趣味の漢詩と日本文学

趣味の漢詩と日本文学

May 7, 2017
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カテゴリ: 学習・教育

第九十六段

【本文】

 むかし、男ありけり。女をとかく言ふこと月日経にけり。石木にしあらねば、心苦しとや思ひけむ、やうやうあはれと思ひけり。そのころ、水無月の望ばかりなりければ、女、身にかさ一つ二ついできにけり。女言ひおこせたる、「今は何の心もなし。身に、かさも一つ二ついでたり。時もいと暑し。すこし秋風吹き立ちなむ時、かならずあはむ」と、言へりけり。秋待つころほひに、ここかしこより、その人のもとへいなむずなりとて、口舌いできにけり。さりければ、女の兄人、にはかに迎へに来たり。されば、この女、かへでの初紅葉をひろはせて、歌をよみて、書きつけておこせたり。

秋かけて 言ひしながらも あらなくに 木の葉降りしく えにこそありけれ

と書き置きて、「かしこより人おこせば、これをやれ」とて、いぬ。さて、やがてのち、つひに今日まで知らず。よくてやあらむ、あしくてやあらむ。いにし所も知らず。かの男は、天の逆手を打ちてなむ、のろひをるなる。むくつけきこと。人ののろひごとゃ、負ふものにやあらむ、負はぬものにやあらむ。「今こそは見め」とぞ言ふなる。

【注】

〇とかく=なにやかやと。

〇言ふ=言い寄る。

〇月日経にけり=年月。『伊勢物語』四十六段「対面せで、月日の経にけること」。

〇石木にしあらねば=石や木のような感情の無い存在ではないので。『源氏物語』《東屋》「あはれなる御心ざまをいはきならねば、思ほし知る」。

〇心苦し=気の毒だ。

〇やうやう=だんだん。

〇あはれ=しみじみと愛しい。

〇水無月の望ばかり=陰暦六月の十五日ころ。

〇かさ=おでき。あせも、湿疹の類。

〇いでく=出現する。できる。

〇言ひおこす=手紙や使者などを通して言ってよこす。

〇何の心もなし=ふつう「なにごころなし」は、無心だの意。たとえば石田穣二氏は『伊勢物語』(角川文庫)の脚注で「あなたをお思いするほかには何の心もありません」の意とするが、いかがであろうか。

〇秋風吹き立ちなむ時=陰暦では七月からが暦の上での秋にあたる。『枕草子』《虫は》「いま秋風吹かむ折ぞ来むとする」。

〇ころほひ=その時分。

〇ここかしこ=あちこち。

〇その人のもと=ある人の所。『伊勢物語』九段「京に、その人の御もとにとて、文書きてつく」。

〇いなむずなり=行ってしまうということだ。「いな」は「 往ぬ」の未然形、「むず」は、「むとす」の縮約。「む」は意志の助動詞、「と」は格助詞、「す」は、サ変動詞「なり」は、伝聞の助動詞。

〇口舌=悪口。不平の文句。

〇いでく=起こる。

〇さりければ=そうであったから。

〇兄人=男の兄弟。

〇にはかに=急に。だしぬけに。

〇されば=それゆえ。

〇かへで=落葉高木。語源は「かへる手」の転という。

〇初紅葉=秋になって初めて色づいたもみじ。

〇秋かけて 言ひしながらも あらなくに 

〇降りしく=散って覆う。

〇えにこそありけれ=「江にこそありけれ」「縁こそありけれ」を言い掛ける。

〇かしこ=あのかた。遠称の人代名詞。少し敬意をこめた言い方。

〇おこす=よこす。

〇さて=そうして。

〇やがて=そのままずっと。

〇つひに=とうとう。

〇天の逆手=普通とは逆に柏手を打つこと。人をのろう呪術の一。

〇むくつけし=気味がわるい。

〇のろひごと=呪いの言葉。

〇負ふ=身に受ける。相手の身にふりかかる。

〇今こそは見め=今に見ていろ。

【訳】

むかし、男がいた。ある女に対し何やかやと言い寄ること長い年月になった。女も石や木のよような感情のないものではないので、気の毒だと思ったのだろうか、だんだんと情が移って愛しいと思うようになった。そのころ、陰暦の六月十五日ごろのことだったので、女は、体におできが一つ二つできてしまった。女が男に手紙で言って寄越したことには、「今は体調が悪く何も考えられません。体に、おできも一つ二つできています。時期も非常にお暑うございます。すこし秋風が吹き始めるような時分に、きっとお逢しましょう」と、書いてあった。秋の到来を待つころに、あちこちから、「あの女性はあの男のところへ行くつもりだそうだ」と言って、不満の声が起こった。そういうわけで、女の兄が、急に迎えにやって来た。それで、この女は、カエデの初紅葉を召使に拾ってこさせて、歌を詠んで、書きつけて寄越した。

秋を目指して逢いましょうと言って約束しながらも、約束どおりではないのに、木の葉が散りしいて浅くなった入江のように、言の葉もむなしく散って約束も守れない浅いご縁でございましたねえ。

を寄越したら、これを渡せ」と言って、行ってしまった。そうして、そのまま時が過ぎてのち、とうとう今日まで知らずにいた。よかったのだろうか、悪かったのだろうか。立ち去った先もわからない。例の男は、天の逆手を打って、女をのろっているということだ。気味が悪いことよ。人の呪いの言葉は、実際に身に災厄が降りかかるものだろうか、降りかからないものだろうか。「今に見ていろ」と男は言っているそうだ。





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Last updated  May 7, 2017 09:26:04 AM
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