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今は選挙期間中だが、日本の国力低下を示す数値が続々出てきている。円はとうとう120円台だ。しかし、まだこれは続く見込みでとりあえず125円近辺までいくだろうという見通しは多い。しかも、これは米ドルに限った話ではなく、ほかの大半の通貨でも円安が続いているのがなんだか不気味でもある。ともかく、米ドル120円は約7年4カ月ぶりの円安水準で、二年間で約50%円安になった算用になる。急ピッチで進む円安が食料品の価格を上げ、牛肉やサケなどが高騰し、年明け以降も即席ラーメンやアイスクリームなどが値上げされる見込みである。ちなみにここ2年で値上がりした主な食品は、一にカボチャ、二にレモン、三に輸入牛肉、以下、鮭、豚肉と続くらしい。ガソリンが値下がりしているので、それが目立つのだが、金価格などもあっという間に5000円を突破した。これは金が上がったというよりも、円がそれだけ力をなくしていっていると僕は見ている。ともかく。食料品の値上がりは年明けから多方面に渡りそうで、これが庶民にとっては危惧される点でもある。そして、ここにきて追い打ちをかけるように日本国債が一段階格下げになった、世界は日本の財政赤字を懸念し債務の持続可能性が低下してきているとみているのだ。 日本の前途は多難である、これは僕の周りの人もほぼ同様の見方でもあるが、大火の前に我々はせめて防火用水チェックくらいはする必要性もありそうだ。
2014年12月06日
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姫路を代表する歌人でもあった川口汐子先生が先年お亡くなりになりましたが、同級生でもある娘さんから、こんな版画を頂きました。二代目の廣重で、 安政六年の制作のもののようです。民家はほとんど見当たりませんね。
2014年12月05日
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小説家の阿部知二、哲学者の和辻哲郎、東京裁判の弁護士でもあった清瀬一郎氏なんかが卒業された学校でもありました。清瀬一郎さんの軸が二本ありましたが、一本は熱き愛国者でもある青山繁晴氏にさし上げておきました。
2014年12月03日
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高倉健さんがお亡くなりになりましたが、高倉さん主演の映画『八甲田山』は素晴らしい映画でした。音楽を芥川也寸志さんが担当されましたが、これまた本当に素晴らしかったです。芥川也寸志の日本というyoutubeを見るといつも涙を禁じえません。そしてこの国に生まれたことをほんとうに嬉しく有難く思うのですが。。
2014年12月03日
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今日から12月だと思ったら、いきなりの菅原文太さんの訃報。高倉健さんの後を追うように、今度は菅原文太さんが星空の彼方へと去っていった。一人また一人、昭和の名優達がローソクの灯を消していく。八甲田山のyoutubeを見ても大半の名優達が今はもう亡くなっている。島田正吾、三國連太郎、丹波哲郎、藤岡琢也、小林桂樹、緒方拳、大滝秀治、加藤嘉、そして高倉健さん。。 音楽の芥川也寸志さんも。。 今年は僕の周りでも、小学時代の恩師、近所のおばちゃん、友人の旦那さんや奥さんが。。まことに寂しい限りである。僕もあと何年生きられるか分からないけど、孫達の為には石に齧りついても、一月でも一日でも長く生きられるように頑張っていきたいと思っている。
2014年12月01日
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近隣の友人から灯火管制用の戦時中に使っていたものなどを頂きました。いずれ堂にも展示しようと思っています。健康の為にコーヒーエネマを再開し、ビタミンCと小食も再開することに。。夜は吸い玉をして出来るだけ温めて寝るようにしたいものです。
2014年12月01日
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龍野のオータムフェスティバルの最終日にMさんと行ってきました。今年で12回目だそうですが、年々にぎやかになってきて、今年は人口九万の龍野に、三日間で10万人も人が詰めかけたそうです。駐車場の確保には少々難儀しましたが、少し遠いですが秘密の場所を見つけそこから歩いていくことにしました。お菓子や食材などの食べ物、骨董、おもちゃ、手作りグッズ、歌やダンスなど盛り沢山で楽しい一日を過ごすことができました。売れ筋は、1にレンコン、2に醤油。3に塩麹、4に和菓子、5にコロッケだったようで、やはりいくら不景気でも食べ物は強いなと思いました。路上で無料で手品をやっている人がいて、あまり上手とは言えないものの楽しくて子供を楽しませていたのにはやられたなと思いました。『赤とんぼ荘』で美しい紅葉を眺めながらご飯を食べて、龍野の街並みで買い物をして、いつものように『わがまま』で美味しいコーヒーを飲んで帰途に着きました。
2014年11月30日
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赤穂義士ゆかりの12月もすぐそこに来ていますね。赤穂義士の偉業が極彩色の日本画で描かれています。春霜堂にあります昭和13年発行の誠忠画鑑より。
2014年11月29日
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高き屋に、のぼりて見れば煙立つ、民のかまどは賑わいにけりという第16代天皇・仁徳天皇の『御製』があります。どうか安倍総理にはこの御心を忘れずに事に処して頂きたいと願うばかりですネ。 写真は昭和初期頃の神武天皇畝傍山東北北御陵ノ御様子です。
2014年11月19日
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久しぶりに秋を訪ねて書写の工芸館、ヤマサの工場、サンピアの温泉というコースを回ってきた。その温泉でたまたま知り合った方がなかなかの弁が立つ方で日本経済は2017~2018年頃に99%破綻すると言われる。前触れとして長期プライムレートが上がり、極端な円安に振れると言われるのだが、その時には庶民としては防御法はまずないのだが、以下の5点を守れば幾分はしのげると言われているのだが。。1、ドルの現物を少額で持つ。2、やはり金の現物を少額で持つ3、外国口座を開設する4、保存がきく食料品を備蓄しておく5、この経済破綻を最も受けにくい株を購入しておくというのだが、とてもよく勉強されている方だけに、少し参考にさせて頂いて対処していこうとマジで思い出してきた。* 藤原直哉さんのインターネット放送局なんかでも、だいたい同様なことを言われている。「こちらからダウンロード」の頃をクリックされて聞かれるのも参考になるかもしれませぬ藤原直哉さんのインターネット放送局
2014年11月19日
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近隣は例大祭で少しにぎやかに。。昼からダイを連れてフリマに、その後、3時頃からタカシ君らと合流してリサイクルショップめぐり、帰りには福岡さんも加わって、久ぶりにしげちゃん寿司に行って来たのはいいのだけど、自転車の鍵を忘れてきた。一寸先は闇だけど、いつかこんな春霜堂にもなるのもいいなと思う。。
2014年11月17日
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聖徳太子の一七条憲法を私なりに現代語訳してみました。第1条 みんな仲良くしましょう。喧嘩をしてはいけません。人はよく偉い人に逆らったり、友達と喧嘩したりしますが みんなで仲良く話し合えば、どんな問題でも解決できます。第2条仏様、仏様の教え、僧を敬いましょう。この三つの宝は、とても大切なものです。 悪い人がいても、ちゃんと教えてあげたら反省するものです。そのためにも、この三つの宝が大事なのです。第3条天皇に言われたことは、ちゃんと守りましょう。 天皇は空、家来は大地のようなものです。 空と大地がひっくりかえったら、世界は大変なことになってしまいますね。そうならないよう天皇に言われたことは、ちゃんと守らなければなりません。第4条役人は、ちゃんと心がけをよくしましょう。えらい人がそうしないと、他の者もそうしなくなり悪いことをする人も多くなります。 偉い人がきちんとしていれば、他の者もきちんとするようになり国がちゃんと治まります。第5条揉め事を仲裁させるときは、ちゃんと公平にしましょう。ちかごろ、仲裁をする時に、金品を貰って、不公平なことをしている人がいると聞きますが、そんなことをしたら、貧しい人たちは困ってしまいます。そんな悪いことは、絶対にしてはいけません。第6条良いことをした人は、ちゃんと誉めてあげて悪いことをした人は、ちゃんと罰しましょう。こびへつらったり、あざむいたりする人がいたら世の中は乱れてしまいます。第7条 自分の持分の仕事をちゃんとやりましょう。 優れた人が大切な仕事をすれば、みんな喜んでくれます。 悪い人が大切な仕事をすれば、世の中は乱れてしまいます。それぞれの人の適材適所をきちんと判断して、その人にあった仕事をあげましょう。第8条役人は、朝早く仕事を始めて、夕方遅くなってから帰りましょう。そうしないと、仕事をその日のうちに終わらせられません。第9条なにごとにも真心がなければいけません。 役人に真心があれば、どんなことでもできます。 逆に真心がなければ、何もできません。第10条怒ってはいけません。怒っても、それを顔に出してはいけません。ほかの人が自分と違うことをしても、怒ってはいけません。みんな、それぞれ考えがあるのですから自分の意見が正しいと思っても、相手の意見もちゃんと聞くようにしましょう。第11条役人の仕事ぶりをちゃんと見て それに応じて、褒美をあげたり、罰を与えたりしましょう。第12条地方の役人は、勝手に人民から税をとってはいけません。 天皇だけがみんなの主人なのですから それ以外の人が、そういうことを勝手にしてはいけません。第13条新しく役人になる人は、前任者がどんな仕事をしていたのか ちゃんと知らなければなりません。また、だれかが病気になったとき、「私は知りません。」というようになって仕事が滞らないようにしましょう。第14条役人は、ほかの人を嫉妬してはいけません。 自分が相手を嫉妬すれば、相手も自分を嫉妬します。そんなことをしていたら、優秀な人が現れなくなってしまいます。第15条私心をすてて仕事をしましょう。 私心があったら、ほかの人を恨み、仲が悪くなり、お仕事のさまたげになってしまい決まりを破る人も出てきます。第16条人々に仕事をさせるときは、ちゃんと時期を考えましょう。 春から秋までは農作業をしなければいけないので冬にだけ国の仕事をしてもらうようにしましょう。第17条ものごとは、一人だけで決めてはいけません。ちゃんとみんなで話し合いましょう。 小さなことはいいけれども、大事なことを決めるときは、誤った判断をしないよう みんなで話し合わなければいけません。
2014年11月15日
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かの正岡子規が、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛したが、曙覧の和歌は、清貧の中の家族の暖かさを描き思わず頬が緩むような気がする。たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物をくふ時たのしみは まれに魚煮て 兒等(こら)皆が うましうましと いひて食ふ時たのしみは 空暖かに うち晴(はれ)し 春秋の日に 出でありく時 たのしみは 心にうかぶ はかなごと 思ひつゞけて 煙草すふとき たのしみは 錢なくなりて わびをるに 人の來りて 錢くれし時独楽吟『橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集』より
2014年11月12日
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人間国宝だった名女形の六代目中村歌右衛門丈のサイン入り木版画です。紅葉の季節の竜田川は美しく、着物にそれらを表しているようです。千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとはさまざまな不思議なことがあった神代の昔でさえ、聞いたことがない。 龍田川の水面に紅葉が浮かび、真っ赤な紅色に、水を絞り染めにしているとは。作者の在原業平は六歌仙の一人で、伊勢物語の主人公とされ、伝説の美男で平安時代きっての色男であったようです。
2014年11月12日
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福岡藩の出身。1876(明治9)年に福岡で不平士族蜂起に加わり投獄される。1879年、箱田六輔、平岡浩太らと向陽社を設立し、また筑前共愛会の活動にも加わる。この頃は国会開設運動など、民権論者として活動した。徐々に大アジア主義の国家主義者となり、1881年、箱田・平岡らと、玄洋社を興した。この思想から、しだいに自由主義から離れ,皇室を戴くナショナリズム運動を展開していった。その一側面として大アジア主義の立場をとり,金玉均・孫文・ラス=ビハリボースなどの亡命政治家を援助し,条約改正問題では対外硬を主張する運動をおこし、大陸浪人らに資金援助を行ったりしている。また,日清戦争前すでに対露同志会に加わって日露開戦を主張するなど,つねに日本の対外進出を計り,強硬外交を唱えた。さらに,主として政界の裏面で画策し,第1次松方内閣の選挙干渉への協力,大正期の宮中某重大事件では皇室尊崇の考えの下に,長州閥の元締,山県有朋に反対するなど多面的な政治活動を行った。晩年には,右翼陣営だけでなく政界や財界にも裏面からかなりの影響力をもっているとされた。偉大なる足跡 -頭山満翁の生涯-
2014年11月11日
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教育者、啓蒙家、経営者の三つ側面を持つ方であられました。福沢諭吉 心訓一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。
2014年11月10日
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大石良雄、通称内蔵助の祖先は、その昔豊臣秀次に仕えていたとされている。内蔵助は軍学を山鹿素行に、漢学を伊藤仁斎に学んだ。仁斎門下では、講義の間よく居眠りをしていたそうだが、大事な所ではしっかり聞いていたというエピソードも残っている。ちなみに、春霜堂にその頃の教科書と仁斎の息子だった伊藤東涯の書が残っている。物静かで、一見町人風の飾り気のない性格だが、絵などもし、風流を愛し、厚く人望があったことで知られている。平時における内蔵助はまったく凡庸な家老だったようで、「昼行燈」と渾名されていたことは有名だが、一旦危急存亡の時は鬼神のごとくの働きを見せた。それやこれやを含め、個人的には歴史上屈指の人物だと思っている。元禄14年(1701年)赤穂藩主・浅野長矩の刃傷・切腹、城地没収に際し、家中を統括して浅野家再興を目指すも、その望みを絶たれ、翌年、12月に吉良義央邸に討ち入り、喧嘩両成敗を自力で完遂させた。幕府の命により熊本藩下屋敷に預けられ、翌年自刃。赤穂事件は赤穂の浪士らが幕府の方針に反した犯罪者か義士かで、当時から大変な論争を呼び起こした。行年45歳。大石内蔵助の辞世の句にはあら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なしが知られるが極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人というのも残っている。知人の高齢の方で、前の辞世の句に、とても心動かされ赤穂に二泊された方もおられた。画は写楽描くところの、大石内蔵助の浮世絵である。
2014年11月10日
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東郷平八郎元帥は日本海海戦に際し、有名な「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電し、また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて艦隊の士気を鼓舞したことは広く知られていますネ。
2014年11月09日
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ステッセル司令官は日露戦争終了、旅順開城の責任を問われ、軍法会議で死刑宣告を受けましたが、1909年4月、特赦により禁錮10年に減刑されました。これは乃木希典大将が熱誠こもる助命運動を行ったのが大いに貢献したとされています。釈放後、軍を追放されました氏はその後静かな余生を送ったとされています。乃木大将の武士道精神には時空を超えて感動させられますね。
2014年11月09日
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終戦後、南方の島から復員する父を偲ばれて歌われた曲でした。先日聴いた時、不覚にも落涙してしました。聴いていると父の思い出と古き良き日本の原風景が心に浮かんで胸が熱くなってくる名曲中の名曲ですね。なお、この曲には隠された歌詞もあるとされています。
2014年11月08日
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僕は感動しやすいタイプなんだろうか。ふとしたことで、胸が熱くなってしまったりする。今日も岩崎宏美の『思秋期』を聴いていて、若かりし頃のことが思い出されて、思わず涙が滲んできた。 『思秋期』のレコーディングの間、当の岩崎宏美さんが感極まって泣き出し、何度もレコーディングが中断した、というエピソードを持つ名曲だけど、作詞の阿久悠も、作曲の三木たかしも亡くなった。そればかりか、ピアノを演奏しておられる羽田健太郎も早逝された。この曲と岩崎宏美さんだけが残されいる。ほんとうに心に響く名曲ですが、年を重ねていって、初めて「過ぎてからら気がつく」事の如何に多いことだろうか。。僕は今は『思秋期』の最中だろうか。。そして、やがて数年すると、『思冬期』を迎えるのだろうな。。
2014年11月08日
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武士が農工商の手本になるようにと、「士道」を説かれた山鹿素行先生は幕府の朱子学と異なる自説を命がけで発表されていかれました。素行先生の薫陶を受けた赤穂義士の義挙が広く天下に知られ、その思想の源流である素行先生の名は一気に広まりました。赤穂山鹿素行研究会
2014年11月07日
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無私の軍師・日本の戦国時代の孔明ともいうべき竹中半兵衛を創造文化研究所 所長 中島剛先生に解説して頂きました。【竹中半兵衛語録より】要塞がいかように堅固であっても、人の心が一つでなければものの用をなさない。武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである。
2014年11月07日
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一般には黒田官兵衛、あるいは出家後の黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られている。隠居後の号である如水の由来について、イエスズ会の宣教師フロイスは次のように記している。「官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、 それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った」しかし、如水については、旧約聖書でモーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取ったヨシュアのポルトガル語読みであるジョズエ(Josué)から取ったとも言われる。如水は宣教師からジョズエについて城攻めの才能がある人物として聞いていたようで、モーゼを秀吉に見立て、最後は自ら天下を掌握する色気があったようでもある。慶長9年3月20日(1604年)、京都伏見藩邸にて59歳で死去した。辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。
2014年11月06日
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先祖の主君である酒井公のまた主君にあたられる徳川家康公について、創造文化研究所の中島先生と対談させて頂きました。画像は徳川家の菩提寺でもある増上寺の昭和初期頃の山門の写真です。家康公遺訓「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」は議論はあるものの、家康公の人生指針を如実に表しているように思える。
2014年11月05日
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秀吉が楽市楽座を開きました姫路市の西国街道沿いにあります春霜堂からお送りいたします。お話は創造文化研究所 所長 中島剛先生。聞き手は春霜堂主人 高橋十士幸です。
2014年11月05日
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姫路を代表するハートフルシンガーであるじろりんさんが『母さんの下駄』という曲を熱唱されています。心に染み入る実に名曲ですね。
2014年11月04日
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【 織田信長 名言集より 】臆病者の目には、敵は常に大軍に見えるだいたい人は、心と気を働かすことをもって良しとするなり(人は心と気を働かせてはじめて物事を成し遂げられるものだ)信長の肖像画と言われていますが。。
2014年11月03日
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ステッセル司令官は日露戦争終了、旅順開城の責任を問われ、軍法会議で死刑宣告を受けましたが、1909年4月、特赦により禁錮10年に減刑されましたが、これは乃木希典大将がが助命運動を行ったのが大いに貢献したとされています。釈放後、軍を追放されましたが静かな余生を送ったとされています。乃木大将の武士道精神には時空を超えて感動させられますね。『春霜堂・日本伝統文化講座』 第10回 乃木希典 下
2014年11月03日
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今日11月3日は明治天皇陛下の誕生日にあたる明治節です。かかる日には近代日本を導かれた明治大帝のご遺徳をもう一度思い起こしたいものです。明治天皇
2014年11月02日
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『春霜堂・日本伝統文化講座』 第3回 吉田松陰 上として、中島剛先生に語って頂いております。松陰先生曰く、夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。「国家とともに」という志がないならば、人ではないのである。君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり。嗚呼。。
2014年11月02日
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『春霜堂・日本伝統文化講座』 第2回 明治天皇です。長く皇居勤労奉仕団の団長も務められた創造文化研究所所長の中島剛先生に語って頂いております。 明治天皇の御製にはとても素晴らしいものがあられます。目に見えぬ神にむかひてはぢざるは人の心のまことなりけりあさみどり澄みわたりたる大空の広きおのが心ともがなしきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける
2014年11月02日
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『春霜堂・日本伝統文化講座』 第1回 二宮尊徳 上 この度、春霜堂発の日本伝統文化講座を7年ぶりに再開いたしました。 尊徳公曰く世間の人は、とかく小事を嫌って大事を望むけれども、本来、大は小を積んだものである。だから、小を積んで大をなすほかに方法はない。およそ人と生まれ出た以上は、死ぬのは必定だ。長生きといっても取るに足らぬほどの相違で、たとえばロウソクに大中小とあるようなものだ。人と生まれ出た以上は必ず死ぬものと覚悟してしまえば、一日生きれば一日の儲け、一年生きれば一生の得だ。桃栗三年、柿八年というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない。耳に痛い言葉が多いですが、心にずしりと響きますね。
2014年11月02日
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すっかり秋めいてきました。昔のノートで、こんな詩を発見しました。「四季のこころ」人に会う時は、春のように暖かい心で、仕事をする時は、夏のように情熱的な心で、物事を考える時は、秋のように澄んだ心で、自分を戒める時は、冬のように厳しい心で、【奥山武寛先生の作品から】
2014年11月02日
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本当に久しぶりにログイン。なんと一年ぶりである。というよりログインの仕方を忘れていた感じ。二代目のブログだが、その後、アメーバと趣味人に移行。今はもっぱらフェースブックだ。しかし、ログインしてみると懐かしい画像が満載だった。
2014年10月30日
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先日NHKの相撲中継で、60年前の大相撲を映した力道山氏撮影によるカラー映像が放映された。べんべんとした太鼓腹の鏡里、男性的な胸毛の朝汐、そして、あの千代の山 栃錦、初代若乃花、リャンコの信夫山、伝説の行司・ヒゲの伊之助、幕内力士だった大岩山の弓取り式。。 弓取り式は、昔は幕内力士もやっていたんですね。それも、大岩山の弓取りはものすごいスピードで、早回しをしてるのでないかと思うほど動作が速いんです。ともかく白黒でしか見たことの無かった名力士たちが、次から次と天然色で勢ぞろい。実にマニア垂涎の映像の数々。。あ~あ、生きててよかった!! 当時を知る解説の北の富士さんも元黒姫山の武隈さんも、実況の刈谷さんも思わず放送を忘れているかのように大興奮!!テレビ桟敷のこちらも実に実に至福の時間を過ごせた思いでした。この映像を撮影していたのが、当時、陛下に次いでの有名人でもあった人気絶頂の力道山!!角界を去ってからも相撲界との親交は厚く、桟敷席から当時最新鋭のカラー映写機を回して撮っていたのだとか。それが没後50年ということで遺族の方から映像が提供されたらしい。ともかく至福の中入りだったので、むしろその後の幕内の土俵がなんだか味気なかった。ともかく、その天然色カラー映像がまた実況席の興奮に輪をかけて、向正面の武隈さんは「いや私はもともと相撲より、むしろ力道山さんの弟子になりたかったんですよね」などと告白。それを聞いた北の富士さんも「いや実は私も。。」とか言い出してしまったいた。それにしても、さすがは力道山!!映されてる被写体の力士の筋肉の動きをなめらかに追っていて、 最新鋭のカラー画像は、当時の力士の筋肉を克明に映していた。 力道山没後50年。関脇まで行って、マゲを出刃包丁で切って大相撲界を出ていったとか、自伝映画によっての大相撲幹部とのトラブル、酒乱の行状や、数々の御乱行。。しかし、力道山は出身母体の相撲界に多大のリスペクトを払っていた。あの常陸山以来、こういう動画は角界では重要視されてなかったが、それをいち早く先駆けしてカラーで残しておこうというこの感性!50年たって、これだけの興奮を関係者とファンに与える力道山の魅力と感性は実に実に大絶賛ものである!力道山>馬場+猪木+大山倍達+大鵬柏戸 くらいのものだと思う。武隈親方や北の富士の話だと、相撲界でもプロレスに行ってからも、スーパースターだったようです。当時の軽量筋肉質な力士ばかりで、少し論調が懐古に傾き過ぎになったところを、武隈親方が「時代時代のものもある」と一言。これはいいフォローだったように思う。当時の力士の体格は筋肉が張っていて筋骨隆々、北の富士氏は今の力士でいえば松鳳山あたりが標準の感じだと言われていた。しかし、今や人気の低落傾向の続く角界とプロレス界、当時の力士や力道山の先取性に学ぶものは、この映像から多いように思います。http://www.youtube.com/watch?v=YUg70WLTgNYこれは61年前の映像です。これも実に素晴らしいカラーですね。* やはりこの頃、アメリカのプロレス界がH・カルホーンなど巨漢レスラーを5人ほど集めて、日本相撲界に挑戦状をたたきつけたことがあったのですが、これを聞き力道山氏は激怒し、うちの所属のレスラーに相撲で勝ってからにしろと一喝して事なきを得たこともあったのです。男気もあったんですね!!*あの角聖と言われた大横綱の常陸山は負けた力士がいつまでも繰り返しそれを言われたんじゃ可哀想だというんで、相撲の撮影を禁止し、その風潮がかなり長くその後も続きました。*力道山が生前、強いとよく言っていたのが、双葉山、前田山、初代若乃花、大鵬の四人でした。千代の山や柏戸は怪我が多かったし、栃錦は強いよりしぶとくて巧いという印象だったんでしょうね。前田山の度胸と張り手は強烈で、酒乱の力道山も何度か巡業先で失神させられたそうです。*その後、高砂親方(前田山)の大相撲アメリカ巡業に力を貸してあげたのが結果的に力道山氏最後の事業になりました。角界恩返しできたことを大層氏は喜んでいたようです。初代若乃花、琴が浜を育て上げたのも、実質、力道山氏の力が大きかったことはあの二子山理事長(初代若乃花)もよく述懐されておりました。
2013年09月22日
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今年の5月4日、岩佐寿弥監督が亡くなられた。78歳だった。5月3日に宮城県大河原市で 行われた『オロ』上映会の後、宿泊先で階段から転落し、脳内出血で亡くなられたが、姫路とは何かと縁の有る監督でもあって、元姫路市教育委員長で児童文学者の故・川口汐 子さん=2011年に87歳で死去=の教え子でもある。私も二度ほどお会いしたこともあるし、我が堂にも一度、訪問頂いたこともあった。その岩佐監督の遺作が『オロ』である。おちゃめな少年とアバンギャルドな老監督が紡ぎ出す、チベット望郷の詩といえる映画で、。チベットの少年と日本の老監督が紡ぎ出すこの物語は、暗闇に立つ一本のろうそくのように、私たちのこころに“生きる希望”を灯してくれるように思う。「しっかり勉強するんだよ」と母親に背中を押され、主人公オロ少年が チベットから亡命したのは6歳の時。いまはインド北部の町ダラムサラで、チベット亡命政府が運営するチベット子ども村に寄宿し、 学んでいる。「なぜ母はぼくを旅立たせたのだろうか」。 自力でこの答え=生きる道を探し求めるオロの姿を岩佐監督が優しい目で追いかける。姫路での上映会は次の通りである。2013年10月5日(土) 10:30 13:30 16:00 19:00会場:姫路市文化センター 小ホール主催:「オロ」姫路上映実行委員会 http://www5.ocn.ne.jp/~himecine/n_schedule03.html
2013年09月16日
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テレビ番組"心のともしび"に、ノートルダム清心学園理事長でシスターでもある渡辺和子先生が出演されて、『キリストの香り』というタイトルで、24回にわたってお話してくださっている。渡辺和子先生の知己は、姫路にカソリック関係を中心に少なくないようであるが、堂にも和子先生の御尊父渡辺大将の書が残っていたりする。信仰をもって、そこに真摯に生きられている言葉は本当に素晴らしい。信者ではない僕も心が洗われるような思いがする。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」
2013年06月02日
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尾崎紀世彦さんが逝ってから、ちょうど一年が経つ、追悼の曲「五月のバラ」が何故か、今とても心に沁みる。尾崎さんの人生と歌唱は、まるで大輪の薔薇のようなそれであったように思える。晩年に歌われた『ゴッドファーザー 愛のテーマ』は絶品だった。ゴッドファーザー 愛のテーマコメントにもありますが、「余裕あるよ、うん、だけど下品になるから、まあ、こんくらいにしとくかな?みたいな余裕がたまらんね」実に実に納得ですね。
2013年05月31日
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僕のブログ友達の方から、終戦当時の次のような思い出を教えて頂きました。私の父も兄弟6人の長男でした。幼い頃に両親を亡くして兄弟バラバラになりました。(良い意味ではもらわれて行った、悪い意味では買われて行った)そこで満州開拓団に入団して満州に渡りました。現地ではかなり苦労したそうですが、日本に残した兄弟の為に耐えたそうです。満州開拓義勇軍で戦車部隊で満州で戦っていましたが、日本が危ないとの事で戦車と一緒に舞鶴港に帰って来たそうです。その時も、戦車を船から降ろす時にロープが切れて海に落ちて戦友を失ったそうです。それが父の戦車の前に降ろした戦車でした。それで本土で戦う前に終戦を向かえたそうです。満州にはそこそこ蓄えも色んな物も残して帰ってきましたので無一文での帰国になりました。おそらく日本が敗戦する事など聞かされて無くて、又満州に帰れる事を信じていた様です。昭和23年に私が生まれました。狭い土地を親戚から借りて、平屋の小さな家でした。建てる時に大人二人で回してもやっとの大きな柿の木が有りましたが父は切らずに建てました。狭い部屋の中に大きな柿の木が有りました。後からの話ですが、近所の人から父があの柿の木を切らずに家を建てたから幸運に恵まれたと。超貧乏で育ちました、そんな貧乏なところに年子で生まれた弟が耳が聞こえず話すことも出来ない身障者でした。おそらく一生仕事して生活出来ないだろう弟の人生も私に託された事を幼いながら知りました。そして5年後に弟が生まれ(山崎の実家の主です)ました。私も小学4年生から土方作業(アルバイト)して生活費、学費を稼ぎました。このバイトは高校3年生まで続けました。田舎で貧乏生活で劣る事ばかりで勝てる事を考えたら勉強の成績だけでした。父が板金建築の職人でしたからアルバイトしながら父の手伝いもしました。その父が仕事しながら満州の話を聞かせてくれました。仕事中にいつも口ずさんでいた曲が...。「異国の丘」でした。弟も姫路の聾唖学校などにお世話になりましたが向上が無い事で自宅に戻されました。その弟も私が銀行に勤め、東京支店に配属になり将来を託された時に21歳で病気で亡くなりました。急いで東京から帰りましたが死に目には間に合いませんでした。それで銀行も退職して兵庫県に帰ってきました。両親の近くに居てやりたい気持ちと、弟の墓参りが毎月でも行ける事を考えて。「異国の丘」この歌を今でも父から引き継いでいます。それにしても美空は偉大である。異国の地で苦難にあえぐ方々をまるで包み込むように歌っているような気がする。
2013年05月04日
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☆「僕は路地のみかん箱の上で歌っていたい」といっていた庶民派のバタヤン、そんなバタヤンの『かえり船』をあの藤本義一さんは生涯のベスト歌謡曲の一位にあげておられた。そして、大作曲家であった古賀正男氏は「バタヤンの声には涙がある」と絶賛したそうである。☆田端さんは3歳の時に父が他界。8歳の時、長兄のもとに移り住むが、その兄が蒸発。おからとおかゆしか食べられない極貧生活のために栄養失調となり、トラホームで右目の視力を失った。13歳になると名古屋で薬屋、パン屋、鉄工所と職替えしながら丁稚奉公を始める。もともと歌好きな少年だったが、16歳の時、ベニヤ板をギターの形に切ったものを作り、独学でギターの弾き方を学び始めたそうである。戦後間もない頃、バタヤンが大阪駅のプラットホームに立っていると、復員兵を乗せた列車が入ってきた。ボロボロになった彼らの姿をバタヤンが痛ましく眺めていると、その時、なんと駅のスピーカーから自分が歌った「かえり船」が流れてきた。兵達達はジッと耳を傾け、涙を流している者さへあった。その光景にバタヤンは大感激したそうだ。☆帰還兵の方ではないが、異国の地で苦労されたこんな話も聞くと、なんだか胸が熱くなってくる。ブラジル公演の思い出2006 田端義夫帰りの飛行機で、(位牌を抱いている)おばあさんが乗っていた。何十年ぶりかで帰る、『お父さん、帰ろうよ』、『うん、もう一年たったら』、そしてもう一年たった『お父さん、帰ろうよ』、『うん、もう一年たったら』、そして、お父さんは亡くなってしまった。おばあさんは、位牌を抱いて、日本に着くちょっと手前で、『お父さん、日本だよ』と...私はブラジルではありませんが、南米に住んでおります。日々を暮らすうちに12年が過ぎてしまいました。このお話は本当に良く判ります。もう帰ろう、でももう一年、もう一月、で12年が過ぎました。以前はブラジルにもおりましたので、何人か戦前移民の方も存じ上げております。この方達のご苦労は、本当に凄まじいの一言です。しかし、その苦労話を笑い飛ばしてしまう方々でもあります。でも、後で気づきました。笑い話にするしか無いのです。悲しいことがあって涙を流せるのは、ある意味幸せなのです。そして、このお話に出てくる方々のおかげで今の我々があります。感謝に堪えません。
2013年05月02日
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先日亡くなった田端義夫さんへの追悼コメントを読むだけで、何だか目頭が熱くなってくる。☆父の話では復員船でこの歌を聴いた兵隊さんたちは皆涙を流したそうです。「勇ましい歌で前線に送り出したのだから、負けたとはいえ日本に帰ってくる兵隊さんを迎える歌があってもいいじゃないか」と言う田端義夫さんの気持ちが伝わってくる歌です。☆「皆様、長い間本当にご苦労様でした。これは日本の船です。これより皆様方を内地へお連れ申し上げます。」という船内アナウンスとともに、このメロディが流れました…。これを聞いた復員兵たちは耐えきれず、船内のあちこちから嗚咽の声が聞こえたといいます。間違いなくこれは田端義夫渾身の絶唱と言えるでしょう。心よりご冥福をお祈りします。☆涙なしには聞けません。 私の家族は昭和21年、朝鮮から故国日本に帰った引揚者家族です;。 私はその年の4月に父の郷里の茨城県で生まれました。 母は「あなたがお腹の中にいたから生きて戻ってこれたのね」 と述懐しました。それほど過酷な逃避行でした。 帰ってからも、赤貧洗うがごとき生活の中で、 父母は末の私と兄、姉2人、末の兄を必死で育ててくれました。 そんな生活の中で長兄は盲腸炎(何とたかが盲腸炎で)亡くなりました。 体の頑健だった父は、そんな兄の異変に気がつかなかったのです。 生涯、父はそのことを悔やんでおりました。 今では極楽浄土で兄と幸せに暮らしていることでしょう
2013年05月02日
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もともとは戦時映画『暁に祈る』の主題歌である。父も叔父も海軍で、父は輸送船に乗っていたりしてたから、僕は子供の時から、なんだかとても心惹かれる曲で、爾来、約半世紀歌っている。牧場の跡取り娘の千代は母親しげから冬木との結婚を勧められていたが、冬木の親友の真吉と恋仲になり嫁いでしまう。母は千代と親子の縁を切ってしまう。ある日真吉が出征することになり、冬木は千代を許すようしげを説得するが首を縦に振らない。やがて真吉と千代が育てていた馬の太郎が軍に徴発され、冬木にも召集令状が来る。冬木は隊長に頼み太郎を自分の馬にしてもらい、出征する。太郎のおかげで手柄を立てた冬木は近くの真吉に会いに行くが、真吉は前日に戦死していた。真吉戦死の報は内地にも届き、しげは娘を連れ戻しに行くが、自分は一生真吉の妻であり続けると言う。しげは娘の心を知り、縁切りを解き、千代に謝罪する。その頃、大陸では真吉の遺骨を抱いた冬木は太郎の背にまたがり堂々の入城行進を行う。
2013年04月27日
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高浜さんの『ほほぎゃらりー』の手伝いに、半分掃除と片付け、半分良品の物色で約6時間。お昼は網干の桜食堂で豊沢さんと一緒にランチを御馳走になりました。その後、網干のエコパークで足湯を少し愉しむことに、ここは無料ですから余計に気持ちいいというものです。昼から3時まで頑張ると、お客様が来られたので、桜餅で一服。ついでに近くの公園で15分ほど花見をすることに、七分咲きだけど、花見気分の雰囲気だけは愉しめました。その後、五時半まで作業してから、高浜農園でネギの収穫をさせて頂く。帰路に、てんぷらうどんを食べてから散髪して帰宅。先日の高砂市荒井町のカラオケ喫茶『エリーゼ』さんで、プロ歌手の方とデュエットさせて頂きました。http://www.youtube.com/watch?v=c3cNHgd7Qo0
2013年04月02日
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何だか目が痒いし、久しぶりに喘息気味の胸苦しさを感じたと思ったらこんな研究結果が出ていた。http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130326-00000019-nnn-socihttp://www.asahi.com/tech_science/update/0325/OSK201303240184.html島教授らは、姫路市内のPM2.5の濃度と、ぜんそくで発作を起こした市内の患者数の関係性を調査。PM2.5の濃度が8.7マイクログラム増えるごとに、発作を起こすぜんそく患者の数が、14歳以下の子供で24%、65歳以上の高齢者で12%増加することがわかったそうで、近く学会で発表予定とか。。これじゃ、気管支が特に弱い僕など一発である。http://www.aqicn.info/city/japan/himeji/funaba/jp/僕は決して嫌中派ではないが、このしんどさからつらつらと恨みたくなるというものだ。
2013年03月26日
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『自由空間』で子供の玩具やのど飴などを買う。その後、『ぎおん』でお好み焼きランチを食べる。食後、『しげちゃん亭』で片付けを手伝う。コーヒーメーカーは半額で置いてくることに。そのまま足を延ばして『ほほギャラリー』に立ち寄る。かなりきちんと片付いているのを見て驚いた。思わず、同行の者とちょっとした散財をしてしまう。お茶を頂いてから風流人さんと大根を抜きに行く。これはけっこう腰が大変な作業でもあった、数本の大根、ほうれんそう、ネギなどを頂いたので、得意の物々交換させて頂く。風流人さんはお疲れの様子だったので、アジトで按摩指圧などしてさしあげる。相撲を見てから仕事場に向かう。
2013年03月21日
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しばらくぶりのブログの更新です。先日は、春一番。姫路も雨風がきつく、外出はためらわれた。しかし、雨のきつい日の翌日はいくぶん空も澄んでいるような気がした。禍福はあざなえる縄の如し、何か雨のような困りものでも、それがプラスに働くときもあったり、その逆もあったりする。何不自由なく育てられた子供は、どこか頼りないものです。やはり植物も人も適度な麦踏も必要なようである。雨にもケッコウケッコウと感謝することにしましょうか。。
2013年03月19日
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ニューシネマパラダイスのメインテーマ33年ぶりに会社の元同僚との会食に三宮まで行ってきました。ほんとうに久しぶりで僕はまるで浦島太郎みたいな感じで、会場近くの生田神社までやっとたどりついた感じもありました当然のごとく、みんな好いオッチャン、オバちゃんになっていましたが、しかし、会食中に話していると、思わずその頃に戻ってしまうから不思議です。邯鄲夢の枕ともうしましょうか、33年といえども、過ぎ去ってしまえばあっという間の出来事なんだと改めて再認識させられる思いでもありました。その頃の僕のマドンナでもありましたMちゃんに33年ぶりに約束しておりました絵(ご本人はすっかり忘れておられましたが。。)を渡せたのは望外の幸せでもありました。Mちゃんは、しばし健康を崩しておられたようですが、いつまでもお元気で暮らされて、僕の私の若き日のマドンナで頂きたいなと願うような想いで姫路への帰途につきました。
2013年02月17日
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姫路在住の僕の知人がブログに書いておられました。とてもとても心に残る素晴らしいお話です。人を幸せにしたり出来るのは、人しかいないんですよね。かずちゃんのブログから。。幼稚園の先生は別として、最初が小学校の先生。この人と長く付き合うとは思わなかった。母とはひとつ違いの女性、O先生、昔だからあったと思うのだが、学校の近くで学校に出てこない子がいた。朝になると1時限めにその子を迎えに行って20分をロスしていた。「お願いするわ。」毎日だよ。1か月迎えに行っていると何とか来出した。偉いと思うよ。こういう時代だから師範出の派閥が強い。それでない人は苛められている。後で解ったのだが苦労していたようだ。今の指導ではこういう事は否定している。隼ちゃん、美佳ちゃん、なんて名前を読んでいた。私の様な可愛さのない人間は「K君」未だにそのまま。彼らは死ぬまでそう言われているだろう。この先生は縁があった。何でも話してくれる。小学1,2年生にこうして手伝ってねと言われると馬鹿みたいに努力する。この時期の子供の気持は大事にしてくれる。そのあとは受け持ってもらったこともなかったのだが、何かがあれば相談していた。結婚式でも政治家がらみの人ばかりの中、紹介して話も貰った。その後、(半身梗塞で)2年半入院していた時は、ご自宅が近くにあったからか毎日来ていただき、小学校の時と同じく字も書けなかった私を立て直しいただいた。字を書けなかった私、物を言えなかった私、動けなかった私、こんな先生はいないよ。1年半たってくると歩けだした。先生のご自宅まで歩く気持ちも出だした。私にとって病院にいたらまず歩けないまま入院し続けていただろう。そういう人と言うのは誰でも持っておられるであろう。大事にしていただいた人、こちらが大事にして恩返ししたくなる。偉そうに言っている私だが、本音は助けてもらっている人が沢山いる。格好構いの悪さ、よく解っている。昔を思い出す今日のうれしさ、まだまだ頑張らないとね。 短日や 師との語らい まだ燃ゆる かずなり
2013年02月02日
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知人の卯之助さんが怪しい人にストーカーされて難儀されているので、相談にのることに。。一睡もされてなかったようだけど、出来るだけ気を紛らわしてもらうことに。。朝一番、まずは遠方の知人に、お年玉代わりの姫革の財布を送る。その後、近くの魚屋さんで鰤アラを買ってから、友人宅を訪ねる。それから例によって、コストパホーマンス姫路NO1の「しげちゃん寿司」で腹ごしらえをしてから、「うさぎ」さんと、「グリーンモール」内のリサイクルショップへ。「うさぎ」さんで、ミニ鯛焼きを鉄板で温めてもらって食す。これまた美味!帰りに卯之助さんの知人の酒屋さんで、ウィスキーなど買う。セール中で、平常の三分の一という値段なので、飲めない僕も進物用に何点か買ってしまった。戻ってきてから韓国薬膳料理を食べに行ってから、竹島さんにキムチを届けに行く。総計、10500円也、帰る頃には財布の中身はスッカラカンであった。トホホ。。でも、松の内だから、まぁ、いいか。。☆ 感動すること ☆ 感激すること ☆ 感謝すること 平成の三感王、としちゃんの別ブログです。 ☆ http://ameblo.jp/toshicyan0801
2013年01月09日
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