第八十三段
【本文】
むかし、水無瀬に通ひ給ひし惟喬の親王、例の狩りしにおはします供に、馬の頭なる翁仕うまつれり。日ごろ経て、宮に帰りたまうけり。御おくりして、とくいなむと思ふに、大御酒たまひ、禄たまはむとて、つかはさざりけり。この馬の頭、心もとながりて、
枕とて 草ひきむすぶ こともせじ 秋の夜とだに 頼まれなくに
忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは
とてなむ、泣く泣く来にける。
【注】
〇水無瀬=大阪府三島郡本町広瀬。後鳥羽院の離宮があった所。
に通ひ給ひし
〇惟喬の親王=文徳天皇の第一皇子。小野の宮、または水無瀬の宮と称した。藤原氏に皇位継承を妨害され、不遇のうちに一生を終えた。(八四四~八九七年)
〇例の=いつものように。
〇おはします=「行く」の尊敬語。
〇供=従者。
〇馬の頭=馬寮の長官。従五位上相当官。なる翁=
〇仕うまつる=お仕えする。
〇日ごろ経て=数日間たって。
〇宮=親王のお住まい。
〇御おくり=お見送り。
〇とくいなむ=早く立ち去ろう。
〇大御酒=神や天皇皇族などに差し上げる酒。
〇禄=祝儀。
〇つかはす=「行かす」の尊敬語。
〇心もとながる=イライラする。待ち遠しがる。じれったいとおもう。
〇枕とて草ひきむすぶ=いわゆる草枕。古くは、旅先で草を結んで枕とし、夜露に濡れて仮寝した。
〇頼まれなくに=あてにできないのに。
〇時=時節。
〇弥生のつごもり=春の終わり。
〇おほとのごもる=「寝」の尊敬語。おやすみになる。お眠りになる。
〇明かす=眠らずに朝を迎える。
〇思ひのほかに=予想に反して。意外なことに。
〇御髪おろす=高貴な人が髪を剃って仏門に入る。
〇睦月=陰暦一月。
〇をがむ=高貴な方にお目にかかる。
〇小野=山城の国愛宕郡の地名。比叡山の西側のふもと一帯。惟喬親王の出家後の住居で知られる。
〇しひて=無理に。あえて。
〇御室=出家が住む庵。
〇つれづれと=しみじみと寂しく。やるせない気持ちで。
〇ものがなし=なんとなく悲しいうら悲しい。
〇やや久しく=だいぶ長時間。
〇さぶらふ=「つかふ」「をり」の謙譲語。おそばでお仕えする。
〇聞こゆ=「いふ」の謙譲語。申し上げる。
さてもさぶらひ
〇てしがな=終助詞「てしが」に詠嘆の終助詞「な」のついたもの。~たいものだなあ。
〇おほやけごと=朝廷の行事や儀式。
〇えさぶらはで=お仕えすることもできないで。
〇思ひきや=想像しただろうか、いや、想像もしなかった。「や」は反語の係助詞。
【訳】むかし、水無瀬に通ひ給ひし惟喬の親王が、いつものように狩りをしにお出かけになるお供に、馬の頭の老人がおそばでお仕え申し上げた。何日も経って、お屋敷にお帰りなさった。お見送りして、さっさとおいとまをいただいて立ち去ろうと思ふのに、お酒をお与えになり、ご褒美をお与えになろうとして、帰らせなかった。この馬の頭は、家に帰りたいのでいらいらして、
枕にするために草をひっぱって結ぶこともするまい。いまは秋の夜とさえあてにはできないので。
という歌を作った。時節は陰暦三月の月末であった。親王は、おやすみにならず夜をお明かしになってしまった。このようにしながらお仕えしていたが、意外なことに、頭髪をお剃りになって出家なさってしまった。陰暦一月に、御目にかかろうと思って、小野にうかがったところ、比叡山のふもとなので、雪がとても高く積もっている。わざわざ御庵室にうかがってお目にかかったところ、つれづれといとものがなしくて、おはしましけるれば、だいぶ長い時間おそばにお仕えして、昔のことなど思い出しては申し上げた。そのまま親王のおそばにお仕えしていたいと思ったが、朝廷の儀式などがあったので、おそばにお仕えすることもできずに、夕暮れに帰るというので、
現実を忘れて、これは夢ではないのかと思います。想像したでしょうか、こんなに深い雪の山道を分け入ってあなた様にお目にかかろうとは。という歌を作って、泣く泣く都に帰って来たのだった。