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1976年、ヴァージニア州のとある街。郊外に住むノーマとアーサーの夫妻の元に、謎の箱が届けられた。アーサーが開けてみると、そこには赤いボタンの付いた謎の装置が入っていた。その日の夕方、今度はノーマの元に謎の男が訪ねてくる。その男いわく、「ボタンを押せば現金100万ドルを手にする。しかしどこかであなたの知らない誰かが死ぬ」。夫妻は迷うが、生活が苦しいこともあってボタンを押してしまい……。(goo映画より)とんでも映画でした。途中までは良質なサスペンスだと思っていました。冒頭キャメロン・ディアスがサルトルを講義しているから、哲学的なテーマも出てくるのだと思っていたのですが‥‥‥。これだと実存主義を馬鹿にしている。思わせぶりな「謎」がいっぱい出てくるので、全然先が見えないなあ、と思いながら一生懸命考えていたのです。監督 : リチャード・ケリー 原作 : リチャード・マシスン 出演 : キャメロン・ディアス 、 ジェームズ・マースデン 、 フランク・ランジェラ結果、がっかりです。「運命のボタン」という究極の選択を突き詰める話ではありませんでした。なんなのだろう。最近ハリウッドはこの手の作品が多い。なんか日本の平安時代のように終末思想が流行っているんだろうか。キャメロン・ディアスは役柄上、ノーメイクが多かったが、35歳以上のふけ顔に見えたのは私だけか。
2010年05月13日
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上橋菜穂子の「獣の奏者」のアニメ版である。原作者が監修を行なっている。それだけではない。これを作る過程で、作者はこの作品を読み直し、「もう完結していた」と思っていた二巻の続きを描き始めたという。だから、このアニメ版には(探求編)(完結編)の考えも反映されているのだろう。声優:星井七瀬/平田絵里子/内田直哉 ほか監督:浜名孝行原作:上橋菜穂子プロデュース:和田丈嗣特に闘蛇村の描写は詳しい。闘蛇の大量死は何を意味しているのか、明らかにはしていないところもあるのであるが、「人間と闘蛇や王獣は違う。けれども気持が通じない、ということではない」ということをじっくりと描いている。(上記の疑問はやがて単行本の探求編で追及されるはずだ)子どもも観るように作っているので、王獣が闘蛇を喰らうところなんかは簡略した絵を用いたり、大事なところは何度もシーンの繰り返しを使ったりして「本来平和を求めながら戦争をせざるえない人間」「戦争のためならば本来自然の生物である闘蛇や王獣を使ってもいいのか」というテーマをわかりやすく描いている。原作には出てこないキャラクターを何人も出したり、原作にはない闘蛇村や王都、学舎の風景を見事に創造しているなど、アニメならではの楽しみ方も出来た。きちんと結論を作っていないのも良い。おそらく世界に発信できる作品だろう。50話もあるので、テレビ局が買って放映しないといけないが、きっと幾つかの国で売れるはずだ。世界に誇れるジャパニーズアニメである。
2010年04月20日
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人生に納得しているか普通の何のことのない若者の夢(音楽をすること)を追いかける話である。監督 : 三木孝浩 原作 : 浅野いにお 出演 : 宮崎あおい 、 高良健吾 、 桐谷健太 、 近藤洋一 、 伊藤歩 、 ARATA 、 永山絢斗 、 岩田さゆり 、 美保純 、 財津和夫 軽音楽部の仲良し男女五人組が大学を卒業して二年後、借りスタジオでの演奏に我慢が出来なくなり、プロになるために芽衣子の同棲している恋人種田は遂にバイトもやめて「ソラニン」という曲をひとつ作り、売込みを始める。ひと昔前には「モラトリアム」という言葉があった。おそらく原作の漫画は90年代の作品らしいから、そのつもりでこの青春群像を描いていたかもしれない。けれども、2010年代の映画は全く同じシチュエーションを描いても、その意味は様相を一変する。社会に出る前に夢を追い求めるのは、若者の特権であり、甘えである、というような甘い現実は彼らには無い。種田も芽衣子も非正規労働者だった。ロストゼネレーションである彼らは、どちらかが正規社員の資格を早く取らなければ、将来家庭を築く可能性はなくなるかもしれない、そのことを一番知っていたのはおそらく種田だったのだろう。「芽衣子がしたくない仕事はやらなくてもいいんだよ」とつい優しい言葉をかけてしまったのも種田の本音であるが、それを受けて「派遣なんかいつでも切れるし、代わりはいくらでもいる」と暴言を吐かれてつい辞めてしまった芽衣子にショックを受けるのも種田の本音なのである。種田は遂にバイトも辞めてすべてを賭けて挑んだレコーデングから生まれた「ソラニン」。だから失敗したときに「別れよう」と言ったのも、種田なりのケジメのつけ方だったのだろう。夢と現実の間で揺れる心は、私にとってとってもリアルなものだった。もう既に夢を諦めて守りに入っている人にとっては響かない映画だろう。確かに編集は雑だし。決定的な場面(種田の死を知ったときの芽衣子の反応)を省いた脚本は良かったと思う。ミニライブが成功したときのパラパラとした拍手もよかった。感動の涙でぐちゃぐちゃになっている仲間の伊藤歩のショット。昔を思い出したかのように唖然と芽衣子の歌を聞いていた音楽プロデューサーのARATAの表情。"人生に納得しているか"揺れる気持ち、けれども二人でいたから頑張れた、二人の絆があったから歌が歌えた、汗にまみれた芽衣子の充実した笑顔。宮崎あおいはやっぱり天才だ。コメディをしても、普通の女の子を演じても、何という存在感。一つ残念なのは、クライマックスで宮崎あおいの歌をへんに切ってしまったこと。監督はあおいの歌がプロのレベルではないと心配してあんな構成にしたのだろうか。私は音楽のことはよくわからない。けれども、「さようならの歌じゃない。始まりの歌なんだ」というロックの精神を彼女はビンビンと全身で持って表していたと思う。私は最初から最後まで聞きたかった。
2010年04月18日
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結局映画館で観たのは10作品。ちょっと多い本数ではあるが、あまり傑作には出会えなかった。来月に期待しよう。では詳しくはコメントしたくない作品を紹介。「時をかける少女」娘編のスピンオフ作品。泣かせ方があざとい。仲の新な魅力は少し出たかも知れない。 監督 : 谷口正晃 原作 : 筒井康隆 出演 : 仲里依紗 、 中尾明慶 、 安田成美 、 勝村政信 、 石丸幹二 「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」テレビゲームだった。監督 : 松山博昭 原作 : 甲斐谷忍 脚本 : 黒岩勉 、 岡田道尚 出演 : 戸田恵梨香 、 松田翔太 、 田辺誠一 、 鈴木浩介 、 荒川良々 、 濱田マリ 、 吉瀬美智子 、 渡辺いっけい「NINE」昔観た宝塚を思い出した。第二部目眩くショウの時間。隣の彼女はうっとりしているのに、僕はただただ感心していた。そしてもうひとつ思い出した、「81/2」二回観て二回とも眠って挫折したのを。 監督 : ロブ・マーシャル 脚本 : アンソニー・ミンゲラ 出演 : ダニエル・デイ=ルイス 、 マリオン・コティヤール 、 ペネロペ・クルス 、 ジュディ・デンチ 、 ケイト・ハドソン 、 ニコール・キッドマン
2010年03月31日
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「緋牡丹博徒花札勝負」初めてDVDで見た。藤純子がこんなに眼力がありしかも美しいとは。ほとんど無駄のない台詞回し。画面が緊張している。素晴らしい様式美製作: 1969年 日(緋牡丹シリーズ第三弾)監督: 加藤泰出演: 藤純子 / 若山富三郎 / 高倉健 / 嵐寛寿郎 / 藤山寛美 / 待田京介 / 小池朝雄 DVD「緋牡丹博徒一宿一飯」藤純子「この背中の牡丹は一生消えないとよ。けんど、身体に墨は入れれても、心に墨は入れられんとよ」男勝りのお竜がカッコイイ!真っ白の繭の中に敵が血まみれで倒れる。この様式美。冒頭と最終場面の対比。作: 1968年 日(緋牡丹シリーズ第二弾)監督: 鈴木則文出演: 藤純子 / 若山富三郎 / 鶴田浩二 / 待田京介 / / 村井国夫 / 菅原文太 / 山城新伍加藤周一が「居酒屋の加藤周一」(かもがわ出版)のなかで、山田洋次は評価しないが、藤純子は好きだ、と言っていたのを覚えていて、買ってみたのだが、判るような気がする。歌舞伎の世界なのである。しかも名人の!下手な役者がやれば、歌舞伎にせよ、文楽にせよ、能にせよ、狂言にせよ、誉めることがない人であったが、舞台は役者にかかっていることをよく知っていて、この映画に関して言えば、藤純子の目の力と様式美にはさすがの加藤周一もやられた、ということなのだろう。
2010年03月25日
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大好きな藤沢周平原作ということで映画「花のあと」を見ました。goo映画より東北にある海坂藩。女でありながら男顔負けの剣術の腕を持つ以登は、一度だけ竹刀を交えた藩随一の剣士・江口孫四郎に、一瞬にして熱い恋心を抱く。しかし、以登にも孫四郎にも、ともに家の定めた許嫁がいた。以登はひそかな思いを断ち切って、江戸に留学中の許嫁の帰りを待ち続ける。数か月後、以登のもとに藩命で江戸に向かった孫四郎が自ら命を絶ったという知らせが入る……。監督 : 中西健二 原作 : 藤沢周平 出演 : 北川景子 、 甲本雅裕 、 宮尾俊太郎 、 相築あきこ 、 谷川清美 、 佐藤めぐみ 、 市川亀治郎 、 伊藤歩 、 柄本明 、 國村隼 語り : 藤村志保 二回の殺陣は気持ちも入って見事。しかし二人(北川景子、宮尾俊太郎)の佇まいが剣の達人に見えない。わざとゆっくりとした演出なんだけど時々気持ちが入ってなくて気になる。2人とも頭がぐらぐらしているのです。武家社会には、町人の世界にはない掟に縛られた世界がある。そのなかでも、どうしても女とて、男として、人間としてしなければならないことはある。そのぎりぎりの葛藤をゆっくりとした演出の中にきちんと見せてほしかったというのは、北川景子には酷なことなのだろうか。殺陣の練習と礼儀作法の練習はきちんとやっていて、好感は持てるのではあるが……。甲本雅裕の才助は原作を膨らませてうまく役作りをしていたと思う。将来家老まで上りつめる、性格はいいんだけど、如才ない人物を存在感持って演じていた。後半は気持ちよく終わって悪い印象ではない。このあと、すぐに原作を買って読んだ。その感想はまた明日。
2010年03月22日
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ずーと見たいと思っていた金子修介監督の日活時代の作品をDVDで見ることが出来た。「いたずらロリータ 後ろからバージン」金子修介監督 水島裕子主演 小泉今日子の「なんたってアイドル」が流れていたので80年代の作品だと分かる。(1986年作品)ゴミ捨て場から拾ってきたセルロイド人形が命を持ってしまって主人公(阿部雅彦)を「ご主人様」と呼んで尽し始めるというストーリーは偶然なのか去年見た「空気人形」を思い起こさせる。ただ、10分おきぐらいにエッチ場面を挿入させなければならないという日活映画の宿命があるし、低予算早撮りの作品なのであの映画のような完璧さは無いけれども、人形が大人の女性に急になって、初めてこの世界を体験する、というところに面白さを発見するというのは、同じコンセプトではある。たとえば、秀逸なのは、この場面。エルという名のついた彼女は文化アパートで東大を目指す受験生の部屋に訪れる。(部屋には「せめて拓大」というスローガンもあって笑わせる)エルはどうして勉強するの?と聞く。「大学に行くんですよ!国立Aグループに!」(共通一時直後のころはこういういいかたがあったなあ)「それで?」「Aグループを出ていりゃあ、NTTに入れますもん」(電電公社が民営化したのは1985年であった)「それで?」「そうすりゃあ、安定した一生が送れるし、それなりの退職金だって……」「それで?」「死ぬんですよ!……つまらない一生ですね……」うな垂れた受験生を見てエリはさめざめと泣くのである。彼がもし、NTTに入ったとしても、この十数年の間にリストラされるか、あるいは派遣労働者をこき使い、そしてつぎつぎと派遣切りする側に回っていたか、どちらかであろう。思えば図らずもこの作品はその後の日本の悲劇を予見してたとも言える。閑話休題、エルは「空気人形」と同じく、人間の世の醜さとやさしさに出会う。日活映画といいながらも、ストーリー的には破綻も無くて、ちゃんとエンタメしている。他にも金子修介第一回監督作品の「能野鴻一郎の濡れて撃つ」も見た。かんぺき「エースをねらえ!」のパロディで、こっちはあまり深みは無い。他の日活出身監督の作品もおいおい見てみたい。
2010年03月16日
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《逃げろ、逃げろ、生きていてなんぼ、だ》話の筋は単純だ。(何らかの巨大な陰謀で)首相暗殺の嫌疑が掛けられた主人公が、仲間の助けを借りながら、ひたすら逃げる話である。監督 : 中村義洋 原作 : 伊坂幸太郎 出演 : 堺雅人 、 竹内結子 、 吉岡秀隆 、 劇団ひとり 、 貫地谷しほり 、 相武紗季 、 ソニン 、 大森南朋 、 柄本明 、 香川照之 香川照之演じる警視正ならびに警視庁一課の面々は不気味であり、用意周到に主人公青柳に濡れ衣をかぶせたまま消し去ろうとする。なかなかみごとに用意周到なので、基本的に大嘘の映画なのだが、緊迫感があってよい。時には大胆にちょっと切れた刑事はショットガンを使い、白昼堂々青柳を殺そうとするのだが、ちゃんと後でそのショットガンも青柳が使ったのだと情報操作しているのだ。けれども、これは権力批判の映画になっていない。そこが、この映画の新鮮なところである(権力嫌いの映画ではある)。青柳君は時には賢く、時には素人丸出して権力に対峙する。巨大な権力に対してどこにでもあるような商店街や住宅の路地裏が彼の逃走を助ける。巧妙な大衆のイメージ戦略に対しては、根拠も無くあっという間に「人を信じる力」が彼を助ける。面白かった。そうだ、逃げるしかない。いまの世の中、正体は分からないけど、突然(命さえ狙われるような)攻撃を仕掛けられるなんて決して映画だけの出来事じゃない。「派遣切り」なんてその最たるものだ。まじめに仕事をして何年も契約更新してきたのに、ある日突然「契約期間満了」だと言って首を切られる。首を切られたら最後、社会保険も役所も助けてくれずにすぐにホームレス→死亡の道に入っていく。ずっと前にわけのわからないときに派遣法が改正されたのがこの事態を起こしているのだ、と当の本人には理解できない。生きていてなんぼ、だ。もし青柳君がそんなになっても生きていけるのだとすれば、それは彼が信じているだけでなく、彼を信じている人間が少なくとも5人はいるからに過ぎないそれはひとつの「溜め」である。
2010年02月24日
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以前映画の美術の仕事に付いて書いたときに、私にとって忘れられない「美術」は「トキワ荘の青春」のそれだと書いた。そのときは調べても美術監督は誰なのかわからなかった。ところが去年10月どうやらDVD発売をしていたらしい。詳しいデータが分った。監督:市川準 製作総指揮:増田宗昭 / 寺尾和明 プロデューサー:塚本俊雄 / 里中哲夫 脚本:市川準 / 鈴木秀幸 / 森川幸治 撮影:小林達比古 音楽:清水一登 美術:間野重雄 編集:渡辺行夫 録音:橋本泰夫 である。間野重雄は1950年代から数々の名作をものにしているベテランの美術監督であった。セットによって、トキワ荘を完璧に再現しているだけでなく、ひとつひとつの彼らの部屋が全て彼らの世界観を表していた。たとえば、きちんとした寺田ヒロオの部屋、漫画を書く以外はなんにもない藤子不二雄の部屋、雑然とした石森章太郎と赤塚不二夫の相部屋などである。96年作品。DVDを見た。ロケ地協力は大蔵省関東財務局立川出張所などが選ばれていた。「新しい雑誌がどんどん出ているんだ。それにあわせて描かないと」という石森章太郎(さとうこうじ)と「売れる漫画がいい漫画とは限らないよ」という寺田ヒロオ(本木雅弘)。藤子不二雄(鈴木卓爾、阿部サダオ)や石森章太郎、赤塚不二夫(大森嘉之)、つのだじろう(翁華栄)水野英子(松梨智子)などの成功組、鈴木伸一(生瀬勝久)などアニメ畑に行った人、寺田ヒロオや安森直哉(古川新太)のように時代から取り残された漫画家たち、この人たちが、少年週刊誌が始まる直前の昭和30年初め、奇跡のように一つの文化アパートにね仲良く、未来を夢見ながら、そして貧しく、暮らしていた。晩年の寺田ヒロオはひきこもりのようになって、この映画の完成した数年後、さびしく死んでいったらしい。健全な少年スポーツ漫画を目指した寺田ヒロオのまっすぐなそして量産を拒否する線は、生き残る道は本当になかったのか。安森直哉の漫画を見た人は少ないかもしれない。彼は岡山市の城のすぐ近くの商店に生まれ、一度岡山市で作品展が開かれたときにその作品集を買った。うまへたの絵かもしれない。けれども非常に独特な抒情的な絵であった。この映画は上映当時、話に起伏がない、セリフが聞き取りにくい、などでかならずしもいい評価を得られなかったと思う。けれども、昭和30年代、それはまさしく「日本人の生活」の大転換の時代。何かを忘れてきたのかもしれない。そんなことを感じさせる映画であった。
2010年02月06日
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最後の場面に付いての言及があります。監督・脚本 : 山田洋次 脚本 : 平松恵美子 出演 : 吉永小百合 、 笑福亭鶴瓶 、 蒼井優 、 加瀬亮 、 小林稔侍 その前に私の経験から。私の父は、まだ意識がはっきりしていたころ、夜の10時-11時過ぎごろに帰ろうとすると「ここにいてくれないかなあ」ということを何度か言った。「夜中に苦しくて看護婦を呼んでも全然直ぐには来りゃしない」と不満を言う。私の方は余命のこともあり、もっと苦しくなるのはあと一ヶ月くらい先だと思っていたから「仕事があるからずっと付いていられない。ごめん」と言って帰っていった。朝は毎日目覚める7時前くらいから9時過ぎごろまで付いていた。朝の5時ごろ、病院から呼び出されて飛んでいったこともあった。麻薬が効きすぎたり、効かなかったりして、暴れることもあったのである。でも死ぬ一ヶ月前では、意識が混濁し、やがてずっと寝ていて、付いていてもいなくても全く同じだった。仕事場の了解は得ていたのだからあの苦しかったときに、思い切って一ヶ月くらい介護休暇を取ればよかったのである。それだけをいまだに悔やんでいる。弟の鉄郎が言う。「お姉ちゃん、今日はここにいてくれへんかなあ。夜中に目を覚ますときがあるねん。その後眠れへんのや。それからが長くて、なんか怖いねん」一人真っ暗の中、目を覚ます。私は初めての経験とはいえ、そのことの「怖さ」を想像できなかった。映画の中では、たぶんストーリー上の都合だと思うが、たった1日の中で次々と「看取り」の段階を描く。吉永小百合はこの上なく優しく「私は(今晩付いているのは)そのつもりよ」という。小春も良く間に合った。最期の鉄郎の表情はリアルだったと思う。(ただ、あれを1日の推移とするのはやはり無理があった。一週間ぐらいにすればよかったのだろうが。でも、ガンの病状は千差万別だからああいう最期もありうるのかもしれない)共同脚本の平松恵美子はおそらくしっかりとこの通天閣が見える「みどりのいえ」のモデルになった東京山谷の「きぼうのいえ」を取材したのだろうと思う。HPを見ると、外見どころか、病室、談話室、事務室までそっくりそのまま使用としてるとしか思えないほど似通っていた。ここの施設長の山本氏はこのように言っている。 きぼうのいえは、生きとしいける人々の日常生活の匂いに満たされています。入居者さんの体の痛みに対するケアとともに人が死に面した時に感じる、あらゆる痛みに対してどのように寄り添っていくかそれがきぼうのいえのケアでもっとも着眼するべき点だと思います。生涯を通じてかかえてきた問題を振り返り、周囲との和解、自分の過去との和解、人生に対する肯定や疑念、肉体の衣を脱ぎ捨てて旅立つことへの畏れ一言では言い尽くせないようなさまざまな課題が、きぼうのいえでの限られた時空のなかで織り成されていきます。 この世における最終コーナーを迎えつつある入居者の皆さんとスタッフは上下関係を持つことなく、共同生活者としてこの容易でないハードルを越えていくのです。 「誰でもどこからでもやりなおせる」 この言葉をスローガンとして掲げながら、私たちは家族的なかかわりをなにより尊重していきたいと思います。このHPのスタッフブログを読んでいると胸が熱くなる。映画は基本的に丁寧に作られている。CMを見ていると、結婚式を哲郎がはちやめちゃに壊したので小春の結婚が破談になったかのように描かれ方をしていたが、(多かれ少なかれ、酒を飲んだら人格が変わるという人間は周りにいるので)それぐらいで破談にするのはおかしかろうと思っていた。そんな描き方ではなかったので安心した。そしてそれまで何とか我慢していたが、最後の最終シーンで涙があふれてしまった。鉄郎のようなひどい親戚は周りにはいないが、思い当たるようなタイプの人は回りにはいる。そのときは、吟子の亡き夫が言った言葉を思い返すようにしたいと思う。
2010年01月31日
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昭和30年と1000年前の防府の景色を良く調べていて、それを見ているだけで楽しい作品だった。アニメを見て、ロケ地巡りをしたくなったのは初めてだ。あの直角に曲がった小川はまだあるのだろうか。監督・脚本 : 片渕須直 原作 : 高樹のぶ子 声の出演 : 福田麻由子 、 水沢奈子 、 森迫永依 、 本上まなみ昭和30年の風俗は、小説の方が詳しい気もするが、アニメになると絵になるので、楽しさはこちらの方が倍増する。「ドカン」は私のところでは「ぽんぽん菓子」と言っていて、リヤカーに載せた大砲の筒みたいなものをおじさんが近所の五帝神社に引いてくると、お米を袋に入れてもらって、確か50円玉ぐらいを握り締めてお菓子を作りに行ったものである。ダム遊びも良くやった。1000年前の風俗も良く調べてある。チラッとでただけだが、毬杖(ぎっちょう)の遊びをしている場面もあった。いまの子どもたちに、この映画に出てくる遊びのどれぐらいが分るのだろうか。ちょっと心配だ。映画には、原作にはない清少納言の少女時代のエピソードが出てくるし、それがこの映画の見どころにもなっている。いつの時代でも、子どもの世界はある。のだろう。
2010年01月24日
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最初は軽妙なやり取りで、夫婦間の思惑合戦みたいな映画かなと思ってみていた。監督 : 行定勲 原作 : 中谷まゆみ 出演 : 豊川悦司 、 薬師丸ひろ子 、 水川あさみ 、 濱田岳 、 城田優 途中で、なるほどね、という「秘密」が明かされる。そこまでは「上手い」と思った。ところが、そこで終わればいいものをうだうだと30分以上やるものだから、退屈してしまう。監督の気持ちはよくわかる。別にこれはミステリーでもないし、テーマから考えるとあのうだうだ感は大切なんだよ、と。すっきりできない、でも‥‥‥というところで終わることが出来たのが大切なんだろうけど、私的には「だからなんなの」という映画だった。こういう経験と無縁だからというのが大きいのだろう。(これ以上はネタバレになるので語れない。うーむ、もどかしい)突然だが、薬師丸ひろ子にはぜひとも北村薫の「スキップ」を主演してもらいたい。17歳の女の子が突然時空を超えて35歳のオバサンになる話。今のデジタル技術を使えば、絶対出来ると思う。この映画で、場面場面で薬師丸ひろ子の目じりの皺が出来ていたり消えていたりして思いました。
2010年01月17日
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マイケル・ムーアが映画「キャピタリズム」で羨ましがった憲法25条、あなたは全て言えますか。「いのちの山河 日本の青空2」前回の「日本の青空」は憲法を守るための映画という意識が強くて、映画的表現を犠牲にしてまで、憲法製作過程をきちんと描きすぎたという嫌いがあったが、今回はいい意味で普通のドラマとして充分感動的なな話になっている。憲法映画と構えることなく、どんな人にでも普通の日本映画としてお勧め出来るだろう。もちろん、憲法25条の精神がこの映画の一本の「芯」として通っているのは、映画を見たあとにみんなが思い浮かべることだろう。監督 : 大澤豊 出演 : 長谷川初範 、 とよた真帆 、 加藤剛 、 大鶴義丹 、 宍戸開 、 小林綾子 豪雪地帯、陸の孤島岩手県沢内村に一組の夫婦が帰ってきた。途中で橇さえも止まってしまって、徒歩で帰らざるをえなかった。二人はお互いいたわりながらやっと夫の実家に帰りつく。もう既に戦後も10年になろうとしていた。しかし、冬になると交通は遮断されてしまう。6000人の村民、乳幼児の死亡率は非常に高く、お年寄りの自殺率がなんと一割を超えるという。豪雪による通事情の悪さや、医師不足、検診体制の不足等による村民の「命の格差」、そして村全体の貧困、これら三悪の解消の為、当初望まれて教育長、助役になっていった深川はついに自らすすんで村長に立候補する。極寒の豪雪地帯での撮影はさぞ大変だったろうと思います。つい最近、そんなところを旅したのでなおさら思います。憲法25条第一項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」 深川村長が老人医療費無料化を打ち上げたとき、県から「健康保険法違反だ」と横槍が入る。深川村長は県に乗り込み、憲法の条文をたてに「訴えるならば、訴えたらいい。私たちは最高裁まで戦う」と言い切ったときには「カッコいい!」と素直に思えました。村長の言うとおり、これは本来は「国がすべきことなのです」当面国や県がしないから、沢内村か赤字になってもしようとしたのです。これはまさに、憲法の精神でした。そうか、憲法25条というのは一項だけでなく二項もあったんだ。映画の最後に25条の条文がバンと出てくる。そのとき、恥ずかしながら私はこの映画に教わった。第二項にはこうあります「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」 そうなんだ!これらのことを「向上及び増進」するのは「国」の責任なのだ。"いのち"に格差があってはならない。現代に訴える映画になっています。とよた真帆が内助の功的妻で出ていますが、ああいう夫ならばありえるかな、という脚本になっています。「日本の青空」同様、最後に協力諸団体の一覧がずらっと出てきます。これを見ると、生協と九条の会、あと若干の労組ぐらいしかこういう映画にかかわれなかったのか、という忸怩たるものがあります。日本の企業や文部省や自治体の懐の狭さにいまさらながらに暗澹たる思いをするのです。
2010年01月14日
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松竹は渥美清の最期に後悔を持っていたのかもしれない。あの世界最長のシリーズ映画に有終の美を与えることの出来なかったことは「惜しい」と思い、あるいは山田監督は「ざんねんだ」と思っていたのだろう。監督・脚本 : 朝原雄三 脚本 : 山田洋次 出演 : 西田敏行 、 三國連太郎 、 浅田美代子 、 松坂慶子 、 吹石一恵 一応いつもの典型的な展開はある。釣りバカで会社からのつま弾きものの浜崎伝助が本来のコミュニケーション力で少しは会社の役に立つという展開、社長鈴木一助の知り合いの女将の娘の恋のキューピット、そして北海道湿原での川釣りの醍醐味。ところが、それらは、驚くほどに「すんなりと」終わってしまうのである。之は最後は、もうどうでもいいと思ってテキトーに作ったのだろうか、と思っていると、そこから今までの作品には無いシュールな展開が始まる。このような展開は、喜劇映画では誰かが使っていた気がするのであるが、思い出せない。私は「あり」だと思う。最期のエンドロールは「楽屋落ち」までやってみせている。最後の展開にしろ、これにしろ、B級映画たる人情喜劇の面目躍如の終わり方だと思う。ファイナルだからこそ出来たことでもある。いやあ、「終わっちゃったなあ」と初日の夜の部、三分の一ぐらい埋まった劇場の観客は、ニコニコしながら出て行く。ぜひとも劇場でこの感覚を味わってほしい。鈴木会長の最後の演説は、ある意味本当にベタだけど、鈴木建設という会社はこのような会社だったと、ずっと語り草にしてほしいという、作り手の思いが溢れているものであった。22年間ありがとう。松竹には次のシリーズものは無い。(たぶん「魚河岸三代目」は無理だろう)。おそらく三国連太郎最後の主演映画であり、松竹最後の輝きを代表する映画であったと、後世には伝えられるのだろう。
2009年12月27日
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基本的に全然信頼していない日本アカデミー賞ですが、今年の場合はまあまあの候補作が並んだようです。【主な優秀賞】は以下のとおりです。優秀作品賞『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』『沈まぬ太陽』『ゼロの焦点』『劔岳 点の記』『ディア・ドクター』優秀監督賞犬童一心『ゼロの焦点』、木村大作『劔岳 点の記』、根岸吉太郎『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』、西川美和『ディア・ドクター』、若松節朗『沈まぬ太陽』優秀主演男優賞浅野忠信『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』、浅野忠信『劔岳 点の記』、大森南朋『ハゲタカ』、笑福亭鶴瓶『ディア・ドクター』、渡辺謙『沈まぬ太陽』優秀主演女優賞綾瀬はるか『おっぱいバレー』、広末涼子『ゼロの焦点』、ペ・ドゥナ『空気人形』、松たか子『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』、宮崎あおい『少年メリケンサック』優秀助演男優賞瑛太『ディア・ドクター』、香川照之『劔岳 点の記』、堺雅人『ジェネラル・ルージュの凱旋』、玉山鉄二『ハゲタカ』、三浦友和『沈まぬ太陽』優秀助演女優賞木村多江『ゼロの焦点』、鈴木京香『沈まぬ太陽』、中谷美紀『ゼロの焦点』、室井滋『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』、余貴美子『ディア・ドクター』新人俳優賞岡田将生、水嶋ヒロ、溝端淳平、渡辺大知、榮倉奈々、志田未来、平愛梨優秀アニメーション作品賞『エヴァンゲリヲン 新劇場版:破』『サマーウォーズ』『映画ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』『ホッタラケの島~遥と魔法の鏡~』『名探偵コナン 漆黒の追跡者(チェイサー)』私の推す優秀作品賞は断トツで『劔岳 点の記』です。監督賞も木村大作『劔岳 点の記』です。次点は西川美和『ディア・ドクター』。優秀主演男優賞は大変迷うところですが、渡辺謙『沈まぬ太陽』を推したい。該当者なしでもOK。優秀主演女優賞はこれは反対の意味で大変迷うところです。私の推すのはペ・ドゥナ『空気人形』てす。でも彼らにそんな勇気はないだろうな。次点は私の大好きな宮崎あおい『少年メリケンサック』と言いたいところですが、松たか子『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』が順調なところでしょう。どうして広末涼子『ゼロの焦点』が入っているのか、本当に不思議です。彼女のプロダクションはなにか芸能界にへんな貸しがあるのでしょうか。優秀助演男優賞は堺雅人『ジェネラル・ルージュの凱旋』は確かに熱演でしたが、香川照之『劔岳 点の記』にするべきです。彼の出演作は今年は一体何作あったのでしようか。すべて見ていないのですが、どれも素晴らしい存在感を見せていたようです。これまでの芸歴から考えても、次の主演男優賞へのステップと考えてもそろそろ賞を渡すべきです。優秀助演女優賞はこれといっていい人がいません。いや、いい人ばかりなのです。反対にみんなにあげたい。新人俳優賞は「だれも守ってくれない」の志田未来にするべきです。優秀アニメーション作品賞は他のを見ていないので何とも言えませんが、『サマーウォーズ』が無難でしょう。
2009年12月23日
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映画の楽しみ方は色々とあるのですが、そのひとつにロケ地めぐりというものがあります。映画の場面を思い出しながら、ロケ地に行って自ら立ってみる。出演者に思いを馳せ、監督の目線で作品を見るとまた新たな発見があるものです。「釣りバカ日誌18」のロケ地のひとつ、倉敷市黒崎南浦の海蔵寺に行って見ました。社長挨拶のときに失敗して自信を無くしたスーさん(三国連太郎)がふと友人の墓参りに立ち寄り居着いてしまったというお寺です。探しに行った浜ちゃんがスーさんを見つけるのが瀬戸大橋の見える下津井海岸であったからお寺もその近くだと思っていてはいけない。まったく違うところでロケをして「ホントのような嘘」を描くのが映画の醍醐味です。倉敷市玉島を南へ、沙美海岸を更に西に行くと、忘れられた様な海岸沿いの村、南浦があります。その山沿いに海蔵寺があります。行くと、留守番犬がたくさん吼えて住職の奥さんが出てきました。奥さんの話だと、思った以上にここで色んな場面を撮っていたようです。三国連太郎が墓の世話をしている場面、なんとも雰囲気のある墓が多く、そこからの景色も抜群でなるほど素晴らしいロケ地選定です。壇さんと三国の鐘突き堂を背景にしての会話の場面壇さんの幼稚園の先生の場面(この寺では幼稚園も併設されていました)さすがに中には入れませんでしたが、壇さんの恋人高島たちと地元住民のリゾートホテル反対集会の場所もここの寺の中が会場だったようです。寺の山門をバックに別れの場面もあったようです。それにしてもこじんまりとした瀬戸らしい町です。「もう町は古いのですか。やっぱり漁業で栄えていたのでしょうか」「いや、もうやっていないけど、酒屋がいくつかあったし、醤油やお酢なんかも作っていたのよ。いい水が出たらしいわ」なるほど、すっかり下津井の町みたいな目でこの町を見ていたけど、いろんな町はあるわけです。さて、「釣りバカ日誌」は今回で打ち切りだそうだ。おそらく三国連太郎の健康の事情なのだろう。もしかしたら三国の遺作になるかもしれない。必ず見ようと思っている。
2009年12月10日
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エスパーのお陰で、地球はときどき回っていたりする。って、そんな大層な映画ではありません。昨日「ヒーローズ・シーズン2」を見終わったところなのですが、まさにこちらの方は「エスパーのお陰で、地球はときどき回っていたりする」のです。どちらも日常の中からでてくる超能力者群像を扱っているのにもかかわらず、なんとまあ違うことか。「ヒーローズ」の場合は、超能力者の悲哀を一身に受けて、世界を特にアメリカ国中を行ったりきたりし、時もしょっちゅう越えて、世界を救ったり、殺したり、殺されたりしている。さて、こちらの超能力者群像なのであるが、なんと舞台は田舎(香川県善通寺市)のしかもある喫茶店周辺からほとんど移動しない。世界は決して救わない。そもそも彼らの超能力は本当にしょぼい。ヒロ・ナカムラみたいにずっと時を止めたり、時を越えたりはできない。時とをとめることの出来るのはたった5秒。うどん屋の髪の毛クレームを処理するのに役立つぐらいである。超能力を持つのは、そうは言っても我々の世代のちょっとした夢である。しがないわたしたちがしがないちょっとした超能力歩を持ったならば、やはり彼らみたいに喫茶店でサークルみたいに隠れて超能力パーティーするくらいがヤマであろう。しがない我々のしがない夢と温かさを描いて、なかなかの佳作だった。監督 : 本広克行 原作・脚本 : 上田誠 出演 : 長澤まさみ 、 三宅弘城 、 諏訪雅 、 中川晴樹 、 辻修 、 川島潤哉 、 岩井秀人 、 志賀廣太郎 所々に遊び(謎の自転車オバサンやポスター貼り)を入れたり、ちょっとしたセリフが後々どうしようもないつまらない伏線になったりしていて楽しかった。監督は第二の大林宣彦みたいに香川県がホーグランドになりつつあるようだ。前回の「UDON」で使った池沿いのセットのシルエットも一瞬だけ見えた。
2009年12月09日
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「ブラック会社に勤めているんだが、俺はもう限界かもしれない」という長い題名に、作品説明の半分以上が入っている映画を観ました。IT業界の下請けにおける超長時間過密労働、いじめ体質の会社を「ブラック会社」というのだそうだ。ニートあがりの「マ男」くんは、学歴がないからまともな就職先はなく、世話をしてくれた母親も死んで、父もリストラ(やがて胃がんで入院)、拾ってくれたこの会社でがんばるしかないと思い、半年いじめられながら、徹夜を続けながら、一人だけの味方の同僚に助けられながら、なんとかやってきた。それでもやがてはどうしても我慢できなくなり、「辞める」という。それはそうだろう。果たして彼は辞めてしまうのだろうか、という話。監督 : 佐藤祐市 原作 : 黒井勇人 脚本 : いずみ吉紘 出演 : 小池徹平 、 マイコ 、 池田鉄洋 、 田辺誠一 、 品川祐 、 田中圭 、 中村靖日 、 千葉雅子 、 森本レオ テーマとしては、IT業界だけでなく、不況下の現在、どこの会社にも多かれ少なかれあっておかしくはないというかよくあるデスマ(死の行進)を走る「人間関係の壊れた労働戦士」の実態を正面から扱っていて、好感が持てるのだけど、結果つまらない作品だった。こういう作品にわざわざお金を払って観るのだから、それなりの対価がほしいもの。大いに笑わせるとか、泣かせるとか、すごいVFXがあるとか、アイドルが出るとか(小池鉄平はアイドルじゃない!!)それがだめなら徹底的に隙のない脚本にするとかしないとだめなのだが、すべてがなくて隙だらけなのである。一番大きい隙は、敵キャラで出てきたリーダーが最後「いい人」見たくなってしまうのは、馬鹿にしている。あるいは、掲示板の書き込みをしてくれた人達の最後の反応が無視されている。「もう限界かもしれない」だけを描いている。「限界にいたる社会背景」とかまで描いていれば、少しは見ごたえのある映画になっただろうに。「キサラギ」以降佐藤監督には期待して、「守護天使」と立て続けに見たのであるが、ちょっとがっかりである。
2009年12月06日
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じつに饒舌な自然ドキュメンタリー。一切の説明がなかった「アース」とは対極にあるつくり。滋賀県琵琶湖近辺の里山は典型的な雑木林で、そこでは人と自然が行く千年かけて作り上げ経てきたコロニーがあった。村に隣接した里山の雑木林に春が来た。「やまおやじ」と呼ばれる老木が、里山の営みについて語り出す。ヒキガエルが木のうろから姿を現し、ミツバチが新しい巣を造るため飛び立っていく。人間たちは「ほだ木」に成長した椎茸を収穫し、その下ではカブトムシの幼虫が育っていた。夏の夜、やまおやじの樹液酒場にカブトムシたちが集まり、オスどうしの闘いが始まる。森の向こうでは花火が上がり、夏祭りが始まっていた…。ディレクター : 菊池哲理 語り : 玄田哲章 、 安井邦彦 、 高橋美鈴 音楽 : 加古隆 出演 : 今森光彦 映画としては退屈。どうしてもNHKドキュメンタリーという意識で観てしまう。まだまだこのような「森と人がかわした約束が生きている」ような森はわれわれの近くに日帰りで帰れるところに、ひとつやふたつはあるはずだ。この映画を観て、いいところがあるとしたら、その里山の見分け方をキチンと分かるというところだろう。今度の日曜日、「うろ」のある雑木林を探しにいってみようかしら。
2009年11月26日
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「ゼロの焦点」にしようか、これにしようか、迷ったのですが、ネットの評判はこちらの方がよかったので、見損なったときに後悔すると思いこちらに。監督 : 水田伸生 脚本 : 宮藤官九郎 出演 : 阿部サダヲ 、 瑛太 、 竹内結子 、 塚本高史 、 皆川猿時 、 片桐はいり 、 鈴木砂羽 、 カンニング竹山 、 高橋ジョージ 、 陣内孝則ずっと連敗続きだったクドカン節も前回の「メリケンサック」でお払いできたので、ある程度は期待していたのですが、やっぱり私はクドカンは苦手なようです。悪くはありませんでした。そこそこ笑わせてもらって、そこそこいい話しだなあ、と思ったのですが、どうも登場人物全員に感情移入できないんですよね。イヤ、それは当然といえば当然であって、この登場人物たち全員「にせもの」というキーワードですべて登場しているんです。いつも本当に笑ったことの無いお兄ちゃん、プチ整形で帰ってきた子持ち娘、偽兄弟漫才師、本当は信じていない近所の商店街の人々、「薄ら寒い」演説しかできない環境大臣‥‥‥。そういう痛々しい人間性を見せながら、なおかつ笑え、という。泣け、という。そういう作り方にどうも付いていけない。ヒットしてるのだから、世の人の感性と私の感性が違うということなのでしょう。唯一感情移入できたのが、ますます子役演技にみがきがかかってきた森迫永依でした。末おそろし。 竹内結子は「サイドカーに犬」のときと同じように、時々啖呵をきったりしていい女になりました。
2009年11月20日
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今では誰も使っていない古いタイプライターが英語でタイトルを示す。そしてジャズが流れて英語で主要登場人物の字幕が。なんとも古臭いハードボイルド映画っぽい始まり。いやな予感が。話の筋はこんなカンジ。札幌市内のアパートで女性警官の変死体が発見された。まもなく被害者の元交際相手の巡査部長・津久井に容疑が掛けられ、さらに異例の射殺命令までも下される。かつて津久井と同じ任務にあたったことのある警部補・佐伯は、この一連の流れに違和感をもち、女性刑事の小島、新人刑事・新宮ら信頼できる仲間とともに秘密裏に捜査を始める。やがて、彼らは北海道警察内部に隠された闇に踏み込んでいくのだったが……。(goo映画)監督・脚本 : 角川春樹 原作 : 佐々木譲 出演 : 大森南朋 、 松雪泰子 、 宮迫博之 事前情報は何度か流れたCMだけ。まさか監督・脚本がこの人だと知っていたならば見なかっただろうと思う。本来ならば、もっとシリアスに、リアルに出来たはずの内容を、わざわざ区切るような台詞回しに直して、途中で臭いセリフを何度も言わせ、何度も行なわれるどんでん返しも全然予想外ではない。これだけの役者を揃えながら、あんな学芸会並みの演技をさせるなんてこの人の美意識はいったいなんなのだろう。映画の出来はどうでもいいから、かっこよく絵を作りたいだけなんだろうか。ラスト10分間の脚本のなんと「意味のない」ことか。あれほどの意味のない脚本はちょっと見たことが無い。いやあ、ちょっと凄いものを見たかもしれない。
2009年11月14日
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永井小巻31歳、バツイチ(の予定)、子持ち、資格なし、貯金なし。でも実家にまあ居候を認めてくれる実母はいるから、最低のセーフティネットは残っている。そんな女性が「こんなニートな夫とは別れます!自立します!」との想いだけで働き出す。監督・脚本 : 緒方明 出演 : 小西真奈美 、 岡田義徳 、 村上淳 、 佐々木りお 、 山口紗弥加 、 岸部一徳 、 倍賞美津子 小巻はいつもじーと考える。瞬発力はない。でも《直感》で動き出す。動き出したら止まらない。彼女は確かにマイペースだ。男を振り回すタイプではある。でも、いくら店をたたむ事情があったとしても、建夫君の腰が引けたのは感心しない。店を一緒にやれなくても一緒に生きていく方法はあるはずだ。あれは《最後の夫婦喧嘩》を見て、たんに《こわくなった》だけだろう。それならば、小巻は選ばなくてよかった。ホントにやっていけるの?映画が終わった今でも、正直心配です。確かに彼女の料理の才能はあるのだろうと思う。自分の才能をそうやって見つけることが出来たのは拍手したい。小料理屋の岸部一徳が最後に小巻に「条件がある」といったとおり(ネタバレになるので内容は言いません)に、最後までがんばってほしいと思います。わたし、昔からがんばる女の子(小巻は充分大人ですが、なんかまだ女の子という感じなんです)には弱い私です。最後、店の準備に丸々三ヶ月をかけている。そこに「大人の準備」を信じたい。けれども、オープン当日、15個しか弁当作っていなかったけど、それでホントに採算が取れるの?それで心配になって、原作のマンガをネットで買ってしまった私です。ところが、マンガのほうは「弁当屋をやる!」と決意したところで終わってしまっている。映画よりすすんでいない。永井小巻、本当に自立できるんだろうか。心配です。映画的には、心配かもしれないけど、健気に立ち上がる「女の子」を描いて説得力ありました。
2009年11月10日
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監督 : 若松節朗 原作 : 山崎豊子 出演 : 渡辺謙、三浦友和、石坂浩二、松雪泰子、鈴木京香、山田辰夫、香川照之、木村多江、清水美沙、鶴田真由、柏原崇、戸田恵梨香、大杉漣、西村雅彦、柴俊夫、風間トオル、神山繁、菅田俊、草笛光子、宇津井健、小林稔侍、加藤剛、品川徹、田中健山崎豊子がOKを出しただけあって、プロットは長い原作を上手くまとめてていると思う。あの長い原作を一本の作品にするのならば、御巣鷹山事故を導入部にするのは必然です。ただ、切れ味は鈍いのではないかと思い、実は封切りの日に観ていたにもかかわらず、今日まで合格作品として写真付きにしようかどうしようかずっと迷っていた。けれども、今日のこの記事を見て私の思っていた以上に切れ味は鋭かったのだということが分り、写真付きで書くことにしました。日航社内報で「沈まぬ太陽」批判 「客離れ誘発」法的手段も社内報ではこんなことを書いているらしい。映画で描かれている社内の報復人事や役員の不正経理、政治家・旧運輸省幹部らへの利益供与や贈賄について「こんな不正があるわけがない」と一刀両断。「国民航空」の名称やジャンボ機墜落事故の克明な描写から「『フィクション』と断っているが、日航や役員・社員を連想させ、日航と個人のイメージを傷つける」と反発している。よくもまあ、社内報とはいえ、こんなことが書けるものだ。私は山崎豊子を「不毛地帯」から「大地の子」「沈まぬ太陽」と読んできているが、次期主力戦闘機疑惑事件、中国残留孤児、日航問題と世のタブーに挑戦してきて、一度たりとも訴えられたことがないことを知っている。それは彼女の徹底的な取材があったからである。日航の場合は、経営者側の「取材拒否」にあったからこそ、それ以外の取材はまさに徹底してやったということを知っている。(御巣鷹山編ではだからこそ実名の小説にもなった)訴えれるものならば、訴えてみればよい。それこそ、「報復人事や役員の不正経理、政治家・旧運輸省幹部らへの利益供与や贈賄」が白日の下に晒されて都合が良いだろう。日航は結局このころから全然「反省していない」ということなのだろう。現在の経営危機はまさにその膿みの決着なのであろう。木村多江や山田辰夫、香川照之 加藤剛、品川徹のように大河ドラマらしく、場面場面では見どころ役者がいて、存在感を出している。木村の悲痛な呟き、香川の揺れ、加藤の「政治家」としての空恐ろしさ、瀬島龍三の品川徹の不気味さ、そして故山田辰夫のお客様係の冷徹さ。ただ、映画として一本芯を通す印象的な場面がいまひとつ作れていない気がしたのである。ナショナルフラッグの旗の下に魑魅魍魎渦巻く組織の中で「筋を通す」ことの困難とかっこよさを恩地と行天に対比させて描くことこそがこの映画の醍醐味なのだろう。その点で、行天がいまひとつ浮き上がらなかった。演技の問題ではなく、演出の問題だろうと思う。国民航空のあのシンボルをもっと効果的に使うとか、最初と最後をきちんと「対」として見せるとか、あと一つ映画的な工夫が欲しかった。しかし、みんなの評判を読むと、私の思った以上に「思い」は伝わっているようなのだ。私はないものねだりをしていたようだ。面白いのは、ブログ評を読んでいると、非常に多くの人が「どうして仕事をやめなかったのか不思議だ」という意味のことを書いている。やっぱり今の若い人にはわからないのか、と苦笑いする。今ほど簡単に仕事を辞める事が社会的に認知されていなかったということもあったかもしれないが、それ以上に一つの労組が今では八つの労組に分裂していることからも分るように、徹底的な「戦う労組つぶし」があった。苦労したのは恩地だけではない。恩地はそれを良く知っていた。だからこそ、「逃げる」ことは出来なかった。彼の言う「矜持」とはそういうことなのである
2009年11月03日
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「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」松たか子が素晴らしい。冒頭の泣き笑いでどきっとさせた後は、居酒屋での解放された顔と、警察に連行されたときのこわばった顔と、大谷を慈しむ顔と、おびえる顔、困った顔、母の顔、強く立ち向かう顔、さまざまな「女」を見せて飽きさせない。女性の可能性を色々と見せるが唯一見せないのが、大谷の愛人が見せる勝ち誇った顔である。大谷が結局何に絶望して死にたがっていたのかは、この映画では分らない。太宰が好きな人ならば、それは自明のことだし、わからなくても、大谷演じる浅野忠信を見ていれば、「結局男の甘えであり弱さ」なのだということは分る。けれども、「ヴィヨンの妻」を描ききったのも結局大谷(太宰)なのだ。実は実際の太宰の妻は佐知とは全然違うタイプの女性だったらしい。佐知の純粋さはそのまま大谷の純粋さでもある。大谷の妻佐知は、基本的に大谷(太宰治)の分身なのである。監督 : 根岸吉太郎 原作 : 太宰治 出演 : 松たか子 、 浅野忠信 、 室井滋 、 伊武雅刀 、 光石研 、 山本未來 、 鈴木卓爾 、 小林麻子 、 信太昌之 、 新井浩文 、 広末涼子 、 妻夫木聡 、 堤真一 二人で食べる桜桃は美味しかったに違いない。けれども、日本人の我々はあの後やっぱり太宰は他の女と心中してしまうということを知ってはいるのだけれども。美術はやっぱり種田陽平。昭和20年代の崩れそうななあんにもない一軒家と、穴倉のような居酒屋を描いて秀逸だった。登場人物が皆力演で、緊張感強いられる映像の連続だったので、広末のなあんも考えていない演技がちょうど見る側を弛緩させる役割があっていい効果(?)を生んでいた。さて、この前この映画で友人と話をしていて意見が分かれた部分がある。他のブログを見ていると、不思議にその部分の言及がない。確かにネタバレ部分ではあるが、どちらの意見を採用するかによって最終的な評価が変わると思うので、書いておきたい。つまり佐知が元恋人の堤真一のもとを訪れたときに、払うべき弁護料がないので堤に言い寄られた後どうなったか、という問題である。友人は「具体的に何処までいったかわからないが、身を任せることで弁護料はチャラにしてもらった」という意見である。根拠はその後大谷に「いけない事をした」とはっきり言っているということと、堤の事務所を出るとき淋しそうだったということ。私は、「二人の間には何もなく、弁護料はチャラになった」という見解である。根拠は二人の映像が途切れる直前まで、精神的には佐知の方が圧倒していたということ、事務所をでるとき佐知がなんとなくさばさばしていたように思えたこと、映像的に衣服の乱れどころか、口紅の乱れさえなかったこと、「いけない事をした」という意味は大谷に対する単なる(不倫をされたことに対する)仕返しの言葉であったということ。ここが明らかにならないと、「いけない事をした」ということの意味が大きく変わってしまう。そして最後に「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と佐知が言ったときに自分は「人非人」でないという自信があったからこそ、前向きに「人非人」という言葉を使えたのである。と、私は思う。 さて、皆はどう思うのだろう。
2009年10月22日
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昔の写真からちょっとこんなのを紹介します。(未公開写真です)映画の美術というものは、時には雄弁に脚本や俳優以上にモノを言うことがあります。一番印象に残っているのは、美術担当が誰だったかも知らないのですが「トキワ荘の青春」(96年市川準監督)の美術でした。三畳一間の端正な部屋の中に昭和30年代の漫画家たちの「夢」がつまっていました。最近では「空気人形」の美術監督、種田陽平の仕事が素晴らしいと思います。さて以下の写真は映画「UDON」のロケツアーに行ったときの写真です。そのときの文章を再掲します。次はレオマワールド内で開催されていた「UDON」展を見に行く。初めて実際の映画の「美術」を見ました。松井製麺所の中のセットや、雑誌編集局の中のセット、本広監督の脚本などが展示されている。ゆーすけはアイマック、小西はダイナブックのPCを使っていたり、パソコンについているタックシールや、机にさりげなく置かれている宅急便のお届け表もすべてきちんと作られていた。タックシールには個性に合わせたその日の予定が書かれ、お届け表は「かえる急便」とわざわざロゴを作っていた。画面に映るわけではない。遊び心でもあるし、雰囲気つくりでもあるのでしょう。そのような仕事が、映画の質を高めていくのに違いない。映画用にわざわざ雑誌まで作る。このこだわりには感動しました。松井製麺所のセットはこれです。そして、この日最初にいった普通家の製麺所三島製麺所の本物の製麺しているところはこれです。見たら分るように、本物は一見雑然として「主張しているもの」は映像としては見えてきません。美術とはあくまでも本物に近づける、と同時に「主張」がないといけないのです。色々調べて結局この映画の美術担当の名前は分りませんでした。美術担当の名前は消えていくことが多い。けれども、これこそがテレビドラマではない、映画の醍醐味なのです。
2009年10月20日
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「あんたなんて大嫌い!この町から出て行け!」昭和40年代から50年代(たぶん)にかけての愛媛県大洲という田舎(たぶん)が舞台の女の子3人の友情ものがたり。監督・脚本 : 森岡利行 原作 : 西原理恵子 出演 : 深津絵里 、 大後寿々花 、 福士誠治 、 風吹ジュン 、 波瑠 、 高山侑子 、 森迫永依 、 板尾創路 、 奥貫薫サイバラの時代にはギリギリ「くさい」とか「きたない」とか言われて「仲間はずれ」にされている貧乏家族がいたと思う。イヤ、それはいつの時代でもいるのかもしれない。そして、今日新たにその層は増えつつある。今の時代にこれが作られるのだとしたらそれもひとつの要因だろうか。注目したのは、登場の2/3を占める青春時代の主役、大後寿々花である。ポスト宮崎あおいと見ている私が、大後の最初の代表作品になるかもしれないと思ったからである。大後は黙っているときに一番雄弁にモノが言える役者である。10台の女優の中では一つ頭を抜けているのは間違いない。理不尽な世の中への怒り、友だちへの慈しみと悲しみ、そして楽しみ、淡い恋への戸惑いを一言も喋らずに演じわけることが出来る。しかしセリフはまだ深みがなく、身体全体の表現も今一歩である。作品自体も素晴らしい、とまではいっていない。次回か、次々回ぐらいに代表作を待ちたい。
2009年10月18日
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昨日、「通販生活」の最新版が届いた。いろいろと興味深い記事はあったのだが、最近気になっていることとして「死刑制度は存置すべきですか?廃止すべきですか?」というアンケート結果が出ていたので読んでみた。ETV特集「死刑囚永山則夫」を見て、いろいろと考えたということもある。このアンケートは、三号にわたって存置派、廃止派八人の論者の意見を読んだ上で答えている真面目なものである。有効投票数1269票のうち、存置すべきが849票(67%)、廃止すべきが325票(26%)、どちらともいえない95票(7%)という結果だった。論者の支持では、「勧善懲悪の徹底こそが犯罪を抑止する」という鳩山邦夫氏の意見が一番の支持(31%)を取った。次は「死刑は存置する意義はあるが、犯罪被害者の支援体制つくりが急務」と言った山上皓氏(16%)、そして「どんな理由であっても、人を殺してはいけない」と廃止を説く森達也氏(16%)が三票差で三位になった。「冤罪を防ぐことは不可能に近い。死刑を廃止し、終身刑の創設を」と廃止派の亀井静香氏(10%)が四位。読者の意見は「子供の頃、人を殺したら死刑だと信じていいたので、絶対に人は殺せないと思った。人間も動物である以上、死ぬことが一番の恐怖だと思う」(女性48歳)がある一方、「死刑を認めることは「理由によっては人を殺してもいい」ということ。」(女性35歳)といろいろに分かれます。永山則夫のように「真の更正」があったとしても、「死と直面してこそ、死刑囚に償いの気持が生まれる」と言った元死刑囚に接してきた刑務官の坂本敏夫説にも納得した読者は多かったようだ。私の気持は今のところ決まってはいない。気持ち的には死刑廃止に気持は揺れている。どちらかというと亀井静香氏の意見に一番近い。人間は長い時間をかけて「復讐による殺人はダメだ」と納得してきた。では、死刑制度は「国家による代理復讐」を認めてきたということなのだろうか。そのことを判断する前に、死刑だけではない。「裁判制度」とはいったいなんなのだろう。「代理刑を決定するところなのだろうか」いや違うと思う。「どんな刑をするか決める」ところは、検察=国家なのだと思う。裁判はその国家が間違っていないか、「監視」するところなのだ。だから「疑わしきは被告人の利益に」ということが本来裁判制度の「国際常識」になっているのである(日本は違う)。歴史上、時の政府が100%正しく「決定」してきたことはない。亀井氏が言うように、冤罪は無くならない。ならば、「死」によって「決着」をつけることは間違っている。国家と被害者は違う。被告と被害者は別の決着の仕方を考えなくてはならないだろう。さて、ここからやっと映画評である。残虐な犯罪を続ける少年犯。彼らは“少年法”に保護されている。最愛の娘が、少年達によって、凌辱され殺された。ある日、謎の密告電話により、失意のどん底に落ちていた父親・長峰重樹は、犯人を知ることになる。「我が国の法律では未成年者に極刑は望めない!」復讐が何も解決しない虚しい行為だと分かっていながら、父親は自ら犯人を追う…。そして、長峰を追う2人の刑事。織部孝史と真野信一。被害者の絶望は、永遠に消えない。そして、少年達は犯した罪と同等の刑を受けることはない。法律を守る。という建前の正義を優先する警察組織に、不条理さを感じる刑事たち。それぞれが苦悩しながら、事件は衝撃の結末に向けて、加速していく…。(goo映画より)監督・脚本 : 益子昌一 出演 : 寺尾聰 、 竹野内豊 、 伊藤四朗 、 長谷川初範 、 木下ほうか 、 池内万作 、 岡田亮輔 、 佐藤貴広 、 黒田耕平 、 酒井美紀 、 山谷初男映画としては、完成度はイマイチ。原作ではうまく処理していた携帯や留守番電話を使った進展は上映時間の関係もあったのだろうが、リアル性のないものだった。また、主人公の原作とは違う最後の決断は当然賛否両論起きている。国家による「決着」を望まない主人公は、あの選択はありえる選択だと、私は思う。すみません、本論が短いですが、ネタバレできないので‥‥‥。
2009年10月17日
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なんと贅沢な配役か。監督・脚本 : 沖田修一 原作 : 西村淳 主題歌 : ユニコーン 出演 : 堺雅人 、 生瀬勝久 、 きたろう 、 高良健吾 、 豊原功補 、 西田尚美 、 古舘寛治 、 黒田大輔 、 小浜正寛 、 小出早織 、 宇梶剛士 、 嶋田久作 これだけの役者を使っているのだから、途中で大きな事件が起きるに違いない、と思っていてはいけない。その考えにとらわれてしまうと、とんでもない映画を見たという記憶しか残らないだろう。では、この映画をみて、何か得るものがあったかと言うと、実は何もない。実は何もない生活を一年以上続けるということがどのくらい苦痛で、退屈なのかを身もって知ってもらおうという企画なのだろうと、最後には慰める。ただ、零下70度の下で10-30秒裸になっていたが、果たしてそんなのを映像で流してよかったのか。あれは幾らなんでもフィクションだろう。それだけが気になった。
2009年10月15日
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昨日のETV特集「死刑囚 永山則夫」は衝撃的だった。実は、永山則夫についてはほとんど知らなかった。まさかこんなにも、特異で、短くも影響力のある人生を送った人だったなんて知らなかった。ウィキペディアで永山則夫を引いてみた。生い立ち1949年6月27日、北海道網走市呼人番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。腕のよいリンゴの剪定師だったが博打に明け暮れる父親の放蕩生活によって、家庭は崩壊状態であり、現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。1954年(当時5歳)に、母親が1人分しか汽車賃が出せずに則夫を含む4人兄弟を網走の家に残し、青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう(後に書いたノート母はで悔いている)。残された則夫を含む4人兄弟は屑拾いなど極貧生活に耐えてギリギリの生計を立てたものの、1955年に、4人を見かねた近隣住民による福祉事務所への通報をきっかけに、板柳の母親の元に引き取られた。母親は行商で生計を立てた。1965年3月、板柳から東京に集団就職する。就職の際に取り寄せた戸籍謄本の本籍が網走無番地であり、網走刑務所生まれと考えたため(実際には刑務所の外だった)。渋谷の高級果物店に就職し精勤し新規店を任される話まであったが退職、その後も職を転々として全国を転々、どこも長続きしなかった。1967年4月、明治大学附属中野高等学校の夜間部に入学するも、同年7月、除籍処分を受ける。1968年4月、同校に再入学し、クラス委員長に選ばれる。[1] 初めての犯罪は、横須賀の米軍基地内での自販機荒らしであった。 連続射殺事件 米軍宿舎から盗んだピストルで、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。永山は1965年に起こった少年ライフル魔事件の現場至近で働いていたためにこの事件を目撃しており、これに刺激された犯行ではないかという見方もある。1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された[2]。1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない」として死刑判決が確定する。この判決では死刑を宣告する基準(永山基準)が示された。 獄中での心境の変化 一審頃まで 永山は生育時に両親から育児を放棄され(ネグレクト)、両親の愛情を受けられなかった。裁判が始まった当初は、逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していた。 二審頃まで その後、獄中結婚した妻やその他の多くの人の働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方が次第に深まった。その結果、反省・謝罪・贖罪の考えが深まり、最終的には真摯な反省・謝罪・贖罪の境地に至った。また5人分の命(被害者と自分)を背負って贖罪に生きることが償いになるのではないかといったやり取りが残されている。二審のやり取りの中でもし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている。 差し戻しから死刑確定頃 差し戻し審で無期懲役が難しくなると一転して1審のような国家権力に対する発言に変わったが関係者の話では1審のような迫力はなかった。また拘置所で面会に訪れた人に対して社会に出た時の話をしなくなった。弁護士に対して「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうやり方をするんですね」といった趣旨の発言をしたとされる。死刑執行から12年たった今、なぜかもと妻の和美さんの初めてのロングインタビューがあり、それと永山則夫の自筆の手紙が中心になって番組が構成されていた。和美さんが何故今発言したのかよりも、今まで発言していなかったことに驚きを禁じえない。永山の願いは一つは、永山子ども基金の存在があるように、「二度と(貧困などの理由により)自分のような人間が出現させないこと」にあったに違いない。この10年、酒鬼薔薇事件の裁判、光市母子殺人事件の裁判、貧困の深まり、永山則夫の問題はいつも日本の社会と大きく結びついていた。いったい何故このような番組が今まで作られなかったのか。この番組を見ると、永山がいかに獄中で更正したのか、それにどれだけ和美さんの存在が力を貸したのか、手にとるようにわかる。和美さんと永山氏の過去との相似と、決定的な違い。だからこそ惹かれあった二人。和美さんが永山氏の「足」となって贖罪の旅をした経緯。それらはもっと深く知られるべきことだと思う。差し戻し確定後、永山氏と和美さんは離婚する。番組では何も語られていないが、オホーツクの海に散骨したのは和美さんなのだから、国家の法を信用していなかった二人の理由のある選択だったのだろう。いまだ明らかにされていない、1900通(だったかな)の手紙のやり取り。そこには日本の裁判制度への重大なヒントがあるに違いない。永山氏の19歳当時識字が出来ていなかったとは思えない論理的など文章と確固とした「字体」。マルクス主義を論じたという70年代の手記や、新日本文学賞を取ったという『木橋』など是非読んでみたいと思う。無知の涙増補新版
2009年10月12日
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岡山市の公民館では「中高年男性応援プロジェクトチーム」というのがあるらしい。特に団塊の親父たちをターゲットに、家に引きこもるな、人と交わろう、とさまざまな企画をしようというのである。いいんじゃない、とまだ50歳未満の私は思う。その企画の一つに参加してみた。「創る、観る、語る 映画に魅せられた男たち」というテーマなので。確かに昭和30年代に青春時代を過ごした人達には映画というのは最適の素材だと思う。そのころ岡山にはなんと130の映画館があった。どの町にも映画館があったのである。もちろんわが町水島にも二館あった。ほんの30年くらい前までは存在していたのだ。さて、映画を作った人の体験談やら、映画鑑賞会の代表の話やら、北海道で町民350人が参加した大型ミュージカル「いい爺ライダー」を鑑賞したりしたのであるが、一番印象深かったのは、地域の夫婦活弁士として活躍している「むっちゃん、かっちゃん」の活弁上映であった。素材は名匠小津安二郎監督の昭和四年の18分の無声映画「突貫小僧」(本編は38分。88年にこれだけ発見された)である。1929年 「突貫小僧」 松竹蒲田 白黒サイレント監督 小津安二郎脚本・脚色 池田忠雄出演 斎藤達雄、青木富夫(子役)、坂本武 当時は「人攫い」(子どもの誘拐)というは流行っていたのだろうか。「この世界の片隅に」の冒頭のエピソードにも出てきた。たとえ流行っていても、現代のように親が子どもをひと時も目を離さないということが「義務つけられ」てはいない。そんな余裕も無かったのだろう。《簡単な粗筋》付け髭をはやした男が、小僧にお菓子やおもちゃをえさに攫う。小僧はわがままし放題。手を焼いた人攫いは小僧をもといたところに返そうとする。決してVFXではない。正真正銘の昭和初年の下町が背景に映る。本来のト書きセリフ以上に色んなセリフをおそらく新たに脚本を作って付け加え、音楽も入れて、活弁の「ライブ」をするのである。大変面白かった。活弁しだいで、映画は二倍にも三倍にも面白くなるということがよく分った。しかも、監督は東京弁で作ったはずなのに、岡山弁で話される。活弁は面白い。もっと色んな人が見るべきである。
2009年10月10日
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君の見た世界は悲しいだけのものだった?君の目に世界は少しは美しかっただろうか?監督・プロデューサー・脚本・編集 : 是枝裕和 原作 : 業田良家 出演 : ぺ・ドゥナ 、 ARATA 、 板尾創路 、 オダギリジョー 、 高橋昌也 世の人達に「私は空気人形なの」と告白すると、「実は僕も空っぽなんだ」と返す人間のなんて多いことか。「こころをもってしまったのでうそをつきました」片言の言葉で話し、さまざまの表情をみせる空気人形。世界を初めて見て、すなおに愛する空気人形。この人しかありえない、という絶妙の配役である。今年の主演女優賞は、初の外国人女優で決まりか。空気人形を毎日丁寧に着せ替え相手にする男は「なぜ私だったの」と聞く空気人形に「めんどくさかったんだ」という。空気人形は心を持っているので、それは最高の侮辱の言葉である。男は言い訳をする。「いや、君じゃないんだ。人が、だよ」もう遅い。言葉に出さないけれども、みんな鬱屈がたまっている。溜まれば貯まるほど、こころが空虚になる。私には空気を抜いて空気を繰り返し入れる、青年の気持ちは分からない。けれども、それは人「形」を傷つける行為のような気がする。いや明確にそうだろう。空気人形だから許されるというのか。彼女が青年を好きだから許されるというのだろうか。空気人形はやすやすと許す。愛は惜しみなく与える。そして惜しみなく奪う。青年はみごとに罰を受ける。冒頭の空気人形作者の質問に、空気人形はうなずく。そして、「うんでくれて、ありがとう」というのだ。なんという肯定の言葉。太宰治も真っ青である。ああ、わたしはこの映像のたくさんのものを見落としていたのかもしれない。下町のトタン屋根の家から見える世界は美しくはなかったか。海辺で拾った空き瓶はキレイではなかったか。彼女から見える世界をまたもう一度きちんと見てみたい。
2009年10月06日
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原恵一監督の原作(決して臼井儀人氏ではない)が好きだったので、心配していたのだが、実写版は実写版でいいのではないかという気持ちにさせてくれた。監督・脚本 : 山崎貴 出演 : 草なぎ剛 、 新垣結衣 、 武井証 、 筒井道隆 、 夏川結衣 、 香川京子 、 中村敦夫 、 大沢たかお 例えば廉姫の婚儀をどうするか意見を求められたときの又兵衛の微妙な表情はアニメでは難しい表現だったろう。同じく廉姫も比較的ビミョーな表情を使い分けていた。凄いとまではいかないが、新垣結衣も見ることの出来る役者になった。もともと、歴史の中に埋もれてしまう小国の姫と大将なので、それほどガチガチの身分制約に縛られているわけではないのである。だから彼らに現代っ子的な雰囲気が残っていたとしてもそれほど違和感は無い。今回は慎之介ではなくて、真一。ハチやめちゃなアニメキャラではなくて、等身大の小学生の行動が、戦国時代に投げ込まれる。そこが最大の原作からの変更点である。携帯やマウンテンバイクを使いながらうまいこと処理していたと思う。素晴らしかったのは、山崎監督の(或いは白組の)VFX。おそらく、城の遠景はVFXだと思うのだが、他はうまいことセットとエキストラとを組み合わせていて、全然特撮だということがわからない出来である。相当VFXを使わないとあれを全部セットでやると莫大な制作費を要するはず。「特撮を特撮だと感じさせないのが、最高の特撮である」と誰かが言っていた。これがあるから、アニメの原作を実写にしてもすんなりと入り込めた。戦闘場面はあまり迫力はない。けれども現実の戦闘場面はこのようなものであった、という主張だと思えば、そのように見えてくる。真一の目の前で、ちゃんと人は殺されていた。真一は現実感持っていなかったようだが、真一の親は充分にショックを受けていたようだ。そのあたりも狙いだとすれば素晴らしい。この作品の素晴らしいのは、小国の城の素朴さ、その歴史考証であり、歴史の埋もれた庶民の「想い」を現代に伝えるというところだ。昔も今も、初々しい「恋」はあったし、家族の絆もあったということである。そして、封建時代の宿命と現代との違いも分りやすく描く。それはきちんと伝わっていた。真一が何のために来たのか、という点は原作よりも分りやすく描かれていた。最後の「ありがとう れん」にはさすがにうるっと来た。
2009年10月05日
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崔洋一監督は白土三平とのスペシャル対談でこのように言っている。「ぼくの前後の世代の多くの映画監督にとって、白土先生の「カムイ伝」はいつかチャレンジしたい高い山なんです。その根底に流れているものを腹のそこに抱えながら。その大河性を基準にして「スガルの島」(「今回の直接の「外伝」の原作)を描きたかったんです。」(「ビックコミック」9.25号)その監督の思いは意外なほどに私には良く伝わった。オープニングを漫画「カムイ伝」から直接とってきたのも驚いたし、「外伝」には無い非人村のエピソードを入れているのにも驚いた。「貧しさゆえに忍びになり、忍びゆえに抜け忍になった。カムイが自由を手にする日はあるのか。」という意味のナレーションが何度も流れる。これは「外伝」全体のテーマであり、その根底には「真の自由を得るためには、個人の力では実現しない」ということを言外に言っているのである。崔監督のこの映画には確かに「正伝」に繋がる思いが流れている。監督・脚本 : 崔洋一 原作 : 白土三平 脚本 : 宮藤官九郎 出演 : 松山ケンイチ 、 小雪 、 伊藤英明 、 佐藤浩市 、 小林薫 、 大後寿々花 、 土屋アンナ 、 芦名星 松山ケンイチのカムイは思った以上によかった。あと大後寿々花が小雪を喰っていた。さすがだと思う。数年前に宮崎あおいに続くのは彼女しかいないと思っていたのであるが、その日は案外早く来そうだ。17世紀の漁村の風景はよく作っていると思う。田中優子教授が「カムイの服は良く調べている」と感心していたように、そこは見応えがあった。ちなみに備中松山が舞台になっていたが、現実の松山城からは海は見えません。あれは架空の土地です。お間違えなきように。しかし、である。作品としては残念な出来に終わってしまった。クドカンは何を思ってあんなぶつ切りの脚本を書いたのだろうか。「抜け忍の身で一番恐ろしいのは、追っ手ではなく、何も信じられなくなる己の心である」ということが今回の映画の大きなテーマなのであるが、スガルの徹底して人を信じられない心は中途半端な描き方であるし、原作にある半兵衛たち海の男たちの「信じる心」は中途半端にしか描けていない。そして裏切り者は単に「狂った心」で裏切ったのだというようにしか思えない、説得力の無い裏切り方であった。だからどうしてスガルが簡単に死んでしまうのか、説得力持って描けていない。この映画で繰り返し描かれているように、抜け忍はめったなことでは人を信じない。だから、あの最低の裏切り者が罠を仕掛けようとしたならば、それこそ数年かけて信じさせる実績を作らなければならなかったはずである。今回、彼が裏切りを実行に移すきっかけはカムイとスガルという獲物も手中に入ってきたからだと、いうのならばそれとわかる描写が欲しかった。それまでして、手柄が欲しいあの裏切り者の心中をきちんと描いて欲しかった。そして、それほどまでに欲しかったかカムイの首のはずなのに、どうして大頭は最後を見届けずに帰っていったのか、全く謎である。「信じる」-「信じない」の微妙な分岐点を、明確に描くことがこの映画の全てだった筈なのであるが、見事に失敗している。おそらく監督の想いは空回りしていたのだろう。しかし、この映画版によって白土三平が九年ぶりにカムイを書く気になった。そのことだけは喜びたい。
2009年09月25日
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時代劇版プロジェクトXである。良くも悪くも。監督 : 田中光敏 原作 : 山本兼一 出演 : 西田敏行 、 福田沙紀 、 大竹しのぶ 、 椎名桔平 、 西岡徳馬 なるほど、職人の心意気とはこういうことなのだということがよく分る、まさにプロジェクトX的作品。戦闘場面は出てこないけれども、甲冑姿の兵士の大行列は見せるし、一つ山を城にする過程も良く描けている。大竹しのぶが素晴らしい。常に微笑を絶やさない、内助の功の典型を演じていて、おそらく大竹本人とはまったく違う人間なのだろうけど、非常に説得力ある演技で片時も見逃すことができない集中力だった。それに引き換え、福田沙紀の泣いても笑っても気持が全く入っていない「私は今演技をしています」的な演技は映画を台無しにする一歩手前のものだったと思う。若手女優でいい女優は多いが、彼女はこんな大役は10年早かった。西田敏行の演技を誉める人がいるが、私はあんなにも泣いてはだめだと思う。頭領として、もっと内に秘めたものを出してもらいたかった。城を作ることは上手く描けたと思う。しかし、その城が「歴史」にはならなかった。城と人との運命をきちんと最後まで描いてこそ、「火天の城」だろう。
2009年09月16日
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「死ぬ話をするんじゃねえ、生きる話だ」監督・脚本 : SABU 原作 : 小林多喜二 出演 : 松田龍平 、 西島秀俊 、 高良健吾 、 新井浩文 、 柄本時生 、 木下隆之 、 木本武宏 、 手塚とおる 、 皆川猿時 カムチャッカ沖。蟹を缶詰に加工する蟹工船・博光丸の船内では、出稼ぎ労働者たちが安い賃金で過酷な労働を強いられていた。少しでも手を抜くと監督・浅川の容赦のない暴力に晒されてしまう。労働者たちは仲間の1人・新庄の言葉に従って自殺しようとするも、結局死ぬことすらできなかった。そんなある日、新庄と塩田は漁の最中に博光丸とはぐれてしまう。そして冬の海で寒さに凍える彼らを助けたのは、ロシアの船だった……。(goo映画より)原作とは、筋立ては大幅に変えているが、そのエッセンスは53年に作られた映画よりも原作に忠実のように思えた。何度も「この現実は変わらない」と呟く労働者たち。仲間の死によって追い詰められ、そして立ち上がる労働者たち。一回目の反撃は成功したかのように思えるが、「国民を守ってくれている」と思っていた軍隊が資本を守るためにストライキ潰しにやってくる筋立て。そして最後の終わり方。「蟹工船」はどのように作っても、この映画のように時代性をあえて無視してポップに作っても、非常に映画的になる。発見したのは、すすけた劣悪な労働環境であるからこそ、茹で上げたばかりの「赤いカニ」がまるで労働者の血の色に見えて効果的である。ラストに向かって畳み掛けるように盛り上がっていく構成も映画的である。しかし、だからこそもう少し「きちんと準備」して作って欲しかったと思わざるをえない。メッセージ性はくどいほど伝わった。まるで演劇のようにセリフのやり取りでそれを伝えようとするのはどうかと思う。時々フラッシュバックで彼らの過去が描かれるが、あまり成功しているとは思えない。原作には無いけれども最初「来世で金持ちになるために」集団自殺を組織する新庄が、「生きるために」ストライキを組織して、リーダーとして死んで行くのは、少し頭で考えすぎの筋立てではないか。彼らの気持の変化はわかった。けれども、もう一方の資本家が魅力的に描かれていない。浅川は大声で叫ぶだけで、なんかステレオタイプの工場長にしか思えなかった。せっかくいい役者を使っているのに、残念で仕方ない。ストライキにいくまでに、サボタージュ、そして数人のストライキ、それがつぶれた後に組織的なストライキ、そしてそれがつぶれた後にセリフに頼るのではなく、労働者の知恵が見えるような組織性を持たせ、浅川の惨めな最後まで見せて欲しかった。やっぱり、時代をきちんと「現代」にして、一人ひとりの過去を丁寧に描き、資本の狡猾さ大きさを描き、群像劇として最後に彼らが団結をする、軍隊は機動隊などの警察に工夫する、そういうリアルな蟹工船の方が良くは無かったか?(資金の問題はもちろんある)今度は組織的な映画化を望みたい。「もう一度!」
2009年09月13日
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「ベルばら」が大好きな派遣社員28歳の三沢さんが、民衆のために立ち上がるオスカルに自分の姿を同調しながら、リストラが進む化粧品会社の中で独り立ち上がる。 派遣社員の置かれている状況を田中麗奈がコミカルに演じていて、快調である。録画していた二回分を見た。 一回目。同じ企画書を出しても正社員の意見が通ってしまう現実。お茶くみの正社員の給料が23万、スキルはよっぽどこっちが上の自分の給料は19万、それでいて明日は首を切られるかもしれないという危険が付きまとっている。「ずるいよ、派遣ばっかりいっぱい貰って」と怒りをあらわにする三沢さんに先輩の派遣社員は言う。「それは違うよ。正社員はもらっていいんだよ。私たちも貰っていいんだよ。憎むべきはもっと上、企業とか政治とか。えらそうな上の人たちよ。たぶんね‥‥‥」このセリフで、以前にあった超人的派遣社員ドラマより、しっかりとしたドラマであることが分る。 二回目。正社員女性は呟く。彼女なりに生活をかけて会社にしがみついている。憎たらしい社長の御曹司もそれなりにか会社を愛していることが分る。「仲間のために」「弾こめ、進撃」三沢さんは後先省みずに進撃する。 この時点で、漫画家俵あん(鈴木 杏)とのメールでのやり取りがまだ生きていない。全六回放送、これからが楽しみ。
2009年09月06日
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「遊びは終わった」監督 : 堤幸彦 原作 : 浦沢直樹 出演 : 唐沢寿明 、 豊川悦司 、 常盤貴子 、 平愛梨 、 香川照之 、 石塚英彦 、 宮迫博之 、 藤木直人 、 古田新太 、 森山未來 、 小池栄子 、 黒木瞳 今回は風呂敷をたたむ回なのだから、評価は前々回、前回と全く変わりません。荒唐無稽な話ならば、一つのウソのために他のところはできうる限りリアルに徹して欲しかったのに、三部作まで作ってこれを世界に発信するのが不安で仕方ない。最後はきちんとまとめたと思う。と、いうか、原作部分の未完成だった部分を原作者が付け足したといっていいだろう。以下ネタバレ(スクロールしてね)原作では、きちんと見れば真の「ともだち」は勝俣君だということは分る仕組みになっている。そしてその時点で原作は終わっている。残るのは、子供のときのいじめと、見て見ぬ振りが人類の三分の一を滅ぼす悲劇までに発展したという説得力のない展開であって、読者には自らを問い直し、後悔させるという効果があった。けれども、それはどれほどの効果があったのか、私は疑問でもある。そういう意味で、バーチャルの世界で、つまり観客の心の中に「具体的」にどのように解決したらいいのか示した今回のバージョンは、とりあえずすっきりした終わり方であった。
2009年09月04日
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完全ネタバレです。でも映画が始まるとすぐにこのあたりのことはばればれなので、この秘密の暴露は許してください。その前にすこしあらすじ。山間の小さな村のただ一人の医師、伊野が失踪した。村人たちに全幅の信頼を寄せられていた伊野だったが、彼の背景を知るものは誰一人としていなかった。やがて刑事が二人やってきて彼の身辺を洗い始める――。失踪の2か月前、東京の医大を出たばかりの研修医・相馬が村にやってくる。看護師の朱美と3人での診察の日々。そんなある日、一人暮らしの未亡人、かづ子が倒れたとの一報が入る……。(goo映画より)監督・脚本・原作 : 西川美和 出演 : 笑福亭鶴瓶 、 瑛太 、 余貴美子 、 井川遥 、 香川照之 、 八千草薫 伊野はついに意を決して研修医の相馬に言う。「…僕には資格がないんだ」「先生の自虐ネタはもう飽きました。いったい誰が資格があるといえるんですか。僕の親父なんか、いつも金儲けのことばかり考えていて、医者の資格なんて到底あるとは思えない」「いや、そういうことじゃないんだ。…いや、もうええ。うっとおしいやっちゃなあ。ほんまに春からこの診療所に来るつもりなら、上司の愚痴の聞き方ぐらい心得てきぃよ。」そのあと、紆余曲折ありまして…。いい終わり方だったと思う。八千草薫は笑顔で迎えると思っていたけど、やっぱり笑顔で迎えた。「ゆれる」ほどには緊張感のある映像ではなかったけれども、西川監督はやっぱり人間の「揺れる」微妙な心理をみごとな切り口で見せてくれた。過疎地における地元密着医療と総合病院の機械的医療との違い(一方では設備は決定的に不足している)、そして人の生き方の問題、仕事は何か、「資格がある」とはなにか、を突きつけて面白かった。村びとも、看護婦も、医療業者も、研修医も、刑事の前では一転して、村にいたときには英雄扱いだった医師を冷たく証言するのだが、それは自分を守るのと同時に、結果的には彼をも守っている。このあたりの微妙な匙加減は私好み。ところで、私のささやかな経験を話したい。ヘルパー2級の「資格」を取ったときに、ある福祉施設に三日間研修に行った。そのときに一日付いてくれたのは、30才前後の青年だった。もうここで2年働いているという。トイレ介護の仕方、掃除の仕方ひとつとっても、「利用者のためになにが最善なのか」すべての作業に意味を持たせていて、てきぱきと優しく仕事をしている。「すごい」と思った。ところが、最後に彼は言った。「実は僕ヘルパーの資格ないんです」時間がなくてまだ資格を取りにいけていないらしい。もちろん、法的には何の問題もない。いまのところは。(やがては、すべての介護職員は資格が必要なときがくる予定ではあるのだが)「資格とはいったい何なのだろう」私は時間と金をかけたから資格は取れた。けれども、人の命を預かる仕事であるこの仕事に本当につけるのか、逡巡した結果、今はまったく別の仕事をしている。エンドロールの歌もなかなかよかった。♪回り道するのよ どんな道草にも花はある♪
2009年08月31日
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『幼獣マメシバ』最初、わけの分からない外国語で説明書きがあって、とつぜん日本家屋での場面に写る。あの説明書きは何だったのだろうか。おそらくはマメシバと呼称される『大きくならない芝犬』の説明だったのではないかと思うのだが、で、あの言葉はスペイン語ではないかと思うのであるが、正しいのだろうか。なぜスペイン語になるのか、それを書くと決定的なネタバレになるので、避けます。(^_^;)監督 : 亀井亨 原作・脚本 : 永森裕二 出演 : 佐藤二郎 、 安達祐実 、 渡辺哲 、 高橋洋 、 高橋直純 、 西田幸治 、 笹野高史 、 石野真子 、 藤田弓子 始終くすくす笑いが絶えない、という種類の映画でした。『ニートを持った親子の、お互いの自立の物語』であるというのは、正しいと思うし、それは最初から分かるのであるが、その描き方がとてもユニークです。そもそも藤田弓子扮するお母さんが、「30数歳になっても家の半径3キロ以上を出ることができない息子のニート克服のための処方箋」でマメシバを派遣したのは分かるのですが、そのあと『私を探してくれ』という明確なメッセージもないまま、下手な絵とわけの分からない一言メッセージを置くだけ。もちろん彼はそれで外の世界に入るわけではない。周りの偶然の助言や偶然の出会いで、しかも奇跡がいくつも重なって彼はお母さんの足取りをたどるわけです。だから結果的にニートの彼が一人立ちできたとしても、それはあくまでも『奇跡』あるいは『ファンたージー』なのである。それは観客にも皆分かっている。だから安心してみていられる。映画を見てみいてもニート問題が解決するわけではない。でも90の嘘があって、10の本当がある。はじめての保護すべき存在マメシバを迎えて、彼はすこし勇気を出し、初めての外の世界に出てきて、確かに自分を責めない仲間にも出会う。そんななかで、彼は社会生活をすこし送れるようになる。最後にはなんとわれわれにはちょっとできないようなことまで…。いやあ、マメシバ飼いたいです。
2009年08月18日
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「よくないのは、食べないことと、独りでいることだよ」最初に仮想空間「OZ」の説明が続く。いわゆる画面いっぱいに綿密に作画されており、前回「時をかける少女」よりも金をかけていると納得する。前回の成功で、思いっ切り潤沢な資金で作られた文字とおり今年を代表するアニメ作品だろうと思う。監督 : 細田守 脚本 : 奥寺佐渡子 主題歌 : 山下達郎 声の出演 : 神木隆之介 、 桜庭ななみ 、 谷村美月 、 富司純子 、 斎藤歩 スピード感があふれ、人の人情と表情と感情を描き分けて、二時間近くを退屈させないエンタメ精神に撤している。バーチャルの世界で何でもできる世界が確立しつつある。その危険性をうったえるのと同時に対抗できる可能性として旧家の大家族の『人のつながり』を持ってきた。ありがちかもしれないけれども、説得力のあるストーリーをつくっている。それを保障するのが旧家の2-30人にも及ぶ登場人物なのであるが、せりふに頼らないで、絵やしぐさだけで彼らの性格ならびにちょっとした人生までもあぶり出るようにしているのは、たいしたものだと思う。(たとえば、侘助に対する人々の態度が微妙に違う。子供のころの対立関係までもが想像できるつくりになっている)けれども、何か物足りない。なんなのだろう。先々週の金曜日に、この映画の前宣伝として日テレで『魔女の宅急便』をしていて、私はつい最後の15分間だけ観ていた。魔女のキキは男友達が飛行船から落ちそうになっているのをテレビで見て、街に飛び出す。おじさんから『デッキブラシ』を貸してもらって、そのときまで飛べなかった魔法を使おうとする。喧騒がなくなり無音の世界。キキの髪が逆立つ。デッキブラシが逆立つ。彼女は飛び始める。コントロールできない。スピードが増していく。街中の隅々まで行き届いた作画。彼女は飛んだ。地中海のみごとな風景。空を飛ぶってこういうことだったんだと思わせるみごとな映像。上映当時はこの映画をマイナーがメジャーに擦り寄ったいやらしい作品に感じていたのだが、いま改めて見て、本当に緊張感のある作品だった。デッキブラシが逆立つところで、私の肌も逆立ったような気がした。このセンスとオリジナリティを超える作家はまだ出てきていない。細野監督にセンスはあると思う。けれどもオリジナルティはまだない。逆立つようなアイディアがない。(あるいは宮崎駿の中にあるようなあまりにも我儘な作家性というべき物なのかも知れない)これから期待して行きたい。よかったのはおばあちゃんの最後の手紙と小磯健二君の『よろしくお願いします』というこの場に及んでもの謙虚さである。このアニメは日常SFとでもいうべきアニメの王道作品なのであるが、人工衛星が落ちてあれだけの被害で終わるものなのだろうか。まあアニメだからどうでもいいといえばどうでもいいのだけど、そういう水準のアニメではないと思っているので気になっています。
2009年08月10日
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韓国と日本を結ぶ幻想的な大人のラブストーリー 【韓国映画】キム・レウォン、山本未來「花影」DVD(日本版)うーむ、どうしてこんな安易な脚本が通ってしまったのか、まったくなぞです。宝石デザイナーとして銀座で成功している女の人(山本未来)は実力主義のいわば嫌な女。不倫の恋で敗れ、それがマスコミに明らかになって仕事も立ち行かなくなったときに、釜山に仕事に行っていたときに出会った青年からラブレターをもらい、会いに出かけて性格まで変わってしまうという物語。実は青年はラブレターを出しに行った当日事故で死んでしまったが、山本未来は在日三世で、なぜか未来はそのときだけ韓国語ができるようになる。そして桜の木の下で青年にあう。DVDで見たのだけど、一応記録。山本未来は「ここにいるときは本当の自分に戻った」とでも言うようなせりふをはく。マスコミから逃れていたときに奈良の実家に帰るのだけど、そのときにそのような「本来の自分」のエピソードがあればまだ説得力があったのに、それもない。まるで自己都合満載のファンタジーである。ただ、舞台が私も行った密陽でした。あんな素敵な場所があるとは知りませんでした。こんど行くことがあればぜひ「風の丘」にも行ってみたい。多分何時間かタクシーを飛ばすことになるのでしょうね。映画になったからバスも通じているかしら。
2009年08月02日
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映画の終盤、山本医師が訪問看護講習会である問題を出す。『一切質問は禁じます。いわれたことをやってみて下さい。先ず紙に真四角を書いてみてください。その上に丸を三つ、書いてみてください。そしたら、それを隣の人と見比べてみてください。』みなさん書いて見ましたか?私も映画を見ながらイメージをわかせてみました。すると映画の中で講習者が書いている図を見てびっくり、私のと90%違うのです。ちなみに私のイメージしたのはこの記事の一番最後に入れている図です。みなさんのとはどうでしたか ? 山本医師は受講者に言います。「そのうように人は全部、見方が違う。見方が違うとまったく違ったものが見えている。そのことを知った上で対応していこう」この映画はそのように我々に全く新しい視点を開いてくれる映画である。岡山県岡山市にある、外来の精神科診療所「こらーる岡山」。カメラは、代表の山本医師を頼ってやってくる患者たちを、ありのままに捉えていく。診療所に入って来るなり、抑えきれない不安をぶちまける女性。やがて平静を取り戻した彼女は、カメラに向かって、泣き叫ぶ自分の赤ちゃんの口を思わず手で塞ぎ、殺してしまった過去を淡々と話し始める。写真を撮り、詩を書いて、自分の気持ちや世界観を表現する男性は、10代の頃に発症。その後25年間、先生の診療を受けているという。さらにカメラは、医師、スタッフ、ヘルパーなど心の病を患う人々の周辺まで写していく。(goo映画より)撮影・録音・編集・製作・監督 : 想田和弘 出演 : 山本昌知(「こらーる岡山」代表・精神科医師) まえ『選挙』の上映のときに岡山に来た想田和弘監督は「今岡山のある精神病棟で次のドキュメントを撮っている」と話していた。ああ、これがそうだったのか、また凄いドキュメントを撮ったものだ。映画の中で監督の義母の写真も出てくるので、どうやら岡山は監督の妻の実家らしい。その縁でこつこつと撮って来た作品なのだろう。例によってナレーションも字幕も一切入らない。最初と最後に『精神』と題字が入って監督名が出るだけである。思うにドキュメンタリーとしてはまさに王道の撮影態度であろう。題名も07年の撮影時の待合室の張り紙に『映画の撮影があります。メンタル(仮題)』というのがあった。最初はそんな題名を考えていたのだろう。だからこの映画は、映画に出ることを了承した人たちしか出演していない。現在、メンタルヘルスはわたしたちの周りにありふれた病気になった。けれども40年間この統合失調症に付き合っているというある男の人が言う。「健常者と我々の間にはカーテンがある。健常者が我々にカーテンを張っていることもあるけれども、我々が幕を張っている部分もある。けれども俺はあるときから自分からの幕は取り払った。」何故彼は取り払うことが出来たのか。それがこの映画の肝の部分だろう。彼の出演はその一回だけである。彼はむしろ健常者よりもしっかりしていて、知的な人間にさえ見える。そういうこと含めて映画全体が彼の言葉を裏つけている。いくつか、びっくりする話を患者は淡々とする。「泣き叫ぶ自分の赤ちゃんの口を思わず手で塞ぎ、殺してしまった」のもその一つであるが、「お金がなくて街を歩いて身体を売った」というのもその一つであるし、薬の袋詰めをしている女性が話をしだすと(まるで事務員にしか見えなかったが)実は患者の一人だったというのもその一つである。一方で、彼らは実に誠実な態度を示すし、時々ドッキリするような哲学的に深遠なことを言って見せたりする。コラール岡山は住宅地の真ん中にある古い住宅を改装した実に開けた精神病棟である。山本医師は『じつは給料は10万円くらいなのよ。わたしたちより低い』と事務員さんたちは言う。05年は自立支援法ができようとした年だった。コラール岡山にも喫茶や作業所、牛乳配達所などが併設されているが、このままでは立ち行かなくなる、と患者と事務員一緒になって悩んでいた。今はいったいどうなっているのだろうか。ひどく気になって、先週あったはずの監督トークショウで質問が出なかったか、映画館の支配人に聞いてみたが、『出なかった、分らない』ということだった。気になる、全国のいろんな施設がたたんだり、方針転換をしたりしているのをニュースやブログでも見ているだけに気になる。最後のエンドロールで『追悼』という文字とともに突然3人の患者の名前と写真が出た。「えっ!?」思わず声が出た。映画の中では、全然死にそうな感じではなかった。2年の間に彼らに何があったのだろうか。特に、その中の一人の男性は、病状も過去も何も喋らずずっと寝転んでいるかタバコをくゆらせている方だったが、『スガヤさん』の話だと朝日高校三年間一番、東大に行って岡大医学部にもいったエリートだと知らされていた。映像の彼を見ると、そんな感じは一切しないのだが、岡山の人間にとってはこの一連の学歴は嘘の学歴とはちょっと思えないのである。朝日高校といえば、岡山の普通高校ではトップの高校なのである。また岡大医学部は確かに東大クラスの実力がないと入れないはずだ。そんなエリートが病気になるのは、なんかありえる話だと思えた。しかし、まさか死んでしまうとは!!ラストのエピソードはどうしてあのようになったのか。なんか突然のぶつ切りの様に思える。さまざまな解釈が可能だろうと思う。一見彼はたちの悪い『クレーマー』のように見える。土足で上がって施設の電話を勝手に借りてえんえん市営住宅に入るための交渉をしている。役所側の対応はうんざりしているのが読み取れる。しかしここまで交渉術に長けているのだからこの人は患者ではないのではないか。とも思える。やくざっぽい人なんだろうか。けれども、彼はタバコの灰が床に落ちそうになるのを避けて外で電話をし始める。五時を過ぎて施設の職員が『帰る時間なんですが』と言うと、素直に電話をやめる。『今日もカプセルですか』職員が聞く。どうやら住宅確保は彼にとっては切実な問題のようだ。しかも決して土足で入ってきたわけでもないことが分る。ここで私は先の山本医師の言葉を思い出す。40年間ここに通い続けた男の言葉を思い出す。先ずはこちらからカーテンを閉めることはやめよう。人の『精神』はまだまだ謎が多い。だからたぶん面白い。
2009年07月25日
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コメディ映画だと思っていた。評判は聞いていたので、爆笑をするやつではなくて、小ネタを次々とかまして二時間の間くすくす笑いっぱなしで、終わった後「まあ面白かったね」と言って忘れ去る映画だと思っていた。【21%OFF!】純喫茶磯辺(DVD)監督: 吉田惠輔出演: 宮迫博之 / 仲里依紗 / 麻生久美子 / 濱田マリ / 和田聰宏 / ダンカン / ミッキー・カーチス / 斎藤洋介 / 近藤春菜(ハリセンボン) DVDで見たので、途中何度も中断しながら見て全然集中していなかったのだけど、それでもこの作品は「傑作だ」と思った。思いもかけず「感動作」なのである。 小ネタがなければ、小津映画から続いている日常を見事に切り取った純和風の映画なのである。優柔不断で、こずるくて、「生活をいい加減に生きているんだけど真面目に生きている」人たちを、つまり自分(たち)の分身を見事に切り取った作品になっている。 麻生久美子は映画の空気を見事に切り取っていて、美人なんだけど、空気が読めずに、「下手に」生きている姿を見事に演じ、高校生の娘役の仲里依紗はもうまるで「素のままでやればいいよ」と監督に言われたのか、本当に素のままで演じていて、笑ったり、ぶりっこしたり、怖がったり、落ち込んだり、切れたり、人の弱点を遠慮会釈なく責めたりする様を見事に「演じて」みせている。いやあ、ほかの作品も見てみたい。そこでもこれだけの存在感を発揮していたら、注目株に数えなければならない。宮迫博之の方は堅実にダメ男を演じている。お客の人たちも見事な怪演を見せている。基本的に無駄な演出が見当たらない。 ところで、もう一人のアルバイトウエイター役近藤春菜が「守護天使」のカンニング竹山にクリソツなんだけど、まさか同一人物ではないでしょうね。こちらはどう見ても女で、あちらはどう見ても男だったのでたぶん違うとは思うのですが…。いや、本気で聞いています。と、知り合いに聞くと笑って『確かに似ているとよく言われている』と言っていました。私は別に小ネタとして聞いたわけではないんですが‥‥‥。私最近テレビ界のタレントに疎くて…。
2009年07月19日
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「キサラギ」があまりにもよかったために、少し期待しすぎたのかもしれない。もっと爆笑できるものだと思っていた。監督 : 佐藤祐市 出演 : カンニング竹山 、 佐々木蔵之介 、 與真司郎 、 忽那汐里 、 寺島しのぶ くすくす笑いが続き、ハートウオーミングで終わった。監督は基本的にはいい人なのだろう。「女の子を守る」というのは「レオン」以来、私の好きなテーマの一つである。しかし、いかんせん女の子があまり魅力的じゃない。(可愛いんだけどね)また主人公のカンニング竹山も実際魅力的じゃない。入り込めなかった原因だろうと思う。結局脇役、佐々木、柄本が生きていたので、最後まで退屈せずに見ることが出来た。一番よかったが、鬼嫁こと寺島しのぶ。ほんの少し見せる素の顔が彼女の心情をよく出していた。後で思えば、1日のこずかいを500円に限定しているのは、まっすぐ家に帰ってくるための作戦だったのかもしれない。
2009年07月19日
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二度店で探したけれども、原作は既に売り切れ。もう一回細部を確かめて映画に望みたいと思ったけれども、まあ原作と比べるのも酷な話だったのかもしれない。監督 : 岩本仁志 脚本 : 大石哲也 原作 : 手塚治虫 出演 : 玉木宏 、 山田孝之 、 石田ゆり子 、 石橋凌 、 山本裕典見た感想としては、案外玉木の悪役の魅力がにじみ出ていて、悪くはなかった。しかし魅力はそれだけだった。反対に言うと、山田孝之の「良心」としての存在感があまりにも薄い。90%は玉木の使いっぱしりじゃないか。この映画を、同じく米軍の存在が原因でとんでもない怪物を作ってしまった韓国映画「グエムル」と比べると、何が足りないかがよく分る。一つ、米軍の存在がいかに危険なものかを「グエムル」は象徴的だが、明確に描いていたのに比べ、「MW」の場合はついには「米軍」という文字が出てこなかった。横田基地は「東京基地」というふうに言葉替えが行われ、この最悪の化学兵器が何故作られ、どのように日本政府と取引が行なわれ、どのように管理されていたのか、結局明確に描かれない。少しは想像できるけれども、手塚が何のためにこの作品を作ったのか、その半分以上はうやむやに終わっている。東京基地内で米軍司令官はなんと単なる警視庁の刑事に対して「君たちの問題だ。きみたちで処理したまえ」などとのたまう。ところが、実際には刑事の存在は全く意味がなく、最後にのっとり機を日本政府の許可も得ずに東京湾上で爆破したのも米軍なのである。それも全くノープロブレムみたいだ。一つ、おそらくこの映画はこの夏数あるヒット作のうち中の下といったところだろう。全く不十分ながら、米軍犯罪を告発し、日本政府の共犯を示した作品はヒットしないだろう。ところが、「グエムル」は日本での評判はすこぶる悪かったが、韓国内ではダントツの観客の支持を得たのである。要は日本と韓国との観客の成熟度の違いが、二つの作品の出来にも反映していると見ることが出来るのかもしれない。ところで、原作では二人の主人公は恋人関係にあった。まえ宣伝で、「タブーに挑戦する」とかあったので、濃厚なラブシーンはなくても、それに近いものはあるだろうと踏んでいたのだが、まるきりなかった。がっかりである。玉木の悪の魅力を出そうとすれば、金と暴力、そして○ックスが必要不可欠だと思うのだが、女性とのラブシーンさえなかった。玉木が度胸がないのか、監督が度胸がないのか。全く理解に苦しむ。それでも、私は「久し振りの骨太映画だ」と評判の「ハゲタカ」よりも、こっちの方がよっぽど社会派映画だと思う。79点をあげてもいいかもしれない。
2009年07月15日
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6月27日、アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が公開された。第一弾の『序』は、一昨年に公開され、約200万人を動員、興行収入20億円の大ヒット作となったそうだ。今日も今日とて、シネコンに行くと、「エヴァ」だけは早々に売り切れたらしい。私は今週「序」をたまたま、DVDで借りてみて見た。 もとの「エヴァンゲリオン」は映画版をリアルタイムで行列に並んでみた。テレビ版は少し遅れて、ビデオが「新作」でなくなったタイミングで見ていった。そうすると、ビデオの最終作が出るのと、映画版が完結するのと、ほぼ同時であり、私は両方の結末にとてもがっかりした覚えがある。 つまりはこれは監督の「心の中の物語」だったのだ、というのが私の感想であり、当時幅広く社会現象になっていたファンたちにとって、生きていく上で混乱こそ与えこそすれ、何の役にも立たないものであると、私は断じた。もちろん「芸術」といわれるものは別に生きていくうえで役に立とうが立つまいがかまわない、というのも一面の真実ではある。「シンジやレイは私だ」と登場人物たちにシンクロさせることができるならば、ほんの少しだけ慰めを持てた者もいたかもしれない。それはそれでいい。ただ、あれが「社会現象」になるのがどうしてもがまんならなかった。どうしても社会に適応できないような者を描いた作品ならば、たとえば「真木栗の穴」とか佳作の作品はたくさんある。 さて、今回も「エヴァ」は100年に一度の不況などどこ吹く風で、やっぱり社会現象になりそうな雰囲気がある。゜「序」を見てみると、基本的には前作をトレースして少し世界観を緻密にしただけである。なんともいえないが、ひとつだけわかるのは、前作と基本コンセプトは全然変わっていないということである。時々シンジの顔がテレビ版の最終回で見せたような「心理的な顔」になっているので、おそらく今回も「人類補完計画」と言いながら結局「私の補完計画」に(いや、前作では結局補完さえもされてたいなったと思うが)終わりそうである。これが、一応「序」の感想である。 ただ、話題の映画は一応チェックをするので、映画館で見るか、DVDで見るかはまだ決定していないが、見ていきたい「エヴァ」世代は「ロスジェネ」世代でもある。社会に目を向けたとき、すでに社会は、宮崎勤事件、阪神大震災、オウム事件、池田小事件、派遣法成立、就職超氷河期、小泉政権成立、自己責任論、等々と移ってきており、すでに「セカンドインパクト」並みに世界は壊れていたし、閉塞感は普通の若者を何十万人も押し潰していた。だからこの映画の中にある「新東京」の、いつも真夏の気候、張り巡られた電線、カップヌードル、そして無駄に金をかけた地下要塞都市、等々の「日常の中の非日常」は、ロスジェネ世代にとっては「現実」なのだろう。「エヴァ」が今の時代にヒットする理由も、だから無いわけではない。作者は、そういう世界の中で、、ただあがき苦しむ人間たちを描く。主人公が苦しむだけならばまだいい。しかし、この「計画」を全て知っているかのような大人たちも、まるで子供のように「世界」を把握していない。あるいは最も把握しているかのような碇ゲンドウなる人物がもっとも危険で幼稚な人物のように、(作者はどう思っているか知らないが)描かれている。(というのが前作の世界観だと私は思っている)エヴァ世代は今日の朝日新聞別刷り「be」のフロントランナーを読んでほしい。大きなカラー写真で、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんが、養成講座「活動家一丁あがり!」で若者に囲まれて笑っている。「メディアでの印象とは異なり、普段は笑顔が多い」とキャンプションにはある。「世界」は閉塞感に満ちている。けれども、「車到山前必有路(前進すれば路は開ける)」それを今世界の現実で体現している人の姿を見ることができるだろう。湯浅さんはこの10ヶ月まったく休んでいないそうだ。講演で全国を飛び回っても、必ず火曜日には東京に戻るらしい。「自立生活相談サポートセンター・もやい」の相談日だからだ。「国はまだ貧困を正面から見据えていない。だからとまる理由が見つからない」と湯浅さんは言う。4年前に生活保護の受理を拒む「水際作戦」に対抗するために「本当に困った人のための生活保護申請マニュアル」という本を書いた。そこから「論客」としての活動が始まった。「貧困」という言葉を使って文章を書き始めたのが3年前。ちょうど小泉政権の末期で、メディアが検証を始めたときとも重なり、活動の幅が一気に広がった。派遣村以降は、またステージが変わって未知の体験が続いているという。社会をどう変えたいか、という問いに対して湯浅さんはこのように答える。「ストライクゾーンをもっと広げたい。そうすれば、ボールと判定される人が減り、多くの人が生きやすい社会になる。でもそれはひとりじゃできない。だから仲間を集め、「場」をつくり、社会に問いかける。それが私の役割だと思っています」
2009年06月27日
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「厳しさの中にしか美しさはない」監督・撮影 : 木村大作 原作 : 新田次郎 出演 : 浅野忠信 、 香川照之 、 宮崎あおい 、 小澤征悦 、 井川比佐志 、 國村隼 、 夏八木勲 、 松田龍平 、 仲村トオル 、 役所広司 木村監督の執念の映画である。ストーリーはいたって簡単、地図を完成させるために劔岳に登る、それだけである。しかし、映像の力をまざまざと見せつけられた。空撮もCGも一切なかったという。秋の立山連峰、錦秋の色と厳しい岩肌、早春の雪行、夏の嵐、そして雪崩や雪渓。いったいどのようにして撮ったのかというような見事な映像の連続。寡黙に自分のやるべきことをやる男たちの群像。その男たちの仕事のあり方が、そのまま軍隊の面子を大事にするやり方やマスコミの事件性だけを追うやり方の批判にもなっている。確かに今は登山ルートも確立しているし、装備も発達しているし、安全性は高いだろうが、雪渓を行っているときいつ表層雪崩が起きるか、素人ながらひどく心配してしまった。基本的に命がけの撮影だったと思う。浅野と香川が特にそうなのだが、始めと終わりでは雪焼けのせいもあるかもしれないが、全く表情が変わっていた。順撮りをした成果だろうが、それだけではなく、過酷な撮影を成し遂げた自信の現れだろうと思う。日本海側から富士山があんなに見事に見ることが出来るとは。ぜひとも大画面で見て欲しい映画である。
2009年06月20日
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大きなネタバレがあります。誰かかが言った。前回のテレビ版の芝野と鷲津の関係が、今回は鷲津と劉との関係に移し替えられていると。そうやって、同じテーマを何度もなぞることで(展開が少しづつ変わっていくことで)、「金をめぐる悲劇」ということの意味を浮き上がらせるのである。映画にするという意義はそういうことなのだろう。監督 : 大友啓史 原作 : 真山仁 出演 : 大森南朋 、 玉山鉄二 、 栗山千明 、 高良健吾 、 遠藤憲一 、 松田龍平 、 中尾彬 、 柴田恭兵 しかしながら、映画に求めるのは、テレビ版以上の緊張した「葛藤」である。それは今回あったのだろうか。今回鷲津は、当然スタンスは変わっている。劉は先輩の鷲津の「強くならなきゃ人を殺してしまう。それが資本主義だ」という言葉の「強くなれ」というところだけに影響されて、ファンドマネージャーとして育っていく。しかし、この10年間で鷲津は99%は弱肉強食であるが、1%は守り抜かなくてはならないもの「価値」があることを認めている。それに気が付いていない劉は敗れる運命にあったというわけだ。しかし、劉がなぜ気がつかなかったのか。そこはこの映画で十分に描かれたとはいえない。この映画、影の主人公は劉である。終始笑わない鷲津は狂言回しにすぎない。だとすれば、劉が金に執着するのは、故郷で何があったか、ということなのだろうと思うが、結局それは匂わすにとどまった。もう一人の影の主人公といっていい守山の描き方も中途半端。(ちなみに派遣工をめぐるエピソードは「派遣切り」のエピソードではなく、「偽装請負」「派遣法の抜け穴」のエピソードである。)その彼がどういう手を使って派遣行員たちをあそこまで組織できるのか、まったく説得力がない。また、天下のアカマごときがあの程度の集会でびくつくのも全くリアルではない。リアルではないから次のエピソードも、私は納得いいかない。劉に操られたことを知って、400万円をいったん断り、そして劉に影響されてそれを受け取った守山だが、彼の中で何が変わったのか、私にはまったくの謎である。彼が最後に乗りまわす赤いGTは何を意味するのか。聞くところによると、あの車は400万では買えるか買えないかの高級車らしい。守山は自分の生活を立て直すことよりも、あの車を買うことを選んだというわけだ。それは劉のようなファンドマネージャーになる道を進みだしたということなのか。どちらにせよ、2人の過去や信念が希薄なので、この映画の最も核になりそうなこのエピソードが全く生きてこない。鷲津は最後「資本主義の焼け野原を見てくる」と言って中国最貧地域の劉の故郷に赴く。どうして中国なのか。いくのならば、アメリカだろう。
2009年06月12日
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今日は法事でした。お供えの金額は一万を用意していたら、兄貴から「親戚の法事は二万が常識じゃろうが」と怒られてしまいました。おかげであと二週間を残し、最賃生活は今日で見事に破綻です。さて昨日は、最賃生活中にもかかわらず、映画を見に行きました。「重力ピエロ」です。別段どうしても、という作品ではなかったのですが、昨日を逃すとタイミング的に見逃す可能性があったので思いきりました。監督 : 森淳一 原作 : 伊坂幸太郎 出演 : 加瀬亮 、 岡田将生 、 小日向文世 、 吉高由里子 、 岡田義徳 、 鈴木京香 、 渡部篤郎 偶然にも二年前の今日、小説に対する感想をブログに載せていた。そこにこんなことを書いている。世の中には、率直に自分の気持ちを言葉にすることにひどく臆病な人種がいる。回り道をして、犯罪すれすれのことをして、危険な目にあって、ついには殺人を犯してでも、母親と父親のことを好きだ、と、言えない人種がいる。そのとき既に分っていたのだ。これは小説だから成り立つのであって、映画にして生身の人物が演じてしまうと、途端に嘘っぽくなってしまうと。もちろんキム・ギドクみたいに寓話として昇華出来ればいい。映画は小説をかなり忠実に描き、役者もよく適材適所でがんばってはいた。けれども映像にしてしまうとかなりのうそになってしまう。例えば、日本の警察力をなめているとしか思えない描写が幾つか散見する。「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ。」確かに魅力的なセリフはたくさん出て来る。それは原作の力である。映像にするのならば、きちんと法螺話として落とすために、私ならもう一エピソードくらい付け加える。春がつくった壮大な塩基配列をヒントにして泉水は偶然にも父の病気を治すための薬を開発したのでした。
2009年05月30日
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NHK『遥かなる絆』を見終えた。『大地の子』から14年、同じく岡崎栄演出でまたもや名作が生まれた、と思う。先ずは演出家の話を読んでほしい。作品紹介にもなると思う。【演出にあたって…岡崎 栄】 中国東北部の頭道河子という村を、脚本家の吉田紀子さんも一緒のシナリオハンティングから始まって、都合3回訪ねました。牡丹江市から北へ車で1時間半、畑や田圃の広がる中、丘陵を縫うように走る砂利道を通って村の外れの牡丹江の岸辺に立つ時、いつもふと“人間の運命とは”と考えさせられてしまいます。この村に4歳から10数年(28歳で帰国したわけですから、24年と言った方が正しいのかもしれませんが)、中国名・孫玉福として生きた城戸幹さん。よくこんな所にと、言葉を失って立ち竦むのです。そして、あらためて幹さんを慈しみ育てた養母・付淑琴さんの深い愛を思います。以前作った「大地の子」は、背景に残留孤児の方々の苦難の物語はありますが、実際は山崎豊子さんが綿密な取材の上に作り上げた壮大なフィクションでした。しかし「遥かなる絆」は、ドラマですから完全に事実ではないとしても、真実の話です。1970年の幹さんの帰国の時、発車間際の列車の傍で泣き崩れ、「玉福、行かないで!」と叫ぶ義母。淑琴さんの姿は、淑琴役の岳秀清さん、玉福のグレゴリー・ウォン君、そして中国人俳優たちの迫真の演技があったからということもありますが、それでも目の前に展開されている情景は旧満州で何度も何度も繰り返されてきた悲劇です。私たちは、酷寒のマイナス20度という厳しい条件の中でしたが、その事実の現場に今自分たちも身を置いているという身震いするような感動で撮影を続けていました。これ以上は申し上げません。舞台の間隙を縫い、ある時は地方公演の金沢から友人の運転する車で松山ロケに駆けつけてくださった加藤健一さん、原作者・城戸久枝さんの役で母国語のように中国語を駆使しなければならないという難役に、心の壁をときほぐす繊細な表現で感動を盛り上げてくれた鈴木杏さん――。今、このドラマをご覧いただけることに、私たちは誇らしささえ感じております。第二回目の放送で、城戸幹の娘久枝さんが中国の大学に留学しているとき、クラスメイトから『久恵は日本の中国侵略に付いてどう思うのだ』『日本鬼子は許せない』『久恵に言っても無駄だよ。日本では歴史を教えていないんだ』と詰られ何も言えずにショックを受ける。そして、最終回、二年の留学を終えたときに、やはり同じようなことを言われる。そのとき久枝はかろうじてこのように言うのである。『確かに知らないかもしれない。それに私は歴史の専門家でもないし。でも、私なりに知ろうとして、中国に来て勉強しているの。そんな日本人がいるということを知ってほしい』久枝さんは思う。(苦し紛れに反論しても、何の解決もしない。私が責められているわけではない。でもここには私では解決できない、大きな壁がある)大きな壁とは何か。それはひとつはいまだに『真の謝罪』をせずに何度も不規則発言を繰り返す政府高官の住む日本という国なのだろうし、同じアジアにいながら、まだ腹を割って話し合うまで成熟していない両国の国民通しなのだろう。これは激動の人生を生きた城戸幹の物語であるのと同時に、現代中国の若者と、現代日本の若者との交流の物語なのである。久枝さんは思う。「『日本人が憎い、歴史を曲げている』と詰め寄る中国人もいれば、惜しみない愛情を注いでくれるお父さんの親戚友人たちもいる。どちらも中国なのだろう」ハングルだけでなく、いつか中国語も学んで、中国の人たちと交流したい。東北アジアの平和が、未来の平和な世界を作ると私は思っている。
2009年05月25日
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