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現在は緑区の石仏を回っていますが、南区に未発見の庚申塔がありましたので、今日はこちらを紹介します。緑区在住の石仏愛好家、石橋様より情報をいただきました。明花公園北東アパート 南区大谷口5559[地図]第二産業道路沿いにある明花公園の南を見沼代用水西縁に沿って東へ進んだ先(第二産業道路は渡れないので北の信号交差点まで遠回りしてください)県道1号線の旧道の押しボタン信号交差点の北東角、アパートの外構の中に庚申塔が立っていた。庚申塔 文化15(1818)大きな四角い台の上の駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。この時期の石仏としては珍しいことに、白カビも無く、銘も一部を除きクリアに残っていた。小堂に守られているわけでも笠付きでもない状況を考えると、これほど美しい状態を保っているのは本当に不思議な気がする。彫りは江戸時代後期らしく技巧的・装飾的。隅々まで石工の気持ちのこもった仕事がされていた。日天・月天はたなびく瑞雲に支えれれながら塔をはみ出す。三眼の青面金剛は口をへの字に、右手に剣、左手に合掌するショケラを持つが、残念なことにこのショケラの顔は削れている。頭上には蛇がとぐろを巻き、胸にはドクロの首輪だろうか?手首に腕輪をはめ、その持物は矛・法輪・弓・矢。足の両脇に見事な二鶏が半浮き彫りされていた。足元に大きな邪鬼が両腕を立てて力強く正面をにらむ。その下の三猿は両脇が内を向く構図。右の言わ猿はなにやら妖艶なポーズ。左手をついて座り右手だけで口を押える「片手使い」左の見猿も「片手使い」のように見える。中央の聞か猿の位置が青面金剛の足と見比べるとやや左にずれていて、見猿の頭は塔の左端からわずかにはみ出していた。塔の左側面に造立年月日。その下に武刕足立郡 大谷口村 講中。右側面に和讃「明王威光 衆魔降伏 功通遠近 徳益乾坤」勝手に訳せば(青面金剛明王の威光は衆魔を降伏、その功績は広くその徳は天地に渡る)くらいか。台の正面下部に講衆だろう、二十名の名前が刻まれている。台の右側面、ここだけ銘が薄く読みにくいが、右上に願主と見え、下は人の名前が刻まれているようだ。台の左側面奥には武州豊嶋郡 岩淵宿 石工岩田□内。有名な長野の高遠石工や、近くは岩槻林道町の田中武兵衛など、石工名が刻まれた石仏も時には見られるが、一般的にこの種の石仏に石工名が刻まれることはそれほど多くはない。力のある赤羽岩淵宿の石工さんに仕事を依頼したということなのだろう。それだけの力作だと思う。こちらの庚申塔はもともとどこに立っていたのだろうか?近くの県道1号線の旧道は古くからの街道で、街道沿いに青面金剛庚申塔だけでも北から不動谷、原山4丁目、広ケ谷戸、明花バス停前と数多く見られる。こちらの庚申塔もやはり県道1号線の旧道の路傍に(小堂に守られて?)立っていたのだろうか?資料がなく想像してみるしかないが興味は尽きない。今回、貴重な情報をお寄せいただいた石橋様には、心から感謝いたします。ありがとうございました。
2024.05.30
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら南区の石仏、最終回になります。今日は松本の真乗寺の石仏を見てみましょう。真乗寺 南区松本1-18-5[地図]新大宮バイパスの田島団地前交差点から西に進み、300m先の信号交差点の南西の角のところに真乗寺があった。交差点を左折してすぐ右へ入ると、南向きに新しい山門が立つお寺の入口に出る。入口から入ってすぐ右手、雨除けの下に石仏が並んでいる。8年前に来た時にはこれらの石仏は本堂左手前の小堂の中にあった。中央 丸彫りの聖観音菩薩立像 明和5(1768)首に補修跡があり、顔もはっきりしない。敷茄子の下の角柱型の石塔の正面、右に「奉誦普門品供養講中」左に「奉納西國秩父坂東 湯殿山富士山諸願成就処」間に願主二名の名前。「普門品供養塔」と「順礼供養塔」を兼ねるものということだろう。塔の左側面に造立年月日。下部に十名の名前。右側面の下部にも十名の名前が刻まれていて、正面の願主二名と合わせると講中二十二人となりそうだ。両脇に六地蔵菩薩立像。前回見たときはそれぞれ角柱型の石塔の上に立っていたのだが、今回は蓮台の下の石塔部分がなく銘は確認できなかった。丸彫りの六体の像は様子がよくそろっていて損傷も少なく、その尊顔もみな似通っている。道路を挟んだ東の向いに真新しい墓地があった。以前は「埋め墓」だったところで雑然とした雰囲気だったが、整備されてその様子が一変している。入り口付近にあった庚申塔は今も同じ位置に立っていた。庚申塔 明和元年(1764)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。日天月天の間に梵字「ウン」頭上に蛇を乗せ三眼吊り目の青面金剛。矛・法輪・弓・矢を持つ。剣は太く短く、ショケラの様子も個性的。足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は全身型で頭を右にしてうずくまる。その下に両脇が内を向く三猿、小さなぬいぐるみのようでかわいらしい。塔の右側面「奉造立青面金剛供養塔」両脇に造立年月日。8年前に取材したときはこの庚申塔は西向きに立っていて、左側面はタイル貼りの塀との隙間が狭く写真が撮れなかったが、今回は南向きに建て直されたおかげでこちらの側面もはっきり見ることができるようになった。武刕足立郡笹目領松本村「講中」左上に十方助力、その下に願主一名の名前が刻まれている。新しく整備された墓地の一番奥、東のブロック塀の前に多くの無縁仏が集められていた。左には文字塔の墓石が、右のほうには像塔が並ぶ。像塔の初めの三基の墓石。いずれも舟形光背に明暦4(1658)寛文4(1664)延宝7(1679)宝永2(1705)の紀年銘が見られる江戸時代初期のもの。白カビも少なく美しい状態を保っている。その前に6基の角柱型の石塔が並んでいた。左の三基。左端の石塔の正面、中央に明和5年の紀年銘。こちらは吉日になっているので造立年月日。右脇に十方施主。左脇に願主一名の名前。右の二基にはそれぞれ童子戒名が刻まれている。こちら右三基。やはり童子戒名が刻まれていた。中央の石塔にはさらに松本村講中の銘が見える。どうやら真乗寺境内にあった六地蔵塔の本来の台になっていた石塔らしい。造立年があちらの聖観音菩薩塔と同じ明和5年なので、一緒に造立されたものだろう。像塔の並びの最後のあたり、角柱型の石塔が目を引く。石橋供養塔 宝暦6(1756)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下に「奉懸石橋於當村七ヶ所 成就供養」両脇に造立年月日。塔の左側面 隣の塔の陰になっていて全部は見えないが、武州足立郡 松本村 願主 和南。右側面中央に「十方施主二世安樂」右脇に世話人 當村、左脇に一名の名前が刻まれていた。
2023.05.07
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら南区の最後は荒川の近く、一番西の地域、松本です。松本南バス停付近 南区松本4-17[地図]さくら川の松本橋から荒川土手に向かってまっすぐ南へ進む。道路右側、松本南バス停の少し手前。植え込みの間に石塔が集められていた。文字塔と像塔合わせて九基の馬頭観音塔が西向きに並ぶ。荒川近く、この近くには道満の渡し場、下流には早瀬、さらに戸田の渡し場などがあり、荒川土手沿いに旧道が通っていたらしい。荒川流域の護岸工事などによって、地域にあった馬頭観音塔が移され、この場所に集まられたのだろう。右 馬頭観音塔 天保13(1842)角柱型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。塔の左側面、手前に西 ひきまた はやせ道。奥に 北 うらわ道。その下に願主一名の名前が刻まれていた。右側面に 東 わらび道。江戸時代後期らしく道標になっている。2番目 馬頭観音塔 天明3(1783)駒型の石塔の正面 二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。像の右脇に造立年月日。左脇に内谷村若宮施主とあり一名の名前が刻まれていた。一面慈悲相、静かな表情をしている。頭上の馬頭が大きく重そうだ。3番目 馬頭観音塔 。自然石の正面「□□觀世音」上部が剥落、断定はできないが馬頭観音塔で間違いないだろう。右側面の紀年銘もちょうど年紀の部分が欠けてしまって造立年はわからなかった。4番目 馬頭観音塔 寛保3(1743)舟形光背に一面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。足元の部分の中央に施主とあり、いくつか名前が薄く刻まれている。頭上の馬頭ははっきり。馬口印を結ぶ慈悲相の観音様。持物は棒?・法輪・弓矢。光背右下に内谷村。左脇に造立年月日が刻まれていた。5番目 馬頭観音塔 明和2(1765)舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。持物は柄の短い矛・法輪・斧・数珠。三面ともに忿怒相。小指を曲げて馬口印を結んでいる。6番目 馬頭観音塔 弘化4(1847)駒型の石塔の正面中央「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。7番目 馬頭観音塔 。舟形光背に一面六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。光背はかなり傷んでいる。三眼忿怒相の観音様。持物は矛・法輪・弓・矢。塔の左側面、上部は剥落、下部だけが残るが、十七日九月廿四日!どう考えたらよいのだろう?他に紀年銘は見当たらず造立年はわからない。右側面に「□□畜生發菩提心」上の二文字が上手く読めなかった。「如是」で始まると普通だが、そんなふうには読めそうもない。銘の読み取りはいつも苦労する。8番目 馬頭観音塔 文化7(1810)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。施主は個人名。左端 馬頭観音塔 明治24(1891)駒型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。こちらも施主は個人名が刻まれていた。
2023.05.03
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら内谷の石仏、最終回です。普門寺 南区内谷5-16-3[地図]県道79号線、一乗院の入口から南へ向かい、400mほど先の信号交差点のすぐ手前を左折すると、道路右手に普門寺の入口があった。入口右のブロック塀の裏、本堂に向かい合うような位置に石塔が並んでいる。うち三基は住職の墓石だった。東向きに立つ4基のうち、左端に宝篋印塔 安永9(1780)基礎正面に「念佛供養」右側面に二つの戒名。左側面にも戒名が刻まれていて、こちらも基本的には墓石である。裏面に造立年月日が刻まれていた。その隣 百万遍供養塔 安永5(1776)舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。瞼が腫れたお地蔵様、妙に人間くさいリアルな表情を浮かべている。光背上部両脇に天下泰平 日月清明。続いて右脇には「百万遍供養塔」左脇に造立年月日。百万遍供養というと普通は念仏供養だろう。さらに右下に美女木村 内谷村 講中。左下に願主 是照。爲先祖菩提とあり一名の名前が刻まれていた。続いて夏念仏供養塔 延宝5(1677)美しいフォルムの舟形光背の上部に梵字「カ」その下に丸顔の地蔵菩薩立像。彫りは厚く堂々としている。丸顔ながら尊顔は厳粛。光背右脇「奉行夏念佛爲二世安樂也」左脇に造立年月日。足元の部分、右から下笹目村、美女木村、曲本村、四谷村、田嶋村、沼影村、鹿手袋村、最後に内谷村と全部で八ヶ村の名前が刻まれていた。「夏念佛」は初見でどんなものかわからないが、こちらの念仏供養塔の造立には多くの人たちがかかわっていたようだ。墓地の奥に多くの石仏が集められている。紀年銘などを調べてみると、享保期を中心に江戸時代の地蔵菩薩、聖観音菩薩、如意輪観音菩薩など像塔も數多いが、そのほとんどが戒名と命日が刻まれた墓石だった。前列右端のこの地蔵菩薩塔、光背右脇に「奉納華見堂地蔵菩薩現世安穏後世善處爲」と刻まれていた。華御堂供養塔 元禄9(1696)大谷口、中尾、など東のほうに多く見られ、ここまで南浦和より西では見ることが無かったが、「華御堂供養塔」がここ内谷にもあった。資料にはこの石塔の記載はなく「新発見」だとするとやはりうれしい。彫りが薄くなっているが、うっすらと円形の頭光背が見える。光背左脇に造立年月日。その下も銘が薄く自信はないが道行(=同行か?)五十五人。足元の部分、左は破損していて右端に備景菩提也と刻まれていた。松本橋東住宅前 南区内谷1-5[地図]荒川左岸の松本あたりから荒川の土手に平行して排水路が流れている。この通称「さくら川」は笹目橋近く早瀬まで続き、その川沿いの道路は道幅のわりに多くの自動車が行き交う。この排水路に架かる「松本橋」のすぐ東、交差点の住宅の前に庚申塔が立っていた。庚申塔 天明2(1782)笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭上にとぐろを巻いた蛇。持物は矛・法輪・弓・矢とスタンダードな構成。足元の邪鬼は正面向きの上半身型。朱塗りの跡が残っていた。両手を張って口をへの字に青面金剛の重さに耐えている。その下に小型の三猿。両脇の猿が内を向く。塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。さらに内谷村講中十七人、願主一名の名前が刻まれていた。【行方不明の石仏】2013年12月の取材時、上の庚申塔から100mほど南の交差点の角、地蔵菩薩立像 安永5(1776)が南向きに立っていた。念仏講中四名の名前が刻まれていたものだが、現在は見当たらない。行方をご存じのかたは情報をお願いします。
2023.04.30
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら内谷から今日は三か所の石仏を見てみましょう。一乗院入口向い路傍 南区内谷4-18[地図]県道79号線、享保14年の丸彫り地蔵菩薩塔の立っていた一乗院の入口の向い、路地の入口のところに小堂があった。小堂の正面には「猿田彦大神」と書かれた扁額、手前に丸彫りの白いお地蔵様が立っている。庚申塔 元文2(1737)日月雲の彫られた大きな唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。とぐろを巻いた蛇をのせ、三眼吊り目の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。ショケラは合掌している。足元に頭を左に全身型の邪鬼。その下両脇に二鶏を浮き彫り。その下の三猿はそれぞれの方向を向いて座り非対称の構図。ぬいぐるみのようでかわいらしい。塔の右側面に造立年月日。左側面に内谷村講中十四人と刻まれていた。大聖不動尊 南区内谷4-2[地図]上の「猿田彦大神」の小堂のすぐ北、県道79号線から斜め右に分かれてゆく道があって、たぶんこちらは旧道と思われる。100mほど先、道路右側に瓦ぶきのお堂がたっていた。後ろは広い駐車スペースになっている。お堂の右脇にポツンと丸彫りの地蔵菩薩立像が立っている。他にはなにもない殺風景ななかにあって、新しいお花が供えられていてなんだかホッとする。風化が進み尊顔もはっきりしない。銘も見当たらず、残念ながら詳細については分からなかった。東光寺 南区内谷4-17[地図]「猿田彦大神」の小堂の前から100mほど東の位置に東光寺がある。入口から入って左側、手前に多くの無縁仏が積み上げられ、その奥に丸彫りの地蔵菩薩塔、さらに六地蔵、その奥に卵塔などが並んでいた。雨除けの下 地蔵菩薩立像。四角い台の上、反花付きの台を重ね、蓮台に丸彫りの地蔵菩薩像。風化のためだろう、錫杖の先が欠けくずれていた。首にも補修跡があり、顔はのっぺらぼう、頭部は本来のものではないのだろう。宝珠とそれを持つ左手はきれいに残っている。台に紀年銘が見当たらず造立年などは不明。ただ正面に三つの童子、童女戒名が刻まれていた。小堂の中 六地蔵菩薩。長細い台に丸彫りの地蔵菩薩像が三体づつ乗る。本来の台ではないためかやはり銘が見当たらず詳細は分からない。像のサイズ、彫りの様子はほぼそろっていた。補修跡が残る頭部はいずれも損傷が甚だしく、顔の様子もはっきりしない。その奥に 普門品供養塔 明和2(1765)角柱型の石塔の正面上部に蓮台に座る二臂の如意輪観音像を浮き彫り。その下に「奉讀誦普門品一萬巻」塔の右側面に造立年月日。左側面に内谷村誦者十八人と刻まれていた。
2023.04.27
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら内谷に入って、今日は一乗院の石仏です。一乗院 南区内谷3-7[地図]県道79号線の曲本交差点から南へ200mほど、道路右側に大きな寺標が立ち、ここから西に向かうと一乗院の仁王門の前にでる。寺標と公衆電話ボックスの間に大きな丸彫りの地蔵菩薩塔が立っていた。地蔵菩薩立像 享保14(1729)四角い台の上に角柱型の石塔。その上に厚い蓮台に立つ地蔵菩薩像。享保時代には各地でこのような2mを超す重制の丸彫り地蔵菩薩塔が多く見られる。反花付きの角柱型の石塔の正面に「内谷村講中」右側面に造立年月日が刻まれていた。30mほど進むと、三差路のところにまた丸彫りの地蔵菩薩塔が立っていた。二段の台を含めて全高はやはり2mを超える。地蔵菩薩立像。紀年銘が見当たらず、残念ながら造立年は分からない。まゆを吊り上げたお地蔵様は厳しい表情を浮かべている。大きな四角い台の正面、中央におおきく内谷村とあり、その両脇に松本村、沼影村、曲本村、大野新田、美女木村、下笹目村、早瀬、惣右衛門村と刻まれていた。近隣と合わせて九つの村が中心になって造立されたものらしい。台の右側面、上段に13村、下段に2町10村。田嶋、西堀、新開、町谷、本宿、西蓮寺、大久保、五関、塚本、千田、中嶋の現桜区の各村。与野、浦和、2町。大戸、白幡、岸、根岸、大谷場、辻の各村の名前が刻まれている。左側面は上段13村、下段に12村。新曽、上戸田、下戸田、横曽根、柳崎、前川、芝、引又、宗岡?水子、舘、大久保、内万木、臺根岸、宮戸、岡、八嶋、高嶋、古市場、老袋の各村。三面合わせると2町57ヶ村になる。南区、桜区、浦和区、中央区、川越市、志木市、朝霞市、川口市と、実に広い地域の人たちがこのお地蔵様の建立にかかわっていたことがわかる。それにしてもこの広域にわたるネットワーク、この時代に各地の寺院がそれだけの力とつながりを持っていたということなのだろう。さらに進むと明和5年(1768)建立の朱塗りの仁王門がたっていた。左脇の小堂の中に六地蔵が祀られている。丸彫りの六地蔵菩薩塔 寛政6(1794)像のサイズ、顔の表情などはよく似かよっている。台の銘は、右から2番目に願主 曲本村 一名の名前。3番目に「法界萬霊」右から4番目 寄付金一兩 下笹目村 一名の名前。左端に造立年月日が刻まれていた。仁王門をくぐって左側の裏の空間に欠けた板碑が集められている。右の壁の前 阿弥陀三尊図像板碑 明応4(1492)上部が欠けていて不完全だが、中央に阿弥陀如来、その下に観音菩薩と勢至菩薩を線刻。兩脇侍の間に「月待供養」と刻まれていた、。仁王門をくぐってすぐ、参道右脇に石灯篭が立っている。石灯籠 享保13(1727)四角い竿の正面に「燈架一基」右側面に十方施主。左側面に造立年月日。裏面に願主 順廻と刻まれていた。参道の左脇に宝篋印塔 享保13(1727)が立っている。基礎の正面に「寶篋印塔一基」その造立の趣旨は大乗妙典六十六部納經廻國供養のためと記されていた。最後に建立願主 下笹目村 □應順廻法師。石灯籠に刻まれた同じ名前、造立年も一緒で、こちらは当時の御住職だろう。基礎の右側面 天下泰平 國土安全。開眼供養導師などが記され、左端に造立年月日。あとの二面には偈文が刻まれている。墓地に入って奥のほうに進むと石塔が集められていた。ほとんどが墓石なのだが・・・一番後ろ 地蔵菩薩立像 安永5(1776)宝珠は健在、錫杖は大部分が欠けていて、像容もはっきりしない。光背右脇に紀年銘が見えるが、最後が「吉日」となっていた。墓石ではないとすると供養塔か?光背の左のほうは下部が厚く銘を読み取るのは難しい。前の石塔の上から足元の部分をのぞいてみると、中央に「念佛講中」とあり、その周りにいくつか名前が刻まれていた。どうやらこの地蔵菩薩塔は「念仏供養塔」のようだ。地蔵菩薩、聖観音菩薩、如意輪観音菩薩などは墓石としてよく使われ墓地では多く見られるが、なかにこの念仏供養塔のような講中仏もあることだろう。そのすべてを調べるとなると気が遠くなるが・・・
2023.04.24
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら四谷から南へ進み、今日は曲本の石仏を見てみましょう。無量寺 南区曲本2-7-8[地図]県道79号線を南へ、四谷から曲本に入って少し行くと右手に西浦和公民館がある。その少し手前、道路右側の路地の先に無量寺の入口があった。入ってすぐ右側に本堂が立っている。本堂に向き合うように六地蔵、こちらはいたって新しい。その向こうに丸彫りの地蔵菩薩塔が立っていた。地蔵菩薩立像 正徳3(1713)若干の白カビはあるものの大きな欠損はなく美しい。尊顔はふくよかで、厚い蓮台に堂々と佇む。角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「六道能化地蔵菩薩」右脇に武州足立郡笹目領曲本村、左脇に造立年月日。塔の右側面に願主 一名の名前。左側面に施主 講中と刻まれていた。地蔵菩薩塔の後ろ、墓地の入口あたりに二基の大型の板碑を中心に無縁仏が集められている。板碑の右脇に庚申塔が立っていた。駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。腰のあたりにしがみつくショケラがほほえましい。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元に邪鬼が不機嫌そうな目つきでうずくまる。三猿は中央が正面向きで両脇が内を向く構図。体をやや後ろにそらすようにして座っていた。塔の右側面に「奉納庚申」左側面に笹目領曲本村講中 十八人。結局どこにも紀年銘が見当たらず、造立年は分からない。東福寺 南区曲本3-14-15[地図]無量寺の入口から南へ向かい、次の信号交差点のすぐ先を右折して細い道に入り、300mほど西へ進むと、住宅街の中に東福寺の墓地があった。入口から入ってすぐ左脇 雨除けの下に丸彫りの地蔵菩薩立像 享保15(1730)きりっとした表情でややうつむき加減。丸彫りの地蔵像の宿命というべきだろうか、首のあたりに補修された跡があった。全体に保存状態はよく彫りもきれいに残っている。反花付きの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「宮根講中 敬白」左側面に造立年月日。右側面に東福寺住弘宥和尚と刻まれていた。その奥に六地蔵菩薩立像 天明6(1786)舟形光背型で、一部損傷がみられるものの、白カビも少なく像は美しい状態を保っている。六体の様子はよく揃っていて、はじめから一緒に造立されたものだろう。左から3番目のお地蔵様の光背に銘があった。左脇に造立年月日。右脇には宮根講中廿二人と刻まれている。西浦和小学校西土手道 南区曲本1-1-13[地図]田島通りから南へ入った土手道。写真右に新大宮バイパスが並行して走っているが、土手道は若干高くなる。写真左が西浦和小学校。この土手道の、小学校とは逆側、写真右側に写っているブロック塀に囲まれた一角に石塔が並んでいた。奥に三基の石塔。周りには小さな鳥居やら招き猫やら、色とりどりの供え物も置かれ、以前来た時に比べるとかなりにぎやかで派手な雰囲気になっている。(こちらが2020年7月の写真)中央 馬頭観音立像 享保17(1732)舟形光背に馬頭冠・慈悲相・六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背右脇に「奉造立寒念佛爲供養二世安樂也」寒念仏供養塔である。左脇にくっきりと造立年月日が刻まれていた。持物は斧・法輪・矛・数珠と個性的で、造立年も古く、なかなか貴重な馬頭観音塔と言っていいだろう。。左 馬頭観音塔。こちらも慈悲相・二臂の馬頭観音立像。頭上の馬頭もしっかり。光背左脇に大きく「峯岸」とあるが地名か、人名かよくわからない。他に紀年銘などは見当たらないが、馬頭観音の衣装のすそが跳ね上がっていて、江戸時代後期。寛政期以降か?右 馬頭観音塔。風化が進み像の彫りも一部熔けて丸くなっている。それでも頭上の馬頭は比較的はっきりしていて、やはりこちらも慈悲相・二臂の馬頭観音立像。足元の部分には施主だろうか、薄く銘が刻まれていた。
2023.04.20
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら四谷からあと二か所の石仏を見てみましょう。稲荷神社 南区四谷3-7[地図]四谷交差点の南東の角にある稲荷神社。同じ敷地内に「四谷会館」があり、その奥が四谷観音堂になる。神社の裏、ブロック塀と大きな木に挟まれた狭いスペースに角柱型の石塔が立っていた。神社のほうに向いた面は石塔の右側面。南 坂下り わらび 道まん はやせ ミち と刻まれている。正面は西向き。目の前にブロック塀があり、正面から全体を写すことはできなかった。上部に「水神」水神供養塔である。正面下部には西 あきがせ ひき又道。「西」の下あたりに大きな断裂跡が見える。塔の左側面はさらに狭く、ピントを合わせるのも難しい。上部に北 橋下り うらわ よの 道。下部に四ツ屋 願主とあり一名の名前が刻まれていた。本来の台を欠くためか、紀年銘などは見当たらず、造立年は不明。三方向七地名が記された立派な「道標」でもある。稲荷神社南路傍 南区四谷3-10-12[地図]四谷交差点から県道79号線を350mほど南へ進む。細い路地を左に入るとすぐその先、左路傍に小堂がたっていた。小堂の中 庚申塔 文化7(1810)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。前に大きな石が置かれているが、その正面に地蔵菩薩をあらわす梵字「カ」が刻まれていて、どうやら後ろの庚申塔とは関係ないもののようだ。全体に風化が進み、像は溶けだしている。青面金剛の尊顔ははっきりしないが、持物は矛・法輪・鏑矢・弓で、こちらはなんとか確認できた。足元の邪鬼はやはり溶けてしまって岩の塊のように見える。両脇に二鶏を線刻。その下の三猿は中央が正面を向き、両脇が内を向く構図。側面の銘は小堂の壁板の隙間から確認できた。塔の右側面に造立年月日。その横に 右 うらハ道。左側面 左 よの道。その横に「講中」と刻まれていた。
2023.04.17
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら沼影から西へ、四谷に移ります。南区も残すところはあと少し。四谷、曲本、内谷、松本と進む予定です。今日は四谷観音堂の石仏を見てみましょう。四谷観音堂 南区四谷3-7-34[地図]田島通りの四谷交差点の南東の角、稲荷神社の脇から奥へ進むと四谷観音堂があった。参道の左側に水屋と六地蔵の小堂が並んでいる。周りにも多くの石塔が立っていた。小堂の中 丸彫りの六地蔵塔 宝永2(1705)六体の地蔵菩薩像はよくそろっているが、宝永年間のものとは思えず、おそらくあとからたてなおされたものだろう。左端の塔の敷茄子に「奉造立六地蔵爲二親菩提」右から2番目に造立年月日が刻まれている。水屋の左側、入口から入ってすぐ左のブロック塀の前に庚申塔の文字塔が立っていた。角柱型の石塔の正面、日月雲「庚申塔」塔の下の台の正面右のほうに「田」と見えるのは田嶋村か?中央付近にも文字が見えるが台は相当深く埋まっているのだろう、紀年銘も見つからず、造立年などは不明である。塔の左側面に左 よのミち。右側面に 右 はやせ道。道標になっていて、江戸時代後期の造立の可能性が高いと思われる。六地蔵の真後ろ 庚申塔 宝永5(1708)大きな角柱型の石塔の上に青面金剛立像を浮き彫りした駒形の石塔。沼影観音入口付近でみた庚申塔と同じような重制の庚申塔である。合掌六臂の青面金剛。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。邪鬼は頭と背中を踏みつけられ足を延ばしてうつぶせに横たわり、顔だけは持ち上げて正面をにらむ。三猿は両脇が内を向く構図。左の言わ猿はやや前かがみ、右の見ざるはやや後ろに座っていた。角柱型の石塔の正面 梵字「ア」の下に「奉造立庚申像爲二世安樂也」両脇に願文。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州足立郡与野領四ツ屋村 施主 惣女中と刻まれていた。その隣、丸彫りの地蔵菩薩立像 安永2(1773)笠をかぶった非常に珍しい地蔵菩薩像。このあたりでは戸田市美女木の妙厳寺山門裏で見たことがある。像はかなり溶けだしてして尊顔はあいまい、錫杖と宝珠を持つ両手の指だけがやけにリアルに残っていた。塔の正面には 四國八十八箇所之内 四十九番 観音寺。四谷観音堂は廃寺となった観音寺の寺院跡である。塔の左側面に造立年月日。右側面は銘が薄くよみにくいが、越後国□沼郡 知屋川?村 願主 佛念。願主となった僧が越後出身ということだろうか?六地蔵の小堂の右脇に弘法大師遠忌供養塔 天保5(1834)角柱型の石塔の正面に「弘法大師一千年御遠忌供養塔」塔の右側面中央に造立年月日。右脇に天下泰平 國土安穏。左脇に四國八十八箇所伊豫國浄土寺模四十九番。左側面には足立坂東十四番 本尊 聖觀世音菩薩。続いて田嶋村四ツ屋 観音寺と刻まれていた。観音堂の裏の墓地の奥、個人の墓所の中にきれいな形の舟形光背を持つ二基の石仏が並んでいる。どちらも墓石だが、浦和市教育委員会発行の「石の文化財」(H8年刊)にも紹介されているので取り上げることにした。左 阿弥陀如来立像。光背上部に梵字「ア」両脇に二つの戒名が刻まれ、その命日は慶安3(1650)と寛文3(1663)造立はそれ以降で寛文期と思われる。カビも少なく風化も見られない。資料では釈迦如来像となっていたが、両手とも親指と人差し指で輪を作っていて、こちらは阿弥陀如来像とすべきではないだろうか。右 薬師如来立像。舟形光背の上部に梵字「バイ」その下に腹前に薬壺を両手で持つ薬師如来像を浮き彫り。光背両脇に二つの戒名。命日は延宝6(1678)と貞享元年(1684)で、造立は貞享か元禄だろう。いずれにしても、武士、僧以外に個人が墓塔を建てることがまだ一般的ではなかっただろうこの時期に、このような立派な墓石を続けて造立できたのは相当な有力な「イエ」だったということだろう。穏やかに笑みを浮かべる尊顔はかぎりなく美しい。
2023.04.15
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら沼影観音堂の石仏の続きです。沼影観音堂 見編区沼影1-6-30[地図]参道を進むと、右側に石塔が三列に並んでいる。前の二列は西向きに立っていた。多くは墓石だが、その中にもいくつか見るべき石仏がある。真ん中の列の右から2番目 正観音菩薩立像 元禄10(1697)舟形光背に左手に未敷蓮華を手にし左手与願印の聖観音像を浮き彫り。全体に白カビが厚くこびりついていた。光背右脇「念佛供養爲十六村菩提」左脇に造立年月日。その下に沼影村 願主 念心と刻まれている。1列目と2列目の間の突き当り、南向きに馬頭観音塔 弘化5(1848)角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」の下に「馬頭觀世音菩薩」両脇に造立年月日が刻まれていた。その隣、2列目と3列目の間の突き当りに敷石供養塔 安永4(1775)角柱型の石塔の正面 梵字「ア」の下に「觀音堂敷石建立供養塔」両脇に十方施主 有無兩縁。下部両脇に沼影村中。塔の左側面に造立年月日。右側面に供養石施主とあり二名の名前。その下には願主とあり四名の名前が刻まれている。3列目の石塔は東向きに立っていた。突き当りに庚申塔の文字塔。さらにその先の石塔の中に宝篋印塔が見える。まずは弘法大師四国移霊場標石 天保5(1834)角柱型の石塔の正面に大きく「弘法大師」塔の右側面に造立年月日。左側面に伊豫國八坂寺移 第四十七番。その下に沼影村 遍照院と刻まれていた。墓石を挟んでその先に出羽三山百観音供養塔 天保6(1835)角柱型の石塔の正面「月山 湯殿山 羽黒山 坂東 西國 秩父 供養塔」右側面に造立年月日。左側面中央に「正觀世音」右上に足立坂東十二番、下部に沼影村 廣田寺。沼影観音(廣田寺)は足立坂東三十三ヶ所霊場の12番である。突き当りに南向きに庚申塔の文字塔。角柱型の石塔の正面「庚申塔」「塔」のあたりに断裂跡があり、かなり傷んでいたものらしい。倒れないように両脇をあらたに補強されていた。塔の左側面 西 あきがせ ひきまた □。最下部は隠れている。右側面は一部剥落、東 □らハ □□び。うらわ、わらびと思われる。紀年銘は見当たらず造立年などは不明。観音堂近く、右手前に宝篋印塔 宝永7(1710)隅飾型の笠と発達した相輪を持つ。基礎に97文字の偈文。基礎正面に造立年月日。左脇に沼影村念佛講中と刻まれていた。参道左側、観音堂の手前に「いぼ地蔵堂」が「立っている。その裏から奥が広い墓地になる。観音堂の近く、卵塔などの多くの墓石が並ぶ中に念仏供養塔 享保14(1729)舟形光背に合掌する地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に「念佛供養法界普潤」左脇に造立年月日。さて、前回までは気が付かなかったのだが、地蔵堂の裏にご覧のような石塔の残欠が並んでいた。こちらは酒井さんの石仏ノートに載っていて、川口市の石仏愛好家Yさんが発見したものだという。左は頭部と足元の部分が欠けた丸彫り像の胴体部分。体の前で合掌していて、腰のあたりに腕がもげた跡が残っている。青面金剛の六臂像とみて間違いなさそうだ。入口付近にあった重制庚申塔の丸彫り青面金剛像と似ているように思える。右は腹部あたりから断裂したらしい丸彫り像の残欠。右手に矢を持つ手がはっきりと確認できた。こちらも青面金剛像だろう。左右どちらの像も立像の一部分と思われる。「石仏ノート」にはもうひとつ、庚申塔の台石があるということで探してみると、こちらは入口近くの三基の馬頭観音文字塔の左端の裏、草の中に隠れるように置かれていた。裏に回ってみると、上部に足の跡らしきものが見え、その下に頭を右にした邪鬼、さらにその下には正面向きの三猿が彫られている。両側面の下部にそれぞれ鶏が浮き彫りされていた。地蔵堂の裏のどちらかの青面金剛像の台だったのだろう。丸彫りの青面金剛立像は大変珍しいものだが、ここには三基の丸彫り青面金剛立像の庚申塔があったと考えられる。観音堂の裏には沼影自治会館がある。その敷地内に祠が立っていた。祠はいつも鍵がかかっている。格子越しにのぞいて見ると一石に七体の坐像が彫られていた。確認はできなかったが左側面に造立年月日、右側面に庚申供養沼影村廣田寺と刻まれているという。元禄14(1701)造立、七仏を主尊とする江戸時代初期の庚申塔ということになる。石塔の下部、中央は猿で、両脇はどうやら狛犬らしい。他に類を見ない珍しい庚申塔と言えるだろう。
2023.04.12
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は沼影観音堂の石仏、長くなりますので二回に分けて紹介します。沼影観音堂 南区沼影1-6-30[地図]JR武蔵浦和駅の南を通る「田島通り」を西に進むと、250mほど先の信号交差点の右手前に沼影観音堂があった。参道の先、幟立ての向こうに観音堂。入口両脇に大きな二基の丸彫り重制が立っている。入口右脇 地蔵菩薩塔 享保17(1732)重厚な敷茄子、蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。錫杖の先を欠き、首に補修跡があるが、彫りはきれいに残っていて、尊顔は峻厳、堂々たる佇まいはやはり享保期の地蔵菩薩塔らしい。石塔の正面に「三界萬霊」右側面に造立年月日。左側面に天下泰平、國土安穏。裏面にも銘があった。右から 信州善光寺浅草観世音。中央に「奉納四十八度供養」左に武刕足立郡沼影村。さらに願主一名の名前が刻まれている。入口左脇 正観音菩薩立像 元文4(1739)左手に未敷蓮華を持ち、右手は一部破損しているが与願印。塔の正面「一切供養」左側面に造立年月日。右側面には武州足立郡笹目郷。続いて願主二名の名前。さらに施主 村中。裏面には偈文が刻まれていた。聖観音塔の裏、東向きに庚申塔 宝永5(1708)大きな角柱型の石塔の上に青面金剛像付きの四角い台が乗る。角柱型の石塔の正面、梵字「ア」の下に「奉造立庚申像爲二世安樂也」両脇に造立年月日と願文。下部に施主9人の名前。右側面に武蔵國足立郡笹目領沼影村と刻まれていた。四角い台の上の青面金剛は蛇冠、釣り目で口をへの字にした忿怒相。たぶん六臂と思われるが、合掌手以外は破損、右上の手に棒のようなものを持っているように見えるがこちらも判然としない。台の正面に頭を右にした邪鬼が横たわり、その下に三猿が彫られている。一見坐像に思える青面金剛だが、台の上にあぐらを組んでいるのではなく、ただセメントで接着した形、腹部から下は確認できなかった。断裂した立像の上の部分を角柱型の石塔に乗せたのではないだろうか。続いて三基の馬頭観音の文字塔で明治28年、明治41年造立。いずれも施主は個人だった。その先の小堂の中 丸彫りの六地蔵菩薩立像 宝暦9(1759)お世話するかたがマメなのだろうか、季節季節でいつも目新しい衣装。この冬はマフラーを巻いていた。左端の台の正面に造立年月日。さらに願主二名の名前。続く二基は「講中」とあり、その下に数名の名前。右の三基。右端には戒名と命日が、残りの二基はやはり「講中」その下に数名の名前が刻まれている。小堂の右脇 地蔵菩薩立像 明和4(1767)こちらはビニール傘をさしていた。厚い衣装に覆われ露出部分がほとんどないが、尊顔はふくよかで慈愛に満ちている。台の正面 梵字「カ」の下に「十方施主二世安樂」その両脇に造立年月日。左側面に願主一名の名前。右側面に沼影村と刻まれていた。
2023.04.08
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら鹿手袋の石仏の最終回です。日月社 鹿手袋7-13-9[地図]寶泉寺の100mほど西、大きな老人ホームの近くに日月社があった。右手前に石塔が立っている。出羽三山百観音供養塔 天保9(1838)四角い台の上、角柱型の石塔の正面「月山 湯殿山 羽黒山 坂東 西國 秩父 供養塔」塔の左側面に造立年月日。右側面に武刕足立郡與野領鹿手袋村。願主 個人名が刻まれていた。大聖不動尊 南区鹿手袋6-5[地図]寶泉寺から南へ向かい、次の交差点を左折、200mほど進むと道路左側に大聖不動尊の墓地がある。入口の右、ブロック塀の裏に宝珠を乗せた笠付きの六面石幢 寛文12(1672)が立っていた。六面それぞれに地蔵菩薩立像を浮き彫り。江戸時代初期に多く見られる六地蔵六面石幢である。正面の像の右脇「奉造立地蔵菩薩爲二世安樂也」左脇に造立年月日。足元の下の部分に、武刕足立郡與野領 鹿手袋村 施主 十二人 欽言と刻まれていた。他の面には銘は見当たらない。六体の地蔵像は素朴ながらそれぞれに美しい。不動堂の左手前に道標 寛政9(1797)が立っていた。角柱型の石塔の正面上部を舟形光背の形に彫りくぼめた中に虚空蔵菩薩像を浮き彫り。右手に宝剣、左手に宝珠を持つ。虚空蔵菩薩像の下、南 江戸 わらびミち。右脇に造立年月日。左脇に願主二名の名前。塔の左側面に西 よの かわごへ道。右側面は東 うらわ いわつき道。一部白カビが厚く銘が読みにくい。裏面はさらにカビが厚くなっていて、ライトをあててやっと読み取った。右に武州足立郡 鹿手袋村。ひだりのほうに願主とあり、二名の名前が刻まれている。1月19日の大谷口の石仏の記事の中で『中尾小学校南の墓地の中の正徳5年の地蔵菩薩塔(先日訪ねたら大きなマンションが立っていて現在は行方不明)』と書きましたが、私の勘違いでした。こちらが中尾小学校南の墓地の正徳5年の華見堂供養地蔵菩薩塔。同じ墓地の中に10年前には気が付かなかったのですが・・・板碑型の華見堂供養塔 元禄4(1691)を新発見!こちらはいずれ「緑区の石仏」で紹介いたします。それにしても中尾、大谷口、太田窪には「華御堂供養塔」が多いですね。普門品供養塔とか大乗妙典供養塔などはさいたま市内のどこでも見られますが、「華御堂供養塔」はあまり見られません。これは地域的な特徴なのでしょうか。せっかくですから、この機会にさいたま市内での華御堂供養塔の分布も調べてみたいと思います。地域的な特色と言えば、川越の一部で「萬人講」をひんぱんにみたり、最近では西区の石仏を取材して気が付いたのですが、指扇近辺で「無食供養塔」をよく見かけます。西区以外では見沼区の七里駅南の新堤で見た「不食供養塔」元禄16(1703)くらいだったか?今後このあたりも注意してみてゆきたいと思います。
2023.04.05
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は鹿手袋のJR武蔵野線南にある庚申塚の石仏です。JR武蔵野線南路傍 南区鹿手袋4-17[地図]寶泉寺の西の道路を中浦和方面に進み、武蔵野線の手前を右折して東に向かう。150mほど先、信号交差点の手前の道路左側に庚申塚があった。階段の左脇に石塔が立っている。雨除けの下 馬頭観音塔 天明5(1785)舟形光背に慈悲相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。塔の上部と顔のあたりが一部欠けていた。光背右脇に「馬頭觀音」その下に鹿手袋村。左脇に造立年月日。その下に施主は個人名が刻まれている。小堂の中 庚申塔 寛政11(1799)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。なお両側面の銘は堂内が暗いうえに堂の壁板との隙間が狭すぎて写真は撮れなかった。左側面はライトをあててやっと確認、中央に左 よの。その右脇に武刕足立郡與野領鹿手袋村。左脇に女人講 廿八人。右側面は銘が刻まれているのがやっとわかる程度、造立年月日などが刻まれているらしい。小堂の中はやはり薄暗い。江戸時代後期らしく彫りは細かく技巧的。発達した瑞雲に日天・月天。顔の周りに波打つのは衣装の一部か?右手に太い剣を持ち、左手は足を折り曲げ腰のあたりにすがりつくショケラの髪をむんずとつかむ。持物は矛・法輪・弓矢と普通だが、上のほうの腕の付き方がちょと不自然。以前どこかで見たことがあるような気がする。腰衣の紋様は独特。衣装のすそが跳ね上がり、その上にちょこんと二鶏。足元の邪鬼は二匹?三猿は両端が内を向く形だが、片手使いか?中央の猿はツタに絡まれているように見える。さて、10年前この庚申塔を取材したときは、さほど貴重なものとも思えず、おざなりに紹介したのだが、今回久々に見て驚いた。当時は何も知らなかったのだが、細部がその後岩槻区で見た庚申塔とそっくりで、これはもしかしたら岩槻石工の作品?いままで見沼区以外で岩槻石工の作品をほとんど見たことはなく、その意味では大変貴重な庚申塔といえるだろう。石仏研究の大先輩である五島さんが岩槻石工の作品に大変詳しく、以前いただいた資料をあらためて見てみると、この庚申塔をあの田中武兵衛の作品ではないかと推理されていた。見沼区片柳で田中武兵衛の二基の青面金剛庚申塔を初めて見たときには、その素晴らしさに感動したものだ。それがこんなに近くにあったとは、本当なら「灯台もと暗し」もいいところだ。参考までに岩槻区の庚申塔をあげておこう。岩槻区箕輪、久伊豆神社の庚申塔 寛政10(1798)腰衣の紋様、跳ね上がった衣装のすその上の二鶏、三猿の様子までよく似ている。こちらが見沼区片柳で初めて見た田中武兵衛の銘のある青面金剛庚申塔 文化7(1810)下部の邪鬼、二鶏、三猿にいたるまで、細密な彫り。独創的で素晴らしい庚申塔だった。
2023.04.02
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら関から南へ進み鹿手袋に入ります。今日は寶泉寺の石仏を見てみましょう。寶泉寺 南区鹿手袋6-3[地図]志木街道の別所沼の西、中浦和駅の少し手前の交差点を斜め左に入って四谷方面に向かう道路沿い、武蔵野線を越えて200mほど先の交差点の角を入ったところに寶泉寺の山門が立っていた。境内に入ってすぐ左側、ブロック塀の前に石塔が並んでいる。左端の宝篋印塔は昭和年代の新しいもの、基礎の正面に「先祖代々」となっていて個人の家の供養塔だった。お寺の有力な檀家さんなのだろう。庚申塔 寛文9(1669)宝珠を乗せた唐破風笠付角柱型の石塔。台の正面には蓮の花が彫られていた。この庚申塔はさいたま市指定有形民俗文化財で、境内にたてられた解説板によると、同じ寛文9年造立の庚申塔が桜区道場の金剛寺、栄和の重円寺にもあることから、江戸時代初期に荒川左岸のこの地域に庚申信仰が広まったことがわかるということだった。塔の正面を二段に彫りくぼめた中、上部に素朴な三猿。塔の両側面にも蓮の花が彫られている。三猿の下の部分、銘はやや薄くなっていた。阿弥陀三尊種子の下「奉念庚申供養爲二世安樂也」続いて本願 浄静。右脇 武刕足立郡與野郷鹿手袋村。左脇に造立年月日。最下部、両脇に同行 九人敬白と刻まれている。その隣 庚申塔 宝暦6(1756)四角い台の上、唐破風笠付角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめて、その中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭上は一部破損。面頬をつけた野武士のような顔立ちの青面金剛。持物は矛・法輪・鏑矢・弓。足元には大型犬のような邪鬼が横たわる。こちらも顔のあたりが傷つけられているようだ。二鶏も三猿も見当たらなかった。塔の左側面 武刕足立郡與野領鹿手袋邑、その横に庚申講發起とあり一名の名前。さらに結衆男女四十八人。右側面中央に「奉彫刻青面金剛」、両脇に造立年月日が刻まれていた。続いて小堂の中 丸彫りの六地蔵立像。昭和58年に100人余りの檀信徒が協力して造立されたもの、厚い信仰心が現在にまで残されている。その脇に大型の地蔵菩薩立像。紀年銘は見当たらず造立年はわからないが、古くから寶泉寺の境内にあったものだという。風化のために顔ははっきりしないが、大きな傷はなく比較的美しい状態を保っていた。石質や像の様子から考えて、造立は享保から宝暦あたりかと思うのだがどうだろう?もちろん確証はないのだが・・・像の正面、下部に薄く銘が残っている。□□與野領鹿手袋村 施主 講中。こちらは村の人たちが力を合わせて造立した「講中仏」だった。
2023.03.29
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら別所は南北に長く、北は別所沼あたりまで、その西、中浦和駅の西一帯が関になります。今日は関から二カ所の石仏を見てみましょう東福寺 南区関1-10[地図]中浦和駅の西200m程、鴻沼川の南、与野道から西に入ったところに東福寺の入口があった。境内に入ってすぐ、参道の右側には大小さまざまなサイズの板碑が集められている。その先に小堂が並ぶ。手前のトタン屋根の小堂の中には二基の庚申塔が並んでいた。右 庚申塔 延宝8(1680)四角い台の上 角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウーン」の下に日月雲 青面金剛立像。台の正面に蓮の花が彫られている。塔の上部は今は平らになっているが、元は笠付きだったのではないだろうか。青面金剛像の上は空白が大きく、そのぶん像は普通よりも小さく、遠目にベビーサタンのような姿の青面金剛はあまり迫力は感じられなかった。風化のために像の細部は漠然としている。怒髪、三眼、釣り目の青面金剛は四臂でこれは珍しい。持物を見ると、体の前の手は右手を下げ、棒状のもの(蛇だろうか?)を持ち、左手は矛をささげ持つ。体の後ろから出ている手は右手をあげ手のひらに法輪?を持ち、左手は下げて、ショケラ?を持っていた。ちょっと見たことのないユニークな構成は、江戸時代初期の庚申塔らしく自由な表現になっている。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元には小型の邪鬼、頭と腰のあたりを踏まれていた。その下に邪鬼よりも大きな正面向きの二猿。見猿を欠き二匹だが存在感はある。塔の右側面、青面新成で始まる27文字の銘文は、前回見た別所小学校西路傍の庚申塔の銘文と似ていて、やはり青面金剛のご利益を説いたものらしい。この二つの庚申塔の銘文は今のところほかでは見たことがない。場所的にも近いこともあり、なんらかの関連がありそうだ。左側面に造立年月日。その下に本願東福寺住 春夜とあり、続いて6名の名前が刻まれていた。左 庚申塔 寛政11(1799)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。丸い頭光背を負った三眼・六臂の青面金剛。頭上にとぐろを巻いた蛇を乗せて、持物は矛・法輪・弓・矢と、ここまでは典型的な青面金剛像。足の両脇に二鶏を浮き彫り。その下の邪鬼・三猿が個性的。青面金剛の足元のふんどし姿の邪鬼は首がねじれ、右手だけ前に出しその重さに耐える。左足は折り曲げているものの、右足は後方に大きく伸ばしている姿は初見。その下の三猿は両脇が内を向く構図。右の見猿は頭をそらし右足を前方に大きくあげているが、このような三猿もいままでに見たことがない。塔の右側面に造立年月日。その下に世話人とあり二名の名前が刻まれていた。左側面に武刕足立郡関村 女人講中と刻まれている。以前なにかの資料の中に「庚申塔は本来男性中心のもので、女人講中は珍しい」という記述があったが、実際回ってみると、江戸時代中期以降では女人講中の庚申塔を多く見かけた。本当のところは「女人講中の庚申塔の時代的分布」を調べてみなければわからないと思うのだが、いつかその機会はおとずれるだろうか?次の小堂の中には丸彫りの六地蔵菩薩塔が祀られていた。それぞれの石塔に個人の戒名が刻まれている。その命日は天明、安永年間のものだが、造立年などは分からない。石塔、敷茄子、蓮台、像と、六体の様子はよくそろっている。ただ、頭部の損傷が著しく、左端を除いて尊顔はみなのっぺらぼうだった。六地蔵の奥に屋根型の笠を持つ宝筐印塔 明和3(1766)こちらは個人の墓石である。一番奥の小さな小堂の中 不動明王坐像 天保3(1832)大きな四角い台の上、駒型の石塔の正面に不動三尊像。風化が進み、一部熔けだしていて様子はいま一つはっきりしない。炎の光背の前に剣と羂索を手にして座る不動明王。その下に滝を挟んで左右に矜羯羅童子と制吒迦童子を浮き彫り。台の正面に西 引又 大山 道。台の右側面に関村講中。その奥に右 うらわ道と刻まれていた。台の左側面に左 よの道。江戸時代後期らしく道標になっている。東福寺東「与野道」路傍 南区関1-4[地図]中浦和駅から高沼川沿いに遊歩道を西に歩き、初めの橋を南に渡ると左手に石塔が立っていた。この道は北に進むと与野本町に至る古道「与野道」である。塔の立っている場所は東福寺の入口から東へ出てきた突きあたり、二件の住宅の間のスペースになる。この付近は区画整理で道路が拡張され、石塔は「与野道」から10m以上奥に立っているために見逃しやすい。石尊大権現塔 寛政6(1794)2m近い高さの角柱型の石塔の正面に大きな字で「石尊大権現」左側面に「大山大聖不動明王」石尊信仰とは、大山阿夫利神社を中心とする山岳信仰だという。塔の右側面、下部に當村 世話人とあり、一名の名前。その横に浦和の石工名の名前が刻まれている。裏面右上に造立年月日。左中ほどの銘から昭和38年に再建されたものとわかる。中央に「講中」右下に武州足立郡。最下部に関村、岸村、別所村、鹿手袋、上之宮、浦和宿と刻まれていた。
2023.03.26
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら白幡の北西、国道17号線の西が別所になります。真福寺 南区別所2-5-14[地図]国道17号線の別所坂下交差点から北へ進み、100mほど先を左折すると、道路右側に真福寺の入口があった。山門手前、左側の奥に宝篋印塔 文久元年(1861)大きな基壇の上に立っている。境内に入ると左手の植え込みの中に石灯篭や石仏が立っていた。境内は手入れが行き届いていて気持ちがよい。中央付近、馬頭観音立像元文元年(1736)小さな舟形光背に八臂の馬頭観音像を浮き彫り。持物は風化のためにはっきりしないが、棒・法輪、斧・矢?、与願印・数珠?か。頭上に大きな馬頭。静かな表情は慈悲相だろう。光背右脇に造立年月日。左に梵字で「アビラウンケン」胸前の手の形は馬頭観音特有の馬口印ではなく智拳印のように見える。もしそうなら寶性寺の住職墓地で見た馬頭観音に続いて二例目だが、他に智拳印の馬頭観音というのはあるのだろうか?興味深い。本堂の左手前あたり、大きな丸彫りの地蔵菩薩立像 享保14(1729)志木、新座、清瀬を回っているときに気が付いたのだが、この手の大型丸彫り重制の地蔵菩薩塔は享保年間に圧倒的に多い。尊顔も美しく錫杖も健在だが宝珠は左手ともども欠けていた。石塔正面中央「地蔵講中」両脇に造立年月日。塔の左側面中央「別所村中」まわりに八つの戒名。右側面にも22の戒名が刻まれている。本堂の目の前 六地蔵石灯籠 承応元年(1652)さいたま市内でも最も古い六地蔵塔のひとつ。ただし火袋と笠は破損したものを修復したのだろう、石の色が違っていた。正面の地蔵像の下の部分に造立年月日。下部に施主6名の名前。地蔵像はクリアではないが素朴で味わい深い。六体の地蔵菩薩像のうち、裏面と右隣の二体はあきらかに石の色が違っていて、新しく補修されたものと思われる。道路の北側に山門がたっていて、南側には墓地がひろがっていた。正面の大きな木は市指定天然記念物「さかさ銀杏」以前来た時には銀杏の木の右のほうに六地蔵と板碑があり、銀杏の木の周りには数基の石仏が並んでいた。その後、墓地内は整備され配置が大きく変わっている。銀杏の木のすぐ近くに六地蔵の小堂が西向きに立っていた。六地蔵塔。右から三番目の石塔に六辻村字別所真福寺柤中、4番目の石塔に大正四年再建と刻まれている。その他に銘は見当たらず創建年月日など詳細は不明。以前は六地蔵塔の横にあった板碑は墓地の奥のほうに移動されていて、その小堂の脇に解説板が立っていた。小堂の中 阿弥陀三尊種子板碑 正和3(1315)高さ170cm。堂の中、風雨から守られて板碑は美しい状態を保っている。別所小学校西路傍 南区別所2-9[地図]真福寺の前の道を西に向かうと一方通行の道に突き当たる。ここを右折して坂道を登ってゆくと、右手の住宅の隅、雨除けの下に石塔が立っていた。庚申塔 正徳3(1713)四角い台の上の角柱型の石塔に台座を乗せて、その上に駒型の石塔。正面に青面金剛立像を浮き彫り。総高は2m近くなる。日月雲 青面金剛立像 合掌型八臂。頭上に蛇を乗せドクロの首輪をした三眼の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢、中ほどに断裂跡があり、最後の手の持物は不明。風化がありはっきりしないが、足元には邪鬼?二鶏・三猿は見当たらない。角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウーン」の下に三行の銘文。青面金剛のご利益を説いたもののようだ。塔の右側面に造立年月日。左側面には別所村講中尼女十八人と刻まれていた。女人講中だろう。
2023.03.21
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら白幡、残り三か所の石仏を見てみましょう、白幡沼南畔 南区白幡2-17[地図]国道17号線別所下交差点あたりの東に白幡沼がある。沼の周りは遊歩道になっていて、散歩する人も多く見られる。その南岸の道を東に進むと左手に二基の庚申塔が並んでいた。右 庚申塔 宝永4(1707)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。とぐろを巻いた蛇を頭に乗せた三眼の青面金剛は目を吊り上げて正面をにらむ。上右手に矛、左手には法輪ではなく蛇を持っていた。像の右脇に「奉造立庚申塔現當爲安穏所」左脇に造立年月日。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は弱弱しく横たわる。その下に正面向きの三猿。丸い目が可愛い。さらにその下の部分に施主とあり、ひらがなで8名の名前が刻まれていた。左 庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。やはり蛇を頭上に乗せた青面金剛、こちらは顔がつぶされてる。像の右脇「奉造立庚申像供養一結講衆現當悉地」左脇に造立年月日。持物は矛・法輪・弓・矢。足元にひしゃげた邪鬼、その両脇に二鶏。さらに正面向きの三猿。このあたりは隣の庚申塔とよく似ていて、造立年に2年の隔たりがあるが、同じ石工の仕事かもしれない。三猿の下の狭いスペースに11名の名前が刻まれていた。地蔵堂 南区白幡1-16[地図]醫王寺の南の信号交差点から南へ進む。一方通行の道を200mほど行くと道路左手の交差点の角に墓地があった。このあたり、道路左側一帯が高台で坂が多く、墓地は急な石階段を上った先に広がっていて、正面には医王寺の境外堂である地蔵堂が立つ。階段下の右手の一角、敷地の角のあたりの雨除けの下にお地蔵様が祀られていた。地蔵菩薩立像 享保14(1729)風化は少なく、彫りもきれいに残っている。錫杖・宝珠ともに健在。頭部石材は他の部分に比べて白っぽいもので、こちらはあとから補修されたものらしい。台の正面に「念佛講 村中」右側面に願主名、左側面には造立年月日が刻まれていた。地蔵堂へ向かう急な石階段を上り切った左側に二基の石塔が並んでいる。形も大きさもよく似た二基の石塔。左の石塔には「念佛講中」右の石塔には宝暦7(1757)の紀年銘が刻まれている。2基とも上部に穴があり、もしかしたら石仏が乗っていた跡かもしれない。六地蔵塔の残欠か?はっきりしたことは分からないが・・・地蔵坂東住宅前 南区白幡1-6[地図]地蔵堂の右手の急な坂道をのぼり、次のT字路交差点を右折、100mほど進むと道路左手の住宅の前に小堂がたっていた。小堂の中 庚申塔 享保12(1727)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。忿怒相ではあるが顔は丸くふくよか。持物は上右手に三叉戟、左上手に法輪、下は弓矢。足元に邪鬼・二鶏の姿は見当たらない。下の台の正面には大型の正面向き三猿が彫られていた。塔の右側面「奉造立青面金剛諸願成就攸」左側面に造立年月日。その右脇に白幡村講中十八人と刻まれている。
2023.03.16
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は白幡沼近くにある真言宗寺院 醫王寺の石仏を見てみましょう。醫王寺 南区白幡2-16[地図]醫王寺は武蔵浦和駅の東500m程、国道17号線を越えた先の信号交差点の近く、白幡中学校の南にある。境内に入ると正面に大きな鐘楼門が立っていた。鐘楼門の手前右手、コンクリートでひな壇がもうけられ、三段に石仏が並んでいる。その多くは墓石で、そのまわりにもいくつか石塔が立っていた。ひな壇前列中央 弘法大師供養塔 天保5(1834)片岩正面「弘法大師一千年忌供養塔」両脇に造立年月日が刻まれている。前列右端 こちらは寛文4年と延宝8年の命日と二つの戒名が刻まれた墓石だが、きれいな形の舟形光背に二臂の如意輪観音坐像、風化もなくその姿は凛として美しい。ひな壇の右脇に 石坂供養塔 安政4(1857)正面に「石坂供養塔」下部には十数人の名前。塔の右側面に造立年月日。その下に世話人5名の名前。左側面には當邑中と刻まれていた。ひな壇の右端、裏に隠れるように石塔が立っている。ひな壇に向いている面がこの石塔の左側面、右に見えているのが裏面でこちらは無銘だった。風化のために銘は読みにくい。右に天保4年の紀年銘。中央に薄く「光明呪唱・・・・」左脇にも文字らしきものが見えるが読み取れなかった。ひな壇をぐるっと回ってこちらが正面になる。石塔の上部に光明真言曼荼羅。その下中央に「三百万遍供養塔」右側面の「光明呪唱・・・・」と合わせると(呪=真言)「光明真言三百万遍供養塔」ということになるだろう。下の台に「唱主」とあり、同行四拾貳人と刻まれていた。こちらは左側面。中央に大きく「弘法大師」その下に白幡村醫王寺。右脇に第四十番伊豫國観自在寺冩、 左脇には四十一番江十八町と刻まれている。(北足立八十八ヶ所霊場の41番は南浦和駅近くにある寶性寺)鐘楼門をくぐって本堂の前に進むと右手前に大きな板碑が立っていた。2mを越す大きな板碑 延慶2(1309)上部と下部に欠損があるらしいが、それでもその規模の大きさは群を抜く。上部に薬研彫りされた雄渾な「キリーク」が印象的。市の有形文化財になっている。鐘楼門の手前左のほう、石の階段の先に薬師堂が立っていた。階段を上り切ったあたり、石灯籠 文政2(1819)や宝篋印塔 寛保3(1743)をはじめ多くの石塔が立っている。宝篋印塔の手前に珍しい形の石塔があった。緑泥岩の自然石の中央に唱主 廣観直性大法子と刻まれている。右脇に寛政9(1797)年の紀年銘。左脇には「奉納□□□□□万編誦之」と刻まれていた。肝心な部分は自然石の表面が一部剥落しているため読めないが、鐘楼門右手で見た「光明真言供養塔」と同じように唱主などの銘があり、こちらも「光明真言供養塔」ではないだろうか。
2023.03.13
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら辻からあとは、北へ白幡、別所、関と進む予定です。白幡観音から見てゆきましょう。白幡観音 南区白幡4-14[地図]国道17号線、武蔵浦和駅入口交差点から東京方面に500mほど、白幡歩道橋のあたりの路地を右に入った先に白幡観音の入口があった。寺標の立つ入口の手前、道路右脇に石塔が立っている。普門品供養塔 嘉永3(1850)四角い台の上、角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品供養塔」両脇に天下泰平・五穀成就。塔の右側面に「坂東十一番」左側面に造立年月日。続いて「巻數三万七千五百諸願成就所」さらに邑中安全と刻まれていた。台の正面に「連經講中」右側面は無銘。左側面に世話人一名の名前が刻まれている。境内に入って右奥に観音堂。左側には観音堂に向き合うように多くの石塔が並んでいた。まずは丸彫りの六地蔵菩薩立像 正保元年(1644)古仏である。さいたま市内では最も古い六地蔵塔だろう。これまで見た限りでは、江戸時代初期には六面六地蔵石幢や一石六地蔵塔などが多く、続いて舟形光背の六地蔵塔があらわれ、丸彫りの六地蔵塔は江戸時代中期以降に多くなるような気がする。そういう意味からも貴重な六地蔵塔と言えるのではないだろうか。六体はよくそろっていて尊顔は穏やか。今にも動き出して声をかけてきそうな、生き生きとした雰囲気が漂っていた。後ろに回ってみると背中に戒名と施主名、六体ともに同じ書体でほぼ同じ内容の銘である。一番奥、右端のお地蔵様の背中に造立年月日が刻まれていた。その隣 大乗妙典供養塔 天明4(1784)三段の台の上に角柱型の石塔。さらに敷茄子・蓮台を重ねた上に大きな輪光背を負った地蔵菩薩坐像。石塔の正面「奉納大乗妙典日本廻國」左側面に造立年月日。その横に武州足立郡白幡村。下部に願主、世話人、各一名の名前が刻まれている。右側面には安永五(1776)常陸國水戸領。さらに左側面とは別の願主の名前が刻まれていた。これはどう考えたらいいのだろう?回国行者が水戸出身?安永5年=発願、天明4年=満願だろうか?続いて石灯籠供養塔 正保元年(1644)六地蔵塔と同じ造立年である。角柱型の石塔の正面「奉造立石灯籠現當二世成就」石塔の上の石仏。首がもげていて確認はできないが地蔵菩薩坐像だろうか。胸の前に宝珠?を持っていた。塔の正面に「奉造立石灯籠現當二世成就所」下部両脇に二名の名前。左側面は無銘。右側面下部に願主 敬白と刻まれている。右端には小さな板碑を挟んで二基の小型の五輪塔と宝篋印塔。江戸時代初期のものと思われるが銘は確認できなかった。おしゃびき様 南区白幡4-2[地図]白幡観音の少し南から国道17号線に並行して細い道がはしっている。この道は六辻交差点あたりで国道と合流するが古道だろうか。その途中の路地を右に入った先に瓦屋根の小堂がたっていた。小堂の中 おしゃびき様 元禄11(1698)丸彫りの坐像は多くの前掛けを重ねてかけられていて像の様子はわからない。咳止めに効果があるということで信仰されているらしい。前掛けは病気の回復のお礼参りに奉納されるという。前掛けを上げてのぞいて見ると腹の前に三角おにぎり?を持っていた。寶性寺の六地蔵の脇に祀られていた「おしゃびき様」とほぼ同じデザインである。(2023.02.10の記事参照)どうやら老婆の像らしい。石仏というよりも実在の人物をを彷彿される写実的な表現になっていた。実際に見ることはできなかったが、酒井さんによると背面に造立年月日が刻まれ、さらに施主だろう、白端田村 作兵衛とあるという。おしゃびき=しわぶき=咳とのこと、咳を鎮めるご利益ありと、信仰は今に続くという話だった。
2023.03.10
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら南区辻は意外と広く、外環道を越えて北戸田駅近くまで南区辻になります。今日は北戸田駅北の緑道にある庚申堂の石仏を見てみましょう。庚申堂 南区辻8-20-13[地図]外環道の辻六丁目(東)交差点から南へ進み、橋を渡った先の交差点を左折、遊歩道に入るとすぐ左手に小堂がたっていた。新しいきれいな小堂の中、南向きに並ぶ二基の庚申塔。この二つの庚申塔は、以前は辻五丁目交差点の南路傍にあったもので、平成24年にこちらに移されたものらしい。右 庚申塔 天明7(1787)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が進み顔は削れていた。矛・法輪・弓・矢は比較的しっかり。前手の剣とショケラは損傷、ショケラは見る影もない。足元にうずくまった邪鬼が前をうかがう。その両脇に二鶏を浮き彫り。三猿は台の正面に彫られていた。塔の右側面、奥に造立年月日。その横にむかう はやせ道。さらに辻村講中と刻まれている。左側面には二つの地名。彫りは薄くなっていて読みにくい。□□うらハ道。左ハ おふやま□道。道標になっていた。左 庚申塔 嘉永6(1853)角柱型の石塔の正面に大きく「庚申塔」「塔」の右脇に薄く 南 引又道と刻まれている。ちょっと気をつけないと見逃しそうだ。塔の右側面 はやせみち、壱町程ゆき 左 わらび道。左側面 うらわみち、続いて連經講中、世ハ人二名の名前。奥に造立年月日が刻まれていた。
2023.03.05
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は辻の和光院の石仏を見てみましょう。和光院 南区辻3-11[地図]萬蔵寺の200mほど西の住宅街の中に和光院があった。広い駐車場の先の山門の左脇に弘法大師像、右のほうに寺導が立っている。入口のすぐ右側、フェンス付きの塀の近くの植え込みの中に石塔が立っていた。光明真言供養塔 寛政9(1797)角柱型の石塔の正面「奉納光明真言三百万遍供養成就之塔」塔の右側面に造立年月日。その下に講中 六拾人。さらに願主、世話人それぞれ一名の名前。左側面上部に「南無遍照金剛」下部に八十八ヶ所之内 四十六番移と刻まれていた。山門から境内に入って左側に阿弥陀堂がたっていて、その先が墓地になる。阿弥陀堂の手前に三基の地蔵菩薩塔が並んでいた。大中小と揃った三基の丸彫りの地蔵菩薩塔。以前来たときは中央の地蔵塔の後ろに銀杏の大木があったが、今は切り株だけが残されていた。また、この左端のあたりに「キリシタン灯篭」と思われる石塔が立っていたのだが、どうやら整理されてしまったようで、今はみることができない。(2014年1月20日の記事より)左 地蔵菩薩立像 明和4(1767)石塔にいくつか戒名が刻まれていてこちらは墓石だった。中央 大乗妙典供養塔 寛政6(1794)二段の四角い台の上角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。石塔の正面 中央に「奉納大乗妙典六十六部日本廻國諸願成就所」上部両脇に天下泰平、その下両脇に造立年月日。右下 江戸□、左下に願主圓□と刻まれている。右 地蔵菩薩立像 寛政11(1799)大きな四角い台の上、角柱型の石塔に恰幅のいい地蔵菩薩立像。堂々たる石仏だが、戒名が刻まれていてこちらも墓石だった。阿弥陀堂の裏に大きな聖観音立像をいただいた無縁塔があった。墓石の多くは文字塔だが、四辺の中央には美しい像塔が配されている。正面に寛文元年(1661)、右に延宝3(1675)、左には正徳2(1712)いずれも舟形光背型の聖観音菩薩塔だった。裏面の中央には元禄2(1689)の阿弥陀如来立像。その右上にひときわ目を引く大型の石仏が立っていた。薬師如来立像 延宝8(1680)腹の前で薬壺を両手に乗せて持つ。彫りは厚く比較的白カビも少ない。墓石で薬師如来像というのは珍しく、貴重な石仏と言えるだろう。無縁塔の先に五基の石塔が並んでいる。右の大きな角柱型の三基の石塔はいずれも墓石、左から2番目は宝篋印塔 享保10(1725)左端 大乗妙典供養塔 宝永8(1711)宝珠をのせた唐破風笠付き角柱型の石塔。正面を彫りくぼめた中、上部に智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像を浮き彫り。その下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國諸願成就」上部両脇に天下泰平。その下両脇に造立年月日。右下に願主とあり左下に哲譽□賢と刻まれていた。塔の右側面 上部に四國 西國 秩父 坂東。下部に30名ほどの名前。左側面に武刕足立郡浦和領辻村。こちらも下部に30名ほどの名前。裏面上部、浦和町、本太村、白幡村など近隣42ヶ村の名前、下部にやはり30名ほどの名前が刻まれていた。三面合わせると100名ほど、これだけ広い範囲の、また多くの人たちをつなぐネットワークがあったというのは驚きである。
2023.03.02
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は辻の萬蔵寺の石仏です。萬蔵寺 南区辻2-25[地図]国道17号線の辻交差点から南へ100ほど、道路左側に万蔵寺の入口があった。入口から入ると正面に大きな駐車場、左に折れると正面に赤いトタン屋根の本堂が立っている。参道両脇に石塔が並んでいた。参道の右脇に四基の石仏。駒型の青面金剛庚申塔と三基の角柱型の石塔である。右から 出羽三山供養塔 安永3(1774)反花付きの四角い台の上、四角い敷茄子とやはり四角い蓮台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、上部に大きく梵字「アーンク」。その下にやや小さく梵字が三つ、おそらく出羽三山を表すのだろう。続いて 月山 湯殿山 羽黒山。スケールの大きな石塔である。塔の右側面に造立年月日。下部に数名の名前。左側面中央に武州足立郡浦和領辻村。その下に横に大きく「講中」さらに右に願主とあり、続いて多くの名前が刻まれていた。その隣 庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが多い。頭上に蛇が頭を垂れる。像の左脇に造立年月日。右脇「奉造立庚申供養佛二世 證大菩提」足元に正面向きの邪鬼。上半身型で、腕をM字に張っている。その腕の両脇に二鶏。丸っこい三猿は中央が正面向き、両脇が内を向く。三猿の下に十数名の名前が刻まれていた。続いて大きな角柱型の文字塔 文政9(1826)。正面には 「教道法子」筆子塔だろうか?その左側面に 「敷石供養塔」 下の台の正面には万蔵寺 檀中 世話人。台の左側面にも同世話人とあり、二名の名前が刻まれていた。左端 庚申塔 安政2(1855)角柱型の石塔の正面に「庚申塔」下の台の正面に「連經講中」こちらの石塔も白カビが多く銘が読みにくい。正面「庚申塔」の塔の文字の右脇に小さく銘が見える。□ら□(道)うらわ道か?塔の右側面に造立年月日。左側面には南 はやせ道。ライトを使ってやっと確認できた。参道左側、ブロック塀の前にも石塔が並んでいる。一番奥、本堂の左手前に六地蔵の小堂が立っていた。手前から、線香立て二台と二基の石塔が並ぶ。左 庚申塔。上部が斜めに欠けていて、石塔の正面には「□申塔」左側面には紀年銘らしき文字が見えるが一部剥落のため読み取りは困難。造立年は分からない。右側面、南 はやせ ひきまた。道標になっていた。右 馬頭観音立像 宝永7(1710)頭上にはっきりとした馬頭。顔は削られていた。舟形光背の左脇に造立年月日。右脇「奉造立華見塔供養□證大菩提」華御堂供養塔らしい。馬頭観音では珍しいものと思われる。光背左下に施主 辻村 拾六人と刻まれていた。六地蔵の小堂の左手前に三基の馬頭観音塔が並んでいる。左 馬頭観音立像。舟形光背は風化が著しく進み、観音像の上部は大きく剥落。そんな中、馬口印を結んだ両手だけがしっかり残っていた。銘は見当たらず造立年など詳細は不明。中央 馬頭観音塔、駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」右脇に文化とだけ見えているが造立年は欠けている。右 馬頭観音塔。剥落した部分に白カビがこびりつき、銘はほとんど見当たらないのだが、目を凝らしてやっと「馬」らしき字が見える。やはり詳細は分からない。小堂の中、六地蔵菩薩立像 安永4(1775)丸彫りの六体のお地蔵様はサイズ、表情などよく似ている。右端の蓮台の色が違っているのは補修されたものだろう。左端の石塔の正面には信心道俗男女、3番目に辻村講中七拾人。右から2番目に造立年月日が刻まれていた。本堂の裏いったいに墓地がひろがっている。本堂のすぐ真裏には無縫塔などと一緒に二体の丸彫りのお地蔵様が並んでいた。左 地蔵菩薩立像。本来の石塔部を欠いているため銘が確認できず、造立年など詳細不明。彫りは細かく表情も生き生きとしていて堂々たる佇まい。石質も硬く、江戸時代初期のものかもしれない。右 日参供養塔 享保9(1724)角柱型の石塔に敷茄子・蓮台を重ねて、その上に丸彫りの地蔵菩薩立像。整った尊顔、錫杖、宝珠も健在。首に補修跡も見当たらなかった。角柱型の石塔の正面「日参供養像」両脇に造立年月日。「日参供養」というのはこれまで他に見たことはなく大変珍しい。毎日このお地蔵様にお参りする人たちの講があったということだろうか。
2023.02.27
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら文蔵の西、国道17号線を越えた先は辻になります。今日は吉祥院の石仏を見てみましょう。吉祥院 南区辻2-3[地図]国道17号線の辻五反田交差点のあたりから住宅街の中を西に向かう。国道と平行して走る旧中山道の近くに吉祥院があった。入口から正面に本堂、右脇に小堂が二つ、その右奥に屋根が見えているのは鐘楼、さらにその奥が墓地になっている。ブロックづくりの二つの小堂、手前には六地蔵が祀られていた。それぞれの台に戒名などが刻まれているが、紀年銘は見当たらず造立年など詳細は分からない。奥の小堂の中 丸彫りの地蔵菩薩立像 享保11(1726)大きなマントをまとっているため像の様子をうかがうことはできなかった。 角柱型の石塔の正面、梵字「カ」の下に「奉建立地蔵大菩薩廻國供養所」両脇に造立年月日。左下に願主 浄念と刻まれていた。塔の左側面には二つの戒名、右側面に三界萬霊十方含識と刻まれている。小堂の向かい、西側のブロック塀に沿って多くの石塔が並んでいる。入口近くには比較的小型の墓石などが集められていた。最前列の中 馬頭観音塔。舟形光背に六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背も像も白カビが多くはっきりしない。銘は確認できず詳細不明。以前来たときは・・・こちらは2014年の1月の取材時の写真。白カビも少なく、頭上の馬頭はくっきり。目を吊り上げて見事な忿怒相。10年足らずでここまで白カビが増えたのには驚く。ブロック塀の前には大型の石塔群。左から大乗妙典供養塔 正徳2(1712)四角い台の上、蓮台に唐破風笠付き角柱型の石塔。石塔の正面を彫りくぼめた中 上部に智拳印を組む大日如来坐像を浮き彫り。その下に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国諸願成就」両脇に天下・泰平。さらに造立年月日が刻まれている。塔の右側面 武刕足立郡浦和領辻村。左側面、梵字「ア」の下に西國 四國 秩父 坂東。その下はくぼみ穴がいくつも穿たれていて銘が読みにくい。二列の銘はいずれも最後は二世安樂だった。裏面に「光明真言百五十万遍」「念佛百五十万遍」下部に多くの名前が刻まれている。その隣 宝篋印塔 宝暦8(1758)塔身四面にぞれぞれ梵字が刻まれ、基礎正面と両側面に偈文。裏面 武州足立郡浦和領辻村吉祥院現住 宥星。中央に「尊勝陀羅尼講中」その両脇に造立年月日。左下には江戸深川大工町の石工名が刻まれていた。続いて歴代住職の墓石が並ぶ。まずは三基の五輪塔、左から延享4(1747)寛保元年(1741)正徳3(1713)の銘が刻まれていた。さらに元禄15(1703)の宝篋印塔、続く唐破風笠付き角柱型の石塔は正保4(1647)、その奥の笠付き角柱型の石塔には寛文2(1662)と慶安2(1649)の二つの命日と戒名が刻まれていた。いずれも江戸時代初期の墓石で、吉祥院の歴史の古さを感じさせられる。
2023.02.22
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は文蔵の薬師堂、貴重な石仏が多く見られます。薬師堂 南区文蔵4-7-5[地図]南浦和駅西口から1kmほど南、六辻水辺公園の近くに文蔵薬師堂がある。山門から境内に入ると、正面に本堂、参道左脇に多くの石塔が一列に並んでいた。左から 大乗妙典供養塔 宝暦(1759)角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。白カビにまみれているが堂々たる立ち姿である。角柱型の石塔の正面中央「奉納大乗妙典六十六部日本回國」左側面に一切聖霊とあり数人の名前が刻まれていた。続いて三基の宝篋印塔。時代とともに少しずつ笠などに特徴があって面白い。左 宝篋印塔 8(1711)外反する隅飾と発達した相輪を持つ。基礎の左側面、造立年月日に続いて造塔施主とあり個人の名前が刻まれていた。中央 宝篋印塔。造立年不明。屋根型の笠を持ち、相輪は途中で折れているが左の宝篋印塔に比べるとだいぶ細くなっているようだ。こちらは江戸時代中期以降のものと思われる。台の裏面に石工名とともに紀年銘らしきものが見えて、一生懸命よんでみたのだがはっきりしなかった。基礎の四面には偈文が刻まれている。右 宝篋印塔 寛延元年(1748)屋根型の笠を持ち、宝珠をのせた相輪は健在、塔身、基礎ともにほっそりしている。基礎の正面に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」とあるので大乗妙典供養塔とすべきだろう。台の右側面に造立年月日が刻まれていた。その奥に地蔵菩薩塔 万治3(1660)舟形光背に長い錫杖を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭上に梵字「カ」この長大な錫杖は江戸時代初期の地蔵菩薩像に見られる特徴というべきか、先日太田窪の普門寺の明暦2年塔、桜区町谷の慈観寺の慶長13年塔など、これまでいくつか見てきた。光背右脇に武刕足立郡文蔵村善根諸當邨中。光背左脇に造立年月日が刻まれている。その隣地蔵菩薩立像 元禄10(1697)シャープな舟形光背に浮き彫りされたお地蔵さまは眉目秀麗、バランスの良い立ち姿、光背、錫杖、宝珠など欠けることなく300年以上の時間を経てもその美しい姿を保っていた。光背右脇「奉安置地蔵菩薩二世大願円満成就處」さらに願主文蔵村、光背左脇に造立年月日。その下に個人名が刻まれている。横から見ると彫りは厚く、表情も生き生きとしていた。小堂の中に六地蔵菩薩立像。それぞれに戒名と文政10(1827)から文久2(1862)までの命日が刻まれている。像の様子からは六体一緒に造立されたものと思われ、江戸時代末期のものだろう。六地蔵の小堂の右脇、本堂近くに地蔵菩薩立像 明和2(1765)丸彫りの大きな地蔵菩薩塔だが、こちらは個人の供養のために造立されたもののようだ。塔の左側面に施主として刻まれた名前は宝永8年の宝篋印塔の施主と同じ姓で、文蔵村の相当に有力な家なのだろう。山門のところから塀に沿って西に歩いてゆくと、交差点の角のところに四基の石塔が西向きに並んでいた。右から 庚申塔 宝永5(1708)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足元にぺしゃんこな邪鬼。その下に身を寄り添うように座る三猿が彫られている。青面金剛の顔の真ん中には小さな穴が穿たれていて痛々しい。塔の右側面に「奉造立庚申尊形者本地大日如来之化身 二世大願悉地成就圓満處」青面金剛は本地仏大日如来の化真ということだろう。こちらは初見。塔の左側面に造立年月日。その下に衆中之願 文蔵里と刻まれている。下の台の正面には講中とあり続いて13人の名前、左側面を見るとそこにも3名の名前が刻まれていて、合わせて講中16名ということになるだろう。その隣 石尊大権現塔 文政10(1827)上部にくずし字で大きく「石尊大権現」中央に炎の光背を背に、右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王坐像を浮き彫り。小さいが彫りは細かく迫力がある。その下には村中と刻まれていた。塔の右側面 北 うらわ 東 はとがや 南 わらび と刻まれていて、江戸時代後期の石塔らしく道しるべになっている。左側面に造立年月日。その下に せハ人 當村とあり一名の名前が刻まれていた。続いて庚申塔。荒彫りの文字塔。側面に銘らしきものが見えるが確認できず造立年など詳細は不明。角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中「庚申塔」その下に観音講中と刻まれている。左端 庚申塔 安政2(1855)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が進んでいて、塔の上部、損傷が大きく顔のあたりは崩れ、白カビにまみれたショケラは合掌していた。青面金剛の足元、邪鬼は剥落、原形をとどめない。台の正面に彫られた三猿も摩耗して丸くなっている。塔の右側面上部に足立郡文蔵村、その下に東 はとがや道 二リ。左側面中央「(奉)造建庚申待供養塔」両脇に造立年月日。その下に 前 わらび道十五丁、北 うらわ道と刻まれていて、こちらもやはり道標になっていた。
2023.02.19
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら南浦和の西南、文蔵に入ります。今日は馬頭観音堂の石仏を見てみましょう。馬頭観音堂 南区文蔵1-19[地図]南浦和駅の南、JR京浜東北線にかかる南浦和陸橋を西に降りきった先の信号交差点のすぐ手前、道路左側に馬頭観音堂があった。同じ敷地内には文蔵第一自治会館がたっている。入口近く、ブロック塀の前に四基の石塔が南向きに並んでいた。左端 馬頭観音塔 享保元年(1716)舟形光背に一面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背右脇に造立年月日。大きな馬頭を乗せた丸顔の観音様。尊顔は口の周りに傷があり怒っているようにも見えるが、近づいてみると静かな表情で慈悲相だろう。胸前で馬口印を結び、腹前に両手を組んで宝珠を持ち、右上手に矛、左上手に宝輪、合わせて六臂。弓矢の代わりに宝珠持ちの六臂像というのは珍しい。光背左下に施主 文蔵村とあり、個人名が刻まれていた。この時代に個人でこのような本格的な像塔を造るのは大変だったろう。その隣 普門品供養塔 天保9(1837)角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「普門品供養塔」両脇に天下泰平 國土安穏。塔の左側面に造立年月日。右下に 西 引又道。左下に北 うらわ道。右側面中央に力強く足立郡文蔵邑。右下に東 はとがや道、南 わらび道と刻まれていて、四方向四地名入りの道標になっていた。下の台の正面と左側面に、薄くなっていて読みにくいが二十名ほどの名前が刻まれている。続いて斃馬供養塔 昭和6(1931)建石主とあり個人名が刻まれていて、亡くなった愛馬の供養のための造塔らしい。右端 馬族供養塔 昭和51(1976)施主は個人名、他73名となっているが、馬が社会生活の中で重要な役割を担っていた江戸時代ならいざ知らず、戦後の経済成長を遂げた昭和の時代に「馬族」の供養に賛同された73人とはいったいどういった人たちなのだろうか?大変興味深い。
2023.02.16
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら南浦和駅の西、根岸の石仏を見てみましょう。一ツ木公園西 南区根岸1-3-5[地図]さいたま市文化センターの東にある一ツ木公園。その西の向いのマンションの植え込みの中に石塔が立っていた。庚申塔 安永4(1775)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。石塔の表面は風化が進み、像もはっきりしない。持物は矛・法輪・弓・矢足元に正面向きの邪鬼、全身型で面白い髪型をしていた。その下の三つ並んだこぶのようなものは三猿の頭のようだ。右側面に造立年月日。その下に世話人とあり、一名の名前が刻まれている。左側面上部に「講中」その下に二段に渡って八名の名前が刻まれていた。根岸薬師堂 南区根岸4-2[地図]文化センターの北を通る一方通行の坂道を登って西に向かう。次の信号交差点の角に根岸薬師堂があった。同じ敷地内に根岸公会堂が立っている。入口から入って右手、お堂の右脇、墓地に向かう途中に小堂が立ち、その手前にも多くの石塔が並んでいた。右から 庚申塔 寛延元年(1748)荒彫りの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウン」の下に「青面金剛」塔の右側面に造立年月日。左側面には足立郡根岸邑 庚申供養塔講中十八人と刻まれている。その隣 地蔵菩薩立像。舟形光背は左側が損傷、ちょうどそのあたりに紀年銘があったと思われ、造立年月日は不明。光背右脇「奉建立念佛講爲現當二世安樂也」どうやら念仏供養塔のようだ。足元にもたぶん人名なのだろう、銘が見えるのだが読み取ることは難しい。続いて大日如来種子塔 宝暦4(1754)三段の台の上、長細い蓮台に唐破風笠付き角柱型の石塔。塔の正面を彫りくぼめた中に金剛界大日如来の種子「バーンク」を浮き彫り。塔の右側面に造立年月日。左側面に「奉造立大日如来」湯殿山講中。さらに武州足立郡浦和領根岸村。裏面に「三寶荒神」と刻まれていた。その隣 不明塔。真四角の台の上に厚みのある敷茄子が乗っている。上のほうに突起が残っていて、蓮台と像があったものと思われる。敷茄子にはぐるりと戒名と命日が刻まれている。年号は延宝、延享、元禄となっていて江戸時代初期の石塔であることがわかる。続いて二基の馬頭観音塔が並ぶ。右の馬頭観音塔は紀年銘が見当たらず詳細は不明。風化のため塔の正面が大きく剥落。「馬頭」の文字だけが残っていた。左 馬頭観音塔 寛政12(1800)舟形光背に忿怒相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。両脇に造立年月日頭上の馬頭は明快。足元に根岸村と刻まれている。奥の小堂の手前 普門品供養塔 嘉永7(1854)四角い台の上、角型の石塔の正面梵字「サ」の下に「普門品供養塔」塔の右側面に造立年月日。左側面に天下泰平 五穀成就。台の正面に根岸村 観音講中と刻まれていた。小堂の中には六地蔵菩薩塔と三基の丸彫りの地蔵菩薩塔が祀られている。右 地蔵菩薩立像 享保2(1717)錫杖の先が欠けているが顔は美しく堂々としている。前回は気が付かなかったが、背中に銘が刻まれていた。上部に道宜妙智、右下に紀年銘、左下に三拾三回忌。三十三回忌にこのような立派な像塔が造られたというのはあまり見たことがない。よほどの高僧だったのだろうか。その隣 地蔵菩薩立像。こちらは銘が見当たらす造立年など詳細は不明。丸彫りにもかかわらず錫杖、宝珠も健在、首に補修跡もなく尊顔もはっきりしている。左 地蔵菩薩坐像 享保19(1734)四角い台の上、角柱型の石塔に敷茄子、蓮台を重ねてその上に左ひざを立てた地蔵菩薩坐像。角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に念佛講中四四拾五人。四に四を重ねて八拾人か?塔の左側面に造立年月日が刻まれていた。小堂の奥 六地蔵菩薩立像 寛政10(1798)六基の地蔵塔は像、蓮台、石塔とサイズ的にはほぼそろっているが、石の色がところどころ違っている。尊顔はユニーク、表情が豊かで面白い。右端の石塔の正面に造立年月日。3番目の正面に施主村中、世話人 根岸村と刻まれていた。
2023.02.14
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら京浜東北線の西に移ります。今日は寶性寺の石仏を見てみましょう。寶性寺 南区南本町2-13-4[地図]南浦和駅のすぐ西にある寶性寺。入口右脇に明治38年造立の寺導が立っている。境内に入ってすぐ、右側の小堂の中に丸彫りの六地蔵菩薩立像 昭和2(1927)下の細長い台の正面に造立年月日。続いて多くの人の名前が刻まれていた。尊顔は個性的、なんだか人間くさい顔立ちで親近感を覚える。その右脇にある坐像。銘はなく造立年などは不明だが「おしゃびきさま」咳止めに効果があると、遠くからも多くの人たちがお参りしたという。おなかの前で三角のおにぎり?を大事そうに持っていた。本堂の前を右に曲がり墓地に入る。すぐ先を左に折れてゆくと、左手に歴代住職の墓石が並んでいた。卵塔のすぐ後ろに馬頭観音坐像 文久2(1862)三面六臂忿怒相。頭上に大きな馬頭がはっきり。よく見ると馬頭観音独特の馬口印ではなく、智拳印を結んでいる。智拳印の馬頭観音はこれまで見た覚えがなく大変珍しい。両脇に墓石が迫っていて写真は撮れないが、塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。お寺の南の塀沿いの道を東に進むと、線路沿いの道路との交差点の角に二つの小堂。右は地蔵菩薩塔が一基。左の小堂の中には四基の庚申塔が並んでいた。丸彫りの地蔵菩薩立像 寛文8(1668)錫杖・宝珠とも損傷はなく首に補修跡も見当たらない。銘は背面に集中していて、小堂の後ろの板の隙間からのぞいて確認したが写真はうまく撮れなかった。背面中央「奉刻彫地蔵菩薩爲法印恵□阿□菩提也」下部両脇に造立年月日が刻まれている。隣の小堂には文字塔三基、像塔一基、合わせて四基の庚申塔が並ぶ。右から 庚申塔 文政元年(1818)角柱型の石塔の正面に大きく「庚申塔」その下にはとかやみちと刻まれていた。塔の左側面に造立年月日。続いてうらわ道と刻まれている。右側面に武州足立郡浦和領太田窪村 講中。こちらには八丁道と刻まれていた。その隣 庚申塔 文政8(1825)角柱型の石塔の正面、上部に日月雲を線刻。中央に「庚申塔」塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日が刻まれている。続いて 庚申塔 享保20(1735)笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の顔は削れていてはっきりしない。持物は矛・法輪・弓・矢とノーマル。邪鬼は足を折り曲げてうつぶせ、腰と肩のあたりを踏まれているが、こちらも風化のためだろうか、顔の様子がいまひとつはっきりしなかった。邪鬼の下に大きな二鶏を浮き彫り。下の台の正面に三猿。手足が細く顔も小さく、こちらは二鶏と較べてもその存在感は薄い。塔の右側面に造立年月日。左側面に武蔵國足立郡浦和領大谷場村 男女村中と刻まれていた。左端 庚申塔 文化9(1812)角柱型の石塔の正面「庚申塔」右上に白く「寺」?「壽」?これは何だろう?塔の右側面 武州足立郡浦和領 大谷場村講中、その脇に右 八丁道。左側面上部に造立年月日。下部に 前 わらび道、左 うらハ道。江戸時代後期らしく、こちらは道標になっていた。
2023.02.10
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は南浦和駅の東、三か所の石仏を見てみましょう。小池弁才天 南区南浦和2-42-5[地図]南浦和駅東口ちかくにある弁天公園の真裏、ビルの谷間に小池弁才天の鳥居が立っていた。小さな池に架かった橋の先のお堂の中に弁財天が祀られている。お堂の中は薄暗い。蓮台に立つ八臂の弁財天立像 宝永7(1710)塔の下部に八名の名前が刻まれていた。参道左脇に不動堂。周りに大谷場不動講の旗が並んでいる。堂の中 不動明王坐像 文政8(1830)やはり堂内は暗い。奉納の光背の前に剣と羂索を手にした不動明王坐像を浮き彫り。その下に「成田山」両脇に矜羯羅童子と制吒迦童子を従えていた。御蔵山観音 南区南浦和2-45[地図]弁天公園の西の一方通行の道を南に進む。次の信号交差点の少し手前、道路右側に御蔵山観音のお堂が立っていた。大型の馬頭観音立像 寛文10(1670)?忿怒相一面六臂。持物は独鈷祥杵(?)法輪、弓・矢。舟形光背の右上が大きく欠けている。顔のあたりも一部破損。やはりお堂の中は暗く、クリアな写真は撮れなかった。近づいて見ると見事な忿怒相。頭上にはっきりとした馬頭。光背に刻まれた銘は薄くなっていて読み取ることは難しい。右上、法輪の脇に「経曰・・・」偈文だろうか。右下に造立年月日。資料では寛文8年となっていたが、ライトを当ててみると「拾年」に見える。その横に馬頭観音明王。左上、独鈷杵の脇に忿怒形一躯。左下にも細かく銘が刻まれているが名前だろうか、うまく読み取れなかった。寛文8年か10年か、いずれにしても市内で最も古い馬頭観音塔ではないだろうか。大谷場小学校南西角 南区南浦和1-18[地図]南浦和駅東口から北へ500mほど、大谷場小学校の南西の角のところにお堂が立っていた。庚申塔 寛文8(1668)江戸時代初期に多く見られる板碑型三猿庚申塔。上部、梵字「カ」の下に三猿を陰刻。両脇の縁の部分に造立年月日が刻まれている。下部に七名の名前。右下の縁の部分に「庚申講」、左下の縁の部分に大谷場村と刻まれていた。
2023.02.06
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら太田窪の南東の地域、円正寺の石仏を見てみましょう。馬坂上墓地 南区円正寺34[地図]太田窪氷川神社の庚申塔のところから馬坂を南へ100mほど進むと道路左側に墓地がある。入口からのぞくと左手の小堂の中に新しい丸彫りの六地蔵が祀られていた。入口から入ってすぐ、右手に多くの石塔が集められている。右端には地蔵菩薩塔が立っていた。地蔵菩薩立像 寛文9(1669)舟形光背の右上が大きく欠けている。塔全体に白カビが目立つ。光背右上「奉供養」左上に造立年月日。下部両脇にそれぞれ四つ銘が見えていて人名かと思われるが、かなり薄くなっていて確認はできなかった。薬師堂 南区円正寺113[地図]馬坂をさらに南へ下ってゆくと最後は県道34号線の坂下橋あたりに出る。その100mほど手前を左に入ると奥に薬師堂の墓地があった。入口左脇にさまざまなタイプの石塔が並んでいる。左から回国供養塔 安永7(1778)二段の四角い台の上、角柱型の石塔の正面「回國供養塔」石塔の右側面に造立年月日。左側面には願主 當村とあり一名の名前が刻まれていた。上のほうの台の正面 右に万人講中 當村、続いて太田窪村、廣ヶ谷戸、大谷口村はじめ十数ヶ村の名前、結構遠い村も含まれているようだ。右側面は無銘。左側面には善根 □□□谷とあり、六名の名前が刻まれていた。その隣にはほぼ似通ったサイズの六基の石塔が並んでいる。うち四基は墓石だった。前列右 馬頭観音立像 寛政10(1798)舟形光背に忿怒相二臂の馬頭観音。光背右脇に造立年月日。左脇には大田久保村 個人名が刻まれている。後列中央 馬頭観音立像 寛政10(1798)塔の真ん中に深い断裂跡が残っていた。前列右の馬頭観音塔とよく似ていて、やはり光背右脇に造立年月日が、左脇に大田久保村と銘が確認できる。同じ石工の仕事だろうか?右端 雨除けの下、丸彫りの地蔵菩薩立像 享保15(1730)四角い台の上に角柱型の石塔、さらに梅の花が彫られた敷茄子と蓮台に地蔵菩薩像。総高3mにもなろうかというこういった大型の地蔵塔はやはり享保期特有のものなのだろうか。像は厚みがあり、首の補修跡も大きな欠損もなく、彫りも細部まできれいに残っている。石塔の正面中央に力強く「地蔵造立」両脇に造立年月日。台の正面には願主 迎譽願永と刻まれていた。塔の右側面 法界有無兩縁、左側面に爲三界萬霊等と刻まれている。薬師堂の左脇にもいくつか石塔が並んでいた。雨除けの下 馬頭観音塔 享保7(1722)上部に突起の付いた舟形光背に一面六臂慈悲相の馬頭観音立像を浮き彫り。持物は矛・法輪・弓・矢。風化が少なく像の細部も銘もクリア。頭上に大きな馬頭。その右上に梵字「サ」光背右脇に「奉造立觀世音□尊像一躯 二世安樂攸」左脇に造立年月日。足元の部分に施主 円正寺村 拾人と刻まれていた。
2023.02.03
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら太田窪の最終回です。馬坂西下路傍 南区太田窪3004[地図]二十三夜塔あたりから産業道路を南に下る。次の信号交差点で道は二つに分かれるが、斜め左のほうの道に入って広い道を下ってゆくと左手に銭湯の煙突が見えてくる。その先の路地を左に入って20mほど、右手の住宅のブロック塀の中に二基の石塔が並んでいた。右 華御堂供養塔 元禄6(1693)板碑型の石塔の正面を二重に彫りくぼめた中、中央に「奉供養華御堂二世安樂」両脇に造立年月日。先日大谷口のほうで華御堂地蔵塔を見たばかりだが、私の記憶では華御堂というと地蔵菩薩塔が多く、文字塔というのは珍しいのではないだろうか。下部の銘はいまひとつはっきりしないが、人名だろうか?結衆十数人ということになる。左 庚申塔 安永3(1774)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・鈴持ち六臂。川口型庚申塔に鈴もち青面金剛は多いが、それ以外で鈴持ちはあまり見たことがない。矛・法輪・弓・矢と残りの持物は普通。像は風化のために表面が丸くなっていた。足元には猫のような風貌の邪鬼が寝そべっている。その下に三猿、一部土の中に埋もれていた。顔も溶けていて不明瞭だが、なんだか踊っているように見える。塔の右側面「奉納庚申青面金剛」左側面に造立年月日が刻まれていた。太田窪観音堂墓地 南区太田窪2994[地図]上の住宅のところから北へ進み二つ目の角を右折、狭い急坂を登ってゆくと左手に墓地があった。墓地に入ってすぐ左手に地蔵菩薩塔が並ぶ小堂が立っている。左 地蔵菩薩立像 明和6(1769)丸彫りの堂々たるお地蔵様。台の正面に禅定門戒名と明和6年の紀年銘。右側面に三つの童子・童女戒名それぞれ宝暦年間の紀年銘。左に施主名。こちらは墓石だった。中央 丸彫りの六地蔵菩薩塔 文化13(1816)六体の地蔵像は敷茄子・蓮台ともによくそろっている。右端の石塔の左側面 武刕足立郡 太田久保村 圓正寺村 □□ち 念佛講中。続いて造立年月日が刻まれていた。右には大小二基の丸彫りの地蔵菩薩塔が並んでいる。左 地蔵菩薩立像 宝永7(1710)敷茄子はないが蓮台は重厚。風化のためか顔の様子はいまひとつはっきりしない。錫杖の先の部分が欠けていた。石塔の正面 梵字「カ」の下、右に「奉造立地蔵菩薩」左に「念佛講供養」さらに願主名が刻まれている。右 地蔵菩薩立像 享保14(1729)正面に紋が彫られた敷茄子厚い蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩像。ふくよかなお顔のお地蔵様。首に補修跡がなく、錫杖、宝珠ともに欠損はない。石塔の正面に大きく「地蔵講中」両脇に造立年月日。塔の両側面には偈文が刻まれていた。
2023.01.31
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら太田窪も残すところあと4ヶ所、2回に分けて見てみましょう。産業道路二十三夜バス停脇三差路 南区太田窪2778[地図]行弘寺付近から産業道路を川淵方面に進み、徐々に下り坂にかかるあたりの道路左側、歩道橋の近くにある「二十三夜」バス停の脇の三差路に角柱型の石塔が立っていた。二十三夜塔 天保3(1832)大きな基壇の上、二重の台に角柱型の石塔。堂々たる構えを見せている。二十三夜塔は月待塔の中でも最もポピュラーなもので、全国的に分布しているようだ。勢至菩薩を本尊とすることが多いというが、ここでは下のほうの台の正面に観音講中と刻まれていた。脇に解説板が立っていて、勢至菩薩=月天使が観音経を唱えて安心立命、無事息災を祈願すると説明されている。角柱型の石塔の正面に「二十三夜塔」両脇に天下泰平・國土安全。塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日が刻まれていた。四角い台の左側面の右のほうに太田窪邑下、圓正寺邑。中央に左 うらわ よの道と刻まれていて道標になっているのだが、銘はごく薄く、うっかりすると見逃してしまいそうだ。台の右側面の銘もかなり薄く、右 なんぶ いわつき道と刻まれていた。氷川神社南東路傍 南区太田窪2767[地図]二十三夜塔の三差路の右脇の道を北へ進み、100mほど先を右折すると、やがて左手に氷川神社の森が見えてくる。神社の入口を過ぎて坂道を登り切ったT字路の角に庚申塔が立っていた。登り切って突き当たった道は馬の背のように高いところを南北に結ぶ道で「馬坂」というらしい。雨除けの下 庚申塔 寛文年間。舟形光背に四臂の青面金剛立像を浮き彫り。全体に風化が進み損傷が甚だしい。光背の縁は一部が欠けていて、像も溶けだしていた。六臂像に見られる合掌手、あるいは剣とショケラを持つ手が無く、上の手も矛と法輪が逆の手で、やはり初期の庚申塔らしいというべきか?光背は破損個所をセメントで補修した跡が残り、銘が一部読み取れない。光背右脇に「爲諸願□□也」左脇に寛文□□□月十五日。足元に邪鬼・二鶏は見当たらない。下部に正面向きの三猿。その下の台の正面に10名ほどの名前が刻まれているようだが、こちらも不鮮明ではっきりと読み取ることはできなかった。
2023.01.28
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらこの冬一番の寒気ということで今朝は厳しい冷え込み、久々にあさの自転車はお休みでした。太田窪天神社 南区太田窪2236[地図]行弘寺から住宅街の中を南へ進み、上谷沼調整池近くにある不動入公園の手前を右折して坂道を登り切ったあたりに太田窪天神社がある。敷地内に新田自治会館が立っていた。社殿右脇の小堂の前に、三基の駒型の石塔が並んでいる。手前 庚申塔 元治元年(1864)青面金剛立像 合掌型六臂。ところどころ白カビがあるが、彫りは技巧的で細かい。炎付きの輪光背を持ち、髑髏の首飾りをした三眼の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。邪鬼の下、塔の一部は土の中に埋まっているように見える。上部には日月雲はなく「藤原庚申」と刻まれているがこれは初見。意味はちょっと分からない。「藤原」は人名か?地名か?塔の左側面は大きく破損しているが銘はかろうじて確認できた。手前に「奉納三躰造立」その隣に造立年月日。右側面、足立郡太田窪村 世話人 新田から一名、善前から二名、合わせて三名の名前が刻まれている。後列左の庚申塔。やはり上部に「藤原庚申」とあり、その下に御幣を肩にした羽織姿の猿の坐像が彫られている。後列右の庚申塔。左と同じような構成だが、こちらは坐像ではなく駆け出しそうな様子、まるで飛脚のように見えた。前の青面金剛像塔の左側面に「奉納三躰造立」とあり、この三基の庚申塔は1セットと考えていいだろう。うしろの小堂は扉がしまったまましっかりカギがかかっている。格子の間から覗くようにして写真を撮った。 庚申塔 元禄8(1695)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。蛇冠・三眼・忿怒相の青面金剛。光背右脇「奉納庚申供養」左脇に造立年月日。持物は矛・法輪・弓・矢。光背下部両脇に木崎領 太田窪村。その下に二鶏が線刻されている。足元には邪鬼が平たくうずくまり、その下に正面向きに三猿が並ぶ。風化のために顔はのっぺらぼうになっていた。
2023.01.25
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら太田窪に戻ります。今日は行弘寺の石仏を見てみましょう。行弘寺 南区太田窪2310[地図]産業道路の南浦駅入口交差点から川口方面へ300mほど、道路右手に行弘寺の入口があった。坂道を下りすぐ左へ曲がると本堂正面にでる。コンクリート造りのモダンな本堂に続く階段の両脇に、一対の石塔が立っていた。入口左 不動尊塔 嘉永2(1849)大きな二段の台の上笠付き角柱型の石塔の正面「奉納不動尊」側面に造立年月日。上のほうの台の正面に八名の名前。その名前の上に寄進額が刻まれている。左側面に當寺現住 星野順栄代。台の左側面に當村下連中。裏面に四名の名前。続いて願主世話人とあり一名の名前が刻まれていた。こちら右の石塔。左の石塔と同時に奉納されたものである。台の正面に發願主二名、世話人一名の名前。右側面には八丁石工の名前が刻まれていた。台の右側面に伊刈村連中。裏面には七名の名前が刻まれている。本堂の左奥に稲荷神社。その左側、大きな石碑の向こうに角柱型の石塔が立っていた。足立百不動尊供養塔 安政6(1859)さいたま市域を中心に設定された百不動尊の供養塔である。二段の四角い台の上、角柱型の石塔の正面「足立百不動尊供養塔」両脇に天下泰平・國家豊穣。塔の右側面に第1番 王林院から始まり第50番、左側面に第51番から第百番 行弘寺まで細かい文字で百不動尊の名前が刻まれていた。裏面に造立年月日。その下に武州足立郡 太田窪村 龍燈山行弘験寺 大閑院順栄代。本堂前両脇の不動尊塔に刻まれていた同じ、この寺のご住職の名前である。上のほうの台の正面に再興願主とあり住職順栄をはじめ十八名の名前が刻まれているが、前川村、下戸田村、大間木村、蕨宿、芝村、西新井宿村、与野町、鳩ケ谷宿、新曽村と、かなり遠くの地域の人たちの協力があったようだ。稲荷神社の右脇 大般若経塔 文政2(1820)二段の四角い台の上 角柱型の石塔の正面に「奉納大般若経」塔の右側面 天下泰平・國家安全、五穀豊穣・萬民豊樂。裏面に造里宇年月日。台の正面に太田窪村とあり、大在家、本村、新田、下組、善前、近隣の字名が刻まれている。本堂の裏を通ってさらに奥に進むと境内社の近くにいくつか石塔が並んでいた。手前から百番供養塔 安政2(1855)四角い台の上 隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「サ」の下に「坂東 西國 秩父 百番供養塔」塔の右側面に造立年月日。台の正面に當所とあり九名の名前が刻まれている。手水鉢を挟んで、その先に庚申塔。丸彫りの青面金剛坐像。本来の台を欠き、紀年銘などは確認できず詳細は不明。邪鬼・二鶏・三猿も見当たらず、首にも補修跡があった。胸前の合掌手と腰のあたりで弓矢を持つ手、青面金剛の四臂像は珍しい。その奥に庚申塔 延宝6(1678)上部が大きく欠けているが板碑型の三猿庚申塔と思われる。前回来た時にはここになかったもので、その後移動されてきたのだろう。調べてみても資料に該当する庚申塔は見つからなかった。謎である。風化が進み三猿も摩耗、銘も薄くなっていて、中央に□□佛、右に紀年銘。あとは読み取れない。三猿の下の部分に数名の名前が刻まれていた。庚申塔などの向い、産業道路側の斜面に石坂供養塔 文政4(1821)角柱型の石塔の正面「石坂造立」右側面に造立年月日。正面上部に彫られた石仏は風化のためにはっきりしないが、衣装の様子などからみて観音菩薩坐像だろうか?
2023.01.22
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら大谷口には8年前に記事にできなかった石仏がまだありました。前回の2か所の石仏同様、当時写真は撮っていたのですが・・・地蔵堂墓地 南区大谷口3044[地図]第二産業道路の東浦和駅西交差点から東へ向かい、下り坂を降りきったあたり、道路左側に東中尾公園がある。その裏一帯は高台になっていて、細い道を北西へ進むと、右手階段の上に地蔵堂墓地があった。階段を上り切った左側、板碑型の墓石の横に舟形光背型の石塔が立っている。阿弥陀如来立像 寛文12(1672)大きな舟形光背に来迎印の阿弥陀如来像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。光背右脇に念佛講願主 中尾村。右下に権僧都正尊法印・・・・。左下に2つの戒名が刻まれている。足元の部分に講員だろうか、多くの名前が刻まれていた。地蔵堂東住宅内 南区大谷口3025[地図]地蔵堂のすぐ南の交差点を左折し坂道を登ってゆくと、左手の家の敷地の隅に小堂が立っていた。小堂の中には二基のほぼ同じサイズの駒型の石塔が並んでいる。左 成田山塔 安政2(1855)フェンス付きのブロック塀に囲まれていて近づくことはできないので、望遠で撮ってみたが側面や塔の下部までは見ることはできない。正面中央に「成田山」両脇に造立年月日が刻まれていた。右 庚申塔 安政2(1855)正面中央「庚申」右脇に造立年。左脇に此方うらわ?道標になっている。酒井さんの「郷土の石佛」によると大谷口3000番 地蔵堂東路傍に元禄13年造立の馬頭観音像塔があるということでした。地図で見ると東中尾公園のすぐ北になるのですが、どうしても見つからずその時はあきらめて帰りました。あとでゆっくり探そうと思っていたのですが、その後すっかり忘れてしまって、近くの二カ所の石仏も記事にしないままになっていました。8年後の今、やっと記事にすることができて大きな「忘れ物」が出てきたような気分です。なお、元禄13年の馬頭観音塔は、探し方がわるいのか今回も見つかりませんでした。情報をお持ちのかたはご教示ください。よろしくお願いいたします。
2023.01.19
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら大谷口で二カ所「忘れ物」がありました。信成院不動堂 南区大谷口2466[地図]第二産業道路の東浦和駅西交差点から東へ入ってすぐ、道路左側に信成院の入口がある。階段を上った先、不動堂の左脇に二基の石塔が並んでいた、左 不動明王塔 天保9(1838)駒型の石塔の正面上部を光背の形に彫りくぼめて、剣と羂索を手にした不動明王坐像を浮き彫り。風化のためか、尊顔ははっきりしない。また塔の下部は土埃がこびりついていて銘は確認できなかった。塔の左側面は無銘。右側面に造立年。施主、願主などの情報はない。右 庚申塔。駒型の石塔の正面 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち二臂。日天、月天もなくかなり簡略な構成。足元にあおむけに寝そべる邪鬼。三猿が見当たらないが土の中か?銘も全く見当たらない。裏から見てみると石塔の材質、彫りの様子はよく似ていて、この二つの石塔は同時か、あるいは近い時期に造立されたものではないだろうか。大谷口向自然緑地北路傍 南区大谷口2404付近[地図]大谷口陸橋の東、武蔵野線の北に大谷口向自然緑地がある。その北を通る細い道の路傍に小堂が立っていた。写真右の道を下ってゆくと東浦和駅方面へ、左の道を北へ進むと信成院のあたりに出る。小堂の中は薄暗くうっすらとお地蔵様らしき影がみえる。華見堂供養塔 元禄14(1701)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背は一部ギザギザになっていた。堂内が暗く光量が不十分で、シャッタースピードが遅くなりどうしてもクリアな写真は難しい。光背右脇「奉供養華見堂二世安樂攸」左脇に造立年月日。華見堂(華御堂、花見堂などとも)供養塔はそんなにポピュラーとも言えないが、地域差があるようで、このあたりでは結構見かける。その多くは地蔵菩薩塔で、中尾神社の南の墓地の延宝3年造立の地蔵菩薩塔、中尾小学校南の墓地の中の正徳3年の地蔵菩薩塔(先日訪ねたら大きなマンションが立っていて現在は行方不明)などが思い出される。華御堂については定説はないようだが、「花まつり」というとお釈迦様の誕生を祝う行事だから、それと関連があるのではないだろうか?光背右下に大谷口村、左下に施主 十六人と刻まれていた。この二カ所の石仏は前回記事にしていません。再訪シリーズは前回の記事を再検証するというつもりで始めたのですが、先日あけみそさん(しょうけら名義でインスタを「一日一庚申」モットーに頑張っています)からこんな石仏がありますと連絡をいただき、今回は記事にすることにしました。うっかりしていたのですが二カ所とも10年前に写真を撮っていました。ただ資料に載っていなかったこともあり、当時はそのままにして先を急いでしまいました。「決定版埼玉の石仏」をめざして、今回は当時載せなかった石仏もとり上げていきたいと思います。あけみそさんのインスタはこちら「一日一庚申」テンポがよく、写真もとてもキレイで楽しめます。ご訪問ください。
2023.01.16
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら産業道路から少し西に入って、今日は浦和競馬場の近くにある普門寺の石仏を見てみましょう。普門寺 南区太田窪4-9-10[地図]産業道路の細野交差点と太田窪北交差点のちょうど真ん中あたりから細い道を西に進んだ先、浦和競馬場の東の高台に普門寺がある。入口右脇の小堂の中に六地蔵と頭が屋根まで届きそうな大きな丸彫りのお地蔵さまが並んでいた。小堂の中 六地蔵菩薩立像 昭和15(1940)穏やかなお顔の六体のお地蔵様は太平洋戦争の一年前の造立。村の人たちはその後どんな日々を送ったのだろう。下の台の正面に昭和の造立年月日とともに、皇紀2600年の銘が刻まれていた。「皇紀」については知識としては知ってはいたが、いままで実際に目にすることはほとんどなかった。右 地蔵菩薩立像 享保年間造立。像自体も大きいのだが、蓮台、敷茄子、反花付請台、さらにその下に四角い台と充実した構成で、その高さは2mをゆうに超える。静かに佇むお地蔵様。風化の様子も大きな補修の跡もなく、錫杖、宝珠も健在、彫りもきれいに残っていた。一番下の台の正面、右端に講中 九十六?台の下部が地面の下に埋まっていて、銘の全体は読めないが、百人近い大きな講である。台の正面左のほうに「寒念・・」「拾・・」寒念仏供養のための講中が十数人ということだろう。このお地蔵様の造立は、合わせて100人以上の多くの人たちがかかわった大きな事業だったに違いない。台の右側面、「享」「八月」と銘が残っていて、造立は享保(1716~1736)か享和(1801~1804)が考えられる。いままで志木、新座、清瀬などで見てきたように、この規模の丸彫りの地蔵菩薩塔はいずれも享保年間造立のものだった。石質もしっかりしていて、享保が有力といえるのではないだろうか。黒い門扉の入口から入って正面、宝篋印塔の隣、雨除けの下に舟形光背型のお地蔵さまが立っていた。ここから右に曲がると本堂、左が墓地。写真左上に浦和競馬場のスタンドが見えている。地蔵菩薩立像 明暦2(1656)光背上部に「念佛供養」右脇に武州足立郡太田窪村、左脇に造立年月日。いかにも硬そうな石材が使われている。くぼんだ光背から抜け出してきそうなお地蔵さまは像の厚みも充分。錫杖の柄はほぼ欠けてしまっていて、かなり上のほうに錫杖の先の部分だけが残されていた。この頭の上まで伸びる長い錫杖は江戸時代初期、特に万治年間のお地蔵様でよく見かけたもので、元禄期あたりになるとだいぶ短くなるようだ。光背の下部両脇に敬白と刻まれていた。右 宝篋印塔 明和6(1769)屋根型の笠を持つ江戸時代中期後期の典型的な宝篋印塔。基礎裏面に先祖代々とあり、こちらはどうやら個人の手によって造立されたもののようだ。
2023.01.13
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら大谷口の西は太田窪になります。太田窪は南北に長く、今回は産業道路沿いに北から南へと見てゆきましょう。浦和太田窪団地南入口 南区太田窪2-6-7[地図]県道35号線(産業道路)の太田窪北交差点から南へ150mほど進むと、道路右側に太田窪団地がある。そのすぐ南の会社の敷地内、奥へ入る通路の壁の前に小堂が立っていた。二十三夜供養塔 宝永6(1709)風化のために縁が欠けた舟形光背に勢至菩薩立像を浮き彫り。二十三夜塔の刻像塔の主尊は勢至菩薩が多いという。光背上部に梵字「サク」光背右脇「奉建立廿三夜待二世安樂所」左脇に造立年月日。その下に施主 高野氏の名前が刻まれている。細野交差点北路傍 南区太田窪4-15[地図]産業道路と馬場先通りの交差点、細野交差点のすぐ北、道路西側の歩道の脇に小堂が並んでいた。奥の小堂の中 庚申塔 元禄13(1700)四角い台の上に角柱型の石塔、その上に蓮台に坐す丸彫りの青面金剛像。三眼の青面金剛は目がつり上がり忿怒相。合掌型六臂だが、合掌手の先はつぶれ、左上手はいちど欠けてあとから新しい手をつけ直したらしい。丸彫り像の場合こういう欠損はよくあるが、つけ直した手の色が違っていて不気味な感じを受ける。左下手は弓を持っていたのだろうがはっきりしない。新しくつけ直された上手はなにも持たずじゃんけんのグーのようだった。左下手は2本の矢を持ち、上手は蛇をつかんでいる。これも珍しい。角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉待庚申供養塔」両脇に造立年月日。左側面に細野講中。右側面に木崎領太田窪村と刻まれていた。手前の小堂の中には二基の石塔が並んでいる。右 庚申石灯籠 安永2(1773)竿部の上には火袋が無く、中台も本来の置き方と逆になっていて、おそらくこの部分はいちど落ちたのだろう。四角い竿の正面に「奉待庚申石灯籠供養塔」右側面に造立年月日。左側面に太田窪村 施主講中と刻まれていた。左 馬頭観音塔 宝暦5(1755)風化が著しく進んでいる。舟形光背に三面六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。光背両脇に造立年月日。足元の部分に施主 個人名が刻まれていた。顔はほとんど崩れてしまっているが、どうやら三面らしい。頭上の塊はやはり馬頭なのだろう。
2023.01.08
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今日から「再訪さいたま市の石仏」を再開します。大谷口の最終回、残り2カ所の石仏を見てみましょう。大谷口中学校西三叉路 南区大谷口941西[地図]大谷口は県道1号線のバス通りと県道35号線=産業道路の間の地域で、両方の道にはさまれた「谷」になっていて坂道が多い。広ケ谷戸バス停あたりから西に坂道を下った先、大谷口中学校の西の三差路のところ、雨除けの下に石塔が立っていた。写真左の道を北へ進むと日の出通り、坊の在家バス停付近に出る。庚申塔 寛政元年(1789)二段の台の上、宝珠をのせた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。口をへの字にどんぐりまなこの青面金剛。頭上にとぐろを巻いた蛇を乗せ、左手にはショケラをつかむ。持物は矛・法輪・弓・矢。像の表面はやや丸みを帯びている。風化のためだろう、左の足の膝小僧が割れていた。その両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は頭が右側で、左手を伸ばして首を斜めに這いつくばっているが、悲壮感はなくふてぶてしい表情を浮かべている。石塔をのせた台の正面に大ぶりな三猿を浮き彫り。彫りは厚く立体的。中央の聞か猿は正面向きで足を思い切り開いて座る。両脇の見猿と言わ猿は片手を後ろにつき片足を前に投げ出して座っていて、なんだか色っぽいポーズ。似たような三猿はこれまで見たことがない。実にユニークな三猿である。台の色と上の石塔の色が微妙に違っていて、もしかしたらこの台はこの庚申塔の本来の台ではないのかもしれない。塔の左側面、上部に天下泰平・國土安穏。その下に 左 うらわ道。さらに大谷口村 細野講中と刻まれていた。塔の右側面に造立年月日。台の上の石塔の継ぎ目はセメントで固められていて、やはり台はあとからつけたものだろうか?日の出通り坊の在家バス停脇 南区大谷口749[地図]浦和駅東口の南から東に向かう「日の出通り」は産業道路の太田窪北交差点を通り、さらにその先は大谷口県営住宅交差点で県道1号線に出る。産業道路と県道1号線のちょうど真ん中あたり、道路南側にある坊の在家バス停の右脇に小堂が立っていた。小堂の中 大日如来立像 延宝6(1678)舟形光背に智拳印を結ぶ大日如来像を浮き彫り。光背は風化のために縁がところどころ欠けている。像の状態はよいとは言えないが、尊顔は静かな笑みを浮かべていて美しい。光背右脇 行人 法心 覺位 施主。左脇に造立年月日が刻まれていた。
2023.01.05
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらバタバタと過ごしているうちに気が付けば今日は大みそか。今年最後の記事になります。大谷口陸橋南の二つの墓地の石仏を見てみましょう。福聚院墓地 南区大谷口2295[地図]武蔵野線が下を走る大谷口陸橋交差点で、第二産業道路と県道1号線の旧道がクロスする。旧道のほうに進むと、道路左側に二つの小堂が立っていた。奥の建物に「福聚院」と書かれた額がかかっているが、今は堂宇ではなく自治会館になっているようだ。その南北両側に墓地がひろがっている。入口近くの小堂の中 地蔵菩薩立像 寛文7(1667)大きな舟形光背に厚みのある地蔵菩薩像を浮き彫り。時節柄、お地蔵様はマスクをかけている。光背左脇に造立年月日。右脇に「爲念供養二世安樂也」念仏供養塔ということになるだろうか。右下に敬白、施主二十五人と刻まれていた。隣の小堂の中 六地蔵菩薩立像 宝暦10(1760)こちらも揃ってマスクをかけている。右の三基。両脇の石塔の正面に「施主講中」真ん中の石塔の正面中央に「六地蔵新建立」右脇に施主 當村中、左脇に願主 恵舟信□と刻まれていた。左の三基。右の二基の石塔の正面に「施主 講中」左の石塔の正面には明治30年の紀年銘。続いて二つの戒名が刻まれている。石塔の銘を見る限り、左端はあとから補われたもので、残りの5基は本来の六地蔵塔と思われる。6基の石塔の側面には戒名と命日が刻まれている。造立年月日は右から2番目の石塔の右側面に刻まれていた。旧安楽寺墓地 南区大谷口1827-2南[地図]福聚院のすぐ南、右折して細い道に入る。少し進むと右手に墓地があった。墓地の入口近く、ブロック塀の前に大乗妙典供養塔 享保17(1732)立派な宝珠をのせた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、その中央に「奉納大乗妙典六十六部塔」蓮台がついて、さらにその下は二段の台となっている。塔の右側面に造立年月日。左側面には大谷口村 願主とあり、二名の名前が刻まれていた。墓地の中央付近、雨除けの下に善光寺念仏供養塔 文化10(1813)石塔の上に石仏が乗っている。石塔の上の阿弥陀三尊立像。来迎印の阿弥陀如来と脇侍の聖観音菩薩、勢至菩薩がそれぞれ狭い蓮台に立つ。角柱型の石塔の正面中央に「建立供養善光寺念佛」両脇に造立年月日。塔の左側面に偈文。右側面に講中 四十八人。続いて願主 三人の名前が刻まれていた。さらに左上に三年三月とあるがこの紀年銘はなんだろう?よくわからない。細い道は下り坂になり、その先は第二産業道路に出る。坂を下り切ったあたり、左側にも墓地があった。入口近く、雨除けの下に石仏が見える。聖観音菩薩立像 延宝4(1676)江戸時代初期には板碑型三猿庚申塔など今までよく見てきたが、板碑型の墓石も一般的で、ただし板碑型の墓石ではふつうは文字塔が多く、このように中央に観音菩薩像を浮き彫りしたものはあまり見かけない。石塔上部に天蓋、下部に蓮華を彫り、両脇につる草模様をほどこすなど、とても凝った仕事がされていた。風化のために銘は薄くなり読みにくい。像の右脇に戒名、左脇に紀年銘と施主名が刻まれている。六角形の台の上、丸い敷茄子、蓮台の上に立つ聖観音菩薩。胸元で両手を合わせているようにも見えるが、左右の手の位置にずれがあり、左手に持った小さな未敷蓮華に右手を添えている形だろうか?尊顔はあいまいだが全体に気品があり、なんとなく微笑んでいるように見えた。さて、あと数時間でお正月です。皆様よいお年をお迎えください。
2022.12.31
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら大谷口に入ります。広ケ谷戸の寛文4年の庚申塔の近く、県道1号線の二つの庚申塔から見てみましょう。大谷口郵便局南三差路 南区大谷口1740東[地図]広ケ谷戸バス停付近から県道1号線を南へ進む。大谷口郵便局のすぐ先で、斜め右にやや細い道が分かれてゆく。この三差路は空き地になっていて駒型の石塔が立っていた。庚申塔 明和7(1770)石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウン」の下に「庚申供養塔」石塔最上部に瑞雲が彫られていて、写真ではうまく見えないが日天、月天を抱いている。塔の右側面に造立年月日。その横に従是右戸田道。左側面に木崎領大谷口村 講中廿五人。その横に従是左千住道と刻まれていた。明花バス停向い 南区大谷口2488南[地図]県道1号線をさらに南に進むと右手にバスの操車場があって、ここに明花バス停がある。向いの路傍に新しい小堂が立っていた。小堂の中 庚申塔 正徳4(1714)四角い台の上、唐破風笠付角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。10年前は白日の下に立っていたが、いつのまにか瓦屋根の立派な小堂に収まっていた。経年のため像の表面は圭角がとれて丸くなっている。青面金剛の顔も今一つはっきりしない。足元の邪鬼も丸みを帯びている。邪鬼の下に正面向きの三猿。その下の二鶏はかなり大きめ。二鶏の下に願主 講中拾三人と刻まれていた。塔の右側面に造立年月日。その横、梵字「バク」の下に「奉供養庚申塔諸願成就攸」左側面 武刕足立郡木崎領大谷口村。その横に是よりあかやまみち。こちらも道標になっていた。
2022.12.29
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら前回に続き広ケ谷戸の石仏です。旧善應院墓地 南区広ケ谷戸317[地図]広ケ谷戸バス停近くの三差路を右に入り北に進むとT字路に出る。右折してすぐ、道路左側に小堂が立っていて、その奥が墓地になっていた。小堂の中に六地蔵菩薩立像と二基の丸彫りの地蔵菩薩塔。六地蔵のほうは極新しい。二基の地蔵塔は石質からみて江戸時代中期のものと思われるが、首に補修跡もなく比較的状態はいい。下の台に「昭和十六年再興供養」と刻まれていた。墓地の北西の隅に石塔がコの字に並ぶ。その多くは墓石だった。南向きに並ぶ四基の左端 善光寺念仏供養塔 寛政9(1797)舟形光背に阿弥陀如来立像を浮き彫り。風化が進み光背の縁はギザギザ、像もはっきりしない。光背右脇に「善光寺念佛供養」左脇に造立年月日。「善光寺念仏」という固有名詞はないようだが、善光寺の本尊、日本最古と伝わる秘仏「一光三尊阿弥陀如来」を観想して念仏を唱えるということか?あまり見かけないが、近くの大谷口の墓地でも同じような供養塔を見ることができた。念仏供養塔と向き合うような位置に地蔵菩薩供養塔 寛保3(1743)笠付き角柱型の石塔は深く土中に埋まっている。正面を彫りくぼめた中、梵字「カ」の下に「奉建立地蔵菩薩」両脇に天下泰平・國土安全。右側面に武州足立郡 浦和領 廣ケ谷戸村。左側面に造立年月日。さらに願主として大熊氏の名前が刻まれていた。県道1号線西路傍 南区広ケ谷戸44[地図]旧善應院の前の道を西に進み、県道を越えて50mほど先、道路右側の住宅の門柱に寄り添うように石塔が立っている。普門品供養塔 天保2(1831)四角い台の上、角柱型の石塔の正面「廿三夜普門品一万巻供(養塔)」下部が台石の中に埋もれていて、どうやら台は後から補われたものらしい。二十三夜待供養塔と普門品供養塔が結びつくというのは見たことがないのだが、他にも例はあるのだろうか?塔の右側面に造立年月日。左側面に廣ケ谷戸村と刻まれている。
2022.12.27
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら「再訪さいたま市の石仏」をスタートします。今回のさいたま市の石仏の旅は、南区から桜区、中央区、西区と進み、次に浦和区、大宮区、北区、見沼区、緑区と時計回りに見てゆく予定です。前回と違い、銘もできる限り読み取って、しっかりと取材してゆきたいと思います。かなり時間がかかるでしょうが「決定版さいたまの石仏」をめざしてがんばります。さて、南区は東の広ケ谷戸から西に進んでゆきます。広ケ谷戸バス停南 南区広ケ谷戸338南[地図]第二産業道路の不動坂交差点から枝分かれして大谷口陸橋交差点で第二産業道路と合流する「さいたま川口線」は、地図を見ると第二産業道路と同じく県道1号線になっている。この片側1車線の県道1号線はバス通りで、その広ケ谷戸バス停のすぐ南、道路東側の交差点の角に小堂が立っていた。小堂の中 庚申塔 寛文4(1664)大きな舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。堂の前に生け垣が迫っていて像全体の様子を一枚の写真で確認するのは難しい。さいたま市でも最も古い時期の青面金剛庚申塔で、さすがに光背の縁は一部が破損、風化のために顔の様子も今一つはっきりしない。光背右脇「奉造立庚申像一躰二世安樂也」左脇に造立年月日。上の手に矛と法輪を持つが、右手に法輪、左手に矛というのは、普通と手が逆でほとんど見たことが無い。江戸時代初期、青面金剛庚申塔の基本的な構成がまだ定まっていなかったということだろう。下の手も普通に弓矢ではなく、右手に蛇?左手に棒のようなものを持っていた。足の両脇に二童子を浮き彫り。足元には二匹の上半身型の邪鬼が並ぶ。邪鬼の下、二匹の猿が御幣を支え持つ。二匹とも足を投げ出し右向きに座り、それぞれに片手を御幣の棒に添えていた。さらに四夜叉、こちらはそのうちの上段の二夜叉。彫りは結構細かい。二猿の下に大小二羽の鳥が左向きに浮き彫りされていた。その両脇に立つ二夜叉は力強い。邪鬼に三猿・二鶏というその後の標準的な構成はどうやら元禄期あたりに一般的になったものらしい。それにしても邪鬼・猿・鶏に加え童子、夜叉まで従えた豪華な庚申塔はかなり稀で、造立年も古く大変貴重な庚申塔と言えるだろう。なお、施主名、地名などを表す銘は見当たらなかった。どこか見つけにくいところに刻まれているのだろうか。広ケ谷戸バス停脇 南区広ケ谷戸338付近[地図]庚申塔の小堂のすぐ北、広ケ谷戸バス停の脇の三差路の角のところに二基の石塔が並んでいた。左 大日如来塔 宝暦2(1752)角柱型の石塔の正面「奉造立大日如来」両脇に天下泰平・國土安全。下部には講中とあり9名の名前が刻まれている。塔は損傷が激しく、大きく欠けた部分もあるが銘はなんとか確認できた。左側面に造立年月日。その横に道祖土村とあり、大熊・・・。道祖土というと現在は不動谷交差点の西一帯の地名だが、宝暦年間にはこのあたりまで道祖土村だったのだろうか?右側面には願主 大熊・・・・。「大熊」という姓は当地では普通らしく、近くの墓地でも多く目にした。左側面の「大熊氏」とはたぶん同一人物ではないのだろう。右 庚申塔 大正3(1914)角柱型の石塔は全体に風化が進み銘は読み取れない。こちらは2014年1月29日の記事の写真。このときは石塔の正面に「庚申塔」という銘が確認できた。塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。その横に施主とあり、やはり大熊氏の名前が刻まれている。
2022.12.24
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら資料に載っている石仏がうまく見つからないことがあります。資料が古い場合には、その後の宅地化などで移動されていたりすることも多いですが、場所の説明があいまいだったり、わかりにくかったりすることも結構あって苦労します。時には自分の思い込みが原因でみつからないことも・・・西浦和小西の土手道 さいたま市南区曲本1-1今から7年ほど前、西浦和小学校の西の土手道に馬頭観音が立っているという情報を得てさがしに向かった。こちらが田島通りから南へ入った土手道。写真右に新大宮バイパスが並行して走っているが、土手道は若干高くなる。写真左が西浦和小学校。「土手」というので、この道路と学校側の間の斜面にあるものと思いこみ、一生懸命探したのだが見つからない。どこかに移動されたのだろうと諦めたのだが・・・現場は自宅から徒歩5分。ある時散歩中に思いもしないところに馬頭観音が立っているのに気が付いた。土手道の西側、新大宮バイパスと土手道に挟まれた場所には貸コンテナや2、3階建ての建物などがたっていて、その入り口は新大宮バイパス側、土手道側はその裏になり、写真のような景色である。その荒れた?景色の中、ブロック塀に囲まれた奥に三基の馬頭観音等が並んでいた。当時の私は土手道の東側と思い込んでいたためにこちら側は全くのノーマークだったわけだ。三基のうち両脇の二基は風化が著しく紀年銘などは確認できない。中央 馬頭観音立像 享保17(1732)長方形の光背に六臂・慈悲相の馬頭観音立像を浮き彫り。光背右脇に「奉造立寒念佛爲二世安樂也」左脇に造立年月日。塔の下半分に白カビがこびりつく。浮き彫りされた像は厚く、馬口印を組んだ指先までしっかり、頭上の馬頭は一部が欠けていた。享保年間造立の本格的な馬頭観音塔、馬頭観音の像塔としては最初期のものと言っていいだろう。さて、寄り道はこれくらいにして、次回から「川越市の石仏」を始めたいと思います。今のところ市東部はほぼ取材ができましたが、まだ細かいところが残っていて、ちょっと不安なスタートです。ここのところ毎日のように出かけているのですが、やはり片道1時間かかるので十分な取材時間はとれません。とはいうものの川越市東部は水田地帯で、この時期、青々とした田園風景の中を自転車で走るのはとても気持ちよく、楽しい時間を過ごしています。今日は私の取材道具?を見ていただきましょう。おととしの10月に買った2代目のクロスバイク、ライトウェイ・シェファード。今日現在走行距離27,628Km。1年・1万キロのペースで頑張っています。タイヤ径26インチと小柄な私にはありがたいサイズで、タイヤ幅35mm、通常よりも幅広なタイヤはスピードを出すには不利ですが、ショックの吸収性がよく安定感もあって長距離を走っても疲れません。愛用のカメラ、ニコンD300。12年前発売されたものですが、いまだ現役です。最近の製品に比べると画素数などかなり見劣りしますが、基本性能がしっかりしていてこれで必要十分です。レンズはニコンの単焦点レンズAi28mm f2.8-S。こちらも2002年発売のオールドレンズですが、ピント合わせもやりやすく使いやすいレンズで、このブログの写真もほとんどこのレンズで撮ったものです。それではいよいよ「川越市の石仏」スタートします。よろしくお願いします。
2020.07.17
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら川口市シリーズの途中ですがちょっと一休みしてさいたま市の石塔です。「郷土の石佛」の著者 酒井 正さんのヒントでその後確認出来たものです。与野道高沼川南路傍 南区関1-4中浦和駅から高沼川沿いに遊歩道を西に歩き、初めの橋を南に渡ると左手に石塔が立っていた。写真は南のほうから写した現場だが、区画整理のため道路が不自然になっていて、住宅は道路から遠いところに建っている。この写真を見てすぐ石塔がみつけられるだろうか?石塔は2件の住宅の間に祀られていた。歩道からは10m位奥まっている。石尊大権現塔 寛政6(1794)2m近い高さの石塔だ。左側面に「大山大聖不動明王」と彫られていた。石尊信仰とは、大山阿夫利神社を中心とする山岳信仰のことだという。裏の面には年号を刻む。真ん中に講中とあり、その下に武州足立郡 関村・岸村別所村・鹿手袋・上之宮・浦和宿と刻まれていた。塔の右側面には世話人と並んで浦和宿の石工名が刻まれている。このての石塔できちんと石工名があるのは意外と珍しい。別所沼南東住宅前 南区別所3-25別所沼公園の東、4本目の道を右折して少し歩くと右手の住宅の間に小堂が立っている。中にはお地蔵様が祀られていた。地蔵菩薩立像 享保14(1729)カビなどは見られず、きれいな状態を保っている。下に台の脇に造立年月日。中央に法子筏心と刻まれていた。イオン北浦和店西路傍 中央区新中里1-5埼大通り、イオン北浦和店の西端から北に入り、すぐの路地をまた左折すると右手に小堂が立っている。中に馬頭観音が祀られていた。馬頭観音立像 寛政元年(1789)合掌型六臂。表情は風化のためはっきりしない。光背左下には年号が刻まれていた。足元の台の中央には大戸村中と刻まれている。
2015.03.03
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら南区の庚申塔を4回に分けて見てきましたが、うっかりして二基ミスしてしまいました。改めて紹介します。無量寺 南区曲本2-7無縁仏の中に庚申塔がたっている。年号はうまく確認できなかった。右側面に奉納庚申、左側面に曲本村講中八人と刻まれている。左手にショケラを持つ六臂の青面金剛。キツネ顔?廣田寺 南区沼影1-6沼影観音堂の裏。祠の中。格子越しに覗くと一つの石に七体の文殊菩薩坐像が彫られている。元禄14(1701)「庚申供養」沼影村 廣田寺とある。以上、南区では合計47基の庚申塔を見ることが出来ました。明日からは浦和区の予定です。
2014.08.23
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は南区太田窪・広ケ谷戸・大谷口の庚申塔を見てみましょう。産業道路細野交差点の北西路傍 南区太田窪4-17元禄13(1700)丸彫の青面金剛坐像 合掌型六臂。下の台の正面「奉待庚申供養塔」右側面 木崎領太田窪村。左側面 同行十八人。安永2(1773)正面に「奉待庚申石灯籠供養塔」行弘寺 南区太田窪2310年代不明 庚申塔の像部分。丸彫の青面金剛坐像 合掌型。天神社 南区太田窪2236元治元年(1864)青面金剛立像 合掌型六臂。上部 「藤原庚申」元治元年(1864)御幣持ち羽織姿の猿。左右の二基で一対。こちらの二基も上部に「藤原庚申」の文字。元禄8(1695)青面金剛立像 合掌型六臂 蛇頭 三眼。光背右に「奉納庚申供養」南区太田窪3004路傍安永3(1774)青面金剛立像 剣・鈴を持ち六臂。氷川神社東南角 南区太田窪2767寛文年間 青面金剛立像四臂。表面に一部剥落あり。下部に三猿。邪鬼はいない。広ケ谷戸バス停南 南区広ケ谷戸寛文4(1664)青面金剛立像四臂。脇に二童子。足元に二邪鬼。その下二猿が御幣を支える。横には四夜叉。さらに最下部に二鶏。広ケ谷戸バス停北 南区広ケ谷戸大正3(1914)小型の文字塔。明花バス停付近路傍 南区大谷口2332正徳4(1714)青面金剛立像合掌型六臂。二鶏・邪鬼・三猿。右側面 年号に続いて「奉供養庚申塔諸願成就」左側面 木崎領大谷口村 脇に 是より あかやまみち。浦和大谷口局南路傍 南区大谷口1762明和7(1770)左側面 木崎領大谷口村講中二十五人。続いて従是左千住道。右側面 年号に続いて 従是右戸田道。大谷口小西三差路 南区大谷口971寛政元年(1789)青面金剛立像六臂。剣ショケラ持ち。薄く二鶏。足元に邪鬼。下の台の正面に三猿。塔の左側面 上部に天下泰平 國土安穏。中程に左 うらわ道。その下に大谷口村 細野講中と刻まれる。以上、この地域では14基の庚申塔が見つかりました。
2014.08.22
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は南区根岸・文蔵・南本町・南浦和の庚申塔を見てみましょう。根岸薬師堂 南区根岸4-2寛延元年(1748)荒彫の文字塔。正面 梵字の下に「青面金剛」一ツ木公園の西マンション外構 南区根岸1-3安永4(1775)青面金剛立像 合掌型六臂。小型だが面白い彫り。足元に踏みつけにされた邪鬼の顔。下の3つの凸は三猿か?文蔵薬師堂西路傍 南区文蔵4-7宝永5(1708)青面金剛立像 合掌型六臂。邪鬼の下、三猿はうつむいている。下の台の正面に講中。続いて13人の名前。左側面を見るとそこにも3名の名前。合わせて講中16名か?塔の右側面に「奉造立庚申」左側面に衆中之願 文蔵里。文字塔 年代不明。中央に「庚申塔」その下に観音講中と刻まれる。安政2(1855)青面金剛立像 合掌型六臂。猫のように横たわる邪鬼。下の台に三猿。塔の左側面「奉造建庚申待供養塔」その下、前 わらび道十五丁、北 うらわ道。右側面には 東 はとがや道二リ。寳性寺 南区南本町2-13文政元年(1818)正面「庚申塔」下部 はとがやみち。左側面年号に続き うらわ道。右側面 浦和領大谷場村講中。その脇に八丁道と刻まれる。文政8(1825)正面上部に日月雲。その下に大きく「庚申塔」享保20(1735)青面金剛立像 合掌型六臂。邪鬼、二鶏。下の台に三猿。左側面に足立郡浦和領大谷場村 男女村中。文化9(1812)正面に「庚申塔」右側面 浦和領大谷場村講中。その脇に右 八丁道。左側面には前 わらび道 左 うらわ道。大谷場小学校の西南の角 南区南浦和1-18寛文8(1668)板碑型。上部に梵字「カ」と三猿。その下に6名の名前。脇に庚申講、大谷場村と刻まれる。以上、この地域では10基の庚申塔が見つかりました。
2014.08.21
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は南区鹿手袋・関・別所・白幡・辻の庚申塔を取り上げます。寳泉寺 南区鹿手袋6-3寛文9(1669)正面に蓮の葉の浮き彫りがある大きな台の上。立派な笠付の文字塔。正面は二段に彫り窪められ上部に三猿。「奉念庚申供養為二世安楽本願浄清」右脇に足立郡與野領鹿袋村同行。左脇には年号に続き、九人敬白。宝暦6(1756)青面金剛立像 合掌型六臂。右側面に「奉彫刻青面金剛」左側面には足立郡與野領鹿手袋村 庚申講発起として個人名、続いて結衆男女四十八人。邪鬼の下に三猿の姿は見あたらない。JR武蔵野線南路傍 南区鹿手袋4-17寛政11(1799)青面金剛立像六臂 右手に剣左手にショケラ。小堂の中、薄暗い。顔の表情、腕の配置などがユニーク。邪鬼・二鶏・三猿。東福寺 南区関1-10延宝8(1680)青面金剛立像 四臂。右側面には偈文。左側面の下部に本願東福寺住 春夜。続いて6名の名前。足元に邪鬼・二鶏・二猿。青面金剛の表現は独特。四臂二猿もあまり見ない。寛政11(1799)青面金剛立像 合掌型六臂。邪鬼・二鶏・三猿。左側面に関村女人講中。右側面に世話人二名の名前浦和別所小学校西路傍 南区別所2-9正徳3(1713)大きな台の上に板駒型の青面金剛立像。青面金剛立像 合掌型八臂。八臂は珍しい。中央に断裂の跡。全体に風化が進み足元は邪鬼なのかはっきりしない。また三猿の姿も見当たらない。台の正面 偈文28文字。左側面 別所村講中尼女十八人。白幡沼南岸ほとり大小二基の庚申塔が並ぶ。青面金剛像の大きさは変わらない。宝永4(1707)青面金剛立像 合掌型六臂。光背右「奉造立庚申塔現當為安穏所」足元に邪鬼・二鶏・三猿。その下に施主とあり、ひらがなで8名の名前。宝永6(1709)青面金剛立像合掌型六臂 光背右「奉造立庚申像供養為諸衆現當悉地」足元に邪鬼・二鶏・三猿。その下のごく狭いスペースに結衆11名の名前。地蔵坂上東の路傍 南区白幡1-6享保12(1727)青面金剛立像 合掌型六臂。台のほうに三猿。邪鬼は見当たらない。左側面に白幡村講中十八人。右側面に「奉造立青面金剛諸願成就」萬蔵寺 南区辻2-25宝永6(1709)青面金剛立像 合掌型六臂。光背右「奉造立庚申供養佛二世諸願菩提」邪鬼は正面向き。二鶏。下に三猿。さらにその下に施主十数名の名前。安政2(1855)正面に大きく「庚申塔」脇に小さく地名入り。右側面に辻村。左側面 南 はやせ。台の正面には連経講中。辻八丁目緑道の入口付近 南区辻8-19天明7(1787)青面金剛立像 六臂。顔の表情、前手の持物などはっきりしない。邪鬼と二鶏。下の台の方に三猿。右側面下部に辻村講中の文字。嘉永6(1853)正面に大きく「庚申塔」両側面には地名。以上、この地域では合計13基の庚申塔が見つかりました。
2014.08.20
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日から南区の庚申塔を見てゆきたいと思います。まずは松本、内谷、曲本、四谷、沼影を歩いて見ましょう。真乗寺 南区松本1-18明和元年(1764)青面金剛立像六臂 右手に剣 左手にショケラ。邪鬼二鶏三猿。右側面「奉造立青面金剛供養塔」左側面 足立郡笹目領松本村講中。願主 個人名。県道79号線東路傍 南区内谷4-18元文2(1737)の小堂の中。お前立ちに新しい地蔵菩薩立像。青面金剛立像 六臂 右手に剣 左手にショケラ。足元に邪鬼二鶏。下部に三猿。塔の左側面 内谷村講中十四人。新大宮バイパスの西。排水路沿い 南区内谷1-5天明2(1782)青面金剛立像 合掌型六臂。足元の邪鬼は正面向き腕を立てM字型。朱色に彩色されている。下の台に三猿。右側面に内谷村講中十七人。四谷観音堂 南区四谷3-17宝永5(1708)青面金剛立像合掌型六臂。邪鬼、二鶏、三猿。台の正面中央には奉造立庚申像為二世安楽也。脇に願以此功徳普及於一切 我等與衆生皆共成佛道左側面には足立郡与野領四ツ屋村施主惣女中。年代不明 正面に「庚申神」左側面 左 よのみち。右側面右 はやそ道。四谷観音堂南路地路傍 南区四谷3-10文化7(1810)小堂の中。青面金剛立像 六臂 右手に剣、左手にショケラ。足下に邪鬼二鶏三猿。左側面に講中、左よの道。右側面 右うらわ道。沼影観音堂 南区沼影1-6宝永5(1708) 青面金剛坐像 合掌型。その下に頭が右向きの邪鬼と三猿。その間にやや不自然なつなぎ目があり、本来一体のものかどうかは不明。大きな台の正面「奉造立庚申像為二世安楽也」脇に願以此功徳普及於一切 我等與衆生皆共成佛道。これは四谷観音の庚申塔と全く同文。両方共に宝永5年の銘があり、台の規模もほぼ似通っていて、両者は何らかの関連があるものと思われる。下部に9名の名前。右側面 足立郡笹目領沼影村。参道の右側、観音堂の近くに集められた石塔群の中の庚申塔。下部が欠損して年号等の詳細不明。正面上部 日月雲が線刻され、その下に大きく「庚申塔」右側面 上部に「東」とあるがその下はほぼ剥落している。わずかに読めるのは「う」「ひ」のみ。わらび、うらわあたりだろうか?
2014.08.19
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら去年の11月このブログを立ち上げてから8ヶ月がたちました。さいたま市内をとりあえず一回りして、このブログをホームページに移植し始めたのですが、初めの頃の記事を読み直すとあまりにおおまかで驚きます。その頃は資料で調べた石仏を見つけるのに精一杯で年号と像の様子、その位置しか関心が向かず、銘文とか他の石塔の様子までは気が回らなかったのです。そこではじめに取り上げた桜区、南区の石仏を細かく見直し、足りなかった分を補いつつホームページにその内容を反映していこうとしたわけなのですが・・・どれだけ杜撰だったのか、今日は南区松本の真乗寺を見てみましょう。真乗寺は新大宮バイパス田島団地前交差点の西200mほど先の交差点の角にある。門を入ると左側に小堂が立っていて、中に石仏が立っているのが見える。資料によるとここには誦経巡礼供養塔があり、形は聖観音立像ということで探したのだがすぐにはわからず、やがてこの小堂の中の真ん中にたっている少し大きめな石仏がそれだとわかったときはやはりうれしかった。そこでその当時「六地蔵の真ん中に立っているやや大型の石仏は聖観音立像」と書いたのだが、基本的な注意力に欠けていた。(2013.12.01の記事)小堂の一番奥、これはどうみても地蔵菩薩立像ではなく、聖観音立像だろう。そうなるとこれは当然「六地蔵」とは言えない。小堂の真ん中に聖観音立像 明和5(1768)小堂の中の他の石仏より少し大きい。台の中央に奉誦普問品供養塔、さらに、奉納 湯殿山富士山西国秩父坂東諸願成就処と彫られていた。側面には合わせて20名ほどの名前を刻む。まわりの石仏のひとつの台に明和5(1768)の銘があり 十方施主とあった。参道の右側にも石塔が並んでいる。石橋供養塔 宝暦6(1756)正面上部に地蔵菩薩坐像が浮き彫りされていた。その下に奉懸石橋於當村七箇所 成就供養と刻まれている。左側面 足立郡笹目領松本村 願主 法子 二人の名を刻む。右側面 十方施主 世話人 當村 個人名が刻まれていた。真乗寺の東の道を越えて向い側に墓地がひろがっている。ここは真乗寺の埋め墓である。お詣りするお墓とは別にご遺体を埋めるお墓があるらしい。その入口に庚申塔 明和元年(1764)が立っていた。右側面に奉造立青面金剛供養塔と刻む。左側面は狭くて写真は撮れなかったが足立郡笹目領松本村講中とあり、願主 個人名が刻まれていた。青面金剛立像 右手に剣、左手にショケラ。邪鬼二鶏三猿が揃っている。
2014.07.24
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