カテゴリ未分類 0
全1423件 (1423件中 101-150件目)
2023年1月9日、最初のJR東日本の駅からハイキング「福来たる!雑司が谷七福神巡り 過去と未来をつなぐまち散歩」に参加してきました。七福神めぐりで今年の福にあやかりたいということで、ここ池袋駅から出発です。池袋東口というと、やはり西武百貨店ですね。「西武」と名乗りながら、セブン&アイ・ホールディングス傘下で、百貨店を展開するそごう・西武の百貨店なんですね。その上、そごう・西武はアメリカの投資ファンド、フォートレス・インベストメント・グループに売却が決定されたそうですね(→→→こちら)。また池袋の雰囲気も変わっていくのでしょうか。まず、朝の腹ごしらえ。池袋駅前のマクドナルドで、朝マックのベーコンエッグマフィンコンビ(270円税込み)をいただきました。やっばり人出の多い池袋のマック、お客さんが多くて、商品が出てくるまで結構待たされました。こちらが最初に訪れた、日蓮宗松栄山仙行寺(→→→こちら)です。お寺の本堂はビルになっていますが、壁面に様々な木々が植えられているのが、寺院という雰囲気を伝えているんですかね。土壁が使われているのが、ちょっと渋いですね。仙行寺さんで有名なのはこの「池袋大仏」です。木曽檜の木彫で、空中に浮かんでいます。やはり、名のある佛師と呼ばれる方の作品なんでしょうね。そして、ここにあるのが雑司ヶ谷七福神のひとつ「華の福禄壽」です。ちなみに、雑司が谷七福神は、南池袋1丁目町会長の渡辺隆男氏が、雑司ヶ谷の町おこしのために平成22年(2010)に七福神を定めたそうです。七福神巡りって、なにかのキッカケで制定するようなものなんですね。ちなみに歴史のありそうな浅草名所七福神巡りも今の9社(浅草寺の大黒天、浅草神社の恵比寿神、待乳山聖天本龍院の毘沙門天、今戸神社の福禄寿、不動院の布袋尊、石浜神社の寿老神、鷲神社の寿老神、吉原神社の弁財天、矢先稲荷神社の福禄寿)に定まったのは昭和52年(1977)だそうです。(雑司が谷七福神巡りのコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神巡り(その1) 仙行寺(華の福禄壽と池袋大仏)
2023年01月27日
コメント(26)
埼京線の板橋駅前です。もう新年を迎える準備は万端ですね。人気ブログランキング新年を迎える準備は万端です
2022年12月30日
コメント(26)
今日は世間一般ではクリスマス・イブ(Christmas Eve)ですね。だだキリスト教の教義に従うと、正確に言うと、キリスト教では「教会暦」で日付を区切ります。教会暦では、日没から次の日没までが1日です。12月24日の日没から24:00までがクリスマスイブ、12月25日の日没までがクリスマスになるそうです(→→→こちら)。そして、やっぱりこの時期はクリスマスの飾りつけが町のあちらこちらで見られます。こちらはイタリア料理店の前にあった小さなクリスマス・ツリーです。こちらは両国の北斎通りにある葛飾北斎の作品を多くの色糸を用いて織った布を展示・販売しているお店→→→こちら)ですが、こういう和風の店の店頭にも、クリスマス・リースが飾られていました。人気ブログランキングChristmas Eve
2022年12月24日
コメント(17)
2022年11月8日は、月が地球の影に完全に入り込む「皆既月食」と天王星が月に隠れる「天王星食」が起きたそうです。さすがに天王星食は撮影できませんでしたが、皆既月食は撮影できましたので拙い写真ですが紹介します。19時26分に撮影、かなり月食が進んできました。20時09分に撮影、この時間帯が月が完全に隠れた皆既月食でした。21時27分に撮影、月食も終わりかけてきましたね。人気ブログランキング皆既月食を撮影しました
2022年11月09日
コメント(28)
愛宕神社の境内を少し歩いてみました。山頂ですが池がありました。水はやっぱり水道ですかね。こちらには、顔ハメがありました。こちらは出世の石段を馬で駆け上った四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)。そして、こちらは西郷隆盛と勝海舟。慶応3年(1868)3月9日、この時、西郷隆盛率いる新政府軍による江戸城進撃は3月15日と決定していました。しかし、新政府軍による江戸城包囲網が完成しつつある3月13日に、この「愛宕神社」で、西郷隆盛と勝海舟による会談が行われたそうです。二人ともこの愛宕山の上から眼下に広がる江戸の街を見下ろして、二人とも何か感じのでしょうか、その後、三田の薩摩屋敷で歴史的な会見をして、江戸城無血開城の調印を行ったそうです。相手がウラジーミル・プーチンではなく西郷隆盛でよかったですね。こちらは、車道を登って来た時の愛宕神社の入口になります。神社の提灯がありました。その先にあったのは、NHK放送博物館(→→→こちら)です。NHKの前身であった社団法人東京放送局(JOAK)が、この愛宕山に放送局を置き、大正14年(1925)7月の本放送から昭和13年(1938)の内幸町にあるNHK東京放送会館への移行まで、ここから放送していたそうです。さらに昭和25年(1950)からは、NHKテレビの放送が始まり、電波送信所が昭和33年(1958)まであったそうです。そんなことからここにNHK放送博物館ができたのでしょうね。【了】人気ブログランキング山行記録 愛宕山(その5) NHK放送博物館もありました
2022年10月11日
コメント(30)
愛宕山の山頂には愛宕神社(→→→こちら)があります。神社にお参りさせてもらいました。この石の鳥居が「一の鳥居」と呼ばれています。愛宕神社は、慶長8年(1603)、徳川家康の命により創建された神社で、防火・防災に霊験のある神社として知られいます。この「丹塗りの門」の中に社殿があります。丹塗りの門に飾れている提灯です。こちらが社殿です。ご祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)です。この神様は、イザナギとイザナミとの間に生まれた神でしたが、火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまったと古事記や日本書紀には書かれています。そんなわけで、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で首を落とされ殺されたそうです。【つづく】人気ブログランキング山行記録 愛宕山(その4) 愛宕神社
2022年10月10日
コメント(26)
出世の石段を登り切っりました。振り返ってみたら、本当に急な石段です。石段を登り切ったところにある愛宕山の説明板です。山という証拠に、山頂には国土地理院の三等三角点(※)が設置されています。多分、鉄製の蓋の下に三角点を示す標石があるんでしょうね。【つづく】※ 三角点とは三角測量によって地球上の位置(経緯度)が定められた点のことです(→→→こちら)。人気ブログランキング山行記録 愛宕山(その3) 愛宕山の三角点
2022年10月09日
コメント(26)
山頂に登るにはこの赤い大きな鳥居から続く石段を登って行きます。この石段、「出世の石段」(→→→こちら)というそうです。これは、江戸時代、増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅を見て「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話によるものだそうです。男坂とも呼ばれるこの急な石段、駆け上がった馬もなかなか、健脚ですね。と思ったら石段でトレーニングは不敬になるのだそうです。ということは、曲垣平九郎とその愛馬、罰当たりなことをしたものです。急な階段を登るのはちょっと大変だという方は、こちらの女坂を登るか、或いは前回紹介した愛宕トンネルの脇にあるエレベーターで山頂に登ることができます。写真の中央部にある塔がエレベーターになっていて無料で登ることができます。もちろん、馬を持っていなくても車で登ることもできます。【つづく】人気ブログランキング山行記録 愛宕山(その2) 出世の階段(男坂)
2022年10月08日
コメント(26)
前回まで紹介した城南五山は、山といっても単なる高台のことで、慣例的に「山」と呼んでいましたが、今回は天然の山としては東京都23区内最高峰(※)の標高25.7mの港区愛宕にある愛宕山への山行です。国土地理院地図にも愛宕山として表示されている(→→→こちら)、れっきとした山です。山をくり抜くトンネルもあります。トンネルの入口にある銘板には「愛宕隧道」(あたごずいどう)と記されています。「隧道」とはトンネルの古い呼び方だそうです。そしてこのトンネルは23区内唯一の「山岳トンネル」です。ということで、愛宕山に登ってみることにします。愛宕山の山頂には、愛宕神社があるので、この社号碑が建立されています。※ 人工の山も含めれば、東京都23区内最高峰は新宿区戸山公園内にある箱根山(→→→こちら)の標高44.6mになります。【つづく】人気ブログランキング山行記録 愛宕山(その1) 愛宕隧道
2022年10月07日
コメント(20)
10月1日開業予定の「九段会館テラス」(→→→こちら)です。九段会館といえば、もとは昭和3年(1928)の昭和天皇の即位の礼を記念する行事の一環として計画され昭和9年(1934)に完成した軍人会館ですが、戦後になって日本遺族会が運営する「九段会館」(→→→こちら)になり、日本遺族会が宿泊・結婚式場・貸しホール等の各事業を運営していた施設でした。そういえば、「修学旅行で来た時に九段会館に泊まったことがある」とタモリがブラタモリの中で言っていました。MoMo太郎も一度、九段会館のビアガーデンに来たことがありました。そんな九段会館でしたが、平成23年(2011)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震によって、会館内のホールの吊り天井が落下して、その時ホールで行われていた東京観光専門学校の卒業式に参加していた非常勤講師の方、2名が下敷きになり死亡、その他多数が重軽傷を負ったという事故がありました。その事故で、九段会館は閉鎖されていました。その後、登録有形文化財である「旧九段会館」を一部保存しながら、地上17階建てのオフィスとなる新築部分を付け加えて「九段会館テラス」として営業が再開されるそうです。まだ開業前なので建物の中には入れませんでしたが、正面玄関までの前庭には入れました。旧九段会館の時に建立されていた記念碑なども「歴史の小径」として保存されています。この石碑は「軍人亀鑑碑」というもので、西南戦争の時に戦死した陸軍伍長谷村計介(→→→こちら)の記念碑です。谷村計介伍長は西南戦争の時、西郷隆盛率いる薩摩軍に包囲された熊本城から。高瀬(現玉名市)の官軍本営に熊本城の状況を報告するため、変装して熊本城を後にして、無事任務を果たした後、田原坂のたたかいにで戦死した軍人です。その後、西南戦争当時の熊本鎮台司令長官・谷干城によって明治16年(1883)にこの記念碑が建立され、谷村の功績は忠君愛国として第一期国定教科書に載り、広く国民に親しまれたそうです。こちらの石碑は「表忠碑」で西南戦争での戦没者供養のための石碑です。この石碑は「乃木大将詠草碑」。乃木大将(→→→こちら)の詠んだ「武士は玉も黄金もなにかせむ、いのちにかへて名こそをしけれ」という歌が刻まれています。こちらは旧九段会館の解体工事の際に掘り出されたコンクリート杭の先端部です。先が鉛筆のように尖っているのが歴史を感じます。今の杭はこういう鉛筆型ではなく、先端は平べったくなっています。ちなみに、旧九段会館が保存されている部分の基礎はこの杭が残っているそうです。こちらも旧九段会館の解体時に出たもので、鉄骨鉄筋コンクリート造りであった九段会館の鉄骨柱の柱脚部だそうです。この背の高い木は「楠公記念楠」で南北朝時代の武将で天皇の忠臣として名前を残す楠木正成を偲んで植樹されたクスノキです。クスノキの根もとにあるこの石碑は「西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑」。西南戦争で殉職した陸軍士官学校生徒33名の慰霊のための碑です。よく見ると碑文は全部漢字で書かれていました。この貝塚碑は、戦争とは関係なく、旧九段会館を建設する時に発見された貝塚に関する石碑です。こちらは内堀通りに面した九段下交番の横にある弥助砲(→→→こちら)です。薩摩藩士大山弥助(後巌元帥陸軍大將)が戊辰戦争に砲兵隊長としての歴戦の体験と米仏両国の兵書により明治2年従来の四斤山砲という大砲を改良した国産最初の洋式大砲だそうです。10月1日に開業したらちょっと訪れてみたい九段会館テラスでした。人気ブログランキング九段会館テラス
2022年09月21日
コメント(22)
JRの四ッ谷駅は史跡「江戸城外堀跡」の範囲に建築されています。そういうことで、令和2年(2020)に、四ツ谷・麹町口改札外コンコースに、江戸城外堀史跡に関する写真やパネルを展示する「江戸城外堀史跡展示広場-外堀と鉄道-」という広場ができました。この展示が出来てから初めて見学にやって来ましたが、規模は小さいですが、江戸城外濠・四ツ谷駅・中央線(甲武鉄道)等について学ぶことができるようになっていました。こういう歴史を知ることは案外興味深いものでした。また、麹町口出口周辺にも、展示物があり、「四谷門枡形石垣に用いられた石材」についての解説板。そして、「現存する四谷門の枡形石垣」についての解説板が設置されていました。これが現存する四谷門の枡形石垣だそうです。なかなか貴重な遺跡かもしれませんね。駅でこういうことが学べるというのもまたいいものですね。人気ブログランキング四ツ谷駅に残る江戸城外堀遺構
2022年09月18日
コメント(32)
港区麻布狸穴町のあたりは閑静な住宅街が広がっていますが、鼠坂を辿って行くと、この公園に出ます。狸穴公園という公園です。「狸」を「まみ」と読ませるのはなぜかと考えてみると、アナグマのことを「獣へんに耑という漢字(まみ)」(→→→こちら)と呼ばれていて、その「アナグマ」が生息していたが、これが後に「狸」の字と混同されてしまい、狸穴(まみあな)となったのかと思われます(個人の意見です)。麻布という土地柄なのか、立派な噴水があってなかなかの高級感のある公園でした。狸穴稲荷神社(狸穴稲荷大明神)という神社が園内にありました。アナグマが住んでいたほら穴がにあったことから「狸穴」と呼ばれるようになったというそうなので、案外、この狸穴稲荷神社あたりにそのアナグマが住むほら穴がたっのかもしれませんね。【了】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その22) 狸穴公園と狸穴稲荷神社
2022年09月14日
コメント(22)
狸穴坂を通り過ぎて、もう少し西に行くと坂道を示す標柱はありませんが、「鼬(いたち)坂」という坂です。コンクリートの舗装になっていてかなりの急坂になっています。この坂道を下っていくとマンションの脇に石碑があります。石柱には「島崎藤村旧居」とありました。島崎藤村(→→→こちら)といえば、「若菜集」などの詩集や「夜明け前」などの小説で有名な作家ですね。なぜか強制発光設定になっていたので、フラッシュの光が反射してしまいました。相変わらず雑な写真ばかりで恥ずかしいです。その隣の石板によると、島崎藤村は、大正7年(1918)から昭和11年(1936)までここに住んでいたようですね。碑文には島崎藤村は71才の生涯のうち文学者として最も充実した47才から65才(大正7年~昭和11年)までの18年間 当麻布飯倉片町33番地に居住した 大作夜明け前 地名を冠した飯倉だより童話集 ふるさと おとなものがたり などは当地での執筆であるとありました。この先をさらに歩いて行くと、自動車が通れないような狭い道になりました。 この坂道は「鼠坂」です。標柱には以下のように記されていました。細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶ慣習があったといわれる。また、鼬坂(いたちざか)とも呼ばれ、上は植木坂につながる。しかし、この辺り、鼠とか鼬とか狸とか、動物に因む名前が多いですね。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その21) 鼬坂の島崎藤村旧居
2022年09月13日
コメント(20)
9月10日は中秋の名月でした。東京ではキレイな満月が見えました。人気ブログランキング中秋の名月
2022年09月11日
コメント(30)
ロシア大使館の西側にあるこの坂道が、狸穴坂です。地名の由来としては、まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴(まぶ)が坂の下にあったという説が有力らしいですが、採鉱(さいこう)の穴であったという説もあるそうです。結構古くからの地名のようで、こういう石碑もありました。1644年に徳川家光がこのほら穴の視察を命じたという話や、徳川の大奥を荒らしまわった古狸がここのほら穴に住んでいたというエピソードも残っているらしく、江戸時代からこの狸穴坂の狸と住居のほら穴が有名だったみたいですね。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その20) 狸穴坂
2022年09月08日
コメント(28)
ロシア大使館の広大な敷地の裏手に来ました。ここにあるのは、「日本経緯度原点」(→→→こちら)です。港区教育委員会による説明板がありました。日本経緯度原点は、日本の経度と緯度を定める基準となるものです。この原点の数値は、測量法施行令(昭和24年政令第322号)によって定められたものだそうです。この説明板によれば、この経度・緯度の数値は大正7年(1918)に文部省告示により確定されましたが、平成13年(2001)に測量法が改正され、世界測地系の採用により修正され。さらに平成23年(2011)の東北地方太平洋沖地震による地殻変動があり、また改正されたそうです。その時の数値が以下のように示されていました。〇 大正7年(1918) 東経 139度44分40秒5020 北緯 35度39分17秒5148多分、この間に関東大震災もあって、経緯度は少し動いていたかもしれません。〇平成13年(2001) 東経 139度44分28秒8759 北緯 35度39分29秒1572〇平成23年(2011) 東経 139度44分28秒8869 st 北緯 35度39分29秒1572秒単位の小数点第4位まで測定されていたんですね。これで地球上の位置をミリ単位まで決められるということのようです。しかし、考えてみれば、もう少しキリのいい、東経139度44分28秒とか 北緯 35度39分29秒とかにしなかったのかとか、こんな判りにくいところではなく、もっと広々したつくば市にある国土地理院の場所にしなかったのかとかと思いますが、そうはいかないのが、この位置を決めた経緯にあるようです。この場所には、明治7年(1874)から海軍の観象台が置かれていましたが、明治21年(1888)に、赤坂区溜池葵町の内務省地理局天象台、本郷区本郷の東京帝国大学理科大学天象台と合併し、東京帝国大学付属の東京天文台がこの場所に発足しました。経度を測るために使った手法が、経度0となっているイギリスのグリニッジ天文台の子午線(地球を南北に通る線、方位を十二支で示すと北の方角が「子(ね)」、南の方角が「午(うま)」になる)を通過した星座が何時間後に東京天文台の子午線を通過したかで、その時間差から経度を決める手法だったので、その観測をしている天文台のある位置が経度の原点になったのです。また、緯度は北極星の見える角度が緯度でたったためでしょう。ちなみに南半球では南十字星で緯度を決めていました。もちろん現在ではこのような天文観測によって決めていないので、世界測地系の経緯度と天文観測で決めた経緯度は一致していないようです。この花崗岩台座の上にあるのが日本経緯度原点です。こちらが、国土地理院長による石碑があります。設置した年月は平成23年10月21日となっていて、東北地方太平洋沖地震後の経緯度が刻まれていました。真ん中の円形の金属板が日本経緯度原点です。両側の黒い石は東京天文台が経度の観測に使った子午環の台座のあった場所になります。ちなみに、子午環は方角が南北方向に正確に固定され、上下角は動かせるのですが、東西方向を見ることが出来ない天体望遠鏡です。この真ん中の赤い十字線が原点なんですね。こちらの石柱の上には、原点方位角の32度20分46秒209が示されていました。この角度は、経緯度原点より真北を基準として右回りにつくば超長基線電波干渉計観測点方向の角度と定めています。原点方位角があることで、真北、つまり北極点の方向が明らかになります。また、磁石が示す北(磁北)とは異なっています。例えば、ある地点の位置を統一的に特定するためには、日本経緯度原点との正確な「距離」と真北からの「角度」が必要になります。その際、原点方位角が分かっていれば、どこの地点でも真北からの「角度」を正確に知ることができるというわけです。この日本経緯度原点の近くには、アフガニスタン大使館がありました。この国も今どうなっているのかよくわからない国ですね。【つづく】【追伸】MoMo太郎の昨日の投稿で、「ロシア大使館の撮影は遠慮した」という旨のことを書きましたが、それに対して、>ロシア大使館の写真、多分問題なく撮影できると思いますよ。という書き込みをされた方がいました。職質されてもいいのか、それとも職質には慣れて要るのか、また、建物を撮影するだけなら問題はないですが、警官が立ち番をしているところで撮影した場合、どうしても警官が写り込むことになるので、多分、撮られた人はあまり良い気持ちはしないだろうという忖度をして、できるだけ人物が写り込まないような写真を掲載したいと、MoMo太郎は思っています。このコメントを書き込んだ方は、勝手に自分が撮影された写真がネットで公開されても気にしない方なんでしょうかね。人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その19) 日本経緯度原点
2022年09月07日
コメント(22)
芝給水所公園から西に向かって、桜田通り(国道1号線)に出ます。桜田通りと外苑東通りが交わる飯倉交差点です。外苑東通りを北西方向に向かうと六本木に出ます。外苑東通りに面してロシア大使館があるためでしょうか、時節柄もあって、警察の機動隊輸送車両が止まっていて、警官が立っていました。この外苑東通りをそのロシア大使館の方に向かって歩いて行くと、スポーツカーが展示されている光岡自動車(→→→こちら)のショールームがありました。ロシア大使館を撮影したかったのですが、警備の警官も多く立っていて、ちょっと撮影は遠慮しておきました。この江戸時代からあるという一乗寺の反対側がロシア大使館です。なんとなく昔から気になっていた日本火薬工業会(→→→こちら)、一乗寺のとなりあるビルに事務所があったんですね。何となくこの辺りかなと思っていましたが、ここにあったんですね。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その18) ロシア大使館の撮影は遠慮しました
2022年09月06日
コメント(24)
水道水は、浄水場から給水所を経て各事業所や家庭に配水されています。芝給水所はその施設の一つです。水道水の使用量は各家庭や各事業所によって時間ごとに変動するので、浄水場から送る水を使用量の変動に合わせて細かく調整するのは難しいので、その変動を吸収するため送水量が使用量を上回った場合は、一時的に給水所にある配水池に貯水し、反対に使用量が送水量を上回った場合は、貯水した水を使って使用量に合った水を各家庭や事業所に配水するようしています。また、ここに蓄えられている水道水は、大規模震災時の飲料水としても利用され、緊急用の給水車などに積まれて被災地へ運ぶそうです。港区立芝給水所公園は、この配水池の上部を利用しています。このコンクリート製の水槽が配水池でこの上が公園として利用されています。東京の近代水道の歴史は、明治31年(1898)、淀橋浄水場(当時の東京府豊多摩郡淀橋町、現在の新宿区西新宿・北新宿)と本郷給水所、芝給水所の稼働をもって始まりまた。ということで、この芝給水所は東京の水道の歴史とともに歩んできた施設になります。その近代水道の建設に従事した当時の関係者の情熱や技術力を後世に伝えるため、旧芝給水所の煉瓦造りの建物の一部も配水池のコンクリートの壁に残されています。この銘板も明治時代に造られたものでしょう。また、芝給水所の歴史がこの説明板に記されていました。以下のような碑文でした。芝給水所の歴史芝給水所は、芝増上寺の北西部の高台に位置し、信濃小諸藩主 牧野遠江守康済の屋敷跡地に、芝給水工場として明治29年(1896年)8月に竣功、明治31年12月に淀橋浄水場から浄水を受け給水を開始しました。この給水所は、淀橋浄水場、本郷給水工場と共に、東京近代水道の始まりとなった施設で、その後約100年にわたり、関東大震災や戦災に見舞われながらも、東京都民の暮らしに欠かせない水を送り続けてきました。旧芝給水所は煉瓦造りであり、東京における近代水道創設当時の高い土木技術を物語る文化的・技術的遺産です。芝給水所を改築するに当たり、先人の偉業を称え、旧芝給水所の一部を保存し後世に伝えるものです。平成14年2月 東京都水道局この給水所公園の隣にある古い門は、昭和40年(1965)に廃止された淀橋浄水場の門が移設されたものだそうです。石造りの立派な看板ですね。芝給水所の遺構が庭に展示されています。手前に見えるのが、水道管の分岐管ですね。向こうにあるレンガの構造物は、地下水路トンネルの一部のようですが、馬蹄形流路と説明板に書かれていました。ここからさらに東京タワーの西側に向かって歩いていきます。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その17) 東京都水道局芝給水所
2022年09月05日
コメント(24)
東京タワーの向かい側にある機会振興会館の裏に回るとある芝給水所公園です。東京都水道局芝給水所が平成14年(2002)に大規模リニューアルにあわせ、給水所の配水池上部を利用した公園です。ビルの谷間公園のほとんどの部分はこのような人工芝のサッカーグランドになっています。狭い敷地ながら子供向けの遊具は充実しているみたいです。最近の公園にはこういうオブジェが設置されるきまりになっているのでしょうか。公園の近くには芝中学校・高等学校があります。元々は増上寺内に僧侶養成と徒弟教育の機関として設置されたそうですが、今ではかなりの進学校らしいです。次回で、もう少し芝給水所の施設について紹介したいと思います。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その16) 芝給水所公園
2022年09月04日
コメント(34)
東京タワーの下にやってきました。この東京タワーを設計したしたのは当時の日本の塔設計の第一人者であった内藤多仲博士(→→→こちら)だそうですが、このタワーの設計をしていた昭和30年代初頭、今のようなコンピューターで構造計算をしていたとは思えず、内藤博士やその設計に携わった技師の皆さんは、計算尺(→→→こちら)や算盤を駆使してこの複雑な骨組構造を設計したんでしょうね。、この東京タワー、エレベーターで登る人が多いのでしょうが、東京タワーの下にあるフットタウンの屋上から階段で上がることもできます。ここがその階段の入口になります。このような階段があって、東京タワーに登ることができるって知ったのは、 作詞家の松本隆の小説「微熱少年」(→→→こちら)を原作にした映画でした。この映画で主人公の少年が、ザ・ビートルズ日本公演のチケットを得るために東京タワーを登れるところまで登って、鉄骨にリボンを結ぶ競争をするというシーンがあったのです。東京タワーの向かい側にある機会振興会館(→→→こちら)です。MoMo太郎も時々、色んな行事の集まりなどで訪れています。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その15) 東京タワーの階段
2022年09月02日
コメント(26)
「もみじ谷」の斜面に4体のお地蔵様が祀られています。近くで撮影してみると一番左側のお地蔵様は石でできた祠のようなものがありました。ということで、このお地蔵様のある所に行ってみました。ここは蛇塚(→→→こちら)という有名な金運アップ、仕事運、出世運アップなどのご利益があるパワースポットだそうです。新宿の居酒屋の女将が、夢に蛇が現れるたびに店が繁盛したので、蛇(龍神)を自分の守り神と確信して、蛇塚を造り祀ったのがはじまりだそうです。卵やお酒をお供えして、願い事をすると出世するそうですが、衛生的に問題があるそうで、お供えはお持ち帰り下さいとの注意書きがありました。この一番奥の地蔵尊のところに蛇の像が置かれていて、ここに日本酒と卵を備えると金運を授かれるそうです。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その14) パワースポット
2022年09月01日
コメント(30)
今の東京タワーのある場所は江戸時代から紅葉山と呼ばれた場所だったそうです。その直下にある芝公園のもみじ谷です。この渓谷は、昭和59年(1984)に復活した人工の渓谷ですが、このせせらぎと周辺の緑はまるで山の中にきたかのようにも思えます。東京タワーの建つ場所は、武蔵野台地の最東端に位置していて、周辺の低地に比べて地盤が比較的強固だったことから東京タワーが建設されたのですが、芝公園と東京タワーの間には、急勾配の崖線が南北に走り、15mの高低差があります。この崖線の地形を利用したのがこの「もみじの滝」です。もみじ谷のシンボルである「もみじの滝」は、高さ10mの岩場から落下する滝はなかなか壮観でした。その名のとおり、滝の周辺には、モミジが植えられています。訪れた夏は青モミジでしたが、紅葉のころには今以上の趣があるのでしょうね。この「もみじ滝」を設計したのは、自然の地形を生かす設計を心掛けた長岡安平(→→→こちら)という人物であり、明治年代から大正初期に至る間の造園技術の第一人者、また公園行政官のパイオニアだったそうです。芝公園のもみじ谷のモニュメントとして、この「複眼的報道の塔」(→→→こちら)というソーラー電波時計が設置されています。台座の銘板にあるとおり、設置したのは公益社団法人 日本専門新聞協会(→→→こちら)という団体で、朝日や毎日、読売といった一般日刊新聞と違って、余り一般の人にはなじみのない日刊建設工業新聞(土木建設の関係者向け)、日本医事新報(新聞というより週刊誌で医療関係者向け)といった専門性の高い記事が中心の専門新聞を発行している会社の団体です。複眼的報道というのは、多くの専門新聞が集まり、眼として機能して、不偏不党・厳正中立の姿勢で、世の中の事実を明らかにするという決意の表れなんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その13) もみじ谷
2022年08月31日
コメント(25)
増上寺の西側裏手にあるこの建物は「明照会館」です。浄土宗宗務庁という大きな看板が目印です。ここには、浄土宗関係の団体や全日本仏教会という団体が入居していて、そうそう一般人が入れそうな雰囲気もないのですが。三康文化研究所附属三康図書館(→→→こちら)という施設があります。この三康図書館は私立図書館ですが、なかなかスゴイものらしいです。運営する公益財団法人「三康文化研究所」の役員には隣接する増上寺とプリンスホテル系列の西武鉄道関係者が名を連ねているそうです。三康図書館は26万冊を所蔵する。うち18万冊は現在の千代田区にあった大橋図書館から引き継いだものだそうです。大橋図書館というのは、明治35年(1902)、雑誌を中心に発刊していた明治期を代表する出版社「博文館」がつくった私立の図書館です。当時の東京市にはまだ自治体の公共図書館がなく、民衆に大人気だったそうで、これが公共図書館の整備を行政に促す契機になったそうです。三康図書館には博文館が発行した人気雑誌を中心に、戦前の書籍が多数あります。古典資料も、江戸名所図会の下書き絵、方丈記絵巻、伊能忠敬実測原図など約九千点あるそうです。また、大衆文芸書などの「読み捨て」扱いされた本や、パンフレット類なども廃棄せずに所蔵しているのだとか。そ図書館の利用にあたっては、入館料1回100円(お得な回数券もあるそうです)。また高校生以下および18才未満の方は無料。土・日、祝日が休館日になっています。三康図書館、誰でも知っている東京タワーのほぼ真下にあって、ほとんど知られていない民間図書館ですが、結構面白そうです。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その12) 私立図書館
2022年08月30日
コメント(28)
引き続き、東京タワー周辺のマイナースポットを紹介しています。さて、こちらはザ・プリンスパークタワー東京(→→→こちら)。むかし、多分ここはゴルフ練習場やボウリング場だったような記憶が・・・。芝公園の西側の外周に沿って歩くと、弁天池と呼ばれる池があります。池の横にあった説明板では「紅蓮白蓮の弁天池」と紹介されていました。芝公園になる以前より、増上寺の山ある丘の西後方、境内裏鬼門にあたる位置に弁天池という広大な蓮池があったそうで、夏には紅蓮白蓮が混ざり合って咲く奥深く静かな景勝地だったそうです。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その11) 昔はこうだった
2022年08月29日
コメント(28)
芝公園の南端にある台地の先端部。そこにあったのが、丸山貝塚という、縄文時代中期の終わり、あるいは後期のものと推定される貝塚。古代人が捨てた貝殻が層をなして積もった遺跡のことを貝塚というそうですが、端的に言えば、生ごみや動物の骨、土器、石器などが捨てられたゴミ捨て場。ゴミ捨て場は、考古学の研究者とっての夢の島ですね。小さな稲荷神社のお社がありますが、この大きな小山は人為的に盛られた古墳だそうです。東京都指定史跡「芝丸山古墳」(→→→こちら)です。全長106メートル前後、後円部径約64メートル、前方部前端幅約40メートル、くびれ部幅約22メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳だそうです。この古墳を登ると頂上に、虎(多分)のモニュメントがありました。ちょっと読みにくいですが、「万木 鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺 鳩山 薫」と刻まれています。万木は自由民主党副総裁を務め、岐阜羽島駅前に銅像の建つ「政治は義理と人情だ」が信条の政治家、大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名は大野 伴睦(おおの ともちか)の俳号です。また、鳩山薫とは、自由民主党総裁、総理大臣で大野伴睦の盟友だった友愛の政治家、鳩山一郎の妻で共立女子大学長だった人です。この句碑は、大野伴睦が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するため昭和38年6月、調理師法施工5周年にあたって贈呈されたものだそうです。こちらは明治22年(1889)、東京地学協会が日本地図を作った測量の先駆者・伊能忠敬の功績を顕彰して建てた「伊能忠敬測地遺功表」(→→→こちら)を再建したものです。最初の遺功表は戦災で失われたため、現在の遺功表は昭和40年(1965)に再建されたそうです。この地に遺功表が建てられたのは、伊能忠敬が測量を開始する起点となったのが高輪大木戸であったことによるようです。再建された時の碑文がありました。碑文です。伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。 1965年5月 社団法人東京地学協會 會長細川護立【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その10) 貝塚と古墳
2022年08月26日
コメント(28)
港区芝公園の南側にある芝東照宮(→→→こちら)です。当然、東照宮ですからご祭神は徳川家康公ですね。元来は増上寺内の社殿であったのが、明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となったそうです。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされている東照宮の中でも幹部クラスの神社なんだそうです。緑に囲まれた厳かな雰囲気の神社です。参道は駐車場も兼ねていました。神社の鳥居の扁額の揮毫は「家達」とありました。調べてみると徳川宗家第16代当主の徳川家達(いえさと)氏のことだそうです。国宝に指定された旧社殿は昭和20年(1945)の東京大空襲によって焼失したそうです。現在の社殿は昭和44年(1969)に再建されたものだそうです。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その9) 芝東照宮
2022年08月25日
コメント(24)
増上寺の表の顔として、日比谷通りに面したこの門は、増上寺の中門にあたり(表門は大門)、正式名称は三解脱門といいます。大殿(だいでん)と呼ばれる増上寺の本堂と東京タワー。建設中の高層ビルができると景色の味わいも変わりますね。マイナースポットを紹介するのがこのブログの内容なので、増上寺境内にあるこちらの塔を紹介します。「土木建築殉職者慰霊塔」(→→→こちら)です。名前のとおり、建設工事に従事しながら、不幸にも不慮の災害に遭い亡くなられた方々の御霊を合祀し、供養する目的で日本土木建築請負業連合会(現在の一般社団法人全国建設業協会)が建立したものです。慰霊塔の脇にある石碑の碑文です。土木建築殉職者慰霊塔ノ記土木建築事業ハ一國文化ノ象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築クや固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖レス斯ノ高業ニ従フモノ洵ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ而シテ不幸ソノ職ニ殪レシモノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナランヤ茲ニ全國同業者ノ寄進ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永ク其ノ菩提ヲ弔ハントス 昭和12年(1937)3月21日 日本土木建築請負業聯合會昭和12年に建立されたにしては、慰霊塔は新しくキレイですね。建て替えられたのかな?【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その8) 土木建築殉職者慰霊塔
2022年08月24日
コメント(34)
増上寺の三解脱門前の芝公園にやってくると、芝公園に関する説明板があります。この「大松原と呼ばれて」という説明板には、「芝公園のうち、増上寺三解脱門(三門)前に位置するあたりは古くから大松原と呼ばれて北中南の三区よりなり老松枝を交え松籟俗塵を払い、自然美豊かな区域でした。・・・」とありましたが、今、芝公園に多いのはクスノキですね。こちらは「ベルリ提督像」です。ベルリ提督とは、嘉永6年(1853)に来航して鎖国の扉をこじ開けたマシュー・ペリー提督のことです。芝公園とベリー提督の関係はよくわかりませんが、この頭像は、日本開国百年を記念してペリーの出身地であるロードアイランド州ニューポート市から東京都に贈られたものだそうです。このペリー像と向き合うように、「万延元年遣米使節記念碑」が建立されています。万延元年遣米使節とは、万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するために結成された、新見正興(しんみまさおき)を正使とする使節団のことです。使節団は米国軍艦ポーハタン号に乗船して渡航しましたが、往路に同行し、一足先に帰国した勝海舟や福沢諭吉らの乗った「咸臨丸」の方が広く知られていますね。銘板には以下のように記されていました。西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう、 竹芝の 浦波遠く こぎ出でて 世に珍しき 舟出なりけり遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会またその下には、英語で書かれた説明板もありますが、これは港区在住の外国の方向けなんでしょうか。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その7) ペルリ提督像と万延元年遣米使節記念碑
2022年08月23日
コメント(22)
東京タワー周辺のマイナースポットを紹介しています。さて、ビルの谷間にあるこちらの神社は、芝大門一丁目に鎮座する芝大神宮です。品川神社や日枝神社と並び東京十社に数えられる、都内を代表する神社です。神宮の名が示すとおり、御祭神は天照大御神(内宮)と豊受大神(外宮)。「関東のお伊勢様」とも呼ばれているそうです。こちらが拝殿。縁結びの御利益がとくに有名だとか。鳥居の脇にあったこの塚は、ちょっとユニークな貯金塚。近隣地に現在のりそな銀行(旧あさひ銀行・旧協和銀行)につながる不動貯金銀行を設立し、貯金王と称された牧野元次郎(1874年-1942年)の偉業を称え、昭和32年(1957年)、当時の関係者により境内に貯金塚(碑文は、武者小路実篤筆)が建立されたものです。石碑には、小槌をかざした大黒様と「根氣 根氣 何事も根氣」という碑文が刻まれています。石碑の横にある銘板には、以下のように記されていました。貯金と災厄(昭和丗二年正月不動会建立)災厄は忘れた頃來るという 関東の大震災も亦然り 當時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し政府は直ちに支拂猶豫令を布いた 然るに其中にあってひとり預金の全額拂戻しを断行し大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある 其名を不動貯金銀行という 即ち牧野元次郎翁が頭取であった 其不動貯金銀行本店の當時の焼跡から出た欄稈破片二個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である 倉は焼けても貯金は焼けぬ なるほど、確かにそうですね。毎年10月には貯金祭として、貯蓄・貯金の加護祈請を行っているそうです。貯金を殖やしたいと願っているMoMo太郎にはピッタリの神社です。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その6) 芝大神宮の貯金塚
2022年08月22日
コメント(28)
ここは結構有名かもしれませんが、大門(だいもん)です。大門は増上寺の総門。つまり表門になります。ちなみに遊郭で有名な吉原の入口である大門は「おおもん」と呼んでいます。そのあたり間違えるとバチが当たるかもしれないので気をつけましょう。さて、この大門、結構綺麗に見えるのは、平成29年(2017)、増上寺により耐震調査の上、耐震補強・外観化粧直しが行われたからです。大門の脇にあった、江戸時代の浮世絵をレリーフにしたしたものです。江戸の昔から信仰を集め門前が栄えていた様子を示していました。大門の歴史を振り返ってみると、徳川将軍家の菩提寺であった増上寺ですが、明治維新の上地令により寺領が奪われるなどして経済的に困窮し維持できなくなったため東京府に寄付されたそうです。そして、昭和12年(1937)に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のまま高さを1.5倍の5.25mにし、コンクリート造りで改築しました。また古い大門は両国の回向院の総門として移設されましたが、太平洋戦争の空襲によって焼失したそうです。平成28年(2016)には、再び東京都から増上寺に返還され、港区指定有形文化財になるとともに、平成29年(2017)には改修工事が行われました。大門に掲げられた銘板がありました。これは大正・昭和期の浮世絵師、版画家であった川瀬 巴水(かわせ はすい、1883- 1957)による「芝大門之雪」という作品です。この作品は昭和11年に発表された作品なので、昭和12年に建て替えられる前の大門の姿を残しています。こちらは、港区指定有形文化財になった時の銘板ですね。これは昭和12年に有志からの寄付でコンクリート造りに建て替えられた時の銘板のようです。こちらは平成29年に改築された時の銘板になります。大門のそばにあった居酒屋さんの暖簾です。東京港醸造(→→→こちら)という港区芝にある酒屋さんがあるんですね。港区ということは、お米や麹は別としても、仕込みに使った水は東京の水道水なんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その5) 大門(だいもん)
2022年08月20日
コメント(18)
芝公園のうち、増上寺三解脱門(三門)前に位置するあたりは古くから大松原と呼ばれていようです。その松原を復元したことの説明板です。説明文には次のように記されていました。松原の復元 芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原 と呼ばれています。 それは、寛永十七年(一六四〇年)増上寺二十世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるとも伝えられています。 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変りました。 ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。 都は園地改修にあたり原形を残すとともに往来の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。 昭和六十二年二月 東京都ということで、黒松が植えられたこの一角で松原が復元されています。芝公園に面して建つこの建物は、慶応義塾大学薬学部芝共立キャンパスです。平成20年(2008)に共立薬科大学が慶應義塾大学と合併して、慶應義塾大学薬学部になったんですね。その芝共立キャンパスの隣にあったのは港区役所です。港区役所の一角にあるこの石で囲われたものが、「浅岡飯たきの井」です。浅岡飯たきの井の由来は以下のとおりです。江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩伊達家の支度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。万治3年(1660)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したといい伝えられる。昭和62年(1978年)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存した。 東京都港区良源院というお寺は、現在は、なくなっていて存在しないようですが、今の港区役所のあるあたりにあったのでしょう。伊達騒動(→→→こちら)とは、4代藩主にわずか2歳で就任した伊達亀千代(綱村)の後見人になった伊達兵部が、藩政を専権したため、伊達安芸が、幕府に訴えでて、幕府の裁定により、伊達兵部が土佐藩山内家に預けられて結着した、お家騒動のことです。本当に伊達綱村毒殺の陰謀があったのかどうかの事実はわかりませんが、伊達騒動を題材にした歌舞伎に「伽羅千代萩(めいぼくせんだいはぎ)」では、幼君鶴喜代(伊達綱村に相当)の乳母政岡が、幼君を敵の毒殺から守るため、わが子千松を毒見役として犠牲にする場面は大変有名ですね。 また、伊達騒動と言えば、山本周五郎の小説「樅の木は残った」で知られいます。この小説では、伊達兵部とともに藩政を専権していた家老原田甲斐を、大老酒井忠清の伊達家改易の企みを阻止するために闘った人物として描き、原田甲斐悪人説を覆しています。そこで、小説のタイトルとなった樅の木は、良源院のにあった樅の木のことのようです。「樅の木は残った」の最後の章「冬の章」では良源院が舞台となっていて、その中で、樅の木は次のように描かれています。雪はしだいに激しくなり、樅の木の枝が白くなった。空に向かって伸びているその枝々は、雪を衣(き)て凛と力づよく、昏れかかる光の中に独り、静かに、しんと立っていた。悪人としてでなくということですが、良源院は無くなり、樅の木もありませんが、浅岡飯たきの井は残ったのですね。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その4) 樅の木は残らなかったけど井戸は残った
2022年08月19日
コメント(22)
芝公園にある東京プリンスホテルです。プリンスホテルといえば、東京都内にも高輪プリンスホテル、赤坂プリンスホテル(こちらは閉館しましね)などいくつかある中でわざわざ東京プリンスホテルと名乗るのは、ここが東京タワーの近くだからかですかね。都営三田線の御成門(おなりもん)駅の名前の由来となった御成門です。この門は東京プリンスホテル北側の駐車場に残されいます。この門、もちろん、「上様のおなり~」というセリフの「御成り」に由来しています。この説明板にあるように、増上寺は徳川将軍家の菩提寺だったため、将軍家を迎えていたとされています。御成門は、もともとは増上寺の裏門として作られましたが、将軍家がお参りの際に使ったため、それから御成門と呼ばれるようになったそうです。ちなみに、もともとは御成門交差点にありましたが、明治25年に日比谷通り建設のためここへ移設されたそうです。日比谷通りに面して東京プリンスホテルの入口の横にあるこの門は、有章院霊廟二天門(→→→こちら)です。江戸幕府七代将軍徳川家継の霊廟の惣門になります。有章院霊廟は、1717年(享保2年)に八代将軍徳川吉宗が建立したものですが、1945年(昭和20年)5月の東京大空襲で焼失しましたが、二天門だけが焼失を免れてここに残っています。江戸幕府第7代将軍の徳川家継はわずか5歳で歴代最年少の将軍となり、その4年後には病気のため短い生涯を終えました。二天門の横にあった説明板ですが、写真だとちょっと読みにくいですね。説明板の文面です。有章院(徳川家継)霊廟二天門。芝公園3-3 東京プリンスホテル現在の東京プリンスホテル敷地には、戦前、六代将軍家宜の文昭院霊廟と並んで、七代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の惣門です。霊廟は八代将軍吉宗が享保2年(1717年)に建立しました。その結構は日光に劣らぬと伝わる程でしたが、昭和20年(1945年)に東京大空襲で焼失しました。この焼け残った二天門は銅板葺、切妻造りの八脚門で、左右に仏法守護の役目を持つ広目天、多聞天の二点が祀られています。焼けた文昭院霊廟の門に持国天、増長天が置かれ、合わせて四天王としてまつられていました。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その3) 御成門と二天門
2022年08月18日
コメント(24)
都立芝公園にあるこの白い塔は「こども平和塔」です。こども平和塔は、3人の男の子を太平洋戦争で失った田沢鐐二(たざわりょうじ)翁(→→→こちら)の発願により、全国小・中学生が廃品を回収し、こづかいを節約して出し合った費用を中心に建設したそうです。毎年8月15日に清掃とこども平和まつりを同時に行っているそうです。ちなみに、田澤鐐二先生(1882-1967)は、東京帝国大学医学部出身の医師で、結核の予防と治療につとめ、医師の公共奉仕的態度の大切さを説いた“仁道奉公”を医の基本とした方だそうです。こちらは増上寺と芝東照宮の間にある港区立芝公園(→→→こちら)に「平和の灯(ひ)」です。この平和の灯は、「港区平和都市宣言」を行ってから20年が経過したことを記念し、平成17年8月15日に区立芝公園に設置されたものです。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市星野村の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものだそうです。この中の炎が平和の灯なんですね。暑さのせいか、周囲の池では平和の象徴のハトと恩返ししてくれるスズメが水浴びしていました。MoMo太郎も暑かったのですが、ここで水浴びするわけにいかないので、こちらのクールスポットで体を冷やしました。ミストが結構、勢いよく噴き出されていて、十分体温を下げられそうです。【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その2) 芝公園で願う平和
2022年08月17日
コメント(32)
以前、東京スカイツリー周辺のあまり目立たたない、ちょっとマイナースポットを紹介していましたが、それならスカイツリーの先輩格である東京タワー周辺のマイナースポットも紹介することにしました。東京タワーに近い駅というと、都営三田線の「御成門」駅でした、「でした」というのは、今は都営大江戸線の赤羽橋駅の方が近いかもしれないですね。写真は御成門駅の入口です。木立に隠れていますが、東京タワーが姿をのぞかせています。東京タワーの下に広がる芝公園。明治6年(1873)の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に芝の5カ所が、日本で最初の公園として指定されたのが芝公園の始まりです。芝公園は増上寺を中心とした都立公園で、面積は約12.3ha(122,501.09m2)。園内にはホテル、図書館、スポーツ施設などがあります。元々は増上寺境内の敷地を公園としていたそうですが、政教分離ということで、増上寺の敷地とは切り離されています。政教分離といっても、最近は世界平和統一家庭連合というカルト宗教団体と仲の良い政治家さんたちも多いようですね。御成門駅から近い芝公園北端の入口付近にあった石碑です。「開拓使仮学校跡」という石碑です。開拓使仮学校(→→→こちら)とは、北海道の「開拓」に従事する人材養成を目的として、当初より札幌への移転を念頭に置き、東京に「仮学校」を開校したそうです。この開拓使仮学校は後に札幌に移転し、「Boys be ambitious」のクラーク博士(→→→こちら)で有名な札幌農学校(現・北海道大学)になったそうです。北海道大学の発祥の地が東京芝公園にあったとは意外な発見でした。【碑文】北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を育成するため増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。生徒は、官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。仮学校は明治8年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった【つづく】人気ブログランキング東京タワー周辺のマイナースポット(その1) 開拓使仮学校跡
2022年08月16日
コメント(30)
蔵前橋通りと三つ目通りの交差点の少し北にある「NTT石原ビル」です。このビルの庭には慰霊碑が立っています。慰霊碑のそばの看板には次のように書かれていました。この慰霊碑は、昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員三名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和三十三年三月十日に建立されました。 慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。 昭和五十九年三月十日 墨田電話局街角に残る戦争の記録です。今日は、戦争の犠牲となった人達を悼み、そして平和を希求することを忘れてはいけない日ですね。人気ブログランキング墨田電話局慰霊碑
2022年08月15日
コメント(24)
パチンコ屋さんの店頭にあったディスプレイ人形。タコのイメージなんでしょうかね。動画で撮影してお見せできればよかったのですが。このディスプレイ人形の右腕が縮んだり。さらに縮んで、そして、また、延びました。なかなか面白くて、しばらく見てても飽きませんでした。人気ブログランキング店頭ディスプレイ人形
2022年08月05日
コメント(28)
さて、於岩稲荷田宮神社と道路を挟んで向かい側にある長照山陽運寺にもお参りしましょう。こちらにも「於岩稲荷」の提灯が下がっていて、こちらのお寺の方が「お岩」さんを祀る元祖のお寺かと思う人も多いかもしれませんね。しかし、こちらの陽運寺は、茨城県常陸太田市にある本山久昌寺(徳川光圀公由縁の寺院)の貫首であった蓮牙院日建上人が昭和の初め頃建立したお寺です。「於岩稲荷」のオリジナルである於岩稲荷田宮神社は、明治12年(1879)に火事で焼失し、昭和27年(1952)にこの地に再建されるまで、中央区新川に移転したままだったので、「東海道四谷怪談」お岩ゆかりの当地に「於岩稲荷」をお祀りする施設がないことから、水戸久昌寺の蓮牙院日建上人が気を利かせて、ここに長照山陽運寺を開基したというところでしょうか。山門の脇にも入口かあって、そこにお洒落なパラソルとか置いてありました。四谷怪談で有名なお岩さん所縁のお寺と言うと、ちょっとおどろおどろしい雰囲気がありそうですが、そうでもないですね。ちなみに。本堂は栃木下野にあった1757年に建造された薬師堂を移築したものだそうです。写真にちょっと写り込んでしまいましたが、結構若い女性の方もお参りに来られています。モデルとなった於岩さんは夫婦仲の良い、良妻だったということで、良縁成就などの御利益があるのかも。「龍神様の手水」と書かれています。お岩さんもこちらの霊水を使用したといわれているそうです。お参りの前はここでお清めを忘れずに。お寺の奥にあった「お岩さん縁の井戸」。お岩さんもこの井戸を使っていたのですかね。本堂の脇にある休憩所のようです。この食堂で食事する人もいるんでしょうかね。さて、外苑東通りに出ると、道路沿いにあの宗教団体の大きなビルがありました。信濃町というとやっはりあの宗教団体抜きには語れないのかも。そして、出発点のJR信濃町駅に戻ってきました。(信濃町散歩コースです)【了】人気ブログランキング信濃町散歩(その7)長照山陽運寺
2022年05月29日
コメント(28)
四谷左門町にある於岩稲荷田宮神社です。元々田宮家内にあった稲荷社からできた神社だそうです。かの「東海道四谷怪談」を芝居や映画で上演する時、事前にここへ参拝しないと事故が起こるという、まことしやかな噂もありますが、実は「四谷怪談」は四世鶴屋南北が創作したフィクションです。四谷左門町に田宮家が存在し、そこに「お岩」という名の女性がいたことは事実だそうですが、彼女が夫に裏切られ、毒を盛られて殺されたという話はなかったそうです。「お岩」は夫の伊右衛門を助けて火の車だった家計を立て直し、再び家を盛り返したとされ人物で、それ故、現在の於岩稲荷は夫婦円満のご利益がある神社で、経済的困苦を乗り越えた妻が信心していた屋敷神を、他の人があやかって信仰されてきた神社だそうです。ちなみに、於岩稲荷田宮神社の宮司は田宮家の子孫が代々継いでいるのだとか。神社に掲示されていた説明板です。内容は以下の通りでした。東京都指定旧跡田宮稲荷神社跡所在地 新宿区左門町十七標 識 昭和六年一二月二日指 定 昭和三〇年三月二十八日田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。 初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永一三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。 鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(一八二五)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。 戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。 稲荷社は明治一二年(一八七九)に火事で焼失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。 しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(一九三一)に指定されました。 戦後、昭和二七年(一九五二)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。平成二四年三月 建設 東京都教育委員会(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その6)於岩稲荷田宮神社
2022年05月28日
コメント(26)
四谷にある須賀神社は四谷十八ヵ町の鎮守様です。神社にあるこの石段(男坂)は、2016年に公開され、大ヒットを記録したアニメ映画「君の名は。」にも登場したという、ちょっとした知る人ぞ知る名所かも。石段を登り切ったところにある須賀神社の境内です。須賀神社の「須賀」という社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものだそうです。(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その5)須賀神社
2022年05月27日
コメント(28)
新宿通りを新宿に向かって左手にある閑静な住宅街の中を歩いていきます。意外と狭い道が続きます。忍者として有名な服部半蔵正成が開いた浄土宗西念寺があります。服部氏の菩提寺であるのと同時に、正成が守役を務めた徳川家康の長男・信康の供養のためにも開基されたそうです。また、寺宝として徳川家康から拝領した服部半蔵の持槍(新宿区登録有形文化財)を所蔵しているそうです。こちらが本堂でこの中に服部半蔵正成の槍が展示されています。山号は「専称山」です。こちらが、服部半蔵正成のお墓。新宿区教育委員会による説明板がありました。こちらが、お墓だそうです。(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その4)忍者服部半蔵のお墓
2022年05月26日
コメント(27)
迎賓館赤坂離宮です。2月末に行ったので、なんか並木道も寂しいですね。迎賓館赤坂離宮前の公園になにやら新しい施設が出来ていました。なかなかオシャレな外観でした。迎賓館赤坂離宮前休憩所(→→→こちら)という施設だそうです。迎賓館に参観に来た人のための施設で内閣府が設置した施設だそうです。地下はカフェになっているようで、政府機関が作るにしてはちょっと気の利いた感じですね。【つづく】(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その3)迎賓館赤坂離宮前休憩所
2022年05月25日
コメント(28)
明治記念館から、迎賓館赤坂離宮(→→→こちら)に向かいます。明治記念館と赤坂御所(青山御所)との間にある安鎮坂と呼ばれている坂道を下って行きます。この安鎮坂、権太坂、権田坂、権田原坂、権太原坂などの別名があるそうです。ちなみにこの坂道が東京都港区と新宿区の境界になっています。安鎮坂の名は、かつて坂の前にあった安藤左兵ヱの屋敷内に安鎮大権現の社があったことに由来しているそうです。別名の権田原坂は付近に屋敷のあった幕府代官の権田氏、あるいは権田原僧都の碑にちなむなど諸説あるそうです。坂の途中にあったみなもと町公園です。この公園では広いグランドがあってこの辺りに住んでいる子供たち(多分、いいところのお坊ちゃま)には楽しい公園でしょうね。坂道を下って行くと、かの有名な、学習院初等科がありました。愛子さまはここに通われていたんですね。悠仁さまはこちらには通われていなかったそうですが、坂の下にある四谷見附公園には、大きなプラタナスの木がありました。(MoMo太郎がこの公園を訪れた時は、2月末だったので、木の葉がなくて大木というイメージがちょっと湧きませんが、根元にあった説明板では、「幹周り4.8m、高さは32mあり、区立公園では最大の木です。」と書いてありました。(信濃町散歩コースです)【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その2)安鎮坂と学習院初等科
2022年05月24日
コメント(28)
JR総武線(各駅停車)の信濃町駅に初めて降りてみました。信濃町という地名の由来は、当地に江戸時代の幕臣・永井尚政(信濃守)の屋敷があったことによるそうです。なかなか立派な駅ビルになっていて、ビックリしましたが、こちらの慶応大学病院とか、某宗教団体の関係者とかでないと、余り利用することがないのかもしれませんね。某宗教団体とは、こちらのことですが。また明治神宮外苑への最寄り駅なので、こちらの聖徳記念絵画館を訪れる人やこの花崗岩張りの外観はなかなか風格ありますね。こちらのイチョウ並木の道を散策したりする人が信濃町の駅を利用するのかもしれませんね。イチョウ並木を解説した看板がありました。また、神宮球場にも近いので、ヤクルトスワローズのショップもありました。MoMo太郎は、とりあえずこちらの明治記念館の方を回って、信濃町駅周辺を散策してみました。【つづく】人気ブログランキング信濃町散歩(その1)はじめての信濃町駅
2022年05月23日
コメント(32)
日本オリンピックミュージアムも今のところ入館するのはインターネット予約制で、なおかつ高校生以下は無料ですが、一般は入場料500円が必要です。ああ、この瞬間だけ高校生に戻りたい。ということで、入場は諦めて屋外の展示物を見てみました。オリンピックミュージアムの入口近くにあるのが、この胸像と碑文。胸像は、日本スポーツ界の功労者といわれる岸清一(→→→こちら)先生のものです。こちらの碑文には岸清一さんの功績が記されています。大日本体育協会(体協)の発展に寄与し、国際オリンピック委員も務められた人らしいです。岸清一柿の遺言により100万円(現在の28億円に相当)が寄付されて1940年に東京府神田駿河台に岸記念体育会館(→→→こちら)が建設され、そして、1964年東京オリンピック開催時に渋谷区神南に移転。さらに、2016年に「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」としてここに移転し、そのビルの1階と2階がオリンピックミュージアムになっているそうです。つまり、この建物は岸清一氏の遺産を土地転がしで儲けて建てたというわけですね。ちなみに、岸記念体育会館はよく岸記念体育館と呼ばれていましたけど、体育館ではなく普通のオフィスビルだったわけです。こちらは、東京2020でもお馴染みのオリンピックシンボル。ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアの五大陸と、その相互の結合、連帯を意味しているらしいです。こちらにあるのは、聖火台の縮尺模型。左は1964年東京大会の聖火台で縮尺3/4。左は1972年札幌大会の聖火台で縮尺2/3だそうです。そしてこれは、1998年長野大会の聖火台で縮尺1/2。まだ、2020年(2021年に開催)の東京大会の聖火台はまだありませんでした。でもどんな聖火台だったかは忘れてしまいました。こちらは、嘉納治五郎(→→→こちら)像。柔道の創始者でオリンピック大好きな方だったようですね。こちらは近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタン(→→→こちら)像。一般にピエール・ド・クーベルタン男爵と呼ばれているので、貴族だったんですね。クーベルタン男爵は「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」という言葉を広めたらしいですが、やっぱりオリンピックに参加するためには、自分で自分を律して、自己の弱さに打ち勝った(この時はやっばり「打ち克った」と書くべきかも)人物がオリンピックに出場しているので、やっぱり参加するためには勝たないといけないですね。【了】人気ブログランキング青山散歩(その6) 日本オリンピックミュージアム
2022年05月20日
コメント(22)
青山通りに戻って、東京メトロ銀座線の外苑前駅近くにあるスタジアム通りを国立競技場の方に向かって歩いて行くと、色んなスポーツ関連施設があります。まず最初にあるのが、秩父宮ラクビー場です。ラクビー、面白いスポーツですがサッカーほど盛り上がらないのがファンとしては残念です。秩父宮ラクビー場にあるこの建物は、TEPIAプラザ先端技術館(→→→こちら)。TEPIAとは「一般財団法人高度技術社会推進協会、Technology Utopia」のことで、機械、情報、新素材、バイオ、エネルギー等の先端的技術動向を調査し、地球環境問題やイノベーションによる新規産業創出などの未来社会の発展のための重要課題の解決に役立つ最新の先端技術を、分かり易く体験的な手法で、情報発信することなどを目的として活動しているそうです。TEPIAプラザと隣の神宮球場との間)の垣根のところにあるが、「近代ボウリング発祥の地」の記念碑です。ガラス製の記念碑でちょっと変わっていますね。碑文には近代ボウリング発祥の地1952年(昭和27年)12月20日, わが国初の テンピンボウリング 手動式設備で, 東京ボウリングセンターが, この地に誕生する。後年, 自動式設備の登場と相まってブームを生み, レジャー産業の基盤を作り上げるきっかけとなった。 1994年9月29日協会創立30周年を記念し之を建立す。東京ボウリング場協会とありました。この東京ボウリングセンター、開業当時は会員制で入会金は3万円。ちなみに当時、四年制大学卒の国家公務員の初任給は7650円だったそうで、なかなか高級なレジャーだったようです。ところで、ここにあった東京ボウリングセンター、多分、昭和の終わり頃に吉祥寺へ移転したと聞いていますが、その後どうなったんでしょうかね。そして、東京ヤクルトスワローズのホームグランドであり、学生野球の大会も開かれる、野球の聖地、「明治神宮球場」(→→→こちら)です。この球場の所有者が宗教法人明治神宮だとは知りませんでした。そして、ここ日本オリンヒックミュージアム(→→→こちら)に着きました。【つづく】人気ブログランキング青山散歩(その5) スタジアム通り
2022年05月19日
コメント(40)
赤坂通りを歩いて行くと、環状三号線と交差するところに出てきました。六本木ヒルズと六本木トンネルが見えて、なんとなく東京でもオシャレ度が高そうなエリアですね。そして、青山霊園(→→→こちら)に入って来ました。青山霊園は明治7年(1874)に美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設された東京都の霊園です。著名人の墓所が多くあることもでも知られていますが、桜の名所としても知られ、墓参りだけではなく散策に訪れる人も多い場所です。そういう著名人の中には上野英三郎博士(→→→こちら)と忠犬ハチのお墓もありました。ちなみにこの写真は、東京大学構内にある上野英三郎博士と忠犬ハチ公の銅像です。こちらは青山霊園にある警視庁墓地です。警視庁墓地は、西南戦争に派遣された約9千5百名の内、不幸にも戦没した警察官を埋葬するために明治12年(1879)に設置されたのが始まり、その後、殉職した職員も埋葬されているそうです。やっぱり、お墓の手入れは警視庁がしているんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキング青山散歩(その4) 青山墓地で上野英三郎のお墓を発見
2022年05月17日
コメント(28)
旧乃木邸まできたので、やはり隣接する乃木神社も訪れたました。乃木神社、当然のことながら、乃木希典将軍とその妻・乃木静子を祀る神社で、アイドルグループの乃木坂46(→→→こちら)を信仰する人たちの神社ではありません。ちなみにMoMo太郎は乃木坂46の齋藤飛鳥(→→→こちら)が推しです。理由は、斎藤飛鳥さんのお母さんがミャンマー人だからです。MoMo太郎、むかしミャンマーで働いていたことがあり、なんとなくミャンマーには親近感を持っています。訪れた時は梅が盛りの時期でした。乃木神社の一の鳥居です。そしてここが乃木坂陸橋。外苑東通りと赤坂通り交差点が立体交差となっていて、赤坂通りはそのまま乃木坂トンネルになっています。この乃木坂トンネルを走って行くと表参道交差点につながります。【つづく】人気ブログランキング青山散歩(その3) 乃木神社
2022年05月16日
コメント(27)
青山通りから六本木に向かう外苑東通り沿いにあるこの建物。都営住宅です。都営住宅でも南青山にあるって、ちょっと魅力的な物件かもしれませんね。さらに六本木方面に向かって歩くと、旧乃木邸があります。門柱には「舊乃木邸」とありますが「舊」というのは「旧」という字の旧字体なんですね。もちろん、名前のとおり、日清・日露戦争を戦った陸軍大将乃木希典(1849~1912)の邸宅地です。明治天皇崩御の後に殉死された乃木将軍の遺言により、公園として東京市に寄贈され、大正2年に開設されました。現在は港区の有形文化財に指定され、港区により管理されているそうです。こちらの建物が乃木邸です。黒塗りの板張りで飾り気がなく、将軍のお宅にしては質素な造りでした。ちなみに通常、邸内は非公開となっていますが、年三回内部も一般公開されていて、MoMo太郎の訪れた日は、丁度内部公開されていた日でした。内部の撮影はできなかったので、庭園にあった「乃木将軍と辻占売少年像」を撮影してみました。明治24年(1891年)、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして建立された銅像です。こちらは馬小屋です。煉瓦造りで母屋より立派な建物。やはり昔の軍隊にとっては馬はとても大切なものだったんで、乃木将軍もこういう立派な馬小屋を造らせたんでしょうね。旧乃木邸の庭園です。乃木邸庭園の瘞(えい)血の處 です。 殉死したときに血が付いたものを埋めた場所だそうです。.「瘞」という字は、「うめる。うずめる。埋葬する。」という意味の漢字なんですね。【つづく】【東京いのちの電話について】MoMo太郎の昨日の投稿に対して、次のようなコメントをいただきました。このような事実誤認も著しいコメントを信じないようにして下さい。>いのちの電話は専門の工程を終了したボランティア、精神科の先生などはいないと思いますよ。>運営も100%自前、寄付などによって運営されて365日24時間人がいますが、当然のように人為>は極端に少ないのが現実です。>公共からの支援はありません。これに対して事実としては以下の通りです。東京いのちの電話では、「土曜医療相談」(→→→こちら)として、電話相談を受けた中で専門的な対応が必要な場合に土曜医療相談の電話番号をお知らせし、身体・健康・病気など医療に関する相談を受けています。毎週土曜(祝祭日を除く)14時~17時に医師がボランティアで電話を受けています。つまり、カトリック医師会、キリスト者医科連盟等が協力しています。このコメントをいただいた方は北海道にお住いのようで、北海道でこのような取り組みをされているかどうかはわかりません。十分ではないかと思いますが、厚生労働省では、地域自殺対策強化事業(→→→こちら)、自殺防止対策事業(→→→こちら)などにより、いのちの電話をはじめとする自殺対策強化へ交付金による助成を行っています。このようにMoMo太郎は事実関係を確認して記事を書くようにしております。人気ブログランキング青山散歩(その2) 旧乃木邸
2022年05月14日
コメント(30)
青山通りに面して、ホンダのショールーム「Honda Welcome Plaza AOYAMA」があります。試乗用に置いてあった車です。よくみるとサイドミラーがない。これでは路線変更もバックで駐車もできない!もしや欠陥車では。ショールームの中にも同じ車が展示されていました。中に乗ってみると、ドアの横についている黒い突起がカメラになっていて、運転席で後方が確認できるようです。これなら視線の移動も少なくて安全運転につながるかも。ゴールド免許証のMoMo太郎が一番欲しいのは、こういうロボットが同乗してくれて、ナビしてくれること。例えば、ASIMO:「後ろから若い女性の運転する赤いスポーツカーが追い越そうとしています」MoMo太郎:「ドライバーの年齢と女優で言えばだれに似ている」ASIMO:「推定30代、綾瀬はるか似です」MoMo太郎:「じゃあ、道を譲りましょう」という会話をしながらドライブするのも楽しいかも。しかしホンダといえば、今でもこういう、F-1に参加しているのかどうかわかりませんが、ホンダといえば、こういうモータースポーツのイメージは強いですね。そして、F-1といえば、T-Squraeのこの曲「Truth」ですね。今でも車が走るシーンのBGMなんかでもよく耳にする名曲ですね。【つづく】人気ブログランキング青山散歩(その1) Honda Welcome Plaza AOYAMA!
2022年05月12日
コメント(30)
4月の満月は英語圏では「ピンクムーン」と呼ばれているそうです。ほぼ満月の4月16日午後7時頃の月です。【最近,考えていること】2月24日に,ロシアがウクライナへの侵攻をはじめて,もう52日が過ぎているんですね。MoMo太郎のような素人はロシアがウクライナの首都キーウを陥落させるのに1カ月もかからないんじゃないかと思っていましたが,そういうわけでもないのですね。とにかく早くこの戦争か終結して平和がウクライナに戻って来て欲しいと希求します。それはそうと,最近はテレビで現地からの映像を観ていると,画面に「ぼかし」が入っていて,戦争で犠牲になった人たちのご遺体を見せないようにしているんですね。確かに,みんなが茶の間で楽しく観ているテレビに沢山のご遺体,多分,刑事ドラマで観ているようなきれいなご遺体ではなく,損傷の激しいご遺体を見たくはないですが,視覚から戦争がいかに残酷でやってはいけないことかを認識することも必要なのではと思う次第です。まあ,沢山のご遺体を見せて,テレビの前の人達の気持ちを傷つけるようなことになるのは,戦争と同じような暴力なので良くはないことでしょから,例えば,週刊誌とかにはちゃんと戦争の悲惨さが伝わる写真を掲載して,戦争反対の世論を盛り上げていくべきだと,MoMo太郎はそう思うわけです。人気ブログランキング昨夜はピンクムーンだそうです
2022年04月17日
コメント(26)
全1423件 (1423件中 101-150件目)