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京都教育大学図書館に「訳注静岡県報徳社事蹟」等を寄贈しよう。開架にしていただければいいな。教員を目指す多くの学生の皆さんが手にとっていただいて「報徳の精神」と「札幌農学校精神」という日本が生んだ気高い(noble)な精神に触れて、自らを高め、優れた教育者として多くの次世代を担う子供たちを育ててほしいな。京都教育大学図書館は二宮尊徳の会の本が7冊蔵書となっているが、開架は4冊である。少し面白く思われるのは、二宮尊徳関係の2冊は開架である。1 二宮金次郎の対話と手紙 : 中学生からお年寄りまでよくわかる開架 西館2階2 渡戸稲造 (にとべいなぞう) の留学談・帰雁 (きがん) の蘆 (あし)開架 西館2階3 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」開架 西館2階4 札幌農学校教授・技師広井勇 (いさみ) と技師青山士 (あきら) : 紳士 (ジェントルマン) の工学の系譜書庫 西館4階5 報徳は精神変革である開架 西館2階6 米国留学中の内村鑑三の日記と手紙 : 内村鑑三から新島襄、広井勇あて書簡 : 宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡抜粋書庫 西館4階7 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組 (宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造) と広井勇 : boys be ambitiousはいかにして現実化されたのか日本の近代化・合理化の一源流「札幌農学校精神」書庫 西館4階
2023.01.31
育英大学図書館から「訳注静岡県報徳社事蹟」ほか3冊の寄贈のお礼状が届いた。育英健児にエールを送る┗(•ˇ_ˇ•)―→今年の箱根駅伝一区で大逃げした新田はやて選手のインタヴュー。 「レース中足音が聞こえないほど声援。『行け行けー』 目立ってやる、育英大の宣伝をし、自分の事も知って貰おう」 育英大グラウンドと食堂は離れている。ジョグすればいいと考える。 育英大の図書館に本を寄贈する。
2023.01.31
昨年「資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある 」を東京工業大学付属図書館に寄贈したところ蔵書としていただいた。貸出可 大岡山図書館B1F-一般図書 そこで今回出版の「訳注静岡県報徳社事蹟」のほか、ボーイズビーアンビシャスシリーズを寄贈しよう。将来の技術者をめざす若人に読んでもらいたいと思う。*チーズケーキの真下に広がる知の拠点正門から大岡山キャンパスに入ると、正面のタキ・プラザ(Hisao & Hiroko Taki Plaza)の右手奥にガラス張りの建物が目に入ります。三角形の変わった形から、「チーズケーキ」の愛称がいつの間にか定着しました。学生たちはチーズケーキの地下空間に吸い込まれていくようです。理工学系分野を中心とした専門性の高い蔵書が地下1階と地下2階に展開しているのです。タキ・プラザとは地下でもつながりました。キャンパスライフの要に位置する知の拠点です。本館前プロムナードの延長線上に位置する、小高い丘を「緑の丘」と呼んでいます。この丘から延びる2階・3階に学習エリア、丘のすぐ下の1階には事務エリア、さらにこの丘とプロムナードに続く広場の下に、地下1階・地下2階からなる図書館エリアの大空間が広がっています。延床面積は、2階・3階も含め約8,600m2に及びます。収容棚数は28,000棚あり、63万冊以上(R元年度末現在)の蔵書が収められています。座席は2階・3階を含め754席あります。
2023.01.31
ツイッターのVIEWS大東文化大学図書館に「訳注静岡県報徳社事蹟」なぢ5冊を寄贈する。67Viewsお茶の水女子大学に「訳注静岡県報徳社事蹟」と「ボーイズビーアンビシャス」第一集第三集など計5冊寄贈する。蔵書としていただければ有難いな、嬉しいな^_^80Views大阪公立大図書館に「訳注静岡県報徳社事蹟」「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」とボーイズビーアンビシャス第1集第3集と「八田與一と鳥居信平」を寄贈する。大阪公立大は市立大と府立大が合併したもので、市立大図書館に「技師鳥居信平著述集」「BBA第5集」と鈴木藤三郎顕彰第1集が蔵書となっている。141Views名古屋大学、大阪大学の附属図書館に「訳注静岡県報徳社事蹟」他を寄贈する。127+154Views
2023.01.31
💛先週、土曜日に歯医者に行った折。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」について、歯科助手の女性におしゃべりした。女性には小冊子「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を差し上げたことがある。歯科助手「なかなかありがとうがいえなくて」わたし「小冊子に 五日市さんが 「喧嘩したりして ありがとう って言えないときがあるじゃないですか?そんなときはどうするんですか?」とおばあさんにいうと おばあさんが 「ただ、言えばいいのよ」というシーンがあります。五日市さんは、おばあさんに 幸せをもたらす魔法の言葉を聞いてから、ハンカチから手の平からはてはパンツまで ありがとう と書いて身につけようとしたんです。イスラエルで車にひかれたときも、ありがとうと言って、なんともなかった。荷物を置き引きされたときも「ありがとう」とその犯人にどなって戻ってきた。帰国の時、イスラエル入国の際にトイレに置き忘れた財布が戻ってきて号泣し、「魔法の言葉」を確信したのです。すると歯科助手の方が、電話に出たあと、「ありがとう」と言って帰ってきた。お医者さんが笑って「キャンセルの電話?」と聞くと、「予約の電話です」(笑)そうそう「ただ ありがとう と口に出せばいいんです」と心に呟く。「普通はつらいよ」斎藤一人さんより「神事(しんじ)に『国誉(くにほ)め』というのがあります。 古代、ある国に任命された役人が最初にやった仕事です。たとえば、私がどこかの国に任命され、その国に行っていちばん最初に何をやるかといえば、そこの国がどんなにすばらしいか誉めたたえるのです。 その行為が、神事だというのです。 不幸な人は、この国誉めができません。 たとえば、北海道に住んでいるのに、北海道の悪口を言っている人、「まったく、雪が降って嫌になっちゃう」とか。 沖縄に住んで、今度は「雪が降らなくて嫌になっちゃう・・・」とか・・・。 不幸な人というのは、自分の住んでいるところをけなします。 日本に住んでいるのに日本をけなす。・・・ 自分が住んでいる場所や生まれた場所をけなしている人には、いいことはまず起きません。その人の発言で、その場所に住んでいる土地の神様から、先祖まで、みんな嫌な気がしているのですから。・・・ 「日本っていいよねえ」「○○っていいよねえ」「自分の住んでいるとこっていいよねえ」「自分のお店っていいよね」 こんなふうに国誉めをしていると、どんどん幸運になってきます。」
2023.01.31
二宮先生語録巻の二【186】~【190】【一八六】語に曰く。滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙れば、天下の民心を帰すと。宜なる哉言や。我が廃邑を興すや、荒蕪を墾き以て絶家を復し、投票以て良民を賞して、而して一邑の民服す。又曰く。民の重ずる所、食葬祭と。食は米櫃実有るなり。米櫃実有れば、則ち終りを慎み遠きを追ふ。終を慎み、遠を追へば、則ち禁を守り業を勤む。禁を守り業を勤れば、則ち妻子離散土地蕪没の患ひ無し。若し夫れ米櫃実無れば、則ち生を養ふ能はず。生を養ふ能はざれば、則ち終りを慎み遠きを追はず。終りを慎み遠きを追はざれば、則ち禁を干し業を怠る。禁を干し業を怠れば、則ち離散蕪没の患を免れず。嗟乎、民の重んずる所、実に米櫃に在り。又曰く、信なれば則ち民任ずと。一言差はざる、之を信と謂ふ。人必ず依託す。幼子の菓を母に託するや、必しも其の数を算せず。是れ母の信、子に徹するなり。兄弟姉妹に至ては、則ち然らず。必ず其の数を算し、然る後之を託す。先君の廃邑興復を余に任ずるや、期するに十年を以てし、処置歳計、敢て陳ずる莫らしむ。是れ余の信先君に徹するなり。《訳》論語に、「滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙ぐれば、天下の民、心を帰す」(堯曰篇)とある。なんという素晴らしい言葉か!私が廃れた村を興すときは、荒れた土地を開墾し、絶えた家を回復し、投票によって良民に褒美を与え、このように一村の民が服する。また論語に「民の重んずるところは、食と葬と祭」とある。食とは米びつに米があることだ。米びつに米があれば、「終わりを謹んで遠きを追う」。終わりを慎んで遠きを追うならば、禁を守り、業を勤める。そうであれば妻子が離散し、土地が荒れ果てるわずらいは無い。もし米びつに米が無ければ、生を養うことができない。生を養うことができなければ、終わりを慎んで遠きを追わなければ。禁令をおかし、家業を怠る。禁令をおかし家業を怠れば、離散し土地が荒れ果てるわずらいを免れない。ああ、民の重んずるところは、米びつに米があることだ。また論語に「信なれば民任ず」とある。ひとたび言葉を発して、実行と違うことがないことを信という。そうであれば人は必ず信頼する。幼子がお菓子を母親に預けるとき、その数を数えてから預けるということはない。これは母親の信が子に徹するので、兄弟姉妹においてはそうではない。必ずその数を数えた後にこれを預ける。先君・大久保忠真侯が廃村を復興することを任ぜられた時も十年を期限としただけで、年ごとの計画について申し上げることはなかった。これは私の信が先君に徹していたからだ。【一八七】孔子曰く。国を治る者、敢て鰥寡を侮らず。而るを況んや士民に於てをやと。夫れ米粟を愛する者、庭上の散粒、尚ほ之を洗ひ、以て粉団と為す。況んや苞米に於てをや。薪木を愛する者、折屑と雖も而も捨てず。細片尚ほ洗ひ以て之を焚く。況んや束薪に於てをや。且つ鰥寡孤独再び其の本に復する能はず。宜く憐恤すべき者なり。是れを之侮らず。必ず先ず憐恤を加ふ。国家を治る之を掌上に運すべし。《訳》孔子は言った。「国を治める者は、敢えて鰥寡(かんか)を侮らない。しかるをいわんや士民においてをや」と。米穀を愛する者は、庭の上に散らばった米粒ですら、これを洗って粉にひいて団子とする。いわんや俵の米はなおさらである。タキギを愛する者は折屑であってもしかも捨てない。細片ですらなお洗ってこれをたく。いわんや束になったタキギはなおさらである。かつ鰥寡孤独は再び本どおりに復することができない。よろしくこれを憐れみ助けるべきである。これを侮蔑することなく必ず先に憐れんで助ける。そうであれば国家を治めること、手のひらの上でめぐらすようであろう。【一八八】孔子曰く。道の行はれざるや、我之を知る。知者は之に過ぎ、愚者は及ばざる也。道の明ならざるや、我れ之を知る。賢者は之を過ぎ、愚者は及ばざるなりと。之を廃棄の魚泊木に譬ふ。夫れ天の人を生ずるや、知愚賢不肖、固より是れ自然にして、君と為し臣と為し相と為し吏と為すの意有るに非るなり。然るに其の知愚賢不肖を論じ、以て之を斉ふせんと欲す。是れ猶ほ廃棄の魚泊木を集め、其の長短大小を斉ふせんと欲するごとくなり。其の長き者、大にして用に適せず、其の短き者、小にして用に適せず。是れ他無し。本と様式を以て之を作らざればなり。夫れ天道は自然なり。人道は自然に非るなり。之を家屋に譬ふ。家屋の営築自然に非ず。若し夫れ自然ならば、則ち山林宜く四寸角柱を生ず。然るに未だ嘗て之を生ぜず。其の長短大小曲直亦斉からざるなり。故に之を割き之を削り、長短大小曲直に各々其の用に適せしむ。工師の任なり。人の知愚賢不肖も亦然り。各々其の材に応じ、以て之を用る者、君相の任なり。君相人を用る。工師材木を用る如くせば、則ち国家を治る何に有ん。【一八九】孔子曰く。之を罔て生けるや、幸にして免ると。之を稗草に譬ふ。耘る者務て之を去る。然れども稲に似るを以て、免れて実る有り。穫る者必ず之を去る。又免れて苞に入る。舂者之を篩ひ去る。又免れて飯と為り口に入るも、亦之を吐く。是れ幸にして数々免ると雖も、終に免るを得ざるなり。悪人の悪を為すも、亦然り。天を欺き、法を犯し、刑を逃れ、幸にして免る者、必ず子孫無きなり。《訳》孔子は言った。「人が生きていくには、正直でなければならない。正直でなくて生きていられるのは、たまたま運がよかっただけである」と。これを水田に生えるヒエ草に譬えよう。草をかる者は必ずこれを見つけると取り去る。しかしヒエ草は稲に似ているために免れて実るものがある。収穫する者は必ずこれを去る。また免れて俵に入る。米をついて精白する者はこれをフルイで取り去る。また免れて飯となって口に入っても、食べた者は吐いて捨てる。これが幸いに免れても、終に免れることができないということじゃ。悪人が悪を行うのもこれと同じで、天を欺いて、法を犯し、刑を免れて、幸いにして免れた者は、必ず子孫が無いものじゃ。【一九〇】孔子曰く。巍巍たり。舜禹の天下を有つや、而して与らずと。何を与らずと謂ふ。天下を以て我が有と為さざるなり。今夫れ承襲の田禄を以て、我が有と為さず。仮に負債と為し、什一を出し、以て其の利を還すと為し、以て之を貧者に推さば、則ち子孫長久、以て期すべきなり。之を樹芸に譬ふ。収穫の什一を以て培費と為さば、則ち年年必ず収穫を増す。若し一たび其の培費を欠けば、則ち収穫必ず減ず。縦令豊稔に遇ひ減ぜざるも、明年必ず減ず。人宜く此の理を弁じ、推譲以て子孫の長久を計るべきなり。《訳》孔子は言った。「高大で立派であることよ、舜と禹が天下をたもって、しかも与(あずか)らずとは」(泰伯一八)何を「あずからず」というか。天下を自分のものとしないことをいう。今、先祖伝来の田畑を自分のものとせず、仮に負債として、十分の一を償還するとして、これを貧者に推譲するならば、子孫は長久することができるであろう。これを植木に譬えよう。収穫の十分の一をもって培養の費用とするならば、年々必ず収穫を増す。もし一たび培養を欠くならば、収穫も必ず滅する。たとえ豊年の年で滅しなくても、明くる年必ず滅する。人はよろしくこの道理をわきまえて、推譲して子孫の長久をはかるがよい。※子曰く、人の生くるや直。之を罔(な)みして生くるや幸いにして免るるなり。(雍也第六)
2023.01.31
家族ふれあい新聞第704号より「いい会社」○志ネットワークというのがある。松下村塾の塾長をしていた上甲さんという方が、日本の若者に志を持ってもらいたいという願いから創られたもので、その日々のエッセイには心打たれるものがある。そのホームページを見ていたら寒天の伊那食品工業株式会社の社長塚越寛さんが、青年塾で熟生に語られた話が載っていて、これがよかった。「いい会社をつくろうと言うのが、当社の社是です。いい会社というのは、誰から見ても、そんな前提があると思ってください。お客様だけではありません。社員はもちろん、お取引先、出入りの業者さん、さらには取引の銀行や税務署も含まれます。税務署から見ていい会社とは、税金をきちんと正しく払ってくれる会社でしよう。地域の人たちも、町の中でいい会社だとうわさしてくれる。そんな姿を願っています」「会社の目的は、利益をあげることだと思っている経営者が多い。利益はあくまでも手段にしか過ぎない。会社の目的は、みんなでいい会社を作ることである」「進歩とトレンドを混同してはいけない。進歩とは、それが本当に社会にとって有用であるかどうか、社会のためになるのかどうかが判断基準である。時代の流れの中でも、社会のためにならない流行物が多すぎる」 目先の経済性よりも、人間性を基本に据える経営を、塚越社長は、「経営の原点」だと言う。何のための経営か、「人間が幸せになるため」なのである。 伊那食品工業は、具体的な売上げ目標や利益の目標を掲げて、社員の尻をたたくようなことはしない。「木の年輪が一年で一回り大きくなる。どんな厳しい環境のときにも、ちゃんと一年分の年輪ができる。だから、企業の活動もまた、毎年、いかなる環境下にあっても、少しづつでも一回り大きくなればいいと考えている。」伊那食品工業は、47年間、売上、利益を伸ばし続けてきた。47年連続増収増益という実績は極めて稀である。「急成長させないこと」。塚越社長は、その秘訣を語る。「物事の一番良い姿は、末広がり。すなわち、時間と共に良くなることです。社員にしても、将来に渡って毎年給料が上がっていく状態にあると、安心して人生設計できます。浮き沈みのある姿は、非常に困るのです。私はいつも、無理して成長させなくてもいい、大事なことは、前の年よりも少しでも良くすることだ」急成長させずに、一歩一歩成長させるためには、あらゆる活動を最大限に取り組まなければできることではない。「世の経営者の多くは、追い風と急成長を混同している人が多いようです。追い風は、実力ではありません。それを自らの努力や実力と誤解して、過大な投資をしたり、人を大幅に増やしたりして、結局は行き詰まってしまうケースが非常に多いようです」。 塚越社長は、いつも、社員が持てる力を最大限に出してもらうためにはどうすればいいかを考えてきた。社員がのびのび、はつらつとして、気持ちよく倍の働きをしてもらうためにはどうしたらよいのか。「寝ても覚めてもそのことを考えていました」と言う。塚越社長が得た結論は、「この会社は、自分の会社であり、自分の職場であると思うことができたら、きっと社員は生き生き働いてくれるに違いない」。その結論が、塚越社長の経営の原点である。☆塚越社長の座右の銘は二宮尊徳の「遠くをはかる者は富み、近くをはかる者は貧する」である。インタビュー記事にはこうある。企業にとって重要なのが「永続」することです。潰れてしまっては元も子もない。私の座右の銘に、江戸時代の農政家・二宮尊徳の「遠きをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す」という言葉がありますが、そういう長期的な展望が「いい会社づくり」には不可欠です。目先の利益だけを考え、短期的に高い売上高を追い求めて高収益を上げても、長続きしなければいい会社とは言えません。永続するためにゆるやかな成長は不可欠ですが、最低必要な成長でいいと私は考えるようになったんです。
2023.01.31
二宮先生語録巻の二【181】~【185】💛「二宮先生語録」巻の二の最後181「先生が門弟に言われた。「私がつねづね説くところの道理は、多くは古人がいまだ発したことがないところである。おまえたちは日光神領の祭田など僅かな開墾に従事するよりは、むしろ私の説を記録して、後世に伝えなさい。」 これこそが斎藤高行が「二宮先生語録」が漢文で著し、福住正兄が平易な言葉で「二宮翁夜話」を著して世に広めたところにほかならない。 実に二宮先生自身から「私の説くところを記録して世に伝え、永世に遺しなさい」と命令されたのである。これは実に私たち日本人に言われた言葉でもある。「私がいつも説いている道理の多くは、昔の偉人がいまだかつて発したことがないところである。おまえたち(後世の日本人よ)は私の説を記録して、世界に伝えなさい。」 このブログの「二宮先生語録」も実にこの言葉を受けて、延々とつたない読み下し文と現代語訳をあえて掲載する次第である。【一八一】門弟子に謂て曰く。我が日夕説く所の理、多くは是れ古人未だ発せざる所なり。小子日光廟祭田、僅僅たる開蕪に従事せんよりや、寧ろ我が説を記し以て之を後世に伝へよ。《訳》尊徳先生が門弟に言われた。「私がつねづね説くところの道理は、多くは古人がいまだ発したことがないところである。おまえたちは日光神領の祭田など僅かな開墾に従事するよりは、むしろ私の説を記録して、後世に伝えなさい。」二宮先生語録巻3【一八二】書に曰く、人心惟れ危く、道心惟れ微。惟れ精、惟れ一。允に其の中を執る。四海困窮せば、天禄永く終んと。至れる哉、言也。之を一村一家に譬れば、則ち自家の便利を計る者、人心なり。是の心常に生じて止まず。是れを之危しと謂ふ。己を倹し人に推す者、道心也。是の心偶々生ずるも亦之を厭忌す。是れを之微と謂ふ。故に我が分を精察し、田禄百石を有つ者、専一に之を守り、其の半を以て家事を経理し、其の半を譲り以て之を人に推す。苟くも此の如くんば、則ち一家一村必ず安泰。若し夫れ各々自家の便利を逞くし、日に奢侈怠惰に流れば、則ち挙村月に窮し、段田の産粟四苞を出す者、減じ三苞と為り、三苞又減じ二苞と為り、終に荒蕪に帰し、一村一家の田禄永く絶え、必ず無人の墟と為らん。豈戒懼せざるべけんや。又之を草莱と白田とに譬ふ。人心は草莱の如し。草莱は自然也。故に之を墾き白田と為すと雖も、然も蔓草日に生じて荒れんと欲す。是れ危殆に非ずや。道心は白田の如し。白田は人作也。故に力耕すれば則ち白田と為り、力耕せざれば則ち草莱に帰す。是れ微妙にあらずや。則ち草莱に帰する者天道にして、力耕する者人道也。夫れ人道は半ば天に順ひ半ば天に逆ふ。何となれば則ち草莱の天に逆ふて、以て墾闢し、春生の天に順て、以て播種し、夏長の天に逆ふて、以て耘鋤し、秋殺の天に順ふて、以て刈穫す。忠言耳に逆ふも、亦自然也。厳冬溝渠を修む。乃ち衆を戒め寒を冐し勤動すべしと。則ち逆ひ、衆を労らひ火を焚き休息すべしと。則ち服す。来歳必用の溝渠為りと雖も、然も寒苦を厭ひ勤動を疾む者。自然の情也。故に令すと雖も而も行はれず。是れ天道人道異なるを以ての故なり。是に於て或は自然の情に順ひ、之を労ふに酒食を以てし、或は自然の情に逆ひ、之を勉しむるに勤動を以てせば、則ち令せずして行はるべし。《訳》書経に「人心惟(こ)れ危うく、道心惟れ微(かす)かなり。惟れ精、惟れ一。允(まこと)にその中を執る。四海困窮せば、天禄永く終らん」という。至言である。これを一村一家に譬えよう。自分の家の便利を計るのは人の心だ。この心は常に生じて止まない。これを「危うい」という。自分から倹約し、人に推譲するのは道心だ。この心はたまに生ずるがまた嫌になる。これを「微か」という。だから自分の分度を精察し、田の収穫が百石ある者は心を専一にこれを守って、その半ばで自分の家を経営し、その半ばを譲って人に推し譲る。このようであれば、一家一村必ず安泰じゃ。もし各々自分の家の便利だけをたくましくし、日に贅沢や怠惰に流れるなら、村ごとに日に窮して、田畑の収穫が四俵あった者が三俵となり、三俵が二俵となり、ついに荒れ果てて、一村一家の田の収穫も永く絶えて、必ず廃墟となろう。どうして戒め恐れないでいられようか。またこれを草原と畑とに譬えよう。人心は草原のようじゃ。草原は自然で、これを開墾し畑とする。しかも草は日に生じて荒れようとする。これは危ないことではないか。道心は畑のようなものだ。畑は人が作ったもので。、耕作に力を尽くせば畑となり、耕作に力を尽くさなければ草原となる。まさに「微妙」ではないか。草原に帰するのは天道であって、耕作に力を尽くすのは人道である。人道は半ばは天理にしたがい、半ばは天理に逆らう。なぜかというと草原の天理に逆らって開墾し、春に生長する天理に従って種を蒔き、夏に草が伸びる天理に逆らって、草を刈り取り、秋に実を結ぶ天理に従って収穫する。忠言は耳に逆らうのが自然じゃ。厳冬に溝が修理するのに、衆を戒めて寒をおかして勤労すべきだといえば逆らう。衆をいたわって焚き火をたいて休息せよといえば服する。来年の必要になる溝であっても寒苦を厭い、勤労を嫌がるのが自然の情じゃ。だから命令しても行われない。これは天道と人道と異なるためだ。ここにおいてあるいは自然の情にしたがって酒や食事でこれをいたわり、あるいは自然の情に逆らって勤労すべしと努力させる。これを命令しなくても行われるというのだ。【一八三】伝に曰く。誠なれば則ち明か。明なれば則ち誠。又曰く。至誠息む無しと。之を索を綯ふに譬ふ。一房を綯て以て銭に易へ、則ち四銭を得、四銭を投ずれば、則ち一房を得。之を誠なれば則ち明か。明なれば則ち誠と謂ふ。索を以て銭に易へ、銭を以て索を易ふ。万世息む無し。之を至誠息む無しと謂ふ。又之を米粟を量るに譬ふ。之を量るに升斗を以てすれば、則ち幾回之を量るも亦必ず差はず。之を至誠と謂ふ。又之を珠玉に譬ふ。上下四方より之を見て、瑕無き者至誠なり。一方より之を見て、瑕無き者、至誠に非るなり。《訳》中庸の伝に「誠なればすなわち明らかなり。明らかなればすなわち誠なり」とある。また「至誠やむことなし。」とある。これを縄を綯(な)うのに譬えよう。一房綯って金にかえれば四文になり、四文を払えば一房を得る。これを「誠なればすなわち明らかなり。明らかなればすなわち誠なり」というのじゃ。縄を金にかえ、金を縄にかえる、いつの世もやむことがない。これを「至誠やむことなし。」という。またこれを米を量るのに譬えよう。これを量るのに枡を使えば、何回量っても必ず違わない。これを「至誠やむことなし。」という。また珠玉に譬えよう。上下四方から見て瑕(きず)のないものが至誠だ。一方だけから見て瑕のないものは至誠ではない。【一八四】孔子曰く。無為にして治る者、其れ舜也か。夫れ何を為すや。己を恭ふし正く南面するのみと。何を無為と謂ふ。専ら天職を治て、他を顧みざるなり。何を己を恭ふし正く南面すと謂ふ。天子は天徳を拝し、以て上帝に事ふ。故に南面す。百官は天子の命令を奉じ、以て天民を治む。故に北面なり。天子天職を治め、百官職役を奉じ、農夫農耕を営み、工商工商を為し、轎夫馬夫其の業を務め、挙皆専ら力を己れの職に尽す。此れを之無為にして治むと謂ふなり。叔世は則ち然らず。人君臣職を兼ね、人臣君位を僭し、士商を兼ね、農士を学び、治工木工を兼ね、米商酒商を学び、菽腐家褐腐家を兼ぬ。是れ皆己を恭ふし正く南面するに非るなり。伝に曰く。君子其の位に素して行ふ。其の外を願はず。患難に素し、患難に行ふ。君子入て自得せざる無しと。是れ己を恭ふし正く南面するの語と相対す。菽腐家は則ち菽腐を製するを楽み、轎夫馬夫各々其の業を楽む。是れ患難に素し患難に行ふなり。然るに菽腐家家業を以て益無しと為し、褐腐家を欲す。是れ心志定まらざるなり。心志定らざれば、則ち心身相離る。故に家業を以て患難と為し、以て之を易んと欲す。是れ惑ひの甚しきなり。菽腐家にして其の業を営む者、則ち天命にして、患難に安んずる者、則ち天理なり。天理を弁へ天命に随ひ、心を安んじ業を務む。是れを之己を恭ふし正く南面すと謂ふなり。孔子曰く、巍巍たり。舜禹の天下を有つや、而して与らずと。与らずと己を恭すると相対す。与らざる者、我が有と為さざるなり。我が有と為さざる者、己を恭するなり。舜禹天下を有て、我が有と為さず。是れ巍巍と称する所以なり。夫れ一人勤て、一人食す。是れ禽獣の道なり。一人稼穡を務て、以て八口を養ふ者、人の道なり。一人勤て八口を養ひ、有余を推し以て之を人に及ぼす。舜禹之与らざる。其れ斯に在り。与つて我が有と為す。故に足らず。与らずして我が有と為さず。故に余り有り。余り有る之を富と謂ひ、足らざる之を貧と謂ふ。《訳》孔子は言った。無為にして治まる者は舜か。何を為したか。己を恭しくして正しく南面するのみと。無為とは何か、専ら天から授かった職務を治め他を顧みることがないことをいう。己を恭しくして正しく南面するとは何か、天子は天の徳を拝して天に仕える。これを南面するという。もろもろの役人は天子の命令を奉じ、天の民を治める。だから北面するという。天子は天職を治め、もろもろの役人は職務を奉じる。農家は耕作に励み、工人や商人は工務や商務を務め、車引きや馬引きはその業務を務める。皆それぞれに専ら自分の職務に力を尽くす。これを無為にして治まるという。時代が下って衰えた時代はそうではない。人君は臣の職を兼ね、人臣は君の位をおかし、武士は商人を兼ね、農家は武士をまね、鍛冶屋は大工を兼ね、米穀商人は酒造家をまね、豆腐屋はコンニャク屋を兼ねる。これはみな己を恭しくし正しく南面するのではない。中庸に言う。君子はその位に素して行う。その外(ほか)を願わず。艱難に素しては艱難を行う。君子は入るとして自得せざる無しと。これが己を恭しくして正しく南面するという言葉に相対する。豆腐屋は豆腐を作ることを楽しみ、車引きや馬引きはそれぞれの業を楽しむ。これが艱難に素しては艱難を行うということじゃ。そうであるのに豆腐屋が自分の家業を利益がないと思い、コンニャク屋をやろうと思う。これは心志が定まらないからだ。心志が定まらなければ心身が離れる。だから家業を艱難と思い、これを変えようと欲する。これは惑いの甚だしいものだ。豆腐屋がその家業を営むのは天命であって艱難に安んずるのが天理である。天理をわきまえれば天命に随い、心を安んじて家業を務める。これを己を恭しく正しく南面するという。孔子は言った。「巍巍(ぎぎ)たり、舜と禹が天下をたもつことは。そして天下を与(あずか)らないことは」と。与らないとは己を恭しくするという言葉と相対する。与らないとは、自分のものとしないということだ。自分のものにしないということは己を恭しくするということじゃ。舜と禹は天下をたもって、しかも自分のものとしなかった。これが巍巍と賞賛するのだ。一人勤めて一人食する、これは鳥やけものの道だ。一人農業に勤めて八人を養うのが人の道だ。一人勤めて八人を養い、有余を譲って人に及ぼす。舜と禹が与らずというのはここに存するのだ。与って自分のものとする、だから不足が生ずる。与らないで自分のものとしない、だから有り余るのじゃ。余りあることを富という。足らないのを貧という。【一八五】孔子曰く。工其の事を善せんと欲する。必ず先づ其の器を利す。是の邦に居るなり。其の大夫の賢者に事へ、其の士の仁者を友とすと。之を剃工と蕘子とに譬ふ。剃工蕘子其の業に就く。必ず先づ剃刀を磨き、刈刀を磨ぐ。是れ必然の理なり。且つ夫れ剃工の剃刀を磨ぐや、必ず先づ越砥を用ゆ。此れを之其の大夫の賢者に事へ、其の士の仁者を友とすと謂ふなり。《訳》孔子は言った。工(たくみ)その事を善くせんと欲する、必ず先ずその器を利にす。この邦に居るや、その大夫の賢なる者につかえ、その士の仁なる者を友とす(論語、衛霊公篇)と。これを床屋や柴刈りに譬えよう。床屋や柴刈りがその仕事につく時、必ずまずカミソリを研ぎ、ナタを研ぐ。これは必然の理だ。さらに床屋がカミソリを研ぐ時、必ずまず砥石を用いる。これを家老が賢者につかえ、立派な人物が仁者を友とするという。
2023.01.30
💛2023年1月29日の「COOL JAPAN」のテーマは「外国人に聞きたい素朴な疑問」だった。日本人100人へのアンケートから、外国人に聞きたい素朴な疑問をピックアップ。・日本人は人に見せる字は丁寧に書くのに、外国人はあまり気にしていないのはどうしてか?・ハンカチを持ち歩かない外国人が多い理由は?・海外では店員同士がおしゃべりしててもいいの?外国人と徹底討論すると、日本と海外の考え方の違いが浮かび上がってくる。素朴なギモンから深い国際理解へ!その中で、気になりなるほどとも思ったのが、「・なぜ外国人はそんなにしょっちゅう家族と電話で話すの?」だった。日本人への調査では、年に数回程度、あるいは多くても月に数回だった。私は10年以上にわたって「家族ふれあい新聞」を作ってはせっせと田舎の父母に送り続けた。週に2,3度にもなる。当初は子供の成長を記す目的だったが、次第に私が感動したことどもになった。これって日本人にとって、きわめて稀な事象であり、親だからこそ、喜んで読んでくれるものの、兄弟や友人にもわずらわしいことだったのだということを番組を見ていて思った。しかしこの「家族ふれあい新聞」を作り続けた習慣が、20冊以上の資料集を作り続けている原体験になっていることを思う。喜んで読んでくれていた父と母に感謝である。家族ふれあい新聞第700号より宮沢賢治の母(葉山照澄阿闍梨)要約 去年の暮、岩手県花巻市を訪ねた。早朝にもかかわらず、賢治の弟清六さんらのお迎えを受けて、ひとまず旅館に入った。そのうち戸外がほの明るくなってきたので、降り積る雪の中を、賢治の碑やお母さんの家へご案内頂いた。あわただしい日程で五時間後には東京へ引返さねばならない。 花巻にきた一番の目的は、賢治のお母さんにお目にかかることであった。それに9月ではないが、21日の命日に、墓参をしたかったのだ。私(葉山照澄阿闍梨)はこの2月から千日行に入るので3年間は下山できなくなる。そのわずかな間を見つけて、花巻に賢治母堂を訪れることにしたのだ。立派な子は、その母が立派であることは鉄則だとされているが、その母親について賢治の秘密を知りたいと考えたのが、本当の花巻行の目的であった。 イギリス海岸では、雪の中の白い小石を拾い、手向けの経文を唱えた。それから賢治が奉職していた旧稗貫農学校、今の花巻農学校へ行き、校庭に建つ有名な「雨の中なる真言なり」*の詩碑を拝んだ。 すぐ近くに、日蓮宗身照寺というこの土地の菩提寺があり、そこに賢治のお祖父さん以来の「遺骨塔」と、賢治供養のための小さな「五輪塔」がある。この墓は父祖代々の浄土真宗の墓所から、移されたものである。 賢治は、父母に対して「たとえ信仰でなくてもよいから、題目を唱えてくれ、そこに必ず自分が出てお答えする」とまで法華宗に打ち込んでいた。それで今までの家の宗旨も変えざるを得なくなったのだ。 賢治の一番好きなのはあの「デクノボウ」であった。即ち常不軽菩薩の行そのものを実行することにあった。私どもが「回峰行」を、禅と念仏の綜合として最も生きた、将来性のある信仰としてとらえているのも、まったくこの意味からである。かって父上と賢治が心を一つにして、比叡山へのぼった。このとき賢治26歳、父上との信仰の旅は、まず国の源としての伊勢に詣でそれからまっすぐ叡山にのぼった。賢治は比叡山で、「ねがわくは、妙法如来正偏知、大師のみ旨成らしめ給へ」と願っている。そのまま大師の「あのくたらさんみゃくさんぼだいの仏たち、わがたつ杣に冥加あらせたまえ」に、参入したものであろう。 私どもはそれからさらに、三角の一角をなしている郊外桜町の、賢治の詩のうちでも最も名高い「雨ニモマケズ」の詩碑に参った。ここは、もと賢治の祖父の持ち山であった。山といっても雑木林で、そこに祖父が小屋を建てて一人で生活し、農村の青年達を相手に、科学的で芸術的だともいえる新しい農業を実践したのである。碑は実に雄大なものであった。碑文は高村光太郎先生の筆である。 豊沢町の家へ向う。仏壇には、妹とし子さんの瞳の澄んだきれいな顔を大きく引きのばした写真が、真ん中に飾ってあり、その横に賢治の写真があった。ここでも私は天台のお勤めをした。 ここで始めて賢治の母上にお目にかかった。きれいな着物に頭は白い手拭いで、姉さんかぶりにしておられた。お年は80歳だが、そんな年には見えない。 賢治の弟さんも、姉さんも、兄がと、いろいろ語ってくださった。しかし母上はおだやかな微笑でただ返事をくりかえされるだけだった。私が賢治の命日に比叡山からきたことがうれしいらしくよろこんで下さった。母上は私の回峰行のことなど熱心に聞いておられたが、どうか身をいとえ、大事にしろといって下さった。 母堂に別れ、汽車での帰途、「みとせの比えの山ごもり」にはじまり、「亡き母よりも 年たけて 更に清らに美しき 賢治の母は 我がために 身体いとへと云いたもう。ああ そはわが母の 生きの言葉かー。」の詩をつづった。 いつか賢治のふるさとは、雲のかなたに隠れてしまった。* 「雨の真言」宮沢賢治 黒雲峡を乱れ飛び 技師ら亜炭の火によりぬ げにもひとびと崇むるは 青きGossan銅の脈 わが索むるはまことのことば 雨の中なる真言なり
2023.01.30
岡田佐平治の伝 岡田佐平治は遠江国佐野郡(現在掛川市)倉真村の人です。文化九年(一八一二年)七月生まれる。祖父の清弥の没後より一家は次第に贅沢に流れ、家は衰退した。佐平治は若くして家を継ぎ、祖業の回復を志した。家のきまりを改正し、農事に励んで、数年で家政は回復にむかい、一家が再び栄える基礎を開くにいたった。 家は代々里正(庄屋)だったが、父の清光の代に至って、これを辞した。以後数十年里正は数々交代して帳簿が乱れ、加えて古検地を経過すること久しく、阡陌(せんぱく:縦横の交差する道)乱れ、反別は符合せず、境界を争い、訴訟が絶えなかった。天保四年(一八三三年)佐平治は二十二歳の時これを改正しようと誓った。日夜非常に骨折って、まず境界を正し、村内の田畑の明細図を作り古検地と照合し、六年で完成した。以来帳簿をもって貢租の基礎とし、明治維新まで廃することがなかった。天保十年里正となり、無駄な経費は省き、河川や堤防を修理し、荒地を開拓し、住民の風俗は大いに改まった。 天保十一年(一八四〇年)掛川藩の地方用達となった。いわゆる大庄屋であり、上下の意を通じて、渋滞することをなくした。 佐平治は三十四年間倦まず怠らず務めたので上下は信頼した。 嘉永元年(一八四八年)佐平治が三十七歳のとき、報徳の教義を安居院庄七に聞いて、身を修め家をととのえる道でこれに超えるものはないと思った。子どもたちを率いて農事に励み、耕作や肥料の方法を精緻にし、稲を植えるのに縄規植え(田植縄を田の縦方向にわたし苗を真直ぐに、等間隔に植える)をし、麦を作るのに七踏七耘七糞の法を用い、勤勉と節倹を漏れなく尽くした。村民はその事業に感じて報徳社を結社してその教えに従った。そこで日掛け縄積の法を立て一戸ごとに一房あるいはわらじ一足を出させ、その積もった代金を毎年入札を行い、社員のうち農業に努めた者一名に金五両もしくは十両を無利息五か年賦で貸付けた。五年の末になって、年賦の一年分を元金のほかに出させた。これを報徳金と名付け、年々これを積んで貸付を行った。これを循環して止まないことにより、社中でその利益をこうむらない者はなかった。また社員勤業の約束を定め、五年を一期とし、地方用達の給料米六俵と庄屋の給料米五俵一斗四升を度外としてその積金に加えて、嘉永元年より同六年に至った。また別に金四十二両を善種金として出し、勤勉を助けまたその業の怠惰や廃業に陥りやすいことを憂いて同元年十二月より五年に至る間、毎朝早朝近隣の社員二十戸を寒暑や風雨を厭わず積縄を集めて回った。以来今日に至るまで怠ることがなかった。あるいは田を買って公有のものとした。その影響は四方に及ぶ。 嘉永六年八月同志者数名と二宮尊徳にまみえて親しくその教義を聞こうと欲し、相州蓑毛村(神奈川県秦野市)に行って、安居院庄七の家を訪問し一緒に出発した。当時、尊徳は幕府の命令で日光神領の復興事業にあたっていて、下野(栃木県)にいた。佐平治らは尊徳に面会し、数日口授を受け、大いに得るところがあった。佐平治が家の規則を改正する方法を尊徳に質問した時、尊徳は詳細に歳入歳出を質問し、尊徳が調製した相州大住郡片岡村(神奈川県平塚市)の大沢小才太の家則を示してこれに則らせた。佐平治はこれを写して帰り、親族と協議して、関係する掛川藩役人の監査もあおぎ数ヶ月で完成した。これを「雲仍遺範」と称する。嘉永六年から天保五年にさかのぼり二十年の豊凶を平均して中庸の分度を立てて年々米五十俵を官に上納し、六十年を継続してこれを掛川領内の困窮した民の救済と荒地開墾の資本として提供することを願い出た。領主の太田備中守はその志に感じこれを許可した。安政元年、佐平治が四十三歳の時です。また別に金百両を献金したいと願い出た。官(掛川藩)はこれを開墾救済の資金に加え、これを報徳金と称して永遠に伝えようとした。その後領主が上総柴山に移封するに及んで、佐平治の献言によって、金四百五十七両余りを新しい領地に分かち、その徳化に浴させた。その功績で帯刀を許され、五人分の給与米を給せられた。領主は領内に布達した。「岡田佐平治に難村立入ならびに荒地起き返しなどの取締りを命じた。存立の困難な難村で、荒地開墾の願いのある村々は佐平治を頼って申し出よ」。それ以来、報徳の方法を施し、資金を貸与し救済したものは佐野郡に印内村、増田村、栃沢村、飛鳥村、平野村、北西部に村上、西郷村がある。城東郡に桶田村がある。山名郡に不入斗村がある。豊田郡に篠原村などがある。その他数村の多数に及んで、佐平治の名前は遠近に伝わった。 また佐野郡領家村の困窮を救い、薄利十年賦返済の約束で百七両三分を貸付し、別に十四両三分を施した。 同郡細田・沢田の両村は土地が平らで灌漑用のため池を築くことができない。用水が欠乏するために頻繫に干ばつとなり百姓は困窮していた。佐平治は武蔵千住より井戸師招いて非地を画定して工事した。鉄の錐が八九丈地中に入ると、井戸水がほとばしり出た。村民は大いに喜んで、その水を神水と称した。それ以来井戸水の及ぶところは稲が熟し、干ばつの年でも飢餓を免れることができた。 豊田郡深見村は太田川にまたがり、堤防は破壊され、荒れた田が多く住民は生計に苦しみ、隣人と争った。領主の摂津候はこれを憂慮し、復興の方法を地方用達に命じ、佐平治がこれを担当した。住民に報徳の道をさとして、日掛け積縄の方法を教えて、公私の負債を償却させ、堤防を修築して、荒地を開墾し十年で一村はようやく昔のように復旧することができた。 安政二年掛川城の草の刈り取りの法を講じた。従来城の草刈りには領内の人民の労力を使い、千百四十人分の費用がかかり、銭九十九貫六百三十六文になる。その弊習、半人分の労力に当たらない。佐平治は人足の費用を見直し、銭七十六貫文とし、金銭を出すこととし、城西の村に受け負わせた。その銭は五十貫文、草は請負人の利益と定め、残りの銭二十六貫文(この金を四両とする)は年々積み立て、百分の五の利をもってした。官民共にその法に感嘆し無窮に伝えようとしたが、維新の廃藩と共にこの法も中止となった。 佐野郡幡鎌村は村高三百四十七石で、戸数はわずかに四十三戸、借金は三千百両、また山名郡中野村は村高五百九十三石で、戸数は九十二戸、そして借金は五千七百両の巨額にあがり、両村ともに水害・干ばつの害が毎年のように起こり、農力の衰退は極に達した。何度も救済を官に愁訴したが、維新の争乱に際し、領主も顧みるいとまがなかった。明治三年に両村ともに静岡藩の領するところとなり、佐平治に命じてこの救済策を立てさせた。佐平治五十九歳の時で二村の回復を最終の業としようと、借金の額を詳細にし、毎戸の生計の予算を立て、日掛け縄ないの法を立て、勧農の田を置き租税を免除し、別に私費を投じ、幡鎌村へ金四百三十二両余り、中野村へ金七百両余りを貸し付け、年賦返済させた。別に勧農の地の代金十五両を幡鎌村に、百十五両余りを中野村に出し譲田とした。官もまた貸与するところがあった。数年で人民の気風は一変し、生計は日に暮らしやすくなり、貢納も納期に遅れることなく、回復するに至った。この年藩庁より上下一具、ラシャ二反を賜り、翌年の正月にはまた白木綿二十反を賜ってその功績を賞せられた。明治九年朝廷は佐平治の従来の功績を評価され、三組の銀杯を賜った。 明治九年九月資産金貸付所御用係となる。いわゆる資産金貸付所は浜松県が創設し、諸種の献金などながくその功績を隠滅させないために設けたもので、報徳金もまたその基本財産の一つである。後年老年を理由に辞任した。 明治八年十二月同志とはかり浜松報徳社会議規則を定め、毎月十一日社を集め報徳の教えを講じ百穀草木培養種芸の事を研究し、また遠江国報徳会の社則を改正し創立費金六十九円余りを寄付した。 明治十一年三月病気で亡くなった。六十九歳。無息軒至誠とおくり名された。長子の良一郎が家をついだ。 佐平治は経書を掛川藩の儒学近藤某に学び、周易に非常に通じ、また兵書を海津某に受け、兼ねて弓術をよくし、ともにその奥義を究めた。1 岡田佐平治は嘉永元年(1848)に牛岡報徳社を設立した。このとき参加した遠江国内の報徳連中は、三十二か村四百人余りに及んだ。このとき佐平治の推譲高は報徳連中の半分に近かったという。さらに嘉永六年(1853)には、天保五年(1834)までの二十年の収穫高を平均し、それを分度とし、余財分を推譲として毎年五十俵を六十年間上納し、掛川領村々の窮民撫恤荒地開墾のためにあてることを願い出ている。さらに明治八年(1875)年になると遠江国報徳社を組織し、佐平治が初代社長に就任する。(「鈴木藤三郎と岡田良一郎」落合功著P.22)2 報徳参会説話 故岡田無息軒翁(大日本報徳学友会報第二十回二頁)抜粋本年(明治九年)二月十一日常会の節に、誠を以て世のため国のため人のためと家職を精勤いたしたいと説話しました。中道の中とは竹の節を程よいと古人も竹を愛しました。竹の節は本繁く中ほど延び、末また繁く、締っては伸びています。一年の季節も節分とか正月の節とか、竹の節という字を用います。人の世もこの通りです。日曜に休むとか、暮に遣り取りをしまうとか、節を立てるからしだらくになりません。大先生(二宮尊徳)のご教諭に「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と。誠とは、うそのない事で誠が離れては何事もゆきません。しかし世の中は種々でいずれが先いずれが後と先後・終始分りませんが、先生「これを道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」と。この御文は分度を立つると申す一句が道の本体にて至極大事、人の世の盛んになる土台で、正業においては、家政調べを行って家の分をわきまえる。十俵徳の家が十二俵で暮らすのは二俵のうそで、誠ではありません。百円徳のものが百二十円にて暮らすのは二十円のうそ、そのうそが積もると分限が退転します。そうであれば十俵徳のものは八俵で暮らすが誠の至極と大先生は分内の図をもってご教訓されました、十俵徳は五俵、百両は五十両にて暮し、何でも半分にて暮し、半分は譲るべしと仰せられ、また中道の分度に止まるとのご教訓でした。この中とは片寄らず至極程よい事で、中は古人も難しとする所です。なぜならば一尺のまん中は中には相違ありませんが物によって片寄って中になりますから、中は容易に得がたい。大先生のご理解には、ナスを作り五つもなったらまず三つも取り、そして肥しをやるべし。霜の降るまでなる、この理は間違いないぞとおっしゃった。五つなったら三つとれとはおっしゃらない。まず三つとおっしゃった。三つ取るのも二つ取るのもある、その程を見てとる事なので、いくつと決まった事はない。朝と晩とは違う、この中道のご理解はいきいきとして、古今未曾有誠に極妙です。このご理解に基づいて分度を立てると財宝が余り、身体は必ずよくなります。しかし積善がなければ災いが来ます。災害が来ると、どれほど大身代も水の泡となります。積善は誠です。積善がなければ人に生まれた甲斐はない。積善の第一は譲りです。農家は作物の肥料に、職人は素人の及ばない所へ念を入れ、商家は正直に融通をよくつけ譲り助け合う。それでよいのですが、病難・火難・水難そのほか不慮の天災は逃れがたく、貧窮に陥る者も多い。貧窮は人事の大患です。貧に迫られると悪念を生じ、悪事をし、五倫の道を守らないようになり、有り難いという事を思わない、この大きな憂いを救う仕法が窮民撫育といって報徳善行のまっ先です。ですから社を結んで分度外に報徳善種金を積み立て社中は勿論、国に貧窮の者がないようにする仕法です。貧窮の者が無くなれば愉快ではありませんか。当国の報徳社中もおいおい増して盛んになりました、この社中が奮発したらどんな善行もできる。報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまう同様の意味に大先生は仰せられ、自他の宝、実に大切です。(第一集八四頁)
2023.01.30
💛デーツ(乾燥なつめ)を買うつもりで、間違えて乾燥いちじくを買ってしまった。栄養素と効能が気になる。食べ過ぎない程度に摂取する分には効能が大きそう(^^)乾燥イチジクの効能乾燥イチジクは体内の活性酵素を取り除いてくれる、ポリフェノールを多く含みます。ポリフェノールはアンチエイジングという効能もあります。またビタミンB1やB2も多く含まれており、疲労回復に働いてくてれます。いちじくにもペクチンが多く含まれています。整腸作用があるので、腸の活動を整え、下痢や便秘の予防効果もあります。水溶性食物繊維なので、主に便秘の解消に良いですよ。また、ペクチンには血中の悪玉コレステロールを下げる働きがあるので、心筋梗塞苦や動脈硬化の予防にも利用されています。いちじくの実をもぎった時に、牛乳のような白い汁がでてきます。この汁のことをフィシンといいます。いちじくにはフィシンというたんぱく質の分解酵素は入っていて、胃腸の働きをサポートしてくれます。胃腸の消化を助けてくれます。乾燥いちじくは、100g中、約11gも食物繊維が含まれています。All You Need to Know About Figsイチジクとその葉には栄養が詰まっており、様々な健康効果が期待できます。健康的な消化を促進し、心臓病のリスクを減らし、血糖値を管理するのに役立つと考えられています。ドライいちじくは、果実を乾燥させることで糖分が濃縮されるため、糖度が高く、カロリーが高い。また、イチジクには少量ながら様々な栄養素が含まれていますが、特に銅とビタミンB6が豊富に含まれています。銅は、代謝やエネルギー生産、血球、結合組織、神経伝達物質の形成など、いくつかの身体的プロセスに関与する重要なミネラルです。ビタミンB6は、体内で食事性タンパク質を分解し、新たなタンパク質を作り出すのに必要な重要なビタミンです。また、脳の健康にも重要な役割を果たします。イチジクは、消化器系と心臓の健康を促進し、血糖値の管理を助ける可能性があるなど、多くの効果が期待されています。イチジクには食物繊維が含まれており、便を柔らかくしてかさを増やし、便秘を改善し、プレバイオティクス、つまり腸内に生息する健康なバクテリアの餌として機能することにより、消化器系の健康を促進することが期待できます。動物実験では、イチジク果実のエキスやペーストは、消化管内の食物の移動を速め、便秘を解消し、潰瘍性大腸炎などの消化器系疾患の症状を改善する効果がありました.便秘を伴う過敏性腸症候群(IBS-C)の150人を対象にした研究では、1日2回、約4個(45グラム)のドライイチジクを摂取した人は、対照群と比較して、痛み、膨満感、便秘などの症状が大幅に軽減したことが分かりました。さらに、80人を対象とした同様の研究では、毎日約10オンス(300グラム)のイチジク果実ペーストを8週間補給したところ、対照群と比較して便秘が有意に減少したことがわかりました。イチジクは、血圧と血中脂肪のレベルを改善し、血管の健康を改善し、心臓病のリスクを減少させる可能性があります。ある研究では、イチジクエキスが、血圧が正常なラットだけでなく、血圧が上昇しているラットでも血圧を低下させることがわかりました.1998年に1型糖尿病患者10人を対象に行われたある日付の研究では、朝食にイチジク葉のお茶を飲むことで、インスリンの必要量が減少した可能性があることがわかりました。イチジクの葉のお茶を飲んだ1カ月間で、インスリンの投与量が約12%減少したのですより新しい研究では、イチジク果実エキスを大量に含む飲料は、イチジク果実エキスを含まない飲料よりもグリセミック指数(GI)が低く、これらの飲料は血糖値に対してより好ましい影響を与えることがわかりましたしかし、イチジクの果実、特にドライイチジクは糖分が多く、短期的には血糖値を上昇させる可能性があります。血糖値の管理が難しい場合は、ドライイチジクの摂取を制限した方が良いでしょう。
2023.01.29
大東文化大学には「二宮尊徳の会」出版の本が6点蔵書となっている。しかも書庫にしまわれるのではなく、板橋図書館の4階開架となっているのがうれしい。大東文化図書館に今回出版の「訳注静岡県報徳社事蹟」のほかボーイズ・ビー・アンビシャス第1集、第3集などを寄贈しよう。1. 八田與一 (はったよいち) と鳥居信平 (とりいのぶへい) : 台湾にダムをつくった日本人技師板橋図・4階Aブロック2. 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集)板橋図・4階Aブロック3. 札幌農学校教授・技師広井勇 (いさみ) と技師青山士 (あきら) : 紳士 (ジェントルマン) の工学の系譜板橋図・4階Aブロック4.二宮尊徳の報徳の教えが世界に広まり真正の文明の実を見ることを : 「報徳記」第六~八巻全ルビ補注付原文、現代語訳板橋図・4階Aブロック5. 二宮先生語録 : 読み下し全ルビ原文・現代語訳 / 齋藤高行著板橋図・4階Aブロック6. 資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある板橋図・4階Aブロック
2023.01.29
二宮先生語録巻の二【176】~【180】【一七六】他人の酒食を貪る者、国家の用を為すに足らざるなり。好で招飲に赴く者、共に議るに足らざるなり。我幼より筵に赴くを好まず。其の筵に赴き徒に光陰を費すや、提籃を造り以て諸を人に施すの楽きに若かざるるなり。乃ち筵に赴かざるも、亦た必ず酒肉を贈り来る。我れ既に吾が楽む所を楽み、又坐して飲食す。豈善からずや。《訳》他人の振舞う酒やご馳走を貪る者は、国家の用をつとめることができない。酒もりに招かれて喜んで行く者は、共に相談するに足りない。私は幼少から酒もりに行くことを喜ばなかった。酒もりにいって無駄に時間を費やすよりも、手提げのカゴをつくって人々にあげるほうが楽しかった。酒もりに招かれなくても、施した人からは必ず酒や肴が贈ってきたものだ。自分が楽しいことを行い、いながらにして飲食できる。なんと善いことではないか。【一七七】余我が衣食を務めず、唯救済之れ務む。且つ先君の命を奉じ、興国安民に従事する以来、米粟の入る所以を問はず、金銭の出る所以を記せず。心を家計に用いず、而して専ぱら力を其の職に尽すのみ。然りと雖も、衣食自から給し、未だ嘗て欠乏有らざるなり。是れ猶ほ樹芸する者、衣食を計らず、力を耕耘灌培に尽せば、則ち衣食其の中に在るごとくなり。世人汲汲衣食に奔走し貧困を免る能はざる者有るは何ぞや。《訳》私は衣食のために務めることはしなかった、ただ人を救済することに務めてきた。かつ先君の命を奉じて、国を興し民を安らかにすることに従事して以来、収入を問うことなく、支出を気にすることなく、心を家計に用いることなく、もっぱら力をその職務に尽くしてきた。それでも衣食はおのずから十分にあり、いまだかつて欠乏することはなかった。これは農業に従事する者が衣食を考えることなく、耕し、草を取り、水を注ぎ、培養することに従事すれば、衣食がその中にあるようなものである。世間の人があくせくと衣食のために努力し、貧困を免れることができない者があるのはどうしたことか。【一七八】我が法施行する所の出納簿を称し、現量鏡と曰ふ。量は升なり、苞なり。夫れ米粟は民命を養ふ。然れども粒散ずれば則ち徒に雀鼠の食と為る。故に之を聚て升と為し苞と為し、以て民命を養ふ。日課索綯法も亦然り。一二尋の値い、以て家を興すに足らず。況んや郡邑をや。然れども之を聚れば、則ち以て国を興すに足る。是れ猶ほ升を以て粒米を量るごとし。則ち現量と名くる所以なり。《訳》私の仕法を施行するときの出納簿を称して現量鏡という。量とはマスでありタワラである。米は民の命を養う。しかしながら米の粒が散ずるならばいたずらに雀や鼠の食となる。だからこれを集めてマスとなしタワラにして民の命を養うのだ。日課縄ない法もまた同じだ。縄の一ひろ、二ひろの値段では家を興すに足りない。ましてや郡村を興すにはなおさら足りない。しかしながらこれを集めるならば、国を興すに足りる。これをマスで米の粒を量るのに譬えて現量と名付けた理由である。【一七九】誰れか我が法を迂遠と謂ふや。余一苞米を以て度外と為し、二十余年の勤労を積み、以て一家を成し、今既に余財を譲り、以て諸侯伯の廃邑を挙げ、且つ夫れ日光廟祭田は、則ち無窮に存す。故に成功を無窮に期し、以て法を立つ。世人事を為す。諸を己れの一世に比較し、以て其の成功を見んと欲す。故に以て迂遠と為すなり。蓋し天下の法を立るは、宜く諸を天下に比較すべし。寰宇の法を立るは、宜しく諸を宝宇に比較すべし。寰宇の法を立るは、宜く諸を寰宇に比較すべし。豈其れ諸を己れの一世に比較すべけんや。《訳》誰が私の方法を迂遠だと言うか。私は一俵の米を度外とし、二十余年勤労を積み、そのようにして一家を再興した。今、既に余財を譲って諸侯の廃れた村を復興し、さらに日光東照宮の祭田を無窮のものとして存続させた。このように成功を無窮に期して、その復興の方法を立てた。世の中の人が事業を行う場合、これを自分一代と比較してその成功を見ようと欲する。だから迂遠だなどとなすのだ。天下の法を立てるにはよろしくこれを世界に比較すべきだ。どうしてそれを自分の一代と比較してよいことがあろうか。【一八〇】闔郷挙げ之を為し、久遠を経るも亦窒碍無き者、農業是れなり。此を国家の大本と為す。儒仏の如きは則ち末なり。況んや其の他の技芸百工に於てをや。何ぞや。闔郷挙な之を為し、以て農業を廃せば、則ち飢餓の患ひ立ろに至ればなり。縦令儒氏書を講じ、仏氏経を説き、芸人技を演じ、百工精を励すも、亦何の益か之有ん。然れば則ち農の大本立ち、然る後儒仏を以て薬餌と為し、技芸百工を以て佐使と為し、一郷以て治すべし。嗟乎、五穀九菜身命を養ひ、五常十戒心病を治め、技芸百工各々用る有り。誠に是の如くんば、則ち万世に亙て弊無し。此れを之本立て道生ずと謂ふ。《訳》村中が挙って行って、永遠に障害がないものは農業だ。これを国家の大本とする。儒教や仏教のようなものは本末でいえば末だ。ましてやその他の技芸百工はなおさらである。なぜかというと、村中が挙って行って、一方農業を廃すれば、すぐに飢餓のうれいがたちどころに来よう。たとえ儒者が書を講じ、仏者が経を説き、芸人が技を演じ、百工が精励しても何の役にも立たない。そうであれば、農業の大本にたって、その後に儒教や仏教を心を治める薬とし、技芸百工それぞれ用をなし、一郷を治めるがよい。ああ五穀や九菜は身命を養い、五常十戒は心の病を治め、技芸百工は各々用いるところがある。このようであれば万世にわたって弊害がないであろう。これを本が立って道が生ずるという。。
2023.01.29
家族ふれあい新聞第693号より思考が人生を創る(三)(神渡良平講演録より) 私が以前に書いた「マザー・テレサへの旅路」という本があります。今生きていらっしゃる人達の中で、最もメッセージを持っている人。僕達に語りかけるものを持っている人は誰だろうと考えた時マザー・テレサだと思ったんです。それで、マザー・テレサの伝記を書こうと思い立って、いろんな資料を手に入れて研究していったんです。そのうちにどうしてもカルカッタに行きたいと思うようになりました。マザー・テレサのグループと一緒に、死を待つ人の家で働いたり、孤児院でボランティアをやりながら、彼女達のグループの中に脈々と流れてる精神を感じ取りたい、そう思ったんです。 ところが、彼女が倒れたというニュースがテレビに流れて、アメリカから心臓病の手術の大家が急きょ、カルカッタに駆けつけ、マザー・テレサの命が危ぶまれる事になったわけでした。 私はカルカッタに行っても、お会いすることはできない、しかしお会いできなかったとしても、シスター達と一緒に仕事をする中で、あの世界を感じ取りたい、そう思ってカルカッタに行きました。案の定、マザー・テレサは病院でしたし、お会いできませんでした。マザー・テレサの施設はカルカッタ市内に七つあるんです。「死を待つ人の家」とか、「孤児たちを集めている家」とか、いろんなところがあるんですが、そういったところで奉仕活動をして朝晩のミサに参加しておりました。丁度3日目の事でした。夕方のミサに参加しておりましたら、礼拝堂は細長い礼拝堂なんですね。それの左半分がシスター達で、右半分が私達ボランティアとか地元の方が参加する場所なんです。私は丁度、境目の所の、後ろの所にいつも座ってミサに参加してたんです。ミサの半ばぐらいになって、車椅子で入って来た人がいました。それはマザー・テレサじゃないですか。ええ~!と思って、「ああ、この人がマザー・テレサ」というような感じでした。見ると、着ている物も継ぎはぎを当てたようなものを着ていらっしゃるし、靴下も継ぎが当たった黒い靴下を履いていらっしゃいました。修道会の創始者でもあり、ノーベル平和賞も貰った人だから、それなりの椅子が用意されていて、そこにお座りになってもおかしくないだけれども、一番出入り口に近い、人が出入りするそういう下座の所に座られて、一緒にミサに参加されたわけでした。そういうマザー・テレサを身近に見ながら、終わるとみんな自分の部屋に帰られるマザー・テレサを囲んで、いろいろ話をするんですね。そういうマザー・テレサに励まされて、私も毎日ボランティアに行っていたのでした。ある日、プレム・ダンという重度の障害者を抱えている病院で仕事をしていた時です。朝、最初各病室の掃除から始まるんです。みなさん簡易ベッドで寝ているのを、起こして簡易ベッドを片付け掃除が始まる。片付けると、あちこちウンコの山ができている。体力がないから、自分のベッドの脇で用を足す。そういうのが山のようになっている。それをバケツで洗い流し、デッキたわしで磨いてシーツを洗う。部屋がきれいになったら患者さんの沐浴の手伝いが始まる。風呂場でバケツにぬるま湯を入れ、頭からかけながら、一人一人の体を石鹸で洗う。そんな事をやっている時でした。お風呂場に路上から拾われてきた右足を骨折した乞食のおじいさんが担ぎ込まれて来た。かかとが骨折し、骨が突き出していた。蛆虫が湧いて腐っていて非常に臭いも激しかったんですね。彼のテイク・ケアをしようとしたら、泣いてわめいて傍に寄せ付けない。困っていたら、通りかかったボランティアの青年が「僕がやろう」と言って、その方をなだめ着ている物を脱がし、体を洗い、右足の消毒が始まった。消毒液を溜めたバケツに足を入れ、ピンセットで腐ってる肉をつまみ出して行く。蛆虫がいる。蛆虫を引っ張り出すと、もう泣きわめくんですね。そのおじさんを動かないように押さえ込んで、右足の治療をする。それが終ったら、当然、彼を担いで病室に僕は行くものだと思っていました。ところが、その青年は、彼を抱きしめたんです。するとそれまで泣いてわめいて人を寄せ付けなかった、その乞食のおじさん、ポロポロと涙をこぼしたんですね。インドのカースト社会というのはひどい社会で一番下の不可触民は、人間とみなされていません。彼は幼い頃からそういう扱いしか受けてこなかった。それを抱きしめる。その暖かさがその人のかたくなな筋肉を解きほぐしたんだと思うんですね。涙が出ました。そのシーンを見た時に私は「ああ、僕はこれを見る為にカルカッタに来たんだ」と思いました。マザー・テレサはいつもこうおっしゃっていたのです。「みなさん、わざわざカルカッタまで来て、ボランティアをして下さってありがとう。でも、気をつけて欲しい事があるんですよ。私達がやっている事はソシアルワーカーがやっている事と全然変りません、だから、ソシアルワーカーのようにやってしまったら、私たちがやっている意味はなんにも無いんです。その人が「私は生きていて良かった、これほど大切にして頂いてありがたいな」というふうに思って頂かなかったら意味がない。どうぞ、相手の方の心に触れるようなそんな出会いの時を持ってくださいね」家族ふれあい新聞第694号より思考が人生を創る(四)(神渡良平講演録より) 私が「マザー・テレサへの旅路」という本を書いた時に、私は一つ大切な事を発見しました。それはベルギーの女性で、ジャクリーヌ・ド・デッカーさんという人が1957年、マザー・テレサの修道会に献身したいと来られるんです。マザー・テレサもそういう修道女志願を受け入れたかった。けれども、ジャクリーヌさんは病気持ちでした。 修道女になることはできませんで、そのまま帰って手術を受け、二回も三回も手術を繰り返すという状態になっていったんです。彼女はすっかり気落ちして、自分は生涯を修道女として捧げたいと思ってたのに、修道女にもなることができなかったと落ち込んでいたところにマザー・テレサから手紙が来るんです。「ジャクリーヌさんお願いがあります、どうぞ私たちの為に祈っていただけませんか」 修道院は九時には消灯です、9時には皆さん各部屋に入られて自分のベッドで休まれるんですが。マザー・テレサは3畳ほどの自分の部屋に帰られると、それから世界中から来ている手紙や献金やなにかに対するお礼のカードをお書きになる。それが夜中の2時まで続くんです。そして朝4時半のミサに参加される。毎日2時間、3時間の睡眠しかない状態の中で生活していた。こんなに苦しい事は、もう他のシスター達にはやらせたくないと思うような生活。だから、彼女の手紙にあるんですね。「私の時間は人がコッペパンを食べるように食べつくされてしまっています」と。だから、彼女はジャクリーヌに手紙を書いた。 「私は祈りがどれほど大切かと思ってます。でも、現実には日常生活において、時間を取ることができない。だから、どうぞ私たちが表に出て働きますから、背後で祈っていただけませんか。そしてその祈りの場を、どうぞ世界中に広げて行ってください。病院から病院、その寝たきりの人達が手をつないで、そして私達ができない分を祈って下されば、私達は体が動きますから、貧民街に行って貧しい人達に奉仕しますから、どうぞ祈りで支えて下さい」それでジャクリーヌさんは、自分の生き甲斐を見出す。「ああ、自分にもそういう形の参加の仕方があるのか」と発見し、その祈りの輪を世界中に広げて行った。「マザー・テレサ愛の宣教者会」という組織です。それから25年後、マザー・テレサがノーベル平和賞に選ばれ、ストックホルムに呼ばれた時、彼女はジャクリーヌを連れて行った。壇上に上がってスピーチする。その背後にジャクリーヌがいて「私は生きてきて良かった」と感じる事ができた。その事を書いてたのを講演会を企画していた半野さんの奥さんが発見される。「祈り」というものが表における活動を支えなければ、それはただのやかましい鐃はちに終ってしまう。それで半野さんに言う。「表に出てビラを配るのは私達がします。あなたは家にいて祈って下さい。必要な人と出会わされるように、必要な人がそのパンフレットいただくように祈ってください」と言う。半野さんはその3月31日の講演会に向けて、祈りの生活をする。そして、当日3月31日。250名入る会場に、なんと239名が入ったんです。講演会は素晴らしい講演会になりました。半野さんは確信をうる。「いける!」それで彼の中に僕にしかできないようなビデオを作る事ができるという世界に変って行った。ある時、彼から手紙が来ました。パソコンで書いている手紙でした。僕は彼に言いました。「半野さん、手書きの手紙を欲しい。手書で書いたら字がとても読めないような字になるからって気遣ってワープロで打ったんだろうけれども、この一枚の手紙、読めないような字、僕も昔はそうだった。でも、それが練習になるんだ。全ての事を手書きでやっていけば、そのうちに人が読めるような字になってくる。だから最後にお詫びして、本当に字がふるえてしまってごめんなさいとお詫びすればいいんだから、とにかく自分で書きなさい」彼はもう車椅子に乗ってません。足を引きながらですけども歩いています。まだ麻痺が残ってますが、右手で手紙を書くまでになった。それを見て思うんです。天は私達に逃げる事ができないような立場に追い込んで、大切な事を教えて下さる。その人の人生を光り輝かされるではないか」
2023.01.29
「清風掃々」鍵山秀三郎さん より「幸せには3つの幸せがあることを知っていますか」広い講堂に、優しく語りかけるような声が響いた。「一つ目の幸せは、やってもらう幸せです。皆さんが赤ちゃんのとき、お腹がすけば泣いたし、おむつが濡れれば泣きました。するとお母さんが飛んできて、おっぱいを含ましたり、おむつを替えたりしてくれましたね。そのとき皆さんは幸せでした。これが『やってもらう幸せ』です。二つ目は、自分でできるようになった幸せです。字が書けるようになった。一人で自転車に乗れるようになった。サッカーがうまくなった。これが『できる幸せ』です。何でも自分でできるようになると、偉くなった気がしてうれしいものです。 でも、その次があるのです。それが、人にしてあげる幸せです。人がしてほしいことをしてあげれば喜ばれますね。そんな人は頼りにされます。『してあげる幸せ』は三つの幸せの中でも最高の幸せです。さあ、皆さんも、『やってもらう幸せ』から『できる幸せ』へ進み、そして『してあげる幸せ』を味わえる人になってください。」この話は二宮尊徳先生が竈新田の小林平兵衛を諭した話と一致する。達人の境地は一致している。尊徳先生が御殿場の小林平兵衛という人の仏壇を開帳されたところ、そこに「諸人無愛敬諸道難成就(諸人愛敬無ければ、諸道成就しがたし)」と書かれてあったのを見て、「きさまは、この語をもっぱら信じ用いる者か」とひどくお叱りになったことがあります。「諸人に愛敬を受けなければ、道は成就しないなどと思って、人に助けられることのみ修行するものだ。これは菜っ葉の虫が柔らかい葉を食うようなものだ。本当に諸道を成就しようと思うなら、次のように心がけるべきだ。 諸人救助なくして諸道成就しがたしこの自他の違いは大きい。人と生まれて諸人を救助することなければ、諸道成就することなし。人を救い助ける心を押し広げる。そして是非を見極め、誠をもって救い助けるべきだ。そうして後に諸道は成就するのだ」とじゅんじゅんと諭されたのでした。(報徳見聞記68)
2023.01.29
家族ふれあい新聞第695号より思考が人生を創る(五)(神渡良平講演録より) 私は、毎朝散歩に出るのが趣味です。 朝4時半に起きて散歩に出て、1時間半ぐらい田んぼの中を歩いて家に帰って来ます。冬場は全く星空です。 今は4時半というとやっと明るくなってきたかなという感じですね。いつも散歩している時、不思議な夫婦に出会うんです。ご主人が80歳、奥様が72歳。こんな星がまたたいている時間によく散歩しているなと思っていました。なんだろう、このご夫婦は。それでこの夫婦はいつも水筒を持って歩いている。ある時一緒になってその水筒のお茶を頂いて、話をしたんです。そうしたらその72歳の奥様は4年ぐらい前はヨチヨチ歩きだったんです、おそらく病み上がりなんだろうなと思うような歩き方でした。 その奥様は、実は脳梗塞で倒れて病院に入って、10ヶ月間意識不明だったんだそうです。それでご主人がその意識不明の奥様の意識を呼び覚ます為に、手足をさするんです。寝たままですと、当然筋肉が衰えていきますし、関節が固まってしまうし、背中には褥瘡(じょくそう・床ずれ)ができますから、褥瘡ができないように2時間おきに体位を変え、そして寝ている奥さんの手足を動かし足を曲げたりしてリハビリをやって、体を刺激する事によって魂を呼び覚まそうとして努力なさるんです。2ヶ月経っても3ヶ月経っても、4ヶ月経っても一向に反応しない、昏々と眠り続けているわけです。それでもご主人は一所懸命に続けるのです。10ヶ月間、彼は奥様の手足を伸ばしたり曲げたりやり続けるんです。 10ヶ月めに「う~ん」と奥さんが唸るんですよ「やった~っ!」って、それで彼女が意識を回復するんです、それが丁度10ヶ月ぐらい。それから更に8ヶ月間病院にいたんですが、全部で1年6ヶ月の病院生活でした。 最後の頃、奥様はベッドから降りる事はできたけれど、歩けない。廊下の手すりを伝い歩きする状態だった、2mしか歩けなかった。その奥さんが退院してから、ご主人が励まして「とにかく、歩こう」といって歩き始めた。今日は3m歩けた、今日は5mも歩けたといって喜んでいた。段々時間が長くなって、今日は30分頑張れた、今日は45分歩けたというふうに励ましていかれた。私はね、ご主人の話を聞いて凄いなと思ったのは―。 単にリハビリだったら人間は辛いです。こんなに努力したのに成果があがらないと思ってしまう。そこで、奥さんを動機付けした。娘さんが結婚してロス・アンジェルスにいる、そのご主人が、ロス・アンジェルスの郊外にイスズの工場に勤めている。「おいお前、ロス・アンジェルスに孫の顔を見に行かないか」と言うんです。奥さんとしてみれば、これは元気になって、歩けるようになってアメリカまで行きたいと思うじゃないですか。そういう動機付けをなさる。それで、1年経ち2年経ちというふうになっていく。 今では毎朝2時間半歩いている。何で早朝歩くんですかと言ったら、最初は日が昇ってから歩いていた。でも、段々夜明け前の輝きに魅せられるようになった。人間、宇宙の霊気を授かるのは夜明け前だという事に気が付いて、それで朝の早朝の散歩をするようになったとおっしゃっていました。今は、そのロス・アンジェルスにも旅行に行ったし、北海道にも温泉旅行に行ってらっしゃる。昔4年ほど前はヨチヨチ歩きだったものが、今はスタスタ歩けるようになった。奥さんがおっしゃってました。「歩くという事は、脳を活性化させます。当時、私はすっかり感情を失っていました。顔は能面みたいになり、喜怒哀楽の感情が全然無かったんです。でも、毎日歩いているうちにもう一度自分の中に、この表情が甦ってきてこんなふうになりました」とおっしゃっていました。
2023.01.29
三國隆志先生はアメリカ文学の中で特にユダヤ文学を研究され、ハシディズムにも造詣が深かった。イギリスにも留学されていた。先生の学問のあとを継ぐ人はいるのであろうか?わずかなりとも先生の業績を資料集にまとめたいとも思ったが遺族の方と連絡も絶えて了解いただくこともなく、残念なことに先生の高徳を慕う方も少なくなるばかりである。あるとき「私の名前はあなたの著述の中で残るかもしれないね」と冗談ぽく言われたことがある。そしてたまにこうしてブログにも三國先生のお名前を記す。バアル・シェム・トブ と ハシディズムの瞑想方法(『ユダヤ教の霊性』)ポーランド南部のポドリア地方の小都市メジブズで、ラビ・イスラエル・ベン・エリエゼル、通称「バアル・シェム・トブ」(1700頃ー1760年)がユダヤ教の復興運動、ハシディズム(敬虔主義)運動を始めた。バアル・シェムとは、護符師(病気などの場合にお守り札を書く)のことで、彼が書くお守り札は効能があるというので「バアル・シェム・トブ(良い護符師)」と呼ばれたのです。彼はポーランドとトルコの国境に近いポドリア地方の小村オコピに生れました。幼くして親を失い苦労して生育しましたが、その前半生の詳しい事は不明です。彼は愛をもって人々を励まし、感動をもって礼拝に臨むこと、神の身近さに感じながら日々の生活を祝い、敬虔(ハシッド)に生きることを教えた。そこで彼の運動はハシディズム(敬虔主義)と呼ばれた。ハシディズムの信仰の基礎は「全地は神の栄光に満つ」です。「神は世界中どこにでも存在する。それゆえに『神不在の場所はどこもない』」と彼らは考えた。バアル・シェム・トブは言う。「もしどこに行くとしても神が一緒にいるのであれば、人は常に喜ぶべきである。彼は、自分を守るために、シェヒナー(神の臨在)が自分とともにあると思うべきである。全面的な信仰をもってそう信じるべきである。もし彼が創造主を見上げれば、神はほむべきかな、神は彼を見守る。 創造主は自身が欲することは何事もなすことができる。もし神が欲するならば、全世界を一瞬のうちに滅ぼし、次の一瞬でそれを創造することもできる。 世界の中に存在するすべての善も刑罰も神に根ざしている。なぜならば、万物の中に神の聖なる流出と生命力があるからだ。だから、われわれは神以外の何者にも頼ってはならないし、恐れてはならない。」バアル・シェム・トブの最初の賛同者は、彼の義兄、ラビ・アブラハム・ゲルションでした。ベルションは、ポーランド南西部の商業都市ブロディのユダヤ教法廷の主席判事で、クロイスというユダヤ教神秘思想求道会の会員でした。後にクトブに移住し、クトブのラビ・アブラハム・ゲルションと呼ばれた。またコソブのラビ・ナフマンがバアル・シェム・トブの運動に加わったことも、ハシディズムの宣揚の助けとなった。彼もクロノスの会員でした。ラビ・ヤコブ・ヨセフは最初にバアル・シェム・トブの弟子になった人物です。彼は1780年に『トルドット・ヤコブ・ヨセフ』を出版しました。これがハシディズムの教えを網羅した最初の本です。バアル・シェム・トブが後継者に指名したのは、ラビ・ドブ・ベエルでした。彼は通称「大説教者」(マギッド・ハガドール)と呼ばれた。彼はユダヤ教神秘主義(カバラー)の研究家で、苦行のしすぎで神経衰弱になり、その治療でバール・トブ・シェブの助けを借りたことがハシディズムの出会いになった。彼はバアル・シェム・トブの死後、ハシディズムを教団化しました。ドブ・ベエルもバアル・シェム・トブも著作を残していません。語録を通して彼らの説教は伝わっています。バアル・シェム・トブはアブラハム・ゲルションへの手紙で、自分の魂が天に昇った幻について説明しています。それは西暦1746年9月(ユダヤ教の新年)の出来事でした。「私がそこ(メシアの天の宮殿)に滞在している間に学んだことは、三つの呪文と三つの聖なる御名である。それは学ぶことも識別することも容易であった。私が平静に戻ったとき、私はそれらを使えば、私の時代の人々も私と同じ霊的段階と水準に達することができるのだと悟った。つまり、人々は、今在るがままの状態で、私と同じように魂を高めることができるし、学び、また理解することができるということである。しかし、私がそれを明らかにすることは許可されなかった。そしてわたしはあなたのためにそれをあなたの教えることを特別に求めたけれども、許されなかった。私はここに誓ってそれを証明する。」その頃、バアル・シェム・トムはコソブの神秘家ラビ・ナフマンと出会い、意気投合します。その会話の中でラビ・ナフマンの実践を承認する形で自分だけの秘密の一部を明かした。それは、神の名「YHVH(ヘブライ文字יהוה)」を終始思い浮かべるということでした。ナフマン『イスラエルよ、きみは人々の思いが分かると言われているが、それは本当かね?』バアル『ええ、そうだよ』ナフマン『わたしが今何を考えているか、きみは分かるかね?』バアル『あなたの考えが固定していないので、分からない。思いが一点から他の点にと迷い、移り変わり続けている。もしあなたが一つの事に思いを集中するならばわたしにはそれが分かるだろう』ラビ・ナフマンが思いを固定するとバアル・シェム・トブは言った。『神の名יהוה(YHVH)があなたの思念の中にある。』ナフマン『きみはどっちみちそれがわかったはずだ。わたしがいつもこれを念じ続けているのだから。聖書に書かれているとおり、『わたしはわが主(יהוה)をわたしの前に常に置く』のだ。わたしがすべての思いを取り去って一つに集中する時はいつも、神の名יהוהがわたしの目の前にある。』バアル『だが他にもいくつか聖なる御名がある。あなたはどれでも好きな名に思念を凝らすことができたでしょう。』ナフマンがバアルが言うとおりだと認め、二人はトーラーの奥義について議論を交わした。ヘブライ語聖書では、神の名は「יהוה」の4文字が記される。ヘブライ語は右から左へ子音文字だけで綴る。ユダヤ教ではこの名をみだりに発音することを禁止する。この4文字をユダヤ教徒は「アドナイ(われらの主)」と読む。日本語訳聖書では、この4文字を「エホバ」とか「ヤハウェ」と訳し、最近では「主」と訳する。ハシディズムの人々が特に重視する聖書の一句は、詩篇16編8節の「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」(シャヴィーティ・יהוה・レネグディ・タミッド)です。原文の意図は、わたしは常に神と正面から向き合って生きているということです。しかし、ハシディズムの人々は、文字通り、יהוהの4文字を目の前に置くという意味に解釈したのです。ラビ・ナフマンの瞑想法は、4文字を思考するよりも、文字像を思い浮かべるものでした。ラビ・ヤコブ・ヨセフは「トルドット・ヤコブ・ヨセフ」で報告しています。「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」の一句について、わたしは、わが師ラビ・ナフマンから、これを理解することは難しくないと聞いている。神の名の文字が心に見えなければ、いつでも、心の中で御名を正確に映像化しなければならない。そうすれば祝福さるべき御方、神は常に神の思いの中におられるようになるであろう。」バアル・シェム・トムは彼自身の瞑想法を漏らしませんでしたが、ナフマンの方法を承認し、激励しました。「あなたは、神の御名を一体化すべく強く念を凝らせ。(略)そしてあなたは自分を聖名の文字に合体されるようにせよ写真の点線が「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」にあたる。
2023.01.29
ビール週1~2杯まで? カナダの新指針が波紋 「少量でも健康に害」1/28(土)カナダ薬物使用・依存症センター(CCSA)は今月、アルコール摂取に関する指針を12年ぶりに改定した。近年の研究で「年齢、性別、民族、アルコール耐性、生活習慣に関係なく、飲酒は全ての人にダメージを与える」と分かったためといい、「もし飲酒するなら、量を減らすのが好ましい」と呼び掛けた。 新指針では、飲酒によるリスクを、1週間当たりの消費量別に▽0杯▽1~2杯▽3~6杯▽7杯以上の4段階に分類。0杯は「リスクなし」で、妊娠中では「唯一の安全な選択肢」だという。 1~2杯は「低リスク」で、「アルコールの影響を避けられそうだ」と指摘。「中リスク」の3~6杯は乳がんや結腸がんなどを発症する危険性が高まるという。7杯以上は「高リスク」で、心疾患や脳卒中の恐れが1杯多く飲むごとに高まると警鐘を鳴らしている。 CCSAは1杯を、ビール(アルコール度数5%)で341ミリリットル、ワイン(同12%)で142ミリリットル、蒸留酒(同40%)で43ミリリットルと定義。カナダ保健省に対し、販売される酒の容器に何杯分のアルコールが入っているかを明示する規制を導入するよう勧告した。 CCSAによると、カナダに住む15歳以上を対象にした調査では、回答者の40%が週7杯以上飲酒していると答えた。今回の改定について、トロント近郊で公共放送CBCの取材に応じた通行人のウェイン・ホワイトさんは「97歳の祖父母は毎日ワインを飲んでいる。(指針には)同意しない」と反発した。女性のアルコール依存症、30代ピーク 摂食障害や精神疾患の重複も1/25(水) 白峰クリニック(さいたま市)の岩原千絵医師――女性のアルコール依存症は増えていますか。 私が勤めていた国立病院機構久里浜医療センター(神奈川県横須賀市)のデータを見ると、新規のアルコール依存症患者数に占める女性の割合は、2019年までの30年間で1.7倍に増えています。 週3日以上、1回1合(約180ミリリットル)以上飲む人の割合は、男性はここ20年で減ってきていますが、女性は横ばい。男女比を見ると、女性でお酒を飲む人の割合も増えてきています。――女性が依存症になるきっかけは、男性とは違うのでしょうか。 男性は、社会人になって、いわゆる「飲みニケーション」で飲むようになって、徐々に酒量が増えていくパターンが多いです。 一方、女性はきっかけがストレスということが多く、そこへの自己治療としてお酒を使うようになるケースが多い。――女性のアルコール依存症の特徴は。 一つは、年齢が若いということ。もう一つは、精神面での合併症が多いことが挙げられます。 アルコール依存症で入院する患者は、男性は50代がピークですが、女性は30代が最も多い。 女性は男性よりもアルコールの分解速度が遅く、もともと体質的にアルコールに弱いため、アルコールの健康影響が出やすいのです。男性と同じ時期にお酒を飲み始めても、女性の方が10歳以上早く肝硬変になる、という報告もあります。 アルコール依存症と合併する病気で多いのは、薬物の乱用や依存(20.5%)、境界性パーソナリティー障害(12.4%)、重症不安エピソード(31.4%)などで、いずれも男性の2~6倍多いです。 また、摂食障害の重複も多く、20代に限ってみると、女性のアルコール依存症患者の7割が、摂食障害を合併しているという報告もあります。💛最近は飲酒していない。アルコールは依存性があり、飲み続けると thirsty (のどが渇いた)みたいな、絶えずのどにアルコールの入った感覚が飲酒を誘惑する。何度、禁酒、断酒、休酒を試み、失敗したことか。結局、飲んでいるうちは気持ちよくても、翌日になると胃の腑が痛み、頭痛に苦しむなどが続き、その因果関係が体が警告を発しているとわかってようやく、ノンアルコールビール(純粋ビール法に準拠の)などに切り替えて、thirstyの感覚がなくなった。Common Alcohol Withdrawal Symptomsアルコールの禁断症状は、その人の最近の飲酒習慣のレベルや期間に比例して関係します。アルコールを飲むのをやめた人全員が離脱症状を経験するわけではありませんが、長期間にわたって飲酒していた人、頻繁に飲んでいた人、大量に飲んでいた人の多くは、アルコールの使用を突然やめると、何らかの離脱症状を経験することになります。飲酒をやめると、軽度から中等度の精神的、身体的な症状がいくつか現れます。アルコール離脱の原因アルコールを大量に、頻繁に、あるいは長期間にわたって飲むと、脳はアルコールの抑圧作用を補うために、(飲んでいないときと比べて)より多くの刺激的な化学物質を放出するようになります。過剰生産が脳の新しい常態となるのです。飲酒をやめても、脳はまだ余分な化学物質を分泌しており、過剰な刺激に関連した不快なアルコール離脱症状を引き起こす可能性があります。脳は再調整されますが、再調整されるまでの間、禁断症状のある人は体調を崩す可能性があります。
2023.01.29
現代語表記 流竄録 内村鑑三 その3 白痴院の目的は3なり 余はまず看護人として本院に雇い入れられたり白痴院の目的は三なり。一、これら神経機能発育の防阻せられし者を取り、特種の方法をもって、この防阻を排除し、規定的発達(ノーマルデポルブメント)を促すにあり。二、これら人類中の廃棄物を看守し、一方には無情社会の嘲弄より保護し、他方には男女両性を相互より遮断して彼らの欠点をして後世に伝えざらしむるにあり。三、これら社会の妨害物を一所に集め、一方には社会をその煩累より免れしめ、他方には適宜の訓導のもとに彼らをしてその資給の一部を補わしむるにあり。 余はまず看護人として本院に雇い入れられたり。余の職務は白痴22名を預かり、これに衣食沐浴の世話を与うるにありき。しかして余が白痴教育の原理に達せんがために院長は余をしてドイツ婦人某の助手たらしめ、彼女と共に最下級生(すなわち単数4個以上をかぞえ得ざるもの)40余名を分配して教授なさしめたり。余は明治18年1月1日よりこの聖職に就けり。しかして爾来(じらい)3か月間は余のいまだかつて味わざる生涯の苦戦なりき。 余はまず教授上の実験より談ずべし。教授の課目はおおよそ左のごとし。一、 行状-おもに静粛なるを教う。そは彼らは5分時と同時に平靖(へいせい)なるを得ざればなり。彼らをして15分間手を組みて静粛ならしむるの教師は熟練のものといわざるを得ず。二、 色分け-青黄赤白黒の別を知らしむるにあり。白と黒とは容易に別つを得べし。しかれども、青と黒とはやや難(かた)きがごとし。紫と青のごとき、黄とダイダイのごときは最も難題なり。これを教うるに色ボタンをもってす。彼らをして同色のものを一糸につながしむ。三、 算数なり-最下等のものは4を超ゆるあたわず。最上級のものは阻滞なしに20までかぞえ得るものあり。書物を取りてその四隅あるを知らしめ、男女を両別して、互いにその数をかぞえしむ。一時間を消費してまず滞りなく10をかぞえしめたりと思い、なお一時間を経て彼らを試むれば、8を5の前に置くあり。6を9の後に言うあり。しかれども癇癪(かんしゃく)は起こすべからず、また再び試みんのみ。四、 指先の鍛錬なり-釘を平板にうがちたる穴に差し入れしむ、女子部においては針の穴に糸を通すの法を教うるをもって専とす。そのほかおおむねかくのごとし。その気長の仕事たる察すべし。余の受持の級中、余の特別の注意を惹きしもの2人ありき。一は前述のオスカー某なる留め針狂、貪食漢なり。他はハリー某なる猿猴(えんこう)的小児なりき。余は非常の「インテレスト」をもってこの児を研究せり。そは彼が猿が進化して人間となりしものにあらずして、人間が退化して猿となりたつものなればなり。彼の面貌の猿猴的なるは一目瞭然たり。しかれども彼の行為においてはなお一層そのしかるべきを見たり。その床につくや前方に身をかがめ、床衣を背部にまとうをつとめて腹部に意を留めざるはたしかに猿猴的なり。彼の物を食するや、まずこれを手にし、八方よりこれを眺め、しかる後一意をこれに注射して食するの状も猿猴的なり。しかして彼の猿猴的傾向にいたりては彼の全く猿猴族の親類たるを証するに足れり。 余は一日彼を試みんために余をして全く彼の自由に任じたり。しかして彼がいかにして余を処するかを見たり。彼はまず余の頭を撫ぜてしきりに余の静粛にして彼の意にしたがうをほめ立てたり、(余が常に彼に向かって為すの状なり)しかる後に余を引き立てたり、余は彼の命ずるままに行けり。彼は余を伴いて教場の附属室にして一日一回小児に分与すべきパン菓子の貯えある所に連れ行けり。余に命じていわく、「なんじ、その箱を取りおろせ」と。余は彼の命に従えり。彼はまた大いに余の従順をほめ立てたり。いわく「ユー、グー、ボイ」と。彼は夥多の菓子を彼の両衣嚢(かくし)の中に取り込みたり。しかして余に向かっていわく、「なんじにこの一個を給す。おとなしくあれ」と。余は黙して彼の為さんとするところに注意せり。彼は面を余よりそむけ、知らぬまねして菓子を取り出し、まさに一々これを平らげんとせり。時に余は声をはげましていわく、「ハリーよ、なんじは盗賊なり。なんじはこれを食すべからず」と。彼は朱色を面にはらして発怒せり。あたかも浅草の奥山における猿に与えんとする菓物を転じて与えざりし時の状に少しも異なることなし。怒れるハリーは泡をふきながら彼の席に帰れり。しかして彼の不機嫌は終日にわたりたり。余の看護的職務は以上のごとく学術的の趣味を有せざりき。20余の自己を顧みざる人間を取り扱うは決して安易の業にあらず。彼らは朝夕口をすすぐの要と快とを知らず(彼らたいがい15歳以上なり)。ゆえに傍らに付きまといて一々口中を検査せざうを得ず。彼らは糞尿を床中にのこすも、もし他人の注意を加うるにあらざれば何日たりとも、これに安んずるものなり。ゆえに毎朝厳しく彼らの寝台をしらべざるべからず。彼らは無理に浴中に投ぜらるるにあらざれば、何年間なりとも自己の垢に安んずるものなり。ゆえに彼らを浴中に押し込み、ブラッシュもて彼らを擦(す)らざるべからず。しかして無責任なる彼らにして看護人の不注意より疾病にかかるものありとせんか、その責は皆吾人の頭上に来りて彼らに来たらず。朝夕、房内の寒暖を調和せざるべからず。空気の流通に注意せざるべからず、ノミ・シラミの征伐に従事せざるべからず。看護人は彼らの奴隷なり。彼らもし普通の病者にして身体不自由のために病床にあるものならんか、吾人はよく彼らのために忍ぶを得ん。しかれども彼らは強壮なる一人前の人間なり。彼らの病はただに責任を知らざるにあり。ここにおいてか真正の耐忍は要せらるるなり。ここにおいてか論理的の徳義も宗教も無用に帰するなり。この場合において益を得しものは彼らにあらずして余自身なりき。 院則として院長の許可なくして笞杖(ちじょう)的の譴責(けんせき)を入院者に加うるを得ず、ゆえにいかに無礼を加えらるるも、靴もて蹴らるるも、つば吐かるるも、子羊のごとくに忍ばざるを得ず。責任を知らざるものを感化するに道徳的な感化力をもってせざるべからず。ほとんど無理相談と称して可なり。しかりといえども道徳的感化力は彼らにいけるも最大勢力なり。しかして、院則のこれに出しものは確実なる経験に基づきしものなり。費府(フィラデルフィア)の癲癇(てんかん)院長故キルクプライド氏は彼の患者に接するに常に君子の礼をもってし、癲癇者なるのゆえをもって彼らに対し虚言を吐きし事なく、また彼の配下に立つ役員雇い人等に至るまでこの規を固く守らしめたりという。白痴またしかり。彼らの無知なるは彼らをして、親切に対し無覚ならしめざるなり。吾人一度彼らの依り頼むところとならんか、彼らに優りて愛すべきものは余はいまだかつて知らざるなり。これ白痴看護事業において希望の存ずるところなり。 しかれども彼らは容易になずまざるなり。このゆえをもって本院の雇い人にして3か月以内に解雇を願い出ずるもの多し。そは彼らはいまだその苦のみを知りて、その快楽を知るに至らざればなり。しかし3か月以上を経て止まず、役員にして25年を院内に過ごせしものすくなからず。看護人にして十年以上のものまた多し。戦争は最始の3か月なり。これ白痴教育事業の皮切りなり。
2023.01.29
「まどさん」(阪田寛夫著)より まど・みちお こと 石田道雄 さんについて廖さんという台湾の方が阪田さんに話されたエピソードがのっている。阪田さんが台湾時代の まど さんの知っている人の話を聞きたいと調べていたときのことである。ホリネス教会の副牧師だった廖(りょう)さんという方から、石田さんには大恩があるからぜひ会って話したいと電話があった。ところが、翌日廖さんは心臓発作で入院したという。数日後その長男から電話が入り、ぜひ病院に来てほしいという。病院に行くと、点滴注射を受けていた廖さんは、いきなり点滴の注射をはずして、寝台のうえにあぐらをかいて語った。「年代は忘れましたけど、教会で初めてお会いしたのは私たちも結婚前で、(まどさんは)若い私たちと同じ若い信者でした。私の石田さんの印象の中には『珍しい青年』という気持がありました。率直に言いますけれども、失礼しましたらかんべんして下さい。その頃は植民地という関係で、本島人は日本人との間がどこかに溝がありました。だけれども・・・・」廖さんは、てのひらをあわせた。「私が石田さんを、こんにち大へん尊敬しているのはそこから出たのです。若い青年でありながらー当時の青年は本島人にはあまり触れないものです。けれども石田さんの行動はやさしい平等的なものでありました。石田さんの信仰の状態は、信仰の生活化したクリスチャンですよ。実に見上げたられた人です」そのあと私的なことだと断って自分達の結婚に母親が不同意で、2人で家出したした事情を話した後、「その苦しい時に石田さんをお尋ねしたわけですよ。台中と沙鹿の間を建設されていたのですが、その時、私たち夫婦が、落ちぶれたよるべのない姿でお訪ねしたんです。そしたら、家内を女中のようにして、出張事務所に入れてくださったんです。それはあとの話ですが、その時いちばん先に、自分の持っていた新しい蚊帳を私たちに貸してくれてー住んでいたのは豚小屋だったんですが、そんな所へ新しい蚊帳を貸して下さって、一層深い印象を与えられたわけですよ。あの時、私たちは、もし石田さんがなかったらもうこの世に存在できなかった。それほど苦しんでたわけですよ」その後、廖さんは医師となった。そしてまどさんが自分たちによくしてくれたように、日本人が帰国する時に、やれる範囲でただで薬を作って、困っている日本人に持たせたという。「その時思ったのは、私がこうした事をできるわけは、ただ石田さんが蔭におられたから、ということでした。豚小屋にいる私たちに、買ったばかりの蚊帳を貸して下さったのですから。あの時には涙が出ました!私たちはどうして日本人・台湾人ということを思うのか!」ひとことでいえば「石田さんは信仰を生活化した人物です」と繰り返した。「そうだ、こんな日本人がいらした。私は人類を超越せねばいけない、と気がついたのです」と廖さんは言い切った。
2023.01.29
二宮先生語録巻の二【171】~【175】💛「予め備えるという心を用いる」1月28日放送の「チョイス」の番組は圧迫骨折についてだった。身近で股関節骨折や骨粗鬆症をよく耳にする。友人に「気をつけて。納豆のほかに、みかんも骨粗鬆症にいいというエビデンスが出てる」とメールしたら「母も骨粗鬆症で毎週病院に行っています」と返信があった。超高齢化社会、股関節骨折や骨粗鬆症はごく普通に対応すべき症状なんだ。番組の骨粗鬆症予防のストレッチや壁付体操なども参考になった。今度、骨密度を一度測ってみよう。妻曰く「私は測って薬も貰って飲んでる」恐れ入りました>.<【一七一】貧民飢饉に遭て飢餓を免れざる者は、何ぞや。是れ其の心を予備に用いざるを以ての故なり。夫れ米粟は日に生じ月に実る者に非ず。唯春生秋実を期するのみ。然り而して周歳飢餓を患ひざる者は、何ぞや。是れ其の心を予備に用るを以ての故なり。若し夫れ米粟に或は間歳に一たび実り、或は三歳に一たび実らしむるも、亦心を予備に用いば、則ち何ぞ飢餓の患ひ有ん。況んや三十年若くは五十年一たび臻るの飢饉に於てをや。《訳》貧しい民が飢饉にあって飢餓を免れないのはなぜか。それはその心を予め備えることに用いていないからだ。穀物は一日で生じたり、一月で実るものではない。ただ春に生じて秋に実を結ぶものではないか。逆にいつになっても飢餓を心配することがないのはなぜか。その予め備えるという心を用いているからだ。もし穀物が一年ごとに実り、あるいは三年に一たび実るものであったとしても、心を予め備えることに用いれば、どうして飢餓を憂えることがあろうか。まして三十年や五十年に一回想定される飢饉はなおさらのことだ。【一七二】多才の士道徳に乏く書を著はし古語を引くも、亦専ら子史に在て、学庸論語に及ばざるなり。蓋し聖語は才を以て解き難し。抑々己れの心に合はざる故か。此等の人、学庸の道を以て難しと為すなり。思はざるも亦甚し。《訳》多才の人は道徳に乏しく書物を著し古語を引いても、もっぱら孟子や史記の類いであって、大学・中庸・論語に及ぶことがない。なぜかといえば聖人の言葉(大学・中庸・論語)は才では解き難いからである。そもそも自分の心に合わないからであろう。これらの人は大学・中庸の道を難しいという。よくよく物事の道理を考え抜いていないことはなはだしいではないか。【一七三】粟と葦と、一なり。故に葦の生ずる処、之を墾けば、則ち粟と為り、粟の生ずる処、之を荒せば、則ち葦と為る。我が神州上古豊葦原と称し、又瑞穂と称す。故に之を墾けば、則ち嘉穀を産す。是れ万国に冠たる所以なり。然りと雖も、之を耕せば、則ち粟と為り、耕さざれば、則ち葦と為る。豈力耕せざるべけんや。《訳》稲と葦とは一つだ。だから葦の生ずるところを開墾すれば稲となり、稲の生ずるところを荒らせば葦となる。わが神州は大昔、豊葦原(とよあしはら)と称し、また瑞穂(みずほ)の国と称した。だからこれを開墾すればよい米を生産した。これが万国に優れた理由だ。しかしながら耕せば稲となり、耕さなければ葦の原となる。どうして勤めて耕作しないでいられようか。【一七四】水に生死有り。地中に在る者、生水なり。上下を分たず、上山頂より、下地底に至る。地を離れ、形を見はす者、死水なり。必ず下きに就く。樹中の水気も、亦然り。根幹枝葉に達す。樹を離れば則ち下だる。人身の血も亦然り。頂蹠四肢に達す。身を離れば則ち下だる。《訳》水に生死がある。地中にある水は生水で、上下を分けない。上は山頂から下は地底にまで達する。地を離れて、形を現わすと死水で、必ず低いほうにつく。樹木の中の水もまた同じで、根や幹、枝、葉に達する。樹木を離れれば下る。人の体の血もまた同じで、頭の天辺からかかと、手足まで達する。身体を離れれば下る。【一七五】世人吝者を見て、輙ち倹と曰ひ、倹者を見て輙ち吝と曰ふ。論者も亦未だ其の分界を審にする者有らざるなり。倹吝は分に定まる。分定らざれば、則ち終日之を論ずるも、亦何の益ぞ。且つ倹吝の外形を以て弁ずべからざるなり。之を業と欲とに譬ふ然り。農夫有り。夙に興き禾を刈る。是れ業か欲か。誰れか能く之を弁ぜん。吾が田を刈らば則ち勤業。他の田を刈らば則ち私欲なり。士人有り。悪衣悪食矮屋に居る。是れ倹か吝か、誰か能く之を弁ぜん。禄命を守り以て其の職に供し、自奉を省き以て之を人に推す。是れ君子の業にして倹譲の道なり。若し其の禄を惜て肯て用ひず。米を蝕し金を秘し衣を腐し、以て其の職を缼く。是れ小人の欲にして、吝嗇の為なり。然らば則ち田畝の畔定まり、自他之分明にして、然る後に業と欲と、判ずべきなり。禄命定まり天分明にして、然る後倹と吝と、弁ずべきなり。勤業分を譲り以て人の為にする者、倹なり。私欲財を惜み以て己が為にする者、吝なり。苟くも人の為にせば、則ち国君にして悪衣悪食矮屋に居るも、亦誰か之を吝と謂はん。大禹の宮室を卑ふするは、力を溝洫に尽す為なり。然らば則ち倹は、君子の公道にして、吝は小人の私欲なり。豈其の外形を以て之を混合すべけんや。《訳》世の人は吝嗇(りんしょく)な者を見て、倹約といい、倹約する者を見て吝嗇という。論ずる者もまたまだ吝嗇と倹約の境界をはっきりする者はいない。倹約か吝嗇かは分度で定まる。分度が定まらなければ、一日中これを論じてもまた何になろうか。また倹約と吝嗇の外形で判断してはならない。これを勤業と私欲で譬えよう。ここに農夫が有るとする。朝早く起きて稲を刈る。これが勤業か私欲か。誰れがよく判断できよう。自分の田の稲を刈るならば勤業で、他人の田の稲を刈るならば私欲じゃ。また武士が有るとする。粗衣・粗食で小さい家に住んでいる。これは倹約か吝嗇か、誰がよく判断できよう。天分の禄高を守って職務のために用い、自らの生活の費用を省いてこれを人に推譲する。これは君子の行いであり倹譲の道だ。もしその禄高を惜んであえて用いることなく、米を虫食いにし金を隠し衣類を腐らせその職務を全うできない。これは小人の私欲であり、吝嗇である。そうであれば田畑のあぜが定まって、自分と他人の境がはっきりして、その後に勤業と私欲と判断するべきで、禄高が定まって天分が明らかで、その後に倹約と吝嗇と判断するべきじゃ。勤業して分を譲る人は倹約の人で、私欲により財を惜んで自分のためにする者は吝嗇じゃ。いやしくも人のためにするならばすなわち国君であり、粗衣・粗食で・小さい家に住んでも誰がこれを吝嗇と言おう。古代中国の大王・禹が宮室を質素にしたのは、力を治水工事に尽すためであった。そうであれば倹約は、君子の公道であり吝嗇は小人の私欲じゃ。どうしてその外形でこれを混合してよいだろうか。
2023.01.29
家族ふれあい新聞第691号より思考が人生を創る(神渡良平講演録より)広島県に半野さんというテレビのディレクターの方がいます。この方は去年脳梗塞で倒れ、視床下部で出血し、医者からもう助からないと言われた。奥様は四人の子供を抱えて何とか助けてください、この峠を越えさせてくださいと一所懸命祈られ、その甲斐あって彼は命を取りとめた。ところが、右半身麻痺が残った。意識障害も出て、誰が訪ねて来たかも判らない。見舞いに来た人達が「半野さん、僕が誰かわかる?」と言われても判らない。意識が混濁して、どうにもならない。当然会社は解雇され、そして失業。そういう闘病生活が始まると月に何十万円と病院代がかかる。そういう頃、私の講演を聞きにこられた一人の方が、その半野さんの友達だったんです。「私の友達が脳梗塞で倒れ、今寝たきりになっている、生きる気力を失って、しょげかえっています。「死にたい、死にたい」で、病院の方も警戒して自殺もできないような形になっていて、そういう友達がいるんですが、なんとか励ましてください」と言われ、私は講演が終った後、彼にビデオレターを送った。私も同じような病気で、寝たきりになってたんで、他人事と思えなかったのです。『半野さん、大変ショックだったでしょう、動けなくなって、寝たきりになって、これからどうやって生活していったらいいのか、あなたも悩まれたでしょう、僕もそうでした。でもね、半野さん、そういうショックがないと人間、気が付かないんですよ。順風満帆に事が進んでいる時というのは、なかなか振り返りはしないし、仕事が終って家に帰れば、後はテレビのスイッチを入れてプロ野球を見て、松井が何号打ったと言って喜んでいれば良いわけだけれども。そういう二進も三進もいかないショッキングな事があると、真剣になります。初めてこのままじゃいけないという気持ちになる。そういう意味で今度の事は良かったんじゃないですか」そう呼びかけた。僕の場合社会復帰できた。僕の場合、当然治ると思った。でも、今三次元の世界に住んでいるから、目標に到達するまでには時間と空間が必要だ。だから、歩けるようになり、字が書けるようになるという目標が実現される迄は時間がかかる。その時間を短縮するためリハビリをやってると僕は思った。毎日リハビリを繰り返しているうち、歩けるようになり、字が書けるようになり、ここまでこぎつけた。だから落ち込んだら駄目、自分は、不遇だとか、不安だとか、運がないとかじゃなくて、これが一つのチャンスなんだ。ここから僕は大切なことを気づかせて頂いて再出発する。そんな思いで取り組み直したら良いですよ』そんなビデオレターを送った。それで広島で講演する機会に見舞いに行った。まだ、45歳なのに60のおじさんかと思ったぐらいにしょげ返っていた。「あっ、この人は諦めたな」ビデオレターが届いた時、挑戦しようと努力した。でも、人間は成果が出てこないと続かない。「これだけやったのに、どうにもならなかった」と気落ちして、「もう生きていてもしょうがない」という世界に落ち込んでいた。それで僕は、見舞いに行った時に半野さんに言った。「半野さん、あなた、車椅子に乗っていらっしゃるけども、それは辞めた方が良い。車椅子を外して、歩けなくても歩く事をしなさい。そうしないと右足がそのまま固定してしまいますよ。歩く練習をする事が大切です」「でも、歩けない、だから車椅子に乗ってるんじゃない」「現実はそうかも知れないけれども、その現実を受け入れてはいけない、必ず治るんだということを信じ、車椅子無しで足を引きずりながらでも歩いた方が良い」と私は言った。「車椅子を外したほうが良い、歩く練習をしたほうが良い」というのが新鮮に響いて「もう一度やってみよう」と思った。そこから彼の戦いが始まった。そこで嬉しかったのは、奥さんが、私の「下座に生きる」という本を読まれ非常に心を打たれた。これをお父さんに読んでもらって、お父さんに頑張ってもらいたい、生きる気力を持ってもらいたいと病院に持って行った。「お父さん読んで」でも半野さんは気落ちしもう読む力がない、ベッドの横に置いたままだった。それを見て奥さんが、なんとか主人に読ませたいと、その本をテープに吹き込まれた。毎日15分だけテープに吹き込んで、お見舞いの時に持って行った。「お父さん、これ聞いて」とテープを渡すが、半野さんは聞かなかった。ところが夜は眠れない。しょうがなしにテープを聞いた。その中に相田みつをさんの詩を書いていた。『どうにもならないときがある ただ 手をあわせる以外に方法がないときがある 本当の眼がひらくのはその時だ』この詩を読んだ時に、もう半野さんは電気が体に走った。彼は深夜の病室で泣いた。一所懸命になって真面目に頑張ってるのに、なんでこんな不幸が襲うんだ。そこまで追い詰められて、相田先生の「本当の眼が開くのはその時だ」というのに非常に共鳴した。そうだ、今まで、辛い苦しい、もう生きていたくないということばかりだったけれど、そこまで追い詰められたから本当の眼が開く。聞くと奥さんも涙声でその詩を吹き込んでいる。そうか、恵子も同じ気持ちだったんだ。深夜の病室で彼はおいおい泣いた。病気には肉体的なことを超えて、気づかせようという天の計らいがあるということに気が付いた。半野さんは生きようという世界に変って行く。6ヶ月間の闘病生活が終って、彼は退院した。
2023.01.29
拓殖大学付属図書館に「訳注 静岡県報徳社事蹟」、「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」、「八田與一と鳥居信平」を出版記念の地図と一緒に寄贈しよう。💛1月28日歯医者に歯垢をとりに行った。歯医者さんに「完璧です」といわれて、すぐ終わった。いつも歯科助手の方に「今日はラッキーカラーの赤の靴下をはいていないのですか」と行くたびに言われるので、今朝わざわざ履いていった。「どうして赤がラッキーカラーなの?」と歯医者さんに言われる。「五日市先生にあなたのラッキーカラーは赤です。身に着けてください、はいと休みの日はできるだけ何かしら身につけることにしているのです。」「赤しか持っていないのかと思った」と歯医者さんがふざける。「赤の靴下はどこで売ってるの?」「駅ビルのユニクロです。」「リーズナブルなんだ・・・・」歯科助手の方に「ツキを呼ぶ魔法の言葉」という小冊子を差し上げたことがある。「なかなか ありがとう と言えなくて」「言えないというから脳が勝手に言わなくていいと思ってしまうんですよ。魔法の言葉は 深層心理を言葉でコントロールするということなんです。」だからほら、と歯科助手の方に見せる為に持参していた本を見せる。「本が出版できました、感謝します と 言って、ほら本ができたんです」(笑い)鹿児島大学付属図書館で「二宮尊徳の会」で検索すると18件がヒットする。1. 図書 資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 289.1/To672. 図書 二宮先生語録 : 読み下し全ルビ原文・現代語訳所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 157.2/H96/53. 図書 二宮金次郎の対話と手紙 : 中学生からお年寄りまでよくわかる (第1)所蔵情報: 貸出可, 第1, 中央図書館-地下2F, 157.2/N76/14. 図書 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」. 2刷シリーズ名: ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 第5集所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 281/B62/55. 図書 報徳は精神変革であるシリーズ名: 報徳記を読む ; 第2集所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 157.2/H96/26. 図書 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」シリーズ名: ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 第5集所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 281/B62/57. 図書 新渡戸稲造 (にとべいなぞう) の留学談・帰雁 (きがん) の蘆 (あし). 2刷シリーズ名: ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 第3集所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 281/B62/38. 図書 札幌農学校教授・技師広井勇(いさみ)と技師青山士(あきら) : 紳士(ジェントルマン)の工学の系譜シリーズ名: ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 第4集所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 281/B62/49. 図書 報徳記を読む第1集 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集) / 10. 図書 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集)シリーズ名: 報徳記を読む ; 第1集所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 157.2/H96/111. 図書 米国留学中の内村鑑三の日記と手紙 : 内村鑑三から新島襄、広井勇あて書簡 : 宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡抜粋シリーズ名: ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 米欧留学篇所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 281/B6212. 図書 砂糖王鈴木藤三郎 : 氷砂糖製造法の発明二宮尊徳の会 ; 鈴木藤三郎翁顕彰会貸出可, 中央図書館-地下2F, 289.1/Su9613. 図書 ボーイズ・ビー・アンビシャス14. 図書 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組 (宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造) と広井勇 : boys be ambitiousはいかにして現実化されたのか日本の近代化・合理化の一源流「札幌農学校精神」所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 281/B6215. 図書 二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木籐三郎二宮尊徳の会 ; 鈴木藤三郎翁顕彰会所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 157.2/N7616. 図書 報徳産業革命の人 : 報徳社徒鈴木藤三郎の一生所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 289.1/H9617. 図書 鈴木藤三郎 : 日本近代製糖業の父・台湾製糖株式会社初代社長. 再版シリーズ名: 「二宮尊徳の会」鈴木藤三郎氏顕彰 ; 第3集所蔵情報: 貸出可, 中央図書館-地下2F, 289.1/Su9618. 図書 「二宮尊徳の会」鈴木藤三郎氏顕彰第1集 報徳産業革命の人 : 報徳社徒鈴木藤三郎の一生 / 地福進一編. 二宮尊徳の会, 2011💛すべて地下2階であるから、地下書庫であろうか。拓殖大学は16件ヒットする。1 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組 (宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造)...ボーイズ・ビー・アンビシャス:第一集, 2016, 2刷 文京B1図書2 二宮金次郎の対話と手紙 : 中学生からお年寄りまでよくわかる 八王子図書館1階開架3 米国留学中の内村鑑三の日記と手紙 : 内村鑑三から新島襄、広井勇あて書簡 :...ボーイズ・ビー・アンビシャス:米欧留学篇, 2013 八王子図書館1階開架、文教B1図書4 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組 (宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造)...ボーイズ・ビー・アンビシャス, 2013 八王子図書館1階開架文京B1図書5 報徳は精神変革である報徳記を読む:第2集, 2014 八王子図書館1階開架、6 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」ボーイズ・ビー・アンビシャス:第5集, 2014 八王子図書館1階、文教B1図書7 札幌農学校教授・技師広井勇 (いさみ) と技師青山士 (あきら) ボーイズ・ビー・アンビシャス:第4集, 2014 八王子図書館1階開架、文教B1図書8 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料...報徳記を読む:第1集, 2014 八王子図書館1階9 砂糖王鈴木藤三郎 : 氷砂糖製造法の発明 八王子B北書庫10 二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木籐三郎 八王子図書館1階11 新渡戸稲造 (にとべいなぞう) の留学談・帰雁 (きがん) の蘆 (あし)ボーイズ・ビー・アンビシャス:第3集, 2014 八王子図書館1階開架文京B1図書12 報徳産業革命の人 : 報徳社徒鈴木藤三郎の一生「二宮尊徳の会」鈴木藤三郎氏顕彰:第1集, 2011 八王子図書館1階13 資料で読む技師鳥居信平著述集 八王子図書館1階 14 二宮先生語録 : 読み下し全ルビ原文・現代語訳報徳記を読む:第5集, 2018 八王子図書館1階15 二宮尊徳の報徳の教えが世界に広まり真正の文明の実を見ることを :...報徳記を読む:第4集, 2016 八王子図書館1階16 報徳は国を興し民を安んずる大業である : 「報徳記」巻の三、巻の四、巻の五 :...報徳記を読む:第3集, 2016 八王子図書館1階💛拓殖大学では、寄贈した本のほとんどが開架図書となっている。「訳注 静岡県報徳社事蹟」も残りがわずかになってきた。できれば開架で学生の皆さんが手に取って眺めて読んでいただけるほうが、うれしいな。
2023.01.28
二宮先生語録巻の二【166】~【170】チャールズ・シュワップは、一九二一年、U・S・スチールという鉄鋼会社の社長に迎えられた。彼は言った。「私には、人の熱意を呼び起こす能力がある。それは私にとって何物にも代えがたい宝だ。他人の長所を伸ばすには、ほめることと、励ますことがなによりの方法だ。上役から叱られるほど、向上心を害するものはない。私は決して人を非難しない。人を働かせるには奨励が必要だと信じている。気に入ったことがあれば、心から賛成し、惜しみなく讃辞を与える。」「私は、これまでに、世界各国の大勢の立派な人々とつきあってきたが、どんなに地位の高い人でも、小言をいわれて働くよりも、ほめられて働くときのほうが、仕事に熱がこもり、出来もよくなる。その例外には、まだ一度も出会ったことがない。」【一六六】堯曰く。四海困窮せば、天禄永く終ると。天禄豈唯君のみならんや。民も亦各々天禄有るなり。何となれば則ち衣食居を論ずる無く、凡そ我が身を助る者、尽く天禄に出づ。故に天禄を尊で、其の恩を忘れざる者、困窮の患有る莫し。天禄を卑で其の恩を忘る者、困窮の患を免れざるなり。蓋し天下の政刑、神仏儒の三教、皆天禄を保つに在るのみ。故に黎民飢へず寒へざるを、王道の極と為すなり。我が道は則ち天禄の隳壊を修て、絶を継ぎ廃を興す者なり。豈亦大ならずや。《訳》古代中国の聖王堯帝は言った。「四海困窮せば、天禄永く終る」(全ての人民が困窮するならば、天から授かった帝位もついには終るであろう)と。天禄はどうして君主ばかりのことであろうか。人民にもまたおのおの天禄がある。なぜかというと衣食住だけでなく、およそ私の身を助けるものは、すべて天から授かった恵みである。だから天禄を尊んでその恩を忘れない者に、困窮のわずらいがあることはない。天禄をいやしんでその恩を忘れる者は、困窮のわずらいを免れない。思うに天下の政治や刑罰、神道・仏教・儒教の三つの教えも皆天禄を保つためにある。だから貧しい民が飢えることがないようにし、凍えないようにすることを王道の究極とする。私の道もまた天禄が破れ壊れたものをなおして、廃絶した国や家を復興するものじゃ。なんとまた大きいというべきではないか。【一六七】世道小を積むを貴ぶ。小を積み大と為す。日課索綯法の如き、人人疑はずして之を勉む。是れ天下の法と為すべきなり。若し夫れ高遠の事は、則ち人人企て及ぶべからずと為す。然れども是れ其の本を考へざるなり。今此に大家有り。是れ暴かに大家と為るに非ず。始め一耒一発の小を積み、終に大家を成す者なり。且つ夫れ芝中堂の両楹(はしら)、及び永代橋の梁柱の如き巨材と雖も、其の初め細子より生じ、幾百星霜を経、風雨を冐し寒暑を凌ぎ、日夜精気を運び、而して長大を成す者なり。豈止古の細子のみ此の如くならん。今の細子も亦然り。然らば則ち古の細子は、今の大木、今の細子は、後の大木なり。人宜く此の理を明弁し、大を羨まず、小を耻ぢず、速なるを欲せず。夙夜黽勉、以て小を積むの功を奏すべきなり。《訳》世のなかの道として小を積むことを尊ぶ。小を積んで大となす。日課縄ない法のようなことは、人々は疑うことなくこれを勤める。これは天下の法則となすべきだ。高遠な事は人々は企画しても、及ばないと思っている。しかしこれは根本を考えないからだ。いまここに地主があるとして、これはにわかに地主になったのではない。初めは一鍬一鍬の小を積んでついに地主になったのだ。芝の増上寺の二本柱や、永代橋の橋けたのような巨材でも、その初めは小さな種から生じて、幾百年を経て、風雨をおかし寒さ暑さをしのぎ、日夜精気を働かして大きくなったのだ。そうであれば、昔の種は今の大木であり、今の種は後世の大木ではないか。人ははっきりとこの道理をわきまえて、大をうらやむことなく、小を恥じることなく、すみやかに功を挙げようとおもわず、朝晩よく努力して、小を積むことの努力をなしとげるべきだ。【一六八】甘辛の味に於るや、甘は益々甘、辛は益々辛なるは、偏なり。偏ぜざれば、則ち其の真味を保つ能はず。然れども人口に適せず。故に甘辛調和せざるを得ざるなり。人も亦甘性なる者有り。辛性なる者有り。是れ亦偏なり。故に進む者之を退け、退く者之を進め、甘辛調和して、然る後世の容る所と為り、人の用る所と為る。然りと雖も、偏ならざれば、則ち其の真性を保つ能はず。譬へば醃菜を作る者、短食には則ち甘鹹相半ばし、長食には則ち鹹を専らにするなり。《訳》甘い辛いという味におけるや、甘ければますます甘くなり、辛ければますます辛くなるのは偏りだ。偏らなければその味の本当の味を保てない。しかし人の口にはあわない。だから甘い辛いを調和しないわけにいかない。人もまた甘い性質の者があり辛い性質の者がある。これもまた偏りだ。だから進む者は退け、退く者は進め、甘い辛いを調和してその後に世の中に容れられるところとなり、人の用いるところとなる。しかし偏らなければその本当の味を保つ事はできない。たとえば漬物を作る者は、浅漬けには甘みと塩気と半々にするが、長く漬けるには塩ばかりでするようなものだ。【一六九】粟地生ずと雖も、而も天より降るなり。何となれば則ち日光映射の功を積て粟と為る。故に春耕より春分を過ぎ、夏耘を経秋分に至るまで、試に度杖を以て之を計れば、一旬の日射は、則ち一旬度。三旬の日射は、則ち三旬度。粟気地中に積む。縦令後日冷雨有るも、既に積て地中に在るの度数は、其の粟必ず実るなり。然りと雖も人力を尽くさざれば、則ち実り少なく、人力を尽せば、則ち実り多し。蓋し深く耕し易して耨れば、則ち日光地に入る深し。故に秋実多し。勤めざるべけんや。《訳》穀物は地から生ずるが、実は天からくだるのだ。なぜかといえば日光が放射するおかげで穀物となる。だから春に地を耕し春分を過ぎて、夏草をかり秋分に至るまで、試みにものさしで計るならば十日分の日射は十日分だけの分量、三十日分の日射は三十日分だけの分量があって、稲の生気はこの日射を地中にたくわえておくのである。かりに後日冷たい雨が続いても、それまで積んで地中にある分量だけは、その稲は必ず実る。しかし人力を尽くさなければ実りは少なく、人力を尽くすならば実りは多い。思うに深く耕してよく草をかるならば、日光が地中に入ることは深い。だから秋の実りは多い。勤めないでいられようか。【一七〇】細民の富豪の下に棲息する者、其の家必ず絶つ。何ぞや。之に就き乞貸し、以て不足を補へばなり。縦令壻を納れ婦を娶るも、必ず子孫無し。譬へば小木大木の下に生じ、風雨を凌ぎ僅に花を発くと雖も、然も必ず実を結ばざる如くなり。若し大木の枝を伐れば、則ち小木日光を受け以て実を結び、富豪分内を譲り、以て之を細民に施さば、則ち細民必ず保存す。倹は、君子の公道にして、吝は小人の私欲なり。豈其の外形を以て之を混合すべけんや。《訳》貧しい人々が富豪の世話になって暮らす場合その家は必ず絶える。なぜかというと、富豪に借金して生活の不足を補っているからだ。たとえ婿をとり嫁をめとっても必ず子孫はできない。たとえば小さな木が大きな木の下に生じて風雨をしのいでわずかに花を開いたとしても必ず実を結ばないようなものだ。もし大木の枝を切れば小さな木も日光を受けて実を結び、富豪も生計の余分を譲って貧しい人々に施すならば貧しい人々の家も必ず保存する。
2023.01.28
3 尊徳の教義 五 天命。分度その23に続く終に栄えて長久なる道は天然の道である。報徳訓第四十に曰く、「勤ること無くして自然に成る者は天之道也。是故に天心勝つ者は子孫亡ぶ。寒の寒たる時は天之道也。寒を暖と為し身を安ずる者は人之道也。暑の暑たる時は天之道也。暑を冷と為し身を安ずるは人之道也。」天心勝つとは天の心の勝れたるもの、人心勝つとは人心の勝れたるものといふ意であらう。同じ文化でも人の作為の多いものは早く亡ぶ。一般に人為は亡に帰する。国亡びて山河あり、城春にして草木深しとは英雄の所業たるが故である。只天道に随順する国は永続する理である。我が国に於て維神(かんながら)といふはこの随順のことをいふ。
2023.01.28
家族ふれあい新聞第684号より自然な出産について「地球交響曲第5番」を家内と一緒に観てきた。杉並区に「お産の家」を開院されている大野明子さんのもとでの出産シーンがとても感動的だった。 後ろの座席では感動のあまり、すすり泣きしている方もいた。 大野さんは、もとは東大で地球化学を専攻していたが、大学院で博士号をとった後、長男を出産した。 促進剤を打たれ、お腹を押されるなかで、「私の望んだお産は、これじゃあない。」と赤ちゃんにおっぱいを含ませながら考え続けた。仰向けで生むのは重力に逆らっている。本当は自分の力で生めるはず。人間の赤ちゃんをミルクを溶いて飲ませるのはおかしい、おっぱいのほうがいいはず。 大野さんの偉いのは、そこですぐ産科医になろうと決断するところだ。大野さんは、子どもが2歳になる直前に医大に入学して産科医になった。そして平成十一年六月より、杉並区高井戸にて「お産の家 明日香医院」を開院した。大野先生の産院では、200名近くが出産する中で、帝王切開はないという。一般的な産院では、帝王切開率が2割~4割という。出産は重力に逆らわぬよう座位で行い、夫や子も出産に立ち会う。子どもがお母さんに陣痛が来るたびに「お母さん、大丈夫?大丈夫?」と聞いている。きっと、こうしてお母さんは苦しんで大変な思いで、僕も生んだんだと体験して、やさしい子に育つことだろう。ああ、うちの息子も帝王切開で生まれてきた。臍の緒が首に巻きついて瀕死の状態だった。黄だん症状で人工呼吸器の中にいた。父はガラスケースの中のわが子をみつめながら、わが身にかえてもと無事を祈った。ただ健康で朗らかに育てばそれだけでよいと思った。育児で悩むとき、いつもその原点に立ち返った。きっと、大野先生がその頃いらして、そこで出産していたらその後違っていたかもしれぬ。先生は言う。「産科医の一番大切な仕事は、お産のときずっと産む人のそばにいること、産む人が大切にされることだと思います。お産のとき、産む人はとても繊細で傷つきやすいけれど、同時に強くもなれる。お産のとき、大切にされることが、生まれてくる生命をかわいがる力の源になる」「自分の子どもをかわいいと思う気持ちが地平線のように広がって、他の子どもたちへの愛情に繋がる。世代を越えて、未来へ繋がる。そんな愛情であってほしいと願っています。」 生きることとは 生きることとは 愛することだ 妻子を愛し はらからを愛し おのれの敵である者をも 愛することだ 生きることとは 生きとし生けるものを いつくしむことだ 野の鳥にも草木にも 愛の眼(まなこ)をそそぐことだ 生きることとは 人間の美しさを失わぬことだ どんなに苦しい目にあっても あたたかい愛の涙の持ち主であることだ ああ 生きることとは 愛のまことを 貫くことだ (坂村真民詩集より)
2023.01.28
五大医学誌が発表「認知症発症リスクは40%低減できる」 実現するために必要な「五感トレーニング術」とは1/28(土) 2017年に英国ロンドン大学の教授らが最も権威のある世界五大医学誌のひとつである「ランセット」に発表し、20年に改訂された研究論文です。この論文では、認知症発症リスクを40%も下げられることが明らかにされ、「12の認知症リスク因子」がこう紹介されています。(1)難聴 (2)社会的孤立(3)抑うつ (4)喫煙(5)大気汚染 (6)高血圧(7)糖尿病 (8)肥満(9)運動不足 (10)頭部外傷(11)過剰飲酒(12)教育歴(知的好奇心の低さ) これらの因子を取り除ければ、認知症発症リスクを40%低減できるのです。そして、この12の因子は、以下の「三つの習慣」を心がけることによって排除することが可能になります。A 運動B 知的活動C コミュニケーション 例えば、Cのコミュニケーションを改善することによって、12の因子のうちの(2)社会的孤立や(3)抑うつを防げ、認知症リスクを下げることにつながる。 では三つの習慣の実践にあたって大事なことは何か。それこそが人間らしさの根源である五感を鍛えることなのです。五感を良好な状態に保っておかなければ、運動も、知的活動も、コミュニケーションもままなりません。💛テレビを見ていたら92歳のおばあさんが、孫の勧めで同居し、その家で外国人ステイの手助けをするのが生きがいになっているというのが放送されていた。大腿骨骨折*でもう駄目かもとすっかり落ち込んでいたら、フランス人の昔、ホームステイしていた孫娘のような女性から「おばあちゃん、大丈夫?」と日本語で書かれた手紙を受け取ってすっかり元気を取り戻す。コメンテーターの石原良純さんが「生きることはアウトプットで、アウトプットするためには新しいことをインプットしつづけなければならない」とコメントしたのが印象に残った。*大腿骨頚部骨折は転倒をきっかけに起こることが多い骨折。大腿骨とは、骨盤と膝をつなぐ太もも部分の大きな骨のことで、その上端の骨盤との接合部分を大腿骨頚部とよびます。大腿骨頸部は、股関節の一部とされています。大腿骨頚部骨折は、筋力やバランス機能の低下した高齢者が転倒することによっておこりやすい骨折です。高齢者には骨がもろくなる「骨粗しょう症」をかかえている人が多いので、軽く転んだりひねっただけでも骨折しやすくなっていると言われています。太もも部分の大きな骨で、体を支える大切な役割を担っている大腿骨を骨折してしまうと、ほとんどの人は立つことができません。転んだ時に立ち上がることができないといった症状は、大腿骨頚部骨折が疑われます。無理に動かすことは禁忌です。大腿骨頸部・転子部骨折の年間発生率は2007年では年間15万例です。50代以降から徐々にみられはじめ、70代以降から大きく増加しているようです。このように、なぜ高齢者に頻発しやすいのでしょうか。それは高齢者はバランス感覚が低下して転倒しやすいことと、骨粗しょう症により骨がもろくなっている人が多いからです。実際、大腿骨頚部骨折の受傷原因としてもっとも多いのは転倒です。高齢になると運動能力や視力が低下し、転倒しやすくなります。そして軽く転倒してしりもちをついただけでも、骨粗しょう症のある高齢者は大腿骨頚部骨折を発症します。骨粗しょう症の予防骨粗しょう症の治療では、薬物療法、運動療法、食事療法の3つをバランスよく行うことが一般的です。大腿骨頚部骨折の原因の多くは、立位時や歩行時の転倒です。日常生活の中で転倒せずに過ごすことができるように、家のなかの環境を整えておくことが大切です。そして骨折してしまうと、ほとんどの場合痛みが強く立つことができません。
2023.01.28
お茶の水女子大学付属図書館に「訳注静岡県報徳社事蹟」と「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」新版の出版にあたり寄贈する。お茶の水女子大学付属図書館は前回のクラウドファンディングで「技師鳥居信平著述集」を出版した折に初めて寄贈したところ蔵書としていただいた。しかも書庫の中にしまわれるのではな開架であることに感銘を受けた。できうれば今回の寄贈の「訳注静岡県報徳社事蹟」と「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」、「ボーイズビーアンビシャスシリーズ」第1集、第3集、「八田與一と鳥居信平」も学生の皆さんの目にとまり、手にとってもらい、読んでもらえばうれしいな。資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある 図書館一般図書 610.1/To67 021010063424 貸出可令和5年1月吉日 大学図書館 各位 様 「訳注 静岡県報徳社事蹟―報徳の師父第二集―」他の寄贈について 「訳注 静岡県報徳社事蹟―報徳の師父第2集―」を出版しましたので謹んで寄贈いたします。本書は平成28年(2016)12月に発行した「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」の続編にあたります。「―報徳の師父第2集―」とした所以です。 本書の出版にあたって、大日本報徳社社長の鷲山恭彦社長(元東京学芸大学学長)が序文を寄せて頂き、その傍題には「蘇る報徳実践家の生き生きとした軌跡」とあります。また「当時の報徳の事績と実践家群像が、眼の前に、生き生きと蘇えってくる」、「本書によって、その発展に心血を注いだ報徳実践家たちの奮闘の軌跡が明らかになった。わたしたちはこの歴史を大切に顕彰し、反芻して、そこから大きな励ましを受け取って、これからの生き方の羅針盤にしていきたいと思う」と記して頂きました。 本書は、明治39年4月に静岡県が発行した「静岡県報徳社事蹟」を現代文にするものです。本書においては、報徳運動の指導者(報徳の師父)に焦点をあてて、概説とコラム欄においてそのエピソードを紹介しています。当時静岡県において440を超える報徳社、2万人近い報徳社社員が活動していました。「大量現象」(マックス・ウェーバー)として報徳実践家が活躍していたのです。 ウェーバーは「プロテスタンティズムの精神と資本主義の精神」において、「今日の資本主義は企業家と労働者を教育し作り出している。歴史的現象としては、資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が選び出されるためには、そうした生活態度や職業観念が人間の集団によって成立していなければならない。」としています。静岡県の報徳運動は近代日本における資本主義の成立に必要な企業家や労働者を大量現象として生み出したともいえます。日本における近代資本主義の成立と発展を考えるうえでも、静岡県の報徳運動の理解が必要であると考えます。また報徳実践家の奮闘の軌跡は、将来の日本を担う若い人々に向かって発信する価値のあるものと信じます。 もし貴館において蔵書としていただけない場合は、他の大学図書館に寄贈したく、誠にお手数をおかけして恐縮ですが、次のメールアドレスにご連絡いただければ、スマートレターをお送りしますのでご連絡ください。大切な本を廃棄することなく、循環して活用したいと存じますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。 二宮尊徳の会・鈴木藤三郎顕彰会
2023.01.28
二宮先生語録巻の二【161】~【165】💛楽天のブログの「二宮先生語録」をツイッターにも引用して紹介している。さほど見てくれる人はいないのだが、若い世代で二宮尊徳と「二宮先生語録」に興味を持ってくれればいいなと思ってのことである。ツイッターは最近閲覧した人の人数、Viewsが表示されて関心を知る目安にはなる。 最近のもののViewsでは次のようになる。 Views二宮先生語録【91】〜【95】 58二宮先生語録【96】〜【100】 65二宮先生語録【116】〜【120】 45二宮先生語録【131】〜【135】 49二宮先生語録【136】~【140】 50【一六一】夭を戚へ寿を欣ぶ者、人の情なり。然れども夭寿は、命なり。唯身を修め以て之を俟つのみ。夫れ五十歳にして死す。之を逆算すれば、則ち五十年前此の人無し。然らば則ち五十年間生を保つ者、亦幸ならずや。《訳》早死にを憂え長生きを喜ぶのは人間の情である。しかしながら、若死に、長生きは天命だ。ただ身を修めて天命をまつだけだ。五十歳で死ぬとする。これを逆算すれば、五十年前にはこの人はいない。そうであれば五十年間生を保つ者は、また幸いというべきではないか。【一六二】手の物を執るや、左出れば則ち右出で、右出れば則ち左出づ。巨指出れば則ち食指出で、食指出れば則ち巨指出づ。口の飯を喫するや、上歯下れば則ち下歯上り、下歯上れば則ち上歯下る。是れ自然の勢なり。釈氏法を説くも亦然り。南と曰ば、則ち無と曰ひ、空と曰ば則ち色と曰ひ、死と曰ば則ち生と曰ふ。万言皆然り。故に狐狸も誑かす能はず。悪鬼も近く能はざるなり。儒家の言は則ち然らず。譬へば則ち唯田耕すべし家造るべしと曰ふのみ。釈氏は則ち田必ず荒れ家必ず破れ生必ず死すと曰ふ。譬へば戸内盗有り。戸外より上意と呼べば戸内応捕と呼び、以て之を収縛する如くなり。儒家は則ち唯戸外上意と呼ぶのみ。盗後戸より逃るゝを知らざるなり。《訳》手で物を取るとき、左手が出れば右手が出、右手が出れば左手が出る。親指が出れば人差し指が出、人差し指が出れば親指が出る。口で御飯を食べるとき、上の歯が下れば下の歯が上がり、下の歯が下れば上の歯が下る。これは自然の勢いじゃ。仏教で僧が法を説く場合も同じである。「南(な)」と言えば「無(む)」といい、空と言えば色(しき)と言い、死と言えば生と言う。すべての言葉がみなそのとおりじゃ。だから狐や狸もたぶらかすことができず、悪鬼も近くに寄ることができない。儒者の言葉はそうではない。ただ譬えば「田を耕すべし」「家は造るべし」と言う。仏者は「田は必ず荒れ、家は必ず破れ、生有るものは必ず死ぬ」と言う。譬えば家に盗っ人が入ったとする。家の外で「御用だ!」と呼べば、家の中で「召し捕った」と叫んで、これを縛り上げるようなものじゃ。儒者はただ家の外で「御用だ!」と呼ぶだけである。盗っ人は裏口から逃げ出してしまうことを知らないものだ。【一六三】形を斯の世に現ずる者、滅せざる莫し。然りと雖も、浅草観音像の如き、其の始め之を鋳るや、其の火既に滅して、而して其の像永世に存し、衆生之を崇む。梵鐘も亦然り。其の之を鋳るや、火既に滅して、而して其の音永世に鳴り、衆民之に帰す。我が助貸法を行ふ者も亦然り。其の身既に死して、而して其の資永世に存し、民人之に頼る。《訳》この世に形あるもので滅しないものはない。しかしながら浅草の観音様の像のように、その始めにこれを鋳造した時の火はすでに滅しても、その像は永久に存在し、人々に崇拝されている。つりがねもまた同じだ。それを鋳造した時の火はすでに滅してもその音は永久に鳴り、人々はこれに帰している。私の無利子の貸付法を行う者もまた同じだ。その身はすでに死んでも、その報徳金は永久に存在し、人々はこれに頼る。【一六四】明中暗有り。暗中明有り。明昼豁目して、而して私欲を懐ひ悪意を長ず。是れ明中暗有るなり。暗夜瞑目して、而して是非を思ひ善悪を弁ず。是れ暗中明有るなり。《訳》明中暗がある。暗中明がある。真昼に目を見開いて、私欲を懐き悪意をはびこらす。これが明中暗あるということだ。真夜中に目を閉じて、何が善いか何が悪いかを思って善悪を判断する。これが暗中明があるということだ。1 『予が見たる二宮尊徳翁』内村鑑三 抜粋「真正の経済なるものは道徳の基礎に立たざるべからざることを先生の事業生涯をもって説明したるものなればなり。すなわち身をもってこの問題の解決をなしたるなり。先生は経済と道徳の間に橋をかけたり。先生の一生は経済道徳問題の福音なり。」「先生は・・・道徳は原因にして経済は結果なりと断じたり。至誠勤勉正直(せいちょく)にして初めて経済の成立するものなりとせり。」「諸君まず善人となるべし、至誠の人となるべし。予の根本とするところは道徳なるがゆえに諸君もまずこれを心がけざるべからずと。ゆえに先生の報徳説盛んに行わるるところには必ずまず道徳的大変化大復興起こらざるべからず。もししからずしてただ勤倹貯蓄経済上の変化のみならばいささかこれをあやしまざるを得ず。」【一六五】人の家計を理むるや、勤労を竭すと雖も、倹約を守ると雖も、除日に至て歳計足らずんば、則ち勤労倹約、皆其の効を失ふ。世人の勤倹此に類する有り。何となれば則ち百金の入を以て、百十金の出を為す。故に其の入滅して九十金と為る。乃ち負債を以て之を補ふ。故に其の入又減じて八十金と為る。是に於て始て浪費を省き、九十金の出を為す。故に其の入又滅して七十金と為る。乃ち又省いて八十金の出を為す。終に亡滅に至るまで、猶尚ほ斯の如し。嗚呼、当初百金の入、滅して九十金と為るの日、速に弊習を革め、大に浪費を省き、以て八十金の出を為さば、則ち啻に百金の入に復するのみならず、遂に千金の富を致すも、亦難からざるなり。世人之を覚らず、徒に姑息に安んじ、遂に其の家を亡す。悲ひかな。《訳》人が家計を経理するや、勤労を尽くしても、倹約を守っても、大晦日になって年の暮の払いが足らなければ、勤労も倹約もその効力を失う。世間の人の勤労や倹約もこれに類することが多い。なぜかといえば百両入ってきて百十両出れば、収入が減って九十両になる。そこで負債でこれを補う。だから収入が減って八十両になる。そこで始めて浪費を省いて九十両の支出とする。だから収入は減って七十両となる。また浪費を省いて八十両とする。ついには滅亡するまでこのとおりだ。ああ、最初の百両の収入が減って九十両になるとき、すぐに悪い習慣を改めて、おおいに浪費を省いて八十両の支出とすれば、ただに百両の収入に復するだけでなく、ついに千両の富裕となるのも難しくはない。世の人はこれを覚らず、一時しのぎに安んじ、ついにその家を亡ぼしてしまう。悲しいことではないか。
2023.01.28
家族ふれあい新聞第679号より家に帰ると封書が来ていた。真言宗宝珠院佐伯とある。「拝啓 雑事に取り紛れ、礼状を書くのがすっかり遅くなりました事を先ずはお詫び申し上げます。 先日は一輪の心を添えていただいたおはがきを拝読し、大変うれしく存じました。誠にありがとうございました。(略) それにしても、愚僧の拙著が・・・偶然にもそれが貴師の目にとまり読んで頂けたとは、これもキツと何かの御縁なのだろうと存じます。 この御縁は是非大切にしたいと思います。今も年に何回か壇信徒や友人宛に「仏心のある生活」を送らせてもらっていますが僭越ながら今後貴師にも送らせて頂きますのでご笑覧下さいませ。 愚僧の住むTという処は、郷土史的には興味のある方には意外と面白い処のようです。折りがありましたら散策がてらどうぞ一度お出かけ下さいませ。心からお待ちしております。 時節柄、御自愛のほど偏えに御祈り申しあげます。 合掌 〇〇拝」なんという丁寧な文章だろう。「貴師」とは恐れ入る。「お父さん、この人だれ?」「ほら、図書室にこの方の本がおいてあってね。「この宝珠院の山号・・・に惹かれて借りて読んだんだ。 すると前話したことあるだろう。この方が少年の頃、遠足で江ノ電に乗っていて、お父さんから貰った万年筆をいじっていたら、インクがこぼれた。そして、前に座っていたご婦人の白足袋を汚してしまった。子供心に大変なことをしたと思って『ごめんなさい』と謝った。そして頭を上げるとそのご婦人と目があった。するとそのご婦人はにっこりと笑って、『よろしいんですのよ』とやさしく言ってくれたという話。 また、このTの地は海が近く、大学生の頃、友人達が4,5人くらい海水浴に遊びにきて、3,4日居座った。するとお父さんが「おい、あいつら、いつまでいる気だ」とお母さんに小言を言った。するといつも物静かなお母さんがこの時だけキッと言い返したというんだ。『私たちは、先に死んでしまうんですよ。残されたあの子にとって友達が支えなんですよ。なんですか、子供たちがいたいというだけいさしてあげればいいじゃないですか』 するといつもは口やかましいお父さんが、目を閉じて黙りこくった。今でもお母さんの命日が近づくとそのことを思い出すという話。 そんないい話がのっていたので、葉書を出しておいたんだ。」
2023.01.28
「尊徳と梅岩」西晋一郎著より「尊徳と梅岩」西晋一郎著より3 尊徳の教義 五 天命。分度その20に続く この天命所止(止まる所)を人道に移せるものが分度である。分度は推譲の上に立ててあるが、之も報徳行の大段落を示せるので、推譲に分度が立てば勤勉にも自から分度が立つ。分度とはつまり報徳生活の内容限定である。今日には今日の天命、明日には明日の天命、この天命に則りて分度を立つるとき、今日の分と明日の分を明かにして明日に譲るべき分を知り、かくして日日が立ち行き、かくして月月、年年が立ち行きて、行き詰ることがない。我には我の天命、人には人の天命、この天命に則りて分度を立つるとき、我の分と人の分を明かにして人に譲るべき分を知り、かくして我人諸共に立ち行き、かくして人生を全くして行き詰ることがない。しかし人道の実地に臨んで分度宜しきを得るには智慧の無限の裁量を要する。故に報徳仕法といふ大段落を掲げ示して、大準を逸せず大過なからしめる。しかしまた分度を知るともそれを守るのでなければ詮なきことであるから、天命に止まり安んずる心を養ふ。故に報徳仕法の中に教化が籠り、尚くさぐさの教訓道歌を作つて民衆を諭すのである。報徳仕法による実行の裡に解脱安心の仁、天理発明の智慧、勤行励精の勇が具つてをる。推譲の仁、分度の知、勤勉の勇、三にして一、一にして三なる所に報徳が行はれ至誠が実にせられる。三者の循環往来は人道が天理自然に則る所である。開いて三となる所に財宝開闢し、閉ざして一となる所は一宝無名である。この無名一元宝の裏にして始て財用が通ずる。施とは天命であり、種子であり、生とは地であり、花実である。人道に於て施生循環を促がすもの、施生循環を媒介するものは勤である。天道に勤怠なく、時として処として施生せざるはない。人道には勤怠があつて、ただ勤むる時と処とに施生する。勤は人に存するが、勤める所の筋骨心識は天命である、即ち天然の分度である。人道にあつて分度を起すものは推譲であつて、今年播種するその種は謂はゞ人道裡の天命である。稲の秋に麦を蒔き施肥(肥を施す)は勤労を譲るのであつて、半分除置くと同じ事である。施肥(肥を施す)はやがて良田をなし、良田は人道裡の天命である。譲れる分度は凡て天命として報徳実行の地をなすので、報徳金もこれに外ならぬ。ここに於て天道人道寸分の隙(スキ)がない。天命は本(ト)天地無私の誠から降れるものであつて、無心の賜である。これ万物の存する所、存する本、立つ本である。鳥獣と群をなさずして人界を立てんとする者が天に代つて天命を降し、貧窮者の報徳の地をなす。之を冥加として納得する者は能く勤労して無尽蔵的に生産するのである。「蒔けは生へ植れば育つ天地のあはれ恵のかきりなき世を。」これ天道を人道の言葉にしたもので、一切の功徳を具し、慈眼もて衆生を視るものとする。「忘るなよ何はさてをき御代にすむ徳を報ゆる事のひとつは。」これに題して天命之謂性(天命之を性と謂ふ)といへるは、人道を天道の言葉にしたものである。「忘るなよ天地のめくみ君と親我と妻子を一日なりとも。」これ天人を一にせる言葉である。同じ意味で、「あめつちときみと父母の三つの恩忘るるときそ身はせまりけり。」3 尊徳の教義 五 天命。分度その22に続く 「日本国土に生れたる人は日本国土に生れたる所則天命也。故に日本国土は日本国土に生れたる人の所止(止る所)也。」これ尊徳の特更ならざる、自からなる、已むを得ざる所の日本主義である。日本主義は日本人には主義ならざる主義である。即ち天地自然を則とする人道である。故に道は天照大神の道であり、恵沢は高天原に帰し、この日の本に帰するは、日本人には唯天理自然なるのである。「故道につもる木の葉をかきわけて天照す神のあしあとをみむ。」「天つ日の恵む小島にたつけむり高まがはらに帰せざるはなし。」又曰く、「おもへたた天竺(カラ)学ひする人とても我身をめくむこの日の本を。」五刑の属三千、罪不孝より大なるはなしとは、支那にあつては天理自然に本づく法であつた。日本人にして日本国の恩を忘れ、遂に日本国を咀つて他国の教に帰依し、他国の民となるは、罪これより大なるはない。天命によつて生あるものが天命に背いて亡ぶは天理自然である。所謂思想問題の思想は抽象性のものである。抽象とは元来一である所の心身を心と身とに分ち見る所に起る、身心分別こそ一切抽象の起源である。而して生きるとは身心一なることに外ならぬ。死とは身心の分れることに外ならぬ。この意味に於て一切の抽象は機械化であり死化である。天然は抽象を寸毫も容さぬ。実に在るものは白馬であり白石であり、然かも其時其場一々の白馬白石であつて同じものは一もない。白サといふはさう心に思ひ定めた所のもので終古変ずることの無いものであり、いづこに持つて行くも只一定に通ずるものである。千々万々の実物に此白サを或は嵌め或は外づしてその物を或は白ならしめ或は白ならしめずとなす所に概念の自己忘却がある。それぞれの国土、それぞれの民族に立てられた実物である所の国家に即して搆へられた抽象的概念の組織を国家の理論といふ。この理論はさうと心に抽象的に確立せる不変の概念の論理的構造であるから、何処にも何時も通ずるといふ内面性を有つてをる。かかる国家理論を以て他の国土と他の民族とが立てた歴史的実物である他の国家を律せんとするは理論性の自己忘却である。一実物について抽象は多様に出来、理論は幾通りにも立てられるが、尊徳の天理自然は実物ありのままに悟れる所であるから只一様にしかあり得ない。それ故に一理万理である。この一理万理は一箇の理論を何処にも嵌めようとするとは天地の相違あるものである。天理自然は理論ではない。故に天理自然に則つとる人道は日本には日本の天然に従ひ、日本人の天命に順ふ所の日本の人界を開くのであつて、夫の抽象的概念の構造である一箇の国家理論が天賦自然を無視し天命をかへり見ずして一概に同一の国家理論を万国に嵌めんとするものと全く類を異にする。抽象的概念といふもの、理論といふものは天賦を克服し天命を超出することをその性質とする。しかしそれは思想の天地に居る限りに於てのことであつて実地に克服超出の出来るのではない。強ひて試みるときは事物を害する。抑も均しく文化といひ人間界といつても人為多くして天然に遠ざかることの多きものと然らざるものとがある。生業で言へば農は天然に近く工商は遠い。衣食住の全般にわたつてこの相違はさまざまの程度に於て見られる。これは人為の多いものほど文化の進めるものであるといふのではなく、文化の発せる種々の事情と文化の性質そのものに依ることである。国家の造立に於てもまたかかる相違があつて、我国の如きは国家組織の根幹であるものが最も自然的である。自然と生命とは異名同質と謂つて可なるべく、而して生命とは親子の間のことである。天地間万物の生々は皆親子の存続に外ならぬ。生命の道即ち親子の道である。我国の生ひ立は国土民族諸共に一大自然であつて、統治の根元と生育の根元とは一であつて、その相続は父子天然の道に由るので、些の人為を加へない。天然の道を以て統治生育の根元とする我国家に於ては、又衣食住を始めすべて文化諸内容が文化たるを害せずして最も自然の趣を存し、自然と文化と一ト続の看がある。祭政教一致の如き、欧洲諸民族が各々其国家を成せる事情から別々であるものが我に於て一であるのは、国家造立の事情の相違からのことであつて、未分未開なるのではない。却て高尚なる国家を成しつつ、天人一貫万理の深い道理を実現せるものである。尊徳の立てた経済の道が道徳教化の道と実に一体であることも、自然と文化の一応の相違の表皮を穿つて深く天人一理の奥に根ざすからである。己が子を恵む親の心を省みれば学ばずとても道に至らんと言へる、その道に我国体が根ざし又その道が我国に於て最もよく行はれる。尊徳の報徳仕法は我国体の本質をそのまま経済の上に実現するものであり、この経済法を実行することは自然にまた国体擁護の道となる。「夫人者天地間生育、天地間住者、天地令命、有可背理哉、四季順而寒暑変化、年々豊凶、順者忠孝慈愛有其中、終栄長久也、背者侫邪悪凶有其中、終亡長断絶。」(夫れ人は天地間に生育す。天地間に住む者、天地の令命背くべき理有らんや。四季順い寒暑変化し、年々豊凶、順ずる者、忠孝慈愛其の中に有り、終に栄え長久なり。背く者、侫邪悪凶其の中に有り。終に亡び長く断絶す。)己を捨てて天命に順へば稲麦の生育その中にあり、忠孝慈愛もその中にあつて、終に栄えて長久である。3 尊徳の教義 五 天命。分度その21に続く恩を覚える所無我の行を起し報徳の実を現はさんとし、天命と観ずる所解脱安心の境があつて、二者は表裏相成し幽顕相応する。これ聖賢の事を起すは起さずして起す意味である。ただの英雄の事を起すは起して起すのであつて、後患を生ずる。源泉混々として流れて息まず科(アナ)に盈(み)ちてから後に進みて遂に四海に放(イ)たるは前者の道であつて、その遭遇する時勢を天命としてこれに善処する誠を尽すのみである。直面せる歴史の進路をもどかしとして或はこれに逆行して、或はこれを跳り超えて遽(すみや)かに路を改めんとする如きは大に慎むべきであつて、革命の企は往々却て事を敗り、患害伴随する。尊徳は幕政の時に生れ幕政の下に居たので、即ちその止る所である。故に天皇の御陵威は御陵威であつて、いよいよ高くこれを仰ぎ、将軍の武威は武威であつて、治安の功徳を忘れてはならぬ。大名の恩は恩、主人の恩は主人の恩、農の恩は農の恩、その他工商の恩があり、儒者の恩があり医師の恩がある。冥界には神仏の恩がある。故に其時其場に処して、到る処に報徳を行ふ。尊徳は其一生を貧農を救ふことに委ねた。よく解脱せるが故に、よく止る所を知れる故に、よく天命に安んぜる故に、かく一心決定してその独自の道に邁進せるのであらう。儒仏の流布も日本国の歴史といふ人界に於ける天命であつて、その恩徳のある限りそれを忘れてはならぬ。儒に取れる所一部我身の本となり、仏に取れる所一部我身を養へるのである。これを忘れるは危き道である。かくして時勢に逆はずして時勢に善処し、今日に至るまで其徳沢を流しつつある所の報徳教を教へ且つ実行したのである。蓋しこれ賢者の道である。水戸の義公の如き、山崎闇斎の如き、本居宣長の如き、時勢を以て或は天命必至となし、或は神の業(ワザ)となし、謹慎し安心する所があり、其身脚下を忘却せざる故に、其学問事業は能く歴史の進路を左右し大に革新の実を挙ぐべき有力なる種を蒔きつつ、当時に波瀾を起さなかつたのであると思はれる。西晋一郎曰く「源泉混々として流れて息(や)まずアナに盈(み)ちてから後に進みて遂に四海に放たるは前者の道であつて、その遭遇する時勢を天命としてこれに善処する誠を尽すのみである。直面せる歴史の進路をもどかしとして、あるいはこれに逆行して、あるいはこれを跳り超えてすみやかに路を改めんとするごときは大いに慎しむべきであつて、革命の企ては往々かえって事を敗り、患害伴随する。」これは幕末における尊徳先生の態度を述べたものであるが、この水の性質、上から流れ、穴があれば穴を充たして後に流れる性質を事業の展開でもよく説かれた。相馬藩に報徳仕法を実施したところ、すぐに素晴らしい成果が出て、近隣の村々からうちの村にもすぐに実施してほしいという嘆願がひきもきらず、相馬藩家老から懇願されたときも同じような回答をされている。「そもそも大業を成就しようと速やかにすることを欲して、一時に数十ヶ村に手を下す時は、民を恵み、教え導くことが共に周到ではなく、民の望みを満たすことはできない。ついに事業を廃するに至らざるを得ない。君主が仁沢を下すことが厚い時は、民の誰か悦服しないものがあろうか。早く仕法の仁沢を得たいと欲し、歎願することは人情の然らしむる所である。もしその願いに応じて一時に事をおこすならば、事業の廃する事はこれより始まろう。だから固くとってその求めに応じてはならない。開業の村を恵んで、その不足を補い、その憂いを除いて、大小・貧富を論じないで村民が一人も困苦することがないようになったならば、その村は始めて仕法が成就したというべきである。その後に他村に推し及ぼすべきである。そもそも水は必ず低いところに流れる、穴に満ちてから後に進む。低いところをまだ満たさないでその前に流れるという理はない。これは水の自然であって疑うことはできない。今、国の君主が仁を下して開業の貧村はまだ全く困苦を免れてはいない。困窮を免れない者がいることは、どうして水が低いところを満たさないことと異なろう。仁沢がまだ満たないで他村に仕法を施行することを急とするならば、自然の理にたがいついに仁術無量の仕法を、目前の恵みだけの小道に陥らせて、人民もまた大いにその望みを失うであろう。民が望みを失う時はどうして大業が成就することができよう。このために一村が全く旧復するに及んで、その後にその二に及んで、その二が全く富んでその後にその三に及んで、幾百千村といえどもその順路はこのようである。これは迂遠なようであるが、天地間の万事はこれより順であることはなく、これより速やかであることはない。たとえ百千里の道を速やかに行こうと欲しても、一歩から発するほかに方法が無いのと同じだ。どれほど速やかにすることを求めたとしても、一歩に二歩を重ねることはできない。しいて重ねようとする時は倒れるだけである。ましてや百歩を一歩で走る方法があろうか。幾万町の廃田を起そうとしても一つ鍬から手を下し、二三と順をおって進むのである。万物の理は定りがあって知力の及ぶところではない。論語にも言うではないか「速やかならんと欲する勿れ 小利を視る勿れ」と。どうして国家の衰廃を挙げようとしてこの理に随わないで、早く成就する方法があろうか。諸郷村々が一時に仕法を歎願するならば、教えるに道をもってし、諭すに勧農をもってし、その行いが郡中に抜ん出ているようなら速やかに良法を下すがよい。大きな仁沢を施すことは数十百村同時に及ぶところではないと教え示して、容易にその求めに応じてはならない。これが大業を成就する道である。」
2023.01.28
台湾製糖発起人「台湾製糖株式会社史」より抜粋 その3第二章 当社の創立 第一節 当社創立の動機 第2節 創立発起人会と創立経過(76-92頁) 井上伯及び伊藤侯はまた華族、富豪間に於ける株式募集にも種々意を払われた。やがて総数2万株は宮内省始め、各株主によって引受けられ、証拠金(1株に付金5円)の払込も明治33年9月10日を以て結了した。第1回払込金は1株に付12円50銭即ち額面の4分の1、全徴収額25万円、取扱銀行は三井銀行本支店及び台湾銀行本支店としたが、払込期日たる明治33年10月20日までにこれを完了した。創立当時の株主は左記95名であった。 明治33年12月10日現在株主姓名表株数 住所 姓 名1,000株 東京 内蔵頭 1,500株 東京 三井物産合名会社750株 台湾 陳和中 550株 東京 子爵吉川経健 500株 同 子爵林 友幸500株 東京 原六郎 500株 同 田島信夫 500株 同 武智直道500株 同 長尾三十郎 500株 同 上田安三郎 500株 同 益田孝500株 大阪 藤田伝三郎 500株 東京 ロベルト ウオルカー アルウィン500株 東京 鈴木藤三郎 500株 大阪 住友吉左衛門 400株 東京 侯爵細川護成 400株 東京 内山直吉 400株 同 熊谷良三400株 同 末広常雄 300株 同 今村清之助 300株 同 吉川長三郎300株 同 子爵相馬順胤 300株 同 中村清蔵 250株 台湾 王 雪農200株 東京 石川栄昌 200株 横浜 渡邊福三郎 200株 東京 加藤正義200株 東京 鍋島喜八郎 200株 同 山本達雄 200株 同 伯爵松浦詮 200株 愛知県 小栗富治郎 200株 横浜 安部幸兵衛 200株 東京 青田鋼三200株 大阪 芦田順三郎 200株 東京 齋藤捨蔵 200株 同 志賀直温150株 同 因藤成光 150株 同 田中平八 150株 同 田中銀之助150株 横浜 増田増蔵 120株 東京 野呂世都 110株 同 鈴木嘉一郎100株 同 子爵稲葉正縄 100株 同 磯村音介 100株 同 浜口吉右衛門100株 同 子爵大久保忠一 100株 同 岡本貞烋 100株 同 岡村竹四郎100株 台湾 賀田金三郎 100株 東京 田村利貞 100株 同 高木兼寛100株 東京 高橋是清 100株 同 相馬永胤 100株 同 園田孝吉100株 同 津田静一 100株 同 根津嘉一郎 100株 同 中上川彦次郎100株 同 中尾十郎 100株 同 山本悌二郎 100株 同 松本直之100株 長崎 松田源五郎 100株 大阪 藤本清兵衛 100株 東京 小林弥兵衛100株 東京 阿部泰蔵 100株 同 佐野万次郎 100株 同 三野村利助100株 同 三島通良 100株 同 渋沢栄一 50株 横浜 岩崎次三郎50株 台湾 服部仁蔵 50株 東京 西尾純一 50株 同 加地匡郷50株 同 中村政次郎 50株 同 内垣末吉 50株 山口県 矢島作郎50株 横須賀 深井峯次郎 50株 静岡県 福川忠平 50株 東京 浅田正文50株 同 朝吹常吉 30株 同 横山六左衛門 30株 同 武智キク30株 静岡県 宮城仁平 20株 東京 八木俊一郎 20株 横浜 山田麟介20株 長崎 松尾長太郎 20株 神戸 呉 大五郎 20株 東京 阿部久三郎20株 同 望月久要 10株 同 池内聡一郎 10株 同 鳥羽権三郎10株 同 村松卯三郎 10株 同 遠藤雄吉 10株 同 遠藤省三10株 静岡県 縣 倍郎 計 2万株 95人 他方台湾総督府に対しては、明治33年6月30日付ヲ以て糖業御保護願を提出し、保護金の下付を願い出た。(87頁) 糖業御保護願台湾ノ地タルヤ糖業ヲ以テ世界ニ有名ナリト雖モ従来斯業ノ幼稚ナル蔗農ニ於テ一甲少ナクトモ拾五万斤以上ノ収穫アルヘキ地ニ於テ僅々四五万斤内外ノ収穫ヲ得ルヲ以テ満足シ而シテ其収穫甘蔗、茎ハ天然ニ九十パーセント以上ノ汁液ヲ有スルニモ不拘之ヨリ搾取スル処ノ粗糖僅カニ四十パーセントニ過キス且其品質粗悪ニシテ精糖ノ原料ニ適セサルヨリ価格極メテ低廉而モ生産費ハ太甚尠少ナラス為メニ該島天恵ノ特産業モ萎靡トシテ振ハサルノ現態ニ在リ国民ノ挙テ遺憾トスル所ニ有之候就テハ我々有志者相謀リ台湾製糖株式会社ヲ設立シ別紙目論見書並仮定款ノ通最新ノ器械ヲ応用シ粗糖製造業ニ従事シ併セテ蔗農ノ改良ヲ企テ内ハ以テ内地ノ需要ヲ充タシ外ハ以テ海外ニ輸出ノ途ヲ啓キ国家ノ一大富源ヲ開発致度存候然ルニ本業ハ創始ニ属シ営業上種々ノ困難ニ遭着スヘキハ勿論最初ヨリ内地ノ工業ニ於ケルカ如ク相当ノ収利ヲ見ルコトハ到底期待スヘカラサル所ニ有之候ニ就テハ特ニ斯業ノ基礎ヲ鞏固ナラシムル為メ当会社設立ノ上ハ左ノ通リ御保護願上度即チ一、明治参拾参年度ニ於テハ払込金弐拾万円迄ニ対シ保護金壱万弐千円也御下付被成下度事一、明治参拾四年度ヨリ明治参拾八年度ニ於ル五ヶ年間ハ払込金中五拾万円迄ニ対し保護金参万円宛御下付被成下度事 右何卒特別ノ御詮議ヲ以テ御許可被成下度此段奉願上候也 明治参拾参年六月三十日 台湾製糖株式会社発起人(氏名略) 台湾総督 男爵 児玉源太郎殿 (台湾の地は糖業で世界に有名であるが従来この産業は幼稚なサトウキビ農業であって一甲あたり少くとも15万斤以上の収穫があるべき地で僅か4,5万斤内外の収穫を得ることに満足している。しかもその収穫したなサトウキビの茎は天然に9-%以上の汁液を有しているにもかかわらずこれから搾汁する粗糖はわずか40%に過ぎない。更にその品質は粗悪で精糖の原料に適しないため、価格は極めて低廉で、しかも生産費は少なくない。このため台湾という島の天恵の特産業も次第に衰頽し振わないのが現状であり、国民がこぞって残念とするところである。ついては我々有志者が相談して台湾製糖株式会社を設立し別紙の目論見書並びに仮定款の通り最新の器械を応用して粗糖製造業に従事し、あわせてサトウキビ農業の改良をくわだて、内には内地の需要を充たし、外には海外へ輸出する道を開き、国家の一大富源を開発いたしたい。しかしながら本業は始めて興すことから営業上種々の困難にあうことは勿論、最初から内地の工業におけるような相当の収益を見ることは到底期待できない所である。ついては特にこの産業の基礎を強固とするために当会社設立の上は次の通り御保護をお願いたします。すなわち一、明治33年度においては払込金20万円までに対し保護金1万2千円を下付下されたきこと一、明治34年度から明治38年度における5か年間は払込金中50万円までに対し保護金3万円まで下付下されたきこと 右なにとぞ特別の御詮議をもって御許可下されたく、この段願い上げたてまつります 明治33年6月30日 台湾製糖株式会社発起人(氏名略) 台湾総督 男爵 児玉源太郎殿) 右願書に対しては、同年9月6日付を以て、命令条項を付して第一年度分1万2千円分を下付せらるる旨左記の如き通達があった。 指令第1781号 台湾製糖株式会社発起人 田島信夫外6名 明治33年6月30日付台湾製糖株式会社補助金下付ノ請願ニ対シ明治33年度ニ於テ金壱万弐千円ヲ下付候條別紙命令書通心得ヘシ 明治三十三年九月六日 台湾総督 男爵 児玉源太郎 台湾総督之印 第一条 会社成立シ事業ニ着手シタルトキハ本年度内ニ於テ金壱万弐千円ノ補助金ヲ下付ス 第二条 左ニ掲クル事項ハ速ニ台湾総督ニ届出ツヘシ 一 定款ヲ制定シ及変更シタルトキハ其年月日及条項 二 目論見書ノ事業計画ヲ変更シタルトキハ其条項 三 役員ノ就任又ハ解任アルタルトキハ其氏名 第三条 会社成立ノ日ヨリ明治三十四年三月三十一日ニ至ル事業ノ功程及之ニ要シタル費用ノ決算書ハ同年四月中ニ台湾総督ニ報告スヘシ 第四条 台湾総督ハ随時吏員ヲ派シ事業ノ実況ヲ査察セシムルコトアルヘシ 第五条 台湾総督ハ本命令ノ外必要ト認ムルトキハ随時特殊ノ命令ヲ発スルコトアルヘシ 第六条 台湾総督ノ発シタル命令ニ違背シタルトキハ補助金ノ下付ヲ廃止シ又ハ減額シ若クハ既ニ下付シタル補助金ノ全部又ハ一部ノ返納ヲ命スルコトアルヘシ 創立準備が着々進行すると共に予ての決定に基き鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治33年10月1日、新橋駅を出発し、3日神戸出帆、7日台北に到着、13日までに同地に滞在の上、総督初め諸官に面会して種々打合せをなし、同月14日基隆出帆、安平に上陸して16日台南到着、3日間同地に滞在の後、愈々実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先づ高雄に出で、陳中和氏に面談した。陳氏は明治初年以来横浜に順和棧という店舗を開いて台湾糖を我が国に輸入していた台湾有数の糖商にて、後当社の大株主となった人である。次いで鳳山(現高雄州鳳山街)に至り、それより万丹、東港を経て、当時台南県中糖業地の南端に位する枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の諸所にある有望な大原野に就ては、特に注意して踏査検分した。即ち枋寮と石光見との間には蕃界に接して広漠たる原野があり、石光見より阿コウ街(現屏東市)付近にかけても亦大原野が横たわっている。この大原野を通過して阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越えて関帝廟に出で、一先づ台南に帰着したが、この工程に費した日時は2週間に及んだ。それより更に北上して、大目降(現新化街)、曾文渓を経て、布袋嘴に至った。布袋庄は糖業地ではないが、既に内地人経営の塩田があり、本島人を使役しているから、「参考として一応視察の必要があらう」との児玉総督の注意もあったため、特にこの地を検分したのであった。それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間11日を要し、前後を通じて24,5日間に亙る踏査に、一行の嘗めた苦心は実に容易ならざるものであった。 その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿コウ付近の大原野、即ち現在当社の阿コウ及び東港両製糖所区域たる万隆及び大●営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼を瞠(みは)らせるものがある。 以上の如き実地大調査を終へて、鈴木氏が帰京したのは明治33年12月2日であったが、山本悌二郎氏はなほ台湾に止り事業開始の準備を進めていた。
2023.01.28
浜松市立図書館で中央図書館のほか東図書館と三ヶ日図書館で「訳注静岡県報徳社事蹟 報徳の師父第2集」が蔵書となっている。1 中央 5110934279 151/4/K2 調査支援室 郷土資料 貸出不可 在庫 ×2 東 5710353235 157.2// 郷土資料 郷土資料 在庫 ○3 三ヶ日 6810907995 S157// 郷土資料 郷土資料 納品確定 ×「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」はすでにいろいろな資料で引用されている。浜松を育ててくれた二宮尊徳参考文献「静岡県史」「浜松市史」「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」
2023.01.27
侍ジャパンの栗山英樹監督(61)は26日、都内で行われた「カーネクスト 2023 WORLD BASEBALL CLASSIC 東京プール」の記者会見に出席し、3月に行われるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場する侍ジャパン登録予定選手を正式に発表した。「最後の最後までピッチャーの人数を何人なのかというのは、結構迷いきって、最終的に1人増やして15人という形でスタートする。これが最後の最後に色んな所の中で、自分の中で決断をした。これが正しいのかどうかはちょっと分かりませんけれど、そういった形の中でこのメンバーが1番形を作りやすいんではないかという風に自分の中で思って選びました」 「基本的にはピッチャーを中心にしっかり守り切って我慢しながら勝ちきっていく、そういう形だと思います」 「本当に苦しくなった時に最後なんとかするというのが、日本野球の真骨頂だと思っている。最初の大前提として、日本の特徴であるピッチャーの力を借りて、ピッチャーで我慢して勝つ、と決めたのであれば、ピッチャー交代のところで、そこ(投手の人数)が足りなくなることだけは許されないと、自分では最後思ったので、そこのところを厚みを増して戦って行く、そういう風に自分の中で決めたと言うことです」 さらには「外野のところもそうですし、内野のところの真ん中あたりもそう」と「投手14、野手16」にした場合には外野手もしくは二遊間を守る選手を加える可能性が高かったことも示唆した指揮官。目標を「世界一、それだけです」と力強く語ったとおり、頂点への歩みが始まった。侍ジャパンの全メンバーと背番号は以下の通り。 ◆侍ジャパンメンバー 【投手】・ダルビッシュ有(パドレス) 11・戸郷翔征(巨人) 12・松井裕樹(楽天) 13・佐々木朗希(ロッテ) 14・大勢(巨人) 15・大谷翔平(エンゼルス) 16・伊藤大海(日本ハム) 17・山本由伸(オリックス) 18・栗林良吏(広島) 20・今永昇太(DeNA) 21・湯浅京己(阪神) 22・宇田川優希(オリックス) 26・高橋宏斗(中日) 28・宮城大弥(オリックス) 29・高橋奎二(ヤクルト) 47 【捕手】・甲斐拓也(ソフトバンク) 10・大城卓三(巨人) 24・中村悠平(ヤクルト) 27 【内野手】・山田哲人(ヤクルト) 1・源田壮亮(西武) 2・牧秀悟(DeNA) 3・中野拓夢(阪神) 7・岡本和真(巨人) 25・山川穂高(西武) 33・村上宗隆(ヤクルト) 55 【外野手】・近藤健介(ソフトバンク) 8・周東佑京(ソフトバンク) 9・ラーズ・ヌートバー(カージナルス) 23・吉田正尚(レッドソックス) 34・鈴木誠也(カブス) 51
2023.01.27
新型コロナ5類移行 マスクは屋内外とも「個人の判断に委ねる」政府は26日、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけを現在の「新型インフルエンザ等感染症」から季節性インフルエンザと同等の「5類」にする移行日を、5月8日とする方針を固めた。また全額公費で負担している治療や入院にかかる医療費については、治療薬の無料提供を続けるなど一定の公費負担は残し、過度な患者負担が生じないようにする。医療機関への支援や補助は、3月初めごろまでに方針を決める。緩和する方針のマスク着用は屋内・屋外を問わず、個人の判断に委ねる。3月下旬から4月にかけて統一地方選が予定されていることに配慮した。コロナ感染者、31万4000人報告漏れか…65歳以上の高齢者が一部含まれず1/26(木) 厚生労働省は26日、昨年9月以降に発表した新型コロナウイルスの感染者数に、65歳以上の約31万4000人分の漏れがあった可能性があると発表した。20代、つえなしで歩けず 1年続くコロナ後遺症の恐ろしさ・滋賀県で暮らす女性は、保育士として充実した日々を送っていた。しかし、昨年2月中旬に新型コロナにかかった後、休職したままだ。 後遺症の症状が出たのは、10日間のホテル療養が明け、自宅に戻った翌日のことだった。朝、目が覚めると、これまでに経験したことのないような倦怠(けんたい)感と脱力感、手足の震えに襲われた。 女性はかかりつけの医師の元へ駆け込んだものの、「しばらく症状が残ることがあるので、様子を見ましょう」と告げられた。だが、症状は改善するどころか、息苦しさが加わり、悪化の一途をたどった。専門的な相談をできる医師もおらず不安が募った。しばらくすると歩くことも困難になり、外出時に車椅子を使わざるを得なくなった。生理不順もみられ、結婚したばかりなのに思い描いた新婚生活とはほど遠い。「料理や掃除など家のこともできず、今までできていたことができなくなり、とてもつらかった」療養期間が終わっても油断大敵? 遺伝学者がコロナ感染後に“ウイルス量”を解析すると…驚きの結果に1/26(木) 「(唾液を)採り続けて、(自宅の)冷蔵庫に放り込んでいた。要所要所で唾液のサンプルをとっていたので調べてやろうと思い、療養解除後、人がいない時間に研究室へ行って1人でPCR検査をした」「(7日目でも)Ct値が30前後あったので、『7日目でもまだこんなにあるんだ』と思ってびっくりした。結構長くいるものだなと。その後、1~2週間を超えてもまだ(ウイルスが)いた」「ウイルスがきれいに出なくなる人もいれば、結構長く出す人もいる。それがコロナの一番やっかいなところ」 川上教授はこうした調査結果も踏まえ、改めて「検査の重要性と、人に移さない行動を心がけてほしい」と訴える。「療養解除日にPCR検査をして、ウイルスが残っている人はもうちょっと療養する。残っていなかったら、普通に活動するのが理想的。それができない以上は、7日目ぐらいだとまだ(ウイルスが)残っていて、人に移す可能性もある。しっかりマスクをしたり、距離をとったりして、人と接触しない・人に移さないように行動することが大事」
2023.01.27
大阪公立大学は、大阪市立大学と大阪府立大学が合併してできた大学図書館である。旧大阪市立大学付属図書館に「二宮尊徳の会」の蔵書がある。大阪公立大学杉本キャンパス(旧大阪市立大学)1 資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある2 米国留学中の内村鑑三の日記と手紙 : 内村鑑三から新島襄、広井勇あて書簡 : 宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡抜粋3 報徳産業革命の人 : 報徳社徒鈴木藤三郎の一生・杉本図書館は、地下3F、地上10Fからなる、国内最大規模の大学図書館です。200万冊以上の蔵書を誇り、学習・研究の為の資料が充実しています。杉本図書館あて、「報徳の師父シリーズ」2冊とボーイズビーアンビシャスシリーズ第1集、第3集、「八田與一と鳥居信平」の計5冊を寄贈してみよう。蔵書としていただけるといいな。
2023.01.27
報徳の伝道者 福山滝助 (参考資料:「小田原近代百年史」中野敬次郎著670ページ、「尊徳の裾野」佐々井典比古著336ページ~)福山滝助は文化14年(1817)4月28日に、小田原の古新宿(浜町4丁目)の旧家里見勘兵衛の次男に生れた。家は4代続いた菓子屋だった。滝助は、幼名を多喜蔵と言った。文政3年、彼が4歳、兄の久蔵(12歳)と滝助の2人を残して父が死に、母と共に苦労して育った。少年の頃、母と兄をたすけながら、製造した菓子を荷なって近郷を売り歩いた。ある日、菓子が少しも売れない村があったので、不思議に思って村人に訳をたずねると、この村は報徳の行われている村だからと教えられ、報徳の教えに関心を持った。隣家の旅宿浜田屋から出て、藩の重臣山本源太兵衛の用人となっている小田原藩士高木治左衛門という人があり、時々実家に帰ってくる。彼はある日、これを待ち受けて「報徳の仕法」のことを尋ねた。治左衛門は、尊徳の経歴や桜町・小田原の仕法につて懇切に説明したのち、 そなたはまだ大変若いから、もしこの教えに従って勤めて怠らなければ、一代のうちには土蔵4棟ぐらいは建てられるだろう。しかしその資力を四つの土蔵にしないで、その半分で土蔵2棟を作り、あと半分は身代の外として推譲するがよい。これが、いわゆる虚空蔵というもので、そなたの家の『越中控え』となるのだ。この控えがあるかぎり、そなたの家は子々孫々、万代不朽に続くだろう。と教えた。若い多喜蔵はすっかり感心して、心に深く決意するところがあった。これが福山滝助が報徳の教えに接したはじめであったという。そして天保14年(1843)5月、小田原宿町人の小島屋忠次郎、竹本屋幸右衛門、百足屋孫七の3名が中心となって、「目下評判の高い報徳の教えは、世に類い稀な法であるから、我らも小田原の地に仕法組合を組織しよう」と有志を糾合したところ、同志19名が集ったので、江戸の小田原藩邸に滞在中の二宮尊徳を訪ねて仕法を懇請したところ、尊徳は喜んで同志を激励し、基金として善種金106両を与えられたので、直ちに結社を創立した。この時、多喜蔵は27歳であった。小田原報徳社が結成されると、多喜蔵は兄久蔵と共に直ちに入社した。小田原報徳社の仕法は、社員に余裕のあるものは善種金を積ませ、その善種金を無利息五か年年譜で貸し付ける仕組みになっていた。多喜蔵は、まだ兄の家業を手伝っている身だったので、兄に頼んで、夏冬の衣料代として金2分をもらい受け、秘蔵していた江戸製煙草袋を600文で売って、2分600文を加入金として差し出した。その暮れには、普段着のほかの衣類一切を処分すると言い出して兄たちを驚かせたが、結局その賛同を得て24枚を売って、7両2分を善種金に加えた。 多喜蔵が尊徳に初めて面謁したのは、天保14年8月とされる。尊徳は57歳で、多喜蔵は27歳であった。小田原報徳社世話人の小島屋忠次郎に伴われて、江戸の小田原藩邸に行った。そこでは、門人およそ14~5人が机を並べて仕事をしており、首席は富田高慶、次席は波多(吉良)八郎で、福住正兄もその列の中にいたという。 尊徳はこのとき、鏡に向って自分で髪を調えており、それが済むと面会してくれた。尊徳は多喜蔵に目を向けると、尋ねた。「何商売か?」と聞かれて「菓子屋です」と答えると、「菓子の菓と因果の果と、違いがあるか?」と更に聞かれた。多喜蔵がとまどっていると、正兄が「草冠があるのと、ないとの違いがあります」口をはさんだ。「しかし、音は同じだし、形も似ているではないか」「それはそうです」と正兄は答えた。そこで尊徳は多喜蔵に向い次のように説いた。「何事でも第一に肝要なのは形なのだ。形が似なければ、精神も同じものを顕わすことができない。だから、もし人がわが道を修めようと思うならば、まず形から入らなければならない。」 多喜蔵はその後も何回か、先輩と一緒に尊徳に会ったが、最初に受けたこの教えは、彼の一生を貫く大きな心棒となった。多喜蔵は28歳で独立して一戸を構えたのは、尊徳に入門した翌年の弘化元年(1844)であった。古新宿の隣町の福山という絶家を継いだのである。兄から金20両の資金をもらい、翌年結婚した。先年、小田原報徳社善種金の無利息貸付金の借用権を辞退していたので、小田原報徳社は独立を喜んで金10両を貸与した。その10両の無利息金も、そのまま兄に預けて置いて、菓子の製造販売に専念した。報徳の精神で、100文につき1文しか利益を考えなかったから、たちまち評判になって、店頭はいつも繁昌し、終日寸暇もないほどだった。小田原報徳社は、尾嶋屋・竹本屋・百足屋など創立当時の世話人が欠けると、たちまち衰微して、影の薄いものになっていった。これは善種金の借り入れを無利息5年賦返還となっていたが、返済しない者が相次ぎ、回収不能となり、嘉永元年(1848)、には、尊徳から与えられた善種金106両が、840文になっていた。多喜蔵は、兄と相談して、兄久蔵と、小田原町の留次郎、酒匂村の新兵衛、川村の覚右衛門の同志5人でその840文を基にして、従来の5か年賦返還法を18か月賦に短縮して再興にとりかかった。滝助は嘉永4年からは、家業の年間収入をおよそ30両、純益を2割と見定めて、年々、その全額を推譲することとし、隠居までの11年間これを実行したが、生活には何の支障もない。報徳社が、年々この6両を無利5か年賦、元恕金(お礼金)づきで運用すれば、60年後には6,484両もふえる。これは、やれば実行できることだ。こういうのが報徳仕法の本当の「形」だと、多喜蔵は悟った。多喜蔵の燃えるような熱情と倦む事をしらない努力によって、社員も善種金も次第に増加した。多喜蔵は、42歳のとき妻をなくし、翌年慶応元年には3歳になる男子もなくした。そこで養子虎之助(家を継いで多喜蔵)に譲り、隠居して滝助と名乗った。養子といっても、彼より2つ年上で妻子もあり、兄の店で年季を入れた職人だったから、彼は安心して一切を任せ、小田原報徳社を始め、近辺の報徳仕法の世話をしたり、心学を勉強したりで日を過ごすことができた。報徳の伝道者 福山滝助 その2 遠州地方の村々では、弘化4年(1847)ごろから、神奈川県秦野出身の安居院庄七の指導を受けて報徳社ができ始めた。庄七は大山の麓の中郡東秦野の蓑毛村大山修験僧密正院秀峰の次男として生まれ、後に秦野曽屋村の農家の安居院家を継いで安居院庄七、後に義道と改めた人である。小田原で米穀商を営んでいたが、米相場に手を出して、大失敗したので、二宮尊徳に無利息金を借りたいと思い、知人の中沼村(南足柄村)の百姓杉本田造が尊徳のもとにいるのを頼って桜町におもむいた。しかし、尊徳に直接会うことはできず、下働きとして働きながら、障子越しに尊徳が弟子へ講義しているのを漏れ聞いて、悟るところがあり、小田原へ帰って元値売りの商売を行い、店が繁盛し、その年のうちに10両の利益を得た。尊徳が小田原仕法を行う際、仕法書の浄書を頼まれ、仕法事業の内容が一層明らかに会得できた。庄七は、この報徳の教えを広く世に広めて、人々に実行させようと念願し、弘化元年(1843)54歳の時から、各地に教えを説いてまわり、弘化4年11月に遠州に入って報徳の教えを説いて、およそ60か村に広まった。しかし、文久3年(1863)に庄七が歿すると、しだいに衰退に向った。そこで有志が相謀って、報徳発祥の地である小田原から師たるべき人を招こうということになり、かつて安居院庄七の仕法を受けた前川村(足柄下郡橘町)の滝沢庄右衛門に依頼があった。前川は滝助を最適任者として懇請し、福住正兄の強い勧めもあって、ついに意を決して遠州に赴いた。慶応3年(1867)、滝助51歳の時であった。滝助は最初掛川在倉真(くらみ)村の大庄屋岡田佐平治(無息軒)のもとを訪れたが、岡田父子の志向する一村式仕法とは異なっていたため、そこをさって森町の山中里助(後に新村里三郎)のもとに足をとどめた。滝助は、社員わずかに8名となっていた森町報徳社を手始めに、西遠地方の報徳組織の再建に乗り出した。そのやりかたは、小田原報徳社のモデルそのままに、同志が相結んで勤倹の余財を積み立て、毎月、持ち回りの常会で研究と修養に努め、年1回、投票によって無利息金の貸付を行い、これを繰り返して相互の永安を図るというものであった。庄七の遠州における報徳活動は報徳の教義の説明にとまっていたため、54村が強化を受けていたが、滝助がこれらの地を一巡したときにはほとんど潰れて、わずかに五社が残っているだけであった。滝助は教義とともに仕法を組み立てて実行させるまで指導し、一社の仕法に数十日、一家の家政立て直しに数日要するなど懇切周到であったため、遠州地方の報徳社は盛んになった。明治4年、滝助は、これを統括する本社として「遠譲社」をつくった。推譲の道を永遠に行うという意味だ。小田原報徳社はこれを祝って、尊徳由来の善種金120円を貸与してくれた。滝助は各社の推譲加入によってこれを倍増した上で、無利息金の原資として各社に還元した。それはやがて、元恕金(お礼金)づきで本社に戻ってくる。こうして、組織と、報徳金と、勤勉推譲の気風とが相まって増殖して行った。三河にも本社として三河国報徳社ができたし、遠譲社では本社の下に第一から第六まで、6つの分社をつくって、支社数の膨脹に対応するほどになった。遠州の周智郡、引佐郡、豊田郡、長上郡等にわたり興った報徳社の社数は、滝助在世中、慶応3年遠州入りしてから、明治26年になくなるまでの間に98社が創立した。その後、明治36年(1903)までに更に8社を加えて、実数106社に及んだが、これの大半は、直接、間接に滝助の指導によっておこったものである。愛知県南設楽郡下吉田村の田中伊兵衛は、谷沢村の親戚を訪ねた際に、福山滝助が来て講話してるのを聞いて、永安法なるを感じて、同志を作り、明治14年(1881)8月3日、当時64歳の滝助を村に招いて教えを受けて、明治15年(1882)10月、三河報徳社を創立した。これが愛知県における報徳社の初めである。滝助の組織づくりには、大きな特徴があった。自分はもとより、各社の役員についても、旅費から筆紙墨まで一切の経費を自弁とし、社の金を使わせなかったのである。遠譲本社そのものさえ、社屋も造らず事務員も置かず、春秋2回、各社持ち回りで参会(総会)を開いて、万事をそこで処理するという、簡素きわまる『移動本山』であった。その代り、帳簿の作成を厳しく指導し、だれにも読めるよう楷書で書かせて、責任者から責任者へ、確実に継承させた。あるとき、滝助からこの自費自弁主義を聞いた富田高慶は「それだ!遠州に御仕法が盛んに行われるわけが、これでわかった」と激賞したという。この自費自弁主義は、実は尊徳じきじきの訓戒から出ている。小田原報徳社草創のころ、世話人の竹本屋幸右衛門が、滝助を連れ、帳簿を持って、尊徳の指導を受けに行った。じっと目を通していた尊徳は、「金弐分入用」と記した箇所へ来ると、「これは何の入用か」と聞いた。「世話人の入用です。」と幸右衛門が答えたとたん、落雷のような叱責がくだった。「これは恐れ多くも彰道院様(小田原先君)の仰せ出された御仕法なのだぞ。お前たちの身分でその世話を勤める。もったいないことではないか。そのために、お前たちの家の5軒や10軒、つぶれたところで構わんではないか」幸右衛門は返す言葉もなく黙っていたというが、この痛烈な教訓が若い滝助の中に根をおろして、遠州三河の地に花開いたのであった。滝助は常に「蓑笠で暮らせ」と教えた。これは二つとも下を向いているという意味で、感謝して生活せよということだった。遠州に赴任して三河に没するまでの25年間、滝助は家も持たず事務所も置かず、社から社へ、常会から常会へ、一所不住の行脚をつづけた。脚絆にわらじ、菅笠、腰に矢立をさし、書類を入れた幾つもの竹行李を、大風呂敷に包んで背負った格好は、富山の薬売り同然で、出迎えの者が間違えるくらいだったという。常会では、まず仕法書を朗読し、講話をし、社員の芋こじに加わった。どこの社員宅にも喜んで泊まったが、菜は一菜に限り、酒はいくら勧めても形ばかりしか飲まなかった。彼は、故郷の小田原には春秋2回、遠譲社の参会終了後に帰省し、4~5年に1回は、小田原社・遠譲社関係の帳簿を持って相馬を訪れ、三代尊親や富田高慶への報告を楽しんだ。明治26年4月、三河国(愛知県)八名郡山吉田村大字上吉田の共有家屋で77歳の生涯を閉じた。辞世は 四時五時とかぞへて過ぎし年月も 一時に帰る今日の嬉しさと言う。 遺体は終焉の地に土葬せよとの遺言だったが、逝去の地が三河であったため、馳せつけた遠譲社の人々は、元来福山先生は我々が小田原から招いたのであるから、我々が葬りたいといい、小田原から来た一族の人々は小田原に引き取ると主張し、分骨することとなり、上吉田の満光寺で荼毘(だび)に付して、4月18日同寺の墓所に一部を葬った。4月28日には遠江国八名郡奥山村の方広寺で盛大な報徳葬を行い、寺の後方の丘上の墓所に一部を葬った。小田原では市内寺町の大長院に葬った。明治32年4月終焉の地の上吉田の共有家屋のそばに「福山翁頌徳碑」が遠江、三河の報徳社員によって作られた。
2023.01.27
二宮先生語録巻の二【156】~【160】【一五六】父母の子を育するや、縦令無頼の子と為るも、亦養育の費を算せざるなり。農夫の田を力るや、縦令飢饉の災に遇ふも、亦培養の費を算せざるなり。舜禹天下を有て、而して与からず。以て道を万世に伝へ、釈氏王位を避け、以て法を万世に遺す。是れ猶ほ物を購ふ者金嚢を解くごとく、我が道を行ふ者宜く斯の心を存すべきなり。《訳》父母が子どもを育てるときは、たとえ素行が悪い子どもでも、また養育の費用など数えない。農夫が田を耕すときは、たとえ飢饉の災難にあってもまた培養の費用を数えない。昔の中国の聖王、舜や禹は天下を有して、しかもあずからなかった。ただ道を万世に伝えた。釈尊もまた王位を譲って、仏法を万世にのこした。これは物を買う者が財布のひもを緩めると同じで、私の報徳の法を行おうとする者はよくこの推し譲る心を持たなければならない。1『忠孝論』西晋一郎著「親のその子における子の数が多くなるからとて一人分の愛情が減ずることなく、またいかほど食わせ着せてもその上に食わせたく着せたく、またその子の死を悲しむに涙のかれることがない。これ愛の無限である。またその子才あれば喜び、才なければ憐れみ、賢なれば愛し、不肖なれば悲しむが、憐れむは喜ぶゆえん、悲しむは愛するゆえんで、これ愛の変じて変ぜざるのである。またその子の今日の幸運を喜ぶうちにも早や将来不幸に遭いはせぬかと憂慮するは愛の超時間的なのである。子のためいかほど尽くしても尽くしたとも思わぬは愛して愛を忘れるのである。愛して愛を忘れるに至って生命は生命の奥に隠れる。無限の愛、超時間的愛、変じて変ぜざる愛、愛して愛せざる愛、これを慈愛と称して愛着愛欲とは天理の相違あるものである。愛着愛欲は偏するもの、慈愛は平等なるものである。差別があって認識は成る。故に法と義は明らかである。平等に包んで遺す所なきものは識り難い。故に生命と慈愛は隠れる。親が愛して愛を忘れるごとく、子は愛せられて愛せられることを忘れる。親子相忘れて愛を知らざる所が親子の至情である。情は通じて一ならしめるが、通じて一となれば分別して識るべきものがないのである。」(三六頁)【一五七】父母祖父母及び祖先累世の心、皆吾が身に聚る。何となれば則ち天下の父母為る者、己れが子の死を喜ぶ者無し。故に吾が身を以て我が子の死に代らんと欲する者、父母の心なり。是れ父母の心吾が身に存するに非ずや。然らば則ち人子為る者、宜く我が身を愛し我が体を敬し、以て父母の心を奉ずべきなり。《訳》父母・祖父母及び祖先と世を重ねた心は皆自分の身にあつまっている。なぜかといえば世の中の父母で自分の子どもの死を喜ぶ者はないからだ。だから自分の身をもってわが子の死に代ろうと欲するのが、父母の心なのだ。これは父母の心が自分の身にあるということではないか。そうであれば人の子である者は、よろしく自分の身を愛し、自らの体を敬し、父母の心を尊重すべきだ。1.『西晋一郎の生涯と思想』「親の御恩は実に三拝九拝幾重に之を頂いても足らぬ気がする。親のためならば之を負うて千里の外に歩んでも遠いとは思はず、いかほど親切を尽し骨を折つてもまだ足らぬと思ふ」(二五六頁)【一五八】人の子為る者、宜く父母の心を安んずるを以て要と為すべし。苟くも父母の心を安ぜんと欲せば、宜く心を正ふし身を修むべし。則ち他邦に仕へ、帰省に暇あらずと雖も、而も父母賞典の事有りと聞けば、則ち喜び以て我が子も与ると為す。罪を犯す者有りと聞けば、則ちケイ然以て我が子に非ずと為すなり。此の如んば、則ち孝と謂ふべし。若し夫れ心正からず身修らずんば、則ち父母罪を犯す者有りと聞けば、則ち憂ひ以て我が子も亦犯すと為す。賞典の事有りと聞けば、則ちケイ然以て我が子に非ずと為す。此の如んば則ち数々帰省すと雖も、而も以て孝と為すに足らざるなり。《訳》人の子であれば、父母を安心させるように行動しなければならない。いやしくも父母を安心させようと欲するならば、心を正しくし身を修めるならば、他国に仕えて帰省するひまがなくても、父母は栄誉を受けると聞けば、わが子も表彰されるかと思う。罪を犯した者があると聞いても、決してわが子ではあるまいと思う。このようであれば、孝というべきであろう。もし人の子が心が正しくなく身が修まっていなければ、父母は罪を犯す者があると聞けば憂慮してわが子ではないかと思う。栄誉のことがあると聞いてもわが子が表彰されるはずがないと思う。このようであればたびたび父母のもとに帰省していたとしても孝となるに足りない。1『忠孝論』西晋一郎著「我が親に生命を謝するとと神に謝するとは同じく、我が親を親愛すると神を親愛するとは同じである。もしこれを異なりとせば、情と情の対象とを各々独立にあるものとなし、したがって神を一個の抽象的概念にしてしまう。親の愛は無窮の慈愛である。この心を外にして別に神愛があるであろうか。子のその親に対する感謝も無限である。この心を外にして別に神恩を感ずるということがあるであろうか。父子は生命の無窮の道であり、父子の情は宇宙万有の情の根柢である。」(三七頁)【一五九】物各々数有り。猛火の炎炎たるも、薪炭尽れば則ち熄む。銃丸の激烈なるも、勢尽れば則ち童子の弄する所と為る。人高官に陞り君寵を得るも、亦何ぞ久しきを保ん。其の数尽れば則ち黜罰立ろに至る。豈思はざるべけんや。 《訳》物には各々数がある。猛火が炎々と燃えていても、薪や炭が尽きればすぐにやむ。銃丸が激烈でも勢いが尽きて落ちれば子どものおもちゃとなる。人が高官となり君主にかわいがられても、どうしていつまでも久しく保てよう。その数が尽きるならば退けられたり罰せられたり、たちどころに至るであろう。人はよくよく思わなければならない。【一六〇】海を航る。徒に風波に任せば、則ち望む所の岸に達すべからず。苟くも望む所の岸に達せんと欲せば、則ち柁を捩り風波を避けざるべからざるなり。生を治るも亦然り。猥りに人欲に任せば、則ち欲する所の安富を得べからざるなり。苟くも欲する所の安富を得んと欲せば、則ち情を節し人欲を斥けざるべからざるなり。若し夫れ柁を捩り風波を避けざれば、則ち漂没の患を免れず。情を節し人欲を斥けず、酒食を貪り、褕衣を被、華屋を造り、百金の入を以て、二百金の出を為さば、則ち亡滅の患を免れざるなり。《訳》航海するとき、いたずらに風雨にまかせるならば、望んだ所の岸に達することはできない。そのためカジをよじって風雨を避けなければならない。人生を治めるのもまた同じだ。みだりに欲望のままに任せるならば、望んだ安泰や富裕は得ることができない。いやしくも欲するところの安泰や富裕を欲するならば、情欲を節制し欲望をしりぞかなければならない。物事はすべてカジをよじって風雨を避けなければ、漂流や沈没の災難を免れない。情欲を節制せず欲望をしりぞけず、お酒やご馳走をむさぼって美しい着物を着て、立派な住宅を造って、百両入って二百両出て行くようなら、滅亡の災難を免れることはできない。
2023.01.26
国宝級の発見 奈良の富雄丸山古墳から鏡と“蛇行剣”を発掘 専門家「金属工芸の最高傑作」1/26(木) 富雄丸山古墳では国史跡指定を目指し、同市教委が平成30年度から発掘調査を実施。昨年10月下旬、3段に築かれた造り出しの上段から「粘土槨(かく)」と呼ばれる粘土で覆った埋葬施設が見つかった。粘土槨は全長約6・4メートル、幅約1・2メートルで、内部に木棺が埋葬されているのを確認。同11月末には木棺を覆った粘土層から盾形銅鏡、その上層から蛇行剣が出土した。初めて出土した盾形銅鏡は長さ64センチ、最大幅31センチ、最大の厚さ0・5センチの青銅製。背面中央に突起の「鈕(ちゅう)」があり、その上下に国内で創出されたという神獣を表す「鼉龍文(だりゅうもん)」が円形に施されていたことから「鼉龍文盾形銅鏡」と命名した。円の外側にはのこぎり形の鋸歯文(きょしもん)も見られ、高度な技術力により薄い板と鏡を融合させた青銅製品の最高傑作という。蛇行剣は、柄(つか)、鞘(さや)の痕跡から装具を含めた全長は267センチに復元できる。国産とされる蛇行剣は85例の出土が確認されているが、今回の蛇行剣は最大で最古。鉄剣としても広島市の中小田第2号古墳の全長115センチを大きく上回った。奈良市にある国内最大の円墳、富雄丸山(とみおまるやま)古墳(4世紀後半)の墳丘から張り出した「造り出し」の部分で埋葬施設が見つかり、内部から精緻な文様が施された盾形の青銅鏡と剣身が曲がりくねった「蛇行(だこう)剣」が出土した。奈良市教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所が25日発表した。銅鏡は通常円形で盾形のものは類例がない。蛇行剣は長さ237センチで、古墳から出土した鉄剣では国内最大。いずれも国産とみられ、古墳時代前期の金属器としては国宝級の傑作と評価され、当時の生産技術の高さを示す極めて重要な発見となった。
2023.01.26
英雄達の選択で生糸産業に貢献した新井白石と上垣守国を採り上げていた。新井は生糸輸入での金銀流出を防ぐ為輸入制限を行った。新井白石は国外に流出した金銀の量を調査してその結果を宝永6年4月1日に将軍徳川家宣に提出した。それによれば60年間で金239万7600両・銀37万4200貫が国外に流出しており、100年間では日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また、銅についても45年間で11億1449万8700斤に及んでいた。そこで、年間の貿易枠を定めた。清 - 年間30隻、取引額は銀6000貫オランダ - 年間2隻、取引額は銀3000貫のちに明治政府は、産業の近代化を「輸出振興」「輸入防遏(ぼうあつ)」という国家のスローガンを掲げた。鈴木藤三郎も、日本国の金銀が精製糖に輸入により海外に流出することを憂いて報徳の精神から砂糖の国産化を志したのであった。また上垣は『養蚕秘録』出版で技術を共有し世に広めた。・上垣守国は、1753年(宝暦3)に蔵垣で生まれた。 18歳の時に福島県へ行き、蚕種を研究、20歳の時から養蚕を但馬、丹波、丹後地方に広めた。 1802年(享和2)『養蚕秘録』(全3巻)を著した。『養蚕秘録』は、蚕の起源から種類、伝説、飼育法等を絵入りで解説したもので、フランス、イタリアなどでも翻訳された。本には「今年より蚕はじめぬ小百姓」という蕪村の句がのる。貧しい農民の生活向上を願ったのだ^_^
2023.01.26
藤城清治さんの影絵 藤城清治は、カッターでセロハンを薄く削り取り影絵の陰影をつけている。藤城さんの繊細な切絵のタッチに圧倒される。 聖書を題材にした影絵も数多くある。「聖書を読み進めるうち、その壮大さや崇高さに驚いた。その時、感じた。光とは、神であり、イエスではなかったかと。光に照らされ、存在するものが影という形で浮き彫りになる。いのちの神秘、生かされている喜びと感謝など、光と影で表現できたらと強く思った」そして、神が天地創造された時に言われた「光あれ」という神秘に、自身の創作活動がつながっていることを身に沁みて感じたと語っている。 影絵につけられた藤城さんの言葉もよかった。・光と影は人生そのものだということがわかってきた。一段一段光と影の階段を登ってきて80歳になった。人を愛し、地球を愛していこう。
2023.01.25
二宮先生語録巻の二【151】~【155】【一五一】人生安楽を好む。何を安楽と謂ふ。春植て秋収む。是れなり。植れば則ち生じ、生ずれば則ち長じ、長ずれば則ち華、華けば則ち実る。是の故に之を植て、其の生を楽み、其の長を楽み、其の花を楽み、其の実を楽み、之を食へば則ち身安く心楽む。是れ豈真の安楽ならんや。 《訳》人生安楽を好む。何を安楽というか。春植えて秋収穫する、これじゃ。作物を植えれば生じ、生ずれば生長し、生長すれば花が咲き、花が咲けば実が実る。だから作物を植えて生長を楽しみ、花や実を楽しみ、これを食べれば、身は安らかであり心は楽しむ。これが本当の安楽ということではないか。【一五二】家貍を養ふ者、之を順撫すれば則ち睡り、之を逆撫すれば則ち怒る。刀子を用る者、柄を執れば則ち鈍刀子も亦用を為し、刃を執れば則ち利刀子と雖も而も用を為さざるなり。事を処する者、宜く此の理を弁ずべし。《訳》猫を飼う者が毛並みにそって撫ぜれば眠り、毛並みに逆立って撫でれば怒る。短刀を用いる者が柄を握れば鈍刀であっても用を足すことはできる。刃を取ればよく切れる短刀でも用を足すことができない。物事を処理する者は、よくこの道理をわきまえなければならない。【一五三】農家秋実を得、尽く之を秋冬に用いば、則ち来歳の食無し。是の故に秋実を得れば、則ち租税を輸し、種子及び備荒を蓄へ、其の余之を十二月に分ち、堅く其の度を守り、以て父母を養ひ、妻子を育す。此れ農夫の道なり。懶惰の民、力を耕耘に尽さず。而して秋実数苞を得るも、亦是れ天恩なり。此を以て尚ほ足らずと為し、放賭大利を得んと欲す。此れ惑ひの甚き者、徒に大利を得ざるのみならず、賭敗家を亡すに至る。夫れ秋実の多きを欲する者、農夫の常。苟くも秋実多きを欲せば、則ち須く力を耕耘に尽すべきなり。一畝を力耕せば、則ち一畝の利有り。二畝を力耕せば、則ち二畝の利有り。此れを之、至誠神の如しと謂ふ。《訳》農家が秋、収穫してこれを全て秋と冬に消費すれば、来年の食糧がなくなってしまう。だから秋に収穫すれば年貢を収め、種と飢饉に備えての備蓄を貯え、その余りを十二月で分割し、堅くその分度を守り、父母を養い妻子を養育する。これが農民の道じゃ。怠け者の農民は、耕作に励まない、それでも秋に数俵を収穫できる、これは天の恩じゃ。それでなお足らないとして賭博で大利を得ようとする。これは迷いのはなはだしいもので、単に大利を得ないばかりか、賭博は家を亡ぼすに至る。秋に収穫が多いことを願うのは、農民の常で、まずは力を耕作に尽くすべきだ。一の畝を耕せば一の畝の利益があり、二の畝を耕せば二の畝の利益がある。これを中庸に「至誠は神のようである」というのじゃ。【一五四】深山雪あり。幽谷氷り、寒気凛凛たるも、亦河柳芽を生ずれば則ち氷雪皆な虚、山野草木蒼翠なるも、亦一葉枝を辞すれば、則ち蒼翠皆虚。国家衰頽、田畝荒蕪、負債山の如きも、亦君大夫深く之を憂ふる者有れば、則ち衰頽荒蕪負債皆虚。国家安寧、貨財豊富なるも、亦君大夫奢侈を好む者有れば、則ち安寧豊富皆な虚。伝に曰く、至誠の道、以て前知すべし。国家将に興んとする、必ず禎祥有り。国家将に亡んとする、必ず妖孽有りと。此れを之謂ふなり。《訳》深山は雪である。谷の奥は凍り、寒さがリンリンとしていても、川柳が芽を生ずれば氷も雪も虚となる。山野の草木は緑であっても、一つの葉っぱが枝を離れれば、緑も皆虚である。国家が衰退し、田畑が荒れ、負債が山のようであっても、国君や家老がこれを深く憂慮する者があれば、衰退や荒地や負債はすべて虚である。たとえ国家が安寧で財産が豊富であっても、国君や家老が贅沢であれば、安寧や豊富もすべて虚である。中庸の伝に「至誠の道は予め知ることができる。国家が今にも興ろうとするときには良いきざしがある。国家がまさに滅びようとするときには必ず悪いきざしがある」と。このことを言うのだ。【一五五】物有れば必ず弊有り。猶ほ蔓菁を種れば則ち菁虫生じ、莨宕を種れば則ち莨虫生ずるごとし。是れ自然の数なり。故に富には則ち奢侈の弊有り。貧には則ち懶惰の弊有り。此の二弊は、国家の大患なり。我が法は則ち此の二弊を除く者なり。乃ち奢侈を転じ倹譲と為し、懶惰を変じ励精と為す。二弊苟くも除かば、則ち国家安泰なり。《訳》物があれば、必ず弊害がある。かぶらを植えれば、かぶらの虫が生ずる。たばこを植えれば、たばこの虫が生ずる。これは自然の道理だ。ゆえに富には贅沢にふけるという弊害がある。貧乏には怠惰の弊害がある。この二つの弊害は、国家の大きな弊害で、私の報徳の法はこの二つの弊害を除くものだ。すなわち贅沢にふけることを転じて倹約と推譲となし、怠惰を変じて勤勉にならせる。二つの弊害が除かれれば国家は安泰となる。
2023.01.25
広井勇(いさみ)博士は土佐藩士広井喜十郎の長男として今の高知県の佐川村に生まれました。明治3年に父が亡くなり9歳で家督をつぎました。祖母が木綿糸を紡いでそれを糸屋に届けるのは、勇の役目でした。ある日、糸を金に換えた帰り、勇は近所の子らと遊んで、金を亡くしました。祖母は「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭しました。『築港』の前書きに、広井勇が幼い頃に高知県の浦戸港に遊びに来たとき、土地の古老から野中兼山が築いた防波堤が200年の時を経て、安政の大地震から津波を防ぎ一村が助かった話を聞いて感動したとあります。「おもうに港湾の修築は実に国家重大の事業である。、土木事業中で最も困難である。だから計画を立てるに当っては、最も慎重に、最も周到に行い、百年にわたって見込みはずれのないようにしなければならない。著者(広井勇)幼い時、土州浦戸種崎に遊んだ折に、海峡をはさんで二つの防波堤があった。これを古老に聴くと、野中兼山が築いたものだと。種崎村にあるものは、ながく砂のうちに埋もれて誰も知るものもなかったが、後に200余年たって、安政元年の大地震に際し、津波が襲ってきて、種崎の一村が今や荒れ狂う大波ににまきさらわれようとする一瞬、その防波堤がむき出して、大波を防いでわずに一村をまっとうできたという。実に技術者の千年の栄誉と恥辱はかかって設計の上にあり。これが用意の慎重に注意を行き届かせ、遠大な計画を要するということで、よく心掛けておかなくてはならない。
2023.01.25
二宮先生語録巻の二【146】~【150】【一四六】魯の哀公問ひ曰く。年飢へ、用足らず。是れを如何。有若対へ曰く、盍ぞ徹せざるやと。宜なるかな、言や。余嘗て力夫を諭して曰く。力銭一日三百文を得て、足らずんば、則ち須く二百文取るべし。二百文を得て、足らずんば、則ち須く一百文を取るべし。一百文を得て足らずんば、則ち須く取らずして力むべし。此の如くせば、則ち豈足らざる有ん。是れ則ち有若の意なり。《訳》論語(顔淵篇)に、魯の哀公が「今年は凶作で、国費が足らないが、どうしたらよいか」と尋ねたのに対して、有若が、「どうして昔のとおり十分の一の税率に切り下げないのですか」と答えたという。まことに良い言葉だ。私はあるとき人夫を諭してこう言った。「人夫賃一日三百文取って足らなければ、二百文取れ。二百文取って足らなければ、百文取れ。百文取って足らなければ、何も取らずに働け。そうすれば決して足らないことはない」と。これは有若が言ったのと同じ意味だ。【一四七】管子曰く、衣食足て礼節を知ると。宜なるかな、言や。今食を小児に与ふ。腹に満たざれば則ち啼き、既に腹に満れば則ち食はず。況んや成人に於てをや。貪惏者と雖ども、而も飽けば則ち必ず譲る。是れ豈真の礼儀に非ずや。《訳》管子は言う。「衣食足りて礼節を知る」と。もっともなことだ。よく言ったものだ。今、食べ物を子どもに与えるとしよう。腹に満たなければ泣き、すでに満腹すればそれ以上食べない。ましてや成人はなおさらである。欲深い人間でも、飽きれば必ず譲る。これこそが真の礼儀ではないか。【一四八】論語幾諌の章を誦し曰く。善ひかな。人の子父を諌むるの道。誠に斯の如なるべきのみ。豈止父を諌むるの道のみならんや。凡そ事を処する、須く斯の如くすべし。《訳》尊徳先生は、論語の幾諌の章を読まれた。「子曰く、父母に事(つか)えては幾(ようや)くに諌(いさ)む。志の従われざるを見ては、又敬して違(たが)わず、労して怨みず。」そしてこう言われた。「まことに善いことだ。人の子が父をいさめる道はまことにこうあるべきじゃ。ただ父をいさめる道だけではない。およそ物事に対応するには、すべてこのように「いくたびも心を尽くしていさめ、自分が願うとおりに従わなかったとしても、敬して違わない、苦労してもうらまない」ようにするべきだ。【一四九】争論の発するや。各々其の居処を定めざる故なり。苟くも居処を定めば、則ち何の争論か之有ん。今東西を論ずる者有り。東に在る者西と為すなり。西に在る者東と為すなり。米価を論じて貴を善と為す者、糶者なり。賎を善と為す者、糴者なり。南瓜を論じて蔓を愛する者、初生の時なり。蔓を悪む者、実を食ふの時なり。遠近を論じて近を善と為す者、用を致すの時なり。遠を善と為す者、失火の時なり。一切事を論ずる。各々其の居処を定めば、則ち是非判然。何の争論か之有ん。《訳》争論が発するのはおのおのがその立場を定めないからだ。いやしくも立場を定めたならばどうして争論が生じようか。今、東西を論ずる者があるとする。東にある者は西とする。米価を論じて高いことをよいとする者は米を売る者じゃ。かぼちゃを論じてツルを喜ぶ者は、生え始めの時で、ツルを嫌がるのは実を食べる時だ。遠近を論じて近くてよかったとするのは、用をたす場合であり、遠くてよかったというのは失火の場合だ。一切の事を論ずる場合、それぞれ立場を定めれば、是非ははっきりしている。どうして争論など起こることがあろうか。1『「尊徳と梅岩』西晋一郎著「悟道理論草稿に曰く、『ある在所近村一つの大川あり、此の方の村里の人々は彼の向う岸を川向うと、向うの村へ渡りて向うの村の里人にきけば、我村方を川向うと申す也。・・・こちらが河向うか、そちらが河むかいか、御前さんあり、私あるゆえの、御前さんと私なければ本来河はただ河なり。こちらはこちら、そちらはそちら、・・・ただただ御前さんは御前さんのお御先祖よりなされきたりたる御家業専一に成され、私は私の先祖より伝わりたる商売をいたし、これまでの通り炭薪塩茶何様何品なりとも御手紙さえ遣わされ候えば、御用次第差遣わし申すべき候。・・・御たがいになかよくくらし居候間、御先祖たちのなし置かれたる通りに万代くらし、向う村の事はあらため申しまじく候。其の本々はありて無きのみ、有りて無きのみ。』お前さんあり私あるゆえの、お前さんと私なければ本来河はただ河である。我汝を超えて物の真を見る。世上ただ己れ己れの立場ばかりから見る。これを忘れてひたすら各自その業にいそしみさへすればこれ最上であつて、人も喜び我も喜ぶ。ただその分々の働きに専一なるのみで事は十分足るので、その上に我とか汝とか余分のものを加える必要はない。我と汝というも畢竟、分を示すに外ならぬので、人我の別を逞しくするのではない。」【一五〇】稼穡を為す者、農夫の常。愚者と雖ども而も之を知る。唯力を用る分外に進めば、則ち秋穫居多。秋穫居多なれば、則ち其の家必ず富む。農にして富を得る。豈他有んや。父母を養ふ者、人子の常。頑夫と雖ども而も亦之を知る。唯力を用る、分外に進めば、則ち父母必ず悦ぶ。父母必ず悦ぶ。之を孝と謂ふ。夫れ孝は吾が徳を脩るなり。人にして徳を脩る。豈に他有んや。《訳》耕作をするのは農家の常だ。愚かな者でもそのくらいは知っている。ただ力を用いることが、分外に進むならば、秋になれば収穫が多くなる。秋の収穫が多くなればその家は豊かになる。農業によって富を得る方法がほかにあろうか。父母を養うことは人の子の常だ。頑な下民でもまたこのことを知っている。ただ力を用いることが分外に進めば、父母は必ず喜ぶ。父母が必ず喜べばこれを孝という。そもそも孝とは自分の徳を修めるのである。人として徳を修める方法がほかにあろうか。1『忠孝論』西晋一郎著「親の愛は無窮の慈愛である。この心を外にして別に神愛があるであろうか。子のその親に対する感謝も無限である。この心を外にして別に神恩があるであろうか。父子は生命の無窮の道であり、父子の情は宇宙万有の情の根底である」(三八頁)
2023.01.25
だいぶ前にがんで若くしてなくなった友人木谷は【木谷ポルソッタ倶楽部】というメールマガジンを出していた。いまでも彼が「由布院の小さな奇跡」(新潮新書)に遺した言葉「記録せよ発疹せよ」と私と森町のMさんの合言葉である、「訳注静岡県報徳社事蹟」に、袋井市で9年間続けている「報徳講座」の経緯も記録したのはこの「記録せよ発疹せよ」の精神からである。――【木谷ポルソッタ倶楽部】―――――――――――――――――<2008/4/9.>―――― ■ 無気力 ■―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――無気力、生まれて以来、最大の「気力のなさ」を味わっている。ご飯を食べる気がしない。嫌ではない。食べる気力が湧かない。人と話をする気がしない。人には会いたい。会える気持ちではない。それになにより、酒を呑む気がしない。蕎麦を食べる気がしない。「抗ガン剤を投与しているから、体力が衰えるのはあたりまえです。 木谷さんの体力が落ちている間に、薬が癌と闘っているのです。 癌との勝負に決着が付いたら、木谷さんの身体ももとに戻ります」看護婦さんから言われた。なるほどと納得した。私の身体を弱らせて、そのすき間を狙って癌(敵)を叩く。うん、喧嘩の弱い私でもその方法なら戦えそうな気がしてくる。そう、そういうことで、現在の、私は「無気力」の状態だ。この三ヶ月で、抗ガン剤を四度もたっぷりと打たれた。「木谷さんの身体は不思議ね」看護婦さんが驚くほど、「発熱」「痛み」「下痢」「脱毛」「口内炎」などの抗ガン剤による副作用はひとつも出ていない。ただ、先週から、気力が急激に衰えてきた。おのれが「無気力」ということを教えられた。先週の木曜日、朝、起きる。顔を洗って、食事を済ませる。九時出勤と決めているので、時刻までベッドに寝ころんだ。目を覚ました。夕陽が沈みかかっていた。朝の九時から夕方の五時まで熟睡していたということだ。夕食を食べた。部屋に戻るとまたベッドに倒れ込んだ。朝まで目を覚まさなかった。それからである。起きられなくなった。動けなくなった。無気力になった。ずーっとベッドの中で「眠り姫」の状況である。「本を読む」「蕎麦を戴く」「映画を見る」そんな気力も湧いてこなかった。うん「酒を呑む」……みなさんは驚かれるが、そんな気力も湧いてこなかった。木曜日から、水曜日まで、眠り続けだった。眠っていると電話の呼び出し音が聞こえる。「出なければいけない。出れ、出るんだ、出よ」おのれに言い聞かせるのだが、「無気力感」に押し負けてしまう。今朝、出勤しようと決心した。勢いをつけてベッドを抜け出た。ブルブル、寒くはないのに震えが来た。眠たい証拠だ。ベッド横のガラスの机の上に置かれた携帯電話に目が入った。寝ていた、呼び出し音は聞こえていた、出る気力はなかった、話す気力はなかった。ベッドの上に座った。九人の人から電話が入っていた。すまない、電話に向かってただお詫びするだけだ。おっと、伝言メモがふたつ入っている。ふたつとも健太郎さんだ。どんな電話だったのだろう。気にかかる。伝言メモ・その一「健太郎です。別に用事はないけれどね」伝言メモ・その二「健太郎です。三十秒以内にまとめろって言われてもな。もう三十秒たっちゃうよな。今、東京に来ています。木谷さんよ、早う元気になって、東京で蕎麦を喰った一杯呑みましょうぜ」ヨイショ、ベッドからお尻をあげた。後は、前に向かって歩くだけだった。一週間ぶりの研究室出勤が始まった。ゴールには東京のお蕎麦屋が待っているのだ。 ――――――――――――――――――――――――――――――― 木谷 文弘(きたに・ふみひろ)
2023.01.25
「訳注静岡県報徳社事蹟」をカーリルで 静岡県内の公共図書館を横断検索すると7館で10冊見つかりました森町1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 -報徳の師父第2集ー 森町立図書館 新 刊御殿場市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 本館 参考郷土袋井市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 4冊 袋井図書館 一般東壁1 /157/ヤ/2 114257538 帯出可 貸出可 浅羽図書館 南側書架3 /157.2/ホ/2 211216858 帯出可 貸出可 浅羽図書館 郷土資料 K/157.2/ホ/2 211216841 帯出可 貸出可 月見の里 0総記・1哲学浜松市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 報徳の師父 第2集 中央 5110934279 151/4/K2 調査支援室 郷土資掛川市1件 訳注静岡県報徳社事蹟 報徳の師父第二集 大須賀館 郷土 新掛川市沼津市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 報徳の師父第二集 本館 2階郷土 富士宮市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟-報徳の師父第2集- 中央 [R新着]に在庫しています地元の方に手に取って読んでもらいたいものである。
2023.01.25
旧帝大のうち名古屋大学、大阪大学、広島大学はこれまで出版してきた本を何度か寄贈してきたが蔵書としていただけなくて寄贈を中断していた。昨年クラウドファンディングで出版した「技師鳥居信平著述集」を久しぶりに寄贈したところなんと3大学図書館とも蔵書としていただいている。名古屋大学 0001 2022/2/17 農 農書庫図書 大阪大学 理工学図-東館2F図書広島大学 0001 東広島(中央) 中央図書館書庫 大阪大学は書庫ではなく、開架である。学生がふと目にして手にとって読んでもらえたらなお嬉しくもある。今回クラウドで出版した「訳注 静岡県報徳社事蹟」「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」に過去に出版した「八田與一と鳥居信平」「新渡戸稲造の留学談」も一緒に名古屋大学と大阪大学に寄贈してみよう。蔵書としていただけるとうれしいな。
2023.01.25
ウクライナ訪問のデヴィ夫人「戦争もクーデターも革命も暴動も経験したので大丈夫」と無事を報告。支援にかけた思いとは…1/24(火)・「暖房もなく電話も通じにくい厳しい状況です。日本はもっと積極的に支援しなければと思います」・「これでもウクライナのほんの少しの方々のお役にしか立てません。日々、テレビや新聞が報じる ニュースを観て心を痛めております」「安全な日本で暮らせていることを有り難いと感じながら、自分の支援がほんの微力でしか無いことに歯がゆさを感じてもおります」「皆さまもご自身の日々の生活で忙しいかと存じますが、どうか遠い異国や、ウクライナで苦しい状況に置かれている方々に思いを馳せる時間をお作りになってください。余力のある方は、ご自身のできる範囲で、ご支援をなさってください」・「私は戦争もクーデターも革命も暴動も経験しております。大丈夫です」松野博一官房長官「どのような目的であれ渡航はやめていただき、既に滞在している方は安全を確保した上で直ちに退避していただくよう勧告している」
2023.01.25
地球の内核、逆回転し始めた可能性 英科学誌に論文論文の研究チームは、内核の動きを追跡するため、過去60年間に発生した地震波を分析した。 筆者の中国・北京大学(Peking University)の宋暁東(Xiaodong Song)教授らは、内核の回転は「2009年ごろにほぼ停止し、その後、逆回転し始めた」としている。 宋氏はAFPに、「内核は、地表に対してブランコのように前後にスイングしていると考えられる」と話し、「1回の往復運動の周期は約70年」で、約35年ごとに回転方向が変化していると説明。次に変わるのは2040年代半ばとの見方を示した。内核の動きが地上に与える大きな影響は今のところほとんどないが、宋氏らは、内核から地表まで、地球のすべての層の間には物理的な相互作用があると考えられると述べ、「われわれの研究に触発されて、地球全体を一つのダイナミックなシステムと見なすモデルを構築する研究者が出てくるのを期待している」と語った。 専門家からは今回の研究結果に懐疑的な意見も出ている。 南カリフォルニア大学(University of Southern California)の地震学者ジョン・ビデール(John Vidale)氏は、「優秀な科学者が数多くのデータを基に非常に慎重に行った研究」と評価した上で、「どの(数学)モデルも、すべてのデータの説明としては不十分」だと述べた。同氏は昨年、内核の回転方向の変化は約6年ごとに起きているとの研究結果を発表している。さらに、内核は2001~13年に大幅に動き、それ以降は静止しているという説もある。 また、オーストラリア国立大学(Australian National University)の地球物理学者、フルボイエ・トカルチッチ(Hrvoje Tkalcic)氏は、内核の往復運動の周期は今回発表された70年ではなく、20~30年だとする研究結果を発表している。 同氏は「示されている数学モデルが全部間違っている可能性もある」として、「地球物理学の世界では、今回の研究結果は論争を呼ぶだろう」と述べた。
2023.01.25
週に30〜60分で十分。筋トレが心疾患やがんなどのリスクを低減筋肉を鍛えるのは単に見た目が良くなるだけではなく、より長く健康な生活を送るために役立つという研究結果が発表された。ウェイトリフティングから柔軟体操まで、定期的に筋肉を強化する運動は、がん、心臓病、糖尿病などの深刻な慢性疾患による死亡リスクを10%から20%下げることにつながるという研究結果が2022年3月1日、イギリスの医学雑誌「ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・スポーツ・メディシン(British Journal of Sports Medicine)」で発表された。東北大学、九州大学、早稲田大学の研究者グループは、2012年から2020年の間に発表された16件の研究データを調査し、運動習慣と主要疾患による死亡率を比較した。週に30分から60分、ある種の強化運動を行った参加者たちは、試験期間中に何らかの原因で死亡する可能性が有意に低かったことがデータで示された。また、心臓病(リスクは17%減)、がん(同12%減)、糖尿病(同17%減)など特定の病気のリスクも低かった。そして、筋力トレーニングと何らかの有酸素運動を組み合わせて心拍数を上げることは、疾病リスクのさらなる低減につながることが研究者グループによって明らかにされた。
2023.01.25
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