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大阪の会社に就職する関西人の場合、"東京嫌い"が多いんじゃないかなぁ。私は、神戸で長年暮らしていたが、大阪には全くこだわりがなかった。むしろ"仕事をするなら東京でしょ"的なイメージをもっており、勤務地の第一希望は東京にしていた。多分会社からすると"渡りに船"だったかも知れない。後で知ったことだが、創業者一族で東京で企画部長みたいなことをしている方は大学の先輩で、そこそこ目をかけてくれたかも。丸三年務めて辞める時に挨拶にゆくと「また、いつでも来いよ!」と元気良く話してくれた。(その方は会社での評判があまり良くなかったので、よく"カラ元気のXX部長"と揶揄されていたものだ。)さて、今日の一枚はコレジャクソン・ブラウン「HOLD OUT」1980大阪ではジミヘン好きの先輩と同部屋だった私だか、東京ではビートルズ好きの同期と同部屋だった。「レット・イット・ビー」しかビートルズのレコードを持っていなかった私とは違い、彼は多分ほとんど揃えていたのだと思う。狭いアパートにレコードプレーヤーが2台。1台はビートルズメイン。もう1台はジャコパスやドゥービーブラザーズがメイン。そしてそれらは時間をズラして稼働する。そんな彼のコレクションの中で私が一番気に入っていたのが、このレコードだ。それまでジャクソン・ブラウンは聴いたことがなかったが、なんとも聴きやすい歌声とちょっとドラマチックな曲奏が好きだった。本作の一般的な評価はイマイチかも知れないが、今でも一番好きなレコードで、この会社を辞めて神戸に帰ってから自分でも買った。政治活動にも積極的な彼の行動にもカッコ良さを感じていたのかも知れない。それから随分後になって"ベスト盤"なるCDも買ったが、正直言ってイマイチだった。ブルース・スプリングスティーン比較されることの多い彼だが、正直言ってパワフルさは無いものの人間臭さはブルースと十分勝負できると思う。(しらんけど、、)このレコードを教えてくれた同部屋のヤツとは、40年以上経った今でもLINEのやりとりをしている。ちなみに彼は実家の大牟田に引っ込んで、最近は料理教室に行っているらしい。。(とても似合わない)
2023年01月27日
一応、"社会人"になってからの音楽趣味の変遷について一枚づつのレコード及びCDにフォーカスを当てて思い出話をします。記念すべき第一弾は、、、これが、ジャケット!!!「エレクトリック・レディランド」<ザ・ジミ・ヘンドリックス&エクスペリエンス>1967年エクスペリエンス3枚目の作品であり、グループとしては最後の作品。まずこのジャケットを見ながらドキドキしてレジに持っていった記憶がうっすらある。。"この手"のジャケットでは"スコーピオンズのバージンキラー"や"ニルヴァーナのネバーマインド"などのように裁判沙汰にまでなったものもあるが、ジミヘンの場合はプロのモデルさんなのだろう、、、裁判にはなっていないと記憶している。もっともジミヘン自身はこのジャケットは気に入ってなかったようだ。そんなことはともかく、、、学校を出て最初に入った会社は本社が大阪で谷町辺りに独身寮があり、私はそこに入寮した。そこは、先輩と同部屋という今の時代では高校の野球部みたいでちょっと時代錯誤を感じるものだが、その時は何の抵抗も無く数ヶ月間先輩と暮らした。同部屋の先輩は社会人になってすぐ、フェンダー(多分、ストラスキャスターだったと思う)を購入し、毎日ギターで弾いていた曲が"ヴードゥー・チャイルド"であった。私も学生時代からジミヘンは好きだったので、もちろんこの曲は私も知っていたが、正直言ってジミヘンを6畳間で聴きたくはなかった。まあまあ常識のある先輩だったので、大体はアンプを繋がず、"生エレキギター"演奏だったが、とても楽しそうに弾いているように見えたものだ。私としては、ジミヘンのグループ2枚目のアルバムである「アクシス:ボールド・アズ・ラブ」の方が好きだったので、本当は"リトル・ウィング"を聴きたかったのが本音。「エレクトリック・レディランド」に話を戻すが、本作には"トラフィック"のメンバーが参加しており、デイヴ・メイスンは"All along the Watchtower"でギターを披露しているのが興味深い。後年、デイヴ・メイスン自身のアルバムで同曲を収録しているが、これも名演奏だと思う。ディランの原曲が一番印象が薄いような気さえしてしまう。本作は2枚組のレコードで発売され、今も我が家に残っているのはそのまま2枚のCDに収めたバージョンだが、最近はこれを1枚にしたバージョンも発売されているようだ。ジミヘンと言えば、Live演奏を語る方が多いが、私は断然スタジオ版が好きだ。ステージ上で早口で喋りまくる彼を見たのはモントレーやウッドストックの映像だが、彼が亡くなってだいぶ経ってのことで、それはロックギタリストというより漫談のようで、一人で喋って一人で笑っていたような記憶しかない。それと比較して、本作はとても斬新な音作りで、ロックアルバムとしては歴史的な名盤ではないかと思うが、それは同時にジミヘンがあんな死に方をせず、今も生きていたら、ロックシーンそのものが変わっていたのではないか、、と思ってしまうのは私だけではないだろう。そんなわけで、"ヴードゥー・チャイルド"を聞くと先輩の岡本さんを今でも思い出すのだ。
2023年01月26日
年金をもらえる歳になってようやくJazzメインの音楽生活となった私だが、学生時代はジャズにもブルースにもイマイチ興味が持てなかった。それでも神戸三宮のドイツ料理店の向かいの地下にあったJazz喫茶「木馬」(正直言って店名は定かではない)に時々通っていた私だった。薄暗い店内であの頃は禁煙シートはなく、モクモクした中でJBLか何かのデカいスピーカーから流れるJazzに我が身を浸す喜びも少しは感じていたと思う。"あの頃"は、"クロスオーバー・ブーム"と言われるものがあって、前述のスタンリー・クラーク、ジャコパスそして日本のグループなんかも時々聴いた覚えがある。では、レコードを買う事は滅多になかった。そんな中でちょっとハマったグループが"Hummingbird"だ。元々はジェフベック・グループのメンバーが主体となっているジャズの香りがするロックグループと言っていいだろう。この作品は彼らのセカンドアルバムだが、ファーストアルバムとはかなり趣が変わった作品だった。ジェケットもかっこいい。 ↓まず一曲目のバタバタしたドラムで始まる曲がとにかくカッコ良く、今でも車でよく聞くナンバーなのだ!例によってレコードは処分したが、CDはしっかりと買い直している。当時は全く知らなかったのだが、このドラマーさん(バーナード・パーディー)は言わば伝説のドラマーでアレサ・フランクリンの伝説のライブでもドラムを叩いている。ただ、グループ最後のアルバムでは、なんというかパワーが落ちたかなぁ。。。残念な事です。それと、このグループもお気に入りだった。ジェームズ・テーラーやジャクソン・ブラウンのバックバンドだった"ザ・セクション"このパイ、美味そう、、、 ↓彼らも2枚か3枚ののスタジオレコードをリリースしていたと思うが、それらのレコードも、、今は我が家にはない。ある時、このグループのメンバーが吉田拓郎のバックを担当し、ライブ演奏していた事には驚かされた。。多分、ギャラは高かっただろうと思う。当時、かなり有名だった"Stuff"とは一味違った味があり、私は"The Section"の方が好きだったかなぁ。。(実際に大阪でライブを見たのはStuffの方だけど)
2022年10月31日
大学時代は暇だったので、バイト代を色々「新しい音」に費やした。神戸三宮センタープラザにあったAOI(?)だったか、、そんな名前のレコード屋に毎週通ったものだ。レコードを買うと真っ黒なビニールケースに入れてくれた。店内はそんなの広くはないが、"ツボ"を押さえた輸入盤が売りだったように思う。ただ、邦楽もここで結構買った記憶はある。その中でも"矢野顕子"とは私にとって衝撃的な出会いだった。このデビューレコードでは矢野顕子の魅力と"リトルフィート"の魅力がセットで詰まっていて最高な気分。 ↓そして、LIVE盤自由奔放な音楽とはこういうものか、、、 ↓邦楽とはいえ、バックのメンバーは外人さんが多いし、ふわふわと英語を操る矢野さんにも憧れを持った特に、この作品は私にはベストかも。 ↓矢野さんのコンサートは、今まで2回。1回目は地元和光市で開催されたワンマン(ウーマン)ピアノコンサート。アンコールで奏でた"中央線"には泣けた。2回目は上原ひろみとのジョイント。どちらも大好きなピアニストだけに有楽町フォーラムが幸せに包まれた。私をこんな感覚にさせてくれる矢野さんが友部正人のカバーをするとコレまた最高の気分になってしまうなのだ。
2022年10月19日
高校時代に引き続き、大学時代にももっと色々やっておけば良かった。。なんて大概の人が軽く後悔するレベルの私だが、社会人になる前に出来ることって何だったのだろう。とことん想像力が貧困な私。なんとなく音楽を聴いて、友達とビリヤードや麻雀をして、往復4時間かけて通学した。「一度ぐらいはバンドを組んで本格的に活動をしたかったかも。」が具体的な後悔かなぁ。考えてみれば、週学校高学年から中学生にかけては"洋楽が全て"だった。高校に入ると友部正人や泉谷しげるを中心にフォーク色が色濃くなった。そして、大学時代は、、、まずはジミヘン。色々なレコードを買ったが、"Little Wing"と"Bald as Love"が収録されたこのレコードが一番好き。(なぜかCDで買うタイミングを逸して、そのまま) ↓これは汚い輸入盤で買った ↓こいつは兄ちゃんの友達のアメリカ土産 ↓そして、死後発売されたレコードでは、コレがお気に入りだった。 ↓ウッドストックのLiveも2枚持っていたが、音が悪くてほとんど聴かないまま引っ越し時の処分となった。考えてみれば、Liveでの激しい演奏で有名なジミヘンだが、私は圧倒的にスタジオ録音盤を支持する。日本人では絶対に表現できない彼のプレイスタイルは永遠だ。もしも彼が今の生きていたら、、、と考えると悲惨な末路だったような気もするし、ジェフベックとは違うアプローチでギターミュージックを極めていたかもしれない。とも思う。いずれにしても残念だ。
2022年10月18日
私が大学生の頃は"クロスオーバー"全盛で、洋楽ならハービー・ハンコックやチック・コリア、、、なぜか全く弾けないのにベースプレイにハマった。その中でもスタンリー・クラークの派手な速弾きに心が躍ってしまった。今でもYuoTubeで彼の演奏を時々見る(聴く)が、相変わらずかっこいいね。そして、いつも買っていた音楽雑誌に新譜紹介コーナーがあり、ある日「3大ベーシストの1人」として初のリーダーアルバムが紹介されていたのがジャコパス"ジャコ・パストリアス"だった。当日、鈴蘭台の区役所でバイトしていて毎週レコード一枚の購入をノルマ化していた私は、コノ気になったレコードを鈴蘭台駅前のレコード屋で買ったのであった。レコード盤に針を落とし、一曲目の"DONNA LEE"が流れた途端、「なんじゃこりゃ!!」でしたよ。めちゃくちゃ高度なテクニックながら、何とも言えない優しいタッチ。これがウッドベースではなく、エレキベースの音とは、、それは確か、私が19歳のことであったが、それから45年以上経つ今でも、彼の"追っかけ"をやってます。ジャコ絡みのCDは50枚以上になった。(レコードは処分、、)もちろん彼はとっくの昔に35歳の生涯を終えているが、私の中ではまだまだいきている。彼の死は、社会人になって間もなくの頃、ニュースで飛び込んできたジョン・レノンの死よりショッキングだった。たった2枚のソロアルバム。ビッグバンドのLIVE(もちろん武道館と横浜球場に聴きに行った)。ウェザーリポート時代の数枚のアルバム、パット・メセニーやジョニ・ミッチェルのレコードでの彼の演奏。。。どれもこれもオーバーではなく"宝物"だ。(ブートレグに毛の生えたものも多いのだが、、)そうそう、、東京に出てきて間もなく、お茶の水の楽器屋で"フェンダージャズベースもどき"の中古を買った。実物はこんなかっこいいものじゃなかったが、しっかりフレットを抜いたもので、価格は2,000円也!一緒に買った弦の方が高かったことを覚えている。 ↓多分そのベースは、従兄弟が持っていると思う。。正確には知らない。神戸の実家に置いていたら、グヤトーンのベースアンプと共に部屋から消えていた。。まぁ、全く弾いていなかったのでどうでもいいんだが。
2022年10月16日
行きたかった大学には落ちて、大阪の大学にやっとのことで引っかかり、それでも何となくホッとして、合格発表の日に梅田の紀伊國屋でこのレコードを買った。この大学も落ちていたら、別の大学に行って栄養士になるつもりだったのに、、その時の気分とマッチしたのかどうか分からないが、結構聴き込んだなぁ。ある時、近所に住む従姉妹が貸して欲しいと言って、このレコードはなかなか我が家に戻ってこなかった。彼女の気分もこんな感じだったのか、、そしてディランに触発されるようにしてこの方にも傾倒した。聴けば聴くほどディランをパクっているし、声質がやや甲高くて細めなので私の趣味ではない。しかし「ディランが大好き」を全面に押し出しているこのレコードは今でも大好きだ。(CDで買い直しをした)バックの演奏も素晴らしい!(本家のディランよりいいかも)話はやや脱線するが、、すでに私が50歳ぐらいになった時、仕事で行った梅田の毎日放送の一階エレベーターで待っているとドアが開いて岡林さんが降りてきた時は本当に驚いた。サインをねだったりせず、ただひたすら呆然と突っ立っている私だった。その事をバリバリの学生運動経験者に話をすると「私は岡林は嫌いだ」と言われてしまった。それ以上は突っ込んではダメな気がしてスルーしたが。その後、東京の日本橋に「おかばやし」(屋号は漢字の当て字だったような気がする)という居酒屋ができた時に、即興で店内でコンサートをしたそうだが、私が言った時には店長さんが「岡林さんは住所不定で連絡が取れないんですよ」と言っていた。ほどなくしてその店は潰れた。
2022年10月11日
自宅から近いという理由ぐらいであまり深く考えずに中高一貫校に高校から編入した私。そんなに「とっても暗い高校生活だった。。」とは思わないが、そんなに明るいものでもなかったかなぁ。音楽に関しては、(学業ともども)ロックとフォークの"チャンポン状態"で、"どっちつかず"という感じだったと思うが、バンドを組んで学園祭に出たり、市民会館を借りてコンサートをやったりしていた学友に比べるとかなり地味さは否めない。「にんじん」の後、すぐにリリースされた「また見つけたよ」の一曲目の"反復"は歌い出しで咳き込む友部さん、、オモロい録音やなぁと思ったものだ。大阪まで一緒に友部氏のコンサートに行った友達から教えてもらった「金子光晴」。友部氏の歌にも出てくる詩人。詩集「どくろ杯」を読んだけど、よく分からなかったなぁ。同級生がコンサートステージで歌った浅川マキの「かもめ」もよかったね。社会人になって、新宿のピット・インのLiveを観た浅川さんの印象は、まさにレコードジャケットのままの雰囲気を持っていた。音楽性としては、jazzの面々をバックに従えてかなり変化はしていた。洋楽は友達の影響で、エリック・クラプトン。何といっても名曲"Layla"。そしてデイブ・メイソンボブ・ディランのカバー曲"All Along The Watchtower"がめっちゃカッコイイ!それから三宮の星電社で買ったディープ・パープルこの後、バリバリのハードロックバンドに変貌するのだが、この時は一味も二味も違う「イギリスのロックバンドはコレだよ。」という風格があるね。
2022年10月10日
たぶん、NHKだったと思うが、ジミ・ヘンドリックスとオーティス・レディングのモントレーでのLIVE映像を流していたのを偶然見た。のちに、レーザーディスクを購入して家で何度も見ることになるのだが、冒頭に髭面のおっさんが壁にペンキを投げつけるところから始まる。そのペンキ跡が段々とジミヘンの顔になってゆくという結構面白い趣向を凝らしたものだった。そして、ジミヘンのステージがはじまり、自身の楽曲やボブ・ディランの楽曲なんかも演奏していた。ステージ上ではライターオイルを使ってギターを燃やしたり、それを地面に叩きつけて粉々にしたりとやり放題ではあったが、フェンダーのストラトを左右逆さに持って、でかい手でネックを鷲掴みにして弾きまくったかと思えば、早口でペラペラと喋ったりして、"おしゃべりロッカー"の印象が強かった。「かっこいいギタリスト」を認識したのは彼がはじめてだったので、一気に彼のファンになってしまったのだ。当然、その時には既に彼は死んでいたが、、それから輸入レコードを買い漁ったり、兄の友達がアメリカに留学し帰国した際にお土産で貰ったりして、収集していったことを思い出す。ただ、ほとんどのレコードがブートレグ(海賊版)のため音が悪く、ずっと聞き続けるのは辛かったかなぁ。それ以降、クラプトンやジェフベックそしてディープ・パープルあたりを中心にフォークソング一辺倒の音楽生活から大きく方向転換してしまった。クラプトンに関しては、小学生時代に"クリーム"として聞き馴染みはあったが、正直言ってジミヘンほど好きにはなれなかったみたい。映画「TOMMY」出演の時はかっこよかったと思うが、本格的に聞き出したのは、ヤク中から復帰したこのアルバムくらいからだ。 ↓ジェフ・ベックに至っては、ブルースギタリストのイメージが先行していてなかなかのめり込めなかった。"BBA"の「迷信」以降に本格的に聴きこむのだが、その前に軽いきっかけとなったのは何とあの宇崎竜童率いる"ダウンタウン・ブギウギバンド"だった。。。まだ彼らが「スモーキング・ブギ」でブレイクする前のことだったが、おもろいバンドだと思って彼らのファーストレコードを買って聴いた一曲目の「山谷ブルース」のギターワーク(確か左から二人目に写る蜂谷さんという方だった)の惚れて、高校の友達に聴かせたら、「これはジェフベックのコピーやで、、」と言われてジェフを聞くことになる。「situation」、、、確かにおっしゃる通りだった。このグループ「第二期ジェフベック・グループ」の残党が後に作った"ハミングバード"がかっこよくてハマったなぁ。ジェフとコージー・パウエルの顔はとても怖いが、、
2022年10月08日
1971から大阪・天王寺で始まった「春一番コンサート」。実は現場に行ったことはないが、レコードは何枚か持っている。確か、藁半紙の封筒に入ったバージョンもあり、やや貧乏くさい雰囲気だが、高田渡、小坂忠、武蔵野たんぽぽ団、加川良、友部正人なんかも常連だった。そんな中でも・ディランII(ガムをかんで)・西岡恭蔵(ぷかぷか、町の君)・ごまのはえ(トメ子ちゃん)・中塚正人(風景)・田中研二(インスタント・コーヒー・ラグ)あたりをしつこく聴いていた。ただ、神戸の震災以降の復活後はかなりメジャー感が漂うコンサートとなり、竹内まりや、忌野清志郎、Charなんかも出演することとなるが、逆にそのことが私にこのコンサートへの興味を失せさせたのであった。それにしても、ココには"高石ともや"も"岡林信康"や"はっぴいえんど"も登場しなかったと思う。フォーク仲間でも"派閥"があるのかねぇ。。
2022年10月07日
確か高校一年の時だったと思う。学校から帰って例の4chステレオでFM放送を聴いていた土曜の午後。友部正人の特集を組んだ番組を偶然聞くことになる。当時から"日本のボブ・ディラン"と呼ばれていた友部さんの曲を初めて聴いた時のショックは大きかった。中でも初めて耳にする"トーキングブルース"の「乾杯」は、あの"あさま山荘事件"を扱った曲で、1972年の2月に味わったやりきれないTVニュースと重なって、忘れられないものとなる。そして「一本道」。今でもフォークソングの代表曲の一つと言われている楽曲で、吉田拓郎が「ああ、中央線よ 空を飛んで あの子の胸に突き刺され、、」という歌詞に強く"嫉妬"を抱いたと語っている。そして、このレコードの発売を待ってすぐに購入し、ヘビーローテーションを回す訳だが、こんな暗い暗い曲を毎日聴いている私は、、、やはり暗かったのだろう。そして同じ高校に何故か友部正人のファンがいることを知り、福知山線の三田駅から「大阪にやってきた」二人は友部正人とジャック・エリオットのジョイントコンサートを堪能するのであった。ジャック・エリオットはボブ・ディランの師匠というか兄貴というか、そんな関係で"ランブリング"とあだ名が付くほど、放浪癖のある方だそうだ。その時のLIVEレコードも買って、神戸の家を処分するときに骨董屋にほぼタダでくれてやったのだが、現在、中古でも10,000円するようだ。。もったいない。彼の「よくよくするなよ」はディランのソレとは、趣が全く違う。まだ、生きているのかなぁ。友部さんにハマってから、吉田拓郎あたり(谷村新司は論外ですが)がなんとも軟弱者に見えてしまったのかも知れないが、購入するフォークのレコードは四畳半ものが増えた。加川良の「下宿屋」もよく聴いたものだ。 ↓斎藤哲夫はあの声が裏返る歌唱方法に違和感をおぼえつつも、メロディーの美しさには惹かれた。斎藤哲夫→宮崎美子をイメージする方も多いだろう。あの曲も好きなんだけど。。 ↓この頃はシングル版(EP)を買うことが逆にもったいなく感じて、全てLP版を購入していた。最もフォークは売れ線以外みんなLP版しか買ってなかったのかなぁ。いずれにしても高校生時代は邦楽レコードしか買わなかった。
2022年10月05日
加古川にいた中学2年までは洋楽一本槍だった私もラジオという文化にどっぷり浸かるようになってから音楽の趣味に変化を生じるようになった。当時ラジオのパーソナリティをフォークシンガー(シンガーソングライターなんてことも言っていた)がつめることが多くなり、その中でも「たくろうの気ままな世界」という番組を楽しみに聴いていた。"たくろう"とはもちろん吉田拓郎で、彼の軽快なトークやPOPと浪花節をミックスしたような音楽性が好きになった。いわゆる「関西フォーク」の流れで谷村新司や杉田次郎なんかもラジオでよく聴いたし、投書もしたものだが、とことん好きにはなれなかった。中学3年生の2月、日本一TVニュースの時間が長かった「あさま山荘事件」を見た後で聞くこの歌は学生運動の終わりと軟弱化する若者を象徴していたように思う。 ↓ ↑とても不健康そうなお顔だが、同時は何とも思わなかった。やはり、アレンジしたあの"加藤和彦"は天才だ。あれこれ言ったもののこの楽曲はおろか吉田拓郎のレコードもCDも今まで一枚も買ったことはない。(実は後に兄が買った「今はまだ人生を語らず」は家にあったが)それまでに聴いていたフォーク(高石ともや、西岡たかし(五つの赤い風船)、赤い鳥、アリス(ロックキャンディーズ))はレコードを買って聞くのではなく、ラジオで聞くものと言う考えが私にはあったような気がする。そんなある日、我が家に「4chステレオ」がやってくる。イメージは4つのスピーカーを前後に配する豪華なやつで、実際うちにあったものはターンテーブル上部と本体前面がガラス製で、これよりカッコ良かった。 ↓母がローンで買ってくれたことを思い出す。苦労をかけました。ありがとう。。当時の応接間(晩年は母が寝起きしていた部屋)にドカンと置かれてまさに"音のシャワー"を浴びたものだ。そんな我が家にフォークシンガーで最初にやって来たのが何とこの人だった。 ↓ ↑何ともむさ苦しいおっさんだが、当時はこの汗臭いライブアルバムが大好きだった。そしてそれと前後してやって来たのがこの人。 ↓ボブ・ディランの初期のベストアルバムだが、中でも"I Shall be Released"が当時から大好きでよく聴いていた。当時はレコードを買わなかったが、映画「イージーライダー」の挿入歌ザ・バンドの"The Wieght"と同じ匂いのする楽曲だった。(30年後にCDで買った)そうこうしていると、それまで兄のガットギターしかなかった我が家にフォークギターがやってくる。神戸元町(大丸前)の楽器屋で母親に買ってもらった。(毎度毎度ありがとう!)型番に"160"が付いたヤマハのギター。とても弾きやすかったが、後に削って弦高を下げ、シールをベタベタ貼り、社会人になって家を出るまで愛機として我が家に君臨するのであった。また、ブルースハープも、、、何せディランですから、、"C"と"A"を買った("E"もあったかも)。フォーク傾倒のトリガーとなったのはラジオ番組なので、岡林信康やフォーククルセイダースあたりは当時の私の中ではど"真ん中な存在"ではなかったが後に岡林さんにハマって行く日が来るのであった。それはまた今度に機会に。
2022年10月04日
加古川から神戸に移住すると今まで登校に徒歩30分ぐらいかかっていたのが徒歩5分となった。夢のよう、、、ただ、それも1年間だけだけどね。中学3年の春から転校するなんて教育熱心な親なら少し躊躇したかもしれないが、ウチは"ノープロブレム!"なのです。どうせ大した学校に行けないし、環境がガラリと変わる楽しみもあったと思う。おかげさまで友達もすぐに出来たし、健康をやや害して運動会も休んだことを考えると心機一転だったと思う。ただ、なぜか運動会で400m走に出てしまい、途中で死にそうになったことはちょっと苦い体験だった。音楽の方は依然として"洋楽一本"です。ただ相変わらずの一本筋が通った趣味ではなく、聴きやすい心地よい音に酔った。「喜びの世界」は従姉妹が買ったので、私はこれを買った。ハードロックやプログレッシブロックなどにも食指は伸びたが、レコードを買うには至らなかった。クリームのようなブルース系もその当時はやや遠い存在だった気がする。ただ、このレコードはなぜか買いそびれ、とても後悔したことを覚えている。悩んだ末にグラスルーツを買ったことも覚えている。それが悔しくてCD時代になってから2枚も買ったのだった。。今でも聞けば心が躍る。そして、そんな洋楽生活が一変することになる。。続きはまた明日。
2022年09月30日
ほぼEP版だったけど、ショボいレコードプレイヤー(母には申し訳ない)で聴きたくて色々買った。その当時(中学2年生まで)は「音楽は"洋楽"だ」的なイメージを持っており、深夜ラジオなどで聴いた楽曲の中から脈絡なく買っていたと思う。もうすでにブクブク(?)だったプレスリー ↓大事故の後だからお顔は修正したのか、、 ↓とっても時代を感じされるジャケットカレー屋さんに居そうな方も、、 ↓後に大好きになるジョニ・ミッチェルの楽曲バフィー・セントメリーの安定感のない歌い方がとても印象的だったが学生運動を背景にした映画「いちご白書」のテーマソングで"サークルゲーム"や"いちご白書"はこれ以降も度々登場するキーワードとなった。(映画の方は未見) ↓そうそうこの頃(大阪万博の年)にNHKのスタジオ101を舞台に「ステージ101」が始まった。こんな言い方は身もふたもないが、、やや波に乗り遅れた感のあるロックグループやコーラスグループそしてこれからデビューを目論んでいる人たちなどをオーディションで選び、番組オリジナル曲や海外のコピー曲を歌って踊りながら披露するキラキラした番組だった。この番組の出身者にはチェッカーズの楽曲を次々作曲した人や太田裕美や田中星児、谷山浩子のような大ブレイクした歌手、後にアニソンの星となった串田アキラあたりの方々がいらっしゃったが、私は泉朱子、一城みゆ希、ザ・チャープス(竹内三姉妹)、元ジローズの塩見大治郎(写真センターの人)なんかが印象的だった。せいぜい3,4年ぐらいの活動期間だったと思うが、今でも強く脳裏に焼き付いている番組だった。ゲスト出演したオリジナル・キャストも印象的だった。なんと2003年に当時のメンバーで渋谷で復活コンサートも果たしている。もちろん太田裕美さんも健在。https://www.youtube.com/watch?v=jJhZHSTASuoちなみにこれは最終回。https://www.youtube.com/watch?v=UZ2yR_f08Roそんなこんなで中学2年で加古川を離れ、花(?)の神戸に移住するのであった。クラスで昼食時に簡単なお別れ会を催していただいたことを思い出す。引っ越しのトラックの中で聴いたサンタナの"ブラック・マジック・ウーマン"も印象的だったなぁ。
2022年09月29日
今でもコマーシャル挿入歌が大ヒットする事があるが、中学生の時に目と耳に飛び込んできた"マンダム"は相当のインパクトだった。このCMでチャールズ・ブロンソンも日本で大ブレイク。元々"荒野の七人"、"大脱走"やその他の映画に出演している渋い(悪役が多かったかな)役者さんだったが、おまけに奥さんのジル・アイアランドまで出演が増えたような気がする。歌い出しの"All the world loves a lover"が英語に慣れていない中学一年生の耳には何故か"ハドゥエィ・・・"と聞こえたことを覚えている。恥ずかしい。。そしてほぼ同時期にTVでヘビーローテーションだった(東芝のCM?)この曲も。ビートルズのレコードを買ったのは、後にも先にもこの一枚のみ。あの時はポール・マッカートニーがとてもかっこよく見えた。まもなくグループは解散し、何故かジョージ・ハリスンのあのなんとも頼りない歌声が世の中を席捲することとなる。"レット・イット・ビー"リリースの半年後に出た"マイスイートロード"や"美しき人生"は今でも大好きな曲だけど、あの歌声がどうしてもダメで、結局レコードは買わなかった。そして当時としてはとても珍しかった「グラミー賞受賞TVCM」でこれまたヘビーローテーションだった"明日にかける橋"も速攻ゲットした。つまり、ビートルズもサイモン&ガーファンクルも事実上の解散後、真剣に聴いた事になるということ。考えてみれば、ジミヘン、ジャニス・ジョップリン、オーティス・レディング辺りは当人が死んでから彼らの音楽を知ったクチですから。言い訳っぽく言うと微妙な年代だったと言うことか、、
2022年09月28日
小学上級生から聞き始めた深夜ラジオやラジオ関西の電話リクエスト(当時は電リクと言う)の影響もあってますます洋楽の幅が広がったように思う。 ↑私はこの番組で笑福亭仁鶴を知った。神戸(須磨)にあるラジオ局の番組 ↑なんとこれが日本初の電リク番組だった。そしてラジオ関西といえばこの曲だ。私が中学生の時からずっとラジオで流れていたと思う) ↓チューインガムの"海の見える放送局"https://www.youtube.com/watch?v=QPd6q0zTxhU松田姉妹が歌うハワイアン風の名曲だ。当時でも小学生、中学生のデュオは珍しく時々TV出演もしていた記憶がある。後に調べてみると彼女たちは日本での歌手活動を休止したのちに海外の生活を選択したようだ。素晴らしい。実は最近になってヤフオクにて彼女たちのCDもゲットしたのです。今は須磨にラジオ関西は無くハーバーランドに移転し、周波数も変更された。
2022年09月27日
人生初のレコードがベンチャーズのLPであること、ある日の夕方、母と兄と3人で買って帰ったことは今でも覚えているが、さて2枚目のレコードは何だったのか、、正直言って定かでは無いがまたもベンチャーズ"10番街の殺人"だったかも知れない。そして私はそこそこ大きくなるまで、この写真の"左端の人"がノーキー・エドワーズさんだと信じて疑わなかった。だってあれだけかっこいいギターを弾く人だがら、こんな感じって、、(実際は右端に写るなんだか冴えないおっさんがその人なんだけど。)兄はこれも映画の主題歌だったルルの"いつも心に太陽を"を買ったように気がする。兄からはよく自分が観た映画の話を聞かせて貰った記憶もあり、その語りが淀川長治や水野晴郎より浜村淳っぽかったことも覚えている。(つまり、映画を観ていない人にも平気でオチまで語るタイプということ。)なんだかケバいお姉さんやなぁ、、と子供心に思ったものだ。確か映画にも高校生役で出演していたんだよね。。。この顔で。当時、EP版は大体500円で、子供のお小遣いから考えるとやや効果な代物だったので、熟慮の上で厳選を重ねて買っていたものだ。特に私が加古川に住んでいた中学2年まではラジオやTVの音楽番組を見聞きして買おうか買うまいか、、と悩む事が楽しみの一部でもあった。そして満を辞して私が音楽の世界の本格的に飛び込むため母親におねだりしたのが"楽器"だった。"ウクレレ"だ!なぜウクレレだったのかは未だに不明だが、子供の体にはギターは大きすぎるという判断だったのだろう。当然、価格面も十二分に考慮して。当時はこれでグループ・サウンズの真似事ができると信じていた事が、ホントに怖い。高木ブーじゃないか、、、当然ウクレレでドアーズのコピーをすることはなく、教則本を見ながらコードを覚えたことはうっすらと覚えている。
2022年09月26日
私が小学生の頃はグループサウンド全盛で、日本ではタイガース、テンプターズ、ブルーコメッツなどのメジャーグループとジャガーズ、ゴールデンカップスなどの"サブ"メジャーグループがいたように思う。個人的には後者が好きだったかも。また、洋楽を全面に取り上げた音楽TV番組もあり、自然と洋楽のカッコ良さを味わっていたような気がする。大橋巨泉の"ビートポップス"は当時とすれば正に最先端番組だったろう。小山ルミや杉本エマなどゴーゴーガールのアイドルたちも排出した"素晴らしい"番組だ。この番組で知ったグループも多かったが、そんな中でも私はドアーズがお気に入りで、"タッチミー""ハートに火をつけて"などで聴くジム・モリスンの歌声は暗くて深くて参った!ロビー・クリーガーのややポップな作品が特に好きだなぁ。実はドアーズのレコードは一枚も持っておらず、CDの時代になってベスト盤を買った。お父さんはアメリカ海軍の提督だったようだが、息子は上半身(ときに下半身も)裸でマイクを両手で持って唸るように歌うスタイルは今でも最もかっこいい歌手であろう。27歳で急死したことが残念でならないが。逆に当時人気絶頂のビートルズに関してはあまりの軽さに全く興味が持てなかった。特に"イエローサブマリン"や"オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ"あたりは当時聞いていて嫌悪感さえ感じたことを覚えている。実際の歌詞や曲の背景までは小学生では理解できなかったと言うことだ。
2022年09月25日
記念すべき第一回目の「音楽談話」は何にしようかなぁ。これから「"私の音楽"について語る」なんて言っても、物心ついた頃には母親の鼻歌が音楽への"入り口"だったように思う。そうね。。「ミネソタの卵売り」かと笠置シヅ子の"なんとかブギ"とか美空ひばりあたりを今でも覚えている。そうだ、第一回目は我が家にレコードプレーヤーがやってきた時の話から始めよう。それは私が小学校4、5年生ぐらいだった頃、購入のきっかけは全く覚えていないが母が加古川(兵庫県)の楽器屋(電気屋ではない)に私と兄を連れて行ってくれプレーヤーと好きなレコードを各人一枚づつ買ってもらったことを覚えている。私は、あまり迷うことなく"ベンチャーズ"のLPを買ってもらい、兄は"サイモンとガーファンクル"のEPを母は"トロイメライ"をそれぞれ買った。なぜ私だけがLP版を買ってもらったのかは不明だが、レコード盤が"黒"ではなく"赤色"か"青色"で表紙はサーフィンシーン、裏はむさ苦しいおっさん達がニッコリと笑っているジャケットだったことは覚えている。イメージはだいぶ違うがこんな感じ ↓ ↓実は2年前まで実家にあったが、両親が亡くなって家を処分するときに京都から来た骨董屋にタダ同然で引き取って貰った。自分で言うのもなんだが、かなりレアなレコードもたくさん持っていたが、今はCDプレイヤーしか持っていないので仕方なく、、処分したのだった。それ以前は友達の家で「帰ってきたヨッパライ」を聞かせて貰ったりしたが、やはり自分の家で聴くレコードは格別だった。洋画が好きだったモダン(?)は母は多分何かの映画の挿入歌だった曲を、映画「卒業」を観てサウンドオブサイレンスにハマった兄はS&Gをそれぞれゲットしたのだろうと想像する。ブログ初日はそんな我が家にレコードプレーヤーがやって来た日のことを記す。
2022年09月24日
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