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先生に学ぶ 金元弼
心にしみる先生の指導
先生は日曜日の説教のほかに、いつも和動会を通じて、いろいろとたくさん教えてくださいました。説教の時間以外のみ言によって、もっと豊かな霊的充実を保つことができたのです。
先生は、普通はそれほど語られません。私たちが立ってお祈りしたり、あるいは出ていって話をするのを、よく、じっと眺めておられます。そして、私にまちがったことがあっても、すぐその場で「まちがっている」とか言われません。一緒に出かけたり、あるいは何かを見たり、和動したりする、そういうひじょうに平和な中にあって、
自分だけにわかるように教えてくださったのです。普通私たちは、まちがっている人がいると、その人を指して、それを話しますから、皆に全部わかってしまいます。しかし、先生はそういうことはなさいません。
誰が聞いても全然わからないのですが、自分にだけは、はっきりわかるように、しかも「それは悪い」というような形では話されません。神のみ意はこうであった、イエス様の心はこうであった、先駆者の歩みはこうであった、という話によって、強く自分を反省させるように教えてくださったのです。
私のことを一つ話してあげましょう。夏のことです。
小さな部屋で先生は、一生懸命に新しいメンバーに対してみ言をくださっていました。そこへ私も一緒に行って、み言を聞きました。ところが私は、ねたい、と思って眠ったわけではないのですが、だんだん眠りがきたのです。
やがて終わり、お客様たちは帰っていきました。
先生はいつもの通り、私と一緒に丘に登りました。
いつもの通り丘にあがって、その町を眺めながら瞑想しました。そしてそれが終わってから、私は先生に連れられて丘を下りましたが、その中間でちょっと休んだのです。先生は静かに私に語りはじめられました。「新しい人がみ言を聞いているときに、あなたが寝たら、それはひじょうにその人に対してすまないのですよ」と。それを聞いていると、何も叱られたわけではないのに、自分でもわからないうちに涙が出てきて止まらないのです。常に先生は、そのようにして教えてくださいました。
麦がいっぱい実っている所を歩くと、「お前は、あんなに熟した麦畑を見て、どういう感じがするの」とか、「何か聞きたいことはないのか」と私に聞かれます。たまには私に、「私と永遠に、神様のみ旨のために働くの」と聞くこともあります。このように先生は、各個人個人に、強い決心をさせ、あるいは、自分の考えの及ばない
ことを考えさせるために、いろいろなヒントをくださいました。
そのように普段語られない先生は、常に一緒に歩きながら、ひじょうに短い、しかし私たち一人一人に一番適確なみ言によって、いろいろと考えさせてくださいました。言葉で「こうだ」と話してくださったのではなく、黙っている中で、たくさんのみ言を私に感じさせてくださったのです。
なぜそういうことが可能であるかというと、先生はわたち一人一人に対してひじょうに関心をもっていらっしゃるからです。
先生は私のために祈ってくださっているし、また私の今までのことを全部聞き、毎日、心霊が行ったりきたりしている中で、どのようにして導いてあげたらよいだろうと、常に関心をもって眺めておられるのです。
「いかにすればこの人は神の心情をわかってくれ、神のみ旨がわかるようになるだろう。」という、その変わらない本当に深い心があるので、そういうことができるのです。
また先生は、お一人だけで語るのではなく、常にメンバーたちの証しをお聞きになりました。一人に証しをさせると、聞く人たちは、その証し人によって、多くのことを習います。二十人の証しを聞かせると、それによってたくさんのことを学ばされます。先生は、その結論は出しません。その結論は、メンバーたちの証しによって出させるのです。
原理を聞いた人は、先生のみ言が本当に正しいということを、自分の霊体験を通じて、証しを通じて、裏付けていくのです。ですから、ちょうど証しをする人たちは、原理を証明するような役割でした。
私たちはこういうふうにして和動したりしたのです。
み言の話し方について
先生が私たちに語ってくださるみ言を聞くとき、私たちは、そのみ言が単に頭や口からでるものではないということを、まずわからなければなりません。
それは、本で習って語る言葉でもありません。私は長年、先生のみ言を知って接していますが、先生は、今までのあらゆる聖人や哲学者、あるいは学者、神学者が語った話を、そのまま話したことがありません。先生はまったく神学をしていません。しかし、よくご存知です。
神学者たちが今まで解決できなかったいろいろな根本問題を、聖書を通じて教えてくださいました。どうしてそれが可能なのでしょうか。
また、先生はよく、未来に起こりえる理想世界についてお話ししてくださいました。それによって私たちに明るい未来をみつけさせました。反面、この現実について、ひじょうにきびしく教えてくださいました。ですから先生のやっておられることをみつめていますと、私たちにはみえない、ある計画というものがあって、その計画通りに進めておられるという感じを受けます。私たちは過ぎてみないとわからないけれども、先生はすでにわかっておられるのです。‘
ですから私たちは、「どんなにしたら神を喜ばせることができるのだろう、親の心を本当に休ませることができるのだろう」といって、自分なりにみ言を応用して、こんなことをしたら喜んでもらえるだろう、ああいうことをしたら喜んでもらえるだろう、といろいろと心を使った時期がありました。そうして、やってみて失敗した人たちもたまにありました。
相手の基準に合わせる
ところで先生は、本当に私たちに必要なごとであるならば、必ず教えてくださいます。その場合、先生のおっしゃることを聞いていますと、私たちの知、あるいは心霊の状態の成長に応じて,それに適応したみ言をくださっていることがわかります。人によって、成長の段階が違うからです。たとえていえば、旧約前の人もいれば、旧約時代にあたる人もいる。また新約時代にあたる人もいれば成約時代にあたる人もいるわけです。そういう人に同じ形で教えるということは大変難しいことであり、無理がきます。
ですから先生は、全体的にお話しされる他に、いつも個人的にアドバイスしてくださいました。日曜日の説教の時間よりも、平常のときの方が、最も重要な時間だったのです。説教の話をどう受け入れたかは、個人によって違いますから、そこに起こりえる問題を、先生は一緒に生活しながら、あるいは山に登ったりしながら、個人的に本当にぴったりした指導をしてくださったのです。
人に話をするのは、自分のためにではなく、その人のためにします。ですからその人が話を聞くことによって神に近より、神の心情にもっと深くなる、それをみながら話していかなければ、かえってマイナスにさせてしまいます。私たちは、そういうことがよくあります。そのとき、私は正しい話をしてあげたのだから、その人が傷つけられたのは私の責任ではない、それは彼自身の責任だ、と考えてはいけないのです。いくら良い食べ物であったとしても、それを消化できない子供にあげたということは、子供を生かすのではなく、殺すことと同じなのです。いくら良いものであっても、その人の時至らない時に、時の話をすることは、罪になります。時至ってのアダムとエバの愛の行為は善であったけれども、時至らない時に時のことを成したということが罪になったのと同じです。
ですからマイナスになったとぎには、マイナスにさせた人が責任をとらなければなりません。皆さんがわかっていることを人に与えるときには、必ず「その人のために」ということを忘れてはいけません。その人をよくわかって話してあげなければなりません。
まず自分がみことばと一致する
先生は、自分自身がみ言を勝利された上で、私たちにお話ししてくださっています。そのことを皆さんにわかってほしいと思います。私たちは、自分が頭の中でわかっていると、すぐに人に対して一から百まで全部話そうとします。そういうことがよくあります。自分がよくわかっていないことでも話をしますね。それで、先生が勝利して、み言を与えてくださる理由を一つお話ししましょう。
神様が私たちにみ言を与えてくださるのは、み言と一致化することを願われてのことです。最初の人間は神のみ言を受けましたが、そのみ言と一致化できませんでした。神は人間に祝福を与えましたが、その祝福を自分のものにできませんでした。神は人間に愛を与えましたが、その愛を充分に受けられる自分、愛と一致化した自分に
なりえませんでした。
神が私たちにみ言を、あるいは祝福を与える目的はなんでしょうか。それは必ず、神の愛をみ言を受けることによって、これと一致化し、神と―つになることです。一致化すると、それからはこの愛を、いろいろな人にどんどん与えることができます。なぜなら愛の根本なる神と一致化したので、人に与えても与えても絶えることがないからです。神は愛の根本、源なのです。源と一致化しているので、あげてもあげても絶えないのです。これが大事なことなのです。
ところが私たちは、一致化する前に、どんどんと人に与えていきます。ですから与えれば与えるほど枯渇を感じさせられます。まず私たちは、み言を受けたとき、それと一致化させる期間が必要です。み言を理解した、わかった、それはまだまだ一致化とは言えません。自分がそのみ言の通りに実行することによって、はじめて自分
のものになり始めます。それも一回、二回、三回と経なければならないでしょう。頭でわかって体でやっていかなければなりません。たとえばスケートをやるとき、始めにどのようにするのかを習って、次に自分でその通りにやってみます。それによって、はっきりとわかってくるのです。それと同じです。 '
人から習って頭でやったものは、何回かしてみると、やりたくなくなります。そういう言葉は、人の頭の復興はできるかもしれませんが、生命の復興はできません。ですから先生が私たちに教えてくださるみ言というものは、先生がこのようにして勝利されて与えてくださるものなのです。それで先生は、皆さんが勝利したとき、何
度も何度も試験してみて、それが成って始めて、次のみ言を一つ―つ与えてくださるのです。
そのように先生のお話は、人の話を聞いてされるのではなく、先生が勝利されたみ言なのです。だから先生は百回語られても、なおどんどんとみ言を語ることができるのです。
全部を語らない
ここで一つ皆様にお話ししておきたいことがあります。お話しするときは、全部話さないでください。十あるとすれば三ぐら 1 。少し残して話してあげなさいということです。なぜなら話をたくさんしますと、話した後は、お腹が空いたように何かむなしさを感じるからです。話をまったくしない人は、そういうことがわからないでしょう。自分にいっぱいあったものを全部あげてしまうので、なくなるのです。あげる時は気持ちよくあげたけれども何もなくなったのでむなしいのです。先生は私たちに、そう教えてくださいました。ですから必ず、むなしさを満たさなければなりません。その回復のための基盤・基台がなければいけません。その基盤がお祈りであり、残っているものを中心として、これを満たしていくのです。たとえばお金がないとしましょう。お金をかせぐためには、資本金がなければなりません。種になるお金がなければいけません。もし、その種のお金があるならば、すぐにまたふやせます。それと同じです。
ですから皆さんも、あげる時には全部をあげてしまわないように。全部話さないように。全部出してしまうと、自分に力がないので人の所に行って力を補給してもらわなければならなくなります。神が私たちに「分け与えなさい」と言って与えてくださいました。それは、「自分のものにしなさい。その次に、人に分かち与えなさい」
ということです。ところが自分のものにしないで人にあげると、その人も自分のものにしないで、また人にあげてしまいます。
するとどういうことになるでしょうか。これは全部、エンプティ(空っぽ)になるのです。人々の一番末には誰がいるでしょうか。ここにはサタンがいるのです。皆が自分のものにできないので、全部、ここに入ってくるのです。神は、自分の愛する人に、み言を、祝福をあげたいけれども、その祝福を皆が自分のものにしないので、それをサタンが持っていくのです。おわかりですか。メンバーの中で、本当に恵まれてひじょうに良かった人が伝道すると、伝道された人はみ言と一致化して残ったけれども、伝道した人は外に出て行ったりします。こういう現象が起こるのは、その人が言葉だけを起こして、自分に、一致化することができなかったからなのです。
ですから私たちが兄弟たちにいろいろ教えたり、お話ししたりするときには、必ず、まずそれを自分のものにする努力、一致化させる期間というものが必要であるということを忘れないでください。そのみ言を行なってみることによって、全部わかってくるようになるのです。神の心情も、神の人格も、神のみ言も、全部わかることかできるのです。