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長谷川伸の「紙の記念碑」文藝春秋に「日本の師弟89人」が載っていて、目次を見ていて気になったのが、長谷川伸・平岩弓枝だった。長谷川伸という人は林竹二先生が作家として尊敬された人である。林先生の教え子の一人が作家志望であることを告げた時、長谷川伸の「日本俘虜史」や「相楽総三とその同志」を挙げて、このような作品を生み出すのでなければやめたほうがいいとたしなめたことがあった。長谷川伸はこうした作品を「紙の記念碑」といい、「紙碑(しひ)」と呼んだ。相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑にされた関東勤王浪士と、その同志であり又は同志であったことのある人々の為に、十有三年、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を、「紙の記念碑」といい、「筆の香華」と私(長谷川伸)はいっている。平岩弓枝さんの記憶する長谷川伸の言葉も実に含蓄が深い。平岩弓枝さんは戸川幸夫さんの紹介で長谷川伸主催の「新鷹会」に入った。東京二本榎にあった長谷川伸の自宅で毎月15日に開かれていた文学を志す者が集う勉強会だった。直木賞受賞作家を10人近く輩出している勉強会であり、新人の作品には先輩の完膚ないほど厳しい論評を行うことで知られていた。1年ほどたって、長谷川伸が平岩さんのことを「アンテナのいい子だよ」と戸川幸夫におっしゃったと戸川先生経由で聞いた。おそらくは激励のため戸川さん経由で聞かせたのであろうか。「私(平岩さん)が吾妻鏡を読んでいると長谷川先生が知られて「歴史が好きなのか?」とお聞きになった。で、私の生家が代々木八幡宮の由緒にかかわりがあるのでとお答えすると、「史書を読むのはよいが、必ずその行間にあるものを読み解くようにといわれた。史書を編纂した人が書けなかったもの、書いてはならなかったものが行間に必ず滲み出ている。それを承知したら同時代の別の史書と読み比べなどして書かなかったものを探り出す。その作業の手がかりになるものは、その歴史の事実に登場する人物やの人間性である場合が多い。ちなみに物語を書こうとしたらどう書いても知れている。変化球を投げるにも限界がある。・・・人間を書く時、作家は自分の心の鏡に書くべき対象を映す。鏡の出来の悪いのは論外だが、鏡が曇っていても、傷がついていても、また鏡自体が大きすぎても小さくとも正確に映すことはできない。 視野の広い、奥深くまで見透せる鏡、優しさもきびしさも、温かさも冷たさも、きっちり内臓している鏡が欲しいと思ったら、日々、心がけること。 今の君には酷(こく)かも知れないが、いつの日にか、いい小説が書きたいと思うのなら乗り越えて行き給え」平岩さんはその日以来、長谷川伸の鏡を目標とした。先生ならどう考えられるか、判断も決断もすべて先生ならと、先生の鏡をのぞくようにして生きてきたという。長谷川伸が亡くなる前、平岩さんは病床にかけつけたが、悲しくて悲しくて長谷川伸の見えないように隠れて泣いていた。すると長谷川先生が病床からこう声をかけられた。「君にお守りを渡しておこう。 将来、本当に君が人生に行きづまり書けないとなったら、必ず幽霊になって出て来る。 君が怖がらないよういつもの服を着てステッキをついて。 だから君は僕の幽霊に出会わない限り、行きづまりの壁にぶつかっていないのだ。」 ああ、長谷川伸という人は、かくも弟子や、その人生で出会った人にかくも深い愛をそそいでくださったのである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉・魔法使いのプレゼント」のおばあさんからの手紙の中に次の一節がある。「人間の命は奇跡を何億回も重ねて生まれ、たった1回で終ってしまいます。だから毎日を大切に生きてください。」これって森信三先生の「人生二度なし」の真理にほかならない。「毎日を大切に生きる」とはどういうことか?森信三先生はこう言われた。われわれ人間は1 自分が天より享けて生れた天分をできるだけ発揮する とともに2 さらに多少でもよいから人のため世のため尽せたら 人としてこの世に生れた甲斐はあるといえよう。
2024.03.01
尊徳の裾野(佐々井典比古著)205~207頁「空風軒赤白子常行」抜粋「豊田正作の『報徳教林』に『日本ノ西方に当タリ、海陸千里ヲ隔テ、琉球国 中山王ノ使、尊来ニツキ、アア有難キ御代ナルカナ、御代ナルカナ、ワガ国人、ワガ国ヲ尊敬スベシ。 忘るなよ唐土(から)天竺の人々も わが身を恵むこのひの本を 天保三辰年十二月 不二山旭流郷産 空風軒赤白子常行謹述』とある。 これに添え書きがあって、「正作、辰ノ口お屋敷(大手前の老中屋敷)にまかり在り候みぎり、二宮先生おいでこれあり、右様の御名は初めて認(したた)め候なり。」としてある。 天保三年、閏十一月二十一日の尊徳自筆日記に、「空風軒赤白子勤食常行一尊」と書いてある(「全集」35巻448頁)。 琉球国の中山王第18代の尚育王使節200人の行列は11月13日に箱根関所を通り、16日に雪の江戸へ着いた。たまたま江戸にいた尊徳は、この珍客に接して「アア日本ノ徳、有難シ日本ノ徳」と感激した。 次の「忘るなよ」の歌は、なぜ外国からこのように来てくれるかを考えると、それは日本が「日の本」だからである。日の恵みを受けて農耕をして、はじめて人類の文化生活が開闢する。中国でもインドでもそれは同じだ。その根本を忘れてはならない、というのである。それは草稿で「◎農本」と書き、「唐土天竺農人々」と書いていることでも知る事ができる。 江戸で打合せをすませた尊徳は、11月27日に桜町に帰着すると、素晴らしいことをやった。この年の大豊作に乗じて、租税を全免し、各戸に積立をさせたのだ。それは稗の作付奨励とともに、第一期の「復興」仕法に次ぐ「永安」仕法の着手だったが、この用意は翌天保4年の飢饉に役立った。 この年の豊作は田畑ばかりでなかった。尊徳の思想も、仕法成功の自信に支えられて、素晴らしい実りを見せた。それも閏11月7日から22日まで、わずか半月ほどの間に『爆発的』に起こった。右行(ゆうぎょう)・斗行(とぎょう)といった不二孝の高弟を相手に、論じては考え、考えては日記に書き付けていくうちに、彼の思想の骨組みが、ほとんど出来上がってしまった。だから、21日の草稿、なかんずくあの長々しい名前には、この間の思想展開が集約されているのだ。 まず肩書きの「不二山旭流郷産」というのは、「おてらしに不二の白ゆき和らぎて ふもとの流れ幾代経るとも」の歌で一応説明がつく。不二は、不二孝連中の尊崇する霊山であると同時に、「不二・一元」の哲理を示す。天地も陰陽も、有無も善悪も、二つでなく一つであり、青黄赤白黒の五色も、空風火水地の五大も、ことごとく悟ればもとは一つである。「空風赤白子」はそれを示す。そして「一尊」は「始りも終りも一つ、己が身も 一つのうちに一つ尊し」の歌からくる。 しかし「ふじの山のぼりつめたる夕べには 心の宿に有明の月」と。悟りに達しただけではだめで、勤めて食い、天地の間に人道を行う庶民の日常生活が「空」の実践として道徳になるよう、指導しなければならない。それが12日の日記にある「三才道・五常行」だ。これで山頂から山麓まで、思想体系が一貫する。右行・斗行が感心したのも無理はない。 暮も迫った12月28日、尊徳は再び江戸に出た。桜町の余力により、磯崎・矢野・豊田などを世話人にして、小田原藩士に「報徳元恕金」の貸付を始めるためであった。この時尊徳は、草稿を書き換え、その名も「空風軒赤白子常行」と整理して、彼らに示した。仕法成功の自信と、思想醸成の喜悦がみなぎる、46歳の尊徳の試筆であった。」万物発言集草稿(二宮尊徳著) 【4】夫何の国何の郷に十家の邑あり、河海不便にして一ツの井を掘り用水と成す、或は東の方に紺屋あり、一ツの井を汲て藍を仕立、青き物一切を染出す事を司とるなり、又或は西の方に欝金屋あり、一ツの井の水を汲て欝金を仕立黄色なるもの一切を染出す事を司とるなり、又或は南の方に紅屋あり、一ツの井の水を汲て紅仕立赤き物一切を染出す事を司とるなり、又或は中程に筆道の師範あり、一ツの井の水を汲て墨を仕立、大字細字に限らず、其外黒き物一切を書出すなり、又或は北の方に晒屋あり、一ツの井の水を汲て諸色汚れたるを洗い落し一切のものを白く成すことを司さどるなり、又其東西南北の傍に五味の造家あり、一軒は酒屋にて一ツの井の水を汲て酒を造りだすなり、一軒は酢屋にて一ツの井の水を汲で酢を造りだすなり、一軒は味噌屋にて一ツの井の水を汲で味噌を造り出し、一切の食物に味う事を司どるなり、一軒は醤油屋にて一ツの井の水を汲で醤油を作り出し、一切の食物に味う事を司どるなり、一軒は砂糖屋にて、一ツの井の水を汲で砂糖を仕立、一切の食物に甘き味付けることを司どるなり、右十家の前後左右を取巻、一ツの悪水路あり、或は洗い流し、食残し、又は両便とも流れ落、外に行べき流もなし、残らず悪水落しの内にて消、大地にしみ畢ぬ、翌朝は一つの井に帰り清水と成りて十家を養うなり、これ辺鄙、片田舎、不便の十家のみならず、右十家の理を以て案る時は、天朝は言うに及ばずあらゆる国々もまたまた是の如きなりと知るべし。
2024.02.18
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り16日報徳記巻之八【5】先生衆民を教諭し新溝洫を開き開墾撫恤の實業を行ふ高慶曰く、先生夙に不世出之才を懐きて而して堅忍不抜の行を躬(みずから)す。然れども小田原候の明之をケン(田に犬:みぞ)畝の中に擢きんで委するに衰を振ひ頽を擧ぐるの擧を以てするに非れば則ち眇然たる一農夫にして止んのみ。蓋し候の先生を擧ぐる其の初め命ずるに野州三邑の事を以てし、且つ將に之を小田原封内に移し偉功已顯るを待て更に幕府に禀し天下萬姓をして皆洪澤を被らしむ。其の心を設くる遠且つ大と謂ふ可し。惜いかな事業未だ央ならず奄然として館舎を棄つ。後の人能く候の志を繼ぎ先生をして其の業を壙張するを得せしむ者有る無し。先生の至誠之を以てすと雖も亦之を如何ともするなきのみ。既にして幕府先生を登庸す。亦一縣令に從ひ之が屬爲るに過ぎず。毎事掣肘先生終に其の志を展るを得ず。復十有餘年を經始め命以て日光神田の衰を擧げ且つ遍く諸州に推行するを得。是の時や先生齢將に古稀ならんとす。加ふるに疾病を以てす。復た安んぞ大業を海内に施すを得んや。嚮に此の命をして十年の前に在らしむ。先生已に神田の衰を振ひ其の民をして業を安するを得せしめ而して諸侯の先生に倚て政を封内に爲す者亦皆功を就す。是に於て更に之を擴めば則天下の蒼生皆其の澤を被り菽粟水火の如く富強の術備はりし。以て萬世に傳へて弊無かる可はりし。嗚呼先生の雄才卓行を以て終身轗軻遂に其の業を擧る能はず人をして慨歎已む無からしむ。豈命に非ずや。報徳記 畢補注報徳記(佐々井典比古)より著者(富田高慶)が思うに、先生はつとに不世出の才を抱いて、堅忍不抜の行いを躬行しておられた。けれども賢明なる小田原候がこれを農民の中から抜擢し、衰退を振興する事業を委任しなかったならば、取るに足らぬ一農夫にとどまったであろう。思うに、候が先生を挙用した意図は、初めまず野州三箇村の仕法を命じ、その上でこれを小田原領内に移し、その偉功があらわれるのを待って更に幕府に上申し、天下万民ことごとくに、その洪大の徳沢を被らせようとしたのであって、その心組みは遠かつ大と言うべきである。惜しいかな候は、事業が半ばに達しないうちに奄然(えんぜん)として長逝された。後に残った人物中には、よく候の志を継いで、先生が事業を拡張することのできるように努める者がなかった。先生の至誠をもってしても、どうすることもできなかったのである。やがて幕府が先生を登庸したが、これまた一代官の配下で属領たるに過ぎなかったから、事ごとに束縛を受けて、先生はついにその志を展べることができなかった。それからまた十余年を経て、始めて日光神領の衰廃を起すことを命ぜられ、かつ、あまねく諸国に推し広めることができるようになった。この時には先生はまさに古希の年齢になろうとし、その上病気にかかられた。それでどうして大業を海内に施すことができようか。仮にもし、この命令が十年前にあったならば、先生はつとに神領の衰廃を振興し、その民を生業に安んじさせることができ、そして諸侯中先生の指導によって領内に仕法を行っていたものも、みな功を成就することができたであろう。ここにおいて、さらにこれを四方に拡充したならば、天下の人民は皆その恵沢を被り、米麦は水や火のように得やすく、富強の方策は完備し、万世に伝えて弊害のない理想郷となっていたはずである。実に、先生ほどの雄大な才能、卓抜な行為がありながら、終身不遇で、ついにその偉業を十分に振るうことができずに過ごされ、人を慨嘆させてやまないのである。まことに天命と言うよりいたし方がない。
2023.12.30
<a href="https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show">鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング</a><font color="#FF8B00">終了まで <font size="6">残り17日</font></font>報徳記 巻之八【5】先生衆民を教諭し新溝洫を開き開墾撫恤の實業を行ふ日光山神領往古(わうこ)より水田を開かず。獨(ひと)り圃(はたけ)を耕(たがや)して以て活計を爲(な)す。漸く三十年以來(いらい)邑々(むらむら)些少(させう)の水田を開くと云ふ。是の故に邑民(いふみん)雜穀を以て常食と爲(な)す。稲梁(たうりやう)の如きは疾病(しつぺい)の者あるに至りて僅(わず)かに之を購(あがな)ひ得て、以て之を與(あた)へ醫藥(いやく)に換(か)ふと。其の衣食に窮乏なること推(お)して知る可(べ)し。先生民の艱難を愍(あはれ)み、地の理を察して曰く、此(こ)の地西北に高山あるが故に、平地と雖も自然に西方高くして東方低し。而して大谷(おおや)川郡邑(ぐんいふ)の中央を東流す。此の川の左右に溝渠(こうきよ)を鑿(うが)ち之を諸村に漑(そゝ)がば、順流至らざる所なく村落の潤澤(じゆんたく)擧(あ)げて數(かぞ)ふ可(べ)からず と。是に於て野口村より平(ひら)ヶ崎(さき)千本木(ちもとぎ)村に至る迄(まで)、長さ二里餘(よ)の水路を穿(うが)ち、大谷川の水を引き、之を數邑(すういふ)に注ぎ若干の荒蕪を墾(こん)し之を民に與(あた)ふ。民大いに喜ぶ。諸村之を聞見(ぶんけん)し競(きそ)ふて新用水開鑿(かいさく)を請求す。其の需求(じゆきう)の先後に由つて數(すう)箇所の溝洫(こうきょく)落成す。或(あるひ)は三千間(げん)或(あるひ)は二千間難易長短同じからずと雖も、能く地の理を測り其の宜(よろ)しきを得るが爲(ため)に一も成功あらざるはなし。抑々(そもそも)神領の荒蕪地調査反別(たんべつ)千有餘(いうよ)町歩なりと雖も、實地に至りては此の數(すう)に止まらず。然して土地瘠薄(せきはく)隨つて租税はなはだ薄し。故に荒田多しと雖も税額を減ぜず。民も亦(また)敢て減租を請はず。故に數(すう)千町の荒蕪皆邑民(いふみん)の内荒(うちあれ)にして郡村の衰弊極り僅(わず)かに餘業(よげふ)を以て活計を補ふと雖も、衣食足らず民心浮薄にして些少(させう)の得失損益を争ひ、訴訟を以て常(つね)とし其の費用の爲(ため)に自他共に窮(きゅう)し、家財田圃(でんぼ)を失ひ或(あるひ)は賭博の爲(ため)に家産を破るもの尠(すくな)からず。日に月に衰貧艱苦に陥りて、而して艱苦何に由つて來(きた)るを知らず。先生愀然(しうぜん)として大息し邑民(いふみん)に諭(さと)して曰く、汝等の困苦此(こ)の如し。何(いず)れの時か繁榮(はんえい)安心の道を得んや。夫(そ)れ富貴貧賤安危存亡共に他より來(きた)るに非ず。自ら之を招き之を求るもの也(なり)。何を行ふて富裕を得、何を爲(な)して貧困に至るを知らず。日に富裕の道をナゲウちて衰貧亡滅の域に至る。豈(あに)哀しまざる可(べ)けんや。當(たう)神領の如きは土地瘠薄(せきはく)なりと雖も、租税の輕(かろ)きこと他に其の類(るゐ)を見ず。是れ他なし神領の民なるを以て税斂(ぜいれん)を薄くし、永く百姓を安堵(あんど)せしめ、薄地の民をして沃土(よくど)の民に均(ひと)しからしめんが爲(ため)ならずや。其の恩洪大(こうだい)なりと謂(い)ふべし。而(しか)して邑々(むらむら)高恩を忘れず、毎戸(まいこ)力を田圃(でんぼ)に盡(つく)し、節儉(せつけん)以て有餘(いうよ)を生じ、互いに信義を以て相交わり、聊(いさゝ)か無頼(ぶらい)の所行(しよぎやう)に渉(わた)らず子孫の安榮(あんえい)を謀(はか)らば、家家(いへいへ)足り人々給(きふ)するに至らんこと疑ふ可(べ)からず。然るに此の如き高恩を忘れ、本源の業(げふ)を怠り良田を荒蕪(くわうぶ)に歸(き)して顧みず、嚴禁(げんきん)の博奕(ばくえき)を犯し、細事を争ひ怨恨(ゑんこん)を招き、先祖傳來(でんらい)の家産を失ふに至るまで其の非を知らず。官之を憂勞(いふらう)し玉ひ、予に命じて教諭を下し、荒蕪(くわうぶ)を開き許多(きょた)の米粟(べいぞく)を生じ、多年の衰廢(すゐはい)を擧(あ)げ再榮(さいえい)の道を得せしめんとす。汝等(なんぢら)今より宿弊(しゆくへい)を洗ひ、專(もつぱ)ら勤儉きんけん)以て農事を勵精(れいせい)せば、衰村の再興難からず。凡(およ)そ人たるもの衣食住にあらざれば生養(せいやう)を安んずること能(あた)はず。而(しか)して此の三つの者の出(で)る所何ぞや田圃(でんぼ)是也(これなり)。然るに其の根源たる田圃(でんぼ)を荒(あら)し幾百年を經(ふ)ると雖も一粒(りふ)を生ぜず。而して衣食の裕(ゆた)かならんことを欲す。猶(なほ)泉源を閉塞(へいそく)して水の多きを求むるが如し。豈(あに)惑(まど)ひの甚しきに非ずや。今神領の荒蕪(くわうぶ)凡(およ)そ千町、薄地と雖も平均一反四苞(へう)を生産す。反(たん)四苞(へう)を生ずれば一年の産粟(さんぞく)四萬苞(まんへう)、十年間の生穀は四十萬苞(まんへう)、五十年の産する所二百萬苞(まんへう)なり。此の地の荒蕪將(まさ)に七八十年に及ばんとす、今概して五十年と視るも二百萬苞(まんへう)の穀粟(こくぞく)を失へり。邑々(むらむら)の民之を省みずして、他に衣食の道を求むるに汲々(きふきふ)たりと雖(いへど)も何を以て窮せざるを得ん。何を以て衰弱危亡を免るゝを得んや。故に速やかに荒蕪を開き、衆民安息の源を開かざる可(べ)からず。若し汝等此の理を解(かい)し直ちに斯(こゝ)に從事(じゆじ)せんと欲し、自ら開かんとする者には賃銀を與(あた)へん。力足らざる者には此を開きて以て與(あた)ふべし。開墾一年遅滞せば一年の産粟(さんぞく)を失ふ。豈(あに)勉力せざる可(べ)けんやと。 邑々(むらむら)の民大いに感發(かんぱつ)し争ふて開拓に力を竭(つく)し、數年(すうねん)にして五百有餘町(いうよちやう)を開き、年々の産穀(さんこく)内荒(うちあれ)の故を以て悉(ことごと)く民の有(もの)と爲(な)る。加之(しかのみならず)厚く良民を賞し貧民を撫し、或(あるひ)は家作を與(あた)へ或(あるひ)は破屋(はおく)を修葺(しうしふ)し、借債(しやくざい)又は質地を償ひ、農器を與(あた)へ無利息金を貸與(たいよ)し、人民の憂苦を除き之を教へ之を安んず。是に於て累年(るいねん)の汚俗一洗、怠惰變(へん)じて勉勵(べんれい)の民となり、邑々(むらむら)風化(ふうくわ)行はれ興復(こうふく)の時至れりと勸喜(くわんき)せり。
2023.12.29
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り18日報徳記巻之八【4】先生日光祭田の荒蕪を開き百姓安撫の命を受け巡村開業す是より先(さき)此の地の庶民(しょみん)先生命(めい)を受け、廢田(はいでん)を開き邑民(いふみん)安撫(あんぶ)の道を行はんが爲(ため)に此の地に至らんとするを聞き、大いに疑心を發(はつ)す。奸民(かんみん)村民を煽動(せんどう)して曰く、古(いにしへ)より租税定(さだま)りあり。田圃(でんぼ)荒蕪(くわうぶ)に就(つ)くもの甚だ多しと雖も、荒地(くわうち)の爲(ため)に聊(いささ)か貢税を減ぜず。何ぞや日光祭田の故を以て他邦(たほう)に比すれば租税甚だ少(せう)なり。是(これ)を以て定租(ていそ)を納むることを得たり、今に至りて此の荒地(くわうち)を開かんと爲(な)せば、必ず多分の用費なくんばあるべからず、多分の用財を以て廢田(はいでん)を起こす時は、必ず開田より新(あらた)に貢税を出(だ)さしめん。然らざれば用財を補ふ所有らず。此(こ)の如くなる時は開田の爲(ため)に永久の租税を増し、村々の憂ひとならんこと必(ひつ)せり。是(こ)れ何ぞ下民(かみん)の爲(ため)を主とせんや。表に衰邑(すゐいふ)再復百姓撫育(ぶいく)を以て名となし、其の實(じつ)は貢税を増(ま)すにあらん。若し二宮某(ぼう)此の地に來(きた)らば、速かに村々より仕法開業無(なか)らしめ玉ふべしと日光官廨(くわんかい)に訴へ出(い)でん。然らば此の憂ひを免るべしと。衆皆之に同(どう)じ疑念を益々盛んにして仕法を拒(ふせ)ぐの謀(はかりごと)をなせり。然るに數月(すうげつ)を經(ふ)ると雖も先生至らず。傳言(でんげん)す先生長病(ちやうびやう)の故を以て來(きた)ること能はず。又(また)仕法開業の事は止みたりと云ふ者あり。遂(つひ)に奸民(かんみん)の思慮を空しくして、其の術を施す所なく、日を重ね月を經(ふ)るに及びて疑念漸く散じ、之を拒(ふせ)がんとするの念も亦(また)怠りたり。時に六月下旬に至り先生忽然(こつぜん)として登山し、直ちに回村見分して民を惠(めぐ)むこと甚だ厚く、開田の道を諭(さと)すこと誠に仁術にして、下民(かみん)を子の如く惠(めぐ)むことを聞き、或(あるひ)は驚き或(あるひ)は感じ曾(かつ)て疑惑を生ぜし事を顧(かへり)みれば其の懸隔(けんかく)霄壤(せうじやう)の異なるが如し。是(これ)に於て衆疑(しゆうぎ)解散し、互ひに仕法を願ひ求る者擧(あ)げて數(かぞ)ふ可(べか)らず。嗚呼(あゝ)二月命令を受る時に當(あた)り、速かに登山開業に及ばゞ、必ず下民(かみん)疑惑の爲(ため)に一旦は仕法の風化ふうくわ)を妨ぐる事あらんに、先生自若(じじやく)として江都(かうと)にあり。其の發(はつ)するに及びては病苦を忍び炎暑(えんしょ)を冒(おか)し、夜を以て日に繼(つ)ぎ仁澤(じんたく)を施し大いに教誨(けうくわい)を下し、一時に風動せしむることの神速なるは、凡慮の豫(あらかじ)め慮り知るべきにあらず。從者(じゆうしや)皆先生の大知自然の時を慮り、其の機に應(おう)じて其の宜(よろ)しきを行ふことを感歎せり。先生炎熱を冒(おか)し八十九ヶ村周(あまね)く巡回し、盡(ことごと)く土地の肥磽(ひこう)人民の勤惰(きんだ)得失を察し、光山(くわうざん)に歸(かへ)りて之を舊復(きうふく)するの策(さく)數(すう)十ヶ條(でう)を記(しる)して奉行某(それ)に呈(てい)す。甞(かつ)て諸侯の封内(ほうだい)を再復するや數(すう)十年の租税を平均し、其の平均度(ど)を以て分度(ぶんど)と定め、興復(こうふく)安民の仁政(じんせい)施行に由つて餘外(よぐわい)に生ずる所の米財を以て分外と爲(な)し、此(これ)を以て開墾撫術(ぶじゆつ)の用度に充(あ)つ。故に毎歳の用度盡(つく)る事なく、仁澤(じんたく)の及ぶ所窮(きはま)りなし。譬(たとへ)ば川源(かはもと)一たび開(ひら)くる時は、末流(まつりう)の潤澤(じゆんたく)疆(かぎ)り無きが如し。然(しか)るに神領(しんりやう)の租税に於(お)けるや僅々(きんきん)たる薄税(はくぜい)なり。是れ山間幽谷(いうこく)の土地瘠薄(せきはく)にして民(たみ)食(しよく)甚だ乏し。往々(わうわう)餘業(よげふ)を以て生活の一助となす。故に租税を薄くして以て此の民を永續(えいぞく)せしめんとの恩澤(おんたく)なるべし。租税の定額此(こ)の如し。田圃(でんぼ)廢蕪(はいぶ)に歸(き)すると雖も敢(あへ)て税額を減ぜず。是を以て許多(きよた)の開田を成すと雖も些(すこ)しも租税を増す所なく、惟(たゞ)民食(みんしよく)を裕(ゆた)かにし生養(せいやう)を安(やす)んずるの仁術のみ。更に分外(ぶんぐわい)となす可(べ)き仕法用度の由る所なし。故に先生興復の大業を開くに當(あた)り、從前(じゆうぜん)開墾安撫の浄財幾千金を光山(くわうざん)官廨(くわんかい)貸附所に託し、毎歳(まいさい)利子を以て仕法の資本となし、且(かつ)積年諸侯の封内再興の爲(ため)に數(すう)千金をナゲウち其(そ)の領民を安んず。光山(くわうざん)良法開業の際返金あれば之を撫育(ぶいく)の費用に加ふ。奥州(あうしう)中村候報恩の爲(た)め日光開墾撫恤(ぶじゆつ)用度金(ようどきん)として五千五百兩(りやう)を年賦(ねんぷ)に獻(けん)ず。官(くわん)之を先生に附與(ふよ)し、以て撫恤(ぶじゆつ)せしむ。嘉永七寅年二月幕府先生の長男彌太郎(やたらう)に命ずるに父と同じく安民法(あんみんほう)を施行す可(べ)き旨を以てす。是に於て父子同力(どうりょく)黽勉(びんべん)益々(ますます)興國(こうこく)の良法を擴張(かくちやう)せんとす。
2023.12.28
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り19日報徳記巻之八【4】先生日光祭田の荒蕪を開き百姓安撫の命を受け巡村開業す是(これ)に於て前々(ぜんぜん)仕法を下す所の諸侯の大夫(たいふ)に談ずるに、將來(しやうらい)の仕法取捨(しゆしや)如何(いかん)と云(い)ふを以てす。日々に高談(こうだん)辨解(べんかい)して後年良法の永續(えいぞく)する所以(ゆゑん)を盡(つく)し速やかに開業せんとするの意念(いねん)なきに似たり。門人其の深意を知らず大いに苦心(くしん)せり。時に四月に至り先生病に罹(かゝ)れり。隨身のもの大いに驚き曰く、今良法發達(はつたつ)の時に當(あた)り、先生の病若し病ならば、如何(いかん)せん。大道(だいだう)の興廃(こうはい)此の時にありと、良醫(い)を招き之を診察せしむ。衆醫(しゆうい)皆曰く、心力共に勞(らう)すること其の度(ど)に過ぎたり。是を以て其の虚(きょ)に乗じ邪氣(じやき)の爲(ため)に病を發(はつ)せり。遠からずして治(ぢ)すべし。然れども二たび身體(しんたい)を過動(くわどう)して發病(はつびやう)せば、其の憂ひ量るべからざるものあり。快氣(くわいき)せば向後(かうご)を愼み、再發(さいはつ)の端を拒(ふせ)ぐべしと、治療十有餘(いうよ)日にして病(やまひ)間(あん)を得たりと雖も、未だ全癒(ぜんゆ)に至らず。先生起きて諸方に往來(わうらい)し、安民の談論常の如し。然れども疲労(ひらう)して食進まず、歩行自ら力を得ず又以て憂ひとせず。誠に道の爲(ため)に身を忘るゝに似たり。從者(じゆうしや)皆之を憂ひ屡々(しばしば)保養の道を述ると雖も、更に意に介せず。五月に至り諸事悉く辨(べん)ぜることを得て江都(かうと)を發(はつ)し、野州東郷の官廨(くわんかい)に至り、開業の順序を計り、六月下旬將(まさ)に登山せんとす。親族從者(じゆうしや)諌(いさ)めて曰く、疲勞(ひらう)未だ除かず。病根(びやうこん)全く去るに非ず。此の炎暑(えんしょ)を冒(おか)し光山(くわうざん)に登らば、豈(あに)再發(さいはつ)の憂ひなしとせんや。冷氣(でいき)を待ちて至るに如(し)かずと。先生肯(がへん)せず、遂(つひ)に登山し、奉行某(ぼう)に謂(い)ひて曰く、廢田(はいでん)を開き此の民を安撫(あんぶ)するの命を受くるより以來(いらい)、速やかに開業せんことを欲すと雖も其の順序を考ふるが故に遅々(ちゝ)に及べり、先づ村々を巡回し、土地の肥瘠(ひせき)諸民の貧富(ひんぷ)人情の向背(かうはい)を察し、然る後に愚意(ぐい)を言上せんと將(まさ)に發(はつ)せんとす。奉行先生の病後未だ本快ならざる事を察し、駕(が)を命じて之に乗じ回村すべしと云、先生肯(がへん)ぜずして曰く、某(それがし)民の窮苦を憂ふること急にして自ら病を省るに暇(いとま)あらず、且(かつ)邑中(いふちゆう)の微細を洞察するにあらざれば、救助の道其の宜(よろ)しきを得べからず。駕(が)して以て回村せば、艱苦の實情(じつじやう)廢衰(すいはい)の根元を了知する事能はずと固辭(こじ)して徒歩し、大暑(たいしょ)を冒(おか)し一邑(いふ)を見分するに、必ず既往(きわう)を考へ將來(しやうらい)を察し、邑中(いふちゆう)の大小事(だいせうじ)悉く胸中に了然(れうぜん)たらざれば他の邑(むら)に至らず。夫(そ)れ光山(くわうざん)の村々(むらむら)山岳丘陵(きうりよう)多くして平地甚だ稀(まれ)なり。此の邑(むら)より彼の村に至るに、或(あるひ)は高山を超え數里(すうり)を隔つるもの多し。栗山郷(くりやまがう)十邑(いふ)の如きに至りては、最も深山の邑(むら)にして道路甚だ嶮(けん)なり。或(あるひ)は高山の頂(いたゞき)に村あり或(あるひ)は深谷(しんこく)の邑(むら)あり。壯強(さいきやう)のものと雖も頗(すこぶ)る嶮路(けんろ)になやめり。然るに先生年既に六十七歳、病後(びやうご)未だ快然(かいぜん)たらず。食も亦(また)平生(へいぜい)に復せず。炎暑(えんしょ)燃ゆるが如くなるに、此の嶮路(けんろ)を推歩(すゐほ)し、村々の盛衰を鑑(かんが)み厚く善人を賞美(しやうび)し、鰥寡(くわんか)孤獨(こどく)身に便りなきもの又困窮のものを惠(めぐ)みたり。各々(おのおの)其の次第に由(よ)つて或(あるひ)は金(きん)壹兩(いちりやう)より五兩(りやう)に至る。又は農業を勤(つと)め、衰貧に陥ざるの村に至りては、或(あるひ)は十金十五金を以て邑中(いふちゆう)の民を賞(しやう)す。且(かつ)教ふるに孝悌(かうてい)を以てし、導くに田圃(でんぼ)の尊き所以(ゆゑん)、勤業(きんげふ)の徳甚(はなは)だ大(だい)なることを以てし、或(あるひ)は堤(つゝみ)を築き水田渇水の憂ひを除き、荒地(くわうち)を開き之を與(あた)へ、民の生養(せいやう)を安んず。諸民大いに感動し悦服(えつぷく)せざるものなし。先生高山を越え深谷(しんこく)を渉(わた)り、疲勞(ひらう)極(きはま)るに至つては路傍(ろばう)の石上(せきじやう)に休し、又は草原に息(そく)して推歩(すゐほ)せり。從者(じゆうしや)手に汗を握り病(やまひ)の發(はつ)せんことを恐るゝと雖も、先生自若(じじやく)として困苦を厭はず。惟(たゞ)下民(かみん)を安んずる事(こと)而已(のみ)に勞(らう)せり。人々其の誠心慈仁(じじん)の至れることを感歎す。
2023.12.27
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り20日報徳記 巻之八【4】先生日光祭田の荒蕪を開き百姓安撫の命を受け巡村開業す先生幼(えう)より老(らう)に至るまで己を棄(すて)て、萬民(ばんみん)の困苦(こんく)を除き之を安んじ、貧邑(ひんいふ)衰國(すゐこく)を再興する所の良法實業(じつげふ)、一世の間(あひだ)諸州(しょしう)大徳(たいとく)を慕ひ教へを受け、其の良法を行ふもの枚擧(まいきよ)すべからず。徳化(とくくわ)の及ぶ所大略左(さ)の如し。伊豆(いづ)駿河(するが)相模(さがみ)甲斐(かひ)遠江(とほとうみ)武蔵(むさし)下總(しもふさ)上野(かうづけ)下野(しもづけ)常陸(ひたち)陸奥(むつ)惣(そう)じて十一ヶ國(こく)に及べり。尤(もつと)も國々(くにぐに)により仕法の大小は異なり、或(あるひ)は一國(こく)中に數郡(すうぐん)數邑(すういふ)の仕法あり。一邑(いふ)の仕法あり。一家の仕法あり。手を下す所限りありと雖も、人民(じんみん)の其(そ)の徳を慕ひ私(ひそ)かに法(のつと)り、其の道を行ふものに至りては、豫(あらかじ)め其の數(すう)を擧(あ)ぐること能はず。初め小田原候の命に由(よ)り、野州に至る時に、一家を廢(はい)し萬家(まんか)を安(やす)んぜんと心を定めたりし誠心(せいしん)空しからず、仕法の徳澤(とくたく)に依(よ)つて、艱苦を免れ、永安の道を得たるもの幾萬家(いくまんか)なることを知らず。弘化(こうくわ)元辰年(ぐわんたつとし)幕府日光祭田(さいでん)の廢蕪(はいぶ)を起し、窮民を安んずるの策を命じ玉ふに由り、良法の條々(でいでう)微細に書記(しょき)して之を奏(そう)す。後(のち)眞岡縣令(まおかけんれい)の屬吏(ぞくり)となり實業(じつげふ)を以て數(すう)ヶ村の衰廢(すいはい)を擧(あ)ぐ。言行(げんかう)共に合(がつ)し、彌々(いよいよ)良法なることを試み、嘉永(かえい)六丑年(うしとし)先生(せんせい)を江都(かうと)に召して命じ玉ふ。其(そ)の文(ぶん)に曰く、日光御神領(ごしんりやう)村村(むらむら)荒地(かうち)起返(おこしかへし)難村舊復(きうふく)の仕法取扱(とりあつかひ)仰付(おおせつけらる)間(あひだ)見込通(みこみとほり)御料(ごれう)私領(しりやう)手廣(てびろ)に取行(とりおこなひ)申可(まうすべく)候(さふらふ) との命也(なり)。先生謹(つつし)みて命を拝し、退きて此の大業(たいげふ)を成就し、上下(じやうげ)の大幸(たいかう)を開き、萬代不朽(ばんだいふきう)の規則を立て、大いに富國(ふこく)安民(あんみん)の大道を行ひ、上(かみ)國恩(こくおん)を報じ下(しも)萬民(ばんみん)を安(やす)んぜんとし、沈黙數日(すうじつ)彌々(いよいよ)開業の順序を慮(おもんぱか)り、門下を招き教誨(けうくわい)して曰く、今是(こ)の如く命令を受くると雖も、我(われ)老體(らうたい)にして大業(たいげふ)の成功甚だ難(かた)し。二三子(し)志(し)を勵(はげ)まし此の方法の基本を確立し、永行(えいかう)の道を盡(つく)すべし と教示(けうし)す。門下皆曰く、謹(つつしみ)て命を聞けり且(かつ)曰く先生先年六十巻の書を献ずるより斯(こゝ)に年あり、今開業の命を受け玉ふ事、他(た)なし。至誠の貫通する所なり。速かに彼(か)の地に至り仁術を布(し)き、萬民(ばんみん)永安の道を行ひ衆心(しゆうしん)を安んじ玉へ。某等(それがしら)惟(たゞ)開業の後(おく)れんことを恐(おそ)るゝなり。先生曰く、天地間(かん)萬物(ばんぶつ)共に其(そ)の時あり。其の時を得ずんば一物(もつ)をもなすべからず。況(いはん)や大業をや。我が進退其の時を以てす。何ぞ其(そ)の時を誤ることを爲(な)んや と云(い)ふて自若(じじやく)たり。
2023.12.26
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り21日報徳記 巻之八 【3】先生野州石那田村の堰を堅築す野州河内郡(かはちごほり)石那田(いしなだ)村は公料(こうれう)にして、隣村徳次郎村は宇都宮領なり。某年(それとし)に至つて徳次郎村も公料(こうれう)となる。同村の用水は石那田(いしなだ)村の地に於(おい)て川を堰(せ)き水を引き以(もつ)て田に灌(そゝ)げり。石那田(いしなだ)村用水も亦(また)此の堰(せき)より分水す。年々用水足らずして互いに争ひ、徳次郎村へ順水せしむる時は石那田(いしなだ)より之を破り水を引き、徳次郎より又石那田(いしなだ)の用水を塞(ふさ)ぎ、四五月の節(せつ)に至つては、毎夜(まいよ)之が爲(ため)に家々安眠することを得ず。兩村(りやうそん)仇讐(きうしう)の思ひをなし争論止まず。加之(しかのみならず)一邑(いふ)中に於(おい)て互(たがひ)に水を争ひ、或(あるひ)は他の用水を塞(ふさ)ぎ己(おのれ)の田に注ぎ、彼又來(き)て之を破り、近隣怨恨(ゑんこん)忿怒(ふんど)を懷き、家業(かげふ)を怠り衰弱困苦に陥り、平年飢渇を免れず、而(しか)して訴訟争論甚し。縣令(けんれい)之を憂ひ屡々(しばしば)此の堰を見分すといへども、一邑(いふ)をして便ならしむる時は、一村稼穡(かしょく)の道を失ふ。是を以て至當(したう)の處置(しょち)を下すこと能はず。縣令(けんれい)先生に問ふて曰く、兩村(りやうそん)をして争論を止め、平穏に歸(き)せしむるの道あらんか。先生曰く、兩村(りやうそん)の患ひ其の本(もと)田水(でんすゐ)の不足に在り。苟(いやし)くも田水(でんすゐ)餘(あま)りあるときは制せずと雖も必ず平穏に歸(き)せん。豈(あに)惟(たゞ)平穏のみならん。兩邑(りやういふ)の廢衰(すゐはい)も亦(また)是(これ)に由つて再興す可(べ)し と。令大いに悦びて此の事を先生に委(まか)す。是(これ)に於て先生徳次郎石那田(いしなだ)に至りて水理(すゐり)を熟見し、堰の高低を量(はか)り、邑(むら)の父老(ふらう)を招き古來(こらい)の事を尋問し、深く思慮を廻(めぐ)らし兩全(りやうぜん)の道を施さんとし、兩村(りやうそん)の民を諭(さと)して曰く、數年(すうねん)水を争ひ隣村と敵讐(てきしう)の如くなるは、汝等の心に於て豈(あに)快しとせんや。我(われ)今此(こ)の用水をして十分ならしむるの道あり。然れども我が處置(しょち)に任ぜずんば成す事あたはず。汝等之を欲するか、又從來(じゅうらい)の如く互(たがひ)に相争ふを欲するか。若し汝等永安の道を求め、互(たがひ)に十分の水を得て兄弟の如く交わらんことを欲せば大幸(たいかう)なるべし。若し我が處置(しょち)に從(したが)はず、是の如くにして年を經(へ)ば、連年衰廢(すゐはい)に歸(き)し終(つひ)に兩村(りやうそん)の亡滅に至らんこと疑ひなし。故に官(くわん)我(われ)をして此の憂ひを除かしめんとす。汝等の心に於て如何(いかん)。兩村(りやうそん)の民答へて曰く、積年用水足らずして耕耘(かううん)の力を盡(つく)すことを得ず。是を以て是(こ)の如く困窮に陥りたり。水を争ひ忿恨(ふんこん)を懷く者何ぞ某等(それがしら)の欲する所ならんや。然りと雖も争はざれば忽(たちま)ち一滴の水をも得ず。直ちに飢亡に及ばんことを歎き、已むことを得ずして多年の争論に及べり。今兩村(りやうそん)をして用水十分ならしむるの道を成し玉はゞ、何の幸(さいはぎ)か之に如(し)かんや。然れども舊來(きうらい)此の如きの堰(せき)にして一方の田地(でんち)を利せんとすれば忽(たちま)ち一方の田地(でんち)水を得る所なく、積年兩全(りやうぜん)の道を得ること能(あた)はず。若し術(じゅつ)あらば願(ねがは)くは之を施し玉ふべし。素(もと)より願ふ所なりと云ふ。退いて互(たがひ)に其の成すべからざるを嘲(あざけ)りたり。元來(ぐわんらい)石那田(いしなだ)の田面(でんめん)は土地至つて卑下(ひか)なり。唯(たゞ)分水口(ぶんすゐぐち)の傍(かたはら)の田地(でんぢ)三反歩(たんぶ)、高地(かうち)にして水利に便ならず。故に堰高からざれば此の田に灌(そゝ)ぐことあたはず。堰の高きが爲(ため)に屡々(しなしば)破れて保たず。是(これ)を以て徳次郎村年々渇水に及べり。且(かつ)石那田の地に水を引く時は、土地卑下(ひか)なるが故に忽(たちま)ち水落て、徳次郎村に至らず。其の難場(なんば)なること斯(かく)の如し。先生此の事實(じじつ)を以て縣令(けんれい)に達し、然る後土功(どこう)を起こし自ら指揮して力を盡(つく)せり。先づ堰を立(た)つるに石枠を三段に据(す)ゑ、如何(いか)なる洪水といへども破損(はそん)の憂ひなからしめ、次に徳次郎用水口に石の水門を据(す)ゑ、出水の節(せつ)といへども流水限りありて用水路破壊の害なからしめ、次に石那田(いしなだ)の分水口をも石垣を以てし、分水限りあらしめ、高地の田地(でんち)三反歩(さんたんぶ)の土を他に運搬(うんぱん)して之を卑下(ひか)ならしむること或(あるひ)は三尺(じやく)より二尺一尺に及べり。故に舊來(きうらい)の堰の高さを減ずること三尺にして、順水せしむ。數日(すうじつ)にして全く功を成す。是に於(おい)て用水兩邑(りやういふ)に餘(あま)りあり。下流(かりう)他村に潤澤(じゆんたく)す。兩村(りやうそん)男女共に先生の深智(しんち)を感じ、永世不朽の寳(たから)を得たりと大いに悦び、年來(ねんらい)の争論忿心(ふんしん)一時に解散せり。是より後(のち)水餘(あま)り有りて稼穡(かしょく)の道に力を盡(つく)すことを得(う)。人心(じんしん)平和にして貧困の憂ひを免る。又徳次郎村古來(こらい)の用水路廢棄(はいき)するあり。是をも再興す。長(ながさ)千有餘間(いうよけん)渇水の邑(むら)十分の田水(でんすゐ)を得、積年の憂患(いうくわん)を去り永安の道を得せしむ。人皆感歎止まず。或(あるひと)問て曰く、兩村(りやうそん)用水足らずして、貧苦のみならず争奪の心盛んにして、更に推讓(すゐじやう)の道を知らず。鶏犬(けいけん)相闘(あひたゝか)ふが如し。先生一度(たび)手を下すに及びて積恨(せきこん)頓(とみ)に消(せう)し、互(たがひ)に分水口(ぶんすゐぐち)に板を施し、水をして己(おのれ)が邑(むら)に多く至らざらしめんとす。何ぞ人情の向背(かうはい)是(こ)の如く速かなるや。先生曰く、凡そ人心の道(みち)心を害する者困窮より甚しきはなし。飢渇の憂ひ旦夕(たんせき)にあり。何を以て良心を存(そん)することを得ん。兩村(りやうそん)の民素(もと)より暴(ぼう)なるに非ず困苦の爲(ため)に相争ふに至れり。困苦の本(もと)水の足らざるにあり、今其の本を優(ゆた)かにす。是れ教へを待たずして相和(あひわ)する所以(ゆゑん)なり。然して多年水の足らざるを憂ふるもの誠に川流(せんりう)の不足なるにはあらず。水の大いに費(つい)ゆるが故なり。其の費(つい)ゆるところを塞(ふさ)ぎ、之を田地に注ぐのみ。源水(げんすゐ)の増加するにあらずして兩村(りやうそん)水に飽くものは、只(たゞ)費水(ひすゐ)を止むるが故なり。何ぞ水而已(みづのみ)ならんや。百姓貧窮に苦しむ者も又猶(なほ)是の如し。天下の米財空乏(くうばふ)なるには非ず。米財あまりありといへども、大小各其の分を忘れ財を費やすが故に、常に貧困を免れず。一旦(たん)其の分度を明らかにして其の無用の散財を止むる時は、米財餘(あま)りありて富優(ふいふ)に至ること、一度(たび)此の堰を堅築して用水十分なるが如し。萬物(ばんぶつ)の理一にして別なるにあらず。只(たゞ)其の處置(しょち)に依(よつ)て或(あるひ)は富盛となり或は衰貧となること、推して知るべし と諭(さと)せり。或人(あるひと)先生の深智を感ず。
2023.12.25
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り22日報徳記 巻之八 【2】常州眞壁郡棹ヶ島村外五邑に良法を發業す野州眞岡(まをか)の支配所(しはいしょ)常州眞壁郡(まかべごほり)棹ヶ島(さをがしま)村極貧にして、民(たみ)飢渇(きかつ)を憂ふ。民戸(みんこ)減少土地荒蕪(くわうぶ)し殆(ほとん)ど亡村に至らんとす。往昔(わうせき)某年(それとし)前縣令(ぜんけんれい)の時に當(あた)りて官府(くわんふ)に達し、八丈島の民を移して此(こ)の邑(むら)の民となし、荒蕪(くわうぶ)を開かしむといふ。此の邑(むら)再復の方法を先生に命ぜり。時に某(それ)年某(それ)月なり。先生自ら此の邑(むら)に至り見分(けんぶん)するに、毎戸(まいこ)貧困にして家屋破壊衣食乏しくして業(げふ)を怠り、人情浮薄博奕(ばくえき)無頼(ぶらい)を以て常とす。是(こゝ)に於て一村再興永安の道を諭(さと)し、家なき者に新家(しんや)を與(あた)へ、馬屋(まや)灰屋(はいや)を與(あた)へて其の居(きよ)を安んじ、米穀を與(あた)へて其の飢渇を救ひ、農具を與(あた)へて其の耕作を助け、荒地を拓(ひら)きて田圃(でんぼ)の不足を給(きふ)し、道を作り橋を掛け其の往返(わうへん)を安からしめ、善を賞し不能を教へ、勸農(くわんのう)の尊き所以(ゆゑん)を示し、力を盡(つく)して下民(かみん)の憂苦(いうく)を除き之を安撫(あんぶ)す。邑民(いふみん)蘇生(そせい)の思ひをなし大いに悦服(えつぷく)し汚俗一洗して淳厚(じゆんこう)勤業(きんげふ)に歸(き)せり。縣令(けんれい)至つて之を見分し、感歎止まず。民家の整齊(せいせい)開田の方正(はうせい)道路溝洫(こうきよく)の美なること郡中に比類なく、良法の徳粲然(さんぜん)として遠近之を稱(しょう)す。続いて同郡(どうぐん)花田村興復の仕法を歎願す。縣令(けんれい)之を許容し先生に委任す。先生又花田に至り心力を盡(つく)して此の邑(むら)を舊復(きうふく)す。恩澤(おんたく)を布(し)き下民(かみん)を撫育(ぶいく)すること棹(さを)ヶ島村の如し。花田村の貧困衰廢(すいはい)棹ヶ島村よりも甚(はなはだ)し。仕法の仁澤(じんたく)に依り年來(ねんらい)の窮困(きゆうこん)を免(まぬが)れ專(もつぱ)ら業を勵(はげ)み老若(らうじやく)感泣して其の恩を謝す。縣令(けんれい)棹ヶ島先生の仕法に由つて舊來(きうらい)の衰貧を除き、邑民(いふみん)欣躍(きんやく)互(たがひ)に其の業を樂(たのし)むに至れりと江都(かうと)官府(くわんぷ)に言上す。官(くわん)評議ありて先生の丹誠を賞し用度金(ようどきん)四百兩(りやう)を下し、且(かつ)拾ヶ年の間其の邑(むら)の貢税十分の二を減じ、此の二分を以て再復の用度に充(あ)つ可きの命あり。先生四百兩(りやう)を元資(ぐわんし)となし自金を加へ、野州山本村本村大島村山口村徳次郎村歎願に依(よつ)て仕法を下す。其の實業(じつげふ)棹ヶ島花田兩邑(りやういふ)に異ならず。是(これ)に於て郡邑(ぐんいふ)先生の徳行(とくこう)良法を欣慕(きんぼ)せり。
2023.12.23
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り23日現在目標金額の50%報徳記巻之八【1】先生眞岡縣令某の屬吏となる令(れい)色(いろ)を變(へん)じて曰く、我が言上(ごんじやう)せんとするは二宮の道を廢(はい)せんとするにはあらず、公料(こうれう)に行はれずして日を送らば、從來(じゆうらい)丹誠施行(しかう)の私領までも共に廢(はい)せんことを憂ひ、小田原に歸(かへ)りて十分行ふことを得ば、二宮心中安くして有益(いうえき)少なからず。是(これ)を以て此の事を建言(けんげん)せんとする而已(のみ)。然るに子(し)仕法の道我が一言(げん)に依(よつ)て廢(はい)せんと云ふは何ぞや。曰く、君一度(たび)言上せば直ちに道の廢(はい)せんこと疑ひなし。如何(なん)となれば二宮幼年より萬苦(ばんく)を盡(つく)し行ふ所の仕法良法なるが故に、幕府之を召して臣下となし玉ふにあらずや。生來(せいらい)萬民(ばんみん)撫育(ぶいく)の道に力を盡(つく)すのみ。他の才藝(さいげい)あるにあらず。仕法を外(そと)にして召し玉ふとならば何を以て召し玉ひしや。果たして仕法の道良善(りやうぜん)なるが爲(ため)なり。私領遠近皆以て登用し玉ふを悦び、公料(こうれう)に廣行(くわうぎやう)有らんを望むこと久し。是(こ)れ公料(こうれう)に行はるゝの餘光(よくわう)を仰ぎ、再復の宿志を達せんが爲(ため)なり。然るに今公料(こうれう)に行ふ可らざるの道也(なり)として舊主(きうしゆ)小田原へ戻し玉はゞ、天下の諸侯誰(たれ)か公料(こうれう)に行はれ難き仕法を行はんや。假令(たとひ)禁止し玉ふにあらずといへども、公(こう)に倣(なら)ふものは私領の常なり。必ず忌憚(きたん)する所ありて行ひ得ざるも亦(また)人情の常にあらずや。加之(しかのみならず)小田原に於ては既に仕法を廢(はい)し、二宮の往返(おうへん)をも絶(ぜつ)せり。是(こ)の如き小田原に歸(かへ)り、何(いづ)れの處(ところ)に仕法を施すことを得ん。是れ君(きみ)の明(あきらか)に知る所なり。假令(たとひ)諸侯公料(こうれう)に行われざるを憂へずして自國(じこく)を興復(こうふく)せんと欲すといへども、二宮何ぞ其(そ)の求めに應(おう)じ以前の如くに仕法を行はんや。一日も幕府の禄を食(は)み、君臣の義を守るもの、其の道を以て公料(こうれう)の民を安んずることあたはず、身退きて私領に道を行ひ、何(いづ)れの君(きみ)に報ぜんとするや。是(こ)れ常人だも猶(なほ)爲(なさ)ざる所なり、況(いは)んや二宮の誠心に於てをや。苟(いやしく)も小田原に歸(かへ)る可(べ)きの命を蒙(かうむ)らば、斷然(だんぜん)仕法の道を廢(はい)し、深山幽谷の客となり、再び世の交わりを絶せんこと疑ふべからず。是(こ)れ君の一言(ごん)に由(よ)つて、仕法の道永く廢棄(はいき)せんといふ所以(ゆゑん)なり。非(ひ)邪(か)。君何ぞ一度(ど)此の道を試み、彌々(いよいよ)其の不可なることを知りて、然る後此の事に及ばざるや。今一言(ごん)に由つて、私領億萬(おくまん)の人民安堵(あんど)の道を失はんこと某等(それがしら)の見るに忍びざる所なり。君夫れ之を慮(おもんぱか)れ。令(れい)曰く、我之を思はざるに非ず。屡々(しばしば)仕法の事を以て官府(くわんぷ)に指揮を請ふといへども更に其の沙汰(さた)に至らず、是(これ)を以て發(はつ)することを得ざるなり。或(あるひと)曰く、是(これ)も亦(また)我等(われら)の解(げ)せざる所なり。幕府元より二宮の良法果たして可なるや否やを了(れう)し玉はず。是を以て君に命じて其の事業を試み玉ふに非ずや。然るに君之を試みずして其(そ)の指揮を官府(くわんぷ)に請ふ。官府(くわんぷ)何を以て一々開業の指揮あらんや。夫(そ)れ試みなるものは何ぞや。先(ま)づ發(はつ)して試みずんば何を以て其の可(か)不可(ふか)を知らん。願はくは君の速やかに獨斷(どくだん)發業(はつげふ)して之を試みん事を何を憂ひて未だ試(こゝろ)みざるや。令(れい)曰く、官の事獨斷(どくだん)すべからず。若し事を斷(だん)じて過(あやまち)あらば免(まぬが)るべからず。我身分(みぶん)をも恐るゝなり。是(これ)を以て獨斷(どくだん)に出(い)でざる也と。或(あるひと)一言(げん)を聞き歎じて曰く、某(それがし)數刻(すうこく)の愚言を呈(てい)するもの他(ほか)なし。使君(しくん)公(おほやけ)の爲(ため)に身を奉ぜりとするが故なり。請(こ)ふ辭(じ)せんと云ひ退(しりぞ)きたり。先生何事をか談(だん)ぜしやと問ふ。或(あるひと)告(つ)ぐるに此の事を以てす。先生大いに怒りて曰く、縣令(けんれい)の人となり我元(もと)より之を知れり。然して敢(あ)へて争はず論ぜず、從容(しようよう)として空しく日を送るもの豈(あに)我が心ならんや。已(や)むを得ざるが故なり。道の興廢(こうはい)元(もと)より令(れい)にあるにあらず。是を以て我が氣(き)を下して以て其の時を待つ。然るに汝一度(たび)令(れい)に至つて談論し、剰(あまつさ)へ身分を憂(うれ)ふるの一言(ごん)を發(はつ)するに至るまで詰問(きつもん)せるは何ぞや。我が心を盡(つく)して困苦するを知らず、一面(めん)の間に是の如きの談論を爲(な)す、何ぞ愚(ぐ)の甚だしきや。是れ道を開かんとして却(かへ)つて道を塞(ふさ)ぐ者に非ずや と大いに之を誡(いま)しむ。門下皆驚伏(きやうふく)して仰(あほ)ぎ見るものなし。此の時に當(あた)つては誠に仕法の窮(きゆう)極まれりといふべし。先生の大量(たいりやう)にあらざれば何を以て此の間(かん)に處(しよ)し再び道を開くことを得んや。人々其の大量(たいりやう)深慮を感歎せり。是(これ)より後、縣令(けんれい)も亦(また)省みる所あるか。又敢(あへ)て此の言を發(はつ)せずと云ふ。
2023.12.21
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り26日報徳記巻之八【1】先生眞岡縣令某の屬吏となる從者(じゆうしや)某(それ)なるもの之を聞き切齒(せつし)して直(たゞち)に縣令(けんれい)に至つて面謁(めんえつ)を請(こ)ふ。令(れい)出でゝ之に逢ふ。或(あるひと)言ひて曰く、幕府二宮を以て君の屬吏(ぞくり)たらしむること豈(あに)唯(たゞ)ならんや。此の道を以て此の民を救わんが爲(ため)なるべし。然して數年(すうねん)を經(へ)たり。未だ行ふべからざる歟(か)。令(れい)曰く、我素(もと)より二宮の道を信ぜり。此の道を以て民間に施す時は、上下の有益少なからずとせり。此の地に臨み之を施さんとするに至つて、古來(こらい)の法則確定せり。聊(いさゝ)か規則に差(たが)ふ時は法を犯すの罪あり。故に良法なりと雖も新法(しんほふ)なるを以て行ふこと能(あた)はざるなり。二宮小田原の臣たりし時、諸候の邦内(はいだい)大小數(すう)ヶ所仕法を施して頗(すこぶ)る有益をなせり。是れ私領に行ふ可(べ)くして公料(こうれう)には行れ難(かた)き仕法なり。此の如くして歳月を送らば私領にも行ふこと能(あた)はず、空(むな)しく廢(はい)せんか。某(それがし)今度(このたび)江都(かうと)に言上せんとす。其の意(い)は二宮の道私領(しりやう)に益ありと雖も、公料(こうれう)に至つては規則に觸(ふ)れて行ふべからず。然らば公料(こうれう)に益なくして私領の益も亦廢(はい)せん。願くは小田原故主(こしゆ)に返し私領の人民を撫育(ぶいく)せしめ玉はゞ、公(こう)に損なくして私領に益あり。速かに戻し玉ふべしと言上(ごんじやう)せん。然らば二宮無益の心勞(しんらう)も始めて安からん。是れ我が已(や)むを得ずして慮(おもんぱか)る所なりと。或(あるひと)曰く、此の言(げん)我輩(わがはい)の知る所に非ず、夫(そ)れ道は一のみ。公料(こうれう)に行ふ可(べ)らざるの道ならば私領何ぞ行ふを得ん。私領に大益あるの道ならば何ぞ獨(ひと)り公料(こうれう)而已(のみ)益なからんや。今君(きみ)公料(こうれう)に規則あり。是を以て新法(しんはふ)良なりといへども行はれずと。某(それがし)公料(こうれう)の規則を知らず。然して私領獨(ひと)り法度(はふど)なからんや。私領といへども天下の土地なり。何ぞ一日も政令法度(ほふど)規則なくして其の國(くに)を治(をさ)めることを得ん。公料(こうれう)私領の規則同じからずと雖も大同小異、何ぞ雲泥(うんでい)の如く其の趣(おもむき)を異(こと)にせん。夫(そ)れ國(くに)を治め民を安(やすん)ずるは政度(せいど)法令(ほふれい)の本にあらずや。百千の私領皆以て天下の法度(ほふど)制令を本(もと)として之に傚(なら)ひ其の國(くに)を治む。二宮仕法の規則に觸(ふ)れて行はれ難(がた)き時は、豈(あに)私領の規則而已(のみ)觸(ふ)れざるの道あらん。從來(じゆらい)私領に行ふ所數(かぞ)ふるに暇(いとま)あらず。未だ會(かつ)て私領の規則を變(へん)じ然る後此の道を施すものあらず。舊來(きうらい)の法度(ほふど)制令依然として悉(ことごと)く缺(か)く所なく、方法其の間(かん)に流行(りうかう)し、荒地を開き米財(べいざい)を生じ善人を賞し貧困を救助し、國家(こくか)をして自然に豊富に歸(き)し、萬民(ばんみん)を安んじ永安の道を立て、是(これ)に於(おい)て始めて古來(こらい)の法度(ほふど)規則の缺点(けつてん)をも補(おぎな)ひ、遂(つひ)に國政(こくせい)をして仁政に歸(き)せしむる者仕法の良法たる所以(ゆゑん)なり。其の國(くに)により萬一(まんいち)法度(ほふと)に聊(いささ)か觸(ふ)るゝ事あらば、法度(ほふと)を動かさずして仕法を折衷(せつちゆ)し、其の時處位(じしよい)に依(よ)つて其の宜(よろ)しきを制(せい)せり。是れ仁術にして其の術盡(つく)る所なく諸國(こく)に行はれて成功ある所以(ゆゑん)なり。君(きみ)此の地に至る以來(いらい)二宮に委(ゐ)して道を行はしめ、其の不可なるを見て然る後行はれ難(がた)しとせば吾等(われら)何ぞ一言(ごん)を發(はつ)せん。未だ其の道を行はずして何を以てか果たして行はれざることを知る乎(か)。令(れい)曰く、東郷(とうがう)の開田桑野川(くわのがは)の新開(しんかい)之を試みたり。是を以て行はれざるを知れり。曰く、開墾(かいこん)の一事(じ)何ぞ仕法の仁術とするに足らん。夫(そ)れ仕法の道たるや惠(めぐ)むに恩澤(おんたく)を以てし、凡(およ)そ廢(すたれ)たるを擧(あ)げ絶(た)えたるを繼(つ)ぎ、禍(わざはひ)を福に轉(てん)じ貧弱を振起(しんき)して富強となし、民の疾苦(しつく)する所を除き其(そ)の安息する所を與(あた)へ、惰風(だふう)を革(あらた)め汚風を去り、教(をし)ふるに人道を以てし導くに勸農(くわんのう)を以てし、奢侈(しゃし)を戒め節儉(せつけん)を示し、五倫(ごりん)の道を正しくして君恩(くんおん)の無量なることを知らしめ、永(なが)く貧困離散の憂なからしむるを以て要(えう)とせり。是等(これら)の道未だ二宮に於(おい)て施す所あらず。何ぞ一片の開田を以(もつ)て道の行はるべからざるを知れりとするや。且(かつ)君先年未だ此の地の命を蒙(かうむ)らざる時に當(あた)りて草野某(ぼう)と約して曰く、我(われ)二宮の良法を以て國家(こくか)の有益を開き下(しも)百姓を安ぜんとす。故に公料(こうれう)に此の道を開き、二宮の力を伸張せしめんこと我(われ)必ず之を盡力(じんりよく)せんと。草野道の爲(ため)に悦び、誠に使君(しくん)の忠誠を感歎し、大道公行(こうかう)を以て君(きみ)を期し、其の開業を希望せり。是(こ)れ君(きみ)自ら約(やく)するものにあらずや。今は草野泉下(せんか)の客(きやく)となりしと雖(いへど)も、目前(もくぜん)今日(こんにち)の言を聞かば如何(いかに)とかするや。君を以て故舊(こきう)を忘れざるの信(しん)とせんや否や。我等(われら)の得(え)て知る所にあらず。且(かる)此の道の公料(こうれう)に行ふべからざるを以て幕府に達(たつ)せば、君の一言(げん)を以て道の廢棄(はいき)斯(こゝ)に決せんこと疑ひなし。何となれば先年君(きみ)二宮の道を試んと言上(ごんじやう)せり。是(これ)を以て幕府仕法の試業(しげう)を命じ玉ふ。其(そ)の實事(じつじ)未だ試業(しげう)に至らずといへども、幕府の試み玉ふこと君(きみ)の一身上にあり、年を經(ふ)ること數年(すうねん)にして行ふ可(べ)らざるの道なりと言はば、誰(たれ)か未だ試(こゝろ)みずして言上(ごんじやう)せりと爲(な)さんや。然らば則ち此の一言(げん)に依て行はれざるの確證(かくしやう)とならん。君(きみ)其の道を試みずして行はれざるの道なりと定めんこと豈(あに)衆人の望む所ならんや。若し二宮其の初めより縣令(けんれい)の屬吏(ぞくり)たらずして獨立(どくりつ)せば何ぞ畢世(ひつせい)艱難誠意を盡(つく)せし仕法徒(いたづ)らに廢棄(はいき)するに至らん。初めは君の賢意に依つて道の開けんことを望み、今は君の一言(げん)に由て道の廢(はい)せんことを哀しめり。何ぞ始終(しじゆう)の均(ひと)しからざること此(こ)の如きや。是れ吾等(われら)の大いに君(きみ)に望みなきことを能(あた)はざる所以(ゆゑん)なり。君少(すこ)しくこれを慮(おもんぱか)れ。
2023.12.20
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り26日報徳記巻之八【1】先生眞岡縣令某の屬吏となる縣令(けんれい)意中(いちゆう)甚だ怒ると雖も、理の當然(たうぜん)なるを以て憤怒(ふんど)を忍び答へて曰く、子(し)今是事を告げずといへども、我能く之を知れり。陣屋の内(うち)別に居家(きよか)あらず。新たに作らんか二宮を空寺(くうじ)に居(を)らしむるもの暫時而已(のみ)。我が意(い)を計りて二宮此の寺を補(おぎな)はざるものは過ちなり。我何ぞ彼自ら此を補ふことを禁ぜんやと云ふ。衣笠退き先生に告ぐるに空寺補理(ほり)の事を以てす。先生許さず。然るに縣令(けんれい)俄然(がぜん)先生を呼ぶ。先生至る。令大いに怒りて曰く、過刻(くわこく)衣笠來(きた)り子(し)を破壊の寺に居らしむること、我が處置(しよち)を失ひたりと云ふ。彼は元より陪臣(ばいしん)なり。何ぞ天下の事に與(あづか)るを得んや。今此の如き言を我に述ぶる者は身分を知らざるに非ずや。我が處置(しよち)は我が思ふ所あり。何ぞ陪臣(ばいしん)の指揮を待たん。以後此の如(ごと)き失言を發(はつ)すること勿(なか)れと子より之を諭(さと)し置くべし。我直ちに此の言を以て衣笠を誡(いま)しむる時は、彼一身の立つべからざることを憐み、子(し)をして言はしむるなりと。其の意先生衣笠をして艱苦を言はしめたりと疑ひ、怒言(どげん)を以て先生に加ふ。先生從容(しようよう)として答へて曰く、某(それがし)空寺(くうじ)に居(を)る何ぞ艱難の事あらん。夫(そ)れ貧民の世に處(を)るや居(きょ)雨露(うろ)を障(さゝ)ふることあたはず。糟粕(さうはく)口に飽(あ)くことあたはず。衣(い)身(み)を蔽(おほ)ふことあたはず。飢寒に困(くるし)み生(せい)を聊(やす)んぜざるもの其の數(すう)を知るべからず。之を救助せんとし、其の道を盡(つく)すことあたはざるを以て憂(うれひ)とせり。然るに某(それがし)は扶助の米粟(べいぞく)を賜(たまは)り飽食暖衣せり。破寺(はじ)といへども大破(たいは)といふにあらず。何ぞ雨露(うろ)の凌ぎなからんや。若し風雨を障(さゝ)ふることあたはずんば、何ぞ縣令(けんれい)を勞(らう)せん。自ら之を補ふに於(おい)て何の難きことかあらん。衣笠なるもの性(せい)善柔にして思慮淺(あさ)し。偶然(ぐうぜん)破寺(はじ)を見て子細(しさい)を問はず。使君(しくん)に告ぐるに失言を以てするか、退きて再び失言なからしめん。使君(しくん)勞(らう)し玉ふことなかれ と。縣令(けんれい)曰く、我(われ)上下の爲(ため)に子(し)の方法を開き、此の國(くに)の荒地を開墾し困民(こんみん)を撫育(ぶいく)せんと欲すること年あり。然るに私領と異にして公料(こうれう)の制度法則微細に備はる。其の規矩(きく)にあらずして新法なるが故に行ふことあたはず。強(し)て之を行はんとすれば屬吏(ぞくり)皆從(したが)はず。江都(かうと)に達して其の指揮を請(こ)ふと雖も復(また)何の沙汰(さた)もあらず。子(し)此の間(かん)に立つて手を空(むな)しくせんよりは、寧(むし)ろ退いて以前の如く私領(しりやう)の民を安ずるに如(しか)ず。我官府(くわんふ)に言上せんとす。二宮の道良法なりといへども私領に行はるべくして公領に行ふべからず。小田原故主(こしゆ)に戻し玉はゞ私領の幸にして、幕府無用の人を扶持(ふち)し玉ふことなく、兩全(りやうぜん)ならんと、是より他の策あるべからず。子(し)の意(い)如何(いかん)。先生曰く、一身の進退微臣(びしん)に於(おい)て更に意(い)なし。唯(たゞ)縣令(けんれい)の指揮に從(したが)はん と云ひ退いて詳(つまびらか)に衣笠に告ぐ。衣笠大いに怒りて曰く、令(れい)は書を讀(よ)みて少しく道を知るものと思へり。我が先に言ふ所は我が爲(ため)を言ふにあらず。實(じつ)に令(れい)の爲(ため)を一言せり、然るに陪臣(ばいしん)の失言なりとして之を怒(いか)り、先生を呼びて此の妄言(もうげん)を發(はつ)す。我再び此の如き者を見ずと直(たゞち)に下館に歸(かへ)れり。先生歎じて曰く、縣令(けんれい)過て此の道を以て行ふ可(べ)らざるの道と訴ふる時は斯(こゝ)に止(や)まん。又何をか論じ何をか憂へんや。豈(あに)命にあらずや。
2023.12.19
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り27日目標額の50%到達報徳記 巻之八 【1】先生眞岡縣令某の屬吏となる野州眞岡は土地磽薄(かうはく)にして原野多く、百姓農業を怠り天明卯辰(うたつ)の凶荒後民戸(みんこ)大いに減じ田圃(でんぼ)蕪莱(ぶらい)し、離散の民毎年に甚しく、在民赤貧(せきひん)を苦しみ出生(しゆつせい)の赤子(せきし)を夭殺(えうさつ)するを以て常とするに至れり。寛政年間幕府大いに之を憐れみ玉ひ、衆に選びて竹垣某(ぼう)を以て同所の縣令(けんれい)となし、荒蕪(くわうぶ)を開き窮民を撫(ぶ)し、夭殺(えうさつ)の憂ひを除かしめ頗(すこぶ)る惠政(けいせい)行はる。縣令(けんれい)來民(らいみん)を招き戸數(こすう)を増し恩澤(おんたく)を施し、赤子(せきし)を育(いく)せしめ土地を開き悪弊(あくへい)を除くといへども、舊來(きうらい)の衰廢(すゐはい)を古(いにし)へに復することあたはず。後(のち)縣令(けんれい)轉勤(てんきん)に至(いた)りて遂(つひ)に其の成功を得ず。時に天保十四癸(みづのと)卯年(うとし)官(くわん)議(ぎ)して再び往時の惠政(けいせい)を復せんとし、新たに奥州(おうしう)小名濱(おなはま)野州東郷(ひがしがう)眞岡(まおか)三縣令(けんれい)を命じ先生を屬吏(ぞくり)となす。然れども良法開業の道を得ずして歳月を送れり。弘化(こうくわ)四丁(ひのと)未年(ひつじとし)東郷(とうがう)の令(れい)某(ぼう)建議する所あり。官是の故を以て小名濱東郷の兩(りやう)縣令(けんれい)を他に轉(てん)じ、眞岡東郷の地六萬石(まんごく)を合(がつ)して東郷の令(れい)に命じ、先生をして又之に屬吏(ぞくり)たらしむ。是(こゝ)に於(おい)て縣令(けんれい)民間撫育(ぶいく)村々(むらむら)再復の事を擧(あ)げんとして先生に計る。外(ほか)屬吏(ぞくり)古來(こらい)の成規(せいき)を取りて之に同ぜず。然れども令(れい)先生をして荒地開墾の事を行はしむ。東郷村の廢田(はいでん)若干(そこばく)、桑野川村に於(おい)て新田五町歩(ちやうぶ)を開き、邑民(いふみん)頗(すこぶ)る恩に感ず。而(しか)して此の用財(ようざい)官費の出づる所なし。皆先生自財を投じ以て此の事を成(な)せり。屬吏(ぞくり)之を見て私(ひそ)かに語りて曰く、今縣令(けんれい)二宮をして蕪田(ぶでん)を開き又新田を開かしめ、我が輩(はい)之を知らず、是(こ)の如くならば後難(こうなん)計り難し。身を退くに如(し)かざるなりと、皆共に奉仕を辭(じ)す。縣令(けんれい)愕然(がくぜん)として曰(いは)く、開田の事我が意にあらず。二宮一人の所為(しょゐ)なり。我大いに之を戒め、後(のち)此の事無からしめん。子等(しら)必勞(しんらう)すること勿(なか)れと。是(こゝ)に於て先生を官カイ(くわんかい)に招き、衆坐(しやうざ)の中に於(おい)て聲(こゑ)を励(はげま)して曰く、二宮開墾を成すもの誰(たれ)の命を以てするや。吾(われ)知らざる所なり。屬吏(ぞくり)も皆與(あづ)からず。凡(すべ)て天下の土地興廢(こうはい)共に規則あり。豈(あに)官許(くわんきょ)を得ずして開くことを得んや。今江都(かうと)に聞(ぶん)し咎(とが)めあらば、獨(ひと)り子(し)の罪而已(のみ)にあらず。然るに一己(こ)の意を以て開墾するもの何(なに)の謂(いは)れかある。具(つぶ)さに之を告げよと。先生早く其(そ)の意(い)を察し心に思(おも)へらく、此(こ)の開田は縣令(けんれい)我に命じて開かしむる也。然して今此の事を知らずとは何(なん)ぞやといはゞ、令(れい)何を以て暫時(ざんじ)も此(こ)の職にあることを得ん。我多年(たねん)心を盡(つく)すものは諸人(しょにん)の憂ひを除き永安の道を興(おこ)さんとする而已(のみ)。何ぞ令の罪を顯(あら)はさん。自ら其の罪を引(ひ)き彼をして無事ならしめん と。是(こゝ)に於(おい)て從容(しょうよう)として答へて曰く、是(こ)れ他事(たじ)あるに非ず。某(それがし)官(くわん)の事に至りては法則規矩(きく)共に未だ之を熟知することを得ず。私(ひそ)かに意(おもへ)らく、吏籍(りせき)に入りてより以來(いらい)不才にして衆臣(しゆうしん)の勤(つと)むる所を勉勵(べんれい)することあたはず。空(むな)しく歳月を送り素餐(そさん)の罪を恐るゝこと深し。積年廢田(はいでん)を擧(あ)げ下民(かみん)を撫(ぶ)し、之を安(やす)んずることを業(げふ)とせり。今目前(もくぜん)廢田(はいでん)あり貧民あり。自財をナゲウチて之を拓(ひら)き之を惠(めぐ)まば勤務の一端に當(あた)り聊(いささ)か素餐(そさん)の罪を償ふに至らんかと、下民(かみん)の願ひに應(おう)ぜしなり。前に此の事を聞(ぶん)し可否の令を待たざるは某(それがし)の罪なり。今如何(いかに)せん譴責(けんせき)あらば某(それがし)一人之を受けん而已(のみ)。素(もと)より願ふ所なり。又開田を廢(はい)して可ならば速やかに之を荒蕪(くわうぶ)に歸(き)し、溝恤(こうきょく)を穿(うが)ちたるも之を埋めん而已(のみ)。開田の力は千萬(まん)の勞(らう)ありといへども之を廢(はい)するに至りては甚だ易(やす)くして一日の勞(らう)をも費(ついや)すべからず。願くは令(れい)の意(い)に随はん而已(のみ) と。縣令(けんれい)益々(ますます)怒つて曰く、開田直ちに廢(はい)することを得(う)べからず。江都(かうと)に達して其の指揮を待たん。以後我が命ぜざることは決して手を下(くだ)すことなかれと云ふ。先生退き歎じて曰く、事(こと)斯(こゝ)に至るもの何ぞ可否を論ぜんや。道も亦(また)斯(こゝ)に止(とま)れり。令(れい)初め我に命ずるに開田新田の事を以ってす。我答えて曰く、土地の事官(くわん)古來(こらい)の定則ありと聞けり。猥(みだ)りに手を下さば後日の憂ひあらんか。夫れ之を慮れ。令曰く、我江都(かうと)に於て既に此の事を聞(ぶん)し、委任の命あり、子(し)の事を擧(あ)ぐるもの則ち予がせしむる所なり。若し異論あらば我が一身に任ぜん。憂ふることあるべからず。子(し)唯(ただ)力を盡(つく)し事を成就せよ我之を頼むなりと。是の故に已むことを得ずして數月(すうげつ)の間辛苦(しんく)を盡(つく)し自財を散じ、衆役夫(しゅうえきふ)の力を勞(らう)し許多(きよた)の開田を爲(な)せり。是(これ)上下(じやうげ)の爲(ため)にあらずや。然るに下吏(かり)の言に驚き之を諭(さと)すことあたはず、又(また)自ら任ずることあたはず、忽然(こつぜん)として昔日(せきじつ)の誓言を變(へん)じ自ら此の事を知らずとし、我一己(こ)の意(い)を以て開田せしと列坐(れつざ)の中に於て叱(しつ)す。自ら其の心を欺(あざむ)き、漠然として耻(は)づる色なし。豈(あに)是れ人情の爲(な)し得べき所ならんや。我れ元より善は人に推(お)し、他の過失は我に歸(き)するを以て本意(ほんい)とせり。若し此の如き言(げん)を以て外人(ぐわいじん)に當(あた)る時は、立處(たちどころ)に其の身の進退を失ん。此の人と共に大道を行ふことのあたはざるは此の一事(じ)を以て知るべし。然れども今我(われ)一身を退く時は、從來(じゅうらい)諸方の人民衰弊再復の道を求め、其の事未だ半(なかば)ならず。安危(あんき)の歸(き)する所只(たゞ)我一人を望めり。故に我(われ)退かば道も亦廢(はい)せん。道廢(はい)する時は幾萬(まん)の人民途(みち)を失ひ安堵(あんど)の期(き)あるべからず。我何ぞ之を棄(す)つるに忍んや。是我が道の行はれざることを以て此の輩(はい)と共に愚を守り、歳月を送る所以(ゆゑん)なりと慨然(がいぜん)として痛歎の色あり。從者皆悵然(ちやうぜん)として愁悶(しうもん)に堪(た)えず。先生の度量蒼海(さうかい)の量(はか)る可(べ)からざるが如きを感歎せり。
2023.12.17
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り36日報徳記 巻之七 【10】先生縣令の属吏に命ぜられ野州眞岡の陣屋に至る時に天保十四癸(みづのと)卯年(うとし)七月、先生奥州(あうしう)小名浜(をなはま)野州眞岡同州東郷三縣令(けんれい)の屬吏(ぞくり)に命ぜられ、野州眞岡陣屋に至り衆屬吏(ぞくり)と共に群居せり。命を受くるの日に意(おも)へらく、縣令(けんれい)は郡村を治め、民を安撫(あんぶ)するの官なり。之が屬(ぞく)たらば舊來(きうらい)辛苦する所の仕法を以て、郡村に及ぼし萬民(ばんみん)を安(やす)んずることを得ば、道の行われんこと難(かた)からず と。眞岡に至るに及びて仕法は新法にて、古來(こらい)の規則に符合(ふがふ)せず、 縣令(けんれい)以下の決斷(けつだん)を以て行ふことあたはずとして、空しく歳月を送れり。先生大いに之を憂ふといへども如何(いかに)ともすべからず。然るに某月(ぼうげつ)に至り江都(かうと)に出(い)づべきの命あり。至れば則ち命じて曰く、日光神廟(しんべう)の祭田多年荒蕪(くわうぶ)となり、下民(かみん)も亦(また)甚だ窮せり。速かに彼の地に至り見分し、之を再興し諸民を安撫(あんぶ)するの策を建白せよと。先生命を受け直(たゞ)ちに言上(ごんじやう)して曰く、夫(そ)れ天下の荒蕪地(くわうぶち)大同小異なりといへども、何ぞ再復の道に於(おい)て別あらん。且(かつ)人民の弊風(へいふう)に漂(たゞよ)ひ貧苦に陥るもの、其(そ)の情實(じやうじつ)に至りては何(いづ)れの國(くに)といへども異なることあるべからず。其(そ)の地に臨みて見分(けんぶん)せざれば知り難(がた)き者に非ず。今斯(こゝ)に在りて其の再復の策を献ぜば奈何(いかん)。官曰く、理は方(まさ)に然らんか。然りといへども其の地に臨みて其の實事(じつじ)を述ぶるものは常則なり。故に一たび見分を遂(と)げて然る後言上せよと。先生曰く、敢(あへ)て命(めい)に差(たが)ふにあらず、速やかに至らん而已(のみ)。然れども臣の言(げん)謂(いは)れなきにあらず。彼の地に至りて再興の道を論ぜば、彼の地に就(つい)て其の理を言はん。然る時は陳述する所僅かに彼の地の事に止(とどま)りて廣(ひろ)く再復の道を該(がい)することあたはず。今其の地を見ずして再復の道を全備(ぜんび)せば、天下の廢地(はいち)擧(あ)ぐべからざるの地なく、天下の民窮苦を除くべからざるものなからん。然らば一たび其の策を獻じて其の理斯(こゝ)に盡(つ)き再三の命を煩(わずら)はさず亦(また)可ならずや。前年下總國(しもうさのくに)大生郷村(おほふがう)再復の道を奏(そう)す。其の理に至りては萬國(ばんこく)といへども再興の道此の他(ほか)に出でず。然れども一邑(いふ)の見分を以て言上せり。故に一邑(いふ)の事に止(とどま)り、再び日光の邑々(むらむら)再盛の事を命じ玉ふ。後年又他の廢地(はいち)を擧(あ)げ、貧民を惠(むぐ)み玉ふ時は其の法則となるべからず。今臣の意中を盡(つく)し、民間再盛安撫(あんぶ)の道を漏(もら)さずして奏(そう)し、若し不可ならば、假令(たとひ)其の地に臨みて後言上するとも何の益かあらん。若し可にして用うべきの道ならば、四海の地皆悉(ことごと)く同じからん。是を以て其の地を見ずして再興成就の道を奏(そう)せんことを請ふのみ と。是に於(おい)て官之を許可せり。 先生門下を集會(しふくわい)し諭(さと)して曰く、夫(そ)れ日光の土地たるや神君鎭坐(ちんざ)の地にして、村々は皆其の祭田(さいでん)なり。實(じつ)に此の地を再復し此の民を安んずるの策を命じ玉ふこと豈(あに)仕法の幸(さひはひ)にあらずや。是の故に我が積年丹誠するところの仕法悉(ことごと)く筆記し之を奏(そう)せん。此の書一度(たび)全備する時は、假令(たとひ)道行はれずといふとも、仕法の仕法たる所以(ゆゑん)は萬世(ばんせい)に及て腐朽すべからず。孔子一世(せい)道を行ふことあたはざるも、其の書(しよ)永世に朽ちずして道益々(ますます)明らかなり。二三子(し)夫れ之を勉(つと)めよ と。是(こゝ)に於(おい)て前々依頼の諸侯領邑(いふ)の事を辭(じ)し來客(らいきやく)を止(と)め、夜を以て日に繼(つ)ぎ、僅々(きんきん)たる短文を筆(ひつ)するも尚(なほ)數日(すうじつ)の思慮を盡(つく)し、數(すう)十度の添刪(てんさく)を加へて然(しか)る後可なりとす。實(じつ)に千辛(しん)萬苦(ばんく)の力を盡(つく)し、肺肝を碎(くだ)きたること誠心限りなしと謂(い)ふべし。斯(かく)の如く研究の勞(らう)を盡(つく)すこと三年にして猶(なほ)未だ稿(かう)を脱せず。門下往往(わうわう)事の後(おく)れんことを恐れ、先生に告ぐると雖も、研究の足らざるを憂ひて後(おく)れんことを憂へず。時(とき)に眞岡の縣令(けんれい)鈴木某(ぼう)公事に由(よ)つて江都(かうと)に至れり。先生に告げて曰く、早く書を奏(そう)すべし と。先生曰く、未だ全備すること能はず。是に於て縣令(けんれい)官に聞(ぶん)す。官命じて曰く、全備せずと雖も可也。疾(と)く出(い)だすべしと。先生已(や)むを得ず徹夜寝(いね)ずして心力(しんりよく)を勞(らう)し、終(つひ)に數(すう)十巻となして之を官府(くわんふ)に奏(そう)せり。此の時に當(あた)りては初め、命じ玉ふ時の閣老以下已(すで)に轉勤(てんきん)あり。是の故に又開業(かいげふ)の命下らずして徒(いたづら)に歳月を消(せう)す。門人其の他に至るまで、實業(じつげふ)の行はれざることを歎息せり。時(とき)に諸侯の邦内(ほうない)再興の指揮を廢(はい)すること既に三年、是(これ)を以て小田原領を始めとして往々(わうわう)中廢(ちゆはい)に至るもの少なからず。後仕法依頼の輩(はい)日光再復の書(しよ)に法(のつと)り、以て都邑(といふ)を復興せんことを請ふ。先生曰く、官に奏(そう)して未だ可否の命を得ず、私(ひそか)に之を傳(つた)ふること能はず と。是(こゝ)に於て此の旨を以て官に請ふ。官之を許可す。是(これ)に由つて漸々(ぜんぜん)道を行ふことを得たり。
2023.12.10
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り35日報徳記 巻之七 【9】下總國大生郷村再復の命を受け良策を献ず天保十四癸(みづのと)卯年(うとし)春、下總國(しもふさのくに)大生郷村(おほふがうむら)荒蕪(くわうぶ)を開き貧民を安んじ、一邑(いふ)再興の道を献ぜよと命ず。先生直ちに此の邑(むら)に至り見分するに、人民極貧にして田圃(でんぼ)は原野に歸(き)し、民家破壊し衣食乏(とも)しくして、平年猶(なほ)菜食(さいしよく)あり。先生愀然(しうぜん)として曰く、今の時(とき)春陽(しゆんやう)温暖の候なりといへども、此の邑(むら)に臨み此の民の困苦を見るに至りては、身體(しんたい)栗々(りつりつ)として嚴寒(げんかん)に歩(ほ)するが如し。嗚呼(あゝ)是も亦(また)天民(てんみん)也(なり)。何ぞ貧困此の如くに至るや。是に於て毎戸(まいこ)に其の艱苦の緩急を察し、手づから金を與(あた)へて其の急迫を救ふ。邑民(いふみん)拜伏(はいふく)流涕(りうてい)して恩を謝せり。邑(むら)の里正を久馬(きうま)と云ふ。性(せい)多欲にして下民(かみん)に利子二割の財を貸し、其の利を絞(しぼ)り、償ふことあたはざるものは、田圃(でんぼ)を取りて我が家田(かでん)とす。是を以て邑民(いふみん)彌々(いよいよ)衰弱流氓(りうばう)、遂に此の極窮(ごくきゆう)に迫れり。先生其の衰弊の本(もと)を考へ、再盛の道を慮り、遂に江都(かうと)に歸(かへ)り、再復永安の仕法を調べ之を官に奏(そう)せり。官其の道の仁術なるを察し、開業の事を命ぜんとす。時に縣令(けんれい)建言する所ありて、遂に此の事を廢(はい)せり。後之を聞くに、里正(りせい)久馬(きうま)數年(すうねん)私曲(しきよく)を行ふこと甚だし。一里正(りせい)の爲(ため)に一邑(いふ)無罪の民、極窮困苦是の如きに至れり。然るに先生仕法行はるゝ時は、自ら私曲(しきよく)を逞(たくま)しくすることあたはずして、一身の不利とならんことを恐れ、私(ひそ)かに賄賂(わいろ)を行ひ謀計(ぼうけい)を設けて道を塞(ふさ)ぎたりと云ふ。後數(すう)年を經(へ)て某(それ)年に至り、縣令(けんれい)小林某(なにがし)此の事を聞き、一邑(いふ)の廢亡(はいぼう)せんことを憂ひ、邑民(いふみん)に諭すに先生の良法を以てし、官に請うて以て再復の仕法を先生に委任す。先生已むことを得ず其の需(もと)めに應(おう)じ、遂に仕法を施し、數(すう)百金を抛(なげう)ち貧民を撫し廢田(はいでん)を開き、民屋(みんをく)を修復し再盛の道を行ふ。邑民(いふみん)大いに悦び始めて生養(せいやう)の道を得たりと爲(な)す。里正(りせい)再たび姦計(かんけい)を以て邑民(いふみん)を誑(たぶら)かし、縣令(けんれい)の屬吏(ぞくり)に賄賂(わいろ)し、遂に良法を破り私曲(しきよく)を壇(ほしいまゝ)にせり。是に於て仕法之が爲(ため)に廢(はい)せり。邑(むら)の良民大いに之を歎き、身命をも顧みず數々(しばしば)官に事情を訴へ、再び仕法の道を發(はつ)せんことを請ふ。然れども順序を經(へ)ずして直訴するを以て、之を縣令(けんれい)に下附(かふ)す。縣令(けんれい)頗(すこぶ)る屬吏(ぞくり)の爲(ため)に惑ひを取り、良民を叱(しつ)して之を退け、遂(つひ)に再興の仕法を廢(はい)し、獨(ひと)り里正(りせい)而已(のみ)奸曲(かんきよく)貪婪(どんらん)を專(もつぱ)らにすることを得たり。時人(じじん)邑民(いふみん)を憐み里正の奸悪を悪(にく)み、良法の中廢(ちゆうはい)を惜まざるはなし。
2023.12.09
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り36日報徳記 巻之七 【8】先生下總印旛沼掘割見分の命を受け彼の地に至る その1于時(ときに)天保十三壬(みづのへ)寅年幕府命を下して下總國(しもふさのくに)手賀沼より新川を穿(うが)ち印旛沼に注ぎ、印旛沼より大海に達し、刀根(とね)川の分流と爲(な)し通船の便利を開かんとす。水理に達する輩(ともがら)をして其の成功の策を建言せしむ。抑々(そもそも)此の事の原因を尋ぬるに、刀根川洪水の時に當(あた)りては、堤防を破り田圃(でんぼ)を流亡(りうぼう)し、水邊(すゐへん)の村々これが爲(た)めに水害を被(かう)むること少なからず。手賀沼より印旛沼に堀切り、又(また)南方(なんはう)馬加(まくわり)村の海邊(かいへん)に掘割り、蒼海に達する時は、流水(りうすゐ)新川に分流し水害の患(くわん)を除き、且(かつ)奥州(あうしう)の通船常に房總(ぼうそう)の大海を渡り、浦賀港(みなと)に入り然る後江都(かうと)に達す。房州の海中難所ありて屡々(しばしば)波の爲(ため)に破船し、米穀を失ひ往々(わうわう)覆溺の殃(わざはひ)に罹(かゝ)るもの少なからず。然るに刀根川より直ちに内海に達し江都(かうと)に至ることを得る時は、里數(りすう)を減すること多くして覆没(ふくぼつ)を免れ、且(かつ)軍用の便宜ありといへり。往年某年(それとし)此の役(やく)を起こし數十萬(まん)の財を散じ穿(うが)ちたりといへども、終(つひ)に事成らずして廢(はい)せり。故に今復(また)此の業を遂(と)げ不朽の大益を開き、衆民の水害を救はんとの深慮なりと云ふ。同年十月官(くわん)先生をして彼の地に至り、土地の高低難易を量り成不成を察し、其の思慮するところを言上せよと命ず。先生命を受け退き歎じて曰く、此の事下民(かみん)を恤(めぐ)み國家(こくか)の大益を擧(あ)げんとの賢慮なりといへども容易の事にあらず。萬事(ばんじ)の成不成自(おのづ)から時あり又(また)事業に先後あり。我假令(たとひ)彼の地に臨み見分(けんぶん)するも其の益なかるべし。然れども君命辭(じ)するの道なし と。是(これ)に於て江都(かうと)を發(はつ)し下總國(しもふさのくに)に至り、諸有司(しょいうし)と共に日々廻歩(くわいほ)して其の地勢高低難易を熟見(じゆくけん)し成不成を考ふ。手賀沼より印旛沼の間、道程二里印旛沼より南の方馬加村(まくわむら)の海邊(かいへん)まで四里、合して六里新に水路を開き、通船せんとす。實(じつ)に大業といふべし。中間に高臺(たかだい)と名づくるところあり。高さ數丈(すうじやう)にして岩山(いはやま)なり。之を穿(うが)つに堅石を穿(うが)つよりも勞(らう)せり。下(しも)海邊(かいへん)を去ること數(すう)百間(けん)にして天神山と唱ふる小山(こやま)あり。兩山(りやうざん)の間の土地低くして泥土(でいど)の深さ測るべからず。之を浚(さら)へるに幾萬(まん)の畚(ふご)を擧(あ)ぐるといへども、泥土元の如く涌(わ)き出し更に尺寸(しやくすん)を減ぜず。往年の役(えき)に車器械を設け、此の土泥を海邊(かいへん)に巻出(まきいだ)したる時は海濱(かいへん)之が爲(ため)に埋まり、數(すう)十間の平地を成すと雖も天神山高さを減ずること三尺(じやく)餘(よ)にして泥土元の如くに涌出(ようしゅつ)し依然として寸(すん)も卑(ひく)きをなさずと傳(つた)へたり。實(じつ)に兩山(りやうざん)の下は皆泥土にして限りなく、人力の及ぶ所に非(あら)ざるに似たり。諸吏(しょり)各々思慮を盡(つく)し數(すう)十日にして見分(けんぶん)測量畢(をは)り、江都(かうと)に歸(かへ)り彼の地の事業且(かつ)用財(ようざい)の多少成功の目途(もくと)年數等(ねんすうとう)を言上せり。先生更に建言する所あらず。官(くわん)先生に問ふて曰く、汝の見る所如何(いかん)。先生曰く、某(それがし)未だ其の成不成を決することあたはず。人此の大業必ず成るべしと云ふも不可なり。全く成るべからずと云ふも、果たして成るべからざるにあらず。不成の道を以て之を擧(あ)ぐる時は、幾千萬(まん)人を役(えき)し幾百萬(まん)の財を散ずといへども成るべからず。成るべき道を以て事を擧(あ)ぐる時は、天下何物か成就せざらんや。官(くわん)又問ふて曰く、其の成るべからざるの道如何(いかん)。先生曰く、天下の威權(ゐけん)を以て人夫(にんぷ)を役し、之を役するに財を以てし成業(せいげふ)を期するに年(とし)を以てす。是れ土功(どこう)を擧(あ)ぐるの常道なり。此の常道を以てせば難所の役(えき)吏民(りみん)共に窮し、只(たゞ)利を計りて其の心(こゝろ)義にあらず、事は進まずして財は既に盡(つ)き、年限は既に至りて事業は半(なかば)に至らず。吏民(りみん)共に不正に陥り、遂(つひ)に廢(はい)せんか。是(これ)成らざる所以(ゆゑん)也。又問ふ其の成るべき道如何(いかん)。先生曰く、之を期するに年限を以てせば百年といへども其の成るを以て期とし、用財を限らずして其の成功の時を以て用度(ようど)の限りとなし、一旦事を發(はつ)せしより假令(たとひ)何百年何百萬(まん)の財を用いると雖も、全功(ぜんこう)を以て善(よし)とし悠々然(いういうぜん)として速かならんことを求めず。然して又其の事を怠らず、連々綿々として力を盡(つく)す時は、必ず成業の時なしといふべからず。是れ大業成就の道なり、然れども之を行ふに先後する所あり。若し其の先んずる所を後にし、其の後にする所を先んぜば亦(また)成就を必(ひつ)すべからず。官曰く、其の先んずる所は何ぞや。先生曰く、萬民(ばんみん)を撫育(ぶいく)するにあり。曰く、其の後にするものは如何(いかん)。印旛沼の掘割(ほりわり)是(これ)なり。官曰く、今問ふところ此の事にあり。何ぞ萬民(ばんみん)撫育(ぶいく)の事を以て先とするや。是れ別事にして此の事に關(くわん)するにあらず。答へて曰く、六里の新川を穿(うが)ち萬世(ばんせい)の有益を開んとすること豈(あに)大業にあらずや。此の大業を成(な)さんもの誰(たれ)の力にか成らん。必ず諸民を役(えき)して其の筋骨の勞(らう)を盡(つく)さずんば、他に成すべきの道なきこと明らかなり。今近國(きんこく)の民を見るに昌平(しやうへい)の澤(たく)に浴し、自然奢侈(しやし)怠惰に流れ窮乏を免れず。貧なる時は其の心(こゝろ)利に走り義を忘る。此の民をして此の役(えき)を起さば用財を取るを以て先とし、筋骨の勞(らう)を後にせんか。然らば則ち財は多く費(つひ)ゆることありて事は成り難し。若し上(かみ)大仁(たいじん)を布(し)き、諸民の困苦する所を除き其の生養(せいやう)を安んぜば、百姓大いに喜び大恩を感じ、子孫に至るまで報恩の志(し)を懐かん。此の時に當(あた)りて報恩の志(し)あるものは、此の事に力を用ゐよと令せば、百姓老幼(らうえう)となく一身の勞(らう)を忘れ、感泣して力を斯(こゝ)に盡(つく)し、互いに盡力(じんりよく)の不足を以て耻(はぢ)とせん。萬人(まんにん)一心勞(らう)を忘れ報恩を以て心となす時は、誠心内に充(み)ちて外(そと)分外(ぶんぐわい)の力を盡(つく)さん。萬民(ばんみん)誠意を主(しゅ)となすときは、假令(たとひ)山を抜(ぬ)き石を穿(うが)つといふとも成らずんばあるべからず。夫(そ)れ此(こ)の如くなる時は此の大業の成就迂遠(ゆうえん)に似(に)て却(かへ)つて速かなるべし。何ぞや其の本根(ほんこん)を堅くする時は繁榮(はんえい)其の中に存するが如し。是(これ)これを先後に由つて、大業の成不成ありと謂ふ と言上す。後に此の意を擴充(くわくじゆう)して見込書二巻を作れり。時後るゝに由つて之を奏(そう)せず。人其(そ)の書の奏(そう)せざることを惜(をし)めりと云ふ。
2023.12.08
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り37日報徳記 巻之七 【7】相馬候日光祭田再復の方法に献金す その1野州日光祭田(さいでん)二萬石(まんごく)地形高山丘陵(きうりやう)多くして平地甚だ少し。土地磽薄(かうはく)にして曾(かつ)て水田なし。下民(かみん)雑穀を以て常食となす。近年に至り水田を開くといへども十が一に至らず。往昔以來(わうせきいらい)租税甚だ輕(かろ)しと雖も下民(かみん)貧苦を免れず。天明凶荒以後多く戸口を減ず。是を以て土地蕪莱(ぶらい)し、人民彌々(いよいよ)窮せり。幕府之を憂ひ再復安民の事業を以て、二宮先生に命ず。于時(ときに)嘉永(かえい)五癸丑(みづのとうし)年二月なり。先生時に疾(やまひ)あり病苦を忍び登山し、周(あまね)く八十餘(よ)村を廻歩(くわいほ)して邑民(いふみん)を教諭し、勸農(くわんのう)に導き善を賞し貧を惠(めぐ)み、再興の仕法を施せり。下民(かみん)大いに感歎して舊弊(きうへい)頗る革(あらたま)り、荒蕪(くわうぶ)を開き勤業に赴けり。是より先き弘化元年日光村々再復の策を獻(けん)ずべしとの命あり。先生三ヶ年日夜心力を盡(つく)し衰廢(すゐはい)再興の策を筆記し數(すう)十巻を奏す。是の故に實業(じつげふ)廣施(くわうし)の命あるに至る。相馬候池田大夫(たいふ)を召して曰く、三郡再興安民の事を以て二宮に任ぜり。此の仁術に由つて國弊(こくへい)大いに改まり再復の効驗(かうけん)既に顯然(けんぜん)たり。大慶(たいけい)之に過ぐべからず。今幕府先生に委(ゐ)するに大業(たいげふ)を以てせり。未だ此の地の仕法半(なかば)に至らず、微力なりといへども報恩の道を行はざるべからず。汝夫れ之を慮(おもんぱか)れ。大夫(たいふ)命を受けて退き諸有司(しょいうし)と此の事を議す。有司(いうし)曰く、國家(こくか)の衰廢(すゐはい)極まり、上下の艱難既に六七十年、天下廣(ひろ)しといへども他の諸侯を察するに、我が國(くに)の甚だしきが如きを見ず。此の故に具(つぶ)さに艱難の事情を以て幕府に歎願し、手重き公務を免じ玉ふ事既に數(すう)十年、專(もつぱ)ら三郡再復の道に上下力を盡(つく)すといへども未だ半途に至らず。領地の荒田未だ復せず、借債數(すう)十萬(まん)尚(なほ)依然たり。斯(かく)の如き時に當(あた)りて何を以て報恩を爲(な)さんや。若し仕法を行ふこと多年にして舊復(きうふく)の時に至らば報恩の道も亦盡(つく)すことを得ん。方今(ほうこん)の爲(な)し得べき所にあらずと。大夫(たいふ)曰く、然り各々の言の如し。然りと雖も上下の道を以て論ぜば豈(あに)是至當(したう)の論ならんや。天明以來六十年餘(よ)、國(くに)の廢衰(はいすゐ)するものは國(くに)の過(あやまち)にして他の故にあらず。幕府之を憐み多年手重(ておも)の公務を免ずるものは、阜大(ふだい)の恩といふべし。然るに艱難の故を以て永く報恩の道を思はずんば、豈(あに)是れ受恩者の道ならんや。國(くに)盛んに民富む時に及びて報恩を爲す者、何の難(かた)きことか有らん。艱苦の中に處して爲し難き事に力を盡(つく)すもの僻令(たとひ)其(そ)の事は小’せう)なりといへども報恩の志(こゝろざし)は厚しといふべし。且(かつ)先生日光へ仕法開業の初めに當(あた)りて力を添(そ)ふる時は必ず其の事業成り易(やす)かるべし。今之を能はずとして後年を待つは假令(たとひ)後に幾倍の力を盡(つく)すといふとも安民の事業遅々(ちゝ)に及ばんこと必(ひつ)せり。報恩の道實(じつ)に此の時を失ふべからず。必ず疑惑を生ずることなかれ と。郡吏曰く、理は宜(よろ)しく然るべし。此の時に當(あた)りて恩を報ぜんこと大夫(たいふ)それ何を以てせんとするや。大夫曰く、我苟(いやしく)も其の道を得ずして此の言を發(はつ)せんや。前年極窮(ごくきゆう)の時に當(あた)り幕府に歎願し、金八千五百兩(りやう)を恩借せり。年々之を償ふに五百金を以てせり。今年五百金を納る時は元金皆納なり。明年より綿々として五百金を報恩として日光地再復安民の仕法に獻ぜば、十年にして五千金となる。是れ難しといへども前々分度の中より納め來れり。未だ皆納に至らずと見る時は納むるの道なしといふべからず。是に由つて艱難中といへども十年に五千金を獻ぜば、日光の窮民恩澤(おんたく)に浴し興復の事業確立すと云ふ。諸有司(しょいうし)皆之に同ぜり。是に於て此の事を君に言上し、遂(つひ)に幕府に請願し許可を得て、年々五百金を納め之を日光邑々(むらむら)再復の用度(ようど)に下し玉ふ。
2023.12.07
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り38日報徳記 巻之七 【7】相馬候日光祭田再復の方法に献金す その1野州日光祭田(さいでん)二萬石(まんごく)地形高山丘陵(きうりやう)多くして平地甚だ少し。土地磽薄(かうはく)にして曾(かつ)て水田なし。下民(かみん)雑穀を以て常食となす。近年に至り水田を開くといへども十が一に至らず。往昔以來(わうせきいらい)租税甚だ輕(かろ)しと雖も下民(かみん)貧苦を免れず。天明凶荒以後多く戸口を減ず。是を以て土地蕪莱(ぶらい)し、人民彌々(いよいよ)窮せり。幕府之を憂ひ再復安民の事業を以て、二宮先生に命ず。于時(ときに)嘉永(かえい)五癸丑(みづのとうし)年二月なり。先生時に疾(やまひ)あり病苦を忍び登山し、周(あまね)く八十餘(よ)村を廻歩(くわいほ)して邑民(いふみん)を教諭し、勸農(くわんのう)に導き善を賞し貧を惠(めぐ)み、再興の仕法を施せり。下民(かみん)大いに感歎して舊弊(きうへい)頗る革(あらたま)り、荒蕪(くわうぶ)を開き勤業に赴けり。是より先き弘化元年日光村々再復の策を獻(けん)ずべしとの命あり。先生三ヶ年日夜心力を盡(つく)し衰廢(すゐはい)再興の策を筆記し數(すう)十巻を奏す。是の故に實業(じつげふ)廣施(くわうし)の命あるに至る。相馬候池田大夫(たいふ)を召して曰く、三郡再興安民の事を以て二宮に任ぜり。此の仁術に由つて國弊(こくへい)大いに改まり再復の効驗(かうけん)既に顯然(けんぜん)たり。大慶(たいけい)之に過ぐべからず。今幕府先生に委(ゐ)するに大業(たいげふ)を以てせり。未だ此の地の仕法半(なかば)に至らず、微力なりといへども報恩の道を行はざるべからず。汝夫れ之を慮(おもんぱか)れ。大夫(たいふ)命を受けて退き諸有司(しょいうし)と此の事を議す。有司(いうし)曰く、國家(こくか)の衰廢(すゐはい)極まり、上下の艱難既に六七十年、天下廣(ひろ)しといへども他の諸侯を察するに、我が國(くに)の甚だしきが如きを見ず。此の故に具(つぶ)さに艱難の事情を以て幕府に歎願し、手重き公務を免じ玉ふ事既に數(すう)十年、專(もつぱ)ら三郡再復の道に上下力を盡(つく)すといへども未だ半途に至らず。領地の荒田未だ復せず、借債數(すう)十萬(まん)尚(なほ)依然たり。斯(かく)の如き時に當(あた)りて何を以て報恩を爲(な)さんや。若し仕法を行ふこと多年にして舊復(きうふく)の時に至らば報恩の道も亦盡(つく)すことを得ん。方今(ほうこん)の爲(な)し得べき所にあらずと。大夫(たいふ)曰く、然り各々の言の如し。然りと雖も上下の道を以て論ぜば豈(あに)是至當(したう)の論ならんや。天明以來六十年餘(よ)、國(くに)の廢衰(はいすゐ)するものは國(くに)の過(あやまち)にして他の故にあらず。幕府之を憐み多年手重(ておも)の公務を免ずるものは、阜大(ふだい)の恩といふべし。然るに艱難の故を以て永く報恩の道を思はずんば、豈(あに)是れ受恩者の道ならんや。國(くに)盛んに民富む時に及びて報恩を爲す者、何の難(かた)きことか有らん。艱苦の中に處して爲し難き事に力を盡(つく)すもの僻令(たとひ)其(そ)の事は小’せう)なりといへども報恩の志(こゝろざし)は厚しといふべし。且(かつ)先生日光へ仕法開業の初めに當(あた)りて力を添(そ)ふる時は必ず其の事業成り易(やす)かるべし。今之を能はずとして後年を待つは假令(たとひ)後に幾倍の力を盡(つく)すといふとも安民の事業遅々(ちゝ)に及ばんこと必(ひつ)せり。報恩の道實(じつ)に此の時を失ふべからず。必ず疑惑を生ずることなかれ と。郡吏曰く、理は宜(よろ)しく然るべし。此の時に當(あた)りて恩を報ぜんこと大夫(たいふ)それ何を以てせんとするや。大夫曰く、我苟(いやしく)も其の道を得ずして此の言を發(はつ)せんや。前年極窮(ごくきゆう)の時に當(あた)り幕府に歎願し、金八千五百兩(りやう)を恩借せり。年々之を償ふに五百金を以てせり。今年五百金を納る時は元金皆納なり。明年より綿々として五百金を報恩として日光地再復安民の仕法に獻ぜば、十年にして五千金となる。是れ難しといへども前々分度の中より納め來れり。未だ皆納に至らずと見る時は納むるの道なしといふべからず。是に由つて艱難中といへども十年に五千金を獻ぜば、日光の窮民恩澤(おんたく)に浴し興復の事業確立すと云ふ。諸有司(しょいうし)皆之に同ぜり。是に於て此の事を君に言上し、遂(つひ)に幕府に請願し許可を得て、年々五百金を納め之を日光邑々(むらむら)再復の用度(ようど)に下し玉ふ。
2023.12.06
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り39日報徳記 巻之七 【6】相馬候躬から領民に勧農の道を諭す その2是(これ)に於(おい)て大夫(たいふ)謹(つゝし)みて命を受け、直ちに破れたる小屋(こや)を修復し、幼君(えうくん)をして此(これ)に居(を)らしめ、婦人は悉く退け、質直(しつちょく)誠實(せいじつ)のものを選びて巵從(こじゆう)となし、教ふるに仁義を以てし導くに忠孝を以てし、朝(あさ)は未明より文學(ぶんがく)を勸(すゝ)め武道を講じ、衣(い)は綿衣(めんい)を以て常とし、食は二味(み)を重ねず。悉く艱難を以(もつ)て養育心を盡(つく)せり。是(これ)を以て其(そ)の長(ちやう)となり玉ふに至りて能(よ)く艱難に堪へ、下情(かじやう)に達し、父君(ふくん)の志(し)を繼(つ)ぎ國家(こくか)再興の大業を開き、譽(ほま)れ遠近に及ぶものは其の質(しつ)甚だ美なりといへども草野大夫(たいふ)忠心の力なり。曾(かつ)て先生此の事を聞き歎賞して曰く、夫(そ)れ諌(いさめ)めを納(い)れ愛(あい)を割(さ)くことは人情の難(かた)んずる所なり。然るに先君斷然(だんぜん)として諌(いさ)めに隨(したが)ひ、愛子(あいし)を以て艱難の地に養はしむ。且(かつ)諫言は臣の難(かた)んずる所なり。草野屡々(しばしば)諌言(かんげん)し兩君(りやうくん)をして仁政を行はしむ。君臣素(もと)より此の如くにして國家(こくか)再興せざる者はあらず。今我が仕法の彼の國(くに)に流行(りうかう)すること、實(じつ)に一朝一夕の故にあらず と。(原文漢文)高慶曰く草野大夫の君に事る要を得たる者と謂ふ可し。古自り忠義の士拮据國に勤め人主驕恣放縦諌め行はれず言聴かれず忠良廢黜し奸邪事を用るに國事日に非に百姓離畔す。知者有りと雖も之を如何ともす未だ之を如何ともする者比々是れ也。大夫夙に國家の衰を擧んと欲し是に於て進てトウ言を以て幼主をして艱難の中に安んじ儉を尚び用を節するを知らしめ位を立て嗣ぐに及びて沛然として膏澤四境に浹ねし。傳に曰く、一たび君を正して國定ると。大夫焉有り。「補注 報徳記」(佐々井典比古訳注)著者(富田高慶)は思う。草野家老が君に仕えた生き方は、要を得たものと言うべきである。古来、忠義の士が苦心して国事に勤めても、君主がわがまま放縦で、諌めも忠言も聞き入れられず、やがて忠良の臣は廃せられ、奸邪の臣が政権を握るに至って、国事は日々に非道に陥り、百姓は離反し、知者があってもどうにもしようがなくなる例が実に多い。家老は早くから国家の衰微を興そうと志していた。ここにおいて進んで直言し、幼主が艱難のうちに安んじ、倹約節用の尊きを知るように仕向けた。果たしてこの君が立って位を継ぐに及び、仁沢は慈雨の降り注ぐように四境にあまねく行き渡った。古語に「一たび君を正して国定まる」とあるが、この言葉を実行した者に草野家老がある。
2023.12.05
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り40日報徳記 巻之七 【6】相馬侯躬(みず)から領民に勧農の道を諭す その1相馬侯(そうまこう)天保某(それ)年父君益胤君(ますたねくん)の世を繼(つ)ぎ、爾來(じらい)大いに國家(こくか)の衰弱百姓の困苦を憂ひ、專(もつぱ)ら父君(ふくん)の志(こゝろざし)を繼(つ)ぎ、國弊(こくへい)を矯(た)め領民の艱難を救(すく)はんことを以て心思(しんし)を勞(らう)し、衣(い)は綿衣(めんい)を用(もち)ゐ食は味(あじは)ひを重ねず、諸人に先立ち艱難を厭(いと)はず、江都(かうと)に在(あ)つては力を公務に盡(つく)し、國(くに)に在りては春秋(しゆんしう)必ず自ら領邑(りやういふ)を巡歩し百姓の疾苦(しつく)を問ひ、大雨(たいう)暴風雪中(せつちゆう)といへども駕(が)を用ゐず、躬(み)親(みづか)ら籍田(せきでん)を耕やし民の艱難を試み、民間の老人を賞して父老を尊敬せんことを教へ、力田(りきでん)のものを賞して勸農(くわんのう)の道を教へ、幼若(えうじやく)を導くに孝悌(かうてい)を以てし、貧民を安撫(あんぶ)して其の業(げふ)を勵(はげ)ましめ邑々(むらむら)の盛衰人氣(にんき)の善悪を直見(ちょくけん)し、諭(さと)すに二宮の良法を以てし玉ふ。領民君(きみ)の仁心深くして民を憐み玉ふことの厚きに感じ、汚風(をふう)を革(あらた)め家業を勵(はげ)み、君の憂勞(いうらう)を安んじ奉らんとす。是を以て彌々(いよいよ)先生の道廣(ひろ)く行はれ、大いに風化(ふうくわ)することを得たり。且(かつ)忠臣を擧(あ)げ政(せい)を任じ、能(よ)く臣下の諌(いさ)めを納(い)れ、善言を求めて以て速かに之(これ)を行ひ、臣下過(あやま)ちありといへども、教諭(けうゆ)を加へ改心せしむるを以て先とし人を廢棄(はいき)せず、屡々(しばしば)先生を招き禮(れい)を厚くして教を請ひ、其の論説を聞き大いに悦び、益々(ますます)其の道を施行(しかう)し、群臣に仕法の良善なることを諭(さと)し、仕法に力を用ゐる臣下を召(め)して屡々(しばしば)其の勞(らう)を慰(ゐ)し厚く賞譽(しやうよ)を下し玉ふ。是(これ)を以て諸臣感激し再興の道を成就し、君意を安んぜんことを以て今日の專務(せんむ)とせり。美名他邦(たはう)に響き賢君を以て稱(しょう)するに至れり。其の初め幼若(えうじやく)の時に當(あた)り、先君甚だ之を愛して膝下(しつか)に養育し玉ふ。草野大夫顔色(がんしよく)を正し諌(いさ)めて曰く、君(きみ)豊丸君(とよまるぎみ)を愛し玉はゞ、必ず艱難の地に於(おい)て養育し玉ふべし。古(いにしへ)より人君(じんくん)幼(えう)にして深宮(しんきゆう)に居(を)り婦人の手に長(ちやう)じ玉ふもの、往々闇愚(あんぐ)にして嘗(かつ)て下民の艱苦を知らず。奢侈(しやし)に流れ放肆(ほうし)に陥り、遂(つひ)に國家(こくか)の衰廢(すいはい)に赴(おもむ)くこと珍しからず。今國家(こくか)の衰弱百姓の艱難は、君(きみ)の明らかに知り玉ふところなり。此(こ)の君をして艱苦に長じ賢明ならしめば、父君(ふくん)の善政を地に墜(おと)さず、一藩を憐み百姓を撫育(ぶいく)し、國家(こくか)再興の政(せい)成就すべし。若し愛(あい)に泥(なず)み婦人(ふじん)の手に長(ちやう)ぜしめ玉はゞ、庸君(ようくん)にして艱苦を厭(いと)ひ、臣下の言を用ゐず、稼穡(かしょく)の艱難は何(なに)ものなることを辨(わきま)へ玉はざるに至らんか。然らば君(きみ)一世の丹誠を以て國事(こくじ)を憂勞(いうらう)し玉ふことも一時に廢(はい)し永(なが)く再盛を断ぜん。誠に君の不幸而已(のみ)にあらずして一國(こく)上下(しやうか)の大患(たいくわん)なり。夫(そ)れ生まれながら賢聖なるは億萬(おくまん)中といへども得難し。假令(たとひ)性質賢なりといへども艱難を經(へ)ざる時は其の美質(びしつ)顯(あらは)はれずして、仁恕(じんじよ)の心薄し。況や其の次をや。是れ古人(こじん)切磋琢磨(さつさたくま)の功を重んずる所以(ゆゑん)なり。臣幼君(えうくん)をして、上(かみ)忠孝を盡(つく)し下(しも)百姓を惠(めぐ)み玉ふの賢君ならしめんことを願ふ而已(のみ)。君それ之を慮(おもんぱか)れ。先君感賞(かんしやう)して曰(いわ)く、汝(なんぢ)の言(げん)誠に國家(こくか)を憂ひ予(よ)が父子(ふし)を愛するの忠言といふべし。故に今直(たゞ)に此(こ)の子を以て汝(なんぢ)に委(まか)せん。進退養育の道余(よ)敢(あへ)て言はず。汝(なんぢ)が意(い)に任せよと命ず。
2023.12.04
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り41日本日の報徳記は相馬藩の家老の草野正辰が主君益胤(ますたね)公を諫言する名場面である。草野正辰という人の人となりについては先にあげた。おそらく日本において史記の名臣列伝のようなものが作られるとするならば、この草野大夫(家老)も候補としてよいのではないかと思われる。相馬藩は600年の伝統をほこる伝統を誇る6万石の名藩であった。場所は福島県北部で、仙台に近い。元禄年間に、検地を行い、新たに3万8千石を加え、年貢米が倉庫にあふれた。しかし、幸いと見えたものが実が困窮の始まりで、一反の田んぼを一反として厳しく年貢をとりたてたため、百姓は生活がなりたたなくなり、困窮に陥り逃げ出すものが多くなった。また家臣団も収入が増えたため、しらずしらず贅沢になって、かえって困窮するようになった。藩の収納は従来の3分の2にまで落ち込み、それを補うのに富商から借金したため、いつしか借金も30万両に及び、一年の租税をその利子にあてても足らないようになった。このとき、時の郡代の草野正辰と池田胤直がこのままでは藩が破綻してしまいます。君自らが節制につとめ、一万石の諸侯の生活にきりつめ、非常の厳法を立てるべきときですと直言した。君主益胤(ますたね)公は「誠に的論である。二人心をあわせてこの改正を行え」と命じた。そして今日のエピソードはそうした艱難の中にあっての君主の跡継ぎの養育についてである。益胤(ますたね)公の長子を豊丸君といった。父は大変この子をかわいがって養育していた。あるとき草野は顔色を正して諌めた。「殿が豊丸君を愛されているのであれば、必ず艱難の地において養育されるべきです。昔から君主として幼いときから、深宮の女性ばかりのところでちやほやされて成長したものは、往々暗愚となり、民の苦労を知りません。知らずに贅沢に流れ、気まま勝手となり、遂には国の衰退になりかねません。今当藩の百姓の困窮ぶりは殿自らよく知るところです。この豊丸君を艱苦の中で成長させ賢明に育てれば、きっと父君の善政を地に落とすことがないでしょう。百姓を恵み憐れみ国が再興すること間違いありません。もし愛になずんで婦人の手だけで成長させるならば、艱苦を嫌い、臣下の直言を用いず、民間の苦労を理解できないものとなるかもしれません。すると殿が丹精して国家を再び盛んにしようという志も空しくならないとも限りません。生まれながら賢者や聖者であるのは億万でも得がたいものです。またたとえ生まれつき賢者であったとしても、艱難を経なければその美質は顕れず、人に対する優しさが薄いものです。ましてや賢者でないものはなおさらです。これが昔から切磋琢磨が重んじられる理由です。私は若君が忠孝をつくし、百姓を恵むような賢君であるように願ってもうしあげるだけです。」すると益胤(ますたね)公は、その忠言に感嘆され、直ちに豊丸君を草野前に預けられた。草野は壊れた小屋を修理し、質直誠実の者を選んで従者とさせ、仁義を教え忠孝に導き、朝早くから学問を勧め、武道をならわせた。木綿の着物で二食にとどめ、艱難の中で養育させた。豊丸君は長じて、父の後を継ぎ、充胤公として明君の誉れを高くした。父の志を継いで、国政の建て直しに率先してあたり、江戸にあっては公務に尽力し、国もとでは必ず領内をめぐり、百姓の苦しみを問い、大雨や暴風、雪のときもカゴを用いず、みずから田を耕し、民間の父老を尊敬することを教え、農業を勧め、貧民に助成を行って勤労を励まし、二宮尊徳先生の仕法を施行したのであった。尊徳先生は草野の直言の話を聞かれて、感嘆してこういわれた。「諌めを聞き入れて愛を割くことは人情からいって難しいところだ。先君は断然草野の諌めにしたがって、愛するわが子を艱難の地で養わせた。諫言は臣の難しいとするところだ。草野はしばしば諫言し、父子の二代にわたって仁政を行わせた。君臣がこのようであって、国が再興しないはずがない。今私の仕法が相馬藩でしっかり行われているのは、実に一朝一夕のゆえではない。」
2023.12.03
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り41日報徳記巻之七【5】相馬領村々再復三郡風化大いに行はる その2後領民彌々(いよいよ)仕法を慕ひ争(あらそ)ふて業を勵(はげ)み、歎願止む時なし。年々發業(はつげふ)の村數(そんすう)五十ヶ村に及び、安政三年に至り開業以來(いらい)既に十年なり。全く舊復(きうふく)する處(ところ)の村數(そんすう)十五邑(いふ)にして領中舊來(きうらい)の惰風(だふう)一變(ぺん)し、人民を撫育(ぶいく)せり。十年間撫術(ぶじゆつ)の用財多しといへども、本源立つて動かざるが故に、彌々(いよいよ)惠(めぐ)みて彌々(いよいよ)盡(つ)きず。先生曰く、國本(こくほん)を立て惠民(けいみん)の道を行ふこと既に十年約(やく)の如くせり。十年一節(せつ)分度(ぶんど)の改正を行ふべし。是(こゝ)に於(おい)て六萬(まん)六千苞(ぺう)の分度を増して七萬餘(まんよ)の分度となし、國(くに)の用度一藩の扶助其(そ)の至當(したう)を以て後十年の分度を定む。一藩諸士積年の困苦を補ひ、君恩の忝(かたじけな)きを感じ、良法の良法たる所以(ゆゑん)を辨(わきま)へたり。先生曰く、相馬の領邑(りやういふ)再復の事を依頼ありと雖も、我公務暇(いとま)あらざるが故に、一度彼(か)の地に至り、自ら指揮して其(そ)の道を行ふことを得ず。惟(たゞ)遙(はる)かに江都(かうと)にあり、又は野州にありて其の事を指揮するのみ。何ぞ深理を盡(つく)すことを得んや。然りと雖も其(そ)の大體(だいたい)を守りて之を行ふ時は、此(こ)の如きの國益(こくえき)あり。若し我一度彼(か)の地に臨み、盛衰の本(もと)を明らかにし人民(じんみん)の風俗を觀(かん)じ、土地の厚薄(こうはく)を察し、教へを下(くだ)し永久繁榮の本源を開き、大いに國家(こくか)の大益を興(おこ)さば、數年(すうねん)ならずして上下安堵(あんど)の道を得んこと疑ひなし。惜しむらくに一度彼の地に至ることを得ず。然りと雖も僅か十年にして國俗(こくぞく)既に一變(ぺん)し頗(すこぶ)る勤農篤實(とくじつ)に歸(き)し、上下の大患(たいくわん)略(ほゞ)脱(だつ)するに至れり。此の後君公(くんこう)を初め群臣共に國本(こくほん)の分度を堅守し、奢侈(しやし)の端を開かず、年々惠政(けいせい)の足らざる事を以て憂ひとし、目前の損益に惑はず永世(えいせい)の爲(ため)を量(はか)り、此の仕法を行ふ時は、國家(こくか)再興は勿論餘澤(よたく)他邦(たはう)に及ばんこと窮まりなかるべし。我幼年より心思(しんし)を盡(つく)し、此の道を發明(はつめい)し、三十有餘年(いうよねん)諸方の求めに應(おう)じ仕法を施したりといへども其(そ)の時を得ざるか、諸候往々(わうわう)道を守り玉ふことあたはずして中廢(ちゆうはい)せり。獨(ひと)り相馬而已(のみ)初約(しょやく)を守り連綿(れんめん)として行ふこと既に十年、頗(すこぶ)る仕法の効驗(かうけん)あり。惟(たゞ)歎ずべきは非常(ひじやう)の忠臣草野池田兩(りやう)大夫(たいふ)既に終焉(しゆうえん)仕法の成功を見ざることのみ國家(こくか)の不幸と謂(い)ふべし。然れども大夫(たいふ)誠忠領中に満てり。将來(しやうらい)を慮(おもんぱか)り群臣に選(えら)みて忠義の臣を薦(すゝ)め有職(いうしよく)たらしむ。今在職の臣益々(ますます)君公の仁を擴充(くわくじゆう)し、兩(りやう)大夫(たいふ)の忠を繼(つ)ぎ、周(あまね)く萬民(ばんみん)を救ひ國家(こくか)をして泰山(たいざん)の安きに置かんとして、心力(しんりよく)を斯(こゝ)に盡(つく)すことあらば、豈(あに)一國(こく)の民の幸いのみならんや。國家(こくか)再興の道實業(じつげふ)は未だ其(そ)の半(なかば)に至らずといへども、其(そ)の理は既に七八分(ぶ)に及べり。大業(たいげふ)の成不成は天にも在(あ)らず地にもあらず、惟(たゞ)君(きみ)と執政(しつせい)との一心(しん)にあり。苟(いやしく)も君と執政(しつせい)との一心他事に轉(てん)ずる時は、百年の勲勞(くんらう)も水泡(すゐはう)の如く、落花(らくくわ)の風に散ずるが如し。古(いにしへ)より明君賢臣の共に出(いづ)る時は、國家(こくか)豊富にして百姓其(そ)の業を樂(たの)しめり。然れども實(じつ)に千歳(さい)の一時(じ)にして百姓常に困苦せり。然るに今中村領君(きみ)仁心ありて臣忠義を主とす。加ふるに萬民(ばんみん)安撫(あんぶ)の仁政を以てせり。相馬開國(かいこく)以來(いらい)六百餘歳(よさい)に及び、始めて國民(こくみん)此(こ)の澤(たく)を被(かう)むることを得たり。實(じつ)に千歳(さい)の一時にあらずや。此(こ)れ時(とき)の得がたくして失ひ易(やす)きことを顧(かへり)み、仕法の成る所以(ゆゑん)を以(もつ)て力を盡(つく)し、仕法の敗(やぶ)るゝ所以(ゆゑん)を以て戒めとなし、私心を除き誠心を專(もつぱ)らとして、益々(ますます)永安の道を行(おこなは)ば何(なに)の成らざることか之(これ)あらんや と。衆人之を聞き、先生の誠心限り無く、後年(こうねん)を憂ひ慮ること深切(しんせつ)なるを感歎して、相馬仕法の終(をわり)を全くせんことを希望せりと云(い)ふ。
2023.12.03
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り42日報徳記 巻之七 【5】相馬領村々再復三郡風化大いに行はる宇多郷(うたがう)成田邑(むら)仕法開業の始めにして、大いに撫育(ぶいく)の道を施し、善人(ぜんにん)を賞し不善人(ふぜんにん)を教へ、善に歸(き)せしめ、困民(こんみん)を惠(めぐ)み、或(あるひ)は屋(をく)を葺(ふ)き雨露(うろ)の憂(うれひ)を除き、或(あるひ)は新家(しんや)を與(あた)へ其(そ)の居住(きょぢゆう)を安(あ)んじ、或(あるひ)は馬屋(うまや)灰屋(はいや)を作り農馬を與(あた)へ耕作の勞(らう)を補(おぎな)ひ、又は米穀(べいこく)農器を與(あた)へ本業を勵(はげま)し、或(あるひ)は舊來(きうらい)貧困に迫り、毎家(まいか)他の財を借り、元利増倍之(これ)を償(つぐな)ふこと能(あた)はず、之を調(しら)べ無利息金を賑貸(しんたい)し、借債悉く償ひ盡(つく)さしめ、教ふるに五常(ごじやう)の道を以てし、導くに勤業(きんげふ)永安(えいあん)の道を以てす。下民(かみん)仁澤(じんたく)の限りなきことを感じ、怠惰汚俗を革(あらた)め互(たがひ)に善に進み農を勵(はげ)み、信義推讓(すいじやう)の行(おこなひ)を立つるを以て本意(ほんい)とす。弘化(こうくわ)五申年(さるとし)に至り、發業(はつげふ)以來(いらい)僅(わずか)かに四年を經(へ)て、荒地(くわうち)悉く開け舊復(きうふく)の道成(な)る。先生曰く、此の邑(むら)舊復(きうふく)の時至れり。猶(なほ)永續(えいぞく)の道を與(あた)ふべし と毎戸(まいこ)老幼を選(えら)まず一人(いちにん)籾(もみ)六俵(へう)を以て度(ど)となし、之を積みて以て後年凶荒(きようこう)の豫備(よび)となし通計籾(もみ)千三百苞(へう)を與(あた)ふ。邑民(いふみん)益々(ますます)悦(よろこ)び毎家(まいか)の憂苦艱難已(すで)に免れたり。願はくば此の良法を他邑(たいふ)に移し玉ふべしと一村擧(こぞ)つて出願す。是(こゝ)に於(おい)て其(そ)の願に應(おう)じ一人毎(ごと)に賞金を與(あた)へ、向後(こののち)益々(ますます)勉勵(べんれい)す可(べ)く、再(ふた)たび艱難に陥らず永久無事に相續(そうぞく)せよ と諭(さと)し、北郷(きたがう)横手村に仕法を移せり。成田の邑民(いふみん)皆感泣して恩を謝(しや)せり。北標葉郷(きたしめはがう)高瀬村も亦(また)恩澤(おんたく)周(あまね)く年來(ねんらい)の貧窮既に脱し、他邑(たいふ)に仕法を移し玉へと請(こ)ふ。此の邑(むら)數年(すうねん)の衰弊尤(もつと)も甚だしく、農力を以て自ら養ひ他の力を借らざる者は、邑中(いふちゆう)僅かに三五人而已(のみ)。餘(よ)は悉(ことごと)く借債を以て極貧(ごくひん)を凌(しの)ぎ、男女共(とも)に博奕(ばくえき)を以て常(つね)となし、風俗大いに亂(みだ)れ、田野荒蕪(くわうぶ)し如何(いかに)ともなすべからざるに至れり。良法を下すより僅(わづ)かに三年にして、舊弊(きうへい)を洗ひ勤農(きんのう)篤實(とくじつ)の行ひと一變(ぺん)せり。同年三月之を惠(むぐ)むこと成田村の如くにして、遂(つひ)に隣村牛渡(うしわたり)樋渡(ひわたり)兩邑(りやういふ)へ移せり。高瀬(たかせ)の男女感動涕泣(ていきふ)して、恩を謝し報恩の志(し)を發(はつ)し、空地(くうち)を選び杉木四萬(まん)株を植(う)ゑて報恩の驗(しるし)となす。先生遙(はるか)に此の事を聞き、歎じて曰く、嗚呼(あゝ)、古言(こげん)に曰く、百姓罪あらば、罪朕(ちん)が身にあり と。至言(しげん)といふべし。上(かみ)仁なる時は民(たみ)義あり、上(かみ)信なる時は民禮(れい)あり、上(かみ)惠(けい)なる時は民其の恩を報ず。上(かみ)無道なる時は民亦(また)暴なり、君(きみ)貪(むさぼ)る時は民心(みんしん)汚悪(をあく)に流れ、放僻邪肆(ほうへきじやし)至らざるところなく衰亡の禍(わざわひ)發(はつ)す。治亂(ぢらん)盛衰存亡安危(あんき)悉(ことごと)く民にあらずして上(かみ)人君(じんくん)の政(せい)にあり。譬(たとへ)ば影の形に應(おう)ずるが如し。今相馬の貧村無頼(ぶらい)弊風(へいふう)極(きはま)りたりといへども、一度仁政を施し之を惠恤(けいじゆつ)するに至りては、人民(じんみん)舊染(きふぜん)の汚俗をすゝぎ貧苦を免れ、固有の善心を發(はつ)し報恩の志(し)導かずして發動(はつどう)せり。是(これ)に由(よ)つて之を見れば天民(てんみん)何ぞ不善者あらんや。未だ善ならざる者は人君(じんくん)仁政の至らざるが故なり。苟(いやしく)も上(かみ)の仁心餘(あま)りある時は、何ぞ國(くに)の盛(さか)んならざる事を憂へんや。一二の邑(むら)此(こ)の如くなる時は、天下萬億(まんおく)の邑民(いふみん)も同一なり と。門人之を聞き彌々(いよいよ)良法の顯然(けんぜん)たることを嘆美(たんび)せり。
2023.12.02
現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。ご支援くださるようお願いします!!報徳記巻之六【9】草野正辰先生の良法を聞き國民を安撫せんとすその文意の略(りやく)に曰く、國家(こくか)の大業を爲(な)すこと衆人の意見に從(したが)ふ時は必ず之を遂(と)ぐることあたはず。何となれば庸人(ようじん)の見る所は千里の遠きに及ばず、且(かつ)人を計(はか)るに己の心を以て度(ど)とせり。何ぞ賢者の心(こゝろ)公(おほやけ)に在りて一毫(がう)の私(し)を生ぜず、百姓を安んぜんとして我が身を忘るゝの至誠を察することを得んや。然らば則ち今二宮の事を聞き、疑惑を生ずるもの亦(また)宜(うべ)ならずや。元より其の賢なることを知らずんば、何ぞ猥(みだ)りに可否を論ずることを得ん。然して疑惑の故を以て、身を退くと雖も同意せずと云ふものは、是れ自己の見(けん)を立て國家(こくか)永安(えいあん)の道を拒(ふせぐ)ものにあらずや。國(くに)の中興を拒(ふせ)がば、僻令(たとひ)積年の忠勤ありとも今は之を不忠の臣といふべし。不忠の者を退け、賢を用ゐざれば何を以て六十年餘(よ)の衰國(こく)を擧(あ)ぐることを得ん。諸臣の進退君(きみ)より曾(かつ)て貴兄(きけい)に任じ玉ふ。速かに事を決し君家(くんか)の大幸(たいこう)を開くこと當時(たうじ)の急務なり。若し衆議に倚(よ)りて猶豫(いふよ)を懐かば大事斯(こゝ)に廢(はい)せんか。國家(こくか)再復の道は群臣にあらずして貴兄の一心にあり と云々(うんぬん)。此の如く書を贈り、猶(なほ)屡々(しばしば)先生に至りて國(くに)の衰廢(すゐはい)百姓の困苦する事情を述べて、之を再盛せんことを問ふ。先生元より衆人に逢(あ)わず。容易に交わりを許さず。大夫(たいふ)之を知り勘定奉行(かんぢやうぶぎやう)以下を僻(かり)に從者(じゆうしや)となして、先生に至り別坐(べつざ)にあらしめて其の高論名説を聞かしむ。是(これ)に依(よ)つて江都(かうと)にあるものやゝ感動するもの多し。人々大夫(たいふ)の誠忠なることを歎美(たんび)せり。然して草野大夫(たいふ)の書翰(しよかん)中村に達し、池田大夫(たいふ)之を閲(けみ)し意中に悦び、役所に至り諸(しょ)有司(いうし)に謂(い)ひて曰く、各々政務を二宮に委(ゐ)せんこと然るべからずとの異見(いけん)具(つぶ)さに江都(かうと)に達せり、即ち返書來(きた)れり。各々之を一見(けん)して再び異見(いけん)を述ぶべしと轉見(てんけん)せしむ。有司(いうし)之を閲(けみ)し色を變(へん)じて一言を發(はつ)せず。大夫(たいふ)曰く、今君(きみ)將(まさ)に二宮の道を行(おこな)はんとし草野之が爲(ため)に力を盡(つく)すこと此の如し。某(それがし)も亦元より同感也。然れども國家(こくか)の再復は大業(たいげふ)也。豈(あに)一二人(にん)の力に及ばんや。衆皆心力(しんりよく)を同じくするに非ざれば成るべからず。草野已(すで)に老年に及べり。一日の後(おく)れんことを憂ふるは忠誠の致す所なり。然れども衆議(しゆうぎ)決せざる時は永久(えいきう)の道は行はるべからず。各々異見有らば遠慮なく發言(はつげん)すべしと。是(こゝ)に於(おい)て有司再び其の不可を論じて未だ決せず。君公くんこう)中村の衆議決せざるを聞き玉ひ、草野を召して曰く、凡(およ)そ目前の事だも猶(なほ)疑惑を生ずるは凡情(ぼんじやう)の常(つね)也。今百里を隔てて以て二宮深遠の道理を聞き、安(いずく)んぞ能(よ)く解することを得んや。國政(こくせい)元より汝と池田に任ぜり。速やかに池田を呼び二宮に面會(めんくわい)せしめ、然る後事を決せよ と命じ玉ふ。大夫謹(つゝし)みて命を受け直ちに君命を達す。池田大夫(たいふ)不日(ふじつ)に中村を發(はつ)して江都(かうと)に至る。君召(め)して曰く、汝を呼ぶこと別事にあらず。二宮なるもの人となり古賢に耻(は)ぢず。衰國(すゐこく)を興(おこ)し百姓を撫恤(ぶじゅつ)すること至れりと謂(い)ふべし。我が國(くに)の再興を以て之に倚(い)せんとす。汝草野と共に力を盡(つく)し此の事を成就せよ と命じ玉ふ。大夫(たいふ)謹(つゝし)みて命を受け、是より兩(りやう)大夫(たいふ)同心協力先生の良法を聞き君意を安(やす)んぜんとして心思(しんし)を盡(つく)せりと云ふ。(原文 漢文)高慶曰く、君に事ふるに忠を以てし民を懐るに徳を以てし國家をして常に久安の地に在らしめる者は大夫の任に非ずや。今池田草野二大夫の國に勤るを観るに鞠躬盡瘁數十年を累ね、尚ほ以て足らずと爲す。而して益を求むるの志老に至て益々厚し。群有司紛々争議の際に當て、寛以て之を導き温以て之を諭し、誠を積て以て群疑を釋く。曾て一人を斥罰するに及ばず。而して協心勠力衰を振ひ廢を擧るの業成れり。識量超絶にして能く大任に堪る者に非ずや。然りと雖も明主之を信じ厚く之に任ずるの專を有するに非る自りは、二大夫の賢と雖も豈能く此に至るを得んや。「補注 報徳記」(佐々井典比古)著者(富田高慶)が思うに、忠をもって君に仕え、徳をもって民をなつけ、国家を常に永安の態勢に置くのが、家老の任務ではあるまいか。いま池田・草野二家老の国家に勤める態度を見るに、身命をなげうち粉骨の労をつくして数十年を重ね、なお忠勤がたりないとしておった。そして国益を求める志は、老いてますます厚かった。諸役人の紛々たる争論に際して、寛大にこれを導き、温和にこれをさとし、至誠を積んで彼らの疑惑を解き、ついに一人も退け罰するに及ばなかった。そして心をあわせ力をそろえて、衰廃振興の大業を成就した。まことに、その卓抜な見識と度量によって、よく家老たるの大任に堪えたものと言えよう。しかしながら、明君がこれを信じ、厚くこれに委任して変わらなかったことがなかったらば、二家老がいくら賢臣でも、到底その成果を見るに至らなかったであろう。現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。
2023.11.11
現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。ご支援くださるようお願いします!!報徳記巻之六【9】草野正辰先生の良法を聞き國民を安撫せんとす群臣服せずして曰く、某等(それがしら)の論ずる處(ところ)一己(こ)の私にあらず。國家(こくか)をして過(あやま)ちなからん事を欲してなり、今兩(りやう)大夫是非(ぜひ)に此の事を發(はつ)せんとならば、微力(びりょく)之を止(と)むることを得ず。然れども心服せずして雷同する事は又(また)爲(な)さざる所也。強(し)ひて用ゐんとせば某等(それがしら)を退け、餘人(よじん)に命じて然る後に此の仕法を行ひ玉ふべし。某等(それがしら)の知る所にあらずと云ふ。大夫(たいふ)笑ふて曰く、子(し)の輩(はい)と共に家國(かこく)を憂ふること既に三十年、今良法を得て行はんとするも、國家(こくか)の永安を願ふが故なり。積年忠義を瑳(みが)く所の各々を廢して、以て事を擧(あ)げんとするは、豈(あに)是れ我が心ならんや。先(ま)づ論評の趣きを以て草野へ傳達(でんたつ)せんと云ひて退き、具(つぶさ)に此の事情を書して江都(かうと)に贈り、再び思(おも)へらく二宮不凡(ふぼん)の明哲なること疑ふべからず。此の人に依り再興の仁術を得ば國(くに)の盛時に復せんこと必ず年を期して待つべし。然りと雖も群臣の疑惑未だ解(かい)せず、強(し)ひて此の事を決せんとせば、功臣退去の憂ひを免れず。從容(しようよう)として説諭數(すう)回に及び、一同の惑ひを解(かい)し、其の心服を待(ま)ちて然る後依頼の事に及ぶに如(し)かざるなり。善を求むる事速やかなるを以て道とすと雖も、諸人(しょにん)の不服を如何(いかに)せんやと。是に於て數(すう)日役所に出て辯論(べんろん)説解を盡(つく)し衆疑を散ぜんとすれども疑惑盛んにして解(かい)せず、大夫心中甚だ之を憂ふ。時に江都(かうと)に於て草野大夫(たいふ)池田大夫の返翰(へんかん)を得て之を閲(けみ)するに衆疑紛々(ふんぷん)として決せず。一旦に事を爲(な)さば、諸有司(いうし)退くの憂あらん。説諭を盡(つく)し時を待つには如(し)かずと云々(うんぬん)。大夫歎じて曰く、嗚呼(あゝ)是れ何ぞ怪(あやし)むに足らんや。古(いにしへ)より以來(いらい)百世の計を爲(な)すもの、何ぞ凡庸(ぼんよう)と共に謀(はか)ることを得んや。聖人を知るもの其の知聖所(せいしよ)に至らずんば知る事あたはず。賢を知る者賢者にあらざれば何を以て其の賢なることを知らんや。今二宮心に一毫(がう)の私念を存せず。萬民(ばんみん)を惠(めぐ)むこと天地の萬物(ばんぶつ)を生育(せいいく)するを以て法とせり。豈(あに)平常のものゝ計(はか)り知る所ならんや。疑惑元より當然(たうぜん)なり。然して池田諸臣の心服を待ちて事を爲(な)さんとするは萬全(ばんぜん)の道なりと雖も、之を待つ時は必ず機會(きくわい)を失はん。文化改正以來(いらい)心力(しんりょく)を盡(つく)すこと斯(こゝ)に三十年、我既に極老(きょくらう)に及べり。然るに先生に逢(あ)ふて國(くに)の再興明瞭(めいれう)の道理を聞き、之を行はんとするに一日の後(おく)れんことを惜(をし)めり。此の時に當(あた)りて凡庸(ぼんよう)疑惑の解(かい)するを待たば、所謂(いはゆる)日暮れて路(みち)遠しの譬(たとへ)に均しからん。早く政教(せいけう)の指揮を二宮に依頼せんには如かざる也(なり) と。直(ただ)ちに筆を操(と)り再び書翰(しょかん)を池田大夫に贈れり。現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。
2023.11.10
現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。ご支援くださるようお願いします!!報徳記巻之六【9】草野正辰先生の良法を聞き國民を安撫せんとす池田大夫之を聞き諸臣を諭(さと)して曰く、各々(おのおの)疑ふ所一理あるに似たりといへども、其の人となりとを知らず。其の事業を直見(ちょくけん)せざるが故に疑惑度(ど)に過(す)ぎたるの過(あやま)ちなしとすべからず。それ大久保候は天下の執權にして賢明の名高く萬事(ばんじ)公(おほやけ)を主として私(し)に出でず。天下其(そ)の澤(たく)を被ること多(おほ)し。此の君の明知を以て農間(のうかん)より二宮を撰擧(せんきよ)し委任するに野州(やしう)の衰廢(すゐはい)興復の事を以てし、全功を奏するを待ちて以て小田原十一萬石(まんごく)餘(よ)の政(せい)を任ぜんとす。其の事果たさずと雖も既に野州の功業(こうげふ)全備し、餘澤(よたく)隣國(りんこく)に及び、良法を下(くだ)す所一として其の功(こう)顯然(けんぜん)たらざるものなし。遂(つひ)に事業發聞(はつぶん)して幕府に召さる。豈(あに)子輩の疑ふ所の如くならんや。若し此の人に就(つ)きて此の疑ひを問はば、必ず疑ふ可(べ)きの事なきのみに非(あら)ず。大いに深理(しんり)の存する所ある可(べ)し。昔(むかし)聖賢の國家(こくか)を治むるや、其の賢なることを聞く時は卑賤(ひせん)の匹夫(ひつぷ)といへども之を登用して位(くらい)を讓(ゆづ)り、或は宰相(さいしやう)となして天下の政(せい)を任ぜり。今二宮の賢(けん)を以て之に教(をし)へを求め、國(くに)の再興を依頼せば、之を君の美徳(びとく)とこそ謂ふべけれ、何(なん)ぞ國(くに)の耻辱(ちじょく)とせんや。其の成不成(せいふせい)を疑(うたがふ)ふ時は賢を用ゐることあたはず。僻令(たとひ)聖賢なりといへども用ゐるに其の道を得ざる時は、必ず功を成すことあたはず。過(あやま)りて不肖(ふせう)を用ゐるといふとも、君明らかに臣忠あらば、何を以て國(くに)の憂ひを生ぜんや。如(し)かず試みに一二邑(いふ)を委(ゆだ)て其の仁術如何(いかん)を見るには、何(なん)ぞ徒(いたづ)らに遠路(ゑんろ)を隔て疑惑に日を送る事を是(ぜ)とせん。草野老人度量識見常人に卓越せり。何ぞ石を以て玉(たま)と云(い)はんや。速やかに君命に隨(したが)ひ依頼せんには如(し)かざる也と示せり。 現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。
2023.11.09
現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。ご支援くださるようお願いします!!報徳記巻之六【9】草野正辰先生の良法を聞き國民を安撫せんとす是(これ)に於(おい)て彌々(いよいよ)諸臣に示す事深切著明なり。聞く者數(すう)十度に及び漸々(いよいよ)信ずるに至れり。時に奥州(あうしう)中村に於(おい)て、池田大夫(たいふ)書翰(しよかん)を披見(ひけん)し大いに悦(よろこ)びて曰く、我(われ)遙(はる)かに先生の高徳を聞き之を慕ひ、一度野州に至り教示(けうし)を請(こ)はんと欲すと雖も其の時を得ず。一條(でう)をして國事(こくじ)を問はしむるに面會(めんくわい)をも得ず、手を空(むな)しくして歸(かへ)れり。然るに今草野老人先生に見(まみ)ゆることを得て此の書翰(しよかん)に及べり。國家(こくか)の大幸(たいかう)時を得たりといふべし。此の大業(たいげふ)を二宮に依頼せば積年の微忠(びちゆう)必ず達せん。速かに群臣に示し、上(かみ)君位を安んじ下(しも)百姓を撫(ぶ)せんこと此の時を失ふべからずと。深思を運(めぐ)らし良法の所以(ゆゑん)を辨明(べんめい)し、且(かつ)國家(こくか)再興の事業依頼のことを談ず。群臣曰く、君家(くんか)世々(よゝ)此の邦内(ほうだい)を治め玉ふこと既に六百有餘歳(いうよさい)、盛衰ありといへども遂(つひ)に他の力を借らず。天明以來(いらい)衰弱極れりといふべし。然(しか)りといへども君臣上下艱難を盡(つく)し、下民(かみん)を撫育(ぶいく)し廢地(はいち)を開き來民(らいみん)を招き、或(あるひ)は溝洫(こうききょく)を浚(さら)へ用水を通じ、年々戸數(こすう)を増し頗(すこぶ)る難場を凌(しの)がせ玉ふもの、實(じつ)に君(きみ)大夫(たいふ)以下の盡力(じんりよく)にあり。假令(たとひ)二宮抜群(ばつしゆつ)の才徳ありて、其の廢衰(はいすい)を擧(あ)げ百姓を撫育(ぶいく)すること至れりといふとも、是は通常に比較するの論なるべし。當國(たうこく)永年(えいねん)の民政に競(くら)ぶる時は、何を以て此の右に出(いで)んや、却(かへ)りて如(しか)ざる事遠かるべし。且(かつ)其の事跡を聞くに至ては疑ふべき者甚だ多し。一身(しん)を諸人(しよにん)の爲にナゲウち、艱苦を盡(つく)して他人を惠(めぐ)むこと子(こ)の如しと。數(すう)千年の古聖賢(こせいけん)の行ひは己(おの)れに克(か)つを以て主(しゆ)とす。宜(よろし)く此の如くなるべし。叔世(しゆくせい)の人情私欲のみ盛ん也(なり)。今の世に當(あた)りて聖人有りと云ふとも、豈(あに)人の信ずべきことならんや。是れ疑ふ可(べ)きの第一なり。又聞く他邦(たほう)を興(おこ)さんとするに種金(たねきん)として、其の始めに財を贈り事を發(はつ)すと云ふ、素(もと)より貧國(ひんこく)の中に於て財を生じ富國(ふこく)となすの良法なりとす、何(なん)ぞ種金を用いんや。且(かつ)當國(たうこく)窮せりといへども國家(こくか)を興(おこ)すに何ぞ僅々(きんきん)たる種金を出(いだ)すことを難(かた)しとせん。然るを二宮其の始めに米金(べいきん)を入るゝこと取らんとすれば先(ま)づ之に與(あた)ふるの類(るゐ)に非(あら)ざるを知らんや。是れ疑ふ可(べ)きの二つ也。又聞く野州隣國(りんこく)の諸侯多く國政(こくせい)を委(ゆだ)ねたりと。夫(そ)れ窮國(きゆうこく)艱難に迫るときは後年の善悪を慮(おもんぱか)るに暇(いとま)あらず、目前(もくぜん)の入財を以て一時の困迫を補ふを以て善しとす。何ぞ當國(たうこく)の政(せい)を以て之に傚(なら)ふの道有らん。一旦(たん)之に政(せい)を倚(い)して其の事成らず。却(かへ)つて國弊(こくへい)となり後の憂(うれ)ひを生ずる時は、耻辱(ちじよく)甚(はなは)だ大(だい)にして天下の笑(わら)ひと爲(な)らん。是れ疑ふ可(べ)きの三つ也。又聞く幕府其の賢を知り擧用(きょよう)し玉ふと。古(いにしへ)より財に富める者は財力を以て世に出(い)で、名を求むる者少しとせず。焉(いずくん)んぞ果たして其の賢なることを必(ひつ)せんや。故に舊政(きうせい)に力を盡(つく)し常道(じやうだう)を守(まも)りて以て功(こう)を積まば、假令(たとひ)成功は遅しと雖も必ず過(あやまち)なかるべし。若し虚名(きょめい)に惑ひ國政(こくせい)を委(ゐ)して大過(たいか)を生ぜば、悔(く)ゆと雖も及ぶべからず。草野大夫(たいふ)は性(せい)慈仁(じじん)にして人となり實直(じつちよく)なり。一旦(たん)其の辯巧(べんこう)に惑(まど)ひて頻(しき)りに賞嘆す。これ高年(かうねん)の故を以てするにあらずや。大夫(たいふ)それ之を慮(おもんぱか)れ。 現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。
2023.11.08
現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。ご支援くださるようお願いします!!報徳記巻之六【9】草野正辰先生の良法を聞き國民を安撫せんとす草野大夫(たいふ)先生に一見(けん)して其の論説を聞き、大いに悦び年來(らい)の志願此の道を以て達せんことを深慮し、直ちに君候に言上(ごんじやう)して曰く、國家(こくか)年(とし)久しく衰弱に歸(き)し上下の艱難極(きはま)れり。先君大いに之を歎き玉ひ、文化年中に至りて非常の節儉(せつけん)改正を行ひ、其の事の成就(じやうじゆ)せんことを臣に任じ玉へり。臣等(しんら)不肖(ふせう)なりといへども、志す所先君の憂慮を安んじ再び國(くに)を盛んにし、百姓をして生養(せいやう)を遂げしめんとする而已(のみ)。然れども短才不徳にして志を遂(と)ぐることあたはず。既に老衰に及べり。嗚呼(あゝ)此の如くにして時日を送らば、志願半途(はんと)に至らずして事斯(こゝ)に廢(はい)し、君意を安んずることあたはず。下民(かみん)を安(やす)からしむること能はず、委任の命に背き素餮(そさん)の罪に陥らんと晝夜(ちうや)寸陰も心を勞(らう)せざるはなし。今(いま)君(きみ)先君の仁政を繼(つ)ぎ、專(もっぱ)ら節儉(せつけん)を盡(つく)し國民(こくみん)を惠恤(けいじゆつ)し、再盛の道に心力を盡(つく)し玉ふ事斯(こ)の如くにして、其(そ)の事未だ成らざるは臣等(しんら)不才の罪にして、世々(よゝ)君恩を謝し奉(たてまつ)るべきの期(き)なき事を歎(なげ)きたり。然るに幕府二宮を登用し玉ふ。曾(かつ)て臣二宮の高名を聞き、昔年(せきねん)一條(でう)をして野州に至らしむといへども其の大徳(だいとく)を知らず。目今(もくこん)一見(けん)を得て其(そ)の教示を聞くに、萬物(ばんぶつ)の理(り)國家(こくか)盛衰の根元(こんげん)治國(ちこく)安民の大道を説くこと、混々(こんこん)として流水(りうすゐ)の盡(つ)くることなきが如く、外(そと)耳目(じもく)を驚かし内(うち)心魂を感動す。誠(まこと)に傑出して庸人(ようじん)の窺(うかが)ひ知るべきにあらずといへども、臣(しん)之(これ)を古人(こじん)に求むるに獨(ひと)り周の太公望(たいこうぼう)其(そ)の倫(りん)歟(か)。思はざりき近國(きんこく)野州に此の如き賢者(けんしや)有らんとは。古今論説の萬人(まんにん)に勝れたる者ありといへども事業に至りては其の論に如かざる者也。然るに二宮の事業或(あるひ)は衰國(すいこく)を興し、貧民を惠(めぐ)み廢地(はいち)を擧(あ)ぐること幾千萬(いくせんまん)、其(そ)の教導の及ぶ所草木(そうもく)の風に靡(なび)くが如し。大徳(だいとく)に非(あら)ずんば安(いづく)んぞ能く此の如くならんや。今君(きみ)禮(れい)を厚くし之を師として其(そ)の教(をしえ)を受け、之に依頼するに國家(こくか)中興の業を以てし玉はゞ富國(ふこく)安民の成功遠きにあらず。今此の人ありて此の道を聞くことを得るは、誠に先君以來(いらい)千辛萬苦(せんしんばんく)を盡(つく)し玉ふ至誠、天感(てんかん)空(むな)しからずと謂(い)ふべし。臣是を以て速かに言上(ごんじやう)す。君それ之を慮(おもんば)かり玉へ と。草野大夫は尊徳先生に一度会い、その論説を聞いて、大いに喜び、年来の志願を達成しようと深く考慮し、直ちに君候に言上してこう言った。「国家(相馬藩)は年久しく衰弱しきって上下の艱難がきわまっています。先君は大いにこれを嘆かれて文化年中に至って非常の節倹改正を行い、その事を成就することを臣に任じられました。臣等は不肖であるといえども志すところは、先君の憂慮を安んじ、再び国(相馬藩)を盛んにし、百姓をして生養をとげさせようとするのみです。しかしながら臣等は才能に乏しく不徳であって志を遂げることができず、すでに老衰に及びました。ああ、このようにして時日を送るならば、志願は半分にも至らないで、事はここに廃して、君意を安んじることができず、また、人民を安泰にすることができません。委任の命に背き、いたずらに無駄食いするという罪に陥ってしまうと、昼夜わずかの時間も心を労しないことはありません。今、君は先君の仁政を受け継いで、専ら節倹を尽くして、国民を恵み憐れみ、再盛の道に心力を尽くされていらっしゃることは、かくのとおりで、その事がいまだに達成できないのは臣等が不才の罪であって、世々君恩に感謝し報いる時期がないことを嘆いております。しかしながら、幕府が二宮を登用されました。かって臣は二宮の高名を聞き、昔、一條を野州に行かせましたけれども、その大徳を知りませんでした。つい最近、始めてまみえることができて、その教示を聞くに、万物の理、国家の盛衰の根源、国を治め民を安んずる大道を説くこと、こんこんとして流れる水が尽きることがないようでして、外に耳目を驚かせ、内に心魂に感動しました。誠に傑出した人物で、愚かな者のうかがい知ることができるところではありません。臣がこれほどの人物を古人に求めるに、ただ一人、周の国の太公望がその人に当たりましょうか。思いませんでした、近国の野州にこのような賢者があろうとは。古今、論説が万人に勝れた者はありますが、事業に至ってはその論に及ばないものです。しかるに二宮の事業あるいは衰国を復興し、貧民を恵み、廃地を挙げること幾千万、その教導の及ぶところは草木が風になびくようです。大きな徳のある者でなければ、どうしてよくこのようにできましょうか。今、君が身体を厚くして、これを師として、その教えを受け、これに依頼するのに、国家中興の業をもってされれば、国を富ませ民を安らかにすることの成功が遠くはありません。今、この人があって、この道を開くことができるならば、誠に先君以来、千辛万苦を尽くされた至誠天感空しからずというべきです。臣これをもって速やかに言上します。君これを慮りたまえ。」と。『報徳開拓者 安居院義道』鷲山恭平著を 鷲山氏の御子孫の方から、読みやすくしてとお話があり、現代語訳し、11月1日(水)から『現代語 安居院義道』出版に向けてクラウドファンディングを開始しました。鷲山恭平著『報徳開拓者安居院義道』が出版されたのは、昭和28年今から70年前です。原書は旧漢字、旧仮名遣い、文体など現代人には読みづらくなっています。そこで現代語に訳し、新しく発掘した『横曽村仕法』を原文と現代語訳で併記して収録するなど資料的価値を高めました。限定800冊目途で、45万円を目標金額に支援を募集します。出版した本は、支援者へのリターンと、大学及び静岡県内公共図書館へ寄贈します。来年、令和6年1月13日までの、期間限定のプロジェクトです。CAMPFIREから for Social Good(社会的貢献度の高いプロジェクト) に認定されています。本書は一般書店では販売しません、また期間限定のクラウドファンディングのリターン品としてしか入手できません。皆様が本プロジェクトをご支援くださることを願います。クラウドファンディングのURL
2023.11.07
現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しました。ご支援くださるようお願いします!!報徳記巻之六【8】草野正辰先生に謁し國家の政體を問ふ草野曰く、誠に先生の教へ古今の仁道なり。政(せい)を行ふにこの本源を失はざれば國家(こくか)の永安疑ひなし。然して領中數(すう)千町歩(ちやうぶ)の荒地を開かんこと其(そ)の道如何(いかん)。先生曰く、凡(およ)そ細(さい)を積みて大をなし、微(び)を積みて廣大(くわうだい)に至るもの自然の道なり。譬(たと)へば天下の耕田の如し。幾億萬町(いくおくまんちょう)といへども春耕(しゆんかう)秋収(しうしう)一畝(そ)の餘(あま)すことなき者何ぞや。他(た)なし。一鍬(しう)を重ねて以て耕し一鎌(けん)を重ねて以て苅(か)り怠らざるに在る而已(のみ)。況(いは)んや荒蕪(くわうぶ)の地一鍬(しう)を積みて怠らざれば、幾萬(いくまん)の廢地(はいち)といへども之を擧(あ)ぐるに何の難きこと之あらん。廢地(はいち)を開くに廢地(はいち)を以てす。是れ開田の道なり。 曰く、廢地(はいち)を以て廢地(はいち)を起すとは何ぞや。曰く、一反(たん)の廢田(はいでん)を開き其の實(みのり)を以て來歳の開田料となし、年毎に此の如くする時は、用財別に費(ついえ)ずして何萬(まん)の廢田(はいでん)も開き盡(つく)すべし。大夫大いに感じ教示(けうし)の忝(たかじけな)きを謝して歸(かへ)る。大夫退きて歎じて曰く、我壮年より極老(きよくらう)に至るまで國家(こくか)を再興し百姓を安ぜんとし、身命をナゲウち肺肝(はいかん)を盡(つく)すと雖も、志(こころざし)の達せずして終んことを而已(のみ)歎(なげ)きたり。思はざりき野州に此の如く傑出の仁者有らんとは。此の人を知らずして數(すう)十年空しく心力を勞(らう)せる事、遺憾(いかん)の至りといふべし。然れども晩年此の人に逢(あ)ふこと我が赤心(せきしん)空しからざる所なり。我先生の道を國家に開き其の規則を立つる時は國(くに)の再復永安の道疑いなし。然る時は我斃(たふ)るゝとも始めて安んずることを得んと心中快然(くわいぜん)たり。時に年既に七十有四、實に希世の忠臣なりと人々之を感じたり。先生も亦一面して曰く。我、草野の忠臣たること嘗(かつ)て之を聞けり。今、其の人となりを見るに、内誠直にして外温和なり。加之(しかのみならず)度量抜出識見甚だ遠し。我が言、水を以て水に投ずるが如く貫通すること元より知るものゝ如し。卓見あるにあらずんば、何ぞ能く此の如くならんや。此の人有りて國政を執り、加ふるに我が道を以てせば相馬の興復せんこと、難きにあらず と歎賞せり。草野は言った。「誠に先生の教えは、古今の仁道です。政を行うにこの本源を失わなければ、国家の永安は疑いありません。領中数千町歩の荒地を開く方法はどのようにすればよいでしょうか。」先生曰く「およそ細を積んで大をなし、微を積んで広大に至るのが自然の道です。たとえば天下の耕田のようなものです。幾億万町とあっても、春は耕し、秋は収穫し、一畝(うね)の余すことがないのはなぜでしょう。他でもありません。一鍬(しゅう:くわ)を重ねて、もって耕し、一鎌(けん:かま)を重ねてもって刈り怠らないからです。いわんや荒地を一鍬(しゅう)を積んで、怠らなければ幾万の廃地であっても挙げるのに何の困難なことがありましょうか。廃地を開くのに廃地をもってする。これが開田の道です。」草野が言った。「廃地をもって廃地を起こすとはどういうことでしょうか」先生は言われた。「一反(たん)の廃田を開いて、その実りを来年の開田料とします。年ごとにこのようにする時には、用財を別に費消することなく何万の廃田であっても開きつくすことができるでしょう。」家老(草野)は大いに感動して、先生の教示のかたじけなさを感謝して帰った。家老(草野)は、退出して感嘆して言った。「私は、壮年から極老に至るまで国家を再興し、百姓を安じようとし、身命をなげうち、肺肝を尽くしてきたが、志が達成しないで終ってしまうことだけを歎いてきた。思わざりき、野州にかくのごとく傑出の仁者あらんとは。この人を知らないで数十年空しく心力を尽くしてきた事が残念なかぎりだ。しかし、晩年にこの人に逢rたことは私のまごころが空しくなかったところだ。私が二宮先生の道を国家(相馬藩)に開いて、その規則を立てる時は、国の再復永安の道は疑いない。そのる時は、我がたとえ倒れても始めて安んずることができよう」と心中愉快な気持ちに満たされた。草野はその時に年は既に74歳、実に世にもまれな忠臣であると人々は感嘆した。尊徳先生もまた一回面会して言った。「私は、草野が忠臣であることをかってこれを聞いていた。今、その人となりを見るに、内は誠直であり外は温和である。それだけでなく、度量は抜群であり、識見ははなはだ高い。私の言葉を、水をもって水に投ずるように貫通することもともと知っていたかのようだ。卓見ある者でなければ、どうしてこのようであろうか。この人があってて国政を執り、加うるに私の道をもってすれば、相馬の復興することは困難ではない」と歎賞された。『報徳開拓者 安居院義道』鷲山恭平著を 鷲山氏の御子孫の方から、読みやすくしてとお話があり、現代語訳し、11月1日(水)から『現代語 安居院義道』出版に向けてクラウドファンディングを開始しました。鷲山恭平著『報徳開拓者安居院義道』が出版されたのは、昭和28年今から70年前です。原書は旧漢字、旧仮名遣い、文体など現代人には読みづらくなっています。そこで現代語に訳し、新しく発掘した『横曽村仕法』を原文と現代語訳で併記して収録するなど資料的価値を高めました。限定800冊目途で、45万円を目標金額に支援を募集します。出版した本は、支援者へのリターンと、大学及び静岡県内公共図書館へ寄贈します。来年、令和6年1月13日までの、期間限定のプロジェクトです。CAMPFIREから for Social Good(社会的貢献度の高いプロジェクト) に認定されています。本書は一般書店では販売しません、また期間限定のクラウドファンディングのリターン品としてしか入手できません。皆様が本プロジェクトをご支援くださることを願います。
2023.11.05
報徳記 巻之六 【8】草野正辰先生に謁し國家の政體を問ふ先生の大徳人民(じんみん)撫恤(ぶじゅつ)の道を行ふ事既に久し。遂に幕府に達し天保十三寅年(とらとし)冬、命(めい)を下して先生を登用し玉ふ。時に先生大久保候の邸(やしき)に寓居(ぐうきょ)す。草野大夫此の事を聞きて曰く、我先生に謁し道を問んと欲すること久し。然りと雖も遠路を隔だて主用繁多(はんた)にして野州に至ることを得ず。今先生の在府時を得たりと云ふべし と。是に於て人をして面謁(めんえつ)を請はしむ。先生辭(じ)するに暇(いとま)なきを以てす。大夫頻(しき)りに求めて止まず。先生素(もと)より草野某(それ)の徳行誠忠を聞き、頗(すこぶ)る其の人となりを歎賞せり、故に面會(めんくわい)する事を得たり。草野某(それ)先生に謂(い)ひて曰く、不肖先生の高名を聞き教を受けんと欣慕(きんぼ)する事久し。今某(それがし)の愚誠を察し面謁(めんえつ)を許し給ふ何の幸(さいはひ)か之に如(し)かんや。某(それがし)主家(しゆか)領邑(りやういふ)舊來(きうらい)の艱難殊(こと)に甚しく、中古(ちゆうこ)元禄年間に比すれば人員の減ずること五萬(まん)人餘(よ)、収納(しうなふ)の減ずること十萬苞餘(まんぺうよ)、領中大半荒蕪(くわうぶ)に歸(き)し、借債(しやくさい)山の如く、實(じつ)に亡國に(ぼうこく)頻(ひん)せりと謂(い)ふべし。先君の世に當(あた)り、文化年中大いに節儉(せつけん)を行ひ、舊弊(きうへい)を革除(かくじよ)し、高六萬石(まんごく)の用度(ようど)を以て一萬石(まんごく)の度に減じ、專(もつぱ)ら邦(くに)の本源たる郡邑(ぐんいふ)再興を計り力を盡(つく)すこと既に三十年に及ぶと雖も、費用多くして其の功半途に至らず。某(それがし)既に極老(きよくらう)に及び、志願を達すること能はざるをのみ歎息せり。是れ皆凡庸(ぼんよう)にして國家(こくか)再復の道に明らかならざるが故なり。然るに先生舊來(きうらい)廢亡(はいぼう)の地を擧(あ)げ百姓を惠恤(けいじゆつ)し之を安撫(あんぶ)する事意の如くならざるはなし。剰(あまつ)さへ餘澤(よたく)遠近(ゑんきん)に及ぶもの誠に不世出(ふせいしゆつ)の高徳にあらざれば、何を以て此(こ)の大業を成さんや。願はくば先生の至教(しけう)を得て、以て衰國(すゐこく)再興の志願を達することを得(え)ば、誠に上下の大幸之に過ぐべからず。先生曰く、某(それがし)素(もと)農間(のうかん)に生まれ極貧に人となり、貧苦を盡(つく)し祖先の一家を再復せんことを而已(のみ)勤めたり。然るに先君命ずるに野州宇津家(うつけ)の采邑(さいいふ)再復の事を以てす。辭(じ)すること三年にして君(きみ)之を許さず。已(や)むことを得ずして彼の地に至り、數(すう)十年を經(へ)て漸く舊復(きうふく)の道立ちたるが如しといへども何ぞ言ふに足らんや。然して隣國(りんこく)の諸侯仕法を懇望(こんぼう)して止まず、固辭(こじ)すといへども猶(なほ)求むる事再三遂に少しく告ぐるに再復の事を以てす。今又(また)子(し)來(きた)つて一言(ごん)を求む。何ぞ其の望みに應(おう)ずることを得ん。然れども往年一條(でう)某來訊(らいじん)せしときに當(あた)り、已(や)むことを得ず告ぐるに一言(ごん)を以てせり。是の故に今黙す可(べ)からず。夫れ國家(こくか)の政體(せいたい)は多端(たたん)なるが如しといへども之を要するに取ると施すとの二つに止(と)まれり。此の二つを外(ほか)にして又何事かあらんや。且(かつ)盛衰安危(あんき)も此の二つにあり。存亡禍福(くわふく)も亦(また)然り、然して世上國(くに)の盛衰する所以(ゆゑん)を察せず何を以て其の衰廢(すゐはい)を擧(あ)げんや。何となれば取ることを先(さき)んずれば國(くに)衰へ民窮し、怨望(ゑんぼう)起こり衰弱極まる。甚だしきは國家(こくか)亡滅の大患に至れり。施すことを先(さき)んずる時は國(くに)盛んに民豊かなり。人民之に歸(き)し上下富饒(ふぜう)にして百世(せい)を經(ふ)るといへども國家(こくか)益々平穏なり。聖人の政(まつりごと)は仁澤(じんたく)を施す事を以て先務(せんむ)とし、敢(あへ)て心を取ることに用ゐず、暗君(あんくん)は取ることを先として施すことを悪(にく)む、治平(ちへい)亂暴(らんぼう)の由(よ)つて起る所皆斯(こゝ)にあらざるものなし。今相馬の政施すを以て先と爲(な)すか、取るを以て先と爲すか。苟(いやし)くも取るを以て先とせば千萬(まん)の勞(らう)を積み百年の辛苦(しんく)を盡(つく)すと雖も、決して中興再復の期ある可(べか)らず。又施すことを以て先務(せんむ)とせば何ぞ國(くに)を興すの難きを憂へんや。凡(およ)そ天下の生物無量なりといへども、血氣(けつき)あるもの施與(せよ)の道を厚くして悦服(えつふく)せざるをものあらざる也(なり)。豈(あに)血氣(けつき)のものゝみ然らんや。草木(さうもく)といへども之に與(あた)ふるに糞培(ふんばい)を以てする時は、快然悦服(えつふく)の色顯(あらは)る。之を殘伐(ざんばつ)する時は彼豈之を快しとせんや。鳥獸(てうじう)蟲魚人を惧(おそ)れて遁(のが)るゝものは、我に取らんとするの心あるがゆゑなり。若し夫れ之を愛し之に與(あた)ふるに食を以てする時は忽(たちま)ち悦服す。況(いは)や蒼生(さうせい)に於てをや。義の爲(ため)に命(めい)を輕(かろ)んじ萬苦(ばんく)を厭(いと)はざるものは何の爲(ため)ぞや。君之に與(あた)ふるに食を以てするが故也(ゆゑなり)。故に興(あた)ふる時は君臣となり、取る時は仇敵(きうてき)となる。獨(ひと)り百姓(しやう)而已(のみ)何を以て與(あた)へずして服するの理あらん。與(あた)ふる時は堯(げう)の民となり、取る時は紂(ちう)の民となる、察せざるべけんや。然るに世の民を治るや、貢税(こうぜい)を取るを以て先とし與(あた)ふるを以て後とす。先づ與(あた)へざれば民其(そ)の生を安んぜず。民貧なる時は放僻(ほうへき)邪肆(じやし)至らざる所なし。終に貢税減少し土地荒蕪(くわうぶ)し上下(じやうげ)の大患となる。與(あた)ふることを先とする時は、民其の生を樂しみ業を樂しみ土地毎年(ねん)に開け、生財(せいざい)窮まりなく國(くに)の衰廢(すゐはい)求むといへども復(また)得(う)べからず。是の故に取與(しゅよ)の先後を明らかにして然(しかる)後に政事(せいじ)を行ふもの政(せい)を知るものとなすべし。某(それがし)廢亡(はいぼう)を開き百姓を撫(ぶ)し餘澤(よたく)他邦(たほう)に及ぶもの、他事(たじ)あるにあらず。惟(たゞ)與(あた)ふることを先務(せんむ)とせしが故なり。子(し)の國(くに)衰貧なりといへども、大いに仁澤(じんたく)を施し下民を撫(ぶ)する時は何ぞ再復せざることあらんや。『報徳開拓者 安居院義道』鷲山恭平著を 鷲山氏の御子孫の方から、読みやすくしてとお話があり、現代語訳し、11月1日(水)から『現代語 安居院義道』出版に向けてクラウドファンディングを開始しました。鷲山恭平著『報徳開拓者安居院義道』が出版されたのは、昭和28年今から70年前です。原書は旧漢字、旧仮名遣い、文体など現代人には読みづらくなっています。そこで現代語に訳し、新しく発掘した『横曽村仕法』を原文と現代語訳で併記して収録するなど資料的価値を高めました。限定800冊目途で、45万円を目標金額に支援を募集します。出版した本は、支援者へのリターンと、大学及び静岡県内公共図書館へ寄贈します。来年、令和6年1月13日までの、期間限定のプロジェクトです。CAMPFIREから for Social Good(社会的貢献度の高いプロジェクト) に認定されています。本書は一般書店では販売しません、また期間限定のクラウドファンディングのリターン品としてしか入手できません。皆様が本プロジェクトをご支援くださることを願います。『現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しますURL:https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_showそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.11.04
報徳記巻之六【7】一條某君命を奉じ始て櫻町に至る後日(ごじつ)或(ある)人先生に問ふて曰く、道を隔(へだつ)ること六十里遙(はるか)に先生の徳を慕ひ良法を求む。然るに一面會(めんくわい)を許さゞるものは何ぞや。先生曰く、是(これ)汝の知る所にあらず。相馬君臣(くんしん)民を惠(めぐ)み國(くに)を興すに心を用いること厚しといへども、我が道を聞くことは尚(なほ)浅し。今一條(でう)をして來(きた)らしむるは可否(かひ)を試(こゝろ)みんとする而已(のみ)。誠に用(もち)ゐんとするにはあらず。若し我之に逢(あ)ふ時は道を談ぜずして止むべからず。道を談じて一條(でう)感激せずんば可(か)なり。若し此の仕法を感ずる時は、必然(ひつぜん)國(くに)に此の仕法を行わんとし、頻(しき)りに當方(たうはう)仕法の美(び)を唱へん。唱ふといへども上下(じやうげ)の疑惑何ぞ散ぜん。群臣は一條を嘲(あざけ)り一條益々(ますます)群臣を以て理に明らかならずとして深く之を歎息し、志(し)の貫徹せざる事を憂ひ退引の心起らん。群臣も亦(また)不平を生じ一條を退かしめん。是(これ)理の然(しか)らしむる所なり。我面會(めんくわい)を許さずして之を歸(かへ)らしむる時は、一條歸(かへ)りて我を指して禮(れい)を知らざる者となし、國家(こくか)の大事を問ふに足らずといはん。然る時は同氣(どうき)相求め與(とも)に當方(たうはう)の非を云(い)ふこと水を以て水に投ずるが如し。何の子細(しさい)かあらんや。我一たび之に遇(あ)ふて以て無罪の人を陥(おとしい)らしむるに忍(しの)びんや。寧(むし)ろ我(われ)誹(そし)りを受けて一條をして無事ならしむるには如かざる也(なり) と。或(ある)人曰く、然らば則ち彼(か)の國(くに)に道の行はるゝ事此(こゝ)に絶(た)えんか。先生曰く、誠に道の行はるべき時節ならば大夫(たいふ)來(きた)りて道を問ふべし。然るに郡代(ぐんだい)をして來(きた)らしむるもの未だ時の至らざるなり。若し我が一言を聞きて國(くに)の分度を立てんとせば是(これ)興復(こうふく)の時至(いた)る也(なり)。若し一同無禮(ぶれい)を以て我を目(もく)すること有らば、何を以て國(くに)を興(おこ)すことを得んや。今逢(あ)わざる者は一條(でう)の無事を欲してなり。告(つ)ぐるに仕法の大體(だいたい)を以てするものは國君(こくくん)の問(とひ)に答ふる而已(のみ) と。或(ある)人其(そ)の遠慮(ゑんりょ)を感ぜり。後(のち)數(すう)月にして再び道を求る事なし。先生曰く、果たして我が見る所に差(たが)はず。此の如くなれば未だ其の時至らざるなり。危うい哉(かな)。我一條(でう)に面會(けんくわい)せば彼必ず廢(はい)せられん。逢わざるが故に無難(ぶなん)なるべし と。野州に在りて遙(はる)かに奥州(あうしう)の事情を察すること、掌(たなごゝろ)を指すが如し。人其(そ)の深知(しんち)仁恕(じんじよ)の無窮(むきゆう)なる事を感歎せり。『報徳開拓者 安居院義道』鷲山恭平著を 鷲山氏の御子孫の方から、読みやすくしてとお話があり、現代語訳し、11月1日(水)から『現代語 安居院義道』出版に向けてクラウドファンディングを開始しました。鷲山恭平著『報徳開拓者安居院義道』が出版されたのは、昭和28年今から70年前です。原書は旧漢字、旧仮名遣い、文体など現代人には読みづらくなっています。そこで現代語に訳し、新しく発掘した『横曽村仕法』を原文と現代語訳で併記して収録するなど資料的価値を高めました。限定800冊目途で、45万円を目標金額に支援を募集します。出版した本は、支援者へのリターンと、大学及び静岡県内公共図書館へ寄贈します。来年、令和6年1月13日までの、期間限定のプロジェクトです。CAMPFIREから for Social Good(社会的貢献度の高いプロジェクト) に認定されています。本書は一般書店では販売しません、また期間限定のクラウドファンディングのリターン品としてしか入手できません。皆様が本プロジェクトをご支援くださることを願います。『現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しますURL:https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show
2023.11.03
報徳記巻之六【7】一條某君命を奉じ始て櫻町に至る或(ある)人此の言を以て先生に告ぐ。先生曰(いは)く、我(われ)主命を受けて此の地の民を安撫(あんぶ)するのみ。何ぞ相馬(さうま)領邑(りやういふ)の事を與(あずか)り聞かんや。假令(たとひ)幾度面會(めんくわい)を求むるとも我逢(あ)ふべきの道あらざれば決して面會(めんくわい)せず。然りといへども君臣共に國家(こくか)の衰弊を憂ひ艱難を盡(つく)し、百姓を惠(めぐ)むこと久しと聞けり。今切(しき)りに其の道を問ふ。一言(ごん)の答(こたへ)なかるべからず。今一言(ごん)を示さん。汝夫(そ)れ一條(でう)に傳(つた)へよ。凡(およ)そ天下の土地大同小異にして其の趣(おもむき)同じからざるはなし。是の故に國家(こくか)の貧富、百姓の苦樂(くらく)群村の盛衰、何を以て野州奥州(あうしう)の別有らん。此の國(くに)にして再興の道成(な)る時は四海(しかい)何(いづ)れの地か再興せざるの國(くに)あらん。然るに今領邑(りやういふ)の難村を筆(ひつ)して其の指揮を問ふ。假令(たとひ)その道を明らかに示すと雖も傳聞(でんぶん)殊(こと)に遠路を隔つ。何を以て微細の仁術を行ふことを得んや。假令(たとひ)行ふ事を得て其の村村舊復(きうふく)の道を成すと雖も、國體(こくたい)を明らかにし本源の分度(ぶんど)を定め、無盡(むじん)の財を生じ萬民(ばんみん)安撫の大本(だいほん)立たざる時は却(かへつ)て姑息(こそく)の仁となり、又は聚斂(しうれん)の災害を開くに至る。何となれば一旦(たん)領中に一村たりとも、我が仕法を下(くだ)す時は、凡(およ)そ其の村の疾苦(しつく)する所を除き、其の生養(せいやう)を安んじ永安の道を得さしむ。百姓誰か之を感ぜざらんや。一邑(いふ)此の如くなる時は領中の民之を見聞(けんぶん)し、君(きみ)の仁心に感じ惰農(だのう)を改め勸農(くわんのう)勤業(きんげふ)の道大いに行われ、忽(たちま)ち収納も増益(ぞうえき)せん。群臣之を見て何の故に収納の増したる事を知らず。時候の順なるが故に増したりとし、或(あるひ)は時節到來(たいらい)せりとなし之を取つて國(くに)の用度となす。年々是の如くする時は漸々(ぜんぜん)戸口(ここう)を減じ田圃(でんぼ)荒野に歸(き)し、遂に覆家(ふくか)の衰廢(すいはい)極まるに至る。是れ君臣共に本心聚斂(しうれん)に在(あ)らずして、知らず識(し)らず聚斂(しうれん)に陥り、國(くに)に大患(たいくわん)となる。何ぞや此の道を施して忽然(こつぜん)として租税の増すものは、民(たみ)多年の貧苦を免れ租税を多く出(だ)すには非(あら)ず。一旦(たん)君(きみ)の仁惠(じんけい)を聞き是(こ)の如く仁政を下し玉ふ。此の時に當(あた)り下民として君恩の辱(かたじ)けなきを報(ほう)ぜざるべからずと、毎戸(まいこ)貧苦の中より己(おのれ)が衣食の不足を顧(かへり)みず、餘分(よぶん)に貢税(こうぜい)を納むるに至る。上(かみ)として其の増す所以(ゆゑん)を察せず、之を幸(さいはひ)として費用に當(あ)つる時は國民(こくみん)忽(たちま)ち衰貧に陥り、離散に至らざれば止(や)まず。是れ一たび仁術(じんじゆつ)を下して百姓を廢亡(はいぼう)せしむるなり。是の故に我が道は國本(こくほん)立て然(しかる)後施すべし。國(こく)の分度立たざる時は百度(たび)之を請ふといへども我(われ)其の請(こひ)に應(おう)ぜざるなり。今相馬領中の衰廢(すいはい)を擧(あ)げ萬民(ばんみん)を撫育(ぶいく)せんと欲せば、既往(きわう)數(すう)十年の貢税を調べ盛衰(せいすゐ)を平均し中庸(ちゆうよう)の分度(ぶんど)を立て、其の分(ぶん)を守り、永年(ながねん)節儉(せつけん)を盡(つく)し、如何程(いかほど)貢税増倍せりといふとも其の分外(ぶんぐわい)の米粟(べいぞく)を用ゐず、之を別途の物となし國民(こくみん)撫術(ぶじゆつ)の用財と定むべし。此の本源確立する時は始めて一邑(いふ)を興復し又(また)其の次に及ぼすべし。然る時は國中(こくちゆう)何萬(まん)の租税を増したりとも、皆下民(かみん)潤助(じゆんじょ)の物となり、彌々(いよいよ)國民(こくみん)安撫の用財盡(つ)くる事なくして、遂に國家(こくか)の衰弊悉(ことごと)く擧(あが)り、往古(わうこ)の盛時に復せんこと疑ひあるべからず。是れ我が仕法の本源なり。若し國家(こくか)をして再盛せしめ萬民(ばんみん)を安んぜんとせば速やかに以前の収納を調べ此の本源を確立すべし。夫れ國(くに)を富まし民を安んずることは人君親(みづ)から行ふべきの任にあらずや、大夫なるもの君の意を受け政を布き上(かみ)君を補佐し下(しも)民を安撫するものなり。若し國家(こくか)永安の道を求めんとせば國君(こくくん)自ら聞き玉ふべし。遠路にして至ることあたはずんば一等(とう)を下(くだ)り大夫(たいふ)來(きた)りて道を求むべし。郡代(ぐんだい)は國權(こくけん)の歸(き)する所にあらず。我僻令(たとひ)面會(めんくわい)すと雖も何の益か之あらんや。速かに國(くに)に歸(かへ)り國體)こくたい)の本源を定むべし。若し此の天分自然の平均の分度明らかに立て、君臣共に堅く守り玉ふ時は國家(こくか)の再興難きにあらず。今問ふ所は郡村の衰廢を憂ひ、之を擧(あ)ぐるを以て難しと爲(な)して其の道を求め玉ふ。我數(すう)十年來(らい)比類なき衰貧の邑(むら)を再盛せり。故に此の道を移す時は、何國(こく)の難村なりといへども再復せんこと疑ひあるべからず。唯(たゞ)國(くに)の分度を立て之を守り玉ふ事而已(のみ)、甚(はなは)だ難しとなすべし。苟(いやしく)も分度明確なる時は、貧邑(いふ)を起こし百姓を安んずるの道、高きより卑(ひく)きに水を下(くだ)すが如し。然れども奥州(あうしう)と野州と遠隔の傳聞(でんぶん)は實事(じつじ)の貫通難(がた)くして衆人の疑惑も亦(また)多からん。故に領中の一村を全く舊復(きうふく)して貴覧(きらん)に備へん。國(くに)の上下之を熟見して可なりとせば、再復の道二つあるにあらず。幾百邑(いふ)といへども其の道は同一なり。之を推(お)して領中を再興すべし。若し一邑(いふ)の再興を見て不可ならば速やかに止まん而已(のみ)。此の如く可なる時は用ゐ不可なる時は止め、一金の用費を出さずして國家(こく)再興の道を試み玉ふ事亦善からずや。君臣共に舊來(きうらい)の艱難を盡(つく)し、國家(こく)興復の道を行ひ又(また)我に其の道を求め玉ふこと切(せっつ)なるに感じ、已(や)むを得ずして此の一言を發(はつ)せり。國(くに)に歸(かへ)り君上(くんじやう)以下大夫(たいふ)に告(つ)ぐるに此の言を以てせよ。然して此の言を可なりと聞き玉はゞ、道も亦(また)随ひて行はれん。若し不可也(なり)となし玉はゞ道の行はるべき謂(いは)れなし。然る時は今面會(めんくわい)するもの互いに益なき而已(のみ)にあらずして、却(かへ)りて憂ひの種とならん と教へたり。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)『報徳開拓者 安居院義道』鷲山恭平著を 鷲山氏の御子孫の方から、読みやすくしてとお話があり、現代語訳し、11月1日(水)から『現代語 安居院義道』出版に向けてクラウドファンディングを開始しました。鷲山恭平著『報徳開拓者安居院義道』が出版されたのは、昭和28年今から70年前です。原書は旧漢字、旧仮名遣い、文体など現代人には読みづらくなっています。そこで現代語に訳し、新しく発掘した『横曽村仕法』を原文と現代語訳で併記して収録するなど資料的価値を高めました。限定800冊目途で、45万円を目標金額に支援を募集します。出版した本は、支援者へのリターンと、大学及び静岡県内公共図書館へ寄贈します。来年、令和6年1月13日までの、期間限定のプロジェクトです。CAMPFIREから for Social Good(社会的貢献度の高いプロジェクト) に認定されています。本書は一般書店では販売しません、また期間限定のクラウドファンディングのリターン品としてしか入手できません。皆様が本プロジェクトをご支援くださることを願います。『現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しますURL:https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show
2023.11.02
報徳記巻之六【7】一條某君命を奉じ始て櫻町に至る于時(ときに)天保某年(それとし)冬十月中村の郡代(ぐんだい)一條(でう)某(それ)に命じ、領中の貧村數(すう)十ヶ村衰廢(すゐはい)の事實(じじつ)を記し、此の邑(むら)を再興し此の民を安撫(あんぶ)するの方法を先生に問はしむ。櫻町陣屋に來(きた)りて君命を述べ、且(かつ)君の贈り物を出して面謁(めんえつ)を請(こ)ふ。先生辭(じ)するに勤務暇(いとま)なきを以てす。一條(でう)再三面會(めんかい)を求めて止まず。先生許さず。一條甚だ心勞(しんらう)し門下某(それ)に謂(い)ひて曰く、某(それがし)主命を受け遙(はる)かに來(きた)り國(くに)の衰弊を除かんことを問はんとす。今先生之を許さず。若し是(こ)の如くにして歸國(きこく)せば某(それがし)不肖(ふせう)にして主君並びに大夫(たいふ)の意を通ずることあたはず。是れ君命を辱(はづか)しむるに似たり。然りと雖も我が國事(こくじ)を以て先生日夜の正業(せいげふ)を妨げん事亦(また)遠慮(ゑんりょ)なきに似たり。願はくば唯(ただ)一面を許し玉はゞ直(たゞ)ちに國(くに)に歸(かへ)らんと。『報徳開拓者 安居院義道』鷲山恭平著を 鷲山氏の御子孫の方から、読みやすくしてとお話があり、現代語訳し、11月1日(水)から『現代語 安居院義道』出版に向けてクラウドファンディングを開始します。鷲山恭平著『報徳開拓者安居院義道』が出版されたのは、昭和28年今から70年前です。原書は旧漢字、旧仮名遣い、文体など現代人には読みづらくなっています。そこで現代語に訳し、新しく発掘した『横曽村仕法』を原文と現代語訳で併記して収録するなど資料的価値を高めました。限定800冊目途で、45万円を目標金額に支援を募集します。出版した本は、支援者へのリターンと、大学及び静岡県内公共図書館へ寄贈します。来年、令和6年1月13日までの、期間限定のプロジェクトです。CAMPFIREから for Social Good(社会的貢献度の高いプロジェクト) に認定されています。本書は一般書店では販売しません、また期間限定のクラウドファンディングのリターン品としてしか入手できません。皆様が本プロジェクトをご支援くださることを願います。『現代語 安居院義道』出版のクラウドファンディングを開始しますURL:https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show
2023.11.01
報徳記巻之六【6】奥州相馬中村領盛衰之概略(原文漢文)高慶曰く、傳に云く聚斂の臣有ん與りは寧ろ盗臣有んと。嗟乎(あゝ)國家の災寧ぞ聚斂に過ぐる者有んや。蓋し盗也(なる)者は倉庫の財を盗むに過ぎず。禍の被る所未だ必ず遠きに及ばず。聚斂に至りはは則然らず。民の禍を受る者益々博く益々遠し。而して國の亂離敗亡も亦隨て至れり。方に聚斂を務め一時租賦を増すを得れば、人皆國に利ありと以為。嗚呼孰れか其の國に利ありと以為へる數百年衰頽の基い爲るを知らんや。故に夫子教るに用を節して人を愛するを以てす。夫れ用を節すれば則奢侈の憂ひ旡く、人を愛すれば則ち國安からざるなく、豊ならざるなし。政を爲す者豈監み無る可けんや。「補注 報徳記」(佐々井典比古)より著者(富田高慶)は思う。大学に「聚斂(しゅうれん)の臣あらんよりは、むしろ盗臣あれ」と言っている。実に国家の災いとして聚斂(しゅうれん)に過ぎるものがあろうか。けだし盗みというものは倉庫の中の財貨を盗むにすぎず、被害は決して遠くに及ばない。聚斂(しゅうれん)に至ってはそうではなく、人民の受ける禍は、次第次第に広く遠くに及んでゆき、国の乱離敗亡もこれに伴って起きるのである。はじめ聚斂(しゅうれん)に努めて一時租税を増すことができると、人はみな国の利益になったと思う。あに図らんやその国に有利と思った事柄が、実に数百年の衰退の基なのである。ゆえに孔子は、用を節して人を愛することを教えた。(論語、学而)。およそ国費を節約すれば、奢侈(しゃし)の憂いがなく、人を愛すれば国は必ず安らかとなり、民は必ず豊かとなる。まつりごとをとる者はこれに鑑(かんが)みないでよいものであろうか。11月1日(水)から『現代語 安居院義道』 出版のクラウドファンディングを開始しますご支援ください!・昭和28年(70年前)出版の鷲山恭平氏(現・大日本報徳社社長鷲山恭彦氏の祖父)著『報徳開拓者 安居院義道』が入手困難で文体も現在では読みづらいため現代語に訳し出版します。・近年秦野で発掘された『相州大住郡北秦横曽根村仮趣法帳』と伊勢原市史続大山編史料並びに『報徳開拓者 安居院義道』収録の農書2編について原文と現代語訳を併記し収録します。・本のサイズはA4版で、ページ数は240頁程度です。800冊限定出版で印刷費見込40万円、目標金額45万円です。・令和5年11月1日~令和6年1月13日までの期間限定のプロジェクトです。一般の書店では販売しません。・Campfire for Social Good(社会貢献プロジェクト)です。出版した本は大学図書館、静岡県内公共図書館に寄贈します。 本会がクラウドファンディングで支援者を募り、出版した『技師鳥居信平著述集』、『訳注静岡県報徳社事蹟』は既に多くの静岡県内公共図書館、大学図書館で蔵書となっています。(参考:『技師鳥居信平著述集』は東京大学・京都大学図書館など75の大学図書館(2023年10月30日現在)で所蔵されています)報徳運動の偉大な先人の記録を次の世代へと繋ぐために、ぜひ多くの方が本プロジェクトをご支援くださるようお願い致します。 ・1千円以上支援者に「現代語 安居院義道」1冊を郵送します。・5千円以上支援者に「現代語 安居院義道」を1冊の他、出版記念絵葉書(秦野視察)10枚1組を郵送します。・1万円以上支援者に「現代語 安居院義道」(2冊以内)、出版記念絵葉書を郵送すると共に、ご希望により本書の巻末にご氏名を記名します。
2023.10.30
報徳記巻之六【6】奥州相馬中村領盛衰之概略草野某(それ)大才ありて度量人に超え内(うち)仁心ありて外(そと)方正也(なり)。常に言ひて曰く、我が祖先以來(いらい)君恩を蒙(かうむ)る事高山(かうざん)も比(ひ)し難(がた)し。國家(こくか)艱難の時に當(あた)り再復の命を受け、此の大業を擧(あ)ぐるに尋常の覺悟(かくご)を以て成る可(べ)き事に非(あら)ず。我が輩(はい)の如き兩(りやう)三人も身命(しんめい)を棄てずんば成るべからず。智計の及ぶ所にあらず。唯(たゞ)死を以て國家(こくか)に報ぜん而已(のみ)と。人之を聞て其の誠忠を感歎せり。池田某(それ)才學(さいがく)衆人に超過(てうか)し、加之(しかのみならず)明斷(めいだん)遠慮(えんりよ)あり。大小の事通達(つうだつ)せざるはなし。改正の規則既に定まる。君(きみ)兩人(りやうにん)の忠義を察し同じく大夫(たいふ)と爲(な)して國政(こくせい)を任じ玉ふ。年々貢税の六分の一を省(はぶ)き之を以て領民を撫育(ぶいく)し、或(あるひ)は堤(つゝみ)を築き用水を保ち、古來(こらい)用水路の大破を修復し新用水堀を鑿(ほ)り、堰(せき)を掛け以て開田の資(し)となし、他邦の氓民(ぼうみん)を招き家作(かさく)を與(あた)へ農具米粟(べいぞく)を與(あた)へ開墾せしめ、税を免(ゆる)すこと二十年或(あるひ)は十五年又は十年を以て期(き)となし、年限滿(み)ちて然(しかる)後(のち)貢税を納めしむ。又(また)養育料を與(あた)へて貧民の赤子(せきし)を養育せしめ、數(すう)十年の用費擧(あ)げて數(かぞ)ふべからず。荒地を開くこと幾千町(ちやう)、新戸を立ること二千軒に及べり。且(かつ)累年の負債之を償ふべきの財なきを以て、或(あるひ)は約(やく)するに改正成つて後之を償はんとし、或(あるひ)は年々幾許(いくばく)を償ひ年數(ねんすう)を經(へ)て償ひ盡(つく)さんとし、又は無利息年賦(ねんぷ)の償(しやう)を約(やく)し、一々誠意を主として談ずるに艱難の實事(じつじ)を以てす。富商其の實忠(じつちゆう)を感じて往々(わうわう)其の約束に隨(したが)ふ。是を以て負債三十萬(まん)と雖も大略其の償道(しやうだう)備(そな)はれり。是れ兩(りやう)大夫の誠忠に由(よ)る所なり。非常の艱苦を盡(つく)すこと十年、頗(すこぶ)る其の潤色(じゆんしよく)顯(あらは)れたりと雖も、積年の衰弊(すゐへい)容易に復古(ふくこ)に至り難く、加之(しかのみならず)天保巳申(みさる)兩(りやう)年の大飢(だいき)天明度(ど)の凶荒(きようくわう)の如く、下民(かみん)食を得る所なく飢渇に迫り、高山(かうざん)に登り、木實(もくじつ)を拾ひ草根(そうこん)を掘りて食(しょく)となす。此の時に當(あた)り文化改正の後、上下(じやうげ)艱苦を盡(つく)し有餘(いうよ)を生じ、非常の用に充(あつ)る所の米財(べいざい)悉(ことごと)く之を散じ、一藩以下農工商に至るまで一人(にん)一日(にち)二合(がふ)五勺(しやく)の食を與(あた)へ其の飢渇を凌(しの)がしむ。國(くに)の米粟(べいぞく)猶(なお)足らず人をして出羽(では)の國(くに)秋田へ趨(はし)らしめ粟(ぞく)を求むること幾千、攝津(せつつ)の國(くに)大阪に於(お)いて米を求むること幾千、蒼海(さうかい)を運送せしむ。天幸(てんかう)を得て海上無事に中村に着船し、此の米粟(べいぞく)を散じて撫育(ぶいく)の道を行ひ飢亡の憂(うれ)ひを免れたるは是(これ)亦(また)兩(りやう)大夫(たいふ)の誠忠に由(よ)つてなり。初め巳(み)年の飢饉に當(あた)り領民撫育の爲(ため)に、積年艱難の中(うち)より積み立たる儲蓄(ちよちく)を散じ一民の飢渇なからしむ。豈(あに)圖(はか)らんや再び申(さる)の大飢(だいき)至らんとは。實(じつ)に申の凶荒に當(あた)りては米粟(べいぞく)空乏(くうぼふ)如何(いかに)ともすべからず。君(きみ)飲食を省き重器(ぢゆうき)を鬻(ひさ)ぎ、城木(じやうぼく)並(ならび)に領中の良木を伐採し、以て他邦(たほう)の米粟(べいぞく)を求めて撫育(ぶいく)せり。隣國(りんこく)遠國(えんこく)共に流民餓ヒヨウ(がへう)數(かぞ)ふべからず。然るに中村領民而已(のみ)此(こ)の大患(たいくわん)を免るもの豈(あに)仁術の至る所と謂(い)はざるべけんや。然りと雖も兩(りやう)年飢歳(きさい)の爲(ため)に積功(せきこう)斯(こゝ)に空(むな)しくして、再び艱難の地に迫れり。彌々(いよいよ)節儉(せきけん)を行ひ領中再盛の施政怠らず。然して文化度(ど)改正の時は、十年にして衰廢(すいはい)を擧(あ)げんとせしも年(とし)經(ふ)るに及んで未だ半途(はんと)に至らず。草野大夫(たいふ)既に七十の齢(よはひ)を越え池田大夫も亦(また)五旬(じゆん)を越えたり。一世の力(ちから)初願を達する事の能(あた)はざるを憂勞(いうらう)せり。天斯(かく)の如く君臣共に國民(こくみん)を惠恤(けいじゆつ)するの誠心を憐れみ給ふ歟(か)。天保某(それ)年に至り二宮先生撫恤(ぶじゆつ)勸農(くわんのう)の良法を行ひ、不世出の才徳を以て衰廢(すゐはい)再興の道を盡(つく)せりと兩(りやう)大夫(たいふ)に告ぐる者あり。兩(りやう)大夫(たいふ)これを聞き歎じて曰く、嗚呼(あゝ)我が輩(ともがら)三十年の間(あひだ)千辛萬苦(せんしんばんく)を盡(つく)すと雖も其の事業半(なかば)に至らず。先生君(きみ)より委任の土地を擧(あ)げ、大いに仁政を布(し)き餘澤(よたく)他邦(たほう)遠近(ゑんきん)に及ぶもの誠に大徳の賢者に非(あら)ずんば何を以て此(こ)の大業(たいぎやう)を成(な)さんや。此人に就(つき)て國家(こくか)再興の道を求めば、必ず舊來(きうらい)の志願も亦(また)成るべしと、甚だ悦び君(きみ)に告(つ)ぐるに此の事を以てす。君(きみ)之を聞き玉ひ大いに歎賞(たんしやう)し、其の良法を得るの道を兩(りやう)大夫に命じ玉へり。 草野正辰は、大才があってその度量は人に超え、内に仁心あって外は方正であった。常にこう言った。「私が祖先以来、君恩をこうむること高山にも比べがたい。国家の艱難のときにあたり、再復の命を受けて、この大業を挙げるに尋常の覚悟をもって成るべきことではない。私のようなともがらが二、三人も身命を捨てなければ成就することはできない。智慧計略の及ぶところではない。ただ死をもって国家に報ずるのみだ」と。 池田胤直は、その才学は衆人に超過していた。それだけでなく明断、遠き慮りがあった。大小のことに通達しないことはなかった。改正の規則はすでに定まった。君は両人の忠義を察して、同じく大夫(家老)となして国政を任じられた。年々貢税の6分の1を省いて、これをもって領民を撫育(ぶいく)し、あるいは堤を築き、用水を保って、昔からの用水路の大破を修復して、新用水堀をほり、堰(せき)をかけ、もって開田の資となして、他の国の民を招いて、家を与え、農具米粟(べいぞく)を与えて、開墾させて租税を免除すること20年あるいは15年または10年をもって期となし、年限満ちてその後に、貢税を納めさせた。また養育料を与えて、貧民の赤子を養育させ、数十年の費用は挙げて数えることができない。荒地を開くこと幾千町、新戸を立てること2千軒に及んだ。かつ累年の負債はこれを償うべき財がないことから、あるいは約束するのに改正が成って後に、これを償わんとし、あるいは年々いくばくを償い、年数を経て償い尽くそうとし、または無利息年賦を約し、一々誠意を主として談ずるに艱難の実事をもってした。富商はその実忠を感じて往々その約束に従った。ここをもって負債30万といえども大略その償還の道は、備った。これは両大夫(家老)の誠忠によるところである。非常の艱苦を尽くすこと10年、すこぶるその効果があらわれたといっても、積年の衰弊容易に復古に至ることができない。それだけでなく天保年中の両年の大飢饉や天明の凶荒のように人民は食を得るものなく、飢渇にせまって、高山に登って木の実を拾い、草の根を掘って食となした。 この時に当たって文化改正の後、上下艱苦を尽くし、有余を生じて非常の用にあてるところの米財をことごとく散じて、一藩以下農工商に至るまで一人一日2合5勺(しゃく)の食を与えて、その飢渇を凌(しの)がせた。国の米粟(べいぞく)ではなお足らず、人を出羽の国、秋田へはしらせて、粟を求めること幾千、摂津の国大阪において米を求めること幾千、蒼海(そうかい:青い海)を運送させた。天幸を得て海上無事に中村に着船し、この米粟(べいぞく)を散じて撫育(ぶいく)の道を行い、飢亡の憂いを免れたのは、両大夫の誠忠によってである。始め巳年の飢饉にあたって領民の撫育のために積年艱難の中より積み立てた貯蓄を散じて、一民も飢渇させることがなかった。どうして想像できようか、再び申(さる)の大飢饉が来るとは。まことに申の凶荒にあたっては米粟は空っぽで、どうともなすすべがなかった。君は飲食を省いて、什器(じゅうき)を売り払い、お城の木や領内の良木を伐木して、それで他邦の米粟を求めて撫育した。隣国遠国ともに流民飢え死にする者数えることができないほどである。それなのに中村領民のみ、この大患を免れたのは、仁術の至る所と言わなければならない。しかしながら、両年の飢饉のために積功ここに空しくなり再び艱難の地に迫られた。いよいよ節倹を行い、領中再盛の施政怠らず、そして文化年間改正の時は10年にして衰廃を挙げようとしたが、年を経つに及んで未だ半途に至っていなかった。草野大夫は、すでに70の齢を越え、池田大夫もまた50を越えた。一世の力、初願を達する事ができないことを憂慮した。天はこのように君臣ともに国民を恵む誠心があることを憐れまれたのか。天保某年に至り、二宮先生が撫術勧農の良法を行い、不世出の才徳をもって、衰廃再興の道を尽くしていると両大夫に告げる者があった。両大夫これを聞き、嘆じて曰く、「ああ、私の輩(ともがら)は30年の間、千辛万苦を尽くしたけれども、その事業半ばにも至らない。二宮先生は、君より委任の土地を挙げて、大いに仁政を布(し)いて、余沢は他国遠近に及んでいる。誠に大徳の賢者でなければどうして、この大業を成すことができようか。この人について国家再興の道を求めるならば、必ず旧来の志願もまた成るであろう」と、はなはだ喜び、君に告ぐるにこの事をもってした。君はこれを聞かれて、大いに嘆賞されて、その良法を得る道を両大夫に命じられた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.29
報徳記巻之六【6】奥州相馬中村領盛衰之概略群臣大いに之を憂ひ米財を隣國(りんこく)の富商(ふしやう)江都(かうと)の豪富(がうふ)に借り、以て目前の不足を補ひ、文化度(ど)に至りては既に借債(しゃくざい)三十萬(まん)を超過し一年の租税其の利に當(あ)つるに足らず、借債(しゃくざい)連年増倍し貢税毎年に減ず。君(きみ)之を深く憂ひ玉ふと雖も如何(いかん)ともすべからず。文化某(それ)年に及び先代益胤君(ますたねぎみ)大いに憤發(ふんぱう)し給ひ、國(くに)の衰廢(すいはい)を擧(あ)げ萬民(ばんみん)を安ぜんことを諸臣に問ふ。時の郡代草野正辰(まさたつ)池田胤直(たねなほ)共に言上して曰く、國(くに)の衰廢(すゐはい)することは政體(せいたい)全(まつた)からず、節儉(せつけん)の道廢(はい)し奢侈(しやし)の流行(りうかう)せるに由(よ)つて也(なり)。苟(いやしく)も其の衰源(すゐげん)を改革せずして他の財を借り、目前の不足を補ひ一時の憂ひを免れんとせば、國(くに)の憂ひ毎年に増倍すること譬へば薪(たきゞ)を抱(いだ)きて火に入るよりも甚だし。今此の大患を除き永安の道を生ぜんとするに他事(たじ)あるに非ず。君親(みづ)から飲食衣服を省き萬民(ばんみん)に先立ち艱苦を盡(つ)くし、嚴令(げんれい)を出し國中(こくちゆう)の驕奢(けうしや)を戒め、節儉(せつけん)を行ひ一藩の俸禄(ほうろく)衰時相當(さうたう)の減少を以て附與(ふよ)し、惣(そう)じて萬時(ばんじ)一萬石(まんごく)諸侯の出納(すゐたふ)に本源を定め嚴(げん)に之を守り、且(かつ)國家(こくか)廢衰(はいすい)の根基たる元禄度(ど)田圃(でんぼ)縄入(なはいれ)の大過(たいくわ)を改正し玉(たま)はゞ、十年にして大略艱難を除くべし。然して此(こ)の大患(たいくわん)の起る所(ところ)領民艱苦に迫り、或(あるひ)は離散し或(あるひ)は死亡し人戸(じんこ)共に減じ、年來(ねんらい)の田圃(でんぼ)大半荒蕪(くわうぶ)となり生財(せいざい)の本を失ひたるが故なり。君(きみ)艱難に安んじ專(もつぱ)ら領民を惠(めぐ)み荒蕪を開き流民(りうみん)を招き、之に家財田地を與(あた)へ民戸を増し、出粟(しゆつぞく)の本(もと)を開かば自然収納を増し再復の期を得るに至らんこと疑ひなし。此の道を外にして別に國(くに)を興さんとせば彌々(いよいよ)勞(らう)して彌々(いよいよ)極難(ごくなん)に陥らん。此の道を行ひ玉ふ素(もと)より平常の事にあらず。誠に非常の嚴法(げんぽう)節儉(せつけん)を立て、君(きみ)自ら行ひ玉ふに非れば命ずと雖も民從(したが)はざるなりと言上(ごんじやう)す。君公大いに其の忠言を感じ給ひ、爾(なんじ)の言ふ所誠に的論なり。二人心を盡(つく)して此の改正を行ふべし。予親(みづ)から艱難に安んじ若(も)し改正の命に從(したが)はざる者有らば、予之を制せんと命じ玉ふ。是(こゝ)に於て古來(こらい)を温(たづ)ね當時(たうじ)を察し、君の用度を減じ一藩扶助(ふじよ)の員數(ゐんすう)を減じ聊(いささ)か命を繋(つな)ぐ而已(のみ)を以て度(ど)とせり。諸役所の舊弊(きうへい)を革(あらた)め篤実節儉(せつけん)を主とする者を挙(あ)げて有司(いうし)となし、彌々(いよいよ)險約(けんやく)を專(もっぱ)らとし約(やく)を守るものを賞し節を失ふものを罰し、有司(いうし)の心を勵(はげま)し一途(づ)に國家(こくか)を再復せんとするの外他事なし。一藩窮苦に堪(た)へずして其の深理を解(かい)せず甚だ執政以下を怨望(ゑんぼう)すと雖も之が爲(ため)に心を動かさず。奥州中村領(現在の福島県相馬市)は高6万石、新田の改出高3万8千石、村数230余カ村、元禄正徳の間、土地は大いに開け、山谷(さんや)に至るまで、あるいは田となし、あるいは畑となし、人民はすこぶる豊かであり、その業を楽しんでいた。しかしながら万物が盛んである時は必ず衰えることは自然の数であって、元禄中、群臣が議論して言った、「今、三郡は大いに勤農している。高6万石というけれども、その実は田圃(でんぼ)は広くて、民の利益は多い。特に山野の開墾もまた少なくない。今、至当の縄を入れて、田圃(でんぼ)を糺(ただ)す時は、多数の有余を出すことができる。国益としてこれより大きいものはない」と。 ここにおいて、群議一決して、領村あまねく田圃(でんぼ)の広狭を糺(ただ)して、3万8千石を打ち出したという。これが国家の大いに衰え、百年にわたって艱難が続いた原因である。この時にあたって貢税を出すことは17万俵に及んだ。このために倉庫は充ち、一藩俸禄に応じて、多分の米粟(べいぞく)を得て、艱難なるものは何ごとであるかを知らないようになり、暫時の富をもって百世憂いがないと思った。それ、聚斂(しゅうれん:過酷に税を取り立てること)は、古人の大いに戒めるところであって、国家の衰亡は聚斂(しゅうれん)が招くところである。国が栄え、上下が憂いがないということは、国の本である百姓が安泰であるためである。百姓が富んでおり豊かであるのは、田圃(でんぼ)が益があるからである。そうであるのに田圃(でんぼ)の有余を減じて、一反の田圃(でんぼ)は一反とし、一町の田圃(でんぼ)は一町とする時は、人民は生計の有余を失って、たちまち困窮に陥って、ついには離散に及ぶことに疑いようがない。これから毎年、国民は衰貧に向かって、戸数は減少し、天明年間になって大いに衰弱した。上下とも節倹の道を失って、知らずしらずのうちに奢侈(しゃし:ぜいたく)に流れて、貯蓄は空となって困窮は既にきわまった。それだけでなく卯・辰両年の大凶荒となって、君はこれを救おうとしても米や資財がなく、手を尽くして救荒の道を求めたけれども得られず、百姓は飢渇して死亡したり離散する者はなはだしく、田圃(でんぼ)は荒れ果てて、収納の3分が2を減じ、上下の艱難は古来この時ほどはなはだしいものはなかった。 群臣は大いにこれを憂えて、米や資財を隣国の富商、江戸の豪商に借り、それによって目前の不足を補った。文化年間に至っては既に借債30万を超過し、1年の租税は、その利息に当てるに足らない。借債は連年増倍して、貢税は毎年に減じていった、君はこれを深く憂えられたけれどもどうすることもできなかった。文化某年に及んで、先代の益胤(ますたね)君が大いに奮発されて、国の衰廃を挙げ、万民を安んじようと諸臣に問われた。その時郡代であった草野正辰(まさたつ)、池田胤直(たねなお)がともに言上して言った、「国の衰廃することは政治体制が全からず、節倹の道を廃し、奢侈が流行することによってです。いやしくもその衰源を改革しないで、他の財を借りて目前の不足を補い、一時の憂いを免れようとするならば、国の憂いは年ごとに増倍することは、たとえば薪(たきぎ)を抱いて火に入るよりもはなはだいことです。今、この大患を除いて永安の道を生じようするにはほかでもありません。君がみずから飲食衣服を省いて、万民に先立って艱苦を尽くし、厳令を出して、国中の贅沢を戒め、節倹を行い、一藩の俸禄においては衰時相当の減少をもって与え、すべて万事において一万石の諸侯の出納に本源を定めて、厳にこれを守り、かつ、国家廃衰の根源である元禄年間の田圃(でんぼ)縄入れの大きな過ちを改正されるならば、10年でおおよそ艱難を除くことができましょう。そしてこの大患の起こるところは、領民が艱苦に迫って、離散したり、死亡したりして、人民及び戸数ともに減じ、年来の田圃(でんぼ)の大半が荒れ地となって生産の本を失ったためです。君が艱難に安んじて、専ら領民を恵んで、荒地を開き、流民を招いて、これに家財田地を与えて、民戸を増して、出粟(しゅつぞく:生産)の本を開かば自然収納を増し、再復の期を得るに至らんこと疑いありません。この道を外にして別に国を興そうそするならば、いよいよ労していよいよ極難に陥りましょう。この道を行いますのは、もとより平常の事ではありません、誠に非常の厳法節倹を立て、君自らが行われるのでなければ命じるといっても民は従いません」と言上した。 君公は大いにその忠言を感ぜられて、「汝の言うところは誠に的論である。二人心を尽くしてこの改正を行うべし。予みずから艱難に安んじ、もし改正の命に従わない者があれば、予がこれを制しよう」と命ぜられた。ここにおいて古来を調査し、現在の財政状況を考察し、君の用度を減らして、一藩扶助の員数を減じ、いささか命をつなぐのみを持って度とした。諸役所の旧弊を改め、篤実節倹を主とする者を挙用して、有司(ゆうし:役人)となし、いよいよ倹約を専らとし、約を守るものを賞し、節を失うものを罰し、有司の心を励まし、一途に国家を再復しようとすることに専念した。一藩窮苦に堪えないで、その深理を理解せず、甚だ執政以下を怨んだがこれがために心を動かさなかった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.28
報徳記巻之六【6】奥州相馬中村領盛衰之概略奥州(あうしう)中村領高(たか)六萬石(まんごく)、新田(しんでん)改出(あらためだし)高(たか)三萬(まん)八千石、村數(そんすう)二百三拾(じゅう)餘村(よそん)、元禄正徳(しやうとく)の間土地大いに開け山谷(さんや)に至るまで或(あるひ)は田となし或(あるひ)は畑(はた)となし、下民(かみん)頗(すこぶ)る豊饒(ほうぜう)にして其の業(げふ)を楽しめり。然(しか)るに萬物(ばんぶつ)盛んなる時は必ず衰ふること自然の數(すう)にして、元禄中(ちゆう)群臣議して曰く、今三郡大いに勤農(きんのう)せり。高(たか)六萬石(まんごく)と雖も其の實(じつ)は田圃(でんぼ)廣(ひろ)くして民の益多し。殊(こと)に山野(さんや)の開墾も亦(また)少なからず。今至當(したう)の縄(なは)を入れ田圃(でんぼ)を糺(たゞ)す時は多數(たすう)の有餘(いうよ)を出(だ)すべし。國益(こくえき)是(これ)より大なるはなしと。是(こゝ)に於て群議一決して領邑(いふ)遍(あまね)く田圃(でんぼ)の廣狭(くわうけふ)を糺(たゞ)し三萬(まん)八千石を打ち出したりと云(い)ふ。是れ國家(こくか)の大衰(たいすい)百歳(さい)艱難の基(もとゐ)なり。此(こ)の時に當(あた)りて貢税(こうぜい)を出(だ)すこと十七萬苞(まんぺう)に及べり。故に倉廩(さうりん)充(み)ち府庫(ふこ)滿(み)ち、一藩俸禄に應(おう)じ多分の米粟(べいぞく)を得(え)、艱難なるものは何事(なにごと)なるを知らざるに至り、暫時(ざんじ)の富を以て百世(せい)憂ひなしと思へり。夫(そ)れ聚斂(しうれん)は古人の大いに戒むる所にして、國家(こくか)の衰亡は聚斂(しうれん)の致す所なり。國(くに)榮(さか)え上下(じやうげ)憂ひなきものは國(くに)の本(もと)たる百姓(しやう)安きが故なり。百姓の富饒(ふぜう)なるものは田圃(でんぼ)の有益(いふえき)を以てなり。然るに田圃(でんぼ)の有餘(いうよ)を減じ、一反(たん)の田圃(でんぼ)は一反となし一町(ちやう)の田圃(でんぼ)は一町となす時は下民(かみん)活計(くわつけい)の有餘(いうよ)を失ひ忽ち困窮に陥り、終(つひ)に離散に及ぶこと疑ひなし。是より連年國民(こくみん)衰貧に赴き戸數(こすう)減少、天明度(ど)に至りて大いに衰弱せり。上下(じやうげ)節儉(せつけん)の道を失ひ、知らず識(し)らず奢侈(しやし)に流れ、儲蓄(ちよちく)空(むな)くして困窮既に極(きはま)る。加之(しかのみならず)卯辰(うたつ)兩年(りやうねん)の大凶荒(だいきょくわう)となり、君これを救はんとして米財(べいざい)なく、百計救荒(きうくわう)の道を求むれども得ず、百姓飢渇死亡離散夥(おびたゞ)しく田圃(でんぼ)荒蕪(くわうぶ)し、収納(しうなふ)三分が二を減じ、上下の艱難往古(わうこ)以來(いらい)此の時より甚しきものはあらず。奥州中村領(福島県相馬)石高6万石、新田改出の石高3万8千石、村の数230村余り、元禄正徳年間土地は大いに開け、山谷に至るまで、あるいは田となし、あるいは畑となして、民は大変豊饒でその業を楽しんでいた。しかるに万物は盛んな時、必ず衰えることが自然の法則で、元禄の時、群臣が議して言った。今、三郡大いに農業に勤めている。石高6萬石といってもその実質は田は広く民の益が多い。ことに山野の開墾もまた少なくない。今、至当の縄を入れて田を検地する時は多数の有余を出すであろう。そうすれば国益は大変大きい。」ここに群議一決して領村あまねく田が広いか狭いかを調査して3万8千石を打ち出したという。これが国家が大衰し百年もの間、艱難となった原因である。この時、新たな貢税が17万俵に及んだ。このため倉庫は満ちて、一藩の俸禄に応じて多分の米粟を得て、艱難というのは何事か知らないほどだった。暫時の富を得て百世憂いがないと思われた。聚斂(しゅうれん:酷く取り立てること)は古人が大いに戒むる所であって、国の衰亡は聚斂より起るところである。国が栄え、上下が憂いのないのは国の本である百姓が安らかなためである。百姓の豊かなのは田に有益があるからである。しかるに田の有余を減らして、一反の田は一反とし一町の田は一町とする時は、民は活計の有余を失ってしまい、たちまち困窮に陥り、ついには離散に及んでしまう。これより毎年国の民は衰貧におもむい戸数は減少し、天明年間に至って大変衰弱した。上下とも節倹の道を失って、知らずしらず贅沢に流れ、貯蓄も空しく困窮は既に極った。これに加えて卯・辰両年は大飢饉となり、君は民を救おうとして米財がなく、救済の道を求めたが得られなかった。百姓飢渇し死亡離散はおびただしく田は荒れはて、収納は三分の二を減じた。上下の艱難は往古以来この時ほどはなはだしいものはなかった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.27
報徳記巻之六【5】下館領中三邑に安民の方法を発業す衣笠大いに悦び君に白(まう)し大夫(たいふ)諸臣に達し、共に開業を先生に請ふ。先生門下某(それ)に指揮し、同二月領中に撰(えら)み灰塚(はいつか)下岡崎(しもをかざき)蕨(わらび)の三邑(いふ)に開業せしめ、大いに仁惠を下し善良を賞し窮民を撫恤(ぶじゆっつ)し、家小屋を與(あた)へ農具を給し負債を償ひ、道を築き橋を架(か)し其の困窮を除き、其の生養を安んず。三邑(いふ)の民大いに悦服感歎止まず是(こゝ)に於て教ふるに人倫を正しくし推讓を行ひ、舊弊(きうへい)を一洗し、勤業(きんげふ)永安の道に至ることを以てす。邑(いふ)民歡喜(くわんき)善に移り業を勵(はげ)み淳厚の風俗に變(へん)じ遠近の邑(いふ)皆風動(ふうどう)し専ら方法を欣慕(きんぼ)せり。(原文漢文)高慶曰く、大なる哉(かな)。至誠の道。先生下館候の爲に誠を盡し分度を定め百年の艱難を振ひ危亡の萌隷を濟ふ。蓋し永安の道煥然として火を觀るが如し。下館君臣をして心を一にし力を戮せ慎て先生の法を守り確立して移ること無らしむ。則ち國の興隆立て待つ可べなり。惜いかな。一たび其の法を廃して國亦た從て振はず。区々力を其の末に致すと雖も復何の益か之有ん。蓋し四時循環して差はず万物生々息ざる者至誠を以て也。何ぞ独り衰頽を挙んと欲して至誠の道に由ること無きを得んや。「補注 報徳記」(佐々井典比古)より著者(富田高慶)が思うに、至誠の道は、まことに偉大なものである。先生は下館候のために誠をつくして分度を定め、百年の艱難を救い、亡国の危機を防がれた。永安の道はカン然として火を見るように明らかに備わった。そこでもし、下館の君臣が心を一つにし力を合わせ、慎んで先生の法を守り、分度を確立して移ることがなかったならば、国の興隆は立って待つべきであった。惜しいことに、ひとたびその法を廃して(弘化元年、減俸を中止した)から自然国も振るわなくなり、区々たる末事に力をつくしたが何の効果もなかった。けだし四季が循環して狂わず、万物が生々してやまないのは、至誠によってである。頽廃を興そうとするときだけ、どうして至誠の道によらないで成就し得ようか。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.26
報徳記巻之六【5】下館領中三邑に安民の方法を発業す時に嘉永(かえい)五壬子年(みづのへねとし)正月(しやうがつ)下館(しもたて)の郡奉行(こほりぶぎやう)衣笠某(それ)に謂(い)ひて曰く、凡そ國家(こくか)の衰弱に至るものは政體(せいたい)の本源たる分度明らかならずして財用(ざいよう)節(せつ)なく、下民(かみん)に取ること度(ど)なく知らず識(し)らず聚斂(しうれん)に陥り、民窮し怨望(ゑんぼう)起り、多く取らんと欲して益々(ますます)租税減少し國用(こくよう)彌々(いよいよ)足らず、商賈(しやうこ)の財を借りて以(もつ)て一時の窮を補ひ、元利(ぐわんり)増倍上下(じやうげ)共に絶窮(ぜつきゆう)に及び、遂(つひ)に如何(いかん)とも爲(な)すべからざるに至る。下館の窮乏も亦(また)然り。故に衰國(すゐこく)を興し富優(ふいう)に復(かへ)さんと欲する時は必ず先(ま)づ仁政を施し、下民(かみん)の艱難を救ひ、其の疾苦を除き其の生養(せいやう)を安んずるに在り。猶(なほ)草木(そうもく)の繁榮を欲すれば、先づ其の本根(ほんこん)を培養すると一般なり。培養厚き時は花實(くわじつ)の榮(さかへ)は求めずと雖も必ず盛んなり。若(も)し之に反して本根(ほんこん)を養ふことを爲さず、獨(ひと)り花實(くわじつ)の榮盛(えいせい)を求め、枝葉(しえふ)に糞(ふん)する時は彌々(いよいよ)勞(らう)して益々(ますます)枯槁(こかう)す。復(また)何の益あらんや。故に下館再復の道に於(お)けるも必ず先(ま)づ仁政(じんせい)を布(し)き領民の窮苦(きゆうく)を安んじ、國本(こくほん)堅固なるに及びて然して後一藩の困窮を除き、上下の永安に至るもの是(こ)れ我が方法の常道なり。然るに初め方法依頼の時に當(あた)り、一藩の扶助米を給すること能はざるの極窮(ごくきう)に迫り、下民を撫恤するの暇(いとま)あらず。已むことを得ずして其の當難(たうなん)を凌(しの)ぐの策に出で、且(かつ)負債三萬(まん)有餘金(いうよきん)の爲(ため)に、毎年の租税を失し施政(しせい)の本定(さだま)らず、故に此の負債を償却するの法を設(まう)く。償却の道既に備(そな)はる。然りと雖も先後(せんご)する所に差(たが)ひ、一時の窮を補ひ本根培養の道未だ行はず。今に至りては迅速領邑(りやういふ)再興安撫(あんぶ)の道を施(ほどこ)さゞる可(べ)からず。果たして邦本(ほうほん)再興するに至りては、上下の安榮(あんえい)始めて全きことを得べき也(なり) と。時に嘉永5年正月、尊徳先生は下館の郡奉行の衣笠にこう言われた。「およそ国家が衰弱に至る原因は政体の本源である分度が明らかでないからである。財用に節度がなく、民から租税を取るに節度がない。知らずしらずに聚斂(しゅうれん:収奪)に陥って、民が窮し怨望が起る。民から多く取ろうと欲してますます租税は減少し、国用はいよいよ足らない。商人から財を借りて一時の窮を補い、元利は増倍して上下ともに絶窮に及ぶ。ついにはどうともできなくなるに至ってしまう。下館の窮乏もまた同じである。故に衰国を興し、富裕に復旧しようと欲する時は、必ずまず仁政を施し、民の艱難を救い、その疾苦を除いて、その生養を安んずることにある。なお草木を茂らせようと欲すれば、まずその本根を培養するのと同じである。培養が手厚い時は花も実も栄えは求めなくとも必ず盛んである。もしこれに反して本根を養うことをなさないで、ひとり花や実の栄えを求め、枝葉に肥料をやる時はいよいよ労してますます枯れてしまう。また何の益があろうか。故に下館再復の道においても必ずまず仁政をしいて領民の窮苦を安んじ、国の本が堅固になってから一藩の困窮を除いて、上下の永安に至る。これが私の方法の常道である。しかるに初め仕法を依頼する時に当たって、一藩の藩士に扶助米を給することができないほどの極窮に迫られていて、民を恵み救う余裕がなかった。やむことを得ずその当難を凌ぐ策を行った。負債3万両のために、毎年の租税を失し施政の本が定まらない。故にこの負債を償却するの法を設けた。償却の道は既に備わった。しかし先後する所が違い、一時の窮を補い本根を培養する道は未だに行われていない。今こそ迅速に領村に再興安撫の道を施こすべきである。国の本が再興するに至って、始めて上下の安栄が完全となるであろう。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.25
【4】先生下館の分度を定む尊徳先生は下館藩の過去10年の租税を調べ、その中をとって、過不及がない所の分度が既に定まった。しかし年々3万余両の負債の利息の償還だけで2千余両にもなっていた。このために租税の過半を失っていた。先生は家老以下にこう言われた。「年々負債の利子のために多数の米金が消え、何十年をへて幾万金を出してもその利息を補うだけで、元金の3万は少しも減らない。しかも用度に節度がなく、雑費は増倍し、なお借金でこれを補おうとしている。このようにして歳月を送るならば、ついに国の租税で負債の利息に充てても足らないようになるであろう。そうであれば、2万石という名があってもその実は既に亡国に異ならない。実に嘆かわしいことではないか。一日も早くこの大禍を除かなければ、後で後悔しても及ばない。しかして今この大患を除こうとするに、何か他に方法があろうか。ただ上下が「艱難に素して艱難に安んじ」内を節約してこの憂いをなくすだけである。しかるにいながらにして艱苦を免れようと私に請求しても、私が他国の租税を取つて、下館の不足を補うことはできない。また借金を踏み倒して下館の憂いを除くこともできない。また私の区々たる微力で、諸侯の不足を年々補うことはできないのはもとより論を待たない。しからば大小各々節倹を行って艱難を凌ぎ、上下一致して丹誠を行うよりどのようにして憂いを除く方法が他にあろうか。もし敵国が兵を挙げて下館領を攻撃することがあれば、一藩これを傍観して国の滅亡を待つであろうか。あるいは一身をなげうって粉骨して苦戦をつくして国を全うしようとするだろうか。国が危い時に当たって国のために命を棄てることは、もとより人臣の常道であって誰であろうと憤激戦闘の労をつくさないものはない。しかるに今、借金のために領中の多くの租税を失い、君主がこのために安心できない、臣下もまたこのために困窮に迫られている。事は異っているようだが、紛乱の世に当たって、敵のために領中をうち取られることに変わりがあろうか。しかるに手をつかねて年を送るならば、一国を失ったのと等しい大害となろう。このような危い時に当たって、一藩が身命をかえりみず国の再復に心力をつくすのが人臣の常道ではないか。しかるにこれを憂えず、ただ目前の扶助の不足を憂えて、国家に生じない米粟を豊かに受けることを望めば、どうしてこれを忠としようか義としようか。惑いの甚だしいものといわないわけにはいかない。およそ国家の衰弊が極まる原因は君主が君主の道を失い、臣下が臣下の道を失うためである。これを再復しようと欲する時は、君主は群臣に先立って艱難をつくし、臣下は恩禄を辞退し、自己の勤労を以て活計の道とし、上下一致し力をあわせ国の憂いを除く時には、たとえ何十万の借金があろうとも償却すること十年を待つことなく皆済できるであろう。このようにして上下の永安を得るに至るならば、君臣が共に「艱難に素して艱難を行っている」といってよい。しかしてこれを戦争や粉骨砕身の苦労に比べれば、なおやさしいことは同日の論を待たない。どうして成し難い事があろうか。たとえ衰えた時代の人情であり、君主の扶助を残らず辞退し、この事を成しとげることができないないとしても、国の米粟が減少して扶助の米金もなく、他の財を借りてこれを渡し、このために歳月を経過すれば国は危亡に瀕するであろう。しかして恩禄を受けて自ら安んじているようであれば、また災難も甚しいであろう。君主も国家の憂いを増長して一藩を扶助しようとするのは君主の過ちである。たとえ君主が過ってこのようにされるとしても、臣下がどうしてこれを受けるべき道が有ろうか。これを君臣ともに至当の道を失っているといって間違えているか。今、国の患いを消除する方法は他にない。君主がこの道理を明かにして一藩に示し、国になきものを取ろうとするの心を改めて、艱難の天命に随って大借を皆済すれば、必ず艱難を免れることは疑いない。この故に借債一年の利息に出すものを上下の用度に配して、その減少分を計算するに平均分度のうち二割八分の減に相当している。これは自然の天命であって人の作ったものではない。この減数を君の用度一藩の扶助を制し、その余は決して得るべきの道がない事を明らかにし、艱難をつくし年々利息を送るならば、三万両の借債は減らなくても、毎年に増借する災いは免れるであろう。もしこの自然の分度に安んずることができなければ、国家の一粒の出所がなくなるまでにならなければ止むことがないであろう と教誨された。家老以下大いに先生が明示された至当の論に感激し、この事を実施しますと言った。下館に帰り先ず君主に報告し、次に一藩に示して減少当然の用度を立てることができた。分度は既に定り、一藩艱難に対処して行った。家老以下再び桜町に来てこれを先生に告げた。先生は喜んで言った。「下館の上下が天命を知り、その本は既に定った。この時に当たって負債償却の道を設けなければならない。」ここに数日、先生は沈思黙慮されて遂に数巻の書を作成し、これを家老以下に示して言われた。「今、君臣ともに艱苦に安んじ年々利息を支払う道は備ったが、元金の三万両はいつまでたっても減ずることができない。減じない時は国の患いは消除する時がない。しかれどもこれを減じようとしても一金の出所もない。やむを得ず、元金が減少する道を考慮したがここに一つある。来年亥年の正月二月の両月の国用、米財私が仕法の米金を贈ってこれを補おう。七八両月の米財は下館の市井の富商が常に君家の用財を弁じてきたもの八戸にて之を補わせよう。また、宗家の石川候は慈仁であって憐恕の心が深い。今、下館の君臣が艱難をつくし旧来の衰弊を挙げて永安の政を行おうとしていることを具陳すれば、必ずや補助をなしていただけるであろう。しからば三四五六の四ヶ月の用財を補っていただくようお願いしなさい。下館が再復すればその時に至って本家並びに商家の出財を償うことも甚だ易しいことだ。このようにして当戌年に下館領村の租税で借債を償うがよい。しからば元金の莫大なるのを減じて、従来の利息の支払で消えていたもののうち、多くの財を余らすに至ろう。これを以て毎年元金を償うならば、ついに三万両の借債を償却することも困難ではないであろう。」家老以下、尊徳先生の仁にしてかつ大知なることを感歎して、大いに悦んでこの事を詳しく本家に伝えた。本家は先生の誠意を感じて四ヶ月の用財を贈られた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.24
報徳記巻之六【4】先生下館の分度を定む大夫(たいふ)以下大いに至當(したう)の論を感激し此の事を行はんと云ひ、下館(しもたて)に歸(かへ)り先づ君(きみ)に言上し、次に一藩に示して減少當然(たうぜん)の用度(ようど)を立つることを得たり。分度既に定れり一藩艱難に處(しょ)して行ふ。大夫(たいふ)以下再び櫻町に至り之を先生に告ぐ。先生悦びて曰く、下館上下天命を知り其の本(もと)既に定れり。此の時に當(あた)りて負債償却の道を設(まう)けずんばある可らず と。是(これ)に於て數日(すうじつ)沈思黙慮して遂(つひ)に數巻(すうかん)の書を成し、之を大夫(たいふ)以下に示して曰く、今君臣共に艱苦に安んじ年々利濟(りさい)の道備れりと雖も、元金三萬(まん)何(いづ)れの時か減ずることを得ん。減ぜざる時は國患(こくくわん)消除の時あるべからず。然れども之を減ぜんとするに一金の出所(しゆつしょ)あらず。已(や)むを得ず、元金減少の道を案ずるに此(こゝ)に一あり。來(らい)亥年(いどし)正月二月兩月(りやうげつ)の國用(こくよう)米財(べいざい)我が仕法の米金を贈り之を補ひ、七八兩月(りやうげつ)の米財は下館市井(しせい)の富商常に君家(くんか)の用財を辨(べん)じ來るもの八戸(こ)にて之を補ひ、且(かつ)宗家(そうけ)石川候は慈仁にして憐恕(れんじよ)深し。今下館君臣艱難を盡(つく)し舊來(きうらい)の衰弊を擧(あ)げ永安の政(せい)を行はんとすることを具陳(ぐちん)せば、必ず補助を爲(な)し玉はんか。然らば三四五六四ヶ月(げつ)の用財を補ひ玉はんことを請(こ)ふべし。下館再復せば其の時に至りて本家並に商家の出財を償はんこと甚だ易し。此の如くして當(たう)戌年(いぬとし)下館領邑(いふ)の租税を以て借債を償ふべし。然らば元金許多(きよた)を減じ、從來(じゆうらい)利濟金(りさいきん)の内幾多(いくた)の財を餘(あま)すに至る。之を以て毎年に元金を償はゞ、遂に三萬(まん)の借債を償却する難きにあらず と。大夫(たいふ)以下先生の仁にして且(かつ)大知なることを感歎し、大いに悦びて此の事を具(つぶ)さに本家に聞(ぶん)す。本家先生の誠意を感じ四ヶ月の用財を贈り玉ふ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.23
報徳記巻之六【4】(2)先生下館の分度を定む凡(およ)そ國家(こくか)の衰弊(すゐへい)極まるもの君(きみ)は君(きみ)の道を失ひ臣は臣の道を失ふが故なり。之を再復せんと欲する時は、君(きみ)は群臣に先立ち艱難を盡(つく)し、臣下は恩禄を辭(じ)し、自己の勤勞(きんらう)を以て活計の道となし、一致の力を以て國(くに)の憂ひを除く時は、僻令(たとひ)何十萬(まん)の借債(しやくざい)と雖も償却せんこと十年を待つ可(べか)らず。此(こ)の如くにして上下(じやうげ)の永安を得るに至らば、君臣共に艱難に素(そ)して艱難を行ひたりと云(い)ふべし。而(しか)して之を爭戰(さうせん)粉骨の勞(らう)に比(ひ)せば、猶(なほ)易々(いい)たること同日の論に非(あら)ず。何(なん)ぞ成し難き事か之有らん。僻令(たとひ)叔世(しゆくせい)の人情(にんじやう)君の扶助(ふじよ)を殘(のこ)らず辭(じ)して、此(こ)の事を成すこと能はずと雖(いへど)も、國(くに)の米粟(べいぞく)減少して扶助の米金(べいきん)なく、他の財を借りて之を渡し、之が爲(ため)に年を經(ふ)るに隨ひ危亡に瀕(ひん)せんとす。而(しか)して之を受けて自ら安しとするに至りては亦(また)甚しからずや。君(きみ)も國家(こくか)の憂ひを増長して一藩を扶助せんとし玉ふは君の過ちなり。僻令(たとひ)君(きみ)過ちて此(こ)の如くし玉ふと雖も、臣下何を以(もつ)て之を受くべきの道有らん。之を君臣共に至當(したう)の道を失ひたりと云ふは非邪(ひか)。今國患(こくくわん)を消除(せいぢょ)する他(た)なし。君(きみ)此の道理を明かにし一藩に示し、國(くに)になきものを取らんとするの心を改め、艱難の天命に隨(したが)ひ大借(たいしやく)を皆濟(かいさい)せば、必ず艱難を免れんこと疑ひあるべからず。是の故に借債一年の利息を出(いだ)せるものを上下(じやうげ)の用度(ようど)に配し、其の減少を算(さん)するに平均分度(ぶんど)の内二割八分の減(げん)じに當(あた)れり。是(これ)自然の天命にして人作(じんさ)に出るにあらず。此の減數(げんすう)を以て君の用度(ようど)一藩の扶助を制し、其の餘(よ)は決して得(う)べきの道なき事を辨明(べんめい)し、艱難を盡(つく)し年々利息(りそく)を送らば、三萬金(まんきん)の借債(しやくざい)は減ずることを得(え)ずと雖も、毎年(まいねん)に増借の殃(わざはひ)を免(まぬが)るべし。若(も)し此の自然の度(ど)に安んずることあたはずんば、國家(こくか)一粒(りふ)の出所なきに至らずんば止むべからず と教誨(けうくわい)す「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.22
報徳記 巻之六 【4】先生下館の分度を定む下館(しもたて)既往(きわう)十年の租税を調べ、其の中を執(と)り過不及(くわふきふ)なき所の分度既に定まる。然して年々三萬(まん)有餘(ゆういうよ)金の負債其の利息を償(つぐな)ふ二千有餘金(ゆういうよ)を以てす。之(これ)が爲(ため)に租税の過半を失ふに至る。先生大夫以下に謂(い)ひて曰く、年々負債利子の爲(ため)に多數(たすう)の米金(べいきん)を消(せう)し、何十年を經(へ)て幾萬(まん)金を出すと雖も其の息(そく)を補ふ而已(のみ)にして元金三萬(まん)は少しも減ずべからず。加之(しかにみならず)用度節(せつ)なく雑費増倍、尚(なほ)借債を以て之を補(おぎな)はんとす。此の如くにして歳月を送らば遂(つひ)に國(くに)の租税を以て負債の利に充(あ)つるに足らざるに至らん。然らば、則(すなはち)二萬(まん)石の名ありと雖も其の實(じつ)は既に亡國(ぼうこく)に異ならず。豈(あに)歎ず可きの至(いた)りに非ずや。一日も早く此の大禍(だいくわ)を除(のぞ)かずんば、後(のち)悔(く)ゆと雖も及ぶべからず。而(しか)して今此の大患(たいくわん)を除かんとするに、何ぞ他の術あらんや。唯(たゞ)上下(じやうげ)艱難に素(そ)して艱難に安んじ、内(うち)を約して以て此の憂ひを消(せう)ぜん而已(のみ)。然るに坐(ゐ)ながら艱苦を免れんことを我に請求(せいきう)すと雖も、我他邦(たほう)の貢(みつぎ)を取つて下館の不足を補ふこと能(あた)はず。又(また)借債を倒(たふ)して以て下館の憂ひを除くことあたはず。又(また)我區々(くく)たる微力を以て、諸侯の不足を年々補ふことあたはざるは素(もと)より論を待たず。然らば則ち大小各(かく)節儉(せつけん)を行ひ艱難を凌(しの)ぎ、上下一致の丹誠を以て如何(いか)なる憂ひをも除くの外に他道(ただう)あること無し。若し敵國(てきこく)兵を擧(あ)げ下館領を攻撃することあらば、一藩之を傍觀(ぼうくわん)して國家(こくか)の滅亡を待たんか。將(はた)一身をナゲウち粉骨(ふんこつ)の苦戰を盡(つく)し國家(こくか)を全(まつた)くせんか、國(くに)の危き時に當(あた)り國家(こくか)の爲(ため)に命を棄(す)つること、元より人臣の常道(じやうだう)にして誰(たれ)か憤激戰闘(ふんげきせんとう)の勞(らう)を盡(つく)さゞらんや。然るに今借債の爲(ため)に領中多分の租税を失ひ、君之が爲(ため)に心を安んじ玉ふことあたはず、臣下も亦(また)之が爲(ため)に困窮に迫れり。事異なりと雖も紛亂(ふんらん)の世に當(あた)り、敵の爲(ため)に領中を伐(う)ち取られたるに異ならず。然るに手を束(つか)ねて以て年を送らば、一國(こく)を失ひたるに等しき大害(たいがい)と爲(な)らん。此(こ)の如く危(あやふ)き時に當(あた)り、一藩身命を顧(かへり)みず國家(こくか)再復に心力(しんりよく)を盡(つく)すもの人臣の常にあらずや。然るに此を之(こ)れ憂へずして惟(たゞ)目前(もくぜん)扶助(ふじょ)の不足を憂ひ、國家(こくか)に生ぜざるの米粟(べいぞく)を優(ゆた)かに受けんことを望まば、豈(あに)之を忠とせんか之を義とせんか。惑ひの甚だしきものと謂(い)はざる可(べ)からず。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.21
報徳記巻之六【3】先生上牧某を教諭す(原文は漢文)高慶曰く、國家の憂を以て憂と爲て一己の私憂とせず。夙夜身を致し以國事に任ずる者人臣の常道に非ずや。苟も恩禄榮利を以て心と爲し阿諛面從豈與に君に事ふ可んや。先生甞て曰く君に事て利禄に離れざる者譬へば商賈の物を鬻ぎ價を争ふ也。君子の君に事る豈其れ斯の如くならん哉。先生一たび臣爲るの道を教へて下館の衆臣多くを貪り不足を憂ふるの意弭み而して忠義の心油然として生ぜり。徳の物に及ぶ何ぞ其れ速か也るや。(「訳注 報徳記」佐々井典比古)著者(富田高慶)が思うに、国家の憂いを憂いとして一己の私事を憂いとせず、日夜身をささげて国事に任ずるのが人臣の常道ではないか。いやしくも俸禄や栄誉利益を心として、おもねりへつらい、うわべだけ人に従うような者とは、到底共に君に仕えることはできない。先生はあるとき言われた。「君に仕えて心が利録から離れない者は、たとえば商人が物を売り、価を争うようなものである。君子は決してこのようにして君に仕えるものではない」と。先生がひとたび臣たるの道を教えられて、下館の衆臣は多くをむさぼり不足を憂える心がやみ、忠義の心が油然として生じた。徳の推し及ぶことは、何とすみやかなものであろう。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.20
報徳記巻之六【3】先生上牧某を教諭す上牧曰く、一藩の人情誠に先生の明察の如し。我多年之を憂ふるといへども如何(いかに)ともすること能はず。今我が行ひを以て一藩の卑心(ひしん)を解(かい)することを得(え)ば上下の幸(さいはひ)何事か之に如(し)かん。其の道なるもの如何(いかん)。先生曰く、其の道他にあらず。惟(たゞ)子(し)の恩禄を辭(じ)せん而已(のみ)。其の言に曰く、今國家(こくか)の窮困(きゆうこん)既に極れり。君艱難を盡(つく)し玉ふといへども臣下の扶助(ふじよ)全からず、一藩の艱難も亦(また)甚しといふべし。某(それがし)大夫(たいふ)の任にありて上(かみ)君の心を安(やす)んずることあたはず、下(しも)一藩を扶助すること能はざるは是(これ)皆不肖(ふせう)の罪なり。今二宮の力を借り以て衰國(すいこく)を再興せんとす。先づ恩禄を辭(じ)し聊(いささ)かたりとも用度(ようど)の一端を補ひ、無禄にして心力(しんりよく)を盡(つく)さんこと某(それがし)の本懐(ほんくわい)なりと主君に言上(ごんじやう)し、一藩に告げて以て禄位(ろくい)を辭(じ)し、國家(こくか)の爲(ため)に萬苦(ばんく)を盡(つく)す時は衆臣(しゆうしん)必ず曰(い)はん。執政(しつせい)國(くに)の爲(ため)に肺肝を碎(くだ)き再復の道を行ひ、恩禄を辭(じ)して忠義を勵(はげ)む。然るに我輩(わがともがら)國家(こくか)に力を盡(つく)さずして空しく君禄(くんろく)を受く。豈(あに)之を人臣(じんしん)の本意(ほんい)とせん。僻令(たとひ)禄の十ヶ(が)一を受(う)くるも大夫(たいふ)に比すれば過(す)ぎたるにあらずやと。積年の怨望(ゑんぼう)氷解(ひようかい)し、始めて素餐(そさん)の罪を耻(は)づるの心を生じ、日々活計(くわつけい)の道に力を盡(つく)し、他を怨みず人を咎めず、如何(いか)なる艱苦をも安んじ、之を常とし之を天命とし、婦女子に至るまで其(そ)の不足の念慮を去らん。然らば則ち一藩を諭(さと)さずして當時(たうじ)の艱難に安んじ、忠義の一端をも勵(はげ)まんとするの心を生ぜん。是の艱難の時に當(あた)り大夫(たいふ)たるもの上下の爲(ため)に一身を責めて人を責めず大業(たいげふ)を行ふの道なり。然して惟(たゞ)之を行ふ事のあたはざるを憂ひとせり。此の道を行はずして人の上に立ち高禄を受け、辨論(べんろん)を以て人を服せしめんとせば、益々(ますます)怨望(ゑんぼう)盛んにして國家(こくか)の殃(わざわひ)彌々(いよいよ)深きに至らん。何を以て衰國(すいこく)を擧(あ)げ上下を安んずることを得んや と。上牧某(なにがし)大いに此の言(げん)に感激して曰く、謹(つゝしみ)て教へを受け直ちに之を行はんと云ふ。下館(しもたて)に歸(かへ)り此の事を聞(ぶん)し速(すみや)かに恩禄三百石を辭(じ)したり。微臣(びしん)大島某(それ)小島某(それ)なるもの此の事を聞き感動し、二人共に自俸を辭(じ)し無禄にして奉仕せり。先生之を聞きて曰く、上(かみ)これを好むときは下(しも)之より甚(はなはだ)しきものあり。上牧(かみまき)一度非常の行ひを立つれば兩人(りやうにん)亦(また)此の事を行ふ。古人の金言(きんげん)宜(うべ)ならずや。是(これ)に於て上牧大島小島三人一家(いっか)扶助の米粟(べいぞく)を櫻町より贈り、其の艱苦を補ひたりと云ふ。上牧は言った。一藩の人情は誠に先生が明察されるとおりです。私は多年にわたってこれを憂えておりますがいかんともすることができません。今私の行いによって一藩の卑しい心を解消することができるならば上下の幸いはこれにまさるものはありません。その道とはどのようなものでしょうか。先生は言われた。「その道は他でもありません。ただあなたが恩禄を辞退するだけです。そのときこのように言うのです。『今、国家の困窮は既に極っています。君は艱難を尽くされておられます、臣下の扶助を完全に行うことができない状態です。一藩の艱難もまた甚しいというべきです。私は家老の任にあって上は君の心を安らかにすることができず、下は一藩を扶助することができません。これすべて私の不肖の罪です。今、二宮の力を借りて衰国を再興しようとしております。先ず私が恩禄を辞退していささかなりとも必要な資財の一端を補い、無禄で心力を尽すことが私の本懐です。』このように主君に言上し、一藩に告げて禄位を辞退し、国家のために万苦を尽くす時は衆臣必ず言うでしょう。『ご家老は国のために肺肝を砕いて再復の道を行い、恩禄を辞退して忠義を励もうとされている。しかるに我等は国家に力を尽くさないで空しく君禄を受けている。どうしてこれが人臣の本意としようか。たとえ禄の十分の一を受けてもご家老に比べれば過ぎたものではないか。』積年の怨望は氷解し、始めて無駄に食事をしている罪を恥じるの心が生まれ、日々活計の道に力を尽くし、他を怨まず人を咎めず、どのような艱苦をも安んじて、これを常としこれを天命として、婦女子に至るまでその不足の念慮を去ることでしょう。しからば則ち一藩を諭さなくても現在の艱難に安んじ、忠義の一端をも励もうとする心を生ずるでしょう。この艱難の時に当たって家老たるものが上下のために一身を責めて人を責めず大業を行うの道です。しかしてただこれを行う事ができないことを憂いとします。この道を行わないで人の上に立って高禄を受け、弁論で人を服さしめようとすれば、ますます怨望が盛んになって国家の災いはいよいよ深くなることでしょう。どうして衰国を挙げて上下を安らかにすることができましょうか。」上牧は大いにこの言葉に感激して言った。「謹んで教えを受け直ちにこれを行いましょう。」下館に帰ってこの事を主君に告げて、すぐに恩禄300石を辞退した。微臣の大島という者と小島という者がこの事を聞いて感動し、二人ともに自俸を辞退して無禄で奉仕した。先生はこれを聞かれて言われた。「上がこれを好むときは、下はこれより甚しきものありという。上牧が一度非常の行いを立てたら両人がまたこの事を行う。古人の金言はなんともっともなことであうことか。」そこで尊徳先生は上牧、大島、小島の三人に一家を扶助する米粟を桜町から贈って、その艱苦を補われたという。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.19
報徳記 巻之六 【3】先生上牧某を教諭す一時(あるとき)先生上牧某(なにがし)に諭(さと)して曰く、夫(そ)れ國家(こくか)の衰貧に當(あた)りて君の禄其(そ)の名は二萬石(まんごく)なりといへども、其の租税の減ずること三分の二に當(あた)らんか。然らば一藩の恩禄も其の減少之に隨(したが)ふべし。是れ衰時の天命にして君禄の限りあることを如何(いか)にせん。天命衰貧の時に當(あた)り艱難に素(そ)して艱難に行ふこと臣下の道にあらずや。然るに君禄の減少を知らずして自俸(じほう)の不足を憂ひ、其のある無き所の米粟(べいぞく)を受んことを欲し怨望(ゑんぼう)の心を免れず。國體(こくたい)の衰弱を知らざるが故也(ゆゑなり)といへども、誠に淺(あさ)ましきことにあらずや。國(くに)の政(せい)を執(と)るもの天分を明かにし衰時の自然を明辨(めいべん)し、一藩の惑ひを去り、其の貧に安(やす)んじ、專(もっぱ)ら國家(こくか)に忠義を盡(つく)さしむるは職分の最も先務なり。然るに大夫(たいふ)以下猶(なほ)此の天命を辨(わきま)へず、何を以て一藩を諭(さと)さんや。而して大夫(たいふ)其の天分を明かに知り一藩を諭すと雖も、猶(なほ)怨望の心止み難きものあり。如何(なん)となれば衰時の天命に隨ひ、國家(こくか)にある無き所の物を渡すべき術(じゆつ)なきを明示すれども小禄の臣下必ず云(い)はん。大夫(たいふ)以下在職の輩(はい)は俸禄我が輩に十倍せり。減少すといへども豈(あに)困窮我が輩の如くならんや。人の上に居(を)り高禄を受け他の艱難を察せずして、天命衰時に當(あた)り其の無きものは渡すべきの道なし。艱苦に安んじ專(もつぱ)ら忠義を勵(はげ)むべしとは何ぞや。執政(しつせい)の任たるもの仁政を行ひ國の憂患を除き、艱難を救ひ衰國(すゐこく)をして再び盛んならしむるもの其の任にあらずや。若し其の任に在て此事を爲(な)すこと能はずんば其の職を貪る也(なり)。何ぞ速かに退職せざるやと云ふ。是(これ)怨望(ゑんぼう)止まざる所以(ゆゑん)なり。是の如く怨望する者、素(もと)より臣の道に非ずして、大いに本意(ほんい)を失ひたりといへども、此(こ)の怨望の心なからしむるものは執政(しつせい)の道也(なり)。一藩の怨望辨明(べんめい)理解を待たずして忽(たちま)ち消除し、其の艱難を安んじ忠義の心興起(こうき)するの道斯(こゝ)に一あり。子(し)之を行はずんば國弊(こくへい)を矯(た)め上下の艱難を救ふことあたはず。夫(そ)れ之を行ふべきか否や。【3】先生上牧某を教諭すあるときに尊徳先生は下館藩家老の上牧にこう諭(さと)された。「国家の衰貧に当たって下館候の禄は名目は二万石といっても、その租税は三分の二ほど減少してしていようか。しからば一藩の恩禄もその減少これに従うべきである。衰時の天命にあたって君禄の限りあることをいかにしようか。天命が衰貧の時に当たっては「艱難に素(そ)しては艱難に行う」(中庸)ことは臣下の道ではないか。しかるに君禄の減少を知らないで自分の俸給の不足を憂慮し、そのあるはずもない給与を受けることを欲して怨む心を免れない。国体の衰弱を知らないためであるとはいっても、誠に浅ましいことではないか。国の政治を執る者(家老)は、天分を明かにし、衰時の自然を明らかにわきまえ、一藩の惑いを去って、その貧しきに安んじ、専ら国家に忠義を尽くさせるのが職分であり、最も先務とする。しかるに家老以下なおこの天命をわきまえなければ、どうして一藩を諭すことができようか。しかして家老がその天分を明かに知って一藩を諭したとしても、なお怨望の心は止み難いものがあるであろう。なぜかといえば衰時の天命に従って、国家にあるはずのない所の物を渡す方法がないことを明示しても小禄の臣下は必ずこのように言うであろう。家老以下在職の方々は俸禄が私達の十倍ほどです。減少したからといってどうしてその困窮が私達のようでありましょうか。人の上にいて高禄を受け、他の艱難を察することができず、天命衰時に当たるから無いものは渡す方法がない。艱苦に安んじて専ら忠義を励めとは何なる言い草か。執政の任務について仁政を行い、国の憂患を除いて、艱難を救い衰国を再び盛んにするのがその任務ではないのか。もしその任に在ってこの事を行うことができないのならばその職を貪っているというべきです。どうしてすぐに退職しないのですか」と言うであろう。これは怨望が止まないためである。このように怨望する者は、もとより臣の道ではなく、大いに本意を失っているけれども、この怨望の心をなくならせるのが執政の道である。一藩の怨望は明らかに理解を待たないでたちまちに消除し、その艱難を安んじ忠義の心を起させる道がここに一つある。あなたがこれを行わなければ国弊を矯正し上下の艱難を救うことはできないでしょう。あなたはこの道を行うことができますか。
2023.10.18
二宮翁夜話巻の一【32】翁曰く、聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず、日々夜々天理に随ひ人道を尽して行ふを、他より称して聖人といひしなり、堯舜も一心不乱に、親に仕へ人を憐み、国の為に尽せしのみ、然るを他より其の徳を称して聖人といへるなり、諺に、聖人々々といふは誰(た)が事と思ひしに、おらが隣の丘(きう)が事か、といへる事あり、誠にさる事なり。我昔鳩ヶ谷駅を過し時、同駅にて不士講に名高き三志と云ふ者あれば尋ねしかば、三志といひては誰もしるものなし、能々(よくよく)問ひ尋ねしかば、夫(それ)は横町の手習師匠の庄兵衛が事なるべし、といひし事ありき、是におなじ。【32】尊徳先生はおっしゃった。「聖人も聖人になろうとして、聖人になったわけではない。日々夜々天理に随って人の道を尽して行うのを、他人が称して聖人といったのである。堯・舜(ぎょう・しゅん:古代中国の聖王)も一心不乱に、親につかえ、人を憐んで、国のためにつくしただけである。それを他の人がその徳を讃えて聖人といったのである。諺(ことわざ)に、聖人聖人というのは誰の事かと思ったら、おらが隣の家の丘(孔子の名前)が事か、ということがある。本当にそういう事なのだ。私が昔、鳩ヶ谷の宿場町を通った時、同町で不士講(ふじこう)で有名な三志という者を尋ねていったが、三志といっても誰も知る者がない。よくよく問い尋ねてみれば、それは横町の手習師匠の庄兵衛が事であろう、といわれた事があった。これと同じことだ。」横浜市立日吉台小学校
2023.10.18
報徳記巻之六【2】先生下館困難の本根を論ず先生曰く、夫(そ)れ諸侯の任たる專(もつぱ)ら領民を安撫(あんぶ)するにあらずや。然るに民を治むるの仁政を失ひたるが故に今此の衰貧に至れり。君臣共に前過を悔い厚く國民(こくみん)を撫育せんとせば、僻令(たとひ)其の事を行ふあたはずといへども、猶(なほ)其の本を知り仁政の志ありとせん。然るに下民(かみん)の安危(あんき)を度外(どぐわい)に置きて之を憂ふるの心なく、專(もつぱ)ら君臣目前の艱苦を免れんとして其の道を我に求む。是我が聞く所にあらざる也。兩士(りやうし)曰く、國民(こくみん)を撫育し之を安ぜんとすること素(もと)より君臣の願ひ也。然といへども當時(たうじ)の租税過半は借債利濟(りさい)の爲(ため)に費(つい)え、一藩を扶助(ふじよ)することあたはず。何を以てか下民(かみん)を惠(めぐ)むことを得んや。借債減少の道を得ることあらば、必ず國民(こくみん)惠恤(けいじゆつ)の事も亦(また)之に由(よつ)て生ぜんとす。先生願くは先づ此の急難を除くの道を教へよ。先生曰く、嗟乎(あゝ)惑ひたりと謂(い)ふべし。君臣共に其の本體(ほんたい)を失ひ此の衰貧に至り、猶(なほ)其の本に歸(かへ)ることあたはずして、國本(こくほん)たる民の艱苦を後にし、其の末の憂ひを除かんことを先とす。是(こ)の如く本末先後の道を失ひ、國家(こくか)をして再興せしめんと欲す又(また)難(かた)からずや。然りと雖も君臣の憂ふる所借債にありて困窮胸中に迫れり。何ぞ國家(こくか)の本源を論ずるに暇(いとま)あらんや。此の借債衰貧何に由(より)て起れるや。國家(こくか)の分度明かならず、入(いる)を計りて出(い)づるを制するの道なく、國用(こくよう)足らざれば他の財を借りて一時の不足を補ひ曾(かつ)て後難(こうなん)を慮(おもんぱか)らず、遂に貧困こゝに至るにあらずや。先づ此の憂ひを除んことを欲せば、國家(こくか)自然の分限を明らかにせざる可(べ)からず。分限一度明瞭なる時は貧富盛衰の由(よつ)て生ずる所衰廢(すゐはい)再興の道理自ら了然たり。仍(よ)りて以前十年の租税を調べ、豊凶十年を平均し其の度に當(あた)るもの是(これ)則ち天分動かすべからざるの分度なり。然して出財を制する時は國家(こくか)の基本始めて明らかなるべし。次には數年(すうねん)の借債古借新借を分ち元利明白に調べ其の員數(ゐんすう)を明かにし、然後(しかるのち)其の償ふべきの道を參考(さんかう)せざれば何を以て卒爾(そつじ)に當然(たうぜん)の道を見ることを得んや。速かに筆算の臣を此の地に招くべし と教ふ。兩士(りやうし)大いに感じ諸士數(すう)十人を櫻町に呼びて之を調(しら)べんとす。然るに一藩の扶助に充つべき米粟(べいぞく)なく將(まさ)に飢渇に及ばんとするを憂ふと云ふ。先生大息(たいそく)して之を憐み、米粟若干を下館に贈り其の急を補ひ、然して後數月(すうげつ)畫夜(ちうや)の丹誠を盡(つく)し兩條(りやうでう)の調べを成就せり。巻之六【2】先生下館困難の本根を論ず先生は言われた。「諸侯の任は専ら領民を安心して暮らせるようにすることではありませんか。しかるに民を治める仁政を失ったために今この衰貧に至ったのです。君臣がともに前に犯した過ちを後悔し厚く民を撫育しようとすれば、たとえその事を行うことができないとしても、なおその本を知っており仁政の志があるといえましょう。しかるに下民が安心して暮らせるかを度外視してこれを憂慮する心がなく、専ら君臣が目前の艱苦を免れようとしてその道を私に求めようとする。これは私が聞く所ではありません。」両人は言った。「国民を撫育しこれを安じようとすることはもとより君臣の願いとするところです。しかしながら現在の租税の過半は借金の利子を払うために費え、一藩を経営することができません。どのようにして下民を恵むことができましょうか。借金が減少する道が得られれば、必ず国民を恵む事もまたこれによって生ずるでしょう。先生願わくはまずこの急難を除く道を教えてください。」先生は言われた。「ああ惑っているというべきである。君臣ともにその本体を失い、この衰貧に至って、なおその本に帰ることができず、国の本であるの艱苦を後にして、その末の憂いを除くことを先としている。このように本末・先後の道を失い、国家を再興させようと欲する。困難ではないか。しかしながら君臣の憂える所は借金にあって困窮が胸中に迫っている。どうして国家の本源を論ずる暇があろうか。この借金衰貧は何によって起ったのか。国家の分度が明らかでなく、「入るを計って出ずるを制する」(礼記)の道がなく、国用が足らなければ他の財を借りて一時の不足を補い、少しも後難を思慮しない。ついに貧困がここに至ったのではないか。まずこの憂いを除かんことを欲するならば、国家自然の分限を明らかにしなければならない。分限が一度明瞭になる時は貧富盛衰のよって生ずる所、衰廃再興の道理が自ら了然となる。よって以前十年の租税を調べて、豊凶十年を平均しその度に当たるものが則ち天分の動かすべからざる分度である。しかして出財を制する時、国家の基本が始めて明らかになる。次に数年の借債のうち古借・新借を分って元利を明白に調査し、その金額を明かにして、その後その償還すべき道を参考にしなければ何によって当然の道を見ることができようか。すぐに筆算ができる臣をこの地に派遣しなさい。」両名は大変感じいって諸士数十人を桜町に派遣してこれを調査させた。しかるに一藩の扶助に充てるべき穀物がなく、まさに飢渇に及ぼうとすることを憂慮しているという。尊徳先生は大きくため息をつかれてこれを憐んで、穀物若干を下館に贈ってその急を補い、その後に数月の間、昼夜丹誠を尽くして両条の調査を成就した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.17
二宮翁夜話巻の1【31】翁曰く、一言(ごん)を聞きても人の勤惰は分る者なり、東京(えど)は水さへ銭が出ると云ふは、懶惰(らんだ)者なり、水を売りても銭が取れるといふは勉強人なり、夜は未だ9時なるに10時だと云ふ者は、寝たがる奴(やつ)なり、未だ9時前なりと云ふは、勉強心のある奴なり、すべての事、下に目を付け、下に比較(ひかく)する者は、必ず下り向の懶惰者なり、たとへば碁を打つて遊ぶは酒を飲むよりよろし、酒を呑むは博奕よりよろしと云ふが如し、上に目を付け上に比較する者は、必ず上(あが)り向なり、古語に、一言以て知(ち)とし一言以て不知とす、とあり、うべなるかな。<論語子張第十九>陳子禽(ちんしきん)、子貢(しこう)に謂いて曰く、子は恭をなすなり。仲尼(ちゅうじ)はあに子よりも賢ならんや。子貢曰く、君子は一言(いちげん)、もって知となし、一言、もって不知となす。言は慎(つつし)まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、なお天の階(かい)して升(のぼ)るべからざるがごときなり。夫子にして邦家(ほうか)を得たらんには、いわゆる、これを立つればここに立ち、これを道(みちび)けばここに行き、これを綏(やす)んずればここに来(きた)り、これを動かせばここに和(やわ)らぐ。その生(い)くるや栄(はえ)あり、その死するや哀(かな)しまる。これをいかんぞそれ及(およ)ぶべけんや。【31】尊徳先生がおっしゃった。「一言を聞いてもその人の勤惰は分るものである。江戸は水でさえ金を払わなくてはいけないと言う人は、怠け者である。水を売っても金が取れるという人は勤め励む人である。夜はまだ9時なのにもう10時だと言う者は、寝たがる人である。まだ9時前だという人は、勉強心のある人である。すべての事に、下に目を付けて、下に比較する者は、必ず下向きの怠け者である。たとへば碁を打って遊ぶは酒を飲むよりまだよいと言って碁を打ったり、酒を飲むのは博奕をするよりよいなどと自分に言い訳して酒を飲むようなものだ。上に目を付けて上に比較する人は、必ず上向きの人である。古語に、『一言以て知(ち)とし一言以て不知(ふち)とす』とある。そのとおりである。二宮金次郎像を寄贈 綾瀬市上土棚 田中文雄さんタウンニュース2010年11月26日
2023.10.17
報徳記 巻之六 【2】先生下館困難の本根を論ず衣笠某(なにがし)下館に歸(かへ)り復命す。君公大いに感じ時の大夫(たいふ)上牧某(なにがし)に命じ、艱難再復の仕法を先生に依頼せしむ。衣笠同行せり。櫻町に來(きた)りて君命を演舌(えんぜつ)し良法を請(こ)ふ。先生我が及ぶ所にあらざるを以て固辭(こじ)す。兩士(りやうし)切(しき)りに請(こ)ふて止まず。先生曰く、我は小田原の微臣(びしん)なり。何を以て諸侯の政事(せいじ)に關係(くわんけい)することを得ん。又(また)奚(いづくん)ぞ私(ひそか)に諸侯の委託を受くるの道あらんや。元來(ぐわんらい)小田原先君の命に依りて此地再復の事を成(な)せり。故に此の方法は我が方法にあらずして小田原の方法なり。先君既に世を捐(す)つといへども猶(なほ)當君(たうくん)あり。下館君(しもたてくん)國家(こくか)を再興し給はんとならば、其の旨趣(ししゅ)を小田原に談ぜらるべし と。是(こゝ)に於て下館に歸(かへ)り此の事を聞(ぶん)し、使(つかひ)をして小田原君へ請(こ)ひ玉ふに前條(ぜんでう)を以てす。小田原君人をして答へしめて曰く、分知(ぶんち)宇津家(うつけ)の采邑(さいいふ)興復(こうふく)を二宮に任じ、再び小田原領中の事を命じぬ。加之(しかのみならず)外(ほか)諸侯の委託を受けよとは命じ難し。彼(かれ)若し餘力(よりょく)ありて其の委託に應(おう)ずることあらば共に喜悦(きえつ)する所也と。使者復命す。是に於て再び上牧衣笠をして、櫻町に至り依頼せしむ。衣笠は下館に帰って復命した。君公は尊徳先生の教えに大いに感じて、時の家老の上牧に命じて、艱難再復の仕法を先生に依頼させた。衣笠も同行した。桜町に来たって君命を述べ伝えて良法を施行することをお願いした。先生は私が及ぶ所ではないと固辞された。両名は、切実にお願いて止まなかった。先生は言われた。「私は小田原藩の微臣である。どうして諸侯の政治に関係することができましょうか。また、どうして、ひそかに諸侯の委託を受ける道があろうか。元来、小田原の仕法は先君の遺命によってこの地の再復の事を行いました。ゆえにこの方法は私の方法ではなく小田原の方法です。先君は既にこの世にはありませんが、なほ当君がいらっしゃいます。下館候は、国家を再興しようとされるならば、その趣旨を小田原に相談されるべきです。」ここにおいて下館に帰ってこの事を下館候に報告し、使い小田原候へお願いするに前条をもってした。小田原候は使いをもって次のように答えさせた。「分知の宇津家の領地の復興を二宮に命じて、再び小田原領中の事を命じている。これに加えてほかに諸侯の委託を受けよとは命じがたい。二宮にもし余力があってその委託に応じることがあれば、ともに喜悦する所である。」使者は復命した。ここにおいて再び上牧と衣笠を、桜町に至らしめて依頼させた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.16
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