第百六段
【本文】
むかし、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、
ちはやぶる 神代も聞かず 龍田河 からくれなゐに 水くくるとは
〇親王=皇族であることを天皇から認められた皇子。
〇逍遥=景色を楽しみに川や海などの水辺に出かける。川遊び。
〇まうづ=うかがう。参上する。身分の高いかたのところへ「行く」ことをへりくだっていう。
〇ちはやぶる=勢いが強く逸る。荒々しい。「神」にかかる枕詞。
〇神代=神々の時代。『古事記』『日本書紀』では、開闢から神武天皇以前に至るまでの時代を指し、神々は高天原に住んでいたとされる。
〇龍田河=奈良県生駒郡を流れる川。生駒山から流れ出て、大和川に注ぐ。紅葉の名所として著名。
〇からくれなゐ=あざやかな紅の色。
〇くくる=くくり染めにする。定家をはじめ、中世では「潜る」意に解されていた。現在でも一部(たとえば落語の演題「ちはやふる」)では、その意で用いられている。『例解古語辞典』(三省堂)に「古代中国の蜀の地では、錦江の流れにさらしてつくる錦が、精巧な品として名高かったが、くくり染めという着想は、その蜀江の錦を意識してのものだろう。とすれば、上の句には、あの有名な蜀江の錦でも、これほどではあるまい、という含みもある」。
【訳】
むかし、ある男が、親王たちが川遊びをなさる所に参上して、龍田河のほとりで作った歌。