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名古屋市南区豊2丁目国道247号線の東、名鉄常滑線を挟み、西は内田橋、東が豊に分かれています名鉄の高架が迫る傍らに「伝馬神明社」は鎮座します秋も深まり日暮れも早くなり、西陽のさす通りは人通りが少ない高架は西陽を遮り、日暮れの訪れが尚更早く感じます遥か昔の熱田台地の南には海岸線が広がっていました、この辺りは新田開発とともに広がってきた地域米の収量を上げるため自然と人の鬩ぎ合いの最前線でもあった場所です南区の長三郎(ちょうざぶろう)新田の郷土碑解説によれば以下江戸時代の1696年(元禄9)に熱田伝馬役人が熱田宿駅伝馬の助成を目的に開発、新伝馬新田と呼ばれたたびたびの地震、高波、暴風に修築費用がかさみ、1714年(正徳4)熱田材木町江戸屋長三郎が譲り受けた事から、のちに「長三郎新田」と呼ばれるようになった今や田んぼはなく、電車や新幹線、住宅が広がり、昔この地がその様な場所であった事を覗う事すらできません、唯一人名のつく地名に名残りを残すくらいです伝馬町でもないのに伝馬神明社?となりますもとは愛知郡伝馬町から始まり、江戸時代は熱田村の一部この地は旧東海道沿いにあったことから、1601年(慶長3)に宮宿(熱田宿)と隣の今道が共に伝馬役に任命されます、その際に両者は一つになり伝馬町と称したのが町名の由来伝馬とは公的な人・情報・物資を迅速に移動させる事を目的として、街道の宿場に馬を常駐させる制度「伝馬制」を指します各宿場にはその任に就く伝馬役人が置かれます、昔は宿場で馬を乗継いで移動時間の短縮を図った訳です今で言えば馬の駅伝みたいなもの?1878年(明治11)愛知郡熱田村の一部より、伝馬町が成立します、1889年(明治22)町村制施行・合併に伴い、愛知郡熱田町大字伝馬と変わりますそして1985年(昭和60) 南区伝馬町は同区内田橋二丁目となり消滅します当時この場所は伝馬町だった事から、伝馬神明社と呼ばれることになります伝馬神明社鳥居からの全景参道の先に拝所があり、右に石鳥居、左に石鳥居と赤い鳥居が連なっているのが見えます境内全景中央が神明社、拝所の右は天王社の石鳥居と参道中央に楠の大木が聳えています左の鳥居から松山稲荷へと続きます境内の左に手水舎、手水鉢龍の口から絶え間なく清水が注がれ澄んでいます神明社拝所全景、一段高く積まれた所に玉垣で囲われた社が見て取れます拝所前の狛犬は新しいもので、1928年(昭和3)奉納と刻まれています新しいといっても90年を経ている、伝馬神明社は都市化に伴い二回遷座しているようです狛犬は一回目の遷座の後に奉納された様です神明社6本の鰹木が施された社です、背後の高架橋を赤い電車が行き交います写真に入れたかったが待っていると来ないものです拝所の左は石鳥居を二つ構え、奥に赤い鳥居の連なる松山稲荷全景鳥居左側には新田開発の歴史を伝えるもの、神社由緒の刻まれた碑などが纏められています上段一の鳥居に掲げられた社号額、この規模で二の鳥居まで構えています下段奉納鳥居をくぐりると社前で狐達が集団で祀られています、若干狐としてアピール不足な方も見えますいつ頃奉納されたのか確認できませんでしたが、風化の度合いから見ると狛犬と同時期でしょうか松山稲荷社稲荷には赤い電車が欲しかったが祭神 / 倉稲魂神拝所の右は天王社鳥居から続く参道のほぼ中央に御神木でしょうか?楠木の巨木が聳えています幹の太さといい、枝振りといい見事な楠木、当然保存樹に指定されています天王社全景4本の鰹木が施された小さな社、街中の神社らしく、背後に民家が迫ります祭神 / 素戔嗚尊上段右から天王社、神明社、松山稲荷が綺麗に並んでいます天王社と松山稲荷の創建時期ははっきりしない、遷座に伴い合祀を繰り返し現在の形になったのでしょう下段天王社前に置かれた3つの石、何か謂れでもあるのか?良くわかりません境内の右が伝馬公民館兼社務所、人の気配は有りませんでした神社社務所の東側に棟続きで建つ伝馬弘法堂無垢の一枚板を用いた額は飾りのないシンプルなもの堂内三鈷杵を持ち、雑念のない穏やかな表情で弘法大師が祀られています伝馬弘法堂から伝馬神明社の全景それ程遅い時間でもないけれど、随分家路を急ぎたくなる雰囲気が漂う季節になってきました2018/10/29伝馬神明社創建 / 1712年祭神 / 天照大御神住所 / 名古屋市南区豊2丁目3-16 アクセス / 名鉄常滑線「豊田本町駅」から徒歩約5分程
2018.11.12
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2023/04/04奈良県の多武峰、明日香村方面に訪れた際の帰り道。桜井市三輪の大神神社付近に寄り道。三輪といえばそうめんや大神神社の印象が強いですが、目的は酒蔵にあります。奈良県桜井市三輪の大神神社大鳥居、いつみても大きな鳥居です。この場所の無料駐車場に車を停めましたが、以前コロナ禍の際に訪れた時でさえ、大鳥居から社殿に近い駐車場に入れるため、長い車列が出来、歩道は参拝者で溢れていました。平日とはいえ、アフターコロナで嘸かし海外から訪れた多くの観光客で賑わっているかと思いきや、拍子抜けする程閑散としていたのには意外でした。酒蔵前の通りは生活道路で幅員も狭く、尚且つ酒蔵の駐車場が分からない事もあり、いつものようにここに車を停め、参道の一本南に鎮座する綱越神社から、並行して伸びる三輪街道を東に進み、目的地今西酒造本店に向かいました。駐車場から寄り道しなければ10分もからないと思います。古い道標や神社、宿場町の雰囲気が漂う街並みを眺めながら今西酒造本店に到着。訪れた時は仕込みで使う酒米を搬入する作業で大忙し。裳階屋根の店舗入口。入店するのも気が引ける状態、ここから奥の仕込み蔵まで人出で搬入されている。三諸杉の銘柄で知られ、1660年にこの地で酒造りをはじめ創業360年の老舗酒蔵。日本酒の歴史は諸説ありますが、縄文時代後期から弥生時代には日本に稲作が伝わっており、米を原料とする酒の原形もその頃とされ、今から2000年位は遡るとも云われるようです。実りを授けてくれた神様に米が供えられますが、その米がいつしか変色して行く過程から酒造りに転じて行ったようで、やがて神に酒を捧げる様になっていきます。その酒造りの起源が三輪から始まったといわれるようです。三輪にある大神神社は日本最古の神社とされ、本殿を持たず、三輪山をご神体とする神社で、三輪山は古来から三諸山と呼ばれ、「うま酒みむろの山」と称され、「みむろ」は酒のもとの意味で、 酒の神様としての信仰からの呼び名だとされます。大神神社では毎年11月14日に全国から蔵元・杜氏が集まり「醸造祈願祭」が行われます。酒蔵の軒先に吊るされている「杉玉」は大神神社から全国の酒蔵に届けられていると言います。その証に「新酒できたよ」の合図として酒蔵で吊るされる杉玉、その下に吊るされている札には「三輪明神・しるしの杉玉」と書かれていると言います。気にして見た事はないが、これからはそうした目線で見てみようと思います。青々とした杉の色合いは、一年かけて徐々に茶色に変色し、それが酒の熟成具合を現している云われます。銘柄の三諸杉の由来は、古来より三輪山を「三諸山(ミムロヤマ)」と称していた事や三輪山は「杉」に神様が宿るとされている事からきているそうです。今西酒造では自社田での米作りの他、契約農家による米を使用し、特に「みむろ杉 木桶菩提酛」に用いる酒米は奈良県産の自社田・契約栽培米のみを使用する拘りを持っているようです。店内の今西の暖簾。この蔵では今では少なくなった杉の木桶を使用し、木桶に宿る微生物が生み出す複雑味と香りを生かし全て手作業による酒造りをしているようです。三諸杉店内では当然店頭販売もされており、試飲も出来ると思われます。「・・・思われます」、車で来ている以上飲めるはずもなく。こちらの酒蔵を訪れる動機となったのが、2021年の暮れに唐招提寺へ訪れた際に怪しい酒屋で出逢った上の「三諸杉 濁り酒」が始まり。今回4月だというのにひょっとして残っているのでは?なんて期待を抱いて訪れたものの「本物のとぶある?」と尋ねて見るも「12月には全て完売」との答え。そうだよねぇ、今年はその時期に買い出しにこよう。今回こちらで手に入れたのが上の「春酒ものがたり 純米吟醸 無濾過生原酒 おりがらみ」ほんのり白濁し、グラスに注ぐと僅かに発泡し、濁りやどぶとも違った名の通り春らしい爽やかな飲み心地のお酒で、ここの酒は我が家の嗜好と相性がいいようです。今西酒造本店所在地 / 奈良県桜井市三輪5102023/04/04関連記事 / 奈良 談山神社・岡寺、ほんとに注意「三緒杉 濁酒」
2023.04.27
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春日井市上条町8先に掲載した和爾良神社の飛地末社「大日社」から南に歩いて10分程で「和爾良神社」です。社頭の全景は、郊外の古い神社らしく、比較的長い参道がまっ直ぐに続きます。右は住宅、左は今も住宅が建とうとしています。西に県道25号線と東に県道30号線が伸びていますが、神社はその間に鎮座しているせいでしょう、至って静かで車の往来も少ない。右に「和爾良神社」社号標と常夜灯、その先に石鳥居を構えています。参道の先に蕃塀もあるようで、ここからでは蕃塀の存在から拝殿全景は窺えません。鳥居から境内に続く参道、参道脇は桜並木の様で桜の咲く時期はきっと華やかな表情を見せてくれるだろう。鳥居左に板宮造の赤い社。詳細は分かりませんがこの外観は・・・・・社の左に植木の陰に隠れ、存在が目立ちにくいけれど庚申塔があります。「延喜式神名帳」に「尾張国山田郡和爾良神社」の記載と式内社と記されているようですが比定には諸説があるようで、大日社でも記載したけれど和爾良神社だとする神社は他にもあり、どれも決定的なエビデンスがないのが実情でこの神社を探し求める方も多く存在するようです。上は1891年の当地で現在の上条町以前は庄内川と内津川が交わる辺り一帯は和爾良村とあり、素直に「ここね?」としたい。由緒書きによれば和爾良神社は和爾氏由来の神社で1218年(建保6年)に小坂孫九朗光善が上条城築城に際し、荒廃した神社を嘆き再興し、光善の祖神磯城津彦命と菊理姫命を合祀、和爾良白山宮と称した頃もあったようだ。1993年(平成5)に創建時の呼称「和爾良神社」に戻したと記されている。先に記載した大日社はこの際に造営されたとある。再興後800年を記念してこれら手が掛けられているが、1218年以前には既に存在していたので、創建は更に遡っていき、地名や社名に和爾が残った様に和爾氏の頃まで遡るのかもしれません。街が整備されお洒落になり、地名も古い地名からお洒落になったりすると、その地の謂れも消えていきます。 地名は意外とその地を知るのに便利なもので、昨今の異常気象による禍は地名を辿っていくと先人達が地名で警鐘を鳴らしていたりします。参道を進むと正面に蕃堀、その先の境内は一段高くなり拝殿が建てられ、拝殿の右は公園になっているようでカラフルな遊具も見えます。境内右の夜泣き石、春日井市の史跡に指定されているようです。和爾良神社の右に大光寺がありますが、春日井市の昔話によるとこの石は大光寺にあったそうです。昔、この地に住む松右衛門が庭石にしようとこの石を寺から家に持ち帰ったそうです。持ち出されたこの石は夜になると鳴き声とともに「大光寺に戻りたい」と涙を流し訴えたと言う伝説が残る。参道から西側の眺め左から手水舎、脇参道、集会所手前に蕃塀がある。控え柱を持つ木造蕃塀と拝殿、手前に狛犬が守護しています。背後には楠木の巨木が大きな杜を形作っている。和爾良神社の瓦葺切妻拝殿と右は瓦葺入母屋造の大光寺本堂、寺と神社が綺麗に並ぶ。狛犬の阿形の右に「小野道風公発祥地」と記された石標。拝殿に繋がる石段前の狛犬。(2枚貼り合わせ)和爾氏宗家が絶えたその後、和爾氏を祖とする小野葛絃が上条に赴任、894年(寛永6)に小野道風が誕生したという、その生誕地は道風記念館のある松河戸だったり、ここ上条付近だとか諸説あるようです。こちらでは生誕の地に道風が祀られていないのは寂しいとのことから、平成30年に滋賀県の大津に鎮座する小野道風神社から道風の分霊を勧請したらしい。拝殿正面、白壁の白と木の色合いがシンプルで美しい。派手な飾りのない落ち着いた佇まいの拝殿。「延喜式内社 和爾良神社」の額と拝殿内。拝殿西から幣殿、本殿方向の眺め。拝殿左、東向きに板宮造の三社が祀られています。左から市杵島神社(市杵島姫命)、御嶽社(少彦名命)、稚児社(天照皇大神)御神木の楠は社殿の上空を覆うように枝を張り、境内に大きな木陰を提供してくれている。木陰を求め本殿方向へ。右の幣殿と本殿。千木は内削で鰹木は6本の様に見られます。作りは神明造の様です。本殿後方は一周でき、公園に繋がります。道路から隔てられ、緑も多いこの境内、神さまの傍で安全に遊ばせるにはいい場所かもしれない。稀に「子供の遊び場ではない」と張り紙のある神社も見かける、子供を遠ざける神域故に当然理由があるけれど、子供の頃こうして遊んできたおやじから見ると受け入れてくれるようなこうした光景が見られる神社に妙に魅かれるものがある。和爾良神社創建 / 不明祭神 / 阿太賀田須命、建手和爾命、磯城津彦命、菊理姫命境内社 / 市杵島神社(市杵島姫命)、御嶽社(少彦名命)、稚児社(天照皇大神)住所 / 春日井市上条町8公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、南に徒歩20分関連記事 / 大日社拝殿右の切妻瓦葺で向拝が付いた小さな堂は「上条元三大師堂」和爾良神社を参拝した後はここにもお参りすると御利益を得られる。「南無元三大師」と唱えることで交通安全、家内安全、合格祈願、無病息災などあらゆる悩みにご利益が得られそうだ。角大師とも呼ばれ、宗派に拘ることなく、戸口に御札を貼る事で災いから守っていただけると云う。拝殿の右に並ぶ入母屋瓦葺のシックな建物は大光寺本堂。軒下で涼を取り、左の公園で遊ぶ子を見守る親の姿もある。代々の西国三十三ヶ所遥拝の記念奉納額が掲げられ、中には色褪せたものもあり、信仰心の厚さが伝わってきます。切妻瓦葺で向拝が付いた小さな堂は「上条元三大師堂」和爾良神社を参拝した後はここにもお参りすると御利益を得られる。「南無元三大師」と唱えることで交通安全、家内安全、合格祈願、無病息災などあらゆる悩みにご利益が得られそうだ。角大師とも呼ばれ、宗派に拘ることなく、戸口に御札を貼る事で災いから守っていただけると云う、広い心をお持ちの仏様。ここは寺、なので参拝作法の切替が必要。僅かな賽銭多くの願い、何卒流行病を…堂内の厨子は天台宗の中興開山の元三大師という僧の石仏が祀られているらしい。この厨子の棟木に1510年(永生7)と銘があるといい、もとは鳳来寺にあったとされます。小さな厨子ながらその作りは凝ったものがあり、室町時代から守り継がれてきた春日井市の指定文化財。大光寺門前から元三大師堂全景。西国三十三ヶ所本尊の石仏が安置されています。千手観音や馬頭観音、十一面観音など像容のはっきりした大小様々な像が見られる。山門から境内左が本堂、中央が庫裏になるのだろうか。大光寺の創建は不明ですが和爾良神社の別当寺であったとされ、1218年(建保6)上条城主の小坂光善により和爾良白山宮と共に現在地に移されたという。どこから移されたか? それは、ここから北西の朝宮町に朝宮公園があるけれど、その南に鎮座する朝宮神社あたりだという。この大光寺は山号を朝宮山といい、朝宮町とは所縁がありそうです。だとすると和爾良神社の旧社地はこの辺りという事か?「和爾良神社はここね?」とはいかなくなってきた。大光寺創建 / 不明宗派 / 天台宗山号 / 朝宮山本尊 / 十一面観世音菩薩像住所 / 春日井市上条町8
2020.07.15
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上野國一之宮 貫前神社末社「日枝神社、二十二末社、伊勢内宮・外宮」からの引き続きとなります。今回は総門から先の上野國一之宮貫前神社となります。総門全景。大鳥居と総門は同じ社地に建ち、ここまでは平坦な参道が続く。総門の建築年代、文化遺産登録を調べて見たが貫先神社総門の建立時期、文化財指定は登録されていなかった。とはいえ、美しい姿の門であることに違いはない。門前には銅製燈籠一対と狛犬が守護している。門の左の由緒。内容は以下。「延喜式内社 一之宮貫前神社 上野国一之宮 旧国幣中社御祭神 経津主神 建国の功神 武神 物部氏祖神姫大神 御名不詳 当地方の守護神 養蚕機織の神御創建 今より1400余年前、安閑天皇の元年(西暦531)に物部姓磯部氏により、蓬ヶ丘菖蒲谷に祀られる。御社殿徳川三代将軍家光公による寛永12年(西暦1635)の造営。総漆塗極彩色の建造物で本殿・拝殿・楼門は国指定重要文化財。境内北斜面の森を含め約26000坪社殿の他に経蔵・三重塔址等、神仏習合時代の仏教遺跡が残存。祭儀古式の特殊神事等数多く年間71度の神事あり。主な祭儀1月1日 歳旦祭仝3日 元始祭 水的神事仝7日 生弓弥矢生太刀神事(鬼退治)仝15日 筒粥神事2月17日 農耕始祭3月14日 春季御戸開祭仝15日 例大祭6月30日 大祓式11月23日 新穀感謝祭12月1日 御神酒醸り神事仝8日 川瀬神事 鹿占神事仝11日 御機織神事仝12日 冬季御戸開祭仝31日 大祓式 除夜祭式年遷宮12年毎の御遷宮祭申年12月12日 仮殿遷座祭酉年3月13日 本殿遷座祭」門前に建てられている銅製燈籠。大きさもさることながら、竿に施された獅子や龍、波の造形は緻密に表現されており、台座には無数の献納者の氏名が記されています。上は竿に寄進年が記されている。下は燈籠の解説、内容は以下。「富岡市指定重要文化財 貫前神社唐銅製燈籠平成9年4月23日指定高さ約395㌢の一対の銅製燈籠で、慶応元年(1865)製作、慶応2年にここに建て られた。燈籠の基礎部と竿部の間に、燈籠建立の際の献納者名・居住地・献納額が二段に刻まれている。献納者の人数は合計で1544名、献納額は総額4790両にのぼり、地元の多数の養蚕農家をはじめ、上州・江戸・横浜の生糸・絹商人らが献納している。本県をはじめ、周辺各地における養蚕・製糸業の繁栄興隆と、これに携わる人々の祈念を明確に示す資料として重要であり、7年後に開業した旧富岡製糸場の先駆的記念碑ともいえる貴重な文化財である。富岡市教育委員会」こうした転用可能な資源は戦争になると、多くが武器に変えられていくが、供出されたものと供出を免れたものの境界は何だったのだろう。資源を持たない貧しい国であることは、今もなんら変わる事がない。門前を守護する個性的な面構えの狛犬(阿形)。台座に刻まれた寄進年は〇和2年と読めたが、昭和とも読めなくもないが、この風貌が1927年の物だろうか、〇和と付く元号は結構あるだけに自信がない。朱に彩られた総門から境内の眺め。下り宮と呼ばれ、鵜戸神宮(宮崎県)、草部吉見神社(熊本県)と並び日本三大下り宮の一つに数えられるそうです。勝手な想像ですが、戦乱の時代、「ヤアー」と威勢よく大鳥居の石段を駆け上り、「門だ行け―」と打ち破った先に急な下りの石段なんて「聞いてないよぉ」となるのかも、下り宮にする意図は諸説あるようですが真実は分からない。個人的にもこうして門なり、鳥居から下るのは思いつく所で熊野那智大社の別宮、飛瀧神社くらいです。現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格制度廃止に伴い、改称されたもので、六国史(日本書紀、続日本紀 、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)などの古書で、貞觀元年(859)「貫前」の名で現れます。総門から楼門の眺め。車椅子の方は総門右の宝物館方向からスロープが用意されています。手摺があるとはいえ、いざ転ぶと痛いだけで済まないかも知れない。境内側から総門の眺め。石段の中ほどの右に建つ斎館。その向かいに入母屋妻入りで朱で塗られた末社「月読神社」が鎮座します。末社「月読神社」解説。「月読神社の現在の社殿は、寛永12年(1635)以前の旧御本社拝殿を牛王堂として使用し、明治維新以後、 月夜見命をお祀りして月読神社と改称した。明治41年(1908)、近在の氏神である社久司神社(秋畑琵琶澤)、雷電神社(秋畑二ツ石)、湯前神社(秋畑裏根)、近戸神社(富岡市野上)の各社を合祀した。月夜見命他十七柱の神々をお祀りしている。」平成2年(1990)に寄進された狛犬。鬣のカールや筋肉の盛り上がりが力強い。月読神社から社殿を眺める。手前が手水舎、その先が楼門、拝殿、本殿と屋根が連なっています。石段から楼門正面全景。銅板葺き入母屋造りの一間一戸の朱塗りの門で左右に東廻廊、西廻廊が繋がり、面格子の間に随神像が安置されています。建立は寛永12年(1635)と云われ、元禄11年(1698)に五代将軍綱吉の命で大修理が加えられているようです。当時の屋根は杮葺きだったようです。昭和4年に杮葺きから銅葺きに変えられたそうです。楼門は廻廊を含めて斜めから見た時の姿が美しい。楼門左の手水舎。楼門から総門の眺め、正に下り宮。楼門の前でまずは参拝。艶やかな朱の門そのものに目が行きますが、蟇股などにも龍や虎など彫飾りが施されています。自分には見付けられなかったが、楼門内部の天井には建立時と元禄の大修理の際に残された大工の落書きが残っているらしい、そこには当時の米や麦の値段が書かれているとの事。給料は上がらないし、玉子も高くて「やってらんねぇ」大工の呟きだろうか、物を作る人はどこかに自分の痕跡を残したりするものです。左右に安置されている随神。「…確かに、最近何でも高いのが当たり前、どさくさに紛れ私腹を肥やすものは射抜いてやろう」貫前神社拝殿。入母屋檜皮葺で正面に軒唐破風が施されたもの。こちらも徳川家光により寛永12年(1635)に造営され、後の五代将軍綱吉の頃に大修理を受けているもので、総漆塗で全周に極彩色で細密な装飾が施されています。平成21年(2009)から平成25年にかけて大修理が行われ、檜皮の葺き替え、彩色の塗り替えなど行われています。正面右の装飾。蟇股には飛龍、その下には白波の上を駆ける馬?が描かれています。正面左の装飾。正面の蟇股には遠目に龍の様に見えましたが、拡大するとどうやら亀のようです。拝殿の格子天井には草花の絵があしらわれてます。東照宮の様に権力の象徴を誇示する華やかさではなく、女性的な華やかさを感じる社殿。拝殿から本殿方向の眺め。本殿の全貌は見られませんが、本殿の造りはパッと見が入母屋造の単層の様に見えますが、実は二層構造の建物で下部が拝所で二階が神殿となるもので、珍しい構造の本殿様式のものを貫前造と称するのだとか。拝殿と本殿の全景。期待以上の美しい社殿は一之宮の品格が漂っている。拝殿右側面の装飾。こちらの面の蟇股には鳥の絵が描かれ、妻壁には獅子も描かれています。透塀の周囲は一周する事が出来、本殿の装飾もよく見ることが出来ます、単眼鏡があるといいかもしれません。本殿は貫前造の檜皮葺で垂木は二軒繁垂木で拝殿とは意図的に変えられている。内削ぎの置き千木で5本の鰹木が施されている。祭神は経津主神と姫大神。本殿左から廻廊方向の眺め。本殿域の左には流造の社が祀られています。本殿後方の杉の巨木の杜の中、藤太杉と名付けられた樹齢1200年と伝わる大杉が聳えています。天慶2年(939)、下野國唐澤山の城主藤原秀郷(俵藤太秀郷)が、平将門討伐の際、当社を参詣し歳の数36本の杉苗を奉納、その内の1本が今も聳えています。どれが?、と捜さなければ分からない程の緑濃い杜に包まれています。摂社の抜鉾若御子神社。解説に依れば抜鉾若御子神社は、安閑天皇(466~536)の御代に現われたとされ、上野国神明帳に従五位抜鉾若御子明神と記載される。明治38年(1985)に一ノ宮字若宮の地より現在地に遷座され、棟札から現在の社殿は文化12年(1815)の建立と伝う。この辺りの参道脇に経蔵址と彫られた石標が立ち、小道が出来ています。その先に解説板があり、その一帯には礎石が複数残っています。解説によれば、ここには神仏習合時代の経蔵が建立されていたようです。経蔵の建築年代は詳らかでなく、明治維新の廃仏毀釈により破却。所蔵されていた鎌倉以来の諸経や安置されていた仏像は高田川の川原で焼却されたという。礎石の配置から間口は五間、奥行きが五間半くらいと推測されるそうです。本殿域左から抜鉾若御子神社の眺め。本殿。拝殿にはない三間の向拝が付く事もあり、その分装飾も煌びやか。拝殿左から見た拝殿全景、これで本殿域をひと回りしました。妻壁は獅子、蟇股は水鳥が描かれています。平成の大修復により、色鮮やかに蘇っています。前回掲載した末社の日枝神社も、このように鮮やかな色彩が施されていたのだろう。楼門と廻廊全景。この門と廻廊がある事で拝殿や本殿の美しさが尚更引き立ってくるようにも見える。廻廊右から境内の眺め、左が社務所になります。この境内の右に神楽殿が建てられています。神楽殿全景。建立時期は定かではないが、扁額には享保2年(1717)丁酉とある。この広い境内で祭礼が行われます。神楽殿から更に右の高台にある宝物館方向に向かいます。そこには朱塗りの両部鳥居(勅額鳥居)と勅使門(あかずのもん)があります。勅額鳥居は清和天皇(850~881)の御親筆扁額が掲げられていた事から名が付いた。元々は一之宮大字田島字鳥居にあったもので、寛永12年(1635)に移築したもの。現在は有栖川宮熾仁親王(1835~1895)に依る神号額が掲げられている。勅使門は名の示す通り京より遣わされた勅使のみ開かれる門で、現在は春と冬の御戸開祭と流鏑馬祭りの年三回のみ開門される。ここから宝物庫の裏に向かうと三重塔址があります。柵の先に複数の礎石が残り、塔が建っていた事からこの地はお塔址と呼ばれるようです。古くは三重塔はじめ薬師堂、観音堂等の仏教施設が軒を並べたが、天保12年(1841)の火災により焼失し、弘化2年(1845)から再建が計画されたが計画だけに終わったようで、往古の貫前神社は神仏習合の巨大な伽藍を誇っていたようです。宝物館から車道に出て勅使門の全景。玉垣沿いに銅製燈籠や常夜灯が建ち並んでいます。燈籠の寄進年は寛政2年(1790)など江戸時代のものが多く見られ、長い年月から劣化は著しい。好奇心旺盛な子供連れは、我が子から目は離せないかもしれない。我が家の息子達も何でも登った時期があったものです。この先を進むと総門前に出ます。そして大鳥居から、また石段を下る。上野國一之宮 貫前神社、名古屋から結構長い時間を要しますが、高台に建つ大鳥居から望む富岡の町や遠く奥多摩の山々の眺め、そして下り宮の社殿の美しさ、訪れて良かったと感じるものがある。上野國一之宮 貫前神社創建 / 安閑天皇元年(531)祭神 / 経津主神、姫大神境内社 / 抜鉾若御子神社、日枝神社、二十二末社、伊勢内宮・外宮 所在地 / 群馬県富岡市一ノ宮1535参拝日 / 2023/05/11関連記事 / ・車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」・上野國一之宮 貫前神社末社 「日枝神社、二十二末社、伊勢内宮・外宮」・熊野那智大社の別宮飛瀧神社
2023.06.29
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花車 神明社(中村区名駅5)から堀川に架かる錦橋を渡り、北の桜橋方向の丸の内1丁目の白山神社へ。 名古屋市中区丸の内1丁目「白山神社」鎮座地周辺。 写真は桜通りから東方向のもの。桜通り周囲のオフィスビルが立ち並ぶ一帯に赤い幟と小さな神明鳥居の姿がある。上は明治31年(1891)の当地と、現在の比較。 当時は社頭から西の堀川に架かる桜橋は存在せず、昭和12年(1937)になって架けられています。 ビジネス街の歩道沿いに間口の狭い社地が与えられ、木造の神明鳥居と真新しい綺麗な玉垣が社地を囲む。ビルの森の中の僅かな隙間で、時の流れから取り残された様にポツンと白山神社が鎮座しています。社頭左の白山神社解説板、内容は以下。「祭神は菊理媛命(ククリヒメノミコト)。 元白山権現と称した。創建は明らかではないが、加賀国(石川県)の白山比咩神(シラヤマヒメノカミ)を勧請したのが始まりといわれる。 応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社(廣井八幡宮)の境内続きの末社であった。慶長の検地の際、境内が二分された。 延宝5年(1677)、広井八幡宮の祭礼の初めより、八幡宮の御旅所として神輿の渡御(とぎょ)があった。昭和12年(1937)、桜通りの開地により境内地は大幅に減少した。 昭和39年(1964)、現在地に移る。」白玉稲荷大明神説板、内容は以下。「山城国伏見より勧請御祭神 宇迦之御魂神。 御由緒 創建年月不詳御神徳 護国豊穣、商売繁盛、産業興隆、家内安全、芸能上達。」白山神社鳥居扁額。 三方は見上げるばかりのビルの森に囲まれ、いかにもビジネス街の神社の様相。参道に左の手水鉢。 今から約300年ほど前の寛延3年(1750)に寄進された鉢。名古屋城築城にあわせ堀川が開削されたのが1610年頃とされるので、既に水運が盛んになり四間道が整備された後に寄進された鉢。 立派な髭を持つ龍口から清水は注がれていなかった。ビルの谷間の奥まった場所に妻入りの拝殿と平入の幣殿が建ち、その奥に外削ぎの千木と三本の鰹木が施された本殿が僅かに見通す事が出来る。 参道左には境内末社が連なり、右側に赤い幟と奉納鳥居が連なる「白玉稲荷社」が鎮座しています。白山神社の由緒に依れば「祭神は菊理媛命神、創建は明らかではない。加賀国石川郷の白山比咩神社から勧請された。 応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社の境内続きの末社であった。慶長17年(1612)の検地の際二分された。 延宝5年(1677)8月より泥江縣神社祭礼の御旅所として御輿の渡御があった。元禄13年(1700)、享保9年(1724)、弘化2年(1845)の大火で焼失。 修造遷宮は14回余りを数える。明治初年に村社に列せられる。 昭和12年(1937)桜通り開通に伴い境内地はさらに減少。昭和39年(1964)に現在地に遷座する。 伝説として文禄年中(1592~1596)、秀吉の朝鮮征伐の際、軍船を造船するため、境内の楠を伐採させたところ、多くの人夫が負傷したので造船を中止、用材を社司に寄付した。社司はその用材の一部で地蔵菩薩像を一体作り広井の極楽寺に安置した。 その地蔵は「枕返しの地蔵」と呼ばれるようになったと云う。また、元禄(1688~1703)の頃、尾張藩の御殿女中愛玩の猫が行方不明になり、所要の帰路に参詣祈願の後、城中へ戻ったところ猫は戻っていたと云う。 以来現在まで特殊信仰として犬猫の紛失祈願に参詣する人が多い」冒頭の地図で泥江縣神社北側、現在の鎮座地西に鳥居(黄色丸)が描かれている、これが元の白山神社鎮座地で桜通りのど真ん中に鎮座していたのが分かる。 都市化に伴い、このビルの狭間に落ち着いたという事だろう。手水鉢の先に安置されている「白山神社 自然石」 解説は以下。「この石は元から境内にあったもの。いつ頃かは定かではありませんが氏子始め御神威を畏み慕う崇敬者等を諸事萬難より守護する不思議な力があると信じられている。 お参りの際は石に軽く手を当て心を込めてご祈願しお参り下さい。」参道左の境内社。 左から・秋葉宮、金毘羅宮 御祭神 火之迦具土神、大国主命 御神徳 鎮火、防火、鉱工業発展、刃物農機具業繁盛、航海安全、海難救済、福徳。・山神宮 御祭神 大山津見神 御神徳 山の安全・神明宮 御祭神 天照大神 御神徳 国家安泰、五穀豊穣、養蚕織物業繁盛。・松尾宮 御祭神 大山咋神 御神徳 酒造繁盛、土木建築業繁盛。・恵比寿宮 大国宮、御祭神 事代主命、大国主命、御神徳 商売繁盛、豊漁祈願、航海安全、海難救済、福徳。・御由緒 創建年月日不詳。拝殿側から見る境内社。 拝殿前の狛犬。 寄進年は昭和47年(1972)と比較的新しい。このデザインが定番のひとつなのか定かではないが、個人的に自由なデザインで「いいね」を付けたいくらいだ。 つぶらな眼でにこやかに微笑み、子供がおねだりでもする姿にも見え、とてもユーモラス。双方が口を開けどちらが吽形が分かりませんが、左の狛犬は銭、右は前脚を合わせ鈴を握りしめた意匠のもの。白玉稲荷社鳥居から本殿の眺め。 拝殿から社頭方向の眺め、空は狭いが南には真っすぐ伸びる中ノ町通りが一望できる。 白山神社創建 / 不明祭神 / 菊理媛命境内社 / 白玉稲荷社、秋葉宮、金毘羅宮、山神宮、神明宮、松尾宮、恵比寿宮、大国宮、神事 / 歳旦祭 1月1日、稲荷社 初牛祭 旧ニノ午、例大祭 10月12日、大祓式 12月30日、月次祭 毎月15日所在地 / 名古屋市中区丸の内1-15-18公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「国際センター」駅から東へ徒歩5分程関連記事 / 花車 神明社 (中村区名駅5)花車神明社から白山社徒歩アクセス / 堀川を渡り北へ徒歩10分程
2022.10.29
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「平瀬八幡神社」白川村萩町から国道156号線を平瀬方向に車で約30分。 白川郷散策の拠点とした白川郷ひらせ温泉キャンプサイトで一夜を過ごす。二日目は帰路となる荘川方向に向かう。 その前に平瀬集落の「平瀬八幡神社」に参拝。平瀬八幡神社 キャンプ場から車で5分程の平瀬集落のほぼ中央の小高い山の頂に鎮座します。以前は平瀬集落の中央を国道156号線が通っていました。 今は集落の西外れに新道が作られ、若かりし頃の面影はなくなってしまった。旧平瀬温泉共同浴場があった場所の南側に平瀬八幡神社の鳥居が立っています。 現在は浴場も解体され広い駐車スペースに変っています、かつての浴場を探し徘徊しても見つからなかったはずです。その広場に当時の記憶にない社が鎮座していました。 今から40年程遡るが、旧平瀬温泉へは釣や登山の帰りに良く利用させて頂いた…見覚えがない。 小さな狛犬が守護する銅板葺の一間社流造。豪雪地帯故に周囲は透明な樹脂板が張られている。 西側を向き鎮座する社、その先には霊峰白山がある、社名は分からないが白山神社なのかもしれない。社右側に小さな解説板が立っている。 解説には以下の様に書かれていた。「平瀬温泉子宝の湯 天保12年(1841)、高山地役人の土屋秀世と山崎弘奏の両名は群代小野朝右ェ門の命により白山雷鳥を捕獲せんと登山した紀行の中で、大白川温泉につかり疲れを癒したと記されている。天保以前から里人らに夏季を中心に親しまれていたようである。 この温泉は大正3年8月、平瀬の里人の奉仕により本格的な改修を行い、温泉と登山の宣伝につとめた。その後、昭和36年大白川ダム工事用道路の開通を経て現在に至る。 約14㌔先の大白川ダムの畔から引湯している。平瀬温泉は特に子宝の湯として、胃腸病や神経痛、リュウマチに著しい効果があるとして近郷にも名が知られる」 社の解説ではなかった。当時独身だった身に「子宝」は無縁だけれど、山の疲れを癒してくれたのは良く覚えている。 大白川温泉のあるダム湖畔まで車で行けますが、がけ崩れで通行不能になる事が多く、う回路もないので運が悪いと孤立する立地条件です、天候の悪い時に気安く立ち入らない方がいい道の印象があります。湖畔からは白山登山道の入口にもなっていて、今頃は山々の樹々が錦に染まっているのだろう。 狛犬(寄進年不明) 垂れ耳の小さな狛犬ですが、大笑いでもしているように大きく開いた口は愛嬌がある。額は見当たらない。 平瀬温泉散策マップによれば白山神社とあるが詳細はよく分からなかった。平瀬地区にはこれ以外にも白山神社が鎮座しておりキャンプ場から歩いて巡ってもいいかもしれない。白山神社創建 / 不明祭神 / 白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)所在地 / 岐阜県大野郡白川村平瀬 平瀬八幡神社白山神社の向かいに北向きに白い明神鳥居が立っている。 境内へは緩やかな丘に続く石段を登っていきます。八幡神社鳥居、額は「八幡神社」参道から鳥居(1989年寄進)の眺め。 正面が白山神社。参道から眺める社殿。 社叢は主に杉で形成されているようだ。石段を登り切ると境内を守護する様に狛犬(1982)が現れる。 境内右端に神酒殿。 ここはどぶろく祭りで振舞う「どぶろく」の製造施設。毎年1月頃から新酒殿で仕込まれた「どぶろく」は、各場所毎に微妙に味を変え、祭り当日に振舞われます。 毎年9/25・26日、五穀豊穰、家内安全、里の平和を山の神に祈願する「どぶろく祭」を皮切りに、平瀬八幡神社以外の村内4神社も同様に行われていきます。10/14・15は白川八幡神社、同16・17日は鳩谷八幡神社、同18・19日に飯島八幡神社と次々に開かれていきます。 その神事はどぶろくの振舞いの他に御神幸、獅子舞、白川郷で受け継がれて来た民謡や舞踊なども奉納されます。境内右の手水舎、手水鉢。 龍口から注がれるはずの清水は止められ、鉢の内部は干上がって錆で赤く変色していた。口を開けて佇む龍の姿は哀愁が漂う。馬狩大窪神社、平瀬神社合祀記念碑。 平成2年(1990)6月とある。馬狩大窪神社は全く知らない、ここから庄川左岸を下流に向かうと鳩谷ダムがあります。 その西山麗辺りに社名の地域がありますがそこからこちらに合祀されたものか?合祀記念碑。「昭和30年(1955)、関西電力鳩谷発電所大牧ダム築堤に伴い、大字大牧部落は全戸移転のため、祖先より氏神と崇敬し心のふるさととして親しみ仕へ奉る鎮守の社「大牧八幡神社」は氏子の縁も深く、当神社に合併、合祀した。 ここに10年祭を記念し当時の大牧八幡神社氏子代表者を記名し之を建てる。昭和41年10月 馬狩八幡神社氏子一同」岐阜県神社庁の平瀬八幡神社概説は以下。 「当神社勧請年代未詳。古来当区の産土神なり。平成2年3月7日、白川村大字馬狩字カクラゴ308八幡神社と合併。 該社は明治18年10月同村大牧鎮座八幡神社より分祀産土神として奉祭す。大正7年10月23日現在社殿新築」とあった。大牧ダムとは鳩谷ダムの事で湖底に沈んだ集落の氏神をこちらに合祀したという。 都市の快適な生活も、ダム建設でふるさとを失う人々の協力の上に成り立っている。九頭龍湖の湖畔にも故郷を追われた神社を合祀した「穴馬神社」があるけれど、そこにもこうした故郷を語り継ぐ碑が立てられていたのを思い出す。 庄川にも幾つもダムが存在するけれど、生まれ育った故郷を立ち退く代償は単に金銭でクリアできるものではないと思う。境内は東西に長く、広い境内を持っている。 写真は南側にある建物で社務所だろうか?平瀬八幡神社拝殿。 大きな唐破風向拝を持つ銅葺屋根の入母屋造りで千鳥破風を設けた堂々とした佇まい。軒から下は白山神社同様に透明のパネルで囲われている。拝殿額は「八幡神社」とある。 鈴紐は普通に下ろされており、思いっきり鳴らせられる。そろそろ龍にも仕事をさせる時期が来ている。拝殿側面から覆殿方向の眺め。 拝殿、幣殿、覆殿は屋根が繋がり、覆殿には5本?の鰹木と外削ぎの乗せ千木が施されている。こうして見ると複雑な屋根の形をしている。 覆殿横まで回り込んで見たが、覆殿の板塀に遮られ本殿の姿は見る事は出来なかった。 神社庁概説に「大正7年社殿新築」とあったが、平成元年(1989)に社殿造営が行われたようだ。平瀬 八幡神社創建 / 不明祭神 / 品陀和気命(応神天皇)参拝日 / 2022/08/22所在地 / 岐阜県大野郡白川村平瀬16関連記事 / 「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」、白川郷「弘法堂・和田家」、穴馬神社村営せせらぎ公園 駐車場から移動ルート / 国道156号線を荘川方面へ約30分
2022.11.02
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上野恩賜公園の上野山の西にあたり、上野東照宮の南というか上野大佛の南といえばいいのかな、上野山の西垂れの斜面に五條天神社と花園稲荷神社が鎮座します。五條天神社と花園稲荷神社の南参道は其々の神社の鳥居が左右隣り合わせで建っています。社頭の「賢薬祖神五條天神社」由緒書き祭神は大己貴命、少彦名命、相殿 菅原道真命花園稲荷神社の祭神は倉稲魂命を祀る。日本武尊が東夷征伐のおりに武蔵忍岡を通りがかり大己貴命と少彦名命の二柱を祀った事から始まるといい、それは1890年前に遡る。相殿に祀られた菅原道真は、1641年(寛永18)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮とも云われたようです。社地は創祀以来、天神山(今の摺鉢山)瀬川屋敷(アメヤ横丁入口)他、幾度か変遷を重ね、1928年(昭和3)に創祀の地に最も近い現在の花園稲荷神社隣りに遷座した。なので、伽藍の規模を見比べると五條天神社の規模が大きく、花園稲荷神社は五條天神社の境内社の印象があるけれど、先に鎮座していたのは花園稲荷神社のようです。五條天神社鳥居からの眺め。石の神明鳥居、よく見ると笠木(鳥居上)と柱の石の色が違うと思います、これは東日本大震災の爪痕です。震災で柱に亀裂が入り、その部分を交換したためにこのように違っています。鳥居右の彼、マレーシアから一人訪れたと話してくれた。桜をバックに写真を撮ってほしいと頼まれましたが、その後もずっと桜を見入る彼、綺麗なものに感動するのに国境はないという事です。南参道の鳥居の先の狛犬。骨太のがっしりした体形で、星梅鉢の紋が入った高い台座から鳥居の遥か先を見据えている様に見える。大きくはないけれど頼もしそうだ。七福社五條天神社の境内社で江戸時代には上野の繁栄を願い、上野山の入口各所に祠が祀られたそうです。七福社もその一つとされています、その名の通り七福神が祀られています。境内右に方型屋根の手水舎。その頂きには鳳凰が飾られ、屋根を支える柱は八角の柱を八脚に配置し、その中心に蓮の形の手水鉢が置かれています。神楽殿境内東側にあり、後方は不忍池。手入れされた境内庭園、訪れた2月下旬は丁度梅が見頃を迎えていました。入母屋銅葺屋根の神楽殿、額には舞殿と記されています。普段は板扉で囲われていますが、例祭の際は解放され神楽が奉納されるようです。拝殿全景。入母屋造で銅葺屋根の拝殿、本殿の容姿を捉える事はなかなかできませんでした。左右の銅製の狛犬が神楽殿を守護しています。頭の小さく頭身バランスのいいスリムでスタイリッシュな狛犬、そのフォルムは凛々しいものがあります。賽銭箱には粟穂紋、狛犬などには星梅鉢の紋が見られる。五條天神社創建 / 西暦110年頃祭神 / 大己貴命、少彦名命、相殿 菅原道真命住所 / 東京都台東区上野公園4-17花園稲荷神社、南参道五條天神社と花園稲荷神社は鳥居こそ分かれていますが、不忍池に向かい傾斜する斜面と並行するように斜面の上が花園稲荷神社境内、その下が五條天神社の境内。其々の境内は玉垣で区切られているわけではなく石段で二社の境内は繋がっています。鳥居をくぐると、右手の旧社殿跡に小さな赤い鳥居のある穴稲荷があります。ここは幕末の上野戦争の舞台となり、1873年(明治6)に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、現在の社殿が整備されたようです。この参道の先を進むと現社殿へ繋がります。花園稲荷神社参道の穴稲荷の先、額に「神徳惟馨」とあるが、扉が閉じられ詳細は良く分からない。これは社務所でいいのか?。手水鉢には「盥漱清心魂」とも刻まれています。特別な御神徳を授かる事ができる、そんな雰囲気を感じさせます。花園稲荷神社参道は五條天神社の境内より少し上になる事から、この参道からだと五條天神社の本殿が顔を見せます。外削ぎの千木と鰹木までは見て取れますが鰹木の数、本殿の造までは残念ですが分かりません。花園稲荷神社扁額と拝殿内の眺め、黒っぽい狛狐が守護しています。御創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷が正しい名称という事です。石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われ、1654年(承応3)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としたそうです。花園稲荷神社創建 / 不詳祭神 / 倉稲魂命住所 / 東京都台東区上野公園4-17拝殿から右に進むと小さな石鳥居の先に稲荷鳥居が連なる参道が続きます。その先は石段となり、それを上ると花園稲荷神社の東鳥居に続きます。西に向かってこれだけ高低差があり、五條天神社は更に下になります。上野恩賜公園側の花園稲荷神社東参道。参道口を守護する狛犬は年季が入っているようで、阿形は一部欠損し、容姿も個性的です。花園稲荷神社東鳥居。社殿は鳥居をくぐり、石段の下になるので上野恩賜公園側から見ると鳥居だけが視界に入ります。見かけは鳥居だけですが、その先に鎮座する二社は上野の山の守護神ともいえるものです。公共交通機関アクセス / JR山手線上野」下車西に徒歩5分程 関連記事 / 東京に行ってきた 上野東照宮 上野大佛
2020.06.13
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滋賀県長浜市田村町『田村神社』 西に琵琶湖が間近に迫り、遠景を遮るものはなく東に伊吹山が聳える古い街です 名古屋からのんびり90分程のドライブです田園地帯を北陸本線が走り、のどかな風景が広がります 県道を走ると左側に檜皮葺の重厚な神社が見えてきます鳥居前を左折し神社と隣接する田村公会堂に車を駐車 公会堂脇の桜の下に小さな祠と傍らに地蔵が祀られています 風化して表情は覗えませんが、両手で何か抱きかかえているようにも見えます県道から見える田村神社 鳥居脇は満開の桜に彩られ、ひと時の華やかな季節を迎えていました社号標は1906年(明治39) 先に見える道路が県道556号線鳥居前から境内全景 地元のおばあちゃん、日課のお参りですね真っ直ぐ伸びた参道の先、檜皮葺の拝殿鳥居の左に手水舎と織田瓜紋の入った手水鉢 その裏が公会堂になり、春休みで子供達の集いの場になっています手水舎に掲げられた由緒書き拝殿正面全景 県道脇に鎮座していますが、交通量が少なく静かな境内です大振りの狛犬 眼光の鋭い凛々しい顔つき拝殿右から側面全景 袴が施され、堂々とした容姿入母屋造の拝殿 煌びやかな飾りのない、重厚で落ち着いた趣を感じさせます中門と透塀、流造で檜皮葺の本殿 本殿も煌びやかに輝く飾りはないものの破風や虹梁を含めた細部には、見事な彫刻が施されています本殿前景と側面からの眺め 見事な曲線を描いて流れる屋根勾配は美しい拝殿から本殿全景(上段) 透掘に囲まれた本殿から拝殿、鳥居を望む本殿後ろ境内に古い切株が残ります 傍らに黄色も鮮やかなタンポポが咲き、桜と共に長浜に春の訪れを告げています『田村神社』創建 / 年代は不詳由緒書きによれば1018年(寛仁2)に当地に多田幸寺を創建の時、僧源賢が四隅に四天王を奉斎して守護神とした 当社はその坤方の一社と伝えられる戦乱のため荒廃した社殿を後陽成天皇(1571年~1617年)の御代に当地大雲寺中興の僧祐海が、 古の社地に再建したとある現在の本殿は1800年(寛政12)に建築されたとあり 往昔は天王宮と称したが、1870年(明治3)素盞鳴尊社と改称その後に土地名に因み田村神社へ改称祭神 / 素盞鳴尊所在地 / 滋賀県長浜市田村町733アクセス / 車⇒東名高速名古屋I/C⇒名神高速⇒北陸自動車道米原I/C⇒国道21号線⇒国道8号線 ⇒県道242号線⇒県道556号線⇒田村電車⇒JR北陸線田村駅から徒歩約10分
2018.04.06
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知多郡武豊町向陽に鎮座する「玉鉾神社」を訪れました名鉄武豊駅から西へ県道72号線沿いに小さな地蔵堂があります地蔵堂は「薬王菩薩」と呼ばれるようです堂内には紅がさされた地蔵が一体、彫られてからそれ程年月を経ていないようです堂の右手に小さな亀の像、正面に東守護大神 亀太郎大神と記されたプレートが浦島太郎伝説の伝わる武豊にあって、亀太郎とは意味深な県道に面した参道は境内に向け緩やかに上っています左が石段で、中央が車道の様です右に社号標、普通なら社格が彫られているところですがその記載が見当たりません個人的主観になりますが、神社は如何にその地に溶け込み、身近な存在として親しまれているかだと思っています、正直なところ神社の社格を重要なファクターとして捉えていませんそれよりもそれも黄金色に輝く菊の紋が入っていることの方が驚きです石段中程から鳥居方向の眺め鳥居に彫られた菊の紋章に視線が行きますその先には鰹木、千木のあしらわれた拝殿が覗えます鳥居の左に手水舎と手水鉢手水鉢の奥に「黄金之泉」と刻まれた丸いプレート手水鉢の亀の口から絶え間なく静水が注がれていますここでも亀です黄金色に輝く菊の紋が入る鳥居から境内へ鳥居から拝殿の眺め、拝殿の左には黄金色の鳥居が見えます千木は内研ぎ、鰹木は8本この結果だけであれば祭神は女神と言う事になる、けれどこれは諸説玉鉾神社の祭神は孝明天皇を祀ります孝明天皇を祀神とする神社は良く知られるところでは平安神宮、あまり多くはありません拝殿右に饒速日命の祠、その奥に地御柱大神の表札なんだろう、境内至る所にこうした表札が林立しています拝殿右側国之常立神の絵と神々の系図が掲げられ、その下には弥勒観音神仏習合の神社の様です菊の紋が輝く拝所正面には「祭神第百二十一代孝明天皇」と記されています由緒書きから一部抜粋御祭神の孝明天皇は明治天皇の父にあたり、江戸時代末期、諸外国の進行、武家政治の終末といった波乱の時代に在位された天皇で、天皇の崩御についても幾つかの謎が残る神社創建は孝明天皇に我が国の永遠の守護を給わるため、天皇の遺勅に従い忠臣であった力士の旭形亀太郎により創建される、なぜ力士が創建・・・・・力士は侍、有事の際に天皇の内裏を守る力士隊を結成し天皇を守護する任があった、亀太郎はその総代であったと言われます、創建までの道のりは厳しく、1899年(明治32)に漸く創建されます亀太郎没後、神社は荒廃し昭和39年、第三代宮司と崇敬者により再興された様ですなので境内の伽藍は全てが新しいものです創建までの道のりと同様、荒廃した神社復興の目標に向けた宮司、崇敬者の測り知れないエネルギーがあって現在の神社がある歴史の積み重ねや格式では計り知れない人のパワーを感じます境内は今も手が掛けられているようです境内には複数の境内社があります拝殿左の黄金色の鳥居は玉置社、黄金色の鳥居はあまりお目にかかった事がありません玉置社の左に昇龍大明神社祭神は龍神と創立者が祀られている昇龍大明神社の左に鎮座する朝日稲荷社、祭神は不明短山不動大神、ここにも亀これで拝殿左は全て参拝、次は拝殿右方向へ拝殿右で最初に目に付くのが「和合大神」とその左に「みろく世の鐘」平和を祈りゆっくりと三回打ち鳴らすもののようです和合大神から先に金色鳥居の「短山辨財天」に続きます陽気な表情の「大黒天」とその右に小さな牛が置かれた「幣良受天神社」「水かけ不動明王」年の数だけ水をかけると願いが叶うそうな本殿右には複数の記念樹、「三個の宝玉大神」やユダヤキリスト大神などのモニュメント等が纏められています幣良受の池の傍らに祀られる「短山辨財天」、そこから奥に更に参道が続きます幣良受の池の後方の小高い場所の石鳥居は「みろく天神社」鳥居手前の右手には北斗七星らしきモニュメント、左には小さな「猿田彦大神」が置かれていましたみろく天神社から本殿方向の境内の眺め下は境内社務所、御朱印はこちらになります境内左から拝殿方向を眺める左には忠魂の池と呼ばれる池があり、その奥には忠魂の碑と「黄泉国大神」が祀られています神話やユダヤキリスト、五芒星、北斗七星等様々な神やモニュメントが祀られている神社2019/05/18玉鉾神社創建 / 1899年(明治32)祭神 / 孝明天皇住所 / 知多郡武豊町向陽2丁目17アクセス / 名鉄河和線「知多武豊」下車、西へ10分程
2019.07.08
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7月中旬予定していた白川郷、かみさんが原因不明の高熱で体調を崩し見送っていた。 原因も分かり体調も復活、再度訪れる事にした。そこにはドタキャンを快く応じてくれたキャンプ場への感謝の意もあった。 そのキャンプ場は岐阜県大野郡白川村にある「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」蒸し暑い名古屋と比較すると庄川右岸にあるキャンプ場の朝夕は実に爽やかだ。 高速が伸びた今、白川郷から御母衣ダム、荘川方面へは日帰りでも周ることは出来る。一泊してゆっくり周ると色々な見所もある。 庄川水系は独身の頃、釣りやカヌー、登山のため頻繁に訪れ徘徊していた。結婚、子育に伴いそれらも縁遠くなり、何十年ぶりに訪れた。「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」 所在地は岐阜県大野郡白川村大字長瀬字あまちの上766-1。キャンプに留まらずカヌーなどのアクティビティーや通年営業など付加して新しくリニューアルされたキャンプ場。 管理事務所は木を多用し内装も綺麗で必要最低限の食材も用意されている。 キャンプ場マップ。 Aサイトは5区画あり、AC電源、BBQコンロ、テーブル付、車輌2台乗入れ可。BサイトはAC電源・車輌1台乗入れ可。 オートフリーサイトが管理棟前芝生・奥地砂地と林間があり、今回利用したのはこちら、料金は車一台2000円+入園料一人500円で二人で3000円。金額的にもリーズナブルで施設は五つ星と云っても良く、コインランドリー、コインシャワーも完備する。 サニタリー棟もスコブル綺麗で、洗剤やスポンジなど用意されていた、照明が人感センサー付きでトイレは温水洗浄便座も綺麗に維持され、異臭もなく手洗い用石鹸や殺菌剤も用意され云うことなし。女性や子供にも不愉快な思いをさせる事はないだろう。 ただし山だけに虫はいる、扉は開けたら閉めるを徹底さえすれば不快な思いはしないし、照明が人感センサーなので万一扉が開いていても虫が乱舞する事もない。上 オートフリーサイト(マップ丸印)のサニタリー棟。日中は開け放たれているが、夕刻には扉が閉められる。下 サニタリー棟の南側からA・Bサイト方向の眺め。キャンプ場中央に池があるが、庄川の水を積極的に引き込んでいないので、綺麗な水でマス釣りという感じではない。 折角の池、もっと活用し釣エリアになるといいのだろうが、目の前には清流庄川が流れ遊漁券を買えば綺麗な魚が釣れる、なのでそうした必要もないのかもしれないが、川で子供に釣らせるにはリスクもある。 池の水が汚い水ではないだけに生きものの姿がないのは寂しいかな。上 炊事場、綺麗なだけに汚したまま立ち去るのには気が引けるはず。下 トイレ、左側にトイレがあり温水洗浄便座も衛生的、右奥がコインランドリーとシャワーが用意されている。我家が陣取ったのはサニタリー棟の北側、かみさんのトイレや洗い物など考え手近な場所にした。 昨日は広いFサイトには我家の他に先客が一組だけ。とても静かで快適な空間を提供してくれた。今回は軽で訪れる予定でいたが、ここしばらく降水量も多く、天気は不安定と思い自分の車で訪れた。 雨雲は次から次に通り過ぎて行くが、二日間全く降られなかった。軽で訪れてもスタックする不安はないキャンプ場です。 用品を軽に合わせ準備したので最低限のツール、この他に最悪の雨様にタープは持って行ったが出番はなく、大きなツーバーナーやガソリンランタンも無く、カセットコンロと焚火台だけ、自分の車では荷室がガランとして寂しい限り。一時間程で全てのセットを終え、今日一日の汗を流しに徒歩で大白川温泉「しらみずの湯」へ。 マンホールには白山と平瀬温泉も描かれている。昔は平瀬温泉として集落に小さな銭湯風の入浴施設があったが、この施設に一本化されたのかもしれない。 当時の平瀬温泉は確か子宝の湯とも称されていた。大人 700円、小中学生 400円ですがキャンプ場利用者はここから100円の優待割引が適用される。しらみずの湯リンクしっとりすべすべになる湯で汗を流しサイトに戻り晩御飯に取り掛かる。 おやじ焼き鳥担当、かみさんアヒージョ担当、米はなくバゲットのみ。余れば翌朝のフレンチトーストに変わる。 ここんところこのパターンが多い気がする。美味しく簡単、スキレット一つで片が付き手間いらず。サイトでは直火禁止、そろそろ防火シートは必需品です。上 今年トストコで買ったLEDランタン、災害用で買ったが太陽光だけで十分明りを賄えた。難点は発行部がやたら眩しかったので水に濡らした和紙を下側に貼ってみた。 これが結構眩しさを押さえ、和紙の雰囲気がなかなかいい。下 白川郷で買い求めた白川郷純米生どぶろく仕込み。コクと優しい甘みがありと飲むと云うより食べる感覚、これが結構おいしかった。今朝(8/23)の庄川、水は澄み以外に降雨は無かったようだ、朝まずめを狙う釣り人の姿が見られた。 管理人さんの話では昨日虹鱒を放流したばかりだと云う。見えなくなったとはいえ綺麗な川を見ると毛ばりを振りたくなる、次回は一人で来たいものだ。 キャンプ場では遊漁券の販売はしているがレンタルロッド等はありません。尚、管理人さんの話ではサイトや近隣で熊の出没はないそうで、人の気配を感じると逃げていく純朴な熊ばかりだそうだ。 白山山系は猿が多い場所、猿に関しては稀に見かける事はあるそうだ、何れにしてもサイトでは野生動物の危害は低いようです。怪しい雲が絶え間なく流れてくるが、10時にテントを撤収し、小さな神社を巡りながら荘川方向に向かう。 綺麗で静かないいキャンプ場です。「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」所在地 / 岐阜県大野郡白川村大字長瀬字あまちの上766-1URL / https://hirase-camp.com/キャンプ場から20分程(片側通行規制多かった)で庄川を堰き止める御母衣ダムへ。 ダム下流のMIBOROダムサイトパークで小休止、日本最大級の貯水容量を持つロックフィル式ダムを見学。石を積み重ねる工法のダムを見るのは初めてのかみさん「大丈夫かいナ」と言葉が出る。 確かに一つ二つ岩を抜き取ると一気に崩壊(しないが)する気にもなる。MIBOROダムサイドパーク 御母衣電力館・荘川桜記念館 所在地 / 岐阜県大野郡白川村見学を終え再び走りだす、湖畔沿いのくねくね道は昔のイメージそのもの、そこへもってきて片側交互通行が多かった。 この辺りの国道156号線は手を掛けなければ一気に通行止めになるような切り立った山の斜面を縫って走り、遥か下は御母衣湖だ、大雨の時には走りたくない道だ。MIBOROダムサイトパークから20分程で荘川到着、こちらで荘川のどぶろく、けいちゃんを買い求める。 荘川町牧戸の「蕎麦正」で蕎麦ランチを食べ帰途に着く。蕎麦正所在地 / 岐阜県高山市荘川町牧戸159-2訪問日 / 2022/8/22~23今回の走行ルート関連記事 / 夏風邪に嬉しさ半分……
2022.08.24
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愛知県小牧市下小針天神県営名古屋空港の北を走る県道166号線を西へ 小牧城をバックに田園風景の中にポツンと鎮守の杜が見える周囲に建物が少ない事から遠くからでも視界に入ってくる 県道に接する形で鳥居があるので見落とすことはない以前からずっと気になっていた神社 参道の距離感がなんとも印象に残っていた参道の桜並木、桜の時期はピンクのトンネルとなり綺麗な事だろう県道の鳥居から境内は遥か彼方、見えない 鳥居には大正14年と刻まれている石の扁額を仰ぎ見て境内を目指す真っ直ぐに伸びた参道、風を遮るものはない・・・・・ひたすら寒い まずは1本目の公道が見えてきた2本目の公道、朝陽に照らされた鎮守の杜、何やら蕃堀らしきものも見えてきたようやく境内へ知恵乃天神社の幟がはためく 蕃堀の先に拝殿、右が社務所になるのだろうか蕃塀左の手水舎と手水鉢、左には古井戸?拝殿と狛犬、灯明台は大正4と刻まれていた拝殿の扁額の文字は熱田神宮宮司により書かれたもの 天神社は学問の神、菅原道真を祀る幟の梅紋以外にそれを感じさせるものは見受けられなかった どこかに牛はいるのかも・・・・・拝殿から幣殿を覗う幣殿脇にも小ぶりな狛犬が一対 社殿は高い塀で囲まれ全体は見て取れなかった少し離れたところから杜全体を見る フラットな敷地に鎮座しているので古墳ではなさそう田んぼの中にポツンと杜があり神社がある、日本の原風景です 地域を守る氏神さまとそこで暮らす氏子小針天神の町名も恐らくはこの天神様から来ているのでは 真っ直ぐに伸びた長~い参道、桜の時期に再訪したいものです『天神社』住所 / 愛知県小牧市下小針天神1丁目アクセス / 車・国道41号線 県道166号線右折 東へ500m程先を左折公共交通機関・地下鉄名城線上飯田下車⇒名鉄小牧線間内下車⇒西へ徒歩50分
2018.01.06
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津島市瑞穂町今回の目的地「龍淵寺」は観音寺から歩いて10分程南に位置します県道68号線今市場町3の交差点を南に折れ、5分程歩きます町内の東側には名鉄尾西線が南北に走り、電車が通過する音を除けば、車の往来も少なく静かな住宅街曹洞宗『龍淵寺』はその道筋に建っています「津島市内19ヶ寺による霊場(朱印)巡り」の一つでもありますこちらのお寺、かわいい地蔵さんの絵が描かれた御朱印を頂ける事で女性には人気の寺山門がある訳でもなく、まるで民家の様な趣の寺そこが寺である事を示すものは、紫の幟と御朱印の見本くらいでしょうか表札は掲げられていますが塀の色と同化し分かりにくいかも寺務所入り口もご覧の様な感じ、御朱印見本が飾られていなければ民家の佇まいです矢印に導かれ本堂へ少し奥に入り込んだ場所に大珠山『龍渕寺』の本堂が全景を現します扉の開いた右側が御朱印受付窓口おや?かみさんの姿が見えない本堂へ入ります堂内金色の如意輪観世音菩薩像が輝いています、右手の奥に御朱印を書かれる住職の姿がある乙女心をくすぐるタッチの御朱印や御詠歌の書かれた色紙が飾られ、アートギャラリーの様な堂内に驚き龍淵寺本尊の如意輪観世音菩薩はじめ、地蔵菩薩等多種多様予約をされた方向けに描かれた色紙も並べられています色使い、タッチといい、かみさんが「行きたァい」とリクエストする訳だ如意輪観世音菩薩の「如意」とは意のままに願いを叶えることのできる如意宝珠のこと「輪」は煩悩を取り払う法輪を指し、その二つを手に持つ観音菩薩が 如意輪観音となります片膝をついた特徴的な姿の救済の観音様御朱印はかみさんに任せ、境内と周辺を散策してみた本堂正面に石地蔵と手水鉢更にその奥に社が祀られるが、由緒書きはなく詳細は不明南から見た龍淵寺全景こうして見ると寄棟の本堂が良く見えます、寺ですね龍淵寺の開基は賤ヶ岳七本槍衆の一人、秀吉家臣の平野長泰と云われます初めてお参りすると頂ける如意輪観世音の絵入り御朱印季節に応じ、かわいい地蔵の絵の入る御朱印が頂けるようですここからスタートという事です龍淵寺宗派 / 曹洞宗創建 / 1441年(嘉吉元年)本尊 / 如意輪観世音菩薩住所 / 津島市瑞穂町1-8アクセス / 名鉄尾西線津島駅から南へ5分程
2018.07.16
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春日井市桜佐町『八龍神社』庄内川が滔々と流れ、堤を隔て周辺には農地と住宅が広がります。このあたりは釣りやカヌーを漕ぎに昔はよく訪れた場所ですが、眺める景色も若かりし頃とは随分変わったものです。自然が残る住みやすい環境ですが、穏やかな表情の庄内川もこの時期の大雨では荒々しい表情を見せます。写真は吉根橋下流から密蔵院のある吉根橋方向の眺め。堤から北を眺めると今も着々と造成が進む光景が広がります。造成地なので周囲に木々はなく、唯一八龍神社境内の杜だけが島の様に見えています。熊野町の熊野神社から南西方向に徒歩でも10分程、街中の住宅地に埋もれた環境ではないので分かりやすい。『八龍神社』はその造成区域に取り残された様に鎮座しています。神社周辺は工事区域なので現在は車で訪れる事はできません。現在こんな光景ですが、以前はどうだったのか。右が1947年(昭和22)頃の鎮座地、当時の地図には鳥居の印は見当たりません。北を流れる内津川と庄内川が合流し、川に挟まれた地域で周囲は見渡す限りの田園風景が広がっています。印がないから新しいのかとも言い切れません、古くはここから少し下ると渡しがあったとされ、人はそれなりに集まった場所、別の形で古くから龍神さまが祀られていたのかも知れません。最初に書いておこう、『八龍神社』の沿革は分かりませんでした。造成地の中に取り残された様に鎮座する『八龍神社』。その外観は鳥居や玉垣、社号標等すべてが新しい。社地の片隅に如意輪観音や馬頭観音等の石仏が安置され、写真左奥に庚申塔が纏められています。八龍神社正面全景。鬱蒼としたものではなく、ご覧の通り風通しも陽当たりも非常にいい。個人のイメージで、龍神様と聞くとなんとなく木々が生い茂り、薄暗い印象を受けますが、ここは明るい印象を受けます。2016年(平成28)に建之された真新しい鳥居と社号標。鳥居の先に拝殿と周囲を塀で囲まれた本殿域を一望できます、左右に小社が複数あるようです。神社は目の前の桜佐町とその先の庄内川を向いて鎮座します。拝殿正面全景。瓦葺の切妻造りで四方は吹き抜け、龍をアピールする飾りや額などは見当たりません。シンプルで素朴な佇まいです。拝所からは見た本殿域、一対の狛犬が本殿域を守護しています。石の白さが映える鳥居、拝殿も綺麗で新しい、棟札を見ていませんが恐らく同時期に建て替えられた印象を受けます。 拝殿先の本殿域、新たに小高く積まれた石垣、その上に塀や本殿が祀られています。右手には板宮作りの社が二つ、その後方に複数の石標が建てられています。その中には1923年(大正12)、1929年(昭和4)の年号が見られます。1947年(昭和22)の地図では記されていないけれど、祭祀形態は違うにしても、それ以前から桜佐に鎮座していることになります。桜佐の地名、諸説あるようですが、古くは桜沢と呼ばれていたものが縮まって桜佐となったという説があるようです、1844年(天保15)に編纂された尾張志でも桜佐と記されていました。本殿右の二社を参拝していきます。こちらは桜佐集落の火伏として祀られた秋葉神社。その左奥の社は御嶽神社。良くある霊神碑の類をこちらで見かけることはありませんでした。本殿全景。真新しい石垣、瓦葺の白い塀が周囲を囲っています。その前を白い狛犬が守護しています。色白の面々、恐らくは再建時に併せて奉納されたものでしょう。玉砂利が敷き詰められた本殿域、中央に神明造りの本殿が見えます。本殿左の小社。参拝時に社名を確認しメモしたのですが、なくしてしまい忘れてしまいました。写真から識別できるだろうと甘く考えていましたが大間違いでした。近くに寄った際にもう一度参拝し、ここに追記とします。本殿の側面に回り込むと5本の鰹木と外削ぎの千木が良くわかります。境内左の保存樹、境内ではひと際目を引く存在です。天に向かって聳える大きな樹には何かが宿るとも言われます。目には見えていないがここには桜佐町の田畑を潤し、雷除けの龍神が宿っているのかもしれない。『八龍神社』創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 秋葉神社、御嶽神社、不明社住所 / 春日井市桜佐町346関連記事 / 熊野神社 熊野神社からのアクセス / 南西方向に徒歩でも10分程公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」下車、徒歩で東へ20分程
2020.06.15
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「フラワーパーク江南」から国営木曽三川公園の13の公園の一つ「138タワーパーク」にも立ち寄ってみました。かみさんの実家のじいさんが写真を撮りがてら息子達を連れ、ここと「アクア・トトぎふ」をセットにして毎度散財させられていたが「花が豊富」と話は聞いていた。「フラワーパーク江南」から木曽川下流に向け県道183号線➡県道182号線光明寺交差点右折、道なりに移動時間20分程だ。「ツインアーチ138」いつも高速から眺めるこのタワー、初めて間近でみた。高さ138メートルの2つのアーチの中心に展望タワーがあり、タワーを目玉として四季折々の花が楽しめる。タワーの手前から左の南派川堤に出てみた。その昔は対岸との往来は舟で行き来し、この橋の袂には「木曽川わたり渡船跡」として石標がそれを伝えている。今は県道115号線の渡橋が架かり容易に南派川を渡り川島町に続く。対岸には「川島ハイウェイオアシス」の観覧車、少し左に視線を移すと岐阜城も見て取れる。つい最近までは「ネモフィラ」が綺麗に咲き誇っていたようですが、現在園内で今が盛りとばかり咲き誇る花は少なく、昨日もコキアを盛んに植えていた、植え替えの時期です。写真は「ローズストリーム」6種類のバラが植えられ一番の見所かもしれない、ここも花は今一つ。園内の様子綺麗に整備された公園は解放感で溢れている、それを求めて訪れる方もマスク着用はもちろん、距離を空ける等マナーが守られていました。ポピーはピークは過ぎたようだ一番勢いのあるバラとタワーせっかく来たのだから入場料500円を支払いタワーに上がってみた。エレベーターは我が家だけで利用、展望室も密も感じる事はなかった。360度のパノラマは濃尾平野を一望でき、500円の価値はあった。写真は岐阜城のある金華山、そこから眼下の川島の町には松倉城(跡)、ぐるりと見て廻ると、鵜沼城(跡)や犬山城に小牧城等が一望できる。これなら狼煙を上げればすぐに分かる、人の動きも分かる、山の頂に城を築く理由も頷ける。名古屋市内を横切るのにとんでもない時間をかけるけれど、こうして俯瞰して見ると濃尾平野意外と狭いか。園内もタワーも感染防止対策は整い、訪れる人のマナーもいい、花はこれから衣替えで少し寂しい時期だけど、外気を吸いに屋外に出て見よう。138タワーパークURL / https://www.kisosansenkoen.jp/~tower138/index.html所在地 / 一宮市光明寺字浦崎21-3江南フラワーパークから車アクセス / 県道183号線➡県道182号線光明寺交差点右折、道なり 移動時間20分程関連記事 / フラワーパーク江南 0528 余談ですが昼ご飯で立寄ったカレー屋さん、後から入店してきたグループの光景は余程covid19の存在を身近に感じた。「マスク外しの大声で会話、くしゃみ」、みんなで外せば怖くない、という事なんだろう。店も若者も幼い子供もみな我慢しこの時期を過ごしている。視線を外せば多くの客の視線を浴びている事に気が付くと思うのだが、きっと既にワクチン接種は終わったものと見た、あれ? そんな年齢でもないが。
2021.05.29
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名古屋市名東区猪高町高針『高帝龍王龍神』高牟神社の南に位置し、道路の向いにある小さな神社、古谷公園の隣に当たります高牟神社の鳥居のある緩やかな坂道を少し登ると歩道際に「高帝龍王神」と書かれた白い幟が靡いています高牟神社と謂れのあるものなのかと参拝に立ち寄ってみた所、写真の裏参道の入口には郵便ポストがあり、個人のお名前が記されていました『高帝龍王龍神』の外周を一回りすると東に古谷公園に道路を隔て隣接しています公園の南道路側には鳥居と幟が建ち、よく手入れされた庭の奥へと参道が続きますこちらは個人的に祭祀された神社の様ですが、どなたでも参拝可能な様に開放されています庭の奥に社が祀られていますが、あくまでも個人の敷地にお邪魔し参拝させて頂いている事を忘れてはいけませんね参道の先は左に手水舎、正面が拝所になります狛犬意外の伽藍は整っており、個人的に祭祀された神社とは思えないものです杉の木立から入る木洩れ陽で明るく、風の通る境内境内に建つ奉祭詩碑には以下のように記されています「当高帝龍王神様は、現在の御社の裏に樹齢三百余年、樹廻り5mの黒松の大木が生えていて、其の木が枯れて朽ち穴が出来て、其の中に龍王神様を始め子孫の蛇が住みつかれ、祭年の春には幹や枝に沢山の蛇が出て居られたので、在近郷から見物客で大賑わいになったのでございましたそこで祭主が皆様方の御賛同御協力を賜り、昭和15年4月御奉祭しました其の後は不思議な事に、龍王神様始め子孫の蛇の御姿は見え無く成りました以後、無病息災、商売繁昌、一切の厄除け心願成就の守護神として、皆様方が御参拝に御見えに成られる様に成って現在に至っております。 祭主」幹回り5mとは、随分と立派な松だったようですが現在は既にありません拝所からの全景手水鉢の清水で清め、参拝させて頂きますやはり長い物が・・・・・ケースに納められた金と銀の蛇の置物、彼らが祀られているのも蛇に纏わる事象からなのでしょうお供え物で溢れる祭壇の奥には、小さな狛犬が一対あたたかみがある素焼きの様にも見えます「高帝龍王龍神」と書かれたお札、幟や社号標には確か高帝龍王神と書かれていたが・・・・・???色々調べて見ると、名東史跡案内のブログの中で、こちらの御宅の方とお話しをされた記事が掲載されており、そこには「幟を作った際に龍が抜けていた」と書かれた記事に辿り着きましたどうやら、『高帝龍王龍神』が正しい社名で間違いない様です境内右は社名不明ですが多くの方が参拝に訪れているようです会社の神棚すら真面に管理できず、いつしか失ってしまったことを思うと個人でここまで管理され、近隣の方々からも受け入れられている事に驚きます小さいけれど何か暖かいものを感じる神社です『高帝龍王龍神』創建 / 1940年祭神 / 高帝龍王龍神住所 / 名古屋市名東区高針2丁目1305アクセス / 市営地下鉄東山線一社から南東へ30分程高牟神社鳥居からは東へ徒歩2分程
2019.01.15
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尾張旭市新居町「多度神社」尾張旭市の新居城址のある城山公園の前を東西に続く城山街道、東進し「多度神社前」交差点で左折し丘陵地を上り詰めると正面に多度神社の社頭が現れます。車の場合は社頭から左に更に上ると駐車場が用意されています。住宅の広がる丘陵地に大きな杜に包まれた社頭全景。右に「多度神社」の社標は大正9年(1920)の寄進、少し先に石の神明鳥居が建ち、手前で狛犬が守護している。造営記念碑。「開祖水野又太郎良晴が康安元年(1361~1362)に建立と尾張府誌に記され…八代末裔水野重太夫同金左衛門が取り持ち社殿を再建…」とあり、新居村の歴史と共に歩んできた神社のようだ。大正9年(1920)寄進の狛犬はにこやかに微笑んでいる様に見える。参道右の手水舎と働く龍。鎧の様な鱗を持ち立派な髭の龍、清水を注ぎいかにも龍らしい姿。手水舎から境内までは石段が続き、途中の踊り場にニノ鳥居が建っている。石段を上り詰めると正面に多度神社拝殿が見えてくる。本殿の左右に境内社の姿が見える。境内から里山の樹々に包まれた参道を見下ろす。拝殿全景。山の頂に開かれた広い境内は陽光が降り注ぎ明るいもの。拝殿は神明造風で屋根は緩やかな起りが入ったスタイリッシュなもの。境内の由緒。「多度神社主祭神 天津彦根命(天照大御神の御子神)合祀された御祭神 倭建命、天照皇大御神、大山祇命、豊受媛命、建御名方命、金山比古命、菊理比売命由緒新居村を開祖した水野又太郎良春が康安元年(1361)に勢州多度社(現在の三重県桑名市多度大社)から勧請し造営したと伝わる。その後水野又太郎良春の末裔裔水野重太郎等により延宝9年(1681)に社殿が再建されました。また、新居村に散在していた小社の神明社、天道社、山神社、諏訪社、金刀比羅神社、豊受社、白山社の御祭神7柱が明治44年(1911)年に合祀。後の大正9年(1921)に本殿の改修、境内整備が行われ、昭和33年(1958)に拝殿と参道及び大鳥居を建設。現在、境内社として本殿右に一目連社(天目一練命)が祀られる。この御祭神は金属工業の守護神で風雨をも支配されることから雨乞いの神様ともされています。本殿左に児社が祀られています。また本殿横に学問の神さまと崇められる天神社(菅原道真公)が祀られています。年中行事1月 元旦祭、初天神祭、2月 祈年祭、3月 天神感謝祭、6月 大祓、7月 御鍬祭、雲霞祭、10月 例祭、11月 新嘗祭、12月 大祓。他毎月月次祭」この地を俯瞰して見れば北に庄内川、南に矢田川と挟まれていますが尾張丘陵のこのあたりは水源の乏しい土地柄。新居村を開拓した水野又太郎良春が、雨乞いのため多度大社や一目連社など勧請したのも頷ける。数は減ったが一帯に大小の灌漑用溜め池が点在するのもそうした事もあるだろう。また、秋の祭礼で奉納される無二流棒の手も水野又太郎良春が農民に広めたと伝わり、今も地元から親しまれ、尾張旭駅前には馬にまたがった水野又太郎良春の銅像が誇らし気に建っている。東春日井郡誌第三節村社によれば、水野又太郎良春の子孫で新居城主だった水野雅楽頭平良宗が天正年中(1573~1592)に勧請…と書かれており、一方で水野又太郎良春が勧請した説もあると記されていた。拝殿と右側の境内社の眺め。平入の拝殿後方で切妻の幣殿が接続する。拝殿額も多度神社。1958年に改修を受けたとあるだけに綺麗な外観。鈴は二つとも下ろされ、鈴を鳴らす事が出来た。社宝に寛文8年(1668)に寄進された二振りの剣と武具なとがあるようです。本殿域右の一目連社、祭神は天目一連命をお祀りする。多度大社の別宮、一目連神社の祭神で片目の潰れた水を司る龍を指すとされ、鍛冶の神天目一箇神と同一神とされるようになったという。左手に本殿を守護する狛犬の姿があるが、今にも飛び掛からんとする容姿から檻の中に封じ込まれたのか。拡大して見ると肌は滑らかで陶製かもしれない。本殿域を取り囲む玉垣の右に鎮座する子守勝手明神。子守明神と勝手明神夫婦が祀られているのだろうか、詳細は分からない。拝殿右にも由緒碑が残され、「天正年間(1573~1592)城主雅楽頭平良宗建立…」とある。康安元年(1361~1362)と天正年中(1573~1592)と二つの由緒碑で刻みは違う様で、東春日井郡誌の二説ありと記述したのも分かる気がする。とはいえ、境内の由緒を尊重し、ここでは康安元年(1361)としておきます。本殿域左に少彦名命を祀る児社。その右にも暴れん坊の姿がある。玉垣の右に鎮座する天神社。祭神は学問の神菅原道真をお祀りし、そのタイミングにある若者の願いが書かれた沢山の絵馬がかけられていた。なにかで聞いたが話ですが、祈願の際は住所と氏名を最初に名乗れと聞いたことがある、以来ずっと「何処から来た誰誰です」と心の中でお伝えしてから祈願する事にしている。祈祷の際に必ず宮司さんが読み上げてくれますね、お願いされた側にしても誰か分からないと仕事も出来やしない。後方は多度神社本殿、高い玉垣が全貌を見せてはくれない。社殿西側から全景。屋根の僅かな起りと本殿の掘立柱、棟に施された6本の鰹木と内削ぎの千木が見て取れる。シンプルに纏まった清楚な趣が漂う神社だと感じる。社務所、常駐ではないようですがおみくじや書置きの御朱印もあるようです。社務所西側の駐車場から見る社殿。根元から二手に別れ、見事に聳える大きな樹が多度神社のシンボルかも知れない。西側に脇参道があり、そこから境内に入った右側にも手水舎がある。こちらの手水舎の龍もしつかり仕事をしている。正参道の龍を黒龍に例えれば、こちらは靑龍だろうか?長い時の積み重ねの中で創建が康安元年(1361~1362)と天正年中(1573~1592)と説が分かれてはいるようですが、200年の差を重要と捉えるか、新居村を切り開き多度神社を建立した水野氏の存在を称え諸説ありとしておくか、明確な根拠を元に起こりを正すかは、よそ者が決める話ではないと思う。帰り際に駅前の水野又太郎良春の像に挨拶して帰るかな。多度神社創建 / 康安元年(1361~1362)主祭神 / 天津彦根命合祀 / 倭建命、天照皇大御神、大山祇命、豊受媛命、建御名方命、金山比古命、菊理比売命境内社 / 一目連社、子守勝手明神、児社、天神社所在地 / 尾張旭市新居町西浦3182参拝日 / 2023/01/10吉根神明社から車移動 / 南東へ15分関連記事 / 吉根 神明社 (名古屋市守山区深沢)
2023.02.03
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いつもの様に朝一番に我家のミニトマトを収穫していた時のこと。小さな庭にはいつもの様に蜂が飛び交っていた。いつもの様に追い払い収穫を済ませ部屋に戻る、なんだか髪の毛の中で何かがうごめく。反射的に手で払った瞬間に手のひらに痛みを感じると同時に、部屋の中に黒い物体が羽ばたいた。とっさに新聞で叩き落すと、さっき外で飛び交ってた黒いやつだ。頭髪に潜り込んでいたようで、おやじに触られたもんだから刺すしかなかったようだ。すぐに水で濯ぎ、刺された場所らしき所を指で挟み、毒を押し出そうとしたが針が残っている訳でもなく、患部もよく分からない。ステロイド、ヒスタミン混合の薬を塗布し、今は保冷剤で冷やしているが少しづつ腫れが出てきたようだ。問題はこの物体がなにかが問題。普段熊蜂とばかり思っていたが、体調30mmほどの黒い物体を調べて見るとタイワンクマバチのようだ。名の通り外来種。その口の威力は木などに取り付き穴を開けるほどの威力があり、さらに針を持ち怒ると刺すようだ。針が残る種類なのか否かは分からなかった。この黒いやつはこれまで見逃してきたが、穴まで開ける外来種となると対応を変えるしかなさそうだ。幸いアナフィラキシー症状もないようなので、様子を見る事にします。刺されているのは黄色の範囲だと思われ、拡大しても針が残っている様子はないようなのでやや安心。まじまじ見る手のひらに妙な傷、なんだぁ?心当たりがない。痛くも痒くもないのでタイワンクマバチの仕業ではないかもしれない。昨日までDIYでロール網戸を取り付けていたがその時の物かぁ?それにしても徐々に指の付け根が腫れ、鈍痛がある。しばしキーは叩けなくなりそうだ。・・・・皿洗い、免除してくれるかなぁ
2023.08.09
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春日井市松新町5丁目「八幡社」以前は春日井市松河戸の一部だったが、1948年(昭和23)に現在の春日井市松新町として成立した町。神社の鎮座する場所はJR中央線勝川駅から南東、徒歩3分程の場所にある。周囲は西に駐車場、北にJRの高架が続き、それ以外は余裕を持って住宅が立ち並ぶ。名古屋市内に比べると随分と空間に余裕が感じられる。それほど縁のある場所ではないけれど、過去の記憶とは程遠く随分綺麗な街並みだ。写真は八幡社の南東角からの眺め。右手の建物は社地に立つ松新集会所、社頭はその西になります。空の広い街並みが広がる一帯にあって、今では目立つ存在になった杜が残っています。すぐ西には松新公園もあり、子供らの遊び場には事欠かない、境内を冒険する事もなさそうだ。上は1891年頃の当地、下街道沿いに集落ができ、古くから人が住み農業が営まれてきた。神社は下街道の南に位置しています。松新の「八幡社」の創建は古く、1799年(寛政11)にまで遡るという。創建以来200年以上この地の移り変わりを見てきた神社で、松新町の氏神様として代々受け継がれてきた。社頭から境内の眺め。こんもりとした杜に包まれた南北に長い社地を持ち、石の神明鳥居と右に社号標「八幡社」が建つ。なんだろう、よく街中で見かける、民家に囲われて肩身の狭そうな佇まいとは違う。隣が駐車場という事もあるのだろう、何か解放感を感じる趣だ。鳥居の先にはコンクリートの蕃塀があり、拝殿から先の様子は蕃塀がしっかりと目隠ししている。蕃塀先から拝殿と本殿方向の眺め。右手の建物はよくわからないが祭礼で使う備品倉庫だろうか。境内右からの眺め。拝殿前で小ぶりな狛犬が拝殿、本殿を守護しています。左奥に見慣れない塔のようなものがある。1918年(大正7)奉納の狛犬、変に彩色されていないので個人的には好きなタイプ。拝殿四方吹き抜けで瓦葺の妻入り拝殿。外観は派手な飾りを廃した素朴なもので、それが軒下の彫を引き立たせている。見落としているかもしれないけれど、扁額は掛けられていなかった。拝殿から本殿の眺め。祭神は応神天皇、菊理姫之命、須佐之男命、大山津見之命とされ、末社として昭和18年に町内の戦死者を祀る碑がある。2006年(平成18)伽藍の改修が行われているようで、朽ちてしまい痛々しい姿はありません。では参拝させて頂きます。最近どこに行っても鈴紐は下がっていないことが多い、ここも例外ではない。存在に気が付いて頂けているのか、近頃拍手をやたら強く打つ習慣になった気がする。本殿全景丸い石を積み上げて盛られた本殿域は玉垣で囲われ、神明造の社が祀られている。鰹木は五本で千木の削ぎは水平です。本殿右の巨木、しっかり見なかったけれどこの木肌から恐らく楠か、その枝ぶりのいいこと。本殿域の上を覆うような勢いがある、比較的広い境内、好きなように成長させ、町のシンボルツリーとしてありかもしれない。気になっていた塔、どうやらこれは以前の玉垣を積んだものだろうか。町の氏神様はそこに住む氏子たちあってなんぼのもの、過去の先人の志を大切に残していく、この町の思いが伝わってくる。神社はその町の住民同士の結びつきにも重要な役割をもっているようだ。我が町からとうの昔に消えてしまったものだ。2021/5/22八幡社創建 / 1799年(寛政11)祭神 / 品陀和気命(応神天皇)所在地 / 春日井市松新町5 公共交通機関アクセス / JR中央線勝川駅下車、南口から徒歩数分、杜が目印。
2021.07.03
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小牧市小針2丁目自転車で西春日井郡豊山町を徘徊し終え、富士神社を参拝後車を駐車した神明公園戻る帰り道、せっかく来たのだから小牧市まで足を伸ばしてみた。目的地は尾張由来の地とされる『尾張神社』ところが夕方も近くなると南の豊山町から小牧方向に向かうと見事に向かい風。県営名古屋空港の北側にあたり、周囲は田畑が広がり風を遮るものがなく飛行機は軽々と飛び立っていく、しかし折り畳み自転車の小さな車輪では目の前の尾張神社の杜は一向に近づかない。上は尾張名所図会の尾張神社の挿絵、聳える山は小牧山で往古は海原を行き交う舟は山を目安に帆を巻き上げた事から帆巻山と呼ばれ、地名の小牧はホマキからきているとも。尾張神社は挿絵の右下に描かれ、右側が切れているけれど右側に長い参道が続きます。左下の集落が当時の小針村、現在の下小針にあたり、神社の辺りが小針になります。地名の「おはり」や社名の尾張からして尾張の由来に繋がる香りが漂ってくる。現在の社頭の横に「尾張名称発源之地」の石標も立っていて、由来を辿る方にとっては盛り上がるだろう。尾張神社社頭。左に社号標「郷社式内 尾張神社」と常夜灯、真っすぐに伸びる参道は神明鳥居を構える。上は1891年頃の小針地区、マーカーが尾張神社と社頭の位置。住居の範囲は増えているが、今も田畑が広がる開放感のある環境が残っている。「尾張名称発源之地」石標「小針は、「尾張」名称発源の地と言い伝えられている。江戸時代に尾張藩が編纂した「張州府史」によれば、小針村は古くは尾張村であって、尾張の名称は、この地から起こったとしている。「尾張志」によれば、小針は、古代には「小治田」、「小墾」、「尾治」とも書いたという。小針の中心に「尾張神社」があるが、この周辺には古墳時代を中心とする遺物散布地が濃密に分布していて、小針には早くから大規模な集落が営まれていたと考えられる。また、かつて土器田・鏡田・一色畑・政所などの地名が存在しており、古代社会の存在を物語るものと言われている。「尾張名称発源之地」の石柱碑は、昭和15年11月に北里村青年団の献金によって建立されたものである。平成15年8月 小牧市教育委員会」上は尾張名所図会の記述、その中から一部抜粋。・往古の小針村にあり山王社と呼ばれていた。・延喜式に從三位尾張天神と記され、尾張氏の祖神天香語山命と大巳貴命を合せ祀る大社で広く崇められ、國号の起こりともなる主郷だが、連年の兵乱で衰徴し、今は小祠となった。・ちかくに昔、祭器を作っていた土器田という地も残り、鏡田、直会油田など字に呼ぶ地もあり、社の南の方に政所の旧跡もあり、昔大社だった面影が残る。何れも創建については語られていないが、この地には古くから人が居住していた事は周辺に多くの古墳が残る事からも想像できる。往古、熱田さんが鎮座する象の鼻とも呼ばれる台地は出来ていなかった頃、海岸線はもっと内陸部にまで及び人々の拠点は現在の名古屋北西域を中心にした内陸部だった。現に尾張の国分寺も一宮も稲沢や一宮に置かれている。この安定した土地に1500年以上前の古墳時代に西から移り住んで開いたのが尾張氏とされる。やがて伊勢湾や木曽川、庄内川流域の広大な濃尾平野の支配を広げていきます。ここ小針の地名には小さな土地を開く意味があるともいうそうです。尾張の由来は尾張氏以外にも地形から、土地を開拓する「おはり」からなど由来は諸説あるようですが確たるものはないようです。個人的には先の記述などから尾張氏から来ているものとしています。それでは社殿に向け参道を進みます。鳥居から社殿までは2~3分程、街にはない伸びやかな参道です。参道の先は控え柱の付く木造蕃塀と妻入りの拝殿、手前右手は社務所で手水舎は左側にあります。右手に杜の中核をなす巨木が聳えています、おそらく楠だろうか。蕃塀から拝殿方向の眺め。神社の周囲には高層の建築物はないけれど、社殿の三方を囲む杜が適度に境内に木陰を作ってくれる。自転車では苦労した風もここではとても心地いい。こちらの龍も口を開けたままでお休みのようだ。拝殿。瓦葺の切妻、妻入りの四方吹き抜け拝殿で周囲を囲む玉垣は本殿域まで繋がっています。その後方は石垣が積まれた本殿域で、祭文殿と四方を透塀が囲む形の尾張造りの配置は一帯では定番といえる伽藍。拝殿の鬼瓦には「尾張神社」、軒丸瓦には「尾」が入る。木造の拝殿は懸魚をはじめとして巧みな彫が施されています。上妻飾り上に麒麟とその下で大きな龍が睨みを利かせている。下木鼻の獅子も手間をかけて造られている。一本の素材から三次元に作り込む匠の技の見せ所かも知れない。拝殿から本殿方向の眺め、柔らかい陽光が降りそそぐ明るい印象の神社です。本殿域前を守護する狛犬。毛並みはスッキリと表現されている。寄進年代未確認。本殿域。丸みを帯びた石が積まれ本殿域が作られています、使われる石に土地柄が現れてくる。その地で容易に入手できるものを使うものです、柱状節理が多く取れる地域であればそれを生かす、その土地の環境と智恵が現れるところだと思っています。祭文殿は木造のすっきりした外観で8本の鰹木に内削ぎの千木が施され、拝殿に比べ彫飾りは少ないようだ。本殿域の石灯籠は年代が古そうですが確認できなかった。社殿全体は比較的傷みもなく、拝殿内の奉納額に昭和の元号が多かったのでその頃に補修の手が入っているようです。本殿全容は見渡せないがコンクリート製の流造のようです。鰹木が3本、千木は外削ぎになっている。尾張氏祖神の天香語山命(あめのかぐやまのみこと)は女神、千木の削ぎは何を意味しているのだろう。主神は天香語山命で相殿神に大巳貴命と誉田別命を祀る。創建は分からないが、かなりの古社であることに間違いない。往古には大社とも記された伽藍の規模がどれほどで、いつ頃衰退していったかなど掴めなかったが、一時の小祠から現在の伽藍に規模が大きくなってきたことは、地元やそこを統治した者から尾張国の名の起こりの神社として庇護されたのだろう。その思いが今も引き継がれ形になったのが社頭の石標だろう。過去の事は、覆す記録なりevidenceがなければどこまでいっても諸説ありで終わってしまう。自分はここが尾張の名の起こりとすることに違和感はないし、むしろ地元にこうして誇れるものがある事自体羨ましいとさえ思う。2022/2/24『尾張神社』創建 / 不明祭神 / 大名持命 香山命 誉田別命本殿 / 流造公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線「小牧口」から西に30分程所在地 / 小牧市小針2-138千松寺から徒歩 / 北へ約25分前後富士神社から自転車 / 北へ約25分関連記事 / 「霊鶴山 千松寺」西春日井郡豊山町、 『富士神社』西春日井郡豊山町豊場冨士
2022.04.14
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6/8歳を重ねる度に目覚めが早くなるこの日もラジオ体操が始まる前には二人とも動きだしていたせっかくだから津島でモーニングを食べて、「稲沢あじさいまつり」に行かない?ややもするとTVの影響を受けやすいのがかみさんこの店もなにかの番組で摺り込まれていたようだ、「稲沢あじさいまつり」はそのついでかなぁ店舗外観マイカー通勤で我先にと右に左に急ぐ車が多い中、小一時間で稲沢のきらcafeに到着目の前で県道518号線と79号線が交わり、店の前は渋滞気味開店は8:00、丁度開いたところ昨年開店した事もあり、外観も内部も綺麗なものテラス席もありますが、信号待ちの車が連なるこの時間では…店内かお得メニューはいろいろありますがモーニングで十分ドリンク代でクロワッサン、 ホットドック、 小倉トースト、 トーストの何れかを選択しますかみさんの目的はクロワッサン、ところが原料の高騰もあり今は提供を一時やめているようです上はピザトースト、下はホットドックを選択サラダ、デザート、スープのボリュームは、多くもなく、少なくもなく丁度いいドリンク代420円でこれだけつけば、こりゃあ魅かれるはずだ明るく静かで居心地のいいお店でした目の前に神明社があるようですが、駐車場の空き待ちの車もあり、訪れるのは見送ったきらcafe開店 / 8:00所在地 / 津島市蛭間町弁日98 さて、ここから北へ15分程の「あじさいまつり」行ってみよう会場となるのは性海寺歴史公園近くに無料駐車場は用意されていますが、少し離れた大塚南公民館に車を停める各駐車場には地元のボランティアの方が立ち、誘導や会場への道順まで案内してもらえます寺から近い所に何カ所か駐車場があり、門前は足の不自由な方専用です寺への続く道路は幅員が狭く、入り込んでしまうと出るのが大変かもしれません田植えを終えたばかり田んぼの中を寺に向かうそれにしても田んぼも、久し振りに見た蛙が鳴き、アメンボウが水面を気持ちよく滑る、こんだけ周囲に田んぼがあれば夜は涼しいだろう上は性海寺見頃を迎えたユリと瓦屋根の建物に多宝塔、プチ斑鳩の郷の佇まい会場の性海寺山門あじさいまつりは今年で32回目を迎えるようで今年は6/1~6/18まで、稲沢市大塚南の大塚性海寺歴史公園・性海寺で催されていますこれまで一度も訪れた事がなく、今回初めて訪れました祭りはここ性海寺で、境内の大塚古墳、本堂後方の大塚性海寺歴史公園が中心会場平日でしたが駐車場待ち、境内の人波ともに多かった土日は名鉄国府宮駅からシャトルバスが運行されるようです境内には飲食ブースや紫陽花即売会もあり当日も多くの観光客で賑わっていました園内にはガクアジサイをはじめ、ヤマアジサイ、西洋のアジサイなどが植栽され、園内一帯にアジサイが咲き誇り、目を楽しませてくれますまた、性海寺には趣のある建造物や、神仏習合を感じさせる神社、古墳が残され、あじさいを愛でながら歴史散策が楽しめますこの日は生憎見ることができなかったが、歴史公園では睡蓮鉢に水が張られ、水面にあじさいが浮かべられるようです山門から本堂の境内には想像していたほど紫陽花はなく、主は古墳から公園にかけて群生しています花手水を期待していたが残念境内マップ本堂渡り廊下から大塚古墳方向の眺め大塚古墳から本堂、多宝塔が建ち並ぶ境内の眺め。個人的にガクアジサイが好きなので、そうした写真が多くなりますが、多くの種類のアジサイが咲き誇っています大塚古墳から庫裏方向の眺め古墳時代中期に築かれた円墳で、発掘調査は終えているようで、埴輪が出土しているようです古墳北側の小池に架かる橋、ここから先にかけてあじさいが多く群生していますこの辺りの水路の所々に空の睡蓮鉢が置かれていましたが、水路も水は流されていなかった平日だからかなぁ当日のアジサイは全般的に水が足りなく今一つ元気がない一部枯れ始めたものもあり、程よい雨が欲しいところ霧吹きとカタツムリは必需品かも目視で見るとグラデーションがとても綺麗ですが、写真だと淡い移り変わりは出てこない人の目は実に凄いものです・個人的な見立ては花のピークを迎えている様に思えます、一雨欲しい・帰り際に見かけた光景、駐車場に入れない車で周辺道路の流れが滞っていました第32回稲沢あじさいまつり期間 / 6月1日~6月18日所在地 / 稲沢市大塚南一丁目33番地名古屋から車アクセス / 約一時間
2023.06.11
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前回から引き続きとなる今回の春日大社 2は春日大社の総宮神社からはじまり、春日山から流れ出る水谷川の流れ沿いに鎮座する9社を巡る「開運招福 水谷九社巡り」と呼ばれるもの。上のマップ、右下の大宮、桂昌殿から9社を巡ったルートでG先生によると約1㌔、15分弱の所要時間。一筆書きで巡ったので、五番納札社は八番納札社の後となり順番通りではありません。第一番納札社 総宮神社。桂昌殿から西に進み、御祈祷所の先を右に進んだ左に鎮座する銅葺屋根の三間社流造の社が総宮神社。祭神 伊勢・春日・八幡大神、白山大神、三光宮、二上権現、窪弁財天、北向荒神、睡大神の9柱が祀られている。例祭 6月5日御神徳 建築・家宅守護 住まいを授け・住む人の平安を守護する神。地鎮祭・引越しの際にお参りすると御利益を得られる。所在地 / 奈良市春日野町160-7総宮神社から水谷川方向の参道。二番納札社の一言主神社はすぐ隣に鎮座します。第二番納札社 一言主神社。総宮神社から右に少し進んだ左に鎮座する檜皮葺の一間社流造の社が一言主神社。祭神 一言主神例祭 6月5日御神徳 一言信仰の霊験高く、一言を真剣に祈願すれば叶えてくれる神。物事の善悪を判断する力を与えてくれる神として崇敬される。祈願成就の暁には鳥居を奉納するしきたり。所在地 / 奈良市春日野町160第三番納札社 龍王社。一言主神社の先の左側の少し奥まったところに鎮座する春日造の社が龍王社。神山春日山に鎮座する水徳の神で、中世には善女龍王を祀る高山龍王社ともいわれた式内社鳴雷神社の里宮にあたるお社。かつては勅使門を備えた壮麗な安居屋の鎮守社として、春日における龍神信仰の中心的な神社として崇敬されたが、明治時代に総宮神社に合祀されていた。平成30年(2018)に創建1250年を記念し、140年ぶりに龍王社が再興された。祭神 龍王大神例祭 8月8日御神徳 運気を上昇させ、富貴に導く神様。所在地 / 奈良市春日野町春日大社の鹿は「神の使い」とされ古来より大切に護られてきました、天然記念物に指定され広い境内のみならず街中でも平気で歩いています。ほゞ角が落とされたものばかりですが、中には角切を免れたこんな立派な角を持つものも闊歩している。飼いならされた犬猫と同等のような錯覚をするが、野生であることを忘れない方がいい。第四番納札社 水谷神社。龍王社から先に進んだ右側に鎮座する三間社流れ造りの社が水谷神社。春日大社のなかでも最も古い社の一つで、平安時代に隆盛した牛頭天王としても崇敬された。京都八坂神社の本祀ともいわれる格式の高い社。例祭(鎮花祭)では古くから社伝神楽と禰宜座狂言が奉納されてきた、禰宜座狂言とは春日神人(禰宜)が演じたことからその様に呼ばれ、秀吉が肥前名護屋城に招くなど一流狂言として誉れ高かった。かつて水谷神社の西に子安社が鎮座していた、拝殿の子授け石を清めると子宝に恵まれる霊験がある。祭神 素戔嗚命、大己貴命、奇稲田姫命例祭 4月5日御神徳難病・疫病を封じ、地相・家相・方位・日柄などから現れる災難を取り除き福徳円満をもたらす神様。所在地 / 奈良市春日野町160水谷茶屋。内容はともかく、茅葺屋根の風情のある建物は周囲の景観に良くマッチする。茶屋から道を下った橋の袂に二社が鎮座します。上第六番納札社 聖明神社もとは興福寺四思院に鎮座していた、近世には陰陽師が祭祀にかかわり陰陽道とのつながりが深い。京都の平野神社に祀られる今木神と同神とも云われる。祭神 聖明神例祭 7月15日御神徳生気横溢・家庭の守り神。下第七番納札社 愛宕(あたご)神社祭神 火産霊神例祭 7月15日御神徳火伏・必勝。所在地 / 奈良市春日野町30第八番納札社 天神社北野天神と同神とされ、受験合格資格取得の神としても信仰される。祭神 天常立尊例祭 7月25日御神徳延命長寿・災難消除・受験合格。所在地 / 奈良市春日野町90第五番納札社 浮雲神社このお社にお参りすれば、神々が降臨したとされる禁足地の霊峰御蓋山(みかさやま)の頂、浮雲峰に鎮座する本宮神社を登拝するのと同じ霊験があるという。祭神 天児屋根命例祭 7月25日御神徳将来を見通し、運気を上昇させ福徳を増進する神。所在地 / 奈良市春日野町101第九番納札社 船戸神社伊弉諾が投げた杖から出現されたと伝わり、大宮第二殿の御供神とされる神を祀る。その昔、京都から春日の神々に祈りを捧げるために遣わされた摂関家の姫・斎女・内侍が通った内侍道、本殿から水谷神社を経て東大寺二月堂に向かう水谷道の交わるこの地に鎮座し、邪鬼の侵入を防ぐ寒神として崇敬される。祭神 衝立船戸神例祭 6月5日御神徳 交通安全や邪気の侵入を防ぐ神。所在地 / 奈良市春日野町160船戸神社の前には春日大社国宝殿があり、春日大社が所蔵する国宝354点、重要文化財1482点の他に多数の文化財を所蔵・展示されています。写真は春日若宮おん祭で舞楽演奏の際に用いられる日本最大級の鼉太鼓のレプリカ。三つ巴と二つ巴の紋が入った太鼓の周囲は、まるで光背のように、口から炎を噴き出す昇竜や鳳凰が浮き彫りにされた火焔彫刻が見事。国宝殿一階に展示されており、外部からも見ることができる。時間に余裕があれば立ち寄ってみてもいいかもしれない。春日大社国宝殿所在地 / 奈良市春日野町160春日大社 2 (水谷九社巡り)関連記事 / ・春日大社 1 (一ノ鳥居から本殿)・南都鏡神社 (奈良市高畑町)・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.12
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今回は名古屋千種区覚王山の『大龍寺』を紹介します覚王山周辺の丘陵地は多数の神社仏閣が鎮座する場所です県道30号線「姫ヶ池通り1」の交差点の南側、日泰寺駐車場の1本目の路地を左折します目の前の小高い丘陵地の頂きを目指しひたすら登る事になります道すがら「大林禅寺」を横目に眺め歩くとやがてT字路となりますそこは左に曲がってください姫ヶ池通りには五百羅漢道の道標も置かれています写真は1920年(大正9)と刻まれています目の前には幼稚園の個性的な送迎バスその奥には大棟に鯱をあしらった山城を思わせる造りの『大龍寺』が見えてきます大龍寺の寺標右は幼稚園の施設、園庭では子供達が遊んでいます境内左の鐘楼こちらの鐘楼と近くの「相応寺」の鐘楼はいつ見ても立派な物です正面には日泰寺の五重塔、東山給水塔などが望めます梵鐘は近くで見る事が出来ませんが、竜頭や梵鐘側面には細かな飾りが施されています正面の本堂と両側の別棟は渡廊で結ばれ「コの字」型の一体となった造りこの別棟に五百羅漢像が祀られています残念ですが非公開です羅漢「供養と尊敬を受けるに値する人を指し、剃髪し,袈裟を着た僧形に表わされる修行者(釈迦の弟子)」十六羅漢や十八羅漢等はその数を表しています本堂の扁額大龍寺 / 黄檗宗、京都宇治の万福寺の末寺本尊 / 阿弥陀如来創建 / 1725年(享保10) 名古屋新出来町に創建1912年(明治45)現在地に移転日差しを受けて桃?のピンクが鮮やかです、その奥に釈迦如来が見えています堂内右側に祀られる羅漢像正面の黄金色に輝く釈迦如来、立派な姿です左側の羅漢像、間近で見たいものです大棟の鯱と軒丸瓦、羅漢の羅が施されています破風飾り、葵の紋も目に入ります本堂の丸い明り取りは印象に残ります本堂の裏側寺標もありますが、門は閉ざされています元々は名古屋城築城に伴い、その犠牲者を供養するために造られたとも云われます高台に建つ山城の様で、どことなく大陸の香りが漂う『大龍寺』です五百羅漢見たいものです住所 / 愛知県名古屋市千種区城山町2-71-1アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、徒歩10分
2017.12.03
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2021/7/18エコキュート入替工事、結局はハウスメーカーの取引先に依頼し工事も終わり、請求書を待つばかりとなった。暫定見積は以下の内容大金さんのサービスマンから聞いていた相場の価格帯だったので安い見積りもあったがハウスメーカーとの顔つなぎを考慮して決めた。助成金もなく、安い買い物ではなかった。さて見積りを見る、相変わらず定価と販売価格に開きのある事。オープン価格という事でユーザーはとても得した気にはなる、実際のところ卸価格はいくらなのか実態がさっぱり見えてこない。消費者にとって商品選択の際の具体的な価格相場の目安が付けにくいだけで、小売店側の価格を実勢と照らす労力が必要となる。相場は良く6掛けと云われるが、この見積りや巷の価格は一体なんだろう。製造原価の元値はいくらなんだ、小売店の利幅はどれくらいなのか怪しい世界だ。因みに価格COMの平均価格が240,000円前後、webで見かける同型機種の見積りが以下となる。もっと安く販売している、それらは一部に何か交換すると別途〃で値が張ってくる。我家の見積りでもそれはある、全てが工事費と云う形で盛り込まれてくる。限られた予算の会社の中でこの見積りが出てくれば値引き価格、工事費は即刻見直しをさせるところ。ましてやかみさんと業者間での見積り対応、女性は言い値で受け入れやすい。「元値は幾らなんだろうね」と一声で千単位の金額がなくなった。ネゴは恥ずかしいものでもなく、お互いの妥協点を見出す作業だと思っているし、この探り合いも楽しみの一つだと思っています。今回の業者好意的に対応してくれ、丁寧に仕事をしてくれたし、ハウスメーカーの取り分も考えてこれで良しとしよう。安いものに手を出すと、いざという時に迅速な対応はしてもらえない。それは過去の台風で家の屋根瓦が被害を受けた時の事。以前の家は知り合いの工務店で建ててもらった、高齢に伴い廃業した後の為、修理先がなかなか見つからない、見つかっても顧客が優先され修理に時間がかかった苦い経験がある。どこが着地点となるのか、消費者にとっては買う前の楽しみかもしれないが、値段だけで手にすると意外な落とし穴があるかもしれない。今回のこの結果、同じ思いをする方の一つの妥協点として参考になれば幸いかも知れない。言えるのは10年保証もいいけれど10年後存在する会社である事、ネゴを相談してみる事、施工中はたまには見る事。それにしても夏でよかった。2021/7/72005年製の大金エコキュートついに天命を全うしたそもそも10年交換を推奨するメーカー、2018年にエラーコード「J3」が頻発して出るようになり、本体電源を落としリセットしながら半年、結果サーミスタの故障でメーカー出張修理を依頼。その際にそろそろ更新しなければとメーカーからも推奨されていた。しかし人は目の前の課題が無くなると当然の様にそのことを忘れるもの。あれから3年かみさんから「悲しいお知らせ」という事で見せてもらったのがエコキュートの操作パネルそこには「警報」とエラーコード「C72」が表示されている。その前にエラーコード「U0」が表示されていたらしい。一度電源をOFFにして再度電源投入すると「U0」は消え、代わりに「C72」が表示されるようになる。「C72」はタンクのある本体側に着く三方切替バルブの故障信号らしい、メーカーに問い合わせると「C72」より最初に出た「U0」が致命的らしい。「「U0」が出たら交換しましょうね」と軽く答えが返ってきた。所謂ガス漏れ、密閉されていた冷媒ガスの漏れによるものらしい。ならば漏洩ヶ所の部品交換と冷媒補充で復活だ。・・・・・素人考えでそう目論んだがエコキュートはそうした仕様で作られていないそうだ。現在の表示は三方弁エラーの「C72」のコードが出ている、三方弁を交換すればこのエラーは消えるだろうと質問すると、これが消えても恐らく「U0(もう交換)」が再び表示されるだろうとの事。「パソコン繋いで幾つエラーが出ているのか吸いだして分かるのでは」と聞くもそうした機能はないのだそうだ。という事はひたすら表示されるエラーを消すため部品を交換する事になる。そのゴールが「U0(もう交換)」が出れば交換部品そのものが無駄となる。この辺りのモニタリング機能は要改善の余地がある。メーカー交換推奨を越えた設備、あの時交換も考えただけに潔く引退してもらう事にしよう。ひとまず、ハウスメーカーを通し設備メーカーに見積依頼、そしてもう一社CMで見かける評判の宜しくない業者に見積は依頼した。取り敢えずハウスメーカーなら巷で耳にする悪質な商売はしないだろう。幾らかかるものか、懐が心配なところだが、あの時動かなかった当然の結果だ。それにしても悪い時期に重なったものだ、世の中半導体不足で車の生産ラインは止まり、些細なものまで「半導体が無くて・・・・・」と一言目には出てくる。大国の采配や国内工場の火災で直ぐ身近に影響が出てしまう。これが食糧であったなら、ぞっとするがそんな国だ。貯湯量は少ない、適時設備が見つかればいいが、下手すれば水風呂だ、救いは夏だった事か。コロナで封印していた銭湯通いが始まりそうだ。それにしてもたった一回の「U0(もう交換)」で逝ってしまうとは。16年も動いて来たんだから、逝くときはそんなものか。・・・・・風呂に浸かりたい。2018/02/20ここ数年は1年に一回の頻度で出ていたアラーム「J3」 こいつの一時対応は本体ブレーカーのON⇒OFFで一時復旧するので厄介だ 頻度は半年に一回に変わり、毎月⇒毎週、今年に入りほぼ毎日アラームが出るようになった 初めてエラーが出る状況を目の当たりにした こいつは不調ケ所がさっぱり分からない 意地になって夜中に屋外で調べていたのが最大の要因だろう 脱力感から始まり、節々の傷み、ついには指の関節まで動かせなくなった、風邪だ エコQはこの間も相変らず「ピィ~~」という音と共に毎日エラー表示とお知らせが出る このエラー出ると湯を作らなくなる 量が少ない状態で昼間に一時復旧させると契約電力に関係なく貯湯動作となり、湯量グラフはあがるが かみさんの眼は三角になっていく 大概のものは楽しんで自分で修理してきましたが今回はもうギブです 基盤交換か、10年タイマー(そんなものはないが)をリセットするのか知らないが 専門家に任せる事に決め、考えないことにした「ピィ~~」はもう聞きたくない 毎日使う設備なのだから10年タイマー?があるとしたら、それいらないでしょう? J3アラーム厄介な奴だ どこが悪いのか自己診断で教えて欲しいものだ おっさん? 風邪の影響で腰と指の関節に痛みが伴い 「体力年齢リセットJ3」アラームが出ている 2018/02/22大金エコQ「エラーコードJ3」どうにも面倒なのでついにメーカー修理依頼若いお兄さんがやってきた交換内容を遠目に見ていたら、「エラーコードJ3」はブレーカーのある本体側に故障がある訳ではなく本体の横にあるエアコンで言えば室外機側の様でした狭い隙間に設置された室外機の外カバーを外し、ファンの右側あたりから下の吐出サーミスタを取り外す10年以上使用し取り外した吐出サーミスタ(湯温センサー)、被膜も汚れています交換用サーミスタ「J3」アラームの要因はリード線とセンサーを繋ぎ、密封する○部分の密封材に穴が開き センサー内に湯が入り込むことで湯音コントロールが出来なくなるもののようです密封方法がこんな構造なんですね、意外にシンプル こうした部品、単価は安いんだよね お兄さんに聞いてみたQ.「部品設計寿命はどんなもんだろうね?」 ユーザーとしては10年の耐久性は欲しいよねA.「5~6年くらいでしょうか、良くもった方ですよ」Q.エラーコードから交換部品の選定・公開や部品販売なんかしてくれるといいのにA.「ダメ」 そうですか、狭いところでお疲れ様でしたね 作業時間は運転確認含め90分 頂いた修理代は上の金額、部品代470円、そんなもんだわナ作業費・出張費はつきものだけに、もう少し部品寿命と構造しっかりしてもらって、10年安心にしてもらえるとユーザーは嬉しいよね ここ数年ごまかしながらJ3と付き合ってきたけれど、やっと解放されると思えばこの金額許せるか? エアコンの室内温度センサー交換した時はメーカー部品販売が確か2.3千円していた事を思えば安い!それにしても明細は見ない方がいいよね
2021.07.07
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戸隠神社「中社」からの続きになります。今回は中社の境内社と右隣りの五斎神社、境内社を掲載します。中社の手水舎の奥に赤い覆屋が鎮座しています。手水舎の奥に建つ日吉社、その左に石段が山の斜面に延びています。日吉社(ひえしゃ)案内板より「御祭神 瀧津姫命宝永4年(1707年)戸隠山第52代別当子義比叡山の麓、日吉大社より勘請奉斎」とある。覆屋には日吉社の額、中には赤い板宮造りの本殿が祀られています。斜面に作られた石段。幅は狭く、石段は苔むし滑りやすい、その先に小さな石の社が見えます。苔むした石の社。案内板はなくその正体は不明。下の写真を拡大していくと社の中の神札に「大物・・・」の文字が現れてきました。手水舎のある中社境内から鳥居左方向の眺め。正面の入母屋造り茅葺屋根の重厚な建物は長野市景観大賞に指定されている「中社五斎神社拝殿」奥社の随神門同様に屋根は苔むし、そこから樹々が芽吹いている。日吉社から参道が繋がっていますが、一旦中社を出て拝殿に向かいます。拝殿は扉が閉じられ外観しか見ることが出来なかった。拝殿の前は車道で、通りは旅館が連なり、老舗の蕎麦屋もあることから人が集まる。蕎麦屋の右に三本松の一本が聳えている。五斎神社鳥居。鳥居から杉木立に覆われた境内の眺め。正面が五斎神社本殿のようですが、右に鳥居もあり他にも社殿があるようです。五斎神社全景石段前には小柄でカラフルな狛犬が見守っている。化粧までしてもらい愛嬌のある表情をしている。なにも鼻の穴まで化粧しなくともいいと思うのだが。本殿は流造。茅葺にトタンを被せた缶詰屋根。屋根材の保護が目的で、雪深い田舎に行くと良く見かける。五斎神社参拝、扁額は諏訪社とある、アレ?鳥居脇の由緒書きを見て納得。「中社 五斎神社 祭神 建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)、火産霊命(ほむすびのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと)、椎産霊命(わくむすびのみこと)、宣澄霊命(せんちょうのみたまのみこと)由緒創建年は不明。江戸期、徳武源左衛門が諏訪御本社の分霊を受け創建された伝わる。善光寺道名所図解には「諏訪社」、江戸期の古絵図には「スハ社」として描かれている。石段下茅葺屋根の建物は拝殿で、古くは戸隠山顕光寺中院の法華堂、後の神楽殿である。国の重要伝統的建造物群保存地区を構成する重要な建造物。祭事 例祭9月10日、祈年祭5月14日、新嘗祭11月22日境内社 天神社境内には中世戸隠天台修験、中興の祖、宣澄を祀る宣澄社が西向きに鎮座する」最初に読んでおくべきだった。由緒書きにあった「宣澄社(せんちょうしゃ)」祭神は大先達宣澄阿闍梨。戸隠出身の宣澄は戸隠顕光寺の天台派、真言派との法論の最中に暗殺されます平成30年が創建から550年の節目だったようで、創建は1468年(応仁2)になる。その年は宣澄が望まぬ最期を迎えたその年。本殿全景確かに一社だけ向きが違う、西向き? 方向感覚を失っているようだ。怪無山山頂(戸隠スキー場)にあった「宣澄」の墓碑を「里宮」として建立したのが始まりのようです。毎年8月16日には宣澄法印を偲び、酒を飲みながら輪になって踊る「宣澄踊り」が行われるそうで、長野市の無形重要文化財に指定されているという。諏訪社の右に鎮座する「天神社」祭神は菅原道真。梅もない、牛もいない、らしくない佇まいかもしれない。右に小道が付けられ上に延びています。天神社から諏訪社本殿の眺め。天神社右の小道を上る、石段が作られていないので滑りやすいので気が抜けない。その先には石の社と石像が安置されている。石像は不動明王や馬頭観音、社の前に木札が置かれていたが読み取れなかった。庚申塔かもしれないが詳細は分からない。いずれも苔むし、緑の杜と同化しつつある。以上が中社の境内社と五斎神社に鎮座する境内社。中社の参拝者は多いけれど、こちらに参拝される方は少ないようです。杜に包まれ佇むこれらの社、時間があれば足を向けて見てはどうだろう。下は境内に掲げられた由緒書き。因みに御朱印は三本杉の三本目が聳える、バス停付近にある観光情報センターで頂けるようです。宣澄社由来。諏訪社玉垣に掲げられていた宣澄社由緒。中社 五斎神社由緒。日吉社創建 / 1707年(宝永4)祭神 / 御祭神 瀧津姫命五斎神社創建 / 不明祭神 / 建御名方富命、火産霊命、大山祇命、椎産霊命、宣澄霊命天神社創建 / 不明祭神 / 管原道真宣澄社創建 / 1468年(応仁2)祭神 / 大先達宣澄阿闍梨所在地 / 長野県長野市戸隠関連記事 / キャンプしがてら戸隠神社五社巡り 「中社」 諏訪大社本宮
2021.08.09
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いよいよ夏本番。 我家のダイニングの窓から容赦なく陽光が降り注ぐ。風はあっても窓を解放すれば外気温そのままの熱風が入りむ。 結局遮光カーテンを閉め、エアコンを使うことになるが、エアコンでは自然風の心地よさは望めない。たまりかねて100均やホームセンターで遮光シェードとマグネット式や吸盤式の取り付け金具を買って窓シャッターに遮光シェード取り付けてみた。 結論から言えば、風で煽られたシェードは、マグネットや吸盤では外れてしまい頻繁に付け直しが必要になる。外壁に金具を付けるのが簡単で確実ですが、とはいえ外壁に穴は開けたくない。 そこで専用の金具を作り、シャッターの正面カバーに取り付け、そこにシェードを付ける事にした。我家の窓シャッターは正面カバーは鉄製で側面カバーは樹脂製。 カバーを外しそこに金具を止めたいところですが、それも気が乗らない。上は斜め下からシャッターを見上げたところ。 青丸のビスと右にピスらしき物が見えるはず。メーカーの製作図面の断面図を調べたところ、左のビスには内部で部品が共締めされておらず、純粋にカバーの固定用ビスなのが分かった。・上の緑の吹き出し部分の4mmのトラストビス(全長は10mm(+の正ねじ・左に回すと緩む))を試しに外してみた。 何も共締めされておらず、ビス穴がずれる事もないようだ。 ・カバーのビスはシャッターの左右と中央に一本(窓の開口幅で複数ある)の合計3本で固定されている。・上は中央の4mmのトラストビス。+の正ねじ(左に回すと緩む)これらのビスに金具を共締めする事にした。※共締めとは1本のビスで複数の部品を止める状態の事・外したビスの全長は10mm。ホームセンターでM4(ねじのサイズ)の10mm(全長)と15mmのステンレス製トラストビスを購入。10mmはシェードを付けていない窓の標準ビスがメッキ製だったので交換の為購入。・シェード取り付け金具としてステンレスの1mm厚で幅19mmのステー30㌢のものを選ぶ。(希望は厚3mmだったが取り扱いが無かった)・標準ビスが10mmなので1mm厚の板を共締めすると9mmの締幅になる。使うのが15mmなので以前より4mm中にビスが飛び出る事になる。試しに金具なしで15mmのビスを締めこんでもシャッターの動きに干渉する事はなかった。これでビスはOK 次は金具造り。※4mmの飛び出しが気になれば、11mmにビスを切ればいいでしょう、自分はやめた。既製品のステー。 大きい穴の方はシェードの鳩目をゴムで繋ぐ穴として使用、小さい穴をビス穴に使用。・残念ながら小さい穴は僅かにビス径に対し小さいのでドリルで4mm穴に広げた。・幅19mmのステーだと側面カバーがあり、ビス穴が合わないため、赤部分(約4mm)をサンダーで削る。・工具があるので、ステー1本の作成は5分程で完成。※今回は曲げ加工をせずそのまま使うが、上方向にしたい場合は金具全長を長くし曲げればいいが、長すぎるのも考え物。ポイントはシャッターを開けた際にシェードがストッパーの下にならない高さが必要。上の写真は標準ビスを外し15mmのビスでステーを共締めした状態。左下のシャッターストッパーに干渉せず、シェードは確実にストッパーの上で固定できそうだ。心配ならもう一度外して少し上に曲げてもいい。・これを両サイドに取り付け、中央は同じ長さのステーで削らないものを付け完成。後はシェードの上の鳩目と金具の穴に紐またはゴム紐で固定下側はフェンスにキャンプ用の伸縮ポールを固定、下側の鳩目とポールをゴム紐で繋いで完成。取付後1日経過、今の所外れる事もなく、カバー自体にも負荷はかかっていない。課題・今回は速攻取り付けの御試し版、台風に備え簡単に外れる様にする必要がある。・シェードの鳩目がマグネット金具に合わせたので、新しい金具に合わせ鳩目を開け直す必要がありそう。費用・10mm、15mmトラストビス、30㌢ステンレスステー合計600円以内・作成から取り付けまで20分注意点・ビスの相手側はアルミ素材なので電動ドライバーで締め過ぎるとネジを潰してしまう可能性がある。・側面カバーのリベットを外そうとしない事。感想・マグネット金具や吸盤等の止め金具を試したが、あれこれ買い求めるより、作った方が安くて確実。 特にマグネット金具は外れると風に煽られガラスを割るリスクがある、外れたり付けたりの繰り返しはカバーの塗装を傷つけ錆びの要因になる。・日課だった復旧作業から解放された。
2022.08.03
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有馬稲荷神社。灘の酒蔵巡りで訪れ、有馬温泉のTokyu Harvest Club有馬六彩に宿泊した際、宿のほゞ目の前に社頭を構える有馬稲荷神社を見かけ、早朝に訪れ参拝させてもらいました。社頭全景。早朝の凛とした雰囲気の中、朱の明神鳥居が一層は鮮やかに写る。社頭右に「稲荷神社」社標が立ち、鳥居の先の石段正面に賽銭箱が見えます。社頭右の有馬稲荷神社解説。「舒明天皇、孝徳天皇(600年代)有馬温泉行幸の際、杉ヶ谷に行宮の守護神として祀られた始まり。射場山の中腹でこぶしの花をはじめ四季折々の花の名所となっている」有馬温泉を最初に発見したのは神代の昔、大已貴命と少彦名命の二柱の神とされ。存在が知られるようになったのが、舒明天皇(593〜641)、孝徳天皇(596〜654)の頃、両天皇の行幸を機に有馬の湯が知られる様になったとされます。有馬稲荷神社は有馬温泉とともに現在まで受け継がれている古社の様です。鳥居右に苔に包まれそうなこま狐達が早朝に訪れた見知らぬおやじを見つめている。鳥居扁額は「有馬稲荷神社」、視線の先には行く気も萎えるような石段が続く。石段脇に二つの社標、寄進年は見ていませんが以前赤く塗られていたよう痕跡。そして石段の真ん中に賽銭箱が置かれ、左脇にはモノレール。かみさんを誘うも「がんばってね」と言うのも頷ける。ここは萎えておいた方がいいのだろうか、そんな気持ちと鬩ぎ合いながら登り始める。昨晩は足の疲れを有馬の湯が癒したくれたが、取り敢えず一旦ここで足を止め一休み。起き掛けの体に石段は当然の様に応えるが、あの鳥居まで行けば行くか、戻るか判断できるだろう。願わくば「鳥居の先に社殿が広がる」であってほしい。ニノ鳥居までやってきた。その先には社殿は広がっていなかった。参道は鳥居から右方向の斜面に延々と続いているようだ。左の看板に残り200㍍とある、それなら登ってみようと進む事を選択。この看板がなければ先の見えない登り坂はパスしていたかも知れない。参道には参拝者を励ます様に看板が立てられている。・・・まだ続くか。なんとなく境内が見えてきた、まさに「やったー」の気分。紫陽花が咲き残る参道を手水舎に向け進む。手水舎全景、残念ながら清水は注がれていなかった。手水舎から左方向に社殿が広がっています。正面が社務所で右手の一段上がった境内に拝殿がある。石垣に掲げられていた解説。「有馬稲荷大明神が鎮座する射場山は、阪神淡路大震災で大きく地割れが生じ山が動きましたが、神さまを祀る有馬稲荷神社はほとんど被害を受ける事はなかった。」有馬稲荷と龍神さま・孝徳天皇没後社殿を再建。・鎌倉幕府に政権を奪われた後鳥羽天皇は、自分で作った刀と龍神の彫物を社殿再建時に奉納、武家政権の打倒を祈願した」という。・慶応4年(1868)有栖川宮織仁親王の令旨で永世宮家の祈願所とされ、後の昭和27年(1952)には、高松宮宣仁親王の参拝もあった。拝殿正面全景。入母屋銅葺屋根で桁行、梁行き3間の平入拝殿で四方吹き抜けのもので、周囲は高縁で囲われています。拝殿前の年季の入った狛狐(寄進年未確認)。兵庫県神社庁の当社解説によれば以下の様に書かれていました。・主祭神 倉稲魂命。・祭事 初午大祭には採燈大ごま修供行を斎行し、無病息災・家内安全・家業繁栄を祈願、併せて立春を祝い大ごま行を行なう。・奥宮には古長大神・恒長大神を祀り、末社粟島神社には粟島大神、大宮姫大神、白霊大神を祀り、湯山稲荷神社には大島豊永大神を祀る。・由緒舒明天皇・孝徳天皇(630~670)有馬温泉行幸の際、有馬字杉が谷に有馬行宮(杉が谷行宮)が造営された。この有馬行宮の守護神として稲荷大神を勧請し、有馬稲荷の源となる。以来、有馬行宮の跡に鎮座し、星霜千数百年の間、幾多の変遷あるも常に皇室の崇敬厚く、慶応4年(1868)5月9日、有栖川宮熾仁親王殿下のご令旨を賜り、永世宮家のご祈願所となる。以来同宮家各親王殿下のご祈願ご参拝数度にわたる。明治22年(1889)9月14日に有栖川宮親王・同妃殿下のご参拝があり、その後、久邇宮親王・同妃殿下、昭和27年(1952)には、高松宮親王殿下がご参拝された。明治37年(1962)5月9日、丹波・丹後・但馬の三丹州を見下ろす海抜689メートルの射場山(功地山)の中つ処に、この山の古長大神(フルオサ)・恒長大神(ツネオサ)のお導きにより、在来の古松老杉清泉奇石の他、新たに四季の花木を植え、高潔優美の霊境となすことを目的として現在地に移転造営する。」明治37年(1962)に現在地に遷座しているようで、造営当初の有馬字杉が谷とは地図で見ると炭酸泉源公園のある辺りとなります。拝殿前から本殿方向の眺め。中央の柱に木札が掛けられていますが「有栖川」までは読み取れますがそれより下は読み取れなかった。拝殿の先で更に石垣で一段高く積み上げられ、その上に本殿域があります。拝殿右側の境内社。鳥居のある手前の神社は粟島神社で祭神は粟島大神、大宮姫大神、白霊大神の三柱を祀る。その後方は湯山稲荷で祭神は大島豊永大神。右手の石碑の脇にも小さな社が祀られているが詳細は不明、但し小さな狐が祀られており稲荷なのは間違いなさそうです。粟島神社。三社相殿の社の前には複数の小さな狐が守護しています。石碑右の不明社、こちらにも狐の姿。湯山稲荷は境内から望遠で撮ってみたが、手振れが酷く掲載できる代物ではないので見送りますが、前記した2社の様に社の前に白い狐の姿は見られなかった。拝殿左側から境内の眺め。拝殿を回り込めば石段を上り本殿域に行けます。本殿域の入口から本殿方向の眺め。本殿域は透塀で囲まれ、神門をくぐると本殿を望むことが出来ます。まずはこちらで参拝させて頂き、神門をくぐらせてもらう。本殿全景。大きな切妻屋根を二本の掘っ立て柱が支え、鰹木は中央と左端の2本。参拝を済ませ神門前から拝殿方向を見下ろす。深い軒を持つ屋根の姿は翼を広げた鳥が羽ばたくようにも見えます。拝殿前から望む有馬温泉の眺望。前夜からの雨が残りガスッてますが、萎える気持ちに打ち勝ってあの石段を登った者だけしか拝めない眺望です。登ってきた以上今度は下らねば、躓かないように気を付けて降りていこう。ニノ鳥居から社頭を見下ろす。ゆっくり確実に社頭に戻り、宿の朝風呂に浸かり足の疲れを癒してもらおう。有馬稲荷神社創建 / 孝徳天皇(600年代)祭神 / 倉稲魂命、古長大神・恒長大神境内社 / ・粟島神社祭神 / 粟島大神、大宮姫大神、白霊大神・湯山稲荷祭神 / 島豊永大神・不明社所在地 / 神戸市北区有馬町1745公共交通機関アクセス / 神戸電鉄「有馬温泉駅」下車、徒歩20分参拝日 / 2023/07/08関連記事 / ・有馬六彩・灘五郷酒蔵巡り(魚崎・御影郷・西郷)・神戸市灘区大石南町 「住吉神社」・神戸市灘区「若宮神社」
2023.08.30
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神戸滞在二日目。宿泊地の有馬温泉を後にして、電車に揺られ小一時間の兵庫県西宮市。阪神電車西宮駅に降り立ち西宮神社を目指す。この辺りのマンホール。デザインは甲子園球場と酒蔵と仕込み樽で周囲に桜がデザインされています。目指す西宮神社は駅から南に徒歩5分程のところに鎮座し、大きな目標物は阪神高速3号神戸線の高架が目印。県道193号線の西側に広大な社地が広がり、県道沿いに写真の表大門が現れる。門前には石の明神鳥居と大きな二つの銅製燈籠があり、鳥居左側に大きな社標が立っています。門前の由緒。「御祭神 第一殿 えびす大神第二殿 天照大御神、大国主命第三殿 須佐之男大神全国のえびす神社の総本社として古くから崇敬され、平安時代には高倉上皇を賜ったと伝えられている。特に中世以降えびす様を福の神と崇める信仰が盛んとなり当地で発祥した人形操りや謡曲狂言など芸能を通じて全国津々浦々にまで御神徳が広まっていった。1月9・10・11日の十日えびすには百万人以上の参拝者があり、阪神間に於ける最大の祭典として著名である。」表大門左の銅製燈籠。西宮神社の境内を囲む築地塀の東および南側に築かれている練塀の解説。京都蓮華王院の太閤塀、熱田神宮の信長塀と並び日本三練塀と称され、現存最古の築地塀とされ、堅牢さは他に類を見ないという。堅牢な練塀も平成7年(1995)1月17日の5時46分52秒に発生した阪神大震災で被災、現在見る練塀はその後に復旧されたもの。建立年代は、築土から平安時代の銅銭が発見されたことから室町時代と推定される。表大門右手の梅宮神社。祭神 酒解神祭日 4月3日お酒の神さまとして信仰の厚い梅宮の神さまをお祀りしている。寛永4年(江戸時代)までは社殿がなく、神木をお祀りする古い姿を保っていた。酒好きはここは参拝しておかなきゃいけない。表大門左にも大練塀解説。神社の境内をとり囲む築地塀のうち、東面および南面に築かれている全長247メートルの練塀は、平均長さ約4㍍単位の築地63ヶ塀を連ねたもの。先の大戦による損傷修理の際出土したした宋銭から室町時代初期頃(約650年前)と推定される現存最古の築地塀である。名古屋・熱田神宮の信長塀、京都・三十三間堂の太閤塀と共に日本三大練塀の一つに数えられるが、規模、構造の堅牢さにおいて他の類例を見ない。昭和25年(1950)重要文化財に指定されています。阪神淡路大震災で被災し平成8年(1996)に復元され、令和3年に修復されたもの。「西宮神社西宮神社は、福の神様として崇敬されているえびす様をおまつりする全国の総本社として広く信仰されています。 えびす様は、神戸和田岬の沖で出現され、鳴尾の漁師が おまつりしていましたが、西の方に宮地があるとの神託でこの地へおこしになられたと伝えられています。その年代は明らかではありませんが、平安時代後期には、すでに文献に見ることができます。古くより漁業の神として信仰されてきましたが、門前に市が立ち、西宮の町の発展と共に商売繁盛の神様として、又、人形操りなどの芸能や七福神信仰を通して、さらに津々浦々へと広がっていきました。1月9日から11日の十日えびすには百万人に及ぶ参拝者で賑いますが、本えびすの10日午前零時に神門を閉じて神職は畏籠を厳修します。そして午前六時の表大門の開門とともに走り参りを行う風習があり、福男が選ばれます。9月21日から23日の西宮まつりでは例祭、渡御祭が斎行され、古式に則り海路神戸和田岬へ産宮参りが行われます。三連春日造という唯一の構造を持つ本殿は、昭和20年に戦禍にあい、昭和36年に復元再建されました。豊臣秀頼公の寄進と伝えられる表大門とその左右に連なる大練塀は国の重要文化財に、えびすの森は兵庫県の天然記念物に指定されています。」 福男を目指す男たちのスタート地点としてお馴染みの表大門、通称赤門とも呼ばれ、桃山建築の遺構を残したもので国の重要文化財に指定されています。現在の切妻瓦葺の四脚門は慶長9年(1604)の再建とされ、高さは約9㍍近くで、豊臣秀頼が建立した伝わります。毎年1月10日に行われる本ゑびすでは、午前6時に太鼓の音を合図に門が開かれ、本殿までの参道約230㍍を全力で駆け抜ける開門神事福男選びが行われます。福男といいますが、男ばかりではなく女性も参加されるようですが未だ福女は現れていない。福男選びの発祥は室町時代から江戸時代とされ、西宮神社及び周辺では1月9日の夕方になると、町内の家々は戸口から通りが見えないよう遮り、夜は外出しない忌籠という風習があり、その間はえべっさんが町中を廻っているといわれるようです。その翌朝、忌籠明けの多くの参拝客が一番福、二番福、三番福を目指す様になり、昨今の様に大きく取り上げられ競うようになりましたが、神社の記録のによると初代福男の記録は大正10年(1921)からと比較的新しいようです。スタート地点の表大門をくぐると福男を目指し駆け抜ける石畳のコースが続く。ここは毎年7月20日に行われるえびす万燈籠では参道の無数の石燈籠に火が灯され、本殿に続く参道に数えきれない程のろうそく燈籠が灯されるそうで、西宮神社の夏の風物詩となっているそうです。訪れたのは7月8日、境内の慌ただしさはそれに向けての前準備だったのかな。参道左の松の横に鎮座する兒社(ちごのみや)「廣田神社摂社、南宮神社末社 兒社廣田神社摂社の南宮神社の末社で南宮の若宮として祀られていた。平安時代末期に成立した歌謡集「梁塵秘抄」には「南宮のお前に朝日さし、兒のお前に夕日さし、松原如来のお前には、官位昇進の重波ぞ立つ」と歌われている」西宮神社表大門南門。兒社の先の左に南側に続く参道がありその先建つ門で、その先には阪神高速3号神戸線の高架が続いています。表大門南門の右に鎮座する沖恵美酒神社。創建年代など詳細は不明で沖恵美酒大神(あらえびす)を祀る。拝殿は切妻銅葺屋根の妻入り拝殿。沖恵美酒神社拝殿額。解説からの抜粋。「あらゑびすさま」と崇められ、室町時代の文書に「西宮荒夷社」として記録が残り、もと荒夷町に鎮座していたが明治5年(1872)に遷座。祭日は7月10日、1月・7月を除く毎月10日月次祭を斎行」とある。本殿は一間社流造。境内の川柳碑「人間は なぜにうつむく 空無限」表大門から真っすぐ進んで先にある西宮神社境内マップ。このマップ辺りからコースは右に直角に曲がります。福男選びコースの最初の難関第一コーナーの左に鎮座する南宮神社。銅葺屋根の切妻妻入で、四方吹き抜けの拝殿で、棟はその先の本殿の屋根と繋がっています。拝殿前で守護する狛犬の寄進年は弘化元年(1845)のもので、素材が柔らかい石のためか阿形は随分欠落がある。吽形の脇には行儀のいい子の姿がある。創建時期など詳細は語られていないが祭神は豊玉姫神、市杵島姫神、大山昨神、葉山姫神を祀る。南宮神社も西宮神社の境内社と思われがちですが、西宮市大社町に鎮座する廣田神社の境外摂社で、「浜南宮」とも称される。平安時代には都の貴族が参詣し、「梁塵秘抄」には「濱の南宮は、如意や宝珠の玉を持ち」と歌われる。神功天皇が豊津浦で得られたという廣田神社の宝物「剣珠」は、もと南宮に納められていた。社殿全景。本殿は5本の鰹木と外削ぎの載せ千木が付く。第一コーナーを曲がると社務所に繋がる直線で、明神鳥居をくぐった先から左に折れる第二コーナーがある。左側には写真の神馬舎。第二コーナーの右手の手水舎とその奥に庭津火神社。庭津火神社。祭神は奥津彦神、奥津比女神。祭日 9月21日社殿がなく塚の形をした封土を拝する古い姿を残した神社で、神域内守護の神さまをお祀りし、荒神さまとして信仰されている。境内には幾つも由緒が掲げられ、それぞれ微妙に内容は違っており、写真は手水舎付近の由緒。下記は御祭神を割愛し一部抜粋したもの。「例祭 9月22日、月次祭 毎月1日・10日・20日、1月9日 宵ゑびす十日ゑびす大祭 10日 本ゑびす、11日 残り福ゑびす様の総本社である西宮神社は西宮のほぼ中央に鎮座し平安時代末期には既に高倉上皇の御奉幣をはじめ、皇族神祇伯の参拝が著しく社勢極めて盛大であった。とくに中世以後福の神と崇める信仰が盛んとなり、傀儡師の活動や謡曲や狂言を通じて愈々御神徳が拡まっていった。徳川時代以後商業の発展に伴い海上守護神商繁昌の神として普く御神徳が発揚し今日では全国津々浦々にわたって多くの人々の崇敬を受けている。本殿は三連春日造と称し、神社建築の中で特異な構造をもつ元国宝建造物 、戦災のため昭和36年復元した。表大門(赤門)は豊頼公の寄進と伝えられ桃山時代の建築遺構を現存し、その左右に連なる大練塀(室町時代の作と伝える日本三大練塀の一つ)と共に重要文化財に指定されているほか、境内の社叢は兵庫県指定天然記念物となっている。昭和52年7月池畔に岩倉具視公私邸の一部である「六英堂」を移築した。古来銘酒の産地として名高い西宮市はかつて当社の門前町として発展したもの。」平安時代には廣田神社の境外摂社であり「浜の南宮」または「南宮社」という名であった。社務所付近から銅葺屋根の入母屋千鳥破風、唐破風付きの拝殿と三連春日造の本殿の眺め。コースはここから拝殿方向に続く短い直線と拝殿前の最終コーナーを曲がればゴール。銅葺屋根の春日造の本殿三棟が横一列に並び、其々の大棟から横方向に棟でひと繋がりとなり、一つの建物として作られた珍しいもので、三連春日造、西宮造と呼ばれる由縁。載せ千木の先端は全て水平カットの内削ぎ。期間限定で本殿前から参拝が出来る様で、そのタイミングであれば三連春日造の全容が見られるそうです。因みに表大門からこの写真を撮るまでのおやじのタイムは初コースながら約20分だった。TVのあの映像を見れば、まかり間違っても参加しようなんてのは無謀な挑戦だ。ノンビリが一番。こうしてみるコンクリート造りの拝殿は1961年の再建で、阪神淡路大震災で被災後の2000年に復旧されたもの。拝殿の左右に銅製狛犬が守護しています。吽形は角付きでウエーブの効いた尾と鬣を持つもので天保12年(1841)の寄進。拝殿唐破風から千鳥破風の眺め、破風飾りには三つ柏の神紋が入る。拝殿から望む三殿。普段は拝殿までしか入れませんが、正月三が日と十日戎の時だけは本殿前の参拝が許される。一度はこの目で全景を見たいものです。三連春日造(西宮造)本殿は寛文三年(1663)、四代将軍家綱の寄進のもので当初は檜皮葺で国宝に指定されますが、昭和20年の空襲により焼失。昭和36年(1961)、檜皮葺から銅板葺に変わり復興されたもの。第三殿までありますが拝殿から見て右が蛭児大神を祀る第一殿、中央の第二殿に天照大御神と明治元年に大国主大神を配祀、左の第三殿は須佐之男大神を祀る。鬼に入る神紋は第二殿は三つ柏、他は巴紋が入れられています。本殿の左側には複数の境内社が祀られています。右から順に流造の火産霊神社。創建時期は定かではないようですが、江戸時代の絵図には火之大神として記されている。祭神は火皇産霊神、祭日 8月24日。火伏の神さまとして信仰され、愛宕さんとして崇敬されている。その左は百太夫神社。創建時期は定かではないようですが、天保10年(1839)に産所村から現在地に遷座したとされ。芸能や子供の守り神神さまとして崇敬される百太夫神をお祀りする。例祭 1月5日百太夫神社祭。 見世棚造の六甲山神社。祭神は菊理姫命を祀り、祭日は5月6日。菊理姫命は白山大権現とも云われ山を守護する神、六甲山頂には奥宮にあたる石宝殿に向いて鎮座する。千木は水平カットの内削ぎ。大國主西神社拝殿。延喜式神名帳・攝津国菟原郡にある大國主西神社とも称され、元は境内の阿彌陀堂という仏堂。享保20年(1735)、大己貴命 少彦名命二柱を勧請し神社にしたとされている。祭日は5月15日。大國主西神社本殿。流造の本殿の千木は垂直カットの外削ぎ。更に左の朱の鳥居を構えた神明神社。外観は稲荷そのもの。創建年は不明、明治6年(1873)、大阪奉行所西宮勤番所から移転遷座され、御祭神は食物を司る神、稲荷神。扁額は神明神社。普通なら神明鳥でしょうが、様相は違う。これはもう紛れもなく稲荷そのもの。千木は外削ぎで鰹木は3本、流造の朱の本殿前には痩せた狐の姿もある。祭神は豊受比女命をお祀りする。思うに元々は神明社として祀られていたものが、明治6年(1873)稲荷社遷座以降、お稲荷さんの方が崇敬され稲荷色が濃くなっていった?不思議な神明神社です。松尾神社。祭神は大山咋命、猿田彦命、住吉大神を祀り、祭日は4月2日。寛政2年(1790)、当地の酒造家により酒造繁栄祈願の為祀られた、大好物のお酒の神さまです。本殿は流造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。西宮は灘五郷の1つとして、六甲山の恵みと海を間近にした地の利から古くから酒造りが盛んな地域。西宮神社参拝後の計画は、西宮郷の酒蔵を巡り美味しいお酒を堪能する。これで境内西側の境内社は参拝して廻ってきました。次は拝殿の南にある神池に鎮座する境内社に向かいます。新池の西の傍らに鎮座する市杵島神社。祭神は市杵島神、祭日は6月17日。厳島に鎮座する市杵島の神を祀り、貞享3年に書かれた絵図には弁才天として記されている。神池から祈祷殿、六英堂方向の眺め。宇賀魂神社。創建の詳細は定かではなく、室町時代中期、文明年間には既に鎮座されていたと云う。祭神は農業や産業の繁栄の神さま神宇賀御魂命で祭日は4月9日。伊勢神宮遥拝所。正に伊勢神宮をここから遥拝するためのもので、毎年10月17日の神宮祭ではここで遥拝が行われる。瑞寶橋。神池に架かる石造太鼓橋で石材は六甲山産の花崗岩が使われています。明治4年(1871)に当地酒造家により寄進されたもので、国の登録有形文化財に指定されたもので渡る事は出来ない。これで概ね境内は参拝は終え、表大門南門から西宮神社を後にする。表大門南門切妻瓦葺の高麗門で建立された年代は定かではないようです。門の前を国道43号線、その上には阪神高速3号神戸線の高架が延々と続く。1995年1月17日、悪夢のような阪神淡路大震災ではこの高架が落橋したり倒壊した映像は今も記憶に新しい。かけがえのない人命・巨額の物的被害をもたらした震災から28年を迎え、都市や寺社は復興し傷跡は消えたかに見えるが震災遺構は各地に残り、将来へ語り継いでいる。表大門南門正面全景。扁額にはえびす宮と書かかれていました。西宮神社創建 / 不明祭神 / えびす大神、天照大御神、大国主命、須佐之男大神所在地 / 兵庫県西宮市社家町1-17参拝日 /2023/07/08公共交通機関 / 阪神電鉄西宮駅から南へ徒歩5分有馬温泉駅から神戸電鉄有馬線➡谷上➡北神線➡三宮➡阪神本線➡西宮関連記事 / ・神戸市北区有馬町「温泉禅寺」・有馬温泉 「杉ヶ谷行宮跡・炭酸源公園・湯山稲荷大明神」・神戸市北区有馬町「有馬稲荷神社」・有馬温泉 有馬六彩・神戸市灘区「若宮神社」・神戸市灘区大石南町 「住吉神社」・灘五郷酒蔵巡り(魚崎・御影郷・西郷)
2023.09.15
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前回の春日大社 2から引き続きとなる今回は、春日大社南門から左に続く参道沿いに鎮座する若宮や紀伊神社までの境内社を巡ります。上が若宮十五社巡りのマップ。南門を出て左に向かい燈籠の連なる参道をひたすら真っすぐ進みます。この参道は御問道と呼ばれ、日本で最初に燈籠が並べられた参道。古来、燈籠は社寺において神仏に火を供えるために本殿や堂の前に一基が建てられました。春日大社では親神様の本社(大宮)と若宮(子神)を結ぶ参道の御間道を神前のように捉えて燈籠が奉納され、鎌倉時代末より並び始め、やがて境内全域に広がって行き、春日大社から始まった参道に燈籠を並べる風習は、江戸時代には全国の社寺に広がりました。春日大社には全国に存在する室町時代の灯籠の六割以上あるという。境内の石燈籠は二千基、釣燈籠は千基あり、日本一の数とされています。御間型燈籠。戦国時代のルイス・フロイス(1532~1597)によって書かれた『日本史』には春日大社の燈籠を「とても精巧に造られた石柱が並び、方形の石の上に立ち、木製の火袋は漆で黒く塗られ、鍍金した真鍮の枠がはめられ、豪華な透かし細工や浮き彫りの飾り、その上には石の笠が載って風雨でも灯明は消えないようになっている」と書かれていると云う。鎌倉時代後期より並び始めた御問型燈籠の火袋は木製のため、十年に一度の交換が必要になるという。三歳の徳川頼宣による一基を除き、五百年の間に漆や飾り金具は全て失われ現在の白木になっていった。こうした燈籠が若宮まで続いています。南門から参道を進み、小さな朱色の神橋を渡った左の本宮神社遥拝所。摂社 本宮神社遥拝所御祭神 / 武甕槌命、経津主命、天児屋根命例祭 / 11月9日神徳 / 御蓋山は太古の昔より霊山と崇められる神奈備(神様が鎮まる所)で、神護景雲二年(768)本社第一殿御祭神の武甕槌命が白鹿の背に乗り、 頂上の浮雲峰に天降られた神蹟である。 毎月一日にはこの所に神饌を供し、頂上の本宮神社を遥拝する。そこから先に進むと右手に楠木の老木と正面に若宮社拝舎が見えてきます。その手前の斜面に朱の社が祀られています。上参道の先は開け、燈籠の脇の高みに一社祀られています。下十五社巡り第二番納札所 一童社(三輪神社)祭神 / 少彦名命例祭 / 11/25神徳 / 医薬を司り、子供の成長を守護する参道を進んだ左に第三番、第四番納札所、正面には若宮の社殿が目の前に鎮座します。左が第三番納札所 兵主(ひょうす)神社祭神 / 大己貴命神徳 / 困難に打ち勝つ勇気と力を授けて下さる。右が第四番納札所、南宮神社。祭神 / 金山彦神神徳 / 財宝をもたらす守護神、鉱山と深い関りを持つ。春日大社摂社の若宮社。第1番納札社です。若宮社は、春日大宮の御子神様を祀ることから、大宮と同格の本社として崇敬され、それゆえに社殿も大宮と同様の春日造で、大宮と同様に若宮社殿も20年に一度の式年造替が綿々と行われてきました。しかし、明治政府から若宮社が摂社に位置付けられたために式年とはならず、不定期な修繕で造替が行われ、120年余りで5回の造替だったとされ、2021~22年の第43次式年造替以降は20年の造替に戻されたようです。祭神 / 天押雲根命神徳 / 生命の源である水を司り、 智恵・学問・芸能を導く 例祭 / 12/17本社(大宮)の御子神様であり、 平安時代後期、天候不順や災害により飢饉、疫病が蔓延した折、白河上皇、鳥羽上皇、関白藤原忠実、関白藤原忠通が人々を救うために創建した。白河上皇は建設促進の院宣を発せられ、長承四年(1135)二月二十七日の若宮社殿の創建日には、鳥羽上皇や関白が都より多くの貴族を引き連れ参拝された。20年に一度遷宮が行われる事もあり社殿は傷みもなく美しい姿を保っています。伊勢神宮やその他の神社でも式年遷宮が行われますが、人によってはもったいないとか、資源の無駄と思われるかもしれませんが、近代建築の建替とは違い古いものは関連する神社等に移築・再利用され、遷宮が円滑に行われることで、全体の陳腐化を防いでいる。国宝に指定されるとそれは出来なくなりますが、本殿以外は指定されておらず遷宮が可能となります。伊勢神宮が遷宮できるのも国宝の社殿がないこともあります。国宝が創始される明治以前は鏡神社の本殿も春日大社の第三殿が再利用され、春日移しと呼ばれています。そうしたイベントは技術の継承にも繋がり、杜の新陳代謝にも繋がっていくはずです。人工減少の進む中、新しいものを建て、古くなると壊して廃棄、そした新たに建てる、資源の浪費は現代の方が酷いかもしれない。タワーマンションが林立する現在、行く末はどうなるのか?負の遺産と化していくのだろうか。第15番納札社 夫婦大国社祭神 / 大国主命、須勢理姫命神徳 / 夫婦円満、良縁、福運守護の神例祭 / 11/16夫婦大国社(内部撮影禁止)と若宮十五社巡り案内板。正式に若宮十五社巡りをするのであれば、こちらで受付と玉串札を受け取り巡拝します。夫婦大国社前の手水舎の龍、威厳のある姿で清水を注いでいた。若宮の右に鎮座する二社、中央は赤乳・白乳雨社遥拝所。左の春日造りの社が第五番納札社 広瀬(ひろせ)神社です。祭神 / 倉稲魂神神徳 / おいなり様と同神で衣食住を守護例祭 / 11/25赤乳・白乳雨社遥拝所ここから南の2.5㌔先に鎮座する末社赤乳神社・白乳神社の遥拝所で、赤乳神社は女性の下半身、白乳神社は上半身を守護する神様。右の春日造りの社が第六番納札社 葛城(かつらぎ)神社です。祭神 / 一言主神神徳 / 夢を叶えてくれる神様例祭 / 11/25ここから先の参道に見えているのは第7番納札社 三十八所神社。第7番納札社 三十八所神社創建は久安2年(1146)とされ、春日造の社殿が多い中にあって珍しい檜皮葺の流造。祭神 / 伊弉諾尊、伊弉冉尊、神日本磐余彦命神徳 / 発明・起業の神上三十八所神社の右に鎮座する第8番納札社 佐良気(さらけ)神社。祭神 / 蛭子神(えびす様)神徳 / 商売繁盛、交渉成立を守護する例祭 / 1/10下三十八所神社と佐良気(さらけ)神社全景。第13番納札社 元春日 枚岡神社遥拝所。祭神 / 天児屋根命、比売神神徳 / 延命長寿の神第14番納札社金龍(きんりゅう)神社。枚岡神社遥拝所の参道右に鎮座する神社。今から700年程前、鎌倉幕府の零落による世の乱れを嘆いた後醍醐天皇は、倒幕を志すも事半ばにして幕府に露見、天皇は逃れ笠置へ落ちさせられた、元弘元年(1331)八月二十五日、世にいう元弘の変。後醍醐天皇は春日社に潜幸し一面の鏡を奉安し天下泰平の祈願をされたのが金龍神社の起こり。宮中の(庫裏)の鏡を奉安する事から金裡殿とも呼ばれる。祭神 / 金龍大神神徳 / 開発・発展の神。第9番納札社春日明神遥拝所。枚岡神社遥拝所の前方左にある結界の張られた石畳。鎌倉時代にこの九個の石(居石)から、明恵上人が春日大社本殿を遥拝された場所。祭神 / 春日皇大神神徳 / ひらめきの神第10番納札社 宗像(むなかた)神社春日明神遥拝所の前方左に、鳥居と玉垣で囲われた神域に鎮座する。祭神 / 市杵島姫命神徳 / 諸芸発達を守護、七福神の弁天様とも伝えられる神様で天河弁財天と伝えられています例祭 / 7/7護摩壇。弘法大師が護摩を焚いて祈願した場所と伝わる。第12番納札社 伊勢神宮遥拝所紀伊神社の手前右側にあり、結界の張られたなかには大小の岩が安置されている。祭神 / 天照坐皇大御神(内宮)、豊受大御神(外宮)神徳 / 天地の恵みに感謝する所、(遥か伊勢神宮を拝す)第11番納札社 紀伊神社創建時期は不明こちらの社殿も檜皮葺の流造。祭神 / 天照坐皇大御神(内宮)、豊受大御神(外宮)神徳 / 五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命神徳 / 万物の生気、命の根源を守護する例祭 / 9/15社左の龍王珠石。燈籠前に無造作に置かれた複数の石で、この石群は善女龍王が尾玉を納められた場所とされ、奈良名所絵巻などにも龍王珠石は記されているという。南門からここまでの所要時間は参拝・撮影含め約1時間程でした、早い人は30分程で戻ってこられます。紀伊神社から先は上のように奥之院道と呼ばれる細い参道が続き、春日大社の南側の境外に至ります。看板にあるように、この先には神社はありません。新薬師寺が鎮座する高畑町方面へはこちらが近いかな。人通りもなく、静かな杜の雰囲気を味わいながら春日大社を後にします。オーバーツーリズムで身動きが取れない京都に比べ、個人的にはやっぱり奈良がいい。若宮十五社巡り南門から最後の納札所紀伊神社まで写真データで50分。関連記事 / ・春日大社 2 (水谷九社巡り)・春日大社 1 (一ノ鳥居から本殿)・南都鏡神社 (奈良市高畑町)・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.17
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みのや北村酒店に濁り酒を探しにやってきたこの大曽根周辺では角打ちのできるお店で知られているみのやのばあちゃんにキャッチされ、一杯だけ掟じゃ自家製ベーコンと黒ラベルでひっかけるここのベーコンはスモークの香り、程よい油と少し強めの塩加減がビールにぴったり真昼間から最高だね♪みのや北村酒店愛知県名古屋市東区 矢田 1-5-33 052-722-0308
2017.03.14
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小布施町森の駐車場から県道343号線を西に、龍雲寺を目指します北斎所縁の地小布施、歩道のマンホールデザインも男浪がデザインになっています県道沿いを10分程歩くと寺号表札と玉垣が見えて来ます立派な寺号表札に金色の三つ葉葵の寺紋が輝いています、六川山龍雲寺に到着です境内に入り左に手水舎だったのだろうか、蓋で閉ざされている事から井戸?右は由緒書きだったのか、文字が書かれていたり、教えを貼っていた形跡は見られなかった山門右側に六地蔵と左に熊野権現の祠が長い堂に収められています瓦葺の主棟に鯱が飾られた八脚門の立派な山門を構えています手が入れられないのか所々に傷みも見られます山門に収められた仁王像年代も作者も不明ですが、大きく口を開けた荒々しい表情をしています山門をくぐった石畳の参道は突き当りで左に続きます突き当りから見た山門全景参道が曲がっているのは正面の小学校建設に起因するのか、はたまた出城として敢えてそうしたのか定かではありません突き当り右に境内に入るもう一つの入口がありましたこちらからだと自然石そのままの常夜灯の先に本堂を正面に見る事ができます本堂へ進みます、左に鐘楼が見えて来ます入母屋の重厚な屋根を持つ本堂参道の彼岸花が境内に秋の彩を加えています本堂左の入母屋瓦葺の鐘楼梵鐘の下に保存された瓦が置かれています鐘楼補修の際のものなのか、本堂補修時のものか定かではありません龍雲寺は多様化する参拝客の呼び込みには消極的なようです妙に観光地化された寺社より個人的に良い印象を持ちますが、由緒が見当たらないのはつらいなァ本堂の右側が寺務所になるようです、御朱印を調べて見ましたが頂けないようです本堂左は千体仏が安置される念仏堂と思われます龍雲寺本堂扁額と本堂より寺務所方向の眺め堂の扉は生憎閉ざされており外からお参りさせて頂きました本尊の木造阿弥陀如来像は1662年(寛文2)、島津家にから寄進されたもので桂材の寄木造りの仏像は作者不明ですが、制作時期や寄進者が明確な事から、1995年(平成7)に小布施町の町宝に指定されています創建はそれから更に遡る事になるのでしょうか本堂修復の歴史も定かではありませんが派手な飾り金具はないのですが、木組みにしても彫にしても細部に手間がかけられていますシックで落ち着いた佇まいは小布施の町に似合っています境内に掲げられた解説板小布施教育委員会等いろいろ調べてみるも木造阿弥陀如来坐像と千体仏の実像に巡り合う事は出来ませんでした、もう少し調べて見る必要がありそうです2018/09/21龍雲寺宗派 / 浄土宗本尊 / 阿弥陀如来創建 / 不明住所 / 上高井郡小布施町小布施横町 1077アクセス / 電車:長野電鉄長野線 小布施駅下車8分、車:小布施町森の駐車場から西へ徒歩10分
2018.10.08
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江南市小折町八竜地名からしてなにかを物語っている。久昌寺西側に広がる水田の先に見える杜が久昌寺と所縁のある「龍神社」の杜。水田に浮かぶ緑の小島の存在は、そこに神社がある事を物語っている。「龍神社」、尾張名所図会に描かれた久昌寺には左上に八代竜王社として記されている。生駒屋敷跡・小折城跡で記載したようにこの辺りは小折城西の丸にあたり、そこには吉乃御殿と記されている。社頭の前が信長の側室生駒吉乃の御殿で、正室との間に子宝に恵まれなかった信長に、吉乃は信忠、信雄、徳姫と時代の流れに名を残す三人の子を産むが、産後の肥立ちが悪く二十九歳の若さで他界する事になった。信長と吉乃の逢瀬の場でもある。上は尾張名所図会に描かれた久昌寺、黄色がやがて取り壊される久昌寺、赤が神明社、左上のピンクの部分が八代竜王社。周辺の景色は変わったけれど、それ以外は現在も当時の面影を留めている。竜神社社頭。明神鳥居の先に木造の蕃塀、拝殿の伽藍が連なる。社頭左に石碑と二つの解説板。上村瀬健次郎公碑下龍神社の由来生駒氏の氏神であり、信雄(信長側室吉乃の次男)の守護神でもある。祭神は八台龍王。境内社として知恵乃文殊社と源太夫社の二社がある。護国豊穣の祭りは、大幣を飾り付けた奉納馬を疾走させる勇壮なもので、太平洋戦争中頃まで盛大に続いた。埴原塚の由来埴原家は八条流馬術の名手「埴原加賀の守」の葬地であり、龍神社前にあったが、土地改良事業の実施に伴いここに移された。埴原加賀の守は諸国を武者修行中、鷹狩りに来ていた信長に召し抱えられ、後に清州の城代となる。岐阜城落城直後、信長に「天下布武」の朱印状を与えられている。慶長三年(1598)に没す。鳥居正面が吉乃御殿跡、現在社務所が建つあたり一帯が御殿だったという。そこには小さな池と御殿の解説、力石と呼ばれる石が置かれています。吉乃御殿跡夫、土田弥平治(源太夫)を、1556年明智城の戦いで亡くし、喪に服した吉乃の前に現れた尾張の荒武者、織田信長。二人は、ここ吉乃御殿で逢瀬を重ね、信忠、信雄、徳姫を授かるが、産後の肥立ちが悪く吉乃は二十九歳の若さで信長の願い空しく世を去ったといわれる。口軽な小者であった、木下藤吉郎の人材を見抜き、信長と秀吉の「絆」となった吉乃は、近世の扉へと時代をいざなった。力石の由来祭礼時、生駒氏が家臣の者にこの石を担がせ、力試しをさせて五穀豊穣を願ったと伝えられる。また、この地の門左衛門氏が音頭をとった事から、門左衛門石ともいう。御殿跡に残る小さな池「雨壺池」と呼ぶそうな。雨壺池の由来一面池であったこの地に農民が水田を作った折り、干ばつに備える雨壺として残された。厳しい干ばつの年、雨壺の水を運び、幼川(五条川)の水を入れ替え、持ち帰ると龍が暴れ狂って天に昇り、一転俄か雨を降らせたと伝えられる。禅喜寺(後の久昌寺)の池に八大龍王が現れたという。水神社の碑文と符合すれば至徳年間(1384~1387)足利義満(三代)時代以来の伝承である。下に出てくる解説によれば昭和30年頃まで清水が湧き出していたという、その沸き水も今は止まってしまったようだ。社頭から境内の眺め、右に社標「村社 龍神社」周囲は杜に包まれているが、境内は空が開けて陽光がふりそそぐ明るく、手入れされた境内と相まって身を置いていても心地がいい。控え柱の付く木造蕃塀は社殿とマッチした重厚感漂うもの。入母屋瓦葺のこれは、拝殿か神楽殿か。尾張名所図会に八大竜王社とあるように、『八大龍王』とは天竜八部衆に属する竜族の八体の竜王を(竜神)指し、難陀、跋難陀、娑迦羅、和修吉、徳叉伽、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の各竜王のことです。仏法を守護するとされ、日本では「祈雨・止雨の神」ともされます。龍は蛇を想像させる想像の生物ですが、古来から「水の神」として信仰され、竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、祈りを捧げる雨乞いが頻繁に行われてきた。幣殿前にはニノ鳥居と一対の狛犬が守護している。龍神社は江南市や氏子による解説が整備されていて、初めて訪れた者にはありがたいものです。境内清掃をされていた神職?の方の話によれば「吉乃が納めた棟札も残る」と伺った、そして是非とも知恵の文殊菩薩にも参拝くださいと勧められた。境内右に鎮座し拝殿方向を向いて石の祠が祀られ、左に絵馬掛けがある。【智恵の文殊菩薩】本尊の文殊菩薩は、釈迦如来の脇侍としてお釈迦様の傍にあって智恵を司る仏である。言い伝えによると、信長の家臣土田一族が屋敷に祭祀していたものである。昔より大願成就霊験あらたかで、願い事を三回となえ、望み紐に願い事を書いた紙を縛り、日参を重ねると文殊の智恵が授かり、学業成就出世間違いないと言い伝えられている。【由緒】本国帳には従三位小田天神とあります。現存する最古の棟札によれば、元和8年(1622年)岡崎城主徳川信康(家康の嫡男)の正室見星院(徳姫)と、生駒利豊(吉乃の甥)の再建となっています。生駒氏の氏神で織田信雄(信長の二男)の守護神でもある。往古より早ばつの時に村を上げて雨乞いをし、霊験が顕れ雨の恵みを受けた例もあるという。構築物【蕃塀】木造で貴重な建築物で、尾張地方でも北部で多く見かける。【燈籠】天正12年の燈籠8尺 1本元禄13年の燈籠8尺 1本吊灯籠六角鉄製1尺1寸 1個境内社【源太夫社】戦国時代、濃州可児郡土田村土田城主二代目親重の次男として生まれた「土田弥平次」が祭神。生駒家宗の娘「お類」=吉乃は弥平次に嫁いだが、明智城の戦いで夫の戦死後、織田信長の側室となりました。【智恵の文殊社】本尊の文殊菩薩は、釈迦如来の脇侍として智恵を司る仏である。言い伝えによると、信長の家臣土田一族が屋敷に祭祀していたものである【雨壺池】水神社(曽本)の龍の伝承と符合すれば、至徳年間(室町前期)に龍が雨を降らせ早ばつから村を救ったといわれ、恵みの雨が降るとお礼に花馬を奉納した。雨壺池は昭和30年頃まで清水が沸いていました。【力石(門左衛門石)】祭礼時、生駒家家臣にこの石を担がせ「ちから」を試し、五穀豊穣を願いました。近年、この石を悪さで近くの水田に投げ込む者があり、今は固定されました。【吉乃御殿跡】社務所は、ほぼ吉乃御殿跡に位置し、信長と吉乃が信忠・信雄・徳姫を授かり、短い家庭的な時期をこの場所で過ごした。【埴原塚】永禄の時代(桶狭間の戦いの頃)、埴原加賀守常安は、八条流馬術の達人で諸国を武者修行中に、織田信長に出会い召し抱えられ、忠動に励み清州城代になる。龍神社の近くに居住していましたが、昭和の土地改良事業で跡形もなく消え、今は由来を記す碑が残る。幣殿前の狛犬、奉納年までは見切れていないけれど、灯篭が天正、元禄の頃とあるので恐らく同年代だろうか。本殿域は近年建て替えられた瑞垣が際立って目立っている。木造社殿の落ち着いた温もりを感じる外観、瓦には龍の文字も誇らしげに入っている。個人的に好きな佇まいをしている。本殿は流造のようですが石垣と瑞垣の高さもあり全体が見て取れない。右手に赤い屋根の社が祀られている。源太夫社吉乃が嫁いだ夫、土田弥平次は明智城の戦いで討ち取られるが、祭神はその土田弥平次だという。いつ頃祭祀されたものか語られていないが、明智城の戦いは1574年(天正12年)とされる。幣殿前からの眺め。灯篭の姿は時代を感じさせるものがある。社務所(鳥居左)は吉乃御殿の跡に建つ、源太夫社は信長と吉乃の逢瀬の場となった吉乃御殿を見据えるように祀られている。その先には吉乃が眠る久昌寺が目の前だ。生駒家の氏神八大竜王を祀り、文殊菩薩を本尊とする智恵の文殊社など神仏習合の香りも漂う龍神社。久昌寺は時代の波に飲まれ消えゆくけれど、龍神社は氏子の手により支えられ、社殿も手が加えられているようです。参拝に訪れた自分ができる事と云えば、僅かばかりの賽銭で応援させてもらうしかない。龍神社(八大龍王社)創建 / 不明(元和8年・1622年再建)祭神 / 八大龍王境内社 / 智恵の文殊社、源太夫社神徳 / 五穀豊穣、村中安全、武運長久、産業興隆、開運招福、病魔除去所在地 / 江南市小折町八竜84番地久昌寺➡神明社➡生駒屋敷跡➡龍神社徒歩ルート / 約10分関連記事 / 嫩桂山久昌寺、生駒屋敷跡・小折城跡、神明社
2021.10.05
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瀬戸市塩草町93 太子山 万徳寺以前掲載した山口八幡社から県道248号線を車で10分程北に鎮座する。万徳寺は尾張名所図会にも記された古刹。上は挿絵に描かれた万徳寺の伽藍で当時から大きな伽藍だったことが窺われる。万徳寺境内北側の眺め。訪れたのは3月31日、境内には春の彩りに溢れていた。万徳寺総門からの全景。総門の右に「聖徳太子尊像安置 太子山 万徳寺」と刻まれた大きな寺号標に視線が行く。太子山 万徳寺。真宗高田派のお寺で本尊は阿弥陀如来。歴史は古く約700年前、親鸞の弟子の海円が武蔵國から三河國今橋に移り住み、加茂郡越戸(現豊田市)に万徳寺を建立したのが始まりとされる。総門をくぐると正面に方型の堂と右に入母屋の本堂。挿絵と比較すると境内に描かれた塀がない以外に伽藍の配置に大きな違いはないようだ。近隣の山は造成され変貌していく中で寺の周囲は当時のまま。歴史のある寺だけに多くの寺宝が受け継がれている。上は瀬戸市教育委員会の解説から抜粋。瀬戸市指定有形文化財(絵画)■名称「聖徳太子絵図」聖徳太子の一代記を年齢・事蹟ごとに4幅に描いたもの。寺伝では1464年(寛正5)、今村城主の松原広長が寺領・田畑及び「聖徳太子伝」5巻と本絵図を寄進と伝える。全4巻のうち1・4幅は15世紀中葉の成立、後補の2・3幅の成立年代は不明、簾槍霞の表現などから江戸時代後半ものとされる。瀬戸市指定有形文化財(典籍)■名称「聖徳太子伝」5冊聖徳太子の伝記で、太子信仰の発展とともに多くの本が書き写されたが、当寺のものは現在残る伝記とは異なる表現とされる。特徴は聖徳太子の年齢により説話を編集され、様々な伝説・口伝が引用される。1464年(寛正5)に松原広長寄進の記述が残る。瀬戸市指定有形文化財(歴史資料)■「松原広長寄進状」一点聖徳太子伝第5冊最終丁に記された松原広長寄進内容の記述を1742年(寛保2)に抜き出した。・1464年(寛正5)万徳寺に一貫400文の収穫がある田畑を寄進。・1742年(寛保2)、円応和尚が聖徳太子伝の虫害による破損を懸念し巻末から抜き出した記述がある。左が太子堂、右が本堂。太子堂正面全景、瓦葺の方型屋根で宝珠露盤から軒先に向け続く三角錐の面が優実な美しさを持っている。左側に二十二夜と刻まれた月待塔が立つ。太子堂に掲げられた「皇太子殿」の額。万徳寺には聖徳太子自作と伝わる聖徳太子孝養像の寺宝がある。加茂郡越戸からこの地に移った当時、挿絵のような立派な伽藍ではなく極規模の小さい太子堂だけの寺院だったとされる事から伽藍の中では一番古くからある。挿絵にある伽藍は今村城主の松原広長の功績によるところが大きい。こうして見る現在の太子堂は1935年(昭和10)に改築の手が入れられたもののようです。当時の瀬戸一帯は長江・松原の二大勢力が鎬を削っていた。この寺に功績を残した松原広長は、後の1482年(文明14)の大槇山の戦いで桑下城主長江利景に敗れ討死します。万徳寺に功績を残した松原広長、月待塔の左に彼の功績を伝える大きな碑が立てられています。また、松原広長の首を納めたとされる松原塚が太子堂左脇にひっそりと建っている。万徳寺では伝統ある祭り「太子まつり」が受け継がれ、1616年(元和2)初代尾張藩主の徳川義直が当寺を参詣、大法会を行った事を機にお祭りが執り行われるようになり以来長きにわたり受け継がれて来た。旧暦の7月22日が太子の縁日にあたるため、今は8月の第4日曜に太子祭りが行われ、その時は山門や太子堂に大行燈や奉納行燈、太子堂の提灯などが吊るされ夏の夜を彩ると云う。本堂。太子堂右にあり入母屋瓦葺の堂々とした姿は挿絵のままの姿を伝えている。向拝下から本堂の山号額「太子山」木鼻に獅子と象が施されているが全体的に飾りの少ない落ち着いた外観。瓦など傷みはなく、本堂も近年補修の手が入っているようだ。手間はかかるけれど木の質感は温もりがあっていいものです。手水舎。こちらも挿絵が描かれた当時のまま。立派な髭を持つ龍、龍口から清水は注がれていなかった。境内右側の鐘楼。挿絵では左に描かれている、この場所に移されたのはそれほど古い事ではなさそうです。松原廣長古公碑。背面の碑文。1968年(昭和43)に建てられたもの。松原塚。彼が厚遇した万徳寺、その境内に広長が鎮まっている。境内左に入母屋の建物がある、挿絵からみると恐らく経蔵と思われる。挿絵ではここから左に坊が描かれているが面影はなかった。庫裏から眺める本堂、太子堂、経堂。背後の樹々と伽藍は今も当時の面影が残ります。境内から東の眺め、猿投山山系を目の前に、左は赤津川、雲興寺方面の山々が広がります。1767年(明和4)の崩落はこの山系の凧山が崩壊したことにより起きたという。新芽が芽吹きだした山々に桜、一年で一番好きな時期ですが、過去にこうした災害があったとは思えない、周囲の景観や道は大きく様変わりしたようです。太子山 万徳寺宗派 / 真宗高田派山号 / 太子山(関尾山)、大正元年(1912)に太子山へ改称創建 / 1288年(正応元年)開基 / 海円本尊 / 阿弥陀如来境内社 / ---札所 / ---所在地 / 瀬戸市塩草町93公共交通機関アクセス / ---車アクセス(山口八幡社から) / 県道248号線を車で10分程北参拝日 / 2022/03/31関連記事 / 桜咲く寺社・「山口八幡社」瀬戸市八幡町
2022.04.27
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八幡奈多(なだ)宮鍋山摩崖仏から県道34号線を約40分程東に進み、伊予灘に面した奈多海岸に向かいます。大分県滞在最終日の最後の訪問地は、奈多海岸に社頭を構える八幡奈多宮です。海岸沿いに続く車道を進むと左手に石灯籠、前方に朱色の神幸橋が見えてくれば、八幡奈多(なだ)宮も近い。神幸橋は車の通行が制限されています、右手の道を進み川を越えた左側に無料駐車場があります。この辺りの松林の切れ目からは目の前に伊予灘の眺望が広がっています。上の写真は海岸に立つ石灯籠です。燈籠の石の表面は海風で風化し、ぼろぼろの状態となっています。右の燈籠の竿には享和(1801~1804)の元号が見られますが、年月は良く読み取れません。この石灯籠は200年以上もこの海岸に立ち続け、その風化の進み具合が神社の歴史を物語っています。上車を駐車場に停め歩いて神幸橋を渡る。下の写真は橋の手前にある礎石で、左右にそれぞれ存在しています。これはかつての橋の名残でしょうか。神社に続く参道は奈多海岸遊歩道の一部でもあり、海岸沿いにこうした遊歩道が伸びています。約6km近く続く海岸線は、南北約3kmにわたって見事な枝ぶりのクロマツの並木が続くそうで、日本の白砂青松100選に選定された風光明媚な海岸です。この海岸には奈多海水浴場と狩宿海水浴場の二つの海水浴場が隣接しており、夏場には賑わいを見せるのだろう。遊歩道を進むと正面に鳥居が現れます。右の松林の中に見えるのが八幡奈多(なだ)宮の社殿となります。石の明神鳥居に掛けられた「奈多神社」扁額。参道を進むと左の砂浜から松林の奥に建つ楼門へ続く主参道が横切っています。そこから主参道を左に進むと、豊後水道を望む美しい砂浜が広がり、少し沖に岩礁が見えます。主参道を右に進むと松林の奥に建つ楼門に続いています。この岩礁は「市杵島」と呼ばれ、その名から分かるように遥か昔、この岩礁に市杵島比売神が降臨したという伝説の伝わる「島」で、八幡奈多宮にとって神聖な場所とされています。訪れた時には写真のように何の変哲もない岩礁帯にしか見えません。しかし、以前はこの岩礁に朱の鳥居が立っていました。2020年9月6日この地を通過した台風10号により八幡奈多宮の朱の鳥居が倒壊し現在の姿になってしまったようです。八幡奈多宮を大分最後の訪問地としたのも、伊予灘を背景に夕陽に照らされた鳥居の姿を拝みたくて訪れました。しかし、よもや市杵島の鳥居が倒壊していたことは知る由もなく、鳥居のない市杵島の姿は多少悔いが残ります。しかし、現在クラウドファンディングを募り、鳥居を再建し以前の神々しい姿を取り戻すべく活動が進んでいます。※2022年11月新たな鳥居が市杵島に再建されたそうで、今は思えばこの光景はレアな絵なのかもしれない。海辺から楼門に続く主参道の眺め。目の前の楼門に続く参道には三つの明神鳥居があり、倒壊した鳥居を一ノ鳥居とするならば楼門までは四ノ鳥居を構える事になります。各鳥居にはそれぞれ狛犬が守護しています。手前のニノ鳥居扁額は「奈多宮」鳥居も狛犬も寄進され間もないのか白く綺麗なものです。ニノ鳥居の狛犬。平成14年(2002)に寄進された狛犬。その先の石灯籠。竿から下の基礎は四つの足が付いたもので普段身近な神社でお目にかからないもの。細かな蓮弁装飾が彫られており、寄進年は読み取れなかったが、かなり以前に寄進されたもののようです。参道からニノ鳥居と市杵島の眺め。一ノ鳥居の姿は…ない。三ノ鳥居と楼門方向の眺め。こちらの鳥居や狛犬はニノ鳥居に比較すると寄進された時期は少し古そうです。三ノ鳥居で参道を守護する昭和2年に寄進された狛犬。小さな体格に不釣り合いとも思える大きな玉に身を委ねた可愛い姿をしているが、しっかりと鋭い牙を持つ。三ノ鳥居から先の参道。左に手水舎、正面に四ノ鳥居と楼門。鉢には絶えることなく清水が注がれていた。四ノ鳥居と楼門。参道の鳥居の中では一番古く寄進されたものだろう、笠木の反りも強く、石の額は「八幡奈多」とある。その先の楼門は市指定文化財で寛永19年(1642)に長岡興長の寄進によるもの。奈多宮の楼門に架けられた額には、「弎〇〇伕」という文字が刻まれています。この文字は「三韓降伏」と読むのだろう。古事記や日本書紀には、夫の仲哀天皇が成し遂げなかったとされる「三韓征伐」を、神功皇后が成し遂げたという伝承がありますが、この額はその伝承を伝えるものなのかもしれません。楼門左にある奈多宮由緒、内容は以下。【御祭神】第一神座 比売大神、第二神座 応神天皇、第三神座 神功皇后。【比売大神発祥の地】・「比売大神は先に国前群奈多沖にある市杵島に示現される」(宇佐八幡御託宣集)故に古来市杵島は比売大神発祥の霊地として祀られ崇敬されている【応神天皇御滞在の地】・称徳天皇天平神護元年(765)、応神天皇は伊予国宇和郡より奈多の浜に御着岸、御滞在の上、ここより宇佐の地に向かわれた。【奈多宮創祀】・聖武天皇の神亀2年(725)宇佐宮が現在の小椋山に創建され、その5年後の天平元年(729)に奈多宮が祀られる。初代大宮司は宇佐宿称公基公本宮の創祀である。【日本最上八幡初中後廟】・永延2年(987)、一条天皇より初中後にわたり最上八幡であると叡感ましまして、「日本最上八幡初中後廟」十字の額を賜る。【宇佐行幸会】・称徳天皇天平神護元年(765)、託宣により壮大な「宇佐行幸会」が創る。勅使が下り、恩赦が行われる国家的行事であった。宇佐宮に於て新しい御神体が奉造されると、旧御神体が比売大神を元宮とする奈多宮に還幸される行幸をいう。【神場行幸会】・卯・酉年、6年に一度、住吉の神場に行幸する。【戦国時代の奈多氏】・奈多鑑基の娘は、大友宗麟の正妻となる。鑑基は大友家の寺社奉行として重きを成す。その子、田原紹忍は宗麟の福臣参謀として活躍する。以上の如く古来皇室、藤原氏の尊崇厚く、繭来、細川、小笠原、松平各藩主に至る迄代々崇敬篤く、広く世人の敬神の念を集めている。明治5年(1872)県社に列せられる。祭日1月元旦 歳旦祭2月11日 建国祭4月5日 例祭(神幸祭)6月30日 大祓8月7日 夏越祭(御船替)10月15日 放生会(中秋祭)11月15日 七五三祭11月23日 新嘗祭12月31日 年越祭」元宮とされる市杵島。由緒には「比売大神は国前群奈多沖にある市杵島に示現される(宇佐八幡御託宣集)、故に古来市杵島は比売大神発祥の霊地として祀られ崇敬されている」とあります。比売大神は、素戔鳴尊と天照大神の誓約により素戔鳴尊から生まれた市杵嶋姫命、多岐津姫命・多紀理姫命の宗像三女神とされ、その降臨地が奈多海岸の沖合約300㍍にある市杵島の岩礁だと言われ、その霊地には小鳥居が建てられ、古来から元宮とされ尊崇されてきました。訪れた際はまだ鳥居は再建されておらず聖域の趣は感じられなかったが、今頃は朱の明神鳥居が立ち朝な夕なには神秘的な光景が見られることだろう。楼門から眺める社殿。こうして見る社殿は文禄5年(1596)に発生した慶長豊後地震の津波で流失し、一時期は仮宮として存続し、寛永4年(1627)、杵築城城代の長岡興長により伽藍の再建が行われ、寛永19年(1642)楼門、鳥居、手水鉢などが建立されました。その後明治14年(1881)に本殿、拝殿、廻廊など修復の手が入れられたものが現在の姿のようです。社殿は八幡造とされ、拝殿には左右の廻廊が接し、後方の幣殿、本殿の姿は廻廊が視界を遮り見通す事は出来ませんでした。比売大神、神功皇后の女神を祀る事から縁結びなどの御神徳があるようです。拝殿と廻廊、写真では切れていますが右側に社務所が立っています。拝殿から左の境内、左手の建物は宝物庫になります。この宝物庫の左から後方にかけて石碑や境内社が祀られています。上は境内左の忠魂碑。下は昭和25年(1950)に奉納された田道間守公像が祀まつられています。垂仁天皇の御代に勅を奉じ、橘を求めて大陸に渡り、10年以上かけて橘を持ち帰った事から橘の始祖と称されるようです。宝物庫後方の境内社。古びた石の明神鳥居が二基立っており、玉垣沿いに多くの石で作られた境内社が祀られています。右手の妙見宮の額が付く鳥居の先に祀られている石の社は「妙見社」、創建等の詳細は不明。もう一つの鳥居には額もなく詳細は分かりません。写真上段右は左から毘沙門天社、大日社、社日社。左は中央が恵比寿社、左右の社は不明。下段右は左から稲荷社、諏訪社、八坂社。左は奥から荒神社、山下社、弁天社。境内社から前方を眺めると本殿域に繋がる四脚の門が見えます。境内を出て表から眺めて見ます。楼門を出て右方向に向かいます。上玉垣の外から宝物庫と門の眺め。下この付近で見かけた石積みの一画、以前は神馬が安置されていたのだろうか。境内から見えていた門の全景、手前には狛犬が守護する。鬣がしっかり彫られ表現された狛犬、寄進年は不明。阿形の頭部が一部欠落し表情が読み取れない、この痛々しい姿は何があったのかねえ。門の左手の松林の中に鎮座する祖霊社が鎮座しています。上祖霊社から遊歩道を更に進むとそこにも写真の鳥居。当日は祭礼かイベントの前準備でも行われていたのか、海岸の松林には白い布があちらこちらに吊るされていた。下…松林の西外れにも鳥居があるようだ、社殿の割には大きな神域を持っているようです。海岸沿いの長大な松並みは地元から愛され、松林の維持、保全活動が積極的に行われているようで、松ぼっくりや下草取り、清掃活動も盛んに行われているようです。松の株一本一本にタグが付けられ、松くい虫の駆除薬や成長度合いなど個別にモニタリングされているようです。目の前が海水浴場という事もあり、この松並みはいい木陰を提供してくれる事だろう。夕焼けの迫る伊予灘に面した綺麗な砂浜、ここまで来ると大分空港も目と鼻の先。大分県の一之宮を巡る楽しい三日間の旅も間もなく終わり。夕陽に染まる市杵島と朱の鳥居は見られなかったが、順調に終えられそうに思えたが、ここから少し歯車は噛み合わなくなっていたようです。八幡奈多(なだ)宮創建 / 神亀6年(729)祭神 / 比売大神、応神天皇、神功皇后境内社 / 妙見社、毘沙門天社、大日社、社日社、恵比寿社、稲荷社、諏訪社、八坂社、荒神社、山下社、弁天社、祖霊社。所在地 / 大分県杵築市大字奈多229参拝日 / 2022/10/28鍋山摩崖仏から八幡奈多宮 / 県道34号線、国道213号線経由35分関連記事 / 国東半島の風土と文化が育んだ『鍋山摩崖仏』、大分県(湯布院・宇佐神宮)一之宮巡りDAY4
2023.02.26
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有馬稲荷神社からたんさん坂方向に下り、有馬六彩の裏口方向に向かう。有馬六彩の裏口から敷地内に入って右側に足湯があり、その脇に有馬稲荷神社の解説と杉ヶ谷行宮跡の碑があります。杉ヶ谷行宮跡。有馬稲荷神社の始まりの地は、現在は遺構もなく石碑が残るだけで、奥は有馬六彩の庭園となっています。たんさん坂を隔てた向かいに赤い鳥居が見えますが、三ツ森 炭酸泉店の私設神社と思われる「湯山稲荷大明神」になります。炭酸泉源広場入口。有馬六彩の裏口のほゞ正面にあり、訪れた当日は二段になった敷地に紫陽花が見られました。入口から公園に入ると左側に泉質の影響を受けた鉄錆色の噴泉地があります。ここについては自噴なのか機械仕掛けなのか定かではないが、写真の様に結構な勢いで噴き出していました。炭酸泉源建屋全景。入口から一段上がったところに建てられており、自然からの恵みをもたらす源に相応しい覆屋がたてられています。建屋内の泉源。ここも酸化鉄の色に染まっています。立山左の炭酸泉源と石碑。炭酸煎餅を産んだ源泉で、昔は温泉に砂糖を溶かしサイダーとして飲まれていた。飲適なんだろう、手前の蛇口をひねれば炭酸泉を飲むこともできます。味わってみたが、今ほど舌が肥えていない時代にはサイダーとして珍重されただろう。……僅かに鉄分と炭酸を感じる生温いもので、今どきの子供はこれでは喜ばないだろう。公園南側にある炭酸泉源の解説。古くは毒水と呼ばれ近づく者すらいなかった云う、梶木源次郎がその湯の成分分析を受け毒水から炭酸泉として認知される様になったのが明治6年の事だという。解説の脇に梶木源次郎の功績を称えた石碑が建てられている。炭酸泉源公園所在地 / 神戸市北区有馬町字杉ヶ谷1325-1三ツ森 炭酸泉店。炭酸泉源公園の向かいにある元祖炭酸せんべいの老舗。炭酸煎餅の始まりは創業者三津繁松氏が明治末期に製造、販売したのが始まりで、これを機に有馬の町に炭酸煎餅が広まっていった。店内では製造現場の見学や試食も出来ます。菓子に目のないかみさんは、早速店内に吸い込まれていきました。湯山稲荷大明神。店舗の入口に祀られているもので、調べて見るが情報は出てこなかった。敷地内という事で三ツ森の私設神社だと思われます。狐の姿は見られないが、炭酸泉を育む自然に対する畏敬の念と商売繁盛を祈願して祀られたものだろう。人工甘味料や着香料、着色料にどっぷり浸かってきたものから見ると、炭酸煎餅は自然素材のみで作られた昔懐かしい素朴な味わいの有馬名物です。三ツ森 炭酸泉店所在地 / 神戸市北区有馬町872-1有馬温泉駅から徒歩ルート / 有馬稲荷神社➡舒明天皇杉ヶ谷行宮跡➡炭酸源泉公園➡湯山稲荷大明神関連記事 / ・神戸市北区有馬町「有馬稲荷神社」・有馬温泉 有馬六彩
2023.09.02
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小牧市多気中町の多気十二柱神社。前回まで掲載した多気神社から徒歩で南西に5分程の県道165号線多気交差点の東角に鎮座します。この神社のシンボルは写真左の大きな椎木が挙げられます。この樹は樹齢約300年以上とも推定され、高さ約15㍍、幹周り約5㍍を越えると思われ、一つの幹のように見えますが、根元から少し上から二つに分かれ、其々が大きく枝を張り、ひとつの落下傘ような見事な樹形をしており、そうした姿から「夫婦シイ」と呼ばれるようで、縁結びや夫婦円満のご利益があるとも云われる。大正14年(1925)に寄進された石造神明鳥居の右に大きな社標が立ち、鳥居から続く参道の先に木造の蕃塀と拝殿の屋根が見える。椎木の解説は以下。「多気十二柱神社のシイノキ一樹平成11年(1999)4月23日指定シイノキは暖地の天然林を構成する樹種で、古い社寺叢に保護温存されている。このシイノキは樹高約15㍍、胸高5.1㍍を測り、根元から2㍍程の高さで幹が二つに分かれている。都内屈指の巨木で、樹齢は約300年以上と推定され、風格を備え、樹冠を落下傘状に美しく広げて雄姿を誇っている。天然記念物として、また、ふるさとの緑のシンボルとして、末永く親しまれ、生き続けるように保護したい。」とある。参道から蕃塀と社殿の眺め。十二柱神社由緒当神社は十二の祭神を祀ったことから十二神社(村社)として命名された。1.創建年 宝永二年(1705)三月二日 天皇 東山天皇・中御門天皇 将軍 徳川綱吉、家宣の時代に春日井郡大気村 杜人・加藤与太丈利政の立ち合いのもと奉遷、十二所権現建立社頭康栄祈所として定まり、時代の変遷 を経て来た中を、代々の氏子達が神社を守り抜き、大正十四年(1925)十月に祭文殿・拝殿の新築ととも に石材造築され、現在に至る。 拝殿北側には天神社(菅原道真)が祀られており、祭礼が十月二十二日と定められている。2.祀ってある十二の祭神・伊弉那岐命(男性の神)・伊弉那美命(女性の神)・天照皇大神命(天皇皇室の神・日本民族の総氏神)・忽穂耳命(天照皇大神命の弟:威力のある稲穂の神・日本神話の中心的な神)・瓊々岐命(平和を司る神)・火々出見命(山の幸の神)・鵜草葺不合命(記紀神様に登場する神)・火具津智士(火の神) ・金山姫命 ((鉱山の神:鋳物・刃物の神:金運厄除けの神) ・埴山姫命(土の神)・罔象女神(水の女神)・旬々能知命(木の神)諸々罪・穢れ・災難・家内安全・繁栄・健康祈願等々を願い、先祖より「畏敬の念を持ち」鎮守の杜として、代々引き継がれ現在に至る。社叢内のシイの木(推定樹齢300年以上)は1999年4月23日小牧市天然記念物に指定。神社創建年前よりここに根付いており、歴史の証人として神社同様、かけがえの無い宝物として手厚く護られている。西暦2014年、後世に語り継いで行く為に、此処に掲げたものである。 氏子一同」 この木造番塀は控柱を備えた三間のもので、各間の下半分は腰板が張られ、上は連子窓が入れられたもの。祭文殿・拝殿は大正十四年(1925)の新築、その後に手が入れられているのか築100年とは思えない状態で維持されている。拝殿右、写真の左奥に境内社が祀られています。社殿全景。拝殿は切妻瓦葺の吹き抜け拝殿で、全体的に奇をてらった意匠はあまり施されていない。境内社。西春日井郡誌に目を通すも天神社以外の記載はなく、三社のどれが天神社(菅原道真)で、他の二社がなになのか詳細は不明。本殿域を取り囲む透かし塀は祭文殿と一体となり、手前に一対の狛犬が守護している。祭文殿前を守護する狛犬(寄進年未確認)、吽形の足元に子を伴っている。本殿は神明造のようで、4本の鰹木が見えるが千木までは確認できなかった。この一つの社に十二柱が祀られています。拝殿から社頭の眺め、穏やかになれない俗世を蕃塀が遮ってくれている。蕃塀から社頭の眺め。陽光に満ち溢れ一見明るく輝いているが、増税メガネや長年与党として胡坐をかき、先を見据えた対策も取れなかった結果が招いた日没間際の俗世が見えて来た。多気 十二柱神社創建 / 宝永二年(1705)祭神 / 伊弉那岐命、伊弉那美命、天照皇大神命、忽穂耳命、瓊々岐命、火々出見命、鵜草葺不合命、火具津智士、金山姫命、埴山姫命、罔象女神、旬々能知命境内社 / 天神社、他所在地 / 小牧市多気中町232参拝日 / 2023/10/10多気神社から多気十二柱神社 / 徒歩5分程関連記事 /・多気神社 ・坂庭(さかにわ)神社
2023.11.01
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浄土宗「浄土院」本尊は阿弥陀如来像創建、由来を伝えるものがなく詳細は不明山門左の子育地蔵境内全景、こじんまりとしたお寺です穏やかな表情の23代和尚の銅像境内左奥にある水子地蔵尊夕陽を浴びて表情が浮かび上がる地蔵住所 愛知県名古屋市守山区大屋敷13-75アクセス ゆとりーとライン「金屋」下車徒歩約20分
2017.03.16
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吉備津彦神社から中山を車で5分程走り、西の麓に回り込むだけで、備中国一ノ宮「吉備津神社」到着です。二つの国の一ノ宮が中山を境に背中合わせで鎮座する形になります。売店の前の駐車場に車を停め、右方向に歩けば「吉備津神社」の社頭です。売店の前の道路を挟み、向かいに手水舎、手水鉢が見えています。その右手に苔むした石がありますが「矢置岩」というそうです。矢置岩の由来「社伝によれば、当社の西北8㌔の新山に温羅という鬼神あり、凶暴にして庶民を苦しむ。大吉備津彦命は「吉備の中山」に陣取り、鬼神と互いに弓矢射るに両方の矢、空中に衝突して落つ。そこに矢喰宮あり。また中山の主神は鬼神の矢を空中に奪取す。当社本殿の中に祀る矢取明神はすなはちそれなり。この戦いのとき大吉備津彦命その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶ と。旧記によれば中古より箭祭の神事あり。願主は櫻羽矢または白羽の矢を献る。神官その矢を岩上に立てて交通の安全を祈る。のちその矢を御蔵矢神社に納むる例なりき と。この神事いつしか中絶せしが昭和35年岡山県弓道連盟の奉仕により復活され、毎年正月3日ここに矢立の神事を斎行することとなれり。」ここから北西の鬼の城跡に鬼の陣があり、中山に陣を取った桃太郎がこの岩に矢を置き壮絶な戦いを演じたと、戦いで放たれた矢同士が衝突し落ちた所に矢喰宮ができ、鬼が放った矢を奪いそれを祀ったのが矢取明神。ということの様で、どちらも脅威の飛距離と精度があったようです。矢置岩の右の注連縄鳥居の先に緩やかな石段が伸び、その先に赤い髄神門が見えています。この石段を登り切ると重要文化財の「北随神門」のある境内となります。入母屋檜皮葺で朱と壁の白のコントラストが印象的なこの門は室町時代中期に再建されたとされる。この門をくぐると目の前に拝殿へ続く石段があります。石段の先は拝殿へと続く、視線の先に「吉備津宮」の額と菊紋の入った赤い提灯が見える。拝殿前から北随神門を眺める、間近にある檜皮葺の屋根が眼下に見える程、石段の傾斜はきつい。提灯の裏側は桐紋。拝殿の「平賊安民」の額。賊(鬼)を退治し、民に平安をもたらすということでいいのか。勝てば官軍、負ければ賊軍。負けた温羅は伝説の鬼になった。大きな額が掲げられ、拝殿内には白と緑の御幣が見える。主祭神は大吉備津彦命を祀り、相殿神に御友別命、仲彦命、千々速比売命、倭迹迹日百襲姫命、日子刺肩別命、倭迹迹日稚屋媛命、彦寤間命、若日子建吉備津日子命が祀られる。神社の創建は仁徳天皇が命じたとか、大吉備津彦命の子孫の加夜臣奈留美命が創建したのではとか諸説あり不明の様ですが、備中国一ノ宮に相応しい長い歴史を持った神社である事に間違いはない。参拝。上拝殿の右から本殿と沿うように山の起伏のままに「廻廊」が伸びる。下その途中の「南随神門」から廻廊の眺め、こちらの門は北随神門の姿に似ており、屋根が瓦葺。1357年(延文2)の再建で吉備津彦神社の伽藍の中では最古の建造物。廻廊の屋根があり、門の全景を撮り忘れてしまったようです。廻廊を下に進みます、左手の斜面に複数の社が建てられています。「吉備津えびす宮」明治時代に一度は荒廃に陥ったそうですが、後に崇敬者によりこの場所に新築されたもの。廻廊の右側の神池の小島に建つ赤い社は「宇賀神社」。商売の神で吉備国最古の吉備神が祀られているという。「岩山宮」廻廊から鳥居をくぐり、吉備の中山の山腹に続く石段の先に鎮座する。入母屋瓦葺の向拝が付けられた小さな社です、吉備国の地主神が祀られている。祭神 / 建日分別神社の前には廻廊を下に見ながら平行するように参道が整備され、斜面に建つ社を参拝して回れます。廻廊まで上り下りしなくてもいいのは有難い。左が「祖霊社」、右は「水子慰霊社」。参道を更に進むと赤い社が三つ祀られています、左から春日宮、大神宮、八幡宮と並び、これら合わせて「三社宮」と呼ぶようです。拝殿から続くこの廻廊は境内南の南本宮社まで真っすぐに続きます。1579年(天正7)に再建されたもので、長さは360㍍にもおよび、途中のお釜殿(現在covid-19対策で鳴釜神事は中止中)や御供殿などに続く廻廊が接続します。廻廊南口の旧社務所付近の狛犬。額中央に角があるもので、苔むして落ち着き払った風貌は貫禄すら漂う。南社頭から正面の本宮社方向の眺め。右に社号標とその先に注連縄鳥居がある。「本宮社」切妻瓦葺の平入拝殿で本殿は流造、廻廊はここまで続きます。御崎社、新宮社、本宮社、内宮社、御崎社の五社相殿で、吉備津五所大明神(本社正宮、本宮社、新宮社、内宮社、岩山宮)のうち、本宮社と新宮社、内宮社の三社が合祀されている。祭神 / 孝霊天皇・吉備武彦命・百田弓矢姫命安産と子育ての神として崇敬されているようです。本宮社の守護にあたる狛犬は南社頭の落ち着いた狛犬に比べ小柄で躍動感のある姿。玉取り、子取りで対の狛犬は良く見かけますが、こちらは阿形吽形共に小さな体に見合わない大きな球を持っています。玉や子が施されるには子孫繁栄であり、物事うまく転がるようにとか諸説あります。そこには先人の思いが込められているようです。COVID-19との長い付き合いを求められる現在であれば、丸い球にトゲトゲのついた玉がお目見えする事になるやも。本宮社後方から拝殿方向の眺め、左に赤い社が見えます。急峻な山肌にへばりつくように建つ社は「瀧祭宮」。社の台座の下に二つ樋があり、山肌から湧き出る地下水がここから流れ出て二筋の滝になります。ようやく咲き始めた桜、この時期では湧水も枯れているようで、滝のように流れ出る光景は見られませんでした。ここが境内の南端と云ってもいいでしょう。ここから梅林や紫陽花園を経て本殿方向に戻ります。岩山宮の前を過ぎ本殿に向かう途中の巨樹に視線が止まる、その脇には小さな宝塔が建っています。「如法経塔」中山には多くの遺物遺跡が多く点在しますが、神社の古図に如法経塔と記され、神仏習合時代の名残を伝えるもの。現在も経が納められているのか定かではありませんが、室町時代のものではないかとされます。参道を進むと鳥居が現れ、その先に「一童社」の社殿が見えてきます。学問、芸能の神様を祀り、江戸時代より崇敬され続けているそうです。合格祈願の絵馬が掛けられていました。上一童社拝殿全景、願いが叶った報告に再び訪れ、達磨を納め感謝を伝える。下一童社の右にある蔵造りの建物。五三の桐紋が掲げられているけれど詳細は不明。一童社の先は一段下がり本殿域が広がり、目の前には個性的で複雑な屋根を持つ本殿が間近に見られます。比翼入母屋造と呼ばれ、他に類を見ない造から吉備津造とも云われます。檜皮葺の入母屋造に二つの棟が連なり、本殿と拝殿が一つとなり、威厳と優美さを併せ持つ姿を形作っています。この大きさは八坂神社に次ぐ大きさを誇るようです。また、土台となる白い部分は白漆喰で作られた亀腹と呼ばれ、その上に建てられています。素木の本殿ですが、その昔は朱塗りだったともいわれます、亀腹の白と朱塗りの本殿、結構派手だったのかもしれません。二つの棟に施された外研ぎの千木と二本の鰹木。金色の飾り金具が施されているけれど、過度に使われていないので落ち着いた外観。屋根は軒に向け曲線を描き反って行きます。現在の本殿、拝殿は1425年(応永32)に再建されたもの。主祭神 / 大吉備津彦命大吉備津彦命は281歳で亡くなり、中山頂きに葬られますが、そうした事から延命長寿の守護神として、厄除け、家内安全、病気平癒、子育て守護、産業興隆のご利益を授かりに訪れる参拝客は絶えない。本殿域の東に祈祷殿、その左は祈祷殿を凌ぐ高さを誇る大イチョウ、樹齢は600年を超えるともいわれるそうです。落葉の頃は境内に黄色の絨毯を敷き詰めたようになるのではないでしょうか。大イチョウの左の社務所、ここから再び石段があり、北随神門に至ります。北随神門と拝殿のある授与所方向の眺め。これで右の石段から拝殿、回廊、本殿とぐるっと一周した事になります。一ノ宮に相応しい大きな境内と美しい本殿を持った、桃太郎伝説の伝わる神社です。備中国一ノ宮「吉備津神社」創建 / 不明祭神 / 大吉備津彦命本殿 / 吉備津造境内社 / 一童社、岩山宮、えびす宮、祖霊社、水子慰霊社、三社宮、本宮社、瀧祭神社、宇賀神社住所 / 岡山県岡山市北区吉備津931※3/23時点ではお釜殿の神事はや御朱印はCOVID-19対策から開場、御朱印は16時まででしたが現在神事は休止されています。 御朱印についても確認される事をお勧めします。因みに、我が家が辿り着いたのは16時を過ぎており御朱印は終了していました、吉備の國一ノ宮御朱印はまたの課題です。
2020.04.27
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堀ノ内町の神明神社から南西に徒歩15分、町名は変りこのあたりは熊野町になります。何でしょうね、このあたりの町名の由来はとてもイメージしやすい。熊野町となれば熊野神社があるの?、期待を裏切る事はなかった。本店をはじめ支店や出張所が全国に数千とある熊野神社、さぞかし立派な支店なのだろうと勝手に期待していた、しかし訪れるとそれは過度な期待で出張所的な趣だった。ここ熊野町には多宝塔で知られる密蔵院もあるが、敢えて熊野と付いたからには何かあるのだろう。神社は南向きに鳥居を構え、その先に切妻瓦葺の拝殿が見える。社号標は社頭右にあり、それには大正と刻まれています、その奥に熊野神社の縁起が建っています。『熊野神社縁起』所在 篠木村大字熊野字中間1349番祭神 速玉男命、伊弉册命、事解男命例祭日 10月18日由緒 社伝明らかならず、されど養老2年(718)創建の由言い伝えり。かくて延長7年(929)社殿を再建し、及び明和5年(1766)11月改築。明治元年(1867)9月にも社殿の再建が計られた。宝物 棟札 天和2年丙辰菊月19日 一枚境内 1145坪境内神社 伊豆社 祭神 / 火牟須比命、津島社 祭神 / 須佐之男命、白山社 祭神 / 菊理媛命稲荷社 祭神 / 倉稲魂命、神明社 祭神 / 天照大御神、熱田社 祭神 / 熱田大神、富士社 祭神 / 木花之佐久夜毘売命、金刀比羅社 祭神 / 大国主命、戸隠神社 祭神 / 天手力雄命、愛宕社 祭神 / 加具槌命縁起がしっかりと記され、気まぐれに訪れた者にはとても分かりやすい。慎ましやかな神社の外観から想像できない長い歴史を持つ神社の様です。拝殿は切妻瓦葺の四方吹き抜けのこぢんまりしたものです。拝殿から本殿。左右に複数の社が祀られているようです。熊野神社と彫られた鬼瓦。こぢんまりとした拝殿ですが、妻側に躍動感のある龍の彫飾りが施されています。拝殿全周に想像上の動物、猪や鼠など彫られています。拝殿内から本殿の眺め。苔むした狛犬が守護する本殿域全景。本殿は銅葺屋根の流造で左右それぞれに2社が並んでいます。奉納年度が違うのか左右の燈籠は竿の形が違います。愛嬌のある狛犬、表情は二タッと笑っているようでもある。本殿。創建 / 718年(養老2)の言い伝え祭神 / 速玉男命、伊弉册命、事解男命パッと見飾り気がないけれどよく見て行くと木鼻や虹梁には龍や獏など飾りが施されています。左の二つの社、しっかり社名札が掲げられ悩まなくてすみます。左の小さな社に愛宕社、戸隠神社、金刀比羅社。右の社が冨士社、熱田社。右の二つの社。左の社に神明社と稲荷社、右の社に白山社、伊豆社、津島社。一番右に小さな石標、初めは石上様かと思っていましたが、随分と時を経て風化していますが、よく見ると地蔵か観音様らしき姿が見える。由緒にある所在地の篠木村大字熊野字中間旧住所で表記されています。篠木村はかつての荘園篠木荘からきています、1878年(明治11)近隣の名栗、牛毛、野田の三つの村が合併し、熊野村となったらしく、その際に三つの村の氏神の熊野神社から名を取ったようです。縁起にある1682年(天和2)の棟札が【宝物】と記されているように、古くからこの辺りの人々に受け継がれてきた、その歴史こそ熊野町の宝物なのだろう。思い描いた立派な趣とは違ったけれど、見た目とかけ離れた強いつながりを感じる熊野神社です。2020/5/31熊野神社創建 / 718年(養老2)の言い伝え祭神 / 速玉男命、伊弉册命、事解男命境内社 / 愛宕社、戸隠神社、金刀比羅社、冨士社、熱田社、神明社、稲荷社、白山社、伊豆社、津島社住所 / 春日井市熊野町1349公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅下車南西に徒歩で25分程関連記事 / 神明神社 密蔵院 高御堂古墳
2020.06.11
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東京の方にはお馴染みの芝公園増上寺を訪れる。それはCOVID-19が身近な存在として感じ始めた2月の事。ビル街に忽然と増上寺の表門である大門が現れる。この門は旧大門の老朽化に伴い、昭和12年にオリジナルを踏襲し、1.5倍の大きさにして再建されたコンクリート製の高麗門。面白いのは過去に困窮していた増上寺はこの門の所有権を当時の東京府に寄付したそうです。その後も所有権は東京都にあったようです、一時困窮していた増上寺も寺勢を取り戻し、門の返却を求めたそうですが、いつからか台帳から抜け落ち、門の所有権が誰のものか不明となっていたそうです。2016年漸く元の増上寺に返還されたもの。ありがちな話かもしれない。大門の先には赤い三解脱門と東京タワー。新と旧のシンボルが一枚に収まるのも東京ならではの光景。三解脱門の右に大きな寺号標。「三解脱門」増上寺の顔と云ってもいいだろう、3つの煩悩から解脱する門で、三つの煩悩とは「むさぼり、いかり、おろかさ」だとゆう。重要文化財に指定されている三解脱門、建立は1622年(元和8)に建立されて再建されたものという。重厚な瓦葺の二層の門で山号額は「三縁山」、楼上には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています赤門だね。境内マップ。創建は1393年(明徳4)と600年以上の歴史を持つ寺ですが、空襲をはじめ幾度となく伽藍は焼失し、その都度再建され現在に至っています。なので古い建造物は少ない。三解脱門をくぐった境内の左に手水舎。もとは増上寺裏手の6代将軍家宣の父親、徳川綱重の霊廟にあったもの。空襲の被害を免れ、焼失し再建される前の霊廟建築の名残を伝えるものです。三解脱門を入ってすぐに「グラント松」と呼ばれる大きな松が聳えています。1879年(明治12)、アメリカ第18代大統領グラント将軍が国賓として招かれ、増上寺に参拝した記念にこの樹を植えたそうです。松と呼ぶには一風かわった大樹である。スギといってもいいだろう。正式名称はヒマラヤスギ、杉は松科だそうで、グラントさんが植えた松なんです。聖鋏観音菩薩像。1981年(昭和56)に建立されたもの、美容師の使う鋏の供養塚があるようです。境内右に入母屋瓦葺の鐘楼。東日本最大の大きさを誇るのだそうだ。梵鐘は大きい。1673年(延宝元)に鋳造されたもので、その大きさ故に7回の鋳造を経たそうです。再鋳の話はないようなので供出は免れたのでしょう。300年以上を経て、今も朝夕の二回時を知らせています。仏足石と聖観世音菩薩像。仏足石は1881年(明治14)に建石されたもので、所謂仏様の足型が刻まれ、これを礼拝するもの。二月の空に聳える東京タワーと大殿。左手に増上寺会館と光摂殿。光摂殿は2000年(平成12)に建立されたもので、天井には色彩も鮮やかな天井画が描かれています。大殿戦災で焼失、1974年(昭和49)に再建されたもので、室町時代に作られた本尊の阿弥陀如来、脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の像が祀られています。地下に宝物展示室(@700円)がある。増上寺は1393年(明徳4)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開かれたとされます。三河から江戸に領地替えを命じられ、この地を治める事となった家康は1590年(天正18)に増上寺を徳川家菩提寺に定め、移行幕府から厚遇を受けることになります。家康は晩年に「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」と言い残し、1616年(元和2)75歳で歿しました。そのこともあり、往事の増上寺は日光東照宮を彷彿とさせる程に絢爛豪華な作りだったとされます。増上寺大殿扁額と火焔太鼓太陽(右)と火焔太鼓月(左)。大殿右の「安国殿」空襲で焼失した大殿に代わり、仮本堂としていた建物。1974年(昭和49)、現在の大殿完成際に現在の位置に移転されたもの。2011年に(平成23)に再建されたもの、内部には黒本尊が安置され、年三回御開帳されるそうです。大殿から見た「安国殿」側面。安国殿右にある千躰子育地蔵菩薩と西向観音。鎌倉時代、北条時頼が現在の東京タワーの建つ観音山に堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまを安置し、子育て・安産に霊験あらたかと伝えられています。1975年(昭和50)に現在の安国殿前に遷座、1980年(昭和55)に観音堂落成。江戸三十三観音札所というものがあるようで、その21番札所。「千躰子育地蔵尊」。子供の健康と成長を願って安置され、赤い帽子を被り、赤い前掛けをかけられ、その手には風車を持つ、愛くるしい表情のお地蔵さまがずらりと並んでいます。子や孫の成長を祈る親の気持ちの数が現れています。このお地蔵様に導かれる様に奥に進むと徳川家霊廟に続きます。安国殿後方にある徳川家霊廟。二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の歴代将軍とその側室、子供の墓所。以前は墓所、本殿、拝殿を持ち東照宮で見られるように当時の技術の粋を結集した壮麗なもので国宝に指定されるほどだったそうです。それも空襲で被災、焼失を免れた一部も国宝指定を解除されたそうです。正面の門は鋳抜門と呼ばれ、旧国宝指定のもの。六代家宣の霊廟の宝塔の前で中門として建っていたものを再建後こちらに移設したそうです。青銅製の扉には片側に5つの葵の紋が入り、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれており、往事を忍ぶ数少ない遺構。緑青で見辛いものの、雲海にうねる龍が見て取れます。霊廟前に四体の菩薩像。港区の文化財に指定されている。右から普賢菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩と並び、1258年(正嘉2)の作とされる。熊野神社境内に入り、右外れに鎮座する。八咫烏の彫られた手水鉢。天照大神の使いで、荒れすさぶる中で東征中に道に迷った神武天皇を導いたとされる。熊野神社境内から鳥居方向の眺め。御神体熊野本宮大社 / 家津御子大神熊野那智大社 / 大己貴命熊野那智大社熊野速玉大社 / 伊弉諾尊。1624年(元和10)、当寺の第十三世正誉廓山上人が増上寺鎮守として熊野権現を東北の鬼門に勧請したのが始まりとされる。由来には「増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う、縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。」とある。『熊野』はクマノ、ユヤと二通りの呼称があるそうで、こちらでは「ユヤ」権現と呼ばれ親しまれているそうです。なのでユヤ神社と呼ぶのが正しいのだろう。ユヤ神社から見た三解脱門。神仏分離の影響だろう、神社の玉垣と大きなクスノキで寺領と分けられてはいる。黒門三解脱門の南隣りに建ち、1648~1652年(慶安年間)、三代将軍家光により寄進、建立されたとされます。もとは増上寺方丈の表門だったそうで、1980年(昭和55)に通用門として日比谷通り沿いに移築されたと云う。以前は黒漆が塗られていた事から黒門と呼ばれるが、現在はこのような色合いです。細部に彩色されていた痕跡が残ります、シックな黒地の門に施された鮮やかな彩色はきっと美しかったに違いない。黒門を出て徒歩で右に1~2分行くと幹右側に旧台徳院霊廟惣門がある。江戸幕府第2代将軍秀忠の霊廟の惣門として1632年(寛永9)に建築されたもので、秀忠の戒名、台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士に因み、台徳院霊廟といわれ、戦前は本殿、拝殿、宝塔など江戸当時の伽藍があったが空襲により伽藍を焼失、唯一被災を免れたのがこの惣門。被災前の伽藍は当時の国宝に指定されていたが、焼失に伴い指定解除、現存するこの門が重要文化財に指定されている。現在はホテルの敷地内ですが、往事はこの門の先に伽藍が広がっていた。それもつい最近の事です。綿々と受け継がれてきた物を消し去る事は一瞬です。2020/02/20大本山 増上寺創建 / 1393年(明徳4)山号 / 三縁山宗派 / 浄土宗本尊 / 阿弥陀如来・南無阿弥陀仏住所 / 東京都港区芝公園4-7-35公共交通機関アクセス / 都営地下鉄芝公園駅から徒歩で3分 他関連記事 / 久能山東照宮、大樹寺
2020.06.29
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熱田神宮境内摂社 南新宮社熱田神宮境内には本宮、別宮(一社)、摂社(八社)、末社(十九社)が祀られています。南新宮社はその中の一つ。先に記載した境内摂社「日割御子神社」の右から北に続く細い小道があります。そこを進むと南新宮社に至ります。一旦参道入口に戻り南新宮社全景。熱田神宮にあって朱塗りの社殿は南新宮社が唯一無二の存在です。南新宮社と同じ西を向いて小振りな社と左に南向きに一社が祀られています。入口左の大きな春日燈籠。赤い社の佇まいは牛頭天王を祀る天王社の趣がありますが、こちらの祭神は「八坂神社」に祀られる神、素盞嗚命を祀ります。創建は1000年(長保2)とも1023年(治安3)とも云われ諸説あるようです。熱田神宮本宮は現在地の北西100㍍ほどに鎮座していたけれど、1893年(明治26)にそれまでの尾張造りから神明造に改められ現在地に移されます。その社殿は後の空襲で焼失、再建を経たものが現在の姿。先に掲載した新宮坂神社、その前を緩やかに東に下る坂を新宮坂と称した事、南新宮社だけが丹塗りの流造、移転や戦災の被害を受けなかったという事だろうか?そうだとすると熱田神宮にあって一番古い歴史的建造物だと云えます。確かに社の後方は新宮坂神社辺りのようです。現在新宮坂から熱田神宮境内の南新宮社に繋がる参道ないけれど、1878年新宮坂町となる以前はひょっとすると繋がっていたのかもしれません。上は尾張名所図会の南新宮社(赤丸)、そこには新宮坂の記載と鳥居が描かれています。その昔、京の都で蔓延した流行病を鎮めるために「京都祇園まつり」が始まったように、ここ熱田でも疫病が蔓延したと云います。当時の事なので禍をもたらす神がいて、それを鎮めるために南新宮社が祀られたとも云われます。疫病をもたらす疫神を鎮め、送る目的から人々が集まり、旗鉾で祓り鎮めた祭(大山祭・天王祭・祇園祭)が生まれ、平安時代から現在まで受け継がれてきました。その様子は尾張名所図会にも描かれていました。毎年6月5日南新宮社例祭、熱田祭として行われていますが、当時運航していた旗鉾や山車は廃止されていったようです。左側の社は熱田神宮境内末社の「八子社」須佐之男命と天照大御神の誓約にから生まれた五柱の男神と三柱の女神を祀る。熱田神宮境内末社 「曽志茂利社」祭神は居茂利大神(素盞嗚尊)、唯一南を向いて祀られています。境内摂社 南新宮社 創建 / 不明 祭神 / 素盞嗚尊 末社 八子社祭神 / 天忍穂耳尊、熊野櫲樟日命、天穂日命、田心姫命、天津彦根命、市杵島姫命、活津彦根命、湍津姫命末社 曽志茂利社祭神 / 居茂利大神(素盞嗚尊) 住所 / 名古屋市熱田区神宮1 公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車徒歩10分程関連記事 / 新宮坂神社、日割御子神社
2020.09.07
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岐阜県郡上市和良町宮地国道41号線を下呂から飛騨川沿いに下り、保井田交差点で右折し長いトンネル(ささゆりトンネル)の国道256線を和良川沿いに郡上方向に向かいます。やがて和良の集落に入ると国道沿いに「戸隠神社」の看板が目に止まり立ち寄ってみました。41号線からここまで20分もかかっていなかったと思います。釣り好きな方はご存知の和良川が町の中心を流れ、豊な森は川を育み渓流魚のみならずサンショウウオやムササビ、ヘビやクマも当然いる。自然豊かな地域。道はこの先で二手に別れ、直進すれば郡上、右に行けば名宝へと続きます。今はトンネルも出来、道路事情が格段に良くなったけれど、周囲を山に囲まれた山間地、どこに行くにも山越えで厳冬期は大変だったことだろう、まさに山郷。社頭全景山間地の山里に真っすぐ伸びる参道、長閑な田舎の神社そのもの。国道沿いの社号標と解説板、参道の左にそそり立つ大きな杉が目印か。参道の遥か先に赤い鳥居も見えています。社頭の解説と後方の大木は戸隠神社の一本杉・1874年(明治7)に戸隠神社に改称された、以前は九頭宮と呼ばれた。・938年(平安後期)の美濃国神名帳に郡上郡七社のうちの1社「正六位上 国津明神」と記録が残る。・郡上藩主の橘頼綱が国土安泰と戦勝祈願のために1272年(文永8)~1275年(建治元年)に亘り、大般若経600巻を写経奉納された。・大般若経の奥書の「九頭大明神御宝前」の記述が当時から既に九頭宮が存在していた事を示す。・1569年(永禄12)、三木自綱が郡上へ侵入、戦利品として河尻新之亟利廣が飛騨に持ち去り千光寺(大野郡丹生川村)に寄進した、現在戸隠神社には残簡一部が存在する。・1594年(文禄3)落雷により本殿、その他を焼失するが、1607年(慶長12)郡上藩主の遠藤慶隆によって社殿等再建。・郷中盛衰記の1840年(天保11)に和良街道道筋の大社として記されている。・1960年(昭和35)銀幣社に指定。祭神・手力雄命・境内別社に御鍬社があり、1682年(天和2)の御鍬神廻国以来の歴史があり、祭神は豊受大神を祀る。例祭・10月前日土曜日、第二日曜日天然記念物・重ね岩、社叢、一本杉主な文化財・棟札等20枚、大般若経残簡、棟飾り一式、軍配一式・ 振板獅子頭二体、山犬狛一対、金泥馬酌一対、本殿金銅製御幣、九頭大明神篇額、十二支浮彫、鰐口・御神輿一式、舞台二棟創建時期は不明ですが938年(平安後期)以前には既に何らかなの形で鎮座していたようです。更に1873年(明治6)それまでの「九頭宮」から「上沢神社」へ社名を改め、翌年に現在の「戸隠神社」にに改称されたようです。道すがらに出会い参拝によったけれど想像を超える古社の様です。上参道を入ったすぐ左に建つ建物が社務所でその脇に手水舎があります。下その後方に道路から見えていた大きな杉が聳えています。戸隠神社の一本杉と云われ岐阜県天然記念物に指定されています。・938年(平安後期)に鎮座した頃は両脇に一対植えられたが東側が枯れ一本になった。・樹齢千年以上で風雪や落雷などの自然災害から耐え、今も尚樹勢が衰える事はない、神社のご神木として住民から崇められ、守り続けられてきた。・樹高約33㍍、幹回り約6.5㍍、樹齢約1000年と推測される。ポツンと聳える一本杉、ここ宮地のランドマークといってもいいかもしれません。上一本杉から更に参道を進むと右手に大きな参拝者駐車場が確保されています。下参拝者駐車場から神社全景境内は真下から見上げると首を痛めるような見事な杉の巨木が大きな杜を形作っています。控え柱の付けられた両部鳥居、飾り金具が施され、笠木の反りが美しい。大きな鳥居なんですが、両脇のご神木はそれを感じさせない程の大木、自然の息吹の凄まじいこと。斜めからの鳥居全景周囲の環境と赤い鳥居の佇まいはお気に入りの鳥居の一つに加わりそうです。橘頼綱顕彰碑・元寇の役にあたって国難退散を願い大般若経を書き写し、1275年(建冶元年)九頭大明神に奉納。・大半の大般若経は高山市千光寺に所蔵されているが残巻の一部が宝物として残されている。・この史実から地域のみならず国の「国家安泰」「天下泰平」の鎮守の社として厚く崇敬されてきた。上境内右には舞台と小さなお堂下鳥居をくぐった左の夫婦杉、二本の幹の間をくぐると子宝に恵まれるとされる。後方は神楽殿と思われます。上拝殿正面全景拝殿は平入の切妻下夫婦杉から見た境内全景拝殿右手から後方にかけては山の傾斜が迫っています。右手には多くの解説板があるようです。拝殿右の解説上社頭と内容は同じの様です下こちらは文化財一覧、こちらも社頭と内容は同じの様です上一本杉で見かけた和良パワースポットマップこれを見る限り所謂パワースポットは全て戸隠神社にあるようです。そこの中で本殿後方に磐座があるようです。下磐座の中で特にパワースポットとされるのが重ね岩とされているようです。天の岩戸神話によれば、天照大神は弟の素佐之男命が高天原で乱暴を働いた事を憂い、天の岩屋に籠ってしまう。日の神を失くし、世界は暗闇に閉ざされ悪しき神々が横行、高天原神々が集まり知恵を出し合った。その結果岩屋の前で踊り騒ぎ、天照が興味を示し顔を出したところを手力雄命が引きずり出す作戦を立てた。作戦は成功し天照は岩屋から出され再び世は光に満ち溢れた。その岩屋から引きずり出す際、手力雄命は岩屋の扉(岩)を放り投げたという、その扉は信濃の戸隠山(戸隠神社)まで飛んで行ったという。天の岩屋から飛んでいく途中、その欠片が落ちて重ね岩の上に乗ったとされる。下の岩に乘った欠片の重さは42トン、奇跡のバランスで片手で回す事ができた(現在は立ち入り不可)そうです。そのことから天下の奇岩、祈願の岩として崇められている。確かに戸隠神社までの直線上に戸隠神社(…ややこしや)が位置しているようだ。手水舎と拝殿前の石灯篭・江戸時代後期宮地村の百姓六衛門が立身出世し近藤勘十郎と名乗り生糸生を開業し富をなした。九頭大明神の厚い崇敬者だった勘十郎は神社へ多大な寄進を行った。・彼が寄進したもので現存するのがこの石灯篭とからくり山車二台である。・石材は八幡町の小樽石を使用したと云われ、石材の搬送は堀越峠の難所と云われた地獄谷を氏子達に担がれ運ばれてきた。・勘十郎はその他にも宮地村島田に水田など故郷に多くの寄贈を行った。大成した者は、ひたすら富を蓄え続けるだけではなく、自分を育んだ故郷に貢献するという事です。拝殿前の狛犬は黒ずんでいて、風格を備えた姿です。本殿域全景正面に本殿、祭神は手力雄命を祀る、扉を放り投げた神様です。左に別社豊受大神を祀る。拝殿右の九頭の磐座方面から捉えた拝殿。なかなか拝殿と本殿を一枚に纏める事はできない。本殿と別社どちらも素木の流造、派手な彩色はないけれど彫飾りには手がかけてあるようです、これ以上は寄れません。岩座へは拝殿右から本殿脇の斜面に道が付けられ、斜面に大きな岩が並んでいます。男岩、女岩、結岩、欠片が乗った重ね岩などがあります。上重ね岩手力雄命が高千穂から飛ばした天の岩屋の欠片が乗る重ね岩。本殿右脇の巨石の上に注連縄が巻かれ岩が欠片です、少ない接地面で見事に安定を保っています。どうしてこうなったかやぼな考察は置いといて、ともかく不思議な現実には驚く。絶妙なバランスの欠片は地震でも落ちる事はなく、落ちないという事から合格祈願に訪れる方は多いと云います。下横岩上結岩下滝口岩、その右奥に女岩こうした斜面に曲岩、男岩等が点在し九頭の宮の磐座として崇められています。杉の大木が作り出す静まり返った杜の空間には凛とした空気が漂い、何かの存在を感じる。存在…神?熊?猪?、何がいても不思議ではない。鳥居から現実の世界に戻ると長閑な山間地の風景が広がります。一本杉の下には彼岸花が盛りを迎える頃。2020/9/28 戸隠神社創建 / 不明祭神 / 手力雄命住所 / 岐阜県郡上市和良町宮地1-1
2020.11.19
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名古屋市西区八坂町 先回掲載した榎白山神社、その社頭の前を東西に延びる美濃路を西に向かう事10分程。美濃路沿いの住宅と商店街連なる一画に『八坂神社』の社頭が現れます。 通りから少し奥まった位置に神明鳥居を構え、その先に拝殿か神楽殿らしき建物が見える。上は使い回している枇杷島周辺の新旧の地図。 左上に続く道が美濃路で庄内川に向かって続いています。 鳥居の先の正面にコンクリートの壁のような建物は商業施設。この神社は初めて訪れましたが、古社でありながら神社より、例大祭として行われる提灯祭りが有名なようで、そちらを取り上げた記事が多いのに驚きます。 祭りの際はこの参道は吊るされた奉納提灯で埋め尽くされ、氏子はじめ近隣、遠方から山笠提灯、大提灯を見に訪れるようです。神職は常駐ではないようで、広い境内は静まり返っていました。社頭から続く参道は左右に建物が迫り狭い印象を受けますが、鳥居を過ぎると左右に広い境内が広がります。 その広い境内の右に複数の収蔵庫が建てられ、ここに祭で使用する提灯が保管されているのでしょう。収蔵庫から西の境内全景。 手前は四方吹き抜けの切妻瓦葺の拝殿?で鬼瓦には「水」の文字と波が施されている。その先に本殿域が続き、右手に境内社が祀られている。 杜の樹々は本殿域に集中し、提灯祭りが行われることもあり、拝殿から東側の境内に木陰はない。妻壁や蟇股にも波。 火の禍から逃れたい現れですが、その思いは昔も今も変わらない。 拝殿から幣殿の眺め。 八坂神社について幾つかの記録を見付けた。神社由来は以下「八坂神社の歴史は古く、文治元年(1185)、平家の武者が現在地の北方約100㍍の村外れに住み着き、一ツ池と称する沼田の中に祠を建て、建速素之男命を祀ったのが初めとされる。 後の慶長15年(1610)那古野開府となり、美濃路と云われた現在の八坂通りの両脇に商い店が集まり町屋が形成され、一緒に祀る様になる。幾度か修復を受け、元禄15年(1702)に現在地に造営正遷宮を行い、この頃から祭りも盛大に執り行われる様になった。 この祭礼は長寿延命、豊作祈願でありますが、特に子供の守り神様としても有名。祭礼は従来の6月14・15日を、平成7年から5月第三土曜日・日曜日と改めた。 初日は午前10時から神事が行われ、その後、山笠提灯、大提灯等各種提灯を掲げて献灯をする。夕方には全提灯一斉に火が入り、祭は最高潮に達して壮観である。 山笠提灯は元禄15年(1702)からと云われ、現在の山笠は文化11年(1814)作とされる。高さは20㍍あり、最上段は縦に5個で「五穀」を表し、その下に5段構えに880個の提灯を掲げ「米」を表し、米寿にも肖るとされる、大提灯は高さ5㍍、周囲は10㍍あるもの。 祭礼二日目は御神葭船流しが行われる。 この神事は諸々の禍事、罪とがを葭に托し、これを御神船(長さ1.8㍍、巾0.6㍍)に積み氏子大勢がお見送りする中、町内の惣兵衛川にお流しする儀式をもって祭りを終える。」とある。また別の記録によれば「東向きの社は当初南向きであったが、この神社の前の美濃路は新川の刑場で処刑される罪人が裸馬に乗せられて通る道筋でもあり、神社の前を通るたびに鳥居前で落馬した。 人々はこれを神の祟りとして、神社の向きを東向きに作り替えると罪人は落馬しなくなったと云う」また、「もとは牛頭天王宮、あるいは天王社と呼ばれていた」などが見つかったが、これらは由緒に書かれていない事から、興味深い話と受け止めて下さい。八坂神社幣殿、本殿方向の眺め。 七本の鰹木、外削ぎの千木が付く神明造。社殿の左右に境内社3社が祀られています。 大きな御神木の木陰に祀られた二社は右側が祖霊社、左が神明社。幣殿、本殿側面。 本殿は覆殿の中に納められている様に見える。社殿正面全景、玉垣内には一対の狛犬と銅製燈籠が立てられ、それらの年代等は見る事は出来なかった。 参拝はここからとなります。神域を守護する狛犬と燈籠。 吽形の左目や全体の黒ずみは何かを物語っていそうだ。 この規模の伽藍で立派な銅製の燈籠は珍しいかもしれない。幣殿に掲げられた「八坂神社」の額。幣殿左の境内社は秋葉神社。 玉垣の扉が閉じられている理由は中央の注意書きが原因なのかナ。子供の頃こうした神社で遊ばせてもらったものですが、流石に燈籠は登らなかったが、今や管理責任を強く問われる世の中になりリスク回避の結果なのかな。秋葉社全景。 これら境内社の創建時期などは定かではない。八坂神社創建 / 不明(元禄15年当地に遷宮)祭神 / 須佐之男命境内社 / 秋葉社、神明社、祖霊社例大祭 / 5月第三土曜日・日曜日(山笠提灯、大提灯等見応えあり)所在地 / 名古屋市西区八坂町1-20公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」駅降車西へ徒歩約20分榎木白山社から徒歩ルート / 西へ10分程参拝日 / 2022/06/03関連記事 / 西区押切町「榎白山神社」
2022.07.17
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少彦名神社桜天神社から桜通本町交差点を北に向かい本町通を名古屋城方向へ。名古屋城から南に続く本町通は、名古屋城築城にともない現在の丸の内、錦周辺にかけての城下町を東西南北に碁盤の目の様に区切り、武家屋敷や寺社、町屋が整然と建てられてきた場所。区切られた一帯は基盤割と呼ばれ、本町通りはその中心にあたる通り。今回の少彦名神社へは、桜通りを越えて、本町通りを進み4ブロック先の北側で右に歩いていくと写真の社殿が現れます。社頭前を東西に続く道は下街道で、ここまで参拝した神社と比較すれば周囲の景観は随分と違い、開放的な空間に社殿があります。社頭は南向きで、社地は東西に細長く、右手に「薬祖 少彦名神社」の社標が建てられています。社標の寄進年は昭和36年とありました。鳥居は社地の中ほどに木造の明神鳥居を構えます。名古屋市の散策路のひとつ基盤割コースのスポットになっているようで、写真の案内図も掲げられ、下には尾張名所図会の京町通の解説がありました。「和泉町・茶屋町・京町・中市場町が属していた筋で、京町は清州から移された町名。京都から御服物などを扱う商人が移り住んだことが由来。安政2年(1855)の大火後、薬種問屋街として発展した。茶屋町には尾州茶屋家や伊藤次郎左衛門家(のちの松坂屋)など名門・富豪が並んでいた」因みに解説は以下のようなものでした。「祭神である少彦名命と大国主命(おおくにぬしのみこと)は、全国を巡り、国土開発や病気治療、医薬の普及など多くの業績を残したとされています。その古事により、二柱の神様が医薬の祖「薬祖神(やくそしん)」として祀られています。「薬と健康の神様」を祀る神社として、「無病息災」、「病気快癒」を祈願するための数少ない神社であることから、健康と病気回復を願う人の参拝が多く、今でも付近には薬を扱う会社が集まっています。大国主命が丸裸にされた白兎の体を蒲の穂で治療を施し快癒した「因幡の白兎伝説」にちなみ、幸運を招く「福兎」を社の象徴としています。社殿建立は、大正4年(1915)」社殿全景。鳥居の右に由緒と撫で兎?。参道の先に本殿とそれを守護する狛犬の姿が見られます。鳥居前から境内を眺める。街中だからか雑草もなく境内は綺麗に整備されています。少彦名神社由緒、内容は以下。「少彦名神社祭神 少彦名命、大国主命社殿創建 大正4年11月21日大祭日 10月16日(土日の場合は前日の平日)御利益 無病息 病気快癒由緒当神社は、薬と健康の神様「少彦名命」と「大国主命」をお祀りしています。少彦名命と大国主命は、日本書紀や古事記に記されているように全国を巡り、国土開発や病気治療、医薬の普及など多くの業績を残されました。その故事にならい、諸人は元より、茶業、医療に携わる人々が、両神を「蒸祖神」として崇め、お祀りするのは、このような由来によるものであります。福兎大国主命が丸裸にされた白兎の体を蒲の穂で治療を施し快癒した因幡の白兎伝説にちなみ幸運を招く「福兎」を 当神社の象徴としています。福像に触れると、無病息災・病気快癒の願いが叶うと言われています」鳥居額には「少彦名神社」とある。無病息災・病気快癒の福兎。本殿域全景。流造の社殿と基壇の上に狛犬も祀られている。本殿側面から本殿域の眺め。本殿を守護する白い眼をした狛犬、小さいが精悍な顔つきに見える。寄進年未確認の狛犬。神社の創建は境内、社頭の解説にあるように、創建は大正4年(1915)。少彦名命 大国主命をお祀りする神社。起こりは茨城県大洗海岸の大洗磯前神社と茨城県那珂湊市の酒列磯前神社より、少彦名命と大国主命を勧請し、旧住居表示の東区呉服町2丁目に鎮座したのが起こり。空襲により社殿を焼失。昭和23年(1948)、現在地に遷座。昭和25年(1950)、大阪の少彦名神社からご分霊を合祀。昭和34年(1959)、伊勢湾台風で被災、同年に再建。平成27年(2015)、鳥居と社殿を新築。10月16日(土、日の場合、前日の平日)の大祭の神事では、古くから使われてきた薬研(やげん)と鉄鉢を使用した、古式手法で薬の原料を粉末にし、神前で調薬・お供えする神事が行われるという。時代劇とかでは見た事はあるが、実際に見た事がないのでこの神事一度は見たいものです。少彦名神社創建 / 大正4年(1915)祭神 / 少彦名命、大国主命所在地 / 名古屋市中区丸の内3-2-24参拝日 / 2023/09/01公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線久屋大通駅から徒歩10分桜天神から徒歩 / 桜通本町交差点を北へ徒歩15分前後関連記事 / ・桜天神社・朝日神社
2023.09.26
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仙波東照宮の拝殿右から女坂を下ると、そこは小さな池と朱塗りの小さな太鼓橋が見えてきます。この太鼓橋は八ツ橋と呼ばれ、池の中央の小島に架けられています。そこに小さな社が祀られ、この一帯は仙波東照宮の葵庭園と呼ぶそうです。小さな池ですが比較的綺麗な水を湛え小島を取り囲んでいます。小島には朱の明神鳥居が建てられ、その先に鎮座する社はいかにもの佇まいの弁財天厳島神社。大正6年出版の三芳野名勝図会に目を通すが創建時期については書かれていなかった。また、「喜多院東南にあり龍池弁天と云われ、龍神が棲み弁財天女と崇め、竹生島弁財天を模し祀る」とあった、これはここから東南に15分程の龍池弁財天を指しているようです。この葵庭園では、平成15年から毎年6月末に蛍の鑑賞会が催されるという。源氏か平家なのか記されていませんが、餌となるカワニナ(貝)が自生しているのだろう。この庭園が蛍の自生地となる事を目指し環境維持活動が行われているようです。ここから左を見上げると、そこには方形で瓦葺の建物が見えてきます。隣接する喜多院の慈眼堂で、なんの境界もなく喜多院境内に入ってしまいます。葵庭園から緩やかな坂を上れば喜多院境内。右手に鐘楼門が現れます。入母屋瓦葺で袴腰が施された二層の門で、扉と上層は朱塗りで、上層中央の火頭窓と左右の間に施された彫に視線が行く。鐘楼門 附銅鐘(国指定重要文化財 建造物)解説は以下。「江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は竪板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平みつど 三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。」花頭窓両脇の雲竜の彫物はなかなか迫力があります。いきなり裏側、正面から山門を目指しがてら鐘楼門をひと回り。裏側左の間の花鳥の彫物。同じく右の間の彫物、鶏は鷹か?花は何だろう梅かなぁ。鐘楼門妻側。鐘楼門正面。手前の透塀は右手で途切れていますが、往古は山門まで連なっていたのでは。左の間の雲龍。右の間の龍。寛永十五年(1638)の大火では、鐘楼門は焼け残ったとも云われ、造営時期は定かではないようですが、全体的に脱色はありますが大きな傷みは見られず、現在まで幾度か保存修理が行われているようです。鐘楼門前から道路沿いを右手の山門に向かいます。川越大師 喜多院の山門。寺号標の右手に白山権現と江戸時代喜多院の復興に努めた天海大僧正(慈眼大師)の銅像が立てられています。川越大師 喜多院の創建と歴史。「天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。」山門(重要文化財建造物)山門の解説は以下。「山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていたといいます。棟札を見ると寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院で現存する最古の建物です。昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。」寛永9年(1632)の棟札が残り、第二十七世天海が建立したシックな佇まいの切妻瓦葺の四脚門で、門右手の緩やかな曲線を持ったむくり屋根の番所と連なっています。番所(県指定建造物)。目的はその字が示す通り。天保12年(1841)の喜多院境内図では、番所の位置は山門より境内後方に描かれており、山門に接するような現在の配置は、その後の改修によりこの形になったようです。山門、番所の解説。喜多院境内マップ。広大な境内には慈恵堂を筆頭に多宝塔、庫裏、客殿、書院、慈眼堂、山門、鐘楼門などの伽藍が建ち、他にも太子堂、五百羅漢像などがあり、全てを巡るとかなり時間を要する。参道を進んだ右側の六角形の建物が聖徳太子を祀った太子堂で、左側の白い石柱は木遣塚。太子堂の創建は、弘化4年(1847)に末寺の混合院境内に創建されたと伝わり、明治以後混合院廃寺にともない日枝神社に移築、明治42年に喜多院多宝塔建立地に移築さたが、昭和47年現在の場所に六角太子堂として再興されたもの。太子堂後方は市指定史跡五百羅漢。喜多院の五百羅漢は日本三大五百羅漢(栃木県徳蔵寺、神奈川県建長寺)の一つに数えられ、天明2年(1782)から文政8年(1825)の長きにわたり建立されたものと云います。写真の中央の釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩含め538体が鎮座しています。有料拝観になりますが、人生そのものを思わせる様々な表情の羅漢像が見られます。慈恵堂「県指定有形文化財慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。桁行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月の大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。なお、堂内には正安2年(1300)に造られた銅鐘(国指定重要文化財)があり、年に一度だけ除夜の鐘として、世界平和とすべての人々の安泰を願い撞かれています。潮音殿喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。お参りする時に少し上を見上げると、「潮音殿」の額がかかっています。それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、「潮音殿」といつしか呼ぶようになったということです。また、大昔、喜多院の近くは見渡すかぎりの大海原でどこへ行くにも舟を使っていたそうです。それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。」尚、上にある正安2年(1300)に造られた銅鐘について三芳野名勝図会には「背仙波下之深田之内より引き上げられ、鳩井郷(現鳩ケ谷)の筥崎八幡宮の鐘也とある。」慈恵堂の額と紐のない鰐口。慈恵堂から多宝塔と手前の手水舎の眺め。手水舎龍口。鉢に立てられた剣に2頭の龍が絡み合いながら清水を注ぐ姿のもの。慈眼堂。境内左の古墳のような盛り上がりの上に鎮座する方形の建物で後方には歴代住職の墓基が並ぶ。「天海僧正は寛永二十年(1643) 十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。そして三年後の正保二年(1645)には徳川家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのがこの慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺とな っている。宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。」斜め左から見る慈眼堂と歴代住職の墓基。慈眼堂内に安置されている天海僧正の木像。慈眼堂や歴代住職の墓基が建つ小高い盛り上がりは古墳で、仙波古墳群の一つ慈眼堂古墳と呼ばれる前方後円墳。現在見る姿からは前方後円墳の面影は感じられず、若干高い墓基側が後円部なんだろうか、それとも慈眼堂側が後円部なのか定かではない。どちらにせよ、喜多院の長い歴史と伽藍の移り変わりにより、古墳の姿も変わっていったのだろう。「県指定有形文化財多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。」多宝塔解説から抜粋。「この多宝塔は元々山門前の現在白山権現とその先の日枝神社の間に建てられていた。道路新設に伴い慈恵堂脇に移築され、復元のため解体され現在地に移築、昭和50年に完成したもの。」多宝塔下層から相輪を見上げる。慈恵堂脇に一旦は建てられながら復元を迫られるほどの塔とは、どんな姿をしていたのか気になる。復元を終えた塔は朱も鮮やかで青い空を背景に浮き立っていた。慈恵堂右手の覆屋は大黒堂、小江戸川越七福神の大黒天が祀られていました。大黒堂脇の客殿・書院・庫裏の解説。慈恵堂側面の眺め。右に廻廊が付けられ客殿・書院・庫裏に繋がっています、これらは川越大火で焼失した伽藍を復旧する為、徳川家光が江戸城から移築したもので、いずれも国指定重要文化財のもの、拝観券が必要です。使者の間から紅葉庭園内の鮮やな曼殊沙華が印象に残った。川越大師 喜多院宗派 / 天台宗創建 / (伝)天長7年(830)山号 / 星野山開山 / (伝)円仁勅願 / 淳和天皇本尊 / 慈恵大師、阿弥陀如来所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-20-1仙波東照宮から北へ / 徒歩1分程参拝日 / 2023/09/25関連記事 / ・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮
2023.11.08
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中川区松年町 知立神社。金山神社から北西に徒歩5・6分の松年公園の西に隣接する神社です。写真は松年公園南側の通りから公園と社頭の眺め。知立神社は住宅街の区画の中に、大きく伸びた楠の杜の中に鎮座します。上は大正期(左)とほゞ現在の地図の比較です。鎮座地は赤枠部分で、緑の線の百曲街道沿いの集落の南にあたり、大正時代の地図では鎮座地に鳥居の姿はなく、すぐ南西にある昭明公園の神明社は明治の地図にも記されていました。鎮座地に明確に鳥居が現れるのは昭和に入ってからの事でした。社頭には一対の常夜灯(昭和5年寄進)と参道右に村社 知立神社の社号標(昭和5年寄進)が建てられています。右の公園と社地を遮るものはなく、公園からそのまま拝殿に進む事も出来ます。鳥居は参道を進んだ先に石造神明鳥居を構えています。鳥居手前に自然石の姿を生かした一対の野面燈籠が印象に残ります。参道左のもと手水石。事情があってか、上面はセメントで埋め固められ、今は使われる事はない。前面に清水の文字がなければ周辺の石と見分けがつかない。知立神社の石造神明鳥居。こちらは大正2年に寄進されたもので、境内の寄進物の中では一番古いものでした。二対の狛犬が守護する拝殿は瓦葺の切妻妻入りのもので、梁間・桁行ともに三間の四方吹き抜けのもの。拝殿前の二対の狛犬。手前はスタンダードなもので、後方は子連れ・毬持ちのもの。後方の狛犬の寄進年は昭和4年に寄進されたものでした。拝殿妻壁の扁額には知立神社とある。知立神社と聞くと三河国二宮の池鯉鮒大明神が思い当たります。当神社はそちらから勧請されたものと思われ、祭神も鸕鶿草葺不合尊かと思われます。尾張志に目を通すと池鯉鮒社として記載されていません。「熱田新田 八劔ノ社 末社に戸部天王ノ社 池鯉鮒ノ社あり 十一番割の氏神也」と記されているのに目が止まるも、中川区十一番町の八剱神社を指しているのでどうも違う。残念ながら創建時期は定かではないです。いずれにしても新田開発以前は、遠浅の海岸線が広がっていたはずなので、それ以前とは思えないでしょう。拝殿内側の左右に二枚の社名札が掛けられています。左側は天王社の社名・祭神・神徳、右の木札は脱色し、知立神社から左が読み取れなかったが、ここに由緒が書かれていたのかもしれない。拝殿側面。知立神社本殿。本殿は銅葺屋根の一間社流造で脇障子も付くようです。本殿の周囲は透塀で囲い、左の幣殿後方に繋がります。本殿域はよく見ていませんが、天王社があるものと思われます。秋葉神社。拝殿右に鳥居(昭和49年寄進)と社標を構え、その先に本殿が祀られています。秋葉神社本殿。千木は内削ぎ、鰹木は3本の板宮造り。創建は定かではなく、祭神は迦具土神かと思われます。右から拝殿、渡廊・幣殿の眺め。拝殿屋根で飾り瓦に躍動感のある獅子が躍る。拝殿右側から幣殿と本殿。大きな楠の幹に根を張るノキシノブ。地表にあまり生えず、こうした古木の幹に生える苔の上に根付くシダ性植物。古木に自生する苔も綺麗ですが、個人的に古木を包む様に自生する軒忍は好きなシダのひとつです。社地西側の参道鳥居。今回の神社巡りは知立神社を西端と線を引いたので、すぐ西の昭明公園の神明社は次回として、西鳥居から北に向け歩いていきました。知立神社創建 / 不明祭神 / 鸕鶿草葺不合尊、須佐之男命境内社 / 天王社・秋葉神社祭礼日 / 不明所在地 / 名古屋市中川区松年町1-50参拝日 /2024/05/09徒歩ルート / 金山神社から北西の松年公園まで徒歩6分程関連記事・金山神社(中川区玉船町)・龍神社(港区本宮町)・豊福稲荷大明神・素盞鳴神社(港区九番町)・名古屋市港区本宮町「淨專寺」・「髭題目」
2024.06.07
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名古屋市北区上飯田南町 地下鉄上飯田駅から5分程東へ歩いて行くと左側に鎮守の杜が見えてくる上飯田『六所宮』、個人的にずっと気になっていた神社鳥居の先には蕃塀と拝殿、鎮守の杜に包まれた本殿が見えます道路際に掲げられた木製の由緒書き境内の左の「赤心富士」と刻まれた石碑、前を通る度にいつも気になっていたものです 今回漸く写真に収める事が出来ました云われは以下の様です 支那事変(1937年)の勃発に伴い、上飯田周辺から約60人余りを出兵される事となった彼らの壮行会をこの神社前の前で行ったと云われます 残された少年・少女は武運長久を祈り、毎日一つずつの石を六社宮に奉納した云われます出兵した人達が無事に戻ってくる様に願いを込めて六所社に石を積んだそうですその積み上がった石の山を富士山に準えて、「赤心富士」と名付け石碑を建てた事が始まりの様です 赤心とは「飾りのない真心」の意味で、共産主義の盲信からくるものではなく無事に帰ってきて欲しい、純粋な気持ちが形になったもの 後の太平洋戦争では、六所神社は空襲を受け焼失しますが「赤心富士の石碑」は焼け残り現在に至ります被災から免れたのは、石を積み上げてきた少年・少女らの祈りによるものでしょうか境内左の手水鉢舎と手水鉢、久し振りの龍です脅かす様な顔つきの龍、絶え間なく静水が注がれています緑の杜を背景に建つ白い蕃塀東の鳥居から境内全景、参道の先は社務所になります直線的で大きな屋根には千木と鰹木を持つ遥拝所拝殿前の狛犬遥拝所から見た拝殿六所宮扁額拝殿前に鬼飾りが置かれています、焼失前のものでしょうか西側からの本殿、幣殿、拝殿の全景遥拝所と拝殿全景千木と鰹木が印象に残ります拝殿東の鳥居、天満宮と記された社号標が見えます牛が見当たらないようだがいましたね、鳥居の右に少し上向きでこちらを見ています遥拝所からの全景正面の狛犬に守られた社が天満宮天満宮の右側に貴船社天満宮左側の出雲社(右)と天神社・神明社・八龍社(左)一番左側の弁財天神社北側の玉垣の先には整然と並ぶ社が良く見えます境内にある末社の案内板、良く見れば菅原道真公を祀る天神社と天満宮が二つありますね六所宮創建 / 不詳御祭神 / 天照大御神、素盞男尊、伊弉諾尊、 伊弉冉尊、月夜見尊、 蛭児尊住所 / 名古屋市北区上飯田南町3-97 ℡ / 052-981-4804アクセス / 地下鉄上飯田線「上飯田駅」から東へ徒歩10分程
2018.05.31
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大阪二日目、最初の目的地「和泉國一之宮 大鳥大社」を目指す。大阪から大阪環状線と阪和線を乗り継ぎ最寄り駅の「鳳」駅までは40分程の電車移動。鳳駅の北口から一旦右方向を歩き、熊野街道へ。街道を5分程北上すると右側に大鳥大社の杜が見えてきます。神社までの歩道には熊野街道を示すタイル表示が所々に施されています。和泉國一之宮大鳥大社の鳥居は街道に面し、大きな木造鳥居があります。鳥居左に大鳥大社由緒が掲げられています。鳥居前を守護する狛犬。初詣の準備でテント設営も急ピッチ、テントや車の陰に隠れてしまい、存在感は薄くなっています。鳥居をくぐり東方向に延びる参道を進みます。参道は授与所から右に折れています。右に折れると右手に絵馬殿(右)が見えてくる。正面には社務所と右の大きな建物が崇敬会館。参道脇には奉納されたこの地の酒樽が勢揃い。社務所、右の会館に比べ小さなものです。ここから参道は左に折れます。参道脇の堺市が設置した解説板。「祭神は日本武尊と大鳥連祖神の二社、和泉國一之宮にあたる延喜式内社。式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥伊勢神社・大鳥羽衣神社と併せ、大鳥五社明神と呼ばれる。本殿は大社造りに次ぐ古い様式の大鳥造と呼び、切妻造、妻入りの神社建築は1905年(明治38)に焼失、同42年に造営されたもの。神域は千種森と云われ、白鳥が舞い降りた際に一夜にして樹木が生い茂ったという伝説がある。」下に写真があり本殿とあるけれど、この絵は拝殿ではなかろうか?日本武尊像と神馬。神社の案内で先に出てきた白鳥や神社の起源については以下のように案内されています。「日本書紀によるとヤマト王権に抵抗する九州南部の熊襲を平定、帰途も従わぬ者たちを征伐しながら出雲の国をも平定しました。そして、宮へ帰ると休む間もなく東国の平定を命ぜられたので直ぐに赴き、様々な災難に遭いながら何とか帰途つきます。その途中に伊吹山の荒ぶる神を倒すために山に入ったところ神の祟りに遭い病となってしまいました。 病身のまま大和を目指したのですが、都にたどり着くことができず伊勢国能褒野にて身罷りました。そこに陵を造り皆が嘆き悲しんでいると、日本武尊の御霊が白鳥となり陵から飛び立ったのです。 最初に舞い降りたのは大和の琴弾原(ことひきのはら)、再び舞い上がり次に降り立ったのが河内国の古市、その後は社伝によると再び天空高く舞い上がり当所に降り立ちました。そこに社を建てお祀りしたのが当社の起源であり今から約1900年前の話であります。」伊勢国能褒野は現在の三重県亀山市田村町字女ヶ坂にあり、能褒野古墳群ひとつで能褒野王塚古墳と呼ばれる前方後円墳のようです。そこから飛び立った白鳥がこの地に舞い降りたということです。社務所から左に進むと正面に鳥居を構えた摂社の大鳥美波比神社と末社の織姫神社が正面に見えてきます。大鳥神社本殿はこの手前を左に進みます。大鳥神社手水舎、手水鉢。龍の口から注がれた清水は青竹に注がれ、竹から流れ落ちています。参道から拝殿正面の眺め。檜皮葺の切り妻、妻入りで新年を迎え巨大な賽銭箱が準備されています。神社幕に菊の紋、鈴はないようですね。創建 / 927年(延長5)、(823年(弘仁14)大鳥連が祖神を祀ったのが始まりともいわれる)祭神 / 日本武尊、大鳥連祖神防災雨祈の祈願社として知られるようです。拝殿から神門、本殿の眺め。既に子年の大きな奉納絵馬が準備されています。神門と透塀外研ぎの千木と鰹木は3本。大鳥造の本殿は切妻造、妻入りで出雲大社に次ぐ古い建築様式といわれ、出雲の大社造に酷似しているらしい。とはいえ、その全貌が窺えるビューポイントは少ないようです。本殿の千木、鰹木は5本で菊の紋を含め近年補修されたようです、陽光を浴び輝いています。こちらの神社は地元の保育園?のお散歩コースとなっていて、拝殿前でおちびさんの集団が参拝する光景を見ました。神社仏閣は厳粛な空間、なので「あれは禁止、これは禁止」と敷居を高くする傾向があるけれど、そうしたところで子供の遊ぶ光景はあまりお目にかからない。子供の頃はこうした空間は不思議な空間ではあったけれど、敷居は低く身近な存在だったのを記憶しています。鼻水を垂らし乳母車に乗せられ、小さい頃から地元の神社に親しんでいる姿を見て、ほのぼのとしたものを感じます。神門の右に小さな小社が祀られていましたが、詳細は分かりません。摂社の大鳥美波比神社。末社の織姫神社は鳥居の左になります。鳥居前の狛犬。吽形の左に見える社が織姫神社。右手に撫で牛もいます。銅葺屋根の入母屋造りで平入の拝殿。拝殿の扁額と賽銭箱の八尋白鳥の神紋。大鳥美波比神社祭神 / 天照大神元は北王子村(西区鳳南町4付近)に鎮座していたといわれ、1879年(明治12)に旧神宮寺の五重塔跡地に遷座し、1934年(昭和9)に本堂跡地の現在地に遷座したそうです。主神の他、庭津日神、天児屋根命、両道入媛命、押別命、国常立尊、市杵嶋姫命、菅原道真の七柱を合祀する。本殿は銅葺屋根の流造、創建は125年(景行天皇55)と云われるが定かではなさそう。境内左の末社の織姫神社、四柱を合祀する社です。この神社には複数の猫が住み着いているようで、人慣れした猫が至る所で日向ぼっこを楽しんでいました。織姫神社祭神 / 火鎮大神、宗像大神、稲荷大神、織姫大神織姫神社から左に続く参道の先に御神木の「根上がりの大楠」根っこがご覧のように地表に隆起していることから「値があがる」とされ古くから財運向上の御神木として崇められているそうで、根の穴には鳥居と楠神霊が祀られています。根もさることながら、枝ぶりが見事な大楠です。大楠から先を左に進み、本殿の裏側に石鳥居と小さな手水鉢があり、参道は左に続いています。社号標や石柱に社名につながる彫は見当たりません。先に進むと小さな覆屋があります、位置的には本殿の後方になります。その中は玉垣で囲われ、その中心に石柱が安置されています。石神様なのだろうか?、詳細は分かりません。遥か昔からここで祭祀を行う場なのでしょうか、今もこうして参拝に訪れる方も見えます。賽銭箱はなく、四隅に積んでいくのが習わしなのかな?積ませて頂きました。大楠を右に進むと脇参道を経て東の鳥居に出ます。官幣大社大鳥神社の社号標と石鳥居を構えます。境内へはこの他に絵馬殿からも参道があるようです、ここはこのまま次の目的地に向かう事にします。和泉國一之宮 大鳥大社創建 / 927年(延長5)、(823年(弘仁14)祭神 / 日本武尊、大鳥連祖神摂、末社 / 大鳥美波比神社、織姫神社住所 / 大阪府堺市西区鳳北町1-1-2アクセス / 大阪から大阪環状線、阪和線「鳳」駅下車、徒歩で北に10分程さて、目標の三社を参拝したけれど、もう一か所どこかに訪れるようです。いつもの事で、電車旅は切符はもちろん、目的地もかみさんに任せっきり、なので迷子になるとおやじは帰れなくなる・・・・・白鳥のように羽ばたくことはできない。
2020.01.02
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豊田市駒場町神明社。訪れたのは昨年の12/28。毎年親戚が恒例の墓参りのついでに野菜を届けてくれていたが「野菜を自分で取りに来てくれ」の一言からだった。やはり収穫応援はその付箋だったようだ。二回目ながら今も方向感覚は怪しく、早い話が道に迷い出会ったのが駒場の神明社だった。鎮座地のすぐ南を流れる逢妻男川の右岸に位置し、北に流れる逢妻女川と挟まれており、北から東にかけ見通しの効く長閑な田畑が広がる。駒場集落の北外れにあり、町内は対面通行の狭い生活道が続き、馴染みのない者が運転するに気が抜けない。社頭は南西向きにあり、北に長い社地を持つ。社頭から一見すると間口はさほど広くはないが、奥で大きく広がりゆとりすら感じられる。鳥居から眺める境内。正面に拝殿、左側に複数の境内社祀られています。鳥居右側の由緒。「神明社豊田市駒場町西埜中55番地鎮座。祭神 天照大神由緒 当社は延喜式外の旧社であって、大宝2年(702)10月持統天皇三河国を御巡幸の際勅使を得て氏神として鎮祭せられたという。当部落は往古海浜に臨み小浜の里と称し、当社を小浜の明神と称した。其の後部落名が駒場に変わったのは、第92代伏見天皇の御代と伝わるが、この地名の起源は部落が鎌倉街道沿線にあって人馬の往繁く、且つ燐村知立の馬市に進まる人馬の宿泊地となったからであろう。いらい氏子の崇敬愈々篤く、常に祭祀を重んじ、社殿の修復に心掛ける等奉仕の真心を捧げた。明治5年村社に列し、同40年10月26日神饌幣帛供進神社に指定された。本神社例祭は古くは旧暦8月16日であったが農業事情の変化に依り改変あり現在10月に奉仕せらる。」とある。駒場となったのが由緒にある伏見天皇の御代(1287~1298年)とすると駒場の地名も随分と歴史がある。地名はその地を語る写し鏡のようなもの。徳川時代に東海道が整備され池鯉鮒が宿場として栄え、歌川広重の東海道五十三次にも多くの馬が描かれた光景が残りますが、伏見天皇の御代となると東海道が整備される以前の鎌倉街道時代から駒場はそうした場所だったのが窺える。神社も地名も誇るべき長い歴史を持っている。鳥居をくぐった左に境内社、左から参拝して行きます。末社の稲荷社。「稲荷社(1766)棟札に明治3年再建の棟札がある。祭神 倉稲魂命由緒不詳なるも元西埜中の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社の秋葉社(1836)。「天保7年(6かも?)再建の棟札が残る。祭神 火之迦具土命由緒不詳なるも元金山の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社の熊野社(1561)。「永禄4年再建の棟札が残る。祭神 速玉之男神 他由緒不詳なるも元平古の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社の厳島社(1838)。こちらは残念ながら脱色が著しく読み取れなかった。「天保9年(8か?)再建の棟札が残る祭神 市杵島姫命?????」立派な燈籠の先の拝殿。入母屋瓦葺で千鳥破風の付くシックな拝殿です。この日は丁度新年を迎える門松の準備で真っ最中だった。額は神明社。江戸時代末期から大正時代の子爵三室戸和光(みむろど まさみつ)の揮毫によるもの。拝殿左の御霊社。御霊社の右から奥に参道は続き本殿後方の境内社に続く。ここからだと神明造の本殿が見通せます、鰹木は6本、内削ぎ千木が付く。本殿全景。天照大神らしい陽射しで明るく照らされた本殿域。参道を奥に進んだ本殿後方に四つの鳥居が並ぶ。これらの境内社も周辺から遷座されたもの。正面末社から手前に参拝して行きます。末社 山神社 街道組(1756)棟札に宝暦6年の棟札がある。祭神 大山祇神由緒 元下馬の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」唯一コンクリート造りで淡いクリーム色社殿で棟には4本の鰹木、内削ぎの千木が付く。末社 山神社 北組(1757)棟札に宝暦7年再建の棟札がある。祭神 大山祇神由緒 元南土用林の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社 山神社 荒井組(1802)棟札に享和2年再建の棟札がある。祭神 大山祇神由緒 元雲目の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社 山神社 寺内組(1824)棟札に文政7年再建の棟札がある。祭神 大山祇神由緒 元鐘塚の林中に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」社名の下の西暦表記が創建なのか再建をさすものかよく分からなかったが、稲荷社以外の末社は再建時期を西暦表示したものと思われます。周辺の地区で祀られていた社の氏子たちはここ神明社に集う。いずれも創建は分からないにしても、再建時期の棟札が残り、元の鎮座地まで遡れる記録がある。我家のあたりも嘗ては田んぼが広がり小さな集落が点在し、それぞれ小さな社があったのですが、遷座ではなく廃社の道を辿って行き、田舎臭い町名も耳当たりの良いものに変っていきました。切り捨てるのは容易、先人の思いを存続させるのは容易な事ではない。神明社本殿後方から拝殿方向の眺め。拝殿右の手水舎。今は手持無沙汰の龍も間もなく大忙しか。そういえば狛犬の顔ぶれを撮るのを忘れていたようです。駒場(こまんば)神明社創建 / 大宝2年(702)祭神 / 天照大神境内社 / 稲荷社、秋葉社、熊野社、厳島社、御霊社、山神社参拝日 / 2022/12/28所在地 / 豊田市駒場町西埜中55関連記事 / 知立市八橋 「日吉山王社」日吉神社から車移動 / 北西へ約10分もういい加減道草もしてられん、青虫一杯の野菜を収穫しに行こう。この後、野菜の他に跡取り不在の親戚の墓参りを頼まれる(やはりこれか)…切り捨てるのは容易、先人の思いを存続させるのは容易な事ではない…。我家の息子達にとってやがて寺や墓も負担になってしまうのか…
2023.01.14
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早いもので、もう六月。旧暦の和風月名の「水無月」にあたる、田んぼに水を引き田植えをしなさいよという月になります。北アルプスでは雪解けで山に現れる地表の形を見て田植えの時期を決めていた、白馬岳では代掻き馬、五竜岳では武田菱などの雪形を目安にしていた。温暖化の進行で降雪も少なくなり、田植えの時期は早まってきているのが実情だと思います。先日島根県を回ってきましたが、田んぼには水が張られ田植えは終えて、苗も随分成長していたのが目に止まりました。いつかは稲作を経験してみたいと思いながら未だに実現はしていません。農家の方には怒られるかもしれないが、今の自分にとって六月は紫陽花が気になってくる。今年も名古屋市千種区の茶屋ヶ坂公園へ様子を見に出かけました。写真は公園北側入口の石標。園内中央の紫陽花園、まだ一週間は早いか。茶屋ヶ坂池に向かう小径周辺。以前は右手の小川で蛍も舞った時もあったが、最近はどうなんだろう。小径を進み、小さな橋を渡った周辺。一面が紫陽花に包まれるにはまだ時間と雨が必要なようです。わざわざ訪れるのには、一週間は早いと思います。2024/6/01茶屋ヶ坂公園所在地 / 名古屋市千種区鍋屋上野町関連記事 / もう梅雨、もう台風
2024.06.01
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昔は前熊村と呼ばれた地域で現在は愛知県長久手市前熊志水過去の前熊村には多度神社、秋葉社、天王社、八剣社、諏訪社、天王社、山神等が近隣に点在していたようです現在は姿を消し、残るのはここ多度神社と秋葉社のみとなった様ですこの辺りは神明川と香流川の二つの川が流れ周辺の田畑を潤していますここから少し下流で合流しますが、流れの集まる合流点は河川の氾濫も頻繁に起こりますこれから訪ねる「多度神社」は氾濫から守るために、伊勢の多度神社から分霊を勧請し建立したのが始まりと云われます今でこそコンクリの護岸が整備されそうした事もなくなりました(写真は神社後方を流れる香流川)香流川に架かる小さな橋を南に超えた田畑の中にこんもりと杜が現れます多度神社の杜です東側には脇参道、その左に倉庫が建っていますこの倉庫の中には、市の有形民俗文化財に指定された長久手市唯一の前熊の山車が保管されています1562年(永禄5)から続く伝統の天王祭りは、毎年7月に行われ、境内でお披露目されるようです山車の製作された年代は不明ですが一説には、1805年(文化年間)頃に名古屋市東区の古出来町で使われていたものを譲り受けたとも言われます神社参道正面右に社号標があり、参道は西に伸びています参道の先に南を向いて石鳥居が建っています左手は保育園等がありますが、もともとの参道は施設建設に伴い寸断されたようですなかなか古びた鳥居です正面に入母屋瓦葺の吹き抜け拝殿、右に手水舎の伽藍です鳥居の傍らの解説板それによると「1661年(寛文元年)に作られた石造りの明神鳥居は、長久手市神門前『神明社』の1662年(寛文二年)と共に、県下でも古い部類に入ると言われます幕藩体制の整う寛文年間の祓官や住職の代官への届け出には多度社は「権現」あるいは「多度権現」と記されていますが、1681年(天和元年)の「奉建立伊勢神明天照皇大神宮」をはじめ江戸時代の棟札は全て「神明宮」が主文となって表されており、祭神と鳥居の様式は対応している」・・・・・とある薄っすらと年号が刻まれている?ようにも見えますが・・・・・多度神社で1661年と刻まれた明神鳥居ですね深く考えずに、笠木と島木の美しい反り上がりの石鳥居が今も残っている事に驚きます鳥居の前はフェンスで参道は行き止まり、ここからは真っ直ぐ伸びる長い参道をイメージしましょうか境内右に随分と年季の入った赤茶けた手水鉢、年号は見忘れました通りから見たイメージとは違い、境内は思ったより広く、山車を曳き出す充分な空間も確保されているようです拝殿から本殿の眺め、何れも玉垣で囲われています周辺にあった八剣社、山神、諏訪社、天王社、諏訪社は明治に入りここ多度神社に合祀され、本殿域右の2つの祠に祀られています多度社と入った鬼飾り多度神社の創建は不明天王祭りが400年を超え今も受け継がれている事から、創建は更に遡ります祭神は天津彦根命/日本武尊/武御名方命/須佐之男命本殿前の狛犬・・・・・いい顔つきをしていますが近寄れません高く積まれた石垣と玉垣で本殿域を眺めるビューポイントは少ないかもしれません東の脇参道から見た伽藍全景どことなく長久手市神門前『神明社』の趣に似ているように思えます田園風景の中に鎮守の杜、郊外に出ると昔の原風景は残っています2019/07/04多度神社住所 / 長久手市前熊志水108-1アクセス / リニモ公園西駅下車徒歩25分程
2019.08.09
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