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お正月というとやはり日本を思い出してしまう。イギリスに住んでいる間に、日本でも仕事をすることがあったが、その中で某ウイスキー会社のコマーシャル撮りの仕事があった。実はこの仕事にはことの発端があり、その数年前にH社の小型車のコマーシャルを「インドへの道」という映画の1シーンで有名なパディントン駅で撮影した時のモデルのオーディションに遡る。この小型車のコマーシャルは若い人向けのおしゃれなものだったのだが、どういう訳かとんでもないモデルが一人紛れ込んでいた。彼は確かステファンと名乗っていたと思うが、身長は約190㎝でがりがりにやせている。体はがりがりだが、頬だけがふっくらしていて目がギョロッとでかい。見るからに異様でコミカルな風体のステファンを見て、その時の監督である大沢さん(仮名)は一目で彼を気に入った。「とっち、この人は今回は使えないけれど、いつか絶対使うのでコンタクトを取っておいてください」と大沢さんは私に言いながらも、目だけはじっと彼を見続けている。監督がよほど気に入ったらしいので、彼に2~3質問をしてみたら、映画の「ロッキー・ホラーショウ」にもチョイ役で出たらしい。(注.本人はかなり重要な役だといっていたのだが、後で調べてみたらなんてことはない役だった)その時のオーディションでは、金髪のショートカットの女性と、ジェームス・ディーン+マット・ディロン÷2という容姿の男性が選ばれ、それぞれ女性版と男性版のコマーシャルを撮影した。この撮影グループは私がそれまで撮影した人たちの中で、たぶん一番無駄がなく、短時間で撮影を終了できた人たちだったと思う。これが確か1980年の中頃のことで、このコマーシャルでも賞を取った優秀なチームだ。監督、カメラマン、スタイリスト、アシスタントカメラマンと全てメンバーは変わっておらず、とても仲の良いグループだった。撮影場所であったパディントン駅は、屋根全体がプラスチックのような物で出来ていて、外光が十分入るように設計されており、プラットホームは非常に明るいが、大沢さんはその光の弱くなる夕方の時間が好きらしい。それまでのんびりしていた彼らには、撮影の時間が近くなるに連れて緊張が行き渡り、時間が来ると光が変わる一瞬をねらって撮影をするという具合であった。後にこの時のコマーシャルを見てみたのだが、バックにサッチモの「WHAT A WONDERFUL WORLD 」の音楽が流れている、とてもオシャレなコマーシャルになっていた。この撮影が終わった一年か二年後の夏も終わりに近づいた頃のことである。東京の某プロダクションから連絡があり、ステファンを使ってコマーシャルを撮りたいが見積もりを出して欲しいという連絡が入った。その結果、ステファンを使って撮影をすることが決定し、その時たまたま日本にセールスに行っていた私が彼の通訳兼世話人として選ばれた。<続く>
2004年01月02日
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あけましておめでとうございます。昨年は私の拙く、長い文章に付き合って頂き、誠にありがとうございました。本年も、ますます拙く、長く、間隔を置いた日記を三日坊主にならずに続けて行く所存でございます。どうか、皆様、時々はのぞきに来てやって下さいませ。皆様の一年のご多幸をお祈りしております。
2004年01月01日
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JAZZ FMというロンドンのラジオステーションが出しているコンピレーションアルバムを聴きながら、ふと思う。最近はジャズに限らず、ロックやポップスでサックスをフィーチャーした曲がとても増えている。ジャズ界でもディミニッシュスケールの開発者、マイケル・ブレッカーの他、デイヴッド・サンボーン、リチャード・エリオット、グローバー・ワシントン・ジュ二ア、渡辺貞夫、ジャズ以外でもケニー・G等など本気で数えたらきりがないほどのヒーローが生まれている。勿論、大御所のチャーリー・パーカー、レスター・ヤング、ソニー・ロリンズ、デクスター・ゴードン、ベン・ウェッブスター等(ジャズに詳しい人、名前が出ていないご贔屓の方があったらごめんなさい)も忘れてはならない存在である。これが一昔前なら、トランペットの時代だった。ジャズの世界では、マイルス・ディヴィス、チェット・ベーカー、リー・モーガン、ルイ・アームストロング、ディジー・ガレスピー、フレディー・ハバード、クリフォード・ブラウン、ナット・アダレイ、アート・ファーマー、ウイントン・マルサリス(もう一度謝っておきます。名前が出ていなかったらごめんなさい)等など、比較的新しい時代のプレーヤーの名前も挙げ出したらきりがない。ジャズ以外でもハーブ・アルパート、ニニ・ロッソ、バンドでもトランペットをフィーチャーしたチェイス等が活躍した。トランペットは音楽の世界で現在も重要な役割を果たしているし、ロイ・ハーグローブやウォレス・ルーニーなど新しいヒーローも誕生してきている。しかし、なぜ今サックスなのだろう?サックスの持っているあの柔らかな音色なのだろうか?確かにサックスの音色は、現在主流のシンセサイザー等に溶け込む音色であるし、その筋の人に言わせると人間の声に一番近い楽器ともいわれている。楽器としてはそういう特色も考えられるが、やはり楽器は楽器である。楽器を使って音楽を表現する人間がいなくては話にならない。こうやって考えてみると、やはりサックスを吹いて音楽を表現しているヒーロー達に話が向いていくのを避けることはできない。私の個人的な好みを述べさせていただければ、前述のサックスプレーヤーで現在好きなのはマイケル・ブレッカー、デヴィッド・サンボーン、そしてリチャード・エリオットの3人である。マイケル・ブレッカーはブレッカーブラザース、ステップス・アヘッド、そしてギターのパット・メセニーと共演したアルバムなど、とても面白いアルバムを作ってきた。何年か前にロイヤル・フェスティバルホールで彼を見る機会があったのだが、その時の彼はステージの真ん中で不死鳥が羽を広げているかのようだった。その時の彼の音楽は、いわばへヴィーなジャズでそれもかなり不協和音に近いのだが、なぜか不協和音に聞こえないという不思議なものだった。会場の何パーセントかは、その時のダブルビルだったジョン・スコフィールドバンドを見に来ていたようでマイケル・ブレッカーの時は帰ってしまったのだが、私にとってはひたむきに彼自身のジャズを追求する彼のステージは凄かったの一言に尽きる。デヴィッド・サンボーンについてはポップスやロック界で、サックスを広めた重要な立役者の一人だと思う。彼のサックスは時に魂の叫びのような凄いものを感じることがあるのがとても気に入っている理由だ。彼のアルバムや他のセッションのアルバムでは、まだまだ出会えるものがあるような気がしている。リチャード・エリオットは、非常にオシャレなポップス感があり、とても聴きやすいところが大好きである。アルバム「チル・ファクター」は、我々夫婦がニューヨークに遊びに行った時の帰りに、早朝、空港のカフェで朝ごはんを食べていた時にラジオでかかっていたのだが、余りに良かったのでカフェのおばさんに聴いたところ、ラジオだからよくわからないといわれ、その時は誰のなんという曲なのか、アルバムなのかを知る手がかりはなかった。ロンドンに帰ってから、運良くジャズFMを聴いていた嫁さんが気がつき、即買ったのだが、サイーダ・ギャレットの歌もとても良いし、爽やかさが気に入っています。ジャズは演奏するのは難しいので、ただ聴いて楽しんでいる愛聴者一人のクリスマスの戯言でした!
2003年12月26日
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今日はクリスマスイブ。会社も少々だが早めに終わり、久しぶりにアート・ペッパーの「Roadgame」を聴きながらこれを書いている。ここでピアノを弾いているジョージ・ケイブルスというピアニストがとても好きだったのだが、最近、彼のアルバムを店頭で見なくなった。私がジャズを聴くようになったのは、ジョージ・ケイブルスとベースのスタンリー・クラークのアルバムで確か「HELEN’S SONG」という曲が入っていたアルバムだった。後になって、ジョージ・ケイブルスの別のアルバムに同じ曲が入っていたCDがあったので買って聴いてみたのだが、とても同じ曲とは思えないほどひどかった。渋谷の、確か道玄坂を入ってから左に曲がって少し歩いた右側にある「音楽館」というジャズ喫茶に、良いアルバムが置いてあったのでよく足を運んだが、彼のアルバムはたまたま日本に帰った時にそこで聴いた。ここに置いてあるアルバムはCDではなくほとんどレコード盤で、それをJBLの大きなスピーカーを通して大音響で聴けるというご機嫌な場所であった。当時、私の働いていた会社はロンドンと渋谷に事務所があったので「音楽館」に行くのにはとても好都合だった。日本にセールスを兼ねて里帰りをする時は、時間があるとジョージ・ケイブルスのアルバムを聴きに行ったのだが「音楽館」にあるアルバムの中身はCDとして発売されているのを見たことがないものばかりだった。「音楽館」で聴いたいいアルバムを探そうとCDを見てみても、CDになっているのはデンマークやドイツで安い資本で録音されたものばかりである。ジョージ・ケイブルスは、私にとってジャズを聴く入り口となった人なので、是非まだまだがんばってもらいたい。クリスマスイブのことを書こうとしたら、とんでもない方向にそれてしまった。ごめんなさい。(^^ゞそれでは皆さん、メリークリスマス。
2003年12月25日
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さて、困った・・・今日、22日も終わってしまった・・・友人のべーシストと曲を持ちよる約束の日が26日なのにまだ1曲もできていない。2-3曲できていればスタジオでデイヴがドラムを叩きたくてうずうずして待っているのだが、曲がなかなかできない、というかありきたりのコード進行しか出てこない。ありきたりの進行ではありきたりのメロディーしか出てこないし、いっそのことつまらないものしか出てこないのだったら、このままスタジオに入った方がかえって面白いものができるような気もする。ベースの友人はちゃんと宿題をやってくるほうなので、なんかもう1-2曲はできているのではないかという不安がある。この場合、不安というのは当てはまらない。彼に曲ができているのは喜ばしいことなのだが、同時に私に曲ができていなければ責められるという不安がある。嫁さんは私の頼みを聞いてくれて、もう1曲分の作詞はほぼ完了しているのでこれで何とかメンツは保てるような気がする。一応明日友人に電話でして、現状を探ってみることにしよう。・・・とにかくこんな訳で、今、苦労しています。何とかとりあえず26日までに1曲自分で作ろうととがんばっているところです。
2003年12月23日
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今日はなぜか頗る体の調子が良い。ひなたっこさんの助言もあったのと、ここ最近、流感で会社を休むことが多かったもので、この地域の医者に頼んで土曜日に流感予防の注射をうってもらったのだが、今日(日曜日は)通常の喉の痛みも無く、嫁さんと買い物に出た後も、普段だと人混みに揉まれると空気が悪いからか、帰り際には頭が痛くなるのにそれも無い。余り結果に先走りするのも良くないが、やはりこの注射は良かったのだと思う。注射をうってもらった後、料金は?と聞いたのだが無料だという答えが返ってきた。こんなことなら、もっと早く行っておけばよかった。イギリスに来て初めて得をした気分になった日だった。あーあ、しかしいくら調子がいいからと言って、こんな短い日記のために夜更かししてたんじゃ明日がちょっと思いやられる・・・
2003年12月22日
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最近、 lalameansさんとピンク・フロイドというバンドについて語る機会があった。このバンドに最初に遭遇したのが、確か18歳の時。NHKでLIVE AT POMPEIのフィルムが流れたのを偶然見て目が釘付けになり、それ以後しばらく彼らの音楽にのめり込んでしまった。このフィルムをロンドンから自前で購入して、あのお堅いNHKで放映してNHKの音楽番組を改革してしまった波多野プロデューサーに、十数年たって会う幸運に恵まれたが、そのヒッピー風なロングヘアーから出ているオーラのようなものに気おされてしまったのか、彼とはとうとうピンク・フロイドのことをしゃべる機会を逃してしまい、仕事の話だけで終わってしまったのが今でも悔やまれる。話を元に戻すが、この時はピンク・フロイドというバンドの名前も何も知らなかった。ただ、テレビでその時流れているECHOESという曲がイギリスのバンドの曲らしいことはわかったが、なぜか東洋の香りを持っていることがとても不思議な印象として残った。もちろん東洋の神秘的な香りだけでなくイギリス独特の重く広がりのある特徴も持つこの曲は、アルバムのB面(当時はCDはなくレコードのみであった)全てを使って一曲という約23-24分という大作だった。後に聞いた話だが、このアルバムは殆ど全般ビンソンという会社が作ったエコーマシンにそれぞれの楽器の音を通して加工して作成されたらしい。今では日常茶飯事で使用されているこのエコーマシンは、当時、宇宙というテーマを表現する為のみでなく、新しい音源を作成する為の画期的な録音機材であったことは言うまでもない。これがきっかけになって、私は次々とピンク・フロイドのアルバムを買いあさり、「原始心母」というクラシックのオーケストラとクワイヤーを使用した作品に出会い、さらに1973~4年に「狂気」という強烈な個性を持ったアルバムに出会う。「狂気」はテンションとリリースという音楽のテーマをスケール(音階)やコード(和音)の流れだけでなく、実際の音源をサンプルしたものを使用して、よりアルバムのテンションを高めているところが面白い。これは彼らがアルバム「原始心母」のなかで実際のモーターバイクの音を効果音として使用していることでもその試みが出ている。もう一つ、彼らの作品の面白さとして、一枚のアルバムごとにテーマがはっきりしているということがあげられる。「狂気」の成功もあり、これ以後のアルバム「炎」や「アニマルズ」などで彼らの個性はより磨かれてくるが、1979年の「ウォール」を出す頃にはバンドの内部でロジャー・ウォーターズに対する反発が大きくなり、「ファイナル・カット」以後、ロジャーはバンドを離脱することになる。当時、彼らの録音関係者であった人間に聞いたところ、「ウォール」は2枚組みだった為に録音に途方もない時間を費やしたそうで、この時間が余りにも長すぎた為にバンドの内部が大変不安定になっていたということであった。それにしても、「ウォール」の録音秘話を彼に聞くとさすがに凄いと思わされる。このアルバムでヘリコプターの音を録音する時、高価なマイクを箱の中に入れておきその上にヘリコプターを止まらせて飛び立たせるところを録音したり、ガラスが割れる音の録音もこれまた高価なマイクをガラスの中に設置して録音したらしい。もちろん録音後の何本かのマイクは使い物にはならないし、いわゆる本当の意味での一発録りだったらしい。ロジャーの独立後、最近ではあまり彼らのアルバムを聞く機会はなくなったが、とてもクリエイティブなバンドだった。24年前、私をロンドンに引っ張ってきたのは、このピンク・フロイドなのであった。
2003年12月20日
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日記を書こうと思ってもなかなか書く気になれなかったのは、先週から流感にかかっていて、このところテンションがとても低くなったのを感じていたからだ。嫁さんにそう言っていたら、日記なんだからそういうことも書けばいいんじゃないのと言ってくれたが、自分が風邪でぐったりしているのを書いてもおもしろくもなんともない。しかし、いつもの昔話を始めると文章が長くなってしまうのと、次々に書くことが出てきてしまってなかなか終われなくなるし、あげくのはてには最後の締めの収拾が自分でつかなくなってくる。最後には、いつも書く作業だけに追われて寝る時間もなくなって、嫁さんが寝た後もこつこつときりのいいところまで書いてしまう。したがって、次の日は会社でひどい目に遭う。仕事をしながら、目は書類を見ているのだが、いつのまにかふっと意識がなくなってしまうのだ。車を運転していたら、これはまさに居眠り運転、大変危険である。前にも書いたのだが、ロンドンでのこの流感は非常にタチが悪い!日本では、まず風邪をひいている人は何らかの負い目を持っているのか、なるべく他の人にうつさないようにマスクをするとか、咳をする時は口を手で塞ぐとかいう最低限のマナーを目にするがこちらではそのような配慮はまったくない。電車などで前に人が座っていても、ブワックショーイ!後ろに座っているやつもぐすぐすしているかと思ったら、ヒェ~ックショイ!新聞を大きく広げているんだから、少なくとも口の周りくらいは覆えばいいのに、くしゃみをする瞬間、わざわざ新聞を下ろしてから勢いよくするのである。わざわざ、なのである。まったくオマエら、人にうつしたくてしょうがないんじゃないのか?と疑いたくなるのも無理はない。この寒くなったロンドンでも、朝シャンをしたまま、髪をちゃんと乾かさずに電車に乗ってくるご婦人も多い。そいつらもチュンやクシャンをやっているのだから、流感もなかなか沈静するわけがない。嫁さんの会社では、先月インフルエンザ予防の注射を希望者に全員無料でしたらしく、なんとなくうらやましく思った私も、会社の上司に注射の事を仄めかしてみたのだが、会社の人数分の注射は料金がとても高いのと、色々な流感のタイプがあって注射をしたからといって流感に罹らないという保証はないと言って逃げる。(もし、この上役にアタマがあればの話だが・・・)この注射一本で、社員が頻繁に風邪でぽこぽこ休むこともなく、したがって他の社員にその負担をかけたり、その負担で疲れた社員がまた順繰りに風邪をひいて、しょっちゅう誰かが休んでいるという悪循環から開放されるかも知れないし、社員にしてみれば、会社はわれわれの健康のことを考えていてくれるんだなと再認識するかも知れない。でも、上司はこんなことを考える能力がまったくないバカである。仕方なく、行きつけの登録医をたずね、この土曜に注射の予約を自前した。考えてみれば、インフルエンザなら注射で予防もできるが、バカを予防する注射がないのが悔やまれる。
2003年12月17日
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週末になるといつも買い出しにいく。今日は嫁さんの希望で、日本食料品店でセールがあるということなので、家から車で片道1時間半のドライブに行くことになった。日本食店では思ったよりも買い込んでしまった。遠いし、めったに行く機会がないのとセールということで少々買いすぎの傾向もあったが、イギリスの食べ物では満足できないわれわれ夫婦は「まあ!いいか!」ということで帰途を急ぐが、その帰り道にこちらで結構宣伝している大きなスーパーを見かけ、足りない分の買い物をしようということになる。この時、実は私は朝から何も食べていなかった(おいおい)のでお腹がグウグウだった。嫁さんはあまり食べなくても余り影響はないのだが、私は困る。色々と物色して、パンとローストチキンそしてローストビーフのスライスを買う。ここで止めておけば良かったのだが、私は空腹のあまり、目が余計なものに行った。パンとローストのサンドイッチとくればバランス的にはサラダだろう。通常、こんな時は一番無難なコールスローというキャベツとニンジンの千切りをマヨネーズで和えたサラダを選ぶのに、なぜかEXTRA SUPECIALというサラダに目が釘付けだ。今、思えばお腹が空きすぎていたために、24年間のイギリス生活で何度も「まずい」経験をさせられたことを忘れてしまっていた。魔がさした、とも言うか。「SALMON PASTA SALAD」と「MUSHROOM PASTA SALAD」。どちらにもEXTRA SPECIALと書いてあり、プラスチックの容器にご飯茶碗大に一杯分ほどのパスタが入って一つ1.78ポンド(約388円)である。盛り付け例の写真では、いかにもサラダらしく、実際には入ってもいないプチトマトと緑の葉っぱが添えてあり、内容を説明した文章が書いてある。前者はイタリアの卵のマカロニに、軽く蒸した鮭と軟らかなベイビースピナッチ(若いほうれん草?)に濃くてクリーミーなマヨネーズ、そしてその上からレモンジュースを少々振って和えたサラダ。後者は同じくイタリアのパスタに5種類のキノコ(ボタン、茶色のボタン、マイタケ、椎茸、最近人気があるらしいポルチー二・・・なんだか解らないがとにかくイタリアものらしい)、そしてオリーブオイルドレッシングをかけたものとなっている。これだけ見れば、食欲をそそられるにふさわしいじゃないか!買って食すべし。家に帰って早速ローストビーフサンドイッチを作り、ローストチキンにかぶりついた。朝から何も食べていない私のお腹は、喜びに溢れその美味しさと言ったら言葉ではなかなか表現が難しい程だった。肉の後はサラダと頭の中で相場を決めていた私は、サラダの容器に付いている説明書きの紙を外すのももどかしく破り捨て、容器をこじ開け、まだローストビーフサンドイッチの風味で喜びに溢れている口にサラダをほお張った。ま、まずいぞ!一瞬にして、天国から奈落の底に突き落とされた私は、慌ててもう一つのサラダに救いを求め、口直しのためにほお張った。うぇっ!なんじゃこれは?2つのサラダは、私の想像をはるかに超えた激マズ物だ。どっちがまずいと言われると、大変難しい。どうしたらこんなにまずいサラダというものが存在できるのかが、とても不思議であった。説明しよう。先ほどの鮭サラダにはまったく味がない!あれをマヨネーズと言えば「マヨネーズ一家」が殴りこみをかけてきそうなほど、マヨネーズの味がしないくわせものだ。味がしないと言えば、鮭の味もなーんにもしない。これは殆どパスタのダブルクリーム和えである。後者の方はもっとひどい。5種類のキノコの味がまったく分からなくなるほど強いハーブが入っていて、香水を振り掛けて食べているような奇妙な味だ。キノコというのは繊細な味だから楽しいのだ。嫁さんからは「なんでこんな物を買ったのよ!」と怒られる。何がイタリアのパスタだ!イタリアのパスタだったら、味もイタリア風であって当然だろうが。なんで味だけイギリスなんだ?私は食べ物を捨てるのがもったいない、という気持ちから、なんとか軌道修正をはかろうと、醤油とブル○ッグソースを持ってきてそれぞれのサラダに少しかけてみる。・・・ここまで元がまずいものは、醤油・ソースのありがたい力を借りても、そのまずさはびくともしない。お百姓さんには申し訳ないが、犯人はこのサラダを作った人間だ!と妙な言い訳をしながら2つともごみ箱に捨てざるを得なかった。イギリスはまずい!
2003年12月14日
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ジョンが帰った後は、デイヴがジョンがいなくなってつまらなくなったのか、急に家に帰りたいなどと言い出し、コリンを困らせていたらしい。とりあえず撮影のトラックも終盤になると必要がなくなったので、撮影最後の日には彼を家に帰すことができた。しかし、この最後の日は困ったことにカメラマンの別所さんが、車を塩の上に乗せたいと言い出した。ジェリーはジョンからそれだけは絶対するなといわれていたので、かたくなに断るが、なぜか、この時の別所さんはしつこかった。余りのしつこさに私も「もし車に何かあった時、別所さんが責任を取って頂けるならトライしてみましょうと」言ってしまった。撮影に使う大きなベニヤ板4枚を交互に車の前に敷き、車を塩の真ん中まで運んで撮影するという目論見だったが、その時、運転をしていたメカニックの佐藤さんには念のために何かあったら窓からでも飛び出すように伝えておいた。車が1枚目の板に乗った。2枚目に移る時にベニヤ板が滑って車の底にあたるや否や、それまで心配そうに見ていた田中さんは「止めましょう!車になんかあったら大事ですから」と言い出したので、急遽この試みは取り止めになった。(ほっとした!)この長かった撮影にも終わりがやってきた。私はコリンとジェリーにロンドンでの再会を約束して、撮影隊をロサンジェルスまで連れて行って日本行きの飛行機に乗せるはずだったのだが、飛行機会社の手違いで彼らの荷物がソルトレイク発の一つ遅い便に乗せられてしまい、ロスで荷物を待つハメになったために、危うく彼らを日本行きに乗せ損なうことになりそうだった。彼らは「僕らはもう一晩ぐらいロスに泊まってもいいんですよ」などと言っていたが、そうなると車の手配やらホテルの手配をしなくてはならず、かえって面倒なので、とにかくぎりぎりの所まで待って、ようやく彼らをゲートから送り出した時はほっと一息ついた。おりしもその日は私の誕生日。同時にアメリカの建国記念日であるので、私はハリウッドのホテルの一室で一人さびしく、あのめっちゃ派手なアメリカ合衆国建国記念日の花火の音を聞いていたのであった。翌日、ロスを一人で飛び立った私は、約2年ぶりにロンドンに住む為に戻ったのだが、しばらく時差ぼけがひどくてフルハムのフラットにボーッとしていたが、その頃、ジョンやコリンやジェリーは既に新しい仕事でロンドン中を駆け回っていたのだった。<完>
2003年12月12日
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昨日の場所の許可も取れたので、撮影場所に行きそこで上からの撮影をする為のタワーを組み始めた。組み立ての行程で少々の問題はあったが、一応高さ7mほどのタワーができて撮影が始まった。進行している間はみな暇なのでデイヴのトラックの所に集まり、雑談が始まった。私は、ふと眼についた動物の足跡が先ほどから気になっていたので、デイヴに聞いてみる。彼が「WILD CAT(山猫)だよ、それもかなり大きい方だな」と答えた途端、脳裏にはあの大きな牙を持つ猛獣がよぎった。みんな、急にあたりを見回したり、そわそわし始めたが、そこは360度見晴らしがきき、動物の影はなかった。デイブはさらに話を続ける。「あの遠くに見える山があるだろう?」いわれた方向に目を凝らしてを見ると微かに山の頂きが霞んで見える。「あの山は、ここから大体どのくらいの距離にあるかわかるか」と彼が聞く。私には想像もつかない。「あの山は大体ここから200マイル(約320km)離れているんだぜ」・・・気の遠くなるような距離だ。撮影車を交換したりして撮影しているうちに夕方になり、薄暗くなり出すと、空がなんとも言い難い色に染まってきた。それは濃いオレンジ色に黄色やブルー、そして紫が微妙に交じり合った不思議な色合いであった。別所さんは今日最後の撮影ということで、我々に大きなポリエステルの白い板を持たせて車を撮影をしていたのだが、いきなり我々は小さな羽虫の軍団に襲われた。この虫は別に刺すということはなかったのだが、人間の体臭を目掛けてくるのかそれとも体温を感じて近づいてくるのか解らないが、とにかく凄い数だ。急いで撮影を止め、みんな車の中に非難すると、しばらくしてどこかに行ったようだ。とりあえず、撮りたいものはすべて終了したのでラップ(終了)ということになった。ホテルに戻ると、木村さんは我々を呼んで「今日の撮影で撮りたい本筋は大体完了したので、私は明日先に日本に帰ります。色々とお世話になりました」と挨拶された。この言葉を聞いたジョンと私は、正直ほっとした。この木村さんの一言に、今回の仕事で良い写真が撮れたという気持ちがこめられていたからであった。木村さんの帰りの予定を聞き、明日ジョンは木村さんを飛行場に連れて行くことになった。これまで毎日、撮影後は撮影済みのフィルムをソルトレイクに持って行き、次の日もまた新しく撮影したフィルムを持っていって、前日にラボに入れた現像済みフィルムを持って帰ってくるという往復6時間に及ぶ運転を殆ど毎日繰り返した甲斐があったというものである。木村さんと別れて部屋に戻った後、ジョンは「とっち、俺は木村さんをソルトレイク空港で見送ったらロンドンに戻ろうと思うが、後は大丈夫か?」と聞いたので「もう撮影も山場を越したようだし、後は心配ないと思うよ」と答えた。次の日の朝早く木村さんを送っていった後、ジョンは夕方に一旦ホテルに戻ると荷物を片づけた。そして、ジェリーがジョンを空港まで送っていった。<最終回へ>
2003年12月11日
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気を取り直し、森林警備隊の人と話した結果を木村さんに話すと、それではとりあえず行ってみようということになり、一本道の入り口に近い所から入った。対岸の山の近くが非常に危険らしいので、なるべく一本道と山の真ん中を走り続け、入り口からかなり入った所で車を止めた。ここでしばらく撮影をしていたのだが、急に辺りが暗くなり、強い風も吹き出した。なんだか異常な雰囲気に囲まれた我々は、落雷の音がしたのでその方向を見ると不思議な光景を見た。空は晴れているのだが、我々が来た方向約500mの上空10m程の所に黒い雲が発生していて、なんとその雲が放電しながらゆっくりと向かって来るではないか!キングギドラでも登場してきそうなその風景は、我らを退散させるのに十分だった。ますます風が強くなり、全員車に乗り込んだのだがカメラマンの別所さんがいない!外を見ると彼はまだカメラを抱えて何か撮っている。木村さんがたまりかねて「おい、行くぞ!」と声をかけたので、別所さんはようやく車の方に走ってきた。急いで、強風の中を雲の来る方向に走り出しながら、車に落雷しても大丈夫でありますようにと祈りながら運転していたが、何とか落雷はまぬがれた。無事に一本道に出た我々は、撮影車とトレーラーとトレーラーハウスをホテルに帰し、まだロケハンに行っていないウェンドーバーの南方に向かう。ウエンドーバーを出てしばらく走ると、田舎道に差し掛かる。左折してさらに走ると、気が遠くなるような広大な平地に出た。田舎道とはいってもちゃんと舗装されていて運転に支障はなかったのだが、不気味なことに気がついた。この田舎道は広大な平地を抜けて一本走っているのだが、所々に鹿注意やら速度制限の標識が立っている。鉄でできたこの標識に、ここに銃弾の跡が沢山残っているのだ・・・誰がどういう理由で発砲していたのかはわからないが、標識を標的にして発砲したことは明らかだ。真夏なのに、肌寒い感覚が走ったのを覚えている。さらに車を走らせる。周りは対向車も後続車もないまま、一時間も走っただろうかというところで、道の左側に家が見えてきた。家の方に車を進めると、突然、右側に撮影に適した広場が現われたので車を乗り入れた。そこは月のクレーターの一つのように直径300mほどに丸く淵が盛り上がった広場になっていて、その中はカメの甲羅のような亀裂が走っている。「これだ!」と思った。この地域はあの雨の影響は少ししか受けていないらしく、地表はからからに渇いている。まさに探していた場所であった。すでに日も暮れかけていたので、明日はここで撮影をしようということになるが、誰かが「あの家の住人の土地だろうから、家の人に許可を交渉してくれ」と言ったが、後でホテルから連絡することにして、今、交渉をすることはきっぱりと断った。彼らは「何で今できないの?」と私に聞いてきたので、車で7-8人もの東洋人が家の敷地内に入ったら、住人は怖がって銃を発砲しかねないと言ったら引き下がった。ホテルに向かう途中で、野良犬が一匹歩いているのを見かけた。後ろから別の車でついてきていたジョンに後で聞くと、あれは野良犬ではなくコヨーテだったらしい。それにしても、何もないあのような広大な土地にぽつりと一匹のコヨーテが歩いている姿はまさに野生の厳しさを現していた。ホテルに戻る途中で思ったのだが、我々が走っていたネバダ州は映画の「未知との遭遇」で有名な所だった。確かに、暗くなった空にぽつんと一筋の光が見えてきてもおかしくない所ではあった。ウェンドーバーの町に近づいてくると、遠くに見える町はホテルとカジノのネオンサインがピンクの光で包まれていて、宇宙ステーションさながらの光景だったのが印象に強く残っている。翌朝、私は撮影の出発時間の前にポリスステーションに行って昨日のスピード違反の料金を払ってしまおうと思い、万が一の為にジェリーに一緒に来てもらった。警察署の中に入るとまず受付のカウンターがあり、その後ろには廊下が長く伸びていてその両側には鉄格子の留置場が見えた。私はカウンターの所にいた女性に近づいていって、スピード違反の料金を払いに来たと伝えると「それではとりあえず免許証を拝見」といわれたのでイギリスの免許証を提出すると、吃驚したように私を見て、「あなたの住所はWarwick Gardens(ウォーウィックガーデンズ)と書いてあるけれど、本当の読み方はウォーリックと読むのよね!」と話し掛けた。「なつかしいわ!こんなアメリカの田舎で、故郷のそれも良く知っている道の名前を見るとは思わなかったわ!」彼女は興奮気味に少し早口で話しはじめた。驚いたことに、彼女はイギリス人だったのだ。何年か前にここに移り住み、現在の仕事に就いたらしい。ジェリーもこの偶然に驚き、2人とも前にも増して早口で話し始める。こうなると手におえないので、しばらくそのまま彼らを話させておいた。結局、この類い稀なる偶然もスピード違反の料金がちゃらになる助けにはまったくならず、全額130ドル程を小切手で支払った。我々は名残り惜しそうな彼女を後にしてポリスステーションを出た。(名残惜しそうに惜しそうにしなくていいから、罰金負けてくれよ・・・)<まだ続くんかい>
2003年12月10日
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我々は撮影をしている所を見ながら、今回の大雨のことや、車が沈んでいる危険地帯の話などを話しはじめると、木村さんがロケハンに行った場所を詳しく聞き始めたので、ソルトレイクの湖の周りや対岸の山道、そしてソルトレイクの街の南方などに行った話などをした。すると、彼は突然、あの対岸の山の後ろには行ったのかと聞いたので、まだ行っていないというとこれから行ってみようと言い出した。彼は、撮影が終わったカメラマンを助手席にそしてジョンと私を後部席に乗せ、自分が運転するからとジョンから車の鍵を取って運転席に座ると、猛烈な勢いで車を発進させた。車は一本道で加速したまま、田舎のでこぼこ道を猛烈な勢いで走り、その先の曲がりくねった道を急ブレーキをかけながら進んでいった。彼は道の横に大きな広場を見つけ中に入っていこうとしたのだが、入り口に大きなでこぼこがあったので車は大きくバウンドをして一瞬宙に浮いた後、砂埃を撒き散らしながら着地してストップした。そして彼は後ろに座っている我々を見てにやっと笑ったのだが、ジョンは私に聞こえるぐらいの小声で「彼はきちがいだ!」と呟いた。私が思うに彼は多分ラリーのドライバーを経験したことがあるので、運転には自信があったらしく、それをジョンに自慢したかったように見えたのだが、まだ見たことのない道をあのような無謀な運転をするのはいくら自信があってもやり過ぎだと思った。その一部始終を助手席に乗って見ていたカメラマンの別所さんは、一言も口を開かなかった。木村さんはそちらの方向は何もないと睨んだらしく、今度はゆっくりと運転して先ほど撮影していた場所に戻り、帰る支度ができた他の連中と合流してホテルに戻った。今日は違うホテルのレストランにいこうということになり、ミニバスで2-3間先のホテルに行く。中に入ると我々の泊まっているホテルよりも大きなフロアに、大規模なカジノが設営されていた。カジノを通って奥に入ると、そこにはセルフサービスの食べ放題のレストランがあり、今夜はここで食事をすることになった。ここには食事の種類によってコーナーが設けられており、ローストのコーナーにはビーフ、ポーク、チキン、ラムなどあらゆるローストがある。サラダのコーナーにはトマト、キューリ、レタス、ウォータークレスト(カイワレのようなもの)、スライスオニオンなどにドレッシングが7-8種類ほど大きなかめに入っている。デザートのコーナーにはフルーツや4-5種類の大きなケーキが置いてあり、ドリンクのコーナーはアルコール以外のソフトドリンクそしてコーヒーや紅茶もあった。米英勢が喜んだのは言うまでもない、デイヴなどはメインを3回お代わりしてからデザートを大きな皿に大盛りで取ってくる始末、これだからあの最初の日に見たような超大きな人間ができるはずだと思った。食事の間、ジョンと私と木村さんで話をした結果、森林警備隊に連絡を取り、あの一本道の左側に入るのは可能かどうか、そして危険な所をもう一度確認を取ることにした。翌日、私はホテルに残って森林警備隊の人に電話で確認を取ったのだが、あの土地はあまり奥に入らなければトラックで入っても大丈夫という確認が取れた。急いで四輪駆動を運転して撮影現場に向かったのだが、気が焦っていた私は町中で制限時速30kmを軽く破るスピードで走っていたのだが、運悪く丁度道が上り坂になっている頂点の所で反対側から来たパトカーとすれ違ってしまった。しまったと思ってときは遅かった。パトカーはUターンしてきて私を止め、免許証を提示させられた。何とか免除して欲しいとポリスに頼んだのだが、彼は一向に耳を貸さずに書き上げた書類を渡して、3日以内にポリスステーションまで罰金を払いに来るように伝えて行ってしまった。撮影現場に着いた私は、この一件をジョンに話した所「そうか。それはしょうがないな。実は俺も昨日その車でスピード違反で捕まり、何とか言い訳して見逃してもらったんだ!」といって決まり悪そうに笑った。道理であのポリスが私に有無を言わせずに、違反のチケットを切ったはずである。私とジョンは同じ車で昨日と今日連続してスピード違反をしていた訳だったのだ。<まだ続く>
2003年12月09日
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我々はとにかくレストランに連れて行って食事をさせ、今までの経過を説明した。食事をして人心地がついたせいか、コリンは顔色も戻ってきていつもの明るい笑顔が出るようになった。その夜もふけた頃、ジョンはホテルに呼ばれてレセプションに行き、戻ってくると、撮影車を運んでくる運転手から連絡が入り、もうすぐそこまで来ているという。我々が迎えに外に出ると、既にトレーラーはホテルの敷地内に入り、こちらの方に向かって来た。大きなヘッドライト一灯、頭上に点けたトレーラーは、ネバダ州の中をUFOがこちらに向かってくるような錯覚を起こさせる風情でやってくる。トレーラーの運転手のマーク(当時推定年齢30前後)は、当時メカニックでもあり、俳優志望でもある。風貌は、ジム・キャリーにとてもよく似ていた。似ているからなのかそれともわざとそうしているのか解らないが、彼の話はとても面白いし、役者やアメリカの各土地のおじさんの真似等を演技させると巧かった。彼は撮影の合間でも、ジョン・ウェインや典型的な田舎のおじさんが唾を吐きながらしゃべる所など面白おかしく説明していた。レストランでマークに食事をさせた後、次の日の予定とそれぞれの役割を説明してそれぞれの部屋に戻った。次の朝はからっとした晴天だったので、食事をした後、カメラマンがボナビルの一本道に行って撮影したいと提案しはじめた。一応ジェリーに、森林警備隊の警備員に連絡をして撮影の許可が大丈夫か確認するよう頼み、私は出発前のミニバスの点検のためにみんなより一足先に駐車場に向かう。ホテルの入り口を出た私は、玄関のポーチづたいに駐車場に向かうと前からなんか恐そうな身長185cm程の黒人のお兄さんがやってくる。周りをすばやく見回したが、朝まだ早いので誰も表に出ていない。彼のいでたちは、坊主に真っ黒なサングラス、耳にはイヤリング、黒のTシャツそして皮のズボンに皮の短めのジャケット。服の周りはチェーンがいたるところから垂れ下がっている。そして最後に金属の尖った破片が出ている皮のブーツだ。私はなるべく顔を合わせないようにして、そして彼を避けているようには取られないようにして通り過ぎようとしたその瞬間、彼は私を見ずに顔をまっすぐ前に向けたまま「HOW ARE YOU DOING!(どうだい?)」と言った。全然そんな挨拶を期待していなかった私は、思わず道の端に上半身を傾けながら「I・・・ I’m fine thanks!(あ・・・あ、おれ元気。ありがと。)」などときょうび中学校一年生の英語の教科書にも載っていないような挨拶をした。何のことはない、彼は普通の通り掛かりの感じの良いお兄さんだった。私は気を取り直してミニバスの所まで行き、ガソリンやタイヤの様子を点検してから車に乗り込み、エンジンをかけて撮影隊がくるのを待った。撮影機材を車に乗せ準備ができると、トレーラーのマーク、撮影機材車のトラックを運転しているデイヴ、そしてトレーラーハウスを運転しているジェリーに合図をする。いつも思うのだが、大型車が4台で連なって走る時は余程気を付けないと危険である。私はそれまでに、国道に出ないでウエンドーバーの街中を通ってボナビルに行く道を見つけておいたのでそちらの方を通っていくのだが、ウエンドーバーの町中は最高時速30kmの制限がある。車を運転する人なら想像できるだろうが、あのアメリカの広い道路でいくら町中とはいえ時速30kmはとんでもないのろのろのスピードである。ましてや大型の車が3台、ミニバスにそのスピードでついていく姿はちょっと異様な光景であった。ようやく町を抜け、スピードを上げてボナビルにつくと、あの一本道の中ほどで車を片側に止めて外に出る。別所さんが撮影の準備に取り掛かるために撮影車をトレーラーから出して、他の全ての車をカメラのフレームから外に出すようにバックさせる。バックさせた車はジェリーとコリンに見ていてもらい、同時に撮影の時の交通整理も頼む。ジェリーから、撮影の許可は森林警備隊からおりていることを確かめた後で撮影車の所に向かった。マークの所に行くと彼は、既に同じ車の右ハンドルと左ハンドルの2台を外に出して用意していた。一本道の撮影は順調に進み始める。昼食には、かねてホテルに頼んで用意してもらったサンドイッチ。同じ場所で右使用車と左使用車のバリエーションを撮りながら場所を移動していた。そうしているうちに午後3時過ぎにジョンが木村さんを連れて戻ってきたのだが、心なしかジョンが緊張して見えた。木村さんが一通り撮影隊の人たちと話した後、今度はジョンが彼を我々に紹介した。木村さんに対する印象として、大柄で一見穏やかに見えるが、結構鋭い目をしているのが少々気になった。<続く>
2003年12月08日
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ホテルにはデイヴも到着しており、お互い紹介をしてから一旦部屋に戻り、夕食時にレストランに集合する事になった。撮影のグループがそれぞれの部屋に入ると、食事の時間までは自由時間なので、我々は前から気になっていたカジノを見物する事にした。まずはスロットマシーンの前にくると、ジョンがそれぞれにコインをくれたのでそれぞれによさそうな台を探してコインを入れる。この辺はパチンコの台を探すのと変りはないなあ~と思いながらコインを入れる。何のことはない、あっという間に5ドルすってしまった。ジェリーがやってきて笑いながら私に「とっちはこのスロットマシーンの別名を知っているか?」と聞く。「別名?特に知らないけど?」と答えると「この機械は別名ONE ARM BANDIT(片腕の盗賊)と言うんだ!」と笑いながら答えた。なるほど!巧いことをいうなと感心した私は再びその盗賊に立ち向かう。今回は少しコインが出て、たちまち20ドル程のコインが出た。私はそのコインを持って、今度はコンピューター画面のポーカーに挑戦したのだが、これが意外にうまく事が運び、約100ドルほど稼ぎ出した。知らないということは恐ろしいなと思いながら更に続けていると、ジョンとジェリーが一旦部屋に戻ると言いにきたが、私の勝っているのを見てびっくり。「そのまま勝ち続けて、この仕事からおさらばしようぜ!」などと勝手なことを言って部屋に戻っていった。彼らがいなくなった直後から、なぜか途端に調子が悪くなってしまった私はあっという間に儲けた100ドルをすってしまい、ギャンブルにおける感情の極端な上がり下がりに怖さを感じながら部屋に戻った。ジョンは私の顔色から全てを悟ったように「ギャンブルは恐いものだろう」と呟いた。ミーティングの時間が近くなってきたので、レストランに行こうと階下に降りると、みんなすでにレストランの入り口の所に集まっていたので中に入る。時間が早いのかとても空いていた。適当な場所を選んで座るとウエイターがメニューを持ってやってきた。メニューに目を通すとそれに書かれている殆どのものが、3ドルから高くても6ドルぐらいだ。撮影隊の人たちが口々に「安いね~!なんでこんなに安いの?」と聞いてきたのでジョンに聞くと、カジノの儲けは殆どがギャンブルからくるので、その分食事とホテル代は安くしてあるということだった。ちなみにこの時のホテル代は一泊40ドル以下だった。食事を注文した後、我々はミーティングを始めた。今回のロケ地で、なんとか撮影のできる所が数箇所あったので多少は安心したが、まだ地面に亀裂の入っている場所が見つかっていないので少々心配していると彼らは言う。この田中さんの報告を聞いて日本にいる彼の上司の木村氏が、急遽今回の撮影に加わるためにこちらに向かって明日到着することになったらしい。当然こちらから迎えを出さなければならないので、明日の朝はまず撮影場所を探すロケハン組が8時に出発。ジョンは木村さんを迎えにソルトレイク空港までいき、こちらに戻ってきたら連絡を取り合うということでその日のミーティングを終了した。レストランを出るとジョンは、そろそろコリンが着いている頃だといってホテルのレセプションの所までいくと、既にチェックインを済ませたコリンが青ざめた顔でソファに座っていた。我々が近づいてきたのも解らないほどボーッとしていたコリンは、ジョンに肩を叩かれて気がついたのだが、やはり笑う気力も残っていなさそうだ。ジョンが「どうした?気分でも悪いのか?」と聞くと、コリンはその時のことを思い出すように「シカゴ空港に着く直前に飛行機が揺れたんだ!そしてシカゴで国内線に乗り換えたんだが、ソルトレイクに着く前にも揺れた。俺は生きた心地がしなかった」と答えた。前にも書いたのだが、彼は飛行機が大の苦手である。私とジョンが乗った飛行機もソルトレイクの手前で非常に揺れたのである。同じ飛行機に乗っていた周りの人たちの反応を見る限りでは、これは日常茶飯事の出来事らしく、多分この辺りは山が多いので気流の変化が激しいのだと思った。それにしても、日頃コリンは、ピストルを突き付けられてもびくともしないほど腹の座った人なのだが、この時の彼は予想もしなかったもっとも苦手な出来事に出会ったためにチワワのように震えていたのであった。<続く>
2003年12月07日
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電話の内容はジョンにロンドンでの次の仕事が入ったとのことだった。ジョンの代わりにロンドンからコリンを送るので、撮影終了の2-3日前にはジョンをロンドンに戻して欲しいと現場責任者の私に伝えてきたのだった。コリンは、何年も一緒に仕事をしている人間で、私にとっても彼はジョンと同じぐらい気のおけない人物だったので、私にとって断る理由は何もなかった。ただ一つ気になることがあった。コリンは飛行機が大嫌いなのだ・・・飛行機に乗ると考えただけで冷や汗がどっと出てくるほど大嫌いなのだ・・・その夜、ジョンと私は、撮影隊が到着する前に今回の大雨のことやボナビルの危険性のこと、そして今現在、車の撮影に使える確実な場所が見つかっていないことなどを、どのようにして撮影隊に伝えたら良いかを話し合った。翌朝、この日からボナビルの近くのウエンドーバーのホテルに移るので、それまでのホテルをチェックアウトしてソルトレイクの空港に向かった。待合ロビーで待っていると、ジュラルミンのケースを積んだカートを押しながら出てくる撮影隊一行の姿が目に留まる。ジョンは彼らの方に近寄って行って挨拶し、ジェリーと私を紹介した。今回の撮影できた人たちは(以下すべて仮名)、広告代理店のデザイナーの田中さん・・・彼は元F3のドライバーも経験しているデザイナー、そして車専門のカメラマンである別所さんとカメラアシスタントである福島さん、そしてこの撮影で撮影車の世話をしてくれるメカニックの佐藤さんの4人である。挨拶も終わり車に荷物を積んで乗り込み、ウエンドーバーに向け出発した。途中の車の中で我々が今までの経緯を話し始めると、真っ先に田中さんが「それはだめだよ!僕たちはあのソルトフラットに車をのせて撮影するという条件で、この仕事をH社から貰ったんだから絶対に撮影できないと困る」と言い出した。別所さんは「まあ、今そんなことを言っても始まらないじゃないですか。とにかく撮影場所に行ってみて、それから何ができるか検討してみましょう。撮影の方法によってはかなり近いものも取れるかもしれないし、とにかく現場を見てから何ができるか相談しましょう!」と言ってくれた。色々と話をしているうちにウエンドーバーのホテルに到着した我々は、それぞれの部屋にチェックインしてからボナビルに向かう。ボナビルの一本道の所までくると、撮影隊の人たちはみんなミニバスの窓から乗り出すようにして外を見ている。「すごいところだね~!」とカメラマンが呟いた。田中さんは「でも水があんなにあったら車を塩の上に乗せられないし、塩が割れて撮影車が沈んでしまったらクライアントに合わせる顔がないですよ~」と言った。別所さんは「まあ撮影の角度を変えれば、車が塩の上に乗っているように見せること可能ですから・・・とりあえず降りてみようか」と言って車を止めさせる。カメラマンの別所さんは、田中さんよりも年が一回りほど上なので、年の功なのかなかなか落ち着いた発言をする。車を降りた別所さんたちは、道のあちこちと場所を変えては角度を見ながら色々と話をしていたが、突然、車を道の真ん中に動かして欲しいと言い出した。私はジョンにその旨を伝え、ジェリーと道の両側に立って、もしも猛スピードで走ってくる車がいたら徐行してもらうように見張って欲しいと伝えると車に乗り込み、ゆっくりと道の真ん中に動かした。別所さんは、私に、もうちょっと前・・・ちょっと左に切って・・・そのまま少しバック等と指示を出して、ちょうど良い所で車を止め、ポラロイド写真を撮った。それが終わると車に乗り込み、終点まで行ってみると、そこはなんと前よりも水嵩が増していて、この前のように行ってみようと言う気さえ起こさせないほどになっている。別所さんはここでも何枚かポラロイドを撮り、その後、岩塩の硬さを見たりしてからホテルに戻った。<続く>
2003年12月06日
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満腹の我々は食堂を出てさらに走る。右の方にソルトレイクが見え始めた。ここは、とにかく気の遠くなるぐらい真っ直ぐの田舎道であった。一休みしようと車を路肩に寄せて外に出てみると、かなたに湖がもう暗くなりかけた夕日に照らされていた。たった今、走ってきた道を振り替えると、遥かかなたに2-3台の車がヘッドライトを点けて走ってくるのが見える。なかなか我々の所までやって来ないので、余程のろのろと走っているのだと思っていたのだが、近くまできたかと思うと猛スピードで駆け抜けていった。あれだけのスピードでここまでくるのに、ああも時間が掛かるとは、私は今度はアメリカの距離感という物の違いに驚かされた。我々が唖然として車の過ぎ去った方向を見ていると、通りかかった別の車が止まり運転していた人が「あんたら大丈夫か?車がどうかしたのか?」と声をかけてくれた。ジェリーはその運転手に我々はここでただ休んでいるだけだと伝え、声をかけてくれたことにお礼を言うと、その運転手は手を振っていってしまった。私が「親切だなあ」というとジェリーは「こういう所では、あのような助け合いはとても大切なんだ。本当にこんな所で車が壊れたら、命にかかわるからな」といった。もっともだと思う。この後は特別変わったこともなく、これといって撮影の候補地になるような所もなく、湖を一周してホテルに戻ったら午前2時を過ぎていた。考えてみれば、朝7時にここを出てからボナビルで時間を取った時と食事の時以外はずっと運転し続けていたわけであるから、それだけでもこのソルトレイクという湖がいかに大きいかご想像いただけるかと思う。その後色々と検討してみながら撮影候補地を探してみたのだが、ボナビルに匹敵するような所は見つからないまま、撮影隊が日本からやってくる前日になってしまった。この日は、アリゾナからデイヴというアメリカ人の助っ人がくることになっていた。デイヴは、前にジョンがアメリカで仕事をした時に雇ったビデオエンジニアなのだが、彼とジョンは非常にウマが合ったらしく、この仕事の事で誘うとすぐOK!だったらしい。今回の仕事はアメリカの自然の中で撮影するということで、ワイルドライフのカメラマンも経験している彼が来てくれるのは大変心強かった。デイヴは身長180cm以上は優にあり、少々お腹は出ているが、レイバンのサングラスを常にかけている。彼に制服を着せたらSWATのチームに入れるような凄みがあるのだが、笑い顔は普通のおっさん。優しそうだ。彼は今回撮影の機材と、上から撮影者を撮るためのやぐらを組む木材を運ぶトラックの担当をしてくれることになっている。明朝は撮影隊が現地入りすることもあって、簡単に打ち合わせをして部屋に戻るとそこにロンドンの事務所から電話が入った。最初ジョンが話していたが、彼の顔が急に曇ったのを私は見逃さなかった。ジョンは電話で「わかった!今、とっちに変わるから!」といって私に受話器を差し出した。<続く>
2003年12月05日
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我々は沈んだ車の一輪の具合を見てみたが、幸いにも岩塩はかなり厚く、残りの三輪の内、一輪は中に浮いているのだが、二輪はしっかりと岩塩を踏んでいた。ジョンが割れた岩塩の下の粘土を触ってみると、確かにさらさらで、水の中で降ってみると粉のように散ってしまった。我々は急いで一番近い対岸に走って、板切れを拾い車輪の下に入れて梃子にして、車をバックで岩塩から車輪を抜き出そうということになったのだが、3人ともなかなか近くの岸にたどり着けない。一つは、水が膝下まであるため、走ろうと思っても水圧でなかなか前に進まない。もう一つは水の中なのでみんな靴を脱いで裸足で走ろうとするが、塩の結晶は水の中で硬く尖っているので、とても痛くて早く走れないのだ。それでも、ようやく岸に辿り着いた我らは、幸いにもたくさんの板切れを見つける事ができ、ジョンとジェリーはアウ!とかオウ!と叫び、私はいてっ!いててっ!などと叫びながら車の所まで戻り、タイヤの下に板切れを入れて車をバックに入れる。あまり何回もやると危険なので1-2回で出そうということになり、ジョンが運転してジェリーと私が押す役にまわった。最初の一回はタイヤが泥で滑り、うまくいかなかったが、二回目でジェリーが板切れの梃子を押さえながら、車を押し出した。すごい力である!私はただのお飾りであった。車を岩塩から出すことに見事に成功した我々はソルトフラットに行くのを諦め、もと来た道を戻りながら、疲れと諦めで沈黙していた。無事一本道の所に辿り着いた我々は、車を飛ばして近くのガレージに行き、ジェットシャワーを借りて車のそこここについている塩水を洗い流した。こうしておかないと濃度の強い塩水に漬かった部分はすぐ錆びて駄目になってしまうからである。洗車をした後、ホテルに戻ってお茶を飲みながら話し合った。苦渋の末に出した結果は、ソルトフラットでの撮影は不可能だという話になった。今日、四輪駆動でもあのようなトラブルにあったし、まず、あの撮影車をトレイラ-が運べないという結論に達した。こうなると、撮影隊がくる前に別な撮影候補地をいくつか探さなければならない。まだ午前中なので、とにかくソルトレイクの湖の周りを走ってみようという事になった。この湖はかなり大きい。ソルトレイクの街からここまで車で約三時間だが、これは湖のただの一辺に過ぎない。まあ、とりあえず出発することにした。ホテルを出て、国道をソルトレイクの方向と反対に走り出す。国道の右側には大きな富士山の形に良く似た山が現れる。運転をしていない私はしばらくその山をボーッと見ていた。すると、周りが急に暗くなり、雨が降りはじめたかと思うと、いきなり大粒の雨になり、その上暴風・・・遠くには小さな竜巻と雷が見える!まるでパニック映画のすべてのシーンを全て盛り込んだようなこの景色を見て、改めて自然の雄大さを感じずにはいられなかった。しばらく走ると、先ほどの雨風はぴたりと止み、太陽が雲間から覗いたかと思うとみるみる快晴になっていった。「なんていう所だ・・・」我々は、ただ一瞬の天候の変化に巻き込まれただけだったのである。ジョンとジェリーも驚いた様子で、興奮しながら先ほどの光景を早口で捲し立てていた。さらに走ると右折する道があったので入ってみると、まさにアメリカの田舎道で幌馬車がすれ違っても驚かない景色が飛び出す。いくつかの村を通り過ぎたあたりで、次第にお腹が空いてきたので適当な食堂を見つけてメシにしようかということになった。我々が車を止めたのは田舎道沿いにある村で、道の片側に木造の家が10件ほど見える。いかにも西部劇に出てきそうな所である。家の並ぶ道の反対側は細い電柱が均等に並んでいて、その間を細い電線が2本平行につながっている。並んでいる家の一つに食堂の看板が掛かっているので中に入ってみると、木造のカウンターとテーブルが3-4台そして古ぼけたピンボールの機械が一台置いてあった。我々はそれぞれカウンターに座り、メニューをもらった。3人ともここはやはりステーキだろうということになり、メニューにある大、中、小とかいてあるステーキを見て、私は小を頼み、ジョンは中、ジェリーは大を頼んだ。最初に運ばれてきた私が頼んだ小のステーキを見て、みんなまずびっくりした。大きさが尋常ではない。私は「皿からはみ出るほどの小ステーキ」を初めて見たのだが、これが小だというなら、ジェリーの頼んだ大はどんな物か俄然興味が湧いてくる。次に運ばれてきたジョンの中はこれまた皿から余裕たっぷりにはみ出しているが、これ以上大きなステーキは皿にのらないと思っていたら、なんのことはない。ジェリーの大は、皿も特大であった。ジェリーが喜んだのは言うまでもない。続く
2003年12月04日
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翌日、我々は早めの朝食を取り、すぐホテルを出た。車を飛ばして3時間後、我々はあの一本道の行き止まりに立って、地図を見ながらルートを確かめていた。残念ながら、ここからはソルトフラットは見えない。ジェリーは突然、靴を脱ぎながら「ちょっと水の深さを見てみる!」といって靴下を脱いで水の中に入っていった。アメリカの夏はからっとしているがとても暑い。そんな訳で我々はみんな半ズボンにTシャツそしてサングラスといったいでたちで歩いているので、こういう時にはとても便利である。ジェリーが水に入るのを見て、周りにいた観光で来ていた子供たちもジェリーが遊んでいると思ってついていく。彼は子供たちに「俺は遊んでいるんじゃない!仕事でやっているんだ!」と言っても子供たちは訳も分からず、はしゃいでいた。ジェリーは一番水の深い所までいったのだが、水は彼の膝下ぐらいまでしかなかった。彼は水から出て我々の所に戻ってくると、今まで水に浸かっていた部分を見せたのだが、膝から下は塩で真っ白だった。4輪駆動は車高が高いので、水面の高さは何とかクリヤーできそうだ。行ってみる決心がついた。車に乗り込み、エンジンをかけて少しずつ水の中に入っていくと表面の塩は見た目よりも固くて厚いらしく、車の重さにはびくともしなかった。最初はおそるおそる運転をしていたジョンは、少し安心したようで徐々に蛇行運転に変っていった。塩の上に溜まっている澄んだ水は、その時のそよ風と車の蛇行によって小さな波が立つのだが、これを見ていると目の錯覚を起こして、車がまっすぐに走っているにもかかわらず、なぜか右の方に流されているような気がするのだ。運転しているジョンも、あの警備隊の女性に教えてもらったルートから外れないようにするのが困難なようであった。出発地点からかなり遠くまでやってきた頃、段々慣れてきた我々はソルトフラットが近くなってきた事もあり、興奮してしゃべりまくっていた。と、突然何かが割れる音がして車がガクッと傾いた。車の中は一瞬静まり返った。私の頭の中には、あの警備隊員の言葉「あのあたりには車が3台沈んでいるのよ!」という声がエコーした。3人とも急いで、しかし、なるべく車に振動を与えないように外に出て車を振り返った。車のタイヤの一つが割れた岩塩の中に挟まれて傾いている。なんとも異様な風景であった。真っ青な、雲一つない空に、雪のように真っ白な岩塩のカーペット、そして真っ青な色の傾いた四輪駆動車!不謹慎なようだが、これがいかにも絵になっている。思わずジョンに「持っているカメラで写しておいたら?」と言ったら「こんな時に何を言っているんだ!車が沈むかもしれないんだぞ!」と怒られた。
2003年12月03日
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翌朝、ジョンと私はスチールのラボ(現像所)と撮影に使う機材(反射板やストロボ・真上から撮影する為に使うタワーなど)の手配に、そしてジェリーはトレーラーハウスの手配のため、二手に分かれて午後にホテルに戻り、森林警備隊の事務所に行く打ち合わせをして別れた。ソルトレイクの中心街は、モルモン教の本部である教会が中心にあり、中心のビル街などはまだ新しく第一印象はとても奇麗な整った街だった。店の人もとても優しくて、ロンドンの不愛想さと比べると雲泥の差であるが、人間のキャラクターという意味ではちと面白味にかけるような気がした。これも宗教の影響なのかは解らないが、大きな街にしては乞食が一人もいない!全体にクリーンなイメージの街であった。その中で一つ気になった事。ラボの帰りに街中にガンショップがあったのでジョンと冷やかしで入ると、店の中には、軍隊の武器庫のように所せましとおもちゃではない本物の武器が並べてあり、本物の武器というものをみたことのない私にとってはとても異様な雰囲気に映った。ジョンは店の人としばらく話してから私の所に戻ってきて、車のライセンスとお金があれば、この店にあるどの武器も買う事ができるらしいと教えてくれた。それを聞きながら私は、モルモン教はこの事をどう考えているのか?という素朴な疑問が脳裏をよぎったのを覚えている。一通りの仕事を終えてホテルに戻り、ジェリーとジョンと私は森林警備隊の事務所に向かった。事務所で迎えてくれた森林警備隊員は背の高い知的な女性で、まず我々の撮影の話を聞くと、この国立公園の内容を話してくれた。あのボナビルという地域はとても危険な所で、あの地域の土質は変った粘土質をしているとのこと。通常の粘土質は水を含むと硬くなるのだが、ボナビルの粘土質は水を含むとさらさらに散ってしまうらしい。そのためにあのボナビルの一本道の左側の土地は、場所によっては大変危険な区域となっており、現在も3台の車が土の下に沈んでいて、未だに底が確認されずに(!)沈み続けているそうである。いわゆる底無し粘土地なのだという事を聞いて、一瞬顔を見合わる我ら3人。さらに彼女は悪いニュースを教えてくれる。普段、このあたりは雨が殆ど降らないために、土地には写真で見るようにカメの甲羅のような亀裂が走っているのだが、この夏は50年に一度あるかないかの雨に見舞われているとのことであった。我々は彼女に地図でソルトフラットの位置を確認して、どうしたらそこにいけるのか聞いてみる。彼女曰く、通常はあの一本道の終点から道があり、その道を伝ってソルトフラットに行けるらしい。しかし、この雨で水嵩が増しているので難しいが、その前の週にも彼女は4輪駆動の車で行ってきたので、まだ行くことは可能だろうと言う。我々は彼女にその行き方を詳しく聞いた後、お礼を言って事務所を出たが、しばらくは無言で運転していた。ジョンは「50年に一度あるかないかだってさ!」とぽつりと呟いた。このまま考えているだけでは埒があかないので、とりあえず明日、教わったルートでソルトフラットに行ってみようということになった。
2003年12月02日
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さらに走って我々は、ウエンドーバーに着いた。ここは、前にも書いたようにカジノの町であり、カジノで生計を立てている町らしい。町のなかにはラスベガスの(私はまだ行ったことがないのだが)小規模のホテル(といってもかなり大きい)が7~8件あり、町全体は小さなラスベガスといった所である。予約を入れてあるホテルに着いて中に入ると、そこは一台娯楽施設でスロットマシーン、ルーレットテーブル、カードゲームテーブルそして何やらわからないギャンブルの機械が、広くて大きなホールに並べてあった。まだ早い時間なので比較的空いていたのだが、その中でギャンブルに勤しんでいた人たちの中には、体の大きなというか・・・・・・率直にいうと太っているアメリカ人が非常に多いのには驚いた。今でも忘れないのは、スロットマシーンの前にスツールを2台置いて座っていた女性なのだが、彼女のお尻は2台のスツールに収まりきれずに、たぶん3分の1くらいはハミ出していたように覚えている。ここに来るまでに私は何度も大きなアメリカを体験していたのだが、ここでもその桁外れの大きさに驚かされた。カジノを突っ切ってホテルのレセプションに行き、予約が正確に入っている事を確かめた後で我々は撮影予定地であるボナビルソルトフラットに行ってみた。そこ迄は車で約20-30分、ホテルから一旦国道に戻り、すぐまたガソリンスタンドのある横道に入り、ガソリンスタンドの前の道を行くと、右側に1km程の真っ直ぐの道がある。この道の左側は、最初は草も生えていないとてつもなく広い荒野で、その荒野の反対側は山が連なっていてその奥の景色は遮られていた。さらに車で走ると、その土地はだんだんと真っ白な雪の結晶のようなもので覆われて行き、道の終点に着く頃にはあたりは真っ白な銀世界である。塩?私はこの信じられない光景を見て目を疑った。真夏なのに、一面銀世界のこの光景は私の目にはとても不思議な世界に写ったのだ。この道の終点はUターンが簡単にできるように、丸くロータリー状に作られていて広くなっていたので、我々はそこに車を止めて外に出てみた。道のすぐ間際まで一面真っ白の結晶の上には、一面に奇麗に澄んだ水が10-20cm程溜まっている。少々せりあがっている道から降りて水をなめてみる。とても塩の濃度が濃い水で非常にからかった。ジョンをふりかえると彼の顔が少々青ざめて見えたのでどうしたのか聞いてみると、この間ロケハンにきた時はこのあたりに水などなくてからからに乾いていたそうで、どこに車を置いても撮影はできたのだが、このように塩の上に水が貼っていたら、車を塩の上に置いて撮影は不可能だと心配していたのだった。この時私は、彼の言っている意味があまりよく飲み込めていなかったので、まだ撮影まで一週間近くあるのでそれまでには水も引くだろうし、それほど心配しなくても良いだろうと言っていたのだが、後になってこの事が撮影に重大な問題になってくるとは夢にも思ってはいなかった。一応下調べが済んだ我々は、撮影の準備の為に一路ソルトレイクのホテルに戻った。ホテルに着くと、ロンドンからジェリーが着いていて我々をロビーで待っていた。ジェリーは当年55歳。若い頃は軍人でならしたつわものであり、軍人を止めた後は長距離のトラックドライバーなどもやっていて、大型車の運転がめちゃくちゃうまい上に緊急の時の対応が非常に優れているし、加えて彼は50歳半ばとは思えないほどの体力がある。今回も仕事の間に、彼がホテルで水中バレーボールを他のチームとやっている所を見ていたのだが、周りの人はゼイゼイしながらゲームをしているのに彼はまったく息切れをしていない。頭は白髪なのだが筋肉は隆々、恐るべし55歳である。ジェリーは我々を見ると、嬉しそうに近づいてきてぐわしっと抱き合い、再開の喜びを分かち合った。その後、近くのレストランで食事をしながら仕事の内容やそれぞれの分担、そして今心配なボナビルの水はけの件を話し合った。ジェリーは、すでにボナビルの周辺の事についてかなり研究したらしく、話し合った結果そのあたりは国立公園になっているので、森林警備隊の人に相談してみるのが一番良いということになり、さっそく明日会ってみる事になった。
2003年12月01日
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アメリカで運転していていつも思う事なのだが、やはりとてつもなく広い!地図ではなんてことはない距離が、実際に運転してみるととても時間がかかるという事実に出くわす。今回も地図ではたいした距離ではなかったのだが、目的地まで片道正味3時間もかかった。とは言っても途中の景色はとても面白かったので、退屈はしなかった。このソルトレイクという湖は内陸にありながら非常に塩の濃度が濃く、その周りには塩の工場が沢山あり、敷地内には真っ白な塩が山のように積まれている。その光景に慣れていない私の目には真夏に雪が積もったような、なんとも奇妙な風景に映った。さらにしばらく運転して行くと景色は、あの未知との遭遇に出てくるような長い一本道の果てに荒々しい連峰が見え始めた。そうだ。我々の向かっているボナビルソルトフラットは、モルモン教で有名なUTAH州とUFO出現やアメリカの防衛軍の演習場で有名なNEVADA州の州境に存在しているのである。この州境の事情にはとても面白い状況が見られる。UTAH州はモルモン教の影響が強い為に酒類の持ち込み制限がとても厳しいらしく、州境には検問所が設けられていてNEVADA州から入ってくるトラックを取り調べる仕組みになっているらしいこと。もう一つは、UTAH州ではやはりモルモン教の関係でギャンブルが禁止されていることから、UTAH州の人たちの為に、州境を越えたNEVADA州側にウエンドーバーという小規模のラスベガスつまりギャンブルの町ができたらしいことだ。我々は今回の仕事で撮影場所に一番近い町であるこのウエンドーバーに泊って仕事をする事になっていた。ウエンドーバーに近づく連れ、走っている道路の周りの景色が、あのカメの甲羅のような亀裂の走った広い土地に変化しくきた。ジョンが頃合いの良い所で車をストップして外に出てみようといったので、私は車を路肩に寄せて止め、外に出る。ジョンはそのとてつもなく広い平地に走っていって、時折しゃがみ込んで地面をチェックしている。その光景は理由を知らない他の人が見ていたら、絶対に異様に映ったはずだ。しばらくして車の所に戻ってきた彼は、浮かない顔をしていた。理由を聞いてみると、彼はイギリスから日本にくる時に、ここに寄って撮影の下調べをしていたらしいのだが、その時はこんなに土地がぬかっていなかったと説明した。言われてみてからよく地面を見てみると、確かに亀裂はあるのだが雨の降った後のようにぬかっている。我々は少々不安になったのだが、まだ撮影までには5-6日あるのでそれまでには乾くだろうと気を取り直した。
2003年11月30日
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朝5:30に起きて成田に行き、大韓航空で一路ロサンジェルスへ出発。飛行機の中でジョンと仕事の打ち合わせをする。彼とは久しぶりに会った為にあっていない時の話でもちきりになり、仕事の内容は殆ど話していなかった。内容はH社の車のスチールの撮影で、アメリカのUTAH州のSALT LAKE CITYの近郊にあるボナビル・ソルト・フラットという、塩が固まってできた平地での撮影である。ここは、あの有名な世界最高速を競うスピードレースが行なわれる所らしい。長い間に塩が均等に蓄積した為に、凹凸のないスムーズな平地ができたらしいのだが、この世界最高速を争うスピードレースではロケットエンジンを取り付けた車が猛スピードで走るので、走路に小石が一つあっただけでも大変危険な事故につながるために、障害物がないこの平地が選ばれたらしい。この塩で作られた真っ白な平地に夏の澄み切った青空、そしてその中に一台の車・・・なんとも絵になる光景である。もう一つは、この周辺は降雨量が大変少ないために、地面にカメの甲羅のような亀裂が走っている所が多く、これも車の撮影には大変よい背景になる。このような理由からこの地域が今回の撮影場所に選ばれたらしい。車はロサンジェルスのロングビーチという所にある運送会社に届いているので、トレーラー(撮影の車を運ぶ運搬車)でそこから撮影場所まで運ぶ事になっているらしい。もう一つは撮影場所周辺にはトイレも水道も何もないので、ロケバスが欲しいという要望も出ているらしい。ロスの空港に着いた我々はまず空港で車を借りてホテルにチェックインし、それから予約を取っておいた撮影の車を運ぶトレーラーの会社に行き打ち合わせをした後、トレーラーを見せてもらう。最初トレーラーと聞いていた時は大きなトラックを想像していたのだが、意外にコンパクトなのに驚いた。これはF-1などのレース用の車を運ぶトレーラーで小回りも利き、便利だそうだ。我々はトレーラーの会社を出てから、リトルトーキョーに行って食事をした後、ホテルにもどった。翌日トレーラーの運転手とロングビーチの運送会社で落ち合い、撮影車をトレーラーに乗せた後で、運転手と撮影地での集合場所を詳しく決めて別れた。彼は撮影開始の前前日から夜通し運転して、撮影の前日現地に入るのだそうだ。我々は空港に戻り、車を返してから国内線でSALT LAKEまで飛んだ。今度はSALT LAKEの空港で車を借りて、一路撮影地に向けて出発した。<続く>
2003年11月28日
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少々調子に乗ってまた仕事の話をしてみたい。私が日本に2年間ほど帰省していた1990年頃の話だ。イギリスで取得した永住権は、イギリスを2年以上不在にしていると剥奪されてしまうので時々はイギリスに戻っていたのだが、もうそろそろロンドンに戻らないとイギリス入国時にイミグレで怪しまれたら面倒になると少々心配になってきた。ちょうどその頃、会社のほうから、日本を出発したら、先にアメリカでひと仕事してからイギリスに戻らないかという連絡が入った。私自身イギリスに住むようになってから、アメリカには数回行った事があるだけなのだが、やはりイギリスとは違って仕事がしやすいので結構気に入っていた。私は2つ返事でOKと答えたものの、一応ロンドンには戻るが、途中に仕事が控えているとなるとあまり余分なものを持っていけないのは計算違いだった。イギリスから仕事仲間のジョンが来て、ロス行きのチケットを買い、前日空港に行くのが早い為に上野にあるカプセルホテルに泊まった。私はカプセルホテルの事は前から聞いていたので興味はあったのだが、泊まった経験はない。入り口で各々のカプセルの鍵をもらい、中に入るとジョンはふんふん鼻歌交じりにカプセルを開けて寝床の準備をしているのだが、慣れている!私は直感的に思った。そこにある全てのものが初めての私にとって、彼の行動には使った事がある人間の慣れを感じた。日本ではいつも彼と一緒なので、彼が使うはずがないのだが・・・慣れているのだ。ジョンはイギリス人の中でも好奇心の固まりのような人である。多分私が実家に帰っている時に、試しに行ったのだと思われる。もちろん東京には寝泊まりする所はあるのだが、彼にとってはロンドンで日本のプログラムでこのカプセルホテルを見ていらい、一度試してみたくてうずうずしていたに違いない。道理で今回の出発が朝早い便と決まった時、当時渋谷に住んでいながら上野のカプセルホテルを提案した理由が判明した。<続く>
2003年11月27日
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スティングが到着してヘアーとメイクをした後で撮影が開始された。撮影は順調に進み、衣装を変えて色々なバリエーションを撮影する。と、ある時撮影の合間に突然スティングは私の所に歩いてくると、私の首に片腕を回して、スタジオの片隅みの方に連れて行きながら「ちょっと、とっちにお願いがあるんだけれど聞いてくれる?」と言い出した。私は「どんな事?」と聞くと。「今回持ってきているあのトランポリンの事なんだけれど」という彼の言葉ですべてが理解できた。今回の撮影でプロダクションに用意するようにいわれていたこのトランポリン、実はスティングがポリス時代にステージで飛び跳ねてステージに降りるというパフォーマンスに使用していたらしい。しかし、ここのスタジオの床はコンクリートなので、もし着地した時に捻挫でもされたら大変だと我々の事務所では懸念されていた。私は「わかりました」と彼に伝えてディレクターの所に歩いていき、「ちょっとスティングの事で、お話があるんですけれどよろしいですか?」と聞くと彼は快く「いいよ!どんな事?」と答えてくれた。「実は今回のトランポリンの撮影で、床がコンクリートなのでトランポリンで着地をした時に足をくじいたら困る、とスティングが言っているのですが・・・トランポリンなしで、単に床から飛び上がるだけではいけないでしょうか?」と聞くと彼らもそれを心配していたらしく、快く応じてくれた。プロダクションの人たちの理解もあり、トランポリン無しの撮影も順調に進んだ頃、今度はプロデューサーが私の所にきて、もう少しスティングに親しくしておいてくれないかという。私は撮影の合間に彼の所に行き、素人覚えのマッサージをしようかと聞いてみると、すぐ「OK!」の答えだった。我々はロケバスに入ると、彼はすぐ上半身裸になり、ベッドに横になった。私は方から背中にかけて揉みはじめたのだが、彼ぐらいならプロのマッサージ師に何回も揉んでもらっただろうなと思うとなぜか揉む力の配分がわからなくなってきた。加えて彼は筋肉隆々なので、もし変に筋を違えでもしたら困ると思い、あまり力を入れられなかった。私が「FINISHED(終わった)!」というと彼はなんか納得がいかなそうな笑顔でシャツを着ながら「THANKS!」と答えた。私は、とにかくロケバスを出るとまた撮影の準備に戻った。ようやく撮影が終わり、スティングにお礼を言い、撮影した写真を選ぶために2日後にまた彼の家にいく時間を打ち合わせして別れた。撮影の2日後の朝、彼の家に行くと、前日が遅かったのか彼はまだガウン姿だった。「彼はこんな姿でごめん」と謝ったが、私にはかえって彼の日常の自然な雰囲気に触れたような気がして好感が持てた。スティングとカメラマンとプロデューサーそしてディレクターは、ポスターに使用する写真を選び、それぞれにお礼を言って彼の家を出る時、スティングは私を呼び止めた。誰から聞いたのか「とっちはバンドに入っているんだって?」ときく。私が「ええ!」と答えると、彼は、「バンドはいいよ!いちばん楽しい時かもしれないな!」といった。それから彼は「GOOD LUCK TO YOUR BAND(バンド、がんばれよ)!」と言った。私は彼に向き直り「THANK YOU, STING!」といって彼の家を出た。昨日BBCで見たSTINGはあれからかなり年を取った感じはしたが、雰囲気はまったくあの頃とは変っていなかった。余談だが、あの時のサギ氏は、やはり法外な料金を要求してきた。彼が所属していたスタジオの責任者に相談したところ、もともとの勤務態度がよくなかったのか、彼は即刻クビになったというオチがついた。完
2003年11月26日
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この後、我々は事務所から連絡を受けて、予約が取れたというスタジオに向かった。行ってみるとそこは、あの映画で有名なNOTTING HILL GATEのマーケットの中心にあるスタジオなのだが、余りにも人目がありすぎるので最初から無理だろうなと思った。このスタジオで挨拶に出てきたイギリス人は(もう名前は忘れてしまった)日本語を少々話すのだが一目見て胡散臭いなと思った。歯の浮くようなお世辞を並べているが、彼の顔には「私は詐欺師です」と書かれたような、なんともいえない嫌な雰囲気が漂っていた。便宜上、サギ氏と呼ぼう。しかし、こういうサギ氏のような人間は、必要な情報だけはちゃんと持っていて、ある意味では使えるヤツだということはわかっている。サギ氏に、ここのスタジオは人目がつくので今回は使う事はできないが、他に余り人目につかずに仕事ができるスタジオを知らないかと聞いてみた。案の定、彼はこの仕事が何か特別な事情がある仕事だと察して、別のスタジオに連絡を取り、そこに連れて行くと言い出した。彼の運転する車についていくと、車で10分足らずの所にあるスタジオに着く。入る時に気がついたのだが、ここはスタジオと別棟にスタジオの機材も貸し出しているような大きなところのようだった。しかし、あいにくRコーブのコンディションがあまりよくなくて、ここはボツとなる。サギ氏にその旨を話し、お礼を伝えて退散しかけると彼は途端に慌て始め、撮影をする対象が誰なのかを必死に問い詰めてきた。私は最初焦らすつもりで、それはいえないと言い続けていたのだが、なんとなく伝えたほうがいい気もしてきて、グラフィックのディレクターに了解を得てから「スティングだ」と伝えるとサギ氏の目の色が変わった。彼は、ちょっと待っててくれ!というとスタジオの事務所に消えた。数分して戻ってくると、ここから車で5分の所にとてもいいスタジオがあり、そこなら人もこないので安心して撮影ができると言い出した。それをディレクターに伝えると、とりあえず行ってみようということになる。行ってみると、確かに何もない野原にぽつんと倉庫みたいな大きな建物があり、その中にかなり新しいRコーブのスタジオがあった。ディレクターとカメラマンは一目でそこを気に入り、ここに決めると言い出した。サギ氏にその事を伝え、さらに冬なので暖房が欲しいというと、ジェット噴射の暖房があるのでそれを持ってこさせるということに決まった。我々は、その後一旦ホテルに戻ってミーティングをした後でスティングの家に向かう。彼はその頃、ノースロンドンのHAMPSTEADという大富豪の多い地域に住んでいた。車を降りて彼の家のゲートを入り、玄関の所まで行くと、誰か背の高い細身の紳士がスティングの家から出てきた。この紳士は厚手のコートに縁のある帽子をかぶっており、私の歩いている所からは、あまりよく見えなかったが、誰かが「ピーター・オトゥールだ!」と興奮混じりだが小声で言い出した。今思えばあの頃のスティングは映画に出始めた頃だったから、恐らく演技指導か何かでピーター・オトゥールも出入りしていたのではないかと思うが親しげな雰囲気に見えた。かのスティングは太い毛糸で編んだ白いセーターにジーンズというくつろいだ格好で我々を出迎えてくれた。彼に対する第一印象は、気さくで礼儀正しい人という感じだった。彼に案内された居間はイギリスらしく照明が落としてあり、部屋の真ん中には、おそらく彼が普段弾いていると思しいグランドピアノが蓋を開けて置いてある。それぞれの椅子に座ったあと、私は撮影のプロデューサーから前日に渡された文を、英文に訳したものを読まされることになっていた。これは日本の制作側がスティングへの挨拶として、歯の浮くようなことばかり並べたものを私の事務所の人が英文に訳したものだったのだが、どうせスティングは全部聞かずに途中で聞くのを止めるだろうと言われていた。私がそれを読みはじめると、3ページほどあった原稿の1ページ目の中ほども行かないうちに、顔を赤らめた彼から「That’s enough!(もう十分だ!)」と案の定止められた。その時の彼の慌てぶりに、私はとても好感がもてたことを覚えている。さて撮影の前日、撮影隊を連れて、スタジオに下見に行くとなんとすでにスタジオの中にはロケバスが入っており、例のジェット噴射の暖房機が3台フルで作動している。ロケバスは当日入り、ジェット噴射の暖房機も当日入りという予定のなのに、何で前の日から入っているのかとくだんのサギ氏に問いただすと、ロケバスもジェット噴射もただ確認のために持ってきただけで、どちらもチャージは明日のみだけだとうそぶく。私は、こいつ・・・そろそろ本性をあらわしてきたな!と思いつつ、とにかくジェット噴射は切ってくれ!スタジオを使っていないのに暖めても意味はないだろと言って、3台の暖房のスイッチを即、切らせた。後でこの状況を事務所に知らせて、請求書に気をつけるように忠告をしておいたのは言うまでもない。撮影当日になると、朝早く朝食を摂り、撮影現場に直行して機材をセッティングし始める。朝10時頃になると関係者以外の人間が何人か、許可もなく入っている。またあいつの仕業だと感づいた私は、サギ氏の所に行き「この撮影は関係者以外立ち入り禁止だから、関係のない人たちには帰ってもらうように!」と伝えると、しばらくしてそこにいた殆どの人間はいなくなった。後は撮影に集中するのみである。<続く>
2003年11月25日
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昨日BBCのトークショウで有名なマイケル・パーキンソンショーという番組に、スティングが出ていたので、なんとなくまた昔の仕事を思い出してしまった。あれは確かスティングがポリス解散後、最初のソロアルバムを出した後だったと思う。日本のプロダクションからクリスマス直前に電話がかかってきて、クリスマスから新年にかけて撮影ができるスチール用の撮影所を探して欲しいとの要請があった。とはいってもイギリスのクリスマスは日本でいう新年であり、何処もあいてるはずがないのだが、とりあえずあたってみた。結果的には2~3のスタジオがかなり高い金額を要求してきて、その条件を呑むなら仕事をしても良いという事だった。プロダクションにそれを伝えてから数日後に連絡があり2月に撮影を延期したという知らせがはいった。2月に入ってからプロダクションの人たちがロンドンにやってきた。最初のミーティングで、この撮影について「Kビール会社のポスターでスティングを撮ります!」と初めて伝えられ、その時一緒に仕事をしていた消防士のマイケルと顔を見合わせた。マイケルは生粋の消防士なのだが、たまたま本業の傍ら、仕事で撮影の時に使用する発煙筒を配達してきた時にスカウトした。彼は、推定身長180cm・体重100kgという巨漢にもかかわらず、撮影の時に監督の要望で閉まっているビルの5階まで革靴で壁伝いによじ登り、窓を開けたりするなどとんでもない技術を持っている。音楽好きの彼も、スティングに会える幸運に信じられないという顔をしていた。ミーティングの後、撮影隊を連れて、予定していた撮影スタジオを見に行くと、フォトグラファーとグラフィックのディレクターから、スタジオが大きすぎて仕事がしにくいのでスタジオを変えて欲しいとの要望があった。この仕事にあたってプロダクションからの最初の要望は、ロンドンでなるべく大きなスタジオが欲しいという事だったのであるが、実際にそこへ連れていったところ、彼らはあれほど大きなスタジオになるとは想像もしていなかったらしい。その後が大変である。我々にとってはいわば振り出しに戻ったようなもので、ロンドン中のスタジオに電話をかけまくり、空いているスタジオでRコーブ(スチール撮影の時に使用するもので床から壁のつなぎ目が丸くなっているもの)のコンディションの良いものを探しはじめた。同時に私は撮影隊の世話係なので、カメラマンとアシスタントカメラマンを連れてカメラの機材レンタルに連れて行き、撮影の機材を借りる手続きをする。ここで私はとんでもない事をしてしまった。機材屋さんで順番を待っている時に、彼らにコーヒーを勧めるために、そこに置いてあった丸いガラス製のデカンタを持ち上げたのだが、どういうわけか中になみなみとコーヒーの入っているデカンタは私の指をすり抜け床に音を立てて散在してしまった。呆然と立ち尽くしてしまった私の横に、カウンターの後ろからバケツと雑きんを持った女の人が出てきて無言で掃除を始めた。私は我に返ってその女性に「ごめんなさい!」というと、彼女は「いいのよ!」とにこやかに返事をした。さらに周りにいた同業者の一人が「月曜日の朝だからな」とフォローをしてくれた。私はその一言に救われた思いがしたと同時に、こういう機転の利くところがイギリスの良いところなんだなぁと思った。これは後で仲良くなったその時のアシスタントに聞いたのだが、あの時彼は「この人(私のことです)大丈夫かなぁ」と思っていたそうである。<続く>
2003年11月24日
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今日は、めっちゃ頭にきた。ロンドンにブッシュがきている。それで今日は戦争反対のデモがあった。私の勤めている会社はロンドンの中心にあり、バッキンガム宮殿まで歩いて5-6分。反戦デモの最終集合場所であるトラファルガースクェアーまでは2-3分。BBCの報道では、警察の情報では約4万人なのに反戦デモ主催者側の情報では約15万人とのことだった。この違いは、主催者側はもっと多くの人に参加してもらいたいために、参加人数をふくらまして伝え、警察は「たいしたことない」と見せるためにその逆を取るということらしい。最終的には主催者側約15万で、警察側70000人という情報になったらしい。私が新聞と照らし合わせて想像するに、結局10万人ほどの大規模デモだったようだ。私自身は、戦争は百害あって一理なしで、略奪、武器の放出、ねじれきった政治家が正義の御旗を無理矢理立てて一般市民を苦しめる破壊と残虐な行為としてしか考えられないので絶対反対。これだけの人間が反戦デモに集まったということは素晴らしいと思う。私が頭にきたのは、それに引き換え、会社の上役たちの無責任さ加減である。一人の役員はこのデモが今日あるのを知っていて昨日から早々に風邪で休んでいる。みんな彼のやり方は見えているのである。彼は休む前日には必ず、体の具合が悪いということをアピールするので「ああ!明日は休むんだな」ということがわかる。みんながそれをわかっていることに気づかないのは本人だけだ。ロンドンで大規模なデモが起こる時は必ずといっていいほど暴動が起こる。群集が集まるところには、群集の目的に反して暴動を起こす目的のためだけに参加するアナーキストが存在する。今回も人数が多いために、暴動が起きたら危ないので少々心配だった。隣に座っている上司のKさんにも相談してみたが、彼もみんなを帰宅させたほうが良いと思っていたようだ。Kさんはみんなの代わりに社長に相談をしたが、社長は自分で決められないと思ったのか、イギリス人のマネージャーに相談したらしい。(こいつのほうが下なのだ!)このマネージャーも、口八丁ごますりでここまでのし上がってきたやつで、営業にかこつけて客を自分の行きたいフットボールに連れて行き、経費は会社もち。自分のやりたい放題である。社長は雇われのためにこのマネージャーに何も言えない。というのもこのマネージャーは、この雇われ社長のさらに上役に気に入られているためである。とにかくこの二人が話をした結果、社員を早退させる必要はないと決断したようである。それだけならまだ良いが、社長は午後3時ごろになると、いそいそと帰り支度を始めた。Kさんが鋭く、また会社に戻ってきますか?と聞くといや今日は戻らないと口ごもりつつ、それでもさっさと会社を出てしまった。くだんのイギリス人マネージャーは5時ごろになると、客と会うと言ってさっさと会社を出てしまった。こんなやつらが会社を運営していると思うと本当に情けない。暴動にいちばんに巻き込まれてほしいやつらだ、まったく。私は18時頃には仕事を終えて会社を出たのだが、その頃には地下鉄の駅の入り口は閉まり、道路はバスを捕まえようと待っている会社員で溢れかえっていた。私はバスを捕まえるのを諦めて、VICTORIAの駅まで歩き出した。途中でバッキンガム宮殿の裏を通ったのだが、宮殿の塀から1mぐらい離したところに腰ぐらいのフェンスを張り巡らせ、壁とフェンスの間に警官が10mおきに立って、その中にはいれないようにしており、別な2人の警官が巡回している。これを一日24時間やっているわけである。もちろんだが、あらためて厳重な警戒だと思った。ようやくVICTORIA駅に着くと電車は遅れていて、ホームは案内板の前に人が溢れかえっていた。長いこと、混雑の中を待っていた私はようやく出発した電車に揺られながら、暴動なんかに巻き込まれなくてよかったとほっとしつつも、会社のことを考え、大きくも小さくもリーダーを選ぶということの難しさをひしひしと感じるのだった。
2003年11月20日
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土曜の午後、8年ぶりに元のバンドメンバーだったDaveと会った。メールで午後3時頃に彼の家で会うように約束していたのだが、私が家を出るのが少々遅れたこともあり、約束の時間に30分程遅れて到着した。彼はその日は「ドラム教室の先生」なのだが、3時までには家に帰っているはずだと言っていた。彼の住まいは5階建ての市営住宅の3階で、ベルを押すとインターホンから懐かしい声が「とっちか?上がっておいでよ!3階だ。知っているだろ?」と答える。エレベーターで上がっていくと、彼は3階のホールに出て窓から外を見ていた。「とっち!元気か?久しぶりだなぁ!」「Dave、相変わらずだな~。全然変わってないじゃん!」と言いながら、どちらからともなくぐゎしっと抱き合う。といっても、相手は背丈180cmぐらいあり、私の頭は彼の胸ぐらいなので、なんだかあまり絵にならない。「話したいことはいっぱいあるけど、とりあえず中に入ろう!」ということになり、フラットのドアを開け、Daveに続いて中に入ると、懐かしいドラムのセットが中に入る廊下の左側に積んである。Daveいわく、今ハンガリー人のガールフレンドと一緒に住んでいるのだが、彼女は今日はプログロックのコンサートを見に、アストリアというコンサート会場に行っているのだと言いながら、キッチンの壁に貼ってあるポスターを指差した。そのポスターにはコンサートに出ているバンド名が書かれていたのだが、IQ、PALAS、PENDRAGON、など懐かしいプログバンドの名前が載っている。「相変らずがんばっているなぁ!」と私は言って、キッチンのテーブルの椅子に座った。我々はキッチンでひとまずお茶を飲みながら、今までの間、何をしていたのかを互いに語り始める。彼は先々週までオランダにコンサートで行っていて、今バンドの6枚目のアルバムを出すところだということだ。彼に最後に会ってから今までのバンドのコンサートの写真を見せてもらう。中にアメリカのようなコンサートの写真があったので聞いてみると、ノースキャロライナに行った時のものらしい。メキシコでコンサートをした時のものもあった。写真を見ながらこの7-8年の間にお互いの身に起きた出来事を話しながら、その月日の過ぎる速さに驚いていた。我々が会わなかった空白がこんなに長くあったにもかかわらず、この間会ったばかりのようなお互いの雰囲気もまた不思議に居心地がよかった。我々は場所を居間に移し、お互いがそれまでに作ったCDやテープ、そしてDVDなどを見たり聴いたりしながら、更に音楽の話は続く。この中で、Daveが今まで参加したプロジェクトの中のとあるCDを聞いて、大変驚いてしまった。そのアルバムの作者は私とDaveがメンバーだったバンドの最初のギタリストで、イラン人である。このCDの内容を一言でいうなら、イランのトラディショナルがプログレに出会ったようなアルバムで、嫁さん曰くエスニックの香りが満点である。イランのトラディショナルの変拍子がふんだんに盛り込まれており、いささか人間離れしたプレイなのだ。これをステージで演奏するなんてできるのかと聞くと、これをこの間のブリストルのフェスティバルコンサートで実際にやったというのだ。(ちなみにそのコンサートのとりはロバート・プラントだったそうだ。)もう一つは、オリバー・ウェイクマン(リック・ウェイクマンの息子)の8枚目のアルバムなのだが(これは未発売)、やはりYESの香りがあちこちから漂ってくるようだ。ボーカルも、ジョン・アンダーソンの声質をちょっとヘヴィーにしたようなものだったが、全体にクラシカルな雰囲気で、まさにプログロックであった。あれこれ話しているうちに、また一緒にやってみたいがどうかとDaveに聞くと、彼の答えはYESだった。我々はまた近いうちに会うことを約束し、またぐゎしっと抱き合い、私は彼の家を後にした。色々な意味で刺激も実りもある再会となった。
2003年11月17日
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一昨日も書いたが、以前、一緒にやっていたバンドのメンバーと8年ぶりの再会かと思うと、ひとことで言えない気持ちがする。今日はあまり日記自体に集中できそうにないので、これから明日の準備に勤しむことにします。皆さん、よい週末を!
2003年11月15日
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**今日の話は、先日パソコンに抹殺されて全部消されてしまったものの復刻版だ。全部消えてしまったので、また思い出しながら書かなくてはいけなくなった。**11月9日は我々夫婦の5年目の結婚記念日だった。前の週・その前の週と、2人でそれぞれに何をしようか考えていた。やはりちょっと高いレストランで食事という案も当然でたが、そこは音楽好きの我々のこと、しばらく行っていないのでカラオケにいってみないかということになった。日曜日なのでロンドンの中心でも比較的、車も駐車やすいし、多分駐車料金も取られなくて済むだろうという事だった。このカラオケボックスはロンドンの中心では一つしかないということもあり、土日は非常に混んでいる。お客の層はやはり日本人の学生が圧倒的に多いのだが、前にここに来た時はイギリス人のグループもかなりきていて少々びっくりした。イギリス人グループのカラオケの楽しみ方は一風変わっている。カラオケをフルボリュームにして、とにかくどの曲も全員で大声で歌うようだ。部屋が隣だったりしたら壁は揺れるし、防音してあるのに時々は全然効果がないほどである。日曜日だったということもあり、この日は客も少なくて我々にとっては好都合だった。それぞれに曲を選んで歌い始めた。最後にカラオケに行ったのは5月に日本に帰った時なので、久しぶりという事もあり、最初のうちはなかなか調子がでなかったが、2人ともようやくエンジンがかかりはじめ、相手が歌っている間にどんどんと曲を入力し始める。ここで問題が勃発した。私は2人しかいないのでお互い2曲ぐらい歌っていたのでは飲み物を飲んでたばこを吸ってゆっくりと曲を選ぶ時間もないので、なるべくたくさん曲を入力することを提案した。その後、嫁さんが歌っているうちに、知っている曲がたくさんあるページに行き当たったので、次から次に入力しているうちに5曲も入力してしまったのだ。私はちょっとまずいかなと思ったのだが、カラオケには割り込みのファンクションもあるし、次は嫁さんがたくさん入力すればわたしもゆっくりする余裕もできる、などと思っていたら大間違い。3曲目を過ぎると「ええ~っ!また~っ?いいかげんにしいや!私の番が全然まわってきいひんやんか~!」と嫁さんが突然切れた。私は「やばい!」と思い「でっ、でも割り込みもできるし、その間じっくりと曲も選べるやんか~!」と言ったが、時すでに遅し。私の嫁さんは普段は天使のようにやさしいが、切れると恐い。男が一番弱いところを理詰めで攻撃してくる。「あんたなぁ!私が調子が出てきて今度は何を歌おうかと一生懸命探して入力して、まだか、まだかと待っててん。そしたらまたとっちの選んだ曲、そのつぎもとっちの曲・・・もう歌う気力をなくすがな~!あやまりっ!」いきなりあやまりと言われてあやまったら、全国の男性諸君に申し訳が立たない。「だってこの機会は割り込み機能もついているんだし、自分だって5曲選べばいいじゃないか!」とぶすくれた。こうなると嫁さんはさらに恐い。「なんやてっ!もう一度言ってみ!あやまりったらあやまり!はは~、そうか。2人の結婚記念日に、私が悲しい思いをしてもいいんやな!」こうなったら断崖絶壁に追いつめられた、かわいそうなポメラニアン。もう後がない!日本の男性諸君にはやっぱり申し訳ないがもう此処まできたら「ご、ごめん・・・」と言うしかなかった。いったんあやまってしまうと、簡単に嫁さんの機嫌はなおり、2人ともさらに歌い続ける。あっという間に予約していた4時間が経ってしまったのだが、われわれはまだ燃焼しきっていないくすぶりをもてあましていた。「もうちょっといってみようか?」というと嫁さんは「え~!後どのくらい?」と聞く。「2時間?」「う~ん・・・まあいいか!」決まりである。それから更に2時間歌い続けたわれわれは、運動した後のさわやかさを感じながらカラオケボックスを後にした。われわれ夫婦にはふさわしい5年目の結婚記念日だった。
2003年11月14日
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2-3ヶ月程前にひょんなことから、元のバンドメンバーとメールのやり取りが始まった。もっと早く会いたかったのだが、彼はバンドのコンサートで忙しくて、なかなか時間が合わずに今日まできてしまった。彼は先週オランダのコンサートを終わって、ロンドンに戻ってきたばかりだ。前のバンドの時には、彼と最後に演奏したのが、オランダのティルバーグとノーダーライトというコンサート会場だった。考えてみるとあれから15年の月日が経ったとは、時間の経つのは早いものだと実感する。彼とも最後に会ってから早8年が経つ、彼はあれからも音楽にどっぷりと浸っているミュージシャンである。この間彼と電話で話したところ、全然変わっていなかった。今週末会うのが楽しみだ。
2003年11月13日
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このところ日記が書けない、というのは、嫁さんは短い時間でかなり長い文章をあっという間に書いてしまうのだが、文章を書くということになれていない私は、一枚のページを書くのに何時間もかかってしまう。あまりコンピューターを支配していると、背後で嫁さんが苛ついてくるので、今日は新しい試みをしてみた。今使っているコンピューターの前に、嫁さんが使っていたコンピューターがまだあるので(WINDOW95)これを使って文章を作ってから、フロッピーで新しいコンピューターに移せばよい、ということに気がつき、早速やってみた。文章が7割方完成してようやく一息つけそう、という時にとんでもないことが起こった。何も触っていないのに、カーソルが私が今まで苦労して書いた文章を断りも無く次々と消し始めたではないか。慌てた私は、意味も無くコンピューターにしがみつき「あっあ~!」等と意味のないことを叫んでいた。非常事態に気がついた嫁さんが、駆けつけてきた時はすでに遅し!理由もわからないのに、ぜ~んぶ消えてしまい、復活させられなかった???。眼が点になってしまった私は、気を静めるためにお風呂にはいり、今出てきてこれを書いている。新しいコンピューターが欲しいぃぃ~。今の私に言えることはこれだけである。
2003年11月12日
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その日の撮影も無事終わり我々は一路グラスゴーに向かったが、あの出来事以来、代理店のディレクターがUさんに話しかけることはなかったと思う。グラスゴーのホテルにチェックインした後、我々は久しぶりの都会ということもあり、みんなで中華を食べようということになった。それまで、東洋の食べ物を10日間以上も口にしていなかった我々は、中華レストランに入り無言でメニューをむさぼるように見た。代理店の人が「今までガマンしてきたんだから、みんな好きなものをオーダーして下さい。」と言ってくれたので、みんな食べたいものをオーダーした。しばらくして料理が運ばれてくると、みんな無言で食べ始めた。最初に運ばれてきた料理はあっという間に無くなり、さらに運ばれてきた料理に箸がつく。みんな黙々と食べている。多分中華料理店のおじさんは、この連中はどこからやってきたんだろうかと気味が悪くなったに違いない。我々はようやく人心地がついてきたのか、何人かの間でちらほらと会話が始まるが、まだ無言で食べている人もいた。さらに料理は運ばれてくる。誰が言うともなく、ちょっとオーダーしすぎたかなあ!と言ってる矢先にまた料理が運ばれてくる。しまいには満腹になった我々の前のテーブルは、まだ手のついていない料理で一杯になった。我々はあまりの満腹感に、目の前の料理を持ち帰りにしてもらうのも気持ちが悪くなるほどなので、話のたねにみんなで料理を囲み、記念写真を撮ってレストランを出た。こうしてウイスキー会社の創立者の足跡をたどった撮影は終わり、カラムに別れを告げてロンドンに無事に帰ってきた。私は次の仕事があるために、撮影隊に別れを告げて次の撮影が行なわれている場所に向かった。その一年後、あの時のアシスタントをしていたKさんに別の仕事で遭ったときに、Uさんの事を聞いたのだが、やはりあの後、プロダクションを辞めたらしいとのことだった。しかし、その後、大きな会社の広告部に就職して、あの広告代理店に仕事をあげるという立場になったらしい。私は、Kさんと「人間の運命ってわからないもんですねー!」としみじみと語ったものだった。完
2003年11月09日
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我々は撮影をしながら途中ネス湖でとまり、いつもながらどんよりとした厚い雲が覆った景色を撮ってからさらに南西に下った。西海岸に近くなるにつれて天気は良好になり、雲ひとつ無い晴天となった。スコットランドの夏は、暑いといっても湿気が無いのでからっとしていて気持ちがよい。海辺に近いということもあり、海風が気持ちよかったのを今でも思い出すぐらいだ。我々が海辺で撮影している時、カメラマンのOさんが、カモメが飛んでいるのを撮影したいのだが、近くでキャンプしている車がカメラに入ってしまうので、退かせて欲しいと言い出した。キャンプカーの持ち主は女の子2人を連れた家族で、我々の無理なお願いを快く聞いてくれ、それまでキャンピングのために打ち込んでいた杭を抜いて、撮影の間だけキャンピングカーを動かしてくれた。その親切さに心を打たれたのか、ディレクターのHさんは彼らに日本から持ってきたお土産を上げたいので、そう伝えて欲しいといってきた。Hさんが持ってきたものは日本の紙細工のお土産で、家族(特に奥さん)がビューティフルを連発していた。何か言葉を超えた温かなその光景を見ながら、私は多分コレがロンドンの近くの海岸だったら、万に一つも起こりえない光景だろうな、なんて考えていた。我々は行き当たりばったりにホテルに泊まりながら、撮影を続けていたのだが、さらにくだんのUさんの身に事件が降りかかった。ある時、我々はそのあたりの風景がとてもよかったので、車を道端においてカメラを持ち歩いてその辺りの風景を撮ろうということになった。Uさんはそれまで一生懸命にがんばった功績もあり、カメラを持つ役目を任された。このカメラは35mmのアリフレックスというカメラで、当時映画を撮るカメラとしてパナフレックスというカメラと並んで有名な撮影機材である。従ってとても高価なため、カメラを運ぶのは重要な役目なのである。ディレクターのHさんは、どんどんと先を歩き石造りの塀を乗り越え、小高い丘を登りようやく気に入った場所にたどり着いた。そこは、崖の際まで芝生になっており、名も無い白やピンクの小さな花がところどころに咲いている。崖が深くえぐりこんでいるために、向かい側の崖およそ200m程の切り立った部分が見え、さらに崖の中腹には鳥が巣を作っている場所なのか、たくさんの鳥が宙を舞っていてその下は海の水しぶきで霞んでいた。カメラマンのOさんはカメラのポジションの辺りを決めて、Uさんからカメラを受け取るときにカメラをつけていた三脚が地面に落ちた。アシスタントカメラマンが慌てて三脚を拾って見ると、三脚とカメラをつけているネジがないらしい。どうやらUさんが運んでいるうちに無くしたらしい、すぐさま彼に罵声が飛んだ。「ばかやろう!なにやってるんだ!」「U君またやってくれたね!本当に君は・・・」入り混じる罵声の中で、彼はただうなだれて立ちすくんでいた。彼は今回は本当についていなかったと思う。カメラと三脚を止めてあるネジはかなり大きなもので、しっかりと締めてあり、簡単には外れるものではない。私とアシスタントは、今来た道を車まで代わりのネジを取りに走った。撮影の時は日の光が変わりやすいので、急がなければ今の状態で撮影できないかもしれないからである。代わりのネジを探して先ほどの場所まで戻ると、幸いにも光は変わっていなかった。Oさんとアシスタントは体に命綱を巻き、Oさんの綱はUさんが持ちアシスタントの綱は私が持った。彼らは崖の淵に立ちカメラを崖から乗り出すようにして撮影し始まったが、この時ばかりはもし何かあったらと考えるとあまり生きた心地がしなかった。
2003年11月08日
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その日は幸いにも天候がよく、最初の予定だった日の出も無事に撮影できて、なんとなくみんなの雰囲気もよくなってきた。代理店のディレクターも、普段は陽気なしゃべり好きの人で、車の運転をしているカラムが気になるらしく、家族のことやらどこに住んでいるのかなどを質問していた。ただ、残念なことに、彼がUさんに話しかけることはあれ以来無かったと思う。Uさんはカラムと話す時とても苦労をしていた。アメリカの発音とスコットランドの発音はだいぶ違うので、私はそのことが問題だと思っていたのだが、ある時カラムが私のところに来て不思議そうに言った。「とっち、私はUさんの事で凄く不思議な事があるんだ。彼と面と向かって話すと彼が何を言っているのかわからないが、彼と無線で話すときは凄くよくわかるんだ。」よくロンドンでもあることなのだが、東洋人の顔立ちが西洋人のそれとあまりにも違うために、イギリス人の中には英語以外の言葉で話されたらどうしようと考える人や、かってにこの人はロンドンに観光で来ていて言葉がわからないはずだ、など先入観が先に出てしまい、英語が堪能な東洋人が話していても、それが英語だと気がつくまでに時間がかかるという風景に時々出会うことがある。その殆んどの人はロンドンに住んでいても、いわゆる海外からの人に接する機会の余り無い人といえるだろう。カラムもスコットランドの田舎に、生まれ育って海外からの人、それも東洋人に接したのは初めてだろうし、私はロンドンを出る前にカラムとは電話で何回も話していたので、彼は私に対してはそういった先入観は無かったのではないかと思われる。<続く>
2003年11月07日
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この日も撮影が終わり、食事の後でミーティングを開いた。明日の計画は、今日撮れなかった日の出の撮影をもう一度試みるということが決まった。出発の時間は今朝と同じ03:00である。ミーティングの最後に、代理店の人はUさんに「もう今朝みたいなことはないだろうが、万が一繰り返したら本当にその場で日本に帰ってもらうからね!」とみんなの前で念を押した。翌朝、機材を持って車のところに行くと、みんな集合しているのだがUさんの姿がない。当然、代理店の人はかんかんだ。Hディレクターに小声で「見てきます!」と伝えUさんの部屋まで行き、ドアをノックしたとたん「はいっ!」と緊張した声がしてドアが開いた。Uさんは、またやってしまったという感情と、今度は何を言われるだろうという恐怖が入り混じった顔で私を見た。私はUさんに「とにかくみんな待っていますので、支度をしていきましょう!」というと彼は、「実は昨日の朝あんな事になったので、昨夜は寝ないで朝まで起きていようと思ったんですが、ついうとうとと寝てしまいました。」とすまなそうに言った。私は彼の素直な性格から出たその言葉で、彼の現在の気持ちが痛いほど判った。私は、「誰にでもあることですよ!」としかいえなかった。彼はすでに用意は出来ていたので、我々はすぐに部屋を出て車のところに行った。代理店の人はUさんを見ると、彼の前に進み出て「U君!またやってくれたね!今度こそここから日本に帰ってもらうからね!」と言って彼を正面から睨んだ。Uさんは小さな声で「すみません!」といって、ただうなだれていた。代理店の人は、「とはいってもこんなスコットランドの田舎から、君を返す事の方が大変なので、一緒に来てもらうしかないんだけれどね!」と伝えた後で「しかし今後、私の仕事が君のところに行く事は絶対にないので、そのことは覚悟して置くように!」といってミニバスに乗り込んでしまった。<続く>
2003年11月05日
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この後撮影の時に、Uさんと少々話す時間があったのだが、彼はその朝の事は特別に気にしているようではなかった。彼は、前にも書いたように性格はおっとりとしていて育ちの良い坊ちゃんタイプで、彼は今回のような外での撮影の仕事には不向きのように思えた。まず彼は声が小さい。撮影の時にはみな大きな声を出し合う。お互いのやっている仕事の内容が判るようにしないと事故が起きやすいからだ。私も撮影の仕事を始めた時には、このことが理解できるまで声が小さいと言ってかなり怒鳴られた経験がある。今でも話す声はあまり大きい方ではないのだが、撮影の時は仕事柄、必然的に声も大きくなった方である。従ってUさんも、場数を踏んでいるうちに慣れてくるだろうと思っていたのだが、朝起きるのが苦手らしいのには困った。その日の朝は、撮影の場所で日の出を待っていたのだが、曇っているためと朝もやの為に朝日を撮影できなかったので、急きょ予定を変更して朝もやの中の村を撮影した。撮影の途中で広告代理店の人が村に止まっている赤い車が、撮影に邪魔なので動かして欲しいと言い出した。最初は冗談だと思っていたら、アシスタントカメラマンのKさんが車に向かって歩き出したので、私も慌てて後を追った。彼は私と並んで歩きながら、無理だと思っても、代理店の人が言ったことは一応試みてみないといけないと教えてくれた。車のところに行って中を覗き込んだりしてみたが、どう考えても動かせるはずがない。なんとなくドアに手をかけて開けてみると、ドアに鍵が掛かっていなくて、すんなりと開くではないか。「この車鍵が掛かってないですよ!」というと、Kさんはドアを開け、ハンドブレーキを下ろして車を動かし始めた。幸いにも朝が早かったために誰にも目撃されずに車を動かすことが出来た。こんな田舎になると車ドロボウなんて存在しないということは、私にとっては新鮮な驚きだった。
2003年11月04日
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この日は食事が終わったのが11:00をまわっていたので急いで次の日の予定をたてるミーティングをした。このミーティングの中で広告代理店のクリエーティブディレクターが、朝日の昇るシーンを取りたいと言い出したので、翌朝は03:00出発と言う事になった。ミーティングが終わり、撮影隊の人たちと別れホテルのパブの前を通りかかると、カラムがバーのカウンターの前で誰か見知らぬ人と飲んでいた。私は明日の計画を伝えに彼のところに近寄っていくと、隣で飲んでいた人を私に紹介した。カラムは彼はこのホテルのシェフで、今日何回もステーキを作らされた人だと話してくれた。「やばい!」と思った私は、先ず彼に今日の出来事を謝り、日本とスコットランドのステーキのレアーに対する観念を述べると、彼は快く頷いてくれた。察するところ、カラムが食事の後で、彼を飲みに誘いすでに説明をしてくれていたようだった。シェフがパブを去った後カラムに、明日の朝が早い事そして最初の撮影の場所を簡単に説明した後、彼に部屋に戻って休むように伝えた。翌日02:30に起床して、アシスタントの部屋に行きカメラの機材をミニバスの場所まで運んでゆくと、すでに他のメンバーも集合していた。カメラの機材をミニバスに運んでいると、ディレクターのHさんが私に、アシスタントディレクターのUさんを見なかったかと小声で聞いた。どうやら寝坊をしたようだ、私は広告代理店の人にわからないようにその場を離れ、Uさんの部屋のドアを叩いたが、反応がない。2-3度叩いて後にドアが開き、寝ぼけ眼のUさんが出てきた。彼は私の顔を見てから彼が寝坊をしたことを悟ると、気まずそうに「今行きます!」といって、ドアを閉めた。車のところに行くと、すでに彼が寝坊して遅れたことがばれていたようで、気まずい雰囲気が流れていた。Uさんが現れると、まずHさんが「Uなんで遅れたんだ!お前が遅れたために出発するのが遅くなり。皆さんに迷惑が掛かったんだぞ!謝りなさい!」と叱った。Uさんは、消え入りそうな声で「すみません!」と謝った。その後で追い討ちをかけるように、代理店の人が「U君!私は今回の撮影で君を連れてくるのは反対したんだが、H氏がどうしてもと言うのでしかなく承諾したんだが。今後同じ事をしたら即日本に帰ってもらうからね!」と少々ヒステリックな声で言い聞かせた。続く
2003年11月03日
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また昔の話に戻るが、ある撮影の仕事でスコットランドに行った時のことだ。時期は7月の2週間程。夏の真っ盛りで最も日が長く、日の出は朝4時、日の入りは夜の11時。だから仕事をする時間は十分ある。撮影の内容は、ある日本のウイスキー会社の創立者のドキュメンタリーを作るため、彼のスコットランドでの生活の場所だったところを撮影するという仕事だった。この撮影のために、日本から某広告代理店のアートディレクター、DプロダクションからカメラマンO氏、当時アシスタントのKさん(たぶん今頃はカメラマンになっていると思われる)、厳しいがやさしくて面倒見の良いディレクターのHさん???このプロダクションの人たちはもう何回も一緒に仕事をしている人たちなので、気心は知れている。今回、この面子に加えて1人加わる事になっていた。この人はアシスタントディレクターというタイトルのUさん。ロサンジェルスで映画の学校に2-3年行っていた人で、ディレクターのHさんの同輩だった敏腕プロデューサーの息子さんだ。今回の仕事でHさんの下で勉強させてくれという、たっての頼みをHさんは同輩のよしみで受けたらしい。私は自分の立場上、どんな人が来るのか心配だったが、会ってみるとおっとりした人で見かけは松本零二の漫画に出てくる足立太おいどんの風貌である。我々はロンドンからネッシーで有名なインバネスに飛び、現地で雇ったガイド兼運転手のカラム(当時推定年齢50歳)と会い、軽くミーティングをした後、スペイ川の河口であるエルギンという町に出発。このスペイ川の水は、ウイスキーの一番大切な澄んだ水とピート(雑草が長い間に沈下して土になったもの)を通過して流れているので少々茶褐色をしている。この水がウイスキーを造るのに非常に適しているため、スペイ川の周辺には多くの醸造所(例としてグレンリベットやグレンフィデック等)が存在する。我々は、まずエルギンの河口に行き海岸を歩いている若き日の創立者を撮影した。モデルはアシスタントカメラマン(当時20半ば)で彼が海岸を歩いているところを、遠くから望遠レンズでぼかして撮った。次に連絡しておいた蒸留所に行き、酒を発酵させている場面を撮影したのだが、ここは酒の発酵する匂いで充満しており、樽の中を覗いただけで酔っ払ってしまいそうだった。次は、確かシェリーの樽だったと思うが、工場の人が蔵から樽を転がし出すシーンを撮影した後、蒸留所の裏にある大麦畑で撮影したのだが、なんとここには大きなヒルがいてとても気持ちが悪かった。その後、大麦が夕日にたなびいているところを撮影してから、近くにあるホテルにチェックインした。このホテルは、この地域の昔の地主の家らしく立派な石造りの家で、庭には雉が何羽か放し飼いになっていた。我々はこのホテルで夕食をとったのだが、ここで小さな問題が発生した。みんなそれぞれメニューの中から夕食をオーダーし、その中でカメラマンのO氏はステーキのレアを頼んだが、運ばれてきたものはレアではなくウェルダンだと言い出した。日本で言うレアはここでは存在しない。レアといっても少々赤みが残る程度で、日本やスペインのように肉を刺身感覚で食べる習慣が無いため、基本的にレアが日本のミディアム程度である。私は突然のことで、O氏にどう説明したら良いものか判らずに困っていたが、O氏は私にウエイトレスを呼んで取り替えるように伝えてくれというのでウエイトレスを呼んだ。彼女に説明をすると快く了解して皿をキッチンに持って行き。数分後、また運ばれたステーキを見てO氏は「これって全然レアじゃないじゃないか!彼女を呼んで説明して、もう一回取り替えるようにいってくれない?」と彼はバカにされていると思っているのか、少々怒り気味に言う。こうなったらこれも仕事の一部、先ほどのウエイトレスを再び呼んで、このステーキの焼き方は彼のスタンダードではミディアムだと言っているので、申し訳ないがもう一度かなり生肉に近い焼き方で持って来てくれないかと聞くと、彼女はまた快く引き受けてくれた。念のためと思い、ステーキが運ばれてくる前に、食事の雑談の中でスコットランドではスペインのタルタルステーキや韓国のユッケのような、生肉に近い食べ方は慣れていないことを話しておいた。ステーキが運ばれてくると、案の定前のステーキよりも心持ちレアーに近い程度だったが、O氏は私のほうを見て、「まあ、こんなもんだろうな!」といって食べ始めた。続く
2003年11月02日
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昨日、穴沢ジョ-ジ先輩(勝手にこう呼ばせてもらう)のホームページに行ったところ、私のギターヒーローだったDUANE ALLMANの命日が10月30日だったと知り、私も日記に書かせてもらうことにした。穴沢さんのページでも書かせてもらったのだが、最初に彼のギターを聴いたのは確かボズ・スキャッグスの初期のアルバム「BOZ SCAGGS」だった。1969年にリリースされたこのアルバムに収録されている「LOAN ME A DIME」の彼のギターソロに魅了された。彼のギターはいわゆる即興で弾いている部分が多く、コード進行がこう進むからこのスケールで弾く、といった現在のギターの弾き方の教えを完全に無視しているところが凄いと思う。というかこの頃の、特にブルース系のギタリストはそんな事を考えて弾いている人自体が余りいなかったように思う。「LOAN ME A DIME」に戻るがこのマイナーブルースの中で、ボズ・スキャッグスのヴォーカルとデュアン・オールマンのギターの絡みも良いし、特に曲の終わりの部分で聴かせる彼のソロは必聴である。思うに、彼はきっと最初の部分の弾き方は考えていたと思うが、このソロは長いので途中から完全な即興になり、瞬間的なソロは泉が湧き出るように留まることを知らないといった趣きになる。途中、ほんの一瞬、躊躇するところがあるが、その後はさらに素晴らしいソロで回復するといった具合である。今ふと思い出した。学生の頃聴いたブルースのアルバムで音が外れたまま録音されていた曲が結構あったように記憶しているが、もちろん録音技術の発展した今ではそんな事はないのだが。一発録りの緊張感や、録音した部分に間違った箇所はあるが、他の部分があまりにも良かったために残したい、と思うその音楽に対する基本的な姿勢が昨今では忘れられてしまったのではないかと思う?ちなみに彼らの音楽を聴いてみたい人の為に彼らの確か二枚目のアルバムだったと思うが「THE ALLMAN BROTHERS BAND」という1969年に出たアルバムがよかった特に1曲目から2曲目の「It’s not my cross to bear」というブルースに入るところがカッコいい!
2003年11月01日
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ロンドンでは夕刻になると、街角のどこでもEVENING STANDARDを売っている。日本でいえば朝日とか毎日新聞のようなれっきとした新聞の夕刊版で1部40ペンス。このところ、木曜日のEVENING STANDARDにCDがオマケでついてくるのが、面白くてちょっと買ってみた。このオマケはなかなか良い。木曜日だけなのだが、日本のぴあのような雑誌がついていて、シアターやレストランのガイドそして1週間のテレビ番組、映画、音楽などの紹介もある。先週家に帰る途中、ビクトリア駅で新聞売りの人がこのCDをひらひらさせていたので、通りがかりに気になって立ち止まり振り返ってみていると、新聞を買っている人にそのCDを手渡しているではないか。新聞は40ペンスだし、試しに買ってみようとスタンドでお金を払い、新聞と雑誌とCDを受け取る。急いで新聞と雑誌をカバンにしまい、CDの中身を見て見るとROCK ANTHEMS(ロック賛歌)と書いてある。多分NATIONAL ANHTEM(国歌)にちなんで名付けられたこのCDの曲の内容は1.FINAL COUTDOWN(EUROPE)2.ALL THE YOUNG DUDES(MOTT THE HOOPLE)3.WHOLE LOTTA LOVE(CCS)4.MORE THAN A FEELING(BOSTON)5.KEEP ON LOVING YOU(REO SPEED WAGON)6.PLACE YOUR HANDS(REEF)7.TWO PRINCES(SPIN DOCTORS)8.WELL ALL RIGHT(SANTANA)9.LET’S WORK TOGETHER(CANNED HEAT)10.STRANGE KIND OF WOMAN(DEEP PURPLE)であった。かくして、これに味を占めた私は、昨日も新聞を買った。今日のCDは、CLASSIC HITS。曲目は、1.BLAME IT ON THE BOOGIE(THE JACKSONS) 2..SEPTEMBER(EARTH WIND AND FIRE)3..IT’S RAINING MEN 4..NEVER CAN SAY GOODBYE(GLORIA GAYNOR)5.BEST OF MY LOVE(THE EMOTIONS) 6.GIVE IT UP (KC AND THE SUNSHINE BAND) 7.5.6.7.8.(STEPS) 8.YOUNG HEARTS RUN FREE (CANDI STATON) 9. LET ME BE YOUR FANTASY (BABY D) 10.SURPERSTYLIN’(GROOVE ARMADA)もちろんこの中には、お金もらっても聴きたくない曲もはいっているが(どれかは想像にお任せします)全般に面白いCDだと思う。いやいや、聴いてハズレだったとしても1枚40ペンス(74円)だというところがいい。家の嫁さんも結構喜んで聴いていたので、来週は何かな?楽しみだね~!といっている私に「ところで新聞は読んだの?せっかく買ったんだから新聞も読もうね~!」私は、黙ってカバンからの中から先ほどしまった新聞を取り出したが、その後、読んだのは嫁さんだけだった。
2003年10月31日
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久々に会ったジャム相手の彼は日本人だが、オーストラリアでイギリス人の奥さんと知り合い、結婚してイギリスに住むようになったらしい。彼は日本にいた時は地元で音楽活動をしていて、ベースやギタ-そしてヴォ-カルも担当していた生粋のミュージシャンである。当時ロンドンで日系企業に勤めていた我々は、ひょんなことから知り合い3年前に2度程遊びでバンドをやってみたのだが、彼は勤めていた日系の会社を辞めて地元に引っ込んでしまったこともあり、しばらく会える機会が無かった。その後も電話ではちょくちょく話すことがあり、何とか彼とジャムをする機会を待っていた私は、今回は嬉しさと不安が半々だった。良くイギリスでも言われるが、自分の楽器に巡り会って「その楽器を弾くために生まれてきた」というミュージシャンをシリアスなミュージシャンと呼び敬意を表する。彼はまさにそのタイプに属する人だと思うから、その事実にこっちがはじけ飛ばされるかもと思うと怖かったのだ。車で約3時間かけて彼の家に着いた私は、彼ら夫婦に温かく迎えられ、機材が置いてあるダイニングルームに通された。我々は軽い食事を済ませ、ドラムマシーンでパターンを決めてお互い向き合って座った。我々はキーを決めて弾き始める。私が弾くコードに彼のベースの音がうなるように絡みついてくる。あるテーマを持ったベースは、低くそして芯のある音で存在を強調するがゆえに、ギターには自由が生まれ、何を弾いてもよいという環境が生まれる。我々はお互いの作り出すフレーズやタイミングに反応し、さらにヴァリエーションを作るといったように変化してゆく。3-4曲程ジャムをしているうちに、あっという間に時間が経ち私は夜の11時半頃、その夫婦にお礼を言って帰路に着いた。ここで重大な事件が起こった。私は夜の運転時には、必ずメガネをかける。昼間は余り必要がないのだが、夜の運転はメガネがないと周りがぼやけてあまりよく見えないからだ。友達の家を出てローカルの道を走っている時、メガネをかけて運転しているのに道路がぼやけて見える。イギリスには大きな街にはいるまでは街灯というものがない。そのために道がただ暗いだけのか、それとも今日はジャムで疲れて視力に影響しているのかわからなかったが、とりあえず国道まで出れば道も広いし、街灯も多くなるので、余りスピードを出さずに運転していた。国道に出る手前になっても、あまりにも眼がぼやけているので、私は思わず目をこすろうと左手の指をメガネの内側に持っていって眼をこする。メガネをかけ直そうと左のフレームに手をかけると、指がフレームからすべって左手の親指と人差し指がフレーム越しにくっついたのだ。「・・・ない!」メガネのレンズが無い!国道に出た私は、車をハードショルダー(緊急の逃げ場所)に止め、ルームライトをつけてメガネを確かめると、左側のレンズが無くなっている。思い出すと友達の家を出る前には、ストラップを首にかけて胸の所に垂らしておいたのだが、外に出てからメガネをかけようとして、運転しながらメガネのところに手をやるとシートベルトですでに上からふさいだ格好になっていてうまくかけられない。車を止めてシートベルトを持ち上げメガネを外してからかければよかったのだが、元来無精者の私は、運転しながら無理やり片手でメガネをベルトから外してかけたのだが、どうやらその時にメガネのねじが外れてレンズが落ちてしまったらしい。あわてて膝やシートを手で探りレンズを探した。幸運にもレンズは割れずに見つかったが、そのネジはあまりに小さいために見つからないので、諦めて家に帰ってから探そうと、メガネをケースにしまって車を発進させた。道はかなりぼやけていたが、深夜でもあり、何とか慎重に運転できた。午前1時半過ぎに家に着いた後、車の座席を探すと小さなネジが見つかった。家に入ってそのネジでメガネをなおそうとしたが、どういうわけかうまく入らない。あきらめてそのままにしておいて寝てしまった。翌日起きてみると、どうやったのか嫁さんがメガネを治しておいてくれた。私は、昨日演奏した録音を聞いてみた。友達のベースはとてもよかったが、私のギターは残念ながらいまひとつだった。第一の理由はコレだ。この楽天を始めてしまい、自分の生活の比重が今はこっちにかまけ過ぎていて、練習がおろそかになっていることだ。比重を少し見直して、次回の為に練習しなければ・・・。
2003年10月27日
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今週も仕事が終わりホッと一息といいたいのですが、明日は、朝から知り合いのベーシストのところに行ってきます。家から車で北に3時間のところにすんでいるので、久しくあっていませんでした。私もしばらく弾いてないので、楽しみですが彼はうまいので、ちょっと怖い気がします。最初はレイドバックに行きたいのですが、どうなりますやら。
2003年10月25日
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やっとのことでMARATEAに着いた我々はホテルにチェックインしたあと、従業員が敷地の横道を歩き、裏手にある部屋に案内してくれた。ホテルの横の入り口を入るとき、なにやら大きな声が聞こえたので何気なくそちらを見ると、その小道を出た正面にローカルの小さなお店らしきものがある。その入り口の横におじいさんがイスに酔っ払って座っているらしく、なにやらわめいている。その店の上には大きくMINI MARKETと書いてあり、入り口には上から下までカラフルなすだれがかかっていて中が全然見えない。用心深い私は、このお店を妖しいお店と認め、近づかないよう嫁さんに注意した。(結局この店は、なんてことはない普通の田舎のよろずやだったということが後で判明!)確か二日目の夜、室内の冷蔵庫の飲み物が高いのと、そろそろ場所になれてきたということもあり、くだんの怪しいMINI MARKETに飲み物を買いに行くことにした。嫁さんと店の前まで行くと、若いマット・ディロン風の男の子が店を閉めて帰るところらしい。彼と眼が合い、イタリア語の出来ない私はジェスチャーで店に入りたいことを示すと、彼は親切にも店をもう一度開けてくれたではないか。お店にはいる時、何か言わなくてはと思う。「こんばんは」はなんだったっけな、ボ・・・ボ・・・、一生懸命嫁さんが教えてくれた言葉を思い出した!と思った途端、「ボ、ボ・・・、ボンニュイッ!(フランス語で「オヤスミなさい」)」と発してしまった。彼がちょっと引いたのがわかった。イタリア語ができる私の嫁さんは、必死で笑いを堪え、体勢立て直しのためにヴォナセーラ、とクールに言ってのけた。その晩から嫁さんは私のことを「必殺ボンニュイ野郎」と呼び始めた。もう一つイタリアで運転していて驚いたことがあった。2日目嫁さんと両親を連れて、国道を走っていたときである。通常の日本の国道を考えていただきたい、両側一車線の道路にこちらも反対側もいっぱいで、双方じそく6-70キロで走っている時のことである。私は前の車との車間距離を開けて運転していたのと、前方に信号も無く前の車が急ブレーキをかけることが無いはずのところなので、安心してちょっとだけ振り向きまた眼を前の車を見るために戻した時、サッと黒い影が私の車の左を通過したのだ。私はそれが反対車線の車が中央線を超えて、前の車を追い越したのだと知るとゾッとした。こんな事はイギリスでもしないことである。前を見ると何台かの車が両車線が詰まっているにもかかわらず、平気で少ししかないスペースを使って自分の前の車を抜いてゆくではないか。神業というか怖いもの知らずというか、私はあきれてしまったが、こうなると運転中は気を抜けない!この日は運転疲れがいつにも増してひどかった。ちなみにMARATEAというところは、非常に古いお寺が沢山ある、従って多くの巡礼者がやってくるいわゆる聖なる土地らしい。MARATEAの漁港の後ろにある海抜250メートルの山の上には、あのリオ・デジャネイロにある白いキリストの像(近くに行くとあそこまで立派なものではないが、山の下の漁港から見る分にはあまりに遠いので判らない)も立っている。この漁港は小さくて、多分釣り船が10隻も入れば身動きが取れないぐらいのものなのだが、とにかく水がきれいだ。湾内にはかなり大きな釣り船が入っているので、かなり深いと思うのだが、そこがきれいに見えるほど水に濁りがない、透き通った水の中に眼を凝らすと、稚魚があちらこちらに固まって泳いでいる時折20cmほどの魚も泳いでいるのだ。山の頂からこの漁港を見下ろした時は、この湾のすぐ外に魚がいっぱい跳ねていたのが見えたのだが、250mの頂から見下ろした時に見えたあの小魚は、近くで見たらかなり大きい魚だったのだろうと思った。環境の荒らされていない、自然の中の南イタリア旅行だった。
2003年10月23日
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少し前の出来事である、我々夫婦のところに嫁さんの両親、つまり義理の父と母が遊びに来たときのことである。我々は相談の末に、食事の事や景色のことを含めて、南イタリアに行こうということになった。私の嫁さんは、旅行業界で長年添乗などをやってきたこともあり、今まで行ったことのないところに行ってみたいと言い出した。彼女は、やはりプロでこのようなときの下調べは念入りにする。南イタリアに関する本を買い、観光局に行って資料をもらい、調べは着々と進んでいった。私はUKの運転免許証を持っているので、大体のヨーロッパの国では運転できるし、その前の年には、フランスでマニュアルの車を運転していた実績があるので、イギリスと反対の車線を運転するのにも自信があった。運転は私の担当で、ホテルその他の予約は嫁さんが担当し、気に入ったところを見つけてきては、2人で相談して仮予約をいれ、旅行の準備は着々と進んでいった。最初は欲を出して予定を組んでいた南イタリアの一周も、現実として6~7日では到底回れないほど広いということが、出発が近くになって判明、急きょ西海岸に重点を絞った。内容は、ロンドン・ガトウィック空港からナポリ空港に飛んで車を借り、南に3~4時間走ったところにあるMARATEAというところで3泊、それから北に1~2時間、ローカルの道路を走ったところで2泊、そして帰りはナポリまで一時間強という簡単なものに変更された。さて当日ナポリに到着し、レンタカーの手続きをした後、車のところに行ってまずびっくり。は山道が多いと聞き、なるべく2000ccぐらいのエンジンでサルーンだと乗り心地もよいので頼んであったのだが、目の前にあるのは7人乗りのスペースワゴンのような車である。「こっ!これはちょっと大きすぎないか?」と思ったがここでじたばたしては両親にも不安を与えるし、イギリスでは撮影の仕事でもっと大きな車も運転していたこともあったのだからと無理やり自分を納得させ、我々はこの車で旅行することに決めた。さて、乗り込んだのは良いが右も左もわからない、近くにいる守衛さんに南にいく道をきくと(もちろん私は英語しかできない)どうやら我々がどこに行きたいかはわかったらしいが、彼の説明がもう一つわからない。とりあえずお礼を言って彼が指さす方向に運転してみた。その方向に沿って運転しているうちに、我々はどうやら高速道路に入ってしまったようで、車の流れが俄然早くなる。しばらく走っているうちに地図をチェックしていた嫁さんが、現在位置を把握したようで、我々が全然違う方向に向いて走っていることを教えてくれた。慌てて引き返すために次の出口を出ると、そこはナポリのスラム街のようなところだった。私は慌てて反対側の車線に入る列に無理やり割り込み、何とか町の中には入らずに済んだが、高速道路に入る道は万国共通で・・・・・混んでいる。しばらくのろのろと走っているうちにまた高速に入り、来た道を戻るとナポリ市内に入る手前で嫁さんがテキパキとした指示をくれる。おかげで、今度は難なく南行きの高速に乗り、我々は一路南に向かった。この高速で思ったのだが、イタリアのドライバーはかなり飛ばす。イタリアの高速は結構広いので運転はしやすいのだが、ドライバーがとにかく速いのだ。私は知らない国ということもあり、それでも時速120~130kmぐらいは出していたのだが、後ろからあっという間に抜いてゆくアルファロメオを見ていると、やはりF-1レーサーが生まれる国だという事を痛感させられた。MARATEAが近くなり、高速を降りるとそこは素晴らしく切り立った渓谷。その中を道路があるときはゆっくりと蛇行し、あるときは日光のいろは坂の何倍も急なターンが続いた。この時、私はこの大きな車を借りたことを後悔し始めたが、遅かった。渓谷を出て海岸沿いに走ると、景色はもっと素晴らしくなる。山の中腹を走る道路から見る海は、淡い水色で素晴らしく透明感があり、見ていてため息が出るほどきれいだ。道のほうは景色とは反対に、狭く蛇行していて非常に運転しにくい。私が運転している海側には分厚い石で高さ50-60cmの塀が作られており、余り近づきすぎると車体に傷をつけるし、道が蛇行しているのでかなりの曲がり角が死角になっており、対向車が見えないため余り中央に車を寄せられない。格闘している私の後ろを、地元の車がぶんぶんとエンジンの音をたてて近づいて来ては、考えられないような場所で私の車を無理やり抜いてゆくといった具合である。
2003年10月22日
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案内されてスタジオ内に入ると、そこは別世界のようだった。入って正面には大きなドラムセット。左はキーボード三台がスタンドに乗っている。正面にはベースと12弦ギターがスタンドに立ててあり、床には今まで見たこともない箱にぺダルがついていて、黒い鉄製の箱にはMOOGと大きく白い字で書いてあった。ドラムの両サイド上部には先ほど見かけた50cm四方のスピーカーが2台取り付けてあり、部屋の右側には16chミキサーが置いてある。先ほどのメンバー1はベースと12弦ギターの前に座り、用意ができた私と向かい合わせにギターを抱える。察するにこの人が電話で話した人で、バンドのリーダーらしいという事がようやくわかってくる。彼は、ギターで簡単に5~6個のコードとその弾き方10小節ぐらいの長さを教えると、それまで黙って控えていたメンバー2(キーボードとドラム)に合図をした。ドラムがいきなり複雑なリズムをシンバルでたたき出し、先ほどのリーダーがドラムとは違うタイミングでベースを弾き出す。あるところに来るとリーダーが弾き始めを私に眼で合図したので、わけがわからないままに先ほど教えてくれたコードを弾き始める。なんとなく、だんだんピッタリするタイミングが判ってくる。教えてもらった最後のところまでくるとバンドは一旦演奏をやめる。リーダーらしきベースの人は私に「今回のオーディションの中でここまで弾けたのは、君だけだった」と嬉しそうに教えてくれた。彼が「君は東洋人だけどここで働く許可は持っているの?」ときく。私は嘘をついて後で問題を起こすのが嫌だったので、今の労働許可証はフィルムの仕事をしている仕事にしかできないが、来年になれば永住権が手にはいるので自由に仕事が出来るということを正直に伝えた。彼はそれを聞くと残念そうに「バンドはミュージシャンのユニオン(組合)がうるさいので、働く権利がない今の君をバンドに入れる事はできない。でも、君には来年その資格ができるんだろう?家に遊びに来ないか?バンドの近くにいれば来年君がそうなった時に、まで君がフリーだったらウチのバンドに誘う事もできるし」と言った。なんか余り現実味のないこの話に生返事をした私は、帰り支度を始める。キーボードのメンバーが、あるテープをかけて他のメンバーとその録音について話をしながら、機材をかたづけ始めた。リーダーは、これからレコーディングをするために機材を移動しなければならないと、自分の機材をかたづけながら説明してくれた。今思えば、この時のテープの曲はEMIのコンピレーションアルバム用にバンドが録音していたものだったと思う。彼らは話しながら機材をかたづけ始めたかと思うと、あっという間にスタジオの中は空っぽになった。私は挨拶をしてその場を去ろうとすると、リーダーは「家に遊びに来るのを忘れないようにね。この間君が電話をかけてきたところだから。」と念を押した。私は体がくたくたになったまま、地下の階段を上がって暗い通路を抜けて表に出ると、ずっと地下で機材の熱気にあたっていたせいか、なんだか外の風を爽やかに感じた。その後、私はリーダーに電話をかけて家に遊びに行き、彼らが近くでコンサートをやる時は遊びに来るよう誘ってもらったりという付き合いが始まった。翌年、私が永住権をとった後、リーダーから電話があり、「バンドのギターが辞めて、空きができたけれど、興味ある?」と聞かれた。もちろん私の答は「YES!」だった。
2003年10月21日
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プログレ(ポンプロック)バンドのオーディションに行った。この時の雑誌の募集欄には「ギタリスト募集・当方プログレッシブロックバンド」と簡単に書いてあっただけだった。電話してみた。パブリックスクールのアクセントの男性が出てきて「僕らはプログレッシブのバンドだよ。判ってるよね?まず我々がやってきた音楽を弾けるギタリストを探しているので、君が弾ければバンドに入ってもらう。」と言われたが、あまりピンとこないまま、とにかく日時を聞いていってみることにする。場所はクラーケンウェルというちょっと怪しい地域のとあるビル。すぐ横の通りは昼間露天をやっているらしく、野菜の切りくずや新聞の切れ端などが散らばっている。ビルの入り口に立ち、電話できいた番号のベルを押したが、何も応答がない。さらに2回3回と押してみたが、依然として応答がない。周辺の怪しさもあって諦めて帰りかけた。するとビルの奥の方からもっと怪しげな(ロン・・・ごめん!) 上下黒いジーンズと上着を着た人がやって来てドアを開けてくれた。バンドのオーディションを受けに来た事を告げると、サム・ニールを崩して昔のイアン・ギランのような長い髪をした彼は私を中に入れ、一緒に通路を歩く。彼はカナダ人でロンといい、このビルの地下室のオーナーで彼もミュージシャンだと自己紹介した。地下に行くとすでにオーディションは始まっているらしく、防音されているスタジオドアが閉まっており、中からは時折ギターの音が聞こえてくる。スタジオの外の狭い通路では、身長180㎝程の大きなイギリス人でバンドのメンバーらしき一人が、次に控える応募者のギタリストにオーディションの内容を話していた。その内容をちらちら聞いていると、このバンドは、自分たちの過去の曲を弾けるギタリストを探していて、それがここで弾けるという事が第一条件だと説明していた。その180㎝氏がテープデッキにテープを入れると、前方にある50㎝四方の大きなスピーカからバンドの曲が大きく流れてきた。それを聞いた私の最初の印象・・・「私にコレが弾けるかな?」アップテンポのその曲は非常にスピードが速いと同時に、流れるようなメロディーが途切れなく続く短い曲だ。私は正直いってびびってしまい、帰ろうかなとも思ったが、ここまで来てオーディションを受けずに帰るのも癪だ思い、かろうじて動揺を隠し、その場にとどまる。突然、スタジオの分厚いドアがバタンと開き、中から怒りで顔を真っ赤にした、これも180㎝程の別なイギリスが、大きな声で「あんな簡単な事もできないなんて!」と言いながら飛び出してきた。私の前の前のギタリストはどうも彼の気に入るレベルではなかったらしい。それを見ていた私の前のギタリスト…彼が次の番だった・・・は臆したのか「家で少し練習してから出直してくるよ」とバンドのメンバーに申し出て、さっきのテープをもらってさっさと帰ってしまった。とうとう私一人が取り残された。私は、前のギタリストの取った素速い行動に追随しようとして、早口でもう一人のメンバー2にまくし立てているメンバー1の体越しに(彼の背が高すぎるので肩越しは無理だった)話しかける隙を狙っていたのだがなかなか終わらない。ようやく、メンバーくんたちの話が一段落したところで、先ほどスタジオから怒り心頭で飛び出してきたメンバーが振り返り「君が次だね。」と先ほどの顔とはうって変わった笑顔で私に微笑みかけた。私は後ろを振り返ったが、あいにく私の後には誰もいない。蛇に睨まれた蛙で、もう逃げられない。「ダメでもともと!」「とにかくやってみっか!」と持ち前の開き直りで「はい!」と答えた。<続く>
2003年10月20日
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ピーター・ホワイトというキーボードプレイヤーと出会った時の事を書いてみる。彼はそれまでオーストラリアでバンド活動をしていたのだが、その頃イギリスに戻ってきて新しくバンドを探し始めた。彼が載せた広告に電話をしたところ、次の日には私の家に遊びに来た。その日は、話をしたり2人でジャム(適当なコードを決めて演奏をすること)をしたりして遊んだだけだったが、後日電話があり、アメリカ人のボーカルとパブバンドを作るんだけど、彼のギターがいまいちなので手伝ってくれないかという事だった。このような具合でバンドを始めた事もあったのだが、彼のキーボードはすごく良かった。曲の内容は、THE LETTER、HI HEEL SNEAKER、DRIFT AWAYなど往年のソウル系で、ボーカルはいまいちだったが、演奏は楽しんだ。それぞれソロ(間奏)を取る時は、全部一発勝負でオリジナルは関係無しに好きなように弾く。ピーターのソロの凄いなあと思わせるところは、最初に私がソロを弾いて次に彼が弾く時など、即興でまず私のフレーズを取り入れて弾き始め、そのあとで自分のフレーズに持ってゆくところだった。このバンドは1-2回リハーサルスタジオで音を合わせただけで、後はいわゆるぶっつけ本番だったのだが、思いもよらないところでお互いの音とタイミングが合ったりするなど、結構スリルがあっておもしろかった。そんな時は観客も楽しんでくれて、とてもよいムードのGIG(演奏)になった。
2003年10月19日
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1980年の初期、私の労働許可証はフィルムコーディネーターという肩書きのものだったので、その仕事以外の職につくことはできなかった。しかし、その仕事について3年たった頃、後1年で永住権が手にはいることもあり、無性にバンドに入り、音楽にどっぷりと浸かってみたくなった。それまでは仕事の傍らパブバンドに入り、人の曲を自分なりに弾いてバンドの反感をかったりしていたのだが(お客は結構楽しんでいた)オリジナルの曲を演奏しているバンドに入りたかったのだと思う。雑誌で、バンドのギタリスト募集という欄を見て自分に合いそうなバンドがあると電話をかけてみたが、中には「日本人だって?」と失望した声で応対されたこともあった。「試してごらんって!絶対悪くはないから!」と相手を説得して、無理やりオーディションの日時を決めさせた。当日オーディションの場所に行くとベース、ドラム、ギターの三人が待っていてその場でブルースを演奏したのだが、なぜか私にはピンと来るものがなかった。ロンドンのオーディションは、殆んどがリハーサルスタジオを使って行なわれる。といっても日本みたいにドラムセットやギターアンプがあるわけではなく、ただグレーのフェルトで防音された広い部屋に、ミキサーやスピーカーなどの音響設備が置いてあるだけで、ドラムセットやアンプ等は自分の機材を持ってくることになっている。バンドの場合自分の音を大切にしているので、いつも自分の機材を使うのが当然といえば当然なのだが、リハーサルスタジオに機材を持ち込むのが一苦労だった。私が所属していたバンドは、自分の機材だけでなくバンドのステージの音響設備一式*ドラムライザー=ステージでドラムを一段高いところに置くための台で、これを使うとドラムの音が良くなる*16chミキサー*ステージ用モニター×5*大きなコンサート用スピーカー×2*これに付随してくる機材の入ったラック×3=金属製のケース、でこれがメチャクチャ重い!を持っていたので、コンサート前のリハーサルをする時は、大きなリハーサルスタジオを少なくとも4‐5日は借りて練習をしていた。そのために、いつもリハーサルの初日は機材のセッティングだけで3-4時間、時には丸一日はかかっていた。それ以外のバンドの練習は、プライベートのビルの中にある地下室(防音済み)を借り切ってそこに常時機材をセッティングしており、いつでもリハーサルができる状態にしてあった。話がそれてしまったが、私が受けたオーディションのほとんどは、相手がギターのアンプだけは用意してくれていたので、わたしはギターとエフェクター(ギターの音を変える機械)だけ持っていけばよかった。色々なオーディションの中でもちろん嫌な思いもしたことはある。電話での応対はとてもよかったのだが、オーディションの場に行ってみると、黒人女性がヴォーカルでベース、ドラム、キーボードが全員白人のフュージョン系のバンドで、彼らは私に、曲のキーもコード進行も教えずにいきなり演奏をはじめた。その曲は特に好きなタイプのフュージョンでもなかった事もあり、適当に弾いているうちに私の番が終わった。自分の機材を片付けて帰り支度をしていると、いつの間にか入ってきた次の番の黒人ギタリストに、さっきのヴォ-カルの女が丁寧に曲のコード進行や弾き方等を指導し始めていた。私はこの時、人種的な差別を受けたような気がしたが、取り立てて何も言わずにその場を去った。一つおかしかったものは、彼らが音楽プロダクションに所属しているバンドだというので、行ってみたオーディションだった。私は、ラッセルスクエアー(大英博物館の近く)近くにある事務所の一室に通され、まず彼らに作ったテープ(この頃ロンドンはまだカセットテープの時代だった)を聴かせたところメンバーは、テープを気に入ってくれた。そのあとバンドのドラマーから、彼らはパワーステーション(故.ロバート・パーマーがいたバンド)のような音楽をやりたいが、彼らの音楽が好きか? という質問をされた。そこまでは良かったのだが、そのあとあなたは化粧をする事に抵抗はあるか?ハイヒールを履くことに抵抗はあるか?空手をやるのか?とおよそ音楽に関係のない質問をされた。おかしさをこらえながら、必要だったらやっても良いと答えておいたが、二次のオーディションには行かなかった。
2003年10月18日
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