『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』100万部?日記

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2011.10.07
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カテゴリ: 歴史の話
ここ数カ月、ここで平清盛のことを書いてきて、

アクセス数がどんどん減ってきているわけですが  (・・;)

今日からは「平清盛・最終章」的な話を書きます。

もし、これまで書いてきた内容が本になるなら、まさに最後の章にふさわしい話です。

テーマはズバリ、 「なぜ平家は滅亡したのか?」 です。



1185年の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、その後の平家の落人狩りによって

一門はほぼ根絶やしになるのですが、

そのきっかけはというと、1180年8月の「源頼朝挙兵」に遡ります。


源頼朝の挙兵は、その年の4月に起きた 以仁王の乱 がきっかけです。

後白河天皇の皇子である以仁王は「平家打倒」の令旨を出し、それに各地の勢力が呼応し、

その一つが頼朝だったのです。



各地で平家打倒の機運が高まった結果、平家が反撃に出て

以仁王の乱も5月には鎮圧されます。

頼朝のほうは、 「このままだと平家に目を付けられて殺されてしまう」

と恐れ、むざむざと殺されるぐらいならば、と挙兵したという事情もあるようです。



それでは、なぜ以仁王が平家打倒を叫んだのかというと、

この年の2月に安徳天皇が即位したのが大きな理由の一つです。

以仁王にとって甥に当たる幼子が即位したということは、以仁王が天皇になる目が

完全になくなったことを意味します。

自分が天皇になるには、平家を打倒するしか道がなかったのです。


では、なぜ安徳天皇が即位したのかというと、その前年1179年11月に

クーデーター( 治承三年のクーデター )を起こし、時の権力者・後白河法皇を

鳥羽離宮に幽閉したからです。



当時は天皇が直接政治を行う(親政)のではなく、

天皇経験者である上皇や法皇が政治を行う体制(院政)が続いていたので、

院政を敷いていた後白河法皇を幽閉してしまうと、政治がシステム的に機能不全に陥ります。



そこで現天皇である高倉天皇を上皇にし、その皇子である皇太子を安徳天皇として

即位させることで、 新しい院政 を行うことができるのです。

もちろん、清盛が早く自分の孫を天皇にしたかったという事情もあります。



さて、この治承三年のクーデターの際に、もう一つ小さな事件が起きています。

このクーデターでは後白河法皇側の貴族を多数追放し、その荘園を没収しているのですが、

その中で以仁王の所領であった 常興寺の荘園も没収 しています。

荘園からの収入はまさに生活に直結する話です。

この経済的な恨みも、以仁王の乱の伏線になっています。


(つづく)







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最終更新日  2011.10.08 02:19:09
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