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注目されるタウン&ガウン構想広島大学副学長 金子慎治さん 金も出すし口も出す関係この構想は、タウン(街)とガウン(大学)が一体となって、地域課題の解決に向かっていこうというものです。本来、大学は地域社会にとって非常に役立つはず。国立大学に関して言えば、各地に存在し、研究力があり、多くの人材も輩出しています。こういう大学を地域がどのように活用すればいいのか。残念ながら、日本では上手に活用できているとは言えません。例えば、産業界が欲しい人材は、時代ごとに変化します。そんな時に、大学に対してこういう人材が欲しいから、そのためのプログラムをつくってくれと要望するわけです。もちろん、そのために必要な資金については、企業や地域が用意します。このプログラムによって、必要な人材が育成されたら、地域で活躍するという仕組み。アメリカでは、このような大学の活用の循環があるので、社会課題に対しても、こういう研究をやってほしいという要望が寄せられます。その研究活動によって課題も経穴できるし、そのための人材も育成できるのです。大学にお金を出して活用していく。さらに口も出していく。そんな発想が日本にはないのだと思います。確かに、以前は難しかったかもしれません。しかし、今は国立大学が独立法人となり、もっと社会に開かれた存在であってもいいのではないでしょうか。科学技術の発展や人材の育成などは大学の基本的な機能です。それがもっと地域社会の中でも活用されるべきでしょう。 若者、外国人がターゲット現在、どの地方都市でも大きな問題となっているのは、生死高齢化と地域経済の疲弊でしょう。その解決には、若者と外国人が定住したくなるような街づくりが必要です。広島大学には1万5000人の学生がいてほとんどが東広島市に住んでいます。また、留学や国際会議、研究会などで年間3000人以上の外国人が東広島市に残る学生はわずか3%。外国人研究者にしても、会議後に定住する人はほとんどいません。このうち、毎年3%でも定住する人が増えるだけで、少子高齢化や経済の活性化になど、地域が抱える多くの課題が解決できます。つまり、若い学生や外国人研究者に、〝住みたい〟と思ってもらえることが重要なのです。そのために受け皿と魅力をつくりだそうというのが、この構想の目標の一つでもあります。 イノベーション生み発展する街に 世界中から人材が集まる取り組みの柱として考えられているのは、カーボンニュートラル(脱炭素化)とモビリティー(交通手段)の二つ。さらに、これらを進めるための社会基盤として、DX(デジタルトランスフォーメーション=デジタル技術の活用)を進めていく予定です。世界的なSDGsの流れの中で、脱炭素化は避けて通れない課題です。そのために何ができるのか。エネルギー利用の効率化、再エネ利用、リサイクルシステムなど、さまざまな取り組みが考えられます。大学での研究・実践だけでなく、地域での社会実験なども視野に入れて、街づくりと連動させていきたい。交通手段に関しては、新しい公共交通をつくりことです。ここには地方で使えるような自動運転技術やカーシェアリングなども含まれます。それらの分野で起きたイノベーションが、日本国内をはじめアジアにも広がっていけばいいと思います。これらを支える基盤として、DXの整備が必要になります。アプリやデータの連携など、情報マネジメントによって、人々の行動は変化します。このような新しい技術、新しい仕組みについては、一番なじみやすい内から始めて、周囲の学生街、街中へと広げていきたい。便利な街になれば、世界中から優秀な人材、研究者、ベンチャー企業などが集まってきます。そんな社会に就職する卒業生もいるはずです。いろいろな価値観を持った人が一緒に暮らせる街になれば、広島市とは別の意味で、平和の姿を示せるのではないかと思います。 =談 【文化Culture】聖教新聞2023.3.23
June 6, 2024
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社会問題を映し出す転落や試練作家 村上 政彦クッツエー「恥辱」本を手にして想像の旅に出よう。「用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、J・M・クッツエーの『恥辱』です。作者は、南アフリカ(南ア)の白人です。オランダからの移民をルーツに持つ、いわゆるアフリカーナー。2003年にノーベル文学賞を受賞していますが、それ以前に英国のブッカー賞を2度受賞する快挙を成し遂げています。本作は、その2度目の受賞作です。南アといえば、20世紀後半まで悪名高いアパルトヘイト政策で、公然と人種差別をしていた国です。長い間、土着の黒人が植民者の白人に虐げられていた。本作にも、その歴史をうかがうことができます。主人公のデヴィット・ラウリーは52歳の独身。2度の離婚を経験している。ケープタウンの大学で電台文学を教えていたが、大規模な合理化で文学部が閉鎖され(日本でも似たような状況があります!)、今は主にコミュニケーション学を担当している。専門はバイロンで、詩人を主人公にしたオペラを構想。大学教員は、ただの稼ぎ仕事と割り切っている。鬱屈する主人公の心を解放してくれるのは、週に1度の高級娼婦との逢瀬。しかし、身元を知られた彼女は娼館を去ってしまう。そこへ現れた女子学生のメラニー・アイザックス。デヴィッとは彼女を自宅に誘って食事し、乾いていた性愛の泉を満たした。その後、メラニーは授業をたびたび欠席するが、彼は出席とし、単位も認める。それが大学で問題になり、査問会で弁明の機会を与えられるが、楽聖との条項や不正な成績操作を肯い、頑なに謝罪を拒む。そして、失職。デヴィッドは、娘ルーシーの元へ向かった。東ケープ州の町セレーム。「娘の小さな次作農園は、町のはずれから数マイル、舗装もない曲がりくねった田舎道の行きづまりにある。五ヘクタールの土地は大方耕作に適しており、風車ポンプ、厩舎、離れ屋が並び、まとまりなく広がった背の低い母屋がある」彼は、この農園でしばらく暮らすことになった。ある日、事件が起きる。2人の男と1人の少年に押し入られ、金目の物、自動車を盗まれ、ルーシーは暴行を受けた。デヴィッドは彼女にオランダへ行くことを勧めるが、頑なに、この土地を離れないという(親子ですね)。そのうち彼女は、農園の共同経営者・黒人ペトラスの家で、あの少年を見かける。どうやら親族の一人で、ペトラスは「かんべんしてやれ!」と守る。そして、今度はルーシーのことも守るというが……。クッツエーは、仕掛けに満ちた小説を書く作者ですが、本作は正攻法のリアリズム。ただ、やはり手だれの小説家です。教え子と情交を交わしたデヴィッドが無垢な少年の姿をさらし、読み手の共感を誘うのです。南アの歴史の変遷もたどれる秀作です。[参考文献]『恥辱』 鳩里友季子訳 早川書房 【ぶら~り文学の旅㉒海外編】聖教新聞2023.3.22
June 5, 2024
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風景を栽える井口 時男 被災者の現在描いた『荒れ地の家族』人は作られた自然にこそ住まう 表土の削り取られた地面東日本大震災からちょうど半年後の二〇一一年九月十一日、所用で仙台を訪れた私は、松島町に住む旧友の軽トラックに便乗して、閖上、東松島、塩釜と、巨大津波の被災現場を巡ったのだった。家々が全て土台石だけ残して更地と化し、松林も何もなくなったむなしい空間にいくつかの瓦礫の山だけが黒々とそびえていた。三年後の秋には、視察団体のバスに便乗して、飯館村から南相馬市まで山間部を走った。一面の紅葉の中、田や畑や野原に無数の黒い袋が野積みになっていた。原発事故によって放射能汚染した表土を削り取って入れた袋だった。こうやって地面を薄く削れば無傷な世界が現れるのかもしれない、しかし、この現世とは全てが逆さまの世界として。そんな気がした。 セシウムをめくれば闇の坂紅葉 たどり着いた南相馬市の小高区は津波と原発事故で二重に被災した地域だった。避難指示で無人の町に夕闇が下りる中、秋の花とては点在する背の低いセイタカアワダチソウの黄色い花だけだった。 「原子の火」こぼれてセイタカアワダチサウ それから十二年。被災地を何内してくれた旧友は去年の夏に亡くなった。野積みの黒い袋は一般人の視界からは消えたらしい。政府は原発再稼働へと大きく舵を切った。震災の痛みは「喉元を過ぎた」のだろうか。巨大地震の危険も処理不可能な「核のゴミ」も、一つ解決したわけではない。 聳える〝白い要塞〟一方、海辺の風景は大きく変貌した。何よりあの巨大な防潮堤だ。海辺に生きる日々の喜びを放棄しても、百年千年の教父から身を守ることを選んだ結果である。「祐治は更地を突っ切って歩き、防衛堤の斜面を登った。(中略)限界まで巨大に設計された防潮堤は、ついこの間経験したばかりの恐怖の具現そのものだった。海からやってくるものの兄妹差をいわば常時示すように防潮堤は海と陸をどこまでも断絶して走っていた。」「白い要塞のように聳え、海から人を守っているのではなく、人から海を守っているように見える防潮堤に向かって祐治は歩いた。近づくほど、視界は遮られて海は遠い。封じ込められたような圧迫があった。」今年一月に芥川賞を受賞した佐藤厚志『荒れ地の家族』の一節だ。舞台は仙台市内の南にある亘理町。主人公の坂井祐治は四十歳。一人で仕事を請け負う「ひとり親方」の造園業。実質的には小さな植木屋だし、頼まれた清掃でも何でも引き受ける。震災の二年後に妻を病気で失い、再婚した女性には逃げられ、老いた母と小学生の息子との三人暮らし。その日常が抑制されたリアリズムの筆致で綴られていく。津波の記憶はフラッシュバックのようによみがえるし、仕事にも人間関係にも風景の細部にも、震災は日常の隅々に忍び込んでいる。それが被災者の現在なのだ。作者は「文藝春秋」三月号の受賞者インタビューで「風景」という言葉を繰り返していた。「今生きる一人の生活者の日常を描こうと思った時、そこに見える風景として、震災が今目の前に『ある』。(中略)特に宮城県のような被災地では、震災は、あたり前の風景として視界入ってきます。」風景とは、いわば、自然が人間に見せるためにまとまった薄い外皮である。その見慣れた外皮をかなぐり捨てたとき、どんな恐ろしい姿を見せるか、十二年前に我々は思い知ったのだった。 震災は当たり前の姿として視界に 防潮堤は人間化できるか百年近く前(一九二八年)に出版された柳田国男の『雪国の春』に「風景を栽える」という短いエッセーがあったのを思い出した。柳田は書いていた。「必ずしも装飾の動機を持たずして、人の加えた変更にも美しいものが多かった。単なる人間味という点だけでも、荒野荒海の中にいる不安を、鎮めた和らげる力がある」と。人は死産の中に住み着いて自然を少しずつ作り変えていく。家を建てたり耕作したり木を植えたり草を刈ったり花を育てたり。風景とは、人間の日々の営みによって作り変えられた自然、いわば「人間か」された自然のことなのでもあった。人は自然の中に直接住まうのではなく、風景の中に住まうのである。植木屋である『荒れ地の家族』の主人公も、懸命に生きながら、文字どおり「風景を栽え」ているのにちがいない、と思ったのだ。『雪国の春』は東北地方を旅した時のエッセーだが、それは、名所や観光地ではない無名の土地の無名の風景の美しさやなつかしさを発見する旅だった。無名の風景の発見は無名の人々の暮らしの発見にほかならない。『雪国の春』には、明治二十九年(一八九六年)の名辞三陸自身の津波被災地を二十五年後に訪れた「二十五箇年後」という小文も収められていて、そこには「一人一人の不幸を度外に置けば、疵はすでにまったく癒えている」と言える日はいつだろうか。『荒れ地の家族』の主人公があの巨大防潮堤を「人間か」できる日はいつだろうか、などと思った。(文芸評論家) いぐち・ときお 一九五三年、新潟県生まれ。東京工業大学大学院教授等を歴任。専門は日本近代文学。著書に『大洪水の後で―—現代文学三十年』『金子兜太―—俳句を生きた表現者』など。句集に『天來の獨樂』『をどり字』『その前夜』がある。 【社会・文化】聖教新聞2023.3.21
June 4, 2024
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日本が学ぶべきことは何か尾松 亮海洋汚染の削減課す条約福島原発事故後、事故炉で発生する汚染水の流出防止や処理水の海洋放出を巡る対策に対し、国内外から疑問の声が上がっている。政府・東京電力は、海洋放出の影響は軽微とする評価を繰り返し訴えているが、関係者から理解が得られていないのが現状だ。国際的なルールを定め、汚染状況報告や汚染削減に取り組んできたOSPAR条約(北東大西洋の海洋環境の保護を目的としたオスロとパリ委員会での条約)の経験から私たちが学ぶべき教訓は多い。一つ目は、明確な健康影響が証明できなくても汚染削減策を推進する「予防原則」を基本として、影響を受ける関係国間で共通ルールをつくることだ。「予防原則に従えば、因果関係の決定的証明がない場合でさえ、懸念を持つだけの合理的な根拠があれば、予防措置を講じることが可能である。完全な科学的証明ができないことは、海洋環境保護の思索を遅らせる理由になってはならない」これが同条約の基本原則だ。セラフィールド再処理工場からの汚染を批判された英国企業は当初、健康影響は軽微であると主張したが、汚染原因をつくった企業が「影響は軽微」と主張しても、国際的な信頼を得ることはできない。「影響が証明できない」からこそ、汚染ゼロを目指し対策を講じ続けることの必要性をOSPAR条約の経験は示している。二つ目の、汚染状況評価や汚染削減対策について市民社会に開かれた議論をしてきたことだ。OSPAR条約の締約国会議や小委員会ではグリーンピースやKIMOインターナショナルなど、環境問題に取り組む国際NGOが参加し、市民社会や民間の専門家からの懸念や要望するルール作りに反映させてきた。一方、日本での海洋放出決定に至る議論では、市民の参画機会が極めて設定されている。海洋放出計画を評価するIAEA(国際原子力機関)のミッションには周辺国の専門家も参加しているのが、これだけで世界の市民社会に開かれた議論をしているとは言えない。予防原則に立ち、市民に開かれた議論を行ってきたからこそOSPAR締約国は海洋汚染を巡る外交対立や貿易戦争に陥らずにすんだといえる。学ぶべきは海洋汚染を比五起こしている事実を認めることだ。「処理水」と呼称を変え、基準を満たせば汚染が生じないわけではない。また、汚染水放出の影響を訴える人々を「加害者」扱いすることがあれば、国際的にますます孤立することになるだろう。(廃炉制度研究会代表) 【廃炉の時代‐課題と対策‐56】聖教新聞2023.3.21
June 3, 2024
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この世界の問い方大澤 真幸著残るのは権威主義的資本主義か創価大学教授 前田 幸男評本書は、著者が2020年6月から22年8月までに執筆した時事的な評論集である。構成は、➀ロシアのウクライナ侵攻②中国の権威主義的資本主義③ベーシックインカムとその向こう側④アメリカの変質―バイデンの勝利と黒人差別問題、そして⑤日本国憲法の特質という⑤章立てである。いずれも重要なテーマで、とくに米露中といった大国に対する議論は、国際政治学で言うリアリズムのリバイバルとして人口に膾炙してきた。しかし、本書はそうした紋切り型の議論とは一線を画する。なぜなら、これは著者の最大の魅力ひとつだが、半ば論じ尽くされたと思われる資本主義、宗教、帝国、ナショナリズムなどの論点にも、さらなるクリティカル・シンキングをかけることで、新たな議論の地平切り開いていくからだ。中でも資本主義の存続に関する議論は一読に値する。本書で中国は国民国家の体をなしながら実質的には秩序を非常に重視する帝国であると把握している。資本主義は自由民主主義と組み合わさることで歴史は終わるとされたはずなのに、中国では法の支配よりも工程や共産党が上位に来る権威主義が資本主義とうまく接合している。しかも、この権威主義的資本主義は一種の金権政治と化している米国の中にもじわじわと浸透しており、世界にはこの「権威主義的資本主義」だけが残るのではないかと、考察を進めていくのだ。加えて、この権威主義的資本主義の問題がウクライナや台湾の問題とも連動しながら、21世紀にも関わらず「戦争」の二文字から逃れられない状況が現代である。しかし、そのような状況だからこそ、本書は日本人として憲法9条を変えることなく、それを現代にどう生かせるのかを考える機会も提供してくれている。他方で本書は、➀「資本主義は残らないかもしれない」2「の頃としたら権威主義的資本主義だけである」として、②への考察を深めるものの、人々はなぜ➀のような不安を覚えているのか、その源泉はどこにあるのかへの考察は充分ではなかった。この点は、真木悠介が論じたような別様の「この世界の問い方」を展開する必要があるように思われる。◇おおさわ・まさち 1958年生まれ。社会学者。【読書】公明新聞2023.3.20
June 3, 2024
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アフター・アベノミクス軽部 謙介著経済政策の背景に政治の現実慶応義塾大学名誉教授 小林良影評黒田日銀総裁の後任人事が決まり、これまでのアベノミクスが採用してきた量的緩和や財政出動などの政策が変わるかの同課に注目が集まっている。本書は『官僚たちのアベノミクス』(2018年)や『ドキュメント 強権の経済成長』(2020年)に続く、アベノミクス三部作の最期を飾る内容となっている。具体的には、安倍首相は2013年に黒田東彦氏を日銀総裁に就任させて「2年間で2%の物価上昇を達成する」ために、大規模な量的緩和という金融政策を打ち出した。財務省も金融緩和であれば財政規律と両立できると了解した。このため2015年に初会合が開かれた自民党財政再建に関する特命委員会で積極財政派の意見は出たものの、最終的には重視されず、プライマリーバランスの達成時期も明記されていた。しかし、現実には2%の物価目標を実現することができない中で、著書によれば安倍首相も金融政策だけでなく財政出動も併せて実施しなくてはならないと考えるようになっていった。その結果プライマリー・バランスの達成時期が明示されなくなり、安倍元首相は退任後も自民党財政政策検討本部の最高顧問に就任し、財政拡大による需要創造への議論をリードしていった。そして、同本部の提言には安倍元首相を背景とした積極財政派の意見が取り入れられ、自民党内の財政再建派は追い込まれることになった。このように安部元首相は首相退任後も経済政策に大きな影響を持ち、その結果、日銀が巨額な国債を保有して長期金利の決定権を持つ巨大な存在となった。また、アベノミクスの結果、1ドル80円台の極端な円高が是正され、株価上昇や雇用創設がもたらされる一方、財政規律が緩んだという指摘もある。著者は、こうした経緯を客観的に書き残すことで、政治が総裁人事による日銀への影響力をもつことの是非をジャーナリストの矜持として問うている。アベノミクスを巡る自民党内の攻防や財務省と日銀の関係など、経済政策の背景にある政治の現実を見事に描き出している。◇まるべ・けんすけ ジャーナリスト、帝京大学経済学部教授。時事通信社解説委員長等を経て現職。 【読書】公明新聞2023.3.20
June 2, 2024
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武者小路実篤と花武者小路実篤記念館学芸員 石井 彩由美書画や文学作品を通して、自然への敬愛や賛美を表現東京都調布市の住宅街の一角に、緑豊かな公園と、瀟洒な木造の家が佇んでいる。ここは、かつて武者小路実篤が「仙川の家」と呼び、終の住み処として70歳から90歳で亡くなるまでの20年間を過ごした場所だ。武者小路実篤と聞いて、何を想起するだろう。志賀直哉らと共に雑誌は『白樺』を創刊した「白樺派」の本学者だろうか。かぼちゃやバラなどの野菜や花を描き、「君は君 我は我也 されど仲よき」等の言葉を添えた書画だろうか。あるいは、誰もが平等で個性を尊重する社会の実現の場を目指した「新しき村」の創設者であろうか。実質は、90年にわたる生涯で、文学、美術、思想と、多岐にわたり活躍した。特に書画の政策では、野菜や花などを数多く描き、人々に親しまれている。現在、調布市武者小路実篤記念館では、実篤の多岐にわたる活動の中でも「花」にフォーカスして、書画や文学作品と、そこから読み取れる自然や画に対する姿勢を紹介する展覧会を開催している。自然や草木には自らの姿を見る目はないのに、美しい花を咲かせる。実篤は各々が持つ個性のままに、思い切って咲いている花に美を見いだした。実篤は、描いた画にさまざまな画賛を添えている。画賛とは、画の余白に書かれた言葉のことである。特に、花の画に添えられた画賛には、「自然は美を愛す」「思い切って咲くのも萬歳」などの自然を賛美する言葉や、「何故に花が咲くか知らねども 我は素直に我が花咲かす」など、花を人間になぞらえ、あたかも花そのものが自ら発した台詞のように書かれたものもある。一方で、自然は語らず、画もまた言葉を必要としないため、讃を書かずとも良い画を書きたいとも考えていた。文章や画賛では表せない「沈黙の世界」を、自らの画に托したのである。自然への敬愛や思い切って咲く花に対する賛美は、実篤文学にも感じられる。小学看板『武者小路実篤全集』第十一巻(1989年)には、花に関する詩が約40編収録されており、明るくあたたかなイメージや、開花中の一瞬の美しさを唄っている。書画とともに文学でも、花について表現したいことは共通していた。折しも春を待ち望んでいた花々が咲き揃う季節。実篤記念館に立ち寄り、実篤による花の書画や文学を楽しみつつ、実篤公園では実篤が愛し、描きとりたかった自然に触れ、咲き誇る花々を愛でてみはいかがだろうか。 (いしい・さゆみ) 【文化】公明新聞2023.3.19
June 2, 2024
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血流を良くする薬膳研究家 正岡 慧子 生活習慣病の予防に効果あり中国医学では「血をもった本と為す」と言い、「血虚」(貧血)と「瘀血」(血液の汚れや血流の悪さ)の改善を食養生の要としています。加えて、血管を丈夫にすることができれば、まさに鬼に金棒です。高血圧や生活習慣病、認知症なども怖くありません。血液を補うことは、女性にとって特に大切です。寒い冬、中国の女性たちがよく食べるのは、生薬の当帰と羊肉、野菜などを煮込んだ「当帰鍋」です。そのほか、黒豆や黒ゴマ、キクラゲ、金針菜(ノカンゾウ)、ニンジン、ホウレンソウ、ニラ、プルーン、青背の魚、(カツオやサバなど)、シジミ、ヒジキ、牛肉、豚肉、卵などがお勧めです。血液の流れを良くする薬膳には、ウコンや川芎、紅花、サンザシ、サフラン、桂皮(シナモン)などがよく使われます。大豆や納豆、タマネギ、ネギ、ラッキョウ、ニンニク、ミョウガ、セロリ、菜の花、菊の花、レンコン、黒酢などの食材も良いでしょう。血管を丈夫にするには、柑橘類やソバ粉、アンズ、サクランボ、ブドウ、リンゴ、ピーマン、トマト、カブなどが役に立ちます。私はシナモン紅茶をよく飲みますし、ラッキョウとネギを刻んでさっと炒め、おかゆに加えたり、海藻と干しシイタケ(どんこ)のスープもよく作ります。忙しときは、切った豆腐の上に、缶詰のツナとスライスしたタマネギをのせ、ポン酢をかけるだけでもよいと思います。また、ミカンの皮を洗って細かく刻み、天日に干して乾かしたものを、生薬名で「陳皮」と言いますが、簡単に作れますので、ぜひ自宅でつくってみて下さい。カレーや酢の物、黒豆の煮物などに加えるだけで、帰結の巡りをよくしてくれます。ウサギとカメの昔話に出てくるウサギのように、やたら勝ちにこだわることは、心臓疾患に多いストレスサインだともいわれています。少しのんびりするのも大切かもしれません。(おわり) 【生活に生かしたい薬膳の知恵■8■】公明新聞2023.3.18
June 1, 2024
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忍辱の心 御義口伝には、「『忍辱』は、、寂光土なり、この忍辱の心を、『釈迦牟尼仏』といえり」(新1073・全771)との甚深の教えがある。仏の真髄の強さは、ありとあらゆる苦難を耐え忍ぶ「忍辱の心」にあるとの仰せである。―――――― ――――――忍辱の心とは、いかなる娑婆世界の嵐にさらされようと、心が負けないことだ。心が恐れぬことだ。心が揺るがぬことだ。この忍辱の心にこそ、仏の力、仏の智慧、仏の生命が脈動する。 大聖人は、御自身の法華経の行者としての御境地を次のように述べられています。「されば、日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶことなけれども、難を忍び慈悲のすぐ(勝)れたることはおそ(畏)れもいだ(抱)きぬべし」(新72・全202)法華経に対す智解の深さは、仮に、天台・伝教のほうが勝っているとしても、「忍難」と「慈悲」においては、はるかに大聖人のほうが勝っているとの仰せです。もちろん、末法の弘通にあっても、法華経に対する「智解」、すなわち道理を尽くして、理路整然たる教義の展開から語りゆくことは重要です。大聖人も、理論的解明の功績を天台・伝教にゆずられることはあっても、その必要性を否定されているわけではありません。しかし、それ以上に重要なことがある。それは、悪世末法に現実に法を弘め、最も苦しんでいる人々を救いきっていく「忍辱」と「慈悲」です。この「忍辱」と「慈悲」は、表裏一体です。民衆救済の慈悲が深いからこそ、難を忍んで法を弘めていく力も勝れているのです。「難を忍び」とは、決して一方的な受け身の姿ではありません。末法は「悪」が強い時代です。その悪を破り、人々を目覚めさせる使命を自覚した人は、誰であれ、難と戦い続ける覚悟を必要と知るからです。その根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませてはならないという厳父の慈悲があります。その厳愛の心こそが、末法の民衆救済に直結します。 心が負けない。恐れない。揺るがない。この忍辱の心に、仏の力、智慧、生命が脈動 【仏法哲理の泉――折々の講義・指導から】大白蓮華2023年3月号
May 31, 2024
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絵巻 万葉ものがたり児童文学作家、絵本作家、画家 阿見 みどり 日本の世界的文化遺産を意訳と絵でみずみずしく2022年、中学時代に「鳥獣戯画」と出会ってからずっとあこがれてきた絵巻……。70年の時を経て、ようやく実現することができました。この日本という島国で繰り広げられた古代の万葉びとの生活を、私なりに再現してみたいと思い続けて来たのです。いざ制作、と資料を並べてアトリエを整えてスタートしてから、まる10年、4500余首の万葉集収録和歌をくまなく読み込み、心に響いた度合いと内容の分類に年数を要しました。最終的に選んだ100首を四「部屋」にまとめ、全四巻となりました(※蒔絵仕立ての四間隔上下計八軸を1冊に収容)。構成が決まり順序を思索している折しも、新年号令和が発表されました。令和のシーンを最初に据えることで、背中を押されるようにすらすらと全体の位置づけが決まりました。草花が万葉集の歌の三分の一に読み込まれていることからも、いかに万葉人の生活に植物が深く寄り添っていたかがわかります。万葉学者の父の書斎で万葉集の文献にたすけられて書いた卒論「万葉集の中の植物考」で、頭に住み始めたていた万葉の草花をスケッチしながら、2000年からは毎年、「万葉野のカレンダー」をつくり、それを原画展でも発表してきました。そのカレンダーでは、日本文化の礎である万葉集はギリシャ神話に勝るとも劣らないと信じて、英訳を添えて世界に発信したいと、小さな働きかけを積んできました。英訳をブルース&夕子ラトリッジさんにお願いできたのは幸せでした。さらに、絵本に仕上げるにあたって専門家にしっかりチェックをしていただけねばと、文学博士で美夫君志会の会長もなさった村瀬憲夫先生に監修をお願いできたのはありがたいことでした。草花に寄せる万葉びとの気持ちへの私なりの解釈を提示すると、学説はこうだけれどあなたの解釈もおもしろいからこの際世に問うてみましょう、とおおらかなまなざしで支えていただき、無我夢中の私に大きな勇気をくださいました。画に関しては、若い頃から武術間やギャラリー巡りが趣味で、折々に集めた正倉院図録などの資料に助けられました。ともあれ、ながい間身体の中に生き続けた不動のイメージは、歌の解釈の途上で動き出し、古代の仲間たちをさりげなく掬い取って、絵筆は流れのように走りました。何台は草花以外の対象、なんとも稚拙なレベル。技術の成熟を待つには時間が足りません。小さな一歩ですが、このジャンルに一つの風穴を開けたことにして次代の敏腕に委ねることにしましょう。仕上げにあたり次の難渋したのは絵巻の用紙選びです。描きなれている手元の和歌を並べて悩みました。細川和紙、丹後和紙、黒谷和紙、越前和紙……。迷っているそのとき、細川和紙が世界文化遺産に決まったとのニュース。数年前見学に行った埼玉県小川町の細川和紙に決めました。小川町は鎌倉の妙本寺とともに万葉集を今に伝える大きな役割を果たした仙覚律師ゆかりの地です。まずは念願の絵巻に仕立てる。それを絵本の形にして若い人や海外の人たちにも伝えていく。日本の宝「文化の礎石、万葉集」を「世界の文化の礎石、万葉集」にとの祈りを込めての刊行です。 あみ・みどり 児童文学作家、絵本作家、画家、東京女子大卒。著書に『こねこのタケシ 南極大冒険』(銀の鈴社)、『ヤギのいる学校 つながるいのちの輪』(同、共著)ほか多数。長年構想を温め続け自ら絵と文、歌の現代和訳を手がけたバイリンガル絵本『絵巻 万葉ものがたり』を昨年11月、銀の鈴社から観光。(社)日本児童文学学者協会、(社)日本児童文芸家協会会員。85歳。 【文化】公明新聞2023.3.17
May 30, 2024
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蓄電池式電車ふたたび武庫川女子大学名誉教授 丸山 健夫 日本で初めての営業電車は、京都で走った。1895年のことだ。しかしその5年前の1890年。東京・上野で、お客を乗せて電車は立派に走った。第三回内国勧業博覧会であった。400㍍ほどのレールが敷かれ、片道が2銭で往復3銭だった。そば一杯が1銭ほどの時代に高価だったが大人気となる。乗車した実業家たちは東京に電車を走らせようと、競って開業の申し出をする。だがことごとく却下された。電車は電気で動く。発電所から出発した電気は、頭上に張られた架線から電車に取り込まれ、電車のモーターを回した後は、車輪とレールを経由して発電所に帰る。これがいけない。当時の電車は道路上を走る路面電車。道路の下にはガス管があった。レールを流れる電気の影響はないのか。電報用の電信も電車で邪魔されるかもしれない。そんな懸念もあってか、役人たちは許可を出さない。東京の電車は、長い間お預け状態となる。ところが問題を一挙に解決する方法が存在していたのだ。当時すでに実用化されていた蓄電池式の電車である。だが大きな毛点があった。何しろ電池が重すぎた。電池交換の人件費もかさむ。手間と時間、費用がネックだった。百年以上が経った今、営業用の蓄電池電車が、栃木や筑豊、秋田などで走り始める。電池が軽くなった。モーターを発電機として使う技術が出来、発電機を回す負荷で電車のスピードを落とす。生まれた電車を電池に充電すれば一石二鳥だ。電化区間では架線から電気を取り、未電化区間は電池で走れば乗り換え不要だ。排気ガスも少なく、環境にもやさしい。電気自動車の新技術が、蓄電池車を復活させるかもしれない。 【すなどけい】公明新聞2023.3.17
May 30, 2024
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「則天去私」という生き方心理療法家「まどか研究所」主宰 原田 広美 今回の最終回では、漱石の最晩年の思想として知られる「則天去私」について触れておきたい。「則天去私」は、漱石の造語だ。少年時から作り続けた漢詩の素養と『こころ』脱稿後から付き合った、神戸の二人の全集の雲水からの影響なども感じられる。文字通りに解釈するなら、「私(自分)を捨てて、天命に従う」と考えれば、いいのだろうか。ただし、漱石には講演録として有名な『私の個人主義』がある。そこには「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました」と、あった。その「個人主義と自己本位」は、漱石が持病の神経衰弱から、自分を支え続けるための指針でもあったのであろう。そこから考えれば「則天去私」の「私」は、親子関係の悪さや、トラウマなどからの影響を得た抑圧により、「縮小化された自己」、あるいはコンプレックスを基盤にした「虚栄や罪悪感」を内包する「自己」と捉えれば、よいのではないだろうか。一見、西洋化された近代自我の「個人主義と」それに対する、東洋的な「則天去私」だが、そう考えれば矛盾はない。漱石は、亡くなる3週間前の最期の木曜会(弟子達との談話会)の際、「則天去私」について、「年頃の娘が親の知らぬ間に失明」したとしても、「それを平静に眺めることができる境地」、と説明した。これは、『夢十夜』の第三夜で、盲目の子供を受容できない、コンプレックスから派生した残虐性を持つ父親を思い出す内容でもある。ただし、その両者の親を比較すれば、漱石の人生をかけた成長のありようが理解できる。ここで『明暗』に戻ると、「則天去私」を体現するのは、何事にも鷹揚な清子だという説がある。だが吉川夫人に癒着的な津田に愛想をつかし、電撃的に結婚した関から移された病のために流産した身を癒す清子に、その境地があるのだろうか。それよりも、新たなチャレンジとして「至純至精」の情を作品に盛り込み、ついにマドンナ型の清子よりも、妻の清子型の延の魅力の拡大に、自然と導かれた漱石治自身の「則天去私」を私は賛したい。(終) 【夏目漱石 夢、トラウマ‐33‐】公明新聞2023.3.17
May 29, 2024
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変化する地図記号今尾 恵介(地図研究家) 統廃合が進み減少傾向に裁判所、税務署、消防署、勇分極――。皆さんは、どれだけ地図記号を覚えているでしょうか。小学3,4年の社会や、中学の地理などで勉強した記憶がある人もいるかもしれません。有名な記号として、寺を指す「卍」があります。この記号は国土地理院が地形図に用いているもので、民間の地図の中には、例えば「三重塔」のシルエットのマークを使うことがあります。実は、東京オリンピック2020大会に向けて国土地理院が取り組んだ「外国人にわかりやすい地図」の議論の中で、卍マークに対して、「ナチス・ドイツを連想させる」という意見もあり、三重塔の側面系の採用が提案されたのです。地図記号の卍が採用されたのは明治13年(1880年)から整備が始まった「迅速測図」が最初。以来、一度もモデルチェンジされることなく、現在に至っています。近代測量による地図づくりは、この迅速測図にさかのぼります。当時はおおむね、フランスやドイツの地図記号を参照していました。しかし、寺や神社、桑畑、茶畑など日本独特のものには、独自の記号が使われるようになったのです。地図記号は世界共通と思う人も多いかもしれませんが、そうではありません。たとえば、病院。ホームベース形の中に十字の記号ですが、これは日本だけ。知名度が高い温泉マークにしても、湯気の出ている感じが、温かい食べ物を連想させ、食堂と間違える外国人もいるそうです。 時代とともに増減地理院と民間では異なる表記 残したかった「塀」「工場」平成18年(2006年)に地図記号のデザインが公募され、大きな話題になりました。国土地理院が外部から募集したのは初めて。この時、対象になったのは「老人ホーム」と発電用の「風車」の二つ。これらが急増する状況に反映してのものでした。それ以前にも、博物館や図書館、電子基準点などの記号が生まれています。また、最も新しい「自然災害婢」は細分化されて増えた記号です。災害の増加を反映して、令和元年(二〇一九年)に従来の記念碑とは別の記号を使うようになりました。地図は現実の世界を映すものだけに、社会の変化とともに、地図記号も増減します。記号の数が多い方が、より的確な表現が可能です。しかし、記号自体を覚えなければ、〝通じない地図〟になってしまいます。実際、最初の迅速測図には記号の数も訳140種類と少なかったのですが、徐々と増えていき、明治33年図式では最大の300種類に。その後は統廃合が進み、現在は最大の半分程度にまで減っています。一時期は端だけでも、材質なので区別して、8種類の記号が存在していました。当時は必要な区別だったかもしれませんが、現代では一つで十分というわけです。また、「塀」などの囲いの記号は、一時期は9種類ありましたが、その数を減らし、平成21年図式まで残っていた記号が廃止され、今は皆無に。「塀なんてどこに使われているの?」と思うかもしれません。たとえば、府中刑務所。3億円事件でも有名になった塀が、今では地図に表記されていません。簡素化の一つといってしまえばそれまでですが、現代の地図では、建物の形が描かれているだけで、どこまでが刑務所の敷地なのかわかりません。特徴的な形の建物を見ようと現地に行っても、見えるのは塀ばかり、ということになってしまいます。また、工場の記号も廃止に。工場地帯のコンビナートなど、大規模な工場には会社名がかかれているので分かるのですが、中規模の場合は、巨大ショッピングセンターと区別がつかなくなっています。中小規模の工場の場合、廃業してしまうところも多いため、いちいち確認するのが大変です。また、工場だった場合が流通センターに変わるなど、そんな状況をすべて把握して、地図に反映させなければならないため、記号の表記をなくしたのだと考えられます。民間の地図とは異なり地形図は、他の地図の元になる基本図のため無くなることはないでしょう。等高線や植生なども分かるため、登山などには必須。防災担当者にとっても欠かせません。地図記号について、皆さんに興味を持ってもらいたく、近著『地図記号のひみつ』を出しました。そこから、地図の楽しさ、利用をもっと広げてもらえたらと思っています。=談 いまお・けいすけ 1959年、横浜市出身。地図研究家。日本地図センター客員研究員、日本地図学会専門部会主査などを務める。主な著書に『地図記号のひみつ』『地図帳の深読み』『東京凸凹地形散歩』など。 地図記号https://www.gsi.go.jp/kohokocho/map-sign-tizukigou-2022-itiran.html 【文化Culture】聖教新聞2023.3.16
May 28, 2024
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情報処理能力とは?東京大学教授 安藤 宏 去る一月一四日、一五日自大学入学共通テストが実施された。二年前、従来のセンター試験から新形式に移行し、出題内容に大きな改革が加えられたのだが、「国語」に関して言うと、実はこれはかなり問題含みの〝改悪〟だったのではないかと思う。たとえば現代文は情報処理能力を重視する方針のものと、異なる二つの文章を読み比べる形が取られている。例を挙げると二〇二二年度では、宮沢賢治の「よだかの星」を論じた文章とが並置されているのだが、この二つを、「食物連鎖」と言う一点で比較すること自体、やはり無理があるのではないかと思う。そこで問われているのは情報を処理する能力というよりも、出題者が異質なものをどのように繋げようとしているのか、を忖度する力だと言ってよいだろう。複数の文章の比較と並んで改革の柱となっているのが、「生徒の言語活動の導入」である。たとえば食物連鎖の例で言うと、二つの文章の共通点を、ある生徒が「ノート」にまとめてみた、という設問になっている。極端に言えば、たとえ恣意的は比較であったとしても「一生徒のやったことなのだから」というエキスキューズが成り立ってしまうわけである。しかも設問に導入される生徒たちの討論の多くは教育現場の実感とは隔たりのあるもので、ある種の気恥ずかしさから感じてしまう。さいわい、今年度の問題は過去に年にくらべると、これらの点が抑制されている印象を受けたが、やはり複製素材の比較と生徒の学習形式、という形は引き続き踏襲されているようだ。そもそも一つの文章の論旨をじっくり読み取る力がなければ、「情報」としての比較検討することもまだ出来ぬはずで、奇を衒わず、オーソドックスな出題形式に戻して頂きたいものだと思う。 【言葉の遠近法】公明新聞2023.3.15
May 28, 2024
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ハチ公 生誕100年東京大学 名誉教授 塩沢 昌出会えた喜び、生涯忘れずハチ公は、日本はもとより世界で最も有名な犬といってよい。ハチ公の飼い主の上野英三郎博士(1871~1925)は、東京帝国大学(現在の東京大学)で、我が国における農業工学・農業土木学の創始者である。ハチ公没後80年の2015年に、東京大学の教員有志が呼びかけて広く寄付を募り、東大構内にハチ公と上野博士の像をつくったが、筆者はこのプロジェクトの事務局長を務めていた。上野博士の教え子でのひとりが秋田県の農業土木技術職員となり、犬好きの恩師のために、生まれて間もない秋田犬の子犬を探して、贈ったのがハチ公である。ハチ公は1923年の11月に大館市の急かに生まれた数匹の子犬から選ばれた1匹である。上野博士は、この頃、他にも2匹の犬を飼っていたが、体の弱かった子犬の八王を自身の寝室に寝かせるなど、ことのほか大事にしてかわいがった。上野博士は1925年5月に大学で急死するので、ハチ公が上野博士と過ごしたのは14カ月に過ぎない。ハチ公は、通勤する上野博士を毎日渋谷駅に送り迎えしていて、飼い主の死後もそのことを知らずに続けた、と思われがちだが、そうではない。上野博士が勤務していた農学部は当時、駒場にあり、自宅は駒場に近い松濤にあったので、徒歩で通勤していた。ハチ公を含む飼犬たちに大学の門まで朝は見送ってもらい、夕方は出迎えさせていた。渋谷駅を利用することも多かった。それは北区西ヶ原にあった農商務省の試験場に実験指導に行くときや、農業土木事業の現場に視察に行く時であった。農業土木事業の現場は地方の各地にあり、当時は朝鮮や台湾にもあったから、その視察は当時、長期間の出張であったはずである。ハチ公が渋谷駅で上野博士を待っていたのは、長期の不在の後は渋谷駅から戻ることを過去の経験から理解していたからだと考えられる。帰宅の日を家族に伝えずに長期出張から戻ったこともあったが、それにもかかわらずハチ公が改札口で待っていて、売泥期喜んだ上野博士はハチ公とじゃれ合ってしばらく遊んでいたという。2015年に東大農学部キャンパス内に設立された上野博士とハチ公の像は、この時互いに喜び合う姿である。そしてハチ公が生涯、渋谷に通って求め続けた姿でもある。上野博士が亡くなった日、ハチ公は大学に迎えに行ったが会えず、家に戻って上野博士の着衣が置かれた物置にここをもって3日間何も食べなかった。葬儀の日には棺の下に入って出ようとしなかったという。犬が人の死を理解するのは難しいだろうが、ハチ公は上野博士に異変があったことは最初から分かっており、渋谷駅に通い始めるのはそれから2年以上経ってからである。最後まで渋谷駅の改札口から現れた上野博士に飛びついてじゃれ合った日のことが鮮明にあったに違いない。それは、過去の習慣からではなく、「忠義」からでもない。自分を可愛がってくれた犬好きな上野博士に、思い出深い渋谷駅に行けば会えること期待してのことと考えられる。このハチ公の思い、人と愛犬との間の愛情の絆に私たちは深く感動するのである。 しおざわ・しょう 1953年、東京都生まれ。77年、東京大学卒。東京大学大学院農学生命科学研究所・農学部教授を2018年に退任。共著に『農地環境工学』(文永堂出版)など。 【文化】公明新聞2023.3.15
May 27, 2024
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法華証明抄解説弘安五年といえば、十月十三日に日蓮が入寂した年である。この手紙は、その八カ月ほど前に書かれた。日蓮は弘安余年の春以来、体調がすぐれず、身延の冬の厳しい寒さで病状を悪化させて新年を迎えていた。この時も、日蓮の体調は芳しくなかったのであろう。この三日前の二月二十五日に、日朗に代筆させて南条時光の看病に当たっていた日興に病への対応を指示していた。それでも満足しなかったのであろう。十八日になって、日蓮は、病を押して自ら筆を執ってこの手紙をしたためた。手紙の冒頭に「法華経の行者 日蓮」と記して花押がある。「鬼神めらめ、〝法華経の行者 日蓮〟の言うことをよく聞くがよい」という思いを込めているのであろう。本書で《前略》とした箇所では、「末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候、者」は、「過去二十万億の仏を供養せる人なり」と釈尊に語り、それを多宝如来がはるばると娑婆世界にやってきて、「妙法華経、皆世真実と証明せさせ給ひ」、さらに、「十方の諸仏を召しあつめ」、広長舌をもって十方の諸仏も証明したことが強調されている。このように、過去に十万億の仏を供養した人が、たとえ『法華経』以外の教えを信じることがあって、そのために貧賤の身として生まれることがあったとしても、『法華経』によって成仏すると綴っている。以上のことを踏まえて、本書に挙げた文章が続く。この手紙は、南条時光に対して与えられたものである。ところが、「この上野の七郎次郎は」とか、「鬼神めらめ、此の人をなやますは」とあって時光のことを指す「上野七郎次郎」も、「此の人」も、二人称でではなく、三人称になっている。日蓮がカラりかけている相手は、南条時光ではなく、「鬼神めら」である。ここに、日蓮は門下をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば、或は所領、或は田畠等にわづらひをなし、結句は命に及ぶ人人もあり。とあるのは、南条時光自身に関わることである。建治年間(一二七五~一二七八年)以後、駿河国富士郡では日興の主導で日蓮の教えが広まっていった。そこへ、幕府権力が公然と介入して弟子檀那を弾圧した。時光が十九歳の建治二(一二七七)年南条家にも圧力がかかり始めた。その年の五月十五日付の『上野殿御返事』には「日蓮房を信じては、よもまどいなん。上の御景色もあしかりなん」と教訓するものもあったことが記されている。これに対して日蓮「人をけうくん(教訓)せんよりも、我が身をけうくんあるべし」と言い返すように諭した。弘安二(一二七九)年の九月から十月にかけて弾圧が本格化した。熱原の法難である。熱原龍泉寺に止住して活動していた日秀と日弁の二人に従う農民信徒二十人が、苅田狼藉(暴力的に他人の田畑の作物を刈り取り、横領すること)の罪を着せられ、逮捕され、鎌倉に拘引された。鎌倉で平左衛門尉のもとで拷問が科され、農民三人が見せしめとして斬殺された。それは、正規の裁判を経ない私刑であった。日蓮は、日興に残りの十七人の釈放を求める訴訟を命じ、十七人は釈放された。この時、時光は若干二十一歳であった。南条家に対する圧力は、弘安元年の所領替えをはじめ、富士大宮の造営を担当させたり、荷重の税負担を課すなど、法外な経済的負担を強いて疲弊させる「公事責め」が行われた。弘安三年十二月二十七日付の『上野殿御返事』によると、南条家の休場は、「わづかの小郷に、をほくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし」といった状況であった。若き時光は、毅然としてこれに対応した。とはいっても、その心労は無視できないものがあったであろう。その結果のこの病である。日蓮が、「上下万民にあるいはいさ(諫)め、或はをどし候ひつるに、つひに捨つる心なくて候へば、すでにほとけになるべしと見え候」と言ったのは、以上の背景があってのことであった。その南条時光を苦しめる「鬼神めら」を「剣を逆さまに呑む気か」「大火を抱きかかえる気か」「三世十方の仏の大怨敵となる気か」と厳しく叱責する。三世十方に存在する全ての仏を敵に回すのか、頭破作七分となり、大無間地獄に堕ちてもいいのだな――とまで迫って、時光の病を直ちに治すだけでなく、守護者となるべきだと詰め寄る。日蓮の気迫が文面にあふれている。それは、筆致にも表れているに違いないと思っていたが、この手紙の真筆を見た人が「聖人のすさまじいばかりの病魔撃退の筆あとが凛凛として書きのせられている」(『日蓮聖人大辞典』、七八〇項)と記していて、納得した。ここに言う鬼神とは、霊魂のような「もの」ではなく、南条時光の病気になった心を指しているのであろう。南条家では、父・兵衛七郎は働き盛りの壮年で亡くなった。その時、時光は七歳、弟・五郎は母の胎内にいた。長男・太郎は十八歳で亡くなり、父の忘れ形見であった五郎も、一年ほど前に十六歳で亡くなったばかりであった。病に伏す南条時光の心には、自分も若死にするのではないかという不安がよぎっていたのであろう。日蓮は、その弱気になった南条時光の心を叱咤し、鼓舞しているように筆者は思える。この時、二十四歳であった南条時光は、この病に打ち勝ち、元気を回復し、七十四歳の長寿を全うした、この手紙の文章を読んでいると、体調がすぐれない中で、心に思い浮かぶ情熱があふれる思いを、そのまま筆に託して一気に書いた様子がうかがわれる。例えば、 此の者、敵子(嫡子)となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさ(諫)め、或はをどし候ひつるに……。という文章は、主語と述語の関係がズレている。「上下万民に」であれば、術後は「いさめられ」「をどされ候ひつる」と受動態にするべきところである。また、この文章は、鬼神に語り掛けた文章が、それに続く「命は限りあることなり。すこしもをどろく事なかれ」という文章は、時光に語り掛ける言葉になっている。鬼神に語り掛ける文章と、時光に語りかける文章が入り乱れている。このように文章の始まりと終わりで能動と受動が逆転したり、諸語がいつのまにか入れ替わってしまったりする文体は、佐渡の地で込み上げる思いを一気に書き上げた『開目抄』で頻繁に見られた。あふれ出る情念に筆が追い付かず、込み上げる思いが先行して、文章の後半を筆で書いている頃は、思考の方は次の文章に移っている。そのため、文章の終りのほうでは、初めのほうとのズレが生じてしまう。筆者は、ここに日蓮の慈愛あふれる自熱情の一端を垣間見る思いがした。抑えがたい感動を覚える。現代は、パソコンの時代で、十本の指をフルに使ってキーをたたくので、思考の速度とほぼ同時に近い状態で文章を書くことができるようになった。毛筆による執筆の際の、思考と文章化の時間差の影響が現れた文章をここに見ることができる。 【日蓮の手紙】植木雅俊=訳・解説/角川文庫
May 27, 2024
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社会に貢献する研究の道を総神奈川学術部長 加部 義夫【プロフィル】かべ・よしお筑波大学大学院博士課程修了。神奈川大学理学部教授。理学博士。1958年(昭和33年)入会。神奈川県平塚市在住。本部書記長。 子どもたちに科学の楽しさを伝えたい―11年前から、大学のキャンパスや地元・平塚市の公民館で「夏休み親子科学教室」を開催しています。毎年、定員を上回る応募が寄せられ、公表です。ガシャンと割れる〝ゴムボール〟バリバリと砕け散る〝花〟。マイナス196度の液体窒素で凍らせたものを壊す実験などを行います。子どもたちは、目を輝かせながら楽しんでくれます。「なぜ?」と疑問を感じたところから、科学は始まります。肩肘を貼る必要はありません。現在、誰もが知っている法則や発明も、その元をたどれば、何げない疑問や関心から出発しています。そうして気持ちを丁寧に育てながら、自然現象や人間の行動、社会の仕組みを、観察や実験を通して説き明かすことが科学の楽しさでもあります。試験のための暗鬼に終始していては、〝科学離れ〟が進んでしまうでしょう。科学は本来、音楽や美術と同じように人生を豊かにする文化なのです。 問われる倫理観私が専門に研究している「ケイ素」は、シリコンとも呼ばれ、半導体や太陽光パネルの原料をはじめ、幅広い分野で使われています。特に半導体は、スマートフォンや家電、銀行ATМなど、現代の暮らしに欠かせない存在になりました。半導体の真価によって、期待されるのがAI(人工知能)です。人間のように自ら学び、考え、分析を行うAI。この開発が進めば、ますます生活が快適に便利になるでしょう。夢が膨らむ一方、危険もひそんでいます。たとえば、AI技術が(自立型兵器)(キラーロボット)に応用された場合の懸念が挙げられます。自立型兵器は、人による優位な制御なしに標的を識別し、殺傷する能力が搭載されています。つまり、人間の生と死が、機械に委ねられることを意味します。現在、人権、倫理、人道また国際法の観点から、国際社会でその法規制に向けた議論が行われています。SGI(創価学会インターナショナル)が、国際ネットワーク「ストップ・キラーロボット」に参画していることを頼もしく思います。今後、AIはますます社会で利用され、大きな影響をもたらすでしょう。だからこそ、研究や開発に携わる側の倫理観や、技術を扱う上での規範が重要になります。歴史をひもとけば。〝戦争に勝つ〟という大義のもと、科学が進歩してしまった負の側面もあります。その最たる例が核兵器でしょう。大学の講義では、こうした歴史を紹介しながら、学生たちに「自分の研究が社会にどう還元されるか、深く考えてほしい」と語りかけるようにしています。私は、創価学会の信仰を持つことで、「何のため」との目的観や、価値判断の基準を養うことができました。 長年の夢に向かって20代後半の頃、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学。進取の気風あふれる環境でケイ素の研究に熱中しました。そんな時、日本から〝父が病に倒れた〟との知らせが―。帰国するため不眠不休で働いたり、日本との往復を繰り返したりするうちに、いつしか動悸が止まらなくなりました。極度のストレスから、パニック障害を発症したのです。小学生の頃、思い腎臓病を、題目を唱える中で乗り越えた体験を思い起こし、信心を奮い立たせました。また、研究室に閉じこもるだけではなく、学会の同志に触発を受けながら、仕事と学会活動に両立に挑戦。40歳頃まで不安はありましたが、病のおかげで日々を真剣に生き抜く自身へと変わることができました。何より、悩み苦しむ人を大切にする心を育めたことは、生涯の財産です。今では病に感謝しています。日蓮大聖人は、「智者とは、世間の法より外に仏法を行わず。世間の治世の法を能く能く心えて候を、智者とは申すなり」(新1968・全1466)と仰せです。大聖人の仏法は、現実の生活や人生から、遊離したものではありません。私たち自身の日々の生活はもとより、政治、経済、教育などの社会の各分野で、仏法の豊かな智慧を現わしていくことが仏法者の使命です。私にとって、「仏法即社会」の具体的な実践とは、世の中に貢献し、人々の幸福につながる研究につくすことにほかなりません。地球温暖化防止のため、脱炭素社会が模索される昨今、炭素に似た性質を持つケイ素が注目されるようになりました。二酸化炭素の削減につながる新たな化合物ができれば、資源問題や環境問題を解決できるかもしれません。私の長年の夢です。共に研究に励んだ学生が来週、研究室を巣立ちます。これからの活躍に胸が躍ります。希望溢れる学生たちと一緒に、社会の問題を解決したい!—志は、年を重ねるほど、ますます燃え上がります。 視点以信得入釈尊の重大です・舎利弗は、〝智慧第一〟といわれる声聞です。法華経譬喩品では、舎利弗であっても智慧でなく、「信」をもって初めて、仏の智慧の境涯に入ることができたと説かれています。これを「以信得入」といいます。私たちの実践においても、妙法への信心がなければ、御本尊の力用を現わすことはできません。池田先生は、「法華経における智慧とは、たんに〝頭がよい〟ことではない。もっと深いものです。一言で言えば、『心が優れていること』です」と語っています。妙法を根本に、仏の偉大な智慧や境涯を自身のものとしていく仏道修行に励むことで、心が磨かれていくのです。 【紙上セミナー「仏法思想の輝き」科学は人生を豊かにする】聖教新聞2023.3.14
May 26, 2024
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「声の届く」場所で「共に苦しむ」ことからインタビュー㊤ 小説家・劇作家 柳美里さん ゆう・みり 劇作家・小説家。1968年生まれ。高校中退後、劇団「東京キッドブラザース」に入団。俳優を経て、劇団ユニット「青春五月党」を結成。97年、『家族シネマ』で第116回芥川賞を受賞。近著に『南相馬メドレー』(第三文明者)、『沈黙の作法』(河出書房新社)など。2015年に鎌倉市から福島県南相馬市に転居し、18年に「フルハウス」を開店。20年、『JR上野駅公園口』が全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞。 親密さの回復――東日本大震災から12年。震災による喪失と悲しみは、今もなお続いています。今という時を、どのように見つめていますか。 震災と、それに続く東京電力第一原発の事故によって、福島の皆さんは、長期にわたる避難生活を余儀なくされてきました。私が済む福島県南相馬市の小高区では現在、居住者は3800人ほどで、震災前の約3割です。65歳以上の方が50%近くに上り、避難生活の中で家族を亡くし、独り暮らしをしている高齢の方も多くいます。もともと地縁、血縁が強く、人が密接につながっていた地域ですが、震災後の長期避難で、そうしたつながりが断絶されてしまいました。そこに、コロナ禍が起こりました。震災で寸断されていたJR常磐線が、ついに全線開通したのが2020年3月。本当なら、多くのみなさんを迎えるはずでしたが、その後の緊急事態宣言で、次々とイベントが中止されました。もっとも来てもらいたい時に、感染症の流行が重なったのです。実は、コロナ禍での感染対策の防護服姿やマスクの着用は、2011年以来、見慣れたものです。避難の一時帰宅で自宅に入るのにも、放射線の防護服とマスクを着けなければならなかった方もいます。災害も感染症も、多くの人に影響を及ぼします。それが「皆、苦しい」といった言葉でまとめられると、苦しみが「並列化」され、一人一人の「固有の苦しみ」が見えづらくなってしまいます。「3密を避ける」「ソーシャル・ディスタンスをとる」は、感染症対策には必要。しかし、近所付き合いが深く、隣組も機能していた、この地域では、そうした言葉が残酷に響いた一面もあるんです。さらに21年2月、22年3月と続いた福島県沖地震は最大震度6強で、家屋の損壊など、報道されている以上に大きな被害がありました。それまでも、3・11が近づくと体調を崩したり、気持ちがふさいだりする方が多くいました。そうした時期に、2年続けて大きな地震があり、建物が壊れて営業ができなくなった店舗なども相次ぎました。昨年からは、ウクライナを巡る危機報道を見て、避難の記憶がよみがえって、過呼吸や涙が止まらなくなる人もいます。同じ事象であっても、一人一人の「苦しみ」は、さまざまです。地震、津波、原発事故によって人間関係がぶつ切りになれてしまった地域で、そうした苦しみを支える「親密さ」をどう取り戻すか。最も求められているのは、人と人のつながりだと思います。そのために、まずは「人の話を聴く」ことが必要ではないか。震災翌年から18年に閉局するまで、臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」で、「ふたりとひとり」というラジオ番組のパーソナリティーを務めました。番組では毎回、南相場の方を2人ずつインタビューし、600人の方々の話を聴いてきました。 暮らしの中に――言葉にならない悲しみを抱えた方も多くいらっしゃると思います。深い苦しみを前にして、そうした方の話を聞くときに、柳さんはどんなことを考えていたのでしょうか。 「聴く」ことは、受動的な行為と思われがちで、どこか軽んじられる気がします。でも実際は、すごく肉体的なやりとりです。聴くためには、「声が届く範囲」にいなければなりません。目の前の人の肺から息が上がってきて、声帯が震えて声を発する。その振動が、聴き手の耳に入って、鼓膜に届く。聴くことは、「あなたの苦しみを確かに受け取った」というレスポンス(返事)でもあります。震災以降、多くの方が被災地に来ましたが、メディアの中には「こういう話を取ってくるように」という前提をもって取材に来る人もいました。それでは「聴くこと」になりません。現代は、商品や情報など、あらゆるものに値段がついて「消費」の対象になります。けれど、私はずっと、悲しみや苦しみは「消費してはいけないもの」だと考えてきました。繊細で失ったのが大事なものであるほど、その人の悲しみも同じように大事にしなければならない、と。また、震災後に「頑張ろう」というメッセージも多く使われました。確かにその通りなのですが、前にそうした励ましは「先回りした言葉」のようにも感じました。胸が張り裂け、口に出すこともできない。そんな苦しみを抱えた人を前にした時、まずは「共苦」(共に苦しむこと)が必要ではないかと思います。私は、2000年に伴侶を亡くしました。あまりにつらく、悲しい経験をすると、記憶が「空白」になることもあるんです。実際、私も伴侶が亡くなった直後の記憶が抜け落ち、自分がどう行動していたのか、覚えていません。当時、一緒にいた人に、「あの時、自分はなにをしていたのか」と尋ねて回りました。そうした中で、自分の思いを聴いてくれる人がいて、その人を通して取り戻せた記憶もありました。「南相馬ひばりエフエム」のラジオ番組「ふたりとひとり」では、被災地の暮らしの悩みを多く聞きました。3月11日には過ぎておらず、日常の中にあると感じました。暮らしの中に、悲しみも苦しみもあります。「共苦」するためには、「共に暮らす」ことから始めなければ、私は聴き手になれない。そう思って、息子と一緒に15年に、神奈川から南相馬に引っ越しました。ある寒い日、復興住宅の縁側に、ポツンと座っている高齢の方がいました。私には、誰かを待っているように見えました。言葉にならない悲しみもある。そうした「沈黙」も含めて、聴くことが必要ではないか。無視せず、聞き流さず、「声が届く範囲」にいてくれる誰か。そうした存在が、求められるように感じます。 沈黙も含めて「聴く」今という「時」の共有 同じ場所にいる――沈黙さえも含めるとすると、聴くことは、大きな広がりがあると感じます。急に語りかけたり、励ましたりすることはできなくても、相手のそばに「一緒にいる」ことで、聴くこともできるのですね。 津波によって兄夫妻を亡くした、ある男性がいます。彼は震災後、夫婦でお兄さんの子どもたちを育ててきましたが、その一人を病気で亡くしたのです。お兄さん夫妻が命がけで津波から守った子が、弟夫婦が必死で育ててきた子が、幼くして命を落としてしまうなんて……。彼からのLINEでそれを知った時、何も言葉にならず、返事を送れませんでした。時間がたって、「春、小高川沿いの桜並木を歩きまわりませんか?」と、彼を誘いました。桜並木の下を歩いていると、彼は、亡くなった子は桜が好きだったと教えてくれました。最後は夏だったため、桜を見せてあげられなかったこと。けれど、その子をおぶって海に行った時、波打ち際で砕行ける白い泡を見て、背中越しに「海に桜が咲いている」と言われたこと。彼は「あれが最後の花見になった」と。私は何も言えないまま、並木道を1時間半、ただ聴いていました。しかし、彼は「誰にも話せなかった」と言いながら、たくさん話をしてくれました。話しても、気持ちのすべてを共有することはできないかもしれない。けれど、話されたことを聴くことで、その悲しみにそっと「手を当てる」ことができるのではないでしょうか。逆に相手が何も言えない時には、その沈黙も含めて聴く。言えない思いを抱えているのだとおもんぱかり、想像する。その痛みを代わって痛むことはできないけれど、痛みを共に悼むことはできます。言い換えれば、「今」という時を共有することです。人間である以上、死を避けることはできません。いずれ去りゆく者として、この場にいる。だからこそ、かけがえがない。今という「時の共有」、同じ場所にいるという「共有」。それが広い意味で「聴く」ことなのだと思います。 悲しみの水路――深い悲しみや苦しみを経験したとき、共有できる人がいることは、小さくとも確かな支えになると思います。 孤独の先に「孤絶」があります。原発事故の避難で、何台も可決つながってきた地域の人たちが散り散りになり、帰還しても、それまでとは一変した故郷しか残っていない。つながりがたたれ、居場所から引き抜かれてしまうと、絶縁と絶望の「孤絶」になります。そうなると、自分は生きている意味がない、価値のない人間だと思い込んでしまう。地に足がつかず、胃きりことが宙づりにされるのです。そんなとき、一人きりでいたら、悲しみの水位がどんどん上がって、おぼれてしまいます。心は、揺れる、震えるなどと表現しますが、動く余地のないほど固まってしまうと、何かの衝撃で折れてしまう。心を柔らかにほぐすには、人との「交流」が必要です。「交」じり「流」れると書くように、誰かが近くにいて、聴いてくれることで、「悲しみの水路」が流れ出します。南相馬に移住してから、そうした場所を造りたいと、書店をオープンしました。カフェも併設して、地域の皆さんからふらっと立ち寄れる居場所です。この地域で、私自身は「水道管のパルプ」のような役割だと思っています。流れる水は地元の方々で、私はそれをそっとつなぐ役目を果たせたらいいなと。ある雨の日、コインランドリーで一人の女性と出会いました。洗濯物が乾くのを待っていると「どこの人?」と聞かれました。震災後に来たことを伝えると、ぽつりぽつりお話されました。かつては小高区で畑仕事をしていて、手芸教室もやったが、今は仮設住宅暮らしで何もやることがない、と。復興住宅の縁側に座っていた高齢の方も、コインランドリーで話した方も、隣にふらっと来てくれる誰かを待っていたのではないでしょうか。大きな悲しみを経験した方を前にして、それと向かい合うことができなくても、隣で同じ方向を見つめながら話ができたら、流れ出す思いもある。後ろを向きながら、前に向かって歩んでいくことがあってもいい。私は、ここに暮らしながら、「あなたは私にとって大事な存在」と、声をかけていきたいのです。意志をもって、つながりの場をつくらないと、孤絶した人たちは、この世からこぼれてしまいます。創価学会の座談会も、時と場を共有して、それぞれの抱えている思いや話を聞く居場所になっているのではないでしょうか。そういう場をつくって、交流を重ねることで、「悲しみの水路」を通して、苦しさを流しだせるのだと思います。 ――柳さんは、2018年にブックカフェ「フルハウス」を開設し、いまは併設した劇場の準備を進めています。本との出会い、「生活者」であることと、信仰や祈ることについてなど、さらにお話を伺います。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.3.11 答えがなくても「問」続けるその揺らぎを支える「祈り」 インタビュー㊦ 小説家・劇作家 柳 美里さん 「生活者」として――2020年に全米図書賞(翻訳文学部門)に選ばれ、世界中で反響を読んだ小説『JR上野駅公園口』の主人公は、南相馬出身でした。作品では、行き場をなくした人たちの苦しみが描かれています。 私は、自分のことを「表現者」というより、「生活者」だと思っています。「メイドイン南相馬」の小説を、ここで暮らし、書き、読んでもらっています。「もごいなぁ」「んだけんちょ」といった、極めてローカルな方言を随所に書いたので、英語への翻訳も容易ではなかったと思います。ですが、そうして描いた「痛み」は、不思議なことに、英訳を経てもたしかに伝わってきました。現在、十数か国語で翻訳されていますが、それだけ「居場所がない」と感じている人が多いのかもしれません。「何にも属せない」と感じる人が、手に取ってくれているとも思います。私自身、韓国籍だったことでいじめに遭い、日本にも韓国にも「所属館」を持てませんでした。けれど、「居場所がない」という痛みの共通点から、人はつながることができるのかもしれません。ブックカフェ「フルハウス」を開いたのも、住民同士の語らいの空間となる居場所をつくりたかったからです。 ――2018年に「フルハウス」をおーぷんされて、5年がたちます。このインタビュー中にも次々と人がやって来て、気さくにあいさつを交わされています。一人で来られる方もいれば、複数で来られる方もいて、気兼ねなく過ごせる印象を受けました。 人は、交流がないと窒息してしまいます。ちょっとしたあいさつや雑談から会話が弾むこともありますし、喫茶店や書店なら長居することもできます。もし誰も話せる人がいない時でも、本を通して〝人〟と会うことができます。本といっても、そこにいるのは〝人〟なんです。著者もいれば、登場人物もいます。もう生きていけないと思うような断崖絶壁に立たされた時、今、生きている場所のほかにも、「世界は無数にある」と気づかせてくれるのが、本ではないでしょうか。書店に並んでいる本は、どれも、別の世界に開かれた扉でもあるのです。私が本と出会ったのは、いじめに遭っていた時でした。しゃべる友達もいなかったので、いつも図書館に行って本を読んでいました。ともすると、子どもにとっては、学校と家の往復だけが、唯一の〝世界〟になりがちです。学校でいじめを受けると、世界は苦しみに満ちてします。けれども私は、本を読むことで、自分が生きる世界が一つではないことを知り、救われました。南相馬の工業高校の生徒が、フルハウスでの読書会を気に読書するようになって、その後、就職して初めての給料で本を買いに来てくれたこともありました。読書の入り口がひらけば、いろいろな世界につながっていける。フルハウスの存在が、そんな居場所になれたらいいなと思っています。 悲しみを照らす――柳さんの著作には、ありのままに自分の苦しみや悲しみをさらけ出したものもあります。柳さんにとって、苦しみ、悲しみは、どのような意味を持つでしょうか。 私は若い時、「なぜ私だけがこんな目に遭うんだろう」と、自分を不幸だと思ってきました。けれど、小説家になってからは、「確かに不幸だけれど、その不幸には不服はない」と思って書いたんです。ある意味で、開き直りといえるかもしれません。ただ、今になって思うのは、〝痛み〟のない人はいないということです。生きることは、いつか死ぬこと。どんなに大切な人がいても、最後は「さよなら」しなければならない。それがいつかは分からないけれど、死ななければいけないということを知っているというのは、それ自体が大きな悲しみ、根源的な苦しみではないでしょうか。一人一人、違うけれど、誰もが痛みや悲しみを経験している。「あなたの悲しみは分かる」などと安易には言えませんが、悲しみを自分の前に〝小さなともしび〟のように置くことで、人の悲しみを照らすことができると思います。 ――人がつながる場としてフルハウスを開かれ、併設された劇場も完成予定です。この夏には、常磐線を舞台にして芸術祭の開催も企画されています。柳さんの発想や著作には、苦しい思いをしている人の姿がいつもあるように感じます。 もともと近くに孝行もあって、下校時に寄り道できる場所がいないと感じていました。「私に何かできることは」って考えたら、書店しかいないと。それなら、お金を使わなくても長居することができますしね。思いついたことを形にするときは、地域の方の「喜ぶ顔」が浮かぶかどうかを基準にしています。具体的に喜んでくれる人の顔が浮かばなかったら、だめかなと思っているんです。喜ぶ顔が浮かぶなら、それはきっと実現できるという確信があります。それは、なぜか。「自分とは何か?」と問いかけると、結局、「他者でできている」と思うからです。親や友人、教師から始まって、何世代にもわたる先祖や、真苗も知らない膨大な過去の使者も含めて、一人でもかけたら今の自分はないじゃないですか。だから何かをする時に、それが他者の喜びや希望にかなっているかどうかは、いつも気にかけています。言い換えれば、自分は「他者」という「糸」で編まれていて、それをほどいて編み直すことも、さらに編み広げて、今までにない新しい模様を編み出すこともできる。「糸」に「泉」と書くと「千」になります。自分と他者の間には「線」があって、線は分け隔てるものがあるんですけど、人と人とをつなぎ、生きる道を示すものでもある。そうして線が結びつけられることで沸き起こるのが「泉」のように思えます。そこには生きている人との線だけでなく、「死者」との線もあります。私は、最愛の人を病で亡くす直前、「なんで泣いているの? 僕があなたをおいて死ぬはずないじゃない」といわれたことがあります。その時は、どう受け止めたらよいかわかりませんでしたが、その言葉は本当だったと今は感じます。彼が亡くなっても、その存在がなくなっていない。思いや視線、声は残っている。その人が生きていた響きは消えません。聴く耳さえあれば響きは聞こえるし、今の自分と共にあるのだと思います。書店も、劇場も、私の小説も、どれも「悲しみの器」だと思っています。震災と原発事故によって傷ついた地域だからこそ、その痛みを共にしながら、人がつながれる場所をつくりたい。どんな苦しみがあっても、「悲しみの器」があれば、聴いてくれる他者がいれば、そこに自分の悲しみを流すことができます。そうした場所を求めるのは、私自身が「流れ者」だからかもしれません。韓国籍であること、いじめられえて居場所がなかったこと、伴侶を亡くしたこと、移住者であること。ずっと流れてきたけれど、「流れ者でしか結べない縁」があるのではないかと思うんです。「流される」ということ、悪いこととかのようなイメージがあります。けれど、私は積極的に流されながら縁を結んできたから、今こうやって書店を開いて、劇場をつくろうとしています。流れの中で、自分の欲望や望みを手放して、誰かの喜ぶ顔が浮かぶことをやってきました。そうすると、他者とつながりやすく、その結びつきも強いものになります。移住した当初は、「すぐに神奈川に戻ってしまうだろう」と見られていたかと思います。でも、私は、ここで暮らし、ここで書き、ここで書店や劇場を開いて、人場結ばれる居場所をつくりたい。「もう死のう」と思っている人が、ふらっと立ち寄った時に、どうしたら引き留めることができるか――そんなことを、ずっと考え続けています。 美しい場所――人生における痛み、悲しみに向き合っていく上で、宗教の持つ力とは何でしょうか。 私は、キリスト教の信仰を持っています。今、宗教に対する偏見が大きくなっている中で、「信じる」というと、何か盲目的になったり、狭い世界に入ったりする、ネガティブなイメージを持たれがちです。けれど、私はそうではないと思うんです。「信じる」とは、「揺らがない」ことではなく、むしろ、「揺らぎ」の上に立っているのを自覚すること。それは、ある意味で、しんどい道です。心の宗教は「問」を手放さない。なぜ生きるか、なぜ死ぬのかといった、本当の問いは「答」がないものです。しかし、答えがなくても問い続ける。その不安定さを支えるのが「祈り」ではないでしょうか。その祈りの先には、自分のこと超えて、他者に開かれていく拡がりがあります。創価学会の皆さんも、「他者のために」ということを行動の動機にされている方が多いと感じます。他者という存在がなければ「自問自答のあい路(通行の難所)」に陥ってしまう。問いは「「他者からもたらされているもの」だからです。他者と出会わなければ、本当の意味で自分を知ることはできません。他者を視点にした真の問いは、より良く生きることを支えてくれるに違いありません。人は、痛みを分かち合い、苦しみを共有する中で、かけがえのない〝生涯の友〟になっていける。自分が決めたその場所で、誰かと共にあることで、生きる力を生み出していく。他者に向かって開いた分だけ、生きる意味や価値もまた、得られるのだと思います。人生の大半は、ありふれた暮らしの中に、小さいけれども、きらめく瞬間があってほしい。地震や原発事故で汚染されたというイメージをつけられてしまった地域だからこそ、私はここに美しい居場所をつくっていきたいのです。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.3.12
May 26, 2024
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誰もが演劇を楽しめるように障がいある人へ鑑賞サポートアートマネジメント学会賞受賞 兵庫県立尼崎青少年想像劇場(ピッコロシアター)広報専門員 古川 知可子 ピッコロシアターは、「2022年度日本アートマネジメント学会賞」を受賞しました。この賞は、文化芸術の現場の優れた取り組みを検証するもので、➀特別支援学会でのオリジナル公演②地域の外国人との日本人をつなぐ演劇ワークショップ③視覚・聴覚障がいのほうが舞台を楽しむための鑑賞サポート――の三つの社会包摂の取り組みが評価されました。その中で最も早い2015年から始めた鑑賞サポートでご紹介します。当シアターでは劇場附属の兵庫県立ピッコロ劇団の公演で、年数回、「音声ガイド」や「字幕」をつけて上演しています。音声ガイドは視覚障がい者に、舞台上の風景や俳優の動き、表情などを専用のイヤホンを通して音声で伝えるものです。字幕は聴覚障がい者に、セリフや音楽や効果音など、音の情報を文字文化にてタブレットや舞台上に表示して提供します。生の舞台公演に鑑賞サポートが付く劇場は、全国でまだごくわずかです。私たちのサポートの最大の特徴は、こうしたガイドを劇団員だ作製し、ライブでナレーションや操作を行っていることです。プルの俳優という強みを生かし、演出意図を酌み、作品の雰囲気にあったガイドが好評です。 当事者との対話や専門家の意見に学び たとえば12月に上演したピッコロ劇団ファミリー劇場『飛んで 孫悟空』の莫開きの音声ガイドは次のようなものでした。「舞台がパッと明るくなる。一面に広がる筋膜の砂漠布。さあ、旅の始まりです! ツアー客たちの登場。皆、軽快な足取り。希望に満ちた表情で辺りの景色を見まわします」。いかがですか? 開演のワクワク感が伝わりましたか?字幕にも劇団員ならではの工夫が凝らされ、大声で発するセリフは大きなサイズで表示し、俳優の縁起のニュアンスを伝えるために、「!」「?」「…」なども活用します。音楽も、作曲家から局のイメージを聞き取り、より雰囲気の伝わるように字幕を造ります。これらのサポートによって、県内の視覚・聴覚特別支援学校の皆さんも、演劇鑑賞を楽しみに来られます。子どもからシニアまで、この7年間で延べ400人の視覚・聴覚障がいの方が鑑賞されました。ただ、必ずしも音声ガイドや字幕が必要とは限りません。普段の催しに、どのような工夫や配慮があれば来場できるのか。これから取り組む劇場や演劇団体の関係者には、まず地域の関係団体や当事者グループに直接相談することをお勧めします。私たちも当事者の方との対話や専門家の意見から学びや発見を得て、サポートの改善を続けています。障がいの特性を知る研修から始めても良いでしょう。コロナ禍、生きづらさや閉塞感を抱えている方も多いと思います。障がいのある方もない方も、社会の中でさまざまな「障害」や「障壁」を感じていることでしょう。そうした経験が、気づきや想像力となって、お互いが思いやれる社会に向かうことを望みたいですし、鑑賞サポートの意義も考えていただければうれしいです。できることから、一歩ずつ進めていきましょう。(ふるかわ・ちかこ) 【文化】公明新聞2023.3.10
May 25, 2024
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どうにもならない状況の救いとなる「ネガティブ・ケイパビリティ」。まず、ネガティブ・ケイパビリティとは何なのか? この概念を作ったのは、イギリスの詩人ジョン・キーツ。「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指し、弟に宛てた手紙の中で1度だけ使ったとされている。恵まれているとは言えない家庭環境で育ち、身体が弱く、25歳でこの世を去ったキーツ。どうにも答えの出ない事態に向き合い続けた彼が、救いとした概念なのかもしれない。そして、キーツの死後から約160年後。第二次世界大戦に従事したイギリス人精神科医ウィルフレッド・ビオンが、心理臨床の場でこの概念を重視し広めたとされる。ビオンは、患者と接する時に、ネガティブ・ケイパビリティが大切な素養であると捉えた。「私はネガティブ・ケイパビリティを、どうにもならない状況でも、急いで答えを出さず自分なりの答えが現れてくるのを待つ力、と説明することが多いですね」と、ネガティブ・ケイパビリティを取り入れながら心理カウンセリングなどを行う松山淳さんは話す。評価されがちなのはすぐに答えを見つける「ポジティブ・ケイパビリティ」。逆の概念のポジティブ・ケイパビリティについても知ると、もっとネガティブ・ケイパビリティをイメージしやすいかもしれない。ポジティブ・ケイパビリティとは、「できるだけ早く答えを出して、不確かさや不思議さ、懐疑の中から脱出する力」、「問題に対してすぐに答えを出し『わからない』を『わかる』に置き換えていく能力」のことを指す。物ごとには答えがあり、それがスピーディに分かるのができる人であり優れた人である……。会社でも日常生活でも、私たちはポジティブ・ケイパビリティの方を評価しがちだ。「例えば、多くのビジネスパーソンが重視するロジカル・シンキングのフレームワークは、『わかる』ための効率的な思考ツール。会社では『わかる人は=できる人=優れた人』とみなされる傾向が強いことは、ひとつのあらわれです」。しかし、ポジティブ・ケイパビリティばかり重視するのは要注意、と松山さんは主張する。「世の中、1+1=2のように単純に理解できることばかりではありません。人間関係は特にそうです。人の心は複雑で奥深いものであり、上司が部下を、親が子を『わかっている』と考えていても、その『わかっている』ことは全体の一部にしか過ぎません。ポジティブ・ケイパビリティを重視して、わかったつもりになるのは危険。さらなる探求の機会を奪ってしまいます。答えや解決策を急がず、相手に歩調を合わせながら、ただゆっくり時間を過ごすというネガティブ・ケイパビリティの姿勢が大切なのです」。急がず何もせず耐えることも高く評価されるべき能力。日本人はネガティブ・ケイパビリティが高いと思う、と松山さんは分析する。「東日本大震災で世界を驚かせた礼節や寛容さ、高い忍耐力はまさにネガティブ・ケイパビリティです。日本は世界でトップレベルの自然災害が多い国なのが、ネガティブ・ケイパビリティが培われるひとつの要因だと考えます」。一方、教育やインターネットの影響で、一部の人のネガティブ・ケイパビリティが下がっているのが懸念されると続ける。「ポジティブ・ケイパビリティが高い評価を受ける教育、そして調べれば何らかの答えがすぐ手に入るインターネットの普及を背景に、ネガティブ・ケイパビリティを養う機会が少なくなっている人も増えているのだと考えます。何か苦境に陥った時、時間の経過に身を任せて上手な解決方法を考えるよりは、SNSで誹謗中傷をして自分のネガティブさを解消する人がいるのは、そのひとつのあらわれではないでしょうか」。ネガティブ・ケイパビリティを培うには、まず、急がず待つこと。何もせずただ耐えることも、高く評価されるべき能力だと理解すること。急いで答えを出して失敗した経験や、逆に待つことで成功した経験を書き出して内省すること。そして、ネガティブ・ケイパビリティを意識して行動してみることが大切だと、松山さんはアドバイス。「急ぎたくなったら、『人生には、どうしても時間のかかることがある』、『時間のかかることには、時間をかけるしかない』と言い聞かせてみてください」。不安は、人生を成功へ導く大切な感情。急いで解消せずに受け入れてみる。日本は不安遺伝子を持つ人の割合が、世界でも多いとされる。不安をマイナスととらえ、不安があると解消したくなるが、松山さんは「不安は、人生を成功へ導く大切な感情」だと話す。「不安のネガティブさにとらわれず、ポジティブな側面を理解してみて。不安があるから、人は準備をしリスクを回避できる。不安があるから大胆に性急に行動せず、ネガティブ・ケイパビリティを発揮できるのです。コロナ禍やウクライナ情勢、気候変動などのニュースが毎日流れる今は、不安や焦りがあって当たり前。不安や焦りはあっていいから、不安や焦りを感じながら、受け入れながら、仕事や家事など日々のするべきことを淡々としてみてください。それはとても尊いことです」。くよくよ悩むのも答えが見つからないのも、さほど悪いことではない。むしろ、安易な解決方法に飛びつくことなく色々と悩み続けるからこそ、見えてくるものがある。答えが出ずにイラっとするとき、不安を感じるとき、ネガティブ・ケイパビリティの概念を思い出してみるのはいかがだろう? 少し、肩の力が抜けるのではないだろうか。話を聞いたのは……松山淳アースシップ・コンサルティング代表、早稲田大学LRC(Life Redesign College)講師、研修講師 ・心理カウンセラー。2010年より、心理学者ユングの性格類型論をベースに開発された「性格検査MBTI®」を活用し、個人セッションや社員研修を行う。経営者、起業家、中間管理職などリーダー層を対象にした個別相談、社員研修、講演、執筆など幅広く活動。Editors:Kyoko Takahashi, Kyoko Muramatsu
May 25, 2024
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内戦下、無人の高層ビルで生きる作家 村上 政彦 アグアルーザ「忘却についての一般論」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザの『忘却についての一般論』です。作者は、アフリカ大陸・アンゴラ共和国の小説家ですが、アンゴラといってもピンとこない方が多いのでは? 私も本を読むまでは、国名を知っている程度でした。アンゴラは、400年にわたるポルトガル支配の後、1975年に独立を果たしました。しかしその後も国内の政治勢力の主導権争いが起こり、27年もの内戦が続いた。長い紛争で国も人も疲弊する。本作は、その時代を一つの物語にしています。登場人物の女性ルドヴィカ(ルド)は、良心を事故で失い、姉のオデッテの家で暮らしていた。やがて姉は偶然に出会った男性オルランドから求婚され、首都ルアンダの豪奢な建物〈羨望館〉の、最上階の部屋へ妹と引っ越す。「客間と屋上テラスは古式蒼然とした錬鉄製の急な螺旋階段でつながっていた。屋上からは街のほとんどを見渡すことができた。湾、島、そして更に向こうには波で編んだレースの合間に砂浜の首飾りが打ち捨てられていた。オルランドは屋上に庭園を造っていた。あずまやからはブーケンビリアが荒いレンガ造りの床に届かんばかりに咲き誇り、薫り高い紫色の影をつくっていた。ザクロの木が一本と、たくさんのバナナの木が植えてある一角もあった」オルランドは義妹ルドにジャーマン・シェパードの子犬を贈る。彼女はかわいがるが、この犬がパートナーになる。内戦が始まった。〈羨望館〉の住人は、次々に安全な国外へ逃れ、オデッテは夫に自分たちもアンゴラを離れようと言う。反対していたオルランドもリスボン行きを決める。翌日の夜、姉夫婦は国外へ逃れる知人の送別会に出かける。だが深夜になっても帰らない。翌日、ポルトガル軍を名乗る男から電話があり、「ブツを渡してくれれば、オデッテさんを解放する」と。ルドには何のことかわからない。混乱しているところへ、3人の暴漢が現れ、部屋へ侵入しようとしていた。彼女は義兄の隠していたピストルをドアにめがけて撃つ。ルドは身を守るために人を殺した。ここは安全ではない。オルランドはテラスに小さなプールを造ろうとしており、「セメントの袋や、砂、煉瓦」などが置いてあった。彼女は意を決してドアを開け、廊下に壁を造り始めた。建物のほかの場所と、自分の住居を隔てるために。壁は出来上がった。その日からだった、ルドが27年にわたって自分を閉じ込めたのは――。このコラムでは、これまでも様々な海外文学を紹介してきましたが、アンゴラ文学は初めてです。世界は広い。まだまだ面白い作品があります。【参考文献】『忘却についての一般論』木下眞穂訳 水平社 【ぶら~り文学の旅㉑海外編】聖教新聞2023.3.8
May 24, 2024
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ウェイン・ショーター 心を鋼のように鍛える グラミー賞の受賞は10回を超え、そのサックスの音色は多くの聴衆を魅了した。ジャズ界の巨匠にしてSGIのメンバーでもあるウェイン・ショーター死が、89歳で生涯の幕を閉じた▼東日本大震災が発生した後、氏は被災した方々を思い、メッセージを寄せた。その中で1996年に妻を飛行機事故で亡くしたことに言及。絶望のどん底にいた時、池田先生から「どうか人間の王者として生き抜いてください」との励ましを受けたことに触れた▼氏は悲しみを拭い、以前にも増して、演奏・作曲に情熱を注いだ。盟友のハービーハンコック氏は、ショーター氏が妻の訃報に涙する友人らを逆に励ましている姿を何度も目にした。「(ショーター氏は)自身の振る舞いを通して、日蓮仏法の信仰者としての真髄を示してくれた」と▼最愛の人をなくした中で、自分が励まされる側でなく、励ます側になる。それは心を鋼のように鍛えた人だからできることだ。「人間王者」の振る舞いであり、その根底には「師弟」がある▼逝去前、氏は次の言葉をつづった。〝使命を果たし続けるために、生まれかわるべき時が来た〟と。音楽で希望を贈り続けた氏の人生に学び、使命を果たし抜く人でありたい。 【名字の言】聖教新聞2023.3.7
May 24, 2024
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放出ゼロへ継続し戦略を採択尾松 亮 海洋汚染の削減課す条約OSPAR条約(1998年発効)は、放射性廃棄物の海洋放出のゼロを目指し、問題となる放射性物質の削減を締約国に義務付ける。締約国は定期的に放射性物質の海洋放出量を報告し、敬屋的に汚染削減技術の開発と導入に努める。しかし、98年に採択された「2020年までに放射性廃棄物の海洋放出を限りなくゼロにする」という目標(シントラ宣言)は、2023年現在でも達成できていない。今後締約国はなにに向けてどのような取り組みを行うのか。21年10月、ポルトガルで行われた会議において、締約国らは30年に向けた新戦略((北東大西洋環境戦略(NEAES)2030)を採択した。同戦略は、30年に向けた国連SDGs達成に向けた取り組みとして位置づけられ、生物多様性、海洋汚染、気候変動という三つの課題に同時に取り組む方針を示す。海洋関係における放射性物質蓄積をさらに減少するに際して障害となる問題を25年までに特定する、27年までに放射性物質流出を防ぐため追加対策を策定する、23年時点の報告結果を精査し28年までに海洋汚染の測定・評価法の問題を改善するなど、中間段階での目標も設定された。22年4月に開催された放射性物質小委員会では、上記の30年に向けた戦略の実現に向けた戦略の具体的な行動計画が審議されている。今後のさらなる汚染削減に向けて重要な課題の一つとなっているのが、分離処理の難しいとされるトリチウム汚染である。その前月に行われた小委員会会議では、スウェーデンと英国がトリチウム汚染削減のための利用可能な最良の技術」(BAT)の検討状況を報告した。それらの報告によれば、現時点で原発や再処理工場向けに商用利用可能なトリチウム除去技術は確立されていないが、トリチウムの発生それ自体を抑制する技術についての検討の必要性も提案された。また、同小委員会の議長を務めたノルウェー放射線・原子力安全庁のグウィン博士は「トリチウム削減に関わるBATや除去技術に関して最新情報を報告することを実行計画の中間目標に含める」ことを提案している。困難であっても締約国は「海洋放出ゼロ」という条約の理念を諦めてはいけない。(廃炉制度研究会代表) 【廃炉の時代―課題と対策―55】聖教新聞2023.3.7
May 23, 2024
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プーチン戦争の論理下斗米 伸夫著注目すべきオルタナティブ北海度大学教授 服部 倫卓 評 プーチン政権のロシアがウクライナへの全面侵攻を開始してから、1年余が過ぎた。この間、日本のマスコミでも、国際政治学者、ロシア・ウクライナ研修者などが連日登場し、解説を提供している。ただ、侵略の非道さが目に余るため、ロシア全否定の一面的な協調になりがちなことも否めない。本書は、まさにそうした現在主流となっている論調への注目すべきオルタナティブである。ロシアが歩んできた歴史的な背景と、プーチン体制の内部的な論理から、この戦争を説き明かそうとしている。著者は、社会主義から長くソ連~ロシアの歴史・政治研究をリードしてきた第一人者だ。プーチンその人との対話経験もある。本書では、歴史・宗教から説き起こし、国際政治、ウクライナ論、プーチン論、ロシアの近隣諸国外交など、あらゆる角度から今般の戦争への重要な視点を示している。此れだけ幅広い考察が、新書という手に取りやすい形で得られることは、意義が大きい。我々は、戦争批判は継続しつつも、時には立ち止まり、「本当にこれで正しいのか」と自らに問うてみることも必要だろう。そんな時、一つの座標軸となり得るのが本書であり、立場のいかんにかかわらず、必読の書といえる。その上で、評者の個人的な見解を申し上げれば、プーチンの戦争を理解する上で、歴史・言語・宗教といったアイデンティティの要因を過大視すべきではないと考える。むしろ、現代的なソフトパワーで完敗したプーチン・ロシアが、政治的思惑からアナログな価値観で国民を動員しようとし、ウクライナはその巻き添えになったというのが真相ではないか。本書では市幅を割かれていないが、重要なヒントは、2019年初頭に実現したウクライナ正教会のロシアからの独立だろう。ウクライナは、正教会という形でロシアと文化的ルーツを同じくしながら、現代の国民的選択としてロシアと袂を分かったわけである。◇しもとまい・のぶお 1948年生まれ。東京大学法学部卒、東京大学陀学院法学政治学研究科博士課程修了。法政大学名誉教授、神奈川大学特別招聘教授。専攻はロシア・CIS政治史。 【読書】公明新聞2023.3.6
May 23, 2024
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資本主義の精神を読む 次に小説を二冊取り上げてみましょう。一冊目は、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』です。1719年に刊行された冒険小説で、船乗りのロビンソン・クルーソーは航海に出たものの風雨に遭って難破し、ただ一人で島に漂着します。そこで、何とか工夫をして生き残り、救助されて国に帰るまでが描かれています。少年少女文庫に入っているような小説を、なぜビジネスパーソンにすすめる本として、挙げるのか、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、読み物として、孤島でのサバイバルを「疑似体験」するだけでも、ワクワクして楽しめます。しかし、今の時代に対応する知恵を探す意味でも、『ロビンソン・クルーソー』はとても役立つと思うのです。私が大学に入ったころ、経済史の大家から講義でよく言われたのは、このロビンソン・クルーソーこそが資本主義の始まりを体現する人物だということでした。主人公は南海の孤島に漂流して、やがて従者が一人できますが、まるで経営者のように自分ですべてをコーディネートし、必要なものや道具を生み出し、島での暮らし方や時間割を決めていきます。そして、あたかも労働者のように手足を動かし、工夫をしながら働きます。ここに資本主義の精神の原型が示されるというのです。実は、経済学者のマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、このロビンソン・クルーソーについて触れています。そのことから、資本主義の精神をよく知るためには、『ロビンソン・クルーソー』を読んでみなさいということだったのです。少し脱線しますが、このあたりの事情をもうすこし述べておきます。マックス・ウェーバーは、19世紀末から20世紀初頭を生き、20世紀最大の社会科学者と呼ばれた人物です。いまでは学生でも知らない人がいますが、学生運動が激しかった1970年代には、〝社会主義の神様〟と言われたマルクスの対抗馬として、社会主義批判のウェーバーが引っ張り出され、「マルクスかウェーバーか」で議論沸騰したほどです。いうまでもなく、マルクスとウェーバーは単純な二項対立で語ることはできないのですが、ともかくもマルクスに対抗しうる知の巨人だったことは疑いなく、ある人々からは〝聖マックス〟と奉られていました。ウェーバーは「資本主義」という巨大な社会システムについて、それがどのように始まったのかという「来し方」と、それがどのように発展、あるいは衰滅して、どこへ行きつくのかという「行く末」について、洞察しようとしたのです。また、ウェーバーの生きた19世紀末から20世紀にかけては、イマン所私たちの社会に見られるいろいろな価値観の原型が形成された時代でした。産業や科学技術のみならず、たとえば宗教かんとか、一夫一婦制の家族観とか、社会道徳、倫理観、平等な人間関係のルールとか、娯楽のあり方とか、今の私たちがスタンダードとしていることの大部分が彼の頃にはほぼできあがったのです。ウェーバーはそれに社会学という学問的な側面から対峙しました。資本主義というものは絶えざるイノベーションを必要としますから、これをベースとする社会は一時たりとも静止状態にはなりません。ということは、それに合わせて人々のほうも変化していかなければならないわけで、それができない人間は容赦なく取り残されます。そのような中で、人間はなにを失ってはならないのか、あるいは何を失わざるをえないのかを、ウェーバーは社会学の地平から見つめたのです。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと、人間の働くどうきが何によって形成され、どのようなプロセスによって高度な資本主義社会が実現したのかがわかります。考察の対象は西洋のキリスト教社会ですが、そうした個別の差異を超えた普遍的な真理をも、この本は語っています。働くという行為から魂が抜け落ちると、それは単なるスポーツと同じようなものになり、社会全体が暴走する機械のようになっていくというシナリオは、今の市場主導の資本主義を言い当てているようで、うならされるものがあります。 【逆境からの仕事学】姜 尚中Kang Sang-jung/NHK出版新書
May 22, 2024
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今年1月27日に逝去――永井路子と古河詩人 山本 十四尾 文学館の開設など 歴史文化の礎を築く 都心からJR宇都宮線に乗り約1時間で着く古河駅。よく質問されることは、古河はどんな町かと。私は即座に文学の町と答えるのを常としている。それはいまから190年前に雪の結晶・雪姿を観察し183種の雪片を雪華と名付け「雪華図説」を著した古賀城主の土井利位(としつら)を「雪の殿様」と愛称している町であり。1998年に茨城県で初の文学館である古河文学館の開館に尽力し、蔵書や自筆原稿さらに資金の寄付などをし、古河の歴史文化の礎となってくれた立役者で、かつ2003年に古賀名誉市民、2007年に初代古賀大使にもなっている永井路子を「さん」呼びをするほどの親しみをもって呼称している町でもありからです。 高校時代から見えた文学的な才能の片鱗 その永井路子さんが2923年127日に逝去された。享年97歳であった。永井路子さんは3歳のとき、つまり1928年に母親の実家である古河市に移住して以来、今の古賀第二高校から東京女子大にすすみ、卒業後古河に戻り24歳で結婚するまで古河で暮らしている。高校在学中に校友会誌「桃林十号」に「秋に感じたことどもの中から」という随想を書き、大学一年生のときには、「実朝の和歌政策についての時代的考察」を発表するなど文学才能の片鱗をうかがわせている。そして24歳のとき、1949年に歴史学者の黒板伸夫氏と結婚している。「永井路子の歴史小説の特徴は従来の歴史観にとらわれない独自の視点がある」との評があるのは、夫である黒板氏の歴史学者としての歴史観に影響を受けたと私は推考している。ちなみに黒板氏は2015年5月に92歳で逝去されている。このことを考えても無理のない推考であろうと思われる。結婚を機に永井さんは小学館に入社に「マドモアゼル」の編集に関わりながら、司馬遼太郎、黒岩重吾らの同人誌「近代説話」に参加している。1962年より鎌倉に移住して40年の間に、実に多くの文学賞を受ける活動をしている。この期間の事績は別の機会にゆずるとして、古河における永井さんは古河歴史博物館開館5周年記念特別展示として、「土井の殿様」の雪の華の模様の世界について、エッセーを書いている。これは名文で、全国の永井路子愛読者にご一読をおすすめする。そして2009年10月には古河文学館テーマ展記念講演会で『「岩倉具視」でいいたかったこと』を講演している。このように永井路子さんと古河のつながりは、その年齢を考えるとき天命だったともいえるものの市民は深い哀悼の意を表している。古河文学館では追悼コーナーを2月10日に設置した。10月28日から2月24日まで特別展「追悼 永井路子―透徹なる歴史への眼差し」を開催する。その前に6月24日~8月20日「『岩倉具視』――永井路子の描く幕末維新史』、8月26日~10月22日「原画でたどる永井路子『茜さす』」、2024年1月5日~3月17日「永井路子 珠玉の短編作品」などを企画している。かつ永井路子展は展示室で通年展示されていることも付記しておきたい。なお、永井路子さんの古河での最後の公演は、013年の企画展記念「歴史現象としての女性―女性の果たした歴史的役割」であった。全国の永井路子さんの歴史小説を愛読して下さっている人たちに、ぜひ旅行を兼ねておいで下さりたく、ここにご案内させていただく次第である。(やまもと・としお) 【文化】公明新聞2023.3.5
May 22, 2024
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逆境に折れそうなときに読む本 それでは、この不確実な時代にこそ、ビジネスパーソンの皆さんに一度は読んでいただきたい、おすすめの書籍を五冊挙げてみることにします。いずれも古典、すなわち「干物」であり、一見するとビジネスに直結するように見えない本も含まれていますが、それぞれの本に対する私なりの視点も示しておきますので、読み解くときのヒントにしていただければと思います。まず最初はヴィクトール・フランクルの「それでも人生にイエスを言う」です。フランクルは1905年にオーストラリアのウィーンで生まれた宇田屋人で、のちに精神科医として活躍をしました。もしかするとこの本よりも、ナチス強制収容所での体験をした「夜と霧」をご存じの方が多いかもしれません。「それでも人生にイエスを言う」という書名だけを聞くと、単純に人生を礼賛する本のように思えるかもしれませんが、これは強制収容所で歌い継がれていた歌の題名なのです。つまり、明日をもしれない絶望的な状況におかれているときに、ユダヤ人たちは「それでも人生にイエスを言う」と歌ったのです。フランクルはそれをあえて書名に使って、逆境に耐える生き方を私たちに示してくれていると言えます。序章でも触れましたが、熊本大地震の震災の現場を見ると、やはり個人の力ではどうしようもないものが頻繁に起きる時代に成っているように感じます。リーマンショックなどの世界経済の混乱も然りです。予測しがたいことが、自然でも人間の社会でも生じやすくなっていて、それが一人ひとりにとっては逆境という形で人生に降りかかってくるかもしれないのです。そうした逆境にどう向き合うのか。ただ乗り越えるとか、打ち克つということだけではなく、あえて強い言い方をすると、〝サバイバー〟になってほしいのです。それは単に自分の長い人生の中に位置づけ直して前向きに生きていくことだと思うのです。「それでも人生にイエスを言う」の全体を貫いているのは、人間は意味を求める存在であり、人生とは生きる意味と価値を求めるという考え方です。しばしば「人生には意味がない」という人もいますが、そういう発言をすること自体、意味を求めていることの裏返しかもしれません。たとえばですが、がんで余命数年と宣言されても、そうしても生きていなければならないと思えるほど、その期間を超えてしばしば生きのびることができるほど、人生は意味を求める存在なのです。フランクルは、それをニーチェの「力への意志」をもじって、「意味への意志」と呼んでいます。この意味が枯渇したときは、人間はいとも簡単に死に絶えてしまいます。それに近い体験をフランクルは強制収容所でしています。彼は健勝な人たちが、収容所に入れられたとたんに生きる意味を失って、早く死んでいくのを目撃しています。フランクル自身は小柄で、どちらかというと華奢な人ですが、収容所を何か所も転々としたにもかかわらず、どういうわけか生き残ったのです。本の中で、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。今ではもう、『人生は私に何を期待しているか』と問うだけです」(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)という一節が出てきます。大切なことは、人生の不遇を嘆くのではなくて、自分に課されたものを自らに問いかけ、それに応えていくことであり、それが生きることだというのです。課される内容は、人それぞれ異なります。本の中でも、洋服屋の店員である一介の青年が、自分の仕事など取るに足らず、意味が見いだせないということを述べます。そのときフランクルは、「重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。(中略)各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれもがそうです」と応えています。つまり、あらゆる職業に、それぞれ大きな責任が課せられているのです。そしてそれに気づいた人は、その大きさに身震いするけれども、なにかしら喜びを覚えることができるのです。この本はビジネスにすぐ役立つハウツーや生き方を示した本ではありません。しかし、今後ビジネスパーソンが社会の中で葛藤したり、深く思い悩んだりすることがあったときに、まちがいなく慰めになると思います。私もこの本からずいぶん教えられ、つらく長い歳月に耐えられたという経験があります。とても厳しいことを言うようですが、今後、右肩上がりの高度成長期が長時間持続するといった、幸福な時代はもう二度とやってこないでしょう。生活の浮き沈みが激しく、困難な事態にいつ陥るかわかりません。そういう不安と向き合いながらも、仕事や自分のミッションを成し遂げていくには、逆境に耐えられる何かが土台にならなければなりません。フランクルのこの本は、仕事の最もベースになるべき、〝自分にとっての仕事の意味〟についての答えや、励ましを与えてくれたのです。 【逆境からの仕事学】姜 尚中Kang sang-jung/NHK出版新書
May 21, 2024
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時代に対応する術を学ぼう 読書の効用として最初に挙げられるのは、本を読むことによって、自分の置かれた状況を正しく理解したり、新しいアイデアのヒントを得たり、あるいは失敗の原因を探ったりする際にたいへんに役に立つということです。オーソドックスな発想かもしれませんが、とりわけ、いまは明日の見えにくい「不確実な時代」ですから、未来予測まではできなくとも、万一に備えるための準備として、過去のさまざまな事例を本から学んでおくのがいいと思います。時代というのは、たえず移り変わっていくものですが、その流れを見ていると、ことさらに大きな変わり目が、何年に一度、十年に一度いう単位で現れることに気づかされます。電車の軌道を切り替えるポイントを「転轍」と言いますが、そのような転轍が、ときおり歴史の中にもあるからです。今の日本社会は、まさに転轍の最中にあるように感じます。何度か申し上げたように、学歴社会モデルから個人経験モデルへの大転換が起きているからです。厳し社会を生き抜いていくビジネスパーソンは、このような路線変更をいち早く気づき、その意味を正しく見抜く必要があります。そして、それに臨機応変に対応できなければなりません。世の中の動きに敏感であろうという思考は、私はおそらく普通の力よりも強く、若い頃から習い症になっていた気がします。それは自分の出自にも関係していて、世の趨勢しだいでどう変わるかわからない身の上なので、常に安閑としていられず、ややもすれば疑心暗鬼になって社会を見つめるくせがついたのではないかと思います。しかし、いまやこれほども、予測不調和な時代ですから、不安になるのはみな同じです。社会を見る目をつけるためにも、できるだけよい本をたくさん読んでください。本の中には、同時代では的外れのように思え、何十年か経ったのちに正しかったことが分かるものもあります。逆に、リアルタイムでは時代をたいへん言い当てているように見えながら、わずか数年で古びてしまう本もあります。私たちはその辺りを見る目もしっかり養って、「今だけの流行りのもの」と「普遍的な真理を蔵しているもの」を見分ける必要があるのでしょう。そこを鍛えて、10年先、20年先の肥しとして、自分の中にしっかりストックしていきたいものです。 【逆境からの仕事学】姜 尚中kang sang-jung/NHK出版新書
May 21, 2024
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命をかける命をかける覚悟がなければ成功は期しえない 松下幸之助のそばについて七年ぐらいの頃だった。西宮の家の茶室で二人でお茶を飲んでいた。当時の私はまだ緊張しており、松下の隣でじっとしていた。それまでわりとやさしく話しかけていた松下が、そのときは、いささか厳しい表情で、「心を許して遊ぶという言葉があるやろ。しかし、心を許して遊ぶ人は、経営者にはなれへんで。心置きなく眠る人もいるやろ。そういう人も経営者たる資格はないな」と、つぶやいたのである。私が、経営者といえども人間だから、たまには遊んでもいいのではないですか、と尋ねると、「信長は酒を飲んでいる隣国のことは忘れなかったという。命をかける覚悟というものがなければ、経営者になるべきではない」と強い口調で言った。まだ若かった私は「そんな厳しいものですか」という返事をするのが精いっぱいであった。しかしその言葉の鮮烈な印象は、以後消えることはなかった。会社にいるときは当然のこと、たとえテレビのCMを見るときでも、この辺りは看板が少ないから自社製品の売れ行きは悪いのではないかと、常に真剣な注意を払って経営に結びつけていた。そしてヒントを得るとすぐに実行し、成功させていた。経営者は、数人、数百人の社員とその家族の生活を、ある時は生命すらをも左右する存在である。だとすれば、「経営者は経営者は仕事に没頭し、人生から仕事を引いたらゼロになってもいい」という覚悟と実践がなければならない。そしてまた、それだけの価値があるものだということを松下は提言し、経営のために命を落としても、それは本望であると考えていた。そうことでは身が持たないという人は、およそ経営やになるべきではないのだ。一つの会社の中で税因果そう考えるべきだとは言わない。少なくとも会社の最高の指導者になった人たちは、その覚悟がいる。ほかの社員と同じように、遊びに行きかす、休みも取ります、ということではどうにもならない。「先憂後楽という言葉があるやろ。せめて一つの組織の最高指導者ぐらいは、先憂後楽の心掛けで、その会社に命をかける思いがなければ、経営はうまくいかんね。みんなと同じように、遊びとか安見とか言っておって、なおかつ経営が成功するなどということはありえないことや。経営というのはそんな簡単なものではないわ」およそ経営者たるものは、人より先に憂い、人よりも後に楽しむということでなければならない。人が遊んでいても自分は常に働いている。遊んでいるようでも頭は常に働いている。先憂の志があればそうなるのである。先憂を広義に解釈すれば、発意ということにもなる。誰よりも先に発意し、案ずるものを持たなければならない。ある講演では次のように話した。「自分はこの仕事に命をかけてやっているのかどうかというと、これまで困難な問題に出くわすたびに自問自答してきました。そうすると、非常に煩悶の多い時に感じることは、命をかけるようなところがどうもなかったように思われるのです。それで、心を入れかえてその困難に向かっていきました、そうすると、そこに勇気がわき、困難も困難とならず、新しい創意工夫も次々と起こってくるのです。そういう体験をたくさん持っています」そして指導者が、自分はみんなのために死ぬという覚悟を、部下のために死ぬという覚悟を持っていれば、それはみんなにわかるものである。それがなければ、みんな心から敬服してついていくということにならない。秀吉が毛利と戦ったとき、高松城を水攻めにした。長大な堤を築き、近くの川にミスを流し込んで城の周囲を湖と化したのである。秀吉の大群に囲まれ、水のため援軍の手も断たれた高松城では、食料も尽き果て、城兵は正を待つのみという状況に陥った。そのとき、城の守将である清水宗治は、自分の首と引き換えに城兵の命を助けるという、秀吉の講和条件に喜んで応じた。そして、みずから舟をこぎ出し、敵味方の見守る中で、従容として切腹したと伝えられている。部下の命を救うということが、戦国の武士としての一つの心構えだったのである。よく「一将功成りて万骨枯る」ということがいわれる。しかし、ただ何もなくて万骨が一将のために命を捨てるものでもないだろう。そのうらには、清水宗治のように、戦いに利あらざる時は、責任を一心ににない、自分の命を捨てて部下の命を助けるという対象の心意気というか責任感があって、それば部下をして神妙を賭してまで働かせる力になったわけである。このことは今日の指導者にも基本的に通じることだと思う。幸い今日の時代においては、実際に命を取られるということはめったにない。しかし、いわばそれほどの思いをももって事に当たらなければ、成功は期待し得ないのである。 【成功の法則「松下幸之助はなぜ成功したのか」】江口克彦著/PHP
May 20, 2024
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魚介類に寄生するアニサキス食中毒発症の恐れ 日本人の食卓に欠かせない〝海の幸〟ですが、寄生虫の「アニサキス」には注意が必要です。アニサスキが規制した魚などを食べると、食中毒を発症する恐れがあります。症状の特徴と予防対策を国立感染症研究所の杉山広客員研究員に解説してもらいました。 胃腸に刺さり激痛 起こす サバやサンマ、サケ、カツオ、イカなど日本人になじみ深い魚介類には、アニサキスの幼虫が寄生している場合があります。体長約2~3㌢で糸くずのような形をしていますが、生きたまま人間の体内に入ると、胃や腸などに刺さって激しい痛みや嘔吐といった食中毒症状を引き起こします。これは、アニキサスが寄生した刺身やすしを加熱や冷凍が不十分なままで食べることが原因です。 十分な加熱・冷凍の予防処理をアニサキスが侵入しても痛みを感じない無症状のケースもありますが、まずは魚介類をおいしく安全に食べるためにも、きちんと予防することが重要です。十分な加熱、あるいは冷凍処理でアニサキスを死滅させてください。加熱の場合、60度で1分以上焼いたり煮たりすれば死滅します。冷凍はマイナス20度で24時間以上が目安です。アニサキスの多くは魚の内臓に寄生するといわれ、死んだ後に魚の内臓から身に移動します。できるだけ新鮮な魚を買うか、自分で釣った魚はすぐに内臓を除去し、内臓を生で食べるのもやめてください。もし、魚を食べて数時間ほどで腹痛を感じたら、すぐに医療機関を受診しましょう。 国立感染症研究所客員研究員 杉山 広氏厚生労働省によると、アニサキス食中毒の患者数はここ数年、年間約400人で推移していますが、私が独自の方法で調査したところ、実態は年に約2万人に上ることが判明しました。厚生労働省の統計の約50倍です。過去にも同様の調査を実施した際は7000人だったので、患者数は年々増加していると推測されます。 患者数年間2万人も 増加理由として流通技術の発達に伴い、生で食べられる魚の種類が拡大したことが挙げられます。例えばサンマの刺身です。かつては漁獲された地域でしか食べられませんでしたが、現在では都内の飲食店でも気軽に注文できます。海洋環境の変化も見逃せません。アニサキスには種類があり、主に太平洋側の魚に多き寄生する「S型」と日本海側の「P型」に分かれます。S型の場合、内臓にとどまらず身にも移動することが判明しています。このため、S型が食中毒の主な原因になりますが、最近では日本海の魚からもS型が発見されるようになりました。地域に限らず、基本的な予防対策を実施することが重要です。 【健康プラザ】公明新聞2023.2.28
May 20, 2024
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ノンフィクションを読むノンフィクション作家 木村 俊介 時代を考え直す面白さ書き手の解釈から新たな視点を提示 ノンフィクションの面白さの一つは、今という時代を考え直せるだけの奥行にある。私自身、現在もインタビューで人と会い続けながら、この三年ほどは大学の専任教員として学生への取材を方法やノンフィクションの読み解きについて伝えていると、改めてそう思う。なぜか。声を聞いてまとめたり、初学者にジャンルを話したりすると痛感するには、ノンフィクションが本質的に抱える中途半端な弱さだからだ。同じテーマについて何百人もの動向を探る範囲で人物や出来事あたるに過ぎないノンフィクション作家が導く結論は、ほかない。情報として何かを広く大量に知り尽くすことはできない。しかし、書き手の夏季ぶりにゆだねられる、現実を受け止めた上での狭くとも深い解釈だけでならば、世の中の陰影を捉え直す新鮮な視点を提供しているのではないか。中途半端で弱い個人だからこそ、人物や出来事と決定的にめぐりあい、引き返せないほど沈潜した歳月のうるおいを活写できる。その点で、一九七九年から二〇一四年までのラップ・ミュージックの変貌を一年一曲ずつ記した『ラップ・イヤーズブック』(シェイ・セラーノ著、小林雅明訳/DU BOOKS)は音楽に沈溺するように歩き続けた個人による見事な、ある世界の報告書になっている。観察者や報告者は、一人で現実を大きく動かせるわけではない。いわば、「冷静な奴隷」のように変えられない現実を描き、社会において浮いてこぼれた暇人として機能するに留まる。そうであるがゆえに、制度や経済がうまくいかなくなり、壊れや崩れが隠せなくなった今の時代を別の角度で考え直す補助線にもなりえるのだ。そうした補助線は、『ラップ・イヤーブック』のように今に近い、現在進行形の出来事に対して記されものばかりでなく見つけられる。うんと過去のノンフィクションからも再解釈できるのだ。その身たてからすれば、一九五九年にアメリカの南部で起きた殺人時間を記した『冷血』(トルーマン・カーボディ著、佐々田雅子訳/新潮文庫)は現在においても、ものを見るとは何かについて十分に刺激を与えてくれるノンフィクションである。描かれるのは、一家惨殺事件の被害者たち、近隣の人々、加害者たち、捜査員たち、裁判関係者達、刑務所内の人々のみならず、それぞれの人物が生活を営む場所についてだ。本の中に残され、託されているのは、人間や事実はこのようにも丁寧に描きうるのだという挑戦だと思う。書かれた当時は大きな事件だったはずだったが、犯人の異常性だけをあぶり出すといった短絡差がない。目立たない人々や町の風景も含めて実に平等に深く、人間やこの世界そのものが醸し出す時間の流れを描き込む。その姿勢は、こういうものの見方はいつだってできるはずだという大きな問いかけとして、私たちに開かれているのである。(きむら・しゅんすけ) 【文化】公明新聞2023.2.27
May 19, 2024
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コペルニクス的転回今年は天文学者コペルニクスの生誕550年。彼の著書『回転について』が刊行されたのは、70年の生涯を閉じる1543年だった▼当時、宗教的権威を背景に誰もが地球を宇宙の中心とする天動説を〝常識〟と信じていた。彼が提唱した地動説は〝非常識〟であった。「コペルニクス的転回」とあるように、地動説が常識の現代から振り返ると、彼の業績は天文学の分野にとどまらず、人類の思想や思考における大改革に多大な影響を与えたことが分かる。▼日蓮大聖人は、庶民を代表とする一切衆生の幸福のために仏法を確立し、「人間のための宗教」の哲学と実践を流布された。ゆえに権力者から迫害に次ぐ迫害を受けた(略)▼池田先生は語る。「人々の心に巣くっていた古い『常識』が打ち破られ、新しい『常識』が生き生きと語られ始めるとき、時代は変わり、世界は変わる」。生命尊厳の哲理を確信を込めて語り、時代精神に高め、地域を、世界を変えていきたい。そのための対話へ、まず自分から一歩を踏み出そう。 【名字の言】聖教新聞2023.2.25
May 19, 2024
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豊かな「人格の薫り」放つ人に悦ばしいかな、汝、蘭室の友に交わって麻畝の性と成る。〈立正安国論〉新43・全31 〈通解〉なんと悦ばしいことだろうか。あなたは、薫り高い蘭室の友に交わって感化され、麻畑に生える蓬のようにまっすぐな性質になった。 花に芳しき香りがあり、人にも人格の薫がある。慈悲の祈りから発する誠実の振る舞いや真心の言葉は、馥郁と相手の命に染み渡り、その心も香しく変える。家庭も職場も地域も、「蘭室の友」を広げる舞台だ。妙法の当体蓮華の生命をありのままに薫らせ、信頼の共鳴をすがすがしく! ここに立正安国の実像がある。 【御書と未来へ池田先生が贈る指針】聖教新聞2023.2.25
May 18, 2024
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「人の営み」描いた――池波正太郎 生誕100年江戸情緒と庶民の哀歓今年は、時代小説を中心に人々の哀歓を描いた池波正太郎の生誕100年に当たる。池波正太郎といえば、何度もドラマや映画になった『仕掛け人・藤枝梅安』や『鬼平犯科帳』、『剣客商売』のいわゆる3代シリーズで知られるが、『真田太平記』や『雲霧仁左衛門』などの長編小説。歴史上の人物だけでなく市井の庶民や下級武士などを描いた短編小説も数多い。ダンディズムあふれる含蓄深いエッセーも魅力だ。昨年末にはNHKが生誕100年を記念し晩年の大作『まんぞくまんぞく』を若手実力俳優陣でドラマ化し、池波人気の健在ぶりを示した。東京都台東区は区立中央図書館内に「池波正太郎記念文庫」と設けている。遺品や原稿、台本、絵画などを展示し、区民や今なお多いファンに親しまれている。『真田太平記』の舞台となった長野県上田市には、「池波正太郎真田太平記館」もある。池波は1923(大正12)年、東京・浅草の生まれ。小学校を出ると、株式売買の使い走りとして社会に出た。幼少期に人情味と江戸情緒のある東京の下町で過ごしたことに加え、〝株屋の小僧〟として、さまざまな階層の人々と接したことが、後の創作に大きな影響を及ぼした。池波自身は「私の故郷は誰がなんといっても浅草と上野なのである」と語っている。戦後、都の職員として下谷区役所(現・台東区役所)に努めながら戯曲などの習作を始めた池波は、『一本刀土俵入』をはじめいわゆる〝股旅物〟の小説や戯曲で知られる長谷川伸に師事、創作活動に取り組んだ。時間に厳格で几帳面、原稿の締め切りも守った作家としての姿勢は、時間のない中、自らを鍛えた日々が形作ったのかもしれない。その後、60(昭和35)年に『錯乱』で直木賞を受賞し、その後3代シリーズなどで人気を不動のものに。77(昭和52)年には吉川英治文学賞を受賞、90(平成2)年に惜しまれながら67年の生涯を閉じた。池波正太郎記念文庫によれば、池波作品の普遍的なテーマは〝人の営み〟にあるという。 悪への怒り 大きな力に3代シリーズに即していえば、『鬼平犯科帳』の主人公・長谷川平蔵は江戸幕府の火付盗賊改方長官として実在した人物だ。正義感に富む一方で懐が深く、酸いも甘いもかみ分けた魅力ある理想的なリーダーと言える。『剣客商売』では一線を引き隠居生活を願っている主人公・秋山小兵衛が、さまざまなゆくたてから頼りにされた事件に巻き込まれてその解決を図るというヒューマンドラマが描かれる。『仕掛人・藤枝梅安』は、針医者を表の顔とする主人公が、裏では仕掛人という暗殺者。いいことをしながら悪いことをする矛盾を内包する〝性(さが)〟ともいうべき人間の不思議さを提示している。このことを池波は他の作品の登場人物にもしばしば言わせており、池波作品の大きな命題ともいえる。さらに、庶民のささやかな暮らしを踏みにじる理不尽な悪への怒りも作品のバックボーンになっている。池波正太郎記念文庫では今年一年をかけて、生誕100年を記念した展示や講演会、講座などを開催していく予定だ。 【文化】公明新聞2023.2.24
May 18, 2024
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本来の仏教日蓮の〝立正安国〟は、本来の仏教だけでなく、『貞観政要』にも則って主張されていたのだ。そのすべてに一貫しているのは、「国主は、どこまでも人民のために奉仕すべきである」という主張であった。ところが、日本において、仏教は当初から鎮護国家の仏教として受け容れられ、貴族仏教の性格が濃く、人民への共感は乏しかった。戸頃重基博士の表現を借りれば、「鎮護国家の名の天皇制祈禱仏教」「貴族趣味や武家好みの、人民搾取の象徴にすぎない豪壮華美麗な殿堂伽藍仏教」(『日蓮教学の思想史的研究』、二三六頁)ということであった。それは、仏教が、朝廷や幕府と癒着の関係にあったということでもある。中村元博士が、日本の仏教需要の仕方について、所詮はシャーマニズムの城を出ることがなかったと指摘されていたことを、先の『兄弟抄』の解説(275頁)で紹介しておいたが、それはそのことであろう。日本仏教は、伝来当初から鎮護国家のための祈禱を行うことが中心の貴族仏教であったと言えよう。「皆成仏道」(皆、仏道を成ぜん)を説く『法華経」の平等思想に注目していた伝教大師最澄が開いた比叡山ですら貴族仏教の域を出ていない。天台座主になった人の出自を見ただけでも、それが分かる。塩入亮忠著『傳教大師』に寄せた序文で、時の内閣総理大臣・近衛文麿(一八九一~一九四五)は、「比叡山の座主には皇子が六十五名方、宮家が七方、藤原家出身が四十八人、其他六十余名が座主に補任されたと聞いているが、近衛家からは五人の天台座主を出し、其他六名程天台の門跡に任ぜられている」と記している。門跡とは、皇子、皇族、貴族が住職を務める寺院、あるいはその住職のことで、最高の格式ある寺院とされた。もちろんインド、中国ではありえないものである。インドでは、出家前の身分は全く無関係であった。『法華経』提婆達多品には出家した王が奴隷となって師に仕える話が出てくる。戸頃博士が「祈禱仏教」という言葉を使われているように、本書の巻末に掲げた年表を見ると、鎌倉幕府も、朝廷も、なすすべもなく、疫病などの災害や、蒙古の調伏の祈禱をやらせている。釈尊は、迷信やドグマを徹底して排除し、神通力のように神がかり的なことを嫌悪していた(拙著『仏教、本当の教え』第一章を参照)。原始仏教の『ティーガ・ニカーヤ1』には、 ケーヴァッタよ。私が神通力を嫌い、恥じ、ぞっとしていやがるのは、神通力のうちに患いを見るからである。 (中村元訳) と語った釈尊の言葉が記されている。護摩を焚いて行う祈禱の儀式についても釈尊は「堕落した祭儀」と称し、 このような畜生の魔術から離れていること――これが、その人(修行僧)の戒めである。 (同) と語っていた。本来の仏教は、祈禱や神通力などを排除していたのだ。ナガールジュナ(龍樹、一五〇頃~二五〇頃)が、政治の在り方を南インドのシャータヴァーハナ王に説いた『実行王正論』には、呪術的な要素は全く見られない。災害時の王への提言を見ると、 災害・流行病・凶作などで荒廃している人々の救済に寛大に取り組んでください。田畑を失った人には種子や、食べ物を給し、租税を減免してください。盗賊を取り締まり、資産を平等に、物価を適正にしてください。 といった言葉が列挙されていて、災害時の対応として、どれを見ても現実的で具体的な提言に満ちている。これまで見てきた日蓮の手紙を見ても、種々の困難な状況に立たされた富木常忍や四条金吾、池上兄弟に対する教示には、呪術的要素も、祈禱のようなものの欠片も見られなかった。極めて現実的で具体的なアドバイスであった。〝立正安国〟とは、正法を立てて国家、国民、国土の安穏、平和を実現することだが、その〝立正〟を呪術的、シャーマニズム的にとらえてはならない。平清盛をはじめとする平家一門が、その繁栄を願って『法華経』を書写して、当時の工芸技法の粋を尽くした装飾を施して厳島神社に奉納した平家納経のようなことが大事なのではない。『法華経』は、経典という〝物体〟に意味があるのではない。芸術的に装飾を施すことも、本質からズレている。そこに説かれている思想が重要なのだ。すなわち、〝立正〟とは、『法華経』という正法を人々の生き方に反映し、確立するということが重要なのである。『法華経』は、釈尊入滅後五百年経ったころに編纂された。その後百年間に本来の仏教からズレが生じ、道理に反する仏教の装いで語られるようになった。『法華経』は、そうしたズレに対して、「原始仏教の原点に帰れ」と主張している。在家や女性を軽視する差別思想や、神がかり的な救済、権威主義などを廃し、人間の尊さ、平等を訴え、〝今〟〝ここで〟この〝我が身〟を離れることなく、人間対人間の関係性の中で自他共に目覚め、あらゆる人に安寧と幸福をもたらすために説かれたのが『法華経』であった(詳細は、拙著『法華経とは何か』を参照)。 【日蓮の手紙】植木雅俊訳・解説/角川文庫
May 17, 2024
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和室の魅力奈良女子大学教授 藤田 盟児 日本人にとって過ごしやすい空間 均質的で外とつながるかつて当たり前のように存在していたけれども、今や絶滅危惧種と化した「和室」。日本人にとって身近な存在だけに、「何が和室なのか」など、よく分かっていないことが多い。そこで、ふるまいに注目し、和室について考えた『和室礼賛』(晶文社刊、日本建築和室の世界遺産的価値研究会著)の編さんに携わった。「和室って畳敷きの部屋でしょ」と、よく言われる。畳があるのは和室の一つの条件ではあるが、畳があればいいというものではない。ヨーロッパの宮殿に畳が敷かれている様子を想像してほしい。これを和室と呼べるだろうか。確かに、畳を敷くことで、和室的な使い方ができるようになる。しかし、同じような使い方ができれば、畳でなくてもいいのだ。和室であることの条件がある。まず壁。少なくとも1面は外に抜けていることが大切。それも小さな窓ではなく、掃き出し窓のように、床面から上まで解放できること。もう一つは、天井が水平であること。床面と天井が水平で、畳のようにどこでも寝られるような部屋だと、どこも均質な空間になる。ヨーロッパや中国では、部屋の中に中心的な部分があるが、和室では空間に区別があってはいけないのだ。だから、和室の基本と言われると、部屋の中が均質で、外とつながっていること、もしくは、外の自然が感じられるように作られた空間ということになる。畳にしても、これを実現するために都合がよい座具だったということなのだ。 冬寒いが夏は気持ちいい「和室礼賛」では、「座る」「会う」「核」「転がる」「食べる」「寝る」など、〝ふるまい〟に焦点を当てて、和室について考えている。日本人が室内で行う全てのことができるのが和室。読んでもらえれば、こういうこともできた、ああいうこともできた、と納得してもらえるかと思う。実は、こういう空間が日本人には必要なのだ。和室の研究者として自ら体験しなくてはなくてはとの思いから、10年前から大正時代の古民家に住んでいる。それでも、冬は寒いので、高気密高断熱の建物を増築し、イスとテーブルで過ごせるようにした。すると子どもたちは、夏には和室で、冬になると暖かい部屋で過ごすようになった。昔の家は「夏をもって旨とすべし」といわれるように、暑さ対策に特徴がある。住んでいても、この家は大きな木のようだと感じる。だから、夏でも運動しない限りは、薄着でうちわ程度があれば十分。クーラーどころか扇風機さえ使わないで済んでいる。冬の寒ささえしのげたら、和室というのは最高に気持ちがいいのだ。機構さえ許せば、誰もが和室で過ごしたがる。長年建築家として見てきたが、ソファーのある生活に憧れて、椅子とテーブルを中心とした部屋に住んだとしても、そんな生活は5年と持たない。そのうち、床にこたつをおいてゴロゴロし出す。畳敷きではないのに、床での生活に変わっていく。でも、これは日本人だからしょうがないことだと思う。 根本の文化は変わらない日本人が暮らしやすい空間かどうか。これは感性の問題だから非常に言語化しにくい。実際、和室より椅子の生活のほうが楽だと思う人も多いだろう。しかし、これは生理的な快楽にすぎない。そうではなく、感性的な満足が得られるかどうかが重要なのだ。砂漠で暮らす人の家は、和室とは異なる。ヨーロッパにしても和室ではない。どうして家の形が違うのか。根本にあるのは、そこに暮らす人々が、その場所の自然環境に対してどう思っているかによる。日本人は、自分たちは自然の一部であり、自然に生かされていると感じている。だから、窓を開放して、自然とつながれる場所がないと落ち着かない。砂漠で暮らす人は、自然は試練だと感じる。その感覚が、自然に対抗するための壁に囲まれた頑強な家を求めるのだ。こういった感覚は家の形だけでなく、言語や人との関係などにも影響する。日本という環境で暮らし、日本語を話している限り、根っこの部分、文化は変わらないのだ。だからこそ、休みになると山に出かけていく人は絶えないし、家庭菜園をやろうという人も絶えない。桜の季節には浮かれてしまうのも、昔から変わらない。もちろん、日本の文化から生まれる創作物は、時代や技術とともに変化していくもの。畳や襖などの建具は変化するかもしれない。しかし、和室での暮らし方は変わらないように思う。何といっても、和室での生活は気持ちがいいのだから。 =談 ふじた・めいじ 1960年生まれ。奈良女子大学教授、工学部長。広島国際大学教授などを経て現職。専門は中世の住宅史。共著に『建築の歴史・様式・社会』『日本建築様式史』などがある。 【文化Culture】聖教新聞2023.2.23
May 16, 2024
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とっておきのリメイク映画作家 一色 さゆり 映画には、リメイクというのが多くある。考えてみれば、芸術作品には、そもそもリメイクが多い。たとえば、「ヴィーナスの誕生」という神話の題材ひとつとっても、ビッティチェリやカバネルなど、世代や地域を越えて、繰り返しリメイクされてきた。リメイクの面白さは、第一に、つくられたお国殻や時代の価値観が、如実に表れることではないだろうか。もちろん、題材に対する作り手の解釈の違いなども、大切な見どころだろうけれど、同じストーリー、同じキャラクターだからこそ、それぞれの土地柄や時代性が浮き彫りになる。それこそが、リメイク見比べの醍醐味だと思う。そんな楽しみ方をするのに、とっておきの映画二本がある。それは、トニー・レオン主演の香港映画、『インファイナル・アフェア』、それをリメイクしたレオナルド・ディカプリオ主演のハリウッド映画『ティパーテッド』だ。マフィアに潜入する捜査官と、警察をスパイするマフィアという二人の玉試合で展開するスリリングな話だが、しつは各々深いテーマが隠されている。前者の現代は、『無間道』。仏教での「無間地獄」を意味し、善と悪を巡る東洋的な哲学思想が底流にある。私はその世界観が好きで、香港に留学していた関係もあって、何度も観た。一方、後者の題名は「天に召された人」、つまり「死」を意味し、キリスト教の聖書の内容がたびたび暗示されている。仏教がキリスト教に変わっただけでなく、悪者が最後に成敗される点でも、欧米的な仕上がりだ。エンタメとして楽しむだけでなく、東西における宗教の違いや、心理の捉え方の差――それらを比べる材料として、これほど魅力的な日本の映画はないと私は思う。 【言葉の遠近法】公明新聞2023.2.22
May 15, 2024
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口伝の民話から現代文芸を創作作家 村上 政彦ボウルズ編「モロッコ幻想物語」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、ポ-ル・ボウルズの『モロッコ幻想物語』です。ポール・ボウルズと言えば、知る人ぞ知る実力派の小説ですが、彼の名前が広く知られるようになったのは、ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『シェルタリング・スカイ』の原作者としてでしょう。音楽を担当して坂本龍一はこの映画で2度のゴールデングローブ賞を手にしました。『モロッコ幻想物語』はモロッコを舞台にして語られる、かなり不思議で、少し怖いアンソロジーです。ボウルズは、ニューヨーク出身の小説家。旅好きで世界各地を巡り、モロッコに魅せられました。そして、半世紀にわたって彼の地で暮らし、生涯を終えたのです。本作は、複雑な成立の仕方をしています。まず語り手は、モロッコの識字能力のない若者たち。彼らが語るマグレブ語(モロッコ訛りのアラビア語)の物語をテープレコーダーで録音し、ボウルズが英語に翻訳する。翻訳は、言葉の単純な移し替えでなく、文体=「コエ(ヴォイス)」をつくる営みです。この作品は、ボウルズとモロッコの若者たちとの共同制作と言っていいでしょう。満足な識字教育を受けていない彼らが選ばれたのは、あまりヨーロッパ文明に馴染んでいたからだと思います。ボウルズは「モロッコの民衆的想像力が作り出してきた世界」(解説・四方田犬彦)に新しい文学の価値力を求めた。本作に収録されている、代表的な短編を読んでみましょう。「異父兄弟」。10歳の僕は弟ムハンマドを可愛がっているが、義父はそれをよく思わず、妻(僕の実母)に、堕落するからあれをムハンマドに近づけるなと注意する。兄妹は仲がいい。僕が漁師の親方のもとで網引きをしていると弟も加わる。それが義父に知られ、殴られ、家から追い出された。やがて「僕は浜で生きることになった」。作者のラルビー・ライやシーはカフェでの夜警でした。モロッコ社会の最も底辺で生きる一人。ボウルズは、そこに引かれたようです。「竪琴」。青年マウルは怪しい者が近づくと、竪琴を鳴らしていた。ある日、その音が突然聞こえた時、人語を操るラクダがやって来て「コンニチハ」と挨拶された。それは嫉妬深い姉の魔法でラクダにされた少女だった。ウマルは一計を案じて魔法を解き、美しい少女と暮らし始めた。姉は妹夫婦の邪魔をしようとするが、魔法を封じられ、絶命する。作者のムハンマド・ムラーベトはライヤーシーを知っていて、俺ならもっと面白い物語が語れると自慢した。そこでボウルズは、彼の物語を録音する作業に取り組みました。モロッコの土着の民話から現代文学へと昇華された物語は、とても刺激的です。[参考文献]『モロッコ幻想物語」越川芳明訳 岩波書店 【ぶら~り文学の旅⓴海外編】聖教新聞2023.2.22
May 14, 2024
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植物学者牧野富太郎の輝く偉業「日本植物分類学の父」と呼ばれ、今なお、その偉業が輝く牧野富太郎(1862~1957)。今春放映されるNHK連続テレビ小説では主人公のモデルにもなっている。練馬区立牧野記念庭園の学芸員で、牧野博士のひ孫にあたる牧野一澳さん、同庭園の中田純子学芸員に、博士の植物へ寄せる思いなどを聞いた。 今春、連続テレビ小説の主人公に植物を愛する才能に恵まれ 研究突き詰める楽しさ1862年、現在の高知県佐川町で生まれた牧野富太郎は、10代で植物学に興味を抱くと、独学で植物採集、研究を始めた。22歳で上京し、東京大学の植物学教室への出入りを許されてからは植物分類学の研究に没頭。その人生を植物研究に捧げ、近代の植物人類学の礎を築いた。連続テレビ小説「らんまん」は、その牧野の波瀾万丈の物語として描かれる。「とにかく植物が大好きで、〝植物を愛する才能〟に恵まれたのがそう祖父の富太郎でした。また、植物を通じてさまざまな人々と分け隔てなく人間関係を広げていたようです」(牧野一洋学芸員)1946年生まれの一洋さんは10歳の時に牧野がなくなるまで急遽に遭った練馬区東大泉で共に暮らした。晩年も研究や執筆、植物図鑑の改定を続ける牧野の姿が目に焼き付いている。田中純子学芸員は、牧野の姿を通し「好きな研究を突き詰める楽しさを知ってもらう機会になれば」とドラマへの期待を語る。田中学芸員が現在、調査、整理を進める多くの書簡には牧野の植物を愛する思いがあふれている。「ただ孜々として天性好きな植物の研究をするのが、唯一の楽しみであり、またそれが障がいの目的でもある」――『自叙伝』に牧野はそう記している。 今も活動を続ける同好会牧野が命名した植物は新種や新品種を含め1500種以上。収集した標本は40万枚を越え、描き残した植物図は1700枚に上る。この偉業を成さしめたものは何か。「富太郎は日本の植物を全て網羅し、図鑑にしたかったのだと思います。新種の発見や命名はその結果ではないでしょうか。そのためには資材もすべて投じています」と牧野学芸員は語る。26歳で、『日本植物志図篇』を出版。その後、植物学教室の出入りを禁じられるなどしたが、再び助手として教室に復帰すると、『大日本植物志』等の慣行を手がけた。この間、研究にかかる費用はかさみ、多額の借金を背負うこともあったが、妻・寿衛子の献身的な支えや資産家の援助に救われた。『自叙伝』には、「私が修正植物の研究に身を委ねることの出来たのは何といっても、亡妻寿衛子のお陰」と記される。こうして妻・寿衛子に支えられるなか、牧野が残した図鑑、辞典は代表的なものだけでも数十点を数えるものとなった。一方、植物研究の普及を目指した牧野は、「東京植物研究会」をつくり(その後、「東京植物同好会」と改名)、幅広い年代や職業の人と共に採集会にも出かけている。田中学芸員は「新種の発見や図鑑の発汗など、日本植物学の発展に尽くされましたが、牧野博士は植物の魅力、植物と触れ合う楽しみをより多くの人に伝えたかったのではないでしょうか」と語る。真木のが始めた東京植物同好会は、「牧野植物同好会」の名称で、現在も活動を続けている。 昨秋「万葉植物図鑑」発刊 幅広い文化人の姿も生誕160年の昨年には、牧野が晩年に構想しながら未完に終わった万葉博物図鑑が刊行された。15年ほど前、「万葉植物図」と朱書きされた紙片、110枚余の植物図、目録が見つかったのがきっかけだった。「植物図は、祖母の鶴代(牧野の次女)が大切に保管したものでした。水島南平氏ら、富太郎が信頼した画家の絵からは出版にかける富太郎の思いが強く伝わってきました」と牧野学芸員は語る。高知県佐川町の教育委員会が所蔵する「万葉植物図鑑」と題した原稿には、図譜の序文、目録の最初に挙げられた「ヲミナヘシ」の解説があり、見つかった植物図とともに「万葉植物図譜」を構成するものであることも分かった。そして、不足する図や解説は牧野が別に持っていた植物図や他の著作から引用するなどし、昨年11月、『牧野万葉植物図鑑』(北陸館)は完成した。田中学芸員は万葉植物図を構想した牧野について、「染料や衣料などの有用植物にも強い関心を持たれていた博士は、生活に因んだ植物を歌った万葉集にも興味を抱いておられたのではないでしょうか」と語る。また、編集代表を務めた邑田仁・東京大学名誉教授は「それぞれの名前の背景にある文化を大いに楽しんでいるように思われる」と指摘する。『牧野万葉植物図鑑』は、植物分類学者にとどまらない文化人としての牧野の姿を映し出すものとなっている。◇植物と触れ合い、植物を愛する心を伝えた牧野富太郎――。個人誌『牧野植物混混録』にはこうつづられる。「慈悲的の心、すなわちその思い遣りの心を私は何で養い得たが、私はわが愛する草木でこれを培うた」と。そして、2人は語る。「富太郎にとって、植物に出あうことは恋人に出会うようなものだったと思います。五感全てを使って向き合った。そうして花や木に愛情をもって接したと思います」(牧野学芸員)「そこに牧野博士は生きる喜びを感じていたのではないでしょうか。それを私たちは学ばなければならないと思います。そして、その植物に私たちは支えられていることも牧野博士は教えてくれています」(田中学芸員) 【社会・文化】聖教新聞2023.2.21
May 14, 2024
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「利用可能な最良の技術」の追求尾松 亮 海洋汚染の削減課す条約OSPAR条約(1998年発効)は、放射性廃棄物の海洋放出のゼロを目指し、問題となる放射性物質の削減を締約国に義務付ける。特に英国はセラフィールド再処理工場による海洋汚染を問題視する他の締約国から、汚染削減の実効策を求められてきた。条約発効以前からOSPAR委員会は締約国に対して、「勧告」を発行し、継続的な放射性物質の海洋放出削減を求めてきた。たとえば93年に出された勧告では特に再処理工場を対象にして、海洋汚染低減のためにBAT(利用可能な最良の技術)を導入することを要求している。これらの勧告に応じて、締約国は定期的に汚染削減のためにどのように最新の技術を調査、開発、導入しているのかを報告しなければならない。例えば2009年に英国政府はOSPAR委員会に「液体放射性廃棄物放出に関する勧告履行」報告書を提出した。同報告書は、BATの適用によって多くの種類の放射性物質の放出削減が実現したと強調し、「セラフィールドにおいて、蒸発器を他の処理設備と組み合わせて使用することで、プルトニウムとさまざまな短寿命分裂生成物の放出を削減することができた」としている。OSPAR条約は再処理工場だけでなく、全ての核施設を対象にする。そのため、セラフィールド以外の原子力施設での放出削減についても報告が必要である。13年の報告書で英国政府は「サイズウェル原発において、(原子炉停止後の起動時に制御情報を取得するために使用される)2次中性子源の除去により、放出されるトリチウムを低減させる』という取り組みに言及している。トリチウムは水から分離除去することが難しい放射性物質として知られ、他の主要な放射性物質に比べて大規模な除去技術が確立されていないといわれる。だからといってトリチウムは大量放出は締約国に対して絶えざるBATの調査と改良を求め、トリチウムも含む放射性廃棄物の海洋放出ゼロを目指し続けている。(廃炉制度研究会代表) 【廃炉の時代―課題と対策―54】聖教新聞2023.2.21
May 13, 2024
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貪欲を追求した結果の地球状況近年、既に顕著になりはじめた温暖化、気候変動の様相そのままである。われわれは空気中に生息しているから、その深刻さを感じにくい。サウナで空気の九〇度には耐えられるが、水の九〇度では身体は煮えて死んでしまう。気温が一度や、二度の上昇は、風呂の設定温度で考えてみればいい。暑くてたまらない、海の生き物は生息困難で、魚介類は死滅する。温度上昇で水蒸気の量が増え、台風のエネルギーが強化され、トラックも宙に浮くほどの風速60メートル級の暴風が当たり前になり、一時間降水量八〇㍉以上といった大水害も常態化する。例年の四倍という昨年(二〇二〇年)来の大雪も、日本海の水温上昇で水蒸気が増加したことによるものである。一昨年から昨年にかけて何カ月も燃え続けたオーストラリアの森林火災は、気温の上昇と乾燥によるもので、大都市の空を真っ赤に染め、煙と煤で呼吸も大変だったと報じられた。地表の草木が燃え尽きた後も、根っこが炭化し熾火となって燃え続け、大地は熱かったという。さらに「大地はすみ(炭)のごとくをこり」「無間地獄より炎いでて、上梵天まで火災充満す」そのままであった。これは、対岸の火事ではない。シベリアのベルホヤンスクでは昨年、温暖化で最高気温が三八度を記録し、永久凍土が解けて、露出した土壌から強烈な感染力を持つ未知のウイルスが発見された。何万年もかけて永久凍土に閉じ込められてきた大量の温室効果ガスが、大気中に放出されれば、温暖化は一気に加速する。昨年末、新型コロナウイルス感染症によって人類が脅かされているが、感染から発症するまでの一~十二・五日の時間差に悩まされてきた。ところが、温暖化のツケは、数十年ほど後に顕在化する。その取り返しのつかない状態でだ、核廃棄物は、ものによっては何万年という単位で維持し続ける。そのツケの損害をこうむるのは若い人たち、これから生まれてくる人たちである。今、政治の世界で権威をふるい、利権をほしいままにして、権力闘争に明け暮れしているのは老人の政治家で、そのツケ顕著になる頃は、この世の人ではない。温暖化への対応は、この十年が勝負の分かれ目だと言われている。ところが、老人の政治家たちは、全く無頓着のようである。この理不尽さに黙っておれなくて、声を上げたのが、若きスウェーデンの環境活動家であるグレタ・トゥーンベリ氏(二〇〇三~)であった。その叫びは、真実であり、切実である。日蓮が、『法華経』のをはじめとして、『金光明最勝王経』『薬師経』などの仏典を踏まえて、『立正安国論』(一二六〇年)で、汝須く一身の安堵を思えば、先ず四表の静謐を禱らん者か。と叫んでいたことは、このような人類的危機を前にして、国主は責任ある政治を行うべきだと警告していたように思える。賢う人も、身分の低い人も皆、分かっていることでありながら、三毒という酒に酔ってズルズルと破滅に向かうことを危惧していたのであろう。それは、七百六十年後の今日のために書かれたのではないかとすら思えてくる。 【日蓮の手紙】植木雅俊 訳・解説/角川文庫
May 13, 2024
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迫りくる核リスク<核抑止>を解体する吉田 文彦著 「地球と人類の安全保障」を構想するNPO法人ピースデポ特別顧問 梅林 宏道 評本書の「はじめに」で述べられているように、本書に込められている著者の意図は明白である。「核使用の脅しで相手の核使用を封じる『恐怖の均衡』で平和の維持を図る核抑止の考え方は、…現実味を欠く」と述べ、「核兵器は存在する限り使われるのであり、人間と核兵器は共存できない」という被爆者の訴えに、著者は共感する。その立場から、著者は「核抑止」の考え方や政策の中身を解剖しつつ、解体させ、「核兵器のない世界」への道を探る。実際には、著者にはもう一つの譲れない目標がある。それは「長崎を最後の被爆地にする」ことである。「…核廃絶は、核使用がないままの核廃絶でなければならず、…長崎が最期の被爆地であり続ける必要がある。」つまり、著者は、核抑止に依存する世界は、意図的であるか否かに関わらず核爆発に至る危険にさらされ続けていることを丁寧に読者に知らせつつ、いっぽうで、それを起こさせない。「発明」を促しながら核兵器廃絶の道を探る。核抑止の実態を解剖する著作はこれまでも少なくない。本書の特色として述べておきたいのは、著者が「新興リスクの台頭」という章で紹介している新しいリスクである。そこには、近年、新しい軍事ドキュメントとして日本政府に強調するサイバー空間と宇宙空間が核抑止システムにかかわることによって発生するリスクや、人工頭脳(AI)ガスステムの意思決定過程に介入するリスクが論じられている。核抑止を解剖する作業よりも解体のプロセスを論じることのほうが困難であることは読者も容易に想像できるであろう。しかも、解体のプロセスで核兵器が使用される事態を招いてはならない。このようなプロセスを考察するに当たっては、実際に核抑止政策の近くに身を置きつつ核軍事管理を論じている専門家の意見が参考になるであろう。おそらく、そのような事情から米欧の軍備管理論者の知見が多く紹介されるのも、本書の特色の一つになっている。たとえば、タカ派でもハト派でもなく、その中間にいる「フクロウ派」によって取り組まれている核リスク低減を推進する「正しい抑止力」のアプローチが紹介され、著者は、一定の共感を得る」と予想している。読者は読み進むなかで方向を見失わないで欲しい。著者が別のところで説明しているように、「フクロウ派の勢力の商会は「核抑止の退場をうながす試みではない。…核抑止の遺児を念頭においたもの」という理解を前提に、かど的な効用を述べたものにすぎない。核抑止を解体し退場させる著者の戦略は遠大である。核禁止条約は直接的には「すべての人類の安全保障」の考え方に依処している。しかし、そこに内包されている「地球と人類の安全保障」という考え方への転換が重要であると著者は訴える。そうすることによって、核兵器、気候変動、パンデミックなどが一つの大きな共通の安全保障の目標となる。ここには、私たち市民一人ひとりが自分ごととして核兵器廃絶の問題を考える必要があるという、著者の願いが込められている。◇よしだ・ふみひこ 1955年生まれ。東京大学文学部卒業。元・朝日新聞社論説副主幹。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)センター長・教授。 【読書】公明新聞2023.2.20
May 12, 2024
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一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず「世間法」と「仏法」という立て分け方がある。「主君のため」と「世間に対する心根」は、前者に当たる。日蓮は、両者の関係を次のように記している。 まことのみちは、世間の事法にて候。金光教には「若し深く世法を識らば、即ち是れ仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を、妙楽大師は法華経の第六巻の「一切の治生産業は、皆実相と相ひ違背せず」との経文に引き合わせて心をあらわされて候には。彼れ彼れの二経は深心の経経なれども、彼の経経は、いまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。 (『白米一俵御書』) 世間法(世法)と仏法に二分して、世間法としての世俗的生活が汚れたもの、価値の劣るものとして、日本仏教の多くは世間を離脱して山林に隠棲して禅定や読経に専念する傾向が強かった。世間法は仏法のためには手段であるかのように言われているが、世間法は目的なのであり、それが『法華経』の思想なのだと、日蓮は言っている。仏法は、世間の法と切り離されているのではなく、仏法と世間法は不即不離であり。日蓮は、さらに次のように言っている。 智者とは、世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず。世間の知世の法を能く能く心えて候を智者とは申すなり。 (『減劫御書』) 智者と言われる人は、仏法を世間の法とかけ離れたものとしてとらえることはない。世間における一切の生産・創造の活動は、仏の悟られた真実の在り方と矛盾・対立するものではないのだ。『法華経』や、日蓮のこのような思想に由来して、京都の法華衆の中から、狩野元信(一四七六~一五五九)、長谷川等伯(一五三九~一六一〇)、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)、尾形光琳(一六五八~一七一六)、松永貞徳(一五七一~一六五四)、山本春正(一六一〇~一六八二)、元政上人(一六二三~一七四三)、俵屋宗達(?~一六四〇頃)、室井其角(一六六一~一七〇七)、尾形乾山(一六六三~一七四三)など、多くの幻術化や文学者達が輩出したことは、特筆すべきことであろう(元政上人については、拙著『江戸の大詩人 元政上人』、中央叢書を参照)。彼らにとって、文学や芸術の創作といった世間法そのものが、仏法であった。世間の治生産業の法をよく心得る智慧とは矛盾しない。『法華経』の信仰は、現実とかけ離れいるのではない。現実世界、各人の日常生活の場面を通して現れるものなのだ。その現実生活、日常生活の一環として、四条金吾にとっては喫緊の課題となっている「主君のため」ということが挙げられている。それをさらに一般論化すれば、「世間に対する心根」ということであろう。以上のような考えから、弘安元年四月十一日付の『四条金吾殿御返事』(『檀越某御返事』の別名がある)では、 御みやづかい(士官)を法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり。 という表現も出てくる。ここに「御みやづかい」をあげていることについて、日蓮は、封建制度を容認していると論ずるものがあるが、それは前後関係の世見落としである。ここは、当時の社会における「一切世間の治生産業」の一つとして挙げられたものである。『法華経』の徳実相というものは、「主のため」や、「御みやづかい」をはじめとする「一切世間の治生産業」における「世間の心根」のよい、社会人としての立派な振る舞いを離れて存在することはないのだ。「仏法」は、人間として在るべき理法に基づき、真の自己に目覚めることによって人格の完成を目指すものである。その人格の完成を通して世間、すなわち社会に貢献することが「仏法」だというのだ。 【日蓮の手紙】植木雅俊 訳・解説/角川文庫
May 11, 2024
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大衆運動の落とし穴 「どのような大衆運動でも、運動の支持者のうちに自分の生命までも捧げようとする覚悟と、統一行動を求める傾向を生み出すものである。大衆運動においてどのような教義が教え込まれるかにかかわらず、さらに、どのような綱領が提起されるかにかかわらず、つねに狂信と熱狂と熱烈な希望と憎悪と不寛容とが育まれる。そしてすべての大衆運動は人生の特定の領域において激しい活動の流れを生み出すことができるのであり、どのような運動もその参加者に対して盲目的な信仰と一途な忠誠を求めるのである。」 エリック・ホッファー『大衆運動』(中山元訳、紀伊国屋書店、2022年、9頁)
May 10, 2024
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日本の〝鬼〟を紐解く文芸評論家 東 雅夫恐ろしさに美しさを備えた不思議な存在一昨年から昨年にかけて二冊の「鬼」に関わるアンソロジーを編集・解説した。一冊目の『鬼 文豪怪談ライバルズ!』(ちくま文庫)は、上田秋成の「青頭巾」や安達ケ原の鬼婆など、人を喰らう鬼たちの血腥さ漂う物語集である。そして二冊目の『日本鬼文学名作選』(創元推理文庫)は、「美しき鬼族の王」酒呑童子を巡る艶冶怪美な物語に始まり、巻末には加門七海の現代語訳による『平家物語』の異本「剣巻」(源氏の一族に伝わる歴代の名刀と妖怪変化との奇縁を描いた怪異譚集である)を収録している。大酒のみで、美女の生肉に舌鼓をうつ、巨大な悪鬼の印象が強い酒呑童子だが、若い頃は絶世の美少年で、寺院に参詣する婦女子たちの人気を独占していたとか……そんな意外な落差も、衰えぬ人気の秘密なのかもしれない。人によく似ていて、人ではない……鬼と呼ばれる不可思議な生き物の、恐ろしさと美しさをそれぞれ主題とすることで、右の二冊は、かつてない特色を打ち出せたのではないかと思っている。恐ろしい存在である鬼への畏怖の念と、その一方で、美しく逞しい存在でもある鬼への憧憬と……一見相反するかに見える二つの感情は、奥深いところで、実は分かち難く融和もしているのではあるまいか。一般的な日本人が「鬼」と聞いて、今日はまず想起するのは、裸体に虎皮の腰巻をつけ、頭部に角をはやした姿であろうが、これは外来の陰陽道思想などの影響によるもの。古代の日本人にとって「鬼」とは、得体のしれない存在(鬼の{おん}とは「隠」に通ずる、即ち「正体不明の存在」なのだとする説もある)であり、王朝期に入っても、「百鬼夜行」の言葉が示すとおり、都大路の夜の闇に君臨する、恐ろしきモノの象徴であった。さて、先の両書を編むに際して、折にふれ繙いては感銘を新たにするとともに、新規の鬼アンソロジー編纂への意欲を鼓舞してくれた、仰ぎ見る手本というべき書物があった。作家の夢枕獏が、一九九一年に上梓した『鬼譚』(ちくま文庫)である。同書は、今昔物語集の昔から坂口安悟や小川未明の文豪怪談、さらには手塚治虫のSF漫画まで、夢枕独自の審美眼によって選び抜かれた名作十五篇を収録しており、その目配りの幅広さといい、自由闊達なセレクションの妙といい、古今の鬼アンソロジーの里程標というべき陣容を備えている。また、鬼に関する歴史的名著である、歌人、馬場あき子の『鬼の研究』(ちくま文庫)は、一九七一年という極めて早い時期に出た鬼学研究の先駆であり、鬼という存在の歴史的・文学的変遷をいち早く踏まえた、基本図書中の基本図書である。初版単行本以来、私も何度となく読み返してきたが、一向に色褪せることのない、深い学識と「般若=女鬼」に寄せる共感の念に、心を打たれる。すでに「古典」的な風格を備えた名著といって過言ではあるまい。鬼学研究に必要な基本図書を、もう一冊あげておこう。文化人類学者・小松和彦の責任編集による『怪異の民俗学4 鬼』(河出書房新社)は、折口信夫や五来重、高田衛、そして右の馬場あき子ら、日本民俗学から古典文学まで幅広い分野にわたる、鬼学研究の先覚者たちによる先駆的論考の数々をぬかりなく収めた、重厚な趣の一環だ。小松和彦氏の解説の一部を紹介して結びとする。<鬼は一言でいえば、「恐ろしい存在」であり、「怪異」の表象化したものであった。田中貴子などがいうように、「怪異」あるいは「闇」は、「鬼」と名付けられることによって言語の世界にからめ取られ、「他者」として独立し、図像化されて、人間が統御可能なものになっていたものであった>(ひがし・まさお) 【文化】公明新聞2023.2.19
May 9, 2024
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ロシアによる侵略から1年ウクライナ情勢の行方は同志社大学 村田晃嗣教授に聞くむらた・こうじ 1964年生まれ。国際社会学者。同志社大学法学部教授。米国ジョージ・ワシントン大学留学。神戸大学大学院法科研究科博士課程修了。2005年より現職。同志社大学法学部長、法学研究科長、学長など歴任。 現 状――ウクライナの現状は。村田晃嗣教授●ロシア、ウクライナ両軍の死傷者が10万人を超えているとの報道もあるが、なお戦況は膠着状態にある。要因はプーチン大統領の判断ミスだ。当初はウクライナの首都キーウを短時間で攻め落とし、ウクライナを併合できると考えていたが、西側諸国の支援を受けたウクライナの徹底抗戦に遭い、いつ戦争が終わるか見通せない長期戦の様相を呈している。一方で、ウクライナ東部のドネツク、ルガンスク両州では、ロシアによる占領が既成事実化している。ウクライナは巻き返そうとするが、なかなか取り戻せないのが現状だ。 ――そこまでしてウクライナを攻撃する理由は。村田●ロシアからすれば、同じ文化圏のウクライナが徐々に西側に傾斜していくことへの不安や不満があるだろう。また、ロシアの国力が相対的に低下している実情も理由の一つだ。1970年時点で旧ソ連のGDP(国内総生産)は米国の4割ほどあったが、今では、わずか7%、米中に比べてロシアの弱体化が進んでいる。そこで、隣国のウクライナを支配しることで大国としての最低限度の地位を確保したいという思惑もあるのだろう。 ――ロシアへの経済制裁の成果は。村田●先進国は侵略直後からロシアに制裁を課し、世界銀行決済取引網「国際銀行間通信協会(SWIFT)」からロシアの銀行を排除したり、ロシア政府高官の在外資産を凍結するなど、さまざまな手段を講じてきた。経済制裁は基本的に即効性が低い。まして、ロシアのように天然資源が豊富で、外資が得られやすい国には、すぐには効かない。ただ、経済制裁によってロシア経済が弱体化していることは間違いない。例えば、電子機器などに欠かせない半導体を長期間、輸入ができない状況が続けば、やがて国民生活や社会インフラに重大な影響が生じる。また、経済制裁はなによりも、今回のような侵略を許さないという意思表示を明確にするという意味で大事だ。 休戦の条件、合意は困難安全保障の枠組み構築が課題 展 望――今後の展開をどう見るか。村田●今年中に戦争が終わる可能性は低いのではないか。今後もロシアは犠牲もいとわず攻め続ける考えで、ウクライナも祖国防衛のため、徹底的に抗戦することから、戦闘は長引く。仮にウクライナが頭部を奪還し、休戦協定を結んでも、その領土をどう保全・維持していくかという別の問題が生じる。ロシアにとって休戦協定は、新たな兵力を蓄えるための時間稼ぎかもしれない。休戦後、ウクライナの安全を保障する枠組みを確立しなければ、ロシアの軍事的脅威は去らず、ウクライナも戦いをやめないのではないか。 ――休戦に至るまでの道筋は。村田●可能性として考えられるのは、両国とのつながりの深いトルコや、経済制裁に加わっていないインドなど第三国による仲介だが、両国の主張に折り合いをつけるのは難しい。侵略以前の状態まで撤退することでロシアが妥協するのか。もしくは、東部のロシア占領をウクライナが認めるのか。2014年のロシアによるクリミア併合にまでさかのぼり、クリミアからロシア撤退を求めても、ロシアは絶対に受け入れない。競艇がまとまらなければ、軍事境界線の北緯38度線付近で一進一退を繰り広げた朝鮮戦争に近い状態になりかねない。 ――ロシアの政権内部から崩れていく可能性はあるか。村田●クーデターのようなものが起こってプーチン大統領が排除されたとしても、千政権が和平に向かうと考えるのは、希望的観測に満ちた見方だ。というのも、すでにロシア政権内で、〝ハト派〟は排除されている。ただ、戦争が長期化して庶民の生活が苦しくなり、不平不満が社会に充満した際、プーチン大統領がどう判断するか。一時的な休戦を選び、時間稼ぎをするかもしれない。 侵略非難の世論形成を日本主導で核軍縮の機運高めよ 国際社会の役割――求められる国際社会の対応は。村田●国際社会、特に先進国が足並みを乱さず、経済制裁を続けていくことだ。多くの途上国は制裁に加わっていない。途上国の中には程度の差こそあれ、ロシアのような専制主義的な国も多いからだ。米国は、民主主義国家対専制主義国家と二分法で議論しがちで、それによって専制主義的な途上国の多くは、ロシアへの対応で腰が引けてしまう。日本は、米国や欧州と民主主義の価値を共有する一方、アジアの一員として、民主的でない国々と橋渡し役を積極的に果たすことが大事だ。また、国連総会決議といった形で、ロシアによるウクライナ侵略は決して許されないという国際世論を形成していくことが重要だ。今年から国連安全保障理事会の非常任理事国を務める日本は、そのための役割を果たしていく必要がある。 ――核兵器を巡る対応も焦点だが。村田●その点、今年、唯一の戦争被爆国である日本が先進7カ国(G7)議長国を突もめる意義は大きい。ロシアが軍事目標を攻撃するための「戦術核」を使用する恐れがある那賀、5月に広島で開かれるG7サミット(先進7カ国首脳会議)では、核軍縮や核不拡散に向けて意味のある声明を出し、核軍縮への世論、機運を高めていくべきだ。さらに、バイデン米大統領が長崎も訪問することがあれば、より強いアピールになる。 ――将来的に日本はロシアと、どう向き合うべきか。村田●今は日ロ間で交流を進める段階ではないが、ロシアは重要な隣国、大国であることは変わらず、対話を完全に閉ざすのは好ましくない。例えば、休戦になった時、自治体レベルで交流を再開することは、国同士の外交の受容な補助になり得る。自治体や民間団体での交流を温めておき、機が生じれば再び動き出せるようにする。制裁一辺倒ではなく、そうした環境を整えていくことも大事だ。 【土曜特集】公明新聞2023.2.18
May 9, 2024
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相手の話を「聞く」ことは心の「荷物」を預かることインタビュー 臨床心理士 東畑 開人さん 対話できない時代――東畑さんの近著のタイトルは『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)です。「聞く」をテーマにしたのは、どのような思いからですか。 以前から、私たちは「対話ができない時代」に生きていると感じました。そこにコロナ禍が起き、例えばワクチン接種やマスクの着用などを巡って、社会にさまざまな対立がうまれました。しかも、それは単に政治の世界での対立ではなく、友人や家族の間で、もめることすらあります。対話が大事なのはもちろんそうですが、このような状況で、「対話しなさい」と言っても、けんかして、傷つけ合うだけです。対話を不能としている、もっと根本的な問題を解決しなければなりません。それが、相手の言うことを「聞けない」という問題です。ここで言っているのは、「聴く」ことではなく「聞く」ことの大切さです。「聴く」は、語られたことの裏にある気持ちに触れること。一方で「聞く」は、語られたことを言葉通りに受け止めること。実を言えば「聞く」の方が、ずっと難しいのです。例えば、「ちゃんときいてよ」と言われたら、求められているのは「聴く」ではなく、「聞く」ですね。心の奥にある気持ちを知ってほしいというより、言葉にしているのだから、そのまま受け取ってほしいと、相手は思っているわけです。あるいは「愛している」と言われて、「この人はなにが目当てなのか」と、真意を探りたくなることがあります。そのとき、私たちは、目の前にある言葉を無視しています。また「あなたの言動に傷ついた』と言われて、とっさに「でも、君にも問題が……」と、相手の言葉をはね返してしまうこともあります。相手の言葉を「そのまま聞く」ことは、本当に難しい。最近は「声を上げる」と言いますが、社会では、切実な本音が言葉にされる機会が増えています。でもそれを、そのまま受け取ることが足りていません。「聞く」ことができなくなって理由は、二つあると考えています。一つは、物質的に貧しくなっているということ。給料が上がらなかったり、物価が高騰したり。将来に対する不安が高まると、人間が周りの話を聞けなくなります。二つ目は、価値観があまりに多様化し、相対化しているということ。〝正しさは人それぞれ〟という対話主義が広がり、自分と異なる考えを持つ人と付き合うことに、根源的な難しさがあります。自分が思う〝正しさ〟に固執すると、他者に対する寛容さを失い、関係が悪化していく。その結果「聞く」ことができなくなるのだと思います。不安が増大して、互いに疑心暗鬼の状態が続くと、その先に広がるのは「周囲が敵だらけに見えてくる」社会です。皆、なんとかして自分を守ることだけに必死になっていく。社会というものが助け合う場所であるならば、そうした状況は、もはや「社会」とは呼びにくいものかもしれません。 「空きペース」――「聞く」ためにも、まずは「聞いてもらう」ことから提案されています。 「聞く」ことができないのは、自分の中の「空きスペース」の問題だと捉えられます。不安があふれて、聞けない状態は、自分の中に荷物が一杯に詰まっていて、人の話が入り込むための「空きスペース」がない状態である、と。そう考えると、「聞く」を再起動させるには、自分の中の荷物を、誰かに「預かってもらう」ことが必要です。それが「聞いてもらう」ということです。聞いてもらうことで、荷物が詰まっていた自分の中に〝余白〟が生まれる。すると、今度は自分が、人の話を聞けるようになるのだと思います。現代では、話すことは単なる情報交換のように思われがちです。けれど、そうなると「聞く」には無力感すら漂います。「聞いてもらっても、現実は変わらない」というように。そう考えると、「聞く」でも実は、聞いてもらうことは、「荷物を預かってもらう」こと。言葉を交わすだけで、自分の中の重たいものが取れていきます。聞いてもらうということには、「分かってもらえた」「事情を理解してくれた」という実感があり、それが人に安心を与えるということを、私もカウンセリングなどの現場で感じてきました。不安でいっぱいの人の横にいて、なかなか人に伝わらない複雑な話のまま聞いていく。特別な言葉をかけられなくても、「それはひどいよね」と言ってあげるだけで、その人の心は少し軽くなります。医師で医療人類学者のアーサー・クラインマンは、全身やけどを負った少女の事例を紹介しています。彼女の治療は激しい痛みを伴いましたが、クラインマンは、その痛みを和らげる手立てが何もないことに絶望していました。しかし、彼がとっさに少女の手をつかみ、彼女が語る痛みや苦しみを聞くと、少女はその前よりもずっと痛みに耐えることができた、と。人間にとって真の痛みとは、世界に誰も、自分のことを分かってくれる人はいないと感じるかもしれません。「聞く」ことには、現実をすぐに変える力はなくとも、孤独の痛みを癒す力があるのだと思います。 「完璧」ではなく「ほどよく」身近な人を〝気にかける〟 環境としての母親――「聞く」を取り戻す上で、心がける点は何でしょうか。 聞くことは本来、魔法のようなものではなく、日常の平凡なやりとりであるはずです。例えば、「行ってきます」と言われたら、「行ってらっしゃい」と返し、「ちょっと疲れた」と言われれば、「早めに寝なよ、食器は洗っておくから」と答えるように。こうしたごく当たり前のことを、あたり前にできているとき、「聞く」はうまくいっています。そういうときは、日常生活で交わされた言葉をいちいち覚えてないし、「聞いてくれてありがとう」と、わざわざ感謝もしないものです。でも時に、この「聞く」がうまく回らなくなることがあります。緊急事態がやってきて、それまでの日常が崩れていくと、私たちは不安になり、聞くことに失敗しはじめるわけです。これを考えるうえで参考になるのが、小児科医でもあった精神分析家のウィニコットが提唱した、「対象としての母親」は、私たちが今、思い浮かべている母親の姿のことであり、一人の人としてのお母さんを指します。これに対して、「環境としての母親」は、普段は意識されない母親のことです。例えば、子どもの頃、たんすを開けると、きれいにたたまれた洋服が入っていました。本当は母親が洗濯をし、たたんでくれたからそこにあるのですが、子どもの頃は、そんなことまで考えなかったはずです。このように、普段は気づかれない「環境としての母親」は、失敗したときにだけ、気づかれます。たんすに洋服が入ってないのを見て、「お母さんどうかしたのかな」と思い出すように。このとき、お母さんは初めて「対象としての母親」として意識されます。普段は母親の存在が忘れられているということは、子どものお世話がうまくいっているということです。でも成功し続ける「完璧(perfect)」な母親でいると、子どもは何もしなくてよいので、成長しません。母親が、自分の世話をしてくれていることにも気づかない。だからウィニコットは、よい子育ては完璧だけではなく、「ほどよい母親(good enough mother)によってなされると言っています。「環境としての母親」が、時々失敗するからこそ、子どもは「対象としての母親」を意識します。自分はお母さんに何かをやってもらっていたから、生活できていたのだと気づく。その繰り返しの中で、子どもは成長していきます。ここで紹介した「環境としての母親」じゃ、「聞く」ことに似ていると私は思います。普段はうまくいっていて、特に意識することなく自然に循環していますが、時々それは失敗する。自分のことでいっぱいになり、相手に考えが及ばなくなったりします。すると、家族や恋人から、「ちゃんと話を聞いてよ」と声が上がる。そうしたとき、私たちは改めて「聞く」を回復しなくてはなりません。でも、失敗したとしても、やり直せばいいわけです。母親が、今度は忘れずに、たんすに洋服を入れておくように、家族や恋人に「ごめんね」と伝えて、今度はまっすぐに話を聞く。この繰り返しが〝ほどよく〟聞けている状態なのだと思います。 責任が分担されている――相手の話を聞こうと思えば思うほど、「本当に聞けているのか」と不安にもなります。この点をどう捉えるべきでしょうか。 聞いてもらう側の視点で考えれば、誰かに「心配してもらっている」ということとか、一番大切なのだと思います。「ちゃんと聞いてもらえたのか」と考えると、ついつい完璧を目指して、せっかくそばにいてくれている人に対して厳しくなりがちです。でも、もっと単純に、自分が大変な事態に陥ったときに「ちょっと今、困っていて……」と言える人、それを心配してくれる人がいることで、「自分は一人じゃない」と思えます。それは、生きる力になります。聞く側にとっても、「心配する」「気にかける」くらいが、ほどよいと思います。「受け入れる」「寄り添う」だと、仰々しいかもしれません。もちろん、後から振り返って「あの人に寄り添えた」と思うことはあっても、最初から寄り添おうとすると、少し重い気もしますから。「心配する」「心配される」くらいであれば、対面であってもオンラインであっても、さまざまな手段でよいと思います。形式ではなく、聞いてくれる存在がいるかどうか。LINEのメッセージで「大丈夫?」と送るだけでも、自分がその人を心配していることは伝わりますし、それはそのまま、その人のことを支えることにもなります。大変な状況に陥ったときに、「あいつも心配してくれているはず」「一緒に考えてくれるだろう」と思える人、がいる。たとえ1%でも、自分の人生つらさを分け持ってくれる人がいる。その人たちは、孤立しません。時間がたつほど事態が悪化することもあれば、時間をかけることで事態がよくなることもあります。時間は毒にも薬にもなる。その分かれ道は、大変な時間を〝他者と共有しているかどうか〟だと思っています。孤立している人は、自分一人で何かしようとして、心配してくれる誰かとつながっている人は、時間の流れの中で、事態を好転させることができる。臨床心理士として高度な理論を学ぶほど、心は本当に複雑だと痛感します。しかし、人のつながりの有無というシンプルなことが、心にとって決定的に重要であるというのもまた、私の実感の一つです。誰かに心配してもらい、自分も誰かを気にかけるといった、身近で小さなことから、「聞く」が回復され、人生のサイクルが回っていくのだと感じています。感染症の拡大、度重なる自然災害、世界各地での紛争などによって、多くの人が不安を抱える時代だからこそ、「聞く」ことの意味を見つめ直すことが大切ではないでしょうか。 ――インタビューの㊦(明16日付に掲載予定)では、臨床心理士としての考える「信じる」ことの価値、「シェア(共有)」と「イアンショ」という2種類の人のつながりなどについて、さらにお話を伺います。 とうはた・かいと 1983年生まれ。臨床心理士。公認心理士。博士(教育学)。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄での精神科クリニック勤務、十文字学園女子大学准教授を経て、現在は白金高輪カウンセリングルームを開業し、主宰を務める。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。著書に『居るのはつらいよ』(医学書院)、『野の医者は笑う』(誠信書房)などがある。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.2.15 インタビュー㊦ 人の心が変わるのは「信頼感」があるとき。 「敵じゃない」――インタビューの前半では、誰かに「聞いてもらう」「心配してもらう」ことが、心の回復につながると語っていただきました。臨床心理士として、メンタルヘルスの不調を抱えた人たちと向き合ってきた経験から、心をどう捉えるかについて教えてください。 『野の医者は笑う』という本で、〝心の回復とは生き方の調整である〟ということを書きました。裏返す場、メンタルヘルスの不調は、今の環境でうまく生きられないという、〝生き方の不調〟でもあります。目には見えない心は、いかにして回復するか。科学の知だけでは、完全な答えを出すことができず、臨床の知が必要になります。そこに臨床心理士の仕事があるわけですが、宗教もまた、〝いかに生きるか〟を示すという意味では、共通点も多いと感じます。あるいは、歴史と伝統を踏まえれば、最初にこれを扱ってきたのが宗教で、その後に臨床心理学が出てきたというのが実情です。臨床心理学と宗教。二つに、共通するのは「信じる」ことを巡る営みである点です。カウンセリングに来られる多くの人たちの多くが、他者を信じられなくなっていて、自分のことも信じられなくなっています。人生に絶望していて、周りは「敵だらけ」と感じています。だから、彼らがもう一度、何かを信じられるようになるには、目の前の人を「的じゃない」と思えることが必要です。確かに、同じ空間で、すぐそばにいる他者は、危害を加えてくる可能性もあるわけですね。でも、そこで「この人は傷つけてこない」「この人なら話しても大丈夫そうだ」と思えるかどうか。あたり前のようですが、それが第一歩となって、少しずつ、「人を信じること」が回復していきます。多分、信じるというのは、希望を抱くということなのだと思います。エリクソンという心理学者は、人間の発達段階の最初の課題を「基本的信頼」と言っています。世界は善いものだという感覚を抱けるようになることは、心の発達にとって大事だということですね。だけど、それが課題にされているように、信頼をもつことは難しいというのも実情です。そのためには、安心できる他者が必要なんですね。 シェアとナイショ――人とのつながりの中で、傷つくことを恐れてしまう人もいると思います。 火とのつながりは本来、両義性を含みます。自分を癒してくれるものでもありますが、時に、自分を傷つけるものにもなりうる。そう捉えられるだけで、心の持ちようは変わってくると思います。他者とつながるときの二つの原理を、社会学では「共同性」と「親密性」と言いますが、私はこれらを「シェアのつながり」と「ナイショのつながり」と呼んでいます。「シェアのつながり」は、文字通り、みなとシェア(共有)することでつながる関係です。難しい仕事を一緒にやった同僚、子育てを共有したママ友、青春を共に過ごした友人などです。「同じ釜の飯を食う」と言いますが、時間や場所、活動などを共有すると、私たちは自然に仲間、同志になります。一方で、「ナイショのつながり」は、例えば恋人やパートナーの関係といった、その人の内緒に一歩、深入りするようなつながりのことです。「シェアのつながり」の本質的な価値は、傷つきを共有することにあります。ママ友同士で子育ての大変さや、出産でキャリアを中断した悔しさなどを共有していれば、何かあった時に支え合い、励まし合う関係になります。誰かがつらい思いをしたとき、その人の代わりに怒ったり、愚痴を言ったりもします。互いに傷つきをシェアし、理解し合っているから、これ以上傷つかないように、さまざまな配慮が交わされます。つまり「傷つけない関係」をつくっているといえるのです。反対に、「ナイショのつながり」は、「傷つけ合う関係」といえます。互いの奥深くにふれようとするからこそ、時に摩擦が起きて、傷つけてしまう。でもそれは、接触を試み続け、信頼と理解を構築し続けていることの証しでもあるわけです。相手との間に摩擦が起こるのは、関係性を磨きあっていることでもある。私たちのほとんどは、「シェア」と「ナイショ」のどちらも経験しているはずです。でも、他者が踏み込んだり、踏み込まれたりするナイショのつながりには、傷つくリスクが伴う。だから最初は、シェアでつながる方がいい。何かあったときに、手助けし合える「シェアのつながり」の居場所づくりは、今、地域コミュニティーやインターネットでも、盛んに試みられています。皆で集まり、自分の傷つきを分かち合う。その場では、傷つけられることを心配せずに、安心していられる。こういうものが心を支えてくれます。その上で時々、より深いつながりを求めているのも人間です。普段は何でも相談していた仲間や友達と、時々、互いの気持ちや意見を激しくぶつけ合うこともあります。そんな時、私たちは「ナイショのつながり」で結ばれます。全ての人と、ナイショでつながる必要はありませんが、それでも時に、あえて危険に飛び込んで、他者に深入りすることも大切ですよね。「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれも大切ですよね。「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれば傷つくこともある。そのときは、関係性を再構築していく。人間は未熟で不完全な存在だからこそ、その繰り返しなのだと思います。その中で「この人は信頼できる」「大丈夫だ」といった感覚が芽生えていく。シェアとナイショのつながりを行ったり来たりする中で、根拠はないけれども確実な、相手に対する信頼が育まれていくように思います。 「第三者」の価値――近著『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)では、対話をとおして問題を解決するのではなく、対話できること自体が最終目標である、と書かれています。その際に「第三者」がいることが重要といわれていますが、どういうことでしょうか。 『聞くこと』、「きいてもらう」ことがうまくいくためには、「第三者」がいることの意義は大きいと考えているんです。例えば、職場の上司との関係に悩んでいる時、その上司に直接話すのではなく、友人にそっと話してみる。自分の複雑な事情を聴いてもらい、苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みが詰まっていた苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みに詰まった心に空きスペースができます。第三者がいることで、当事者は助かるのです。仕事の悩みを、職場の異なる友人に話しても、現実的な問題解決にはならないかもしれません。でも、「それはひどいね」といってもらうだけでも、苦しかった心はケアされます。実際、私たちの悩みは複雑で、すぐに解決できることの方が少ないかもしれません。そうした悩みの中で、様子を見るように、時間がたつのを待つこともありますね。作家の帚木さんらが紹介している「ネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)」という考え方があります。これはピオンという精神科医が取り入れた概念ですが、もともとは、赤ちゃんの世話をする母親の能力のことです。ギャーギャーと泣いているのを受け止めて、なぜ泣いているのだろうかと考える。答えは分からないけれど、考える。それ自体がネガティブ・ケイパビリティである、と。それはまさに「聞く力」でもあるのです。大切なのは、母親がネガティブ・ケイパビリティを発揮できるのは、誰かのネガティブ・ケイパビリティによって支えられているから、ということです。「聞く人」の後ろに、また別の「聞く人」がいる。ケアする人がケアされるという連鎖が、大切なのだと思います。 「ミクロな親切」――第三者として身近な人の話を「聞く」ことなら、普段の生活の中で、私たちにも実践できると感じます。 臨床心理士に携わる中で、たどりついた一つの結論は、「心のケアは専門家ではなく、普通の人間同士の支え合いによるものだ」ということです。すでにお話したように、ケアに欠かせない「聞く」という行為は、日常の、ごく普通の営みです。多くの時間を共に過ごす家族や友人などが、傷ついた人の心を癒すのが、ケアの本質です。一方で、人のつながりは、時に傷つけるものである。そうした周囲の人同士の支え合いがうまく回らなくなったときに、「聞く」やケアを再開させていくのが、専門家の役割なのです。医療人類学者のクライマンは、それぞれの地域には人々の健康をケアするシステムがあると言いました。そこでは「専門職セクター」「民俗セクター」の三つが補い合いながら、私たちの心身の健康を保たせようとしています。専門職セクターは、医師や看護師、心理士などの専門家のこと。民俗セクターは、非公認の専門家という意味で、アロマセラピストや占い師などが含まれます。この二つの境界線は、時代や社会によって変わっていきます。大切なのは、最後の民間セクターです。これは、同僚や友人、家族といった、専門家ではない人が行うケアのこと。クライマンは、「ケアの主役」は民間セクターであると言います。例えば風邪をひいたときに、病院(=専門家)に行く前に、自分で治そうとする人も多いですよね。よく寝たり、栄養のあるものを食べたり。そこには、ご飯をつくってくれる家族や、自分の仕事を代わりに担ってくれる同僚など、周りの人によるケアのかなり多くの部分が、民間セクターでなされているんです。専門家の仕事は、そうした日常の支え合いがうまくできなくなった時に、普通の人間同士のケアを再開できるように手助けすることです。私たちの周りには、身近な人間同士でケアし合う、つながりがあります。誰かが自分をケアしてくれ、自分も誰かをケアしている。先ほど、臨床倫理氏は「しんじる」ことを巡る営みだとお話しました。絶望を感じている人を相手にしても、この信じる、臨床心理士としての楽観主義があります。日常生活の中で、身近な人を気にかけて話す、傷つけたり、傷つけられたりすることがあるとしても、それは、我慢が必要かもしれません。それでもなお「信じる」。それでも「ミクロ(微小)な親切」を重ねることが、より良い社会をつくることにつながるっていくと思います。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.1.16
May 8, 2024
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インタビュー児童労働のない世界を目指してNGO ACE代表 岩附 由香さん いわつき・ゆか 東京都出身。大阪大学大学院国際公共政策研究所(OSIPP)博士前期課程修了。大学院在学中にACEを設立。以後、代表を務め、SDGsと児童労働、ビジネスと人権等、日本国内およびグローバルな政策提言に力を入れる。共著に『わたしは8歳、カカオ畑で働き続けて。』(合同出版)、『チェンジの扉 児童労働に向き合って気づいたこと』(集英社)がある。 あなたが買っているものどこから来たのか知っていますか? ――「児童労働」とは、18歳未満の子どもたちが、教育の機会を奪われ、心身の健康的な成長の機会を妨害されながら、危険で有害な状況下で違法に働かせる子どもたちは、世界にどれくらいいますか。 国連の国際労働機関(ILO)が発表している最新の数字によると、1億6000万人の子どもたちが児童労働をさせられています。かつては、アジア太平洋地域が、一番多かったのですが、現在では、サハラ以南アフリカが半数を占めています。国内紛争や気候変動による環境の変化など、その要因はさまざまです。こうした事態が起こるたびに、人々は閣内避難民や、国境を越えた難民になってしまいます。それまで培ってきた経済基盤は失われ、現金収入を得るために、子どもたちが働かざるを得ないという悪循環が生まれてしまうんです。 ――貴団体は、1997年に設立されました。岩附さんが児童労働の問題に取り込むことになったきっかけは何でしょうか。 当時、世界では「児童労働に反対するグローバルマーチ」という運動が話題になっていました。これは、1998年1月から6月まで、各国の参加者がマーチ(行進)を行い、最終的にILOの本部がある、スイスのジュネーブに集まるという壮大なプロジェクトです。この運動を主導していたのが、インドの人権活動家である、カイラシュ・サティヤルティさん(2014年にノーベル平和賞を受賞)。その頃、大学院生だった私は、あるNGOでボランテアをしていたのですが、〝翻訳してほしい〟と渡された手紙の内容が、グローバルマーチへの参加を呼びかけるものでした。他が見には、サティヤルティさんの言葉で、こう書かれてありました。〝児童労働がなくならないのは、貧困が理由ではなく、政治的意志が足らないからだ〟と。各国が、軍事費に充てている何%かを、子どもの教育費に振り分けることができたら、世界の子どもたちは、きちんとした教育を受けることができる。それが分かっていて、実現しないのは、優先順位の問題だと深く納得したんです。私もグローバルマーチに参加したいと思いました。いろんな人に相談する中で、いっそのこと、日本でマーチをやるためだけに、期間限定のNGOを立ち上げようと決めたんです。それがACEの始まりです。 サッカーボールを縫う少女――活動の天気が音連れたのは、2001年のことです。日韓ワールドカップwp翌年に控えた同年、サティヤルティ氏と、5歳の時からサッカーボールを縫う労働をしていたソニアさんが来日し、記者会見を開きました。 ソニアさんとの出会いは、私にとって、児童労働の問題を根本から捉え直す機会となりました。それまでは、児童労働を途上国の問題として考えた節があったように思います。彼女に出会い、その言葉に触れた時、目の前にいるこの子が、私たちが使っているかもしれない物を作っているというつながりを、はっきり感じることができました。私は、子どもたちがサッカーボールを縫う現場を見せてもらったことがあります。インドの田舎では、家に明かりがありません。暗い部屋のなか、あるいは、軒先でボールを縫っている子どもたちの姿をみると、日本で思い描く、〝サッカーボール〟のイメージは全く結びつかないですよね。児童労働は、知らずに物を使っている私たちの責任でもあり、こうした観点から語っていかなければならない課題だと気付かされたのです。 ―—児童労働が起きてしまう背景には、複雑な問題がからみあっています。 一つは、子どもの労働力を必要としてしまう、経済とビジネスのあり方です。また、地域に教育や福祉が整っていないことや、家庭の貧困も影響しています。〝自分も働いていた〟という親や周囲の価値観も関係しているのでしょう。ACEでは、特に農業分野の児童労働に焦点を当て、インドとガーナで活動を行ってきました。例えば、インドでは、「ピース・インド プロジェクト」を2010年から実施しています。インドのコットンは、糸、生地、衣類製品など、さまざまに形を変え、主に中国を経由して日本に輸入されます。コットン畑では、35万人もの子どもが働き、うち6割から7割が女の子。ACEの主な活動は、農薬まみれの過酷な労働から子どもたちを守り、教育の支援をすることです。年齢の低い子どもには、ブリッジスクール(補習学校)を展開し、かばん、征服、給食などを支給しています。子どもたちが学校に来ることは、親の食事の心配を減らすことにもつながるんです。また、15歳を超えた女の子には、自立支援も行っています。読み書きや計算を教えながら、裁縫や手芸など、より健康的な職業訓練をします。もう一つ、親の収入が向上するような支援事業も欠かせません。こうした取り組みを通して、これまでに、三つの村を「児童労働のない村」に変え、約1000人の子どもたちが教育を受けられるようにしてきました。 ――ガーナでも、同様の「スマイル・ガーナ プロジェクト」を2009年から実施しています。日本に輸入されているカカオ豆の約8割はガーナ産です。 ガーナでは、よりコミュニティー(地域)の啓発に力を入れています。地元ボランティアの人たちが、カカオ畑の見回りをし、働いている子どもがいれば、親を含めた話し合いを通して学校に通えるように支援しています。また、ガーナ政府と連携して進めているのが、「児童労働フリーゾーン」の構築です。住民や自治体などが地域に継続的に介入することで、児童労働がない状態を維持する試みです。世界で1億6000万人の子どもたちが児童労働をしていて、その半数がアフリカにいることを考える時、国家レベルの仕組みをつくって、広げてもらうことが重要なのです。 全ての子どもには幸せに生きる権利がある 消費者が持つ大きな役割――先進国の日本が果たすべき役割は何でしょう。 大きな一つは、日本本企業が児童労働に関わるものを、生産、調達、販売しなくなることです。安い労働力を必要としてしまう、ビジネスや経済のあり方を変えるには、企業への働きかけが欠かせません。ACEでは、サプライチェーン(供給連鎖)の関心が国内で高まる前から、企業の意識改革に取り組んできました。代表的なのは、森永製菓のキャンペーン「1チョコ for 1スマイル」の支援パートナーを、2011年から務めていることです。売り上げの一部は、カカオ生産国の子どもたちの教育支援に充てられます。私は、買い物は「投資」と同じだと思っています。自分の好きなものを買うということは、その企業を応援するということですよね。そうした意味で、私たち消費者の役割は極めて重要です。〝このブランドの服が好きだけど、会社は大丈夫かな〟と思ったら、企業側に確認することは、すぐにでも始められる行動の一つ。企業の中にも、現状を変えたいと思っている人はたくさんいるので、外からの声は、社員が行動を起こす上での強い後押しになるのではないでしょうか。 ――創価学会は、これまで様々な形で人権意識の啓発や、人権教育の推進に取り組んできました。 児童労働の撤廃を目指す中で、とても大切なのが、子どもの権利の浸透です。なぜなら、〝貧しいから仕方がない〟〝必要悪だ〟と言う人が、世界中にはまだまだ存在するからです。子どもには健やかに育つ権利、教育を受ける権利がある。それを保障するのが国の義務であり、大人の責任です。でも、根本の理解がないことが、しつけという名のもとで、子どもへの虐待を起こす一因となっています。国連では、1989年に「子どもの権利条約」が採択されました。日本では94年に批准していますが、知っている人はわずかで、ほとんど浸透していません。本年4月、政府は新たに子ども家庭丁を設置し、それに伴って、 「子ども基本法」も施行されます。実はここ数年、基本法の実現のために、私も具体的な提言を数多く出してきました。日本は今、子どもの人権を考え直す、大事な時期に来ていると感じます。 ――最後に、心に残っている子どもたちとのエピソードをお聞かせください。 2010年、ガーナのカカオ畑での実情を伝えるため、当時中学2年生だったゴットフレッドさんが来日しました。彼は、自身の体験を「ものすごく大変な仕事をする小さな手」という詩にしたためました(以下、抜粋) ぼくたちの尊厳を取り戻すのを助けて/ぼくたちの権利を守るのを助けて/学校に行って教育を受ける権利/どうか勇気を出して発現してほしい/声がかき消されてしまっているひとたちを/泣いて苦しくて息ができなくなっている/こんな毎日にうんざりしている/児童労働をやめさせろ/ぼくたちは、ものすごく大変な仕事をしている、小さな手だ 普段のゴットフレッドさんは、冷静で理論的な子でした。;だから、詩で表現されているありのままの怒りや悲しみを教えてくれて、ありがたかった。彼は医師になる夢を持っていました。未来に向かって歩出す姿を見られたことは、すごく幸せでした。子どもたちの蘇生のストーリーは、どんな人間にも、困難を乗り越える、潜在的な力があることを証明してくれています。その一方で、今この瞬間も、奴隷のように働かされている子どもたちがたくさんいる。これからも私たちは、大人や社会が彼らのために何ができるのかを考え、行動し続けていきます。 【SDGs×SEIKYO】聖教新聞2023.2.14
May 8, 2024
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日蓮の戦略日蓮は、不正や間違ったことを見て、黙っておれない人であったのだろう。これまでも、教理の両親を世話し、日蓮自身をも支援していた安房国の東条郷の領家(荘園制度の領主)の尼が、地頭の東条景信に領地を横領されようとしたのを聞きつけ、裁判でそれを阻止したこともあった。領家の尼は、三代執権・北条泰時の弟・名越朝時の妻であったので名越の尼とも呼ばれる。地頭は、平安・鎌倉時代に荘園を管理し、税金を取り立てる役人であったが、「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺が生まれるほどに、権力を振りかざして横暴を働いていた。地頭による荘園の略奪に対抗する手段として、「半分あげるから、残り半分は勘弁を」(下地中分)といった妥協策がとられるほど全国的な問題であった。日蓮は、そのような地頭・東条景信を相手に、一年近くにわたって裁判の場に臨んで完全勝訴に導き、領家の尼の荘園をそっくり守りきった。このように裁判闘争にも勝利する日蓮は、『頼基陳状』のもっとも効果的な提出の仕方まで四条金吾に指示している。騒ぎに騒がせておいて、「陳情は書き上げてあっていつでも提出できる」と知人らに語らせ、公開の陳情の形にするよう指示したようだ。ただ、陳情の結果が出るまでには時間がかかる。直ちに対応すべきことは、御内からの追放と、所領の没収という問題である。まず、押さえておくべき心情として、➀わずかの二カ所の所領に執着しない、②たとえ乞食になったとしても『法華経』にはきずをつけない――この二点であった。『法華経』にきずをつけないということは自らの生き方の原点、よりどころ、信条としての『法華経』を放棄しないということである。この二つの姿勢に立てば、たとえ所領を没収され、御内を追い出されたとしてもそれは十羅刹女の計らいであって、その時は悪い結果に見えても、後になってそれがよかったと分かることがある――という大きな視点に立つことを押さえさせた。その上で、結果的に御内を追い出され、所領を没収されることになるとしても、自分からそのことを認めるようなことを言い出してはならないと忠告した。日蓮は、所領の問題を担当する奉行人との交渉で、決して後手の守りになることなく、先手の攻めに徹するように話の進め方を教示しているのが読み取れる。そのためには、少しも相手に媚び諂う態度を取らない。毅然としていることが大事であり、絶対にこちらから所領は入りませんと言ってはならないということだ。日蓮は、四条金吾の短気な性格から、「そこまで言われてまで、そんな所領なんかいるもんか」と口にしてしまうことを最も心配している。所領に執着心を持たないことはいいとしても、それをこちらから言ってしまったら、向こうのペースで話が進んでしまうからだ。その先手の第一手が『法華経』「自分から御内を出て、所領を返上しるわけにはまいりません」であった。第二手が、「『法華経』の信仰の故に主君に没収されるのだから、それは『法華経』に対する布施になることであり、幸いなことです」と声高に言い切ること。その時、決して奉行人に諂ってはならない。第三手が「この所領は、主君にもらったのではなく、主君の思い病を『法華経』という妙薬によって助けたことでいただいた所領です。その所領を没収するならば、その病が再び戻ってくることでしょう。その時、私に詫び状を書かれても、私に知ったことではありません」と当てつけるように、憎々しげに捨て台詞をはいて帰ってくることであった。先手の連続である。何も悪いことをしていないのだから、悪びれる必要もなければ、媚び諂う必要もない。「当てつけのように、憎々しげに捨て台詞をはいて帰って来い」という言葉に正しいことを信念をもって堂々と主張する日蓮の誇り高い精神が垣間見られて共感を覚える。このように読んでくると、日蓮は世間知らずの僧侶などとは程遠く、正義感に燃える〝戦略家〟としての一面も見えてくる。 【日蓮の手紙】植木雅俊訳・解説/角川文庫
May 7, 2024
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衆生所遊楽とは 一念三千とは、瞬間瞬間の心(一念)に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道と、声聞・独覚・菩薩・仏からなる十種の働き(十界)を具えていて、その十界がそれぞれに、また十界を具える(十界互具)ので百界となり、さらに存在の在り方や因果の理法としての十如是が具わって千如是となり、一念の広がりの三段階を示す三世間を加味して三千世界となるということだ。我々は、一念に三千世間という最大限の生命的空間をもっていながら、地獄の苦しみにさいなまれたり、有頂天になったり、心が委縮したり、尊大になったりして、狭い生命空間の中であくせくと生きている。それに対して、最大の生命空間の中で何ものも恐れることなく、動揺することもない、不動で、心豊かで、雄大な境地としてあるのが一念に三千を具現した状態である。その境地を、日蓮は『観心本尊抄』に次のように表現している。 今、本時の娑婆世界は、三災を離れ、四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化を以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり。 これを現代語訳すると、次のようになる。 本門寿量品が開顕された今、教主釈尊が久遠以来、常に説法教化してこられたこの娑婆世界は、衆生の眼には大火に焼かれているように見えてとしても、仏の眼には火災・水災・風災の三災にも損なわれず、成・住・壞・空の四劫をも超越した常住の浄土である。仏は過去に入滅したこともなく、未来に生ずることもない永遠の存在であって、その化導されるべき九界の衆生もまた仏と同体である。従って、この境地は『法華経』を受持する人の己心の一念における三千の具足であり、個人レベルの五陰世間から衆生世間・国土世間までの三世間にわたるものである。 日蓮が、「南無」すべき対象としていたのは、この境地であった。ここに「三災を離れ、四劫を出でたる常住の浄土」が立ち現れる。「四劫」とは、世界の成立から破滅に至るまでの四つの期間のことである。そこには、一念に具わる三千のすべての働きを自在に自ら受け用いることができる身(自受用身)としてのブッダ(覚者)である。『法華経』に説かれた永遠・常住の境地に「南無」することによって、「自己」に永遠・常住の境地を体現するところに「衆生所遊楽」がある。それがまた、「自受法楽」(自ら法の楽を受ける)ということである。それは、「現世安穏・後生善処」とも表現される。日蓮は、そのような意味を込めて、一切衆生にとって南無妙法蓮華経と唱うるよりほかに真実の「遊楽」はないと言っている。哲学者の梅原猛氏(1925~2019)の表現を借りれば、『南無妙法蓮華経』と唱える題目は、いわば永遠を、今において、直観する方法」(紀野一義・梅原猛著『仏教の思想12 永遠のいのち(日蓮)』であった。「衆生所遊楽」の「衆生」という言葉には当然、四条金吾も含まれている。「所」というのは、どこか別世界のことではなく、人間の住む国土である一閻浮提のことであって、日本国はその一閻浮提に含まれているのである。日蓮は、仏典の言葉を一般論で論ずることはなく、「それは、あなたのことです」と具体的に語る。ここも、その例に漏れない。永遠は、決して死後の世界にあるのではなく、「今」「ここ」で、この「我が身」を離れることはないのである。先の「観心本尊抄」は、日蓮が龍口の刑場で死に直面した後、流罪先の佐渡でしたためられた。日蓮は、苦難の中で永遠を見ていたのだ。中村元先生が、「道元の時間論は永遠性を見ているが、歴史性がない。それに対して、日蓮の時間論には歴史性があります」と話されたことがあった。確かに日蓮の場合は、永遠性に根ざしつつも「法華経の行者」として現実へのかかわりを重視する歴史的な時間意識があったといえよう。「衆生所遊楽」も「自受法楽」も、日蓮自身が、体現したものであった。その上で、四条金吾に教示しているのだ。「世間の留難」は、賢人や聖人も免れることはない。だから、いちいちそれにとらわれることなく、南無妙法蓮華経と唱えているように諭している。それも、一方では「女房と酒うちのみて」であり、他方では「苦をは苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合せて」と言う。我々は、苦しいことが続くと、極端に落ち込んでしまったり、逆に楽しいことや、いいことがあると極端に有頂天になってしまって、自分を見失いがちである。自分の一念の置きどころは不動であるべきで、自分の進むべき道は客観状況が変動しようがぶれてはならない。困難な苦境にあれば、冷静に「苦しい」ことを認め、舞い上がるほどの楽境にあっても、平静を保って「楽しい」と達観して、わが道を行く。それは永遠のものを見据えて、不動の境地に立っているからこそであり、日蓮はそこに南無妙法蓮華経と唱えることの意義を説いている。たとえば、独楽の中心軸がずれていれば、回転が速いほど、不安定に独楽は踊る。軸が中心にぴったりと合っていれば、回転が速くなればなるほど、全くぶれることなく安定して回転する。客観状況のあわただしさが、回転に相当し、中心軸が自己の心と考えればいい。 【日蓮の手紙】植木雅俊訳・解説/角川文庫
May 7, 2024
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