全45件 (45件中 1-45件目)
1
私が長年使ってきたカメラの多くは日本光学・ニコン背のものです。 一番最初に一眼レフを持ったのは、「NIKON F」で1959年に発売されたものです。 国産の一眼レフの歴史は「アサヒフレックス」から始まり、それがペンタプリズムになり、ミラーが瞬時に復旧するクイックリターンになり、実用化して行きました。 その間に、トプコン・マミヤが出て、さらに、超進歩的な「ズノー」が出ました。 キャノンが発表してすぐに日本光学がNIKON Fを発表しました。 カメラの専門誌「写真工業」に発表されたのが、1959年5月号です。 50mm f2.0 標準レンズ付きで69000でした。 そして、発売と同時に各種付属品も完備したシステムカメラでした・ だから、NIKON Fは決して早かったわけでは無いのですが、一眼レフとしては完成形でした。 でも、取り入れた「クイックリターンミラー」はペンタックス・旭光学の特許に抵触して揉めた経緯があります。 それが解決?出来なかったらNIKON Fがあそこまでの評価は得られなかったでしょうね。 そして、1964年の東京オリンピックで地位を確立したのです。 オリンピックの撮影に「超望遠レンズ」が使われたのですが、小さなマウントにバズーカのようなレンズを付けましたから、マウントごともげちゃうと言うようなトラブルが続出したようですっが、日本光学は国立競技場・駒沢競技場などにサービスカーと技術者を配置して取材に支障来さないようにして居ました。 採算度外視で動いて、世界のマスコミに「NIKONは素晴らしい!」と信じ込ませ、「世界一」の地位を築いたのです。 同時進行的にNIKON Fを使っていたのでそうした動きも「伝説」では無く目にしましたね。 この時代に、カラーがスライドからネガカラーに移行しかけました。 そして、フィルムの世界では富士写真フイルムより小西六写真工業の法が強かったのです。 カラーネガフィルムはかなり高くて12枚撮り400円でした。 その頃、10本入り「ピース」は50円でしたからね。 8mmも普及し始めた頃です。 露出計付きカメラもどんどん出た頃です。 日本のカメラ産業が性愛を席巻した頃です。 私などは「良い時代」に写真を始めたと言うことです。人気ブログランキング
2020/01/21
コメント(0)
テレビでミケランジェロをやってましたね・ 天才だったようです。 人体からヘリコプターまで・・・ そして芸術も・・・ 私でもルーブル「モナリザ」とミラノ「最後の晩餐」・フィレンツェのメディチ家の「ピエタ」などは見ています。 「モナリザ」は上野とパリで見ましたが、上野では「立ち止まらないでください!」と流れ作業的に眺めました。 ルーブルでもモナリザだけがケースに収まって、前にはロープがあって他の展示物とは別扱い、そして、二回言ったら二回とも前に人が居ました。 ミロのビーナスも上野では「立ち止まらないでください!」と歩きながらでしたが、ルーブルでは誰もいなくて「これ本物ですか?」と守衛さんに聞いたほどでした。 ベネチアについて書いたついでに同じイタリアのミラノも書きます。 大聖堂では無く「サンタマリア・デッレ・グラッチェ教会」です。 教会は大きくないし地味ですが「最後の晩餐」のある所です。 私が行った時は「最後の晩餐」は修復前でなんだか汚れたような絵で「すごい」とは思えませんでした。 ただ、爆撃の前に土嚢を積み上げて絵を守ったので建物が傷んでも絵はV字だったと言うことに感激しました。 上が私が見た頃のもので下が修復後のものです。 協会内はかなり暗かったし余計もはっきりしませんでした。 日本でも古い絵画や仏像の修復に一生捧げる人が居ます。 ほとんど名前も残らない仕事ですが大切な仕事ですね。 この修復もピニン・ブランビッラと言う職人さんが20年余り賭けて一人で洗い出しと修復をしたのだそうです。 私が訪れたすぐ後からですね。人気ブログランキング
2019/11/21
コメント(0)
今に始まったことでは無いのですが、京都・祇園の立ち入り禁止や撮影料問題でクローズアップされてきましたが、観光地での観光客と地元で生活する人との間のもめ事って昔からあります。 以前は素人カメラマンのマナーの悪さがトラブルを起こしたことも多かったのですが、デジカメ時代、スマホ時代になってにわかカメラマンだらけになったのでもめ事も増え、地元の人も困った居るのだと思います。 町並みを取る程度ならまだしも、町屋の中を覗き込んだり舞妓さんを追いかけ回したり・・・ 「観光立市」「地域振興」などと言いますが、普通に暮らしている人にとって観光客ってそんなに有り難いものではないのです。 そりゃあ、誰も居ない待ちよりは少し良いですが、直接かねになるでも無いのに家を覗かれ、畑を踏まれ・・・迷惑の方が多くなることもあるでしょう。 祭りなどの日はまだしも、それが毎日となればねえ・・・ 私が旅をした頃は「フィルムカメラ」の時代でした。 フィルム1本で35mmなら36枚、セミ判で16枚しか撮れませんから、今のように機関銃のようには写せませんでした。 フィルム30本持って行っても1080枚ですからね。 CFカード一枚に納まるんです。 めったやたらと待ち人を写したり出来なかったですね。 それがデジタルとズームレンズになって数は撮れるし離れた所から引っ張れるし・・・ あげくは「SNS]で受けを狙うし・・・ 肖像権とかの問題以前なのです。 写真は「ユーレイル・パス」というヨーロッパの均一周遊券です。 EUなど無い時代ですが、西側諸国の鉄道に乗り放題の周遊券です。 有効期間21日、最初に乗った列車の車掌に日にちを記入して貰います。 「STUDENT」だと、2等の切符になります。 羅文意までもあるのでしょうね。 これを使ってヨーロッパをうろつきました。 乗れないはずの地下鉄にも乗ったり・・・ 今なら何千枚もの写真を撮ってきたでしょうね。 そうなると、もっと図々しくなっていたかも知れません。 京都の人が怒るのも無理は無いでしょう。 熊野古道は押すな押すなでは無いので親父町の人達も縁台を出して日向ぼっこして。近所同士が楽しく過ごせるのでしょう。 一杯来たら、家に籠もって玄関の戸を閉め切ることになって居たでしょうね。 「良かった」とも言えませんが「悪くなかった」のかも知れません。 舞妓さんとは違う意味で「良い被写体」ですからね。人気ブログランキング
2019/11/13
コメント(0)
これは日本交通公社のように歴史のある[トーマス・クック社という旅行業者の発行する時刻表です。 1978年11月号で2.50ポンドです。 当時の為替レートだと1ポンド500円ほどですから。一冊1250円ほどです。 紙は良くないですがヨーロッパを中心の国際版です。 日本も5ページ乗せていますが、残念ながら紀勢線は入っていません。 これが手元にあるのは、国内旅行の時同様時刻表を片手にヨーロッパを旅したからです。 約一ヶ月、切符はユーレ0ルパスを有効に使いました。 まだ30代で若かったですからね。 夜行をフルに使ってホテル代を浮かしました。 だから、順番に回るのでは無く、眠れるほどの時間を夜行に乗るので400Kmとかを行ったり来たり・・・ 楽しいものですよ。 学生時代も交通公社の大きな方の時刻表を持って旅をしていました。 日本の場合は。旅館情報から駅弁まで旅には欠かせませんでした。 先ほど中を見たのですが、今だとこの時刻表は拡大鏡が無いと使えないようです。 私は記念列車とかに乗る趣味が無いのであまり変わったことは無いのですが、ロンドンーパリ間を結んでいた「ナイトフェリー」に乗りました。 トーマスクック社に予約を入れ本社まで出かけて切符を受け取ってまで乗った列車です。 「Wagon lits」社の寝台列車でドーバー海峡を寝たままでわたれるたった一本の列車でした。 私が乗ったすぐ後の1980年10月31日で廃止されたものです。 このページは他のホームページの「ナイトフェリー」紹介のページにも載っています。 この列車は1等寝台だけがロンドン-パリ間直通で座席車の客は徒歩でフェリーに乗り換えました。 とにかくこれに乗ってドーバーを越えないと・・・というこだわりで乗ったのです。 ロンドン・ビクトリア駅からパリ・ノルド駅まで・・・ と言っても、夜行ですから「乗った」と言うだけですね。 でも、それが「旅の楽しみ」なんです。人気ブログランキング
2019/11/11
コメント(2)
50年前の熊野大花火大会の写真が出てきました。 FUJICOLOR ネガでカメラはTOPCON HORSEMAN PRESS67 TOPKOR 90mm f3.5らしいです。 ネガからなので退色無しで再現できました。 原判はブローニー6×9 と言うものです。 半世紀前でも花火は綺麗ですね。 ただ… 時間が掛かっていました。 写真の様子からすると堤防の桟敷かららしいです。 旧堤防で家の側は芋畑です。 まだ国道は旧トンネルから水谷茶屋ー上木本ー記念通りー熊野市駅前ー松原…と言うルートでした。 この頃の木本はまだまだ元気でしたね。人気ブログランキング
2019/03/27
コメント(0)
昨日、昭和35年頃の母校・木本高校の写真を探すのに「卒業アルバム」を引っ張り出しました。 私の頃の木本高校は普通科5クラス、商業科2クラス、家庭科1クラスの8クラス、400名体制でした。 普通科の内2組と5組が進学クラスと言うことその間での組替えだったのですが、私はどうもどちらだったのかいつもわからなくなるのです。 少し前rに熊野に来られた伊藤先生が三年の担任だったのは覚えているのですがねえ・・・ アルバムを見たら5組でした。 マドンナも々クラスでした。 クラス写真の他にクラブ活動の写真も載っていますが、私は三年の時に立ち上げた「物理部」の写真です。 物理部なんて高校レベルでは実験なんてほとんど出来ませんし、このクラブは受験対策クラブでした。 一年生、二年生はバスケット部、二年で化学部、三年生物理部とジプシーでした。 この物理部はちゃんと生徒会で予算も貰って立ち上げたのですが、生徒会長も入っていました。 何しろ京都大学医学部、工学部に進んだ2名が居ますから、田舎の高校としてはたいしたクラブですね。 でも、おもしろみの無いクラブなのでこの一年で消滅しました。 写真部もあったのですが私は所属しませんでした。 まだ二眼レフが幅をきかせていた時代です。 時代が時代なので男子はみんな学生帽をかぶっています。 商業科の何名かは白線無しのが居ますが、当時は白線二本でした。 横に西郷川はありますが、「白線流し」なんてありませんでしたし、「第二ボタン」もありませんでした・・・と言うより、卒業式は受験の関係ででていません。
2019/03/02
コメント(2)
私が子供の頃… 娯楽の中心に映画がありましたね。 テレビはまだないし… 家ではラジオですからね。 「新・諸国物語」…笛吹童子 「連続ラジオ放送劇」…鐘の鳴る丘 ゴールデンアワーでも「アチャコ青春物語」「アチャコほろ苦が物語」 忘れちゃいけませんね! 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」 「♫君の名は…と、訊ねし人あり…」 ん??? 歳が分かる! で… 映画が盛んな頃、上木本には「明治座」があり、遅れて山と酒店の近くに「新明治座」が出来、更には丸山町の埋め立てが完成すると「丸山映劇」が出来ました。 なんと!三軒もの映画館があったのです。 制作会社も、松竹・東映・東宝・大映・新東宝の五社体制に日活が割り込んでいましたし、洋画もあるので三館では足りなかったのですね。 紀南ツアーデザインセンター・旧奥川邸に行ったら、上のような映画ポスターが展示されていました。 明治座の頃か東映に変わってからなのか… この二本は見たことないです。 大河内傳次郎・大川橋藏・美空ひばり/月形竜之介・中村錦之助・東千代之介…なんて名前が並んでますね。 中学の頃は飛鳥でしたから、映画を見るのは木本まで来るか、青年クラブや学校の講堂へ映画が回ってくるかしないと見られませんでした。 映画館でも雨は降るし切れるし… まして、移動上映のフィルムは傷んでいるので… 昔の映画は鞍馬天狗などが馬で駆けつけるシーンなど、みんなで拍手してましたね。 中々出てこないと…「早うーーー!」と悲鳴が上がったり… 3Dなんか無くても画面に入り込んでいたようです。下のランキング、ポッチよろしく・・・
2018/01/20
コメント(4)
同級会の打ち合わせで5人集まりました。 飛鳥小学校(大又)1名、小坂小学校1名、日進小学校3名です。 今なら全部「新・飛鳥小学校」ですけどね。 前回の名簿を持ってきてくれている人がいて、順番に近況のチェックですが、かなりの人が逝去され、かなりの人が病気で来られないのではないかと言うことです。 私は数えていませんが、山本君が生存が確認できている人と不明の人全員に招待状を出してくれます。 60通くらいでしょうかね? 地元在住のメンバーには電話と訪問で呼びかけます。 私も今は暇ですし、大又・小又・小坂の7人ほどと、井戸・有馬の2名程度は誘いに行くつもりです。 日程は4月ですが、市議選の告示が15日で投票日が22日なのでそれを避けることになります。 予定ではその時期には私も少しばかり多忙?になりますから… そして、場所は紀和町になりそうです。 よそからのアクセスも「熊野尾鷲道路」が出来ていますから、ずいぶん楽にはなっていますからね。 この際、みんなを紀和に呼んだらいいだろうという方向になりました。 そして、時間のある人には「赤木城」と「丸山千枚田」あたりを見てもらって… 私の若いころは紀和の方に足を延ばすなんてありませんでした。 育生経由の道などはまともなものではなかったし、風伝越えも… 峠に茶屋があったくらいですからね。 そりゃあそうでしょう。 50Th Annyversary of our graduation と、言うことなんですから… 足の無いメンバーは私が特急便で送り迎えします。 定員4名の車ですけどね。 小学に入学したときは「飛鳥村立小阪小学校」で中学は「熊野市立飛鳥中学校」になっていました。 これが一回目の同級会… 飛鳥中学校の教室を使いました。 昭和36年(1961)…卒業してすぐですから、進学組は木高の制服ですね。 前から二段目左端が私ですね。 髪を伸ばして革靴??? 校則変更の運動中の時期でしょう。 撮ったカメラはオリンパス35S、フィルムはネオパンSS 粒子はあまり良くないです。 今度の同級会にはプリントして持って行こうかな? 真ん中の恩師「内山先生」はまだご存命のようです。 熊野まで来られると良いのですが… こうしてみると、「昭和」ですね。 今日で私も75周年です。 昭和ですねえ… 今日も話に出ました… 「若い頃、明治生まれの人は明治・大正・昭和と三代生きてすごいねえ…と言ってたのに、自分らが昭和・平成・??の三代生きることになるんやね…」 まだ、一年と4ヶ月ほどあるので確定しませんけどね。下のランキング、ポッチよろしく・・・
2018/01/09
コメント(2)
私が高校の時、紀勢線の西と東がつながりました。 それまでは紀伊木本駅(現熊野市駅)と尾鷲駅の間は国鉄の連絡バス路線「国鉄紀南線」が結んでいたのです。 国道42号線で佐田坂を登り屋の子峠を越え、42Kmを二時間四十分で走りました。 難所の矢の川峠は海抜808mもあったのです。 その矢ノ川(やのこ)峠は紀勢線全通後も国道として使われていましたが、昭和43年かな?42号線の改修で今の矢ノ川(やのこ)トンネルと大又トンネルで通らなくなり海抜も350mほどまで下がりました。 それでも冬には凍結するくらいですから、昔の矢ノ川の大又側斜面は大変だったのです。 三重テレビで紀勢線全通当時のフィルムが流されていますが、NHKさんのように完全調整とかなされないので非常に醜いですが、貴重なフィルムでしょうね。 全通後のものはジーゼル機関車になって居ます。 全通と同時に蒸気機関車から切り替えましたからね。 新宮から向こうは電化されるまで蒸気機関車が走っていましたけどね。 紀勢東線側はトンネルが多く、新規につながった熊野ー尾鷲間などは6割ほどがトンネルと言うことで気動車化したわけですが、そのまま、電化されないままで終わりました。 良かったのか悪かったのか… この列車何か分かりますか? 1989年7月13日に熊野市駅にやって来たJR東海のでモンストレーション用の列車です。 ワイドビューの原型?宣伝用?のもので、試乗しました。 カラオケが付いていたし、窓枠もかなり切り下げてあって「ワイドビュー」でした。 展望車もある観光用でしたが、実際には使われなかったようです。 正副議長に委員長、観光課長、総務課の女の子など十数名が試乗しました。 写真見ると私を含めみんな若いです。 この車両・・・ 非常用の連結器は隠されていないのかな? バンパーのビスを外す???下のランキング、ポッチよろしく・・・https://my.plaza.rakuten.co.jp/diary/list/
2017/12/18
コメント(0)
暦を見ていたら・・・ 7月21日は下北半島恐山の大祭の日です。 半世紀ほど前、昭和38年(1963)にこの、「恐山の大祭」へ行きました。 勿論、大祭に集まる「いたこ」さんの口寄せ風景の写真を撮りにです。 国鉄・大畠線だったと思いますが、下北の付け根まで行き、バスに揺られて恐山へ・・・ 「賽の河原」というような火口原の殺伐とした光景と、当時はまだあれ寺のような地蔵尊を祀る菩提寺の組み合わせは異様な物でした。 何を食わされどう寝たのか覚えはないのですが宿坊に泊まって・・・ 「恐山」はカルデラ湖の宇曽利湖(うそりこ)がなまった物と言われます。 大祭には「いたこ」と言う目の見えない女の人が集まり、「口寄せ」を行っています。 そのイタコさんと菩提寺は関係ないことになって居るようです。 「口寄せ」は死者の霊を呼び出して、親族など依頼した人との間でその思いなどを仲立ちすることです。 東北各地から集まったイタコさんが語るので、あれは多分「ずうずう弁」なのだと思います。 語りはよくわかりませんでした・・・ではなく・・・ほとんど判りませんでした。 多分。私の銭したオヤジを呼んで貰っても「青森弁」を喋ったでしょうね。 私が訪れた昭和38年だとかだと、呼び出されている魂は戦死した人が多かったようです。 依頼した人達は涙を流し聞き入っていました。 単純には信じられないことですが、あの、恐山という異様な光景の中でなら「これもありかな」と思えました。 なまじ、法力だなんだと言わないで、まったく民間の普通のおばさん・おばあさんの口寄せだけに素直に聞けるのかも知れません。 盲目の女性が生きる道は「瞽女・ゴゼ」の道と、こうした「いたこ」のような霊能者になるしか無かったのでしょう。 東北という過酷な風土が感じられる風景でした。 日本各地にこうした「あの世」と「この世」を結ぶ通路のような場所がありますね。 あの寒い下北に比べると随分明るく温暖なあの世の入り口が熊野ですね。 「補陀落渡海」などは見掛けは明るい極楽浄土への船出ですからね。 気候風土が明るいからか同じように女性の仕事でも「熊野比丘尼」は暗くないですね。 江戸の話になってくると「熊野比丘尼」さんもあまりよろしくない人になっていたり・・・ でも、時代は変わっても、この辺に「彼岸」と「此岸」をつなぐ道があるはずですよね。 「パワースポット」なんて訳の分からないもの探すよりこの方が良いのかも・・・ ??? 昨日からは「ポケモン探し」に走っちゃってるかなあ? 熊野にもちゃんとポケモンは居るようですから・・・ 人気ブログランキングへ ↑↑↑ 一日一回ポチッと押してください↑↑↑
2016/07/23
コメント(2)
うちの子供、後のJQFの大きさからすると、1978年くらいかな? 熊野無線クラブの有志がブルーバードをベースに作った「木炭車」です。 圧縮比が大きいので苦労したようです。 APW・NDP・TZA・LVM・LUZ・JQF・HIT・PSX トランクに入っているのが木炭ガス・一酸化炭素発生炉です。 この時代には木炭車は存在しませんでした。 一応ちゃんと走ったんですよ。 これから37年・・・ 2人が早死にしちゃいました。 ポッチよろしく!!! 人気ブログランキングへ ↑↑↑ 一日一回ポチッと押してください↑↑↑
2015/09/17
コメント(2)
もう、随分、旅をしていません。 ちょこっと熊野から出ることと、年に一回の管外行政視察には出掛けます。 管外視察は視察内容によっては北海道まで足を伸ばしたり九州だったり、近場の岐阜・長野だったりしますが、列車で出掛けても「旅」では無いですね。 車で走るのなら何所まででも走れますが、歩き回る気に成れないですね。 年? 外国をザック背負ってカメラ持って歩きたい気持ちはまだあります。 でも、一日20Km30Kmとかはしんどいでしょう。 かと言って、ツアーでは嫌だし・・・ せっかく格安飛行機が一般的になったのにねえ・・・ 私の頃は格安飛行機では無く「格安切符」と言われる、パック崩しみたいなものを探したものです。 懸賞で当たった割引パック旅行でヨーロッパまで飛び、着いたところで自由行動させて貰い、最終宿泊地で合流し帰国なんて添乗員泣かせをやったりしました。 フリーの旅は楽しいです。 言葉??? なんとかなるものです。 ここの熊野古道を歩いている人達・・・ 団体では無い人は、夫婦とか一人とか・・・ 比較的マイペースで歩いていますね。 中には外人さんも・・・ この外人さんってキョロキョロ好奇心丸出しの人が多いです。 私も外国ではあんな風に見えて居るのでしょうかね? カメラ鷲掴みにしてキョロキョロ、うろうろ・・・ なんでも食べられる。 これが「旅」が出来る必須条件ですね。 道端に座り込んで現地の飯を食う・・・ それが楽しくなければ、触れ合えませんからね。 ただ・・・ 私はおじさんが苦手です。 ことに酔っ払いが苦手です。 道を聞くのも全部女の子・・・ 外国じゃ無くて日本でもそうですね。 ??? 誰でも同じかな? そして、列車じゃな食っちゃあ味わえない「旅」もあります。 国内移動はこれじゃなくっちゃあ・・・ 安南の旅・・・ この汽車はベトナムの古都、フエからダナンに向かうものです。 遅い! でも、ほんの少し前までベトコンが隠れていた低い椰子のジャングルを見ながらゴトゴトと・・・ 人懐っこいベトナム人と一緒に・・・ 共産国なので汽車なんか滅茶安・・・ 「安南」は仏領時代のフランス側からの呼び方ですから正式では無いですね。 日本では「仏印」と読んでいましたが、この呼び方は現地の中国人が使うようで、銀行の名前などに見られます。 中村なんて名前の店が何軒もあったり・・・ ホーチミン市も現地ではサイゴンを使うし・・・ 第二次世界大戦で進行したり、ベトナム戦争の時には嘉手納から爆撃機が出たりした日本を結構好きな人が多いし・・・ ドイモイ政策なんて日本を手本にしたり・・・ 共産圏なのに・・・ 不思議な国です。 このフエの娘ももう大人になっているでしょうね。 若い時にうろついたら日本に帰れなくなったかも・・・ 学生の時、アマゾン探検に行く計画した時でも、「おめえはインディオの娘の惚れて帰ってこねえかもな!」と言われたのですから・・・ ポッチよろしく!!! 人気ブログランキングへ ↑↑↑ 一日一回ポチッと押してください↑↑↑
2015/09/12
コメント(0)
この写真、多分、昭和39年秋だと思います。 場所は間違いなく5号館商学部地下・WPS・写真部部室です。 大伸ばし作業中ですね。 この中に独立プロになったやつ、雑誌社のカメラマンになったやつ、そして私もいます。 早稲田祭の準備中ですね。 まだ、この頃は白黒写真の時代です。 連日のようにこんな作業を繰り返していました。 愛機はその頃もNIKON Fでした。 こうした作業の時間より多かったのが部室や正門前の茶房での青臭い議論でしたね。 総合大学の良さで、理工科から政経・法科・商学部・文学部・教育学部ごちゃまぜでのクラブ活動ですから、人間も考えもごちゃまぜでしたね。 浪人が多かったので、先輩の方が年下とか… この頃になるとうちの学校も都会の子が多くなっていましたね。 それでも、どことなく泥臭いのがいかにも「らしい」ところでした。 この頃に激論した、写真論・人生論・恋愛論・政治論などが私の社会観の大きな部分を作ったのでしょうね。 高校時代からあまり変わらなかったのは、「恋愛至上主義」ですね。 周りが見えなくなるのは今も変わりませんね。 それに「性善説」かな? 痛い目にあっても変わりませんね。 だって… その方が自分が悪い人にならなくて済みますからね。 善人になりたいわけではないけど、「信じないで生きる」なんて味気ないし、しんどいでしょう。 こうして生きてきても、まだ、命まではとられていませんからね。 この頃の学生の口から出る言葉… 「疎外」なんてのが多かったですね。 そして、少しはかじらないと具合の悪かったのが「カフカ」だったのです。 私のように「ヘッセ」など読んでいるのは甘かったのです。 私だってカフカもかじったけどおいしくなかったんですね。 その時代では甘かった私でも、今の時代ならかなり屈折した理屈っぽい左系の学生ってことになるのかもしれません。 時代背景って変わりますね。 人気ブログランキングへ ↑↑↑ 一日一回ポチッと押してください↑↑↑
2013/01/12
コメント(2)
HONDA N360 本田が作った最初の軽四輪乗用車 当然、当時の軽の規格で排気量360cc 今では常識のフロントエンジン・前輪駆動と言う当時では珍しい物… デザインは軽快そうで若者に受けました。 でも、このN360はすんなりは行きませんでした。 FFを作ることに慣れていなかったこともあり、「タックイン」と言う恐ろしい癖がありました。 カーブに入ってアクセルを離すといきなり内側に切れ込んでゆきます。 その逆でカーブに入ってアクセルを踏み込むと「アンダーステアー」がでてきます。 当時の車はスプリングは柔らかだし、タイヤもノーマルでしたから当然起きることです。 普通のようにフロントエンジン・後輪駆動…FRだとこんな顕著な挙動変化は置きにくかったのですけどね。 若者が好んで乗ったことと、FFの癖を日本人が知らなかったので、事故が多発しましたね。 その頃は、「スカジー」「ベレジー」「トヨタ1600GT」などスポーツカーに憧れた時代だったのです。 そこへ出てきた軽四輪で手の出る走りそうな車だったのです。 本田はS600とかS800などと言うスポーツカーも出しましたしね。 若かった私は色んな車を借りて乗りました。 N360も乗りましたし、「タックイン」を楽しんだりしましたね。 ミッションも独特だし、いかにもホンダらしい物でしたね。 こんど、復刻版ではないですがイメージを残したのがでましたね。 当然、あんなにはっきりタックインする車ではないでしょう。 エンジンも大きくなっているし、タイヤもいいし… でも、もう、大人になっちゃったN360なのでしょうね。 車を物色中の私の選択しには入らないと思います。 「S600」のようなのなら食指が動きます。 でも、初期のバージョンのようにエンジンと後輪を結ぶのが「チェーン」なんて単車みたいなのは嫌ですね。 レンタカーでよく借りました。 すぐ壊れるけど、代車がただになるので嬉しかったです。 車高が低いので都電敷道でスピンさせてもこまのように回転してもこけそうにならないのが楽しかったです。 あの頃の最高峰はやっぱり「スカジーBタイプ」でした。 日産ではなく「プリンス」でしたからね。 今の車よりドライバーのテクニックを要求した車が多かったです。 私などはそうした車に鍛えられたと言うことです。 人気ブログランキングへ ↑↑↑ 一日一回ポチッと押してください↑↑↑
2012/11/01
コメント(0)
秋ですねえ… 日が落ちるのが早くなったし… で、今の人って「つるべ落とし」なんて言われても、肝心の「つるべ」が分からないでしょう。 もはや「井戸」すら見た事の無い人が増えたでしょうからね。 「つるべ」と言えば「笑福亭鶴瓶」だと思うでしょう。 あまり秋の風情には合わないように思いますね。 「衣替え」が来たらちゃんと長袖に替わりました。 先頃は「彼岸」で暑さが消えましたし… 異常気象では無く、ものすごくきっちりした気象になった物です。 二百十日と二百二十日は少しずれたようですけどね。 昭和39年10月10日…東京オリンピック開会日 です。 ずいぶん昔の事ですね。 まだ日本がよたよた歩いているときで、思い切り背伸びしてオリンピックをやったんですからね。 オリンピックを口実に慢性的水不足の東京に利根川水系の水を持ってきましたね。 世界の一流国になるためには下水を整備しないと…と、突貫工事で下水を作り、ぽっトン便所を止めさせて都心部のトイレの大改造をやりました。 そして、お茶の水付近まで入ってきていた、だるま船…オワイ船がどんどん消えて行きました。 水上生活者も減り、「水上中学」なんてのも知らない間に無くなりました。 オリンピックという錦の御旗で、「青山墓地」をばっさり分断しました。今の中国がやっているのとかわらんでしょう。 そうそう… このオリンピックで、ニコンが世界の報道カメラの頂点に登ったのです。 ニコンFに超望遠… 当然マウントがもげちゃいます。 それを、代々木で…駒沢で… メカニックが張り付いていてすぐに修理… ニコンの神話が生まれたのです。 私などは未だにニコン神話に浸っています。 化石ですね。 あの年に「奥入瀬」に行きました。 ものすごくきれいな紅葉を初めて見ました。 東北の秋は静かでした。 そして、東京に戻って、「東洋の魔女」のバレーを新宿の喫茶店で見ました。 あの年の東京の秋は秋を感じるまでに終わったように思います。 その紅葉を撮ったのもNIKON F でした。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2011/10/03
コメント(0)
そもそもこの「越南国一人歩き」に出かけることになったのは、娘から「切符をあげるから、何処でも良いから好きな所に行ってきたら?」と、言われたことからです。 言われてみれば、行きたいところは一杯残っているんですよね。 ヨーロッパでは東側?諸国、中東付近ではトルコ、アフリカではエジプト・マリ、アジアでは中国・越南・印度・ビルマなど一杯です。 ツアーではなく一人旅ですから、特別治安が悪く無い限り入国できれば後は何とかなるものです。 娘には「ビルマには行かないでね」と言われているので候補から外さなくてはならないし… 東欧諸国は冬に行くと行動がしにくそうだし… 決めたのが「ベトナム・越南国」でした。 飛行機も6時間ほど、時差は2時間、ご近所です。 決め手は…「うどん」です。 「ベトナムのうどんは美味しい」と言う話なので、そのうどんを食いに出かけました。 それに、「屋台のうどん」を食べて歩く分にはお金も掛かりそうに無いですからね。 更に、通貨は昔からいまだに力の無い「ベトナムドン」だし、「社会主義国」だから物価も抑えられているでしょうしね。 と言うことで、「越南国旅行」の日程を1月22日発、31日帰国で切符と手配してもらって、国内での旅程を考えましたが、この国は恐ろしく南北に長く、当初計画した「ハノイからホーチミン市まで汽車の旅」をやると特急でも32時間とかになり、時間的にも体力的にもきつくなるので、ほんの一部だけ汽車の旅にし、二区間をベトナム国内便で飛ぶことにしました。 成田ーVN955ーハノイ(3泊)ーVN245ーフエ(2泊)-SE3ーダナン(2泊)-VE329-ホーチミン(サイゴン)(1泊)-VN955-成田 と言う行程です。 飛行機を入れたので行程の変更もあまり自由に出来なくなっていますが、日本と違い国内便の飛行機が安いので場合によっては捨てても良いくらいです。 この行程成田を出発点にしましたが、息子と孫娘二人、娘と旦那と言う5人もの見送りが付きました。 皆が心配したのが、11時のVE955便に乗るためには9時半頃には成田に着きたいし、間に合うかどうか・・・と言うことです。 前日に上京し、長男の家に泊まる事にして、その朝霞から成田まで長男が送ってくれると言う話になったので、寝起きの良くない長男を心配したのです。 無事に何とか起きてくれて予定通りに成田に着き、娘夫婦とも合流できました。 かくも盛大な見送りを受けて、じいちゃんの旅は始まりました。 娘が心配していた、「アオザイを着た娘がきれいだからって付いて言っては駄目だよ…」という性格なのらしいですが… 早速飛行機の横に座った女の子と少しだけお話を… 添乗員の方でベトナムツアーの団体を引き連れて出発されたばかりだとかでした。普段は中国向けの添乗なのだそうですが、尖閣列島問題の後からの観光客減少でベトナム向けに変更なったとか…影響はあるんですね。 はきはきしているし、「こんな添乗員の方なら団体旅行も楽しいかな?」なんて感じましたね。 「縁があったら又お会いしましょう…」なんて別れましたが、当然と言えば当然ですが、ハノイでの荷物待ちで再会しました。 荷物が出るのがかなり遅い飛行場でしたから普通はイラツクのですが、この時はそうでもなかったです。 でも、他のツアーの添乗員さんですから、あまり離しをしていると、団体の方に後でいじめられるといけないので… と言うことで、この方とはここで別れましたが、ツアーとはベトナム国内では会いませんでした。 「クラブツーリズム」と言う名前の会社です。検察するとHPも見つかります。いろんなところへのツアーが出ているようです。 運が良ければ、この方のツアーには入れるかも…ぜひ、参加してみてください。 「旅は道連れ…」 およそ「旅」などと言うものは、先々で出会う人々と、その地で味わう食べ物によって良くも悪くもなるんものです。 一番大事なのは「自分の体調」なんですけどね。 かくして、私の「越南国一人歩き旅」が始まりました。 先が思いやられませねえ… ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2011/02/01
コメント(0)
娘のブログを見たら、こんなのがありました。create your own visited country map この地図の赤くなっている国は私が行ったことのあるところです。 国の名前にチェックと入れると、色が変わって、何カ国、何%の国に言ったかと言うのが表示される物です。 面白いのですが、すごいカラクリがあります。 国名ですから、「ハワイ」に行ったことがあるいとUSA全部の色が変わります。 「香港」に行っていると、今は香港が独立していませんから、中国全部赤くなります。 だから、私の地図も随分赤くなっています。 これで、ちょいとウラジオストックにでも行ってくれば、アジアのひがし端からヨーロッパまで赤い色が繋がるのです。 確かに国単位だとそうなりますね。 元の地図は…http://www.world66.com/myworld66/visitedCountries にあります。 よく考えたら、私って、日本全国は歩いていません。 宮崎と鹿児島には足を入れていませんね。 遠いんでしょうかね? 少なくとも、私が学生の頃には遠かったです。 今だと、東京からなら遠くないんですけどね。 タレント知事さんなんか、なんだかんだと東京のテレビにどんどん出ていますからね。 私が飛行場にたどり着く前にあの人は東京に居ますからね。 声高に、「不便だ!」と言いますけど、東京からの『時間地図』だと、熊野だとか新宮なんてところは、マニラより遠いんですからね。 昔は、都人とか東人から見れば、「熊野」は遠いですが、「高千穂」よりは近かったんですけどね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2009/11/25
コメント(0)
このちょいと古びた記念写真は昭和38年(1963)夏、わが大学の写真部『WPS』の志賀高原合宿のものです。 懐かしい顔ぶれが並んでいます。 折からカメラが一眼レフ時代に移る時代でした。 私が高校二年のときにニコンFが発売され、一眼レフが時代をリードするようになったのです。 先輩たちにはまだ一眼レフに進んでいない人も居ましたが、私の学年はほぼ全員一眼レフでした。 ニコンF、アサヒペンタックス、ミノルタSR、ペトリフレックス色んなの並んだものです。 そして、この時代以降のものはクラシックカメラではないとされてきました。 でも、このメンバーの人間の方はすでにクラシックの仲間入りしています。 同輩は今度の給付金では20000円口ですね。 この写真に写っている後輩の一浪以下の賢かったやつは12000円組です。 まあ、ほぼ全員『老齢者』になったわけです。 鈴木、小倉、中村、秋山、中林、土倉、秋山、石橋、中山、大倉… 田中、深山、森下、茂木、池上、中山… プロを目指した者、雑誌社のカメラマンになった者、普通のサラリーマンになったものがほとんどでしたが中には写真で飯を食ったやつもいましたね。 この頃に、日大に芸術学部写真学科なんてのが出来てきて写真業界が大きく変わって行く時代でもありましたね。 それまでは、うちの写真部のような学生写真部出身のやつが大手を振って新聞社や雑誌社のカメラマンになって行ったのですがねえ… 今じゃあ、専門学校が一杯出来て何だか知らないけど職人的なテクニック?を振り回すように変わったようです。 私の時代の写真部なんてのは、人生論、社会論、芸術論が先に立ち、ちょいと左気味に理論武装した者が格好よく見えたものです。 実態はかなりの部分、マージャンに明け暮れていたのですけどね。 で… 私は中途半端にいまだに写真をアマチュアでやっています。 そして、いまだにニコンFを後生大事にメインカメラにしています。 そして、大人になりきれず、相変わらず少し斜に世間を眺めています。 私の青春の多くの部分が、先ごろ壊された、「5号館・商学部」の地下にあった写真部の部室にありました。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2009/04/17
コメント(0)
白秋さんの詩には信州がたくさん出てきます。 その中で少々長い、『落葉松』と言う詩にも信州が出てきます。 からまつの林を過ぎて、 からまつをしみじみと見き。 からまつはさびしかりけり。 たびゆくはさびしかりけり。 からまつの林を出でて、 からまつの林に入りぬ。 からまつの林に入りて、 また細く道はつづけり。 8節ある長い詩の6節に からまつの林を出でて、 浅間嶺にけぶり立つ見つ。 浅間嶺にけぶり立つ見つ。 からまつのまたそのうへに。 と、言うのが出てきます。 信越本線で碓氷峠を越え、信濃路に入ってしばらくすると目に入る物… 『浅間山』でした。 高くはないし、目立つ山でもないけど数少ない活火山と言うことで有名でした。 何度となく眺めたこの山も姿かたちはあまり記憶にありません。 軽井沢・・・佐久と過ぎると下車駅の上田なのであまりのんびりと眺めるものでなかったし、スキーの季節だと天候は悪いし… でも、その信越本線も途中でぶった切られたようですし… あまり姿かたちを覚えていない山なのに、なんとなくいつまでも記憶に残っている山の名前です。 人々の記憶から消えそうになると煙を吐いて、『浅間山ここにあり!』と、名乗りを上げるようです。 『動かざること山の如し』などといいますが、山ってえやつは時々大きく動きますからね。 何しろ、この狭い日本の真ん中に富士山を作っちゃったくらいの動きをしますからね。 火山の近くに住んでいる人って不安じゃないのでしょうかね? 昔は温泉があるのですごく良かったでしょうが。今なら2000mほど掘れば日本中何処でも温泉が出ちゃうようですからね。 そして、私の取って上田と言うともう一つの歌が連想されます。 こちらは、『島崎藤村』の『初恋』です。 まだあげそめし 前髪の 林檎のもとに 見えしとき 前にさしたる 花櫛の 花ある君と 思ひけり やさしく白き 手をのべて 林檎をわれに あたへしは 薄紅の 秋の実に 人こひ初めし はじめなり こんなイメージの女の子が上田に居たのです。 なんとなく・・・ 信州が身近に感じられた青春でした。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2009/02/02
コメント(2)
今日の午後は二時間もテレビを見てしまいました。 以前にも見たのですがねえ・・・ 『メゾン一刻』の再放送をやっているのに出くわしてしまったのです。 好きなんです・・・『管理人さん』・・・ 昔々・・・ 常盤台・下井草・諏訪町・馬場下・東伏見・大崎・四谷三丁目と色々なところに住みました。 下宿からアパートの変る時代でした。 『礼金』なんて厄介なものが増えてきた時代です。 『礼金』の要らないところを探して毎年引っ越していましたね。 『下宿』らしいところは、『常盤台』『下井草』『諏訪町』まででしたね。 『常盤台』と『諏訪町』には小さな女の子は居ましたが・・・ どこにも『響子さん』は居ませんでしたね。 でも、それぞれの一年間にはそれぞれの思い出があります。 いかにも青春らしいほろ苦いものばかりです。 浪人時代も結構楽しく過ごし… 大学に入ると、カメラを肩にうろついているか、喫茶店で人生論、写真論を戦わせているか、新宿のジャズ喫茶で徹夜しているか…あとは雀荘で… そんなスケジュール一杯ほどの中で、それなりに恋をして… でも… 『響子さん』のような管理人さんのいるアパートに住みたかったですね。 1962年当時の町並み・・・ 豊田市です。 全国何処へ行ってもこんな町並みでした。 後ろに『洋裁学校』の看板が見えます。 今日のたずねびと・・・ 『ユミ』 苗字も何も要らない『ユミ』 マグナムのマスターは熊野に帰ってるよ。 いま、『ユミ』が居たことを実感できるのはネットの上で出てくる芸名の方だけだけど… あとは、この歌もね バンバンバン ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2008/07/19
コメント(0)
昔々・・・ NHKが日本一だった時代・・・ ラジオでは、『たずねびとの時間』と言うのがありました。 戦時中から戦後の混乱期に別れ別れになった人を探す呼びかけが延々と続いたものです。 『旧満州、○○村にお住まいだった△△□夫さん、お兄さんの△△×夫さんがお探しになっておられます…』 『昭和20年2月まで東京都足立区にお住まいだった▲▲さん、お隣にお住まいだった■■さんがお探しになっておられます』 百貨店や遊園地の呼び出しの全国版でした。 かなりの数の人々がこの番組で再会を果たしたようです。 世の中が落ち着いてこの番組もなくなりました。 ここに書いても目に留まることは無いでしょうが… どうしているのかなあ…と、思う人に呼びかけてみます。 『恵比寿、マグナムのお客様で、当時高校生だったS.Aさん…「さっちん」…マスターが会いたがっております。』 無理でしょうね… ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2008/07/15
コメント(0)
夕方・・・ふとテレビをかけたら、やっていました。 『チビまるこちゃん』・・・ あんまり見る漫画じゃ無いのですが・・・ 今日のは、ついつい見てしまいました。 『たまえちゃん』のお父さんが、ライカを持ってパシャパシャと『たまえちゃん』のスナップを撮りまくっています。 そして、『もう・・・お父さん!』と、叱られていました。 この図式は我が家の昔とおんなじです。 我が家のカメラは『ライカ』ではなく『ニコン』でしたがね。 本当に小さかった時は文句言わずに撮らせてくれましたが、少し大きくなると私も叱られました。 撮り出して数枚は良いのですが、10枚20枚となるとねえ・・・ 高校くらいになると、ほとんど撮らせてくれませんでしたね。 それでも、出来上がったアルバムが25冊??? 少なく無いですね。 そんな私ですから、結婚式の時には、『撮るなってのは無理だろうけど、花嫁の父親だってこと忘れないでね』と言われました。 うんと我慢して、スピグラにミノルタα7700iにニコンF・・・フィルム5本…これだけで我慢しました。 総仕上げの日ですからね。 こんなに一杯アルバムがあるのに、全部ここに残っています。 多すぎると持って行かないようです。 CDとDVDに焼いた『ベスト・アルバム』は渡してありますが・・・ これって、ずっとここにあるのでしょうかね??? ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください クラシックカメラの方のブログは今日も更新しました。
2008/04/20
コメント(2)
この写真がきちんと表示されるかどうか・・・ そして、長くたっても消えないかどうか・・・ やってみないと分かりません。 うまく行くようなら、容量は5GBありますから、結構ふんだんに使えると言うことです。 この写真も木の疎い同じおもちゃのカメラで撮った熊野の駅前の景色です。 この時は、『紀伊木本駅』です。 紀勢西線の終着駅の時代ですね。 うまく行くようなら、そのうちこの写真を使ってきちんとした記事を書きます。 本日は画像保管場所のテストです。 もちろんただで、おそらくは消えないはずのサイトのものです。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2008/03/07
コメント(2)
なんてことの無い古い写真ですが、後ろに見える看板を見てください。 『ジェットコースター40円』 と、あります。 場所は多分、後楽園遊園地だろうと思います。 撮影したのは1960年8月です。 写っているのは高校三年生の『山岸君』ですが、何処の高校か記憶にありません。 夏期講習で一ヶ月厄介になった下宿で一緒だった人です。 次の年で学食の「すうどん」が30円だったように思います。 10円玉に価値のあった時代です。 都電が15円、早稲田のスクールバスが高田馬場ーー正門前往復で15円でした。 当時の高校生はきちんと詰襟の学生服でしたね。 この二枚はその時のスナップです。 ジェットコースターも今のようにものすごいものではありませんでしたが、当時としては珍しいものでした。 この、なんとも古い感じの男性は同じ下宿で就職活動で残っていた四年生の伊藤さんだったと思います。 コースターで並んでいるおじさんと言い、まさに昭和35年当時の典型的な日本人男性ですね。 佐田啓二とかが男前だった時代ですからね。 女の子は名古屋から来ていた與語さんですね。この後、確か青学に進まれたようです。 この子とは大学に入ってから偶然に北海道旅行の途中で再会しましたね。 名古屋のお嬢さん…今で言う『名古屋嬢』ですから、当時のお嬢さんそのもののスタイルをしています。 これもやっぱり、昭和35年そのものですね。 カメラは当時から流行りだしたハーフサイズの『オリンパスペン』です。 これも、ニコンF同様、初代のを買って使っていました。 ハーフサイズなのであまり使わなかったのですが、フィルムはきちんと残されていました。 その年の歌謡曲は・・・ 藤島桓夫・『月の法善寺横丁』辺りです。 包丁一本 さらしにまいて 旅に出るのも 板場の修業・・・ まだまだ、恋と言うものも純真な物でした。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2008/02/26
コメント(0)
遠い昔・・・ 青春真っ只中の頃・・・ こんなのを作りました。 世の中はまだまだ白黒時代でした。 まだまだ、何でも手作り時代でした。 1963年の早稲田祭、写真部のポスターです。 もちろん原本はモノクロです。 レタリングも当然クラブ員の手書きです。 学生写真界で最古を誇った写真部です。 WASEDA PHOTO SOCIETY (WPS)を名乗っていました。 部室は5号館商学部の地下、展示会場は同じく5号館4階の大教室でした。 このポスターのモデルは同輩の秋山君。撮影は私でした。 資材は間違いなく『NIKON F』です。 私も秋山もニコンFでしたから… 英字新聞を複写して拡大するだけでも大変な時代でしたね。 レタリングも今のワープロ文字と違い随分下手ですね。 何枚か作って、構内の掲示板に貼った物です。 ネガの整理中に出てきました。 まさに、青春の一齣です。 同級の小倉・中村・鈴木・中林・土倉・秋山・川上・・・学部はバラバラ、それでもクラブでは仲間でした。総合大学のよさで色んなやつと過ごせました。 同級の女の子はあまり・・・??? 後輩にはネコ・とかチビとかかわいい子もいましたね。 男の子では森下・田中・深山・・・あいつらどうしたのやら・・・ 社会人になっても、私が上京すると集まって麻雀をしたものです。 皆さん、そろそろ暇になっている頃ですね。 随分あっていませんが、一度上京して麻雀でもしておいたほうが良い年になってきました。 珍しいものを写したフィルムも見つけました。 明日にでもそれをアップしたいと思います。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2008/02/19
コメント(2)
これは1964年10月12日の十和田の紅葉です。 物置から出てきたフィルムから取り込みました。 コダック・エクタクローム カメラはトプコン・ホースマンプレス・トプコール90mmです。 今年は紅葉が遅れたようですから今頃こんな状態なのでしょうね。 1964年10月10日 東京オリンピック開会の日です。 今の中国・北京のように、それまでの二年ほどは国を挙げて東京の改造に取り組んだのです。 東京23区でさえ、水洗便所が行き渡ったのはこのオリンピックを契機に補助金を入れて各戸改造したからです。 水洗トイレを普及させても水不足で断水ばかり…バケツの水で流したりしていたのがこの二年前までは当たり前でした。 河野一郎オリンピック担当大臣が『オリンピックのため』と言う大義名分で利根川の水を分捕ってきて解決したのです。そのおかげで今の東京に水があるのです。 『オリンピックのため』はすごかったです。 水利権同様非常に解決の難しい、『お墓の移転』もやってのけました。それも、都心の一等地の青山墓地をばっさりと… 東京中をほっくり返し、押しつぶす様は今の北京を笑えるものではなかったのですよ。 世界中が、『日本は本当にオリンピックちゃんとやれるのかしら?』『アジアの野蛮人に任せて大丈夫なのかしら?』と思っていたのですよ。 あーあ、それなのにそれなのに♪♪・・ねえ! 自分ことはすっかり忘れて… オリンピックの開会の日の夜上野発の夜行列車で奥入瀬に向かったのです。急行『十和田』か『北斗』か・・・ この時代の奥入瀬には紅葉を求めて観光客が列をなすということはありませんでした。 のんびりと十和田湖にボートを浮かべ…ボート屋のおじさんは『帰ってきたら声を掛けてな』と言うくらい人が居なかったのです。『一時間でも半日でも好きなだけ乗ってれば良いよ…』なんてのんびりしていました。 高村光太郎の裸婦像はもう立っていましたがね。 そうそう、このホースマンも今ではクラシックカメラに入れられかけていますが、これを撮りに行った頃はもちろん現役のカメラでしたよ。 物置の雨漏りして随分湿気の多いところにあったのに、少し紫がかった程度でまだ鑑賞に堪える状態です。ポジは強いですね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/10/22
コメント(4)
30年も余って放置して、すっかりトタンが溶けてしまっていた物置の修理が完成していたのですが、暑いさなかにはとても整理などできないで放置してありました。 肌寒いくらいになったので、今日から少し片付けにかかりました。 東京からはあまり物を持って帰らなかったのですが、隅っこから大学時代に使っていた『上皿天秤』が出てきました。 実験に使うような大層な物ではありません。簡単なやつですが、普通の秤よりは細かく計れます。 使用目的は、現像液の調合です。 私の学生時代には、『ミクロファイン』だとか『フジドール』だとかがふんだんに出回っていました。調合などは流行らない時代になりかけていたのですが、単剤をそろえて調合する方が少し安かったのです。フィルムも長巻を買って古いパトローネに詰め替えて使っていましたからね。 コダックのTRI-Xなどは非常に高価でしたが、PXから流れてくる長巻はうんと安く使えました。 ???『PX』なんて言葉は今では通用しないでしょうね。 米軍の基地内の売店のものです。基地内は関税がかからないので、フィルムはもちろん、スコッチやブランデーもものすごく安かったのです。 もちろん、基地の外に無税のままで持ち出すのか禁止されては居ましたが、まだまだ、進駐軍気分の抜けない米兵は『GI』気分でのし歩いていましたから、じゃんじゃん流れていましたね。 ちなみに昭和30年7月発行の『フォトアート臨時増刊・現像と密着・引伸全書』定価200円には処方箋のほかに『既製品の使い方』なんてコーナーがあります。どちらかと言うとまだ調剤を主体に書いたようなものです。 何より、タイトルに『密着』と言うのが入っているのがすごいです。 D-76 温湯50℃ 750cc メトール 2g 無水亜硫酸ソーダ 100g ハイドロキノン 5g 硼砂 2g 水を加え総量 1000cc 現像温度 18.5℃ 指定時間 15~20分 但し、これはスーパーXXの時であり、国産フィルムでは20℃・8~10分 FD-122 温湯52℃ 10000cc モノール 3g 無水硫酸ソーダ 100g 富士ハイドロキノン 2.5g 富士ブロムカリ 0.5g 現像温度 20℃ ネオパンS 8~10分 ネオパンSS10~12分 他にD-72やアグフアの指定現像液、オリエンタルの指定現像液など色々載っています。 この本のグラビア部分では有名写真家の写真とその暗室が紹介されています。 真継不二夫・土門 拳・木村伊兵衛・魚住 励・・・ この大家の暗室も空調など無し、押入れ改造とか和室を改造したものです。 こんな時代、大家も素人もひたすら写真にのめりこんでいたのです。 写真とは作り出すもの…と言う時代です。 押せば写る時代ではないだけに、カメラマンの意気込みが伝わる作品が多かったのでしょうね。 私は相変わらずD76を使っていますが、今では既製品のD76です。 今だと、調剤する方が高いくらいになるのかもしれません。 この上皿天秤もものすごく大事な物だったので東京から引き上げる時に持って帰ったのでしょうね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/10/21
コメント(0)
祝 優勝 早稲田大学ー第二応援歌ー! 『光る青雲』---いちばーん!・・・よんばーん!1. ひかる青雲 風さえ香る 若き生命の 歓喜の調べ 勝鬨あげて 手を打つて早稲田の幸を 歌おうよ 早稲田 早稲田 早稲田 早稲田4. 希望の杜かげ みどりの夢よ 競う青春 誇りの歌よ 慶應倒し 意気あげてこの喜びを 歌おうよ 早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 昭和39年春、昭和40年秋 まさに青春真っ只中で肩を組み歌いました。 そして、優勝した時しか歌わない 『早稲田の栄光』も・・・ 神宮球場も随分変わり、応援席は黒一色からカラフルに・・・ それでも、喜びと感激は変わらないものでしょう。 おめでとう!
2007/06/03
コメント(2)
『午後の恐竜』と言うSFをご存知でしょうか? 星新一さんお得意のショートショートの一つです。 実にばかばかしい設定ですが、『ひょっとして有り得るのかも…』と、あとで怖くなるところもあるものです。 本格的SF小説でもないし軽いものなのであまり話題にもなりませんが・・・ ある日の午後、主人公の家の窓の外に『恐竜』が現れます。うろつきまわるのに町は破壊されない不思議な現象です。しかし、この恐竜は人間みんなに見えるのです。 そして、時間の経過とともに登城するものが変わってゆきます。 そうです、人類が生まれてからの地球上の変化を早送りでみんなが見ているのです。 そして、最後は……鋭い閃光とともに人類が消えてゆきます。 底だけが現実なのです。時の流れが追いついた瞬間です。 なぜ、みんながこんな太古のことの幻影まで見ることが出来たのか… 人類の『種』として共有する『記憶』だったからです。 滅びる寸前にそれを思い出していたのです。 最近、昔のことを鮮明に思い出すことが多いです。 ご心配なく…恐竜だとかヤマトタケルなんて見ていませんから… 私のことですから日本が滅びるとかは無いでしょう。 もし、そんなのを見たら報告します。 そして、このブログを読む人みんなが見ていたら… すぐにおいしい『最後の晩餐』でも食べておいてください。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/05/18
コメント(2)
今日、何気なくかけたテレビで全く久しぶりに聞きました。 とぼけた顔して ババンバン バンバンバンバンババババン あいつにゃとってもかなわない バンバンババババババババン ・・・・・・・・・・・・ もちろんオリジナルではありませんでした。 この歌を覚えておられる方も多いでしょう。 グルサン時代の大ヒット曲ですからね。 私はこの曲には他の人とは違う思い出があります。 この曲がCMに使われていました。 『サトウバン』でした。 このCMにスパイダースとともに出ていた娘… かわいいかわいい小悪魔でした。 これ以上かわいい悪魔はいないのではないかという娘でした。 芸名で検索すると今でも出てきます。 たった一本映画に出て…二本目にキスシーンがあるからいやだと現場を放棄して…いやなら止めていいよ…と言ったらうれしそうに「そうする」と言ってやめちゃった娘でした。 あの娘も今は50代中頃… もう、小悪魔ではないのでしょうね。 かわいいおばさんになっているのでしょうかね。 みんなが忘れても私は忘れません。かわいい小悪魔のことは・・・ ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/05/12
コメント(0)
早稲田の周辺で一年ずつ二軒の下宿で過ごしました。 正門近くの鶴巻町、そして高田馬場近くの諏訪町です。 もちろん、下宿と書いたように今流のアパートではありません。昔式の下宿と呼んだほうが良いものです。しかし、『賄い』がどんどん無くなってゆく時代でしたからこの二軒には食事は付いていませんでした。一畳千円とかの時代で三畳とか四畳半は主力でしたね。 早稲田から戸塚一丁目、戸塚二丁目と歩いて高田馬場方面へ・・・ 確かここはかつて戸塚二丁目交差点と呼ばれたように思うのですが、今は『馬場口』と言う標識が掛かっています。南北に走る幹線の明治通りから高田馬場に曲がるところですからその方がわかりよいのでしょうかね。 この交差点の角っこに『みちくさ』と言う「バー」がありました。これも「すなっく」ではなく「バー」でした。高いサントリーバーではなく、学生でも入れるオーシャンバーでしたね。一年余りこの店に通いました。宵の口はカウンターで飲んで、混んでくるとカウンターに入って飲み代をただに・・・ はす向かいの角近く、今はやりの丸山弁護士が下宿していたとか言うアパートの近くの石段のそば、明治通りに面してカレー屋さんがありました。 この植え込みの陰に隠れているペッチャンコの建物の小さなお店でした。『ブー』と言うフランス語の店だったと思います。ここは私の姉と同じ下宿にいた文学部の学生さんのデートの場所でした。この先輩は私の義兄になったのですが、50ほどで若死にし、姉も60過ぎで他界し、ここを眺めて懐かしむ二人ともがこの世にいません。随分昔のことですね。 この店のところ弁護士さんが言うきれいな姉ちゃんがいたとか言う建物の角を右に曲がり坂を下った諏訪町に一年居ました。小学生のお嬢さんが二人居られましたが、あれから40年あまり・・・すれ違っても絶対に分かりませんね。 この界隈も店は入れ替わってもあまりたたずまいは変わっていませんし、裏通りは変わりようが無いですね。 ぼろい映画館はまだ営業しているようで残っていましたね。 東京が変わったと言いますが、大きなビルとかを見上げれば変わっていますが、全体を見渡せば庶民の暮らす町や裏通りは変わっていませんね。 東京の人全部がお金持ちってことじゃないですから、老朽化してきている建物も建て替えることも出来ず暮らしていますからね。相続税に頭を悩ましている人も結構いるのでしょうね。売れば税金は払えるけど住む所が無い・・・かといってマンションを買うほどの金にもならず・・・ それでも、買い手も無い田舎の土地に固定資産税を掛けられ保険税までそれに応じて上がるところよりははるかに良いですがね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/05/02
コメント(0)
再び、お登りさん報告記 都電早稲田や球場が変わっていましたが、キャンパスの中もさすがに年月が流れて変化がおきていました。 大隈講堂や正門風景、そして大隈さんの銅像なんかは変わらないのですが、老朽化して、なおかつ背の低かった校舎が建て替えられてきていますね。 敷地内では教育学部の建物が建て替えられて法学部になっています。法学部は大学院に・・・全体のイメージは変わっていませんがどこか違う気がしますね。 一番最初に取り壊し立て替えられたのは旧理工学部木造校舎ですがね。昭和40年ごろで使命を終え、理工学部の戸塚移転とともに建て替えられ矢のです。木造校舎で授業を受けたのは生徒番号38××○○○まででしょうか。 理工学部本部の9号館?は使い方を変えながら健在です。 悲しいことに、旧5号館?商学部の建物が壊されて大きな校舎の工事中でした。 ここの地下に写真部の部室があったのです。 学部は違っても毎日のように出入りしていた商学部の建物、そして部室、消えていました。 それと、同輩の丸岡君が買ってきたニコノスのテストをした本部前の一坪ほどの小さな池も消えていました。 40年ほどの年月が流れたことを実感させられましたね。 私にとって変わらないのは、メインの写真機がこの中を歩いていた時と同じニコンFだと言うことです。歩く足並みは随分頼りなくなっては居ますが・・・ カメラを肩に集まってきた連中の中でいったい何人が今もカメラを握っているのでしょうね。 写真で飯を食うことになった連中も定年を越え、自前のやつもピント合わせに苦労している年ですからね。まあ、元気なら上出来でしょうか・・・ カメラは センチュリー・グラフィック+バウシュ&ロム88mm ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/05/01
コメント(0)
池袋から雑司が谷経由でてくてく歩いて都電早稲田駅までやってきました。 ここが今の荒川線の始発駅になるのですが、元の停留所とは少し場所が変わっています。100mほど面影橋寄りに移動しているようです。かつては大隈講堂のすぐ脇の路地を抜けるとそこにあったのですが、今ではグランド坂下の方によって居ますね。 ここにあった都電の小さな車庫もなくなっていますが、これはホテルになっているところでしょうかね。 この向かい側にあったビリヤードなんかも当然のようになくなっているようです。それに、今でもグランド坂下と呼んでいますが、安部球場はすでになく名前だけですね。それに、今の学生さんの生活様式が変化したからでしょうが、裏通りに一杯あった小さな食堂が随分閉店して通り自体が寂れていました。学生の数は減っていないはずですが・・・ これは戸塚一丁目に抜ける道も同様ですね。本屋・食堂・学生服屋・角帽屋が軒を並べていたのですが、当然のように学生服屋と角帽屋は商売にならないのでなくなっています。 地下鉄東西線の開通以来、馬場下あたりが開けてきてそちらの方がにぎやかなようですね。 歩き回ったのも40年ぶりくらいですから変わって当たり前ですが・・・ 正門から馬場下に抜ける通りで発見しました。 私たちの時代にもあり、写真部の部室まで出前してくれた蕎麦屋が・・・そのままのスタイルで営業していました。 モリを頼んでも出前の男の子が海苔をトッピングしてきてくれてザルに化けるお店でした。丼には味噌汁もつけて出前してくれるの有難いお店で、部室の前にはここの食器がいつもありましたね。 当然のようにふらふらとお店に入ると、よく今どきこのスタイルでやってるなあというような大衆食堂のままでした。そして、カツ丼を食べたのですが。お味の方も、確かに昔のままのような・・・ 昔々、学生だった人はつい入るでしょうが・・・ 昔の学生はこれで良かったんです。カツ丼なんて麻雀に勝ったときくらいでしたからね。 大学も儲かったのか周辺の土地を買い上げて随分建物が増えていますね。早実も系列校化して追い出しちゃったみたいですし・・・ ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/04/29
コメント(0)
あなたはもう忘れたかしら 二十四色のクレパス買って・・・ (こう書くのも著作権法では問題があるそうですが・・・) そうです・・・窓の外には神田川・・・のすごく印象的な歌われ方をした川です。 私が神田川の周辺で青春時代を過ごした頃、この神田川は『川』ではなく『排水路』でした。 都心部でさえカバーするだけの下水道が敷かれたのは東京オリンピックに備えて国際都市として恥ずかしくないようと言うことがきっかけでした。。1964年のオリンピックに備え補助金を出して各戸に突貫工事で引き込んだのです。 急速に発展した戦後の東京の汚水が流れ込む神田川はぼうふらさえ湧かないドブと化していました。 下水道の整備、環境行政の進歩などから小滝橋浄水場のところまで鮎が遡上したと以前に話題になったことがあります。 そして、今の神田川は清流とまでは行きませんが、放流された鯉が悠然と泳ぐ川に戻っています。 このあたりの神田川は目白台の高台の下を掘りぬいて通されているので道路から見ても随分下を流れていて、水に親しむと言う雰囲気の無いところです。 汚れきっていた時も改めて覗かなければ知らないままですんでしまう、きれいにしても気が付かれない・・・それでも、きれいな神田川に戻ってよかったですね。 『面影橋』などというゆかしい名前の橋がありますが、この分かりにくい鯉の写真はその『面影橋』の上から撮ったものです。 若かったあの頃 何も怖くなかった ただあなたの優しさが 怖かった・・・ そんな青春時代を思い出させる『神田川』です。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/04/28
コメント(4)
都電はかつて都心の足でした。 山手線、中央線以外に都心部を走るのは地下鉄銀座線と後から出来た丸の内線だけの時代が長かったものです。 昭和30年代が終わる頃までは、「邪魔だ」と言われつつも都民の足として重要でした。 こんな近代的な車両ではなく、真ん中に一つのヘッドライトを持った重そうな電車でしたね。 今は早稲田と三ノ輪橋を結ぶ荒川線だけが生き延びています。この区間は専用敷道が多いのと代替地下鉄とかが無かったので残されたのでしょうね。 昔の東京在住時代は私も都電を時々利用しました。しかし、この区間は利用することは無かったですね。 早稲田ー面影橋ー学習院下ー鬼子母神前・・・停留所にはなじみがありますが、これから北に向かい大塚駅だとか更に北側などには全く縁がなかったからです。 引き換え、廃止された側の部分に良く乗ったのです。 早稲田ー大曲ー飯田橋ー九段下ー神田神保町・・・結構便利だったものです。 ここは新目白通りから都電が専用敷道に入るために曲がるところです。 昔に運転免許を取った方なら覚えておられると思います。 『黄色い矢印』や『安全地帯』が法規の重要問題として出題されていたことを・・・ 田舎の人には見たことも無い信号とかが重要なほど都電や市電と言った路面電車が重要なものだったのです。 残された都電の雄姿をカメラに納めようと、この周辺にはアマチュアカメラマンが出没するのですが、この日もデジタル一眼を持った女性カメラマンが二人居ました。別々に来ていましたが、ズームレンズ装着なので遠慮がちに撮影していました。私のこのカメラはややワイド寄りの物なのでその人たちの邪魔になる位置に出てしまうので気を使いました。 今、こうした路面電車が見直されていますが、東京では復帰できる場所は無いでしょうね。 カメラは センチュリー・グラフィック+バウシュ&ロム88mm6.8 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/04/27
コメント(6)
昨日書いた境内の駄菓子屋さんはやはりものすごく古いお店だそうですね。あそこで開業したのは江戸時代だそうです。 今より参拝者の多かった時代には門前には色んなお店が並んでいたようです。 禅宗系のお寺と違い密教系のお寺はご祈祷だとかの『ありがた信心』に向いていますから民間信仰とも結びつきよいのでしょうね。 ここも、『ススキで作ったふくろう』だとか『ざくろ絵馬』だとかご利益のあるものがあるそうです。 今でも参道はケヤキ並木が続き往時のも影を残しています。 一般的には参拝客は都電で『鬼子母神前』まできていたようですね。 この都電もいまではここを通る荒川線だけしか残っていません。次にはこの都電の雄姿を取り上げたいと思っていますが、今でも元気で走っています。 私はこの都電には乗らず、再び明治通りに戻り都電の終点の早稲田に徒歩で向かいました。 明治通りに出ると姿の良い橋が目に入ります。 『千登世橋』です。 明治通りが目白通りと立体交差するところに掛けられたものですが姿が良くて好きなものです。 御茶ノ水にも『聖橋』という姿の良いものがあります。 人間が古いのか今流の自己主張の強い橋より、こうして周りに溶け込む橋のほうが好きですね。 カメラは コンタフレックスIV+プロテッサー35mm ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/04/26
コメント(0)
今、わが町では世界遺産便乗、悪用、市街地再開発?観光振興?公共事業が行われています。 正直言って、ばかげた事業ですが、その現場では役所の予算書には出ない無駄な付帯事業が先行して行われています。 その現場ではこいつが動いています。 電気工事に使われるばっけっとのついたクレーンです。 昔、これが欲しかったんです。 アマチュア無線はアンテナが命です。そして、同じアンテナなら高さが物を言います。 高所恐怖症に近い私でも屋根の端っこに半身乗り出してアンテナを取り付けたり、屋根の上のタワーや庭に建てたタワーの上でアンテナ工事をしなくてはならなかったのです。 先日取り壊したタワーには20Kgを超し、センターブームでも6mというアンテナを載せていましたが、自分ひとりで取り付けました。 命綱に身を任せて両手を離しての作業で、全身に余分な力が入り、降りてきたときには全身バリバリでした。 そんな時にこれがあれば… 工事のたびに思いました もうひとつ、4トンクラスに取り付けた目方には駄目だけど長さだけは長いクレーン車…これも移動運用に欲しかったですね。 ローカルの局長さん(郵便局にあらず)と、松阪まで見に行ったことも有りました。 今から30年程前ですから、まだ山もそこそこ価値がありましたからね…出し合えば買える程度でした。 今だと、無線機も新品が買えない状態ですがね… 三年程前には現役復帰して矢の川峠や長尾山などに移動して運用したのですが、又、休止状態です。 年のせいかファイトがなくなりましたね。平成16年の東海QSOコンテストの50Mhzの三重県一意ってのが、私のアマチュア無線コンテストの最後になりそうですね。 残っている移動用の資材も我が家でたった一人やめずにやっている長男のところに持っていってやら無くてはと思っています。 小学のときからのコールサインなので関東に言ってもこちらのままでやっています。 郵便が届くところでないと駄目なのでいつまでJJ2のコールサインを維持できるやら… ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/02/20
コメント(2)
名古屋かどこかで「グレース・ケリー展」をやるとかテレビで言っていました。 普通の人だと、思い浮かぶ品物は『ケリーバッグ』なのでしょうね。 私の周りにはケリーバッグを持つような上品な小挾間が居たことが無いのでピンと来ません。 私にとって、グレース・ケリーとともに思い浮かぶのは『ニコンS2』です。 この映画、フランク・シナトラとビング・クロスビーが出演するミュージカル仕立ての映画でしたね。主題歌の『ハイソサェティ』も大ヒットしました。 日本のカメラマニアにとってこの映画の見所はカメラなんです。 この頃のハリウッド映画に出てくるカメラと言えば新聞記者は『スピード・グラフィック』か『ライカ』…お金持ちの主人公は『ローライフレックス』と、相場が決まっていたのです。 その中でオードリーの『ローマの休日』では鈴木光学のライター型カメラが出てきましたが、この『上流社会』ではニコンS2が出てきます。予備のカメラにローライが出てきますが、メインは煮込んでした。 ただ・・・落っことすと裏蓋が開いちゃうシーンがあるんですね。 そのシーンを見て、『あれくらいでは蓋が外れて飛ぶはずは無い!』と思ったことを覚えています。 しかし…同じ構造のニコンFをぶっつけて蓋が飛ぶかどうか検証する勇気はありません。 でも、もう40年以上前からの疑問です。 ちなみに…グレース・ケリーはきれいなのは認めますが好みじゃないです。(好かれなくて結構と言われるでしょうが…) 私の所属した『WPS』写真部のSはソサェティのSでした。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/02/16
コメント(0)
先日からの家の片づけで、少し物を捨てるようにしました。 ゴミにして出さないとやはり家は片付きません。 ゴミにしようと一つ一つのものを眺めていると、やはり、理由があって我が家に来た物たちで、残されていた物ですからそれなりの存在理由があります。 子供が巣立ってからと言うものは、基本的に物は増えていませんね。 増えたのはクラシックカメラの類とパソコン関連のものだけですね。 パソコン関連のものも時代が分かってきたのでスカジーにおケーブルなんて使い道がないのに残っているし…終端抵抗なんてのも残っていますね。フロッピーのワードがまだ残っていました。これは、アップグレード版でやってきたのでオフィスの正規版が一つ必要だし、製品版はフロッピー時代のものしかなかったので残したんですね。一体いつのものでしょうね。 前回の片づけでフロッピー版ウィンドウズ3.1を捨てたのですがね… そのときにドス5.0もほかしたらしく見当たりません。 軽くて使いよかった「VJE・Pen」や、、「ダーク???」と言うスクリーンセーバーもその時にほかしたのですね。知らない間にそうしたホストは全部なくなっています。 元々、あまりなかった私の着る物はどんどん痛んできて減っているし… こうした片づけをするたびにどんどん家が広くなってきます。 それでも、後になったら、『どうしてこんな物まで残してあるんだろう?』と、言われるのでしょうね。 無線関係は息子が跡を継いでやっていますから、ガラクタがあっても分かってくれるでしょうが、カメラの方はね・・・ ニコンは良いにしても、スピグラやメダリストなんて大きなごみに見えるのでしょうね。 もう増やさないつもりです・・・(昨夜例外で一台増やしました) それでも、あと数台は増えちゃうのでしょうね・・・ 子供達は困るでしょうね。物を捨てないように育てちゃいましたから… ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/02/12
コメント(2)
先日、「ああ上野駅」の井沢八郎さんがなくなりましたね。 私は集団就職は経験していません。集団就職華やかなりし頃の東京で彼たちの働きに支えられてのほほんと学生生活を送ったものです。 私のところから都に上ると着くのは東京駅です。そして、郷里に帰るのも東京駅からでした。たしか15番線発、夜行列車『那智号』でした。この夜行は紀伊勝浦行きですがこちら向けでは一列車編成できないので鳥羽行きの『伊勢号』更には時期によっては『能登号』と一緒だったり『出雲号』と一緒だったりしました。20:00ごろの初だったと思いますが、そのホームに行くとたまに見たことのある顔にあったりしましたが、この東京駅というのはもう一つムードのない駅ですね。 大体、夜行で東京に着いても品川駅で降りちゃいましたしね… それに引き換え上野駅はまさに終着駅…そして、終着駅は始発駅です。 学生の頃には信越線の『戸隠』に乗り一路上田駅へ…そして、常磐線経由の『十和田』に乗って奥入瀬へ、北海道へ…旅立ちは上野駅が多かったですね。 夜行列車の似合う駅でした。 スキー列車では順番待ちでコンコースでマージャンを… こんなのが似合うのは上野駅のしたのホームだけですね。 ヨーロッパの駅は上野同様終着駅の造りが多いので旅立ちや到着の実感が湧く居ところが多かったですがね。 こうした旅情なんてものは遠い昔のものになってしまい効率第一・・・ 動いている列車から飛び降りてホームの蕎麦屋へ…ベルを聞きながら蕎麦をかき込み動き出した列車のデッキの手すりをつかんで飛び乗る… 短い停車時間にうまく駅弁を確保する… こんなたびの楽しみが経験できない今の若い人は可愛そうですね。 グルメ弁当なんかでは味わえないたびの楽しみを… そうして、『ああ上野駅』の意味も分からなくなってゆくのでしょうね。 日本を支えてくれた集団就職と言うものの意味合いもね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/01/24
コメント(0)
今日は写真を撮りに出るはずが、庭に出てすぐに、昨日までの続きの草抜きが気になり。『一寸だけよ…』と、かと茶のように言いながらはじめちゃいました。そして、時間がたって結局はどこへも行かず…車に積んだカメラは夕方お持ち帰りです。 去年頼まれて未だに出来ていない、娘の写真のベスト版の編集を再開しました。今取り込んであるのは、画素数は上げていません。パソコンの関係もあり、そんなに高解像度では保存できないからです。 今度のは大画面に写す様なので、良いのだけ撮りこみなおしです。こちらにいたのが18年ですから年に5名ずつでも90枚になります。もっとも、大きくなったら極端に写真は減りますがね。 前に取り込んだ全数のサムネイルを見ながら、ネガを取り出してスキャンさせていますが。 私がいいと思うのと本人がいいと思うのでは差があるでしょうね。親から見ると変な顔しているのが可愛かったりしますが、いくら小さいときのでも本人は見せたくないかも… 披露宴の会場でスライドショーにするそうですから… 大体何枚くらい使うのでしょうね。 お婿さんの分もあるだろうし… 本人達が適当に選ぶでしょうね。 これをやるのにサムネイルを見ていると撮った時の事はほとんど思い出せますね。こんな時も合ったんだなあ・・・と、思いながらやっています。 写真って本人のためよりどうやら歳を取ってからの親のためなのかもしれません。 うちのお袋の部屋から私の小学校に入学した時の写真が額に入って出てきましたからね。 我が家の居間には娘の三歳の写真がありますしね・・・そんなものなのでしょうね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2007/01/09
コメント(2)
先日、見たくないものがテレビに映っていたので、あわてて目をそらせました。 あまりにも急いだので本当にそれがそうなのか確認できませんでしたが・・・ 大分前、出てきた時も、世の男性をがっかりさせた物ですが、今回は更にそれに輪を掛け・・・ 見た男の人も居るのでしょうね・・・ 自分の青春って難だったのだろうと若き日の自分の目を疑う羽目になったのではないでしょうか? まあ、タレントさんですから少しくらい悪く書いてもいいでしょう。 『あなたーを待つの テニスコーート・・・・・・』 あの頃なら千里の道を踏み越えたでも駆けつけたであろうテニスコートも、今ではそばを通らないように回り道したくなる・・・ 見るんじゃなかったと思っても・・・チラッと出も見ちゃいましたから・・・ せっかく先日、美樹ちゃん、蘭ちゃん、好ーちゃんをみて目の保養したのにね・・・ あーあーあ テレビなんかかけなきゃ良かった・・・ ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/12/12
コメント(4)
昨夜は何気なくテレビをかけたら・・・ 懐かしい歌声とかわいいキャンディーズが・・・ 私はキャンディーズの世代ではないのですが、好きでしたね・・・ 蘭ちゃん、美樹ちゃん、すーちゃん・・・どういうわけか田中良子さんだけがニックネームで・・・ 梅コマでショーを見ました。 甥っ子の付き添いで・・・と言いつつ、自分が行きたかったのですがね。 ニコンを二台持ち込んで・・・勿論ストロボなんか焚きません。そんなのすれば一枚撮れば警備員がすっ飛んできますからね。ストロボ無しで・・・一台は200mm、もう一台には85mmをつけて・・・それでもすぐに見つかってカメラ没収です。一台しかバッグからは出していません。どうせ没収が分かっているのですから。飛んできたら自主的にカメラを差し出して預り証を貰います。そして、いいシーンになったろ代わりのカメラで・・・ 両方で10枚くらいしか撮れませんでしたね・・・おまけにその当時のカラーは1600なんて無かったし・・・ 何とか写ってはいましたが・・・ 今もネガが残っていますから、フォトショップで加工すればそこそこきれいに出るかもしれません。 見せるためのステージでも撮影は禁止なんですね・・・ 天下のキャンディーズですからね。 昨日の解散コンサートの彼女達を見て・・・キャンディーズも若いけど…あの頃は私ももう少し若かったんだなあ…なんて思いました。 本当は三橋美智也、春日八郎、島倉千代子から一節太郎の時代の人間なんですが・・・ ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/12/05
コメント(2)
この参考書を使ったのは少数派でしょうね。 福音館書店 『全釈 徒然草』 1956年初版発行 1959年版 定価70円 豆単の様に変形の小さな物です。手のひらに納まるくらいの代物です。305ページに徒然草の前文と全訳、更には脚注まで載っているのです。 確かにこれを買いました。教科書に載っている部分を調べるのに… 姉も私も理系だったので古典なんてあまり熱心ではなかったのですが、チョコチョコやっていましたね。 懐かしいな・・・ともったのですが全部の活字がルビのような物です。序段のように知っている所は読めますが、なじみの無い所は眼鏡が必要です。 これは私が高校時代過ごした、本家の屋根裏の物置から出てきた文机の引き出しにありました。同じに入っていたのが・・・『大学入試問題』と言う封筒で私宛の封筒です。 中味は『昭和35年度早稲田大学理工学部入学試験問題』と言う、複製物です。あの、やたらと大きかった入試問題用紙の複製です。 一番上に乗っていたのが『物理』です。『化学』と二つ必修であわせて60点の配点でした。 今だと、物理のように公式が浮かばなかったら終わりと言う問題は解けません。『こんなのやったなあ…』と言う感じで眺めるしかないですね。 この頃の三重県立木本高等学校では未履修なんて無くて、進学のコースにかかわらず選択とは言え社会三科目、理科三科目やっていました。お陰で、後々の雑学の基礎が出来ました。 二十年ほど前にもう一度大学に行こうかと思い勉強を始めたこともあります下、この田舎からでは通学できる大学なんてありませんしね・・・ そんなことしているうちに、徹底的な林業不況で財政的余裕もなくなりました。せいぜいセンター試験の英語とか社会をやってみる程度です。 ど田舎住まいは不便ですね。 かといって・・・大学ならどこでも良いわけでもないし… 戻りたかったなあ・・・若いギャルも口説けただろうに・・・ 実現しなかったことはどうにでも言えますね・・・ ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/12/01
コメント(4)
静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は ああ 母さんとただ二人 栗の実 煮てます いろり端 明るい明るい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は ああ 父さんのあの笑顔 栗の実 食べては 思い出す さよならさよなら 椰子の島 お舟にゆられて 帰られる ああ 父さんよ 御無事でと 今夜も 母さんと 祈ります 秋が深まり、ふとこの歌を思い出したらお袋の涙を一緒に思い出しました。 ラジオでこの美しいが歌流れるとお袋は途中までついて歌い二番になると、それから先は涙で歌えませんでした。 幼かった私にはまだ良く分からなかったのですが・・・ この年になって、お袋も居なくなって、子供たちも巣立ってやっと分かったような気がします。 お袋の夫、私たちの親父は引き上げ船に乗って帰ってくることは出来なかったのです。 歌がきれいな分、悲しみも深くなります、 平和が一番です。泣くのはえらいさんではなく、弱いものなのです。 ここでメロディーも聞けます。 http://momo-mid.com/mu_title/satono_aki.htm ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/11/05
コメント(4)
全45件 (45件中 1-45件目)
1