明治の町家   姫路の春霜堂  

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若槻礼次郎 1866-1949 総理大臣 3667ht




松江の生まれ、東京帝大に進む。礼次郎の英才ぶりは、大学の試験が平均98点、ずっと首席という天才的頭脳の持ち主でもあった。大蔵次官等を歴任後、桂側近として新党運動に関わり、第三次桂太郎内閣の蔵相を務め、桂の死後、立憲同志会に参加して加藤高明総裁の片腕として党務の中枢に座わる。当時、四時間の長大な演説を行い(衆議院長時間演説の記録)陪審法を廃案に追い込んだ。

護憲三派内閣誕生時には蔵相、第二次加藤高明内閣では内相。加藤の病死後、西園寺の推挙を受け憲政会総裁として内閣を組閣。以後、濱口雄幸内閣後にも大命が降下し、二度の内閣を組閣。濱口内閣時にロンドン海軍軍縮会議に全権として出席し、その海軍知識の該博さから英国高官から「文官提督(civil admiral)」と渾名される。

岡田内閣誕生時、民政党総裁を辞任後も重臣の一人に列せられ、政変の際には後継首班を議する重臣会議のメンバーに加えられた。若槻は重臣会議で岡田啓介と並び、発言が多く、米内内閣退陣の際には近衛文麿を推し、第三次近衛内閣が行き詰まって折に木戸幸一内大臣が東條英機を推挙したのに対し、宇垣一成を強力に推薦し対抗した。

日米開戦には「現下の情勢で開戦するのは憂慮に堪えない」と発言して反対したが、ついに太平洋戦争は開戦に至ったが、東條内閣成立後も、近衛文麿、岡田啓介ともに東条内閣打倒の運動をし、ついにこれを退陣させた。小磯内閣の時に参内し、終戦に関する意見を述べたが、「真に慙愧に堪えない次第であるが、どうも直接陛下の御前で、目の当たり陛下の御英姿を拝して『降参なさい』という意味の言葉はなんとしても言上できなかった」と語った。小磯内閣退陣に際し鈴木貫太郎を推挙。ポツダム宣言受諾の会議時も終戦に関しては賛成意見であった。

1949(昭和24)年11月20日、病没。号は克堂。政治指導姿勢には、明晰すぎてやや押しの弱いところがあったとされる。




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