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その電話は400枚近いキャビネプリントのチョイスに追われているときに掛かって来たと思う。曖昧なのは顔の見えない相手に対する憤慨が強かったせいだろうか。電話を切って項垂れた園長が伝えて来た。子供の親御さんから、自分の子を晒しものにしたくないという内容の抗議があったこと。説得したが受け入れられなかったのでしかたなく、数名の子供たちの写真は展示しないで欲しいということ。ずっと耳の奥に晒しものという言葉が残った。怒りのあとから哀しさがこみ上げて来た。キヨミくんの絵が話しかけて来た。ステラレタどうするのか。あらためて400枚から3人を外して行きながらやるせなさが緊張感を途切れさせ、あと選んでねと印刷屋(製本して会場で配ったようだ)とクラブメンバーに言い残して、煙草を吸いに庭へ降りた。職員のケイスケさんの話を考えていた。シンヤくんの脱走事件。ある夏の日、なにかの理由で園を飛び出したシンヤくんは炎天下を4時間かけて自分の両親のいる家まで歩いたんだそうだ。ケイスケさんは数メートル後ろをだまってついていった。シンヤくんはときどき振り返りながらも、ただ歩き続け、家の玄関までたどり着いたが、引き戸を開けることに躊躇っていたらしい。声も出さずにじっと引き戸を見ていたシンヤくんにケイスケさんは一言「帰ろう」と声をかける。シンヤくんは涙をボロボロこぼしながら黙って頷いて、また来た道を歩いて戻って行った。成長を止めたシンヤくんの小さな脳。そして表れた壮絶な孤独感。園長もわかっていたのだ。いや、あざみ園の職員みんながわかっていたのだ。親の葛藤も。どうしようもない事実を胸元に突きつけられた気がした。しかしそれが現実だ。自分は個人的に3人に額装した写真をあげようと考えていた。30点ほどに絞られていた。半数が自分のだった。その半数から6点だけを指示して、あとは、再チョイスするように頼んだ。「これ最初の扉に使いたいんですが」いいよと返事して会場の下見にその場をあとにした。展示はデパートの催事場で行われた。タイルモザイクの生き生きとした絵画作品と子供たちの写真、それに園長の言葉が絵本のように語りかけている。手作り品のバザーはおきまりだったが、行政にアピールするインパクトはあったようだ。盛況だった初日、マリちゃんの写真の前でお母さんが泣いていた。「家ではこんな表情見せたことないんですよ」園長が横で「園では伸び伸びしてます」と。敢えて自分が撮ったことは伏せてもらっていた。撮影したときのことを思い出していた。半開きの口元、食い入る目線。土間に這いつくばってフレームしたこと。三日目におふくろが会場に出向いて観て来たと連絡があった。母親の後ろでそおっと右手を挙げてる自分の写真を恥ずかしそうに見ている女の子がいてちょっと感激したとのこと。「あんたはこんな仕事してるんやね。ちょっとばかり誇りに思ったよ」返事は曖昧だった。今思えば、おふくろが生きているうちに、ちゃんと伝えるべきだったんだ。「いいえ、あなたのおかげでした」と。後日談展示を終えて、プリントも差し上げて数日後、園長から電話がはいった。「あのあとね、みんなの様子が変化したんよね。見違えるような変化」「どうしたんです?」「いや、それがね、テレビの前でみんな美容体操してるんよ、毎日!」
Apr 13, 2015
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秋が深まった頃、作品展がその歳の暮れ近くに決まった。それまで撮り貯めたカットは数だけはある。が、前半のネガを全部捨てた。クラブの部員たちにはそのことは伝えなかった。指導するにあたって自分を含めて月例会で持ち寄った全ての作品に対して質問と解説と批評をすることを義務づけたからだ。そのなかからベストをチョイスしていく。自分は残された日数では撮りきれないと思って切り絵の日以外にも園に通うようになっていた。最初に通い始めた頃、どう声かけしていいのか迷っていた自分はもうなかった。最初に描いていた障害者たちというくくりを捨てた。可哀想とか同情とかは必要ない。ごくごく普通の生活があり、その延長に切り絵教室がある。その日常を体感しなければ写真で語れないから。10月最初の土曜日、訪ねて行くと縁側でユウコさんがひなたぼっこをしていて、その奥にいたヨリちゃんがガフガフいいながら膝をバタつかせて近づいて来た。(脳性麻痺で歩けない)おはようと奥に声をかけて縁側に腰掛けると間髪を入れずにヨリちゃんが背中にぶつかって来た。「こらあ、ヨリ、あんまりくっつくとよだれがつくやんかー」ヨリちゃんは鼻水とよだれのい混ざった顎をしゃくりながらワオガフゴフと笑い声を上げている。ユウコさんが横で笑っているのがわかった。あまりに大きな声で言ったので、他の子供たちが集まって来て縁側が賑やかになった。「よっしゃあ、みんなで写真写るぞー、並べー整列ー」シンヤくんが他の部屋の子を呼びに行った。初めて会うキヨミくんだった。(名前から女の子だとずっと思っていた)ずんぐりむっくりの浅黒い、誰も近づけない眼光を持った極度の自閉症の青年だった。この数ヶ月人前に出なかったらしい。「よう!」返事はしてくれない。後に園長から聞いた話では、軽いストレスがかかっただけで自分の手を噛みちぎって血だらけになるらしかった。あの絵を描かせた心の中の絶望的な喪失感はどこに原因があるのだろか。本人はなにも語ってくれなかった。絵で語る以外は。挨拶代わりの集合写真が終わって、それぞれの日常に戻って行ったが、ヨリちゃんだけはべったり離れてくれなかったのであまり写真になってないのがその日。翌日、展示が近いということもあって、タイルモザイクの先生が午後から教えに来てくれるというのでクラブの二人と一緒に再訪問した。部員の撮影ポジションに気をくばりながら自分のポジションを探して見回すと、なんとなくみんなに緊張感があるのがわかる。ああ、しまったと思ったが気をとりなおして自分がピエロになってみんなに戯けてみせた。「あれえ、せんせー今日はあたまツルツルやん~、シンヤくんより光ってるよー」「油つけとるけんねー今日は、シンヤちょっと並んでみ」先生も素晴らしい人でこの一発でなごんだ。2時間ほどで3本。手応えのようなものはなかったが程よい疲労と満足感があった。土間の地べたを這いながら追いかけたダウン症のマリちゃんの真剣な眼。なんども呼びかけてやっと声が眼から聴こえたユウコさん。普段見せないムっちゃんのしたり顔。シンヤくんとキヨミくんのにらみ合い。呼ぶとそっくりかえって顔を向けるヨリちゃん。生きていた。みんな。ボランティアの方がお昼のうどんを差しいれにこられた。一緒にどうですかと言われて自分は子供たちと同じちゃぶ台に加わった。「すみません、どんぶり足りないので小さいのでいいですか」「あ、いやいいすよ、ヨリと一緒に食べますー」ひとつのどんぶりに二人で箸を突っ込んでいた。「あ、おまえこぼすなよーきたねーなー、かもぼこやるよー」「ガフアウゴフ」横に居たムッッちゃんが自分のかまぼこをどんぶりに入れてくれた。「おー、サンキュ。太るかなあ」「ケッケッッケ」初めてムッちゃんの笑い声を聞いていた。帰り際、珍しくシンヤくんが声をかけてきた。「こんどいつくるん?」「んと、来週の木曜かな、なんで?」「頭、髪切ったほうがかっこいい?」「そうやねー、いまでもかっこいいぞ」金魚の糞のキヨミくんがムスっとしている。カメラバッグから小型の水準器を取り出して手渡した。「ほらこれな、この小さい泡のまんまるがいつでも上をむくんやぞ。キヨミの絵の丸印とおんなじや。キヨミにプレゼント」キヨミくんはじっとその泡を見つめたあと上目遣いで自分を睨んで少しだけ照れた顔をしたように思った。昨日なら手を噛むかいなくなるかなのに、見送りしてくれた。「シンヤ、寝小便すなよー」「にいちゃん、またねー」帰宅してすぐに暗室に向かう。発表プリントは半切なので黒の締まりを意識して現像は1対1の希釈液を、時間を1分押した。ネガで見ても空気感が伝わって来た。ほかのふたりは撮れてるかなと気になったがプリントで判断することにした。その次の週、園長から電話が入った。予測もしてなかった壁だった。
Feb 11, 2015
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ユウコさぁん。大きな声で呼ばれても、はぁいという返事はない。そのかわりユウコさんは照れ笑いを浮かべながらゆっくりと右手を挙げて返事の意思表示をする。その当時28の誕生日を過ぎていたが、心と身体はまだ9歳くらいのままだった。彼女が人生の歩みを止めたのは、たんに自閉症というだけではなかったろう。あざみ園で一緒に暮らす10数人の子供らは(ほとんどが成人であるけれど)重度の障害をかかえながらある意味で隔離された環境にあったと思う。当時はまだ福祉法人として認められず、かつ重度障害が影響して行政下の施設にも受け入れられない子らが田舎の平屋で共同生活をしながら社会復帰を模索していた。園長の原田女史が走り回って近場のボランティアの協力でなんとか運営していたようだった。自分が関わりを持ったのは、当時、帽子デザインをやっていた同級生からの電話で、子供たちの作品展(切り絵の一種)をやるので写真を撮って欲しいという依頼からだった。訪ねたときに眼に入ったのはクネクネと動きながらしょっちゅう涎を垂らしているヨリちゃんや、いつもだらんとした死んだような眼で無口を通すムッちゃん、かたこと話をするけれどどこかよそよそしいシンヤくん、そしてみんなに絵を教えている先生。生半可な気持ちで写真は撮れないなと痛感しながら園長と話させていただいた。あらかた説明を受けたあと、壁にかかる二枚の鉛筆画に惹き付けられた。キヨミちゃんが描いたという。やさしいタッチのなかにどうしようもない寂しさとすがるような目線がある自画像に近い絵だった。心が動いた。当時、電力会社の写真部を教えていたので、この話をクラブに持ち帰った。それから半年、週一回通いながら数百枚の写真を撮るのだ。みんな面白そうだと意気込んでいたが、その意気込みは、わずか2月の訪問で打ち砕かれていた。子供たちとの距離が縮まらない。ネックだった。コンタクトからチョイスしたプリントを視ながら、なにも撮れていないことを自覚しなければならなかった。遠慮がある。踏み込んでいないのだ。いや、踏み込ませてもらえないのだ。このことは自分も同じだった。接し方が解らない。そのうち、クラブのメンバーがひとりふたりと離れて行って、自分とあとふたりが最後まで通うことになる。葛藤だった。夏が過ぎたある日、いつものようにカラータイルを砕いてモザイク画を作っている子供たちのなかに自分はいて、いつものようにカメラをぶら下げていた。その日、ただ、なにもしなかったのだ。なにも。声をかけるわけでもなく、ただ十数人の真ん中あたりにいて、漠然と子供らの作業を見ていた。そのとき、斜め前で背中を向けてつんのめりながらせっせと画用紙に指を運んでいたムッちゃんがときおり後ろを振り向いて自分を見ていることに気づいた。撮って欲しいのかも知れないなと思いながら、カメラに85mmをつけて『ムッちゃん、写真撮ろうか?」と声をかけて、ファインダーを覗いてフレーミングした。狙いどおりならすんなりいくはずだった。ムッちゃんはなんのてらいもなくスッと振り向いて、自分のレンズに視線をくれた。瞬間、彼女の澄んだ瞳に圧倒されて、生まれて初めて写真で後ずさった自分がいた。撮ることより先に、変に計算した自分がとても恥ずかしかった。なんの曇りのない素直な瞳だった。壁は自分にあるのだ。健常者の側に。彼女のおかげで、子供たちのなかに、生活に、心に、溶け込めるようになった。このことがきっかけでその後、ちゃんと子供たちと向き合った写真することができるようになったのだった。今でも自分のベースにそのことは存在する。壁は自分の側にあるのだと。つづく
Jan 31, 2015
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私はあの日、捨てられた子どもだと思った。 捨てられたことなど一度もないくせに。 「十三歳になったんだよ。じゅうさんさい。」 耳が遠くなった入院中の祖父の見舞いで、どこか緊張しながら大きめの声で彼に告げる。 私は三日前に誕生日を迎えたばかりだった。 しかし、祖父の持つ無数の皺にわたしの十三年間は全く気圧されて、ぎこちない声(私は、ちょうどその時期に催される文化祭の舞台練習を想像し「まるで台詞のようだ、わざとらしいし」などとひとり恥ずかしがっていた)が、不恰好に病室内に響いた。 祖父はベッドの淵に腰掛けていて、真向かいに居る私に杖を取るよう、指先で指示しながら「そう。」とだけ呟いた。 茶色く塗られていても木の存在が充分に残る、ところどころがゴツゴツした杖は、私の記憶の中では既に祖父と一体化していた。 その昔、もっと祖父が元気だった頃、自宅の庭に出て植えたばかりのポーチュラカを見つめる後姿を、私と母はリビングの窓から眺めていた。 「おじいちゃんの杖、逆さまにすると上手な「し」だよね。」と言う私の言葉を母は「それいいね。」と気に入って、それ以降ことあるごとに「おじいちゃん、はい、“し”。」「なーちゃん、“し”取って。“し”。」などと、いささか楽しそうに言うのだった。 私は祖父の庭に出る時間の殆んどをリビングから眺め、時には彼の横に立って、ポーチュラカやコデマリの成長、薔薇や金木犀の香りなどを確認したりして過ごした。 祖父はいたって寡黙で、でもどこか飄々としていて、瞳はいつも凛としていた。 私が横に立っても会話など殆んどないのだけれど、私はその横側がひどく心地良く、懐かしいもののような気がして、いつもその時間は鼻の奥のあたりがつぅーんとするのだった。 「はい。」とベッドに腰掛ける祖父に杖を渡す。 杖を支えに立ち上がろうとする祖父に手を添えようと、座っていた椅子から立ち上がった私は、手慣れた動作とそこから派生する拒否のサインを祖父から送られて、またもやひとり恥ずかしがった。 祖父は相変わらず寡黙で、病院の小さな中庭に出るまで一言も言葉を発せず、私も相変わらず後姿ばかりを眺めながら歩いた。 祖父の後姿は自宅の庭が似合う、と思いながら。 緑の芝生と少し色付いたフェンス傍のすすき。 太陽の控え目な光、しっとりとした仄かな風、モズの競うような鳴き声。 小さな中庭は、溢れる秋を所狭しと放出していて、祖父がよく中庭に出ているという母の話しに納得しながら、祖父の横側に立った。 「ボタンは咲いたかな。」祖父がぽつりと尋ねる。 「うん。咲いたよ、鉢に植え替えなきゃってお母さんが言ってた。今度持ってくるよ。」 祖父は私を見て、にっこりと微笑んだ。 空気の開放感は大きめの声を清々しく喉元から発声させたし、祖父は微笑んだし、私はなんだか何もかもがうまくいくような明るさを感じずにはいられなくて、久しぶりに鼻の奥のあたりがつぅーんとしたのだった。 それから随分と長いあいだ祖父と私は並んで立ち、何を話すでもなく、秋の空に身体をあずけ続けた。 四日後、その知らせを聞いた時、私はリビングのソファで膝を抱え、大人たちのせわしい動きをぼんやりと眺めていた。 「なーちゃん、おじいちゃん死んでしまったよ。」 私は復唱した。 「ナーチャン、オジイチャン シンデシマッタヨ」 「オジイチャン シンデシマッタヨ」 「シンデシマッタヨ… シンデ… ナーチャン… シンデ…」 ようやくその意味が掴めると、私はすぐに母親の元へ急ぎ「ボタンは植え替えた?」と尋ねた。 母は一瞬呆気にとられた顔をしたものの、すぐに有無を言わさぬ口調で「なーちゃん、制服準備しなさい。」とぴしりと告げたのだ。 私はまたソファに戻り、膝を抱えた。 大人たちはきびきびと動き、その姿がまるで颯爽として威厳さえ漂わせていたものだから、いつもはよく笑う叔母も、祖父によく似た伯父も、果ては父や母までも、全く知らない人に映り、私は更に身体を小さくして、膝を抱えなければならなかった。 庭は依然としてリビングから眺められる。 しかし、そこは数分前とは全く異なった景色となって眼前に迫り、今にも私の芯の部分にスイッチを点し、燃やし尽くしてしまうかのような迫力だった。 私は、より一層このうえないほど身を縮め、膝を抱え、この恐ろしい状況をそれでも理解しようと必死だった。 ソファの背で涙を拭おうと頭を振った瞬間、庭先のボタンがしんなりと揺れる。 「捨てられた」と思った。 その死に際してもなお大切なのは自分の生であり、存在であることに執着する十三歳の私は、不器用で不様な甘えを存分に纏い「捨てられた」と思い込むことで自分を守った。 ポツンと置かれた手荷物のように。 道端に踊る紙切れのように。 せわしく動く母に、厳しい表情の父に、叔母に、伯父に、秋の中庭に、庭のボタンに、そして祖父に。 捨てられた、と。 二十年近く経った今もボタンはいたる所で咲き続け、その逞しさと寡黙さに祖父を想い、わたしは一度も捨てられたことがないと知り続けている。 あの日守った自分というものが、どれだけの息吹を根付かせ、大地と空に今日という日を送り続けることが出来るのか知りたいと願っている。 私はあの日、捨てられた子どもだと思った。 捨てられたことなど一度もないくせに。
Sep 24, 2014
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深い湿気に一握りの苔が呼吸する鬱蒼として重い桴海が今を支配しているときおり高みを抜ける風が枝を押し曲げては翻り緑陰の濡れた葉を打ちしだいている捕われた枝は美しい撓った肉体は鮮やかに黄色い四肢を繋がれた美しい孚囚深い杜の裸体やがて育った胞子の触手が開かれた足首から這い昇り繋がれた俘囚の体を浸食するのだそうして今わたしの中にある桴海は艶かしい曲線を描いている
Jul 15, 2014
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昨夜の月を思い出そうとして今日は涼しい帰り道に立ち止まるふくよかな乳房の輪郭を夜半に落とした月はほのかに黄色い天鵞絨の指先で街の隅々に触れるそれをわたしは恨めしく見つめる空よ雨霧の包紙で月を隠せやはらかひ乳輪の満ち始めに処女の無垢を覆うヴェールで蒼穹の色彩から夜の虹からやがて香りに乗って誘い始めた花々のあひだを五月の貴公子が通り過ぎるのだ宛先の無い手紙を届けながら
May 23, 2014
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私にしか見えていないあなたとあなたにしか見えていない私と高鳴る胸と小さな不安と確かめ合う啄み許し合う心と求め合う唇と喧噪息づかい短い顎髭私にしか聴こえないあなたとあなたにしか聴こえない私と腰に回された腕と囁きとあなたは私の指を咬んだ舌の上で分け合うほどの窓辺のソファーに掬うようにあなたは私を抱きしめて豊かな笑顔と優しい視線を零した私に背中のあなたは私の孤独を包み込む繭胸の厚みと膝の大きさと狂おしく香る唇とがああこんなにもあなたは
May 8, 2014
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早朝の瑠璃に佇む色にもう呼吸止めた林道にひとつの記憶のなかで故郷が瓦解しようとしている その永い記録を終焉しようとしているのだ そのことを私に伝えるために 涙で詰まる言葉に変えて 従兄弟は小さく笑ったのだった 朽ちた額縁 から割れた三面 からゆらぐ菖蒲 からポロポロと溢れる瑠璃の心 本家の土間 に時をを刻んだ杉の木 に吉野川へ落ちる獣道 にポロポロと瑠璃の声が降る無意味に埋まることへの諦めがやがて山へ還る のだそうして吉野白屋の物語は終わる 親族の瓦解とともに 遺稿となるべき物語は 父の記憶の底で瓦解し始めてそうして懐に抱えたまま逝ってしまわれた私は記憶に捨てられた
May 4, 2014
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寒稽古の最終日に 君は初めての試合に臨んだ おそらくかつてない緊張からか 君の不器用な指は 面の紐をうまく結べず 剣道部の女子が見かねて 君の防具を結わえた ぽんと軽く背を叩かれたことで 君の動きに無駄がなくなったように感じられた そうだそれでいい先鋒が戻り 君は 小手を確かめて 静かに立ち上がると 袴を揺らしながら ゆっくり開始線に向かう クラスの誰かが大声で 声をかけたのを期に 女子生徒もがんばれの声をかけている 竹刀を腰に当てた君の歩く姿は まぶしく美しい まだ幼い頃に 君のおじいちゃんがさせたかった剣道を 君はいやがったのだけれど いまこうして美しく蹲踞している これから始まる戦いの前に 君はおそらく声援さえ聞こえずに ただ美しく蹲踞している 立ち上がって竹刀を合わせ はじめの声だけが 君に届いて 激しく打ち合いが始まった 相手が部員であることは 君は百も承知で それでも果敢に飛込もうとする 親友が喉が張り裂けそうな声で 声援を送る 自分の分身のように 君に熱いエールを送り続ける まるでその声に負けないといわんばかりに クラスの全員が君の名を呼ぶ とどけと 小手より一瞬早く 君が打ち込んだ面が決まり どっと上がる歓声 しかし面の中の君の顔に嬉しさは無い おそらく この一本は自然に打てたもの それを君の眼が物語っている 道着の肩から 汗の湯気が立ち上り 君の疲労が見え隠れする やがて声援に押されて 二本目が始まり 再び君は 間合いを詰めて行く 疲れからか 足さばきも切れがなくなり 鍔迫り合いの直後 胴を許した 上下する肩で息をしながら 中央に戻り竹刀を合わせたとき 時間の笛が鳴った 終わった それ以外になかった 蹲踞して竹刀を納めた時 君が少し大人に見えた
Apr 14, 2014
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木肌がすこしあたたかいとき 1 地名をなくした野原 地上の灯りから離れたところで わたしたちは夜の木になった 夜が夜の木に入ってくる時間がわかったよ 2 二人きりになりたいので わたしはどんどん一人になる わたしからも一人になって あなたとだけいるわたしになる 眼鏡を忘れてきたり 上着を忘れてきたり 足跡を忘れてきたり 3 茶色いセミの羽のようなのが 背中についていてくれればいい 背を向けなければならないとき ことばの代りに それをふるわせてられるもの 4 街が近づいてきて お近づきのしるしのように雨が降った 雨に流されたのは 殉教者風の恋人でした 5 秋になったら色を変える葉をつけて 冬には忘れられている木 でも木は忘れない あらゆることを思い出している 木肌がすこしあたたかいときは 優しい恋歌をうたっている 人間だったときに うたえなかった うたを (書肆山田「高橋順子詩集成」所収)
Apr 6, 2014
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天使などは見たことがないから 描かない重くいっそう暗く垂れ込めた空は痛みを誘う。海が見える公園墓地はいつかのクールベの絵画を思わせる。島根県美で観たのだったか。写実という意識に残る感情の痛み。そういえば山陰の冬の海もモノクロームだった。通い慣れた墓地の階段には新しい小さな芽吹きが認められたがそれもまだ色を纏っていなかった。墓前に供える桃の枝と紫のスターチスが唯一春めいた温度で色を風に乗せて行く。細い蠟燭の小さな炎が揺れる。弥生三月気が触れて冥より呼びし母の声緋繊の庭に旅すれど三歩を慕う父の杖 生前、父と訪れた参道の灌木は今はまだ初々しく芽吹いていなかった。健在だったら父はこの桃をどう思うのだろうか。雲の切れ間から差し込んだ光は、冷たい風を忍ばせている。
Mar 3, 2014
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業の花びら 夜の湿気が風とさびしくいりまじり松ややなぎの林はくろくそらには暗い業の花びらがいっぱいでわたくしは神々の名を録したことからはげしく寒くふるえてゐる ……遠くで鷺が啼いてゐる 夜どほし赤い眼を燃して つめたい沼に立ってゐるのか……松並木から雫がふりわづかばかりの星群が西で雲から洗はれてその偶然な二っつが黄いろな芒で結んだり残りの巨きな草穂の影がぼんやり白くうつったりするああたれか来てわたくしに云へ「億の巨匠が並んで生まれ、しかも互に相犯さない、明るい世界はかならず来る」と宮沢賢治校本全集3 春と修羅第二集 下書き稿二
Jan 31, 2014
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後輩が結婚したときに「祝婚歌」を贈った。詩人の吉野弘さんの同名作品に影響を受けて作った。 雨の歩道橋をひとつの傘をさしてふたりは歩いてくる そうだ もうふたりの共同作業は始まっている それでいい テーブルの前でも 初めて逢う新婦のはにかみは 夫になる君の横顔に同意を求めているよ 中略 そうして多くのほしの中で 何故ふたりが出会ったのかということを 思い出してほしいと願う 長い詩文なので割愛するが、この感覚は吉野弘にほかならない。未発表なので。 吉野さんの詩はまるで会話のような解り易い文体と、その根幹にある詩人の眼が心の言葉に置き換えられてあっさりと読者の心を刺す。そして大部分が最後の結文に近いところで迫ってくる。そして透明感と。代表作はかなりあると思うが、個人的には「I was born」に特に影響を受けた。散文詩という世界に自分を向かわせてくれた。「夕焼け」「生命は」もいい。言葉で景色を描くことを学ばさせてもらったと思う。きっと素直に召されたのだと。ご冥福を。「素直な疑問符」 小鳥に声をかけてみた 小鳥は不思議そうに首をかしげた。 わからないから わからないと 素直にかしげた あれは 自然な、首のひねり てらわない美しい疑問符のかたち。 時に 風の如く 耳もとで鳴る 意味不明な訪れに 私もまた 素直にかしぐ、小鳥の首でありたい。吉野弘
Jan 22, 2014
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雨南風は柔らかい女神をもたらした。青銅をぬらした、噴水をぬらした、ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、この静かな柔らかい女神の行列が私の舌をぬらした。太陽カルモヂインの田舎は大理石の産地で其処で私は夏を過ごしたことがあった。ヒバリもいないし、蛇もでない。ただ青い李の薮から太陽が出てまた李の薮へ沈む。少年は小川でドルフィンを捉へて笑った。西脇順三郎『ambaruvalia』1933年
Jan 3, 2014
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扉を開けると冷気と一緒に饐えた匂いが登って来た。綿雪が舞っている。階下に眼を向けると道を挟んだ角地にあった古い木造の家が取り壊されていて人間の分泌物と無数の腐った生命体とが混同する生まれたての地肌が無造作に横たわって景色を主張しつつ匂いをまき散らしているのか。腐ったいくつもの生命が輪廻であると解っていても饐えた匂いに朝からいやな気持ちにさせられた。毎年、この日の前後に、私は手紙を書いた。良きことも悪しきことも混同して。まだ墓に入ってない悟のためにではなく、自分の贖罪として。最後にまともな会話を交わしたのは、思えば、叔母が交通事故死した葬儀の席だった。「なんがあったん」彼は、私を認めると足早に歩いて来てこう聞いた。その感覚が違和感に繋がっていたのに気づかなかった。気づいてやるべきだったのだ。そして悟は死んだ。確かに私の責ではないのだが、もっと身近に存在を気遣うべきだったのだろう。吹雪いていた。多くの友人が風雪のなかで泣いてくれた。言葉少なに、父親は、しょうがないと呟いた。恋人が憔悴していながら長い口づけをした。叔父貴が若い友人たちに伝えた。「あんたら親より先に逝くことのこれ以上の親不孝はないんで」残された者らはその匂いを糧にすることはできない。悟よ手紙はまた書くから、供養はこれで。
Dec 29, 2013
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夏の終わりにボクは子供会の仲間に誘われてあの緩やかな坂道を登っていたんだ。日曜学校。当時はそう呼んでいたっけ。聖ヨゼフの英語教室のこと。早熟だったボクに母親は早速英語を習わせたかったらしい。初登校の日。あの坂道は蝉の鳴き声を浴びて不思議な光を反射していた。そこに近づくにつれてボクは先輩たちの喋る遊びやプールの話が聴こえなくなった。胸がドキドキして息苦しくなって、立ち止まって彼らを見送ると、振り向いて一目散に家へと逃げ戻ったんだ。今思えばたわいもないことかもしれない。でも子供のボクにとって、あの坂道の上に建つ見たことも無いきれいな建物は、きっと恐ろしい何かがいて、そして、ボクの知らない言葉を話す人がいるんだと思うと、とても怖くてしょうがなかった。そのあとのこと、覚えていないんだ。知らない子供たちと友達になり、やがてシスターやクラスの連中とも仲良くなっていた。その年のクリスマス会。ボクはステージの真ん中にチョコンと座っていた。横には年長の女の子が椅子に腰掛け、マントを身につけていた。ボクは白い、寸足らずの衣装を着てた。音楽が流れて幕が開いた。賛美歌の背景に寸劇として生誕の絵を演じたんだと思う。なんでも、クラスの仲間が、ボクが絵画の母子像の赤ん坊に似ていると言って、その役に決まったんだそうだ。台詞は無かったんだけど、そのとき、観客全員にお菓子が振る舞われ、それを見ていたボクは「みんなお菓子行き渡りましたか?」と言ったそうだ。大人たちはみんな笑った。シスターも笑っていたと思う。こうしてボクのキリスト初体験は小さな思い出になった。5歳の冬だった。大人になったボクは、ミケランジェロのピエタに出会って哀しみはキリストにではなくマリアにあるのだと初めて悟らされた。メリークリスマス/みんな幸せは行き渡りましたか?
Dec 24, 2013
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The New York Sun (written by Francis Pharcellus Church)大久保ゆう訳 ニューヨーク・サン新聞 1897年9月21日 社説欄本紙は、以下に掲載される投書に対してただちにお答え申し上げるとともに、このようにまっすぐな方が読者におられることを、心から嬉しく思います。「こんにちは、しんぶんのおじさん。 わたしは八さいのおんなのこです。じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら、サンしんぶん、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースはいるのですか? ヴァージニア・オハンロン」 ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、何もかもわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。 じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、そういうものがあふれているおかげで、ひとのまいにちは、いやされたりうるおったりする。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、子どものすなおな心も、つくりごとをたのしむ心も、ひとを好きって思う心も、みんなないってことになる。見たり聞いたりさわったりすることでしかたのしめなくなるし、世界をいつもあたたかくしてくれる子どもたちのかがやきも、きえてなくなってしまうだろう。 サンタクロースがいないだなんていうのなら、ようせいもいないっていうんだろうね。だったら、パパにたのんで、クリスマスイブの日、えんとつというえんとつぜんぶを見はらせて、サンタクロースをまちぶせしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずにおわっても、なんにもかわらない。そもそもサンタクロースはひとの目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。ほんとのほんとうっていうのは、子どもにも大人にも、だれの目にも見えないものなんだよ。ようせいが原っぱであそんでいるところ、だれか見たひとっているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないってきまるわけじゃない。世界でだれも見たことがない、見ることができないふしぎなことって、だれにもはっきりとはつかめないんだ。 あのガラガラっておもちゃ、中をあければ、玉が音をならしてるってことがわかるよね。でも、目に見えない世界には、どんなに力があっても、どれだけたばになってかかっても、こじあけることのできないカーテンみたいなものがかかってるんだ。すなおな心とか、あれこれたくましくすること・したもの、それから、よりそう気もちや、だれかを好きになる心だけが、そのカーテンをあけることができて、そのむこうのすごくきれいですてきなものを、見たりえがいたりすることができる。うそじゃないかって? ヴァージニア、いつでもどこでも、これだけはほんとうのことなんだよ。 サンタクロースはいない? いいや、今このときも、これからもずっといる。ヴァージニア、何ぜん年、いやあと十万年たっても、サンタクロースはいつまでも、子どもたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。※ そのあと、ヴァージニアはニューヨークの学校の先生になって、四七年間子どもたちを教えつづけたそうです。いいよね。報道にこういうひともいたんだよね。古き良き新聞人たち。小説ネタになりそうだけど資料が足りないかと。背骨がしゃんとしてるんだなあ。転載許可はいただいてませんが、思わずでした。
Dec 22, 2013
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その魅力に惹かれるのは何故という問いに、私はまだ明確な確信を持てずにいる。あるひとりの文章を読むまでは。古い本だが、そのアンソロジーの膨大に脱帽しつつなにげに開いた扉に、その答えがあった。「一章 死というものは、水だとか樹木だとかの、さりげない姿勢のどこかに、ごく美しく仕舞われているものだとぼくは思った。 ぼくはこのことを知りはじめてから、水や樹木と親しむために、ひとりで魚を釣りにでかけた。ぼくはぼくの影を終日水に写した。 死がぼくのなかに移り住み、またぼくを抜けて水に還り、再びまたぼくの内部のどこかに棲むーーその万遍ない無心の遊戯のなかで、ぼくは川底の砂礫のように濯われていった。 ぼくは樹木や水の思想のなかに、ぼく自身を送りこめるという安心を、いつのまにか抱きはじめ、生きている時間の喪失を楽しむことを覚えた。 一日振るとヤマベ竿は腕にかなりの重みを伝えてくる。とっぷり昏れるまで、ぼくはいつも河のほとりにいた。ぼくは爽やかな亡霊のように立って、橋の上の灯をあたたかく侘しく背に感じた。生命の淡い安定のように。 ぼくはもう死んでいるのかもしれない。ーーと思ったりもする。いつでも水の潺湲を背に負うて帰り、釣果何尾と日記をつけ、夢も見ず眠った。夢に見ることは、すでに何もなくなっていたからである。」(伊藤桂一 『釣りの風景』より)日本の名随筆 4 釣 巻頭 1982/10
Dec 6, 2013
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彼の残した手記は創造の源を垣間みることができるのだろうと思う。いや、それを実際に実現させていくことはものづくりの技術屋としては非常に興味深い。そのひとつが、ヴィオラ・オルガニスタと呼ばれる楽器で、日本の鍵盤楽器製作家の小渕晶男氏が製作したものは、12月に披露されるということだが、一足早く音楽家であり製作家のSławomir Zubrzycki氏が発表したのをYouTubeで聞いた。擦弦楽器と鍵盤との相性が良いのかはともかく、ダビンチの技術者魂に拍手ものではある。ダビンチの天才は確かに凄みがある。役立てばなお良いが。この楽器からはストラディバリウスは生まれないだろう。個人的であるが、技術は人に役立ってこそなんぼ、だと思ってるので、東芝の創始者、からくり儀右衛門こと田中久重の万年自鳴鐘に込めた魂に共感するのではあるけれど。そういえば以前アップした10核ホウ素による放射線吸収は、実用に向けて少しだけ研究者が増えてるようだ。商売人も多いけれど、でも、それで福島が救えるのならいつでも協力は惜しまない。技術屋の集まりがあればいつでも膝を交えたく。
Nov 21, 2013
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Oct 24, 2013
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トムクランシーは何を見ていたのだろう。世界のひずみは小さな復讐から始まったように。原罪なのだ。あの周到な背景描写はもう読めなくなる。66だったかな。惜しい。
Oct 3, 2013
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10B+n → 7Li + 4He中性子捕捉原理はすでに50年以上も前からあった。10核ホウ素に限って発見されているのだが他の化合物では分裂しないのか、その命題は価値がある。たとえばGdでも分裂反応は起きる。何かが何かに機能する。そのことは新たな結果を生む。問題は臨床なわけで。実験するには放射線をどうコントロールするのかが鍵なのか。東京電力さん、そろそろ門戸を開くときではないでしょうか。
Aug 31, 2013
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太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも聡明だからといって富を得るのでも知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり鳥が罠にかかったりするように人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。「コヘレトの言葉9章」聖書より
Aug 21, 2013
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京さんの作品が国内展示されている。彼女の初期作品から進歩したシルク。http://galleryhu.com/exhibitions/detail/?id=1364京都の個展は見に行けたけど、今回は行けるかどうか。ともあれ、欧州で評価されるであろうことには確信がある。変貌する、あるいは脱皮する方向を楽しみにしています。
Jun 12, 2013
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襞の触れるものたち
May 22, 2013
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いつも同じ夢を見るそれは舌触の記憶そこにあるべきは無くひたすら砂漠の砂だけが唇を浸食して舌を犯してくる得体の知れぬ魔物に追われてべっとり胸まで張り付いた褐色の汗と膝まで埋もれてもがく足にその砂は這い昇ってくるのだやがて口中をいっぱいに埋めて私を内側から吞込むのだが私の中の水分は失われず唾液と融合した砂の舌触りだけが吐き気とともに残されるいつも同じ夢を見る微熱の中の恍惚
Mar 28, 2013
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與 謝 野 晶 子あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生れし君なれば親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや。堺の街のあきびとの舊家をほこるあるじにて親の名を繼ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの家のおきてに無かりけり。君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戰ひにおほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獸の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、大みこゝろの深ければもとよりいかで思されむ。あゝをとうとよ、戰ひに君死にたまふことなかれ、すぎにし秋を父ぎみにおくれたまへる母ぎみは、なげきの中に、いたましくわが子を召され、家を守り、安しと聞ける大御代も母のしら髮はまさりぬる。暖簾のかげに伏して泣くあえかにわかき新妻を、君わするるや、思へるや、十月も添はでわかれたる少女ごころを思ひみよ、この世ひとりの君ならであゝまた誰をたのむべき、君死にたまふことなかれ。
Mar 14, 2013
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短いメールに雪国であることが書かれてあった。新潟。温泉。雪国の人たちは吹雪いてもスキーを楽しむことに感動していると書かれている。何度かやりとりして胸が詰まった。二枚の名詞を探し出した。JR東日本のお偉いさんのもの。ガーラ湯沢のロゴが入っている。切なさとは別に、彼女がそこを訪ねてくれたことが偶然ではないのではないかという想いに駆られた。まさかと思ったら「そうだよ」という返事が。駆け巡った。もう回忌をなんどか過ごしても自分の心にケリがつかないままの事実。本当に弱い自分だと思う。誰にも話したことはないのに。ガーラから。そして吹雪いている。ありがとうね。あなたがいてくれるおかげでもう少し生きていけるよ。ゆみに
Mar 7, 2013
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ブログの引っ越しを模索中。というか、書き手さんがめっきり少なくなった感のラクテン。フルーツさんやKONATSUさんはどこに安息地を求めたのだろう。インフォ時代から書き貯めた初期の文章は消えてしまってるので、移転しようがないけれど。(駄文ばかりだったが)まあ、少しずつ。かな。
Feb 18, 2013
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昼過ぎから優しく落ちていた雨が夜更けになって屋根を打つ楽器に変わっている。暮れの命日に墓参はしていたが法要の無い一周忌を今日ようやく済ませることが出来た。集う兄弟。少し痩せた兄と太った姉と。甥のKすけが帰省して、姪のKこが帰省して。予め内輪で仕切ることに決めていたので、吉野組にも大阪組にも手紙だけで知らせることにした。一抹の寂しさはあるものの、既に父にほど近い肉親はもう関西にはいないのだ。そう自分に言い訳して今日を迎えたのだった。久しぶりに会う姉は前髪を紫とグリーンにマニキュアしていかにも花屋ですよと言わんばかりで、兄はといえば変わらず良人の風格を保っている。ひとしきり冗談を交わしたあと、姪がスリーショットを珍しがって庭先で記念写真を撮った。そういえばこの三人で写真に収まるのは記憶に無い。車に分乗して出かけ、見慣れた階段をゆっくり昇った。風のない薄曇り。蠟燭の炎が消えないのはありがたい。降り出すかもしれないので早めに公園墓地を後にする。母が生前集めていた白檀の線香の香りを残して。遅い食事会で、父の部屋を整理して出て来たものが多かったこと、その中に母の残したものがかなりあったことなどを聞かされた。そして新しいアルバムが6冊。初めて見る旅行のビデオテープ。自分が撮った写真も何枚かあるが、父が遺した膨大なカラー写真たち。旅行のときに得意げに写真を撮る父の姿。懐かしさよりも父が遺した会話が脳裏を廻ってくる。アルバムにあったカビネに焼かれたモノクロームの父と甥。紛れも無く自分が撮ったものだが、その父の姿に衝撃を受けた。忘れていたが、このとき父の左手首に銀のブレスレットが認められる。父へ送ったものだった。ずっと身につけていてくれたのだろう。一枚だけ作品レベルの写真があった。サギソウのアップだ。撮影場所は裏庭だと思う。自分が撮影した記憶が曖昧なので父が撮ったものかもしれない。茶と花と人を愛した母と、その母を愛した父と。雨が激しくなった。食事会の段落で裏庭に煙草を求めた。おそらく兄と義姉とが綺麗に手入れした斜面にまだ蕾をつけない梅が雫を落としていた。手入れしてくれたのは兄夫婦しかいないだろうが、謝辞をどう伝えるのか、あらためてこんなに急斜面だったのかと少し驚き、この山肌に植林した父母の姿を重ねていた。今年の紅白の梅はいつ頃になるのだろう。とうさん、かあさん、ありがとう。
Jan 13, 2013
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そういえば今日君の従兄弟のこーちゃんが彼女を連れて帰省してきたんだよ。というかお嫁さんになるのかな。二人とも一度家庭を壊してるので労り方を知ってるみたいだ。痛がりなんだろうね。開高のエッセイに短文だけど完成された文を見つけたよ。”ととちゃぶ”という言葉から始まるんだけど、構成と展開の妙というか、途中で文を抜き書きすることができないんだな。連鎖が素晴らしいというか。底辺にあるテーマはやっぱり痛みだったな。しかも自分にある痛点をもダブらせてくる。いい作家はいい文を作るもんだね。たまには家に帰ってるのかい?ねえちゃんも義兄さんもずいぶん歳食っちまったようだけど。まあ、ねえちゃんは相変わらず花の世界で多忙の様子だったなー。何年たってもお前さんの遺品を整理できずにいるよ。生きる時計を止めてしまったお前さんの携帯をいつも持ったまま。母親だものな。あ、そうそう、こーちゃんの彼女さんは写真やるそうだ。こだわりはチェキらしい。ちょっと話してみたいかな。個人的には色風味はSX70のランドパックなんだけど、もうフィルムが生産中止になって久しいからね。お前さんを撮ったときはほとんどTRY-Xだったかな。24-35だったか、レンズは。お前さんの親友のみっちゃんが撮ってくれた遺影を思い出すよ。いい写真だった。潮騒が遠くに見えていたね。というか声も言葉も。そして項垂れたみっちゃんをよく覚えている。両手の白い包帯。彼も痛がりなんだろうね。生きた時間を、お前さんの証を、ありがとうな。もう少し語りたかったけどさ。痛がりな叔父なんでな、かんべんな。悟へ
Dec 29, 2012
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谷崎とクロソウスキーの接点について考えてみたのだけれど確たる結論には至らず。ニーチェを認識させたことよりも、ドローイングに見える作家の視線がどこにあるのかが気になって、物語の芯となる傍観者としての夫の役割が谷崎の「鍵」に似た部分かとは思えるのだが、そうとも言えない。「鍵」はその構成の問いかけが素晴らしく、やはり小説家の大家であることは間違いないのだと再認識したが、クロソウスキーに関してはまだ蒙昧である自分しか見えない。というよりも、何故この絵画に自分は惹かれるのか。スーザンソンタグならどういう視線でこの絵画群を評価するのか。エマニエルアルサンが描いた伝道師/詩人はマリオという名で、性を快楽と捉えた。それは谷崎も同じだが、クロソウスキーにおける性とは解放と背徳ではないのか。弓の美しいしなりを思い出しながら深呼吸してみた。
Oct 18, 2012
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紫のスターチスとピンクのカーネーション、赤いケイトウとまだ蕾のマーガレット。昼前まで灼熱の日差しに晒されていた階段に、ぽつりぽつり雨粒が模様を描く。降り出すかもしれないと思いながら、どこか新興住宅街を思わせるようにはびこった公園墓地の水道で手桶を洗う。あちらこちらで線香の香りが煙と花のなかで噎せ返る。花筒に挿された造花に罪は無い。溜まった水から有機物の腐敗臭が異様に鼻を突いた。それだけが現実を帯びていた。その匂いだけが、映画のような「今」を諭している。不在を詫びながら丁寧に石を洗い、墓標に彫られた文字を追う。母の名、その横に父の名。残されたスペースにはまだ誰の名も刻まれぬまま。納骨室に父が使っていた写真機を入れた。久しぶりに見る骨壺。絢爛な母は左に。白磁の父は右に。因縁の写真機はその右に。朽ち果てたラビットシャッターの写真機。アルバムを旅する気力は、もう、無い。いつか刻まれるときまで、時間を止めよう。雨が本降りになりそうだった。
Aug 14, 2012
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みずうみみずうみは透きとおっているのでサラサラと波だっているのでだれひとり気づかずにいるので私は願いをかける作者不詳
Jul 19, 2012
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仕事以外で人の書いた作品に手を入れるのは初めてではないだろうかと。逡巡していると、過去のいろんな作品が思い出された。評論、紀行、詩や散文、もちろんシナリオは最多だが、すべて仕事だった。小説には手を出していない。個の情念に添削は必要ではないと思うからだ。ある意味、文章読本的に添削などする気はない。そういう類いはどこかのカルチャーでやってくれればいい。中途半端に書く気は無かった。無かったけれど、テーマに共感する部分と、その結界への道程に経験が重なっていたので書き直してみることにしたわけで。というかまだ推敲が重ねられているけれど。作者の色を消さずに(もちろん主題や心境をも)文章を変えるという作業は、一文の裏にある理由への対応心理学(Kats語)の世界にどっぷり浸からなければならない。そこが自分の湖ではないことが辛さでもある。ただ、文を模索している間、常に作者が横に存在しているのはある種の共有意識と疑似体験ではある。時間がかかるかもしれないが、このあとの大作の前哨戦かも。はいはい。頑張りますから。
Jul 19, 2012
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おそらく地元でなくても渡ったことがあれば、あの河の大きさは知っている。その河が。まさか、と。予測の甘さだろうか。津波も。だったら関東直下はどうなるというのだ。準備?無意味ではないが。淘汰されるのならそれは宿命だろうから。明日はこちらも豪雨になる予感。失礼、今日やね。過去に無い雨量は今は九州だが、ほんのちょっとのお日様の気まぐれで日本最多雨量の紀伊半島にも停滞するだろう。吉野を失った従兄弟たちの移転は正解だったのかもしれないね。試運転中のプラントに影響が出ないことを念じつつ。打てる手は打った。お見舞いメールありがとうございました。
Jul 12, 2012
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非対称だからこその描写。個性は判ってるのだが、35mmでしかもMマウントでのゾナータイプ。うーん、欲しいが、禁欲。オークションでも出たが、余裕がなさすぎ。35mmもデジカメも、ほとんどの玉がガウスタイプになってしまい、描写に柔らかさが失われたのは残念だが、コシナが安く(ツアイスは名ばかりなのか)提供してくれてるので期待できそうだ。中盤スクエアで長年相棒とした本家150mmとは味が異なるかもしれないが。うーん、使ってみたいかなあ。
Feb 22, 2012
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色乗りが厚い。意識して撮られた作品からは絵画のような雰囲気をも醸し出している。ポラロイドが今でも人気なのはそういう利点であるのだろうが。女流の写真家には独特の感性と、特にモデルと対峙したときの視点の膨らみがある。男性には撮れない視点だ。報道を除いて、こと作品としてのファインアートを限定すればこの視点は武器だろう。カニンハム、シャーマン、ランス、そしてこのバーバラコール。色を判っていて、その奥へさらに色を重ねようとする。重金属の色だ。岩石の。忠実なレンズを通して語られる場の物語。そういえばここ数年、モデルを撮ってない。感覚が鈍くなってるだろうとは、思える。情けないが。コンポラからやり直すことから再出発かも。文章も写真も、色と厚みと奥行きは大切なのだと思う。
Feb 22, 2012
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久々の正統派の小説だった。受賞コメントがあまりにも騒がれたのでどんな作品なのかよりもどんな人間かが先に走ってしまい本質を見失うところだったのかもしれないが。下関は本土の西端。その街の雰囲気とは若干異なるが、方言丸出しでのリズムがいい。中上や重松の香りがする。緻密な構成力。作家は嗅覚が性的誘因に影響していることは承知であるはずなのに、そのところが表に出ないのが悔しいが。しかし情景描写に色彩を感じる。それも油絵のような重ねられた色合い。フィルムで言えばコダクロームの。かなり前にミクシで「鮮やかに黄色い過去の命」という主題を描いたことを思い出した。夏の蝉だった。この部分は意識してるのだと思える。近くに住んでるようなので一度インタビューしたいかなと。力量って見えるものですね。
Feb 21, 2012
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夜が縛れて暗い路地にも明るく照らす鏡が降りてくるグレイの車の屋根にもケーキのようなファウンデーション私の瞼に塗られたのは薄いベージュ肌色って雪に融けるの?消炎と沈痛の混ざったファウンデーション雪の上に降り積もるのは何色?
Feb 8, 2012
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雨に温もりがあった。前に父を気遣って上った墓地の階段が黒い天鵞絨のように見えている。仏花も線香も雨のなか。淡々と納骨が進められていく。作業として。本家の裏庭にある三種の梅は今年もまた花をつけ実を結ぶだろうか。香り立つ蝋梅と母の紅梅と枝垂れた白梅と。老木ではけっしてないが古木に近い。とくに枝垂れ梅はそうだ。母屋の角に見事に枝垂れる。母は紅梅だったが、父はこの白梅なのだろうか。そしてその懐にだかれるように植えられた蔓薔薇は紛れも無く私だ。もう何年も同じ蔓薔薇を撮っている。同じ場所で。同じように。だが同じ表情は一度もない。それは撮る側の自分が変化しているからにほかならない。命は時計の秒針と同じ早さで削られるから。今年は梅を残していこうと思う。そこに父母が残せるかどうかだが。
Jan 22, 2012
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あのネガはどこへやったのだろうか。ちょうど豆まきだったね。おまえはすぐ目の前の私に豆を投げてくれた。Canonだったかな。24-35のレンズ個性が気に入ってこのレンズの為だけにF1を持ったのだったか。仕事でも結構重宝したんだよ。今思えば、どうしてLEICAを使わなかったのか不思議なんだ。たぶん短玉がすごく高価だったからだと思うけど。あとモノクロはほとんどCanonで残してるから、色物と分けてたのだろうね。コースケとじいちゃんはカラーネガで撮ってるから。アルバム見てるとね、色抜けの違いがはっきりしてるからさ。この発色を見せられると、熱病になってしまう。そういえばかのレンズを手放して以来しばらく発症しなかったのに最近また色に拘り始めたんだ。でも今はレンズがないからお手上げなんだけどな。結局爺ちゃんの元気なポートレイトは俺が撮ったことになったよ。ずっと撮りたくなかったのに携帯で撮ったのが最後になってしまった。サクラメントから送ってきた緑のトレーナーをプレゼントした日だ。そのトレーナー着たまま逝ってしまった。もうすぐ爺ちゃんがそっちに行くからね。婆ちゃんと迎えに行ってやってな。茶を点てたいな。そして記念写真撮ろう。あ、レンズないのだったなー。たまにでいいから降りてこいよ。積もる話をしよう。悟へ
Dec 29, 2011
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およそ季節外れの百合に違いない。12月のすかし百合に出会えることはないが、どうしてもその初夏を期待させるいっそうの緋色が瞼から離れないのだ。ずっとイメージの底に澱んだ忘れ草のイメージが伽を求めている。彼女の作品の発想に驚きと敬意と、そして言葉への愛着とが緋色に染まっている。その才能を愛してやまない。文の色彩に。母を送ったとき、友人が桜の枝を送ってくれた。そして母のときも自分が喪主を務めたので挨拶に立った。ちょうど一週間前、部屋に呼ばれた。10分ほどだったと思うが異常に長く時間を感じた。兄のこと、姉のこと、そしてお別れの会にしてくれということ。外孫に残す緋色の着物のこと。仮眠していた通夜席に茶道のO先生が来てくれた。大きな声で母の名を二度呼んだあと泣き崩れられた。うつろな意識のなかで、流派を越えた茶会のことを思い出していた。表も裏も小笠原も、まるで意に介さず茶を楽しんだ初夏だった。あのとき緋色のジャケットを着ていたのだった。茶を愛し、花を愛し、人を愛したひとでした。それだけで挨拶は充分だった。忘れ草に出会うまではその緋色の光景は封印されていたのだと思う。自分は母との最後の会話を逃げたから。自分は、私は、とことん卑怯者だ。
Dec 23, 2011
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それはひとつの交合を意味している形ではない意識だ
Dec 22, 2011
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?燭もない。線香もない。ただ長い夜を開いてアルバムの写真に見入る。なんどもなんども見た写真たちは新しい何かを伝えてくれることはなかった。遺影は作らない。そう決めてB1の額にオリジナルそのままの写真を貼るのにアルバムから抜いていく。部屋に飾ってある自慢の写真を選ぼうとしたら、あるはずの場所に無い。見回してみてもどこにも見当たらない。まだ布団さえ暖かいのに誰かが片付けた筈もないが。父は19歳で出征した。川上から海軍に入ったのは父ひとりだったらしい。ハルピン時代にサイドカーつきのハーレーを乗り回していた頃の写真がお気に入りだった。自動車教習教官として宇佐航空隊へ移動して母と出会った。二人の子に恵まれたが戦況の悪化とともに前線へ。機銃掃射で負傷はしたものの全滅に近い状況でも生き延びた。銃後の内地では上の子供が病死。父はそのときのことを「長男友万が身代わりになった」とこぼしたことがある。過酷なブーゲンビル島で終戦。そして抑留。マラリヤによる激しい衰弱。引き揚げで帰国したとき誰もが死を覚悟していたらしい。気丈な母は実家の大分に父を引き取って献身的に文字通り懐抱して命をつないだ。吉野に戻っても食べるものが無かったからだ。部屋でいくつかの紙袋を見つけた。見せられたことのないプリントが数本とデイケアがわりに趣味的に作っていた折り紙作品と色紙類だ。そのなかにお気に入りだった額を見つけて戸惑った。紛れも無くそれは整理されている。どこかへ持って行くつもりだったのかもしれないが、ひとつの区切りをつけてある。会場に最初に来てくれたのは福井の従兄弟だった。足労をねぎらう言葉をかけなければならないのに極まってしまった。「ごめんね」母のときでも泣くことは無かったのにもういちど「ごめんね」と言って後の言葉は嗚咽に変わった。大阪組、奈良組の到着でも出る言葉は「ごめん」しかなかった。原稿もなにも持たずに挨拶に立った。「悔やみしか残っていません」はっきり自覚した。整理されていた写真のこと、眠ったまま逝ったこと。吉野に送ること。そして礼を述べた。孝行できなかったことに悔いはない。それは形ではないから。そのことは父が一番判っている。悔やみが残っているのは、あと一日でも一時間でも一緒にいてやれなかったのかという自責だ。私は、子として父のことを何も知らない。何も知らない。遺言は守る。 命のたま巡りてふえしあすはしりゆき 古木写行の乳児やいつこ12月6日
Dec 9, 2011
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それはゆっくりと増殖してきたんだまるで浮かれ熱のように目の前がクルクル変化してきっとそれは言葉の振幅のように何かを伝えたんだろう狂おしい微熱が大きく膨らむ焦がれているのかI wanna know, have you ever seen the rainI wanna know, have you ever seen the rainComing down on a sunny day誰かの唄が聴こえた
Nov 30, 2011
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わたしには息子がいる。二週間前に一歳になった。ーーーで始まるまえがきを読んで、この作家が、その視線や表現が水に合うと憶えた。わずか2ページだが、ごく短い短編小説を感じる。終わりは、というより主題だが、こう書かれる。離れれば離れるほど募る思いもある。逢えないひとに恋心を抱きつづけるように、わたしは本に恋をしている。よさげですね。艶を綾で加工するってこういうことかな。もっと早く読めばよかったか。「言葉は静かに踊る」柳美里 新潮文庫 2001年
Nov 23, 2011
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The Airdrop irrigation concept is a response to poor agricultural conditions in periods of severe drought. Extensive research into droughts revealed an increase in soil evaporation and trans-evaporation (plant and soil) due to the increasing temperatures. Airdrop Irrigation works to provide a solution to this problem. Moisture is harvested out of the air to irrigate crops by an efficient system that produces large amounts of condensation. A turbine intake drives air underground through a network of piping that rapidly cools the air to the temperature of the soil where it reaches 100% humidity and produces water. The water is then stored in an underground tank and pumped through to the roots of crops via sub surface drip irrigation hosing. The Airdrop system also includes an LCD screen that displays tank water levels, pressure strength, solar battery life and system health.InspirationThe effects of climate change on Australia are accelerating at an alarming rate. Last year the Murray Darling area experienced the worst drought in a century, lasting 12 years and resulting in irreversible damage to ecosystems, widespread wildlife decline and catastrophic bushfire conditions. Agriculture in the region suffered record losses. An alarming figure of 1 rancher/farmer a week was taking their own life, as years of drought resulted in failed crops, mounting debt and decaying towns. Although 2010 brought much needed rainfall to the area, other parts of Australia are continuing to suffer drought. The southwest corner of the country has experienced its driest year to date. Scientific projections indicate as temperatures continue to increase so too will the severity, frequency and duration of droughts worldwide. While there are various atmospheric water harvesting technologies that exist today, most are high-tech and expensive - not ideal for the rural farmer market.http://www.jamesdysonaward.org/Default.aspx
Nov 15, 2011
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毎年のことではあるけれど、チェルシーはちょっぴり気になるイベントではある。それはたぶん、毎年異なるコンセプトでコンペされる催しだからなのだろう。姉たちが国内で試みようとしたのは共鳴できたのだが、近年はそのコンセプトが曖昧になってきたのは残念だが。さて、チェルシーの長い歴史のなかで、際立った存在だったのが「The Wrong Garden」だった。コンセプトもへったくれもなく、ただ、方形にできた水路の立体なのだが、水がそれぞれの辺の坂道を下から上に流れて角で小さな滝のように落下する(ように見える)もの。エッシャーの立体版とでも言うべきか。作者はダイソン。そう、あのダイソン。(ちなみにかなり共感できる人物)よく観察すればそのからくりは見えてくるし、設計図で納得できる。高尚ではない。けれどなによりも力学と視覚効果を知っているし、アナログの積み重ねが生み出したものだと。つまり繰り返し繰り返し実験されて得られた結果だと。なんとなくエジソンを思い出す。これって発明の基本になるもの。エジソンは好きではないが、ダイソンは好きかもしれない。The James Dyson Award の素晴らしいのは、募集したアイデアの支援はするが、利権を持たないという姿勢だ。ノーベルはより高度な文明の先駆かもしれないが、今、我々の暮らしに必要なのは今年のダイソンアワードを受賞した、周囲の空気から水を取り出す簡潔な仕組みともいうべき「Airdrop」のようなものではないのか。物理現象の足下の技術だが、それが大切なのだと。制御できない、モノ、を生む、よりは。IT映像でも、VRからARに進化して、より高度な表現が可能になったが、反面、意図的に作られた真実(自分はもともと反対派です)をプロパガンダとして駆使する輩が出てくるだろう。そうすると真実はどこに行くのか。原理原則を大事にすべきなのだと思う。余談だが、画期的ではないけれど、アナログ思考で、福島 Jビレッジの廃棄物を安全に処理できる提案が出来上がったので関係筋に送ってもらった。まだ、ほんの一部でしかないが、自分が手伝えるのはこれくらいしか。福島を、日本を、間違った庭にしたくないので。
Nov 13, 2011
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いつか死ぬんだそんなことわかってるわかってはいるんだ100年の孤独があったとしても数秒の臨場の下では無限の永遠さえ友人にできるのだよいつかは死ぬそんなことはわかっているんだ太陽風は今夜も誘っているそして氷が割れる音だけが残されるのか
Nov 4, 2011
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