人の説教の尊さも自然と感じられる。そうでないとよそ見して
すぐに忘れてしまうので、顔の悪い講師の説教を聞くのは
罪を犯しているのではないかと思われるほどだ。



でも、このことは書かない方が良いのかも知れない。もう少し若ければ
このような罪になるようなことも書いただろうが、今は仏罰が非常に恐ろしい。
また、尊い事だとか信仰心が厚いと言って、説教をする所はどこでも、真っ先に
行って座り込んでいる人は、やはり私のような罪深い心の持ち主と思われる。


「当人としては暇があるような」

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蔵人などは、昔は先導などはしないで、辞めた年くらいは、遠慮して
宮中あたりには、影も見えなかった。今はそうでもないようだ。
蔵人の五位と呼んで、そういう人を頻繁に使うけれど、やはり辞めた後は
退屈で、当人としては暇があるような気がするから何処へも行く。



そういう説教をする所へ行って、一、二度聞きはじめてしまうと
いつもお参りしたくなって、夏などのひどく暑い時でも直衣(のうし)の下の
帷子(かたびら)をはっきりと透かせて、薄い二藍(ふたあい)青鈍(あおにび)の
指貫(さしぬき)などを、踏みつけて座っているようだ。



烏帽子に物忌みの札をつけているのは、謹慎の日だが説教を聴くという
功徳のためには外出も差し障りがないと見られたいからだろうか。
その説教がある僧侶と話をして、聴聞に来た女車を立てる世話までして
なにかと場馴れしているようにも見える。



長い間会わないでいた人が、参詣に来たのを珍しがって、近寄って座り
話をして、うなずき、おもしろいことなど話し出して、扇を広く広げて
口に当てて笑い、装飾してある数珠をまさぐり、あちこち見たりして
牛車の良し悪しを誉めたり、けなしたりしていた。


「丁度よい時に座を立ち出て行く」

「Dog photography and Essay」では、
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どこかで誰かが行った法華八講、経供養をしたこと、こういうこと
ああいうことを比較して、この説教のことは聞こうともしない。
法華八講とは、法華経八巻を一巻ずつ八座で読誦・講讃する法会のこと。



法華八講、経供養は、いつも聞き慣れているから、珍しくもないのだろう。
そういう蔵人の五位のような者ではなく、講師が座ってしばらくしてから
先払いを少しだけさせて牛車を止めて降りて来た貴公子は、蟬の羽よりも
軽そうな直衣や指貫、生絹(すずし)の単衣などを着ている人もいる。



狩衣姿である人も、そういう軽快な服装で若くほっそりしているのは
三、四人ほどで、それにお供の者がそれくらいの人数で入って来るので
前から座っていた人々も、少し体を動かして隙間をあけ、高座にすぐ近い
柱の所に座らせると、かすかに数珠を押しもんだりしていた。



説教を聞いて座っているのを、講師も晴れがましく思っていることだろうと
説き始めるようだが、何とかして後々まで語り伝えられる程に貴公子たちは
説教を聴くといって倒れて騒いだり額をつけて礼拝するようなことはなく
丁度よい時に座を立ち出て行くと、女車の方を見て、仲間同士で話している。


「裾を上げて腰の辺りに紐で結んだ装い」

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貴公子を見て知っている人は、おもしろいと思い、知らない人は
誰だろう、あの人かしらなどと想像しながら、注目して見るので
自然と見送るようになるのはおもしろい。



あそこで説教をしたとか、法華八講があったと人が伝えると、あの人は
いたかとか、いないはずがないだろうと、いつも決まって言われるのは
あまりにも行き過ぎだと思う。でも、全く顔を出さないのもどうだろう。



身分の低い女だって熱心に説教を聞くというのに、だからと言って説教の
最初の頃は、出歩く人はいなかったが、たまには壺装束をして優雅に
お化粧していたようだが、それは説教を聴くだけでなく参詣したからだ。



壺装束とは衣や小袖を着た上から別の衣や小袖を頭上にかぶって
顔をあらわにせず、裾を引上げて腰のあたりに紐で結んだ装いである。

そういう装束で、説教などに出かける話は、そう多くは聞かなかった。
その頃説教に出かけた人が、長生きして今の様子を見たとしたら
どんなに悪口を言い非難することだろうと思った。


「朝露が降りるとともに起きて行く」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



菩提という寺で、結縁(けちえん/仏と縁を結ぶ)の八講をするというので
参詣したのに、ある人から、とても寂しいので、すぐに帰って来て下さいと
言ってきたので、蓮の葉の裏に、歌を書いて送った。



(これは、もものアクビ、舌先が反り返る時もある)

もとめても かかる蓮の 露をおきて 憂き世にまたは 帰るものかは

望んでも濡れたい蓮の露を捨てて なぜ嫌な俗世に帰らなければならないのか
本当に、とても尊くしみじみと心打たれたので、そのままお寺にいたいと
思ったから、湘中(そうちゅう)の家族の人のじれったさも忘れてしまいそう。



小白川という所は、小一条の大将藤原済時(なりとき)殿のお邸である。
そこで上達部が、結縁の法華八講をなさる。世の中の人が、とても
素晴らしいというので、遅く来るような牛車は、停めることができないと
言うので朝露が降りるとともに起きて行くと、満車状態、隙間がなかった。



轅(ナガエ 牛車の前方に長く平行に出た二本の棒)の上に、後の車の
車台を重ねて、車三台くらいはお説教の声も少しは聞こえるだろう。
六月十日過ぎで、暑いことといったら今まで例がないほどである。
池の蓮を見るだけで、とても涼しい気がするほどに感じた。


「長々と並んで座っていらっしゃる」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



左右の大臣たちのほかには、上達部はいなくお越しにならない。
二藍の指貫、直衣、薄青色の帷子(かたびら)などを透かしていらっしゃる。
少しお年のお方は、青鈍の指貫に白い袴を身にまとい、とても涼しそうである。



藤原佐理(すけまさ/三跡の一人で草書で有名)の宰相(さいしょう)なども
みな若々しく、すべて尊いことは限りなく、素晴らしい見物である。
廂(ひさし)の間の御簾を高く上げて、下長押(しもなげし)の上に
上達部は奥を向いて、長々と並んで座っていらっしゃる。



その次の座には殿上人、若い君達(きんだち)が、狩装束、直衣(のうし)なども
とても風情があり、じっと座っていないで、あちこち歩き回っているのも
とてもおもしろい。実方(さねかた)の兵衛佐、長命の侍従などは
小一条の一門の方なので、多少は出入りに慣れている。



まだ元服前の君達(きんだち)なども、とても可愛らしい様子でいらっしゃる。
少し日が高くなった頃に、三位中将とは今の関白殿(藤原道隆)をそう申し上げた。
その三位中将が、唐綾の薄物の二藍色の直衣、二藍の織物の指貫、濃い蘇芳色の
下袴に、糊張りした白絹の単衣のとても鮮やかなのをお召しになっている。


「皆が同じ赤い紙の扇を使って」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



鮮やかなお召し物を羽織って歩いて入っていらっしゃるのは、あれほど
軽やかで涼しそうな方々の中で、暑苦しい感じがするはずなのに
実にご立派なお姿に見えるのがとてもよい。



朴(ほお 大形の葉をもち、五月ごろ、香気の強い大きな白い花が咲き
素材はやわらかく、げた・木版などに使う)塗骨(ぬりぼね)など
扇の骨は違うけれど、皆が同じ赤い紙の扇を使って持っているのは
撫子(なでしこ)がいっぱい咲いているのに、とてもよく似ている。



まだ講師も高座にのぼらないうちは、懸盤(お膳)を出して、何だろうか
何かを召し上がっているようだ。義懐(よしちか)の中納言のご様子が
いつもより勝っていらっしゃるのはこの上ない。



色合いが華やかで、とても艶があり鮮やかなので、どれがどうと
優劣がつけがたい貴人たちの中にあって、この人はただ直衣一つを
着ているといったすっきりしたお姿で、絶えず女車の方を見ながら話を
していらっしゃる姿は、素敵だなと思わない人はいなかっただろう。


「女車から扇を差し出して呼びもどす」

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後から来た女車が、隙間もなかったので、池の方に寄せて立っているのを
中納言はご覧になって、実方(さねかた)の君に、口上をふさわしく
伝えられそうな者を一人と呼ばれると、どういう人なのだろう
実方の君が選んで連れていらっしゃった。



どのように言ったらいいかと、中納言の近くにいる方たちでご相談なさって
お伝えなさる言葉は聞こえない。使いの者が大変気を遣って、女車の方へ
歩いて近寄って行くのを、心配しながらも、一方ではお笑いになる。



車の後ろの方に寄って言っているようだ。長い間立っているので歌でも
詠むのだろうか。兵衛佐、返歌を考えておけなどと笑って、早く返事を
聞きたいと、そこにいる人全員、年をとった人、上達部までが皆そちらの
方を見ていて、実際外で立っている人まで見ていたのも、おもしろかった。



返事を聞いたのだろうか。使いの者がこちらに少し歩いて来たところで
女車から扇を差し出して呼びもどすので、わたしは、歌などの言葉を
言い間違えた時にはこのように呼びもどすだろうが、あれほど待たせて
時間をかけて出来た歌は、直すべきではないのにと思った。


「真っ直ぐな木を押し曲げたよう」

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使いが近くに来るのも待ち遠しく、どうでした、どうだったと
誰もがお尋ねになるが、使いはすぐには言わないで、権中納言が
おっしゃったことだから、そこへ行ってもったいぶって言う。



三位中将が、早く言いなさい。あまり趣向を凝らし過ぎて、間違えるなと
おっしゃると、この返事も同じようなものですと言うのは聞こえる。



藤大納言(とうだいなごん)は、人より特に覗いて見て、どう言っていたと
おっしゃったようで、三位中将が、真っ直ぐな木を押し曲げたようですと
言われると、藤大納言はお笑いになるので、みなが何となく笑う声が
女車の人に聞こえたのだろうか。



中納言は、それで、呼び戻さなかった前は、どう言ったのだと聞く。
これが直した返事かとお尋ねになると、長い間立っていましたが
なんの返事もありませんので、それでは、帰ることにしますと言って
帰ろうとしたのに、呼ばれたのでなどと申し上げる。


「高座の近くに行けるのが嬉しい」

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中納言は、誰の車にいるのだろう。ご存じですかなどと不思議がられて
歌を詠んで、今度は贈ろうなどとおっしゃっているうちに講師が
高座にあがったので、みな静かになって、講師の方ばかりを
見ているうちに、女車はかき消すようにいなくなってしまった。



車の下簾などは、今日使い始めたばかりに見えて、濃い紫の単襲に
二藍の織物、蘇芳の薄物の表着(うわぎ)などの服装で、車の後ろにも
模様を摺り 出してある裳を、広げたまま垂らしたりなどしているのは
誰だろう。返事も不十分より、かえってとてもよい応対だと思われる。



朝座の講師清範(せいはん)は、高座の上も光が満ちている気がして
とても素晴らしい。暑さでつらい上に、やりかけの仕事を、今日中に
しなければならないので、少しだけ聞いて帰ろうと決めていたが
次から次へて集まってきた牛車なので、出るにも出られない。



朝の説教が終わったら、やはりなんとかして出ようと思って、後ろの車に
このことを伝えると、高座の近くに行けるのが嬉しいのだろう、すぐに
車を引き出して場所をあけて私の車を出してくれるのをご覧になって
うるさいほどに年寄りの上達部までが笑って非難する。


「呆れるほど絵のように動かない」

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上達部までが笑って非難するのを、聞きもしない答えもしないで
無理に窮屈な思いをして出て来ると、権中納言が一大事因縁開示悟入とか
五千起去などと、釈迦が法を説こうとした時、悟りを得たと思って
五千人の僧侶が座を立って退いた時の釈迦の言葉を引用は素晴らしい。



だがそれも聞いただけで、暑さに慌てて出て来たので、使いを通して
五千人の中にお入りにならない事はないでしょうと申し上げて帰って来た。
五千起去の増上慢の心で既に悟りを会得したと錯覚して場を離れた僧侶のこと。



八講の初日から、そのまま終わる日まで立ててある車があったが、人が
近寄って来るとも思われないで、全く呆れるほど絵のように動かないで
過ごし、珍しく、素晴らしく、奥ゆかしく、どんな人か、何とかして
知りたいと中納言がお探しになったのを聞かれた藤大納言は、言葉を発す。



何が素晴らしい。ひどく無愛想で、無気味な者だとおっしゃられたのが
おもしろかった。そうしてその月の二十日過ぎに中納言が
法師になってしまわれたのは、しみじみと心に染みた。
桜などが散ってしまうのも、これに比べれば普通のことだろう。


「女の薄い紫色の衣の裏がとても濃かった」

「Dog photography and Essay」では、
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白露の 置くを待つ間の 朝顔は 見ずぞなかなか あるべかりける

白露が下りてすぐ消える僅かな間の朝顔の花なんて、いっそのこと
見なかった方がよかったと恋の歌を中納言は書きしたためた。
寛和二年(986)六月二十四日、中納言義懐は出家した。



花山天皇は寛和二年(986)六月二十三日に勢力争いの末出家するが
花山天皇の治世にその外叔父として中納言は権勢を奮うが、天皇の出家
退位に従い出家し、花山院の出家を追って政界を引退し出家した。



七月頃は、大変暑い日が続くので、いろいろな所を開けたままで夜も
明かすのだが、月のある頃は、寝て目を覚まして外を見ると、とても素敵。
闇夜もまた素敵。有明の素晴らしさは言うのも愚かだ。



とても艶のある板敷きの間の端近くに、真新しい畳を一枚敷いて
三尺の几帳を奥の方に押しのけてあるのは無意味だと思う。
端近くに立てるべきである。奥の方が気になるのだろうか。
男は出ていったのだろう。女の薄い紫色の衣の裏がとても濃かった。


「古今六帖の愛の歌を口ずさみながら」

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衣の表面は少し色が褪せているのか、それとも濃い綾織の艶々して
糊気の落ちていないのを、頭ごとかぶって寝ている。その下には
丁子の蕾つぼみの乾燥したものを濃く煮出した汁で染めた単衣か
黄生絹 練らない生糸で織った軽くてうすい絹の布で黄色な単衣。



紅色の単衣袴の腰ひもがとても長く、着物の下から伸びているのも
まだ男と寝たときに解いたままなのだろう。外の方に、女の髪の毛が重なり
ゆったりと出ている様子から、長さが自然と推測されるのだが、そこへ
二藍色の指貫に、色があるかないかわからない丁子染めの狩衣を着ている。



白い生絹の単衣に、下の紅色が透けて見えるのだろうか、艶やかなのが
霧でひどく湿ったのを脱いで、鬢が少しぼさぼさになっているので
烏帽子に無理に押し込んでいる様子もだらしなく見える。



朝顔の露が落ちない前に、後朝(きぬぎぬ 男女が互いに衣を重ねて
共寝した翌朝、別れるときに身につける、それぞれの衣服)の手紙を書こうと
思って、道中も不安で、古今六帖の愛の歌を口ずさみながら、家に帰る。


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