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ずいぶんご無沙汰しています。マラウイから大きなニュースが届いたので、更新です。今月5日、Bingu wa Mutharika大統領が心臓発作のためご逝去されました。78歳でした。→★ムタリカ大統領は反政府グループに対する圧力を強め、市民団体リーダを不当逮捕したり、野党の党集会を阻止したりしており、先月、市民団体が大統領の辞職を要求。応じなければ国民に政権の是非を問う国民投票を呼びかけており、政府側と反政府側との衝突が必至な状況でした。→★マラウイの憲法では大統領が死去した場合、直ちに副大統領が就任すると定めているそうですが、ジョイス・バンダ副大統領はムタリカ大統領が2010年に自分の弟を後継者に指名した際、与党Democratic Progressive Partyから除名されており、新たな政党People's Partyを作っていました。ムタリカ大統領の突然の逝去に伴い、後継者争いが懸念されていましたが、昨日7日、ジョイス・バンダ副大統領が無事、次期大統領に就任されたそうです。→★マラウイでは初、アフリカでも昨年、ノーベル平和賞を受賞されたリベリアのEllen Johnson Sirleaf大統領に次いで2人目の女性大統領の誕生です。先月、マラウイに行った友人によれば、ガソリンの高騰から来る交通費、食費など、物価が急騰しているそうで、前途多難でしょうが、マラウイのために頑張ってほしいものです。
April 8, 2012
お久しぶりです。中国旅行記、たった2日分書いたところで止まったまま、ご無礼しております。パソコンの電源が入らなくなり、修理に出しています。中国旅行の写真は、そのパソコンのハードディスクの中にしか残しておらず・・・おばかですね。。。写真が無事、戻ってくることを願うばかりです・・・
September 23, 2011
西安市内へ戻るには、秦始皇陵から再びシャトルバスで、兵馬俑まで戻る必要があります。 シャトルバス乗り場で、JTBの旗とともに歩いていらっしゃる団体とご一緒しました。 見た目、誰が中国人で日本人か、ほとんど区別がつきません。 私も旅行中、ずーーーっと中国語で話しかけられました ここまでの日記を書いて自分で思ったのですが、ツアーに乗ってしまえば、 前日やこの日のような無駄な動きをせずに目的地に着けるし、 観光地ではガイドさんが詳しく説明してくれるし、 劇やショーなど、見られる席や時間を用意してくれるのかもしれません。 今回は上海までのチケットを先に入手しており、 上海から、あるいは西安からツアーに乗ろうかと思い、何社か見積もりを取ったのですが、 いずれも20万円前後で、日本からのツアーと金額的に大差なかったり、 ホテルも自分でネットで予約した方が半額以下だったりしたので、 ツアーには乗りませんでした。 この日も、兵馬俑をはじめとする1日ツアーに乗ろうかと思ったのですが、 朝、ツアーの集合時刻に間に合うように行動できる自信がなかったので、 申し込みませんでした。 結果、兵馬俑と秦始皇陵にしか行けませんでした。 ツアーに乗れば、もっといろいろ見られたわけで、 もうそろそろ、ツアーに乗るべき世代なのかもしれません。 その方が限られた旅行時間を有効に使えますよね。話は戻って、兵馬俑から市内へ戻るバスは観光バスタイプで、通路は1人が通れる程度でしたが、途中の停留所で何度も止まり、通勤帰りとおぼしき人々が通路にぎゅうぎゅうに立っていました。 道中、バスが道をそれて寄り道・・・・・・給油です。ぎゅうぎゅう詰めの客を乗せたままの給油。。。。。。 マラウイのミニバスじゃん♪ マラウイに住み始めた当初、客を乗せて給油することが理解不能でした。 客を乗せる前に給油しておいてよ、と、いらいらしていました。 でもぎりぎりのガソリンで走っている彼らにとって、 客が集まり、出発できることが確定してから、給油するんですよね。 ガソリンメーターが壊れていて、残油量が不確かな車両もありますが。日本ではあり得ない、久しぶりのこの状況に、頬がゆるんでしまいました 出発前に読んだ、数年前に書かれた本には「500元札など多くの中国人は持っていないから、小銭を用意しておく」との記載があり、お金をあまり持たないようにしていた私。が、兵馬俑の入場券を買う際、私の前に並んでいた人のお財布には500元札がわんさか入っていました。経済発展めざましいですな。兵馬俑の入場料とお昼代で、手持ちのお金がほとんどなくなり、夕食をとることもできず、お金を取りにいったんホテルへ戻りました。 なんだかとっても疲れていて、夕食のために繁華街まで出る気力がなくホテルの3軒ほど隣の軒先で、串に刺した肉をアテにビールを飲んでいる人たちがいたので、のぞいていたところ、その人たちが手招きして、隣のテーブルにいすを用意してくれました。 このお店の奥へ何人も入っていくので、何人家族かと思いきや、 翌朝確認したところ、集合住宅の入口が、夜は店舗? になるようです。 炭火で焼いてくれます。 1串0.5元、20本で10元。あまりの安さにどぎまぎしながら何の肉か尋ねたところ、残念ながら? 牛だそうです。香辛料が効いていて、美味しかったです。シシカバブなんでしょうな。ビールを数本いただいて、おなかもふくれたので、帰ろうとしたところ、最初に手招きしてくれた隣のお客さんが、ビールを2本ごちそうしてくれましたその人と乾杯をしたところ、中国では乾杯後、一気に飲み干すんですね。韓国と一緒だぁと、つながりを感じました飲み逃げは申し訳ない気がしたので、今度は私から3本、隣のテーブルへ同じテーブルにいた他のお客さんたちも、乾杯をしに来てくれました。やっぱり飲み干す 飲み干す楽しかったですね~言葉は通じないけれど、笑顔でお酒を酌み交わすことができる。それが私の旅の楽しみでもあり★、★、彼らのおかげで、中国でもそんな時間を過ごせることを知りましたビール7本とシシカバブ20本で、45元でした。酔っ払った勢いで、前夜、ビールを買ったホテルの前のお店のお姉さんとも記念撮影このお姉さんの笑顔も素敵でしたにほんブログ村
August 7, 2011
兵馬俑の見学を一通り終えたところで、昼食お昼を随分過ぎていて、おなかがすいていたこともあり、お店の前でおじさんが麺を打っていたお店に入りました。兵馬俑の敷地内で・・・ウエイトレスさんがお勧めと、メニューに次々指さす中から3品を頼んだのですが、鉄板に乗った牛肉炒めが68元、卵と青菜炒め、羊肉とねぎ炒めが各48元、ビールが1本30元・・・ メニューではビールは25元でしたが、ウエイトレスさんが持ってきたブランドの ビールは30元なのだそうです。頼んでないがな・・・この時は中国に着いた翌日で、よくわかってなかったのですが、この食堂、無茶苦茶、高いです北京や上海など、都会のレストランなら、これくらい普通なのかもしれませんが、この先まわった西部の市、村に比べて、一皿の量も少なく、破格に高い 3品も頼んじゃったから、残しちゃったんですけどね他の中国人のお客さんも、お会計の時にもめていました・・・以来、観光地の敷地内のレストランには近寄りませんでした。兵馬俑から秦始皇陵へは、無料のシャトルバスが走っており、片道10~15分くらいだったと思います。道の両脇の木々には、桃がたくさん実っていました。 桃は、私がいちばん好きな果物なんです わかりづらいけど、木についている黄色の点々と白い袋をかぶっているのが、桃の実です。兵馬俑でも秦始皇陵でも、桃を山積みにして売っている人たちがいましたが、さすがに一山買っても食べきれる自信はなく・・・秦始皇陵へ入場した頃には、疲れていたのでしょうね。16人くらい乗れるカートが走っていたので、行き先もわからぬまま乗り込みました(8元)。秦始皇陵のまわりをぐるーっと一周。その間、中国語の説明が流れていました。看板の前で下ろしてくれます。 私たちがカートから下りようとするや否や、人民の方たちが先を競って乗ってこられました 衣装や旗、小道具が置かれていて、役者と思しき人々が脇のテントで休んでいらっしゃいましたから、時間によってはショーが見られるのかもしれませんね。陵の周りにもたくさん木が植えられていて、歩いていて気持ちが良かったです。出口までのんびりお散歩しましたが、以前、ここを訪れた人によれば、普通は陵の上まで登るのだそうです。通路があったので、歩きやすいのではないでしょうか。私たちはこの時すでに、広大な中国を歩き疲れていましたにほんブログ村
August 7, 2011
兵馬俑は今もまだ、発掘&修理が続いているようです。 この作業場は「撮影禁止」になっていましたが、中国の人たちはぱしゃぱしゃ撮ってたし、この日は日曜で、作業している方たちもいなかったので、いっかと思い、私もぱしゃり 後日、テレビのコマーシャルで、「マナーを守りましょう」という啓発アニメを見ました。 その中の1本に「撮影禁止の博物館で写真を撮らない」というものもありました。 私もマナーの悪い観光客の一人でしたね 馬の尻尾がかわいいおそらく2号坑だったと思うのですが、屋根も残っていました。そして、2号坑から発掘された兵士たちがガラスケースの中に入れられ、展示されています。 いろんなポーズがありますね。3号坑も見ましたが、写真がない文物陳列庁では、発掘された物を見ることができます。服装の違いから、戦士たちの4つの階級がわかるそうです。 粘土細工だけでなく、ブロンズ製の物や、色が塗ってある物など、発掘されています。石でできた鎧とヘルメットもありました。 この人は、珍しい動物の見張り番だそうです。大変なご職業ですね・・・ 1987年に世界遺産に登録されたそうですにほんブログ村
August 7, 2011
西安駅前のバスターミナルからは、兵馬俑行きのバスがひっきりなしに出ていました。 人民のみなさんにとっても、一大観光地ですものね。一人片道8元で、西安から1時間以上かかったと同行者は言っていますが、私は記憶がない路線バスの終点で降ろされたものの、入口がわからず、鍵のかかっていた門のわきの生け垣を乗り越え、宿や食堂、お土産物屋さんが並ぶ小道を10分近く進んでようやく、レストランやお土産物屋さんの並ぶメインストリート?に出ました。入口にたどり着くまでの売店で、青島?酒を購入(1本30元)。前夜、ホテルの前の売店で買ったビールは大びんで3.5元か4元だったのに、小さな瓶で30元 観光地に来ていることを実感しました。さらに、なだらかな坂を10分近く上ったところで、ようやく入口。が、ここでは、入場券は売っていませんでした駐車場に切符売り場が隣接しており、そこで買うのだそうです。がーん…llllll(-_-;)llllllちゃんと、ダフ屋さん? がいて、110元のところを、115元で売ってくれるそうです。このたった5元≒70円を惜しみ、駐車場まで20分ほどかけて往復した私・・・そんなこんなで、やっとのことで兵馬俑へ入場・・・したところで、気付きました。 カメラをホテルに置いてきてしまった・・・|||||/(=ω=。)\ガーン|||||というわけで、写真はすべて携帯で撮ったものです1号坑、圧巻です。 農民が掘っていたという井戸のあと 井戸を掘っていた楊さんは、今もお土産物屋さんをされているそうです。井戸の前で、整列! 石に模様が刻まれています。 にほんブログ村
August 7, 2011
初めて彼らの姿を拝見したのは、社会科の資料集だったか、何かの雑誌だったのか、記憶が定かではありませんが万里の長城を築き、焚書や坑儒などの悪名高き? 秦の始皇帝を守るため、2200年余にわたり、地中にあった彼ら顔の彫りの深さや輪郭など、その多様性から、兵士たちが中国各地の出身であることがわかり、秦の支配地域の広さがうかがえることなど、断片的に得ていた情報から、いつかはお会いしたいと思っていました。今回の旅先を決めようと、ガイドブックを立ち読みしていた際、最初は、いつかは行きたい九寨溝にしようかと思ったのですが、彼らの写真を見た瞬間、彼らに会いたかった自分を思い出し西安が今回の旅の大きな目的地になりました「西安」というよりも、「長安」と呼べば、さらに郷愁? が深まります。遣唐使として吉備真備や最澄、空海らが向かい、鑑真が学び、教えていた土地そこへ、一般庶民の私が、日本からたった数時間でたどり着いてしまうなんて、奈良時代の人から見れば、宇宙旅行をしているようなAmazing ですよね、きっと。現在の西安も、人口774万人を擁する大都会です(『地球の歩き方』2011~2012年版より)。兵馬俑へ向かうには、「游5、K307、914、915路バス」と地球の歩き方にはありますが、そのバスをどこで見つけられるのかわからない泊まった安宿では、フロントでも旅行案内カウンターでも、日本語はおろか、英語も通じない 人民のみなさん向けのホテルだったんでしょうね。前日、空港から市内へ来たバスの中から見かけた観光案内所を目指し、市内中心部に向かって歩き始めたのですが、中国ってば、広い。。。ε=( ̄。 ̄;A フゥ…30分あまり歩いても、結局、観光案内所へはたどり着けず、大きなホテルのフロントで聞きました 彼女とは、英語で話せました“train station 游5” って、わざわざ筆談までしてくれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・正反対じゃん!泊まっているホテルを出て、北へと向かうべきところを、南へ向かい、30分も歩いていたわけです・・・駅まで歩く気力はとてもなくホテルを出たところにいた、タクシーの運転手さんから、「3 (00元で、兵馬俑まで往復するよ) 」 3は指文字、( )の中は私の想像と話しかけられましたが、それが高いのか適正価格なのかもわからず、2人乗りバイクタクシー、インドならリキシャ、タイならトゥクトゥクと呼ばれている類の乗り物で、西安駅へと向かいましたこの運転手さんは、私が西安で会ったドライバーの中で唯一、英語が話せました 永寧門(南門)の近くから駅まで、30元にほんブログ村
August 7, 2011
数年ぶりの旅のため、「旅」の感覚をすっかり忘れていた私最初の失敗は、円から元への換金を、日本と上海の空港でしてしまったこと。1元=14円という非常にレートの悪い旅になってしまいました中部空港から、全日空939便で上海へ出発そのまま上海航空9203便で西安へ 航空券760元+税50元+燃油サーチャージ140元=950元 ネットで購入しました。上海14:00発の便でしたが、簡単なスナックが出ました。 国内線では、いずれもアルコールが出なかったのがつらかったですこの後、何回か国内線に乗りましたが、スクリーン(荷物入れの下から出てくる、数席ごとに共有の物)がついていたのはこの便だけでした。自分でもなぜ撮ったのかわからない、前の座席のシートカバー約2時間半で、西安へ到着空港では、西安の中国語の地図は無料で配られていましたが、英語の地図は12元でした。空港からは、シャトルバスで市内へ(26元)バスを降りたところにいたバイクタクシーでホテルへ(20元) 指を2本出されたので、てっきり2元だと思い、快諾したのですが、 ホテルに着いたところで、20元だと言われました宿泊は、事前にホテル検索サイトで予約してあった申鵬酒店(1泊1室1,577円)お値段のことだけあって、エアコンの室外機へとつなぐホースのために窓がずれていて、鍵がかからない 8階だったから、防犯は大丈夫だろうと思い、何も言いませんでした壁のクロスははがれかけ、内側に生えているかびが丸見え「ホテルというより、ゲストハウスだね」と、同行者も呆れていました。でも一応、バスタブもついていて、シャワーのお湯はたっぷり出たし、韓国でよく見かける↓こういうタイプの浄水器も部屋においてあって、便利でした。その夜は、ディナーショーが楽しめるという陝西歌舞大劇院へ。着いた初日はどこでもそうでしたが、地図の縮尺を感覚でつかめず、この時も、会場にたどり着くまでに随分さまよってしまいましたショーだけなら238元、100元足すと地元のお食事か餃子料理とフリーワンドリンク、200元ほど足せば宮廷料理をいただけるそうです。100元で地元のお料理を注文。結構ボリュームがありました。 「すいかが美味しかった」と、すいか嫌いの同行者が言っていました。夏場は20:15からショーが始まるそうです。ショーの間、客席は真っ暗になってしまいました会場へたどり着いたのが、19:30頃だった私たちは、食事も半ば・・・予約をしていなかったので、2階後部席で、ステージからは遠く、立ち上がって観覧されていた前席のご家族の後ろ姿を拝見しておりました 私たちの後ろには誰もいなかったので、私も負けじと立ち上がって撮った1枚ショーが終わると同時にテーブルはさっさと片付けられてしまい、食事を終えることはできませんでした劇場へは早めに行くべきですねにほんブログ村
August 6, 2011
お久しぶりです。8月6日から、中国へ行ってきましたなぜ中国?たまったマイレージで行けるのが上海だったので、とりあえず上海までのチケットを取ったのが、5月。そこから先は、どこに行こう?という感じでしたが、ガイドブックを立ち読みしたり、ネットを徘徊したりした結果、農民が井戸を掘っていて、たまたま見つけるまで2200年余にわたり、土の中で秦の始皇帝を守り続けてきたお人形さんたちに以前から会ってみたかったことを思い出し、兵馬俑に行くことにしました。中国へは、2003年に北京を訪れて以来、2回目です。北京と上海、北部と西部の差もあるのかもしれませんが、たった8年で、人民の皆さんがずいぶん垢ぬけて、そしてお金持ちになっていらっしゃると感じました。スマートフォンやデジカメ、ビデオ、iPod、iPadをお持ちで、 それもSOMYとかじゃなく、普通にSONYだったりぴかぴかの新車がびゅんびゅん走っていました中国の急激な変化には、ただ驚くばかりとても慌ただしい旅でしたが、素敵な出会いもいくつかあって、すっかり中国にはまってしまいそうです あんなに韓国好きだった私ですが、昨今の韓流には食傷気味です約3年ぶりのパスポートを使う機会日本から「旅」立つのは5年半ぶりです旅のコツや感覚をすっかり忘れており、後から悔んだこともしばしば・・・そんな今回の旅を少しずつ綴っていこうと思います中国の経済的な変化も残しておきたく、下世話な金銭的な記録も多くなるかと思いますが、ご容赦くださいにほんブログ村
August 5, 2011
しおんさんのこの日記を拝読して以来、ずっと気になっていた「沈まぬ太陽」沈まぬ太陽【ストーリー】昭和30年代―。巨大企業・国民航空社員の労働組合委員長、恩地 元(渡辺 謙)。組合委員長として職場環境の改善に取り組んだ結果、恩地を待っていたのは会社からの海外赴任辞令だった。恩地はパキスタン、イラン、そして路線の就航もないケニアへと赴任。会社は帰国をちらつかせ、恩地に組合からの脱退を迫る一方で、露骨に組合の分断を図っていた。そんな中、共に闘った同期の行天四郎(三浦友和)は早々に組合を抜け、エリートコースを歩みはじめる。同僚でありながら行天の愛人の国際線客室乗務員・三井美樹(松雪泰子)は、対照的な人生を歩む2人を冷静に見続ける。行天の裏切り、更に妻・りつ子(鈴木京香)ら家族との長年にわたる離れ離れの生活―。焦燥感と孤独とが、恩地を次第に追いつめていく。9年におよび僻地での不遇な海外勤務に耐え、本社へ復帰を果たしたものの、恩地への待遇が変わることはなかった。逆境の日々のなか、ついに「その日」はおとずれる。航空史上最大の航空機墜落事故。想像を絶する犠牲者の数―遺体の検視、事故原因の究明、補償交渉。救援隊として現地に赴き、遺族係を命ぜられた恩地は、誰も経験をしたことがない悲劇に直面し、苦悩する。墜落は、起こるべくして起きた事故だったのか。政府は組織の建て直しを図るべく、新会長に国見正之(石坂浩二)の就任を要請。恩地は新設された会長室の室長に抜擢される。「きみの力を借りたい」。国見の真摯な説得が恩地を動かした。しかし、それは終わりなき暗闇の始まりだった・・・・・・。(HMV楽天市場ストア作品紹介より引用)ようやく観られました、昨晩の地上波放送で^^; 映画館にも行かず、レンタルすらせず、貧乏くさい奴昨夜はお出かけだったので、先ほど、見終わりました。 CM長いな~ 百恵ちゃんの御主人、悪役がすっかり板について・・・ 大岡越前殿、すっかりおじいさんになられて・・・などと瑣末な感想はさておき、渡辺謙さん演じる恩地元さんのセリフが心に染みました「(日本に帰りたいとばかり思っていたけれど、帰ってみれば日本は) おそろしくて、残酷で、気の休まる時がない」「この会社は、何も答えてくれない」「(御巣鷹山事故で、息子さんご夫婦とお孫さんを亡くされた方に対して)私が今まで経験したすべての理不尽で、ひどい時間を百万倍にしたところで、あなたの絶望には、決して届かない。私は今までなんとささいな、取るに足らないことに傷つき、それをのろい、おのれの不幸を嘆いていたことか」Wikipediaによれば、渡辺謙さん演じた恩地さんには実在のモデルがいらっしゃるようですね。モデルになった方々からは、この原作に対するご批判も大きいようですが。ラストシーンの壮大な夕陽には、涙が止まりませんでした恩地さんは遮るもののない雄大な大地と自然をたたえていらっしゃいました。のみならず、アフリカの魅力は、そこに暮らす人々の豊かさだと私は感じています。私もいつか必ず、アフリカに帰るのです!
February 12, 2011
お久しぶりです。ネットニュースをうろうろしていて、出会った記事です。海老蔵「おれは人間国宝だ」酒グセの悪い!衝撃の素顔(zakzak 2010.11.26)(前略) 一部スポーツ紙によると5年前、当時、阪神タイガースの選手だった赤星憲広(34)ら4選手が飲んでいた席に海老蔵が乱入。「いくらもらってるの?」とたずね、「オレなんか、国から60(歳)まで2億もらえる!」と自慢を始めた。 その後、赤星に腕相撲を挑み、代わって相手をした鳥谷敬選手(29)に“瞬殺”され、その途端、おとなしくなったという。鳥谷、男前
November 26, 2010
お久しぶりです。人ごみの苦手な私が、ふと思い立ち、平城宮跡へ行ってきました。11月上旬に終わってしまうそうですし、遷都1300年祭ですから。まったく無計画なお出かけで、渋滞にはまり、ようやくたどり着いたのはお昼すぎ。平城京歴史館/遣唐使船復原展示の入場整理券の配布は終わっていましたフードコートは黒山の人だかり。できるだけ人の列が少ないお店を選んだ結果、古都なのに、ランチは文字がうまく表示されているかわかりませんが、ミックスワッフルの写真に注意書きが貼られていました。「写真はイメージです。 ただ今イチゴはぶどうです。」イチゴはぶどう。こういう不思議な日本語にハマってしまいます大極殿 天皇の即位式や外国使節との面会など、国のもっとも重要な儀式のために使われていました。(公式ホームページより)東西南北を、竜やフェニックスなど、各々の動物が守っているそうです。どの方位をどの動物が守っているか、すっかり忘れてしまった。コナン君にそんなネタがありましたね。私の知識って、コナン君以下だわ 天皇さんがお座りになっていた椅子マチュピチュよりもずっと古い、1300年も前に暮らしていた人たちの都に立っているのに、感慨が乏しいのはなぜ?人ごみに圧倒されたのか。家から数時間でたどり着けてしまい、「やって来たゾ!」感が乏しいのか?よくわかりませんが、秋の行楽を楽しみました
October 10, 2010
お久しぶりです。学生時代の指導教官が、「時代の限界」という概念を教えてくださいました。『龍馬伝』の台詞に感動するように、時を超えて変わらぬ真理もあるけれど、その時代には見えなかったものが、見えるようになる時代もある。 卑近な例で恐縮ですが、私は未だ、 携帯電話を使いこなせないですし、今の流行の歌も番組も知りません。 それは、私が自らつくっている「世代の限界」でしょう。さらに、「地域の限界」とでも言いましょうか。地域による価値観の差を、痛感させられております。今の職場では、当番制で、戸締りをしてまわります。そのお当番の方に、「ありがとうございます」とお声かけしたところ、大先輩から、「やっぱり、あなたの言葉遣いはおかしい」と、ご指導いただきました。その前日にも、私ができないことをしてくださっているその先輩に、「お願いします」と言ったところ、その先輩には、かなり不快な言葉だったそうです。そんな失敗を重ねてしまってから、数日間、自省しました。私は、社会人として働いた経験が、神戸の下町や、その近郊の漁村だけでした。神戸の中でも、芦屋に近いハイソな地域は、京都に近い印象があります。けれど、下町や漁村では、言葉はきつくても、腹に一物抱えていないと言いましょうか。裏のない、安心感がありました。先輩を不快にさせている猛省の中から、以下のことを発見しました。私が過ごさせていただいた下町や漁村では、お互いに支え合って生きていた歴史のなかで育まれた、「おたがいさま」の感覚が残っているのかもしれません。だから、今の自分にできないことを誰かがしてくれていたら、「ありがとう」と、口にしていた。でも、今、私のいる環境では、その「ありがとう」が、「あなたのためにしているわけではない」と、不快を与えるようです。私は、自分が周りの人たちに不快を与えているなら、職を辞すべきかと悩みました。そんな私の感覚を、先輩方はまったく理解できないそうです。社会のお役に立てないのであれば、その場を去るべきだと、無意識に思っていた自分に気づかされました。幸いなことに、私は「政治的市民」について考える時間をいただいたり、それに関する著述に接する機会もいただきました。地域差、価値観の差であり、優劣はありません。でも、どれだけ自分がお役に立てるか。そんな視点をいただけた、とても恵まれた環境に生きてきたことに改めて感謝しました。久しぶりにぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
May 17, 2010
しおんさんのこの日記を拝読し、記録しておきたくなりました2007年12月、ヴィクトリアの滝でバンジージャンプをしました。ヴィクトリアの滝は、アフリカのザンビアとジンバブエの国境にあり、世界三大瀑布のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されています(wikipediaより)。私が訪れたのは乾季だったので、水量は少なく、滝の上を歩くこともできました 下の左の写真、上部に人影が写っているの、うまく表示されているかな?乾季には、滝のすぐ真上で、水泳も楽しむことができます。 水着を持っていなかったのが、とても残念滝壺を真上から眺めれば、虹も見られましたマイクロフライトで、空中からもザンベジ川とヴィクトリアの滝を眺めました。 やっぱり水量は少ないですね。そして、バンジージャンプ。私はザンビア側に宿泊しましたが、バンジージャンプはザンビア側から一旦、ジンバブエ領に入り、ヴィクトリアの滝の橋の上から飛びます。 国境で簡単なメモにスタンプを押してもらうだけで、 ジンバブエに入国することができましたが、 私のパスポートにジンバブエ入国の記録は残っていません この橋を遠くから見ると、こんな感じ橋の中央に設置されたバンジー台橋の上から、川底をのぞくと、こんな感じご陽気な係員さんたちに、「コンニチハ。コワーイ? コワクナーイ。バンザーイ。 ゴー、ヨン、サン、ニー、イチ」と日本語で語りかけられ、押し出され、飛びます(落されます?) 終わった後は、川に浮かべたボートへ下ろされ、橋の欄干を歩いて戻ります。 左の写真、上部に小さく写っているのが、バンジー台。この欄干を歩いて上っていた時、ちょうど雨が降り始め、欄干が滑ったこともあり、とても怖かったですこのザンベジ川でのバンジージャンプは、111メートルだそうです。高さがあるため、何度も上昇したり、下降したりをくり返します。バンジージャンプがお好きな方は、何回もバンジージャンプをしてるみたいで、お得感があるというか、楽しさが続いたそうですが、私はこの時が初バンジー。この上下移動がたまらず不快で、もう2度としたくないです当時、ここのバンジーが、世界第3位の高さと聞きました。Wikipediaによれば、2009年現在、世界1の高さをほこるバンジージャンプはギネスにも認定されたマカオタワーからの233m(マカオ観光局公式サイト)。次いで、スイスのヴェルザスカ・ダムの220m。南アフリカのブロークランズ橋も、216mあるそうですから、ザンベジ川の111メートルは、たったの半分ですねとはいえ、充分、怖かったです世界は広いですね。 バンジージャンプする今日もぽちっと応援ありがとうございます
February 21, 2010
このブログで何度か登場した、Dr. Bingu wa Mutharika、覚えていらっしゃいますか?マラウイ共和国の大統領です。赴任中、数メートル先に彼のお姿を拝見する機会が2度ありましたが、残念ながら生写真はなく、肖像画でご容赦ください。2007年に彼の奥さまが逝去され、明日のバレンタインに再婚されるのだそうです。バレンタインに挙式なんて、sweetなんでしょうちなみに、前妻が崩御されたとき、Dr. Binguは75歳。Wikipediaによれば、挙式の10日後、77歳におなりになるようです。先日、南アフリカ共和国の現大統領の多妻を非難する記事を見ました。例によって、すぐに見られなくなるので、転載しますね。南アフリカ大統領が一夫多妻の風習を擁護 自身も5度結婚(CNN, 2010.01.29) 南アフリカのズマ大統領が28日、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)の会場で、米誌ニューズウィークのインタビューに応じた。同国で合法とされる一夫多妻の風習について問われ、「文化の一部だ」と力説した。 大統領は同誌編集者に、「文化にはさまざまな解釈がある。自分の文化がほかより優れている、神に認められる唯一の文化だ、などと考える人もいる」と指摘。「わが国では、ほかの文化も尊重するべきだという考え方をとっている」と述べた。 そのうえで、自身が一夫多妻の文化に従っていることは、政治信念や男女平等の考え方には影響しないと強調した。 ズマ大統領は今月、通算5回目の結婚式を挙げたばかり。一夫多妻を「前近代的」「女性差別」と批判する国内外の反対派から批判を浴びた。相手の女性のうち1人とは離婚し、もう1人は自殺している。現在3人の妻と公平に接しているか、との質問に、会場内の注目が集まる中、大統領は「もちろんそうだ」と断言した。 Dr. Binguはおそらく一妻だと思います。先月にはアフリカ連合総会議長に就任されたそうですし、お元気で何よりです。一方で、マラウイの前大統領Bakili Muluziのボディガードが殺されたというニュースもあり、不穏な感じもしますが、マラウイの皆さんに幸多かれと願うばかりです。ともあれ、Happy wedding & valentineすっかり月刊ブログになっていますが、呆れず、お付き合い賜れれば、幸いです。今日もぽちっと応援ありがとうございます
February 13, 2010
ご挨拶が遅くなりましたが、あけましておめでとうございます本年も引き続き、よろしくお願いします (o*。_。)oペコッ 今朝、JICAから届いたメールに驚きましたあなたのご希望分野の求人情報が届きました!★「草の根・人間の安全保障無償資金協力」外部委嘱員募集(契約) 団体名:在イエメン日本国大使館 勤務地:イエメン 募集期間:2010/01/04~2010/01/13えええっ昨日、窓口を閉鎖された在イエメン大使館で、求人ですか?web上の記事は、すぐ読めなくなってしまうため、以下、長くなりますが、転載します。「イエメン当局が武装勢力殺害、各国大使館は閉鎖」(2010年1月5日、ロイター) イエメン情勢をめぐる懸念の広がりを受けて一部欧米諸国の在イエメン大使館が閉鎖を余儀なくされるなか、日本大使館も4日、領事業務の窓口を閉鎖した。 クリスマスに発生した米航空機爆破未遂事件後、捜査を進めていたイエメン治安当局は4日、アルカイダ系武装組織メンバーを少なくとも2人殺害したことを明らかにした。 クリントン米国務長官は「イエメンのアルカイダ系組織は同国内の争いを地域を越えたテロ攻撃に利用しようとしている」と述べ、イエメンでの情勢不安は周辺地域および世界の安定に対する脅威だとの見方を示した。 イエメン治安当局者はロイターに対し、4日に攻撃したアルカイダ系武装組織について、在イエメン米国大使館への攻撃を企てていた可能性があるとし、「治安当局はここ数日間この組織を監視してきた。そしてきょう、攻撃した」と述べた。 米国と英国は3日から、攻撃の懸念があるとして在イエメン大使館を閉鎖している。フランスやイタリアなどその他欧州諸国も、在イエメン大使館の閉鎖や一部業務停止などを決定した。 イエメンを拠点とするアルカイダ系武装組織「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)は、米航空機爆破未遂事件について関与を認める声明を発表している。 イエメンのサレハ大統領は4日、「イエメンへの攻撃を企てる者に立ち向かい、打ち勝つ」用意があると表明した。国営メディアが伝えた。 オバマ米大統領は、イエメン政府によるアルカイダ掃討を支援する姿勢を示している。 ペトレアス米中央軍司令官は先週、イエメン政府に対する米国の対テロ支援額を7000万ドルから倍以上に増やす方針を明らかにしたが、米国防総省は4日、この件についてまだ決定はされていないとした。そんな在イエメン大使館で、求人があるということは、一時的に閉鎖されても、数ヵ月後には再開できる見通しなのでしょうか。これまでも何度かご紹介した通り(★、★、★、★)、イエメンは好きな国の一つであり条件さえ合えば、応募したいところですが、残念ながら、私はアラビア語もできません一方で、こんな記事も「岡田ジャパン、イエメン戦は緊迫/アジア杯」(2010年1月5日、サンケイスポーツ) 悪夢のアラビアンナイトは終わらない。イエメン入りから一夜明け岡田ジャパンにさらなる悲報だ。首都サヌアにある在イエメン日本大使館の山口又宏参事官はこの日、領事業務の対外窓口を閉鎖したと説明した。 「米国、英国の措置に従いました。治安状況を見て、現状を把握したいということです」 前日に米、英の両国大使館がアルカイダのテロ攻撃を警戒し、「安全上の理由」で閉鎖。岡田監督は「危険は感じない」と平静を装うが、頼りにしたい日本大使館、さらに仏大使館まで“店じまい”。外務省は4日付ホームページに「イエメン・アルカイダ系組織による報復テロの脅威に関する注意喚起」を掲載。サポーターに渡航上の注意を喚起するなど、一夜にして緊迫度が増した。 初招集13人を含む若手中心メンバーには荷が重すぎる。DF槙野は「怖いですよね。なんとか無事に帰りたい」。選手のもとに安否を確認する日本からの電話が鳴り止まない状況だ。 この日、山口参事官は代表の練習に出向き「サッカー選手はターゲットにならない」と現状報告した。12月にイエメン政府軍が3度の掃討作戦を行い、アルカイダの戦力はダウン。イエメン市民を巻き込む無差別テロは過去に例がなく対日感情も良好。6日の試合会場が“標的”になる可能性は極めて低いという。 だが、この日もイエメン治安当局者がアルカイダ系の活動家2人を殺害したと明かすなど、戦闘は続いている。山口参事官も「テロの可能性は否定できません」とただし書きを忘れない。試合会場は1800人の警備が配置されるが、命の保証は完全ではない。ん~、命を懸けてまで、サッカーする必要はないし、安全が確保されていないのであれば、棄権してもいいと思うのですがサッカーの国際試合では、誰が撤退か継続を判断するのでしょうね。とにかく皆様のご無事と安全と平和をお祈りしております。今年もぽちっと応援ありがとうございます
January 5, 2010
2009年のMSCE(高校卒業資格国家試験)の採点も終わりつつあるようです。ここで紹介した友人も採点を終え、自分の勤務している学校のある村へ戻ったと言っていました。 前回、紹介した通り、すでに新年度は始まりましたが、 まだ国家試験の採点が終わってない教師たちもおり、 教師の3分の1くらいが不在のまま、新年度が始まったようです。MSCEの採点は、答案1枚当たり10クワチャをもらえるそうです。 通貨換算サイトによれば、10クワチャ=約6.1円 。 現在、生卵1個が35クワチャ、ビール1本130クワチャだそうです。数学や英語など、たくさんの生徒が受験する科目なら、朝3時から深夜までかかって1日300枚くらい採点し、日当で3,000クワチャあまり入手する先生もいるそうですが、友人の今回の担当は、フランス語。受験者数が少ないうえに、子どもたちの書いている答案が判読不能 私も、子どもたちの提出物や定期考査の採点では、 彼らの書いた文字を判読するのが大変でした。毎日、朝7時から夜9時まで、土曜も採点して2週間あまりを要したものの、得られた手当は合計で、たった1,500クワチャ。さらに友人が住んでいる村から採点会場のあったゾンバまで、現在、片道2,000クワチャあまりかかるそうですが、交通費として支給されたのは、片道700クワチャのみ。 マラウイ全国的な石油不足のため、交通手段をなかなか手配してもらえず、 採点が終わった後も数日間、試験会場から移動できなかったそうです。つまり、与えられた手当と交通費を加算しても、実際にかかった交通費にも満たず・・・「もし来年、また採点をしなければならないのであれば、 主免のフランス語ではなく、副免の英語の採点をしたい」と、友人は言っていました。私の配属先にも、主免が家庭科のため、教員養成校の家庭科は担当したいけれど、高校の家庭科の授業は担当したがらず、副免の数学を好んでいた人がいました。今回の国家試験の採点にも、数学で参加していたそうです。そして業務にかかる交通費の負担を考えても、農村部と都市部の教員の配置のアンバランスな理由も、わかるような気がしました。子どもたちにとって、どの教科も必要であるならば、教師にかかる負担を考えても、教科による手当の差をつけるべきではないと思います。 ケニアでは、理数科教育を充実させる一環として、 理数科教師の給与を他教科の教師に比べ、上げた時期もあったようです。 それを聞いたマラウイアン理数科教師たちが色めいていましたが、 私は、学校教育に人文科学も必要だと思うので、そのような措置は疑問です。そして、連日、朝3時から深夜までかかって1日300枚を採点した内容、すなわち採点ミスも起こりうるその環境を危惧します。出来高制の問題を感じますが、時給制にしたら、さらに能率が悪くなるのかもしれません。改善の余地がたっぷりあると感じる、マラウイの国家試験です。今回、私がいただいたボーナスは、彼らの年収以上・・・今の私は、ぬるま湯に浸かっています・陳謝
December 12, 2009
マラウイの学校は、1月に新しい学年が始まりました。2009年まで。スクールカレンダーを、10月始まりにするための移行期間として、2010年度は2009年12月から、新学年が始まったそうです。例年、8月に行われる高校進学のための国家試験の結果がまだ定まっていないようで、友人の勤める国立高校では、新1年生を迎えぬまま、新しい年度がスタートしました。 2008年1月に高校1年になった学年も、私の配属先では 入学する生徒がなかなか確定せず、2月頃までクラスの半数が不在でした。そして、これまで9月に行われていたJCE(高校2年から3年へ進級するための国家試験)を来年は5月に、10月に行われていたMSCE(高校卒業資格国家試験)を6月に実施するのだそうです。これらの通知がいつ行われたか、定かではありませんが、私が活動していた2008年にはそんな噂を耳にしたこともなく、2010年にJCEを受験する2年生たちが高校へ入学する前、このことを知っていたとは思えません。そして、マラウイの学校はこのために存在する、と言っても過言ではない国家試験の、4カ月もの前倒し。それに備えて、入学あるいは進級当時から、授業を組んでいたとも思えず・・・すごいなぁと思います。日本では、入学後の生徒に対するこのような根幹的な変更はあり得ませんし、フランスや中国の学生なら、デモを起こしているのではないでしょうか。でも多くのマラウイアンは、このような急激な変化を、すんなり受け入れる印象があります。従順にも見えるし、彼らにとって、予定の変更は当たり前なのかもしれません。ひょっとしたら私たち以上に、変化への対応力があるのかもしれませんね。マラウイアンの気質は、日本人の気質とよく似ていると聞きました。今日もぽちっと応援ありがとうございます
December 12, 2009
『坂の上の雲』、いいですね~魂が、ふるえます。自分を高めることで、公に生きる。素敵な生き方です。私も子どもの頃は、大志を抱いていたはずなのに、どこで置き忘れてきてしまったのでしょう? (゚ー゚*?) ハテ?十年近く、韓国党でしたが、生まれて初めて、和製ドラマに感動しております。原作がしっかりしているからでしょうし、映像もきれいだし、人物たちの想いを感じられる経験を得た今だから、こんなに感動しているのでしょうね。子どもの頃なら、ここまで味わえなかったに違いないそう考えたら、年をとるのも素敵今日もぽちっと応援ありがとうございます坂の上の雲
December 6, 2009
『坂の上の雲』のドラマが、いよいよ今度の日曜から始まりますね。NHKが、がんがん放送している番宣を拝見する限り、かなり期待しております真之が日露戦争で活躍した年代より、モックンは年が行き過ぎているんちゃう? と思いましたが、モックンくらいがちょうど、真之の重みを体現できるのかもしれませんね。好古も、子規も、なかなかイメージに近いキャスティングではないかと、ドラマを見るのが、とても楽しみです。この連休は、テレビっ子でした昨夜は、ユネスコ前事務局長、松浦晃一郎さんの番組も拝見しました。「在任中は、ユネスコの組織改革に尽力し、縁故人事や不透明経理が横行していた組織内の行政・財政改革を断行、放漫運営を理由にユネスコ脱退していたアメリカが2002年9月に松浦の改革を評価し、長年の課題であった復帰も実現させた。また、無形文化遺産保護条約や文化多様性条約など文化遺産保護の業績も残している」そうです。(Wikipediaより引用)それまで世界遺産は、石の文化を持つヨーロッパに偏っていたそうです。改築を重ねても、当時の形を残していれば、遺産と認めるべきではないかと、松浦さんらの尽力により、厳島神社をはじめ、世界各地の世界遺産が増えたそうです。それでも増えなかったのが、アフリカ、サハラ以南。そこに文化がなかったはずはないと、無形文化遺産保護条約を制定。ケニアの少数民族の聖地で、そこに残る彼らの伝統行事。そして、ウガンダのバーククロス。木の皮、年輪1年分だけをはぎとり、それで布を作るのだそうです。はぎ取った後、バナナの皮を巻きつけておくことで、数年後、また採集できるのだとか。まさに、sustainableだと感じました。歴史から、そして世界の人々から、学ぶこと、たくさんありますね。3連休って素敵今日もぽちっと応援ありがとうございます
November 23, 2009
昨日、NHK BSで再放送されていたドキュメンタリー、“いつかミャンマーに帰りたい ~ナンダーリンの旅立ち~ ”を見ました。タイの国境の町メーソットは、2008年にミャンマーを襲ったサイクロン「ナルギス」のために家や田畑、家族を失った人々が避難している。その中の一人、ティン・ナンダーリンはヤンゴン出身の16歳の少女。父は、以前デモに参加し、国を追われてきた。一家はアメリカへ亡命する手続きを始める。サイクロンの被害、タイへの避難、不自由な暮らし、アメリカ行きへの迷い…。ミャンマー避難民の実状を、少女の目を通して見つめる。(以上、Yahoo! テレビより)父からアメリカ行きを提案され、ナンダーリンは、友達のいるミャンマーへ戻りたいと言います。けれど、ナンダーリンの姉は、ミャンマーの国立大学を出て、同級生たちが専門を活かした就職ができたにも関わらず、就職できず、家事手伝いをしていました。父の政治運動が原因だそうです。娘たちの就職が不利になっても、政治活動をせずにはいられなかった大人たちが、ミャンマーにはいる。「妹は自分よりも賢いし、アメリカで学び、エンジニアになる夢を叶えてほしい」と、姉は妹を説得。家族で渡米することを決意します。避難民の中には、サイクロンで家族を失い、「あなたたちが、自分の家族のように感じていた。アメリカに行っても忘れないでね」と涙ぐむ人たちや、「サイクロンで、家族も家も田畑も失ったけれど、自分には土地がある。 もう一度、耕し、周りの人たちに仕事を与えたい」と単身、ミャンマーへ帰った人もいました。ナンダーリンは、ミャンマーを発つ前、ある避難民の方へ手紙を書きました「私たち家族が、アメリカで生活ができるようになったら、必ず援助します。 私は一生懸命勉強してエンジニアになり、いつかミャンマーへ戻り、 ミャンマーの人たちのために役立ちたいと思っています。」別れ際、「今は、何もしてあげられない」「お互いさまよ」と、互いに涙していた姿が印象的でした。自分の生活さえままならない状況で、周りの方たちといたわり合う。周りの人たちを助け、社会に役立つための職業選択。十年以上前に接した中国からの留学生の方たちも、自らの学びと国家の発展をつなげて語る方が多かったのが印象的でした。今の中国の発展は、彼らのような人材に支えられているのかもしれず、ミャンマーでも、そのような人材が育成されているのかもしれませんね。昨日は、ブラジルで暮らしていた方のお話を聞く機会もありました。彼女によれば、バス停などで座っていると、たまたま隣に座った青年が、自分の食べていたアイスを「おばさんも食べる?」と、差し出してくれることがよくあるそうです。周りの方への気遣いが、子どものころから自然にできるとおっしゃっていました。マラウイでも、ミニバスに長時間乗っていると、他の乗客が買った果物などを、わけてくれることがありましたね。同僚の胸ポケットにささっているペンを抜き取り、書きだしたり、同僚の机の上に乗っているバナナやマンダシを食べたり、自分のもの、他人のものという境界が、日本人とは異なるのだろうと感じました。そういえば、韓国人の友人も、寮の自分の部屋に戻ったらテレビがなく、隣の部屋で使われていたと言っていましたから、韓国もそうだったのかもしれませんね。世界には、いろんな状況で、選択をせまられ、いろんな生き方をしている人たちがいる。そのことを、限られた社会しか知らない日本の子どもたちに伝え、理解を促すことが、国際理解教育の第一歩かなと思いました。そして、自分や家族のためだけでなく、社会のために何ができるか。そんな発想ができる人が一人でも増えたら、素敵な社会になりそうですね最近、タモリ倶楽部にハマってます。今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
November 22, 2009
今年の2月、東京で行われた国際教育協力日本フォーラムを拝聴しました。トーゴ共和国の元教育大臣、コンラビ・フランシスコ・セドーさんと兵庫教育大学長、梶田叡一さんの基調講演ののち、会場からの質疑応答で、ある短大に通っている女性から、以下の問いがありました。 私は小学生の時、なぜ、学校に行かなければならないのだろう、 教育を受けなければならないのだろうと思っていました。 書き方を教えてくれる先生はたくさんいましたが、 学校に行かなければならない理由を教えてくれる先生はいませんでした。 なぜ学校に行かなければならないのか、どのように子どもたちに説明されますか。これに対し、コンラビ・フランシスコ・セドーさんは、 トーゴでも、苦労して子どもたちを学校へやったのに、 子どもたちが仕事に就けなかった人から、同じ質問を受けたことがあります。 仕事に就けないのに、なぜ子どもたちを学校へ行かせなければならないか。 子どもたちの将来のために、学校ほどよい機会を提供できるところはありません。 子どもたちにチャンスを与えるために親ができることは、 子どもを学校にやることだけです。 ネルソン・マンデラの言葉を引用したいと思います。 「貧しい農民の子どもが一国の大統領になる道は学校しかない」 学校に行かなければ、それは不可能です。と、答えられました。(広島大学教育開発国際協力研究センター編 “第6回国際教育協力日本フォーラム報告書”33~34頁、2009)マンデラ元南ア大統領の言葉も、経験に基づいた、重みのある言葉だと思います。マラウイでも、私のいた村には、子どもに教育を受けさせることに前向きな親御さんもたくさんいらっしゃいました。 私の住んでいたゾンバは、最高学府チャンセラーカレッジや 国家試験を作成、監督する機関やマラウイ教育研究所などある 文教地区だったからで、さらに農村部へ行けば、 学校へ行きたくても行けないトコザニちゃんのような子どもたちもたくさんいます。マラウイの新聞に載っている求人広告を見ると、大抵は高校卒業資格(MSCE)、政府機関やNGO、銀行、電力会社などのホワイトカラーの職種には大卒が求められていました。ここでも紹介した通り、高校卒業資格の合格率は、全国平均で3割程度。そこから大学受験にチャレンジできるのは、ごくわずかです。私の飲み友達だったあるおまわりさんは、卒業資格は持っていないけれど、高校2年から3年への進級資格(JCE)はあるから、今の職に就けたと言っていました。つまり、高校の卒業資格や進級資格を得ているか否か、大学を卒業しているか否か、英語を話せるか否かで、職業や収入が左右されます。大学を卒業したものの、望む職につけず、当面の職として、高校教師をしている人たちにも何人か会いました。 もちろん、高校教師を最終目標にしている人たちもいました。したがって、親たちが教育に熱心になる気持ちもわかるし、良い就職ができなければ、トーゴの親御さんのような疑問をもつのでしょう。しかし、日本の子どもたちにとって、「将来のために学校へ行く」という実感も、意義も薄いと思うのです。先日も、テレビで、中学時代の成績はオール1だったけれど、今は自営業をされている方が紹介されていました。景気に左右される不安定な職種や年齢制限など、さまざまな問題があるとは言え、日本にはいろんな職種があるし、起業のチャンスもある。学校のお勉強ができなくても、仕事に就ける可能性は、マラウイよりはるかに高いと思います。大田尭さんがおっしゃっている、日本の子どもたちがもっていない目当てや実存的欲求不満とは、勉強しなくても、仕事に就ける、仕事をしなくても、生きていけることもその一つでしょうね。私自身、「なぜ学校へ行くのか」という問いに対する明確な答えはこれまで持っていませんでした。今は、自分を高めるために学校へ行くのだと思います。読み書き算ができた方が、生きていく上で便利です。私自身、学校で答えを教えてもらった記憶は少なく、クラスメートと話し合い、答えを見つけたり、考えを深めたりしていました。つまり、考え方や、テーマを見つけたり、その解決力を鍛えていただいたような気がしています。そして、我々は、一人では生きていけません。人との関わりや、集団での役割も、学校で学んでいるのだと思います。お勉強ができなくても、運動能力が高い、素敵な演奏ができる、素晴らしい作品が作れる、あるいは、毎日、黒板拭きをした、本の整頓をした、などなど、私たちは一人ひとり、その魅力も生き方も異なります。学校は各々が自らの目標に向かって、高め合い、支え合える場であって欲しいと願うのです。寒いですね。数日前から、我が家にもストーブが入りました。今日もぽちっと応援ありがとうございます
November 21, 2009
小学5年生の子が書いた読書感想文を、自ら読むのを聞く機会がありました。彼女が読んだのは、『アンネの日記』。以下、大約です。 日本は、戦争のない平和な国です。 私は、医者になりたいです。 お父さんやお母さんは、 「夢をかなえるため、もっとがんばりなさい」 と言います。 どうして、私だけががんばらなければならないのか。 アンネの日記を読んで・・・(略)・・・私もがんばろうと思いました。と、いうような内容でした。私も子どもの頃のいい思い出は、ほとんどありませんが・・・あなたのがんばり以上に、がんばっている子は、世界中にざんびりいるよと、おこがましくも思ってしまいました。私はその感想文を書いた子の実生活を知りませんし、ほんまに、ほんまに、がんばってはるのかもしれないけれど・・・世界には、24時間のそのほとんどを、生きるために費やしている子どもたちもいます。私たち日本人の多くは、明日、生きるための水や食料に欠くことは少ないと思うのです。選ぶことができることは、かなり豊かだと、感じています。目の充血は、傷が原因だったそうです今日もぽちっと応援ありがとうございます
November 20, 2009
マラウイの高校卒業資格試験(MSCE)も終わり、今週は、その採点をする教員たちが集められ、トレーニングが行われているそうです。友人が「先月の試験監督に比べれば、かなりマシ」と言うので、試験監督と採点の業務内容の違いかと思いきや、「今回、滞在するところには、電気も水道もあるし、 近くの店で、ファンタやビスケット、マンダシも買える。 前回は、携帯電話のチャージもできなかったからね」とのこと。 マンダシとは、揚げパンのようなもの。 砂糖をちょっぴり入れてあるものもあるらしいですが、 甘みはほとんど感じられず、油と炭水化物のかたまり。 私は初年度、まったく食べられませんでしたが、 2年目には、午前10時の休憩に2個買う日もありました。 そりゃ、太るわ ファンタ、マンダシという響きが、とても懐かしかったです トレーニングはChiradzuluという、私が住んでいたZombaの南西に位置する地区で行われているそうです。マラウイの紙幣の肖像にもなっているJohn Chilembweが1915年、マラウイの独立のために戦った場所に近く、昨日、見に行ってきた。カメラがあればなぁと、友人は言っていました。日本なら、そんな名所、修学旅行や遠足で訪れるでしょうが、マラウイは、国内でも移動の手段を確保することが困難です。私たちボランティアが、頻繁に首都や大都市に出かけるのに対し、「首都に1度も行ったことのないマラウイアンもたくさんいるよ」と、同僚がぽつり言ったことがありました。今やすっかり日本の便利な文明社会に浸かりきっている私ですが、電気も水道も通っていない村で、国家試験に取り組む高校生たち、それを監督する高校教師たちがいる。それをクリアにイメージできる自分であり続けたいと、思いました。帰国後、日本の学校には、ぴかぴかの本がたくさんたくさんあって、子どもたちが、ぴかぴかの教科書を全教科、一人一冊ずつ持っていることが、まぶしかったですマラウイでは今も、学校に教科書が1冊もない教科も、学校もあります。日本の小学生が、ぴかぴかの教科書に落書きをしたり、破ったりしているのが哀しく、注意をしたところ、「ぼくの教科書をどう使おうと、ぼくの自由だ」と、その子は言いました。私たちが一人一冊全教科、ぴかぴかの教科書を使ってお勉強できるのは、たまたま日本に生まれたから。先人たちが頑張って、この国の繁栄を築いてくれたから。世界でも稀有な豊かさを享受できていることを、伝えていけたらいいなと思います。昨日から突然、右の白眼が鮮血してます。なぜ?今日もぽちっと応援ありがとうございます
November 16, 2009
ネット上で、のコラムを読みました。長くなりますが、一部、抜粋します(黒字)。あなたが「片付けられる人」になれないワケ片付け能力のある脳を持つのは人間だけ 脳科学者の篠原菊紀さんによれば、動物で「片付ける」能力を持っているのは人間だけなのだそうです。人並みの知能を持つ猿でさえ、小さなエリアで物を元に戻すことはできても、部屋全体を片付ける能力は持ち合わせていないのだとか。つまり、人間である限り、「片付け能力」は誰にでもきちんと存在しています。人の脳は、先天的に「片付ける」能力を持ち合わせているのです。ではなぜ、「片付けられない」という人がこれほどまで多く世の中に存在し、巷には収納のワザ本が氾濫しているのでしょうか? その答えは、現代社会にあると思っています。つまり、人の脳が先天的に持ち合わせている「片付け能力」をはるかに上回る量の物が、現代のオフィスや家庭に溢れてしまっているのではないでしょうか? これほどまでに多くの物に溢れていなかった、祖母や曾祖母の時代の家では、今のような収納術、整理整頓術はさほど必要とされていなかったのでは?つまり、あなたが片付けられないのは、あなたの能力に問題があるのではなく、単に「あなたの脳のキャパシティを超える物の中で、脳がキャパシティオーバー状態になっているだけ」と考えることもできるのです。大丈夫、あなたの脳にはちゃんと片付ける能力があります。できないことにばかり目を向けるのではなく、自分の持つ「できる」能力をちゃんと認めてあげることからはじめましょう。そして1、 溢れすぎた物を減らす2、 自分の脳のキャパシティにあった物とスペースから片づけを始めるこの色にした部分、大いに納得しました。マラウイから帰国した当初は、物と情報がありふれている日本の生活に、目が回りそうでした満席になっていないのに、発車する電車やバス(★) 電車の中の吊り広告や、周りの乗客が話している言葉が すべて理解できてしまうことは、煩わしかったです。 村ではテレビを持っていなかったので、帰国直後はテレビも疲れました。飲食店に入れば、「いらっしゃいませ」とおしぼりまで差し出し、 にこにこ応対してくれる マラウイでは、仏頂面の店員も多いです。歩いているだけなのに、ティッシュやクリアファイルなどくれることも驚きました。 自室は2階のため、家の階段で筋肉痛になったり・・・ 村には、階段のある施設はありませんでした。 そして我が家に、お皿や調理器具があふれていることや、自分が持っていた服や鞄、靴、本の数にも驚きましたあれから早、1年。 今やすっかり、便利な文明生活にぬくぬく浸かっています。 と言いつつ、今も日に何回か、マラウイの風景がフラッシュバックするんですけどね。木曜、マラウイの友人が、私の帰国後1年を記念して、送ってくれた手紙が届きました 3週間で着いたのは、ラッキーでしたお礼の電話をしたところ、昨日まで2週間、国家試験の監督のため、今、住んでいる村から片道4時間あまりかかる村へ行っていたそうです。私が住んでいたゾンバ地区には、最高学府Chancellor Collegeがあり(★)、 Chancellor Collegeのことをチャンコーと、マラウイ人は呼びます。 Collegeを「コリッジ」と発音するマラウイ英語のためですが、 日本人にはチャン校と聞こえ、馴染み易かったです。チャンコー出身の先生もうじゃうじゃいます。国家試験会場の最高監督者は大卒の資格が必要のため、チャンコー出身の同僚たちも、近隣の村に駆り出されていました。電話をした友人は現在、マンゴチ地区に住んでいるのですが、隣の地区まで駆り出されたようです。田舎へ行くほど、大卒者の確保が難しいのかもしれませんね。その村では携帯電話の充電もできず、電波も届かなかったとかちなみに昨夜、電話をした時は、マラウイのルーティン?(★)夕方の停電の最中でした。恵まれた日本の生活に感謝し、物を大切にしたいと改めて思いました。★をクリックしていただくと、関連日記へとびます。今日もぽちっと応援ありがとうございます
October 24, 2009
12歳の出産・死亡…少女の命を奪ったイエメンの「強制結婚」ネット上の記事はすぐ読めなくなってしまいますからね。そのまま転載させていただきます(黒字)。私見は引用のあとで・・・ 中東の最貧国イエメンで9月11日、ひとりの少女が出産の際の合併症で、赤ん坊とともに死亡した。12歳。3日間にわたる陣痛と多量の出血に苦しんだ末の死だった。結婚制度を含む法律の不整備、相次ぐ紛争で疲弊し、貧困にあえぐ地方、根強く残る部族社会、そしてそれらを統制できず有効な手だてが打てない中央政府-。少女の死の背景には、イエメンが抱える問題が横たわっている。 イエメンの人権団体「子供の保護のためのセヤージュ(柵)」(本部・首都サヌア)などによると、少女の名前はファウジヤ・アブドラ・ユーセフさん。同国西部ホデイダ州の貧しい家庭に生まれ、2008年、11歳のときに父親から24歳の男性との結婚を強要された。小学校は4年生でやめさせられた。 ファウジヤさんは間もなく妊娠。今年9月に入って陣痛が始まった。大量の出血を伴っていたが、この時は病院に連れて行ってもらえず、3日後、やっと病院で医師の診察を受けたときには手遅れになっていた。 イエメンでは、経済的に困窮した家庭が、新郎側から支払われる婚資金目当てに幼い娘を結婚させるケースが多く、ファウジヤさんも同様の事情で結婚を強要されたとみられる。 こうした「強制結婚」は地方を中心に広がっており、既婚女性の約半数が15歳以下で結婚しているとのデータもあるという。 ■8歳女児の訴え 中には耳を疑うような事例もある。 2008年には、当時8歳の小学2年生の女児が、28歳の男性との結婚契約書に署名させられた。米CNNテレビやフランス通信(AFP)などによると、この女児は署名後も18歳までは自宅で両親と暮らす約束だったが、じきに父親から男性と同居するよう強制された。 数週間後、“夫”から暴力を受けるようになった女児は家を飛び出した。タクシーに乗り込んで裁判所まで来ると、助けを求めるためにベンチに座って裁判官が通るのを待った。まだ文字も満足に読めない女児が必死に絞った知恵だった。 女児はその後、知り合った弁護士の助言を受けて正式に離婚を申し立て、同年4月、主張が裁判で認められて離婚が成立した。 ■あいまいな規定 「強制結婚」問題の背景には、イエメンの法律に結婚の最低年齢に関する明確な規定がないことがある。 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチによると、女性は「性交渉が可能になるまで結婚できない」などとされているだけで基準があいまいな上、夫婦間の暴力を罰する刑法上の規定もない。同国の女性の人権問題に関する政府機関が、女性が結婚できる最低年齢を18歳とすることや、違反者には禁固や罰金などの刑罰を課すよう法律の改正を求めているものの、議会側の抵抗で実現の見通しは立っていないのが実情だ。 また、「結婚の年齢制限はイスラム教の教えに反する」と主張する部族指導者も多いという。イエメンでは部族の独立性が高く、中央政府による押さえが効いていないとの指摘もある。 ■紛争が生む貧困 相次ぐ紛争と貧困も強制結婚が後を絶たない原因の一つだ。 イエメンでは1994年、政府軍と南部の分離独立派との間で内戦が発生。2004年からは北部で、政府軍とイスラム教シーア派の一派であるザイド派の反政府勢力が断続的に衝突を繰り返している。紛争が起きるたびに国内難民が大量発生し、経済が疲弊してますます社会情勢が不安定化するという悪循環に陥っているといえる。 そんななか、貧困にあえぐ家庭にとって、娘を結婚させることは、家計への負担を減らすとともに、婚資金として収入を得られる手段となっているのだ。 また、ファウジヤさんの死について、セヤージュの代表者はCNNに対し、「直接の原因は医療ケアがなかったためだが、本当の問題は、イエメンでは教育が欠如していることだ」と指摘。男性で約67%、女性では25%程度ともいわれる識字率の低さが、人権意識の普及や適切な保健教育の充実を阻害していると訴える。 「強さ」や「男らしさ」を重んじる男性中心の部族文化が根強いイエメン。ファウジヤさんの悲劇は、氷山のほんの一角だとみられている。イエメンは、4年前に実際に行くまで、名前も知らない国でした。 南北紛争のあった国のためか、韓国の学校ではイエメンのことを学ぶそうです。協力隊に派遣される前の訓練では語学だけでなく、さまざまな講座を受けることができました。なかでも私が最も印象深かった講座が、「イスラムとは何か」。コーランやイスラムのお数珠に直接触らせていただいたのみならず、習慣や価値観の違いをわかりやすく説明してくださいました。なかでも、イスラムの女性たちが体を隠すべき戒律は、男性を欲情させないためとのお話が印象的でした。男性を挑発せぬよう、髪を隠すへジャブ。体のラインを隠し、顔だけ出すチャドル。唇など顔の大半を隠し、眼だけ出すニカーブなどの段階がありますが、イエメンでは眼さえも隠すブルカ。露出しているのは指先だけです。女性にカメラを向けてはいけないため、自らモデルになりました。記念撮影のため、眼を出してしまっていますが、本来は、眼も隠します。外務省が「渡航の是非を検討して下さい」に指定している地区、住民が普通に銃器を持ち歩いているエリアを通り抜ける際は、このブルカがとっても便利だったんですけどね。逆に、ブルカを着ずに、洋服で移動している時は、バスやタクシーで隣になったおじさんたちがフツーに、太股をなでなでしてきました。彼らの常識からすれば、ブルカを着ていない女性は触ってもいいようです。結婚式に2回、お邪魔しましたが、結婚式の日に、初めて相手の女性の顔を見るのだそうです。新婦がきれいでよかったと、ある新郎は喜んでいました。ここやここにも書きましたが、イエメンで走っている車は、かなりの年代物が多かったです。マラウイに到着直後、いちばん驚いたのは、イエメンに比べ、ぴかぴかの車がたくさん走っていたことでした(★)。マラウイの一人あたりGNIは160米ドル、イエメンは600米ドル(2005年、世界銀行)だったんですけどね。GNIと実際の庶民の暮らしは、一概には比較できないといったところでしょうか。宗教と人権、なかなか難しい問題ですね。今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
October 13, 2009
久々に、むち打ちが出てしまいました20歳の時の交通事故以来、長い付き合いです。急な天気の変化や、疲れがたまった時などに出やすいのですが、数年ぶりに発症したむち打ち。ストレスが原因のような気がします。ここ数日、痛み止めが手放せず、円皮針を貼り、少しましになりました。 セイリン円皮針 リングバンPタイプさて昨日は、歯医者さんでした。これまでにも何度か紹介した通り(★、★)、かつては防衛庁にお勤めで、自衛官の方たちの歯を診ていらっしゃった方で、協力隊として派遣される前に、徹底的に治療していただきました。相変わらずマニアックと言いましょうか。私自身、気づいていない不具合を発見し、治療してくださいます。1時間に1人の患者さんしか予約を入れていないためか、いつも治療を始める前にあれこれ世間話をしてくださいます。今回は、台風のことを話した後、 歯医者さんは、コンテナが高潮で流されたり、橋の上でトラックが横転した豊橋市にあります。 台風が去った2日後も、信号が斜めを向いていたり、 看板が倒れていたり、暴風の跡が見られました。 ふと、こんな風におっしゃっていただきました。「○○さん(←私)のような人は、 物が足らなくてもあるもので代用したり、工夫をしたり、 1つの物事を正面からだけでなく、裏から見たり、斜めから見たり、 いろんな見方ができるよね。 画一的な教育を受けて、そこしか知らない人たちに比べ、 そういう視点は必要だよね。」私は工夫はあまり得意ではなく、今も母の方が得意ですし、日本なら100均で何でも手に入るんですけどね視野の広がりや視点の変化、対応力は、確かに増したような気がします。協力隊OVのことを、こんな風に見ていてくださる方たちのあたたかな視線、励まされます協力隊を経て得た視点や発想を、周りに還元していけるよう発信し続けなければ昨日は、小さな御神輿を2回見ました。市内には古墳が300あまりも残っている歴史の長い町ですが、大きなお祭りが残っていないことが不思議。今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
October 11, 2009
先月の連休、神戸へ行ってきました。帰国直後、ご挨拶に行って以来、なかなか行く機会がなかったのですが、11カ月ぶりにようやく里帰りすることができました 以前、年に何回か韓国へ行き、1~2回は大きな海外旅行へ行きたいと書きましたが、 年に何回か神戸へ行くことすら困難だった、この1年をふり返りながら・・・神戸は、私の人生の中でもっとも長い時間をすごした街。高速道路が神戸に近づくにつれ、わくわく無意識に頬がゆるみます実家に暮らして1年が経ちますが、仕事を始めてからも未知のことも多く、新たな世界へ足を踏み入れたような感じがあり、神戸の方が「帰ってきた」とつよく実感します。 第二の故郷ですね今回は両親と一緒だったのですが、軽く食事をした後、私のユタのお店に行きました。彼女が携帯電話を機種変更していたにも関わらず、私がマラウイから送った最初のメールからすべて保存してくれてあり、いくつか読み上げてくれました。当時の自分を想い出しマラウイへ行く前、行った後の戸惑い、そして本当に辛かった頃・・・いつも彼女に支えられていましたお互い筆不精で、帰国後も頻繁には連絡を取り合っていませんが、大切な私のお友達です久しぶりに痛飲し、軽く二日酔いながら、ミュンヘンでランチをして、1泊2日の神戸帰省を終えました。人とのつながりが、私の財産今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
October 4, 2009
マラウイを発ってから、早いもので、1年が経とうとしています。先日、久しぶりにお出かけをして、改めて日本は素晴らしいと思いました。高速道路のサービスエリアや百貨店など、どこへ行っても トイレに便座がついている 便座のみならず、シャワートイレまでついていたりしますホテルにはタオルやシャンプー、石けんだけでなく、浴衣や歯ブラシ、めん棒まで置いてあって・・・ かなり荷物少なく、お泊まりできますね。そして、満席になっていないのに、定時発車する電車やバス私も一度、経験がありますが、地元の駅から空港行きの大型バスが、乗客1人なのに発車していました。 マラウイやイエメンなら、乗客が集まるまで数時間待ち 集まらなければ、おそらく運行休止ですよいや~、ニッポンって、やっぱり素晴らしいそんなことを感じつつ、ふと思ったのですが、日本では、定時発車の公共交通機関や映画の上映時間など、時間をコントロールしている半面、時間にコントロールされているのかなと。マラウイでは、定期考査でさえも制限時間を超えても記述が認められますし、ミニバスもいつ発車し、到着するか、わかりません時間を自分たちの使いたいように使っているのかもしれませんね。そんなマラウイにも、新型インフルエンザが上陸したようですおたふくでさえも、最も大きな都市に行かなければ特定できないマラウイで、よく新型インフルエンザであることがわかったなと驚いたのですが、国境の検疫にて、南アフリカからの入国者が陽性だったそうです。ご当人はマンゴチという観光地にいらっしゃるそうで、近隣に住んでいる知人が「今週末は飲みにも行かず、自宅待機だよ」と嘆いておりました。インフルエンザの予防には手洗い、うがいのほか、栄養たっぷりの食事を摂り、免疫力を上げることも必要だと思いますが、栄養はおろか、清潔なお水で手洗いも十分できない子どもたちもいるマラウイで、蔓延しないことを願うばかりです。選べること、そして病気や死因を特定できることも豊かさのバロメーターだと感じるようになりました。今日もぽちっと応援ありがとうございます
September 27, 2009
うなぎの研究者の方が書かれたエッセイを読みながら寝てしまい、私も夢の中で、何かを探し求め、目覚めの悪かった朝(詳しくは→★)約50日ぶりに話した中国系カナダ人に「うなぎは、どこのお店で食べられる?」と聞かれました。久しぶりに聞いた英語が、うなぎ。その日、夕食を食べながら見ていたテレビで選挙違反で捕まった方たちのニュースが流れていました。いずれも、うなぎを饗してしまったのが、選挙違反だそうで。そして、シンガポールで「うなぎライスバーガー」が人気との情報まで目にとまりうなぎにとりつかれたような日々でした 民主党の政権づくりが始まっていますね。前回の郵政選挙は非常に怖かったですが(★、★)、今回はさほど興味もなく、変化への期待も、我ながら呆れるほど、ありません昨日の中日新聞の、『衆院選で自民党が「ぶっ壊れた」のは、小泉氏の“公約”実現?』との特集記事を読み、その理由がわかったような気がします(黒字は引用)。小泉さんが、ぶっ壊したかった自民党は、旧田中派の建設族、郵政族の族議員、派閥連合。そこから追い出された人たちが民主党の中枢人物。小泉さんも、小沢さんも、アメリカ流自己責任型社会を目指す、政治理念に大差はない。内閣が短期にころころ変わるのは、大正時代を彷彿させ、この国がどこへ向かっているのか、とても不安です。民主党が、どれほど変えてくれるのか。長州閥と薩摩閥程度の違いでなければ、良いのですが。私は特に、子どもたちが受けられる教育が親の収入により左右されてしまう現状を危惧しており、子どもたちが健やかに育てるシステムへの変化を期待しております。内閣人事も決まりつつあるようです。ここにも書いた通り、福島瑞穂さんには非常に期待しており、彼女が法務大臣にでもなれば、新政権に期待しちゃいます 今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
September 6, 2009
職場の隣の席の方が、「聞いたことのある国のことが、書いてありましたよ」と、標題の本を貸してくれました。東京大学で、うなぎの研究をされている方の書かれたエッセイです。 文庫本の解説によれば、 東大海洋研によるニホンウナギの産卵場の特定は、 第二次世界大戦以降、シーラカンスの発見に次ぐ 海洋生物学上の大発見なのだとか。現在地球上に生息するウナギ全十八種類を採集すべく、最後の1種、アフリカに生息するラビアータというウナギを「安全かつ確実に採集し、帰国する」まで、「冒険を求めていないのに、どんどん冒険に陥っている」過程が描かれています。読みながら寝てしまった昨日、今日は、不自然な体勢で寝てしまったための首痛や頭痛だけでなく、夢の中で、私まで、目標が明確ではない何かを探して求めてしまい、もやもやした目覚めでしたエッセイの中に出てくるドマシに2年間暮らし、ゾンバは私のたんぱく質供給源でした。モンキーベイへの道のり、うなぎを採集したリウォンデなど馴染みの深い地名、描かれている景色、温度、風、肌にまとわりつくような湿っぽさ、そしてマラウイアンたちの笑顔を、体で思い出すことができたため、引き込まれ、私も夢の中で何かを探してしまったのかもしれません協力隊を終えて、大学院に進学した筆者は、「何も作りだせない生態学研究」への苛立ちを感じていたと言います。 ウナギの進化がわかったからといって何の役に立つというのだ。もっと人の役に立つこと、他にやるべきことがあるのではないか、と自問自答していた。【指導教官の講演を聞いた】子どもが目をキラキラ輝かせ、「面白かったね。ウナギはすごい所まで泳いで行くんだね。不思議だね」と話すのを聞き、その時私は、初めて生態学研究が何も作りださないのではなく、自分自身が作り出したものを料理できないだけだったことに気がついた。(そうか、俺が未熟なだけだったんだ) 一見なんの役にも立たないようだが、研究活動は立派に人々の心の糧を作り出していたのである。 思えば、アンデスの友人たちも夜空を見上げて、星の不思議について語り合っていた。たとえ貧しくとも、人が人である限り、知的好奇心は心の栄養になっていることを知った。そして私は、博士課程への進学を決意したのだった。(102~104頁)「誰がなんと言おうと、いつの時代にも、どんな世界にも、やっぱり冒険は必要だよ。それもわくわくするようなスケールの大きな冒険が必要だと思うよ」 この航海も冒険なんだ。何ら成果を得られなくても、人間の根元的な部分を魅了する何かがあるんだ。だからこそ、沢山の人たちが興味を持ってくれる。グダグダ言われたっていいじゃないか。「冒険」ができるからこそ、おれはここにいるんだ。この仕事をしているんだった(320頁)作者たちの、目的をもって世界をはいずりまわれるお仕事が、かなりうらやましいですけれど実際には、彼らの地道な作業は、軟弱な私には耐えられないでしょう協力隊、研究者、アフリカ、旅・・・いろんな魅力のつまったエッセイでした。今日もぽちっと応援ありがとうございます
September 3, 2009
出張のため、今日のお昼はおひとり様でした海鮮居酒屋さんのランチでしたが、日替わり海鮮はすでに売り切れだったので、豚ランチとなりました。以前は平気だったおひとり様。今日はなんだか時間を持て余してしまいました赤だしが愛知っぽいでしょ今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
September 2, 2009
1年で、最も憂鬱な日かもしれません、8月31日。いくつになっても、ちっとも成長していない自分に呆れてみたり今日は午後、お休みをとって、歯医者さんへ行きました。3年ぶりの歯医者さん。20分あまり雑談を聞いたのち、歯石をとってもらいました。歯を見ただけで、私のブラッシングの癖まで見抜いてしまわれ、ブラッシング指導もしていただきました。今日はいきなり、「子どもの頃、病弱だったね?」とのお見立てにびっくり「子どもの頃、熱を出しては、○○という抗生物質を打たれているねぇ。 この歯のここからと、この歯の色が違ってしまっている。 昔ながらの歯医者さんのため、前面に鏡もなく、 金具でかんかんされながら、聞いていただけですが 僕らから見れば、これも薬害なんだよね」私は、自分の歯の色が良くないことがコンプレックスで、実際、それでいじめられたりもしました自分の歯磨きが不十分だったかと、自分を責めていましたが、そうではない原因を知り、なんだか励まされた発見でした相変わらず、プロ意識が高く、信頼できる歯医者さんに感謝です一面だけで決めつけてはいけないと、改めて思いました。今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
August 31, 2009
数日前、研修で、テレビで有名な科学ショーをしてくださる方のプロダクションの方たちのショーを拝見しました。 ご本人は、東京で別のお仕事があるとのことで、 数分、お電話での出演でした2時間あまり、空気や音の実験を見せてくださったファイナルは、会場に風船をまわしてくださいました。あ~、甲子園に行きたい今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
August 30, 2009
生まれて初めての職員旅行で、お伊勢さんへ行ってきました お伊勢さんへ行ったのは、おそらく小学校の修学旅行以来かと「橋の3枚目の板を踏むと良いことがある」と教えていただきましたが、残念ながら、橋は工事中。 衣を着たお坊さんがお参りされていたのは、 なんだか意外でした。宿は、お部屋からも、お風呂からも英虞湾が一望できる素敵なロケーション。温泉はぬるぬるした、なかなか気持ちの良い泉質でした 浮かんでいる筏は、真珠の養殖だそうです。いろんなレクレーションで楽しませていただいたほか、のんびりいろんなお話をお伺いでき、興味深かったです松坂牛や赤福氷、海の幸と、おなかいっぱいの旅でした今年の夏はなんだか慌ただしく、10年ぶりにパスポートを使うこともなく、飛行機にも乗らずじまい旅行はこの1泊2日だけでした今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
August 26, 2009
大田尭さんの『なぜ学校へ行くのか』(岩波書店、1984)を読み返しました。1980年代に書かれたものですが、現在に通じる課題や指摘も多く、とても励みになりました。以下、引用します。人は、抵抗と試練の中で人となる。欲望のおもむくままでは、人格の核心である自我は育たない。§ いまの日本の子どもや若者のもつ問題点・少年たち自身がどこに欲求不満があるかよくわからない →突発的、衝動的な形をとってあらわれ、抵抗の弱いものへと向かう傾向がある。 →何かのきっかけでリーダーがあらわれ、グループとなってはじめて行動を起こす。・目当てがなく、慢性的なイライラ、ムカムカ=実存的欲求不満におちいっている。・劣等感と優越感のはざまに、自分という人間の値打ちを位置づけている。・与えられるものの過剰、獲得するものの過少§ 教化思想と能力主義 ときの統治者が正しいとするイデオロギーに民衆の同化を求め、教え化する、教訓をたれることが教育という観念が日本人には根強い。長い歴史と重い伝統を経て、われわれの生活様式や思考まで支配している。何か上から、外から示される絶対的なお手本がないと頼りない。「依存願望」とでも言うべき内面的な傾向性ができていて、何事かを判断し、実行するにあたって、何か権威あるものに頼っていないと安定感がない。自分の自立を放棄して、外から与えられる絶対的な物差しへの同化に安定感を求める、このようなものの考え方が非常に強く存在している。人を愛するよりも人から愛されることを求める傾向も、こうした思想傾向と深いかかわりがある。そういう精神状況の中で、教育とは教化であり、権威ある教訓を身につけることなのだという考え方が、既成概念としてはびこっている。 教化主義は人格丸抱えの、古いウェットな発想法だが、能力主義は近代的、ドライ。人格から能力だけを引き離し、効率的に開発し、社会の生産性の向上に役立たせる、経済合理主義の教育への応用。効率主義、能力主義は、競争原理を基本に置いている。人間の値打ちは、一人ひとりが違った持ち味をもっており、比べることがむずかしいが、あえてある能力分野にかぎって、そこを比べて優劣を競わせる。人格や個性とは切り離された、能力のある面を訓練して当面の社会の需要にあてる。教育というより、ある能力の訓練。 「できる人間」を育てることに一般国民大衆も同調しているように見えるが、大もとは治者の教育観。一般の人々のそれへの戦術的順応があり、教師や一般父母にも、「できる人間」を育てることに対する同調が、かなり広がっている。§ 教育とは何か 人間らしさは、後天的に獲得する。 生まれたときから与えられているしょうがいや貧しい環境も、自身の分別力、選ぶ力の発達により、個性に転化し、自己の成長の財産となる。教育は、この力に賭けている。 人を人らしく育てる教育の目的は、選ぶ力をつけること。一人ひとりの子どもの内面に問いを育て、課題を育てること。人生を選び抜く力の栄養になるために、知識や技術は与えられる。§ 学校の存在理由 学校とは、真理を最高の権威とし、教師を指揮者(コンダクター)とする一つの真理探究の共同体。どう生きるかの問いを深め、かつその問いの解決を助ける能力の一部ともなる、いろいろな知的分野への興味や好奇心を育てる。 人間は、刺激に対する反応、問いと答えの間が実に豊かで、答えも多様でありうる。下等動物のように一つの問いに対して一つの反応しかない本能的な機構や反射活動は、人間はむしろ退化していて、脳髄で分別し、考えて行動を選択している。ところが、現在の教育は、問いと答えの間が大変短くなっている。 問いと答えのあいだに間をとることができ、ゆっくり選べる能力があるから、まちがい、見当違いが起こる。まちがいのあることが人間である証拠。結果だけにとらわれず、まちがい方をていねいに考慮することが必要。まちがいには、可能性ゆたかな選び方がふくまれている。 選択に時間がかかり、とまどっている子どももいる。とまどいは人間が選択をしようとするときに、当然存在する。とまどいは、教えられた答えを記憶の中からただ反芻するより、より人間にふさわしい分別力を働かせている証拠。ためらいの中に、より大きな可能性が秘められている。(苦手だった教科を)好きになるとは、学んだことによって、ますます多くを知りたくなったことであり、自分の世界が学びながらおしひらかれていくことの実感。 人間は一人ひとりがそれぞれに選びながら発達し、自分という人間をつくっていくので、ものの考え方や感情、感性、違うのはあたりまえ。実に孤独な生き物であり、自分自身で選び、自分自身の人生を歩むほかないが、他人に依存しないでは生きられない。孤独と依存、この反対方向に働く力が均衡を保つためには、違いや孤独を前提としたうえで、なお他人と結びつくすべを人間はもっていなければならない。それが社会制度であり、学問や文化。 いろいろな素質、感性、個性、経験をもったそれぞれの子どもたちが知恵を持ち寄って、違ったアプローチが協力しあう中で、いろんな見方が総合された結果として、一つの共通の真理が見つけられる。それぞれの違いを前提としながら結びつけられる契機をもつ。真理を媒介にして、本来違っているはずの人間が深いところで結びつけられる。 科学的知性をそなえた独立したユニークな主体としての子どもたちの発達を促すこと、そのことをふまえて、いっそう質の高い人間連帯をつくり出すことに学校の主要な任務がある。これを読み、子どもたちの抱えるストレスを客観化することができました。それから、「外から与えられる絶対的な物差しへの同化に安定感を求める」数年前に見た、大学の入学式の光景を思い出しました。以前書いた、美の基準も他人に決めてもらっているのは、日本人にしみついた教化教育のおかげかもしれませんね。そして私自身、励まされたのが、この色にした部分です。私のマラウイ生活を通じた学びのなかで、最も大きかったのが、「人は間違いをおかすもの」と、過ちや戸惑いを認め、成長を信じ、待ち続けてくれた人たちとの出会いでした。彼らに、心の深さや豊かさをわけてもらったような気がしています。自分は挫折を知らないエリートで、間違いをおかすはずがない完璧な人間であると自負している教師たちに、私の過ちや戸惑いを否定され、人格や私の存在をも全否定される喪失感も味わいました。けれど、私の戸惑いは、「より人間にふさわしい分別力を働かせてい」たのかもしれないと、励まされました。間違いをおかさない=下等動物であれと、人類の進化を否定するものですね。今朝、帰国後初めて、きれいな朝陽を見ました。マラウイでも日本でも、きれいな朝陽は拝めますね今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
August 22, 2009
金大中氏がご逝去されましたね。今や、韓国大好きな私ですが、生まれて初めて韓国という国を知ったのも、同時に怖い国というイメージを持ったのも、金大中事件のことを知った時だったような気がします。一つの時代の終わりを感じます。お疲れ様でした。ゆっくりお休みください。上のニュースを検索していて、このニュースも知りました。安重根義挙100周年、中国ハルビンで記念行事(朝鮮日報) 安重根は、2月14日に死刑が宣告されてから三日後の2月17日、平石氏人高等法院長と面談した際、『東洋平和論』の主な要旨を明らかにしており、これは裁判所の書記が記録した「聴取書」に残されている。 安重根は、他国の国権を奪って日本が盟主となる東洋平和論は侵略の口実に過ぎないと批判し、自らの東洋平和構想を披露した。具体的には、▲韓・中・日3国共同軍団の編成▲日本が占領した旅順・大連を中国に返還し、東洋平和会議体を構成▲3国の共用貨幣を発行する銀行の設立▲銀行設立の資金のため数億の東洋人が会員となり、1円ずつ募金▲3国の協力下で産業化と経済共同体が成功すれば、インド・タイ・ベトナムなど東南アジア地域に会員国を拡散する-という構想だった。 安重根の東洋平和共同体構想は、現在活発に議論されている「東アジア共同体論」よりも100年早い。李泰鎮ソウル大名誉教授は、「安重根の東洋平和論は、当時誰も思いつかなかったものだ。ヨーロッパ共同体よりも約70年早い平和共同体構想だ」と高く評価した。日本版wikipediaによれば、 伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。また、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取り、1909年7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお「本格併合は将来的な課題」として早期併合に反対していたそうで、伊藤博文が暗殺されたことで、日韓併合が促されたと読めます。双方の見方、考え方があるし、判断できるほど、私は勉強しておりません。ユ・オソンシが演じた『多黙 安重根』を観たいと数年来、思い続けておりますが、未だDVDになってない様子今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
August 19, 2009
一昨日、学生時代の同級生から突然、電話がありました。彼女と電話でお話しするのは3年ぶり。何年会っていないのか、思いだせないほどです最後に連絡をくれたのは、訃報連絡でした。みゆきのことを、私は同士のように感じていました。マラウイの家庭科に戸惑い、悩んだ時、みゆきに相談したいと、何度も思いました。その後、辛かった時、仕事がなかなか見つからなかった時・・・みゆきのことを思いました。思っているだけで、まだ、お墓参りにも行けてないのですが・・・一昨日、電話をくれた彼女から、みゆきの最期の様子を少し聞きました。痛みとたたかい、本当に、頑張ったのだと涙がこぼれましたみゆきの頑張りに比べたら、私はもっともっと頑張れるはず。。。頑張ります。いつか胸をはって、お墓参りに行ける生き方をしたいものです。 父と娘の肖像今日もぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村
August 9, 2009
ある方が日記に、幸せについて書かれていました。 事象だけを捉えて不幸だと決めつけることに疑問を感じた。 どんな状態であっても幸せだと感じることが出来る人は、 いつの時代でも幸せだと感じるはずなので、 幸せを見つける力が欠けることこそが本当の不幸 と。これを拝読して思い出したのですが、マラウイにいた頃、ある雑誌で、世界の美に関して特集するので、マラウイの美について書いてほしいとの依頼がありました。改めて、同僚や飲み友達、村の人たちに、目が大きい方がいいの? 小さい方がいいの?胸が大きい方がいいの? お尻が大きい方がいいの? などと、あれこれ聞いてみたのですが、どうもはっきりしない。男性陣は、自分の奥さんや彼女が、一番きれいだって口をそろえるんですよね。その時、改めて感じたのですが、私たち日本人の多くは、美の基準をマスコミに決めてもらっているのではないでしょうか。芸能人の誰がきれいで、それを基準とした流行のメイク、ファッション、スタイル・・・神戸に住んでいた頃、遊びに来てくれた知人が、「神戸の女の人たちは、オーラが同じ」と言っていました。皆、似たような姿かたちになるのは、「きれい」「かわいい」とされる基準に自分を近づけようとするからではないでしょうか。その基準を発信しているのは、マスコミ。マラウイでも映画やテレビ、インターネットの普及に伴い、西洋の美の基準がもちこまれたと言う人もいました。実際、無理なダイエットをする人もおり、今後、美人の基準が狭まるのかもしれません。私たち日本人の多くは、美に限らず、幸せや豊かさの基準も、マスコミに決めてもらっているのかもしれない。そんなことをふと、思いました。ありのままを受け入れる今日もぽちっと応援ありがとうございます
August 6, 2009
とげとげしていたのが、ガラス同士ぶつかりあったり、やすりで磨かれたりして、少しずつ丸みを帯びていくそうして少しずつとげとげを減らし、全体的に丸みを帯び、素敵に輝けるようにすることが、「人格の完成を目指す」(註1)ことなのかもとがっている部分で、人の心にひびを入れてしまったり、壊してしまうこともある自分の心が砕けてしまうこともあるそんな繊細さに、敏感でありたい強化ガラスとぶつかっても、砕けないつよさとしなやかさを、身につけたい柔らかい布でくるんであげたら、防御にはなるけれどいつか布をとるべきときに、素敵に輝けるよう、自分を磨いていたいそんなことを漠然と思う、今日この頃です。(註1) 教育基本法 第一条 教育の目的夕方のニュースで、カリスマ教育者なる方が紹介されていました。厳しいしつけが求められているのでしょうが、頭ごなしな叱り方や、感情的な言い方は、私はあまり好きではありません。人を育てる「やすり」なのかもしれないけど、心にひびを入れたり、砕いてしまう、武器にもなると思うから。傷つかないよう、ガードをかたくしたり、傷ついたことに気づかないふりをして生きていく術を身につけられるのかもしれないけれど・・・偽らざる心が、丸みを帯び、素敵に輝けるようにしたいと思うのです。Kim Jong Kookの3rdアルバムを3年あまり聴き続けましたが、先月、2枚新調しました今はをくり返し、聴いています Kim Jong kook 2集-Evolution今日もぽちっと応援ありがとうございます
August 3, 2009
協力隊として派遣していただく際、ある銀行のニューヨーク支店に口座を開くよう指示されました。 金融機関があまり信用のおけない国へ派遣される場合、 そのような措置がとられるようです。 マラウイでもナショナルバンクの口座も開く必要がありましたから、 ニューヨーク支店の口座が絶対に必要なものか、疑問ですが。帰国した頃は、今以上に円高でしたから、ニューヨーク支店の口座に入っているドルを円に戻すのももったいないような気がして、寝かせてありました。 いつかまた、その口座を使いたい願望もありました。けれど、しばらく動きのない口座のお金は没収されてしまうそうなので、解約し、同銀行の国内の支店の口座で、ドルを持っておくことにしました。 その口座を使うお仕事への未練を、ようやくたち切れたのでしょう。先日、解約手続きの書類を送りました。一昨日、家族も寝静まった深夜に、突然の電話「○○銀行のニューヨーク支店ですが、ご本人様確認のため・・・」・・・日本が今、何時かご存知ですよね? メールにしてくださいと、電話を切りました。昨夜21時頃、再び電話「ご本人様確認のため、生年月日とお母様の旧姓をおっしゃってください」さらに振込先の口座番号と、金額を確認された後、「口座開設の時と、現在の電話番号が異なりますので、 出身小学校と、お父様のお名前をおっしゃってください」電話番号を変えてはいないし、なぜ、そこまで語る必要があるのでしょう?と、お聞きしたところ、「今朝、日本時間の8時前にもお電話させていただきましたが、 ご本人様はすでにご出勤なさったあととのことで、ご不在でしたし、 なりすまし防止のためです」・・・・・・。パスポートのコピーを同封し、3度電話していただいて、所在を確認され、生年月日と母の旧姓まで語っているのに、さらに自分のプライバシーを電話口で語らなければならないことに、大きな抵抗を感じました。マラウイでも、ケニアかタンザニアか、よくわかんない電話につながったことありましたしね。私がなりすましかもしれないのであれば、先方もなりすましかもしれません。時差のあるニューヨークから、何度もお電話いただいて申し訳ないけれど、納得できません。数か月前、クレジットカードを申し込んだ際も、郵便局から「郵便局では受け取れません」との通知が届きました。 よくわからない文面だったのですが、 本局のナントカ窓口なら受け取れるが、 最寄りの郵便局へ転送はしないという主旨のようです。 小泉郵政改革のおかげですね。配達してもらうべく電話をしたところ、電話口で氏名、住所、電話番号、生年月日、免許証か保険証の番号を伝えなければ、配達してもらえないとのことでした。個人の情報を守るという大義名分の一方で、個人の情報を過剰に明かさなければ、自分のお金を動かすこともできない理不尽さと不便さを感じています。納得できない今日もぽちっと応援ありがとうございます
July 11, 2009
今日は、今のお仕事に就いて初めての、土曜日休みでした なかには、年中無休で働いている方々もいらっしゃいますが、 ナマケモノの私は、土曜の午前、出勤するだけでもへろへろです朝、すっきり気持ち良く目覚め就職して以来、初めて韓国にメールを書きこれまた就職して以来、初めて美容院へ行きましたその後、スーツを買うために、老舗の百貨店へ行きましたそのお店へ行くのは、十数年ぶり駐車場の入り口がわからず、一方通行にハマってしまい、店の周りをくるくるくるくる・・・迷路に入れられたハムスター状態でした ようやく立体駐車場に入れられたものの、 坂を上がるはずみに駐車券が落ちてしまい、 10分あまり車内を探しまくり、なんとか発見スーツ売り場で、商品を見ていると、5メートルくらい先にいた店員さんに、声をかけられました。「何号サイズですか?」大声で、人様に言えるようなサイズではありませんから、「メーカーによります」と、お答えしました。すると、「Lサイズは、店の奥です」と、大声で叫ばれました・・・ま、確かにLサイズなんですけどね・・・接客業とは思えない、デリカシーのなさに、踵を返しましたスーツを買うために、名古屋まで行く気力もなく、いったん帰宅し、ネットで調べたところ市内にあるイオンモールに、西武が入っていることを知りました生まれて初めて、イオンモールに行きました駐車場の看板は、「満車」「満車」「満車」・・・唯一、7階建ての立体駐車場の屋上だけが「空車」と書かれていたので、行ってみましたが、長蛇の列車を止めることができず あきらめて帰ってきました神戸で暮らしていた頃に比べ、美味しいシュークリームが食べられないことは残念だけれど、マラウイに比べれば、夢のような生活だと思っていました、我が地元。しかしやっぱり、地元に慣れるまでの道のりは、まだまだ遠いなと痛感させられた1日でした帰りに、これまた生まれて初めて、スタバでドライブスルーをしてきましたマラウイだけでなく、ザンビアにもタンザニアにも、スタバはありませんから、やっぱり地元は素敵だけれど・・・今日、私が買ったコーヒージェリーフラペチーノ1杯が、トコザニちゃんの月給よりも高かかったです大事なのは変わってくこと 変わらずにいること おかえり ~大切な人に、今伝えたいことがあります~今日もぽちっと応援ありがとうございます
July 4, 2009
天安門事件が起こった当時、私は学生でした。20年、ですか。お隣の大国で、同世代の学生さんたちが、大衆に向かって演説していた姿は、とても凛々しく、憧れました(詳しくは、3年前にも、つづっていますね)ハンストを指揮し、その後、渡米した女性リーダーとともに、ウーアルーカイシーさんは印象深く、数年後、自分の発行した機関紙に、お名前「カイシー=開希」を拝借しました。中国:ウアルカイシ氏、マカオに出頭…天安門事件リーダー(毎日新聞、2009年6月3日)↑この記事にジャンプし、時の流れに、改めて驚かされました。ネット上の記事は、すぐ見られなくなってしまいますからね。以下、いくつか転載させていただきます。「変革への年代記:第3編 天安門広場を離れて--元学生リーダーの思い/中」(毎日新聞、2009年6月3日) 「中国共産党は経済や生活の自由を与える代わりに政治的な協力を求め、国民はその取引に応じてしまった」。90年代以降の急速な経済発展の中で民主化要求運動が停滞している状況を、ウアルカイシ氏はこう分析する。 事件直後、中国に厳しい態度を取った欧米諸国も、中国市場への参入を犠牲にするような批判は控えるようになった。昨夏には中国の大国化を象徴するように北京五輪が開催され、開会式には主要国首脳が顔をそろえた。 「開会式は見なかった。見れば複雑な気持ちになる。私も中国の20年間の変化は称賛に値すると思う」とウアルカイシ氏は率直に認めた。その上でこう付け加えた。「国民の監視や不公正なシステムなど中国にはまだ問題点が多い。国際社会は利益と引き換えに態度を変えるべきではない」「銀幕閑話:第200回 「長征」と「天安門」の若者たち」 当時の大学生たちのはじけるような青春が暗転して行く時代を登場人物の心に寄り添って描いたのが「天安門、恋人たち」(ロウ・イエ監督)である。 プレス資料で監督は「ああいう状況で僕らが出来ることといえば、大声でわめいてビールびんを割ることぐらいしかなかった。僕らには力がなかったのです。僕も映画と同じような体験をしました」と深い挫折感を味わったことをうかがわせている。 日本の60~70年の安保闘争もそうだが、一度体験した挫折感は簡単にはぬぐい去れないようだ。職を転々と変えたり、ひっそり暮らすというように……。企業戦士としてうまく転身を図ったつもりの人も、どこかに心のトゲとしてひっかかって残っているのではないか。とりわけ70年の場合、本来は政治闘争でありながら、戦後の高度経済成長下で自由と豊かさを満喫した団塊世代の若者たちは、既成社会に反抗する快感とでも呼ぶべき祝祭的な気分も味わっていたはずだ。祭りが盛り上がれば盛り上がるほど、その後のダメージも大きくなる。 映画でもユー・ホンは住所も恋人も次々に変え、チョウ・ウェイは外国にまで行って心の癒やしを求めながら、どうしても満たされることのない日々を送る。彼らは10年後の再会で心の充足を取り戻せるだろうか。 長征ツアーに参加した中国の学生たちも今は40歳前後。その後の経済発展に寄与したりアウトサイダーとしてひっそり暮していることだろう。当時の私のインタビューに「今、中国は開放政策によって四つの近代化を目指す“第二の長征”に向かっている。50年前の長征は革命を成功させるという固い信念で行われた。長征の跡をたどりながらその信念を学ぶ必要がある」と熱く語った学生たちと、映画の登場人物が重なる。 映画は喪失感を味わった学生たちのその後の10年に力点が置かれているが、それは取りも直さず若者の信頼を失った中国共産党の喪失の10年でもあるはずだ。これまで直接、お話しさせていただいた、中国からの留学生は、自らの学びと、国の発展をつなげて語る方が多く、印象的でした。国費で留学しているエリートだったからかもしれませんが、彼らの「固い信念」こそが、その後の国力の強さへとつながったのかと、感じていました。「政治的市民」を育む上で、とても興味深い動機づけです。上掲中、水色にした部分は、私にとっての震災であり、私も、喪失の10年を過ごしてしまったのかもしれません。(その後の人生)私もそろそろ夢から覚め、歩み出すべき時が来ているのでしょうテレサ・テン13年目の「真実」 天安門事件が笑顔を奪った 時の流れに身をまかせ今日もぽちっと応援ありがとうございます
June 4, 2009
お久しぶりです。前回の更新から2か月近くも経ってしまったのですね。自分でびっくり あら。絵文字パレットも、リセットされてる4月中旬より、1年契約のお仕事に就いています。事前に聞いていた内容とは若干異なり、首から下の労働に明け暮れています。帰国後半年、無菌状態にいたためか、日本の風邪に対する抵抗力がすっかり落ちていたのでしょう。勤務3日めにひいた風邪が、なかなか治らず、1ヶ月あまりパブロン漬けでしたふり返ってみれば、これまでも、環境の変化を楽しむよりも、ストレスを受けやすいタイプでした。慣れるまでは時間がかかります。また、事前に聞いていたのとは異なる業務のなか、自ら仕事を探し、必要と思われる場面での動き方や考え方は、協力隊の経験が活かされているような気がします。 協力隊の経験がゆえに、感じてしまう疑問やストレスもありますが帰宅後も、週末も、家ではひたすら惰眠をむさぼっていますこの週末もたっぷり寝て、今朝はだいぶ元気です 昨日、ネットを検索していたら、このページにたどり着きました。2段目のテーマは「仮設『声』の写真集」について。これは阪神淡路大震災で発刊された本で、「隠れた名著」と言われています。しかし市場で出回らなかったのも事実です。を読み、うれしかったですね~この本、私も加わりました。当時は修士論文と生活のための仕事、ボランティアの3足のわらじで、いずれも中途半端な関わりになってしまいました。本のまとめ方も、不本意な出来でしたが、こうして使ってくださっている方たちもいることを知り、かなり励まされました正直、読みづらいと思いますが、機会があれば、あとがきだけでもお目通しください。当時の頑張ってた私が、垣間見えますFMで流れていた電照菊にすっかりハマり、生まれて初めて、音楽をDLで買いましたそろそろ、かりゆし / かりゆし58今日もぽちっと応援ありがとうございます
June 1, 2009
(1) いちばん大切なのは、人だと、私は思います。マシンを相手ではなく、人と一緒にお仕事させてもらった時、こちらの都合を一方的に押し付けた答えが、すぐ帰ってくることばかりではない。相手のことを知り、待つことも必要だと、私は思います。けれど、ビジネスの世界では、そんな甘っちょろいことを言っているゆとりはなく、効率=かける時間を少なく、より経済的に、かつ効果を求められるのでしょう。(2) 謝ることができるようになりました、私。あるアメリカ人は「日本人はすぐ謝る人が多いけれど、 謝ると弱くみられるから、謝っちゃだめだ」と言っていました。マラウイで、ハウスキーパーとウォッチマンに来てもらっていました。ハウスキーパーは、謝らない人でした。彼女が遅刻や無断欠勤をしたとき、私のものがなくなった時など、彼女に問いかけると、必ず「Because….」で、彼女の謝罪の言葉を聞いたことがありません。彼女はたまに「Sorry」と言っていましたが、それは私が風邪ひいた時などの「かわいそうに」の意味でした。ウォッチマンは、「遅刻してしまいました、ごめんなさい」と、自ら言いにくるような人でした。私は、彼が遅刻したことにさえ、気づいていませんでした。謝ることで、自らの落ち度を公表したのであり、彼も、生き方下手なのかもしれません。けれど、私は、彼の誠実さが好きでした 彼を信頼していました今朝見た夢のなかで、私は、ある人に、頭を下げていました。謝る必要のない場面だったかもしれません。けれど、相手を不快にさせてしまったことを詫び、相手の気持ちがおさまるなら、謝ることで関係がスムーズになるなら、私の頭なぞ、簡単に下げられます。私自身、謝ったことで、罪悪感が少し軽くなることもあります。ま、こちらが謝ったことで、つけ上がる人もいますが(3) 人は完璧ではないと、私は思います。失敗や単純なミスをすることもあります。それを責めたり、「仕事のできない人」と烙印するのではなく、お互いに支え合って、いい結果を導ければいいと思うのです。私は、自分が完璧ではないことを知っています。自分も似たような失敗をしてしまうかもしれないから、他人の失敗を責めたてるようなことは、しなくなりました。他人の失敗に気づいた時、些細なものであれば、相手に伝えず、自分がフォローすることもあります。軌道修正してもらう必要がある時には、責めるのではなく、できるだけフラットに伝えようとしています。しかし、ビジネスの世界では、他人のミスを責め、自分の成果を誇示すべきなのかもしれませんね。なんだか生きぐるしいです今日もぽちっと応援ありがとうございます
April 9, 2009
数日前、たまたま見たニュース番組で、標題の特集が放送されていました。 富山県出身の○さんは、小学校の頃、 学校の先生になりたいと思っていたそうです。 ところが、お父さんが、仕事中の怪我で失明。 弟妹たちを育てるために、○さんが働くことになりました。 小学校の先生から、進路を尋ねられても、 「中学校へ行きたい」 とは、言えなかったそうです。 その後、結婚、子育てをし、3年前、ご主人が他界。 これからどう生きようかと思った時、 自分は学びたかったことに気づきました。 数日間、夜間中学の校門の前を通り過ぎつつ、 門をくぐる勇気がなかなか持てなかったそうです。 孫ほどの年の同級生たちと一緒に給食を食べたり、 体育の時間には、教えてもらったり。 中学生活最後のテストでは、入学当初は苦手だった 数学でも90点がとれるようになりましたが、 ご本人は、満足していない様子でした。 85歳の今年、中学校を卒業されましたこのレポートを見て、私もかつて、夜間中学の活動に興味を持っていたことを思い出しました。当時は神戸にも、2校の夜間中学があり、大学の指導教官とともに、見学に訪れました。その後、松崎運之助さんの本を何冊か読み、たまたま参加した開発教育の全国集会で、ご本人にお目にかかった時には、なんだか感動したものです。残念ながら、夜間中学の教壇に立つ機会はありませんでしたが、定時制高校で、夜間中学を卒業された方たちと、接する機会もありました。○さんがなりたかった教員をはじめ、したいことをさせてもらった私は、贅沢な人生を歩ませてもらっていると、改めて感じました。人と比べ、ちょっと気が重くなっている今日この頃でしたが、先日、お邪魔した高校生のアンケートを再読しました。「マラウイに比べて、日本は恵まれている」と、何人か、書いてくれていました。おっしゃる通りです。私も、贅沢が過ぎるのでしょう。。。気の重い春今日もぽちっと応援ありがとうございます
April 5, 2009
なんだかこのところ、運気がかなり下がっていましたでも、気持ちの切り替えが早くなったのは、この半年の就職活動で得た収穫かもしれません以前は、うじうじ考えてしまったり、嫌な気分をひきずってしまうタイプでしたが、いつまでも落ち込んでいても、原因を追究しても、結果は変えられないことを学びました。ことは(^_-)☆さんが紹介されていたこの本の考え方にも、助けられました。 人生を変える一番シンプルな方法 まだ読んでいる途中なのですが、 私の部屋にはブラックホールがあるようで、 ここ数週間、この本が見つかりません もう1冊買おうかと、思っていたりしますそれから、人に対する興味が増しました自分は挫折を知らない、完全無欠の人間だと豪語していた教師もいましたが、私は、人は完璧ではないから、面白いと感じています。例えば、イチローだって、スランプに陥ることもあったし、ものすごい努力の結果、素晴らしいプレーで私たちを楽しませてくれますが、そんな彼にもきっと、欠点はあるのではないかと想像します。私たち皆、日々、成長を重ねていると思うのです。だから、面白い。その人の一部分を取り上げたり、あるいはその人の失敗をいつまでも責め続け、だめな人間と烙印し、関係を断ってしまうのは、もったいないことだと、今の私は、思います。自分は完璧な人間であると思っていても、人を利用したり、傷つけていいはずはない。自分だって、同じ過ちを犯してしまうかもしれず、他人を責めることなどできないと、私は思います。そして伝え方により、お互いの成長のきっかけとできるはず。この2か月ほど、アルバイトをさせてもらっています。この1か月は、お役所にお電話をして首長との面会時間をお約束するのが、主なお仕事でした。担当者によるのか、システム、あるいは地域性か、対応はまちまちです。そんななか、こちらの希望を伝えるのに、提案の仕方、情報の提示の仕方とそのタイミングなど、あれこれ考えさせられました。お役所として守らなければならないことも多いのでしょうが、運用しているのは人間ですから、伝え方によって、反応も異なります。一旦断られても、ねばり強く、よりわかりやすい情報を提示しながら、何度もお願いしているうちに、突破口ができたこともありました。自分の都合を押し付けるのではなく、相手の都合を優先し、待つ必要性も感じました。 これは、定時制高校で、生徒から学んだスタイルかもしれません。電話口でのやりとりですが、本当にさまざまで、口調、言葉遣い、対応の仕方など、学ぶことも多々ありました。職業に貴賤はないし、いつでも、どんな場面からも、学びは得られると、改めて感じています。昨夜は、3年ぶりの阪神戦をみることができましたテレビをつけたのが、ちょうど7回だったのに、風船飛ばしの時間、BSニュースになってしまいましたサンテレビが見たいです今日もぽちっと応援ありがとうございます
April 4, 2009
昨日は、両親とともに、お花見に行ってきました。桜と、夏の花火大会は自慢できる、我がふるさと桜は、私がいちばん好きな花。3年ぶりの桜です十余年ふるさとを離れていましたし、この時期に帰省することがあっても、通りすがりに見るだけで、もう何年も、地元のお花見に出かけたことはありません。ましてや、両親と一緒にお花見なぞ、初めてです。家からのんびりお散歩して、川沿いを歩き、公園まで行きました満開の時期にはまだ早めでしたが、もうすでに結構な人出。屋台でのんびりとをいただきました。いろんな屋台があって、見ているだけでわくわくしますねトルコのアイスや、シュラスコの屋台もあり、外国の人と思しき人たちが、売っていました。お客さんにも、外国の人と思しき人たちを何組か見かけました。子どもの話す流暢な英語が聞き取れませんでした30万人都市の我がふるさとに、1万2千人ほどの外国籍の人が住んでおり、うち半数あまりがブラジル出身なのだとか。いつの間にやら国際都市になっていました、我がふるさと。定年後はマラウイで、テキ屋さんでもしようかな。今日もぽちっと応援ありがとうございます
March 30, 2009
社会復帰に向け、リハビリのような生活を送っています、この1か月。久しぶりの人づきあいに、いろいろ感じています。自分の都合を優先したり、先入観、一面的な見方をしていないか前回も書いた通り、今の私は、冬ですそんな私にも、冬の暖かな日差しを送ってくださる方もいます荒野で、行き先を見失っている時、一緒に野営をしてくださったり、しばらく一緒に歩いてくださる方もいます。そんな彼らは、私にとって、とても温かく、励まされる存在です。けれど、そんな彼らのことを、批判する人たちもいます傍から見ていると、冬の日差しを送ってくれている太陽に対し、「なぜ、真夏の強い日差しを送らないのだ」と、責めているようにも感じられます。太陽も、地球の傾き加減や、自分の立ち位置により、受けられる温度も異なります。太陽はいつもどおり照らしていても、雨雲がかかっていたり、月が太陽を隠すこともあります。そんな背景に配慮することなく、真夏の日差しばかりを求められても、太陽にもできることの限界があると思うのです。違和感や不安を、どう伝えるかそんな太陽への違和感や不安を、太陽に直接伝えるのではなく、周りの人たちに言いまくることで、ネガティブな感情を共有し、徒党を組む人たちもいます。そうすることで、ストレスや不安が、軽減されるのかもしれません。太陽に対して、言葉で説明するのではなく、自分が不快であることを、態度で表現することもあります。厭味を言うこともあります。私たちはケモノではありませんし、日本語が通じます。言葉を尽くしたり、あきらめずに丁寧に伝えれば、きっとわかりあえると、私は信じたいです。 ちなみに母語が異なる人たちと、いかにわかり合えるか、 私自身のテーマでもあります。 これらのやりとりを傍で見ていて、私の隊員生活を、客観視することもできました。そして、そんな波に巻き込まれず、寂しく、哀しいことだなと、客観視できるのは、帰国後、自分のこれまでの生き方や心の傷、自分の考え方の癖などを、のんびりふり返り、向き合う時間から得た収穫かもしれません。あるいは、まだ完全に社会復帰していない、リハビリ中だからかもしれませんね。現場に復帰したら、余裕をなくし、巻き込まれてしまうのかもたとえ話がすぎて、わかりづらいかな今日もぽちっと応援ありがとうございます
March 28, 2009
先日、面接で東京へ行った際、東京駅に 京都の醍醐寺のポスターが貼ってありました。 豊臣秀吉がお花見をした醍醐寺の桜の写真の横に、 「見事なサクラであればあるほど、 長い冬の時間、 耐えてきたことを思うのでした。」 とのコピーが添えられており、涙しました今の私は、まさに「冬」だなと冬の私に、暖かい日差しを送ってくださる方たちもいます。 こもを巻いてくださる方たちもいます。 冷たい風や雪も、私がより成長するためだと思います。 満開の頃は、ちやほやされていても、 花をつけていない今は、 見向きもされないことが、ほとんどでしょう。 かつて、折られた枝もあります。 年がら年じゅう咲いている、大輪のバラのような人たち、 その横で、しっかり咲き続けているかすみ草のような人たち、 つよい香りで存在を主張する、ゆりのような人たち、 かわいらしく、誰からも愛されるチューリップ・・・ いろんな人たちがいらっしゃるけれど、 今の私は、たまたま冬なだけ。 でも、冬が永久に続くわけじゃない。 私もいつか、きっと花開きますそんなことに気付かせてくれたポスターでした。 子どもの頃、醍醐寺で行われていた「少年少女の集い」という 3泊4日のイベントに参加したこともあり、私にとって 醍醐寺は、京都のお寺さんのなかで最も親近感があります。 数年前、シンガポール人の友達と、醍醐にお花見に行った際、 インドの方と出会い、とても楽しいひとときを過ごしました。 あの頃、せめて今くらい英語が話せたら、インドの人とも、 その後のご縁がつながっていたのかもしれません。 そんなあれこれも思いだされ、 しばらく涙の止まらなかった東京駅でした今は元気ですよ今日もぽちっと応援ありがとうございます
March 24, 2009
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