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森の声@ Re[3]:「体験格差」(子どもの育ちに必要な体験について)(11/04) めげぞうさんへ >これからどうなって行…

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森の声

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2024.11.04
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カテゴリ: カテゴリ未分類
子ども達は「見て」学び、「やって」学び、「聞いて」学びます。
見なければやってみたいと思いません。やってみなければ聞きたいと思いません。そして、聞きたいと思ったことでないと、いくらいっぱい聞かされても身に付きません。子どもを育てる働きもしません。
それが「子どもの育ちには多様な体験が必要だ」という理由でもあります。多様な体験が「学びに対する必要性」を与えてくれるのです。


でも、現代の子ども達は「見る機会」を奪われてしまっています。「やってみる機会」も与えられていません。だから聞きたいと思わないのですが、大人たちはそんな子どもたちを椅子に座らせ、いっぱい話を聞かせ、それを覚えるように強制しています。

そして、テストで、ちゃんと覚えたかどうかのチェックをしています。
大人たちはその結果で子どもを叱ったり褒めたりしています。子ども同士を比較し、競争させ、覚えることに追い立てています。

だから子どもたちは仕方なくそれを覚えるのですが、当然のことながら、自分自身の体験や必要性とは全く関係がない「試験のためだけに覚えた知識」には「子どもの心やからだや知性を育てる力」がありません。
年齢が上がれば「器としての肉体」の方は成長するのですが、肝心のその「中味」が成長しないのです。
それが現代の子ども達が置かれて状況です。

それに対して、昔の子ども達には家庭の中や、仲間の中や、地域の中に「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」がありました。そして子どもたちは、そこで色々なものを見て、色々なことをやって、色々なことを体験することが出来ました。聞けば教えてくれる先輩や大人もいました。
だから「学ぶ理由」や「学ぶ必要性」を感じることが出来たし、学んだことが子どもの成長につながったのです。


でも今、そういう「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」に恵まれている子は少ないです。家族同士のつながりでさえも希薄になってしまいました。昔は「お手伝い」という「体験の場」がありましたが、最近の子にはそれすらありません。

多くの子は学校で先生の指示に従って「みんな一緒」、「みんな同じ」を強要されるばかりで「つながりの中での自由な体験」は与えられていません。
学校から帰ったら一人で遊んでいます。一人で遊んでいたら当然「好きなこと」や「出来ること」しかしません。そのため意識も、心の世界も、出来る事も、好奇心も、知識も広がりません。
youtubeやネットの中では「自分が知らないこと」と出会うことが出来ますが、見たいものしか見ようとしません。また見ることは出来ても体験をすることが出来ません。

そんな状況の中で育っている子ども達に、「学校や家庭ではできない体験」を与えてくれるのが「○○教室」という習い事です。学校とは異なった色々な人間体験も出来ます。

「みんな一緒」「みんな同じ」を求められている学校で「仲間」を作るのはなかなか困難だと思いますが、最初から趣味や目的を共有して活動している「○○教室」では「仲間づくり」もしやすいでしょう。特に、スポーツ系の習い事では子どもだけでなく親同士のつながりも生まれやすいです。
「お休みの日に一緒にバーベキューでもしようか」などという流れにもつながることがあります。

また、自分で選んだ「○○教室」なら、自分の意思で見ようともするし、やりたいとも思うし、分からない所は聞きたいとも思うでしょう。またそのことが、子ども自身の心とからだの育ちにも肯定的に働きかけるでしょう。

だから、「○○教室」に通っている子と、そうでない子との間に「体験格差」なるものが生まれ、それが「子どもの生きる力の違い」にも影響してくることがあると思います。
また、体験の多い子の方が自己肯定感も高くなるのではないかと思います。

ただし、「○○教室」に通うためには「お金」が必要になります。そのため「経済格差」がそのまま「体験格差」につながりやすいのです。
それが、「体験格差」という本の中で今井悠介が言いたかったことのようです。

ただし、学校でも「○○教室」でも同じなんですが、その指導が子どもの育ちに肯定的に働きかけるか、否定的に働きかけるかは、その指導者次第です。問題が多い指導者に指導されたら、○○教室に通うことでかえって子どもの成長が阻害されてしまう可能性すらあります。

それが「肯定的な体験」なら子どもの肯定的な側面が育つのですが、「否定的な体験」なら否定的な側面が育ってしまうのです。ですから、ただ「体験が多ければいい」という単純な話しではないのです。

また、お金がかかるが故に、親もまた、子どもに対してその投資に対する見返りや成果を求めます。高い月謝を払っているのに、子どもがちゃんと練習していないとイライラします。親子の関係にも影響してきます。

親は「お金」を払うことで「親としての役割」を果たしているかのような錯覚に陥りやすいです。そのため、親と子をつなぐものが「お金」だけになってしまう可能性もあります。

それに対して、昔の家庭の中や、仲間の中や、地域の中にあった「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」には、先輩や仲間はいましたが「行動を強制するような指導者」はいませんでした。やるのもやらないのも自分の意思で決めることが出来たのです。
また、自分で「自分に合った体験」を選ぶことも出来ました。「木登り教室」に通ったら木登りしか出来ませんが、遊びの場では、木登りでも、コマ回しでも、「自分がやりたいこと」を自由に体験することが出来たのです。

どういう体験が出来るのか出来ないのかを決めるのは「お金」ではなく「自分自身の意志」だったのです。

そういう場が消えてしまったので「○○教室に」という話しになるのでしょうが、でも、「○○教室」では偏った体験しか出来ないのです。





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Last updated  2024.11.04 08:15:05
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