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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら清瀬市の石仏の最終回です。八王子方面や国分寺方面などに自動車で行き来するときは主に志木街道を使っていましたので、清瀬市は以前からなじみの深いところでしたが、自転車でゆっくり回ってみるとまた違った味わいがあって楽しかったです。全龍寺入口 清瀬市中清戸1-443西[地図]志木街道、中清戸の日枝神社の向かい側、全龍寺の入口の角のところに小堂が立っていた。周りに「安産子育 守護地蔵尊」と書かれた赤い旗が並んでいる。小堂の中 地蔵菩薩立造 享保6(1721)大きな四角い台の上、角柱型の石塔に蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。台も入れると2mは優に超す大きなお地蔵様。この規模の丸彫り地蔵菩薩像でまず思い出すのは、新座市の普光明寺の二つの埋め墓、三本木墓地と「ハケ上」墓地の高地蔵、それぞれ享保13年、12年造立で造立時期も近い。(リンクあります)豊かで端正な顔立ち。錫杖・宝珠も欠損なく、首に補修跡も見当たらない。このあたりの像容も新座の二つの地蔵菩薩像とよく似ている。角柱型の石塔の正面「奉造立地蔵尊爲頓證菩提也」上部両脇に造立年月日。右下に施主當村男女、左下に願主二名の名前が刻まれていた。塔の右側面は無銘。左側面に武州宗岡村 石屋七兵衛作と刻まれている。志木の宗岡の石工の作品。より近い新座の二つの地蔵塔も、もしかしたら同じ石工の仕事だろうか?お地蔵様に対する厚い信仰を表すかのように、四角い台の上の面には多くの深いくぼみ穴が穿たれていた。志木街道枝道アパート駐車場 清瀬市下清戸3-926[地図]志木街道は、下清戸の長源寺の東の信号の先から斜め右に枝道が分かれている。この道をまっすぐゆくと、新座の陣屋通りを通って平林寺の近くに出る。たぶん昔からの古道なのだろう。枝道に入って100mほど進むと、道路左側のアパートの前の駐車場の入口付近に石塔が立っていた。成田山不動明王塔 安政2(1855)角柱型の石塔の上に四角い台をのせ、その上にまた角柱型の台座、その上に不動明王坐像。火焔の光背は一部欠け、像は風化して溶けだしている。両手に持っているはずの剣、羂索ともにはっきりしない。よく見ると台座の正面に制吒迦童子、矜羯羅童子らしき跡がぼんやりと見え、こちらは不動三尊像ということになる。角柱型の石塔の正面「成田山不動明王」右側面に造立年月日。左側面には清戸村 願主とあり4名の名前が刻まれていた。ここまでみつからなかった石仏もいくつかありましたが、とりあえず一周、これで「清瀬市の石仏」を終了したいと思います。12月も半ばすぎて、すっかり日も短くなりました。早朝の寒さも一段と厳しくなり、そう遠くまでは行けそうもありません。しばらくは近場を回ることになりそうです。
2022.12.16
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら清瀬市の石仏も残すところあとわずかです。今日は長命寺の東にある曹洞宗寺院 長源寺の石仏を見てみましょう。長源寺 清瀬市下清戸4-406[地図]長命寺から東へ500mほど、志木街道の北側に長源寺の入口がある。門柱が立つ入口から境内に入ると正面に本堂が立ち、参道左脇には六地蔵が並んでいた。街道筋にあっても静かで厳粛な雰囲気、掃除の行き届いた境内は気持ちがよい。丸彫りの六地蔵菩薩立像 天明2(1782)赤い衣装をまとった六地蔵。蓮台、敷茄子、石塔ともによくそろっている。頭部に補修跡もなく、きりっとした尊顔は大きな損傷もなくホッとする。厚い敷茄子の下、右から2番目の石塔の正面に「念佛講中」各石塔の側面に願主名。さらに武州下清戸村、その横に造立年月日が刻まれている・本堂の手前、参道左脇の植え込みの中に丸彫りの地蔵菩薩塔 享保6(1721)が立っていた。このお地蔵様も錫杖・宝珠ともに欠けることなく美しい。塔の正面中央「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日。右側面に武州下清戸村。右側面に願主 一名の名前。その横に講中二拾六人と刻まれている。本堂の前、両脇に一対の立派な石灯籠 正徳2(1712)が立っていた。徳川六代将軍家宣の霊廟前に奉納された石灯籠で、長命寺同様に増上寺にあったものである。曹洞宗寺院に浄土宗増上寺の石灯篭とはさすがに奇妙な印象を受ける。増上寺石灯籠を初めて見たのは練馬の「東高野山」長命寺だったと思うが、その後いろいろなところで見ることができた。遠く山梨県塩山市にある恵林寺にもあるという話を聞いたことがある。このあたりの事情はまた調べてみる必要がありそうだ。本堂の左、墓地の入口に大きな観音像が立っていた。その左脇に石塔が並んでいる。竹林の前、前列に三基の角柱型の石塔。その裏にはいくつか墓石が並んでいた。右 馬頭観音塔文字塔 文政13(1830)四角い台の上の石塔の正面に大きく「馬頭觀世音」台の正面、左 ひき又道。右の下はうまく読めないが、資料によると江戸道だという。塔の左側面 武刕多摩郡清戸村。台の左側面に願主 石井・・・と刻まれていた。塔の右側面に造立年月日。台の右側面、こちらにも願主とあり、小寺・・・と刻まれている。中央 三界万霊塔 安政2(1855)角柱型の石塔の正面にこちらも大きな字で「三界萬霊等」下の四角い台には銘は見当たらなかった。塔の右側面 天下泰平 國土安穏 五穀豊穣 萬民快樂。塔の右側面にはこの三界万霊塔造立の経緯が記されている。それによると長源寺11世住職が講を起こし、集まった十両で三界万霊塔と歴代住職の無縫三基を造立したとのこと。裏面には造立年月日に続いて十四世紋龍の銘があることから、造立者は14世住職で、11世が組織した講がその後何年かかけて寄せ集めた寄付金10両を資金に安政2年に11世、12世、13世の墓石とこの三界万霊塔を造立したということになるだろう。左 妙号塔 安政2(1855)ニ段の台の上 角柱型の石塔の正面に徳本上人の独特な書体で「南無阿弥陀仏」上のほうの台は正面を除く三面に銘があった。右側面には施主 小寺・・・・・。塔の右側面に造立年月日。続いて當山現住紋龍叟代。隣の三界万霊塔と同じ年に同じ14世住職が主導して造立されたものらしい。裏面には「爲二世安樂 親子就念仏 修行供養寶 塔造立令數 石寄付者也」と刻まれていた。
2022.12.12
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら「清瀬市の石仏」も最後の町、下清戸に入ります。今日は浄土宗寺院、長命寺の石仏を見てみましょう。長命寺 清瀬市下清戸2-470[地図]志木街道は志木のほうから西に進むと、長命寺の前の交差点で2つに分かれ、本線はそのまま西へ清瀬駅の北側を通り東村山方面へ、左折して南西へ進むと清瀬駅の南を通り、小金井街道、新小金井街道を経て西東京市方面へ向かう。信号交差点の北側に長命寺の山門が立っていた。山門の右に大きな鐘楼が、左には以前は志木街道の南にあったという薬師堂が立っている。境内に入ってすぐ、参道左脇に角柱型の石塔が2基並んでいた。写真後ろは薬師堂の裏あたりになる。左 大乗妙典供養塔 宝永8(1711)四角い台の上、石塔の正面中央「奉納大乗妙典六十六部」上部両脇に天下泰平・國土安穏。右下に日本□□(回国か?)左下に念譽正□。塔の左側面上部に四國 西國 秩父 坂東。中央に大きく「普?度法界」その下に有縁・無縁 等と刻まれている。観音霊場、四国霊場の順礼供養塔?三界万霊塔?という意味だろうか?右側面には大きく「納経施主」その下に拾部、拾部、七部、七部とあり名前が刻まれ、さらに七部、七部、拾部、二十部とありやはり名前が刻まれている。8人で協力して大乗妙典を奉納したのだろう。全部足すと77部になるが・・・・・裏面にも銘が刻まれていた。笈施主、□□寄進施主と並び、その下に小さく武州清戸村 大熊・・・・。続けてその下に二行、國□□□、各二世安樂。その横に造立年月日。最後に敬白と刻まれている。右 順礼供養塔 元治2(1865)背の高い角柱型の石塔の正面 中央に「奉納経西國秩父坂東百番觀世音菩薩関東十八檀林祈順拝供養塔」両脇に天下泰平・日月清明。塔の右側面上部、線刻された蓮座の上に月山・湯殿山・羽黒山。その下に浅間禅定、七峯禅定、大山禅定。こちらも順礼されたものか?さらに下部に世話人 大熊・・・・、続いて本家 大熊・・・・と刻まれていた。隣の宝永8年の大乗妙典供養塔と同じ姓の世話人であり、相当に有力な檀家さんなのだろう。左側面上部に立山・富士山・金華山。その下に象頭山、手石弥陀、八十八ヶ所。ここまでくると回国供養塔というべきかもしれない。その下にまたも施主 大熊・・・と刻まれていた。裏面上部に偈文。その下に爲子孫長久。続いて造立年月日が刻まれている。薬師堂の裏から本堂の奥まで、境内西側一帯に墓地がひろがっていた。参道の左側、墓地の入口脇に六地蔵が祀られている。六地蔵菩薩立像 安政4(1857)丸彫りの像は同じようなサイズでそろっているが、いずれも頭部は後から補われたものらしく顔はのっぺらぶだった。二段の長い台の上に六基の地蔵塔が並ぶ。蓮台、敷茄子、石塔部はどれも同じ様子で、石塔の正面に地蔵名、側面にそれぞれの世話人名、左から2番目の側面に造立年月日が刻まれていた。上の台の正面には惣檀中と刻まれている。参道の先の本堂の前に合わせて六対の増上寺石灯籠が並んでいた。さらに手前両側に八角形の宝塔が立っている。増上寺石灯籠は徳川将軍がなくなった時に諸藩が寄進奉納したもので、霊廟前に並んでいたものらしい。二つの宝塔は徳川6代将軍家宣の正室と11代将軍家斉の正室の墓石だという。本堂の左脇に歴代住職の墓地があった。五輪塔、宝篋印塔、卵塔などが並んでいる。墓地の西側奥に四基の像塔。いずれの墓石も江戸時代初期のもので白カビも多く風化が進む。左から地蔵菩薩坐像 延享3(1746)石塔の左側面に観音講中二世安樂と刻まれていた。その隣 阿弥陀如来坐像 宝永2(1705)白カビが多い。続いて阿弥陀如来立像 元禄12(1699)光背も像も白カビが多く漠然としている。右端 阿弥陀如来立像 寛文10(1670)寛文期らしくシャープで大きな舟形光背を持つ。山門のある入口の左側に薬師堂の入口があった。門扉には葵の紋がかかっている。お堂の手前両側にも増上寺石灯籠が立っていた。薬師堂の西側、新しい大きな聖観音菩薩像の後ろにかなり大きな宝篋印塔が並んでいた。戒名に大童子、大童女などとあり、将軍家の夭折した幼児の墓石が多いようだ。薬師堂近くに立つ総高3mほどもある大きな宝篋印塔。これほど立派な宝篋印塔はめったに見られない。球形の塔身部の四方に梵字が刻まれ、基礎に元文3(1738)の紀年銘、命日だろう。基礎正面に刻まれた戒名は大禅定尼となっていた。こちらは将軍家側室の墓石らしい。本堂前の正室の墓石、こちらの側室の墓石、なぜここにあるのだろうか?不思議だ。
2022.12.08
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら日枝神社と同じ境内にある水天宮と御嶽神社の石仏を見てみましょう。水天宮 清瀬市中清戸2-616[地図]三つの鳥居のうち真ん中の鳥居の先から水天宮の拝殿までまっすぐに参道が続く。参道の左側に三つの境内社が並んでいた。水天宮の拝殿のすぐ手前、八雲神社の右脇に石塔が立っている。猿田彦太神塔 天保13(1842)角柱型の石塔の正面に大きく「猿田彦太神」塔の右側面に造立年月日。左側面に「御宮廻舗石」お宮の敷石を奉納したというっことだろうか?その下に下清戸村 施主とあり、個人の名前が刻まれていた。八雲神社の南に金毘羅神社、白山社と続く。白山社の左脇にも石塔が立っていた。大乗妙典供養塔 寛延4(1751)角柱型の石塔の正面「大乗妙典一千部自讀供養」奉納供養塔ではなく読誦供養塔らしい。塔の右側面に造立年月日。左側面に當寺第七世 傳燈豎者法印亮賢造立焉と刻まれていた。志木街道に向かって立つ三基の鳥居のうち左の鳥居の先、参道の奥の塚の上に御嶽神社が祀られている。こちらは立派な鳥居を持つものの、その規模からいって日枝神社・水天宮の境内社と考えるべきかもしれない。狛犬が置かれた階段入口の左側、塚のふもとに石塔が並んでいた。一番奥の二基の石塔。庚申塔と大乗妙典供養塔である。どちらも白カビが多く、風化も進んでいた。まずは庚申塔 天明6(1786)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。日月雲の下、ちょうど白カビが薄くなった中央あたりに「天下泰平 國家安全」青面金剛の頭上には蛇が見えるが、顔はつぶれていてのっぺらぼうだった。持物は矛・法輪・弓・矢。左手のショケラは斜めに、青面金剛は髪の毛というよりは頭全体をむんずとつかむ。足の両脇に二鶏を線刻。はじめ見たときは彫りが薄くまったく気が付かなかったが、ライトを当ててやっと確認できた。しかめ面をした邪鬼は頭と腰のあたりを踏まれている。その下に三猿。両脇の二猿が内を向いて座っていた。塔の右側面に造立年月日。続いて武刕多摩郡中清戸村中。左側面上部に偈文。その下に是よりところ沢道と刻まれていた。その隣 大乗妙典供養塔 安永4(1775)四角い台の上に角柱型の石塔。やはり白カビが多い。石塔の正面上部、舟形光背の形に彫りくぼめた中に合掌型の地蔵菩薩坐像を浮き彫り。像の周りは梵字かもしれないがはっきりしない。下部中央「奉納大乗妙典日本廻國」両脇に天下和順・日月清明。塔の右側面に造立年月日。その下に世話人とあり二名の名前。左側面 武州多摩郡清戸邑 正覺寺法印快意□子。行者 善入大徳と刻まれていた。
2022.12.03
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は中清戸の日枝神社です日枝神社 清瀬市中清戸2-616[地図]志木街道を東に進み、水天宮前交差点を越え中清戸に入ってすぐ、道路左側に日枝神社・水天宮の大きな看板が立っていた。道路に向かって3つの鳥居が並び、右から日枝神社、水天宮、御嶽神社の入口になる。こちら日枝神社の入口。明神鳥居の上に三角形の破風が乗る独特な山王鳥居が立ち、その先は拝殿まで広い参道が続いていた。参道右手には大小さまざまな石灯籠が並んでいる。その奥のほうに小堂が立っていた。小堂の中に二基の「三猿石灯籠」が並ぶ。二基はほぼ同じような構造だが、左のほうが一回り大きい。右 三猿石灯籠 宝永7(1710)竿は六角形で、六面それぞれに銘が刻まれ、三面の下部に三猿が浮き彫りされている。下部に聞か猿が浮き彫りされた面が正面。中央に大きく「山王御宝前」その左の面に「奉造立石灯籠」その下に「諸願 成就」下部に見猿が横向きに座る。右の面に造立年月日。その右横に武刕多摩郡中清戸村。下部には左向きに座る言わ猿を浮き彫り。後ろの三面、左の面には小寺宇左衛門少尉 重政と刻まれていた。願主だろうか?三面の真ん中、塔の真裏の面に當社開基 天正七年 中島筑後守信尚開之。その右の面に當寺八代大阿闍梨法印乗俊代と刻まれている。左 三猿石灯籠 寛文4(1664)右と同じように六角形の竿を持つ。正面に「奉納山王御寶前」その下、右から諸願 爲也 成就。「爲諸願成就也」と読むのだろう。下部に聞か猿を浮き彫り。その左の面、中央に造立年月日。脇に横山氏の名前。下部に見猿。こちらは正面向きに座っていた。右面 武刕多摩郡 下清戸村。その横に本願 山埼傳七良。下部に正面向きに座る言わ猿を浮き彫り。後ろの三面の左 當寺七代権大僧都□□□。下部に4名の名前が刻まれている。後の三面の真ん中、塔の真裏の面「右 山王開闢 天正七年 中島筑後守信尚開之」下部に3名の名前。右の面「右石灯籠十一人直寄進之」こちらも下部に3名の名前が刻まれていた。
2022.11.29
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は日枝神社のすぐ西にある休心庵墓地の石仏です。休心庵墓地 清瀬市上清戸2-1-3[地図]志木街道水天宮前交差点の50mほど西、道路北側に休心庵の墓地があった。門を入って正面の建物が「休心庵」その左側から奥へ墓地がひろがっている。墓地手前、左側に二基の石碑と白い基壇の小堂が立っていた。小堂の中 不動明王坐像。大きな火焔光背を負い、右手に利剣、左手に羂索を持つ。銘は確認することができず造立年などは不明。そんなに古いものではないような気がする。墓地の入口付近に丸彫りの地蔵菩薩塔をはじめ石仏が並んでいた。その裏は歴代住職の墓地になる。右端 地蔵菩薩立像 享保9(1724)四角い台の上に丸みを帯びた角柱型の石塔、厚みのある蓮台に堂々と佇む地蔵菩薩像。丸彫りにもかかわらず錫杖・宝珠とも健在。首に補修跡も見られなかった。尊顔はやや損傷が見られるがこれは風化によるものだろう。石塔の正面中央「奉造立地蔵尊」右脇に武刕多摩郡 講中十八人。左脇に上清戸村 願主とあり二名の名前が刻まれている。右側面に造立年月日。その横に是体覚道。人の名前だろうか。開眼導師?左側面に仕優建立 念佛講中。「仕優」は初めて見るがどういう意味だろう?こちらもよくわからない。銘の文字は美しく、300年の時を経ているとは思えないほどクリアだ。その隣 地蔵菩薩立像。台を欠き、銘が見当たらず詳細不明。錫杖の先と宝珠は欠損。こちらも首に補修跡は見られなかった。左 六地蔵菩薩立像 昭和12(1937)六基の角柱型の石塔の正面に、それぞれ蓮台に立つ地蔵菩薩像を浮き彫り。さすがに大きな損傷は見られない。六基とも側面にいくつか戒名が刻まれる。右から三番目の左側面に功徳主 休心庵檀中一同。裏面に造立年月日が刻まれていた。六地蔵の後ろに名号塔 安政4(1857)塔の正面はやや風化が見られ一部剥落、しかも六地蔵塔の陰になっていて正面の写真はうまく撮れないが、大きな字で「南無阿弥陀佛」右側面に念佛講中。左側面に造立年月日。その横に阿弥陀如来彩色建立と刻まれていた。
2022.11.23
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら志木街道をさらに東へ進み小金井街道を越えてゆきます。今日は郵便局の東の交差点の角に並ぶ石塔群を見てみましょう。清瀬郵便局東交差点 清瀬市元町2-1-22[地図]志木街道と小金井街道の交差点、郵便局前交差点から志木街道を東へ100mほど進むと、信号交差点の南西の角、鎖で囲まれた三角地に石塔が並んでいた。東向きの六基の石塔。左の三基はいずれも個人の名前が刻まれた馬頭観音の文字塔。左 大正4(1915)、中央 明治42(1909)、右 嘉永7(1854)造立。右の馬頭観音塔は道標になっていた。塔の左側面に上清戸村 願主とあり個人の名前。上部に「左り」下部に八王子 大山 道と刻まれている。右側面には上部に「右り」とあり、下部にのしを?(野塩か?)ところ沢 道と刻まれていた。三基の馬頭観音塔に続いて大乗妙典供養塔 享保12(1727)上部丸角柱型の石塔の正面、中央に「日本廻國大乗妙典六十六部」上部両脇に造立年月日。右下に武刕多摩郡清戸村、左下に願主 大眼休意と刻まれている。その隣 庚申塔 享保10(1725)宝珠付きの唐破風笠を持った角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭に蛇を乗せた青面金剛。釣り目の忿怒相のようだが風化のためかその表情は今一つはっきりしない。持物は斧・法輪・弓・矢。足の両脇に二鶏を線刻。足元に邪鬼を踏むが、邪鬼の顔も削れていてのっぺらぼうだった。二鶏の両脇、縁の部分に左 八王子道、右 青梅道と刻まれている。邪鬼の下に正面向きの三猿。その下の部分、右端に武刕多摩郡上清戸村とあり、続いて願主一名、さらに七名の名前が刻まれていた。塔の両側面には蓮の花が浮き彫りされている。右側面に造立年月日。左側面には「奉造立庚申供養講中八貟」と刻まれていた。東向きに並ぶ六基の石塔の右端 馬頭観音塔 天明2(1782)四角い台の上に重厚な角柱型の石塔、その上に蓮台に座る丸彫りの馬頭観音像。丸彫りの馬頭観音坐像は力作。三面八臂忿怒相。中央の顔の頭上にくっきりと馬頭。円形の頭光背を負う。合掌手以外の左手の持物は法輪・独鈷杵・数珠。右手は宝剣・棒・与願印?三面ともに見事な忿怒相。なかなかの迫力である。角柱型の石塔の正面「奉造立南無馬頭觀世音菩薩」下部両脇に道標銘。右 所澤 山口道、左 八王子 大山道。塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。下部に武州多摩郡 上清戸邑。台の正面に「供養塔」右側面に願主一名と世話人二名の名前が刻まれていた。志木街道を背に南向きに並ぶ三基の馬頭観音文字塔。左 大正5(1916)、中央 明治23(1890)、右 大正6(1917)造立。こちらもみな施主として個人の名前が刻まれている。中央の馬頭観音塔に道標銘が刻まれていた。左側面に向左大山 ふぢ 道。左側面に 向左 くめ川道。ここに集められた石塔には道標になっているものが多い。志木街道、小金井街道などもあり、交通の発達した地域ということだろう。それぞれもともとはどこに立っていたのだろうか、興味深いものがある。
2022.11.20
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらここまで清瀬市の北部を柳瀬川通りに沿って東の下宿から中里、野塩と見てきました。今度は南へ移って志木街道沿いに西から東へ見てゆきます。今日は取材の都合で後回しになっていた野塩の圓福寺と、志木街道沿い二つの石塔を見てみましょう。圓福寺 清瀬市野塩3-51[地図]空堀川の薬師橋のすぐ東に圓福寺・西薬師堂の入口がある。その両脇に一対の大きな金剛力士像が立っていた。この入口から東へ進むと圓福寺の本堂、正面の石段を登ってゆくと薬師堂に出る。入口から入ってすぐ左、奥に「寂光堂」という合同永代墓があり、その手前、左側に六地蔵の小堂が立っていた。小堂は二つ、それぞれ三基の地蔵菩薩塔が収められている。こちら左の三基。四角い台に角柱型の石塔、敷茄子に蓮台、よくそろっていて同時に奉納されたもので間違いないだろう。石塔の正面に施主名。左は一名、中央は當所とあり四名、右は上のほうに大きく四名、その下に小さく十名の名前の名前が刻まれていた。いろいろな人たちがそれぞれに奉納したもののようだ。こちらは右の三基。左の三基とともに六地蔵として造立されたものだろう。三基のうち左の石塔の正面には八名の名前、中央には「女念佛講中」、右の石塔には念佛□□中里村とあり七名の名前が刻まれている。下の台から石塔、敷茄子、蓮台、地蔵像まで六基の地蔵塔はほぼ同じような様子なのだが、頭部だけは変わっている。右から3番目は自然な感じだが、他の5体はいずれも首に補修跡があり、黒ずんだ顔色が異様で、おそらく本来のものではないのだろう。右端の石塔の右側面に當寺現住廿一世代。その横に明治20(1887)再建と刻まれていた。創建は江戸時代後期と思われるが、明治初期の廃仏毀釈のために破損したものを補修・再建したのだろうか。長い石段を登った先に薬師堂が立っていた。堂の前に立派な二対の増上寺石灯籠が並んでいる。薬師堂の左一帯には墓地がひろがっていた。その入り口に二基の石塔が並んでいる。左 名号塔 安永8(1779)角柱型の石塔の正面に「南阿弥陀佛」両脇に造立年月日。右の地蔵菩薩坐像は銘が見当たらず詳細は不明。薬師堂の右手前、コンクリートでできた円柱型の堂?の中に丸彫りの地蔵菩薩立像とそれを取り囲むように多くの超小型の地蔵菩薩像が集められていた。こちらも造立年などは分からないが、そう古いものではなさそうだ。薬師堂の南側に美しい三重塔が立っていた。昭和46年建立という。今の時代にこのような立派な三重塔が建てられたこと、その信仰の力に驚かされる。三重塔とその南にある鐘楼堂を取り囲むように十三仏が配置されていた。こちらもやはりあたらしいもののようだ。よく整備された境内は気持ちがよい。野塩橋東詰遊歩道入口 清瀬市梅園3-11-1[地図]東村山方面から志木街道を東に進み、空堀川の野塩橋を渡る。川に沿って設けられた遊歩道の入口に石塔が立っていた。石橋供養塔 嘉永3(1850)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「石橋他力供養塔」この「他力供養」は初めて見るが、これが何を意味するのかはよくわからない。塔の右側面に造立年月日。左側面には武刕多摩郡 野塩村。その下に世ハ人とあり2名の名前が刻まれていた。西武池袋線東志木街道側道 清瀬市元町2-17[地図]志木街道をさらに東に進み、西武線をくぐって越した先の交差点の少し手前、側道の植え込みの端に石塔が北向きに立っていた。馬頭観音塔 文政11(1828)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。さらに両脇に多摩郡 野塩村。左側面には願主 個人名が刻まれていた。
2022.11.15
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら中里1丁目から野塩にかけて路傍の石仏を見てみましょう。中里1丁目路傍 清瀬市中里1-1641[地図]東光院から細い道を南に向かい車道に出て右折、400mほど西に進むと、道路左側に小堂が立っていた。この通りは柳瀬川通りの一つ南の通りで、二つの通りは同じように西に向かってやがて空堀川に突き当たる。小堂の中 地蔵菩薩立像 宝暦8(1758)四角い台の上、丸みをおびた角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩像が乗る。像は赤い衣装に包まれ細かいところまでは確認できないが、顔などに大きな損傷はささそうだ。石塔の正面中央「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日。塔の右側面に多摩郡中里村。左側面に願主は個人名が刻まれていた。柳瀬川通り野塩路傍 清瀬市野塩1-356[地図]柳瀬川通りは三郷橋で空堀川を渡りそのまま川沿いに南下、やがて緩やかに右にカーブしてまた西に向かう。400mほど続く坂道を登り切ったあたり、交差点の角のところに小堂が立っていた。小堂の中 庚申塔 天明6(1786)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。像の表面は風化のために摩耗、丸くなっている。頭上にとぐろを巻いた蛇。ショケラは足を折り曲げて腰のあたりにすがりつく。顔の両脇に天下泰平・國家安全と刻まれていた。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。邪鬼はおしりを高く上げてうずくまり、青面金剛は斜めにその頭と腰を踏みつける。下部に三猿、両脇の猿が内側を向く構図で彫られていた。塔の右側面、武州多摩郡野鹽村。その脇に造立年月日。下部に講中二十六人、同村中。左側面には「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道」と回向文が刻まれている。薬師橋西坂上 清瀬市野塩1-180[地図]空堀川東の段丘にある薬師堂で有名な円福寺。その門前近くの薬師橋から200mほど西の交差点の角に小堂が立っていた。写真右の道を北へ進むと、上の柳瀬川通りの庚申塔のある交差点に出る。小堂の中 地蔵菩薩立像 明暦3(1657)江戸時代に石仏が多くつくられるようになったのは寛文期あたりからで、明暦となるとその数はかなり少なく貴重なものといえるだろう。四角い台の上、ぶ厚い敷茄子、しっかりした蓮台に丸彫りの地蔵菩薩塔、そのたたずまいは威風堂々。像は傷も少なく錫杖、宝珠とも健在、尊顔もあごのくびれまで細かく、静かな表情も美しい。四角い台の正面 右に武州多摩郡野塩村、中央に講中三拾人、左に造立年月日が刻まれている。薬師橋西交差点 清瀬市野塩1-146向い[地図]上の地蔵菩薩の立つ交差点と薬師橋のちょうど中間あたりの交差点、畑の隅に石塔が立っていた。馬頭観音塔?明暦2(1656)?角柱型の石塔は風化が進み銘がほとんど読み取れない。博物館HPによると馬頭観音の文字塔で、三方向三地名が刻まれた道標ということだが、普通の馬頭観音塔のように正面に大きく「馬頭觀世音」というような銘は見当たらず、また道標銘らしきものも確認できなかった。それでも正面には文字がけっこう見られる。ひらがなも多く意味はよくわからないのだが・・・左下に「つて・・かん世音」と読めるがこれが馬頭觀世音を表すのだろうか?塔の左側面にも銘らしきものは見えるが判読不能。右側面、右に・・・・二月吉日。造立年はHPによると明暦4年となっているがその部分は削れていて読めなかった。その脇に願主とあり個人名が刻まれている。
2022.11.12
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は小金井街道のすぐ西にある東光院の石仏です。東光院 清瀬市中里2-1383[地図]柳瀬川通りを西に進むと小金井街道に出る。交差点を越えて少し先を左折、路地に入りしばらく坂道を登ってゆくと右手に寺標が立っていた。ここが東光院の入口。住宅街の中の細い道を西に進むと、突き当たり、階段のあたりからお寺の境内に入る。早朝にうかがうと、ご住職と奥様がほうきを手に掃除をされていた。静かな境内は気持ちがいい。階段を上り切ってすぐ、参道の左脇に多くの石塔が並んでいた。左から普門品供養塔 文政6(1823)二段の四角い台の上の角柱型の石塔に、頭光背を持つ聖観音菩薩の坐像が乗っている。角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉讀誦普門品□□巻供養塔」両脇に天下和順・日月清明。塔の左側面に武蔵國多摩郡中里村、続けて造立年月日。下のほうに連經講中。右側面には「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂禮」と観音経の偈文が刻まれている。その下の四角い台の正面、右脇に観音講中とあり続いて十数名の名前。両側面には志衆中 銀二朱とあり、合わせて二十二名の名前が刻まれていた。その造立に当たって近隣の村の人たちの助力があったのだろうか。墓石に続いて七基の石塔が三列に並んでいる。前列左 馬頭観音塔 明治5(1872)隅丸角柱型の石塔の正面 中央に「馬頭觀世音菩薩」両脇に造立年月日。側面に施主は個人名が刻まれていた。前列中央 念仏供養塔?風化のために紀年銘などは確認できないが、正面中央に薄く「念佛講中」と見える。前列右 馬頭観音塔 安政2(1855)駒型の石塔の正面に「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。こちらも施主は個人名が刻まれていた。真ん中の列の左 念仏供養塔?明治37(1904)角柱型の石塔の正面にただ「供養塔」とだけある。台の正面の右端に念佛講中とあり16名の名前が刻まれていて、念佛供養塔ではないだろうか。台の左側面、右のほうに造立年月日。さらに世話人とあり、数名の名前が刻まれていた。その隣 地蔵菩薩文字塔 昭和15(1940)角柱型の石塔の正面に「六道能化地蔵尊」塔の左側面に造立年月日。その横に志主とあり個人名が刻まれている。後列左 合掌型の地蔵菩薩立像。銘は無く詳細は不明。後列右 大乗妙典供養塔 宝暦11(1761)角柱型の石塔の正面「奉讀誦大乗妙典千部供養塔」両脇に造立年月日。塔の両側面には偈文が刻まれていた。裏面にも銘が刻まれている。中永山東光院 十二世大阿闍梨 権大僧都。。。施主は東光院の当時のご住職ということだろう。奥に三基の丸彫りの地蔵菩薩塔 宝暦5(1755)参道の右側にも三基の地蔵菩薩塔が並んでいて、合わせて六地蔵になる。三体の地蔵菩薩像はいずれも首に補修跡があるが、顔には大きな傷は無く同じような表情でたたずむ姿はいかにも六地蔵という感じがする。蓮台、敷茄子、石塔の様子もよくそろっていた。石塔の正面にそれぞれの地蔵名。三基のうち右の石塔の両側面は無銘。左の二基の石塔の右側面には願文が刻まれている。左端の石塔の左側面には武州多摩郡中里村 講中五十三人とあり、さらに造立年月日が刻まれていた。その隣の石塔の左側面には願主二名の名前が刻まれている。参道を隔てた右側にも三基の地蔵菩薩塔が並んでいた。六地蔵ということだが、こちらはちょっと様子が変だ。まず全体の高さが違うが像のサイズはほぼ同じ、これは敷茄子の違いだろう。左は敷茄子が無く蓮台が石塔の上に直接乗り、真ん中は敷茄子・蓮台、右は敷茄子を重ねた上に蓮台、とそれぞれ様子が違っている。なぜこんなことになっているのだろう?頭部のほうも右だけがまとも、真ん中は顔が削れていて補修跡があり、左はもはや頭部とも言えないような不思議な補修がされている。像の下の石塔部を見ると、左の二基はその正面に地蔵名が刻まれているが、右の石塔は地蔵名すら無く四面ともまったく無銘だった。本当にどうしてこうなったのだろう?
2022.11.06
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら柳瀬川通りを西に進み、今日は中里富士塚の石仏です。中里富士塚 清瀬市中里3-991[地図]柳瀬川通りをさらに西に進み、柿の下交差点を越えてしばらく行くと右手に中里郵便局がある。その先の信号交差点を左折してゆるやかな上り道を行くと、正面に富士塚があった。入口の階段の上に鳥居が立っている。鳥居の左脇の手水舎の向こうに角柱型の石塔が立っていた。馬頭観音塔 文化6(1809)角柱型の石塔の正面中央 梵字「サ」の下に「奉造立馬頭觀世音菩薩」両脇に天下泰平・國土安全。右側面に造立年月日。左側面に武州多摩郡中里村。裏面には「種(々)諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅」と観音経の偈文が刻まれている。四角い台の三面、土埃の中に多くの人の名前が見える。左側面の最後に講中拾九(人)と刻まれていた。正面に「登山口」があり、その右脇に石塔が立っていた。登山口すぐの右脇に庚申塔。自然石の正面に「庚申」他に銘は見当たらず詳細は不明。さらにその右、斜面の途中に地蔵菩薩立像 正徳2(1712)角柱型の石塔の上、大きな蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。300年前のものとはおもえないほど、像は損傷が少なく尊顔は豊かで美しい。角柱型の石塔の正面 中央に「奉造立地蔵塔爲二世安樂也」両脇に造立年月日。左側面には武刕多摩郡中里村 三拾九(人)と刻まれていた。その隣 大きな木の近くに庚申塔 享保10(1725)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。長い年月を経て風化が進む。顔の様子もはっきりしない。さらに上の左手は剥落?日月雲ともにセメントで補修されたような跡が残っている。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は貧弱で力なく踏みつけにされている。その下に正面向きの三猿。顔が白カビに覆われていた。塔の左側面に造立年月日。続いて武刕多摩郡中里村施主敬白と刻まれている。右側面には「奉造立庚申塔講貳十人爲二世安樂也」と刻まれていた。
2022.11.02
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら柳瀬川通りを西に進みます。今日は中里の石仏を見てみましょう。市役所北交差点東の駐車場 清瀬市中里5-595[地図]圓通寺から旭が丘通りに出て南に向かう。緩やかな坂をのぼり、角に交番のある信号交差点を右折して柳瀬川通りを西に進む。長い坂を登りきったあたり、道路右側に「台田の杜」という広い緑地公園があって、付近に文化2年の庚申塔があるということだがこれはうまく見つからなかった。さらに西に進み台田団地入口交差点をすぎて250mほど先、道路が緩やかに左にカーブする手前、道路左側の駐車場の入口脇のブロック塀の裏に石塔が見えた。何度か通りかかった際に探したが見つからず、最後に自転車を引きながら歩いてなんとか石塔らしきものが見える、そんなロケーションだ。ブロック塀の陰に隠れるように並ぶ二基の石塔。右側が馬頭観音塔だった。馬頭観音塔 安政6(1859)銘はなんとか確認できる。角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。塔の右側面は傷も多く文字らしきものが見えるような気もするがはっきりしない。左側面に施主とあり個人名が刻まれていた。金山公園入口交差点角 清瀬市中里6-510近く[地図]柳瀬川通りの金山公園入口交差点の角に朱塗りの小堂が立っていた。写真左の道を下ってゆくと柳瀬川沿いの道に出て、金山橋を渡った先、左側一帯が金山緑地公園になる。小堂の中 地蔵菩薩立像 宝暦5(1755)四角い台の上の角柱型の石塔に、蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。錫杖・宝珠とも健在、大きな欠損もなく細かな彫りもしっかり残っていた。石塔の表面は風化が進む。正面中央「奉造立地蔵尊念佛供養塔」両脇に造立年月日。さらにその両脇に中里村講中 二十八人と刻まれていた。塔の左側面には法華経の偈文。その上部は風化のために傷つき銘は不完全。右側面はさらに損傷が大きくいくつか文字が見えるが読み取りは困難で、わずかに「安樂」と二文字だけが確認できた。
2022.10.29
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は圓通寺境内の石仏と、圓通寺西三叉路の庚申塔です。圓通寺 清瀬市下宿5-521[地図]参道を進むと白い塀が切れた先、左側一帯に植え込みがあって、その裏に墓地がひろがっていた。植え込みの中に石塔が並んでいる。左から 馬頭観音塔 文政8(1825)二段の四角い台の上、角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」その上の円の中にいくつか梵字が刻まれているようだが薄くなっていてよみとれない。上の台の正面には東 ひきまたと刻まれていた。塔の右側面に造立年月日。左側面には武刕多摩郡下宿村、念佛講中 同村中とあり、その下に世話人三名の名前が刻まれている。台の四面はいずれも道標になっていた。正面の「ひきまた」に続き、台の右側面には 北 川ごへミち。こちらは裏面。白カビの中で読みにくいが、西 ところざわだろう。左側面はさらに銘が薄く写真に撮っても判別は難しいが、ライトをあてて確認するとどうやら南 清戸みち。「清戸道」は以前、練馬、板橋の石仏を取材したときに銘の中にその名を見たことがある。清瀬、練馬の農村の作物を江戸に運ぶルートで、清瀬ー練馬ー文京を結ぶ重要な道だったらしい。「ひきまた」は現在の志木市、新河岸川の大きな河岸があって栄えた町。川越、所沢と合わせて、江戸時代後期、商業・経済の発達とそれに伴う交通網の発展が著しかったのだろう。その隣 不動明王塔 安政4(1857)四角い台の上に角柱型の石塔。その上に不動明王坐像。大きな火焔の光背が印象的。剣と羂索を手にして忿怒の表情の不動明王。足元の磐座の前面に制吒迦童子と矜羯羅童子が彫られていた。石塔の正面に「成田山」その下に念佛講中。左側面は無銘。右側面に造立年月日が刻まれている。四角い台の正面に18名の名前。右側面に12名の名前。左側面の右端に2名の名前、合わせて念仏講中は32名か?左側面、2名の名前のあとに世話人とあり3名の名前。さらに現住 法印 宥如と刻まれていた。続いて光明真言供養塔 嘉永4(1851)二段の台を持つ大きな角柱型の石塔の正面、上部の円の中に光明真言を梵字であらわし、その下に「光真言供養塔」光真言=光明真言だろう。塔の右側面に造立年月日。さらに供養導師 法印宥傳と刻まれている。左側面には多摩郡下宿 世話人とあり3人の名前。うち一人の名前の上に「名主」とあるのは珍しい。右端に子育て地蔵尊 昭和48(1973)圓通寺総代ご夫婦が願主となって造立された真新しい銅像だった。圓通寺西三叉路 清瀬市下宿1-122[地図]圓通寺の入口のすぐ西、三差路の大きな木の下に庚申塔が立っていた。右の道を行くと市民体育館、左の道を進むと旭が丘通りにでる。庚申塔 宝暦11(1761)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。頭上に蛇を乗せ、目を吊り上げて厳しい表情の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。ショケラ?は風化のためだろうか原型をとどめない。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元に邪鬼の姿は無く、ただ正面向きの三猿だけが彫られていた。塔の右側面中央に「奉讀誦観音経三万巻成就所」庚申塔の銘文としては変わっている。両脇に造立年月日。左側面 武刕多摩郡下宿村 講中二十二人村中 願主とあり、下のほうに二名の名前が刻まれていた。
2022.10.26
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は下宿にある古寺 圓通寺の石仏です。圓通寺 清瀬市下宿2-521[地図]柳瀬川の南に広がる台田団地の東、旭が丘通りを越えた先にある市民体育館の奥の住宅街の中に、清瀬市最古の寺院といわれる圓通寺がある。南向きに山門が、さらにその東には市の指定文化財である大きな長屋門が立っていた。山門の手前左脇の塀の前に四基の石塔が並んでいる。左から道祖神 明治15(1882)自然石の前面に「道祖神」背面に造立年月日と願主名などが刻まれていた。その隣 白カビがこびりつき、角が大きく欠けた角柱型の石塔。うっすらと見える銘から馬頭観音文字塔か?紀年銘も確認できず、造立年など詳細は不明。続いて地蔵菩薩立像 寛政6(1794)笠付き角柱型の石塔の正面に地蔵菩薩立像を厚く浮き彫り。大きな欠損はなかった。塔の右側面 梵字「アーンク」の下に「三界萬霊」その下に造立年月日。左側面には二つの戒名が刻まれている。右端 庚申塔 慶応3(1867)角柱型の石塔はかなり風化が進んでいるが銘はなんとか判読可能。正面中央に「庚申塔」右脇に造立年月日。左脇に「南 大山」塔の左側面、上のほうに「南」とありその下に□澤、府中。さらにその下に「大」正面にも「南 大山」とあり方向も重複するが、やはり「大山」の「大」なのだろうか?塔の右側面は風化が著しく進みほとんど読めないが、やはり地名が刻まれていたのだろうか?下部に小さく願主と銘が確認できた。裏面は粗彫りで銘は見当たらない。山門から手入れの行き届いた清潔な境内をのぞくと、本堂に向かう参道の左脇、白壁の前に多くのお地蔵様が並んでいるのが見えた。左から六地蔵菩薩塔 弘化2(1845)三つの台の上にそれぞれ二基づつ丸彫りの地蔵菩薩塔。六体のうち三体は顔がのっぺらぼうだが、残った三体の顔はよく似ている。六つの石塔の銘はほぼ同じ。正面にそれぞれの地蔵名。右側面に造立年月日。さらに東武多摩郡下宿とあり数人の名前が並び、最後に邨中と刻まれていた。その隣 地蔵菩薩立像。下の台が本来のものではないのだろうか、紀年銘などは見当たらず造立年は不明。丸彫りで錫杖の先を欠いているが、宝珠は健在、穏やかな尊顔は慈愛にあふれている。像の前部に銘が刻まれていた。「奉造立念佛講供養爲菩提也」念仏供養塔ということになるのだろう。続いて地蔵菩薩立像。風化が進み、顔は溶解、体の前面も損傷がはなはだしい。大きな蓮台と敷茄子に銘が刻まれていた。蓮台正面には願主名、その右脇に□永二と見えるのが造立年だろう。宝永2(1705)安永2(1773)嘉永2(1849)いずれとも判断できない。厚い敷茄子のほうの銘は武州多摩郡 清戸下宿 講中 □□廿三人 □□□人。講中仏である。最後に三体の地蔵菩薩像。こちらも銘がなく詳細は不明。像の様子から六地蔵のうちの三体ではないだろうか。像のサイズは不揃いだが、破損断裂したものを一緒に台に収めたものか、残された顔はよく似通っていた。
2022.10.22
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら「清瀬市の石仏」スタートします。よろしくお願いします。今回は資料とする書籍がみつからず、清瀬市郷土博物館HPの「石仏」コーナーを参考に回ってみました。こちらに載っていた石仏は全部で58基。そのほとんどが北部の「柳瀬川通り」と南部の「志木街道」沿いにあり、まずは北部の下宿から西へ野塩まで進み、南部は野塩橋から志木街道を東へ下清戸までとほぼ一筆書きのように回る予定です。下宿共同墓地 清瀬市下宿3-1330東[地図]清瀬市の北東の端、柳瀬川右岸の新座市との市境近くに「清瀬水再生センター」がある。センターの東の道を南に進むと、突き当りの畑の向こうに墓地があった。入口は畑の間の細い道の先にある。中をのぞくと墓地中央の広いスペースの真ん中に数基の石塔が並び、周りに個人の墓地が配置されていた。入口から入ってすぐ左、丸彫りの地蔵菩薩立像 文政2(1819)四角い台の上の角柱型の石塔の正面に「奉納地蔵大菩薩」遠目には普通の状態に見えたが・・・近寄って見ると、石質が脆いためだろう、錫杖と宝珠を欠き、像の一部は剥落、首にも大きな補修跡が残っていた。塔の左側面に造立年月日。右側面には武刕多摩郡下宿邑 願主 龍音 講中 七人と刻まれている。入口の右脇、地蔵菩薩塔と向き合うように馬頭観音塔 安永9(1780)舟形光背に三面六臂忿怒相の本格的な馬頭観音坐像を浮き彫り。舟形光背上部に「奉納」両脇に奥州三山 西國秩父 坂東百ヶ所。台の正面中央に造立年月日。右脇に世話人。左脇に薄く見えているのがその名前だろう。墓地の中を進むと、北側の一角に石塔が並んでいた。その中のいくつかは墓石らしい。左側に三基の不動明王像塔、いずれも銘は見当たらず造立年など詳細は不明。中央のひと際小さな不動明王塔は真ん中あたりで断裂、火焔光背も残っていないが、しっかりと剣と羂索を持ち座る姿はけなげでほほえましかった。右のほうに庚申塔 明治37(1904)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。白カビも多くはっきりしないが、腕に蛇が絡みついているように見える。六臂の彫りは比較的厚くしっかり。足元の邪鬼は背中に青面金剛をのせながらも余裕の表情、悲壮感は全くない。その下にまるまると太った三猿。狭いところに身を寄せ合うように並んでいた。塔の右側面に造立年月日。左側面に願主 個人名。合掌したショケラは斜めに吊るされている。墓地の真ん中のスペースに数基の石塔が並んでいた。中央手前 名号塔 明治39(1906)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「南阿弥陀佛」下の四角い台の正面に蓮が彫られている。塔の上に敷茄子、蓮台が載っていて、その上に仏像があったものと思われる。塔の右側面に造立年月日。左側面に當組 講中。この角度から見ると塔の正面は剥落寸前、かろうじて銘が残っている状態であることがわかる。塔の右脇、土の上に光背の割れた坐像が置かれていた。サイズから言ってもこの坐像が名号塔の主尊、蓮台の上の仏像と思われる。こちらの石仏は?火焔の光背から考えると不動明王?しかし右手に剣、左手に羂索を持つような感じには見えない。衣装も違うような気がするのだが、本当のところはどうなんだろう?
2022.10.17
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