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2024.04.27
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カテゴリ: 報徳
浜松市立図書館で「現代語訳 安居院義道」が新たに南図書館で蔵書となり、12図書館で蔵書となった。
浜松市立南図書館 | 浜松市砂山エリアガイド

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1 中央 5110909909 154/4/K3 閉架郷土 郷土資料 貸出不可 納品確定 ×
2 中央 5110909917 154/4/K3 調査支援室 郷土資料 貸出不可 納品確定 ×
3 南 5410276827 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
4 東 5710358317 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
5 南陽 5910252450 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
6 城北 5310726467 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
7 舞阪 6410711128 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
8 積志 5610372335 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
9 天竜 6311089566 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
10 春野 6910352886 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
11 引佐 6710705465 S157/ワ/ 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
12 三ヶ日 6810913100 S157// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○
13 都田 7610537784 157.2// 郷土資料 郷土資料   在庫 ○

今日、朝早く伊勢原の大山寺に参拝した。

大山寺は明治維新までは、現在の阿夫利神社下社の場所にあったが、明治元年の廃仏棄釈の時に
現在の大山中腹に移転したという。

・明治初年(1868年)、神と仏とを別々に祀れという、所謂 神仏分離の政令が出され開山以来1200年の間、御本尊を祀っていた本殿であったが、寺領を失った大山寺は、明治8年(1875年)に寺号廃絶のうえ、大智明権現社が大神山神社奥宮に定められました。これにより大山寺一山は急激に勢力を失っていきました。


江戸時代中期(宝暦・明和年間、18世紀後半)以降には、大山御師(註1)(明治時代以降は先導師という)の活動による大山講の組織化が進展し、 相模・武蔵国内はもとより、駿遠豆・甲信越・房総方面の庶民は鉄造の不動明王に五穀豊穣・雨乞い・家内安全・商売繁盛などの現世利益を求めて、盛んに「大山参り」(「大山詣で」)を行った。 このため、各所に大山に通じる大山道や大山道標が開かれ、山麓一帯には講中を迎えるために御師が経営する宿坊や土産物店が軒を連ね、門前町(伊勢原市側6町・秦野市側1町)の様相を呈するに至った。

大山寺の開創の由来は、『續群書類從』第27輯下釋家部に収められている『大山寺縁起』(真名本)に次のように記されている。天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当の良弁僧正(相模国出身、一説に近江国出身)が大山寺を開創し、聖武天皇は当寺を国家安穏を祈願する勅願寺とし、相模・安房・上総三国の租税の一部を充てて寺院経営を行わせた。その後、天平宝字5年(762年)には行基の遺命により、弟子光増が不動明王像を彫刻して本堂に安置したと記されている。その後の大山寺は元慶2年(878年)の大地震とそれにともなう大火により倒壊・焼失したが、元慶8年(884年)に安然(最澄の同族で円仁の弟子)によって再興され、天台宗系の僧侶たちの山林修行の場として命脈を保ったようである。

徳川家康が天下を制すると、天正18年(1590年)の小田原征討に際して、大山修験勢力が北条方に与して激しく徳川方に敵対したこともあり、慶長10年(1605年)、家康は大山の大粛清に着手した(註13)。その結果、大山山中からは修験勢力を一掃して山内居住は清僧(学僧)25口に限定するとともに、宗旨を天台宗から古義真言宗へ転宗させ、相模国八幡村(現平塚市)の成事智院住持、法印実雄(小田原中村原出身、二宮等覚院開山)を大山寺初代学頭に任命して八大坊(十二坊の筆頭)に常住させることなどを命じた。さらに幕府は、 慶長13年(1608年) には硯学領として実雄に 小蓑毛郷(現秦野市)57石余 を、翌々年には寺領として坂本畠屋敷72石余と子安村の一部27石余、併せて100石を御朱印地として寄進し、経済的な保護を与えた(註15)。特に「寛永の大修理」の際には、三代将軍徳川家光は造営費1万両を下付するとともに、春日局を大山寺落成祝賀式も含めて代参として二度も参詣させている。一方、 下山を命じられた修験者たちは抵抗の姿勢を示しつつも蓑毛と大山の麓に居を構え、以後御師として、新たに宿坊・土産物屋経営や祈祷・檀家廻りなどの教宣活動を行うことによって、生活の支えを得ることになった。 その結果、大山門前町(秦野市側に蓑毛町、伊勢原市側に坂本・稲荷・開山・福永・別所・新町の6町)の形成と大山講の信仰圏の拡大が達成されることになった。明治初期にまとめられた『開導記』(註17)によると、大山講は相模・武蔵国を中心に房総・甲信越・駿遠豆に同心円的に拡大し、総講数1万5700、総檀家数約70万軒にも達している。

しかし、明治元年(1868年)3月に明治新政府によって神仏分離令が発令され、全国的に廃仏毀釈運動の嵐が吹き荒れる中で、 大山寺はその煽りを受けて取り壊された その旧跡には新たに阿夫利神社下社が建立 されたため、 大山寺は女坂の途中の現在地(旧来迎院地)に、明治18年(1885年)に明王院として再建され、大正4年(1915年)に観音寺と合併してようやく雨降山大山寺の旧称に復した
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註1 江戸後期の御師の数に関しては、秋里籬嶋『東海道名所圖會』(寛政9年〈1797年〉刊)には、「雨降山大山寺・・・・・・当八大院、其外坊舎十八院、御師百五十余宇、又蓑毛村に十五宇、みな修験なり、・・・・・・」と記されている。また、昌平坂学問所地誌調所の間宮士信等編『新編相模國風土記稿』(天保12年〈1841〉完成)巻51村里部大住郡巻10)には、「師職百六十六軒、多く坂本村に住す、蓑毛村にも居住せり、皆山中に住せし、修験なりしが、慶長10年(1605)、命に依て下山し、師職となれり、」とも記されている。これらの記述から、江戸後期には御師は166軒程が存在したと考えられる。

註13 

註17 『相模大山街道』(大山阿夫利神社編、1987年)に全資料が掲載されている。





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最終更新日  2024.04.27 17:11:43


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