わたしのこだわりブログ(仮)

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2024年04月26日
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カテゴリ: 陶磁器
さて、何を載せようか?
「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の続きも念頭にそろそろ考え無いといけない。

交易品目の一つであった陶磁器から、西洋陶器のルーツを調べようか?
そう言えば、そもそも当初は交易全般でなく、西洋磁器誕生のルーツを探るのが目的だったんじゃなかったっけ?
初回の「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の冒頭で書いてました。大笑い
いつくらいから磁器が欧州に輸入され、賛美されたのか? を特定する為に交易ルートを探っていたら、大いに横道にそれて、結果が壮大な「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズになったのでした。

その「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズも大航海時代を迎え、ついに東洋との交易が始まりました。
各国の「東インド会社」設立についてはまだこれからですが、 「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回、「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」のラストで触れました。

​​​ 星スペインは香料以外の交易品を多数見つけたのである。フィリピンからではなく、中国から・・。​​​​

​東洋の陶磁器が欧州に運ばれるようになるきっかけは、マゼラン隊のフィリピン滞在がきっかけだったかもしれない。​
※ マゼラン隊は1522年9月、本国スペインに帰国。
リンク ​ マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図

今回は、流れ的に見ても、どうしても「陶磁器」をやっておきたい。
星ハーブ、スパイスから始まった交易であるが、大航海時代、彼らの輸入のレパートリーは増える。
その中でも欧州に起きた陶磁器(とうじき)ブーム は凄かった。
とは言え、全ての焼物が磁器(じき)ではない。磁器は高価故に当時は選ばれた人しか持てない代物。

磁器造りはあまりに難しく、完全な複製は無理。既存の陶器をいかに磁器のように見せるか・・。
そんな開発の試みもあった。 デルフト焼き(Delfts blauw)はまさにそれ。
※ デルフト焼き(Delfts blauw)については以前書いています。
リンク ​ デルフト焼き(Delfts blauwx)


しかし、難しい磁器の製造をあきらめなかった者達もいた。
今回は、 東洋の磁器から啓発された西洋磁器の開発の話と、欧州の王侯貴族らがあこがれた東洋の陶磁器とはどんなものか?  いつから欧州に渡って来たのか? 
「西洋磁器のルーツ」と「交易でもたらされた東洋の磁器」を主軸 にしました。

番外にするか迷いましたが、 東洋磁器の写真が思いの他あったので、「アジアと欧州を結ぶ交易路 21」で陶磁器回を設けました

必然的に焼物史に触れざるおえません。
問題は磁器だけでよいのか?  大航海時代以前からすでに交易はあったからです。
そもそも、古(いにしえ)からの焼物はやはり東洋がルーツらしいから。

須恵器(すえき)や土師器(はじき)のような土器(どき)類も入れたい。とは言え焼物史も長いから、ざっくりでもまとめて入れ込みたい。と、思いつつ、今回は無理だ。・・と言うわけで、番外で考えています。しょんぼり

陶磁器の写真はいろいろ美術館で撮り貯めしていたところから引っ張りました。
主にミュンヘン(München)のレジデンツ(Residenz)博物館からの写真をのせました。こちらは宮殿内の装飾にも陶器が多様されていて、当時の東洋趣味が伺えます。
ただ、解説が無い写真がほとんどです。だから作品の正確な年代がつかめないものもあります。
つまり写真だけの場合もありますのでご了承を。
また、西洋の名窯で、現代に引き継がれるデザインも参考に幾つか入れました。

韓国国立博物館の陶磁器や、大阪 堺市博物館から も土器類を予定していましたが、これも次回です。


アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)

​西洋陶磁器の始まり
マイセン(Meissen)窯
アウガルテン(Augarten)
​​​​​秘宝がもれた理由
リチャードジノリ(Richard Ginori)
​セーブル(Sèvres)磁器 →  セーブル磁器(Sable porcelain)
​​ ロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen) ​​
東洋陶磁器のコレクション
東洋磁器の流行?
日本の磁器(Japanese porcelain)  伊万里(Imari)
有田焼きのルーツ
柿右衛門と濁手(にごしで)素地​
セーブル磁器(Sable porcelain)
磁器(じき・porcelain)


西洋陶磁器の始まり
実は 西洋磁器のルーツは、マイセンに始まる西洋での陶磁器の開発成功から始まっている。
つまり、それだけ見ると、各国の名陶のルーツは、全てマイセンの技術や職人の引き抜きから始まっているので、ほぼブランド紹介のようになりますが、各ブランドがどのように生まれたのか? その意味は意義があるかと思います。

星重要なのは、そもそも なぜ西洋で陶磁器の開発が勧められたのか? 
そのきっかけとなったのは、間違いなく東洋からの交易品として磁器が西欧にもたらされたからである。

東洋から運ばれた磁器は西欧には無い白く薄い材質で、美しいフォルムと絵柄を持っていた。それはまさにお宝。 「白い金」と呼ばれ王侯貴族がこぞって求めた のである。

​​東洋の高級磁器は 王侯貴族の富の象徴 となり、それらを所持する事は ステータス となった。
図らずも、各国の東インド会社は欧州にシノワズリ(chinoiserie)のブームをもたらし、それらを後押ししたのだ。
※ シノワズリ(chinoiserie)のブームは、後に市民文化にまで降りて来る。

遠い異国の地から運ばれる陶磁器は船で何カ月もかかる。壊れやすいだけでなく、航行中に船が沈没する事もあるのだからお値段も高くなる。それは王侯貴族から見ても高級品であった。
何とか自国で造れないか? ​​

成功すれば、欧州各国に売り込む事ができる。
どこの諸侯も思ったに違いない。

以下には東洋の磁器に魅せられて、自国に磁器の窯を造った国と経緯(けいい)を紹介。
それらは、名門の磁器会社として今に引き継がれている。

歴史をさかのぼれば、実は中国や日本の模倣から始まっていた西洋の磁器食器
バブル時代は、逆に、日本人がこぞってそれらメーカーのディナーウェアなど買いあさっていた。
今や洋食器は立場逆転。大笑い


​マイセン(Meissen)窯​​
美しい東洋の磁器。しかし、その技術も材料も全く分からなかった。
長い年月をかけて
その 開発に最初に成功したのがドイツのザクセン(Sachsen) なのである。

星 欧州初の磁器の完成は 1709年
東洋磁器のコレクターであったザクセン選帝侯アウグスト2世( August II Mocny)(1670年~1733年)の 肝いりで磁器の開発が勧められた。
1710年、 王立の硬質磁器(ポーセリン)工房として造られたマイセン(Meissen)窯 から生産が始まった。​

因みに、当然、 マイセンではその技術が他に漏れないよう窯を守る事を徹底
工房自体を城の中に秘匿し、開発技術者のヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger)(1682年~1719年)から情報が洩れる事を恐れて幽閉したと伝えられる。
※ 開発技術者ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーはもともと錬金術師。幽閉のせいか? 酒におぼれ37歳で急逝。

工房は当初、ザクセン選帝侯の居城であったアルブレヒト城(Albrechtsburg)に置かれた 。それ自体が、進入も、抜け出す事も容易ではない立地の城塞である。

アルブレヒト城(Albrechtsburg) とマイセン大聖堂(Meissen Cathedral)

10世紀以来、マイセン辺境伯の城塞があった丘に1471年~1495年頃、アルブレヒト城(Albrechtsburg) は建設された後期ゴシック様式の城。
※ 辺境伯(Margraves)・・とは、防衛の最前線(国境)に位置する守備地の統領。

後方の双尖塔がマイセン大聖堂(Meissen Cathedral)だが・・。
968 年にオットー 1 世によって設立されマイセン司教区の司教座であったというので歴史の古い重要な教会だったはず。
が、宗教改革のあおりで1581年にマイセン教区は解散。プロテスタントの教会となったそうだ。
つまり、マイセン磁器が完成した頃には、この地はプロテスタント化していた。
だから天使はあるけど聖人の磁器物は無いのねぽっ 納得。

ザクセンのマイセン(Meissen)の工房

マイセンもろくろ方式である。そもそも磁器の特徴だからね。
日本のろくろ回しとスタイルが違う。座った高さに置かれているし、足がじゃまにならないから腰に優しい。スマイル

東洋の磁器と異なるのは、食器以外にフィギュアなど細工物が多い。実用品より装飾品として好まれたからかも。

パーツ自体は金型から型取りし、組み上げて行く。

今は技術者が減って大変らしい。

下の女性はアンダーグレイズ(Under-glaze)の作業中。
焼成前の磁器に下絵付け。それを1300度の高温で焼成する。

皿の裏にはマイセンのトレードマーク「交差した2本の剣」のマークが入れられる。この形で時代が解るのだ。

さらに皿の裏には絵付け師のサインNO? を必ず入れるので誰の仕事かわかるらしい。
確かに、カップにはものすごく小さい文字が・・。

初期マイセンは中国の五彩磁器や日本の伊万里(いまり)の影響を受けている 。​
​1720年頃からは絵付けのデザイナーを呼び寄せ、ヨーロッパ的なロココ調の作品が主流となって行く。

優れた陶工や絵付け師、彫塑(ちょうそ)家も欧州中から集められると、さらにシノワズリー専門の絵師、七宝上絵付けなど専門が確立され マイセン磁器の活躍は欧州の陶芸界をリードして行く存在となる
※ 彫塑(ちょうそ)家は金型となる彫像を粘土で造る人。

ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)​

マイセンか? アウガルテンか? セーブルか?  
マイセンであるなら、​デザインはヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(Johann Joachim Kändler) のデザインから造られたフィギュアかもしれない。

ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(Johann Joachim Kändler )(1706年~1775年)
マイセンに請われた彫刻家。1731年~1775年まで44年間在籍。
フィギュアなどの造形物は金型から起こす。その金型の製造を監督し、鋳造された製品の品質をチェックしていたのが彼。
44年間と言う長さ。大方のマイセンのデザイン型は彼の作品かも・・。

アウガルテンは、マリア・テレジアが王立にした事で、また。ロココの意匠を取り入れ、時代の流行になったそう。特に上のようなロココのフィギュア制作に力が入れられたと言う。


マイセンを代表する柄 ブルーオニオン(Blue Onion)  スクエアのコンポート 現代物

ブルーオニオン(Blue Onion)は1739年開発のアンダーグレイズ(Under-glaze)の磁器。
昔からのデザインが今も販売されている。
逆に絵付けを見れば、どこのかすぐにわかるマイセンのブランドデザインの一つ。

上記ブルーのアンダーグレイズのブルーオニオン(Blue Onion)は確かに「青玉ねぎ」とうたっていますが、元絵となった中国デザインはザクロ(柘榴)だったそうです。
種の多いザクロは「子孫繁栄」の象徴として中国では縁起の良いフルーツ。
しかし、西欧にザクロは無いから玉ねぎと勘違いしたらしいのだ。大笑い


星白磁に、染付の青はまさに東洋の模倣。
直接絵を描き高温(1300度)で焼成されるアンダーグレイズ(Under-glaze)の技法 ​こそがそうなのだ。​
高温焼成される為、 成分的に高温に耐えうる絵の具のカラーには限りがある。​
​​ コバルト(Cobalt) ​​
​クロムグリーン(Chrome green)​
​コッパーレッド(Copper red)​
​ウラニウムブラック(Uranium black)​

とは言え、東洋(日本や景徳鎮)の絵の具と西洋の絵の具とは主材料が異なっているらしい。
和絵の具・・酸化銅が緑色素の主材料。
西洋絵具・・酸化クロムが緑色素の主材料。
※ 窯業原材料の専門商社、株式会社三田村商店さんの「絵具について」を参考にさせてもらいました。

ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)​

景徳鎮かは不明であるが、日本でないのは確か。

ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)​

説明が無かったが、花の絵付けがマイセンの「ドイツの花」シリーズと同じなので、おそらくマイセン。
こんなのは見た事が無いが、金色での特別オーダー品と考えられる。
ヴィッテルスバッハ家の特注で、 後で紹介するコレクションルーム? の飾り棚に飾られていたのはこれなのでは?

ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)​


マイセン大皿 ドイツの花 ブーケ



​アウガルテン(Augarten)​
​​​​​ 欧州初の磁器工房 は​​ ドイツの マイセン (Meissen)窯(1710年~)。
続く欧州の磁器工房​ は​ ​オーストリアのアウガルテン(Augarten)(1718年~1864年)(​1924年~)​​。
​​正式名はウィーン磁器工房アウガルテン(Wiener Porzellanmanufaktur Augarten)。

​​​​​秘宝がもれた理由​
マイセンは技術を秘匿していたはず。しかし情報は結局漏れた。

マイセンで先に紹介した錬金術師で 開発者であったヨハン・フリードリッヒ・ベトガ ー(Johann Friedrich Böttger)(1682年~1719年)。彼は秘密保持の為に幽閉されていたと紹介したが、 製磁製法と釉調合方法を別々に
​ザクセン選帝侯アウグスト2世​ の廷臣に残してい たそうだ。

星1719年、ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーが亡くなると、マイセンから二人の職人がウイーンに引き抜かれた。この二人により、実質の磁器の製法がウィーンに伝えられたと言うのだが・・。
高額を約束した給料が支払らわれず、結局二人はすぐにウィーン窯を辞めていて、ウィーン窯も倒産状態。でもマイセンの技術は得ていた。
1744年、マリア・テレジアの国策によりウィーン窯は王室が買取った そうだ。
​​​​

基本的にはドイツもオーストリアも当時は神聖ローマ帝国圏内なので同胞。公式に何らかの技術提供があったのか?  と思っていたが違ったようです。2人の廷臣が買収されていたのか? これも解らない。
​事実は小説よりも奇なり・・ですね。ぽっ


アウガルテン(Augarten)が 王室磁器窯となるのは1744年。
マリア・テレジア(Maria Theresia)(1717年~1780年)の時代。
この時にハプスブルク家の盾型の紋章が商標となったのです。
※ 王室解体後の現在もこの紋章は使われている。


当時どの程度の磁器が造られていたのかは定かでない。アウガルテンが飛躍するのは​
1761年、良質のカオリンが発見されてからだ。
※ ハンガリーのシュメルニッツでカオリンが発見された。

しかし、1864年、ハプスブルグ家の衰退で一度窯は閉じられ、帝国解体後の1924年から再興。
※ 
ハプスブルグ家の衰退の事情は以下に書いています。
リンク ​ ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日


星ところで、ウィーンに最初のカフェが誕生したのは1685年。
それはマリア・デレジア以前であるが、 カフェ文化を推奨したのが​
マリア・デレジア(Maria Theresia)(1717年~1780年)。
磁器によるコーヒーカップの誕生は、アウガルテンが世界初なのだそうだ。

他国では紅茶カップはあってもコーヒーカップは希少。
ウインナコーヒーが存在するよう、カフェ文化の中で特にアウガルテン(Augarten)の器は人気を博したのだろう。アウガルテンは皇族、貴族のために磁器を焼き続けたと言う。

女性の好むかわいらしい小花の器は、マリア・テレジア(Maria Theresia)の時代から始まっていて、その後19世紀初頭のビーダーマイヤー(Biedermeier)と呼ばれる時代までは健在であったよう

ビーダーマイヤー(Biedermeier)  デミタス

1791年、エッティンゲン伯爵家(gräfliche Haus Oettingen ein)の注文で制作された磁器。
「白磁に軽やかに散りばめられた花々を、水色の帯に金色の星を旗飾りとして縁取りました。」と帝国工場の注文簿に記されていたそう。
なぜ? ビーダーマイヤー(Biedermeier)の名が使われたのかは不明。
時代がビーダーマイヤーよりかなり前だから。ただ、今も人気のデザインです。


因みに、秋篠宮家の婚礼時に​、アウガルテン(Augarten)​のこのビーダーマイヤー(Biedermeier)が使われたようです。
かつてドイツの三越で売れ残った大皿を引き取ってきた事があり聞いた話です。高すぎて? 思ったほど売れなかったとか・・。

​リチャードジノリ(Richard Ginori)​
イタリアの ​リチャード ジノリ(Richard Ginori)(1737年? ~​ 1896年~ ) ​​
​​​​​​​
​イタリアではマヨリカ陶器が全盛だった頃、1735年、マイセンやウィーン窯に対抗すべく イタリア貴族、カルロ・ジノリ(Carlo Ginori)侯爵(1702年~175年)が、高級な陶磁器を造る窯としてドッチャ磁器(porcellana di Doccia)を設立
※ カルロ・ジノリは事業家だったらしい。手掛けたのは陶磁器だけではない。

​磁器の開発に成功するのは1737年。マイセンの職人の力を借りている。​
1741 年にトスカーナにおける磁器生産の独占権を取得。

リチャードジノリ(Richard Ginori)  ベッキオのイタリアンフルーツ

ジノリ最古の代表作と言われる白磁に文様の入った「ベッキオホワイト」。その上にイタリアンフルーツ(Italian Fruit)を重ねたもの。
青紫のプラムを中心にフルーツや小花を絶妙なバランスで散らしている。

1760年頃トスカーナの貴族の別荘で使うディナーセットとして考案されたイタリアンフルーツ(Italian Fruit)はリチャード ジノリ窯を代表するシリーズ となっている。

ジノリも以前からのデザインを長く使用。
1738年、1748年、ポンペイが発掘された時にカルロ・ジノリは記念デザインに「ヴェズビオ (Vesuvio)」シリーズを発表。そのデザインも現代も使われている。
1896年、ミラノの リチャード製陶社と合併して、名称が現在のリチャードジノリ となっている。

なぜでしょう? ジノリは他の窯と比べるとリーズナブルです。


​セーブル(Sèvres)磁器​  → セーブル磁器(Sable porcelain)
​​フランスの​​​ ​​ ​セーブル(Sèvres)焼き(1771年?~ 1789年?)( 1824年~ )
当初はマイセンの模倣で始まっている。
本格的に作られるのは、カオリンがリモージュで発見されてから。

レジデンツ博物館のコレクションの所で詳しく説明してます。


​ロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)​

デンマークの ロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)窯( 1775年~)
1773年初磁器の完成。 王室御用達窯になる(ロイヤルが付く)のは1775年。
しかし、この時点で株式会社だったらしい。
1868年、王室は全ての株を売り払ったが、ロイヤルの意匠を使う許可は残したので、マークだけは健在。

開窯した ​1775年に最初に制作されたのが、アンダーグレイズ(Under-glaze)の技法を使ったブルーフルーテッド(blue fluted) 。​
デンマーク人にとってアンダーグレイズUnder-glazeの磁器と言えばロイヤルコペンのブルーフルーテッドを指すくらい代表作らしい。
19世紀のヨーロッパの上流階級の人々に愛用された逸品らしい。

先にマイセンで紹介したブルーオニオン(Blue Onion)と同様にデザインも東洋が意識されている。

下はブルーフルーテッド・フルレース(Blue Fluted Full Lace)の ソーサー。

ブルーフルーテッド(blue fluted)シリーズも種類がいろいろある。
フルレース(Full Lace)は、シリーズの
中でも一番彩色も多く、凝っているもの。要するに手間がかかっているので値段も高価。
※ 現在販売されているフルレースはもっとシンプルなようです。

ブルーフルーテッド・フルレース(Blue Fluted Full Lace)の コーヒーカップ

取っ手に顏がある。これは東洋と言うよりは、西洋のガーゴイルのデザインの気がする。
ティーカップにはこれが無いのだ。だからコーヒーカップを紹介。

ブルーフルーテッド(blue fluted)のコーヒーポッド&シュガーポッド&ミルクカップ

残念ながら、こちらはフルレースではありません。
近年は、微妙にデザインを変えて、年々シンプルになって行っているようです。
要するに職人の手間を省いているのでしょう。

星代表作が 「フローラ・ダニカ(Flora Danica)」
1789年、ロシアの女帝エカチェリーナ2世 (Yekaterina II)(1729年~ 1796年) に献上する為に制作されたディナーセット、ティーセットなど1602点が開発された。
デザインはデンマーク王国の植物図鑑
「フローラ・ダニカ(Flora Danica)」 がモチーフにされている。貴重な植物図鑑である。
※  ​エカチェリーナ2世(Yekaterina II)(1729年~1796年)(在位;1762年~1796年)ロマノフ朝第8代ロシア皇帝。​

1803年に完成はしたが、デンマーク王が自分のものとし、エカチェリーナ2世に献上するのを中止したと言ういわくの品。(すでに女帝は亡き人だからでしょうね。)

フローラ・ダニカ(Flora Danica)のコーヒーカップを一周撮影。


献上はできなかったが、女帝の為に金細のほどこされた美しい器にはデンマーク植物図鑑の植物画(1800種)が一つ一つ器に描かれている。
制作には、一つのパーツで花のモチーフを描く職人と、金細を描く職人で2人必要らしい。
上のカップ&ソーサーでは4人必要のようです。
今は完全受注生産。柄も決められるのかは不明。

フローラ・ダニカ(Flora Danica)のソーサー

金細は24金らしい。

下はフローラ・ダニカ(Flora Danica)のコーヒーカップの裏の刻印を撮影。

裏の刻印も実は大量生産品とは異なる。カップには描かれた花の名前がラテン語で記されている。

西洋磁器食器としては、値段も造りも最高峰。
ディナーセットからスープ入れまで種類も豊富。

フローラ・ダニカ(Flora Danica)の 大皿

さすが24金。まばゆいスマイル 飾り皿ですね。
マイセンの所で絵の具の話に触れたが、多色の場合、色を付けては何度も焼成すると言う過程を通る。

特に金は熱に弱く、高温で焼くことができない為に低温(500度~700度)で焼成される。しかも金を壊さないために低温で何度も。
手間だけではない。当然割れる確率も上がるのだから アンダーグレイズ(Under-glaze)よりも高くはなるわけです。

​​​ ​​

​先にも触れたが、 今に存在する西洋の高級磁器会社はいずれもマイセンの技術から発している
マイセンが
西洋陶磁器の頂点に君臨しているのはそんな事情だ。
※ 以前クイズ形式でマイセン工房を紹介。リンク先載せます。
クイズここはどこの陶磁器工場? Part 1
リンク ​ クイズ陶磁器工場 1-2 解答


東洋陶磁器のコレクション
欧州の宮殿などには調度品として高級磁器が目立つように飾られたりしている。
17世紀後半、欧州で流行した中国趣味の美術様式シノワズリ(chinoiserie)が流行った 事もあるらしい。

ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)

宮殿の廊下のコンソール(console)にはそれぞれ壺(つぼ)が飾られている。

コンソール(console)はブラケット(棚受け)を意味するフランス語
壁に取り付けて使われる飾り用デスク(棚?)なので単体では立たない
※ デスクと言うほど幅は無い。飾り棚が正解かも。
欧州の宮殿やホテルなどでは、たいてい鏡の前に据えられていて、調度品や花が飾られていたりする。
それだけに、 本来はバロックやロココスタイルの豪華な家具 の印象が強いかも。
まさに上下の写真にあるのがコンソールそのもの。

ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)

こちらは鏡張りの化粧室?
こちらのコンソールには陶磁器の時計が飾られていた。
着目は、鏡の上部の装飾。非常にユニークな使い方だったので撮影していました。
下は部分。

おそらく、陶磁器の花瓶のミニチュア。それをロココの壁面装飾の一部として使っている。


東洋磁器の流行?
各国の海洋事業の推進により、欧州人は全く文化の異なる東洋を知る。
その異国には自分達の国には無い美しい焼物が存在していて、いつかそれを手に入れたいと皆が願ったのだ。
中国の景徳鎮(けいとくちん)や日本の伊万里焼の陶磁器が大量に欧州の宮殿に運ばれた のはそんな理由から始まった。

前述したように、白い肌の陶磁器は欧州には無い。金に匹敵するくらい貴重なお宝として求められたのである。
最も、磁器は素材ゆえに今でも陶器よりお高いですが・・。スマイル

ウイーンの宮殿やドイツの宮殿ではコレクションの皿が壁一面に張り付けられた主(あるじ)自慢の陶器部屋もあったりする。レジデンツ博物館(Residenzmuseum)の品もヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家の自慢の一品たちである。

ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)

高級品をさらにアレンジ?  欧州風に金属の装飾が施されている。
この装飾は、輸入された後にしつらえられたのではないか? と思う。
なぜなら、取っ手のドラゴンが西洋的だから。つまみもアーティチョークっぽい。


日本の磁器(Japanese porcelain) 伊万里(Imari) 
欧州の商人は、前から日本の磁器製造に注目はしていたらしい。
だから中国で動乱が起きた時に素早く交易先を日本に切り替えられたのだ。
ちょうど、 17世紀に起きた欧州の陶磁器のブームと中国の動乱期が重なった 事が日本にとってはラッキーだった?

日本から輸出された伊万里(Imari)  柿右衛門(かきえもん)  レジデンツ博物館(Residenzmuseum)




中国大陸では、満州で建国(後金国)していたヌルハチ(nurhaci)(1559年~1626年)がさらに本土とモンゴル高原の漢民族を征圧。
動乱後、中国で最後の統一王朝となる清国(しんこく・Qing Dynasty)(1644年~1912年)を建国した。

星 中国で代替わりの動乱が起きていた17世紀、 ​中国から仕入れができなくなった欧州人は、交易先を日本に切り替え、日本の陶磁器を調達する事にした のである。
陶磁器の積荷は佐賀県の伊万里(いまり)港から出航した。それ故、 欧州人らはその陶磁器を伊万里(Imari)と呼んだ

​伊万里磁器(いまりじき・Imari pocelain) の名は、輸出元の有田町の港の名からつけられた と言うわけだ。本来は、有田で焼かれた有田焼きであった。

柿右衛門(かきえもん)  レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


星伊万里焼とコバルトブルー、鉄赤、金を中心とした豪華な絵付け装飾が当時欧州で流行っていたバロック様式にマッチした事もあり1700年頃には伊万里磁器の人気がかなり高まったらしい。


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)

景徳鎮か?  伊万里か? 不明。ヘッドのつまみが、振袖を着た女性になっているから日本かな?




​有田焼きのルーツ​
器の原料である 磁石鉱(白磁鉱)を有田泉山に発見し 1616年、日本初の磁器「有田焼」が完成 する。
※ 泉山陶石、天草陶石などの白磁の原料カオリンが北九州で発見されたのだ。

そもそもその技術はどこから来たのか?
豊臣秀吉による 朝鮮出兵の時に肥前佐賀藩の鍋島直茂(なべしま なおしげ)(1538年~1618年)が朝鮮の陶工であった李参平(り さんぺい)を日本へ連れ帰った事 。とされている。
その李参平(り さんぺい)により日本で泉山陶石が発見され、有田で陶磁器生産が始まる。

星20代半ばで来日して63年。 李参平(り さんぺい)(   ? ~1592年~1655年)は有田焼きの租になった。
※ 日本では金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)の名で生きたらしい。
※ 逆算して来日が1592年頃となるので、第一次朝鮮侵攻の文禄の役(1592年~1593年)の最初には来日していた事になる。

※ 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が豊臣秀吉による朝鮮出兵の戦い。
文禄の役(1592年~1593年)
慶長の役(1597年~1598年)
​​​秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結している。


​柿右衛門と濁手(にごしで)素地​
「酒井田柿右衛門家年譜」によれば、​
1626年、 豊臣秀吉御用焼物師の高原五郎七が、作陶を教える為に酒井田家へ逗留。
初代 柿右衛門が、酒井田家の喜三右衛門 (1573年~1666年) だそうだ。
​​​1628年、鍋島藩御用窯が有田に建造。

星 酒井田喜三右衛門(初代 柿右衛門)を有田に呼び寄せ、御用窯を任せたのだと考えられる 。​

また、「酒井田柿右衛門家年譜」によれば、
日本の磁器が初めて輸出されたのは1647年(正保4年)
オランダ東インド会社による日本磁器輸出が本格化するのは1659年(万治2年) とされている。​​

※ 公式 柿右衛門窯の「酒井田柿右衛門家年譜」リンク先
  リンク ​ 酒井田柿右衛門家年譜


​​​濁手(にごしで)素地​​​
柔らかく温かみのある乳白色の素地は柿右衛門様式の美しい赤絵に最も調和する​素地。
※ 一般の白磁(青系)よりミルキーホワイト色した白磁素地。
1670年代にその製法が完成した ​濁手(にごしで)素地は、​柿右衛門の作品の大きな特徴の一つだったそうだ。​​
​​​​
しかし、 1700年代(江戸中期)になると「柿右衛門様式」に変わり金・赤を多用した「金襴手様式」が色絵の主流 となってしまった。

また、中国の内乱が収まり、 景徳鎮磁器の輸出が再び本格化すると、オランダ東インド会社による肥前磁器の輸出は減少 していく。
さらに江戸幕府による貿易制限もあり濁手(にごしで)素地の製作は、途切れたそうだ。

※「濁手」の原料は泉山、白川、岩谷川内の3種の陶石が6:3:1の割合で調合されているそうだが、原料陶石の焼成時の収縮率の違いによって破損が多く出る事も途絶えた要因らしい。

長らく造らなければ、その技術も失われる。
柿右衛門家に伝わる「土合帳」等の古文書を基に研究し、 12代柿右衛門(1878年~1963年)とその子13代柿右衛門(1906年~1982年)は1953年復刻に成功 する。
※ その技術は無形文化財となった。

レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)






レジデンツ博物館(Residenzmuseum)

蓋付きの花瓶と金魚鉢  レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


レジデンツ博物館(Residenzmuseum)  コレクションルーム?

いわゆる、食器の飾り棚のようです。
覗き込めるほど近づけないけど、ちょっと見、実用のマイセンとアウガルテンかな?  
当時は他の品が飾ってあったのでは? と思う。


フランスの​​​セーブル(Sèvres)焼き  レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


セーブル磁器(Sable porcelain)
セーブル磁器(Sable porcelain)は、 フランス王家が力を注いだ陶磁器

ポンパドール夫人やルイ15世が筆頭債権者になるなど力を入れていた が、当初は軟式陶磁器しかできず、マイセンの模倣の域を出なかったそうだ。

ポンパドール夫人 (1721年~1764年) 亡き後の 1769年にリモージュ近郊でカオリン鉱床が発見 され本格的な磁器の製造実験に入る。
マイセン磁器完成(1709年)より61年遅れて、1771年?  フランスでも磁器の開発に成功した。
フランスでは、成功した本格的な磁器を王室磁器(royale porcelain)としたらしい。

が、セーヴル窯はフランス革命の折に市民により破壊されている。
1824年、ナポレオン1世によって国立セーヴル陶磁器製作所として再興された。
ロイヤルなセーブル磁器の技術はリモージュ磁器(Limoges porcelain)にも継承された。


セーブル(Sèvres)焼き  ヴェルサイユ( Versailles) プチトリアノン​宮(le Petit Trianon)

プチトリアノン​宮(le Petit Trianon)で展示されていた皿なので、マリーアントワネット縁の品であろう。
絵付けに国がら?  個性が出てますね。

セーブル焼きは前出、ポンパドール夫人 (1721年~1764年) 亡き後にカオリンがリムージュで発見され磁器の製造実験に入っている。1771年開発成功? 
時代的にセーブルの生産が開始されたのはルイ16世の治世に入ってからと思われる。
※ ルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年)(在位:1774年~1792年)

プチトリアノン​宮(le Petit Trianon)の展示品がマリーアントワネットの愛用品とするなら、それらはセーブル開発の初期の磁器の可能性が考えられる。
古い王室磁器のセーブル窯はフランス革命で破壊されて消えているので、希少品かも・・ぽっ

下もプチトリアノン​宮(le Petit Trianon)の展示品から。

これだけではサイズ感がわからないと思いますが、鍋のように大きい器です。
スープを入れてサーブする為の容器だった可能性が考えられる。
品よく描かれた花はマリーアントワネットの故郷オーストリアの花かな? スマイル

これを見ると、柿右衛門が人気だったのもわかりますね。
実用にするなら、白磁の魅力を引き出し、かつ飽きのこないシンプルさに品を感じる逸品です。

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セーブル(Sèvres)焼き  レジデンツ博物館(Residenzmuseum)

表示は無いが、セーブル(Sèvres)焼きで間違いないかと・・。リモージュ焼きの特徴があるし、人物の横顔のマークも決め手。


ドイツのマイセン(Meissen)  時計とキャンドルスタンド  レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


マイセンなのに敢えて中国風に? これこそがシノワズリ(chinoiserie)の一例かもしれない。



マイセン(Meissen)のティーセット  レジデンツ博物館(Residenzmuseum)


こちらの柄も敢えて中国風。シノワズリ(chinoiserie)になっているみたい。



磁器(じき・porcelain)
1300°C以上の高温で焼成される白色の硬質の焼物。 陶磁器の中では最も硬く 、軽く弾くと金属音がする。磁器は半透光性で、吸水性が殆ど無いから器としては最適。

粘土質物や石英、長石→陶土を原料として1300°C程度で焼成するが、焼成温度や原料によって軟質磁器と硬質磁器に分けられる。
※ ボーンチャイナ(Bone china)は軟質磁器(soft-paste porcelain)

素材は​ ケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)(カオリン・Kaoling)を主成分とする陶石という石の粉と磁土を合わせ、高温で焼成した造られる。
​カオリナイトは長期の風化作用によって花崗岩などの長石が分解して生成される。
俗にカオリン(Kaoling)と呼ばれるのは 中国の有名な産地、江西省景徳鎮付近の高嶺(カオリン:Kaoling)の地名から由来 ​しているそう。

このカオリンの採掘が各国の磁器の開発に大きくかかわってくる事は言うまでもない。
しかし、素材となるカオリンはどこでも産出できるものではない。
無い所はカオリンを輸入しなければならない。

英国では、カオリンの代用品として牛の骨灰を陶土に混ぜて陶器を完成させた。
英国のウエッジウッド(Wedgwood)がそれ である。
ボーンチャイナ(Bone china)と呼ばれるのはまさに骨粉が使われているか らだ。


今回は景徳鎮の事も触れていないので、次回「焼物史(仮題)」の中で扱いたいと思います。
予定とちょっと着地が変わりました。


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Last updated  2024年05月02日 18時07分38秒
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