いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2007.11.20
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 とうとう「不死細胞」なるモノが見つかった様です。

 発見者の信念の強さには、すごいモノを感じますね。やはりなんといっても、科学と言う主世界観に守られている強みも感じます。少し嫉妬します。今回はちょっと「遺伝」について感じた事を書いてみます。

 昔から比べると、子供たちの容姿が親に似ていない様に感じます。昔は、子供の「憧れ」や「尊敬」・「情」などの「想い」の対象が、いつも近くに居る家族に向けられていた様に思います。現代はマスメディアの発達によりその「想い」の対象が広がり、その様な現象が現れている様に感じます。ちなみに私は、よく日本人離れした顔と言われます。

 親兄弟、親戚を見回してもこの顔立ちはいません。父の影響もあり物心付いたときには外国モノに触れ、小学生の時は洋画雑誌を愛読していましたね。またこの能力も母譲り(遺伝)として周りは理解される様ですが、正直私自身は根本的な質に違いも感じます。「遺伝」というよりもその能力に対する「憧れ」と、ある意味先を越された「嫉妬」を強く感じていました。

 ただその母が起こして来た現象が、私を迷いから何度も引き戻してくれた事は間違いないですね。そういったことから言えば、この能力を身に着けるには他の人に比べ有利な環境と言えますね。ある意味それが遺伝と言うことなのでしょう。

 研究者は、自分が属していると思う「世界観」のルール(理屈・言い訳)に沿って研究を重ねることにより、信念を確信に変え、目的のモノ(遺伝子や食べ物等の物質)を具現化していると感じます。研究の過程において行き詰まりを感じ、偶然発見されたモノも少なくないと思います。そしてそれを利用する私達は、その理屈を完全に理解しないままに使っていますかね。

 いわば便乗するように研究者の「想い」に極めて近い結果を得ている様に感じられます。「何だか解んないけど、偉い先生が言うんだから間違いないだろう」という具合ですかね?そして皮肉な事に、その理屈が一般に知れてくると逆にその効果が薄れ、目新しい研究結果に飛びつく様なことも多いように感じます。 

 まず「敏感」な(理屈っぽい)人が、その理屈に対して自分の「世界観」とのズレを感じ始め、無意識に拒否反応が出て、その人を見てまた別の人が・・・という、「不信」の連鎖が起こっているように感じます。根底には「慣れ」や「飽き」・「嫉妬」も感じますがね。人は常に変化を求めるように感じます。科学の世界観の中だけを見ても常識は変わり続けていますね。

 「他世界観」を利用する時には、適度な「無知」が必要になると感じています。(07.6.29著)

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 「男は必要ない!?」

 マウスの実験で、遺伝子操作により二匹のメスの卵子だけで子供が誕生しているようです。もっとも男性の体は女性の体を基に変化しているようなことも聞きますし、私はあまり不思議な感覚もありませんがね。想像妊娠とかもありますが、強い想い込みによって妊娠も出来るんじゃないですかね?(笑)そうなると「マリアの処女受胎」もまんざら・・・。(笑2)

 また誕生した地球の海に隕石が衝突したことにより形成されたアミノ酸が生命の基になったと科学番組でいってました。その理論の真偽はともかく、おそらく同時多発的な生命の発生をしていくのでしょうから、そしたら何故、どの時点で生殖活動が必要になったのでしょうね。「隕石の衝突」が地球の生殖活動ですかね。そもそもSEXってなんのためにありますかね?

 子孫を残す目的が基本(正しい目的)?・・・少なくとも私は何が何でも自分の血を継いだ子供が欲しいと感じませんが、SEXは生きていく上でとても大切なモノと感じていますね。理屈無い他人との深いコミュニケーションとも感じますし、その後に初めて深いコミュニケーションが築ける感覚もありますし・・・時に「現実逃避的」役割も感じますかね。

 自分の人生の保障を得るため?・・・自分を養ってくれる相手を惹き付けておくための手段にも遣えますかね。また「子は鎹」ともいいますが、子供は薄れてきた夫婦間の恋愛的繋がりの代わりに繋いでくれたり、自分の代わりに成し得なかった夢を託せたり・・・私は何でも自分自身で成さないと満足できないので、血を継いだ子供に執着が無いのかもしれませんね。

 単純に気持良いから・・・何のために「気持ち良さ」を求めますかね。私は基本(本能)が「気持ち良さ」を求めるようなところにあるように感じますね。「何のため」こそ体裁良く「気持ち良さ」を得るための後付(言い訳)のように感じますね。時には好んで「苦」を背負う人もいますが、結局その後にある「より強い満足(気持ち良い)」を求める行為と感じますね。

 男だからでしょうか?・・・個体差でしょうね。(08.10.8著)

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 光は1秒間に地球を7周半する・・・

 また「今、目に見えている星の光は何万年も前の光」とかもいいますね。光も粒子(物質)で速度がある(運動している)って事ですよね。一度放たれた光の粒子は、永遠に進み続けると言うことですかね?例えば「合わせ鏡」的な光の粒子を完全に逃がさない装置を造り、1度光を当てると、光源を切ってもずっと光り続けるってこと・・・?

モノが伝わるとき波動・波長とか遣いますかね・・・

 「波」って平面や断面といった2次元的表現になるとイメージもし易くなりますが、3次元的・・・例えば太陽の様に放射状にモノ(?)を放っている場合、「波」ってどの様にイメージしたら良いですかね?面的には難しいので、沢山の粒子が各々2方向に行ったり来たりしながら進んで・・・なんか粒子それぞれが干渉しあって波形も難しいような・・・?

 仮に最小の物質が見つかったとして(それ自体科学のルールに矛盾しますが、とりあえず置いといて)・・・

 その最小の物質と物質の隙間には何があるのですかね?「何も無い」ですか?『ビックバーン』とかいって、元々「無」から物質(有)が発生したのであれば、その時点で無と有が同時に存在すること自体矛盾も感じますかね。それとも隙間なく物質が並んでいるということですか?それはそれである意味「無」(無限)と変わらないような・・・?

 夢の中でも各種感覚(五感)がありますよね・・・

 脳科学においても、時に脳は実際にあるモノを見せなかったり、逆に無いモノを見せたりするようなことを言っていましたね。とりあえず脳(物質)を基本において科学に属しているようですが、やっていることは物質の存在自体怪しくするようなモノも含まれていませんかね?ちょっとズルいような・・・?自分で言っていて訳分からなくなりました。

 私は学生の頃から化学や物理が苦手で、化学の実験はいつも失敗するし、物理も根底にある理論が少なからず推測を含んでいたり、数式にも何か真実の誤魔化し的質を感じてしまい、今ひとつ信頼が置けなかったりするんですよね。それが失敗の原因?前記の事も含め、関心(信頼)持って最新の科学も勉強すれば納得もできて解決してしまうのでしょうけれどね。

 有名な科学者達によって立証もされてきているのでしょうからね。ただ科学の書籍は言い回しが苦手で(自分を棚に上げますが)・・・。(笑)それはどうあれ、そういった個々の勝手な理解力(無関心)や感覚による矛盾から生まれた不信でさえ、時に他人とは別の現象を生んでしまったりするようにも感じますかね。

 また自分でも自分自身の理屈っぽさを自覚していて、「研究者」向きな気質であるのかな?・・・とかも考えてしまいますが、ある意味「研究者」には、時には逆転的発想が出来るような柔軟性も必要と感じますが、基本には先駆者の築き上げた偏った世界観にドップリ浸かれる(信頼)資質(都合の良さ)が必要なのかも知れませんね。(09.6.2著)

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 「ホンまでっか!」

 最近世界でも認められている様な学者達が、バラエティー番組に出ていますね。ただお笑い芸人の司会者の実体験から来る「それは当たってない!」的な突っ込みに対しては、「あくまでも個人差がありますから・・・」的に交わしてしまうことも少なくないように感じ、そして番組の終わりには「あくまでも一説であり・・・」な注釈が添えられていたりして・・・

 最近の原発の件における専門家達の見解の相違や「想定外」といった言葉も含め、彼らは世界でも有数の学者達のはずですが、「個人差・例外・体質・偶然」のような所に逃げ込むようなことをされてしまったら、いったい誰の言う科学を信用すれば良いのか判りませんよね?そしてそこ(広い意味での矛盾)にこそ大切なモノがあるように感じますけどね?

 学者同士の議論の中に、他人の見解に対して「逆に・・・」的に話を被せ、本来なら相手の理論の否定になるような意見が逆に助け(同意)となり、その相対する見解が両者とも成立してしまうことも少なくないように感じます。彼等の言葉に「他人の論理を批判することを否定されてしまったら、科学者の存在を否定されたことに等しい」的な表現があったりして・・・

 科学の理論に限らず、「理屈」とは大概先に示されたモノの方が不利になりますかね。科学者に限らずヒトの根本に自己主張があるとすれば、自分以外のモノを覆していくことが常であり、またヒトは飽きやすいので、そこに目新しく逆説的な理屈を提示されれば時には何よりも説得力を感じ、昔のモノが見直されるような現象も繰り返されているように感じますかね。

 また、「理屈っぽい」と聞けば「理系」的イメージも強いと感じますが、私の周りにはむしろ「文系」と感じる人に理屈っぽい人が多いように感じます。そもそも科学は根本がまだ未解決な理論から始まっている訳で、それでもそこから発生した理屈や数式などを「理屈無く」信頼して(従って)しまえる素直さが、「理系」の根本には強くあるように感じますかね。

 そして「文系」には、例えば芸術などに携わる人などは縛りを嫌い、常に自分だけの表現を求めたりするために、時にひねくれた思考が求められるようにも感じますかね。その表現の一つに当然言葉(理屈)も含まれてきますからね。私も社会(就職)的に「理系」の方が有利と感じ、無理して「理系」の人生を歩んで来ましたが、間違いなく中身は「文系」ですね。

 ただ、科学や数学等も突き詰めると、宗教や哲学的なところに行き着いてしまうようなことも聞きますし、自分を表現するための手段には変わらないようにも感じますけどね?もっと言ってしまえば「科学者」とは、「科学」と言う名の「宗教」の熱烈な「信者」という表現もできるのではないですかね?ちょっと皮肉っぽくて意地悪かったですかね?(笑)

 番組の脳科学の人などは特に、若い頃から矛盾に悩み続けてようやくそこにたどり着いたように見えますが、個人的にはまだしっくりしたモノを感じていないようにも感じますかね?(11.6.14著)



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Last updated  2012.04.07 13:23:32
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