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第八十二段【本文】むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬の頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで、酒を飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、上・中・下、みな歌よみけり。馬の頭なりける人のよめる、 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからましとなむよみたりける。また人の歌、 散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべきとて、その木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ。御供なる人、酒を持たせて、野より出で来たり。御供なる人、酒を持たせて、野より出で来たり。この酒を飲みてむとて、よき所を求め行くに、天の河といふ所にいたりぬ。親王に、馬の頭、大御酒まゐる。親王ののたまひける、「交野を狩りて、天の河のほとりにいたるを題にて、歌よみて、盃はさせ」とのたまうければ、かの馬の頭、よみて奉りける、狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に われは来にけり 親王、歌をかへすがへす誦じたまうて、返しえしたまはず。紀の有常、御供に仕うまつれり。それが返し、 一年に ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ帰りて、宮に入らせ給ひぬ。夜ふくるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入りたまひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬の頭のよめる、 飽かなくに まだきも月の隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ親王にかはり奉りて、紀の有常、 おしなべて 峰も平らに なりななむ 山の端なくは 月も入らじを【注】〇惟喬の親王=文徳天皇の第一皇子。小野の宮、または水無瀬の宮と称した。在原の業平は親王を擁立して帝位につけようとしたが、母方が紀氏であったために藤原氏に妨げられて果たさず、親王は出家して不遇の一生を終わった。(八四四~八九七年)。〇申す=申し上げる。「いふ」の謙譲語。〇おはします=いらっしゃる。「あり」の尊敬語。『伊勢物語』においては、「いまそかり」よりも敬意が高い。〇山崎=京都府乙訓郡大山崎町。「乙訓」は、よみかたが一定しないらしく、小西甚一『土佐日記評解』(有精堂)では「おとしろ」、『旺文社古語辞典』では「おとくに」と読んでいる。京都盆地と大阪平野をつなぐ地点。淀川の右岸で北に天王山、川を隔てて男山をひかえ、関門としての要地。古くから京都から西国への河港として開け、中世には油座があって栄えた。司馬遼太郎著『国盗り物語』に詳しい。〇水無瀬=摂津の国の北東部、山城の国との境近く、淀川沿いの地。大阪府三島郡島本町広瀬の地。平安初期から狩猟地として知られ、鎌倉初期には後鳥羽上皇の離宮があった。〇おはします=いらっしゃる。「行く」の尊敬語。〇右の馬の頭なりける人=右馬寮の長官。在原業平の官称。〇率る=ひきつれる。伴う。〇時世=年月。〇ねむごろにもせで=熱心にもしないで。〇やまと歌=和歌。〇かかる=熱中する。没頭する。『角川必携古語辞典』によれば、「やまと歌」は和歌のことだが、特にやまと歌」という場合は、「唐歌(=漢詩)」に対していう。男性たちの宴においては、漢詩を作ることが一般であった。そのような時代に、和歌によって心を慰めた人々が、「伊勢物語」に描かれているのである、という。〇交野=河内の国交野郡内(今の大阪府枚方市・交野市付近)の台地。山城の国との国境に近い、淀川の東岸一帯で、平安時代以降、皇室の狩猟の地であった。〇渚の家=渚の院。河内の国、交野にあった離宮と考えられている。〇その院=渚の屋敷。〇ことにおもしろし=格別美しい。〇木のもとにおりゐて=馬からおりて腰をおろして。『伊勢物語』九段「その沢のほとりの木の陰におりゐて、乾飯食ひけり」。〇かざし=草木の枝葉や花を折って髪や冠にさしたもの。〇上・中・下=身分の高い人も、中ほどの人も、低い人も。〇たえて~なし=まったく~ない。〇~せば~まし=もし~だったら~だろうに。いわゆる反実仮想の表現。〇また人の歌=別の人の作った歌。〇いとど=ますます。いっそう。〇めでたし=すばらしい。〇憂き世=つらい世の中。この世。〇久し=永遠だ。〇出で来=現れる。〇飲みてむ=飲んでしまおう。「て」は強意の助動詞「つ」の未然形、「む」は、意志の助動詞。〇天の河=河内の国交野郡の禁野の別名。〇大御酒=天皇など貴人のお飲みになるお酒。〇まゐる=差し上げる。お勧めする。〇のたまふ=おっしゃる。「いふ」の尊敬語。〇いたる=行き着く。〇さす=盃に酒を入れて勧める。〇狩り暮らす=狩猟で一日を暮らす。〇たなばたつめ=織女星。初秋の頃、牽牛星とともに天の川あたりに現れる星。〇かへすがへす=繰り返し。〇誦ず=節をつけて唱える。口ずさむ。〇紀の有常=平安時代初期の貴族。名虎の子で、仁明・文徳・清和の三代の天皇に仕え、晩年は従四位下、周防権の守であった。妹静子が文徳天皇の更衣として惟喬の親王・恬子親王を産んだが、藤原良房の妹明子の産んだ惟仁親王が清和天皇として即位したため不遇であった。(?~八八七年)。〇来ます=いらっしゃる。おいでになる。「く」の尊敬語。〇宮=渚の院。〇物語=話。〇飽かなくに=満足していないのに。〇まだきも=時至らないのに早くも。〇山の端=山の稜線。山が空に接する部分。〇おしなべて=すべて一様に。【訳】むかし、惟喬の親王と申しあげた親王がいらっしゃった。山崎の向こうの、水無瀬という所に、離宮があった。毎年の桜の花ざかりには、その離宮へおでましになった。その時、右馬頭だった人を、常に引き連れてお出かけになった。年月がたってだいぶ長くなってしまったので、その人の名は忘れてしまった。狩は熱心にもしないで、酒を飲みながら、和歌に夢中になったのだった。今狩をしている交野の川べりの屋敷、その離宮の桜が格別にみごとだ。その木のそばに馬からおりて腰を下ろして、枝を折って、髪に挿して、身分が高いものも・中ほどのものも・低いものも、みな歌を作った。右馬頭だった人が作った歌、 この世の中に全く桜がなかったならば、春の心はもっとのどかなものだったろうに。と作ったのだった。別の人の作った歌、 散るからこそいっそう桜はすばらしいのだ。つらいこの世に一体なにが永遠のものがあろうか、いや、何もない。といって、その木のそばから立ちあがって帰ると、日暮れになってしまった。御供である人が、酒をお持ちになって、野から現れた。御供である人が、酒をお持ちになって、野から現れた。「この酒を飲んでしまおう。」といって、適当な場所を探して行くと、天の河という所に行き着いた。惟喬親王に、右馬頭が、お酒を勧めた。親王がおっしゃったことには、「交野で狩りをして、天の河のほとりにたどり着いたということを題として、歌を作ってから、盃に酒を注げ」とおっしゃったので、例の右馬頭が、作って差し上げた歌、狩りをして一日を暮らし、疲れたので織女に一夜の宿を借りよう。それにしてもこんなに遠く天の河原にまで私はやって来てしまったなあ。 親王、歌をかへすがへす誦じたまうて、返しえしたまはず。紀の有常が、御供としてお仕えしていた。その者の作った返歌、一年に一回だけいらっしゃる殿方を待っているので宿を貸す人もいないだろうと思います。帰って、離宮にお入りになった。夜が更けるまで酒を飲み、話をして、主人の惟喬親王が、酔ひて入りたまひなむとす。十一日の月も今にも隠れてしまいそうなので、例の右馬頭が作った歌、まだじゅうぶん満足するまで眺めていないのに、早くも月が隠れてしまうのか。山の端が遠くへ逃げて月を入れないでほしいなあ。惟喬親王に代ってさしあげて、紀の有常が作った歌、どの峰も、みな一様に平らになってしまってほしい。山の端がなかったら、月も山のむこうに入らないだろうに。
June 10, 2017
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第八十三段【本文】 むかし、水無瀬に通ひ給ひし惟喬の親王、例の狩りしにおはします供に、馬の頭なる翁仕うまつれり。日ごろ経て、宮に帰りたまうけり。御おくりして、とくいなむと思ふに、大御酒たまひ、禄たまはむとて、つかはさざりけり。この馬の頭、心もとながりて、枕とて 草ひきむすぶ こともせじ 秋の夜とだに 頼まれなくにとよみける。時は弥生のつごもりなりけり。親王、おほとのごもらで明かし給うてけり。かくしつつまうで仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪おろしたまうてけり。睦月に、をがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山のふもとなれば、雪いと高し。しひて御室にまうでてをがみ奉るに、つれづれといとものがなしくて、おはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞こえけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、おほやけごとどもありければ、えさぶらはで、夕暮れに帰るとて、忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとはとてなむ、泣く泣く来にける。【注】〇水無瀬=大阪府三島郡本町広瀬。後鳥羽院の離宮があった所。に通ひ給ひし〇惟喬の親王=文徳天皇の第一皇子。小野の宮、または水無瀬の宮と称した。藤原氏に皇位継承を妨害され、不遇のうちに一生を終えた。(八四四~八九七年)〇例の=いつものように。〇おはします=「行く」の尊敬語。〇供=従者。〇馬の頭=馬寮の長官。従五位上相当官。なる翁=〇仕うまつる=お仕えする。〇日ごろ経て=数日間たって。〇宮=親王のお住まい。〇御おくり=お見送り。〇とくいなむ=早く立ち去ろう。〇大御酒=神や天皇皇族などに差し上げる酒。〇禄=祝儀。〇つかはす=「行かす」の尊敬語。〇心もとながる=イライラする。待ち遠しがる。じれったいとおもう。〇枕とて草ひきむすぶ=いわゆる草枕。古くは、旅先で草を結んで枕とし、夜露に濡れて仮寝した。〇頼まれなくに=あてにできないのに。〇時=時節。〇弥生のつごもり=春の終わり。〇おほとのごもる=「寝」の尊敬語。おやすみになる。お眠りになる。〇明かす=眠らずに朝を迎える。〇思ひのほかに=予想に反して。意外なことに。〇御髪おろす=高貴な人が髪を剃って仏門に入る。〇睦月=陰暦一月。〇をがむ=高貴な方にお目にかかる。〇小野=山城の国愛宕郡の地名。比叡山の西側のふもと一帯。惟喬親王の出家後の住居で知られる。〇しひて=無理に。あえて。〇御室=出家が住む庵。〇つれづれと=しみじみと寂しく。やるせない気持ちで。〇ものがなし=なんとなく悲しいうら悲しい。〇やや久しく=だいぶ長時間。〇さぶらふ=「つかふ」「をり」の謙譲語。おそばでお仕えする。〇聞こゆ=「いふ」の謙譲語。申し上げる。さてもさぶらひ〇てしがな=終助詞「てしが」に詠嘆の終助詞「な」のついたもの。~たいものだなあ。〇おほやけごと=朝廷の行事や儀式。〇えさぶらはで=お仕えすることもできないで。〇思ひきや=想像しただろうか、いや、想像もしなかった。「や」は反語の係助詞。〇踏みわく=歩くのに困難な場所へ分け入る。【訳】むかし、水無瀬に通ひ給ひし惟喬の親王が、いつものように狩りをしにお出かけになるお供に、馬の頭の老人がおそばでお仕え申し上げた。何日も経って、お屋敷にお帰りなさった。お見送りして、さっさとおいとまをいただいて立ち去ろうと思ふのに、お酒をお与えになり、ご褒美をお与えになろうとして、帰らせなかった。この馬の頭は、家に帰りたいのでいらいらして、枕にするために草をひっぱって結ぶこともするまい。いまは秋の夜とさえあてにはできないので。という歌を作った。時節は陰暦三月の月末であった。親王は、おやすみにならず夜をお明かしになってしまった。このようにしながらお仕えしていたが、意外なことに、頭髪をお剃りになって出家なさってしまった。陰暦一月に、御目にかかろうと思って、小野にうかがったところ、比叡山のふもとなので、雪がとても高く積もっている。わざわざ御庵室にうかがってお目にかかったところ、つれづれといとものがなしくて、おはしましけるれば、だいぶ長い時間おそばにお仕えして、昔のことなど思い出しては申し上げた。そのまま親王のおそばにお仕えしていたいと思ったが、朝廷の儀式などがあったので、おそばにお仕えすることもできずに、夕暮れに帰るというので、現実を忘れて、これは夢ではないのかと思います。想像したでしょうか、こんなに深い雪の山道を分け入ってあなた様にお目にかかろうとは。という歌を作って、泣く泣く都に帰って来たのだった。
June 10, 2017
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第八十四段【本文】 むかし、男ありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり。子は京に宮仕へしければ、まうづとしけれど、しばしばえまうでず。一つ子にさへありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、師走ばかりに、とみのこととて御文あり。おどろきて見れば、歌あり。 老いぬれば さらぬ別れの ありといへば いよいよ見まく ほしき君かなかの子、いたううち泣きてよめる、世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もと祈る 人の子のため【注】〇身=身分。身の上。〇いやし=身分が低い。〇ながら=逆接条件を示す接続助詞。~けれども。~ものの。〇宮=皇族。〇長岡=山城国乙訓郡の地名。平安京の南西にあたり、平安遷都まえの十年間、桓武天皇の都があった。〇宮仕へ=宮中に仕えること。〇まうづ=参上する。〇しばしば=しきりに。〇え~ず=~することができない。〇一つ子=一人っ子。〇かなしうす=かわいがる。いとおしむ。〇さるに=ところが。そうしているところに。『伊勢物語』七十八段「さるに、かの大将、いでてたばかりたまふやう」。〇師走=陰暦十二月。〇ばかり=くらい。ほど。〇とみのこと=急な用事。〇御文あり=お手紙がきた。〇おどろきて=はっとして。〇老いぬれば=年を取ってしまうと。〇さらぬ別れ=死別。〇いよいよ=ますます。ふだんよりもいっそう。〇見まくほしき君かな=お目にかかりたいあなただなあ。『万葉集』一〇一四番「あすさへ見まくほしき君かも」。〇いたう=ひどく。はなはだしく。〇もがな=願望の終助詞「もが」に感動の間投助詞「な」がついたもの。~だといいなあ。〇千代=千年。極めて長い年月。〇祈る=神仏に願いをかける。【訳】むかし、男がいた。身分は低かったが、母は皇族であった。その母が、長岡という所に暮しておられた。子は京で宮中へ出仕していたので、母の所に伺おうとは思っていたのだけれど、ひんぱんに伺うということはできなかった。親にとっては一人っ子でもあったので、とてもかわいがっていらっしゃった。そうしていたところが、十二月ごろに、急な用事ということで御手紙がきた。はっとして目を通したところ、歌が書かれていた。 年を取ってしまうと死別というものがあるというので、ふだんよりもいっそう会いたいあなたですよ。例の子が、ひどく泣いて作った歌、世の中に死別が無ければいいのになあ、親が千年も長生きしてほしいと神仏に願う子どものために。
June 10, 2017
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第八十五段 むかし、男ありけり。童より仕うまつりける君、御髪おろしたまうてけり。睦月にはかならずまうでけり。おほやけの宮仕へしければ、常にはえまうでず。されど、もとの心うしなはで、まうでけるになむありける。むかし仕うまつりし人、俗なる、禅師なる、あまた参り集まりて、睦月なればことたつとて、大御酒たまひけり。雪こぼすがごと降りて、ひねもすにやまず。みな人酔ひて、雪に降りこめられたりといふを題にて、歌ありけり。 思へども 身をしわけねば 目離れせぬ 雪の積もるぞ わが心なるとよめりければ、親王、いといたうあはれがりたまうて、御衣ぬぎてたまへりけり。【注】〇童=元服前の子供。〇仕うまつる=「つかふ」の謙譲語。〇君=主君。〇御髪おろす=貴人が頭髪を剃って仏門に入る。〇睦月=陰暦の一月の異名。〇まうづ=参上する。お伺いする。〇おほやけの宮仕へ=朝廷への出仕。〇常にはえまうでず=いつも参上するというわけにはいかない。〇されど=しかし。そうではあるが。〇もとの心=以前お仕えしていたころの気持ち。〇俗なる=俗人。僧でない人。〇禅師なる=僧。法師。〇あまた=数多く。〇ことたつ=特別なことをする。〇大御酒=神や天皇・主君に献上する酒。〇たまふ=「あたふ」「さづく」の尊敬語。お与えになる。下さる。〇ごと=上代・中古には、「ごとし」の語幹相当部だけでも用いられた。〇ひねもすに=朝から晩まで。〇みな人=その場にいる人すべて。〇雪に降りこめられたりといふを題にて、歌ありけり。〇思へども=つねに親王の元に参上したいと思うけれども。〇身をしわけねば=肉体を二つに分けるわけにもいかないので。「し」は強意の副助詞。「ね」は、打消しの助動詞「ず」の已然形。〇目離れせぬ=目が離せない。会うことが少なくならない。〇親王=天皇の兄弟および皇子。ここでは、惟喬親王(八四四~八九七年)。文徳天皇の第一皇子。別称は、小野の宮。また、水無瀬の宮。藤原氏の勢力に皇位を阻止され、出家して不遇の生涯を終えた。〇あはれがる=称賛する。〇御衣=お着物。衣服を敬った言い方。【訳】むかし、男がいた。元服する前の子供の子供のころからお仕え申し上げていた主君が、髪を剃って出家なさってしまった。一月には必ず参上していた。朝廷への出仕をしていたので、いつも主君のところに参上するというわけにはいかなかった。そうではあるが、以前お仕えしていたころの心を失うことなく、参上していた。むかしお仕えしていた人が、俗人も、僧も、数多く参上し集まって、一月なので特別なことをするというので、御酒を頂いた。雪がまるで器から水をこぼすように降って、朝から晩までやまない。その場にいる人がすべて酒に酔って、「雪のために屋敷に閉じ込められた」ということを題として歌を作った。いつも惟喬親王の元に参上したいと思うけれども一つしかない肉体を二つに分けるわけにもいかないので、どんどん積もるために目が離せないこの雪のように、お会いすることが減らないようにしたいという思いが積もるのが私の今の心境でございます。と作ったところ、親王が、とてもひどく感動なさって、お着物をお脱ぎになってくださった。
June 10, 2017
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第八十六段【本文】 むかし、いと若き男、若き女をあひ言へりけり。おのおの親ありければ、つつみて言ひさしてやみにけり。年ごろ経て、女のもとに、なほ心ざし果たさむとや思ひけむ、男、歌をよみてやれりけり。 今までに 忘れぬ人は 世にもあらじ おのがさまざま 年の経ぬればとて、やみにけり。男も女も、あひ離れぬ宮仕へになむいでにける。【注】〇あひ言ふ=互いに憎からず思う。『伊勢物語』四十二段「むかし、男、色好みと知る知る、女をあひ言へりけり」。〇つつむ=隠す。〇言ひさす=話を途中でやめる。〇やみにけり=それっきりになってしまった。〇年ごろ経=長年過ごす。『伊勢物語』二十三段「さて、年ごろ経るほどに、女、親なく頼りなくなるままに」。〇なほ=やはり。〇心ざし=相手に寄せる愛情。〇世にもあらじ=けっしているまい。「世に」は、下に打消しの表現を伴って「少しも。決して」の意。『万葉集』三〇八四番「世にも忘れじ妹が姿は」。〇おのがさまざま=ひとそれぞれに。【訳】むかし、非常に若い男が、若き女と互いに相手を憎からず思っていた。それぞれ親がいたので、二人の関係を隠して告白するのを中断してそのままになってしまった。それから何年も経って、女の所に、やはり本来の愛情を貫こうと思ったのだろうか。男が、次のような歌を作って送った。 今までに私のことを忘れていない人は決していないだろう。お互いおれぞれ別々の生き方をして長年経過してしまったのだから。と歌に書いてやって、それっきりになってしまった。男も女も、お互い離れていない所に宮仕えに出かけていたのであった。
June 10, 2017
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第八十七段むかし、男、津の国、莵原の郡、蘆屋の里に、しるよしして、行きて住みけり。むかしの歌に、蘆の屋の 灘の塩焼き いとまなみ 黄楊の小櫛も ささず来にけりとよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ、蘆屋の灘とはいひける。この男、なま宮仕へしければ、それを頼りにて、衛府の佐ども集まり来にけり。この男の兄も衛府の督なりけり。その家の前の海のほとりに遊びありきて、「いざ、この山の上にありといふ布引の滝、見にのぼらむ」と言ひて、のぼりて見るに、その滝、ものよりことなり。長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹に岩をつつめらむやうになむありける。さる滝の上に、藁座の大きさして、さしいでたる石あり。その石の上に走りかかりたる水は、小柑子、栗の大きさにてこぼれ落つ。そこなる人にみな滝の歌よます。かの衛府の督、まづよむ、わが世をば 今日か明日かと 待つかひの 涙の滝と いづれ高けむあるじ、次によむ、ぬき乱る 人こそあるらし 白玉の まなくも散るか 袖のせばきにとよめりければ、かたへの人、笑ふことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり。帰り来る道遠くて、うせにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。宿りの方を見やれば、海人の漁火多く見ゆるに、かのあるじの男、よむ、晴るる夜の 星か河辺の蛍かも わが住む方の 海人のたく火かとよみて、家に帰り来ぬ。その夜、南の風吹きて、浪いと高し。つとめて、その家の女の子どもいでて、浮き海松の波に寄せられたるひろひて、家のうちに持て来ぬ。女方より、その海松を高坏にもりて、柏に書けり。わたつうみの かざしにさすと いはふ藻も 君がためには をしまざりけりゐなか人の歌にては、あまれりや、たらずや。【注】〇津の国=摂津の国の古名。今の大阪府と兵庫県の一部。〇莵原の郡=『万葉集』巻九の一八〇一、一八〇九番歌の菟原処女の伝説で知られる。〇蘆屋の里=今の兵庫県芦屋市。〇しるよしして=領地として所有して。領有して。〇蘆の屋=芦屋。歌中などで音数の関係から「の」がはいったもの。〇塩焼き=海水を煮詰めて塩をつくる仕事。また、その従事者。 〇いとまなみ=ひまがないので。〇黄楊の小櫛=ツゲは、高さ三メートルくらいに達する常緑樹。材質が堅いので、櫛・版木・印判・将棋の駒などに加工する。も ささず来にけり〇なま宮仕へ=形ばかりで仕事があまりない宮仕え。〇衛府の佐ども=六衛府の次官。近衛府では「中将」「少将」、衛門府・兵衛府では「佐」という。「ども」は、「たち」よりも敬意の度合いが低い。〇衛府の督=六衛府の長官。近衛府では「大将」、衛門府・兵衛府では「督」という。〇布引の滝=神戸市、六甲山地の南側を流れる生田川にある滝。上流に雄滝、下流に雌滝がある。歌枕。〇もの=ふつうのもの。〇長さ二十丈=六十メートル。一丈は約三メートル。〇おもて=表面。〇白絹=に岩を〇つつめらむやうになむありける=包んであるようであった。「らむ」の「ら」は、存続の助動詞「り」の未然形。「む」は、婉曲の助動詞。〇さる=そのような。〇藁座=円座。ワラなどで渦巻き状に編んだ丸い敷物。板の間などに座るときに用いる。〇さしいづ=突き出る。〇走りかかりたる水=勢いよく飛び出し落下してぶつかっている水。〇小柑子=小ぶりのコウジミカン。〇そこなる人=その場にいる人。〇かの衛府の督=例の衛府の督。貞観六年に左兵衛の督に任ぜられた在原行平。〇わが世=自分がときめく時期。〇かひ=合間。〇いづれ高けむ=どちらが高いだろうか。〇あるじ=滝見の主催者。〇ぬき乱る=貫いてとめてある緒を抜き取って玉を散乱させる。〇白玉=真珠。〇まなくも散るか=ひっきりなしに散ることだなあ。〇袖のせばきに=袖が狭いのに。〇かたへの人=そばにいる人。仲間。〇めでてやみにけり=感動してそれっきり歌を作らなかった。〇宮内卿もちよし=宮内卿は宮内省の長官。正四位下に相当する。「もちよし」は、未詳。〇宿り=宿泊所。〇見やる=視線を向ける。〇海人の漁火=漁夫が、魚をおびき寄せるために、船の上で夜たく火。〇晴るる夜の星か河辺の蛍かもわが住む方の海人のたく火か=かの『鉄道唱歌 増訂版』(野ばら社)《山陽・九州編・二一》に「海にいでたる廻廊の板を浮べてさす汐にうつる燈籠の火の影は星か蛍か漁火か」と見える。〇つとめて=その翌朝。〇浮き海松=根が切れて水に漂っているミル。〇家のうちに持て来ぬ=家のなかに持ってきた。『竹取物語』「手にうち入れて家へ持ちて来ぬ」。〇女方=女のほう。〇高坏=食べ物を盛る足のついた小さな器。〇柏=広くて厚い葉。〇わたつうみ=海の神。〇かざし=髪の毛や冠にさした花や枝。〇ゐなか人=都を離れた地方の人。〇あまる=じょうずだ。うまい。〇たらず=不満だ。【訳】むかし、男が、摂津の国、莵原の郡、蘆屋の里に、所有している土地があった関係で、京から行って暮らしていた。古歌に、蘆屋の里の沖の海水を煮詰めて塩を作る仕事は、ひまがないので、ツゲの木でつくった小さな櫛もささずにやって来てしまったなあ。と作ったのは、この里を詠みこんだのだ。ここを蘆屋の灘といった。この男は、ほんの形ばかりの宮仕えをしていたので、それを縁故として、衛府の佐どもが集まってやって来た。この男の兄も衛府の督であった。その家の前の海辺を見物してまわって、「さあ、この山の上にあるという布引の滝を、見にのぼろう」と言って、のぼって見たところ、その滝、ものよりことなり。長さ六十メートル、広さ十五メートルぐらいの石の表面は、白絹で岩をつつんであるようであった。そんな滝の上に、藁でつくった円座ぐらいの大きさで、水から突き出ている石がある。その石の上に勢いよく流れて落下してそそぎかかっている水は、小さなコウジミカンか、栗の大きさで落ちかかる。その場にいる人全員に滝の歌を作らせた。かの衛府の督、まづよむ、私の栄える時期はいつだろうか、今日か明日かと待つ合間の、不遇で流す涙が川となり、その涙河の滝と、この布引の滝とでは、どちらが高いだろうか。主催者の男が、次に作った歌、玉を貫いてとめていた緒を抜き取って散乱させた人がいるらしい。真珠がひっきりなしに散らばるなあ、うけとめようとする袖が狭いのに。それと同じように私の涙の玉もひっきりなしに落ちて袖で受け止めきれない。と作ったところ、そばにいる人が、滑稽に思われることだったのだろうか、この歌に感心して、歌会はそれでおしまいになってしまった。帰路の道のりが遠くて、亡くなった宮内卿もちよしの家の前にやって来たところ、日が暮れてしまった。宿泊先のほうへ視線を向けたところ、漁師が船でたく漁火が多く見えたので、例の主催者の男が作った歌、晴れた夜の星だろうか、あるいは河辺に飛びかう蛍の光かなあ、それとも私が住んでいる方の漁師が船でたく漁火か。と歌を作って、家に帰って来た。その夜、南の風吹きて、浪いと高し。つとめて、その家の女の子どもが浜に出かけて、浮き海松で波により浜に打ち寄せられているのを拾って、家のなかに持って来た。女の側から、その海藻を脚付きの小さな器に盛って、添えた広葉樹の葉に書いてあった歌。海の神様が髪飾りに挿すと神聖なものとして大切に守る藻もあなた様のためには惜しまずにこれほど沢山恵んでくださったのだなあ。田舎者が作った歌としては、上手だろうか、それとも下手くそだろうか。
May 21, 2017
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第八十八段【本文】 むかし、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちども集まりて、月を見て、それが中にひとり、おほかたは 月をもめでじ これぞこの 積もれば人の 老いとなるもの【注】〇いと若きにはあらぬ=あまり若いというわけではない。「ぬ」は、打消し助動詞「ず」の連体形。〇これかれ=この人やあの人。『土佐日記』「かれこれ、知る知らぬ、送りす」。〇おほかたは=とおりいっぺんには。いいかげんには。〇めでじ=愛でるのはよそう。「めで」は、見て楽しむ意の「めづ」の未然形。「じ」は、打消意志を表わす助動詞。「月をもめでじ」の「月」は、天体、「積もる」の主語の「月」は、月日。〇積もる=積み重なる。【訳】むかし、あまり若いというわけではない男が、この人やあの人、友人連中が集まって、月を見て、その人たちの中でひとりが、次のような歌を作った。月をいいかげんには賞美しないようにしよう。それが積もれば老いになるのだから。
May 21, 2017
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第八十九段【本文】むかし、いやしからぬ男、われよりはまさりたる人を思ひかけて、年経ける。 人知れず われ恋ひ死なば あぢきなく いづれの神に なき名負ほせむ【注】〇いやし=身分が低い。〇思ひかく=恋い慕う。〇年経=多くの年月を送る。〇人知れず=ひそかに。〇恋ひ死なば=もしも恋しさのあまり病気になって死んだとしたら。「な」は完了助動詞「ぬ」の未然形。『万葉集』には「おもひしぬ」の語も見える。「われ恋ひ死なばあぢきなく」で、あぢきなく」が、「かいがない。つまらない。」の意となり、「あぢきなく神になき名おほす」で、「あぢきなく」が「不当にも」の意にはたらくよう表現が工夫されている。かの『徒然草』の《花は盛りに》「椎柴、白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ」の「身にしみて」が、「椎柴、白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて」で、椎の木や白樫などの夜露に濡れているような葉の上に月光がきらめいているのがしみじみ美しく感ぜられ」の意となり、「身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ」で、心の底から、情趣を解する友人がいればいいのになあと、都が恋しく思われる」の意となるように、一つの単語に複数の意味があるのを利用して、上の文とのつづきと、下の文とのつづきとで意味を変えて用いている。〇あぢきなし=かいがない。つまらない。不当だ。〇なき名=根拠のない噂。身に覚えのない評判。〇負ほす=罪をかぶせる。【訳】むかし、身分が低くはない男が、自分よりは身分が高い女性に対し恋心を抱いて、多くの年月を送った。 ひそかに人に知られぬように、もし私が恋い死にしたならば、不当にも、どの神様に 無実の汚名をきせようか。
May 21, 2017
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第九十段【本文】 むかし、つれなき人をいかでと思ひわたりければ、あはれとや思ひけむ、「さらば、明日、ものごしにでも」と言へりけるを、かぎりなくうれしく、またうたがはしかりければ、おもしろかりける桜につけて、 桜花 今日こそかくも にほふとも あな頼みがた 明日の夜のことといふ心ばへもあるべし。【注】〇つれなし=冷たい。冷淡だ。薄情だ。〇いかで=「得む」などの省略されたかたち。なんとかして手に入れよう。どうにかして手に入れたい。〇あはれとや思ひけむ=自分に対して一途な思いをしみじみ嬉しく感じたのだろうか。〇ものごし=簾・几帳・屏風などが間を隔てている状態。『例解古語辞典』の「要説」に「平安時代の物語などでは、貴族の男女が『物越し』に対面する描写が多い」。第九十五段にも見える。〇にほふ=美しく照り映える。〇あな頼みがた=あてにしづらい。〇心ばへ=不安な気持ち。〇あるべし=あるにちがいない。「べし」は、当然の助動詞。【訳】むかし、自分に対して冷淡な態度の女性を何とかして妻にしたいと思いつづけていたところ、男の一途さをしみじみ嬉しく感じたのだろうか、「それほどまでに言うなら、明日、屏風越しにでもお逢いしましょう。」と言ってきたのを、このうえなく嬉しく、その一方では、疑わしかったので、風情たっぷりに咲いていた桜につけて、 桜の花が、たとえ今日はこんなにも美しく照り映えているとしても、まああてにはしづらい、 明日の夜の逢う約束は。という不安な気持ちもあるにちがいない。
May 20, 2017
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第九十一段【本文】 むかし、月日の行くをさへ嘆く男、弥生のつごもりがたに、 をしめども 春のかぎりの 今日の日の 夕暮にさへ なりにけるかな【注】〇弥生のつごもり=陰暦三月三十日。三月尽(サンゲッシンとよむこと、『日本歌謡集成』の月報収載の山田俊雄氏の論考に引く江戸時代の和漢朗詠集版本による)。〇をしむ=残念に思う。心残りに思う。〇かぎり=一番最後。【訳】むかし、月日が流れるのをさえ嘆く男が、春三月の月末ごろに、 過ぎ去るのを残念に思うけれども、春の一番最終日にあたる今日の夕暮にまでなってしまったなあ。
May 20, 2017
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第九十二段【本文】 むかし、恋しさに来つつ帰れど、女に消息をだにえせでよめる、 蘆辺こぐ 棚なし小舟 いくそたび 行きかへるらむ 知る人もなみ【注】〇消息=手紙を書くこと。〇えせで=できずに。〇蘆辺=葦の生えている水辺。〇棚なし小舟=左右の船べりの内側につける棚板(一説に舟の舷側に取り付けて波を防ぐ横板)のない小さな舟。〇いくそたび=何度も。〇行きかへる=行って帰る。往復する。【訳】むかし、恋しさに女の家の門までやって来ては帰って行ったが、女に手紙をさえ渡すことができずに作った歌、 蘆の生える水辺をこいでゆく船棚のない小さな舟のように何度往復するのだろう、気づく人がいないので。
May 20, 2017
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第九十三段【本文】 むかし、男、身はいやしくて、いとになき人を思ひかけたりけり。すこし頼みぬべきさまにやありけむ、ふして思ひ、起きて思ひ、思ひわびてよめる。あぶなあぶな 思ひはすべし なぞへなく 高きいやしき苦しかりけりむかしも、かかることは、世のことわりにやありけむ。【注】〇身=身分。〇いやし=身分が低い。〇になし=比べるものがない。最上だ。『蜻蛉日記』天禄元年「になく思ふ人をも人目によりてとどめ置きてしかば」。〇おもひかく=思いをかける。恋しく思う。『伊勢物語』五十五段「思ひかけたる女の、え得まじうなりての世に」。〇頼む=たよりとする。期待する。〇ふす=横になる。寝る。〇おもひわぶ=思いに沈む。悲しみにくれる〇あふなあふな=佐伯梅友・馬淵和夫編『古語辞典』(講談社)に「〔『あぶなし』の語幹を重ねた語。『あふなあふな』と読んで、真剣になどの意とするのは誤り〕はらはらするような状態で。はらはらと気をもみながら。心を尽くして」とあるが、現行の古語辞典には「あふなあふな」を見出し語とし、「身の程に合わせて」「身分相応に」の意に解するものが多い。〇なぞへなし=比べようもない。〇ことわり=言うまでもない。【訳】むかし、男が、身分は低い状態で、比類ないほど高貴な人を恋い慕っていた。すこしは期待がもてそうだったのだろうか、横になっては恋しがり、起きては恋しがり、悲しく思って作った歌。十分に気を付けて身分相応に恋はしなければならない。身分が高い者と低い者との間の恋は比べようもなく苦しいものだなあ。むかしも、このような身分違いの恋を避けることは、世間では言うまでもないことだったのであろうか。
May 20, 2017
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第九十四段【本文】 むかし、男ありけり。いかがありけむ、その男住まずなりにけり。のちに男ありけれど、子ある仲なりければ、こまかにこそあらねど、時々もの言ひおこせけり。女方に、絵かく人なりければ、かきにやれりけるを、今の男のものすとて、ひとひふつかおこせざりけり。かの男、「いとつらく、おのが聞こゆることをば、今までたまはねば、ことわりと思へど、なほ人をば恨みつべきものになむありける」とて、ろうじてよみてやれりける。時は秋になむありける。 秋の夜は 春日忘るる ものなれや 霞に霧や 千重まさるらむとなむよめりける。女、返し、 千々の秋 一つの春に むかはめや 紅葉も花も ともにこそ散れ【注】〇いかがありけむ=どうしたのであろうか。〇住む=男が妻と決めた女の家に通って泊まる。『伊勢物語』二十三段「男、住まずなりにけり」。〇男=夫あるいは愛人。ここでは新しい夫。〇こまかなり=ねんごろなさま。〇言ひおこす=言って寄越す。手紙に書いて寄越す。〇女方=女性の側。〇ものす=いる。来る。〇おこす=寄越す。〇つらし=冷淡だ。薄情だ。〇聞こゆる=申し上げる。「いふ」の謙譲語。〇たまふ=お与えになる。下さる。「あたふ」「やる」の尊敬語。〇ことわり=もっともだ。〇なほ=それでもやはり。〇恨みつべきものになむありける=たしかに恨みに思ってしまうものだなあ。「つ」は強意の助動詞。〇ろうず=からかう。ひやかす。〇むかふ=相当する。匹敵する。【訳】むかし、男がいた。いったいどうしたのであろうか。男は妻と決めた女の家に通って泊まらなくなってしまった。のちに、女には他の夫ができたのだが、もとの夫とは間に子供がいる仲だったので、ねんごろにというわけではなかったが、もとの夫に時々手紙を寄越したのだった。ある時、男が女のところに、女は絵をかく人だったので、かいてもらいにやったところ、新しい夫が家にいるというので、一日、二日絵をかいて寄越さなかった。その男は「ひどく薄情なことに、私が申し上げたことを、いままでして下さらなかったので、今の夫を最優先するのはもっともだと思うけれども、それでもやはり、恨みに思ってしまうものだなあ」と書いて、からかって歌を作って送った。時期はちょうど秋であった。秋の夜には春の日を忘れるものなのだなあ。春の霞に対し秋の霧は何倍も勝っているのだろうか。と詠んだ。それに対し、女が返事をして、いくら秋をかさねても、一つの春のすばらしさに匹敵しないように、あなたのほうが今の夫より何倍も勝っています。そうはいっても今の夫もあなたも、どちらも私に対する愛情が移ろってしまうことには変わらないでしょう。
May 20, 2017
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第九十五段【本文】 むかし、二条の后に仕うまつる男ありけり。女の仕うまつるを、常に見かはして、よばひわたりけり。「いかでものごしに対面して、おぼつかなく思ひつめたること、すこしはるかさむ」と言ひければ、女、いと忍びて、ものごしにあひにけり。物語などして、男、彦星に 恋はまさりぬ 天の河 へだつる関を 今はやめてよこの歌にめでてあひにけり。【注】〇二条の后=清和天皇の女御、藤原高子の称。陽成天皇の母后。二条に住んだことからいう。〇仕うまつる=お仕えする。「つかふ」の謙譲語「つかへまつる」のウ音便。〇見かはす=互いに見て相手を認識する。〇よばひわたる=恋人のもとに通い続ける。『伊勢物語』六段「女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを」。〇いかで=なんとかして。どうにかして。〇ものごし=屏風・衝立などで、あいだを隔てること。〇対面=顔を合わせること。会って話をすること。〇おぼつかなし=気がかりだ。心配だ。〇はるかす=晴らす。〇忍ぶ=こっそりとする。隠れてする。〇物語す=話をする。〇彦星=男の星の意。年に一度、七月七日の夜、天の河を渡って、織女星と会うという伝説がある。牽牛星。アルタイル。〇関=さえぎってとめるもの。ここでは、男と女のあいだにある衝立・屏風をさす。〇めづ=心ひかれる。感心する。ほめる。〇あふ=男女が会う。契る。結婚する。【訳】むかし、二条の后藤原高子様にお仕えする男がいた。女で同じく彼女にお仕えしていた女に対し、ふだん互いに顔を見知っていて、求婚しつづけていた。「なんとかして衝立を隔ててでも二人きりで会って、気がかりで募らせた思いを、すこしでも晴らそう」と言ったところ、女も、非常に用心深く人目を避けて、衝立越しに対面した。話などして、男が、次のような歌を作った。年に一度しか恋人に会えないという彦星にも私のあなたに対する恋心はまさっています。この 天の河のように二人のあいだを隔てている衝立を、今は取り除いてくださいよ。女は、この歌に感心して、衝立を取り去って男と契りを結んだとさ。
May 20, 2017
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第九十六段【本文】 むかし、男ありけり。女をとかく言ふこと月日経にけり。石木にしあらねば、心苦しとや思ひけむ、やうやうあはれと思ひけり。そのころ、水無月の望ばかりなりければ、女、身にかさ一つ二ついできにけり。女言ひおこせたる、「今は何の心もなし。身に、かさも一つ二ついでたり。時もいと暑し。すこし秋風吹き立ちなむ時、かならずあはむ」と、言へりけり。秋待つころほひに、ここかしこより、その人のもとへいなむずなりとて、口舌いできにけり。さりければ、女の兄人、にはかに迎へに来たり。されば、この女、かへでの初紅葉をひろはせて、歌をよみて、書きつけておこせたり。秋かけて 言ひしながらも あらなくに 木の葉降りしく えにこそありけれと書き置きて、「かしこより人おこせば、これをやれ」とて、いぬ。さて、やがてのち、つひに今日まで知らず。よくてやあらむ、あしくてやあらむ。いにし所も知らず。かの男は、天の逆手を打ちてなむ、のろひをるなる。むくつけきこと。人ののろひごとゃ、負ふものにやあらむ、負はぬものにやあらむ。「今こそは見め」とぞ言ふなる。【注】〇とかく=なにやかやと。〇言ふ=言い寄る。〇月日経にけり=年月。『伊勢物語』四十六段「対面せで、月日の経にけること」。〇石木にしあらねば=石や木のような感情の無い存在ではないので。『源氏物語』《東屋》「あはれなる御心ざまをいはきならねば、思ほし知る」。〇心苦し=気の毒だ。〇やうやう=だんだん。〇あはれ=しみじみと愛しい。〇水無月の望ばかり=陰暦六月の十五日ころ。〇かさ=おでき。あせも、湿疹の類。〇いでく=出現する。できる。〇言ひおこす=手紙や使者などを通して言ってよこす。〇何の心もなし=ふつう「なにごころなし」は、無心だの意。たとえば石田穣二氏は『伊勢物語』(角川文庫)の脚注で「あなたをお思いするほかには何の心もありません」の意とするが、いかがであろうか。〇秋風吹き立ちなむ時=陰暦では七月からが暦の上での秋にあたる。『枕草子』《虫は》「いま秋風吹かむ折ぞ来むとする」。〇ころほひ=その時分。〇ここかしこ=あちこち。〇その人のもと=ある人の所。『伊勢物語』九段「京に、その人の御もとにとて、文書きてつく」。〇いなむずなり=行ってしまうということだ。「いな」は「往ぬ」の未然形、「むず」は、「むとす」の縮約。「む」は意志の助動詞、「と」は格助詞、「す」は、サ変動詞「なり」は、伝聞の助動詞。〇口舌=悪口。不平の文句。〇いでく=起こる。〇さりければ=そうであったから。〇兄人=男の兄弟。〇にはかに=急に。だしぬけに。〇されば=それゆえ。〇かへで=落葉高木。語源は「かへる手」の転という。〇初紅葉=秋になって初めて色づいたもみじ。〇秋かけて 言ひしながらも あらなくに 〇降りしく=散って覆う。〇えにこそありけれ=「江にこそありけれ」「縁こそありけれ」を言い掛ける。〇かしこ=あのかた。遠称の人代名詞。少し敬意をこめた言い方。〇おこす=よこす。〇さて=そうして。〇やがて=そのままずっと。〇つひに=とうとう。〇天の逆手=普通とは逆に柏手を打つこと。人をのろう呪術の一。〇むくつけし=気味がわるい。〇のろひごと=呪いの言葉。〇負ふ=身に受ける。相手の身にふりかかる。〇今こそは見め=今に見ていろ。【訳】むかし、男がいた。ある女に対し何やかやと言い寄ること長い年月になった。女も石や木のよような感情のないものではないので、気の毒だと思ったのだろうか、だんだんと情が移って愛しいと思うようになった。そのころ、陰暦の六月十五日ごろのことだったので、女は、体におできが一つ二つできてしまった。女が男に手紙で言って寄越したことには、「今は体調が悪く何も考えられません。体に、おできも一つ二つできています。時期も非常にお暑うございます。すこし秋風が吹き始めるような時分に、きっとお逢しましょう」と、書いてあった。秋の到来を待つころに、あちこちから、「あの女性はあの男のところへ行くつもりだそうだ」と言って、不満の声が起こった。そういうわけで、女の兄が、急に迎えにやって来た。それで、この女は、カエデの初紅葉を召使に拾ってこさせて、歌を詠んで、書きつけて寄越した。秋を目指して逢いましょうと言って約束しながらも、約束どおりではないのに、木の葉が散りしいて浅くなった入江のように、言の葉もむなしく散って約束も守れない浅いご縁でございましたねえ。と書き置きして、「あのかたから使者を寄越したら、これを渡せ」と言って、行ってしまった。そうして、そのまま時が過ぎてのち、とうとう今日まで知らずにいた。よかったのだろうか、悪かったのだろうか。立ち去った先もわからない。例の男は、天の逆手を打って、女をのろっているということだ。気味が悪いことよ。人の呪いの言葉は、実際に身に災厄が降りかかるものだろうか、降りかからないものだろうか。「今に見ていろ」と男は言っているそうだ。
May 7, 2017
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第九十七段【本文】 むかし、堀河のおほいまうちぎみと申す、いまそかりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日、中将なりける翁、 桜花 散り交ひ曇れ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに【注】〇堀河のおほいまうちぎみ=藤原基経(八三六~八九一)。平安前期の貴族。権大納言長良の三男。叔父良房の養子となった。堀河太政大臣と呼ばれ、最初の関白となった。『日本文徳天皇実録』の編者の一。〇申す=もうしあげる。「言ふ」の謙譲語。〇いまそかり=「あり」の尊敬語。いらっしゃる。おいでになる。〇四十の賀=四十歳は初老とされた。四十歳になって行う賀の祝い。『例解古語辞典』(三省堂)「賀」「長寿を祝う宴は、あらたまった儀式なのでこの漢語が用いられる。長生きなさっておめでとう、というよりも、これからの長寿を祈るのがその趣旨。‥‥賀の祝宴は他人が催してくれるもので、四十歳以後、十年ごとの切れ目のときに行なわれた」。算賀の行事は大陸の風習によったもので、日本での記録は、天平十二年(七四〇)の聖武天皇の四十の賀が最初といわれる。〇九条=平安京の東西に通じる大路のうち、北から九本目、最南部の大路。藤原基経の別邸があった。〇中将なりける翁=右近衛の権中将だった在原業平。〇散り交ひ曇る=曇ったように見えるほど散り乱れる。 〇老いらく=老年。『古今和歌集』八九五番「老いらくの来むと知りせば門さしてなしと答へて会はざらましを」。 〇まがふ=入り乱れてわからなくなる。【訳】 むかし、堀河の太政大臣と申しあげるかたが、いらっしゃった。四十歳の祝賀会を、九条の別邸で開催なさった日に、中将だった老人が、作った歌。桜の花よ、曇ったように見えるほど散り乱れろ。老年というものがやって来るという道が入り乱れてわからなくなるように。
May 7, 2017
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第九十八段【本文】 むかし、おほきおほいまうちぎみと聞こゆるおはしけり。仕うまつる男、長月ばかりに、梅のつくり枝にきじを付けて奉るとてわが頼む 君がためにと 折る花は ときしもわかぬ ものにぞありけると詠みて奉りたりければ、いとかしこくをかしがり給ひて、使ひに禄たまへりけり。【注】〇おほきおほいまうちぎみ=太政大臣。大宝令の制度で太政官の最高の官である左大臣の上に立ち、天皇の師となるような有徳の人が就任する最高顧問のような職。平安時代には、ほとんど藤原氏から選ばれた。ここでは藤原良房をさす。〇聞こゆ=「言ふ」の謙譲語。申し上げる。〇おはす=「あり」の尊敬語。いらっしゃる。〇仕うまつる=お仕えする。「つかへまつる」のウ音便。〇長月=陰暦九月の異名。〇つくり枝=献上品・贈り物などを付けるのに用いた。もともとは、鷹狩の獲物の鳥を人に贈るときに結び付けた木を鳥柴(としば)といった。のちには季節により梅・桜・松などにつけたり、金銀などで造った草木の枝に付けたりした。〇きじ=日本特産の鳥の名。きぎし。きぎす。『徒然草』一一八段に「鳥には雉、双無きものなり」とあるように、かつては食用の鳥の最上のものと考えられていた。〇奉る=「与ふ」の謙譲語。差し上げる。献上する。〇頼む=主人として身を託す。仕える。〇ときしもわかず=「いつでも。四季の区別がない。」の意の「ときわかず」に強意の副助詞「しも」を加えた形。「きし」の部分に「きじ」を言い掛ける〇かしこく=たいそう。はなはだしく。〇をかしがる=賞賛する。〇禄=ほうび。〇たまふ=お与えになる。くださる。【訳】むかし、先の太政大臣と申し上げるかたがいらっしゃった。そのかたにお仕えしていた男が、陰暦九月ごろに、造りものの梅の枝にキジを付けて献上するというので私がお仕えするご主人さまのためにと折る梅の花は四季も区別せず咲くものだなあ、私もこの花同様に年中かわることなく勤勉にお仕えするつもりでございますよ。と詠んで、差し上げたところ、とてもひどく賞讃なさって、使者にご褒美をくださった。
May 7, 2017
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第九十九段【本文】むかし、右近の馬場のひをりの日、向かひに立てたりける車に、女の顔の下簾よりほのかに見えければ、中将なりける男の、詠みてやりけるみずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなくけふや ながめくらさむ返し、知る知らぬ 何かあやなく わきて言はむ 思ひのみこそ しるべなりけり後は誰と知りにけり。【注】〇右近の馬場=右近衛府の管理する馬場。京都の北野天満宮の南、一条大宮にあったという。種々の行事が催された。〇ひをり=引折。陰暦五月五日に左近衛府の舎人、同六日に右近衛府の舎人が騎馬で試射すること。〇向かひ=馬場をはさんで反対側。『徒然草』第四十一段「むかひなる楝の木」。〇車=牛車。牛に引かせる乗り物。平安時代に特に盛んに使用され、ふつうは四人乗りで、向き合って座る。前方右側が最上席。乗るときは榻を踏み台にして後ろから乗り、降りるときには牛を外して前から降りる。乗る人の資格や用途によって唐庇・雨眉・檳榔毛・檳榔庇・糸毛・半蔀・網代・八葉・金作などいろいろの種類があった。〇下簾=内側が見えないように牛車の簾の内側に掛けて、下に垂らす細長い布。〇中将なりける男=近衛府の次官。四位相当。官位が三位で中将の職にある者を特に三位の中将という。在原業平は右近衛の権中将だった。〇あやなし=区別をする。〇しるべ=導き。手引き。【訳】むかし、右近の馬場の引折の日、馬場を挟んで向かい側にとめてあった車に、女の顔が下簾からぼんやりと見えたので、中将だった男が、詠んで送った歌、見たことがないわけでもないような、だからといってはっきり見たことがあるというわけでもない人が恋しいので不条理にも今日は物思いに沈んで一日を過ごすことになるのだろか。その歌に対する返事の歌、私を知っているとか知らないとか、なぜそんな無意味な区別をつけて言うのかしら。愛情だけが人に逢わせる導きなのになあ。男は、あとで、この車の女性が誰だかわかったとさ。
May 7, 2017
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第百段【本文】 むかし、男、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局より、忘れ草を、「しのぶ草とや言ふ」とて、いださせたまへりければ、たまはりて、 忘れ草 生ふる野辺とは 見るらめど こはしのぶなり のちも頼まむ【注】〇後涼殿=清涼殿の西、陰(おん)明門(めいもん)の東にあり、中央に馬(め)道(どう)、南北に納(おさめ)殿(どの)がある。女御などの局にあてられた。〇はさま=平安時代までは第二音節は清音。〇渡る=通り過ぎる。〇やむごとなし=きわめて尊い。高貴だ。〇御局=宮殿で、それぞれ別にしきって隔ててある上級女官の部屋。〇忘れ草=ユリ科の多年草、カンゾウの異名。夏に赤黄色の花をつける。ヤブカンゾウ。庭に植えたり身につけたりすると愛する人を忘れられるという俗信があった。『万葉集』三〇六二番「忘れ草垣もしみみに植えたれど醜の醜草なほ恋ひにけり」。〇しのぶ草=忘れ草の異名。『大和物語』一六二段「同じ草をしのぶ草、忘れ草と言へば」。〇たまはる=いただく。頂戴する。〇野辺=野原。〇頼む=期待する。【訳】むかし、ある男が、後涼殿と蔵人所の間を通りすぎようとしたところ、ある高貴な人の御部屋から、忘れ草を、「これを忍草と呼ぶか」と言って、侍女を通して差し出しなさったので、いただいて、あなたは私があなたをすっかり忘れている忘れ草の生えている野原のようにご覧になっているのでしょうが、これは忍草でございます。この草の名のように私はあなたに対する恋心を包み隠しているのです。あなたが私の恋にいつか応えてくださることを期待しましょう。と歌を詠んだ。
May 7, 2017
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第百一段【本文】 むかし、左兵衛の督なりける在原の行平といふありけり。その人の家によき酒ありと聞きて、上にありける左中弁藤原の良近といふをなむ、まらうとざねにて、その日はあるじまうけしたりける。なさけある人にて、かめに花をさせり。その花の中に、あやしき藤の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸ばかりなむ、ありける。それを題にてよむ。よみはてがたに、あるじのはらからなる、あるじしたまふと聞きて来たりければ、とらへてよませける。もとより歌のことは知らざりければ、すまひけれど、しひてよませければ、かくなむ。 咲く花の 下にかくるる 人おほみ ありしにまさる 藤のかげかも「など、かくしもよむ」と言ひければ、「おほきおとどの栄華のさかりにみまそかりて、藤氏のことに栄ゆるを思ひてよめる」となむ、言ひける。みな人、そしらずなりにけり。【注】〇左兵衛の督=六衛府のひとつ兵衛府は、宮中の警護や行幸の警備などをつかさどる役所で左右の二府に分かれるが、その左衛府の長官。〇在原の行平=平城天皇の皇子阿保親王の第二子。業平の同母の兄。平安時代初期の高官で、『古今和歌集』の歌人。一族の教育機関である奨学院の創設者。斉衡二年(八五五)因幡守となり、のちには中納言になった。〇上=清涼殿の殿上の間。〇左中弁=太政官に属する官名。左右の弁官局それぞれに大弁・中弁・小弁を設置した。中務・式部・治部・民部の四省の文書のことをつかさどる左弁官局の二等官。〇藤原の良近=平安時代初期の貴族。宇合から五代目の子孫。〇まらうとざね=主賓。客の中で、おもだった人。〇あるじまうけ=もてなし。御馳走。〇なさけ=風流を解する心。みやび心。〇かめに花をさせり=正岡子規「かめにさす藤の花ぶさ短かければ畳の上にとどかざりけり」。「かめ」は花瓶。〇あやし=珍しい。風変りだ。〇藤の花=『例解古語辞典』によれば、「藤」は、平安時代、藤原氏の隆盛に伴い、藤原氏にゆかりある花として、愛好された。〇しなひ=しなやかにたわんでいる花房。『枕草子』「藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし」。〇よみはてがた=歌を詠み終えるころ。〇あるじ=主人。主催者。〇はらから=同じ母から生まれた兄弟姉妹。〇しふ=無理やり勧める。〇ありし=昔の状況。〇藤のかげ=藤の花の陰と藤原氏の恩恵の意をかける。〇など=どうして。〇おほきおとど=太政大臣。大宝令の制度で太政官の最高の官である左大臣の上に立ち、天皇の師となるような有徳の人が就任する最高顧問のような職。平安時代には、ほとんど藤原氏から選ばれた。ここでは藤原良房をさす。〇栄華のさかり=時勢に合って勢いが盛んなこと。〇みまそかり=いらっしゃる。『例解古語辞典』(三省堂)によれば、「おはします」より一段低い尊敬語らしい。〇藤氏=藤原氏。〇ことに=格別。〇栄ゆ=繁栄する。勢い盛んである。〇みな人=その場にいる人全員。〇そしる=非難する。悪く言う。【訳】むかし、左兵衛の督だった在原の行平という人がいた。その人の家にうまい酒があると聞いて、殿上の間にお仕えしていた左中弁の藤原の良近という方を、主賓として、その日は酒宴を開いたのだった。みやび心のある人だったので、花瓶に花をさしてあった。その花の中に、珍しい藤の花があった。花房が、三尺六寸ほどもあった。それを題として歌を作ることになった。列席者がひとおおり作って歌を詠み終えるころに、主人の弟にあたる者が、酒宴をなさっていると聞いてやって来たので、つかまえて作らせた。もともと歌を作ることにかけては不案内だったので、辞退したけれども、むりやり詠ませたところ、こんなふうに詠んだ。 咲く花の下に隠れる人が多いので、かつてにまさる藤の陰だなあ。「どうして、こんなふうに詠んだのか」と言ったところ、「太政大臣の栄華の絶頂期に遭遇して、藤原氏が格別に繁栄なさっていることを考えて作った」と言った。その場の列席者はみな、難癖をつけなくなったとさ。
May 7, 2017
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第百二段【本文】むかし、男ありけり。歌はよまざりけれど、世の中を思ひ知りたりけり。あてなる女の、尼になりて、世の中を思ひうむじて、京にもあらず、はるかなる山里に住みけり。もと親族なりければ、よみてやりける。 そむくとて 雲には乗らぬ ものなれど 世の憂きことぞ よそになるてふとなむ言ひやりける。 斎宮の宮なり。【注】〇世の中=この世。現世。『万葉集』七九三番「世の中は空しきものと知る時し、いよよますますかなしかりけり」。〇思ひ知る=理解する。ただし、たとえば『徒然草』一四二段に「子を持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ」とあるように、頭で考えてわかるのではなく、経験してわかる、実感するという意であろう。〇あてなり=身分が高い。『例解古語辞典』に「身分の高い人物なら、人品や振る舞いなどが優雅だとは限らないが、概してそのようにとらえる傾向が強い。下賤の出で優雅な人物として描かれることは、ないといってよい。〇思ひうむず=いやになる。〇京にもあらず=人間関係の煩わしい平安京にはいない。『伊勢物語』九段「京にはあらじ、あづまのかたに住むべき国求めにとて、行きけり」。〇山里=ふつうなら人の住まないような山奥の村里。〇親族=親類、縁者。ふつう「しんぞく」の「ん」を表記しない形と言われるが、あるいはシゾクと発音されたのかもしれぬ。すなわち「本意」をホイ、「管絃」をカゲンとよむ類。〇そむく=世を捨てる。出家する。〇斎宮=伊勢神宮に仕える未婚の女性。「斎院」と同じく、天皇の即位のたびに、天皇や皇族の息女の中から選ばれる。【訳】むかし、男がいた。歌は上手に作らなかったが、この世のことは、さまざまな人生経験を通してよく理解していた。身分ある女性が、出家して尼になって、現世のことがいやになって、人間関係の煩わしい京のみやこに住むのをやめ、都からはるか遠く隔たった、普通なら人の住まないような山奥の村里に住んでいた。もともと、この男の親類だったので、歌を作って送った。俗世間を捨てて雲に乗ってどこかへ立ち去るわけでもないけれども、出家なさると現世のいやなことが疎遠になるということですね。と言ってやった。この女性は伊勢神宮に仕える斎宮である。
April 30, 2017
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第百三段【本文】 むかし、男ありけり。いとまめにじちようにて、あだなる心なかりけり。深草の帝になむ、仕うまつりける。心あやまりやしたりけむ、親王たちの使ひたまひける人をあひ言へりけり。さて、寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさるかなとなむ、よみてやりける。さる歌のきたなげさよ。【注】〇まめなり=まじめだ。勤勉だ。健康。〇じちようなり=実直だ。律儀だ。〇あだなり=『角川必携古語辞典』の〔ことばの窓〕「あだ」と「まめ」によれば、「あだ」は、花が実を結ばないことを原義とするともいわれ、内実がなく、空虚なことを示す。一方「まめ」は、実があること、誠実で実意のあることを示す。〇深草の帝=仁明天皇。京都深草山に葬られたのでいう。〇仕うまつる=お仕えする。「仕ふ」の謙譲語「つかへまつる」のウ音便。〇心あやまり=心得ちがい。魔が差すこと。〇親王=皇子。天皇の子・子孫。〇使ふ=そばめとして使う。『伊勢物語』六十五段「むかし、おほやけおぼして使うたまふ女の」。〇あひ言ふ=契ってねんごろに語らう。〇さて=そうして。〇寝ぬ=眠る。〇はかなむ=頼りなく思う。 〇まどろむ=しばらくうとうとする。〇いやはかな=いっそうむなしい状態。 〇なりまさる=ますます~になる。『竹取物語』「この児、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる」。〇きたなげさ=見苦しさ。【訳】むかし、男がいた。とても勤勉で実直で、いい加減な気持ちがなかった。仁明天皇にお仕えしていた。魔が差したのだろうか、皇子たちが、そばに置いて用事を言いつけて使っていた女性と契ってねんごろに語らうようになった。そうして、女に送った歌。あなたと共に眠った夜の、夢のような嬉しい記憶を頼りなく思って、もう一度鮮明に見ようとしばらくうとうとしたところ、ますますむなしい状態になることだなあ。と作って送った。そんな露骨な歌の見苦しさよ。
April 30, 2017
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第百四段【本文】むかし、ことなることなくて、尼になれる人あり。かたちをやつしたれど、ものやゆかしかりけむ、賀茂の祭見にいでたりけるを、男、歌よみてやる。 世をうみの あまとし人を 見るからに めくはせよとも 頼まるるかなこれは、斎宮のもの見たまひける車に、かく聞こえたりければ、見さして帰り給ひにけりとなむ。【注】〇ことなること=異常。特別なこと。〇尼=比丘尼。出家して仏門に入った女性。〇かたち=容姿。〇やつす=出家して姿を変える。〇ゆかし=見たい。〇賀茂の祭=陰暦四月の第二の酉の日に行われた京都賀茂神社の例祭。〇世をうみの あまとし人を 見るからに めくはせよとも 頼まるるかな〇見る=海松布(濃緑色で浅い海の岩に生える食用の海藻)を言い掛ける。〇めくはせよ=ミルメ(海藻)を食べさせてくれの意と、目くばせせよの意を掛ける。〇斎宮=天皇の即位ごとに選定され、天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女・女王。崇神天皇のころに設置され、後醍醐天皇の時代に廃止された。〇車=中古では牛車をさして単に「車」ということが多い。牛に引かせた乗用の車。ふつうは四人乗りで後部から乗り、牛をはずして前から降りた。平安時代、貴人の乗用に盛んに用いられ、身分や男女の別に応じて多くの種類があった。〇見さして=見るのを途中でやめて。【訳】むかし、これといった特別な出来事もないのに、尼になってしまった人がいた。髪をおろして出家したけれども、出し物が見たかったのであろうか、賀茂の祭を見に出かけていったところ、ある男が、歌を作って送った。 この世を無常でつらいと思って出家しアマになられたのだなあと、あなたのことを見るにつけても、こちらを向いて私に目で合図してほしいと自然と期待してしまうなあ。海のアマさんかと思って見たので、ミルメという海藻を食わせてくれとあてにしてしまうなあ。これは、伊勢の斎宮が見物なさっていた牛車に、こんなふうに申しあげたところ、祭を途中で見るのをやめて、お帰りになしまったということだ。
April 29, 2017
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第百五段【本文】 むかし、男、「かくては死ぬべし」と言ひやりたりければ、女、 白露は 消なば消ななむ 消えずとて 玉にぬくべき 人もあらじをと言へりければ、いとなめしと思ひけれど、心ざしはいやまさりけり。【注】〇かくて=こうして。このままで。〇べし=当然の意を表わす助動詞。きっと~だろう。~にちがいない。〇言ひやる=手紙や使者を通して、こちらから相手に言ってやる。〇白露=白く光る露。また、露が消えるようにはかない命を「露命」という。〇消ゆ=「露」の縁語。なくなる。ここでは、「死ぬ」の意を掛ける。〇消ななむ=「消(け)」は下二段動詞「消(く)」の連用形。「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「なむ」は、他に対してあつらえ望む意を表す終助詞。~てほしい。『伊勢物語』八十二段「おしなべて峰も平らになりななむ山の端なくは月も入らじを」。〇なめし=無礼だ。『枕草子』二四七段「文ことばなめき人こそ、いとにくけれ」。〇心ざし=愛情。〇いやまさる=ますます多くなる。【訳】むかし、ある男が、「こうしてこのまま恋がかなわなかったら、きっと死んでしまう死んでしまうだろう」と言ってやったところ、女が、 白露のようにもろいあなたはこの世から消えてしまうのならば、いっそのこと消えてほしい。消えないからといって真珠のように糸で通して飾りにするような人もいないでしょうから。と言ってきたので、非常に無礼だと思ったけれども、愛情はいっそう募ったということだ。
April 29, 2017
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第百六段【本文】 むかし、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、 ちはやぶる 神代も聞かず 龍田河 からくれなゐに 水くくるとは【注】〇親王=皇族であることを天皇から認められた皇子。〇逍遥=景色を楽しみに川や海などの水辺に出かける。川遊び。〇まうづ=うかがう。参上する。身分の高いかたのところへ「行く」ことをへりくだっていう。〇ちはやぶる=勢いが強く逸る。荒々しい。「神」にかかる枕詞。〇神代=神々の時代。『古事記』『日本書紀』では、開闢から神武天皇以前に至るまでの時代を指し、神々は高天原に住んでいたとされる。〇龍田河=奈良県生駒郡を流れる川。生駒山から流れ出て、大和川に注ぐ。紅葉の名所として著名。〇からくれなゐ=あざやかな紅の色。〇くくる=くくり染めにする。定家をはじめ、中世では「潜る」意に解されていた。現在でも一部(たとえば落語の演題「ちはやふる」)では、その意で用いられている。『例解古語辞典』(三省堂)に「古代中国の蜀の地では、錦江の流れにさらしてつくる錦が、精巧な品として名高かったが、くくり染めという着想は、その蜀江の錦を意識してのものだろう。とすれば、上の句には、あの有名な蜀江の錦でも、これほどではあるまい、という含みもある」。【訳】むかし、ある男が、親王たちが川遊びをなさる所に参上して、龍田河のほとりで作った歌。あの、草木もものを言ったという様々な不思議に満ち満ちていた神代のころでさえも聞いたことがない、この龍田川が、散り落ちて流れる紅葉で、本来は青々とした川の水をあざやかな紅色のくくり染めに染めあげるとは。
April 29, 2017
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第百七段【本文】むかし、あてなる男ありけり。その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど、若ければ、文もをさをさしからず、ことばも言ひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案を書きて、書かせてやりけり。めでまどひにけり。さて、男のよめる。つれづれの ながめにまさる 涙河 袖のみひちて あふよしもなし返し、例の男、女にかはりて、浅みこそ 袖はひつらめ 涙河 身さへ流ると 聞かば頼まむと言へりければ、男いといたうめでて、今まで巻きて文箱に入れてありとなむいふなる。男、文おこせたり。得てのちのことなりけり。「雨の降りぬべきになむ、見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨は降らじ」と言へりければ、例の男、女にかはりてよみてやらす。数々に 思ひ思はず 問ひがたみ 身を知る雨は 降りぞまされるとよみてやれりければ、蓑も笠も取りあへで、しとどに濡れてまどひ来にけり。【注】〇あてなり=身分が高貴だ。〇内記=ナイキもしくはウチノシルスツカサ。中務省に属し、詔勅、宣命を作り、叙位の辞令を書く役。大内記(正六位上)、少内記(正七位上)、各々二人。儒者を任ずる。〇藤原の敏行=藤原富士麿の子。母は紀名虎の娘で、紀有常の妹にあたり歌人として知られている。貞観九年(八六七)に少内記、十二年に大内記となった。『古今和歌集』に十九首の歌が採られており、書家としてもすぐれていた。ちなみに有常の娘の一人が在原業平の妻。〇よばふ=女性に言い寄る。求婚する。『伊勢物語』六段「女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを」。〇をさをさし=大人びてしっかりしている。〇ことば=物言い。〇いはむや=まして。いうまでもなく。〇案=手紙に書く下書き。〇めでまどふ=大騒ぎして喜ぶ。『竹取物語』「あてなるも、いやしきも、音に聞きめでてまどふ」。〇ながめ=物思いにふけりぼんやりと外を見やる。「長雨」を掛ける。〇涙河=涙が多く流れるのを川にたとえた語。〇ひつ=水につかる。〇巻く=丸める。〇文箱=手紙を入れてやりとりする箱。〇見わづらふ=見て困る。思案にくれて見る。〇さいはひ=幸運。〇身を知る雨=わが身が愛されていないことを知って流す涙の雨。〇しとどに=びっしょり。〇まどひ来=あわててやってくる。【訳】むかし、身分が高い男がいた。その男のところにいた女性に対し、内記だった藤原敏行という人が言い寄った。しかし、若いので、恋文も未熟で、物の言いかたもよく知らず、ましてや歌は作り慣れていなかったので、女の雇い主である人が、手紙の下書きを書いて、女に清書させて送った。男は大騒ぎして喜んだ。そうして、男は次のような歌を作った。降り続く長雨に川の水量がまさるだろうが、あなたを思ってぼんやりと物思いに沈んでいると恋しさに涙が川のように流れる。そのため着物の袖ばかりがびっしょり濡れてあなたに逢う手立てもないのがつらい。その歌に対する女の返事の歌を、いつものように、主人が、女に代わって作った歌。あなたのおっしゃる涙河というのは、浅瀬ばかりなのでしょう。わたしへの思いが浅いから袖がびっしょり濡れる程度で済むのでしょう。思いが深くて涙の河に身さえ流れてしまうとお聞きしたら、あなたを頼りに思いますのに。と言ってやったところ、男がとてもひどく感動して、今まで巻きおさめて手紙箱に大事にしまってあるということだ。その後、男が手紙をよこした。それは男が女を手に入れてのちのことだった。「雨が今にも降りそうなので、空模様を見てお訪ねしようかやめようか迷っています。私の身に幸運があるなら、雨は降らないだろう。そうしたらお訪ねしよう。」と言ってきたので、いつものように、男が、女に代わって歌を作って届けさせた。愛しているのか愛していないのか様々に質問を重ねるわけにもいかないので、その程度にしか思われていないのだと知った辛さで流す涙の雨がどんどん降ることです。と作って送ったところ、蓑も笠も手にとるまもなく、びっしょり濡れて慌ててやってきた。
April 29, 2017
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第百八段【本文】むかし、女、人の心を恨みて、 風吹けば とはに浪こす 岩なれや わが衣手の かわく時なきと常の言ぐさに言ひけるを、聞き負ひける男、 宵ごとに かはづのあまた 鳴く田には 水こそまされ 雨は降らねど【注】〇なれや=断定の助動詞「なり」の已然形+疑問の係助詞「や」。~だからだろうか。〇言ぐさ=よく言う言葉。口癖。〇聞き負ふ=聞いて自分のこととして受け止める。〇宵ごと=毎夕。毎晩。〇かはづ=カジカガエル。初夏、谷川などの清流で澄みきった声で鳴き、風流なものとされている。【訳】むかし、女が、男の冷淡な心を恨んで、 風が吹くと永久に浪がその上を越す岩なのだろうか、わたしの着物の袖の乾く時がいのは。と常日頃の口癖として言っていたが、それを聞いて自分のせいだと思った男が、次のような歌を作った。 毎晩毎晩カエルが数多く鳴く田には、水量がまさることだ、雨は降らないけれど。
April 29, 2017
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第百九段【本文】むかし、男、友だちの人をうしなへるがもとにやりける。 花よりも 人こそあだに なりにけれ いづれを先に 恋ひむとか見し【注】〇あだなり=はかない。もろい。〇いづれ=どちら。〇恋ふ=思い慕う。なつかしむ。【訳】むかし、男が、友人で身内を亡くした人のところに作って贈った歌。桜の花よりも先にあなたのお身内がはかなく亡くなってしまったなあ。花とあの人とどちらを先に思い慕うことになろうと考えただろうか、いや、まさかこんなことになろうとは思いもしなかった。
April 29, 2017
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第百十【本文】むかし、男、みそかに通ふ女ありけり。それがもとより、「今宵、夢になむ見えたまひつる」と言へりければ、男、 思ひあまり いでにし魂の あるならむ 夜深く見えば 魂結びせよ【注】〇みそかに=ひそかに。人目をさけて。〇通ふ=男が女のもとへ行き夫婦生活をする。結婚する。〇今宵=夜が明けた後に、前日の夜を指していう語。昨夜。ゆうべ。〇夢に見ゆ=『完訳用例古語辞典』(学研)に「夢は恋と取り合わせて和歌に詠まれることが多かったが、夢に対する考え方は現代とは違う面もあり、夢に特定の人が現れるのは、自分がその人を強く思うというほかに、相手が自分を深く思っていれば相手の夢の中に現れるとする考え方もあった」。〇魂結び=肉体から離れ出た魂を鎮めとどめること。【訳】むかし、男が、夫としてひそかに通っていた女がいた。その女のところから、「昨夜、夢に、あなたのお姿が現れました」と言ってきたので、次のような歌を作って贈った。「あなたへの愛情がありあまって体から抜け出してしまった魂があるのだろう。もしも夜遅く夢で私の姿が見えたら魂を肉体へもどるように魂結びのまじないをしてください。
April 23, 2017
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第百十一段【本文】むかし、男、やむごとなき女のもとに、なくなりにけるをとぶらふやうにて、言ひやりける。 いにしへは ありもやしけむ 今ぞ知る まだ見ぬ人を 恋ふるものとは返し、 下紐の しるしとするも 解けなくに 語るがごとは 恋ひずぞあるべきまた、返し、 恋しとは さらにも言はじ 下紐の 解けむを人は それと知らなむ【注】〇やむごとなし=身分が第一級だ。尊貴だ。〇とぶらふ=不幸にあった人になぐさめを言う。〇言ひやる=手紙や使者を通して、こちらから相手に言ってやる。〇知る=わきまえる。さとる。〇ものとは=ものだということは。『後拾遺和歌集』六七二番「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほうらめしきあさぼらけかな」。〇下紐のしるし=女性の下袴のひもが自然に解けると男から恋い慕われている証拠とした。〇なくに=~ないのだから。〇さらに=ふたたび。〇人=あなた。相手の女性を指す。【訳】むかし、男が、身分が極めて高い女性のところに、身内がなくなったことに対し慰めを言うのにかこつけて、言ってやった歌。 むかしは、そんなこともあったのだろうか。今になって覚った。まだ対面したこともない人を恋しく思うものだということは。女の返事の歌、 下袴のひもが自然に解けると男性から恋い慕われている証拠とかいいますが、わたしの下紐が解けないところをみると、あなたは口で言うほどには私に恋してはいないのでしょう。また、男の返事の歌、 恋しいとは再び言うまい。こんど下紐が解けたらそれを、あなたは私の情熱の証拠だと気づいてほしい。
April 23, 2017
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第百十二段【本文】 むかし、男、ねむごろに言ひ契りける女の、ことざまになりにければ、須磨の海人の 潮焼く煙風をいたみ、思わぬ方にたなびきにけり 【注】〇ねむごろに=心をこめて。〇言ひ契る=口に出して将来を誓う。〇ことざまになる=変わったようすになる。自分のことを愛していたのに、心変わりする。〇須磨=兵庫県神戸市の西南、須磨区の海岸。白砂青松、月の名所として知られる。〇塩焼く煙=海藻に潮水を注いだのち、焼いて水に溶かし、その上澄みを釡で煮詰めて製塩するが、その海藻を焼くときに出る煙。〇風をいたみ=風が激しいので。「風」は、恋の妨害。恋敵のさそい。『詞花和歌集』二一一番「風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけてものを思ふころかな」。〇思はぬ方=それまでは愛していなかった人。自分以外の相手。〇たなびく=横に長く引く。女(煙)が恋敵のほうへ心を寄せる見立て。【訳】むかし、男が、心をこめて言葉にだして将来を誓った女が、ほかの男に心を移してしまったので、作った歌。須磨の海岸で海人が潮を焼いているが、そのときに出る煙が風の激しいために、思ってもみない方向にたなびいてしまったなあ。私の愛した女性も、ほかの男からの誘いが激しいために、そちらへ気持ちが移ってしまったことよ。
April 23, 2017
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第百十三段【本文】 むかし、男、やもめにてゐて、 長からぬ 命のほどに 忘るるは いかに短かき 心なるらむ【注】〇やもめ=独身。古くは夫のいない妻を「やもめ」、妻のいない男を「やもを」と言ったが、のちには〇命のほど=この世に命があるあいだ。一生。〇いかに=どんなに。〇らむ=~だろう。推量の助動詞。〇短かし=『角川必携古語辞典』に「考えが足りない。」として、この段を用例に引くが、むしろ「心変りしやすい。飽きっぽい。」の意であろう。『源氏物語』《末摘花》「さりともと短き心はえ使はぬものを」。【訳】むかし、男が、ひとり身でいて、作った歌。長くはない一生のうちに契りを結んだ私を忘れるのは、いったいどれほど移りやすい心なのだろう、あなたの心は。
April 23, 2017
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第百十四段【本文】むかし、仁和の帝、芹河に行幸したまひける時、今はさること似げなく思ひけれど、もとづきにけることなれば、大鷹の鷹飼にてさぶらはせたまひける、摺狩衣の袂に書きつけける。 翁さび 人なとがめそ 狩衣 今日ばかりとぞ 鶴も鳴くなるおほやけの御けしきあしかりけり。おのがよはひを思ひけれど、若からぬ人は聞き負ひけりとや。【注】〇仁和の帝=光孝天皇。笠原英彦著『歴代天皇総覧』(中公新書)によれば、仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継のむすめ沢子。八三〇~八八七年(在位八八四~八八七年)。〇芹河に行幸したまひける時=『三代実録』によれば、光孝天皇の芹河行幸は仁和二年(八八六)十二月十四日のこと。この翌年の仁和三年に病没された。「芹河」は、山城の国紀伊郡鳥羽(京都市伏見区下鳥羽)の鳥羽離宮の南を流れていた川。〇さること=そのようなこと。〇似げなし=似合わない。ふさわしくない。〇もとづく=頼りとなるべきものに到達する。〇大鷹の鷹飼=冬に大鷹(雌の鷹)を使った鷹狩に従事すること。また、その役目の人。官職では、蔵人所に属する。〇摺狩衣=草木の汁で、様々な模様を染め出した狩衣。〇翁さぶ=老人らしく振る舞う。〇な‥‥そ=どうか~してくれるな。禁止の意を表す。〇とがむ=非難する。そしる。〇おほやけ=天皇。〇けしき=人の様子。〇聞き負ふ=自分のこととして聞く。わが身のことと受け取る。【訳】むかし、仁和の帝が、芹河にお出ましになった時、男が、高齢の今では狩りのお供をするというようなことは不適当だと思ったけれども、狩りに慣れて頼りになるというので、冬の大鷹狩りのお供として同行させた。その男が、草木染で模様を染め出した狩衣の袂に書きつけた歌。 わたしが年寄りじみていることを、みなさん非難なさいますな。この狩衣をご覧あれ。今日は狩りだ、弱ったなあ、おれの命も今日限りかなあと鶴も鳴くようですよ。わたしもなにぶん高齢なので、この狩衣を着てこうして鷹狩のお供をするのも今日が最後だと思っております。こう詠んだところ、天皇のご機嫌が悪かった。男は自分の年齢のことを考えて作ったのだったけれども、お若くなかった天皇は、聞いてご自身の高齢を指摘されたのだとお受け取りになったとかいうことだ。
April 23, 2017
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第百十五段【本文】むかし、陸奥にて、男、女、住みけり。男、「都へいなむ」と言ふ。この女、いとかなしうて、馬のはなむけをだにせむとて、おきのゐて、都島といふ所にて、酒飲ませてよめる。おきのゐて 身をやくよりも かなしきは 都島辺の 別れなりけり【注】〇陸奥(みちのくに)=今の青森・岩手・宮城・福島の諸県と秋田県の一部にあたる。奥州。〇かなしう=「かなしく」のウ音便。〇馬のはなむけ=旅立つ人を祝福し、無事を祈って行う送別の宴。〇だに=副助詞。せめて~だけでも。〇おきのゐて=『講談社古語辞典』に「語義不明。本文の前後関係から、『沖の井手』の字をあてて地名とする説がある。『―、都鳥(島の誤植?)といふ所』<伊勢一一五>」。『岩波古語辞典』に「〘連語〙未詳。オキノヰは地名であるともいう。『―身を焼くよりもかなしきは都島べの別れなりけり』<古今一一〇四>」。地名に「熾(赤く起こった炭火)が体に触れて」という意を掛ける。【訳】むかし、陸奥で、男と女が、いっしょに暮していた。男が、「都へいってしまおう」と言った。この女は、とても切なくて、せめて送別の宴だけでも開こうと思って、都島という所で、酒を飲ませた。おきのゐて、都島といふ所にて、酒飲ませてその際に作った歌。オキノイテという地名の通り熾火が体に触れて身を焼くよりも切ないのは都島辺の別れだなあ。
April 23, 2017
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第百十六段【本文】 むかし、男、すずろに陸奥までまどひいにけり。京に、思ふ人に言ひやる。 浪間より 見ゆる小島の はまびさし 久しくなりぬ 君にあひ見で「なにごとも、みなよくなりにけり」となむ言ひやりける。【注】〇すずろに=特別の目的や理由もなしに、何かをしたり、ある状態になったりなったりすることをいう。〇陸奥=今の青森・岩手・宮城・福島の諸県と秋田県の一部にあたる。奥州。〇言ひやる=使者や手紙に託して言い送る。言ってやる。〇思ふ人=愛する人。または、気の合う友人。『伊勢物語』九段「京に思ふ人なきにしもあらず」。〇はまびさし=『例解古語辞典』(三省堂)によれば、『万葉集』の「浜久木(はまひさぎ)」を誤読してできた平安時代の語形という。「はまひさぎ」は、浜辺に生えるヒサギ(キササゲまたはアカメガシワのことという)。「ひさぎ」から同音の「久し」の序詞。『万葉集』二七五三番「波の間ゆ見ゆる小島のはまひさぎ久しくなりぬ君に逢はずして」。〇あひ見る=対面する。【訳】むかし、男が、なんとなく思い立って陸奥までうろうろとさまよい出かけていった。京の、愛する人のもとへ詠み送った歌。浪間から見える小島の浜べのヒサギではないが、久しくなったなあ、あなたに逢わないで。「何事も、万事うまくいきました」と手紙でいってやった。
April 23, 2017
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第百十七段【本文】 むかし、帝、住吉に行幸したまひけり。 われ見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく世経ぬらむ大御神、現形し給ひて、 むつましと 君はしらなみ みづがきの 久しき世より いはひそめてき【注】〇住吉=摂津の国の最南部、東成郡、今の大阪市住吉区を中心とする一帯。古くからの港があり、海上交通の要地。海浜景勝の地で松の名所。もと「すみのえ」といったが、漢字表記の「住吉」を「すみよし」と読むようになり、今に至る。この地に鎮座まします住吉神社の祭神は、古くから国家鎮護・航海安全・和歌の神・武神として信仰をあつめてきた。その本殿の特殊な建築様式は住吉造という。〇行幸=お出まし。天皇の外出を敬って言う語。〇姫松=ふつうは、小さく、若々しい松をいう。姫小松。ただし、それでは短歌の中身と矛盾するというので、「めまつ」の美称とする説もある。『古今和歌集』一一〇〇番「ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ世経とも色は変はらじ」。〇世を経=御代を過ごす。〇大御神=神様。『万葉集』四二四五番「住吉のわが大御神船(ふな)の舳(へ)に鎮(うしは)き坐(いま)し」。〇現形=げんぎょう。神仏が姿を現わすこと。〇むつまし=親密である。〇しらなみ=「知ら無み」に住吉海岸の「白波」を言い掛ける。〇みづかきの=いつまでもみずみずしい神社の垣根。「久し」にかかる枕詞。〇いはふ=将来の幸福・安全がまもられるようにする。【訳】 むかし、帝が、住吉大社にお出ましになった。その時に帝に代わって作った歌。 わたしがこの前見たときからでももう長き年月がながれたこの住吉の海岸の小さく、若々しい松は、何世代めになったのだろうか。住吉の明神が、姿をお現わしになって、お作りになった返歌。わたしと天皇家とが親密だということをそなたは知らぬのだろうが、神社の垣根が築かれた創建当時から幸福・安全を守ってきたのだ。
April 23, 2017
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第百十八段【本文】 むかし、男、久しく音もせで、「忘るる心もなし。参り来む」と言へりければ、 玉かづら はふ木あまたに なりぬれば 絶えぬ心の うれしげもなし【注】〇音もせで=おとづれもせず。たよりもせず。『竹取物語』「遣はしし人は、夜昼待ち給ふに、年越ゆるまで音もせず。「で」は、打消し接続助詞。打消し助動詞「ず」に接続助詞「て」がついて縮約したものという。かの民謡「さんさ時雨」に「さんさ時雨か萱野の雨か、音もせで来てぬれかかる」とある。もとより、時雨が音もなく降ってきてチガヤの葉に濡れて降りかかる意であろうが、仙台では結婚式で必ず歌われるというところをみると、「たよりもせずに、いきなりやってきて、色事をしかける」という両意があるのであろう。〇参り来=うかがう。参上する。〇玉かづら=つたなどの、つる草の美称。「はふ」は、「かづら」の縁語。〇はふ木=女性のたとえ。〇あまた=数多く。〇~になりぬれば=~になってしまったので。「ぬれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形。【訳】むかし、男が、長いことたよりもせずにいて、「忘れる気持ちもない。これからお伺いしよう」と言ってきたので、女が作って贈った歌。みごとなつる草が、延びてからみつく木(あなたが関係を持つ女性)が数多くなったので、私への思いが途切れることがないとお聞きしても、ちっとも嬉しいとも思いません。
April 22, 2017
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第百十九段【本文】 むかし、女の、あだなる男の形見とて置きたるものどもを見て、 形見こそ 今はあたなれ これなくは 忘るる時も あらましものを【注】〇あだなり=誠意がない。誠実さに欠ける。〇形見=過去のこと、また別れた人や死んだ人を思い出す手がかりとなるもの。〇あた=恨みの種。『平家物語』巻二・大納言死去「形見こそ今はあたなれ」。〇あらまし=あるだろうに。あればいいのに。ラ変動詞「あり」の未然形に、反実仮想の助動詞「まし」がついたもの。〇ものを=~のになあ。不満の気持ちを含んだ詠嘆を表わす終助詞。形式名詞「もの」に、間投助詞「を」がついてできたもの。【訳】むかし、女が、誠意がない男が記念にといって置いていった品々を見て、次のような歌を作った。別れた男が残していった思い出の品々が今となっては恨みの種だ。これさえなければ、あんな不実な男を忘れて気が休まる時もあるだろうになあ。
April 22, 2017
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第百二十段【本文】 むかし、男、女のまだ世経ずとおぼえたるが、人の御もとに忍びてもの聞こえてのち、ほど経て、 近江なる 筑摩の祭 とくせなむ つれなき人の 鍋の数見む【注】〇世経ず=男女関係の経験がない。〇もの聞こゆ=情を交わす意の「ものいふ」の謙譲語。〇ほどふ=月日が経つ。時間が経過する〇近江=旧国名。東山道十三か国の一。今の滋賀県。江州。〇筑摩=滋賀県米原市朝妻筑摩。琵琶湖畔の地。古くは「つくま」、現在は「ちくま」という。〇筑摩の祭=滋賀県米原市の筑摩神社の鍋祭。陰暦四月の一日(のちには八日)に行われた鍋祭。未婚の女がひそかに自分が過去に情を交わした男の数だけ土鍋をかぶって参詣し奉納する奇祭があった。〇つれなし=冷たい。薄情だ。【訳】むかし、男が、女でまだ男女関係が無いと思われた女が、あるかたの所で人目を避けて情をお交わしするようになってのち、だいぶ月日がたってから、次のような歌を贈った。「近江の国にある筑摩神社の鍋祭をはやくしないかなあ。そうすれば、薄情なあなたの鍋の数をこの目で見て、今まで何人の男と関係していたのか確かめてやろう」。
April 22, 2017
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第百二十一段【本文】むかし、男、梅壷より雨に濡れて人のまかりいづるを見て、 うぐひすの 花を縫ふてふ 笠もがな 濡るめる人に 着せてかへさむ返し、 うぐひすの 花を縫ふてふ 笠はいな 思ひをつけよ ほしてかへさむ【注】〇梅壷=内裏の後宮の建物の一。凝花舎の別名。女御・更衣など后妃の増加に伴い、嵯峨天皇の代に作られたとされる。壷(中庭)に梅が植えてあることからの名。〇まかりいづ=貴人のいる所から退出する。〇うぐひす=ヒタキ科の小鳥。背は緑褐色。早春に美しい声で鳴き始めるので「春告げ鳥」ともいう。梅の花とともに春を告げる景物として古くから愛され、歌にもよく詠まれた。『万葉集』八二四番「梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林にうぐひす鳴くも」。〇うめのはながさ=梅の花を笠に見立てた語。『古今和歌集』神あそびの歌「うぐひすの縫ふてふ笠は梅の花笠」。〇もがな=~があればなあ。願望の意を表す。上代の「もがも」に代わって中古(平安時代)以後に用いられた。〇めり=目に見える事実について推量すり意を表す。~のように見える。小西甚一氏『土佐日記評解』(有精堂)によれば「めり」の用例は『土佐日記』中では「置かれぬめり」の一例だけであり、『竹取物語』や『伊勢物語』にも稀にしか見えない。これが『落窪物語』あたりから急に多くなる、という。〇思ひ=愛情。「ひ」に「火」を言い掛けてある。【訳】むかし、男が、梅壷から雨に濡れて人が退出するのを見て、「うぐいすが梅の花を縫って作るという笠があればいいのになあ。それがあれば雨に濡れているように見える人に着せて帰らせるのに」。この歌を贈られた人の返事の歌、「うぐいすが花を縫って作るという笠は不要です。それよりも私に思いの火をつけて愛してください。そうすればその火で濡れた着物を乾かして、その「思ひ」の「ひ」をお返ししましょう。お返しにあなたのことを愛しましょう」。
April 22, 2017
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第百二十二段【本文】むかし、男、契れることあやまれる人に、 山城の 井手の玉水 手にむすび 頼みしかひも なき世なりけりと言ひやれど、いらへもせず。【注】〇契れること=約束したこと。〇あやまる=(約束などを)わざと破る。〇山城=畿内五か国の一。現在の京都府南部。古くは名rから見て山の背の意で「山背」と表記し、また「山代」とも表記したが、桓武天皇の平安遷都(七九四年)以降、「山城」と表記するようになった。〇井手=京都府綴喜郡井手町。奈良街道の途中、木津川に流れ込む玉川の扇状地。橘諸兄の別荘があった。ヤマブキ・カエルの多かった所として知られる歌枕。〇玉水=玉のように清らかな水。〇むすぶ=左右の手のひらを合わせて水をすくう意と、約束を交わす意を掛ける。〇たのむ=手で飲む意と、あてにする意を掛ける。『蒙求』許由一瓢の注「盃器無し。手を以て水を捧げて之を飲む」。『徒然草』十八段「唐土に許由といひつる人は、さらに身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みける」。【訳】むかし、男が、約束をわざと破った人に対し、「山城の国の井手の玉のように清らかな水を手で掬って誓った恋もむなしくなるこの世なのだなあ。」と歌を作って贈ったが、返事も寄越さない。
April 22, 2017
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第百二十三段【本文】むかし、男ありけり。深草に住みける女を、やうやう飽き方にや思ひけむ、かかる歌をよみけり。 年を経て 住み来し里を いでていなば いとど深草 野とやなりなむ 女、返し、 野とならば 鶉となりて 鳴きをらむ 狩にだにやは 君は来ざらむとよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。【注】〇やうやう=しだいに。だんだん。〇飽き方=いやけがさしてきた。〇かかる=こんな。このようなこういう。二十三段に「男、こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて」。〇里=都に対して辺地の村。在所。いなか。『古今和歌集』九七一番「深草の里に住み侍りて、京までまうで来とて」。〇いとど=ますます。〇深草野=深く草が茂った野と、地名の深草の掛詞。『角川必携古語辞典』の「ふかくさ」の条に、京都市伏見区深草町。歌などでは、草が深く尾生い茂った所とし、また『伊勢物語』の本段の短歌の唱和以後、鶉と結びつけることが多いという。〇返し=贈られた歌に対する返事の歌。〇鳴き=「泣き」の意ももたせる。〇狩に=「仮に」の意ももたせる。〇だに=せめて~だけでも。〇やは=「や」も「は」も係助詞。ふつう反語表現ととらえられているが、「やは~ぬ」の場合に準じて勧誘・希望の意を表していると考えることも可能。その場合は「せめて狩り(仮)にだけでも私に会いに来てくれたらいいのに」の意。〇めでて=感動して。【訳】むかし、男がいたとさ。深草に一緒に住んでいた女を、しだいにいやけがさしてきたのだろうか、こんな歌を作った。 何年にもわたって住んできたこの土地を私が出ていったしまったら、そうでなくても深い草の野という地名の在所なのに、ますます草深い野となってしまうだろうか。 女が、男から贈られた歌に対して作った返事の歌、 もしも草が深い野となったら私は鶉となって鳴いておりましょう。そうしたらせめて狩にだけでもあなたは来てくださらないでしょうか、いいえ、きっときてくださるでしょう。と作ったその歌に感動し、男は出て行こうと思う心がなくなってしまったとさ。
April 16, 2017
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第百二十四段【本文】 むかし、男、いかなりけることを思ひけるをりにか、よめる。思ふこと 言はでぞただに やみぬべき われとひとしき 人しなければ【注】〇いかなり=どんな。〇をり=場合。〇で=~ないで~ずに。打消し接続の接続助詞。〇ただに=むなしく。〇やみぬべき=きっと終わりにしてしまおう。「べき」は「ぞ」の結び。〇人しなければ=「し」は、強意の副助詞。そんな人なんてどこにもいないのだから。【訳】むかし、男が、どんなことを考えていた時のことだったのだろうか、作った歌。心中で思っていることを言はないで、むなしくきっと終わりにしてしまおう。私と思いがまったく同じそんな人なんてこの世のどこにもいないのだから。
April 16, 2017
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第百二十五段【本文】むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、つひに行く 道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを【注】〇わづらふ=病気で苦しむ。〇心地=気分。〇死ぬべく=きっと死んでしまうだろう。〇=誰しもが最後に通る道。死出の旅路。〇=聞いてはいたが。「しか」は、過去の助動詞「き」の已然形。「ど」は、逆接の接続助詞。〇思はざりしを=「ざり」は、打消し助動詞「ず」の連用形。「を」は、感動・詠嘆の間投助詞。ただし、逆接の接続助詞ととり「われもこのたびいくこととはなりぬ」の意が省略されているととることもできよう。【訳】むかし、男が、病気で苦しんで、気分が悪くここままではきっと死んでしまいそうに思われたので作った歌、死出の旅路はこの世の誰でもが最後には通る道だとは前々から聞いてはいたが、昨日今日といったこんな身近なものだとは予想しなかったなあ。
April 16, 2017
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【本文】右京の大夫宗于の君の家には、前栽をなんいたう好みてつくりける。女郎花・菊などあり。この男のもと(「もの」?)へ行きたりける間をうかがひて、月いと明かりけるに、女房集まりて、群れてこの前栽を見歩きて、いと高き札に歌をかきつけて、その花の中に立てける、きてみれば 昔の人は すだきけり 花のゆゑある 宿にぞ有りける【注】・「前栽」=庭先の植え込み。・「女郎花・菊」=オミナエシとキク。いずれも秋の花。オミナエシは萩・桔梗・尾花・撫子・葛・藤袴と並ぶ秋の七草の一。・「すだく」=集まる。・「宿」=屋敷の中庭。庭先。【訳】右京の大夫宗于様の家には、前栽をとても情緒たっぷりに配置していた。女郎花・菊などが植えてあった。この男がどこかよそに行っていたすきをうかがって、月が非常に明るかったときに、女房たちが集まって、集団でこの前栽を見て歩きて、とても高い立て札に歌をかきつけて、その花の中に立てた、その立札の歌やってきてみると、昔なじみの人たちが、多くあつまっていたことよ。花が風情たっぷりに咲いている屋敷の中庭だったわ。【本文】かかりければ、男誰ともしらざりけれど、来てとりもやすると書き立てたりける、我がやどの 花は植ゑにし心あれば まもる人のみ すだくばかりぞと書き付けたりける、さて、もし取る人もやあるとうかがはせけるに、一夜二夜来ざりければ、たゆみてまもらざりける間にぞとりてける。口惜しくえ知らでやみにけんかし。【注】・「AもやB」=AがBだと困る。・「まもる」=見張る。・「たゆむ」=怠る。油断する。・「え~で」=~できないで。・「やむ」=そのままになってしまう。【訳】こんなふうだったので、男は相手が誰だともわからなかったが、またやってきて花を摘み取ったりすると困ると立札に書いて立てておいた、その歌、私の家の中庭の花は、植えた際に気持ちがこもっているから、見張り番だけが警戒して集まるだけだと書き付けておいた。そうして、万一とる人がいたら困ると思って、使用人に様子をうかがわせたところ、一晩か二晩は来なかったので、油断して監視しなかったすきに取ってしまった。無念にも犯人が誰か知ることもできずじまいになってしまったのだろうよ。【本文】又、この男、仁和の御門召してけり。「御室に植ゑさせ給はんに、おもしろき菊たてまつれ」と仰せ給ひける。うけ給りてまかでければ、又めしかへして、そのたてまつらん菊に名付けて参らずば、納め給はじ」と仰せられければ、かしこまりてまかでて、菊など調じて奉りける。時雨ふる 時ぞ折りける 菊の花 うつろふからに 色のまさればとて奉れり。悪しも良しもえ知らず。【注】・「仁和の御門」=宇多法王。第五十九代の天皇。亭子院のみかど。菅原道真を重用し、藤原氏の台頭を抑え、政治刷新に努め、寛平の治と評価された。『古今集』以下の勅撰集に十七首入集。初段に既出。・「召す」=お呼び寄せになる。・「御室」=仁和寺。宇多法王の居所。京都市右京区御室にある、真言宗御室派の本山。仁和四年(八八八)宇多天皇の建立。・「かしこまる」=命令を慎んで承る。【訳】また、この男を、宇多法皇がお呼び寄せになった。「仁和寺の御室に植えさせるつもりなので、風情ある菊を献上せよ。」とお命じになった。承知して退出いたしたところ、再度およびもどしになって、「そのほうの献上の菊に名を付けて参上しないなら、帝はお納にならないだろう。」とおっしゃったので、承知して退出して、菊などを調達して献上した。時雨がふる時に折ったことだ菊の花は 色が変色するにつれて色が濃くなるのでと歌を作って添えて献上した。歌の評価の悪い・良いも理解することができなかった。【本文】又、この男の許に、国経の大納言のもとより、いささかなる事の給ひて、御文をぞ給へりける。御返事きこゆとて、おもしろき菊につけたりければ、いかが見給ひけん、かかる歌をよみ給ひける、( )この部分 和歌が欠落とて有ける、この男驚きて、とかくおもはば、程経へんに、かの御使ひの思ふ事もあらんとて、ただとくぞ、ふと走り書きて奉れりける。花衣 君がきをらば 浅茅生に まじれる菊の 香にまさりなん【注】・「国経の大納言」=藤原長良の長男。二条の后の兄。六段に既出。・「おもしろし」=美しい。風情がある。・「花衣」=華麗な衣。・「浅茅生」=丈の低いチガヤが生い茂ってるところ。・「ほどふ」=時間がたつ。【訳】また、この男のところに、大納言藤原国経のところから、ちょっとしたことをコメントなさって、お手紙をくださった。お返事を申し上げるにあたって、美しい菊の花に手紙を添えておいたところ、どんなふうにご覧になったのだろうか、このような和歌をおつくりになった。( )とお書きになっていた。この男がびっくりして、歌を作るのにあれこれ考えていたら、時間が経過してしまうだろうし、大納言さまからの使者もどう思うかしれないと思って、ただ早く返事をしようと、さらさらと走り書きをして献上した、その歌、美しい衣をおめしになっている大納言さまが拙宅へ来られて手ずから折りとりなさるのなら、浅茅の生えている粗末なうちの庭に混じって咲いている菊の香に比べて、きっとまさった良い香りがするでしょう。【本文】この男、音には聞きならして、まだ物など言ひつかぬ所有りけり。いかでと思ふ心ありければ、常にその家の前をわたる。【訳】この男が、うわさには常々聞いてはいたが、まだ恋心を打ち明けていない女性がいた。なんとかして言い寄ろうと思う気持ちがあったので、常にその女の家の前を通る。【本文】されど、言ひつく便りもなきを、灯などいとあかかりける夜、門の前よりわたるに、女どもなど立てり。【訳】けれども、言いよる機会もなかったが、灯火などがとても明るかった夜に、門の前から通ってよりわたるに、女たちなども立っていた。【本文】かかれば、馬よりおりて物などいひたりけり。いらへなどしければ、いと嬉しくて立とまりにけり。【訳】こういう状況だったので、馬からおりて話しかけたのだった。相手の女も返事などしたので、とても嬉しくて立ちどまった。【本文】女ども、「誰ぞ」とて供なる人にとはせければ、「その人なり」とぞいはせける。かかれば、女ども「音にのみ聞渡るを、いざおなじくは庭の月みん」とぞいひける。【訳】女たちが、「どなたですか」といって、お供の人に質問させたところ、「だれそれである」と供の者にいわせた。こういうわけで、女たちが「うわさにだけはずっと聞いていましたが、さあ、どうせ同じことなら庭の月を観賞しましょう」と言った。【本文】男、よき事とて、「いとうれしきおほせ事なり」とて諸共にいりにけり。【注】・「おほせ事」=お言葉。・「諸共に」=そろって。一緒に。【訳】男は、好都合だと思って、「非常にうれしいお言葉です」と言って、一緒に門のうちに入ってしまった。【本文】さてこの男、簀子によびのぼせて、女どもは簀のうへに集まりて、いとあやしく音にのみききわたりつるを、かくよそにても物をいふ事ども、女も男もかたみにいひかはして、をかしく物がたりしけるに、女も心つけていふ事有りけり。【注】・「簀子」=廂の外に細い板を横に並べ、間を少しずつ透かして打ち付け、雨露がたまらぬように作った縁。縁側。・「かたみに」=互いに。・「いひかはす」=話し合う。・「心つく」=ある考えや気持ちを持つようになる。【訳】そうして、この男を、簀子に招き上げて、女たちは簀の上に集まって、とても不思議なことにうわさにだけ聞きつづけていたのに、こうやって物を間に隔ててでも、話ができたことを、女も男も互いに喜びあって、楽しく会話を交わしたので、女のほうも男に好意を寄せて話した。【本文】男もあやしく嬉しく、かくいひつきぬる事と思ひつつ語らひをりける間に、「乗れる馬の放れて、いぬらん方しらず」といへば、「さればなの、ただかくれよ」といひて追ひ返してけり。【注】・「いひつく」=言って近づく。言い寄る。【訳】男も不思議な気持ちで嬉しく、こんなふうに言い寄ったことだと思いながら親しく会話しているうちに、「乗っていた馬が離れて行ってしまい、どこへ行ってしまったかわかりません」と供の者が言ったので、「それがどうした、どこへでも姿を隠すがよい」と言って追い返してしまった。【本文】それを女どもみて、「何事ぞ」と問ふ。「いさなに事にもあらず。馬なんおぢて放れにけり」と男答ふれば、「いな、これは夜ふくるまで来ねば、家刀自のつくり事したなむめり。あなむくつけな。はかなきあだごとをさへかう言はん家刀自もたらん物はなににかはすべき」と心憂がりさざめきて皆かくれにけり。【注】・「いさ」=いや、なに。ええと。・「おづ」=恐れる。こわがる。・「家刀自」=一家の主婦。イエトウジ・イエトジ・イエノトジなどとよむ。・「むくつけ」=恐ろしい。・「心憂がる」=不快に感じる。【訳】それを女たちが見ていて、「何があったの」と質問した。「さあ、たいしたこともない。馬がこわがって逃げてしまった」と男が答えたところ、「いいえ、これは夜がおそくなるまであなたが来なかったので、奥様ががでっちあげたように思われる。本当にいやだわ。ちょっとしたたわいもないことをまで、こんなふうに。言うような夫人を持っているようなかたは、どうしようもないわ」と、不快に思ってざわめいて、皆姿を隠してしまった。【本文】「あなわびしや。死なんや。もはらさには侍らずなん」といへど絶えてきかず。はては物言ひつかん人もなくなりにけり。居わづらひてぞ逃げにける。さてそのつとめて、時雨のふりければ、男、 さ夜中に うき名取川わたるらん 濡れにし袖に 時雨さへふるかへし、女、 時雨のみ ふるやなればぞ 濡れにけん 立隠れたる ことや悔しきといひたりければ、喜びてまた物などいひやりけれど、いらへもせず。言ふかひなくて、いはでやみにけり。【注】・「わびし」=困った。つらい。・「もはら」=下に打消しの表現がくると、「まったく~ない」「けっして~ない」。・「絶えて」=下に打消しの表現がくると、「まったく~ない」「けっして~ない」。・「つとめて」=あることがあった翌朝。・「うき名」=つらい評判。汚名。・「名取川」=宮城県名取市を流れる川。『古今集』六二八番「陸奥にありといふなる名取川なき名取りては苦しかりけり」。和歌では「名取る」の意と掛詞になることが多い。「川」に対してあとの「わたる」は縁語。・「濡れ」に対し「袖」は縁語。・「時雨」=秋から冬にかけて、降ったりやんだりする小雨。涙を落して泣くことをもいう。「ふる」は、「時雨」に対して縁語。・「時雨のみふるや」=「降る」と「古家」は掛詞。【訳】男が、「ああつらいなあ。死んでしまおうか。けっして、そんなことはありません」と言ったけれども、女たちは全く聞き入れない。しまいには、話しかける人もいなくなってしまった。いたたまれなくなって、退散してしまった。そうして、その翌朝、時雨が降ったので、男が、 ゆうべ夜中に憂き名を取る名取川を渡ったのだろうか、つらい思いをして涙に濡れた私の袖に冷たい時雨まで降りかかることよ。その歌に対する女からの返事の歌、時雨ばかり降りそそぐ古家だから雨漏りで濡れてしまったのだろうか、それともあなたの奥様のやきもちがいやで私が家に入って隠れてしまったことが悔しくて涙にぬれたのだろうか。と歌を作って手紙に書いて送ったところ、男は喜んで再び歌など作って手紙に書いて送ったけれども、今度は返事もなかった。しかたがなくて、その後は相手に何も言わずじまいになってしまった。【本文】又、この同じ男、忍びて知れる人有けり。久しくはあはぬ事などいひてやれりければ、「ここにもさなん。迎へに人をおこせよ」といひければ、いとをかしき友達をぞ率て行きたりける。友達、「送りはしつ。今かへりなむ」といへりければ、男「こよひばかりは、など、とまれ」といひければ、「あなむくつけ。こはなに事」をいふ物から、かかる歌をなんよみける。 難波潟 おきてもゆかん 葦田鶴の 声ふりたてて いきてとどめよといへば、男 難波江の 潮満つまでに 鳴くたづを 又いかなれば 過ぎて行くらんといひけれど、「あなそら事や、露だにも置かざめる物を」といへど、又いかが思ひけん、その夜とまりにけり。さていかが語らひけん。【注】・「忍ぶ」=人目を避けて事を行う。特に、秘密のうちに恋愛関係を結ぶ。・「知る」=つきあいがある。特に、恋愛関係にある。・「ここ」=この身。私。・「をかし」=容姿や態度などが魅力的だ。・「むくつけ」=気味がわるく、いやだ。・「難波潟」=摂津の国の海岸。古くから港として開けていた。港内にアシが生い茂り、澪標(=水路指導標)が立てられていた。和歌では「何は」と掛詞に用いることがある。・「葦田鶴」(あしたづ)=アシの生えている水辺にいるツル。・「ふりたつ」=大きな声を出す。・「そら事」=うそ。いつわり。【訳】又、この同じ男が、人目を避けて交際していた女がいた。長い間会わないことなどを手紙に書いて送ったところ、「私の方も、そう思っております。迎えに人をよこてください」と言ってきたので、男は非常に風流な友達を連れて行った。友達が、「送り終えたよ。もう私は帰ろう」といったので、男が「今夜ぐらいは一緒にいてくれ。どうしてすぐ帰るなんていうのだ。泊まっていけ」と言ったところ、「ああいやだ。これはいったいどういうことだ」と言って、こんな歌を作った。 難波潟に君を置き去りにして行こう。難波江のアシのあたりで群れいるツルのように声をあげて、引き留められるものなら去私がるのを引き留めてみなさい。と言ったので、男が 難波江の海岸に潮が満ちるほど泣いて涙に袖がぬれている私を、君は、また、どういうわけで無情にも そしらぬふりで帰っていくのだろう。となんとか引き留める気持ちを歌に作ったけれども、友達は「ああうそっぱちだなあ、露ほどの涙も目に浮かべていないように見えたのに」といったが、また、友人のほうも、どう思ったのだろうか、その夜は泊まったのだった。そうして、どんなことを話したのだろうか。【本文】又、この同じ男、親近江なる人に忍びてすみけり。親、けしきを見てせちにまもり、日暮るれば門をさしてうかがひければ、女物思ひ侘びてのみあり。【注】・「親近江なる人」=親が近江の守の任にある女性。・「すむ」=男性が結婚して、女性のもとに通う。・「けしき」=視覚でとらえたようす。・「せちに」=ひたすら。・「まもる」=見張る。『伊勢物語』五段に「その通ひ路に夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、えあはで帰りにけり」。・「さす」=閉ざす。・「うかがふ」=ようすを探る。・「物思ひ侘ぶ」=物思いに悩む。【訳】また、この同じ男が、親が近江の守である女性のところに人目を避けて通っていた。親が、娘のところに男が通ってきているのを目撃して厳重に見張った。日が暮れると門を閉ざして様子を探っていたので、女は物思いに悩んでばかりいた。【本文】男もあふ夜もなくて、からうして、「築地をこえてなむ来つる」といはせけるに、伝へ人のもとに寄りて物いひけるけしきを親みて、いみじくののしりければ、「いな、けしき取りつればあふべくもあらず。早う帰られね」といひいだしけり。【注】・「からうして」=やっと。ようやく。・「築地」=柱を立て、板を芯として泥で塗り固め、屋根を河原で葺いた垣。土塀。・「伝へ人」=伝言をつたえる召使。・「物いふ」=言葉を話す。・「いみじく」=たいそう。・「ののしる」=声高に悪く言う。口汚く言う。『大和物語』六十三段「親聞きつけて、ののしりて、会はせざりければ」。・「早う帰られね」=早く、お帰りなさいませ。・「いひいだす」=室内から外にいる人にことばをかける。【訳】男も女と逢う夜もなくて、やっと、「築地をこえてやってきたよ」と召使に言わせたところ、伝言をする召使のそばに近寄って話しかけているようすを親がみて、ひどく口汚く言ったので、「いいえ、わたしたちの様子に気づいたので、逢うことはできません。早くお帰りなさいませ」と部屋から外にいる男に伝言した。【本文】男、「いで、大かたはなどかうしもはいふべき。ただ入りなんよ」とぞいひたりける。「行先をも、なほわれを露思はば、この度ばかりは帰りね」と親に怖ぢて切にいひいだしたりける、「いとかういふ物を。よし、此度ばかり帰りなん」とて、かくいひいれける、 みるめなみ 立ちや帰らん あふみぢは 何の浦なる うらと恨みて(返し) 関山の 嵐の声の あらければ 君にあふみは 名のみ成けり。 かかれば、男いらへをだにせずなりにけり。なに事にも物たかき人にもあらず。親のかくにくげにいふをめざましきに、女は親につつみければ、さてやみにけり。【注】・「いで」=否定や反発の気持ちで発する語。いや。・「大かた」=改めて言い出すときに用いて、そもそも。いったい。およそ。・「行先」=将来。・「なほ」=まだ。・「怖づ」=恐れる。こわがる。・「みるめなみ」=「見る目」と海藻の「みるめ」を言いかけた。・「あふみぢ」=「会ふ身」と「近江路」を言いかけた。・「関山」=逢坂山(滋賀県大津市)。大化二年(六四六)に逢坂の関が設けられた。東海道・東山道から京都への入り口であったが、延暦十四年(七九五)に廃止。和歌では「逢ふ」と掛詞に用いることが多い。・「いらへ」=返事。をだにせずなりにけり。なに事にも物たかき人にもあらず。親のかく・「にくげに」=憎らしい。不愉快だ。・「めざましき」=気に食わない。・「つつむ」=隠す。【訳】男が、「いや、いったいなぜこんなことを言うのか。なにがなんでも入るよ」と言った。女が「将来も、まだ私を少しでも愛しているのならば、今度ばかりはお帰りください」と親に恐れてひたすら帰ってくれるように部屋の外に言って伝えた。「まあここまで言うのなら、わかった、今度ばかりは帰ろう」といって、こんなふうに歌を作って女の部屋に言い入れた。 逢える見込みがないので立ち帰ろうかしら、逢う身という名の近江路とは名前ばかりで、ここは近江の何の浦なのかしらと恨みを残して(男の歌に対する返し) 逢う坂の関がある関山から吹くの嵐のように親の怒りの声が荒々しいので、君に逢う身という名の近江の守の娘だというが名前ばかりだなあ。 こんなふうだったので、男は返事をさえしなくなってしまった。なに事にも物たかき人にもあらず。親がこんなふうに憎らしそうに言うのが気に入らないので、女は親に隠していたので、そのまま交際が途絶えてしまった。【本文】又、この男志賀に詣でにけり。逢坂の走井に、女どもあまた乗れる車をおろし立てたり。男馬より下りてとばかり立てりければ、車の人、人来ぬとうてみてかけさせてゆく。男、かの車の人に、「いづちおはしますぞ」ととふ。「志賀へまうで給ふ」とこたへければ、男、車よりすこし立ちおくれゆく。逢坂の関こえて、浜へゆき下るるほどに、車よりかかる事をいひおこせたる、 あふさかは名にたのまれぬ関水のながれて音にきく人を見て 男、あやしと思ひて、さすがにをかしかりければ、 名をたのみ我もかよはん相坂を越ゆれば君にあふみなりけりといひやる。【注】・「志賀」=近江の国の瀬田川河口付近から琵琶湖西岸の中間ほどまでの地。西部は山城の国と接する。今の滋賀県滋賀郡および大津市の北部。ここでは大津にあった志賀寺。天智天皇の勅願寺で、のちに崇福寺といったが、平安時代末期に荒廃した。・「逢坂」=滋賀県大津市にある山。・「走井」=勢いよく水の湧き出る泉。また、流水を井戸水のように用いることのできる場所。・「おろし立つ」=牛車のナガエをシジにかけてとめておく。・「とばかり」=少しの間。・「人来ぬとうてみて」=岩波書店の日本古典文学大系の注に「うて」は「こそ」の誤写かとするが、あるいは「人来ぬとうとみて」とすべきか。・「かけさせて」=車に牛を取り付けさせて。・「逢坂の関」=近江の国(滋賀県)大津市内にその跡と称えられているものがあって、そこに人丸神社、関の清水などがある。もとは近江と山城(京都府)との境にあって、京都から東国に往復する者の必ず通ったところである、これに美濃の不破の関、伊勢(三重県)の鈴鹿の関を併せて三関と称せられ、関所としては、最も有名であった。歌枕としても知られ、これを題材とした和歌は数限りもなく残っている(浅尾芳之助『百人一首の新解釈』「これやこの」注)。・「いひおこす」=言ってよこす。・「関水」=滋賀県逢坂の関付近にあった清水。・「音にきく」=うわさに聞く。評判に聞く。・「あやしと思ひて、・「さすがに」=そうはいうものの、やはり。・「をかし」=言葉のやり取りが優れている。・「相坂を越ゆ」=山城の国から、逢坂の関を越えて近江の国に行く。また、男女が契りを結ぶこと。・「あふみ」=「逢ふ身」と「近江」の掛詞。【訳】又、この男が志賀寺に参詣した。逢坂の関の清水の所に、女どもが大勢乗っていた牛車をおろし立たせていた。男が馬から下りて、少しの間立っていたところ、牛車の女が、他人が来てしまうと嫌がって、車に牛を取り付けさせてうてみてかけさせてゆく。男が、その牛車の女に、「どちらへいらっしゃるのか」と質問した。「志賀寺へ参詣なさいます」と答えたところ、男が、車よりすこし遅れがちについてゆく。逢坂の関を越えて、湖畔にくだってゆくうちに、牛車からこんな事を和歌に作ってよこしたその歌、「逢ふ坂」という名はあてになりませんね。関の清水のように勢いよく流れる、浮気っぽいと評判に聞くあなたを見て。 男は、いきなりそんなことを言われて、不躾だと思って、そうはいうものの、やはり和歌の技巧がすぐれていると感じたので、 「逢坂」の「逢ふ」という名をあてにして私もここへ通ってこよう。逢坂の関を越えると近江だからあなたに逢ふ身になれると信じて。と和歌に作って言ってやった。【本文】女、「まめやかにはいづち行くぞ」ととはせける。男、「志賀へなん詣づ」「さらば諸共に。我もさなん」といひて行く。うれしき事なりとて、かの寺に男の局、女のもおなじ心に住して、物語などかたみにおなじやうに思ひなして、言ひぞ語らひける。男の詣でたりける所より方塞がりけり。されば明日までもえあるまじければ、方違ふべき所へいにけり。「いのち惜しき事もただ行くさきのためなり」などいひて、されば女どもも、「なほあるよりは、いかがせん、京にてだにもとぶらへよ」といひて、百敷わたりに宮仕へしける物どもなれば、曹司をも教へ、人々の名をもいひけり。男、うちつけながら、いとたつ事をもがりければ、かかる事をぞいひたりける。 立ちて行く ゆくへもしらぬ(平瀬本「ゆくへもしらず」) かくのみぞ 旅の空には とふべかりけるかくいひければ、 かくのみし ゆくへまどはば 我玉は たぐへやらまし 旅の空にはとぞ有ける。又かへさむとしけるに、この男の許より、ものども、「方塞がれるに、夜明けぬべし」なんどいひければ、え立ちどまらで、この男は人のもとにいにけり。【注】「まめやかには」=実際には。「諸共に」=いっしょに。「我もさなん」=私も、ものもうでに行こう。「局」=広間を屏風などで仕切った部屋。「かたみに」=互いに。「言ひ語らふ」=うちとけて語り合う。「方塞がり」=陰陽道で、行こうとする方角に天一神(ナカガミ)がいて、行くことができないこと。「方違へ」=陰陽道で、外出のときに天一神・太白神(ヒトヒメグリ)などのいる凶とされる方角を避けること。前夜、吉方(エホウ)の家などに一泊し、一度、方角を変えてから目的地へ行く。客を迎えた家では、もてなしをするのが通例。いのち惜しき事もただ行くさきのためなり」などいひて、されば女どもも、「なほあるよりは、いかがせん、京にてだにもとぶらへよ」といひて、「百敷」=宮廷。皇居。「宮仕へ」=宮中に仕えること。「曹司」=宮中や貴族の邸内に設けられた官人・女官などの個人用の部屋。「うちつけながら」=偶然の出会いだったけれども。「もがる」=いやがる。【訳】女が、「実際には、どちらへ行くのですか」と召使に質問させた。男は、「志賀寺へもの詣でに参ります」と答えたので、女は「それではご一緒に。私も志賀寺へもの詣でにまいります」と言って一緒に滋賀へ行く。うれしい事だと思って、目的の寺で、男の部屋、女の部屋も、心を合わせて屏風で仕切って用意し、世間話などして意気投合して、お互いにうちとけて話し合った。男が参拝していた所から次の目的地が方塞がりの方角にあたってしまった。そういうわけで、明日までここにいるわけにいかなかったので、方違えできる知人の所へ行ってしまった。男は「いのちが惜しくて方違えすることも、ひとえに将来あなたと楽しく過ごすためだ」などと言って立ち去る、そういうわけで、女どもも、「やはり、こうしてここにずっといるよりは、方違えすべきです。しかたがありません、せめて京でだけでも再びお尋ねください」と言って、皇居あたりにお仕えしていた連中なので、割り当てられた個室をも男に教え、人々の名をも告げた。男も、偶然の出会いだったけれども、方違えに出発することを非常にしぶったので、次のような内容の歌を女にいった。ここを出発して行くその先の将来のことはわかりませんので、こんなふうに旅の途中ではお互い訪問するべきだなあ。こんなふうに言ったところ、女が、こんなふうに、あなたが旅の途中でお迷いになるのなら、私の霊魂は、道中のあなたに添わせて一緒に行かせたいものです。と言ってよこした。又、男が返歌をしようとしたが、この男の所から、召使どもが、「方塞がりになっているのに、夜が明けてしまいそうだ」などと言ったので、立ちどまることもできずに、この男は知人の所に行ってしまった。【本文】さて朝に、車にあはむとて、はしに網引かせなどしければ、あひしれる人、瀬田の方に逍遥せんとてよびければ、そちぞ此男はいにける。その程にこの女内裏へぞまゐりにけるに、さて友達どもに、志賀にてをかしかりつる事なぞどいひいひける。それを、この男の、物などいひけるがいひやみにけるぞ、そが中にをりける。さてききてぞ、「たれとかいひつる、その男をば」といひければ、此又ある女のいひける、「いでかれはさこそあれ」といひて、「世になくあさましき事をつくりいでて」といひちらしければ、「いで、案内しらで過ぎぬべかりける。さらば、いとうき事にこそ有りけれ。もし人来ともゆめ文などとりいるな」とこの女にをしへてけり。それをば知らで、この男、かの瀬田のかたにて逍遥して帰りきて、かの内裏わたりに教へける程に、ありつるやうなど、この男いひやりたりけり。【注】「さて」=そして。「瀬田」=今の滋賀県大津市瀬田。琵琶湖南端の瀬田川への流出口に位置する。古くからの交通の要地。「逍遥」=行楽。遊覧。気の向くままにあちこち歩き回ること。「をかし」=風変りだ。「物いふ」=親しく言葉を交わす。男女が情を通わせる。「いで」=いやもう。「世になし」=世にまたとない。「あさまし」=おどろきあきれる。「案内」=事情。「うし」=つらい。「ゆめ~な」=決して~するな。【訳】そして、翌朝に、志賀寺から牛車で出てくる女に逢おうと思って、湖のへりで漁師に網を引かせなどして時間をつぶしていたところ、知り合いが、瀬田の方に遊山に行こうと呼んだので、そちらに此の男は行ってしまった。そうしているうちに、この女は宮中へ参上し、そして友達どもに、志賀であった風変りな出来事なぞをあれこれ話した。ところが、この男の、かつて言い寄ったりしていた女で、交際が途絶えていた女が、その中にいた。そうして、女友達の報告を聞いて、「誰といったっけ、その男は」といったので、此のもう一人の女が、「いやもう、あの人は、そういういい加減なことを言うのよ」と言って、「とんでもない、おどろきあきれるような口から出まかせを言ったりして」と、散々言ったので、「本当に、どんな男だかもわからずじまいで過ぎてしまうところだった。そんな男と付き合ったらつらい目に遭うところだった。たとえあの男がやってきても、手紙など受け取るな」と、この女に教えてしまった。そのことを知らずに、この男が、例の瀬田の方面で遊山して帰ってきて、例の内裏あたりと女が教えたところに、その後の消息などを、この男が召使に報告させた。【本文】されば、「まだ里になん、志賀へとて詣で給ひしままに参り給はず」といひて、専ら文も取り入れずなりにけり。使ひ、さ言ひて帰りきたれば、この男あやしがりて、ゆゑをし聞き得ねば、しきりにに三日やりけれど、遂にその文とらずなりにければ、かの志賀に出で詣でたりし中に、友達たりけるが、物のゆゑ知りたりけるをぞ呼びにやりて、物のあるやうありし次第など諸共にみける人なりければ、「げにあやしく人々やいひたらん」などぞいひける。男、庭の前栽を見て、かかるくちずさみをぞしける。 たすくべき 草木ならねど 哀れとぞ 物思ふ時の目にはみえけるとぞいひける。 【注】「里」=実家。「専ら~ず」=まったく~ない。「ありし次第」=今までのいきさつ。「諸共に」=いっしょに。「げに」=本当に。「あやしく」=不可解にも。「前栽」=庭先の植え込み。「くちずさみ」=心に浮かんだ詩歌を小声で口に出す。【訳】そうしたところ、女の同室の者が、「まだ実家のほうにいるのでしょう。志賀へともの詣でにお出かけになったまままだお帰りになっていません」と言って、全然手紙も受け取らずじまいになってしまった。使者として行った召使が、そんなことを言って戻ってきたので、男が不思議に思って、理由を聞き出すことができなかったので、ひんぱんに二三日使者に手紙を持たせてやったけれども、とうとうその手紙をうけとらずじまいだったので、例の志賀に参詣した連中のうち、友人だった男で、もののわかった人物を呼びにやって、その人は当時の女との出会いや男との関係など今までのいきさつを一緒に見て事情に通じていた人だったので、「本当に、不可解にもそんなふうに人々が言っているのだろうか」などと言った。男は、庭の植え込みを見て、こんな歌を小声でくちずさんだ。私への誤解から救ってくれる草木ではないけれども、気持ちが沈んでいる時の目にはしみじみ見ていやされるなあ、と口ずさんだ。【本文】かかれば、この友達の男、「げにことわりなりや」といらへをりけるほどに、日暮れて月いとおもしろかりけるに、この男、「いざ西の京に、時とものいふ所に、物かたらはせん」といひければ、「よるなら」といひてこのありける男二人、二条の大路より西の京さして往にけり。かの志賀の事のみ恋しくおぼえければ、かの女の初めによみたりける歌を、ふりあげつつ恋歌にうたひけり。さいだちて車來けり。やうやう近く、すざかの間に来て、この車にゆきつき、なほうたひければ、「たれぞ、この歌を盗みて歌ふは」とぞいひおこせたりける。されば、男いとあやしきやうに覚えて、「かくとめてよぶ給ふ人やおはしますとてなん、道の大路に乗りてうたふ」などいひやりたりければ、「いな、いとなれたりける人ありければ、憂き事もこれなりや。しばし」と言ひおこせたり。【注】「かかれば」=こういうわけで。「げに」=なるほど。「ことわりなり」=もっともだ。「いらふ」=返事をする。「おもしろし」=美しい。「いざ」=どれ。さあ。「西の京」=平安京のうち、朱雀大路から西の地域。「ものいふ」=意中を打ち明ける。「かたらふ」=説得して同意させる。「ありける」=例の。さっきの。「二条の大路」=京の東西の大通りで、北から二番目のもの。「さす」=目的地を目指す。目的の方向へ向かう。「志賀の事」=一緒に志賀寺に参詣したときの出来事。「すざか」=朱雀大路。平安京の中央を南北に通じる大路。大内裏の朱雀門から九条の羅城門までで、幅は二十八丈(約八十余メートル)あったという。これを境に東を左京、西を右京と称した。「なほ」=依然として。それでもやはり。「いひおこす」=言ってくる。「あやし」=不思議だ。「おはします」=いらっしゃる。「大路」=大通り。「なる」=親しくなる。【訳】こういうわけで、この友達の男が、「なるほどもっともなことだなあ」と返事をしているうちに、日が暮れて月がとても美しかったので、この男が、「どれ、西の京の、時として私が意中を打ち明ける気心の知れた女に、口ききをさせてあげよう」と言ったところ、「夜なら都合がつきます」と言ってきたので、この先ほどの男二人は、二条の大路を通って西の京を目指して行った。男は例の志賀寺での出来事ばかり恋しく思われたので、例の女が最初に作ってよこした歌を、声を張り上げながら恋歌として歌った。前方から牛車がやってきた。しだいに近づいて、朱雀大路のなかに進んで、この車と接近した、依然として歌っていたところ、「どなた、私の作った歌を盗んで歌っているのは」と言ってよこした。それで、男が非常に不思議な偶然もあるものだと思って、「こんなふうにあなたのように声をかけて車をお呼び止めになる人がいらっしゃるかと思って、道の大路に馬に乗りながら歌っていました」などと言ってやったところ、「いいえ、もうたくさん。あなたと非常に親しかった知人がいたので、いりいろ聞いています。つらい事もこうしてありましたし。しばらくはお付き合いしたくありません」と言ってよこした。【本文】そのかみ男思ひけるに、世に憂き心ちして、「もし然か」と問ひければ、「さぞかし」と女こたへけり。「さらばかた時車とどめん」といひおこせたりければ、「耳とくに聞かむ」とて、車をとどめたれば、男馬よりおりて車の許によりて、「いづちおはしますぞ」「里へなんまかる」と答ふ。男、文とらせぬ事よりはじめていみじう恨みけり。深く憂きやうにいひければ、をさをさ答へもせで、いとつれなくこたへつついひ、「ただひたおもむきにあるべきかな。万の憂き事人いふとも、かうやは」と思ひて、車のもとを立ちしりぞきたり。この車かけいでんとしければ、男思ひけるやう、わきてもあやなし。なほ言ひとどめて、物のあるやうもいひ、誰、かう憂き事は聞こえしなどもいはんと思ひて、この供なる男して、「いと身も心憂く、御心もうらめしかりつれば、身投げてんとてまかりつるに、ただ一こときこゆべき事なん侍る。さてもこの身、異かはへすみ見でなん、帰りまうできぬる」とて、 身のうさを いとひすてにと 出でつれど 涙の川は 渡るともなしといひければ、【注】そのかみ=そのとき。「かた時」=ほんのしばらくの間。「耳とし」=よく聞こえる状態。馬のひづめの音や車輪の音でよく聞こえない状態を避けようとしたのであろう。「許(もと)」=かたわら。そば。「まかる」=行く。「をさをさ~で」=あまり~しないで。「つれなし」=冷淡だ。「ひたおもむきなり」=いちずだ。「かく」=牛を牛車につなぐ。「わきて」=特に。「あやなし」=道理に合わない。「言ひとどむ」=言ってとめる。「異」=ほかの。別の。「いとふ」=いやだと思う。「涙の川」=多く流れる涙を川にたとえた語。【訳】そのとき男が胸中に思ったとことには、このうえなくつらい気がして、「ひょっとすると私が不誠実だとでも聞いたのか」と質問したところ、「その通りですわ」と女が答えた。「それでは、ちょっと車をとめてください」といってよこしたので、「よく聞きましょう」といって、車をとめたので、男が馬からおりて車のそばによって、「どちらへいらっしゃるのか」と聞いたら、女が「実家へ参ります」と答えた。男が、手紙を受け取らない事からはじめて、ひどく恨みごとを述べた。深く傷ついたように言ったところ、女はろくに返答もしないで、とても冷淡に答えながら、男のほうは、「まったく、いちずに、向こうの言い分ばかり信じるのだなあ。さまざまな悪口を他人が言っても、こんなふうに一方的に鵜呑みにするものだろうか」と思って、車のそばを立ちのいた。この女の車が牛をかけて再出発しようとしたので、男が思ったことには、とんでもない誤解だ。さらに話かけて車を引き留めて、こちらの詳しい事情も知らせ、いったい誰が、こんなひどい事をあなたのお耳にいれたのかなどと、言おうと思って、この同行していた男に、「非常に自分としてもつらく、私のいうことを信じてくださらないあなたの御心うらめしかったので、身投げしてしまおうと思って参りましたが、ただ一言申し上げる事がございます。それにしても、この身を、別の川に入ってみずに、帰って参りましたことが後悔されます」といって、 わが身のつらさを嫌い、身を捨てにと家を出たけれども、あなたに誤解されたことでとめどなく流れる涙の川は渡ることもできないのでした。と歌を詠んだところ、【本文】女、 まことにて 渡る瀬ならば 涙川 流れて早き 身とをたのまむといひおこせて、「よしなほ立ち寄れ、物一言いひてなむ」といひければ、男、車のもとに立よりて物などいひつるほどに、やうやう暁にもなれば、女、「今はいなん。ゆめ此たびにたたり、人にかくな。すべて忘れじ。現となおもひそ」といひてかへるに、かくいへりける。 秋のよの 夢ははかなく ありといへば 春にかへりて まさしからなんなどいひけるほどに、夜明うなりければ、女、「今ははやう往ね」と切にいへど、夢にも立ちしりぞかず、女の入らん家を見むとて、男いかざりければ、女、家を見せじと切に思ひて、男かかる事をぞいひける。 ことならば あかしはててよ 衣手に ふれる涙の 色も見すべくかく返しける、女、 衣手に ふらん涙の色見んと あかさば我も あらはれぬかなといひけるほどに、いと明うなれば、童一人をとどめて、「車の入らん所みてこ」とて男は帰りにけり。童、車のいる家は見てけり。さていかがなりにけん。【注】「渡る瀬ならば」=「渡る瀬なくば」の誤写とされる。「いぬ」=立ち去る。「ゆめ此たびにたたり」=この部分、誤脱あるとされる。「人にかくな」=「人にかくなのたまひそ」などの略。「すべて忘れじ」=あるいは「すべて忘れし」(「し」を過去の助動詞「き」の連体止めにとって)、「わたしはあなたについて知人から聞かされた悪いうわさを全部わすれました」の意とするべきか。「現」=現実。「な~そ」=~しないでほしい。「まさし」=ほんとう。「切なり」=強い。さしせまっているようす。「夢にも~ず」=ちっとも~ない。「ことならば」=同じことならば。それならいっそ。「涙の色」=血のまじった涙の色。非常につらく悲しい時に流す涙には血がまじると考えられていた。「あらはる」=姿が見える。人に知られる。「童」=召使の少年。「いかが」=どのように。【訳】女が、 本当に渡れる浅瀬がないほど涙をお流しになったのならば、あなたの誠意をあてにしましょう。と詠んで寄越して、「わかりました。ではもう一度おそばに立ち寄りなさい。言いたいことがあるなら一言どうぞ」といったので、男が、女の車のそばに立ち寄って話しかけるうちに、しだいに明け方近くなったので、女が、「今はもう私は帰ります。決して此たび私と出会って言葉を交わしたことは、他人にお話になりませんように。わたしは全部忘れません。あなたは今日のことは現実だとはお思いにならないでほしい。」といって帰るときに、男はこんなふうに歌を詠んだ。 秋の夜の夢ははかないと世間では言うので季節が春にもどったらあなたの言葉が現実になってほしいものだ。などと歌を詠むうちに、夜が明るくなったので、女が、「今はとりあえず早く立ち去ってください」と懸命にいったが、決して男は立ち去らずに、女が入っていく家を見てやろうと思って、男がどこへも行かなかったので、女は、家を見せまいと真剣に思っていると、男がこんな事を歌に詠んでいってきた。 同じことならば一緒に夜をあかしてしまってほしい。わたしの着衣の袖に降っている涙の色も見せたいから。こんなふうに男は返歌をした、それに対し再び女が、 着物の袖に降ったというあなたの涙の色を見ようとして夜を一緒にあかしたら、私の姿も人に見られてしまいますわ。と歌を詠み合ううちに、とても明るくなってきたので、召使の少年一人をあとに残して、「車が入る屋敷を見届けて帰ってこい」といって男は帰ってしまった。召使の少年は、車が入る家は見て確認した。そうして、その後この男女はどうなったのだろうか。【本文】又、女、男、いと忍びて知れる人あり。人目しげき所なれば、からうして又も明けぬさきにぞ帰りける。いとまだ夜深く暗かりければ、かかぐりいでんとおもへども、入るかたもなく、出るにも難ければ、門の前に渡したる橋の上にたてり。供なる人して言ひ入れける、 夜には出て 渡りぞわぶる 涙川 淵と流れて 深くみゆれば女も寝で起きたりければ、 さ夜中に をくれてわぶる 涙こそ 君があたりの 淵となるらめとぞ有りける。大路に人歩きければ、え立てらで出て往にけり。【注】「忍びて知れる人」=こっそりと知り合って交際している人。「人目しげき所なれば」=人目が多い場所なので。『伊勢物語』六十九段「されど、人目しげければ、えあはず」。「からうして」=ようやく。やっとのことで。『日仏辞書』に「Carǒchite」とあり第四音節は清音。「明けぬさきにぞ帰りける」=平安時代の結婚生活においては、まだ暗い「暁」が、女の家に通ってきた男が、女と別れて帰らなければならない時とされていた。「夜深く」=夜明けまでずいぶんまがある時刻。「かかぐりいでん」=手探りして出よう。「供なる人」=召使。「渡りわぶ」=わたりかねる。「涙川」=物思いするときに涙があふれ流れるようすを川にたとえた語。「さ夜中」=夜中。真夜中。「さ」は、接頭語。「をくれてわぶる涙」=男が去ってあとに取り残されてつらい思いをして流す涙。「とぞ有りける」=~と短歌に作ってあった。「大路」=大通り。平安京で南北に通じるものをさす場合が多い。「え立てらで」=ずっと立っているわけにもいかずに。「ら」は、存続の助動詞「り」の未然形。「で」は、打消しの接続助詞。【訳】また、女と男で、とても人目を気にしてこっそり交際している人がいた。人通りが多い場所なので、やっと人目がとぎれたタイミングを見計らって、またもや、夜が明けぬ先に帰っていった。まだ夜明けまでずいぶん時間がある時分で暗かったので、手探りで女の屋敷を出て行こうとおもったけれども、暗すぎてもとの女の屋敷に入る手立てもなく、屋敷を出るにも困難だったので、門の前に架け渡してある橋の上にたっていた。それから供に連れていた召使に、女の部屋に言い入れさせた歌、 夜暗い時に出て渡りかねています。あなたとの別れがつらくて流した涙の川が淵となって流れて深くみえるので。女も寝ずに起きていたので、すぐに返しの歌を作って寄越した 真夜中にあなたが去ってあとに残されてつらい思いをしている私が流す涙が、あなたがいまいるあたりの深い淵となっているのでしょう。つらいのは私の方なのです。と歌に作ってあった。大通りに人が多く歩きだしたので、ぐずぐずしては目立ってしまうのでその場に立っているわけにもいかずに、橋を渡り切って女の住む屋敷から出て去って行ってしまった。【本文】又、この同じ男、はかなき物のたよりにて、雲ゐよりもなほ張るかにてみる人ぞありける。さは、はるかに見けれど、物いはすべきたより・よすがありければ、いかで物いひよらむとおもへば、はじめて言ひ渡る程に、ほど経にければ、「いかで、人づてならず、かかる水茎の跡ならでもきこえてしがな」と、男せめて言ひわたりけれど、「いかがはすべき。げによそにてもいはん事をや聞かまし」と思ひける程に、女の親、さがなき朽女、さすがにいとよう物の気色みて、いとことがましき物なりければ、かかる文通はしける気色ありと見て、はては文をだにえ通はさず、責めまもりつついひければ、この男「せめてあはむ」といひけるにわびて、この女思ひける友達に、「我なんかかる思ひをする。われはせきある人なり。さなんあるとだにきかで、せむれば、いとかたし。ただかういふ人をしる人にてやみねといふ事ばかりを、いかでたばからむとてなん」とぞいひける。【注】「はかなき物のたよりにて」=ちょっとしたことがきっかけで。「雲ゐよりもなほ遥かにてみる人」=身分がひどくかけはなれて高貴な女性。高嶺の花。「さは、はるかに見けれど」=そんなふうに、遠くから指をくわえて見ていたが。「物いはすべきたより・よすがありければ」=お声をかけてくださりそうな機会があったので。「す」は、尊敬の助動詞。「いかで物いひよらむ」=どうにかして恋を打ち明けて近づこう。「言ひ渡る程に」=熱い思いを手紙でアピールしつづけるうちに。「ほど経にければ」=月日が経過したので。「人づてならず」=間に仲介者をはさまず。『小倉百人一首』藤原道雅「今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな」。「水茎の跡」=手紙。「きこえてしがな」=自分の口から申し上げたいなあ。「てしが」は、自分の願望をあらわす終助詞。「な」は、詠嘆の終助詞。「せめて」=しつこく。強引に。「言ひわたる」=言いつづける。「いかがはすべき」=どうしたらよかろう。「げに」=ほんとうに。「よそにてもいはん事をや聞かまし」=直接顔を見なくても男の言う話を聞いてみようかしら。「女の親」=この女の母親。「さがなき朽女」=性格の悪い、くされ女。「さすがに」=はじめは気づかなかったのであろうが、やはり。「いとよう物の気色みて」=じゅうぶんに女のようすを察して。「いとことがましき物なりければ」=とても口うるさい連中だったので。「かかる文」=恋文。「はては」=挙句の果てには。「文をだにえ通はさず」=じかに逢うどころか手紙のやりとりさえできないようにさせ。「責めまもりつついひければ」=どこのどういう男と付き合っているのか質問責めにして、付き合えないように見張って、身分違いの男と付き合わないように言い聞かせたので。「せめてあはむ」=ぜひ直接逢おう。「わびて」=困って。「思ひける友達」=親友。「せきある」=見張りがいて自由がきかない。「いとかたし」=とても苦しんでいる。「かういふ人をしる人にてやみね」=こんなに身分の高い知りあいがいるという事だけで満足し、それ以上の仲になるのを求めるのは諦めなさい。「いかでたばからむとてなん」=どうやって説得して諦めさせようかと思ってあなたに相談するのです。【訳】また、この同じ男が、ちょっとしたことがきっかけで、雲の浮かぶ空よりももっと遥か遠くから心ひかれて見る身分がひどくかけはなれて高貴な女がいた。そんなふうに、遠くから指をくわえて見ていたが、お声をかけてくださりそうな機会があったので、どうにかして恋を打ち明けて近づこうとおもって、熱い思いを手紙でアピールしつづけるうちに、月日が経過したので、「なんとかして、あいだに人を介さずに、こんな手紙ではなく、じかに話がしたいものだなあ」と、男が、しつこく言いつづけたので、「どうすればいいのかしら。ほんとうに、わたしも、直接顔を合わせるのではなくても、お話を聞こうかしら」と思っていたところ、女の親で、性格の悪い腐れ女が、最初のうちは気づかなかったが、やはり、十分に女のようすを察して、とても口うるさい連中だったので、女が男と恋文をやりとりしているらしい気配を察して、挙句の果てには手紙さえやりとりできなくさせ、どこのどういう男と付き合っているのか質問責めにして、付き合えないように見張って、身分違いの男と付き合わないように言い聞かせたので、女はこの男が「ぜひ逢おう」といってきたことに困って、この女が信頼している友達に、「わたしはこんなつらい思いをしています。私は厳重に見張られている自由のない身です。そんな状況にいるのだということさえ聞く耳もたず、なぜじかに逢えないのだと男が責めるので、とても苦しい。ただ自分にはこんなに身分の高い知りあいがいるという事だけで満足し、それ以上の仲になるのを求めるのは諦めなさい。という事だけを、どうやって諦めるように言いくるめようかと思ってあなたに相談するのです」と言った。【本文】されば、この友達、「などかいとうらめしく、今まで我にはいはざりける。人気色とらぬさきに、ようたばかりてまし」などいひて、「月のおもしろきを見んとて端のかたにいでて、我ことをもそれに紛れて簀子のほどに呼び寄せて、物いへ」などたばかりて、かの男のもとに、「いと忍びてこの簀子のもとに立ちよれ。おぼろけになおもひそ」などいへりければ、男何時しか待ち暮らして立ちよりにけり。かの友達、「わがごとくに」などいへりければ、それがうれしき事など、女も男もをかしきやうに思ひていひ語らひけるに、かの母の朽女、さがなき物宵まどひしてねにけるこそあれ、夜ふくるすなはち目をさまして起き上りて、「あなさがな、なぞかく今まで寝られぬ。もしあるやうある」といひて起き走りいで來ければ、男ふと簀子のしたになめりいりにけり。のぞきてみる。人もなければ、「おいや」などいひてぞ奥へ入りにける。【注】「されば」=そこで。「などか」=どうして。「人気色とらぬさきに」=ほかの人が察しないうちに。「ようたばかりてまし」=きっとうまくやってあげたのに。「て」は、強意の助動詞「つ」の未然形。「まし」は、反実仮想の助動詞。ここは、この前に「さ聞きたらば」(そんなふうに事情を聞いていたら)のような表現が省略されているのであろう。「月のおもしろき」=美しい月。「の」は同格の格助詞。「端のかた」=部屋のはしっこ。いわゆる端近の状態。「いと忍びて」=人に覚られぬように用心して。「おぼろけになおもひそ」=並々のことだとお考えなさいますな。「何時しか」=早く日が暮れないかと待ちかねて。「待ち暮らして立ちよりにけり」=待って、その日の夕暮を迎えて女の家に立ち寄った。「わがごとくに」=わたしの言うとおりにやりなさい。「かの母の朽女、さがなき物」=女の母親にあたる性格の悪い腐れ女で、口やかましい女。「宵まどひ」=夜の早いうちから眠くなること。「すなはち」=~したとたんに。~するとすぐに。「もしあるやうある」=ひょっとすると何か不吉なことがあるのかしら。「なめりいりにけり」=身をすべらせるようにしてもぐりこんでしまった。「おいや」=「をいや」。ああ。まあ。【訳】そこで、この友達は、「どうして今まで私に言わなかったの。とてもみずくさいわね。事情を知ってたら、ほかの人にけどられないうちに、うまく処理してあげたのに」などといって、「美しい月を見ようといって、部屋の端のほうにいて、自分のこともそれに紛れて簀子のところに呼び寄せて、話しなさい」などと計略を立てて、例の男のところに、「じゅうぶんに人目を避けて、うちの屋敷の簀子のところに立ちよりなさい。こうやって機会を作ってあげるのは並大抵の努力とはお考えになるな」などといったので、男は「早く日が暮れないかなあ」と待って夕暮れを迎えて、やっと女の住む屋敷に立ち寄った。例の友達が、「私が言ったとおりに(演じるのですよ)」などと言っておいたので、女はこうして逢えたことのうれしい事など、女も男も相手を風流な人だなあと思って、打ち解けて語り合っていたところ、例の女の母で性格の悪いくされ女で、口のわるい女が、夜の早いうちから眠くなって寝たのならともかく、夜が更けたかとおもうとただちに目をさまして起き上がって、「まあ、なんてこと。どうしてこんなに遅くまで寝られないのかしら。ひょっとすると、何か不吉なことがあるのかしら」と言って起き上がって走って現れたので、男はサッと簀子の下に滑り込んで身を隠してしまった。母親が女の部屋をのぞいてみた。誰もいないので、「ああ、気のせいかしら」などと言って奥へひっこんでしまった。【本文】そのままに男出きてぞ物いひける。「よし、これを見よ。かかればなんいふ。誰も命あらば」などいひ契るほどに、又この朽女、「あやしうも入り来ぬかな」といひければ、なほこの女、「又いきなん。今は帰りね」といへば、男くちをしう思ひて、 玉さかに 君と調ぶる 琴の音に あひてもあはぬ 恋をする哉 此事ばかりいとをかしきやうにおもひて、「早うかへりしといへや」などたゆたふほどに、朽女は密かに覗きて見をれば、「どこなりし盗人のかたゐぞ、さればよるやうありと言へるぞかし」とて縛りければ、沓をはきもあへず男は逃げにけり。女も息もせでうつぶしにけり。それよりこの女さらに事のつてをだにえすまじう、物いはせけるたよりもたえて、よせずなりにければ、いふかひなくて、(中絶)【注】「いひ契る」=口に出して夫婦の約束をする。「あやしうも入り来ぬかな」=不思議なことに娘を訪ねてこないなあ。「今は帰りね」=もうお帰りなさい。「くちをしう」=残念に。「くちをしく」のウ音便。「玉さかに」=めったに会えないものに会う。「君と調ぶる琴の音」=「琴瑟相和す」という言葉をふまえるか。「たゆたふ」=ためらう。「密かに」=こっそり。「どこなりし盗人のかたゐぞ」=どこに隠れていたぬすっと野郎め。「さればよるやうありと言へるぞかし」=だから夜中になんか変だといったのだ。「沓をはきもあへず」=靴をはく余裕もなく。「さらに事のつてをだにえすまじう」=まったく、伝言さえできなくなり。「よせずなりにければ」=近寄せなくなってしまったので。「いふかひなくて」=しかたがなくて。【訳】そのまますぐ男が簀子のしたから現れて女と話をした。「まあ、この縁の下のクモの巣や土で汚れた格好をみてごらんなさい。こんなふうだから、言うのでしょう。誰でも身分違いの恋は命があったらもうけものだと。」などと言って、口に出して夫婦の約束をするところに、ふたたび、この母親のくされ女が、「変ねえ。誰も入って来ないなあ」と言いながらやってきたので、やはりこの女が、「また母がきちゃうわ。もう今は帰ってください」というので、男は残念に思って、作った歌、 めったに会えないあなたに会って、あなたと一緒に演奏する琴の音に、思わぬ邪魔がはいって、あってもあった気がしないような、心満たされない恋をするものだなあ。 このことだけを、とても風流な出来事だとおもって、「もうとっくに帰ってしまったと母親には言いなさい」などと指示してぐずぐずしているうちに、くされ女は、こっそり覗いて見ていたので、「どこに隠れていた盗びと野郎め、だから夜中に不吉な感じがすると言ったのだ」と言って女を縛りあげたので、クツをはく余裕もなく男は逃げてしまった。女も息もしないでつっぷしてしまった。それから、この女は、まったく、伝言さえできなくなり、手紙をやり取りする手立ても失い、男を近寄せなくなってしまったので、男もしかたがなくて、(中絶) をはり
October 10, 2016
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【本文】今は昔、二人して一人の女をよばひけり。【訳】それは昔のことですが、二人で一人の女性に対して言い寄っていたとさ。【注】「~して」=「~で」。動作の共同者を表す。「よばふ」=言い寄る。求婚する。【本文】先立ちてよばひける男、つかさまさりて、其の時の帝近うつかうまつりけり。【訳】先に言い寄っていた男が、官位も勝り、その当時の天皇のおそば近くにお仕えしていたとさ。【注】「つかさ」=官職。また、役目。「つかうまつる」=お仕え申し上げる。御奉公申し上げる。「つかふ」の謙譲語。【本文】後よりよばひける今一人の男は、その同じ帝の母后の御兄末(あなすゑ)にて、つかさおくれたりけり。【訳】あとから言い寄ったもう一人の男は、その同じ天皇のご生母の子孫で、官位は劣っていた。【注】「兄末」=末裔。子孫。「おくる」=劣る。【本文】それを女いかが思ひけん、後よりよばひける男に、かの女はあひにけり。【訳】それなのに、女はどう思ったのだろうか、あとから言い寄った男に、例の女は結婚してしまった。【注】「あふ」=男女が知り合う。結婚する。【本文】さりければ、この初めよりいひける男は、宿世(すくせ)のふかく有りけるとおもひけり。【訳】そういう事情だったので、この最初から女に言い寄っていた男は、女と自分の恋敵の男とは前世からの因縁が深かったのだろうと思ったとさ。【注】「さりければ」=そうであったから。「さありければ」の約。一語の接続詞のように使う。「宿世」=前世からの因縁。「夫婦は二世の契り」という。【本文】かくて、よろづによろしからずたいだいしき事を、物の折ごとに、帝のなめしと思し召しぬべき事を、つくりいでつつ聞こえないける間に、この男は宮仕へいと苦しうして、ただ逍遥をして、歩きを好みければ、衛府の官にて、宮仕へをもせずといふ事出できて、其のありける官をぞとり給ひてける。【訳】こんなふうにして、さまざまに好ましくない不都合な事を、折に触れて、帝が無礼だとお思いになるはずの事を、でっちあげてはお耳にいれたので、この後から女に求婚した男は、宮中に出仕するのがとてもつらくて、ただひたすらぶらぶら散策ばかりして、出歩くのを好んだので、衛府の役人でありながら、役所に出仕しないという事態が生じて、その所有していた官位を剥奪なさってしまった。【注】「かくて」=このようにして。こんなふうで。こうして。「たいだいし」=不都合だ。とんでもない。もってのほかだ。「なめし」=無礼だ。無作法だ。失礼だ。ぶしつけだ。「思し召す」=お思いになる。お考えになる。「思ふ」の尊敬語。「つくりいづ」=作り出す。「聞こえないける」=「聞こえなしける」のイ音便。「なす」は、動詞の連用形について「そのように~する」「意識して~する」「特に~する」「ことさら~する」意。「この男」=話の流れからすると、「後よりよばひける今一人の男」。「宮仕へ」=宮中に仕えること。「逍遥」=気の向くままに出かけてあちらこちら遊びまわること。「歩き」=出歩くこと。「衛府」=宮中の警備を担当する役所。中古初期以降は、左右の近衛府、兵衛府、衛門府の六衛府となった。【本文】さりければ、男、世の中を憂しと思ひてぞこもりゐて思ひける。【訳】そんなふうだったから、男は、この世の中をつらいものだと思って家に閉じこもって悩んでいた。【注】「さりければ」=そうであったから。「さありければ」の約。一語の接続詞のように使う。「憂し」=つらい。心苦しい。いやだ。『万葉集』八九三番・山上憶良「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」。【本文】人の命といふもの、幾世しもあるべき物にもあらず。【訳】人間の寿命というものは、いつまでも存在できるものでもない。【注】「幾世」=何代。【本文】思ふ時は、はかなき官(つかさ)も何にかはあるべき。【訳】心に思い悩むことがある時には、取るに足らぬ官位も何になろうか、いや、何の役にも立たない。【注】「はかなし」=つまらない。大して価値がない。むなしい。なんにもならない。「官」=官職。役目。【本文】かかるうき世にはまじらず、ひたぶるに山深くはなれて、行ひにや就きなんと思ひければ、近くをだにはなたず父母のかなしくする人なりければ、よろづの憂きもつらきも、これにぞ障りける。【訳】このようなつらい俗世間とは付き合わず、いちずに山奥に世間から離れて暮らし、仏道修行に専念しようかと思ったので、そば近くからさえも離さないように父母が大事にしている人だったので、さまざまな心配事もつらいことも、出家の志の支障となった。【注】「かかる」=このような。こんな。「うき世」=無常でつらい現世。つらいことの多いこの世。「ひたぶるに」=いちずに。「行ひ」=仏道修行。勤行。『方丈記』「世をのがれて、山林にまじはるは心を治めて道を行はんとなり」。【本文】時しも秋にしも有りければ、物のいと哀れにおぼえて、夕ぐれにかかる独り言をぞいひたりける。うき世には 門させりとも 見えなくに など我が宿の いでかてにするといひて、ひがみをりける間に、なまいどみて時々物などいひける人のもとより、蔦の紅葉の面白きを折りて、やがて其の葉に、「これをなにとかみる」とてかきをこせける。【訳】ちょうどそのとき、季節は秋だったので、なにかととてもさびしく感じられて、夕ぐれにこのような独り言を言った、その歌。この俗世間には門を閉ざしてあるというふうにも見えないのに、どうしてなかなか我が家を出られないのか。と歌を作って、鬱屈しているうちに、中途半端に恋をしかけて時々情を通わせていた相手のところから、蔦の紅葉で美しいものを折り添えて、すぐにその葉に、「これを何だとおもいますか」と書いて寄越した。【注】「さす」=閉ざす。「いでかてに」=出られないで。出られずに。「ひがむ」=心がねじける。ゆがむ。かたよる。「なま」=用言の上について「なんとなく~」「すこし~」「どことなく~」「いくらか~」「なまじ~」などの意を表す。「いどむ」=恋をしかける。「物いふ」=恋愛関係にある。男女が情を通わせる。【本文】うきたつた の山の露の 紅葉ばは ものおもふ秋の 袖にぞありけると言ひやりけれど、返しもせず成りにければ、かくとしもなし。【訳】つらい噂ばかりがたつ竜田川のもみじ葉は、悩みの多い私が流す血の涙に染まる私の袖の色そのものなのだなあと言い送ったけれども、返歌もせずじまいになってしまったので、このような意図で送ってきたともわからない。【注】「うきたつたの山の露の紅葉ばはものおもふ秋の 袖にぞありける」=このままでは歌意通じがたい。『平中物語』には「うきなのみたつたのかはのもみぢばはものおもふ秋の袖にぞありける」とある。それならば、つらい噂ばかりがたつ竜田川のもみじ葉は、悩みの多い私が流す血の涙に染まる私の袖の色そのものなのだなあ、の意。 「うきたつ」=そわそわする。うきうきする。「ものおもふ」=いろいろと思い悩む。物思いにふける。思い憂える。「返し」=返歌。返事として作る歌。「和歌(主として短歌)の贈答は上代(~奈良時代)から行われ、特に、中古(平安時代)の貴族社会では、男女の求愛を中心とする社交の手段として非常に盛んだった。歌を詠み掛けられれば、即座に歌で答え、歌で手紙がくれば、歌で返事をしなければならなかった」(佐藤定義遍『詳解古語辞典』明治書院)。【本文】かかる事どもを聞きあはれがりて、此の男の友だちども、集まりてきて慰めければ、酒飲ませなどして、いささか遊びのけぢかきをぞしける。【訳】こんなことを聞いて、気の毒がって、この男の友達が、集まってきて慰めたので、男はお礼に酒を飲ませなどして、ちょっぴり音楽の遊びで身近なものをしたとさ。【注】「いささか」=ちょっとだけ。ほんのすこし。「遊び」=酒宴を開き、歌舞音曲を演ずる。「けぢかし」=親しみやすい。【本文】夜になりければ、この男かかる歌をぞよみたりける。身をうみの おもひなきさは こよひ哉 うらにたつ波 うち忘れつつとぞよみたりける。【訳】夜になったところ、この男がこんな歌を作ったとさ。わが身がいやになる憂鬱さが無いのは今夜だなあ、心に立つ動揺を忘れて。【注】「身をうみの おもひなきさは こよひ哉 うらにたつ波 うち忘れつつ」の「うみ」に「憂み」、「なきさ」に「無き」と「渚」、「うら」に「心(うら)」「浦」を掛ける掛詞。「海」に対して「なぎさ」「うら」「立つ波」は縁語。【本文】かかりければ、これをあはれがりてぞ、あはれに明かしける。これも返しなし。【訳】こんなふうに慰安会を男が素直に感動したので、友人たちも酒宴を開いた甲斐があったと喜んで、しみじみと楽しんで夜を明かしたとさ。しかし、この男が作った歌を女の元へ届けさせたが、これにも返歌を寄越さなかった。【注】「あはれがる」=感心する。おもしろがる。【本文】さて又の夜の月をかしかりければ、簀の子にゐて、大空をながめてゐたりける程に、夜のふけゆけば、風いと涼しううち吹きつつ、苦しきまでおぼえければ、物のゆゑしる友達のもとに、「これのみぞかねて月みるらん」とて、かかる歌をよみて遣はしける、なげきつつ 空なる月と ながむれば 涙ぞあまの 川とながるる【訳】そうして、次の夜の月が風流だったので、簀の子にすわって、大空を眺めているうちに、夜が更けていき、風が非常に涼しく吹いて、苦痛なほどに感じられたので、情趣を解する友人のところに、「この人たちだけは、先刻から月を見ているだろう」と思って、このような歌を作って贈ったその歌、己の運命を嘆きながら空にある月眺めていると涙が天の川のように滔々とながれることだ。【注】「物のゆゑしる」=風情を解する。情趣を解する。【本文】さりけるほどに、いと深からぬ事なりければ、元の官(つかさ)になりにけり。此の友だちどもは、躬恒・友則がほどなりけり。【訳】そうしているうちに、あまり深刻な事態でもなかったので、元のお役目に復帰したとさ。この友達というのは、凡河内躬恒と紀友則などといった連中だったとさ。【注】「元の官」=六衛府の官人。「躬恒」=平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。宇多法皇・醍醐天皇に仕え、紀貫之らと『古今集』の撰者となり、また、宮廷歌人として活躍した。「友則」=紀友則。平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之のいとこにあたる。みやびやかで感情のこもった作風の和歌で知られる。『古今和歌集の撰者の一人。【本文】同じ男、知れる人のもとに常に通ふに、いとにくさげなる女のあるを、女は大人になれば、こよなくなだらかになるなれど、此の女を憂しと笑ひけれど、見るたびにやうやうよくなりもてゆく。ことのほかに生ひ勝りしてみえければ、ぬま水に 君はあらねど かかる藻の みるまみるまに おひまさりけり【訳】同じ男が、知人のところにふだん通っていたが、非常に醜い女がいたのを、女は成人になると、格段に性格が温和になるということだが、この女はいやだと嘲笑していたが、見るたびにしだいに見栄えよくなってゆく。意外に成長するにつれて立派になるように見えたので、作った歌、あなたは、濁って底が見えない沼の水というわけではないが、生えている藻がみるたびに繁茂するように、会うたびに立派になっていきますね。【注】「にくさげなり」=いかにも醜い。「大人」=成人。「こよなく」=格段に。「なだらかなり」=温和。気持ちが穏やかだ。「~もてゆく」=「しだいに~してゆく」。「おひまさる」=成長するにつれて立派になる。「みるまみるま」=「見る間」と海藻の「海松布(みるめ)」を言い掛けた。【本文】女、このかへし、かかるもの みるまみるまぞ うとまるる 心あさまの 沼におふればとかへしたりける。【訳】女が作った、この歌に対する返歌、このように私のように醜い者は、見る見るうちに、嫌われる、あなたのように人を愛する心の浅い沼のなかに生えたばっかりに。【注】「もの」=「者」と「藻の」の掛詞。「みるまみるまに」=「見る間」の「みる」が海藻の「海松」との掛詞。【本文】此の男に、女のいへりける、いつはりを 糺の森の ゆふだすき かけてを誓へ 我を思はば【訳】この男に、女が詠んだ歌、いつわりを正すという糺の森のゆうだすきのように神にかけて誓いなさい、もしも本当に私を愛しているのなら。【注】「いつはりを糺の森のゆふだすき」=「かけて」を導く序詞。この歌は『新古今和歌集』≪恋≫一二二〇番にも見える。 「糺の森」=京都市左京区にある下鴨神社の森。賀茂川と高野川(たかのがわ)の合流点にある。「ゆふだすき」=「かく」にかかる枕詞。ゆう(木綿)で作ったたすき。白く清らかなもので、神事に奉仕する者が用いる。「かく」=「ゆふだすき」の縁語。神に誓いをかける。心を相手に寄せる。【本文】女の、思ふ男をして、たしかにいだすをみて、あらはなる 事あらがふな 桜花 春はかぎりと 散るを見えつつ【訳】女が、愛する男を、よその女が確かに家から送り出すのを見て作った歌、はっきりとバレていることに対し、いいわけなさいますな。桜の花が今年の春はもう終わりだと散って枝から離れていくる姿を見せているように、あなたの心も私から離れていくのは、わかっているから。【注】「あらはなり」=明白だ。たしかだ。「あらがふ」=反論する。言い訳する。【本文】返し、いろにいでて あだにみゆとも 桜花 風のふかずは 散らじとぞおもふ【訳】それに対する返歌、態度に出て、たとえ誠意がないと思えても、桜花は、もし風が吹かなければ、散らないだろうと思う。それと同じように、あなたの私に対する風当たりが強くなければ、あなたのそばを離れるつもりはありませんよ。【注】「いろにいづ」=態度に現れる。顔色に現れる。「あだなり」=浮ついている。誠意がない。『古今和歌集』≪春・上≫「あだなりと名にこそたてれ桜花」。【本文】西の京六条わたりに、築地所々崩れて草生ひしげりて、さすがに所々蔀あまたささげわたしたる所あり。【訳】蔀戸を西の京の六条あたりに、土塀がところどころ崩れて草が生い茂っていて、そうはいうものの所々蔀戸を掲げ連ねてある所がある。【注】「西の京」=平安京のうち、朱雀大路を境に東西に分けた、その西側の区域。この話は『平中物語』三十六と同じ。「六条」=平安京で東西に通る大路で、北から六番目のもの。「築地」=土をつき固めて土手のように作った塀。のちには、柱を立て、板を中にして泥で塗り固め、屋根を瓦で葺くようになった。「蔀」=寝殿造りで、光線や風雨を防ぐため、格子の片面に板を張った戸。上下二枚のうち、下一枚を固定し、上一枚を上げ下ろしする釣り蔀や半蔀と、室内にも用いる衝立の形の立て蔀とがある。【本文】簾のもとに女どもなどあまた見えければ、此の男なほも過ぎで、供(とも)なる童(わらは)して、「などかく荒れたるぞ」といひければ、「誰がかくは宣(のたま)ふぞ」といひければ、「大路(おほち)ゆく人」といひけるに、崩れより女どもあまた出て、かくいひかけたりける。【訳】すだれのそばに女性たちが多数見えたので、この男は依然として素通りしかねて、子供の召使を使って「どうしてこんなに荒れてしまっているのか」と質問させたところ、「どなたがこんなことをおっしゃるのか」と逆に質問してきたので、「大路を通りかかった者です」と言ったところ、土塀の崩れめから女性たちが多数出てきて、こんなふうに歌を詠み掛けてきた、【注】「あまた」=数多く。「供」=従者。主たる人のあとに付き従う者。「童」=元服前の子供の召使。また、頭髪を童形にした召使。「宣ふ」=「いふ」の尊敬語。おっしゃる。「大路」=大通り。町の中心になる道。【本文】人のあきに 庭さへあれて 道もなく 蓬しげれる 宿とやは見ぬといへりければ、童の口にいひいれて、たがあきに あひて荒れたる 宿ならん われだに庭の 草は生ふさじ【訳】愛する人が私に飽きて私の心がすさんだだけでなく、庭まで荒れて、道も無いほどに、蓬がしげっている家だとお思いになりませんか、きっとそのように見えるでしょう。と歌を作って寄越したので、子供の召使の口を通じて内にいる人に言葉をかけていったい誰の飽きにあって嫌われて荒れている庭なのだろう、私のような無精者でさえ庭の雑草は生えささないようにしているのに。 【注】「あき」=「飽き」(いやになること)と「秋」との掛詞。「蓬」=キク科の多年草。モチグサ。生長した葉はモグサに用いる。荒れ地に生えるところから、荒れ果てた場所の象徴。「宿」=家。すみか。また、庭先。屋敷の中庭。家の敷地。「童」=元服前の子供の召使。【本文】さて、ときどき通ひけれど、いかなる人のすかすならんと、つつましかりければ、人にもそこそことも言はで通ふほどに、みな人物へいにけり。【訳】そうして、ときどきこの屋敷へ通ってきたが、どのような方が自分をだまそうとするのだろうと、きまりが悪かったので、周囲の人にも、どこどこでこういう女性がいたとも言わずに通ううちに、その女性たちはみんなどこかへ行ってしまった。【注】「すかす」=だます。あざむく。「つつまし」=恥ずかしい。きまりが悪い。【本文】ただ独り有りて「もし、人とはば是をたてまつれ」とて、文書きて出しける、 わが宿は ならの都ぞ 男山 こゆばかりには あらばさて訪へと有りければ、此の男いたく口惜しがりて、其の家に置きたるものに、物などくれてとひけれど、ふつといはで、ただ「奈良へ」とぞいひける。尋ねん方なし。【訳】ただ単身ここにいて、「もしも、人が訪ねてきたら、これをお渡しせよ」といって、手紙を書いて出した。その手紙に私の引っ越し先の家は奈良の旧都です。男山を越えるような機会がありましたら、お訪ねください。と書いてあったので、旧宅にやってきた男は女が転居したのをひどく残念がって、その家に残してある使用人に、物などをやって「奈良の旧都のどのあたりか、詳しく教えよ」と質問したが、留守番の者はちっとも口を割らず、ただひたすら「奈良へ参られました」と言った。そういうわけで、それ以上尋ねようにも方法がなかった。【注】「たてまつれ」=お渡しせよ。差し上げよ。「男山」=山城の国綴喜郡八幡町(いまの京都府八幡市)にある標高百四十二メートルの山。山頂には石清水八幡宮(主祭神は応神天皇)がある。「ふつと」=(あとに打消しを伴って)全然。少しも。さっぱり。絶えて。【本文】さる程に思ひ忘れにけるに、此の男の親、初瀬に参りける供に有りて、「まこと、さる事ありきかし。ここやそならん、かしこやそならん」など思ふほどに、供なる男どもなどに語らひなどしけり。【訳】そうするうちに、忘れてしまったが、この男の親が、長谷寺に参拝するおともをして、「ああ、そういえばあんなことがあったなあ。ここがあの女の家だろうか。あそこが女の家だろうか。」などと思ううちに、おともをしている男たちに過去の思い出を話しなどした。【注】「さる程に」=そのうちに。「まこと」=ああ、そうそう。忘れていたことを思い出した時に用いる感動詞。「さることありきかし」=そういうことがあったよ。「き」は、過去の助動詞。「かし」は、終助詞。「初瀬」=奈良県桜井市初瀬の長谷寺。真言宗で天武天皇の御代の創建とも、聖武天皇の創建ともいわれる。平安時代、貴族でも特に女性の信仰が厚かった。本尊は観世音菩薩。「かしこ」=あそこ。【本文】さて、かの初瀬に詣でて、三条より帰りけるに、飛鳥本といふ所に、あひ知れる法師も俗もあまたいできて、「今日、日はしたになりぬ。奈良坂のあなたには、人の宿り給ふべき家もさぶらはず。此処に泊らせ給へ」といひて、門並べに家二つを一つに造りあはせたる、をかしげなるにぞとどめける。さりければ、とどまりにけり。【訳】それから、例の長谷寺に参詣を済ませて、奈良の三条大路を通って帰る際に、飛鳥本という所に、知り合いの法師や一般人も大勢現れて、「今日はもうご帰宅なさるには、時間も中途半端で途中で日が暮れてしまうでしょう。奈良坂からむこうには、お泊りになれる家もございません。ここにお泊りなさいませ。」と言って、隣同士の屋敷を一つにつなぎ合わせて建築してある、情緒ある屋敷にこの一行を泊めた。そういうわけで、男の一行は宿泊した。【注】「さて」=それから。「三条」=平城京の東西に通る大路で、北から三番目の通り。「飛鳥本」=奈良市元興寺町あたり。「俗」=俗人。出家していない世間一般の人。「あまた」=数多く。「いでく」=姿をあらわす。「日」=日の出ている時間。【本文】饗応など人々しければ、物など食ひて騒がしきほどしづまり、程なく夕暮にはなりてけり。【訳】御馳走のもてなしなど人々がしてくれたので、食事をして騒ぎも落ち着き、まもなく夕暮時になった。【注】「饗応」=酒食を用意し、もてなすこと。また、もてなしの酒盛り。ごちそうがたくさんある宴会。「ほどなし」=少ししか時がたたない。間もない。【本文】さりければ、戸のもとに佇み出てみるに、この南の家の北なる家にて、楢の木といふ物をぞ二木三木うゑたりける。「あやしく異木をもうゑで」などいひさしのぞきたりけるに、清げなる蔀どもあげわたして、女どもあまたをり。【訳】そんなふうだったので、戸口のところにたたずんで出て見てみると、この南に建つ家の北にある家で、ナラの木というものを、二、三本植えてあった。「不思議なことに、他の木を植えずに」などと言いかけて、のぞいたところ、こざっぱりとして美しい蔀戸を全部上げて、女たちが大勢いる。【注】「戸のもと」=家の出入り口周辺。「異木」=ほかの種類の木「清げなり」=こざっぱりとして美しい。「蔀」=寝殿造りで光線や風雨を防ぐため、格子の片面に板を張った戸。上下二枚のうち、下一枚を固定し、上一枚を上げ降ろしする、釣り蔀や半蔀と、室内にも用いる衝立の形の立て蔀とがある。【本文】「あやし」などをのがうちいひて、供なりける人をよびよせて、「此の人は此の南に宿れるか」と問ひけり。【訳】「不思議だ」などと、自身で何気なく言って、男の御供をしていた人を呼び寄せて、「あなたの主人はこの屋敷の南の屋敷に宿泊しているのか」と質問した。【注】「うちいふ」=何気なく言う。ちょっと口に出す。【本文】築地の崩れより見し人は、「いかに忘れざりけるにか、もし男などに具してきたるにや」など、くもでに思ひ乱るるほどに、 くやしくも ならぞとだにも 言ひてける たまほこにだに 来てもとはねばといひけり。【訳】築地の崩れ目から見た男は、「なんと、私のことを忘れなかったのだろうか。あるいは、ひょっとすると他の男などに従ってきたのだろうか」などと、あれこれと思って心が乱れるうちに、女のほうから、 後悔されるのは別れ際に引っ越し先が奈良だと言ったことだなあ。道を通ってたまたま近所に来てさえ訪問しないのだから。という和歌を手紙に書いて寄越した。【注】「もし」=ひょっとすると。「具す」=従う。連れ立つ。「たまぼこに」=「道」「里」などにかかる枕詞。「たまさかに」=偶然。まれに。の意をきかせた【本文】此の「庭さへあれて」といひし人の手なりけり。京さへなま恋しき旅のほどなりければ、硯こひ出て、楢の木の並ぶほどとは教へねど名にやおふとて宿はかりつると言ひたりければ、【訳】その手紙の文面を見たところ、なんと「人のあきに庭さへあれて・・・」と、あの歌を作って寄越した人の筆跡だったよ。初瀬詣でに数日京を離れて、京のことでさえなんとなく恋しい旅先のことだったので、家の者に硯を貸してくれるよう頼んで、 ナラの木が並ぶところとまでは教えてくれなかったが、名前として持つだけのことはある宿かなと思ってこの宿を借りた。と歌を作って贈ったところ、【注】「名におふ」=名前として負い持っている。その名にふさわしいものである。【本文】「あなうちつけの事や」とて、かくぞ言ひ出したりける。 門すぎて 初瀬川まで わたるせも 我が為とは君は答へん【訳】「まあ、なんて軽率なふるまいでしたろう」と言って、こんなふうに家の中から男のいる外に向かって和歌を詠んだ。我が家の門前を通り過ぎて初瀬川まで渡る瀬までも、ずうずうしいあなたなら私のために渡るのだよと答えるのでしょうね。【注】「うちつけ」=軽率だ。【本文】その夜とまり、つとめて、男、 朝まだき たつ空もなし 白波の かへるかへるも 帰り来ぬべし【訳】その夜は一泊して、その翌朝、男が女に贈った歌、夜が明け切らない時分に、あなたとの別れがつらいから、旅立つ場所も考えられない、ずっとここにいたい。白波のように沖に帰り沖に帰りするも、再び岸に戻ってくるように私も京へ一旦帰るが、またあなたに会いにもどってくるつもりだ。【注】「朝まだき」=夜が明け切らない頃。早朝。「空」=よりどころを離れて不安定である場所。
September 18, 2016
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【本文】良峰の宗貞の少将、物へ行くみちに、五条わたりに、五条わたりにて雨いたう降りければ、荒れたる門に立ち隠れてみいるれば、五間ばかりなる桧皮屋(ひはだや)のしもに土屋倉(つちやぐら)などあれど、ことに人などにもみえず。【訳】良峰の宗貞の少将が、あるところへ行く途中で、五条わたりに、五条大路付近で雨がひどく降ったので、荒れている門のそばに立って隠れて門内をのぞきこんだところ、五間ほどのヒノキの皮で屋根を葺いた家の端に土蔵などがあるが、そこならとくに人などにも見つからない。【注】「五条」=今の京都市のほぼ中央を東西に走る通りに面した一帯。一番北にある一条大路から数えて、五番目の大路。「桧皮屋」=ヒノキの皮で屋根を葺いた家。「土屋倉」=土蔵。【本文】歩みいりてみれば、階(はし)の間(ま)に梅いとをかしう咲きたり。鴬も鳴く。【訳】歩いて入っいって見たところ、階段の間に梅の花がとても情緒たっぷりに咲いていた。ウグイスも鳴いている。【注】「階の間」=寝殿の正面の階段の上を覆うための差し出した庇の柱と柱の間の軒近く。「をかし」=風情がある。【本文】人ありともみえぬ御簾(みす)のうちより、薄色の衣濃き衣うへにきて、たけだちいとよきほどなる人の、髪、たけばかりならんと見ゆるが、よもぎ生ひて荒れたるやどをうぐひすの人来となくや誰とかまたんとひとりごつ。【訳】人がいるとも思われないスダレの内側から、薄紫色の着物と濃い紅色の着物とを上に着て、身長がほどよい人で、髪が身長と同じほどの長さであろうと見える女性が、ヨモギが生えて荒れている家をウグイスが「人がくるよ」といって鳴くのを誰だとおもって待とうか。と独り言を言った。【注】「薄色」=薄紫色。「濃き」=濃い紅色。「たけだち」=身長。「よきほどなる人」=一人前の背丈の人。『竹取物語』「よきほどなる人になりぬれば」。「人来(ひとく)」=人がむこうからやってくる。「ぴ-ちく、ぱーちく」と鳥の鳴き声の擬声語。。【本文】少将、きたれどもいひしなれねば鴬の君に告げよとをしへてぞなくと声をかしくしていへば、【訳】少将が作った歌、やってはきたものの、女性に言い寄ること慣れていたいので、ウグイスがあなたに思いを告げなさいと教えて鳴くことだ。と優美な声で歌を吟じたところ、【注】「をかし」=優美だ。「いふ」=歌を吟ずる。【本文】女驚きて、人もなしと思ひつるに、物しきさまをみえぬることとおもひて物もいはずなりぬ。【訳】女が、びっくりして、ほかに人もいないと思っていたのに、みっともない様子を見せてしまったことだと思って、だまりこくってしまった。【注】「物し」=不愉快だ。気に入らない。「見ゆ」=相手に見せる。【本文】男、縁にのぼりて居ぬ。「などか物のたまはぬ。雨のわりなく侍りつれば、やむまでかくてなむ」といへば、【訳】少将が、縁側にのぼって腰をおろした。「どうして口をおききにならないのか。雨がやたらに降ってきましたので、やむまでこうやって雨宿りしたい」と言ったところ、【注】「ゐる」=座る。「わりなし」=むやみだ。やたらだ。【本文】「大路よりはもりまさりてなむ、ここは中々」といらへけり。【訳】「大路よりも、ひどく雨漏りがしますから、ここはかえって濡れてしまいますよ」と女が返事をした。【注】「中々」=あべこべに。かえって。「いらふ」=返答する。【本文】時は、正月十日のほどなりけり。簾のうちより茵さしいでたり。【訳】時は、旧暦一月十日ごろのことだった。簾のなかから筵のうえに敷く四角い敷物を差し出した。【注】「茵」=筵のうえに敷く四角い敷物。【本文】引き寄せて居ぬ。簾もへりは蝙蝠(かはほり)にくはれてところどころなし。【訳】少将はそのシトネを引き寄せて座った。スダレも縁はコウモリにかじられてところどころなくなって破損している。【注】「蝙蝠」=コウモリ。「くふ」=かじる。【本文】内のしつらひ見いるれば、昔おぼえて畳などよかりけれど、口惜しくなりにけり。【訳】部屋の内部の装飾をのぞきこんだところ、古風な感じがして畳などは立派なものだったが、いかんせん経年の劣化によって残念な状態になってしまっていた。【注】「しつらひ」=設備。装飾。調度類をそろえ、室内を飾ること。「昔おぼゆ」=古風に感じられる。『徒然草』十段「うちある調度もむかしおぼえてやすらかなるこそ」。【本文】日もやうやうくれぬれば、やをらすべりいりてこの人を奥にもいれず。【訳】日もしだいに暮れたので、少将は静かに女のいる部屋へ入って、女を奥にも入らせない。【注】「やをら」=そっと。しずかに。「すべりいる」=すべるようにして、そっと中へはいる。【本文】女くやしと思へど制すべきやうもなくて、いふかひなし。雨は夜一夜ふりあかして、またのつとめてぞすこし空はれたる。【訳】女は少将にまんまと部屋に入り込まれて残念だと思うが、止めようもなくて、こはやしかたがない。雨は一晩中降りあかして、次の日の早朝、少し空も晴れた。【注】「くやし」=残念だ。後悔される。「制す」=とめる。「いふかひなし」=言ってもしかたがない。「またのつとめて」=「またの日のつとめて」=翌日の早朝。【本文】男は女のいらむとするを「ただかくて」とていれず。【訳】少将は女が屋敷の奥へひっこもうとするのを「ただこうして私のそばにいてください」と言って、奥へ入れなかった。【注】「いる」=入る。屋敷の奥座敷に引っ込む。【本文】日も高うなればこの女の親、少将に饗応(あるじ)すべきかたのなかりければ、小舎人童ばかりとどめたりけるに、堅い塩さかなにして酒をのませて、少将には、ひろき庭に生いたる菜を摘みて、蒸し物といふものにして丁わんにもりて、はしには梅の花さかりなるを折りて、その花弁(はなびら)にいとをかしげなる女の手にて書けり。君がため衣の裾をぬらしつつ春の野にいでてつめる若菜ぞ【訳】日も高くなったので、この女の親が、貧しくて少将にごちそうする方法がなかったので、少将は使用人のうち召使の少年だけを引き留めておいたが、その子には堅い塩をさかなとして、安藤運動具少将には、広い庭に生えている菜を摘んで、蒸し物という料理にして、茶碗に盛り付けて、端には梅で花の盛りを迎えている枝を折り添えて、その花弁に、非常に魅力的な平仮名で書いてある。あなたさまのために、着物のすそを濡らしながら、春の野原に出向いて摘んだ若菜でございます。【注】「あるじ」=客を招いてもてなすこと。ごちそう。「かた」=方法。手段。「小舎人童」=近衛の中将・少将が召し使う少年。「堅い塩」=カタシオ。「きたし」ともいう。未精製の固まっている塩。「女の手」=ひらがな。【本文】男これをみるに、いとあはれに覚えてひきよせて食ふ。【訳】少将はこの歌を見ると、とてもしみじみと誠意が感じられて、用意された膳を引き寄せて食べた。【注】「あはれなり」=しみじみとしているようす。「覚ゆ」=思われる。感じられる。【本文】女わりなう恥かしとおもひて臥したり。【訳】女はやたらに恥ずかしいと思って寝ていた。【注】「わりなし」=むやみに。やたらに。「臥す」=横になる。【本文】少将起きて、小舎人童を走らせて、すなはち車にてまめなるものさまざまにもてきたり。迎へに人あれば、「いま又もまゐり来む」とて出でぬ。【訳】少将は起きて、小舎人童を走らせて、すぐに牛車で、実用的なものを色々と持ってきた。少将の屋敷から迎えに使者がやってきたので、「ちかいうちにまたきましょう」と言ってこの女の家を出た。【注】「すなはち」=すぐに。「まめなり」=実用的だ。【本文】それより後たえず身づからもとぶらひけり。よろづの物食へども、なほ五条にてありし物はめづらしうめでたかりきとおもひいでける。【訳】それ以後、たえず自身でも訪問した。色々な物を食べても、それでもやはり五条で膳にあった物は目新しくすばらしい食事だったと思いだした。【注】「とぶらふ」=訪問する。「よろづの」=さまざまな。「めでたし」=すばらしい。 【本文】年月を経て、つかうまつりし君に、少将後れたてまつりて、かはらむ世を見じとおもひて、法師になりにけり。【訳】何年か過ぎて、お仕え申し上げていた君主に、少将があとに残され申し上げて、天皇が代替わりする御代は見まい、自分がお仕えする帝はお一人だけだと思って、法師になってしまった。【注】「年月を経て」=長い年月がたって。「つかうまつる」=お仕えする。「君」=主君。天皇。帝。具体的には深草の帝こと仁明天皇(八一〇~八五〇年)。第百六十八段に見える。「後る」=死におくれる。あとに残される。【本文】もとの人のもとに袈裟あらひにやるとて、霜雪のふるやのもとにひとりねのうつぶしぞめのあさのけさなりとなむありける。【訳】もとの妻のところに袈裟を洗濯に出すというので作った歌、霜や雪の漏り降る古びた家の屋根の下で一人で寝る、そのさびしくうつぶせになって寝て迎えた今朝でございます。この五倍子で染めた麻の袈裟を洗濯してくださいな。と手紙に書いてあった。【注】「ふるや」=霜雪が降るのフルと古い家屋というフルヤの「ふる」の掛詞。「うつぶしぞめ」=うつぶせになって寝る最初の夜の意と、フシ(五倍子)染めの掛詞。「あさのけさ」=麻製の袈裟と一人でうつむいて寝た翌朝の今朝という意の掛詞。「うつぶしぞめ」=ヌルデから採取したフシで薄墨色に染める方法。
September 12, 2016
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【本文】亭子(ていじ)の帝、石山につねに詣で給ひけり。【訳】宇多天皇さまは、石山寺にしょっちゅう参詣なさっていた。【注】「亭子の帝」=宇多天皇(八六七年~九三一年)。譲位後に亭子院という邸宅にお住まいになったのでい う。第一段に既出。「石山」=石山寺。近江の国(今の滋賀県)大津の瀬田川の西岸の地にある真言宗の寺。上代から信仰が厚 い。近江八景により月の名所として知られる。紫式部が『源氏物語』を執筆したという源氏の間がある。「つねに」=しじゅう。よく。「詣づ」=参詣する。【本文】国の司、「民疲れ国ほろびぬべし」となむわぶるときこしめして、「異くにぐにも御庄(みさう)などにおほせて」とのたまへりければ、もて運びて御まうけをつかうまつりて、まうでたまひけり。【訳】近江の国の国司が、「(こんなに頻繁に帝がおいでになっては)住民が困窮し国が滅びてしまう」とつらさを訴えているとお聞きになって、「他の国にも荘園などに命じて物資を拠出させよ」とおっしゃったので、近江まで運送して、ご準備をいたしまして、参詣なさった。【注】「国の司」=国司。律令制の地方官。守(カミ)・介(スケ)・掾(ジョウ)・目(サカン)などの四等官とその部下の史生(シジョウ)とで構成されて、地方行政をつかさどった。国司は中央貴族に比べ官位は低かったが、生活には裕福なものが多かった。「異くにぐに(異国々)」=日本の中の他国。「御庄」=ミソウ。貴人の所有する荘園。【本文】近江の守、いかにきこしめしたるにかあらむと歎き恐れて、又無下にさてすぐし奉りてむやとて、帰らせ給ふ打出(うちで)の浜に、世の常ならずめでたきかり屋どもをつくりて、菊のはなのおもしろきをうゑて、御まうけつかうまつれりけり。【訳】近江の国守が、帝はどのようにしてお聞きおよびになったのであろうかと慨嘆恐縮して、またむやみにそのまま自らは何も接待せずに放置申し上げることができようかと思って、参詣を終えて都へお帰りになる途中にお通りになる打出の浜で、なみなみならぬ立派な仮設のお屋敷などを建設して、菊の花でみごとに咲いたのを植えて、ご接待もうしあげた。【注】「いかに」=どのように。「きこしめす」=「聞く」の尊敬語。お聞きになる。「無下に」=むやみに。「すぐす」=ほうっておく。「打出の浜」=今の滋賀県の琵琶湖岸。ウチイデノハマともいう。「めでたし」=立派だ。みごとだ。「おもしろし」=美しい。風情がある。「まうけ」=準備。また、ごちそうの支度。「つかうまつる」=「なす」「おこなふ」の謙譲語。「~もうしあげる」。【本文】国の守もおぢ恐れて、ほかにかくれをりて、ただ黒主をなむすゑ置きたりける。【訳】国守も恐縮して、よそに身を隠していて、ただ黒主を留守に残しておいた。【注】「おぢおそる」=びくびくしてこわがる。先に不満を述べたことが帝の耳に入ったことを知ったため、どんなおしかりがあるかびくびくして恐縮している。「黒主」=六歌仙の一人。平安時代前期の歌人。醍醐天皇の大嘗会の近江の国の風俗歌などで知られ、その名は『古今和歌集』の序文にも見える。【本文】おはしまし過ぐるほどに、殿上人、「黒主はなどてさてはさぶらふぞ」ととひけり。【訳】お通りかかりになったときに、殿上人が、「黒主よ、おまえは、どうして、そこにそんなふうにしてひかえているのか」と質問した。【注】「おはしまし過ぐ」=やってこられて通り過ぎる。「殿上人」=四位・五位で清涼殿の殿上の間に昇殿することを許された者。六位でも蔵人は天皇の秘書のような役目を果たす必要上、昇殿を許された。「などて~ぞ」=「どうして~か」。『源氏物語』≪夕顔≫「などてかくはかなき宿りは取りつるぞ」。「さぶらふ」=貴人のそばにお控え申し上げる。【本文】院も御車おさへさせ給ひて「なにしにここにはあるぞ」ととはせたまひければ、人々とひけるに、申しける、【訳】宇多天皇も、お乗りになっていた牛車を停車させなさって、「どうしてここにいるのか」と側近をに命じて黒主に質問させたので、人々が質問したので、黒主が申し上げた歌、【注】「おさふ」=動かないようにする。「なにしに」=どんなわけで。【本文】さざらなみまもなく岸を洗ふめり渚清くば君とまれとかとよめりければ、これにめでたまうてなむとまりて、人々に物給ひける。【訳】さざなみは片時も休む間もなくひっきりなしに岸を洗っているように見えます。もしもこの波打ち際が清らかで美しいとお目にとまりなさいましたら帝にご宿泊なさいませとかいうことでございました。という和歌を作ったので、この歌に感動なさってご宿泊なさって、おまけに人々に結構なものをお与えになったとさ。【注】「さざらなみ」=さざれなみ。細かく立つ波。さざなみ。波が立つようすから、「間もなく」の枕詞。また「波」に対して「岸」「洗ふ」「渚」は縁語。「めり」=現実の状況を実際に観察し、たしかにそうだと判断しながらも断定を避け、傍観的に「~のように見える」とやわらかく推定する助動詞。
September 10, 2016
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【本文】今の左の大臣、少将に物したまうける時に、式部卿の宮に常にまゐりたまひけり。【訳】現在左大臣でいらっしゃる藤原実頼様が、少将でいらっしゃった時に、式部卿の宮様のところに常に参上なさっていた。【注】「今の左の大臣」=藤原実頼。九十六段に既出。「式部卿の宮」=敦慶親王。十七段および百七十段に既出。【本文】かの宮に大和といふ人さぶらひけるを、物などのたまひければ、いとわりなく色好む人にて、女いとをかしうめでたしとおもひけり。【訳】式敦慶親王の御屋敷に大和という人がお仕えしていたが、彼女に対し藤原実頼様が、恋心を告白なさったところ、女は非常に色恋というものがわかっている人だったので、実頼様を非常に魅力的ですばらしいかただと思った。【注】「ものいふ」=恋愛関係にある。男女が情を通わせる。「のたまふ」は「いふ」の尊敬語。「色好む」=恋愛の情趣を理解する。【本文】されど、あふことかたかりけり。大和、人しれぬ心のうちに燃ゆる火は煙は立たでくゆりこそすれといひやりければ、【訳】けれども、対面することはなかなかできなかった。そこで、大和が作った歌、人に知られず心の中でひそかに燃えている恋の炎は煙は立たないのでうわべからは目立たないでしょうが、くすぶっております。【注】「あふ」=対面する。男女が知り合う。結婚する。「燃ゆる」に対し「火」「煙」「くゆる」は縁語。「くゆる」=くすぶる。恋愛の相手とめったに会えないため、煙がくすぶるように、気が晴れずに思い悩んでいるということ。【本文】返し、ふじのねの絶えぬおもひもある物をくゆるはつらき心なりけりとありけり。【訳】それに対する実頼の返事の歌、富士の嶺から立ち上り続けている噴煙のようにあなたのことを絶えず思い続け燃え続けている思いという情熱が私にはあるのに、あなたのほうは目立たずくゆる程度というのでは、あなたは冷たいお心だなあ。と書いてあった。【注】「おもひ(思ひ)」と「ひ(火)」の掛詞。「火」に対し「くゆる」は縁語。「つらし」=冷たい。薄情だ。【本文】かくて久しう参りたまはざりけるころ、女いといたう待ちわびにけり。【訳】こうして長いこと式部卿の宮の御屋敷に参上なさらなかったころに、大和はとてもつらい思いで長いこと待つはめになってしまった。【注】「待ちわぶ」=待ちあぐむ。つらい思いで長い間待つ。【本文】いかなる心ちのしければか、さるわざはしけむ。人にも知らせで車にのりて内にまゐりにけり。【訳】どんな気持ちがして、そんな行動をとったのだろうか、周囲の人にも知らせずに牛車に乗って宮中に参内してしまった。【注】「わざ」=行動。「車」=牛車。中古(平安時代)には車といえば、ふつう牛車を指す。「内」=宮中。内裏。【本文】左衛門の陣に車を立てて、わたる人をよびよせて、「いかで少将の君に物きこえむ」といひければ、「あやしきことかな。誰ときこゆる人の、かかることはしたまふぞ」などいひすさびていりぬ。【訳】左衛門の陣に車をとめて、通りかかった人を呼び寄せて、「なんとかして少将の君に連絡がとりたい」と言ったところ、「ふしぎなことだなあ。何と申し上げるおかたが、このようなぶしつけな行動をなさるのか」などと言って無視して中へ入ってしまった。【注】「左衛門の陣」=衛門府(内裏の外郭門内の警護にあたる役所)の役人の待機所。「立つ」=止める。「わたる」=通る。「物きこゆ」=お知らせ申し上げる。【本文】又わたればおなじことといへば、「いさ、殿上などにやおはしますらむ、いかでかきこえん」などいひていりぬる人もあり。【訳】また、別の人がとおりかかったので、同様のことを言ったところ、「さあ、どうだろうか。少将様は殿上の間などにいらっしゃるのだろうか、もしそうならどうしてそんな恐れ多い場に行って申し上げることができようか、いや、とてもできない」などと言って、中に入ってしまう人もいた。【注】【本文】袍きたるもののいりけるを、しひてよびければ、あやしとおもひてきたりけり。【訳】うえのきぬを着ている人が郭内にはいったところを、強引に呼び止めたところ、ふしぎだなとは思いながらも近づいてきた。【注】「袍」=うえのきぬ。男性が衣冠・束帯の正装をするとき、いちばん上に着る衣服。文官・武官の別、位階によって、ぬいかたや色に差がある。【本文】「少将の君やおはします」と問ひけり。【訳】「少将様はいらっしゃいますか」と質問した。【注】「おはします」=いらっしゃる。おいでになる。「あり」「をり」の尊敬語。【本文】「おはします」といひければ、「いと切にきこえさすべきことありて、殿より人なむまゐりたると聞こえたまへ」とありければ、「いとやすきことなり。そもそも、かくきこえつきたらむ人をば忘れたまふまじや。いとあはれに夜ふけて人少なにて物し給ふかな」といひていりて、いと久しかりければ、無期にまちたてりける。【訳】「いらっしゃいますよ」と言ったので、「そうしても申し上げなければならないことがあって、お屋敷から使者が参上しておりますと申し上げてください」と申し上げたところ、「おやすい御用だ。いったい、こんなふうに取り次ぎ申し上げてあなたのために骨を折る私をお忘れにはなるまいね。非常に殊勝にも夜がふけてから人も少ない状態でいらっしゃったのですねえ」と言って郭内に入って、非常に長い時間が経過し、大和は、いつ返事があるかもわからぬ状況で立って待っていた。【注】「いと切に」=どうしても。「きこえさす」=申し上げる。「いふ」の謙譲語。「殿」=御殿。貴人の邸宅。「聞こゆ」=申し上げる。「いふ」の謙譲語。「物す」=ここでは「来」の謙譲語「まゐる」の代用。【本文】辛うして、これもいひつがでやいでぬらむ、いかさまにせむとおもふ程になむいできたりける。【訳】この最後の男も、取り次がないで退出してしまったのだろうか、これからどうしようかと思っている時分に、やっとのことで出てきた。【注】「いひつぐ」=言い伝える。「いかさまにせむ」=どうしたらよいだろう。【本文】さて、いふやう、「御前に御あそびなどし給ひつるを、辛うしてなむきこえつれば、『たが物したまふならむ。いとあやしきこと。たしかにとひたてまつりて来』となむのたまひつる」といへば、【訳】そうして、言うことには、「帝の前で音楽会などなさっていたが、タイミングを見計らってやっとのことで申し上げたところ、『いったい誰がいらっしゃったのだろう。とても不思議だ。しっかり質問申し上げて確認してこい』とおっしゃった」と言ったので、【注】「御前」=貴人の前。「あそび」=もと、日常的な生活を忘れて、心の楽しいことに熱中することをいい、上代には山野で狩りをし、酒宴を開き、音楽や歌舞を演じるのが一番のたのしみであった。中古(平安時代)には、音楽や詩歌を楽しむことを指す場合が多い。「たしかに」=しかと。まちがいなく。「のたまふ」=「いふ」の尊敬語。【本文】「真実には、下つ方よりなり。身づから聞こえむとを聞こえたまへ」といひければ、「さなむ申す」ときこえければ、「さにやあらむ」とおもふに、いとあやしうもをかしうもおぼえ給ひけり。【訳】「じつは、下々の者からの連絡だ。自身で申し上げようといっているむね、申し上げてください」といったところ、取り次ぎの者が「お屋敷からの使者はそんなふうに申しております」と少将に申し上げたところ、「ひょっとすると使者というのは大和であろうか」と思いあたるにつけても、少将は大和の行動を奇怪だとも興味深いやつだともお感じになった。【注】「真実(シンジチ)」=本当のこと。まこと。「下(しも)つ方(かた)」=身分の低いほうの者。「あやし」=奇怪だ。異常だ。「をかし」=興味深い。「おぼゆ」=思われる。感じられる。【本文】「しばし」といはせてたちいでて、広幡の中納言の侍従に物したまひける時、「かかることなむあるをいかがすべき」とたばかりたまひけり。【訳】「ちょっと待っておれ」と伝言させて立って外へ出て、侍従を務めていた広幡の中納言に、「このように女性が宮中まで訪ねて参ったのをいかがいたしましょう」と相談なさった。【注】「しばし」=少しのあいだ。「広幡の中納言の侍従」=源の庶明(もろあき)。宇多天皇の皇子であった斎世親王の息子。九二五年~九二九年まで侍従を務めた。「たばかる」=相談する。【本文】さて、左衛門の陣に、宿直所なりける屏風・畳など持ていきて、そこになむおろし給ひける。【訳】そうして、左衛門の陣に、とのいどころにあった屏風や畳などを持ち込んで、そこに下ろしなさった。【注】「宿直所(とのゐどころ)」=宮中で大臣・納言・蔵人の頭・近衛の大将・兵衛の督などが、宿直をするときの詰所。【本文】「いかでかくは」とのたまひければ、「なにかは、いとあさましう物のおぼゆれば」、【訳】「どうしてこんな夜更けに宮中まで訪ねてきたのか」とおしゃったところ、大和は「ほかになんの理由がございましょう、ただ、あなたさまが一向に会いにきてくださらず、あまりにもひどいと思われたので、こうして参ったのです」と答えた。【注】「なにかは」=どうしてどうして。「あさまし」=あきれるほどひどい。【本文】敦慶のみこの家に大和といふ人に、左大臣、今さらに思ひいでじとしのぶるを恋しきにこそ忘れわびぬれ【訳】敦慶親王の家の大和といふ人にあてて、左大臣が作った歌、今さら思い出すまいとなるべくあなたのことを考えないように我慢していたが、あまりにも恋しいのでたやすく忘れられなかったっよ。【注】「敦慶のみこの家に大和といふ人に」=敦慶親王の家の大和といふ人のところにあてて。「~に~に」は、『伊勢物語』九段に「京にその人のもとにとて文書きてつく」とあるのと同様の表現。「~わぶ」=「~しかねる」。「たやすく~できない」。
September 4, 2016
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【本文】伊衡の宰相、中将に物したまひける時、故式部卿の宮、別当したまひければ、つねにまゐりなれて、御達もかたらひ給ひけり。【訳】宰相の藤原伊衡が、中将でいらっしゃった時、今は亡き式部卿の宮が、別当をなさっていたので、いつも宮のもとへ参上しなれて、宮仕えの女性とも親しく付き合っておられた。【注】 「伊衡の宰相」=宰相の藤原伊衡。彼は承平四(九三四)年に参議、すなわち宰相に任ぜられた。「中将」=藤原伊衡は、延長二(九二四)年十月に権中将に任ぜられた。「故式部卿の宮」=敦慶親王(八八七~九三〇年)。宇多天皇の第四皇子。美貌で管絃にも長じていた。十七段に既出。「別当」=宮家の別当。役所・院・親王家などの事務長。「御達」=宮仕えの女性に対する敬称。「たち」は、もと複数を示す接尾語だったが、「ごたち」は、単数を表すこともある。『伊勢物語』巻三一段「昔、宮の内にて、ある御達の局の前を渡りけるに」。「かたらふ」=話を交わす。親しく付き合う。【本文】その君、内よりまかでたまひけるままに、風になむあひたまうてわづらひたまひける。【訳】その宰相の藤原伊衡が内裏から退出なさったとたんに、強い風にあたってご病気になった。【注】「内」=内裏。宮中。「まかづ」=退出する。「退く」「去る」の謙譲語。「わづらふ」=病気になる。【本文】とぶらひに薬の酒・肴など調じて、兵衛の命婦なむやりたまひける。【訳】お見舞いに薬種や酒やつまみなどを用意して、兵衛の命婦がお送りになった。【注】「とぶらひ」=見舞いの贈り物。「調ず」=調達する。「兵衛の命婦」=一族の男子に兵衛(兵衛府の職員)がいる命婦(五位以上の中級の女官)。【本文】そのかへりことに、「いとうれしうとひたまへること。あさましうかかる病もつくものになむありける」とて、あをやぎのいとならねども春風のふけばかたよるわが身なりけりとあれば、【訳】その見舞いに対するお礼の返事に、「非常にうれしくもお見舞いなさったこと。情けないことにこんな病気にかかるものだなあ、と言って、青柳の細い枝じゃありませんが春風が吹くと一方へ偏るわが身であるなあと和歌を作ったところ。【注】「かへりこと」=返事。「とふ」=病状を問う。「あさまし」=情けない。見苦しい。「あをやぎのいと」=青柳の細い枝を糸に見立てて言う語。「偏る」と「縒る」は掛詞、「よる」は糸の縁語。【本文】兵衛の命婦かへし、いささめに吹くかぜにやはなびくべき野分すぐしし君にやはあらぬ【訳】兵衛の命婦の返歌、ささやかに出たばかりの青柳の新芽に吹く春風ぐらいにそう簡単になびいたりするはずがあろうか、いや、ない。野分だってやり過ごしたあなたではないか。【注】「いささ」=ささやかな意の接頭語。「野分」=台風。特に二百十日、二百二十日前後に吹く暴風。
September 3, 2016
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