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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら「越谷の石仏」シリーズの最中ではありますが、今日は番外編です。沼袋の実相院に珍しい勢至菩薩立像があるというので、早朝に何回か寄ってみたのですがいつも門が閉まっていました。なんとか見てみたいと思い12月31日のおおみそかに来訪して、やっと境内の石仏を拝見することができました。写真の整理を兼ねて簡単に紹介させていただきます。今回は写真中心でご覧ください。実相院 中野区沼袋4-1駅近く、細い道に面して実相院の山門が立つ。正月に備え門松が立っていた。正面に本堂。参道左右に石組が見える。参道左には十数体の石仏が並ぶが、個人の墓石が多い。参道右には大きな地蔵菩薩立像。こちらは講中仏だった。如意輪観音坐像 元禄4(1691)舟形光背型。「同行四十三人」江戸時代初期の石仏。石質が良く銘がはっきり残り、像も上品で美しく肌の質感まで伝わってくるようだ。左 聖観音菩薩立像 享保16(1731)個人墓石。 右 馬頭観音塔 大正13(1924)施主 個人名。如意輪観音坐像 天明2(1782)個人の墓石。胎蔵界大日如来坐像 宝永7(1710)梵字「ア」の下、法界定印を結ぶ。個人の墓石。金剛界大日如来坐像 享保2(1717)梵字「バン」の下、智拳印を結ぶ。個人の墓石。胎蔵界大日如来坐像 元禄15(1702)頭上の梵字は金剛界大日如来を表す「バン」だが、智拳印ではなく法界定印。個人の墓石。参道右 地蔵菩薩立像 天和2(1682)台の正面「檀家中」本堂西脇の墓地入口。左側 北向きに五基の石塔、右側には南向きに六地蔵などが並ぶ。左端 庚申塔 寛文9(1669)唐破風笠付角柱型。下部に三猿のみを彫る「三猿庚申塔」2番目 勢至菩薩立像 元文3(1738)唐破風笠付角柱型。「奉供養得大勢至菩薩二世安樂所」「奉納西國坂東秩父百ヶ所為子孫安全」勢至菩薩像は観音菩薩像とともに阿弥陀如来の脇侍仏としてときどき見ることはあるが、単独ではめったに見ない。年代も古く貴重なものだと思う。3番目 庚申塔 正徳3(1713)唐破風笠付。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。二鶏・一邪鬼・三猿。4番目 庚申塔 元禄10(1697)笠付角柱型。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。三猿のみで足元に邪鬼がいない。これは元禄期あたりの青面金剛庚申塔の特色の一つと考えられる。「武州多麻郡下沼袋村」右端 庚申塔 元禄10(1697)駒型。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらも邪鬼は彫られていなかった。右側入口、南向きに不動明王立像 造立年不明。続いて六地蔵菩薩立像 慶応2(1866)六つの台の正面に戒名と命日。命日は天保9(1838)から元治2(1865)その隣 庚申塔 正徳5(1715)唐破風笠付角柱型。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。二鶏(線刻)・一邪鬼・三猿。さらに 智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像 元禄14(1701)個人の墓石。大日如来像が多いのは真言宗のお寺だからだろうか。
2018.02.02
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日から二回に分けて本蓮の普門寺の石仏を見ていただく予定なのですが・・・その前に、昨日このブログの読者の方から2014年11月28日の記事について大変貴重なアドバイスを頂きましたので、元記事のほうも訂正しましたがみなさんにも見ていただきたいと思い、こちらにUPいたします。金乗院=目白不動尊(豊島区高田2丁目12)の山門前の右手に立っている石塔。下の台の正面に彫られた文字、当時これが読めないと判読をあきらめたのですが、右から左へ「新長谷寺」だということです。改めて見てみると、なるほどと納得しました。山門前左手に立つ寺導。正面「本尊 十一面観世音」の下の大きな三つの文字。近くにある地名からあてずっぽうに「わせだ(者せ多)」だろうか?というコメントを書いたのですが、上の石塔と同じくこれは「長せ寺」確かに最後の「寺」の文字が上の石塔と同じですし、寺導としても「長せ寺」がしっくりきます。文字を読むのは本当に難しいです。間違いも多いと思います。皆さんもお気づきの点などございましたらぜひご連絡ください。よろしくお願いします。
2015.04.24
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら川口シリーズの途中ですが、今回はまたちょっと寄り道して目黒不動尊の南にある安養院の石仏を紹介します。安養院 品川区西五反田4-12-1目黒不動尊のすぐ南、東西に伸びる目黒不動商店街の通り沿いに安養院の入り口がある。長い参道の先にモダンな本堂の姿が見える。参道の両側の植え込みの中には地蔵菩薩像、聖観音菩薩像、如意輪観音像など実に様々な石像が立っているが、多くは個人の供養塔だった。左側の中程、木の陰に阿弥陀如来立像 延宝3(1675)舟形光背 が立っていた。光背には為無縁諸精霊と刻まれている。蓮台の正面に年号があり、その下の台の正面に念佛講中と刻まれていた。その周りに6名の名前が見られるが、大工のほか大宮屋、江戸屋などとあり、門前町として栄えていたこの町の大店の旦那衆が寄進したものだろうか。さらに進むと階段の前、両脇に3m近い大きな一対の狛犬?中国清代のもので、宝獅子というものらしい。左 子獅子を従えている。このあたりは日本の狛犬と変わらないがすごい迫力だ。右 宝珠を持つ。よく見ると左右で阿吽の形というわけではないので、これはやはり中国のものだろうか。それでも異形の狛犬と言ったほうがしっくりくる。階段の先にさらに参道が続くが、こちらも両側に様々な石仏が並んでいる。右側の中程、光背に講中と刻まれた如意輪観音坐像 元文2(1737)があった。参道の左側、塀の前に大きめな石仏が並んでいた。塀の後は墓地になっている。地蔵菩薩立像 舟形光背 光背に文字は見あたらない。足の下の部分に赤い文字で安産地蔵と刻まれていた。続いて二体の地蔵菩薩坐像。左は腰立地蔵、右は開眼地蔵と刻まれている。こちらも年代などはわからない。その先の角のところ、たくさんの石仏のなかには二体の観音様が立っていた。参道の右側の塀の前、こちらもたくさんの石仏が立っているが、右の石塔は子育て地蔵尊 昭和9(1932)個人が奉納したもののようだ。左の石塔は正面上部に三面六臂の馬頭観音坐像が彫られ、その下に「無縁法界」右側面中央には「奉順禮西國秩父坂東供養塔」脇にに寛政元年(1789)の銘を刻む。また階段を登った先に山門が立っている。その手前左に二基の石塔が見える。左側に 廻國供養塔 元禄17(1704)正面「奉納日本廻國妙典六十六部成就所」右側面に願文20文字、左側面に年号が刻まれていた。山門を入り右、竹垣の前に庚申塔 青面金剛立像 剣・ショケラ持六臂。年代不明。三眼の青面金剛は合掌するショケラを吊るし邪鬼を踏む。全体に細かくはっきりした彫りだが、光背の一部が欠け、三猿も下の石に埋もれているようだ。その先には観音堂が立っている。このあたりはやや雑然とした印象を受ける。このエリアにも阿弥陀如来像、聖観音像、地蔵菩薩像、不動明王像など多種多様な石仏が立ち並んでいた。赤いちゃんちゃんこを着た猿の像や羅漢像なども見られた。観音堂のすぐ脇に大きな念仏供養塔 延宝3(1675)が立っていた。正面に大きく「南無阿弥陀佛」と刻まれている。左側面 偈文とともに「庚申講中」という文字があり、庚申講中によって建立されたものだという。その先に墓地がある。墓地は左右に分かれているが、右側の入り口付近に三界萬霊塔 万治2(1659)板碑型で上部に地蔵菩薩立像を彫り、その脇には「三界萬霊六親眷属」と刻まれる。下部には二体の僧形の坐像が彫られる。二体の間に見える文字は僧名だろう。右脇には年号が刻まれていた。右側の墓地の最奥部に竹垣で一般の墓地と隔てて、大型の石仏が集められたエリアがあった。歴代住職の墓石も見られるが、一番奥はまた違った感じの石仏ゾーンになっている。中央に五輪塔があり、その周りを四体の丸彫の観音様、二体の舟形光背の観音様が中央の五輪塔を守るような形で立っていた。なかに貞享2(1685)、延宝6(1678)などの銘が見られる。五輪塔 延宝7(1679)芸州藩主浅野綱晟の室 八代姫を祀ったものだという。下部の方形の部分の正面に稱専院殿心誉誓空大姉尊儀と刻まれていた。やはり周りの観音様はお姫様をお守りする侍女たちの墓石なのだろう。
2015.03.26
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は目白不動の最終回です。不動堂の壁沿い、墓地へ向かう石畳の坂道の両側に多くの石仏が並んでいる。左側の手前から 如意輪観音坐像 宝永2(1705)個人の戒名が刻まれている。隣 庚申塔 寛文8(1668)唐破風付角柱 日月雲 青面金剛立像。下部に三猿を彫る。青面金剛は三面六臂。右手に法輪、左手にショケラか。後上の手に戟と独鈷杵?下の手は弓矢。右脇に「奉待念庚申講一座二世安楽所」左脇に年号。三猿は椅子に腰掛けているようで面白い。三猿の下に12名の名前を刻む。両側面にはしっかりとした雄鶏と雌鶏が彫られていた。邪鬼こそいないものの寛文期としては相当豪華な感じがする。奥に地蔵菩薩立像 寛文10(1670)上品な佇まいの地蔵像。舟形の光背上部に梵字。光背右には「奉供養地蔵二世安樂所」足の両脇に施主と思われる名前を刻む。庚申塔の真裏、背中向かいに聖観音立像 享保6(1721)これだけは本堂の方を向く。光背左に出羽國村山郡と読める。ここに立つ所以は不明。仔細はわからない。道の右側 手前から 庚申塔 延宝4(1676)唐破風付角柱 正面 日月 梵字の下に「奉建立庚申塔婆二世安楽攸」右脇に年号。続いて施主敬白。下部に聞か猿。右側面 願文の下に数名の戒名。下部には見猿が彫られていた。左側面には言わ猿。この三猿も可愛い。三面とも猿の下に十数名の名前を刻む。隣に六字名号塔 宝永(1709)正面に「南無阿弥陀佛」右側面には年号を彫る。左側面「奉回國六十六部供養為法界利益」脇に天下和順 日月清明と刻まれている。その奥 庚申塔 万治2(1659)山型角柱 正面彫り窪めた中 阿弥陀三尊の梵字の下「奉信敬庚申禮三年講結衆諸願成就」下部に三猿。その下に数名の名前を刻む。右側面には立派な雄鶏、左側面には雌鶏が彫られていた。この地域の特徴か、邪鬼よりも二鶏のほうがポピュラーな存在のようだ。三猿は欠かせない。途中に墓地の黒い門扉がある。この先は右側、不動堂の壁沿いに石仏が並ぶ。まずは門扉の陰に不動明王坐像 造立年等、詳細は不明。続いて美しい如意輪観音坐像 延宝8(1680)舟形の光背に「奉建立観音菩薩尊像」隣に十一面観音立像 元文5(1740)光背の上部が欠けて翼を拡げているかのようだ。頭部正面に阿弥陀如来の化仏をいただき、その下に様々な表情の佛面を彫る。観音様は憂いを秘めた女性的な美しい顔立ちをしている。最後に丸彫りの聖観音菩薩立像 享保17(1732)やはり頭部に阿弥陀如来の化仏。女性的な丸みのあるお姿だがキリッとした厳しい表情を見せている。墓地への道を登りきり、すぐ左に曲がるとその左手に徳本上人の名号塔があった。天保11(1840)下の台の正面に13名の戒名 側面にも十数名の戒名が刻まれている。
2014.11.30
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら昨日の続き、目白不動のその2です。本堂の右手に進むと、塀際の高いところに不動堂がある。不動堂に上る階段の脇に石塔が立っているのが見える。さらに左側、不動堂の壁に沿って墓地に向かう石の坂道の両側に多くの石仏が並んでいた。不動堂の階段脇には二基の庚申塔。右は舟形光背 左は角柱(多分元は笠付)とタイプは違うが、三猿の配置など雰囲気がよく似ている。右 庚申塔 延宝5(1677)日月雲。中央に「庚申塔信心衆」その下に三猿を彫る。三猿の下の部分に10名ほどの名前が刻まれていた。左 庚申塔 元禄5(1692)日月雲 中央に「奉待念庚申一座」その下にこちらも三猿。やはり三猿の下に施主10名ほどの名前が刻まれている。不動堂の階段を上りきると右側にお地蔵様が並んで立っていた。左から 地蔵菩薩立像 元禄11(1698)台の正面に「奉造立地蔵尊像」両脇には自他法界、平等利益と彫られている。続いて丸彫りの六地蔵。6体はほぼ同じ大きさで像の様子も似通っている。それぞれの台には4、5名の名前が刻まれていた。右から3番目の台の側面には享保17(1732)の銘が見える。右の三体のお地蔵様はいずれも残念ながら造立年不明。それぞれに個性的なお地蔵様なのだが・・・墓地入口の石仏は数が多いのでまた明日にします。昨日は急用がはいってしまい山門左の寺標の写真にコメントを入れ忘れてしまいました。追加しましたのでよろしかったら合わせてご覧下さい。
2014.11.29
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は豊島区高田の金乗院を見てみましょう。金乗院(目白不動尊) 豊島区高田2丁目12目白通りから宿坂を下った先にある金乗院は目白不動尊として知られている。庚申塔なども多く、結構見ごたえがある。宿坂に面して山門が立つ。山門を入って右に折れると本堂。山門脇に石塔が並ぶ。山門右側で頑張っているのは不動明王坐像。左手が欠けている。大きな台の正面に「目白」右脇に享保6(1721)の銘。その下に多数の名前。左側面に再興とあり天明元年(1781)と刻まれている。願主 関口水道町 中屋氏。その隣 正面に弘法大師。下の台の正面、右から「新長谷寺」らしい。当初はうまく読めなかったが後日TM Networkさんにご指摘していただいた。右側面は狭く未確認。左側面に四國霊場とあり大きく五十四番と彫られていた。山門の左 地蔵菩薩坐像 下の台の三面に渡って正徳2(1712)から宝暦8(1758)にかけて7名の戒名が刻まれている。両側面の5名は童子、正面の2名は居士と大姉。この時代に居士、大姉というのは相当な家柄ということだろうか。裏に2基の寺標が立つ。右 江戸第拾六番 山之手第九番 本尊 十一面観音とある。その下に大きく彫られた字はすぐには読めなかったが・・・左側面には安永9(1780)とある。左側面上に「大和長谷の観世音同木同作」その下に「新豊山新長谷寺」と彫られている。どうやらこれは文京区関口にあった新長谷寺の寺標らしい。廃寺となった新長谷寺の「目白不動尊」が金乗院に移された時に一緒に移ってきたのだろう。正面の大きな字だが、TM Networkさんのご指摘によると「長せ寺」ということらしい。左 こちらが本来の寺標。正面 江戸八十八箇所之内 第三十八番目 神霊山金乗院。右側面 南無遍照金剛 土州足摺山代。足摺山は四国高知の霊場 金剛福寺のこと。境内に入り本堂の前、宝筐印塔の隣に変わった石塔が立っている。庚申塔 寛文6(1666)不動明王の剣、倶利伽羅剣に巻き付く倶利伽羅明王を主尊とする珍しい庚申塔。解説板に倶利伽羅不動庚申と書かれていた。剣の柄の下のあたりに三猿が彫られていた。素朴だがとても可愛い。もう少し続ける予定だったのですが、急用が入りましたので今日はここまで。続きは後ほどということで失礼します。
2014.11.28
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