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タイトルとカテゴリーを変更しました。
今回はちょっと趣向を変えて、ウイーン美術史美術館所蔵からちょっと怖い絵画を紹介。
製作者は超有名なバロックの巨匠、フランドル出身のルーベンスです
合わせて紹介する写真は以前紹介した事のある所ですが、今回は視点を変えての紹介となります。
ところで、遅れた理由はもう一つ。
今回も紹介にあたり、ルーベンスの来歴と、その絵画のモチーフとなった伝説(ギリシャ神話)を再度調べていたら、例によって、どんどん方向性が変わってきてしまいました。
最初、一枚の絵画から始まったテーマは、ヴィザンティン帝国の創建の時代に遡り、ヴィザンティオンに帝国の首都を置いたコンスタンティヌス1世に辿りつき、さらに彼が造った? ローマ帝国正規軍の紋章ラバルム(Labarum)に行きつきました。
しかし、ラバルム(Labarum)に興味はあるが、今回は断念。全くもって今回の内容にはひっかからないのです
そなこんなで、どこかで必ずやりたいテーマがまた一つ増えました。
ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首
ルーベンスのメドゥーサ(Medousa)
色調絵画バルール(Valeur)
メドゥーサ(Medousa)は何者か?
イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)のメドゥーサ
イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者
ルーベンスのメドゥーサ(Medousa
)
とりあえず、ウイーン美術史美術館所蔵の絵画から紹介。
The Head of Medusa 1617年 ~1618年
ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens) (1577年~1640年)
ヘビは動物専門の画家フランス・スナイデルス(Frans Snyders)、(1579年~1657年)
作品はギリシャ神話の怪物メドゥーサ (Medousa)
がペルセウスに退治され首を落とされた所
のようです。
ゴルゴーン(Gorgōn)3姉妹のうち、不死身で無い3女、メドゥーサはペルセウスの宿題の為にターゲットにされます。そもそもはペルセウスの母ダナエに言い寄るポリュデクテスに彼女の首を差し出す約束をしたからでした。
メドゥーサ
(Medousa)は髪が
蛇,見るものを石にする目を持つ
。(もとは普通に美女だったらしい。)
ペルセウスはアテナイ神とヘルメス神の助けを受けて彼女を捜索して殺し首を持ち帰る事に成功。
その首は死んでもまだ効力を発揮。
最終的にはポリュデクテスを石にした後にアテナイ神に献上。
アテナイ神 はメドゥーサの首を自分の
山羊皮の楯アイギスにはめ込み最強の盾にした。
小品ながら非常にドラマティックに描かれている。
ヘビやファイア・サラマンダーは専門家のフランス・スナイデルスの筆であるが、メドゥーサの見開かれた眼と総合演出はさすがルーベンスである。
特に押さえられた配色の、しかも暗色の中でメドゥーサの青白い顔の色は取り分け目立つ。
いつもなら、ルーベンスの女性は赤色を刺した暖色で、プルプルの肌つやを持つのが特徴だ。
ここでは怪物で、なおさら死人なので赤みこそ無いが、確かにルーベンスなのだ。
どこの誰のオーダーで描かれたのかは解らないが、異質ながらも引きつける魅力は小品でも十分ある。
さすがルーベンスなのか? さすがメドゥーサなのか?
因みにギリシャ神話では、 メドゥーサの血についての伝説
が幾つかある。
1. メドゥーサの首からあふれ出た血から、空駆ける天馬ペガサス(ラテン語|Pegasus)が生まれた。
2. 切り落とされたメドゥーサの首から滴り落ちた血はペルセウスによって2つの瓶に集められ、アテナイに献上された。
右側の血管から流れて右の瓶に入った血には死者を蘇生させる効果が、
左側の血管から流れて左の瓶に入った血には人を殺す力があったとされる。
色調絵画バルール(Valeur)
これらは バルール(Valeur)と呼ばれる技術が使われた作品に分類
されそうだ。
バルール(Valeur)を説明するのは難しいが、 構図(配置)や色の明暗(色調)による視覚効果を狙ったりと、五感に訴えた表現作品
と言える。
巨匠だからこそ怪物の迫力が伝わるバルール(Valeur)である。その成功によりこの絵の完成度は増している。
1620年代から1640年代にかけて、原色を用いず、色彩を抑制(淡褐色などごく限った色)。その中で
明暗の変化を利用して雰囲気を出した作品がフランドルで流行している
。
※ この時期は服飾においても、白と黒の地味な服装が流行。
風景画の中にも海と空だけの海景などまさに単色の世界が出現。
その新傾向の絵画は、色調絵画とか、単色様式とか日本訳されているようだが、これがバルール(Valeur)作品をさしているのだろう。
またこれらに共通するのが、断片的作品。広大な景色からごく一部分を抜き取って表現したもの
。
「メドウーサの首」はまさしくそう。
本来なら、メドゥーサを退治するペルセウスが画面にいても良いし、何よりメドゥーサの体全体があっても良い。
これら 限られたアイテムで表現する効果は確かに面白いが、実は何より、効率の良い仕事
なのである。
膨大化する絵画需用をこなす為に編み出した妙案かもしれない。
従来の大きな作品では製作時間がかかりすぎる。これらは 時短作品
でもあるのだ。
写真左下のファィア・サラマンダー
因みに2012年06月「グエル公園(Parc Guell) 2 (グエル公園のファサード) 」で紹介したファサードを飾る謎のトカゲの正体がこれ。やはり欧州には多く生息しているようですね。
リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)
メドゥーサ(Medousa)は何者か
?
ところで、メドゥーサ (Medousa)は、
海の神ポルキッュスの娘。
そもそもは美しい髪と瞳を持つ絶世の美女
だったそうだ。
彼女はアテナイ神と張り合い彼女の逆鱗に触れて醜い、おぞましい怪物の姿に変えられたと言う。
美しい髪は蛇に。美しい瞳は見る者を石に変える邪眼(じゃがん)に。
別の伝承では、さらに歯はイノシシのごとく、顔は醜悪。黄金の大きな翼を持っていたとも・・。
それは アテナイ神の呪いである
。
ギリシャ神話は読んでいて、つくづく神は傲慢で我が儘だと思っていたが、結構たちが悪い気がする。
メドゥーサは洞窟に潜んでいただけなのに、わざわざ探されて退治されてしまうのである。
ちょっと、いや、かなり気の毒だ。
※ この話は英雄物語(ペルセウスの物語)に書かれている。
でも本来の メドゥーサ(Medousa)はギリシャ
以前の時代に土地に土着していた豊穣の神様として
、東地中海からエーゲ海に至る地域で信仰されていた女
神だった。
以前紹介した ナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)はメドゥーサ(Medousa)の目玉の形をした護符。
アレクサンダー大王の没後にヘレニズムの文化が始まったとされるが、 それ以前からメドゥーサ(Medoūsa)信仰は存在していた。
それはギリシャの神々の体系がつくられるよりも前だったと推測できる。
実はメドゥーサについては、以前触れていた事がある。
2009年05月「地下宮殿とメドゥーサ (Medousa)」
2009年05月「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 1」
2009年05月「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 2 パルテノン
」
※ 若干読みにくい所を書き換えました。以前は毎日更新していたので内容も浅いですが・・
この際、メドゥーサ (Medousa)を掘り下げて、以前メドゥーサ寝殿に飾られていたかもしれないメドゥーサ像を再び紹介する事にしました。
それは以
前紹介した地下寝殿に現存する部分ですが、視点を変えて見てみてください。
※ 実はダン・ブラウンの小説「インフェルノ」で思いだしDVDで確認しました。遺跡の内容は今も変化無し。「インフェルノ」ではクライマックスに地下宮殿で激戦している。
イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)のメドゥーサ
5世紀にどこからかもたらされた石として、事もあろうに地下貯水槽の柱に転用されてしまった悲しいメドゥーサのヘッドの話です
。
それは現
在のトルコの首都イスタンブール。
かつてのコンスタンティノープルに設置された古代ローマの地下貯水槽(イェレバタン・サライ ・Yerebatan Sarnici)に置かれています
。
地下貯水槽とは言え、 美しさでは世界一と言える列柱廊の並ぶバシリカ造りと言う事から地下宮殿
(イェレバタン・サラユ・Yerebatan Sarayı)とも呼ばれ、また英語ではバシリカのある貯水槽(バシリカ・シスタン・Basilica Cistern)で知られています。
それは 1985年「イスタンブールの歴史地区」としてユネスコ世界文化遺産に登録された遺跡
です。
Yerebatan(地下)、Sarayı(宮殿) と言いわれる理由が解る。まるで大聖堂の中の光景。
でも、ここはイスタンブールの地下に掘られた貯水槽なのである。(現在は使用されていないが・・。)
場所はアヤ・ソフィアに近いイエレバタン通り。
ここはビザンチン時代のセブンヒルズ(7つの丘)の一つで、コンスタンティヌス帝が都を築いた時の最初の丘にあたる。
当初の丘の中心には公共広場(Stoa Basilica)(アウグストゥス大広場)があり、その地下にそれは造られた。
給水施設が近代化された時に、ここの使用はとりやめ、今はただの池となってしまった。
1960年代に天井近くまであった水は抜かれ清掃され、今は観光と時々コンサートなどのイベントが催されている。
イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者
最初に ビュザンティオン
(
コンスタンティノポリス)に給水施設を造ったのはローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス1世
(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)とされる。
皇帝は330年、 都をローマから東方の交易都市であったアナトリア半島のギリシアの植民都市ビュザンティオンに遷都すると
、そこに古代ローマの街と同じように街造りを進めた
。
※ ビュザンティオンは後にコンスタンティノポリスとなり、現在はイスタンブールと名を変えた。
※ 東側のローマ帝国は後に東西に分裂するが、旧都市名ビュザンティオンから東ローマ帝国はビザンティン帝国とも呼ばれる。
ローマの街造りは上下水道に始まる。そして浴場の建設ははずせない
。
水は黒海の近くから運ばれ、かつてはイスタンブール大学のあった場所に90万平米の大型貯水槽が造られ、一端そこに貯めてから宮殿やアヤ・ソフィアに供給された。
当初は広場に大聖堂もあったらしいが、476年火災が起きた。(後に聖堂は再建)
そして ユスティニアヌス1世 (Justinianus I)(483年~565年)(在位、518年~527年)の時代に貯水槽は拡大される。
それが今に残る 地下貯水槽(イェレバタン・サライ ・Yerebatan Sarnici)である。
長さ140m。幅70m。天井を支える8mの花崗岩。
柱は4mおきに28本ずつ12列。全部で336本。
それぞれの柱には細かい模様が彫られ、コリント式の柱頭が付いている。
ここの建築には7000人の奴隷が使役されたと言う。
その バシリカ構造と壮観さから地下宮殿(イェレバタン・サラユ ・Yerebatan Sarayı)と呼ばれるようになったと言う。
1453年にオスマン帝国が征服され、現代に至るまこの給水施設はトプカピ宮殿に水を供給したと言う。
泥水5000トンが抜かれ、足場が組まれ、一般公開されるに至ったのは1987年。
この建設の資材は再利用なのである。
実はローマの都市は案外リサイクルで成り立っている。
ユスティニアヌス1世は黒海沿岸の城塞を取り壊し資材を運んだ。また、近くのヘレニズム時代の遺跡からも資材を調達。
かくしてどこからかここにとんでもない物が運ばれたのである。
メドゥーサ(Medoūsa)の首
実はこれは写真を逆さにしたものなのである。本当の姿は下。
全体を見せると、こんな感じに置かれている。
置かれている・・・と言うより、実際はこんな使われ方をしている・・と言う事に着目。
またこんな横倒し使用のもある。
メドウーサの顔が踏みつけられたかのような粗雑な扱いにビックリするが、これは当然メドゥーサ信仰の無い者達の仕業である。
この置き方は敢えてサイズ調整の為だと前回書いたが、悪意があるのは確か。
コンスタンテイノポリスを造 ったコンスタンティヌス帝)(在位:306年~337年)は初めてキリスト教を公認したローマ皇帝
である。
正確に言えば、あらゆる宗教の信仰を認めた皇帝
なのである。
だから彼の治世には以前のヘレニズムの時代の神様も、同様に大事にされていたはず。
実はユスティニアヌス1世 がここの建築をするまでの間にキリスト教がローマ帝国の国教になったのである。
392年、テオドシウス1世は(Theodosius)(347年~395年)(在位:379年~395年)キリスト教を東ローマ帝国の国教と制定。
異文化の神殿破壊や遺跡の排除がこの後に始まったのだと推測される。
ここを建設 したユスティニアヌス1世 (Justinianus I)(在位、518年~527年)の時代には他文化
の遺跡等を破壊する事は何でも無い事だったのだろう。
上に向きを変えて、気付いた事がある。
口が半開き。
もう一つは口を閉じていた。
まさかこれは・・。神社の境内にある狛犬。あるいは寺の門前の仁王像に同じ。
開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像なのではないか?
もし、そう解釈するなら、この像は 神殿か何かの入口に飾
られていた像だった可能性が・・。
ユスティニアヌス1世は黒海沿岸の古い城塞を壊してここの資材の一部とした。
ひょっとするとその 城
塞の入口には一対のメドゥーサ(Medoūsa)の顔がはめ込まれていたのかもしれない
。
ついでに気になっていた柱について・・。
中には変わった模様の柱がある。
これについては目玉飾りで被われた柱と解釈。
ここを建設した時に使役された奴隷が7000人?
古代のテキストでは、列の涙が貯水槽の建設中に死亡した何百もの奴隷たちに敬意を表していると記されているとか・・。
しかしキリスト教で「奴隷に敬意を現す遺物 」を造る事は考えられない。
単純に、これもどこかの遺跡からのリサイクル(柱)と思う。
それにこの柄、これは涙と言うより、まさに ナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)そのものではないか?
つまり、これらは メドゥーサ(Medousa)の目玉そのものと解釈した方が納得がいく。
目玉の付いた柱は、どこかの寝殿から持って来た物の可能性は高いが、護符として、わざとそこに建てた可能もあるかも・・。
参考にうちのナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)の写真
左のは縦11.5cmあります。
トルコのお守りで、 守るものの対象に合わせて目玉の大きさを選ぶのが良いとされています。
詳しくは前に書いたのを見てください。
メドゥーサ(Medoūsa)の首 おわり
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