第九十三段
【本文】
むかし、男、身はいやしくて、いとになき人を思ひかけたりけり。すこし頼みぬべきさまにやありけむ、ふして思ひ、起きて思ひ、思ひわびてよめる。
あぶなあぶな 思ひはすべし なぞへなく 高きいやしき苦しかりけり
むかしも、かかることは、世のことわりにやありけむ。
【注】
〇身=身分。
〇いやし=身分が低い。
〇になし=比べるものがない。最上だ。『蜻蛉日記』天禄元年「になく思ふ人をも人目によりてとどめ置きてしかば」。
〇おもひかく=思いをかける。恋しく思う。『伊勢物語』五十五段「思ひかけたる女の、え得まじうなりての世に」。
〇頼む=たよりとする。期待する。
〇ふす=横になる。寝る。
〇おもひわぶ=思いに沈む。悲しみにくれる
〇あふなあふな=佐伯梅友・馬淵和夫編『古語辞典』(講談社)に「〔『あぶなし』の語幹を重ねた語。『あふなあふな』と読んで、真剣になどの意とするのは誤り〕はらはらするような状態で。はらはらと気をもみながら。心を尽くして」とあるが、現行の古語辞典には「あふなあふな」を見出し語とし、「身の程に合わせて」「身分相応に」の意に解するものが多い。
〇なぞへなし=比べようもない。
〇ことわり=言うまでもない。
【訳】
むかし、男が、身分は低い状態で、比類ないほど高貴な人を恋い慕っていた。すこしは期待がもてそうだったのだろうか、横になっては恋しがり、起きては恋しがり、悲しく思って作った歌。
十分に気を付けて身分相応に恋はしなければならない。身分が高い者と低い者との間の恋は比べようもなく苦しいものだなあ。