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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は亀久保神明神社の南にある地蔵院の石仏です。地蔵院 ふじみ野市亀久保3-11[地図]神明神社から川越街道の旧道を南下、200mほど進むと道路左側に地蔵院の入口があった。入口から入って左側、墓地の前に大型の地蔵菩薩塔と六地蔵塔が並んでいる。雨除けの下 地蔵菩薩立像 天明7(1787)四角い台の上に角柱型の石塔、敷茄子、蓮台と重ね、その上に丸彫りの地蔵菩薩立像。2mを優に超す本格的な地蔵塔。顔はやや溶けだしているものの、錫杖・宝珠も健在で、首にも補修跡が見えない。角柱型の石塔の正面に延命地蔵経の偈文。右側面中央に信女戒名、右脇に俗名があり、左脇に行年十四歳と刻まれていた。若くして亡くなった娘さんの供養のためのもののようだ。裏面中央に紀年銘。こちらは命日か?右脇に施主 亀窪村とあり、左脇に個人名が刻まれていた。ふつうは、このレベルの地蔵塔となると講中など、村の人たちが力を合わせて造立する場合が多い。個人でこのような立派な地蔵塔を墓石として造立したということは、相当に有力な「家」ということなのだろう。その隣 小堂の中に六地蔵菩薩立像。敷茄子から上の様子は六体とも揃っていた。台は右四体と左二体で分かれていて色が違っている、右の台の正面に光明真言 講中 惣村中と刻まれているが、紀年銘は確認することができなかった。入口から入って左側に二基の石塔が並んでいる。左は犬や猫などペットのための供養塔らしい。右 馬頭観音塔。大きな四角い台の上、自然石の前面を円形に彫りくぼめた中に三面六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。台にも塔にも銘が見当たらず、残念ながら詳細は不明。蓮台に座る三面六臂の馬頭観音。彫りは細かく精巧。三面ともに忿怒相。中央の髪の中に馬頭、左右の髪の中には化仏。ふっくらと馬口印を結び、他の四臂には剣・法輪・斧・水瓶?を持っていた。
2022.02.24
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら三室の中央部を北宿通りに沿って北から南へ見てゆきましょう。浦和博物館庭 緑区三室1458-1[地図]さいたま市立病院の南にある浦和博物館、入口右の庭先に二基の石塔が立っていた。その右手前に解説板が設置されている。右 足立百不動尊第一番標石 文久2(1862)四角い台の上の大きな角柱型の石塔の正面「足立第一番大聖不動明王」足立百不動尊はさいたま市・川口市を中心に江戸時代に設けられた100の不動尊霊場。南区太田窪の行弘寺の供養塔で見たように、第一番の中尾の玉林院から百番の行弘寺まで100の霊場があったらしい。玉林院は奈良時代創建と伝えられ、足立郡一帯の修験道の寺院を統括した大寺だったという。明治初年に廃寺となったが、その折に残された二基の石塔がこちらに移され保存されたのだろう。塔の右側面「神變大菩薩」神変大菩薩=修験行者 役の小角で、玉林院の本尊。左側面に「聖觀世音菩薩」観音霊場でもあったのだろうか?下の台の正面に多くの村の名前が刻まれていた。銘は薄くなっていて確認はできないが、かなり広い範囲いるようだ。左側面に八丁石工と刻まれていて、八丁石工秋本氏の作品らしい。左 長日護摩供五千座供養塔 安永8(1779)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「長日護摩供五千座供養塔」塔の上に火焔の光背に剣と羂索を手にした不動明王坐像。塔の右側面に造立年月日。続いて信心施主□□延命祈□、その左脇に小告野元□。解説板によると、小告野元仁という人物が我が子の延命祈願のために仏前で長日護摩供五千座供養した時に建立されたものだということだ。浦和三室郵便局北 緑区三室1648[地図]市立病院入口の信号交差点から北宿通りを南に向かう。900mほど先の道路左側にある郵便局の北に石塔が立っていた。庚申塔 享保4(1719)四角い台の上の唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが多い。頂上が扁平な髪形、H型の腕、髑髏の首輪。「川口型庚申塔」である。享保4年というとそれも最初期のものだ。足下に邪鬼。左足を折りたたみ、右足を出す姿は珍しい。顔だけを正面に向け様子をうかがう。その下の三猿は正面向き。川口型は両脇が内を向くのが普通だった。このあたりは「川口型」の基本から外れている。左側面に「奉庚申供養爲現當二世安樂」塔の右側面に造立年月日。その横に武州足立郡木崎領三室村施主宿中と刻まれていた。北向地蔵尊 緑区三室1529[地図]さらに南へ200mほど進むと道路左側、バス停の近く、神社の敷地の隅にお地蔵様が立っていた。脇の板に「南無北向地蔵尊」と書かれている。地蔵菩薩塔 宝永8(1711)丸彫りの立像の下は、蓮台に巨大な球形の敷茄子、反花付きの台座、角柱型の石塔、その下に四角い大きな台という豪華な構成。丸顔で人間臭い顔立ちはなんとも味わい深い。角柱型の石塔の正面中央「奉供養地蔵尊」右脇に念佛講中、左脇に爲二世安樂。左側面中央に施主 三室宿中。右脇に善男七人、左脇に善女五十二人。女性中心の講のようだ。左側面に造立年月日。裏面に中央に「奉再建」右に昭和6年の紀年銘。左に宿區内 施主 八十八人と刻まれていた。地蔵菩薩塔の左脇に馬頭観音塔 文化7(1810)大きな四角い台の上の駒形の石塔の正面に馬頭観音坐像を浮き彫り。風化が進み細部ははっきりしない。合掌する手の先が少しだけ覗いていた。塔の右側面に造立年月日。左側面には三室村 宿組と刻まれている。不動谷交差点南路傍 緑区三室1259[地図]第二産業道路の不動谷交差点のすぐ南、道路西側の青いトタン板フェンスの中に石塔が立っていた。庚申塔 寛保元年(1741)駒形の石塔の正面を深く彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。頂上が扁平な髪形だが腕は普通。三眼、口をへの字に憤怒相の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・二本の矢。腹部に腰ひもを結ぶ。右枠に「奉待庚申供養塔」左枠に造立年月日。その下に講中十五人。足下の邪鬼は腹ばい、足を踏ん張って青面金剛の重さに耐える。その下に比較的大きな三猿。両脇の見猿と言わ猿が内を向いて座る構図。よくある形だが、細かく見ると両脇の猿の足の折り方が違っていたり、背中をまっすぐに、頭をそらし気味に座る様子はちょっと珍しい。こういった細かいところが石工さんのこだわりだろうか?
2024.06.29
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら3月から始まりました富士見市の石仏シリーズもだいぶ押し詰まりまして、大きなところはあと三カ所、残りは路傍の石仏が数カ所となりました。今日は渡戸の観音堂を見てみましょう。石仏の数が多いので二回に分けて紹介します。渡戸観音堂 富士見市大字鶴馬3625隣県道266号線から分かれ羽沢交差点から渡戸、勝瀬、栗林へと抜ける通りは結構交通量も多い。渡戸交差点を過ぎ坂道を下ってゆくと右手に渡戸観音堂の墓地があった。広い敷地内の道路側、墓地の前に石地蔵など多くの石塔が並んでいる。大きな木の左側に五基の石塔。きれいな生花が供えられていた。左から 庚申塔 寛政4(1792)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。表面は風化が進み、青面金剛、邪鬼の表情などはあまりはっきりしない。邪鬼の下に三猿。二鶏は見つからなかった。塔の左側面 入間郡鶴馬村 渡戸中。脇に造立年月日が刻まれている。右側面には大きな字で是ヨリ右 江戸道。道標になっていたようだ。次に続く二基の石塔は双子塔 天保8(1837)正面上部に横に「奉供養」中央は左の石塔が「坂東三十三番觀世音」右の塔が「秩父三十四番觀世音」いずれも観音霊場順礼供養塔ということになるのだろう。両脇に天下和順・日月晴明と刻まれていた。塔の左側面は無銘。右側面には造立年月日が刻まれている。続いて馬頭観音立像 文政10(1827)三面六臂。江戸時代初期の石仏と比べると、江戸時代後期の石仏は石の質が落ちるためだろうか、表面が摩耗していたり、剥落が見られたりすることが多いようだ。塔の左側面に造立年月日。右側面は一部破損しているが□□邑と見える。続いて施主は個人名。一番右 地蔵菩薩立像 享保18(1733)丸彫りの延命地蔵。ちょっと斜め右を向いて立っていた。多少白カビがあり錫杖の先が欠けているが、像はボリュームがあり堂々としている。台の正面「奉納大乗妙典六十六部日本廻国為二親菩提也」両脇に天下泰平・國土安全。右側面に造立年月日。左側面には武州入間郡鶴馬村 願主 宗蓮と刻まれていた。
2016.06.03
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらなかなか見かけることの少ない「七観音塔」ですが、天沼新田と隣の吉田に立て続けに造立されていました。今日はこの二つの七観音塔を見てみましょう。天沼新田県道114号線路傍 川越市天沼新田67[地図]県道114号線を吉田方面から西に向かい、鶴ヶ島市に入る少し手前、道路左側の歩道の脇に小堂が立っていた。七観音塔 文化5(1808)四角い台の上、駒型の石塔の正面に七観音の坐像を浮き彫り。新しい飲料やお花が供えられている。最上部 ひときわ大きく千手観音。その下、右に馬頭観音、左は如意輪観音、中央は」十一面観音か?さらにその下に三尊。右は聖観音、中央は准胝観音?左は不空羂索観音か、このあたりの区別は難しい。その下の部分に10名の名前が刻まれていた。塔の左側面、右に造立年月日。中央に大きく 左 こまミち。左脇に武州高麗郡天沼村。さらに下部に小さな字で数名の名前が刻まれているが、隙間が狭すぎて写真は撮れなかった。塔の右側面 中央に大きく「奉造立」その下、右に観音講中、左に右 於ごせ道。こちらも下部に小さな字で数名の名前が刻まれている。萬久院 川越市吉田191[地図]県道114号線、東洋大学川越キャンパスの南を通り東武東上線の踏切を越えて400mほど西の交差点を左折、しばらく進むと右手に萬久院の入口があった。入口右脇、小さな石塔の隣に七観音塔 文政2(1819)二段の四角い台の上、重量感のある角柱型の石塔が載る。石塔の正面、上から千手観音、聖観音、馬頭観音、如意輪観音、十一面観音、不空羂索観音、准胝観音か。彫りは丁寧で細かい。雨除けもないロケーションだが、白カビも少なく、それほど目立つ風化も見られない。塔の右側面に「奉造立観音講中」両脇に薄い彫りで造立年月日。塔の左側面、武州高麗郡吉田村。上のほうの台の右側面、助力 惣村中とあり4名の名前、正面に9名、さらに左側面に5名の名前が刻まれていた。入口左脇、道路近くに馬頭観音塔 宝暦12(1762)四角い台の上、舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上の馬頭はくっきり。馬口印を結び、剣、未敷蓮華、斧、羂索を持つ。正面の顔は口をへの字にした忿怒相。光背右脇、上部に「奉造立」続いて造立年月日。下部に講中二十二人。左脇に武州高麗郡川越領吉田村 助力 惣村中と刻まれている。三面のうち両側面の顔は横を向くタイプで、三面ともに忿怒相。馬頭も立体的で迫力がある。笠幡では三面とも正面向きということが多かったが、このあと名細地区の馬頭観音はどうだろう?
2021.10.30
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今日は西区植田谷本の石仏を紹介します。藤橋六部堂 植田谷本 [地図]鴨川にかかる藤橋を渡り三橋から植田谷本に入るとすぐ右手に六部堂がある。堂の前には六部堂の説明板が立っていた。右手の一角、説明板の後ろに石塔が集められている。大きな石橋供養塔 寛政8(1796)正面に奉納大乗妙典石橋供養塔。右側面には石工として江戸筋違御門外井筒屋、奈良瀬戸 大工甚助などと刻まれている。奈良瀬戸は今の北区奈良町のことと思われる。また左側面には百人近い数の人の名前が刻まれているが、三室村、江戸、大宮、白幡村、在家村、二宮村三条町、嶋根村、円阿弥、中野林などの地名が見られ、広い範囲の人たちがこの橋の建立にかかわっていたことがわかる。石橋供養塔の後ろに三基の石塔が立っている。一番左、念仏供養塔寛政8(1796)右側面には普門品供養塔となっている。真ん中、六部堂再建立塔 享和元年(1801)右肩に念仏講村中と刻まれている。右端には小さな薬師如来坐像、年代等詳細は不明。林光寺 植田谷本 [地図]林光寺は鴨川右岸、植水小学校の南東200mの位置にある。門の脇に石塔が立っている。正面には阿波國十楽寺移 足立八十八ヶ所 第七番とある。文化7(1810)の四国移霊場標石上部には弘法大師の坐像が彫られている。左の門の脇、地蔵菩薩立像 正徳3(1713)台座には三界萬霊有縁無縁とあり、礎石には植田谷本村を始め20以上の村の名前が刻まれていた。大宮南高校北路傍 植田谷本 [地図](注:地図はぴったりした番地がない。現場は地図の南の道沿い)大宮南高校のグランドから100m北、墓地の前に庚申塔が祀られていた。庚申塔 元禄16(1703) 青面金剛立像ショケラ持ち六臂 カビはそれほどでもないが残念ながら顔などに損傷が多く見られる。下部には邪鬼、三猿が彫られているが、表情などははっきりとうかがえない。
2014.02.26
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら水子地区を終わり、東上線の西側、針ヶ谷に入ります。栗谷津公園 富士見市針ケ谷1-4東武東上線みずほ台駅の南200mほど、線路近くに栗谷津公園がある。「谷津」水のある谷ということで公園の中心には澄んだ水をたたえた大きな池があるが、池の奥にかかる橋の向こうが湧き水の水源地で、そこには倶利伽羅不動明王が祀られていた。倶利伽羅不動明王塔 嘉永元年(1848)上部に蛇身の不動明王を彫り、下部には「倶利伽羅不動明王」と刻む。龍が剣に巻き付きその剣先をまさに飲み込まんとするところ。背後には火焔が燃え盛り不動明王を象徴している。塔の右側面に造立年月日。左側面には世話人とあり六名の名前、さらに願主とあり一名の名前が刻まれていた。氷川神社 富士見市針ケ谷1-39針ヶ谷の中央部、栗谷津公園から南へ200mほどのところに氷川神社がある。鳥居をくぐってすぐ右手に手水鉢 嘉永6(1853)があった。正面に大きく「奉納」右側面に造立年月日。左側面に願主は個人名、村の有力者と思われる。参道正面の拝殿の左側には稲荷神社がある。その鳥居の前、石祠などと一緒に庚申塔が立っていた。庚申塔 元禄14(1701)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。相当に古いもので、カビなどもそれなりに目立つ。右脇に「奉新造立庚申供養二世安樂所」左脇に造立年月日。とぐろを巻く蛇を頭にした三眼の青面金剛。その左上手にも蛇がまとわりついている。足下に首を傾げた邪鬼と三猿。その下の部分に武州入間郡針ヶ谷村 施主拾一人敬白と刻まれていた。
2016.05.16
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は上沢薬師堂の百観音を見てみましょう。上沢薬師堂 富士見市上沢2-4薬師堂の参道右側、奥に百観音が見える。雨除けのためにいつ行っても薄暗い。百観音は三段に並んでいた。前の段は坂東三十三ヶ所、中央に秩父三十四ヶ所、後の段に西國三十三ヶ所、合わせて百観音になる。聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音、不空羂索観音と六観音がすべてそろい、立像あり、坐像ありとバラエティに富んでいる。百枚写真を並べても仕方がないのでまとめて見ていただく。前の段の坂東三十三観音。右から一番 鎌倉の杉本寺、二番 逗子の岩殿寺、三番 鎌倉の田代寺、四番 鎌倉の長谷寺と続く。像は三番が千手観音、他は十一面観音。像の様子はほぼ同じような印象を受ける。幕末から明治初年にかけて、そんなに長くない期間に集中的に奉納されたもののようだ。五番 小田原の勝福寺 十一面観音、六番 厚木の長谷寺 十一面観音、七番 平塚の光明寺 聖観音、八番 座間の星谷寺 聖観音 九番 都幾川の慈光寺 千手観音。十番 東松山 岩殿の正法寺 千手観音、十一番 吉見の安楽寺 聖観音、十二番 岩槻の慈恩寺 千手観音、十三番 浅草の浅草寺 聖観音、十四番 横浜の弘明寺 十一面観音。十五番 高崎の長谷寺 十一面観音、十六番 伊香保の水澤寺 千手観音、十七番 栃木市出流の満願寺 千手観音、十八番 日光の中禅寺 十一面千手観音、十九番 宇都宮の大谷寺 千手観音。二十番 益子の西明寺 十一面観音、二十一番 大子町の日輪寺 十一面観音、二十二番 常陸太田の佐竹寺 十一面観音、二十三番 笠間の正福寺 十一面千手観音、二十四番 茨城桜川市の楽法寺 延命観音。二十五番 筑波山の大御堂 千手観音、二十六番 土浦の清瀧寺 聖観音、二十七番 銚子の円福寺 十一面観音、二十八番 成田の龍正院 十一面観音、二十九番 千葉市の千葉寺 十一面観音。三十番 木更津の高蔵寺 聖観音、三十一番 千葉 長南町の笠森寺 十一面観音、三十二番 千葉県いすみ市の清水寺 千手観音、最後が三十三番 館山の那古寺 千手観音。こうやってまとめてみると坂東には十一面観音と千手観音が多い。中央の段は秩父三十四観音。一番 四萬部寺 聖観音、二番 真福寺 聖観音、三番 常泉寺 聖観音、四番 金昌寺 十一面観音。四番は残念ながら破損していた。五番 語歌堂 准胝観音、六番 卜雲寺 聖観音、七番 法長寺 十一面観音、八番 西善寺 十一面観音、九番 明智寺 如意輪観音。十番 大慈寺 左手に子を抱く聖観音、十一番 常楽寺 十一面観音、十二番 野坂寺 聖観音、十三番 慈眼寺 本尊を調べると聖観音なのだがここでは十一面観音。十四番 今宮坊 聖観音。十五番 少林寺 十一面観音 十六番 西光寺 千手観音、十七番 定林寺 十一面観音 十八番 神門寺 聖観音、十九番 龍石寺 千手観音。二十番 岩之上堂 聖観音、二十一番 観音寺 聖観音、二十二番 童子堂 聖観音、二十三番 音楽寺 聖観音、 二十四番 法泉寺 聖観音。二十五番 久昌寺 聖観音、二十六番 円融寺 聖観音、二十七番 大渕寺 聖観音、二十八番 橋立堂 馬頭観音、二十九番 長泉院 聖観音。三十番 法雲寺 如意輪観音、三十一番 観音院 聖観音、三十二番 法性寺 聖観音、笠をかぶっているのは珍しい。三十三番 菊水寺 聖観音、三十四番 千手観音。秩父では聖観音が多い。後ろの段は西国三十三観音。バックの光が強く逆光になり、クリアな写真は撮れなかった。一番 那智の青岸渡寺 如意輪観音、二番 紀三井寺 金剛宝寺 十一面観音、三番 紀の川市 粉河寺 千手観音、頭が欠けている。四番 大坂和泉市 施福寺 千手観音。五番 大坂藤井寺 葛井寺 千手観音、六番 奈良高取 南法華寺 千手観音、七番 奈良明日香 岡寺 如意輪観音、八番 奈良初瀬 長谷寺 十一面観音、九番 奈良市 南円堂 不空羂索観音。十番 宇治 三室戸寺 千手観音、十一番 上醍醐 准胝堂 准胝観音、十二番 大津 正法寺 千手観音、十三番 大津 石山寺 如意輪観音、断裂跡があり顔がはっきりしない。十四番 大津 三井寺 如意輪観音。十五番 京都東山 今熊野観音寺 十一面観音、十六番 京都東山 清水寺 千手観音、十七番 京都東山 六波羅蜜寺 十一面観音、十八番 京都堂之前町 六角堂 頂法寺 如意輪観音、十九番 京都竹屋町 革堂 行願寺 千手観音。二十番 京都大原野 善峯寺 千手観音、二十一番 亀岡 穴太寺 聖観音、二十二番 茨木市 総持寺 千手観音、二十三番 箕面 勝尾寺 千手観音、二十四番 宝塚 中山寺 十一面観音。二十五番 兵庫加東 清水寺 千手観音、二十六番 兵庫加西 一乗寺 本尊は聖観音だがここでは千手観音のようだ。二十七番 姫路 圓教寺 如意輪観音、二十八番 宮津市 成相寺 聖観音。二十九番 舞鶴 松尾寺 馬頭観音、三十番 長浜 宝厳寺 千手観音、三十一番は近江八幡 長命寺のはずだがここには観音像は見当たらない。三十二番 安土 観音正寺 千手観音、三十三番 揖斐川 華厳寺 十一面観音。西国三十三観音は聖観音、千手観音、十一面観音などがバランスよく並び、また坂東・秩父ではほとんど見られなかった如意輪観音像が六体もあるのが特色と言えるだろう。馬頭観音は二基。改めて見てみよう。こちらは秩父の二十八番。三面六臂の坐像。頭上に馬頭を戴き、馬口印を結ぶ。残りの手には剣、蓮華のつぼみ、羂索、独鈷杵。こちらは西国の二十九番。秩父二十八番と同じ構成。顔なども非常に良く似ている。同じ石工さんの仕事だろう。百観音の脇に石塔が立っていた。自然石の正面「奉納 秩父・西國・坂東 百番供養塔」背面に明治2年(1869)の紀年銘。下のほうに納主とあり、大曾根氏二名の名前が刻まれている。
2016.06.11
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。川越市に続いて今日から「ふじみ野市の石仏」に入ります。まずは北のほうから、川崎の石仏を見てみましょう。氷川神社 ふじみ野市川崎146[地図]南古谷駅からまっすぐ南下して上福岡駅の南へ向かう県道335号線。新河岸川を越えてふじみ野市に入り最初の川崎交差点の少し手前を西に入った先に氷川神社がある。朱塗りの鳥居の先、参道左側に小堂が並んでいた。一番奥の小堂の中 弁財天 宝永2(1705)四角い台の上、舟形光背に鳥居冠の弁財天坐像を浮き彫り。冠の中に蛇がとぐろを巻く。光背右脇に導師 九刕備前國沙門 玄廣。顔の横あたりに「辯財尊像」光背左脇「右之意趣者信心施主眼世 安穏後性前性子孫繁昌」さらにその横に造立年月日が刻まれている。下部正面に武刕入間郡とあり、6人の名前が刻まれていた。仙元神社 ふじみ野市川崎153東[地図]氷川神社のすぐ東、小高い塚の上に角柱型の石塔が立っている。仙元大菩薩塔 文久3(1863)塔の正面「仙元大菩薩」左側面に造立年月日。右側面「天下泰平五穀成就」下の台は二段。上の台の正面に講中と刻まれていた。「大菩薩」なのにいくつかの資料では「仙元神社」となっている。仙元神社の塚の下、氷川神社との間の路傍に庚申塔が立っていた。庚申塔 元禄15(1702)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。四つの手に戟・鉈・弓・矢を持つ。定番の法輪がないのも元禄期らしいというべきか?像の右脇「奉造立庚申尊像爲二世安樂者也」左脇に造立年月日。足の両脇に二鶏を線刻。足元の部分は特に風化が進み、邪鬼と三猿の顔は一部損傷。芋虫のような邪鬼は猿よりも小さく?貧弱でアンバランス。三猿は両脇が内を向く構図。三猿の下の部分に武蔵州 入間郡 川崎村、施主廿壹人と刻まれていた。
2022.01.06
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらここまで清瀬市の北部を柳瀬川通りに沿って東の下宿から中里、野塩と見てきました。今度は南へ移って志木街道沿いに西から東へ見てゆきます。今日は取材の都合で後回しになっていた野塩の圓福寺と、志木街道沿い二つの石塔を見てみましょう。圓福寺 清瀬市野塩3-51[地図]空堀川の薬師橋のすぐ東に圓福寺・西薬師堂の入口がある。その両脇に一対の大きな金剛力士像が立っていた。この入口から東へ進むと圓福寺の本堂、正面の石段を登ってゆくと薬師堂に出る。入口から入ってすぐ左、奥に「寂光堂」という合同永代墓があり、その手前、左側に六地蔵の小堂が立っていた。小堂は二つ、それぞれ三基の地蔵菩薩塔が収められている。こちら左の三基。四角い台に角柱型の石塔、敷茄子に蓮台、よくそろっていて同時に奉納されたもので間違いないだろう。石塔の正面に施主名。左は一名、中央は當所とあり四名、右は上のほうに大きく四名、その下に小さく十名の名前の名前が刻まれていた。いろいろな人たちがそれぞれに奉納したもののようだ。こちらは右の三基。左の三基とともに六地蔵として造立されたものだろう。三基のうち左の石塔の正面には八名の名前、中央には「女念佛講中」、右の石塔には念佛□□中里村とあり七名の名前が刻まれている。下の台から石塔、敷茄子、蓮台、地蔵像まで六基の地蔵塔はほぼ同じような様子なのだが、頭部だけは変わっている。右から3番目は自然な感じだが、他の5体はいずれも首に補修跡があり、黒ずんだ顔色が異様で、おそらく本来のものではないのだろう。右端の石塔の右側面に當寺現住廿一世代。その横に明治20(1887)再建と刻まれていた。創建は江戸時代後期と思われるが、明治初期の廃仏毀釈のために破損したものを補修・再建したのだろうか。長い石段を登った先に薬師堂が立っていた。堂の前に立派な二対の増上寺石灯籠が並んでいる。薬師堂の左一帯には墓地がひろがっていた。その入り口に二基の石塔が並んでいる。左 名号塔 安永8(1779)角柱型の石塔の正面に「南阿弥陀佛」両脇に造立年月日。右の地蔵菩薩坐像は銘が見当たらず詳細は不明。薬師堂の右手前、コンクリートでできた円柱型の堂?の中に丸彫りの地蔵菩薩立像とそれを取り囲むように多くの超小型の地蔵菩薩像が集められていた。こちらも造立年などは分からないが、そう古いものではなさそうだ。薬師堂の南側に美しい三重塔が立っていた。昭和46年建立という。今の時代にこのような立派な三重塔が建てられたこと、その信仰の力に驚かされる。三重塔とその南にある鐘楼堂を取り囲むように十三仏が配置されていた。こちらもやはりあたらしいもののようだ。よく整備された境内は気持ちがよい。野塩橋東詰遊歩道入口 清瀬市梅園3-11-1[地図]東村山方面から志木街道を東に進み、空堀川の野塩橋を渡る。川に沿って設けられた遊歩道の入口に石塔が立っていた。石橋供養塔 嘉永3(1850)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「石橋他力供養塔」この「他力供養」は初めて見るが、これが何を意味するのかはよくわからない。塔の右側面に造立年月日。左側面には武刕多摩郡 野塩村。その下に世ハ人とあり2名の名前が刻まれていた。西武池袋線東志木街道側道 清瀬市元町2-17[地図]志木街道をさらに東に進み、西武線をくぐって越した先の交差点の少し手前、側道の植え込みの端に石塔が北向きに立っていた。馬頭観音塔 文政11(1828)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。さらに両脇に多摩郡 野塩村。左側面には願主 個人名が刻まれていた。
2022.11.15
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は沼影観音堂の石仏、長くなりますので二回に分けて紹介します。沼影観音堂 南区沼影1-6-30[地図]JR武蔵浦和駅の南を通る「田島通り」を西に進むと、250mほど先の信号交差点の右手前に沼影観音堂があった。参道の先、幟立ての向こうに観音堂。入口両脇に大きな二基の丸彫り重制が立っている。入口右脇 地蔵菩薩塔 享保17(1732)重厚な敷茄子、蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。錫杖の先を欠き、首に補修跡があるが、彫りはきれいに残っていて、尊顔は峻厳、堂々たる佇まいはやはり享保期の地蔵菩薩塔らしい。石塔の正面に「三界萬霊」右側面に造立年月日。左側面に天下泰平、國土安穏。裏面にも銘があった。右から 信州善光寺浅草観世音。中央に「奉納四十八度供養」左に武刕足立郡沼影村。さらに願主一名の名前が刻まれている。入口左脇 正観音菩薩立像 元文4(1739)左手に未敷蓮華を持ち、右手は一部破損しているが与願印。塔の正面「一切供養」左側面に造立年月日。右側面には武州足立郡笹目郷。続いて願主二名の名前。さらに施主 村中。裏面には偈文が刻まれていた。聖観音塔の裏、東向きに庚申塔 宝永5(1708)大きな角柱型の石塔の上に青面金剛像付きの四角い台が乗る。角柱型の石塔の正面、梵字「ア」の下に「奉造立庚申像爲二世安樂也」両脇に造立年月日と願文。下部に施主9人の名前。右側面に武蔵國足立郡笹目領沼影村と刻まれていた。四角い台の上の青面金剛は蛇冠、釣り目で口をへの字にした忿怒相。たぶん六臂と思われるが、合掌手以外は破損、右上の手に棒のようなものを持っているように見えるがこちらも判然としない。台の正面に頭を右にした邪鬼が横たわり、その下に三猿が彫られている。一見坐像に思える青面金剛だが、台の上にあぐらを組んでいるのではなく、ただセメントで接着した形、腹部から下は確認できなかった。断裂した立像の上の部分を角柱型の石塔に乗せたのではないだろうか。続いて三基の馬頭観音の文字塔で明治28年、明治41年造立。いずれも施主は個人だった。その先の小堂の中 丸彫りの六地蔵菩薩立像 宝暦9(1759)お世話するかたがマメなのだろうか、季節季節でいつも目新しい衣装。この冬はマフラーを巻いていた。左端の台の正面に造立年月日。さらに願主二名の名前。続く二基は「講中」とあり、その下に数名の名前。右の三基。右端には戒名と命日が、残りの二基はやはり「講中」その下に数名の名前が刻まれている。小堂の右脇 地蔵菩薩立像 明和4(1767)こちらはビニール傘をさしていた。厚い衣装に覆われ露出部分がほとんどないが、尊顔はふくよかで慈愛に満ちている。台の正面 梵字「カ」の下に「十方施主二世安樂」その両脇に造立年月日。左側面に願主一名の名前。右側面に沼影村と刻まれていた。
2023.04.08
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら国道16号線の北の加倉、本町、仲町の石仏は以前紹介しましたが、今回から国道16号線を渡り南の地域に移ります。加倉の南、東北道の西の谷下から見てみましょう。加倉(西)交差点南の三差路 岩槻区谷下74向国道16号線の加倉(西)交差点から南に入り500mほど進むと道路西側、三差路の角に石塔が立っていた。この道路は綾瀬川沿いに横根方面に向かうことになる。庚申塔 元禄12(1699)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背右、白カビの中「奉造立庚申二世安樂所」光背左に造立年月日が刻まれていた。塔の下部もすっかり白くなっている。足下にM字型の邪鬼。その下に可愛く三猿。その横にちょこんと二鶏を彫る。三猿の下の部分には谷下村 同行 拾三人と刻まれていた。その左脇に小さな石塔が立っている。馬頭観音塔 明治33(1900)正面はかなり摩耗が激しく文字は不鮮明。中央にうっすらと「馬頭」と見える。両側面にも文字らしい跡がみられるがうまく読めなかった。谷下公民館 岩槻区谷下277さらに500mほど進むと右手に久伊豆神社がある。その向かい側、谷下公民館の敷地の隅に祠が立っていた。祠の中 蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像 寛政11(1799)台の正面に願文。左側面に造立年月日。その脇に本州崎玉郡谷下村。さらに久伊豆山大聖院寓大通拝請と刻まれていた。祠右前に敷石供養塔 弘化2(1845)正面「奉納敷石」その下に氏子中。右側面に造立年月日。左側面には世話人とあり二名の名前が刻まれている。妙見橋北路傍 岩槻区谷下329南谷下公民館からさらに南へ300mほど歩くと道路右手の路傍に唐破風笠付角柱型の庚申塔が立っていた。後ろは綾瀬川の土手道。庚申塔 弘化2(1845)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。二匹の邪鬼の頭を踏んでいる。下の台の正面に岩槻独特のフリーな三猿。塔の右側面に造立年月日。台の右側面に十数名の名前。塔の左側面に谷下村講中。台の左側面にはこちらも十数名の名前が刻まれていた。
2016.11.20
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら 今日は普光明寺のもうひとつの「埋め墓」三本木墓地の石仏を見てみましょう。三本木墓地 新座市大和田3-2川越街道「新座バイパス」の大和田交差点から「三本木通り」を西に向かう。このあたりは最近整備された地域で道路も驚くほど広く大型商業施設、大型倉庫が並んでいる。300mほど先の信号交差点の角に、裏の倉庫の駐車場かと思うほど広々したオープンスペースがあって、その入口両側に二体の大きな丸彫りの石地蔵が向き合うように立っていた。入口左奥、コンクリートで囲まれた円形の塚があり、その真ん中に石塔が立っている。手前には線香立てが設けられていて、どうやらこの一角が「三本木の埋め墓」のようだ。これまでにも岩槻区古ケ場の永福寺、岩槻区上野の宝生院、南区松本の真乗寺など、いくつか「両墓制」をとるお寺の墓地を見てきたが、前回見た「ハケ上の埋め墓」とこちら、このような二か所の埋め墓を持つ例は記憶にない。入口左 地蔵菩薩立像 享保12(1727)台付きの石塔の上に蓮台に立つ地蔵菩薩像が載って、これも2mを超す大きな地蔵菩薩塔。大和田にはこのタイプの立派な丸彫りのお地蔵様が本当に多い。それだけ豊かだったということなのだろう。像は欠損なく風化もほとんど見られなかった。石塔の正面、中央に「奉造立地蔵尊念佛供養 欽白」両脇に造立年月日。塔の右側面 武州新座郡大和田町結衆。左側面には本願とあり、上宿女中念佛講三十人、中宿 念佛講二十人、本村 念佛講八人、二親菩提 志 十四人、上宿 志 七人と刻まれている。総勢79名になり、これは村中が協力して造立されたものといえよう。前回見た「ハケ上」の高地蔵の脇の解説に『享保年間に町の両端に一対の地蔵菩薩が置かれ』とあるが柳瀬川近くに置かれていたというのはこのお地蔵様だったのではないだろうか。地蔵像の様子も、石塔部の銘も両者はとてもよく似ていて、造立年も近い。『その後英橋の工事に伴い観音堂の前に移設』と解説されていたが、現在観音堂の前に立つお地蔵様よりもこちらのお地蔵様のほうが高地蔵の相手としてふさわしいように思うのだがどうだろう。入口右には三基の石塔が西向きに並んでいた。右端 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)丸彫り像には多少白カビが見られるが、大きな欠損もなく比較的美しい状態を保っている。蓮台の下に大きな球形に近い厚い敷茄子、その下に反花付きの大きな台。全体では3mにもなるだろうか。雄大なスケールを誇るお地蔵様である。蓮台の正面の花弁に梵字「カ」その下の丸い敷茄子にぐるりと銘が刻まれていた。正面には「奉造立地蔵尊像一基」その両脇に造立年月日。右下 地蔵講 念佛講、左下には惣村中。右のほうに回ると武州新座郡大和田町、さらに裏のほうには石工名、左のほうには供養導師普光明寺住承玄 大和尚 敬白と刻まれている。大きな台の上の面にはいたるところにくぼみ穴が穿たれていた。小さな石のかけらも多く積まれ、人々がお地蔵様に願をかける様子が目に浮かぶようだ。その隣 百ヶ所観音順礼供養塔 安永5(1776)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に合掌する観音菩薩坐像を浮き彫り。その下、中央に「奉順禮 坂東西國秩父 百箇所」両脇に天下泰平 國土安全。右下に武州新座郡大和田町、左下に造立年月日が刻まれている。塔の両側面、下のほうにそれぞれ六名、合わせて12名の名前が刻まれていた。左 普門品供養塔 文化10(1814)角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「普門品供養塔」両脇に天下和順 日月清明。塔の左側面に造立年月日。その脇に武蔵國新座郡大和田町 連経講中と刻まれている。塔の下の台は三段になっていた。真ん中の台の正面には蓮の花を線刻。その右側面、左に世話人四人の名前が刻まれ、続いて11名の名前、左側面にも14名の名前が刻まれている。全部で30人ほどの連経講(=観音講)だったようだ。
2020.04.23
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は蕨市南町の庚申塔を見てみましょう。飯倉家庚申塔 蕨市南町4-5下蕨公民館のすぐ東の交差点の北東角にある住宅の庭園の中、ブロック塀の裏のあたりに立派な庚申塔が立っていた。庚申塔 寛政4(1792)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく全体のバランスもよく美しい。頭上に蛇、三眼の青面金剛、足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は大型でコミカルな表情を見せ、三猿は額のしわまで表現されている。塔全体の状態もよく、よっぽど大事にお世話されてきたものなのだろう。塔の右側面に年号。左側面には 右ハぜんかうじ道と刻まれていた。台の右側面に講中二十一人 願主 個人名。台の正面 右には四行に分けて28文字の銘文が刻まれ、その左脇には 右 ぜんこうじ道。二ヶ所に刻むのはあまり見ない。脇に立つ蕨市教育委員会の解説板。銘文の意味などがわかりやすく大変親切だ。亥子角(いねずみ)堂墓地 蕨市南町3-27JR京浜東北線の線路沿い、蕨第一中学校あたりから西川口方面に歩くと、角のところに亥子角堂の墓地がある。その塀の中に庚申塔が立っていた。庚申塔 元禄14(1701)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足の両脇に二鶏を彫る。足元には邪鬼が見えるがあまりはっきりせず存在感が薄い。光背右には年号。左に武州足立郡戸田領塚越村講衆と刻まれている。「塚越」は現在ではJRの京浜東北線の東の地域の町名になっているが、現在の中央、南町などの地域は昭和の時代まで大字塚越と称していたようで、江戸時代には塚越村は相当大きな村であったらしい。下部には正面向きの三猿。その下に十数名の名前が刻まれていた。蕨市の石仏シリーズもいよいよ次回で最終回。これで戸田市・川口市・蕨市とさいたま市の南に隣接する地域をほぼ回ったことになります。次はいよいよ岩槻区にしようかと思って準備をしているのですが、やはり遠い地域なのでゆっくり時間が取れる日曜日しか使えず、まだ少し時間がかかりそうです。さてどうなるでしょうか?
2015.05.19
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら大袋駅の西にある釈迦堂墓地。ここは石仏の数が多いので2回に分けて見てみましょう。袋山釈迦堂墓地 越谷市袋山245東隣東武線大袋駅の西口からまっすぐ西に向かう大きな道路、二つ目の信号を左折して南へ200mほど進むと、変則的な三差路の角の所に古峯神社の祠が立っていた。同じ敷地内に釈迦堂があり、その南が比較的大きな墓地になっている。その入り口付近、釈迦堂の建物のすぐ南に十数基、写真左手方向の一角にまた数基、庚申塔をはじめとして多くの石塔が集められていた。釈迦堂の南、前列後列とも六基の石塔、昭和61年にこちらに整理されたものらしい。たまたまお会いしたご婦人の話では、あちこちに倒れていたりしたものを、ご先祖様が大事にしていたものだからと、みんなで話し合ってきれいにして立て直したものだという。前列左から 板碑型の墓石 寛文12(1672)は「不生位」とあり僧の墓石、その隣の丸彫りの地蔵菩薩立像 天保3(1832)は個人の供養のためのものだった。前列3番目 庚申塔 延享4(1747)駒型の石塔の正面 日月雲「奉供養庚申塔」両脇に造立年月日。その下に講中13名の名前が刻まれている。前列の石塔の前にはいずれも線香立てが置かれていて、石塔の下部を正面から見ることが難しい。横から覗くとそこには小さな三猿が彫られていた。前列4番目 不動明王立像 正徳2(1712)剣と羂索を手にヌっと立つ不動明王は、江戸時代初期らしく素朴ながら不気味な迫力を感じさせる。舟形の光背上部に炎を表し、右脇に助久法師 不生位。その下に施主は個人名。左脇に造立年月日が刻まれている。こちらも僧侶の供養のために建立された石仏のようだ。前列5番目 名号塔 天保2(1831)角柱型の石塔の正面に「南無阿弥陀佛」塔の右側面に造立年月日。左側面には袋山村とあり世話人三名の名前が刻まれていた。下の台の正面、両側面それぞれに十数名の名前。三面を合わせると五十数名という大人数になる。前列右端 地蔵菩薩立像付き供養塔 天保12(1841)角柱型の石塔の正面上部を舟形に彫りくぼめて、その中に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像を浮き彫り。その下は白カビの付着が著しく文字はうまく読めないが、梵字の文が三行に渡って刻まれているという。塔の左側面は無銘。右側面には造立年月日が刻まれていた。後列左端 庚申塔 享保3(1718)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。第2手、第3手の付き方が「川口型」に似ていて面白い。口をへの字にした邪鬼は頭を向かって右のほうにして横たわる。右脇「奉供養庚申待講中二世安樂攸」左脇に造立年月日。塔の下部は線香立ての陰になっていて見えない。不満顔をした邪鬼の下に比較的大きな三猿。その両脇に二鶏もしっかりした彫り。さらにその下の部分に袋山村とあり8名の名前が刻まれていた。後列2番目 庚申塔 正徳3(1713)舟形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の足が邪鬼の背中まで届いていないようにも見える。頭を左にして横たわる邪鬼の下に三猿。こちらは二鶏は見当たらない。塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。さらに「奉供養庚申講中二世安樂攸」その下に袋山村と刻まれていた。後列3番目 庚申塔 寛文8(1668)板碑型の石塔の正面を窓型に彫りくぼめた中、上部には金剛界大日如来を表す梵字「バン」の下「奉造立庚申待結衆所願成就所」その両脇に造立年月日。中央をさらに彫りくぼめて大きな三猿を彫る。三猿の下には大願 袋山村とあり、11名の名前が刻まれている。後列4番目 庚申塔 享保19(1734)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足の両脇に二鶏。足元に邪鬼。さらにその下に三猿。左の猿だけが内を向き、残りの二匹の猿が正面を向くという構図は珍しい。塔の左側面「奉待庚申講中為二世安樂」その下に9名の名前。右側面に造立年月日。その下にはひらがなで12名の名前が刻まれていた。男女混合の庚申講中だろうか。後列5番目 庚申塔 宝暦9(1759)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは厚く力強い。大魔神のような風貌の青面金剛。足の両脇に立派な二鶏。足元の邪鬼は正座をして踏みつけにされている。その下に三猿。さきほどの享保19年の庚申塔の三猿と同じように左の言わ猿だけ内を向く形。面白い。塔の左側面に造立年月日。その下に5名の名前。右側面に「奉供養庚申塔」その下には袋山村 四丁野組とあり、やはり5名の名前が刻まれていた。後列右端 庚申塔 宝永3(1706)正面に日月雲を彫った唐破風笠。角柱型の石塔の正面 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足の両脇に二鶏を薄く浮き彫り。足元の邪鬼は頭を右にして寝そべる。その下に三猿。三猿の下の部分に13名の名前が刻まれている。塔の左側面に造立年月日。その左下脇に武州埼玉郡越ケ谷領袋山村。右側面 梵字「ウン」の下「奉供養庚申待講結衆二世安樂攸」その左下に2名の名前が刻まれていた。
2017.09.28
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら現在の蒲生、登戸、瓦曽根が明治時代までは旧蒲生村だったようです。今日は蒲生の北の地域、登戸から報土院の石仏を見てみましょう。 報土院 越谷市登戸町20県道115号線を北上するとやがて武蔵野線を陸橋で越えるが、その500mほど手前、西に入ると県道とほぼ並行するように不動道の古道が走っていて、この古道に向いて報土院の山門が立っていた。蒲生小学校の東になる。本堂の右側が墓地になる。その入り口に六地蔵の小堂が立っていた。六地蔵菩薩立像 元禄17(1704)形の良い舟形光背を持つ六体の地蔵菩薩像。サイズなどもそろっている。六体とも同じ銘が刻まれていた。光背右脇「為奉造立六地蔵二世安樂□」左脇に造立年月日。300年以上たっても当時のまま六地蔵像が残っているということになるのか。六地蔵尊の小堂の右脇に立つ大きな駒型の石塔は巡礼供養塔 文化6(1809)正面中央「奉供養四國西國秩父坂東順礼為國家安全二世安樂。右脇上部に造立年月日。その下に先祖代々精霊とあり、さら下部には三つの戒名。左脇には願主 當村孫右衛門 行年七十八歳。個人による造塔だろうか?六地蔵尊の小堂の裏に多くの石塔が並んでいる。写真右の四基の石塔は個人の墓石だった。左から見てゆこう。左端は名号塔 天保12(1841)角柱型の石塔の正面中央に「南無阿弥陀佛」塔の左側面「三界萬霊 六道四生 有縁無縁 平等利益」右側面には豊後之産新里郡豆田町 大超寺弟子立之。さらに造立年月日が刻まれている。2番目 馬頭観音塔 寛政6(1794)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音菩薩」塔の左側面 心願主 當村 平左衛門立ル。右側面に造立年月日が刻まれていた。3番目 馬頭観音坐像 安永9(1780)舟形光背に三面六臂 忿怒相の馬頭観音坐像を浮き彫り。額の上の馬頭もはっきり彫られていた。塔の右側面に造立年月日。左側面には「是畜馬菩提之塔」と刻まれている。4番目 庚申塔。造立年月日不明。光背の上部を大きく欠く。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足元は足元は磐座で邪鬼はいない。元禄期の庚申塔によく似た例を見るがその頃のものだろうか?下部には大きな三猿が彫られていた。光背右脇に「成就所」と見える。銘の下の部分だろうが、この文字の位置から考えると、破損する前の本来の光背は相当大きかったものと考えられる。右端 庚申塔 享保15(1730)こちらも光背の多くの部分を欠いている。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。キツネのような顔立ちの青面金剛。頭上には蛇がとぐろを巻く。頭の右脇「奉供養 庚申講 所願成就」左脇に造立年月日。足の右脇に同行、左脇に女中三十人と刻まれていた。足元に邪鬼。両脇に小さく二鶏。その下に彫られた三猿は白カビも多くあまりはっきりしない。
2018.03.26
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は埼京線の板橋から旧中山道を歩き、仲宿から板橋本町、本蓮沼方面。予定では戸田橋まで頑張ろうと思っていたのですが、雨が降り始めたためバスに乗り赤羽経由で引き上げてきました。昔栄えた街道沿いですから、庚申塔など多くの石仏を見ることができました。一部を紹介します。観明寺 板橋区板橋3-25旧中山道、仲宿商店街に入ってすぐ右手に観明寺がある。参道の入口付近小堂が立っていた。小堂の中には庚申塔が祀られている。牢屋に閉じ込められた、そんな風景だ。庚申塔 寛文元年(1661)笠付角柱 日月雲 青面金剛立像 剣ショケラ持ち六臂。脇には二童子を従えている。足元に二匹の邪鬼の頭。その下では一匹の猿と雄鶏が向かい合っている。これは珍しい構図だ。右側面「奉新造立正面金剛尊像一躰現當二世安楽所」右脇に年号。左側面には武州豊島郡下板橋結衆本願と刻む。赤い山門を入ると、左側の塀の前にも石仏が並んでいた。左端 聖観世音菩薩立像 寛文7(16647)舟形光背 光背左に年号。施主敬白。右脇に「奉新造立観音尊像為二世安樂所」と刻む。隣に 不動明王坐像 年号など詳細は不明。二童子の頭部は破損している。あとは宝筐印塔、個人の墓標などが続く。遍照寺 板橋区仲宿40-7さらに旧中山道を進むと右手に遍照寺がある。その入口に標石 明治42(1909)正面に「弘法大師霊場」右に豊島八十八ヶ所 七十一番。左脇下に旭不動。右側面 浅草左衛門町 板橋町停車場前 願主 女性二名の名前を刻む。参道の左側、多くの馬頭観音塔と庚申塔が並んでいた。手前 馬頭観音塔 大正12(1923) 奥 大正2(1913)個人のもののようだ。馬頭観音立像 寛政10(1798)笠付角柱 忿怒相二臂。両脇 天下泰平 國土安全。像の下部にはさらに宿内安全と刻む。下の台の正面 當宿馬持中。さらに馬頭観音塔 明治41(1908)境内は宿場時代の馬つなぎ場だったらしい。庚申塔 宝永6(1709)角柱 正面に「奉供養庚申講中為二世安樂所」周りにも文字があるがうまく読み取れない。下部に三猿。両側面にそれぞれ数人の名前を刻む。庚申塔 寛文8(1796)上部の一部を欠く。日月雲「奉造立為庚申供養塔」下部に三猿。さらにその下に結衆5名の名前を刻む。
2014.11.09
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今日は南区内谷の石仏です。一乗院 南区内谷3-7[地図]県道79号線の曲本交差点から200mほど南、一乗院の入口にお地蔵様が立つ。地蔵菩薩立像 享保14(1729) 「内谷村講中」とある。20m程入ったところ。大型の地蔵菩薩立像が立っている。切れ長の目がいい。台座を見ると内谷村ほか多くの村々の人たちによって建立されたことがわかる。残念ながら造立年は確認できない。朱塗りの仁王門。明和5年(1768)の建立。この門を入った裏側に板碑が並ぶ。その中で目を引くのは 弥陀三尊図像板碑 明応4(1492) 真ん中に阿弥陀如来その下に勢至菩薩と観音菩薩が線刻され、真ん中に奉月待供養と読める。仁王門を入って右手、庭木の間に大型の石灯籠 享保13(1727)が立っている。東光寺 南区内谷4-17[地図]県道をはさんで一乗院と反対側、東に100m程のところに東光寺がある。門を入って左側に地蔵菩薩、六地蔵が立っている。今朝、散歩の途中に寄ってみたら六地蔵も冬支度で衣替えされていた。こちらも今朝の地蔵菩薩立像 風化が進み杖の部分や顔が修復されている。六地蔵の脇に普門品一万巻供養塔 明和2(1765)が立っている。上部をアップする。掘られているのは如意輪観音坐像。普門寺 南区内谷5-16[地図]内谷の最南端。美女木2の交差点の東あたりに普門寺がある。門を入ってすぐ右側に石仏が並んでいる。地蔵菩薩立像 安永(1776) まぶたが腫れ気味でリアルな表情である。地蔵菩薩立像 延宝5(1677) 夏念仏供養塔 年代の割りにきれい。墓地の奥に無縁仏が集められている。その中に板碑がいくつか見られる。下部が欠けているものが多い。大聖不動尊県道79号線曲本交差点のあたりで県道から東に斜めに入る道沿い。旧道か?お堂の隣に忘れられたように佇んでいる。地蔵菩薩立像。風化が進んでいる。路傍の石仏南区内谷1-5[地図] 新大宮バイパスの西。排水路沿い。ここは新大宮バイパスの抜け道として使う車が多くゆっくり写真もとれないほど。庚申塔 天明2(1782)笠付のため比較的保存はいい。合掌型六臂。南区内谷1-8[地図]上の庚申塔がある場所から100m程南の角。ひっそりと地蔵菩薩立像 安永5(1776) 念佛講中四名の名が刻まれている。南区内谷4-18[地図」県道79号線、一乗院入口の向側。東光寺へ入る路地脇と書かれた祠の中に祀られた庚申塔 元文2(1737)青面金剛立像 頭上に蛇の冠 恐い顔をしている。ショケラ持ち六臂下部に一邪鬼二鶏三猿が揃う。特に猿が可愛らしい。
2013.12.04
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は本町の路傍の石塔を見てみましょう。中道子育て地蔵 志木市本町6-24-32県道113号線 柏町5丁目交差点から南に入り50mほど進むと左手角に小堂がある。中には大きなお地蔵様が祀られていた。地蔵菩薩立像 正徳5(1715)像だけで2m近く、台も含めると3mほどだろうか。蓮台の下の台の正面 中央は上部が削れているが「奉造立地蔵菩薩」と思われる。両脇には造立年月日が刻まれていた。台の右側面には導師とあり僧名が刻まれている。台の左側面 中央に武州新座郡舘村 右脇 為二世安樂 左脇 施主中とあった。当時これだけの大きな地蔵像を作るのは、やはり大変だっただろう。西川地蔵堂 志木市本町3-2-28柳瀬川と新河岸川が合流するあたり、かつての「引又河岸」市場坂上交差点から志木駅方面へ向かう本町通りは、かつてかなり栄えた宿場町だったということで、現在でも数軒の古い商家が残っている。この本町通り 本町3丁目交差点の50m北、東側路傍に真新しい小堂があり、ここにも大きなお地蔵様が祀られていた。地蔵菩薩立像 正徳5(1715)やはり像が2mあまり、台を含めると3mほどになる。かなり古いものだが美しい状態を保っている。蓮台の下の台 正面中央に「奉造立地蔵尊為頓證菩提也」右脇に武州新座郡引又邑左脇に 施主は西川四郎左衛門。これだけの地蔵菩薩像を個人で造立したというと相応な財力はもちろんのこと、厚い信仰心をあわせ持っていたということだろう。台の左側面には年号。中道の子育て地蔵尊と同じ正徳5年の造立である。幸町の「大塚延命地蔵尊」(2015.05.27の記事)も同じ正徳5年の造立だった。この地域で三体の大型の地蔵像があいついで造立されたのはなにか理由があるのだろうか?本町薬局前 志木市本町2-4-43本町通り 市場坂上交差点と本町1丁目交差点の真ん中付近、道路東側に「薬舗」という看板を掲げた朝日屋原薬局がある。明治大正期に栄えた薬局の典型として母屋、土蔵など建築物が国の登録文化財になっているらしい。店先の道路脇に角柱型の大きな石塔が立っていた。それぞれの面に大和田町、浦和町、與野町など近隣の町への里程が刻まれていた。続いて膝折村、大井村、川越町。裏面を見ると明治44(1911)の建立。塔の前後に埼玉縣 志木市とある。行政がこれを作ったとすると、市内、県内の違った町にも同じような道標がある可能性もあるが、ちょっと記憶にない。
2015.06.10
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら以前、岩槻区の石仏の取材のおり、何回か鹿室から県道154号線で蓮田を通って浦和まで帰ってきたことがありました。その沿線に庚申塔などが見られましたが、時間がなくゆっくりとは確認できませんでした。今回はそのあたりに再チャレンジです。県道154号線は蓮田駅の東から元荒川沿いに走って東北道の下を通り、その先の川島橋で元荒川を渡り鹿室方面に向かいます。沿線の石仏を二回に分けて見てみましょう。 蓮田岩槻バイパス九台交差点北路傍 蓮田市東2-3蓮田駅東口から線路沿いの旧道を東へ進むと、やがて蓮田岩槻バイパスに出る。交差点の角のところに大型の石塔が立っていた。庚申塔 安永4(1775)宝珠を載せた唐破風笠を持つ角柱型石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛は岩槻で多く見かけたものとそっくりだ。中央に大きく髪を束ねその先が右に折れていて、さらに左右両脇に小さく髪を束ねる。有名な岩槻石工の作品のようだ。足下には組んだ両手の上に頭を乗せ、達磨のように丸まった邪鬼。その両脇に二鶏。三猿は両脇が内を向く。これもこのタイプの青面金剛の基本的な形だ。塔の左側面は道標になっていた。上のほうに 南とあり、右 志”おんじ、左 こむろ こばり、こうのす、はらいち道。左側面の中央に造立年月日。こちらも道標になっていて、上に 北とあり、右 こばり、左 志”おんじ。右下に武州埼玉郡上蓮田村講中 同村中。左下には願主 個人名が刻まれていた。元荒川右岸 道路沿いの塚の麓 蓮田市川島777付近バイパスを越えて進むと元荒川に出る。ここを右折して元荒川右岸沿いの道を300mほど進むと、道路右側に結構大きな塚があって、その麓に庚申塔が立っていた。庚申塔 宝永3(1706)おだやかな形の舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭の宝冠の中央から蛇の頭が垂れている。眉を顰め口をへの字にした青面金剛。六臂だが合掌手以外の二組の腕はサイズが小さく肩のあたりについていて、遠目にみると天使の翼のようにも見えた。第2手左手は宝輪を持つのが普通だが、ここでは羂索を持つ。右脇に「奉造立庚申現當□□堅固諸願成就所」左脇に造立年月日。その下に武州埼玉郡厳築領川嶋村。「厳築領」を調べたがこれはよくわからなかった。足元には正面向きでM字型に腕を張る邪鬼と、やはり正面向きの三猿。「岩槻型」の下部とよく似ている。風化の為にはっきりしないが三猿の両脇は二鶏か?最下部にははっきりとした字で8名の名前が刻まれていた。あと5時間ほどで新年です。また来年もよろしくお願いいたします。
2018.12.31
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら33P目 治水橋の南、荒川河川敷にある地蔵堂脇の六字名号塔 天明2(1782)角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下に「南無阿弥陀佛」「無」と「陀」は異体字になっている。治水橋の途中から南へ入り、荒川の河川敷に降りてゆくと、その一帯は多くのグラウンドが集まる「運動公園」のようになっていて、池のそばの塚の上に地蔵堂が立っていた。堂の左脇に四基の石塔が並んでいる。右端がスケッチの名号塔で、他の三基は墓石だった。六字名号塔 天明2(1782)角柱型の石塔の正面 大きく「南無阿弥陀佛」その上には薄く阿弥陀三尊種子。両脇に 天下泰平 日月清明と刻まれていた塔の右側面は無銘。左側面上部に武州足立郡二ツ宮村。裏面中央には表と同じような大きな文字で「億百万遍供養塔」その両脇に造立年月日。下部に薄く願主数名の名前が刻まれていた。
2019.08.07
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら26P目は浦和区大東2丁目 不動堂の不動明王坐像。こちらは2019年7月27日の記事で紹介している。27P目 大宮区土手町 四恩寺裏 堂の中に祀られる閻魔大王坐像 宝暦14(1764)スケッチは細部まで実に丁寧に描写されている。中山道の一本東の通り、大宮税務署の南に日蓮宗の寺院 四恩寺がある。入口からお寺の脇を通り裏に回る。右手には墓地が広がっていた。お寺の裏には塚があって、石階段の先の閻魔堂の中にスケッチの閻魔大王像が祀られている。お堂の中は意外に狭く、前のさい銭箱にも邪魔されて、閻魔像の全体を写すことはできなかった。詳細については酒井さんのスケッチを鑑賞していただきたい。28P目は中央区上峰、大宮バイパス上峰交差点角に立つ閻魔大王の文字塔 文化14(1817)2020年1月23日の記事の庚申塔の前に立っている。29P目 東京都豊島区雑司ヶ谷 鬼子母神堂境内に立つ石像の鬼子母神像 明治13(1880)鬼子母神堂の本尊の鬼子母神像は木造で本堂内に安置されている。10年ほど前にこちらを訪れた時は池袋駅のほうから歩いていったので、境内の裏の入口から入り、東のほうを回って本堂の正面に出た。その時の記憶ではこちらのスケッチの石像は、本堂の右手の木立の中にひっそりと立っていたように思う。今回は再取材はできなかった。30P目、31P目は調布深大寺の石仏。今回は未取材のためスケッチのみ見ていただく。「角大師」というのは初めて聞いた。31P目は「お賓頭盧様」の坐像。過去には川口市西立野の西福寺などで見たことがあるが、確かに数はそう多くない。いずれ折を見て上の「角大師」と一緒に取材してみようと思う。32P目 中央区大戸3丁目 大戸不動尊の猿田彦大神塔 天保14(1843)酒井さんのスケッチでは門前となっているが、私が見た時には門の中、すぐ左側に立っていた。大戸不動尊は境内に多くの庚申塔をはじめ貴重な石仏が並んでいて、これをすべてここで紹介するのは難しい。境内の庚申塔などについては2014年1月15日の記事で結構詳しく紹介しているので興味のある方はそちらの記事を見てください。33P目は長野県 木曽の御嶽山のふもとの双体道祖神。さすがにここまでは取材には行けない。道祖神は全国広い範囲に分布しているが、なかでも関東甲信越地方に多く見られるという。34P目は 岐阜県の馬籠宿の道祖神。木曽11宿の一番南の宿場町で島崎藤村の「夜明け前」の舞台となった馬籠宿。山深い木曽路を旅する人たちもこの道祖神を目にしたのだろうか。35P目 中央区上峰 円福寺釈迦堂脇に立つ弁財天供養塔 宝永5(1708)角柱型の石塔の上に八臂の弁財天坐像が乗る。こちらは2019年12月13日の記事の中で紹介している。
2020.03.26
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は馬場3丁目の石仏を見てみましょう。稲荷会館 新座市馬場3-3前回見た石塔があったところから少し南、住宅街の中に稲荷会館、同じ敷地内に稲荷神社がある。入口から入って右手、コンクリートでできた鉄格子付きの小堂の中に石仏が並んでいた。左 地蔵菩薩坐像 文安3(1446)きれいなカーブの舟形光背に蓮座に座るユーモラスな風貌の地蔵菩薩像を浮き彫り。長い柄の錫杖も宝珠も欠損なく残されていて驚く。光背上部に「敬白」右脇に「奉月待」続いて「一結衆□」左脇に造立年月日が刻まれていて、この地蔵菩薩像は室町時代の1446年に月待講中によって造立された「月待塔」ということになる。地蔵菩薩像としても月待供養塔としても、これほど古いものを目にしたことがなかったので、改めて調べてみた。「月待信仰」は文献資料では室町時代から確認され、江戸時代以降に全国的に流行したものだという。これまでに見てきた二十三夜塔の文字塔や、如意輪観音像が浮き彫りされた十九夜塔、二十二夜塔などは、いずれも江戸時代造立のものだった。室町時代のものとしては富士見市にある嘉吉元年(1441)の月待板碑が日本最古と言われていて、それ以後も同じような月待板碑が多く造立されたらしい。そんな中で、室町時代に板碑ではなく刻像塔の月待供養塔というのは大変貴重なもと言えるのではないだろうか。もしかすると日本最古の刻像塔の月待供養塔になるのか?全国を調べてみないと本当のところはわからないが・・・右 地蔵菩薩坐像 元治元年(1864)舟形光背に地蔵菩薩坐像を浮き彫り。光背右脇に造立年月日。左脇に良真法師、墓石だろうか。石塔下部、右端に片山 中沢村とあり、五名の名前が刻まれていた。市場坂橋北 新座市馬場3-8県道36号線の大橋交差点から東に向かう「市場坂通り」黒目川に架かる市場坂橋の北の歩道のところに小堂が立っていた。きれいに整備された小堂の中、左側に丸彫りの地蔵菩薩像、右には板橋供養塔 天保7(1836)と二基の馬頭観音の文字塔が並んでいる。地蔵菩薩立像 宝暦3(1753)きりっとしたまなざしで端正な顔立ちだが、首に補修跡があり、頭部は造立当時のものではないのかもしれない。また腰のあたりにも断裂した跡が残っていて、これらの損傷が人為的なものだとしたら、明治初期の「廃仏毀釈」によるものだろうか。石塔の正面 梵字「カ」の下に「奉造立地蔵尊一躰所願成就攸」両脇に造立年月日。さらに右脇には武州新座郡片山中沢村、左脇に願主惣若者中欽白。塔の右側面には願主 圓心と刻まれていた。
2020.06.05
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら県道36号線北の地域、道場の西は石神になります。今日は3か所、いっぺんに見てみましょう。馬喰橋通りT字路交差点角 新座市石神2-3水道道路、西堀から南へ向かい、県道36号線まで至る「馬喰橋通り」黒目川の100mほど北のT字路交差点の北西の角に二基の石塔が南向きに並んでいた。右 庚申塔 天明元年(1781)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。顔のあたりが白カビに覆われていて様子がわからない。力なく吊るされたショケラは合掌していた。足の両脇に二鶏を半浮彫り。足元には正面向きの邪鬼がM字型に腕を張って青面金剛の重さに耐えている。その下の三猿は風化が進み細部がはっきりしない。塔の左側面に造立年月日。右側面には武州新座郡石神村講中四拾六人と刻まれていた。左の石塔。中央が盛り上がり、たぶん立像が彫られていたように思われるが、さすがにこれだけ風化が進むとその正体は見当もつかない。浄明寺 新座市石神4-2上の庚申塔のある交差点から西へ入って、道なりに500mほど進むと右手に浄明寺があった。参道右手に小堂が立っている。小堂の中、地蔵菩薩立像 安永7(1778)後ろには歴代住職の墓石が集められていた。ふくよかなお顔のお地蔵様。錫杖、宝珠も健在で美しい立ち姿である。蓮台の下、丸みを帯びた石塔の正面「奉造立地蔵尊」左側面に造立年月日。右側面に、施主 武州新座郡石神村中と刻まれていた。小堂の右後ろ 地蔵菩薩坐像 元文3(1738)石塔の上、蓮台に座る合掌型の丸彫り地蔵像が載っている。カビ、風化のため、尊顔ははっきりしない。石塔の正面「大通智勝佛塔」両脇の紀年銘は造立年月日か、または命日だろうか。神宝大橋北住宅 新座市石神3-13黒目川にかかる神宝大橋のすぐ北、道路右側の住宅の駐車場の隅に小堂が立っていた。道路西側は東久留米市になる。小堂の中 庚申塔 貞享5(1688)板碑型の石塔の正面、中央あたりに大型の三猿を浮き彫り。江戸時代初期に見られる「三猿庚申塔」その絶対数は多くはなく、貴重な庚申塔である。塔の上部は欠けているが銘はきれいに残っていた。中央に「庚申供養攸」その両脇に造立年月日。三猿の下の部分、右端に願主だろうか、立譽西運とあり、続けて10名の名前、左端には武州新倉郡石神村と刻まれている。
2020.07.03
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら「川越の石仏」シリーズも前回「宿題」を終えて一応全域クリアとなりました。ホッと一息というところですが、次の地域に移る前に川越の馬頭観音塔についてあらためて考えてみたいと思います。江戸時代後期以降、急速に増える文字塔の馬頭観音塔の多くは馬の供養塔ですが、川越市でよく見られる馬頭観音の像塔は、地蔵菩薩塔や庚申塔と同じように二世安楽を願ったり、故人の追善供養、また日待供養などのための本格的な石仏で、その多くは講中、村中、惣村中によって造立されたものでした。そんな馬頭観音像塔のうち造立年がわかる53基を年代順に並べ直して整理してみたいと思います。全部を通して見比べるために、馬頭観音の顔の様子、六臂・八臂像の場合はその持物は何か?を中心に再度調べ直していますが、これが思った以上の時間がかかりなかなか進みません。とりあえず途中までですが一度記事をアップしたいと思います。(1)長徳寺 川越市仙波町3-31[地図]貞享5(1688)上部に唐破風笠を模した装飾を施した石塔の正面に一面六臂の馬頭観音立像。三眼忿怒相。四つの手に鈷杵・鈴・弓・矢。鈴持ちはごく珍しい。(2)五差路小堂 川越市下松原833向い[地図]宝永8(1711)舟形光背に三面忿怒相六臂の馬頭観音立像。両脇の顔は真横を向く。光背右脇「奉信心日待供養二世安樂所」貴重な日待供養塔である。馬頭観音像としては持物が変わっている。右手上下に弓と矢を持ち、左手は法輪と戟か?(3)明月院 川越市今福671[地図]元文2(1737)舟形光背に一面忿怒相六臂の馬頭観音立像。頭上に小型の馬頭がくっきり。持物は斧・法輪・矢・弓。(4)的場上交差点東路傍 川越市的場448南[地図]元文4(1739)三面忿怒相六臂の馬頭観音半跏坐像、左足を立てている。丸彫りの馬頭観音像は珍しい。胸前で馬口印を結び、腹前で壺を持つ。両側面の腕は右手に矢、左手に弓。(5)南大塚三差路 川越市南大塚6-4[地図]寛保2(1742)舟形光背に三面八臂の馬頭観音立像を浮き彫り。八臂は希少。風化のために顔の様子も持物もはっきりしない。「川越の石佛」では市内最古の馬頭観音塔とされていた。(6)西向き地蔵 川越市豊田本2-14[地図]寛延3(1750)隅丸角柱型の石塔の正面に一面二臂の馬頭観音立像。白カビが多く顔ははっきりしない。(7)下広谷観音堂 川越市下広谷465-3[地図]宝暦9(1759)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像。正面の顔は三眼忿怒相。両脇の顔は慈悲相。矛?・法輪・棒?・数珠を持つ。(8)的中観音 川越市的場1230[地図]宝暦14(1764)大きな舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像。顔はなぜか黒ずんでいて様子がわからない。持物は矛・未敷蓮華・斧・数珠。(9)工業団地南路傍 川越市鴨田2719付近[地図]明和2(1765)舟形光背に三面六臂慈悲相の馬頭観音立像。上左手に未敷蓮華、下左手には数珠を持つ。この珍しい持物の組み合わせは、地理的に離れているが的場の「的中観音」と同一。造立年は1年違いである。光背右脇に「奉建立寒念佛供養」馬頭観音を主尊とする寒念仏供養塔。(10)砂久保共同墓地 川越市砂久保133北[地図]明和2(1765)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像。像は風化の為に表面が丸みを帯び、顔ははっきりしないが慈悲相か?持物は矛・法輪・?・数珠(11)広谷小学校北西十字路角 川越市下広谷795-2向[地図]明和3(1766)駒型の石塔の正面に三面六臂慈悲相の馬頭観音立像。上の手は矛と未敷蓮華、下の手は右手に数珠、左手はよくわからない。この持物の組み合わせは個性的。(12)鹿飼T字路交差点角 川越市鹿飼459向[地図]明和8(1771)舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像。塔全体が白カビに覆われ顔の表情は分からない。また持物も判然としない。(13)高松寺墓地 川越市大中居314[地図]安永2(1773)駒形の石塔の正面 三面六臂の馬頭観音立像。側面の顔は真横を向く。顔は三面とも削られていて様子はわからない。持物は矛・法輪。斧・数珠。(14)稲荷神社 川越市天沼新田144[地図]安永7(1778)大きな駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像。三面ともに三眼忿怒相。持物は矛・法輪・斧・数珠。(15)観音堂 川越市北田島27北[地図]安永8(1779)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音像。顔は今一つはっきりしないが正面が忿怒相、両脇は慈悲相か?矛・法輪・斧・数珠を持つ。(16)石田本郷観音堂墓地 川越市石田本郷578[地図]安永9(1780)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像。正面の顔は削れているが脇の顔を見ると慈悲相らしい。持物は矛・法輪・斧・羂索か?(17)さつき通り三差路 川越市笠幡1969[地図]安永9(1780)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像。三面の両脇の顔はま横を向く。三面とも口をやや「への字」にしていて忿怒相か?矛、法輪、斧、羂索を持つ。今日は安永9(1780)まで、天明元年(1781)以降は次回にいたします。
2021.12.19
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は真福寺の西、柏崎の石仏を見てみましょう。円福寺 岩槻区柏崎827[地図]膝子方面から妙見橋で綾瀬川を東に渡り、そのまま道なりに東に進み東北道に架かる陸橋を降りきった100mほど先、道路左側に曹洞宗の古寺 円福寺の入口がある。急な砂利道の登坂を進むと、正面に立つ山門左脇に、東向きに二基、南向きに四基、合わせて六基の石塔が並んでいた。南向きの四基の左端 供養塔 文政6(1823)隅丸角柱型の石塔の正面に細かい文字で八行の銘文が刻まれている。文字はくっきりと美しい。その右端に「石阪造營之記并銘」と題があった。文政年間に入口からの坂道を整備した記念碑らしい。塔の左側面は白カビが多く銘が読みにくい。右上に造立年月日。続いて横に武州埼玉郡岩槻領柏崎邑 永昌山圎福禅寺現薫十三世寶禅代造立焉。右側面に碑銘造營施主とあり、江府麻布谷街 永昌寺天嶺和尚、浮谷邑 常福寺増海和尚。いずれも曹洞宗寺院であり、円福寺とつながりが深かったのだろう。さらに石阪石工と碑銘石工の名前が刻まれていた。石阪石工は林道町の名石工 田中武兵衛、碑銘石工は本場江戸浅草の桜井氏である。その隣 庚申塔 安永5(1776)四角い台の上の駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の上部は白カビが多い。風化のために像の彫りは甘く一部には剥落もあり、顔の表情、衣装の様子などははっきりしない。頭上は蛇の頭か?ショケラは足を折り曲げ青面金剛の腰のあたりに吊るされていた。足の両脇にしっかりとした二鶏を浮き彫り。足元の大きな全身型の邪鬼は力強く、青面金剛に踏まれながらも動き出しそう。その下に両脇が内を向いて座る三猿。塔の右側面に造立年月日。左側面に施主柏崎村中と刻まれている。続いて 庚申塔 元禄8(1695)四角い台の上の駒型の石塔の正面を彫りくぼめて外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ「岩槻型」庚申塔。しかめ面をした青面金剛。頭上にとぐろを巻いた蛇を乗せる。ショケラは足を折り曲げ横向きに吊るされて顔だけ正面に向けていた。足元に上半身型の邪鬼。M字に広げた両腕の間から丸い顔をのぞかせる。その下に正面向きに肩を寄せ合って座る三猿。塔の右側面「奉供養庚申爲二世安樂也」その右下に柏﨑村。左側面に造立年月日。さらに同行三拾三人と刻まれていた。南向きの四基の右端 念仏供養塔 寛文12(1672)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭上に「奉請」光背上部に斜めに断裂跡が残る。像に大きな欠損はなく、尊顔は知的で穏やか。光背右脇「念佛供養同行三十六人二世安樂」左脇に造立年月日が刻まれている。東向きに立つ二基の丸彫りの地蔵菩薩塔。左は正面に享保9年の命日と大姉戒名。側面にも童子戒名がいくつか刻まれていて個人造立の墓石だった。右 三界万霊塔 享保16(1734)分厚い敷茄子と蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。白カビも少なく大きな欠損、補修跡も見当たらない。反り花付き角柱型の石塔の正面中央に「三界萬霊塔」右下に願主、左下に普門。塔の右側面 左から武州埼玉郡 柏崎村、金二分本村講中。左側面中央に造立年月日。右脇に金三分里戸講中と刻まれていた。この大地蔵菩薩塔は、柏崎村の二つの講の人々が力を合わせって造立したものらしい。山門から境内に入ると本堂左側に墓地が広がっていた。参道左脇、墓地の入口あたりに丸彫りの六地蔵菩薩塔 享保7(1722)右から3番目の地蔵菩薩塔がひときわ小さく不揃いに見えるが、蓮台を欠いているためで像の様子、敷茄子の様子など、全体によく揃っている。下の台の正面にそれぞれ戒名などが刻まれていた。一番右の台の正面 右から持戒講供養 戒師當寺三代 今世後世所永不□ 我㪽説法無有是□。台の右側面 左から柏崎村。続いて上に随喜人とあり、二名の名前。右端に造立年月日が刻まれていた。8年前の記事の中でも書いたが、資料には二基の馬頭観音の像塔が記載されている。当時は時間もなくうまく見つけることができず、いつか再訪したいということにした。今回は時間に余裕があったので墓地内をくまなく見て回ったのだがやはりどうしても見つからない。延享2(1745)年塔は坐像で北谷下村、東柏崎村、南横根村、三村力を合わせての造立。天明8(1788)年塔は施主二名の造立だが舟形光背に立像を浮き彫りした観音菩薩塔。個人造立の文字塔のように廃棄される可能性は低いと思うのだがどうだろうか?久伊豆神社南 岩槻区柏崎771[地図]円福寺の道路を隔てた南は大きな塚になっていて、塚の上に柏崎の久伊豆神社がある。円福寺の入口から道を横切って塚の右の非舗装路を進むと、道は塚の周りをぐるっと回り、その先は東の柏崎小学校の南に出る。塚の最南端のふもとに石塔が立っていた。庚申塔 天保11(1840)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の台は一部土に埋まっていた。衣装の裾が大きく跳ね上がる。このような技巧的な細かい彫りは江戸時代後期の特徴と言えるだろう。波立つ髪の中には蛇が首を垂れ、その下に見えるのは人面か?ショケラは長い髪をつかまれ、正面向きに合掌していた。足元に二匹の上半身型の邪鬼。狛犬のような顔は岩槻区に入ってからよく見かける。下の台の正面に三猿が彫られているが、以前に比べると土に多く埋まってしまい、中央の聞か猿の頭だけが目立つが残りの猿ははっきりしない。8年前の写真を見るとハッピを着ていたのだが・・・(2016年12月の写真)塔の右側面に造立年月日。左側面に柏﨑村講中と刻まれていた。
2025.03.05
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