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2020年11月15日、浅草1丁目1番1号の「神谷バー」に行き、特別なブランデーである「デンキブラン」を飲み、食事をしました。デンキブランとはブランデーベースのカクテルで、他にジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされています。明治のころ、目新しいものには電気という称号がつけられており、目新しいブランデーということで、「デンキブラン」という名前になりました。↑ 両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行。P93。 台東区浅草・東武伊勢崎線浅草駅前。名物カクテルのある神谷バー(1992年)。↑ 2020年12月15日の神谷バー。↑ 神谷バーの横は、東武伊勢崎線浅草駅のビル。 ↑ 登録有形文化財。↑ 神谷バーの広告。「浅草一丁目一番一号 デンキブラン」。↑ 電気ブラン(オールド)400円。デンキブラン300円。↑ KAMIYA BAR。↑ 2階。↑ 東京下町 浅草とっておき/東京生活編集部/2007年3月30日 初版発行。P48~49。明治13年の創業後、西洋風に装いを改めた店舗は、屋号を「神谷バー」とし、日本発のバーとして、その歴史を歩み出した。大正10年に現在の神谷ビルが落成し、以来、時代は変わろうとも、神谷バーが刻む時の速度は今も昔も変わらない。ドアを開ければ、いつもの情景が広がり、デンキブランを片手に会話がはじまる。日本でははじめての西洋風バーには、石川啄木や荻原朔太郎など名だたる文豪たちも足を運んだ。↑ デンキブラン。P53。デンキブランとはブランデーベースのカクテル。他にジン、ワイン、キュラソー、薬草などをブレンド。しかし分量だけは秘伝とか。明治のころ、目新しいものには電気という称号がつけられ、それはハイカラな品として大きな関心を集めたもの。デンキブランは、昔から人々の話題の中にあった。↑ ハンバーグとカニクリームコロッケのセット。
2020.12.23
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亀有から中川を越えると、新宿(にいじゅく)です。新宿には「鍵の手」と呼ばれる、旧水戸街道が直角に曲がる道があります。なせ直角に曲がる道を作ったのか不思議ですが、小田原・北条氏が作ったとの事で、防衛の目的でわざと道を曲げたのではないかと想像しました。↑ 両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/2004年11月22日発行。p29。葛飾区新宿(にいじゅく)。手前に中川橋。画面奥が「鍵の手」(1994年)。↑ こちら葛飾区亀有公園前派出所 第117巻。p5。両さんの亀有歴史散歩の巻。↑ 「新宿(にいじゅく)」「コミックス94巻「ベーゴマ名人両津!!」挿絵に。直角に曲がる都内でもめずらしい道。鍵の手(かぎのて)式とよばれ、江戸時代に小田原・北条氏によって作られた。↑ 葛飾柴又 魅力再発見(表紙)/2020年(令和2)3月発行。(3刷)発行/葛飾区産業観光部観光課。↑ 葛飾柴又 魅力再発見(裏)/2020年(令和2)3月発行。(3刷)発行/葛飾区産業観光部観光課。(上)昭和戦前期の葛飾区地図。(下)昭和11年ごろ。葛飾区の航空写真。国土地理院。↑ 昭和戦前期。新宿(にいじゅく)の鍵の手の道が見える。↑ 昭和11年頃の航空写真。新宿(にいじゅく)の鍵の手の道が見える。↑ 葛飾柴又 魅力再発見/2020年(令和2)3月発行。(3刷) 発行/葛飾区産業観光部観光課。p54の地図。p54。新宿(にいじゅく)の鍵の手の道がはっきり分かる。ーーーーーーーーーーーーーーー↑ 中川に架かる中川大橋。(国道6号線)。↑ 中川大橋と中川。↑ 中川を越えると新宿(にいじゅく)。↑ 新宿(にいじゅく)の鍵の手の入り口。↑ 6号線の歩道橋。↑ 鍵の手の入り口は右側。↑ 6号線から鍵の手の道に進む。↑ 真っすぐな道だが、奥で直角に曲がる。鍵の手と呼ばれる。↑ 途中にある「浄心寺」。↑ 浄心寺。↑ いちょうの木。↑ 浄心寺の中にある「清水巡査部長の墓」の看板。昭和11年(1936)2月26日早朝、陸軍内部の皇帝派青年将校は武力によるクーデターを図り、約1,400人の部隊を出動させて国会・首相官邸一帯を占拠し、陸軍上層部に国家改造の断行を要請した。2.26事件の発生であった。当時警視庁巡査部長であった清水与四郎氏は、岡田啓介総理大臣の鑑定警戒勤務中にこの事件に遭い、機関銃などの乱射を受けて命を落とした。この事件の責めをとり、岡田啓介内閣は3月に総辞職をしたが、この霊に報いるため、岡田氏の手によって、8月にこの墓碑が建立された。↑ 浄心寺の中にある清水巡査部長の墓。↑ 「新宿(にいじゅく)一里塚」停留所。 この付近に一里塚があった。↑ 「中屋のせんべい」の先が、鍵の手の曲がり角。↑ 日枝神社の石柱。↑ 路地の奥に日枝神社がある。↑ 鍵の手の曲がり角にある山王保育園。 横に中島守利氏の銅像が見える。↑ 中島守利(なかしまもりとし)氏の銅像。中島守利氏は新宿(にいじゅく)出身の政治家であり実業家で、長年衆議院議員を務めた。↑ 旧水戸街道の鍵の手の曲がり角。↑ 直角に道が曲がる。↑ 途中にある西念寺。↑ 西念寺。↑ 西念寺。↑ T字路に出る。↑ T字路から宝蓮寺が見える。↑ 宝蓮寺。↑ T字路の側は中川橋があり、切り取られたタブの木がある。中川橋東橋詰にあったタブの木は、昔から街道を往来する人々の「道しるべ」であった。しかし平成4年から始まった中川橋架替え事業に伴い、移植が不可能であったので伐採された。現在植えられているタブの木は、伐採に先立って穂を採取して育てた苗木である。↑ 伐採される前のタブの木。↑ 伐採されたタブの木と、建て替えられた中川橋。↑ 中川橋から見える東京スカイツリー。↑ 中川と新宿(にいじゅく)の桟橋。↑ 中川。↑ 中川を越えると、アリオ亀有が見える。
2020.12.18
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「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第117巻 両さんの亀有歴史散歩の巻」の中に、環状7号線で亀有の南にある場所に「弥生時代の遺跡」、「葛西城跡(かさいじょうあと)」が描かれています。青砥7丁目付近の環状7号線の両側に、「葛西城址公園」と「御殿山公園」があります。この地域は弥生時代には「御殿山遺跡」があり、土器が出土しています。15世紀にはこの地に「葛西城」が上杉氏により築城されました。二つの公園の辺りが城の中心部で、そのまわりに郭がありました。その後、北条氏が関東の領国化を進め、葛西地域も北条氏が支配しました。天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた時、葛西城も陥落しました。徳川家康が江戸幕府を開くと、葛西城は将軍の鷹狩の宿泊所として使われ、「青戸御殿」と呼ばれました。徳川家康、秀忠、家光の3代が鷹狩の時に利用したようです。将軍の御殿を表す徳川家の家紋である葵(あおい)紋の瓦が沢山出土しています。葛西城は環状7号線の建設に伴い、昭和47年(1972年)から昭和56年(1981年)まで発掘調査が行われました。瀬戸や美濃で生産された食膳用の陶器の皿や、花瓶をのせる台、将棋の駒、天目茶碗、やじりや鉄砲玉など武具、武器類が出土したそうです。↑ こちら葛飾区亀有公園前派出所 第117巻/秋本治/集英社/1999年12月7日発行。p4~5。両さんの亀有歴史散歩の巻。↑ p5。両さん「今回のこち亀に登場した『亀有歴史マップ』だ」「亀有見物に利用してくれ」。↑ p5。図の下部は、「弥生時代の遺跡」、「葛西城跡」。↑ 環状7号線の左右に、本丸や濠がある。p17。亀有村の所に、城、古墳が描かれている。「『新宿(にいじゅく)』は日本橋から二番目の宿場町でにぎわった所だ」「中川の両側には料亭や川魚料理が立ち並び、特に帝釈天の庚申の日は渡し船を使うため、料亭は盛況だったと言われているな」ーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 京成電鉄・青砥(あおと)駅。↑ 京成3000形電車。 3階のプラットフォーム。↑ 3階から2階へ降りる階段。↑ 2階のプラットフォーム。中央には1階へ降りる階段がある。↑ 京成青砥駅。↑ 京成電鉄・青砥駅。↑ 青砥駅は、3階建てで、3階、2階にそれぞれ線路とプラットフォームがある。↑ 環七通りに出る。↑ 環七通りと京成線の高架橋。↑ 環七通りを北に歩いて行く。↑ 途中にあった青戸小学校。創立70周年。↑ 青戸小学校 昭和29年(1954年)6年生の写真。↑ 青戸小学校 昭和37年(1962年)新1年生入学写真。木造校舎。↑ 現在の青戸小学校。↑ 昭和42年(1967年)頃、鉄筋校舎建設中の青戸小学校。↑ 現在の青戸小学校。↑ 環七通りを歩く。↑ 青戸7丁目東。この先の右側に「葛西城址公園」、左側に「御殿山公園」がある。弥生時代の「御殿山遺跡」や、葛西城(かさいじょう)の本丸があった場所。↑ 葛西城址公園。↑ 葛西城址公園案内図。ーーーーーーーーー↑ 葛西城址公園から環状七号線を渡る。↑ 御殿山公園へ進む。↑ 御殿山公園。↑ 葛西城(かさいじょう)の跡。↑ 南側方向の航空写真。環状七号線(環七)を挟んで、葛西城址公園と御殿山公園がある。中川が葛西城の自然の防壁になっていた。↑ 葛西城の発掘調査風景。↑ 中世の漆器の出土状況。↑ 中国から輸入された磁器碗。↑ 古墳時代の土師器の出土状況。↑ 青砥藤綱城跡(御殿山公園内)。青砥藤綱(あおとふじつな)城跡の石碑が御殿山公園内に設置されていた。青砥藤綱の屋敷が青砥にあったとされるが、はっきりわからない。
2020.12.17
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葛飾区郷土と天文の博物館ですが、2020年11月7日に2階展示室「かつしかの歴史」がリニューアルオープンしました。葛飾で出土した埴輪から、大友義統(おおともよしむね)の感状など中世の資料、江戸時代に中川を行き来した肥船の展示がありました。大正12年の関東大震災で家を失った多くの人たちが葛飾区に移り、人口が急増した事や、昭和17年(1942年)4月18日に米軍による東京初空襲(米国の爆撃隊司令官の名前からドーリットル空襲とも呼ばれる)があり、水元(みずもと)国民学校も機銃攻撃を受けて生徒が亡くなった記録も詳しく紹介されていました。一番興味があったのは、昭和30年代のボルト・ナット工場と民家が再現された所で、当時の生活が良く分かります。私は小さい頃住んでいた家や田舎の様子と重なる部分があり、とても懐かしく感じました。↑ 葛飾区郷土と天文の博物館。(2020年11月14日撮影)↑ 2020年11月7日、リニューアルオープン。↑ 戦国大名・大友義統(おおともよしむね)の感状。葛飾区域の名主の祖先が建てた戦功を讃えた内容が書かれている。大友義統は豊後の大名・大友宗麟(おおともそうりん)の長男で、歴史好きの方には有名な話だが、時代に翻弄された人だと思う。大友義統は薩摩の島津氏と戦い、豊臣秀吉の家臣になり、文禄の役で朝鮮に渡るも、小西行長の救援をしなかったという理由で改易させられる。関ケ原の戦いでは西軍に付いたため、常陸国に流刑となった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー博物館の2階へ続く階段に掲示してある浮世絵。↑ 初代歌川広重 名所江戸百景 隅田川橋場の渡しかわら竈(かまど)。安政4年(1857)。隅田川の渡し場で、近くの瓦などを焼く竈(かまど)から、煙が白く流れている。↑ 初代歌川広重 名所江戸百景 中川口。 安政4年(1857)。小名木川(おなぎがわ)の中川口の風景。小名木川は徳川家康が小名木四郎兵衛に命じて作らせた運河で、隅田川と中川を結んでいる。↑ 初代歌川広重 名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね。 安政4年(1857)。この絵は、亀有の水路であった曳舟川を描いたと言われている。人夫がサッパコと呼ばれる船を綱で曳いて、曳舟川を上流へ引っ張っている。交通手段として船に乗る客もおれば、酒や食べ物を持ち込んで、風景や花見を楽しむ客もいたという。↑ 初代歌川広重 名所江戸百景 にい宿のわたし(初刷)。安政4年(1857)。亀有を流れる中川の対岸が新宿(にいじゅく)で、その渡しを描いたもの。↑ 初代歌川広重 名所江戸百景 利根川ばらばら松。 安政4年(1857)。「ばらばら松」がどこにあったか分からないのだが、利根川とあるも旧江戸川で、浦安から葛西にかけて流れた岸部を描いたといわれている。魚を捕る投網が宙を舞い、網の向こうに船と景色が描かれている素晴らしい絵。↑ 初代歌川広重 名所江戸百景 鴻の台とね川風景。安政4年(1857)。「鴻の台(こうのだい)」は市川市の「国府台(こうのだい)」の事で、松戸市の矢切から市川市へ南に進むと、国府台に行く。北条氏と里見氏が下総(しもうさ)を巡って争った国府台(こうのだい)合戦は、天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回行われた。北条早雲の長男である北条氏綱は関東を手中に収めようとし、房総半島の里見氏と戦って勝利した。「とね川」となっているが、今の「江戸川」の事。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 葛飾で出土した土器の紹介。↑ 6世紀後半に作られた、柴又の古墳から出土した埴輪。ーーーーーーーーーーーーーーーーー肥舟:こえぶね(葛西船)の紹介。↑ 肥船:こえぶね(葛西船)で、実際の舟(14メートル)の1/2スケールの模型が展示されている。↑ 人糞尿は江戸時代には下肥(しもごえ)として都市と農村間で売買されるようになった。葛西では船で肥料を運び、肥船(こえぶね)とか葛西船(かさいぶね)と呼ばれた。↑ 肥舟は中川を運行し、肥桶を最大600杯分積むことができた。舟の前方の小部屋は「セイジ」といい、船の漕ぎ手が寝泊まりする部屋。下肥は船の甲板の板を開けて、肥桶を入れて運ばれた。セイジの小部屋との間は、芳香の強いカヤの木が使われていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーー昭和30年代の生活風景。(ボルト・ナット工場と住居のジオラマ)↑ ボルト・ナット工場。↑ ケトバシプレス。足でペダルを蹴とばす力でシリンダーが上下し、金属や皮革の型抜きをする機械。フットプレスともいい、少なくとも昭和初期には町工場で使われていた。↑ 昭和30年代の住居のジオラマ。↑ テレビ画面に「鉄人28号」の場面が映っていた。↑ 横山光輝氏の「鉄人28号」に出てくる、少年探偵・金田正太郎。↑ リモコンを操縦して、巨大ロボット「鉄人28号」を操縦する。↑ 「しばらくお待ちください」。↑ 「モンチッチ」。葛飾区にある株式会社セキグチの人形。↑ ダッコチャン人形。↑ ゼンマイ汽車 8の字板レール。有限会社三幸製作所。↑ セルロイド人形「ミーコちゃん」。現在日本で唯一のセルロイド玩具製造を行う職人、平井英一さんの作品。↑ (手前)ボンネットバス、オールドスポーツカー、ゼンマイミニのりもの(後ろ)動力大ロケット、ゼンマイロボット、浮金魚↑ (手前)ゼンマイのりもの、ゼンマイ路面電車、浮ヨット、スペースガン(後ろ)ゼンマイロボット、浮金魚、「トミカ」シリーズ、オートバイ↑ 葛飾の昭和30年代の地面を再現。↑ 昭和30年代には昭和歌謡を代表する歌手が登場した。美空ひばり、島倉千代子、三船美智也、三波春夫、小林旭などのレコードは多くの人に親しまれた。↑ 昭和30年代には、娯楽雑誌が登場し、多くの人に親しまれた。さまざまな分野の雑誌ができ、それまでの月刊誌に加え、週刊誌も刊行されるようになった。↑ ベーゴマと筆箱。ベーゴマはこまを弾き飛ばす遊び。セルロイドは昭和20年代に葛飾区で盛んに製造され、筆箱にも使用された。↑ ベーゴマはこまを弾き飛ばす遊びで、こまには当時のヒーローの名前が書かれ、勝つと相手のこまがもらえた。【こち亀 第118巻で、ベーゴマの楽しいエピソードがあるので紹介します】↑ こちら葛飾区亀有公園前派出所 第118巻/秋本治/集英社/2000年3月8日発行。p5 江戸っ娘・擬宝珠纏(ぎぼしまとい)の巻。p18 両さんと纏さんが、ベーゴマで対決するシーン。p18。p19。p19。 ベーゴマ大王の両さんが、纏さんに負かされてしまう。↑ 炊飯器ができると、簡単に御飯を炊けるようになり、釜でご飯を炊く手間がなくなった。釜で炊いたご飯は木製のお鉢に移した。↑ 洗濯機ができる前、洗濯はたらいや洗濯板を用い、手で行ったため時間がかかった。着物や洋服のしわを伸ばすアイロンとこては、炭火で温める金製から電化製品になった。↑ ハエ取り紙が天井から吊るされている。ハエが一匹付いていた。
2020.12.16
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葛飾区郷土と天文の博物館が2020年11月7日にリニューアルオープンしました。2020年11月14日に博物館を見ました。天文の展示を見た後、プラネタリウムも見たいと思いましたが、新型コロナ対策で、前日までに予約しないと見られないとの事でした。↑ こち亀142巻p165。 「葛飾区郷土資料館だ」「プラネタリウムもあるのか!」↑ リニューアルした「葛飾区郷土と天文の博物館」。↑ 日時計が設置されている。↑ 「日時計のみかた」。日時計の時刻に右の表より、今月に当てはまる所を見つけてプラス、マイナスしてください」。↑ 日時計は、午後1時35分を指している。↑ 当日は2020年11月14日だった。均時差表のグラフは「-15分」を指している。↑ 日時計の午後1時35分から、11月の均時差表で-15分を加えると、午後1時20分になる。時計を見ると、ちょうど午後1時20分であり、日時計から時間を求める事ができた事が分かる。↑ 葛飾区郷土と天文の博物館。2階へ行く階段。↑ 飾り熊手(清田敏雄氏作成)。長さ3メートル20センチ、幅は2メートル。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ フーコーの振り子。↑ フーコーの振り子。振り子はいつまでも同じ方向に触れ続ける性質があるが、地球の自転とともに地球が回転しているため、地上にいる私たちには振り子の向きが変わっていくように見える。ーーーーーーーーーーーーーーーーー天文尺度計。↑ 天文尺度計。おもりが下がっていき、おもりの赤い線と文字盤から時刻を読み取る江戸時代の時計。当時は、時間の長さが毎日少しづつ変わる「不定時法」を使っていたため、半月毎に文字盤を取り換えていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ ニュートン式反射望遠鏡。↑ ガリレオ式屈折望遠鏡。↑ カセグレン式屈折望遠鏡。↑ ケプラー式屈折望遠鏡。ーーーーーーーーーーーーーーー↑ チェコ・プラーエの大アーミラリー。↑ チェコ・プラーエ。ヴェン島(現在のスウェーデン)に天文出会いを建設し、肉眼による非常に高精度な観測記録を大量に残した。↑ ティコ・プラーエの大アーミラリー。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー木星。ーーーーーーーーーーーーーー博物館で展示されているクジラ座の絵。↑ ヨハン・バイエルのクジラ座。1603年。↑ ジョン・フラムスチードのクジラ座。1776年。↑ ヨハン・ボーデのクジラ座。1973年。ーーーーーーーーーーー私が持っている星図と、星座の本。↑ 最新版 全天恒星図/広瀬秀雄、中野繁/昭和51年10月25日 第11版発行/誠文堂新光社。↑ p38~p39。↑ p38。くじら座。↑ 星座ガイドブック 秋冬編/藤井旭/誠文堂新光社/1977年8月20日第2版発行。↑ p157。クジラ座。↑ フラムスチードの星図にあるクジラ座。↑ p158~159。くじら座。↑ p159。 アラビア星図のくじら座。↑ p164。 西に沈むくじら座。大岩につながれたアンドロメダ姫をひとのみにしようとしたところを、空からとびおりてきたペルセウスに、怪女メドゥーサの生首をつきつけられ、たちまち石となって海の底へしずんでしまったという化けくじらの姿ですが、その神話らしく、こそこそとしっぽから東の空に姿を見せ、まっすくにつっ立ったままぶくぶくと西の地平線へ沈んでいきます。(撮影/大野裕明・福島県)
2020.12.15
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東京都葛飾区亀有ですが、曳舟親水公園(ひきふねしんすいこうえん)を通って、京成電鉄・お花茶屋駅まで歩きました。曳舟親水公園には、鷹狩の像や、曳舟の像が立っていました。江戸時代には、船に綱をつけて、業者が綱を引っ張りながら川を遡っていたそうです。「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行」のp36~40では、曳舟川の事が書いてあります。「この通りはかつて曳舟川の川筋でした。江戸時代に農業用水と飲用上水が並ぶ二筋の水路が作られ、その後は川端から綱で船を曳く水運が、明治時代まで行われていたそうです。しかし1955年に水路が一本化され、その両側が広い道路になってからは、すっかり流れが濁ってしまいました。さらに川は暗渠になり、今では曳舟親水公園がその上に造られて、川そのものは歴史のなかに消えてしまったんです。往年の曳舟川の様子は親水公園に再現された船着き場や、江戸時代にその周辺が鷹狩場だったことを示す、鷹狩りの像から知るしかありません」(p36)↑ 初代歌川広重 名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね 安政4年(1857年)。↑ こちら葛飾区亀有公園前派出所 第117巻/秋本治/1999年12月7日発売。↑ こちかめ第117巻 「両さんの亀有歴史散歩の巻」 p19。「ここが元曳舟川(ひきふねがわ)だった所だ」「今は曳舟川親水公園になっている」↑ 曳舟川親水公園の交差点にあったスケート場。↑ スケート場はコンビニになっている。↑ 2020年11月14日撮影のコンビニ。昔はスケート場があった場所。↑ 亀有香取神社境内にある看板より。曳舟川(ひきふねがわ)。曳舟川は万治2年(1659年)に越谷の瓦曽根溜水から引かれた亀有上水、葛西用水が元と言われている。亀有上水は本所、深川に住む武家屋敷の飲料水に当てられ、葛西用水はこの辺りの農家の水田を潤すものであった。享保7年(1722年)に亀有上水が廃止となったが、その水路を利用して片岸から綱をつけて引く船(曳舟)が登場し、「曳舟川」の由来となった。現在北側は埋め立てられて道路となっているが、南側は平成2年(1990年)「曳舟川親水公園」になった。↑ 昭和22年の曳舟川。↑ 昭和30年代の曳舟川。↑ 曳舟通りを歩く老人と子供達。↑ 昭和50年代。交通量が増え、曳舟川は水質が非常に悪かった。↑ 平成22年。現在は埋め立てられて面影は無くなっている。↑ 曳舟川親水公園。↑ 曳舟古上水橋。↑ 両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行。p37。葛飾区亀有・旧曳舟川。後に暗渠となり、現在は親水公園に(1990年)。↑ 曳舟川の由来。曳舟川の名は、江戸時代中期から、明治15年まで、篠原村(現四つ木)~亀有村間の18町(約3㎞)でサッパ船(サッパコ)という小舟に乗せた人を、船頭が土手から舟先につけた縄を引いたことにちなんでいます。曳舟は、江戸東郊の風物詩として人気を呼び、多くの紀行文や初代歌川広重の「名所江戸百景」などに描かれています。↑ 初代歌川広重 名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね 安政4年(1857年)。葛飾区歴史と天文の博物館蔵。↑ 蓮光寺。↑ 両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行。p39。葛飾区亀有・曳舟川親水公園。長さは900メートルにも及ぶ(2004年)↑ 休憩所とトイレ。↑ 「曳舟川物語」江戸時代後期、篠原村(四ツ木)から亀有村までの古上水場では引船(ひきふね)が行われていた。5、6人乗りの小舟を綱で引く、いわば引船が行われていた。篠原村の発着所には吉野家という茶店があり、客の中にはそこで飯、酒を取り寄せて船に乗る者が増えた。利用客が増えるにつれて、吉野家は花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培して店名を「吉野園」に変え、付近の堀切園(現在の堀切菖蒲園)と共に、花の季節に訪れる人でたいそう賑わった。↑ 「亀有物語」亀有の名が歴史の記録に登場してくるのは、今から約800年前の事。「義経記(ぎけいき)」によれば、治承4年(1180年)、約3万人の軍勢を率いる源頼朝(みなもとのよりとも)は、鎌倉に向かう途中、亀無(かめなし:現在の亀有)などから、海人の釣舟数千艘を用意させ、3日間で隅田川に浮橋(うきはし)を作らせたと記されている。当時は浅草付近まで海岸線があったとされ、亀有周辺にも漁に携わる人々が住んでいたと想像できる。江戸時代の初期には、亀無は亀有に改められた。↑ 源頼朝の軍勢。↑ こち亀ラッピングバス。↑ 亀有から白鳥に入る。↑ 国立国会図書館所蔵「絵本江戸土産」「四ツ木通引舟道」「四ツ木通(よつぎどおり)引舟道(ひきふねみち)」前に知るせし掘割の、その長きを二里に余り末流新宿(にいじゅく)の川に入る道、それを過る(よぎる)旅客舟に乗って往還すれど、元来幅の狭きによりて、その舟に縄を掛け陸に在りてそれを引く。よって引船通りと唱える水竿を操り櫓をだすより、またその客は風雅なり。↑ こちかめ第117巻 「両さんの亀有歴史散歩の巻」 p20。「江戸末期には農業用水と亀有上水という飲料用の水路の二筋があった」「上水が廃止になり、その後旅人を乗せて曳舟(ひきふね)として活躍したわけだ」「亀有村にも7艘の船があり、茶屋もあったらしい」「風流な船旅だな」「鷹狩の像もちゃんとあるわ」「ここ一帯が御鷹場(おたかば)だったからな」↑ 鷹狩りの像。↑ 手には鷹。 誰かが像にマスクを付けている。↑ 船を引く人の像。↑ 葛飾区郷土と天文の博物館。↑ 田んぼ。↑ 京成電鉄・花畑駅近くの踏切。↑ 京成電鉄・お花茶屋駅。↑「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行」(p45)。葛飾区お花茶屋。右手に京成本線お花茶屋駅(1994年)。↑ お花茶屋駅をスカイライナーが通過。
2020.12.14
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東京都葛飾区亀有の旧水戸街道に、「亀有名画座」という映画館がありました。「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第115巻/秋本治/集英社/1999年8月9日発行」の中に「亀有名画座物語の巻」があり、詳しく紹介されています。昭和18年頃の映画館の姿が漫画に描かれていますが、建物は銭湯の形をしており、看板が「亀有会館」となっています。高砂にあった銭湯を亀有に移築して、そのまま映画館として使っていたそうです。(p14)亀有には日立、紙工場、三共製薬などがあり、何万人もの工員が住んでおり、映画館だけでも亀有に5館あったそうです。しかし、時代とともに客が減っていき、亀有会館も「東映封切館」、「亀有名画座」と改めて頑張ってきましたが、旧水戸街道の道路拡張工事のため、映画館は閉鎖されました。「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行」のp14には、亀有名画座の事が次のように書いてあります。「かつて映画ファンにその名を知られた亀有名画座がありました。『亀有名画座物語の巻』(115巻)は、道路拡張工事によって閉館(1999年)することになったこの映画館を惜しんで描いたエピソードですが、実はこの左隣に僕・秋本治の生家があったんです。ですから館主の今井通雄さんから見れば、ぼくはずっと『隣の魚屋の倅(せがれ)』で、小学校のころは家の裏庭伝いに非常口から館内に潜り込んでは、映画を見せてもらっていました」。「亀有名画座は『亀有名画座物語の巻』以前にも、『浅草シネマパラダイスの巻』(97巻)で少年時代の両さんが通ったオリオン座のモデルにさせてもらいました。そのための取材で映写室に入れてもらえたのも、今井さんとのご縁があればこそというわけです。今井さんとは閉館の前に、『亀有名画座物語の巻』の取材で再開することができましたが、亀有で長く親しまれたこの名画座とともに、僕の生家も姿を消してしまったんです」。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第115巻/秋本治/集英社/1999年8月9日発行」↑ p5.亀有名画座物語の巻。↑ p13。↑ p18。映写室の様子。↑ p22。亀有名画座での上映は1999年2月いっぱいで終了し、3月25日~29日の芝居上演の後、道路拡張工事のため取り壊されました。↑ 「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行」↑ p16~17。「えっ!!亀有名画座が閉館!!」。↑ 昭和50年代。 亀有名画座。↑ 水戸街道拡張工事により平成11(1999)年閉館。その後にマンションが建つ。↑ こち亀第97巻「浅草シネマパラダイスの巻」。↑ p106~107。↑ p113。子供たちは、映画館の中でラムネビンを壊して中のビー玉を取り出していた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 旧水戸街道にある「ワハハ両さん像」。↑ ワハハ両さん像の近くに、「亀有名画座」があった。↑ 亀有名画座の跡地はマンションが建っていた。↑ 旧水戸街道。↑ 昔の旧水戸街道は狭く、幅が5メートルであった。↑ 旧水戸街道だが、道路拡張工事が完了し、道路も二車線になった。ーーーーーーーーーーーーーーーー旧水戸街道。↑ 昭和10年。明治末期には80軒以上の商店が並び、昭和に入っても変わらず栄えた。↑ 昭和30年代。↑ 昭和30年代。↑ 平成22年。 現在は道路拡張工事により街並みも様変わりしている。
2020.12.13
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東京都葛飾区亀有ですが、アリオ亀有ショッピングセンターの近くに中川が流れており、中川橋が掛かっています。「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」の漫画に「中川」の風景が描かれているので、一部を紹介します。また、「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行」でも中川の事が色々と書いてあります。p18「中川ですが、『こち亀』では、大富豪巡査の中川圭一にその名前を借りています」。p20「昔は中川土手から続く田んぼや沼に、いくらでもザリガニ(アメリカザリガニ)がいました。なかでも大きくて赤いヤツを「マッカチン」と呼んで、子供たちは棒から糸でスルメを垂らしては、ザリガニ釣りに夢中になったものです」。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第118巻」/秋本治/集英社/2000年3月8日発行。↑ 「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第118巻」p105(とんだ完全犯罪!?の巻、表紙」↑ 「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行」p31。葛飾区亀有・中川橋(2代目)。今は金網に囲まれ、川面に近づけない(1999年)。↑ 2020年11月14日の中川と中川橋(3代目)。 3代目の橋になり、中川の看板が「建設省」から「国土交通省」に変わっている。↑ 「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行。」p31。葛飾区亀有・中川橋(2代目)。橋を渡り東に1キロほど歩くと柴又に。↑ 2020年11月14日の中川と中川橋(3代目)。 ボートの桟橋が見える。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第105巻」/秋本治/集英社/1997年12月9日発行。↑ こち亀第105巻。「超育てゲー『モンちっち』の巻。p5。↑ p6。 中川に皆が集まる。↑p10。「あの工場はなんですの?」「日本紙業だよ」「常磐線の鉄橋の向こうに見えるのが三菱製紙だよ」「この中川沿いは製紙会社が多いんだよ」p11。「向こうの青戸の方には東洋インキってでかい工場があってな!よくドラム缶の上に乗って遊んだぞ!」「今みたいに土手にガードレールがなくてな」「土手の下はキャベツやネギ畑だったよ!」「引き潮の時は川べりで横ガニがとれてなァ」「魚もけっこういたぞ!」「昔はもっと川がきれいでな、川の向かいがボート乗り場だったんだ」「へえ」「鉄橋から中川橋の少し向こうまでがボートの範囲でな」↑ 中川橋(3代目)とボート乗り場。↑ 中川。川上方向を写す。↑ モーターボートが中川を進む。 その先に見える橋は、JR常磐線(じょうばんせん)の鉄橋。ーーーーーーーーーーーー「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第85巻」/秋本治/集英社/1994年2月9日発行。↑ p125。ザリガニ合戦!?の巻。↑ p135。 中川に生息するアメリカザリガニ。↑ 「マッカチン」とは、赤くて大きなザリガニの事。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 中川の渡し~亀有駅。亀有と新宿(にいじゅく)の間に架かる中川橋。この橋が架かる前の江戸時代は「新宿(にいじゅく)の渡し」として中川を船で渡しており、歌川広重の「江戸百景」に描かれるほどの風光明媚な場所であった。明治17(1884)年に中川橋が開通した。当時は明治天皇が近衛兵の演習をご覧になるための仮橋として初めて渡橋されたので「御幸橋」との別名が生まれた。また、橋を往来する人馬から料金を取っていたため「賃取橋」とも言われた。この橋の通行料は亀有3:新宿7の割合で分担され、橋の維持費、街の財源となった。その後葛飾区に常磐線(じょうばんせん)が通る事となり、当初は新宿(にいじゅく)に駅を置く予定だったが、新宿町は鉄道が通ると「街の大きな財源である橋の通行料が大きく減ってしまう」などの理由で、駅は置かれなかった。隣の亀有に白羽の矢が立つと、当時の亀有の地主が1,000坪もの土地を無償で寄贈したので、明治30(1897)年に亀有駅ができた。中川橋はその後、大正6年に東京府(現在の東京都)に買収され、昭和8年に鉄橋への変わり、平成20年に新たな中川橋が開通した。↑ 明治38年。 一番最初に架けられた木造の中川橋。↑ 大正時代の中川橋。↑ 昭和8年に鉄橋となる。亀有川より撮影。↑ 平成22年に3代目となる中川橋が開通。ーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 昭和31年8月。 中川右岸。煙突は日本板紙。↑ 平成22年。中川右岸。現在はアリオ亀有が見える。
2020.12.12
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亀有の香取神社ですが、こち亀でも何度か紹介されています。例えば「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第61巻」p120~140で、「我がなつかしき少年時代」として、両さんが子供の時、香取神社の夏祭りで境内の夜店にいたずらをして大騒ぎとなる場面があります。「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第153巻」p51で、香取神社の絵があり、「建治二年(1276年)から亀有村の鎮守として崇拝されている香取神社。当時は巨大松などがあり大木が繁る森の中に鎮座していたと言われる。現在の社殿は昭和42年に新築された。頭が竜で体が亀のユニークなお守りが有名。(売られています)」と書いてあります。「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書」p32~34で香取神社の記載があります。「昔の面影を消し去った日本紙業の工場跡地ですが、その北側には環7に面して香取神社があります。創建されてから700年余の歴史を持つ鎮守の社で、僕が幼かったころには敷地がもっと広くて、境内と中川の間には大きな森がありました」「神社自体の例祭も毎年9月にあって、ここで半纏(はんてん)を着せられて子供神輿(みこし)を担いだり、山車(だし)を引っ張ったりというのが、僕の祭りのイメージとなって脳に焼き付いでいるんです」。境内には、キャプテン翼絵馬と、サッカーゴール絵馬かけ、南葛SCの紹介がありました。(2020年11月14日撮影)↑「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第61巻/秋本治/集英社/1989年12月10日発売」↑ p120~140。我がなつかしき少年時代。 香取神社の境内に夜店が並ぶ。↑「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第153巻/秋本治/集英社/2007年1月9日発売」↑p51。「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第153巻」p51で、香取神社の絵がある。「建治二年(1276年)から亀有村の鎮守として崇拝されている香取神社。当時は巨大松などがあり大木が繁る森の中に鎮座していたと言われる。現在の社殿は昭和42年に新築された。頭が竜で体が亀のユニークなお守りが有名。(売られています)」。↑ 「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書」。↑ p32。「東の香取神社、西の曳舟通り」ーーーーーーーーーーーーーーーー【亀有・香取神社】↑ 香取神社。↑ 首は竜で、体は亀。↑ 亀有総鎮守 亀有香取神社。ご祭神。主祭神:経津主大神(ふつぬしのおおかみ)相殿 :武甕槌大神 (たけみかづちのおおかみ) :岐大神(くなどのおおかみ)↑ 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)↑ 武甕槌大神 (たけみかづちのおおかみ)、岐大神(くなどのおおかみ)↑ 亀有香取神社。↑ 賽銭箱にカメの像がある。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ キャプテン翼絵馬と、サッカーゴール絵馬かけ、南葛SCの紹介。↑ キャプテン翼の作者である高橋陽一さんのサインがある。↑ 亀有香取神社と境内社の亀有北向道祖神社は、「勝負事、必勝」「足腰健康」、「スポーツ振興」の神様として広く崇拝されている。地元葛飾区のサッカークラブチーム「南葛SC」が必勝祈願に参拝した縁で、「キャプテン翼絵馬」が作成された。地元企業のセイズ株式会社がサッカーゴール絵馬かけを奉納した。南葛SCは「キャプテン翼」の原作者である高橋陽一先生(葛飾区出身)を同チーム後援会長に招いた。↑ 亀有香取神社内にある道祖神。↑ 道祖神 猿田彦神(さるたひこのかみ)。↑ 道祖神社のそばに、両さんの銅像が建っている。↑ 亀の甲のパターン。↑ ケーキ屋と、亀有駅方向に建てられた新しい鳥居。↑ 香取神社内にあるこち亀と亀有の歴史パネル。↑ 昭和51年、香取神社が亀有の地に鎮座されて700年を記念し、玉垣、参道大鳥居、石参道、手水舎の境内整備を行った。また、秋の大祭には戦後それまで宮神輿の巡幸を牛車にて行なっていたが、戦後初めて宮神輿を担いて町内巡幸を執り行った。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー香取神社のそばにあった日本板紙亀有工場跡地に、アリオ亀有ショッピングセンターができた。↑ 日本板紙~アリオ亀有。明治30年(1897年)亀有駅の開設後、大正6年(1917)に中川橋の側の20,000坪を超える土地に日本紙業亀有工場(のちの日本板紙亀有工場)ができた。その後にできた日立亀有工場(現在は閉鎖)と共に、それまでの農業の街から商工業の街へと大きく変貌させる一翼を担った。平成15年(2003年)に亀有工場は閉鎖されたが、その跡地には平成18年(2006年)アリオ亀有ショッピングセンターが開店した。↑ 昭和10年頃。日本板紙亀有工場の奥には、香取神社や光明寺が見える。↑ 中川河川敷より、日本板紙亀有工場の煙突。↑ 平成22年。日本板紙の跡地にアリオ亀有ができた。↑ 平成22年、アリオ亀有ショッピングセンター。↑ 昭和60年代、日本板紙亀有工場正門。道路は旧水戸街道で狭く、一方通行であった。↑ 平成22年。道路拡張工事が完了し、道路も二車線になった。↑ 2020年11月14日に撮影した。アリオ亀有と、二車線になった旧水戸街道。↑ アリオ亀有ショッピングセンター。↑ スケート場が設置されていた。
2020.12.11
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「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の漫画を描かれた秋本治(あきもとおさむ)さんが、2004年に「両さんの歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書」を出されました。当時すぐに本を購入し、本の中にある下町風景の絵を眺めていました。本棚に入れたまますっかり忘れていたのですが、最近本棚を整理した時にこの本を読み直しました。秋本治さんの文章を読むと、昔の亀有や東京の下町の風景が目に浮かぶようで、とても面白かったです。亀有駅ですが、今は鉄道が2階の高架部分を走っており、駅の南北は行き来が簡単ですが、昔は地上を鉄道が走り、大きな停車場があったため、開かずの踏切状態だったそうです。本のp43~44で、秋本治さんが次のように書かれています。「僕が慣れ親しんだ亀有というのはもっぱら駅のこの南側で、先に触れた亀有公園が駅の北にあることも、長い間知らなかったくらいです。「亀有昔日・・・の巻(第92巻)」でこれも両さんに語らせたとおり、以前は亀有駅に並んで大きな停車場がありました。そのため貨物列車がひっきりなしに出入りして、線路を渡る踏切は文字通り開かずの踏切り。1969年に線路が高架化されるまで、南北の思うような行き来はままならなかったんです。」また漫画「こち亀 第92巻」の「亀有昔日・・・の巻」では、JR亀有駅南口が再開発されている様子が描かれています。亀有・香取神社の「こち亀と亀有の歴史のパネル」に、亀有駅前と開かずの踏切の変遷が写真で紹介されていました。↑ 両さんの歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景/秋本治/集英社新書/2004年11月22日発行。↑ p13。東京都葛飾区亀有・亀有公園前派出所(1988年)。p13「駅南口から東方向の線路沿いに亀有駅南口飲食店街があった一帯は、再開発によって1996年に駅前ビルに変わりました。「亀有昔日・・・の巻(単行本92巻収録)」ではその変貌する様を、両さんと同僚の秋本麗子が眺めています。激安だった「10円寿司」の店などは消えてしまいましたが、和洋菓子の「亀むら」、煎餅屋の「三喜屋」など駅前ビルのなかに移った店が、南口飲食店街の歴史をいまも受け継いでいるといっていいでしょうか」。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【JR亀有駅の北側】↑ p13。東京都葛飾区亀有・亀有公園前派出所(1988年)。↑ 亀有署・亀有駅北口交番と両津勘吉巡査長。↑ JR亀有駅北口の「両津勘吉像」と両津勘吉巡査長。↑ こちら葛飾区亀有公園前派出所 第153巻/秋本治/集英社/2007年1月9日発行。↑ p47。 亀有駅北口両さん銅像。ーーーーーーーーーーーーーー【JR亀有駅の南側】↑ こちら葛飾区亀有公園前派出所 第92巻/秋本治/集英社/1995年4月9日発行。↑ p171。「亀有昔日・・・の巻」↑ JR亀有駅南口。↑ JR亀有駅南側 リリオ館。↑ p172~173。「亀有駅前の工事もかなり進んできたな」「大きな貨物の操車場があってな。貨物車が何十台も入れ換え作業する訳だ。一度機関車が駅に入ると、あの辺りにあった踏切は閉じっぱなしだ。開かずの踏切になってしまう」p175。「こんなふうになるのね」「あと二年後にはな!」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー亀有・香取神社にある、こち亀と亀有の歴史パネル。↑ 【亀有駅】明治30年5月17日開業。昭和11年電化され、昭和44年に高架となりました。高架となる前は南北を繋ぐ踏切が「開かずの踏切」と言われ、南北の行き来に大変時間がかかったそうです。↑ 昭和5年。戦前の亀有駅前。当時は駅前に亀有橋があった。↑ 戦前の亀有駅前。↑ 戦後の亀有駅前。↑ 昭和30年代。亀有駅表記が新しくなっている。↑ 平成元年頃の亀有駅。当時は駅前にロッテリアがあった。↑ 平成22年の亀有駅。ーーーーーーーーーーーーーーー【開かずの踏切】↑ 昭和30年代の「開かずの踏切」。↑ 昭和30年代の亀有駅。↑ 平成22年の亀有駅。昭和44年に高架となり現在に至る。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【亀有駅の今昔】↑ 昭和40年代の亀有駅付近。まだ線路は高架ではない。↑ 平成元年頃。亀有駅は高架になっている。駅前再開発前の様子。↑ 平成8年。亀有駅南口、再開発後。リリオグランドオープン。↑ 平成22年。 亀有駅南口。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー【亀有駅前 再開発】↑ 平成4年。亀有駅南口 再開発解体工事。↑ 平成6年。亀有駅南口再開発工事着工中。↑ 平成元年頃。当時バスロータリーは駅前に無く、亀有銀座商店街を少し進むとあった。↑ 平成22年。亀有駅南口にバスロータリーが設置されている。
2020.12.10
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2020年10月31日、亀有署・亀有駅北口交番前の両津勘吉巡査長です。(JR亀有駅北口)ーーーーーーーーーーーーーー亀有駅南口の両津勘吉巡査長です。↑ 両津勘吉巡査長が中央部分に立っている。↑ 記念撮影。
2020.12.09
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2020年10月31日、亀有のこち亀像・全15体を見ました。15体以外に、香取神社、水戸街道の一里塚、水戸黄門像、佐藤製薬の両さん風サトちゃん像、亀有の亀像、京成バスの両さんラッピングなどの写真を入れています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(1)ようこそ こち亀の街へ! 両津・中川・麗子がお出迎え像↑ こち亀作者の秋本治さんの手形。↑ こち亀15体の銅像位置。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ リリオ館。JR亀有駅南口。(2)麗子像(リリオ館7階・亀有地区センター内)。↑ 麗子像。↑ 亀有地区センター。ドアの右側に麗子像が見える。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 亀有駅南口 リリオ館。(3)中川像。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 香取神社。↑ 香取神社。(4)少年よ、あの星を目指せ、両さん像。↑ 香取神社内の「少年よ、あの星を目指せ、両さん像」造営記念の看板。↑ こち亀と亀有の歴史がわかる紹介板。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(5)ワハハ両さん像。↑ ワハハ両さん像。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 水戸街道 亀有上宿の標識。↑ 一里塚 水戸街道 (千住、松戸)。↑ 水戸黄門像。↑ 水戸黄門、助さん、格さんの像。↑ 亀有の一里塚跡。一里塚は、道の両側に設置され、榎などが植えられていた。亀有の一里塚は、日本橋から3里、千住から1里の場所。↑ 水戸佐倉道分間延絵図(部分)/所蔵 独立行政法人東京国立博物館。↑ 絵の右側は亀有村。左側の中川を越えると、道が曲がっており「鍵の手」と呼ばれている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(6)本田像。ーーーーーーーーーーーーーーーー(7)少年両さん像。(勘吉、豚平、珍吉像)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(8)サンバ両さん像。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 田中屋の佐藤製薬・サトちゃん像。↑両さん風のサトちゃん。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 亀の像。↑ 亀有の由来。鎌倉時代の建治2(1276)年当時、下総国葛西御厨亀無(かめなし)村と呼ばれており、香取神社の神領地であった。いつ頃「亀有(かめあり)」になったかは書いていない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ バス停の椅子に座る両さん。(9)両津勘吉像。↑ 両津勘吉像と両さん。↑ ピースする両さん。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(10)薔薇と麗子像。↑ 座っている台に薔薇の模様がある。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(11)ひとやすみ両さん像。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(12)ダブルピース両さん像。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(13)敬礼両さん像。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(14)両津勘吉 祭り姿像。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー(15)ようこそ亀有へ両さん像。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー京成バス。
2020.12.08
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2020年11月15日、東京のJR上野駅で巨大クリスマスツリーを見ました。2017年6月12日、東京上野動物園でパンダのリーリー、シンシンの間に誕生した「シャンシャン:香香」の写真がツリーに沢山飾ってあり、モニターにも映し出されていました。シャンシャンは2020年12月末には中国に返還される予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で、2021年5月まで返還が延期となっています。↑ JR上野駅。
2020.12.07
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神奈川県川崎市の京浜急行・港町駅からJR川崎駅まで散歩をしました。川崎競馬場から市立川崎高等学校・附属中学校を通り、富士見公園内の「富士通スタジアム川崎」に行きます。富士通スタジアム川崎ですが、昔はこの場所に川崎球場がありました。川崎球場は1952年に造られ、1954年にパリーグの高橋ユニオンズ、1955年にセリーグの大洋ホエールズが川崎球場を本拠地にしました。1956年に高橋ユニオンズが大映スターズと合併したため、1957年からは大洋ホエールズだけとなります。私は小学校の時、休み時間は校庭で野球をしたりしており、野球の本を買ってきては、セ・パ両リーグの歴史や、野球の細かいルール、スコアの付け方などを覚えました。夜になれば、テレビやラジオで野球中継を楽しみましたが、途中で他球場の途中結果を伝える部分があり、必ず「川崎球場」の名前が出てきました。テレビニュースで川崎球場の試合を見ることがありましたが、川崎球場のレフトとライトの観客席の幅が違うのが分かりました。当時は新聞の野球欄を一生懸命読んでいました。川崎球場の有名な話ですが、王貞治選手は川崎球場で初めて一本足打法を行いました。王選手のホームランがライトの観客席のフェンスを越えるため、フェンスを高くして「王ネット」と呼ばれました。1976年に王選手は700号ホームランをこの球場で打っています。1978年に大洋ホエールズは横浜の「横浜スタジアム」に移り、「横浜大洋ホエールズ」に名称が変わります。代わりにロッテオリオンズが川崎球場を本拠地にします。1985年、86年には、ロッテの落合博満選手が2年連続で三冠王になりましたが、その後中日ドラゴンズに移籍となりました。ロッテは1992年に千葉マリンスタジアムに本拠地を移し、「千葉ロッテマリーンズ」に名称が変わりました。球場の老朽化が激しく、2000年にスタンドが解体撤去され、グラウンドはアメリカンフットボールの試合などに利用されました。2014年にはリニューアルされて「川崎富士見球技場:(富士通スタジアム川崎)」になります。富士通スタジアムの周囲に照明塔が建っていますが、川崎球場時代にあった照明塔がそのまま使われているのではないかと思います。富士通スタジアム川崎の周りを見た後、防火水槽、川崎競輪場、株式会社YAKIN川崎(旧日本冶金工業株式会社川崎製造所)、稲毛神社、六郷橋の親柱再現、KAWASAKI MURAL PROJECT (川崎市壁画プロジェクト)の DRAGON 76さんの壁画、銀柳街と銀座街、JR川崎駅、北側のラゾーナ(LAZONA)川崎プラザを歩きました。ラゾーナ川崎プラザの「東芝未来科学館」は、新型コロナの影響で閉鎖されていました。↑ 京浜急行大師線・港町駅。↑ 川崎競馬場が見える。↑ 川崎競馬場の駐車場。↑ 市立川崎高等学校・附属中学校。↑ 交差点を曲がる。↑ 看板。↑ 現在地。↑ 照明塔。川崎球場の時代から使われているのではないかと思う。↑ 富士通スタジアム川崎。↑ 富士見公園内に施設がある。↑ 富士通スタジアム近くの公園。↑ 防火水槽。災害時の消火用に100トンの水が蓄えられている。↑ 富士通スタジアム川崎。アメリカンフットボールの試合。富士通フロンディアーズ対IBMビッグブルー。↑ グラウンド。↑ 「川崎球場」時代は、ここがライト側だった。↑ 公園内に、川崎競輪場がある。↑ 川崎競輪場。↑ 富士見公園案内図。↑ 「プラネタリー熱間圧延機フィードロール減速機用歯車」。富士見公園に設置されている。株式会社YAKIN川崎(旧日本冶金工業株式会社川崎製造所)の巨大歯車。同機械は、厚さ150㎜のステンレス鋼板を一度の圧延で最薄2.3㎜に圧延する機械で、世界に16基しかいないといわれているうちの1基。日本冶金工業株式会社では、昭和41(1966)年から平成8(1996)年まで川崎製造所で稼働していた。この圧延機導入で初めて同社内でのステンレス鋼一貫生産体制が確立され、生産性が飛躍的に向上した。↑ 「プラネタリー熱間圧延機フィードロール減速機用歯車」。↑ 稲毛神社が見える。↑ 稲毛神社。↑ 稲毛神社。↑ 天地睨みの狛犬。↑ 旧六郷橋親柱再現整備。徳川家康は慶長5(1600)年に六郷大橋を多摩川にかけたが、貞享5(1686)年の大洪水で流された後は明治時代になるまで橋が架けられず、船で川を行き来していた。明治時代になって橋がかけられるも、何度も洪水で流出したため、旧六郷橋が大正14(1925)年に鉄構造のアーチ型橋として架けられ、昭和59(1984)に現在の六郷橋になるまで使われてきた。旧六郷橋の親柱1対は川崎区誕生30年を機会に、近代化遺産として再現整備された。旧六郷橋の親柱。↑ KAWASAKI MURAL PROJECT (川崎市壁画プロジェクト)の DRAGON 76さんの壁画↑ 銀柳街。↑ 銀座街。↑ 京浜急行。↑ JR川崎駅北口。↑ JR川崎駅周辺地図。↑ ラゾーナ川崎プラザ。↑ ラゾーナ川崎プラザの広場。↑ 東芝未来科学館入口。
2020.11.28
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2020年11月7日、川崎大師平間寺の近くにある、中国庭園の瀋秀園に行きました。1981年8月に川崎市と中国の瀋陽(しんよう)市が姉妹都市となりましたが、提携5周年を記念して瀋陽市から庭園の寄贈を受け、「瀋陽の素晴らしい景色を集めた庭園」という意味で、瀋秀園(しんしゅうえん)と名付けられました。中国の古典庭園建築様式が採用されており、清の皇帝の邸宅などに用いられた瑠璃瓦(るりがわら)が使われています。建物の瑠璃瓦、木組み、獅子像、太湖石(たいこせき)は瀋陽市から寄贈されました。↑ 瀋秀園(しんしゅうえん)の垂花門。↑ 瀋陽市から寄贈された獅子像。瀋秀園の守り神。雄獅子。↑ 雌獅子。↑ 瀋秀園(しんしゅうえん)。↑ 垂花門。↑ 知春亭と太湖石。↑ 太湖石(たいこせき)。中国の太湖という湖から切り出された、穴の多い複雑な形の奇石。↑ 太湖石に「堆雲(たいうん)」の文字が書かれている。↑ 知春亭。↑ 知春亭と秀湖。↑ 秀湖。↑ ぐうこうしゃ。ハスの花を観賞できる建物。↑ ぐうこうしゃへ進む。↑ らん翠亭。↑ らん翠亭と滝。↑ らん翠亭。↑ 万里の長城。
2020.11.22
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2020年11月7日、京浜急行電鉄・川崎大師駅で下車し、表参道や仲見世を通って、川崎大師平間寺へ行きました。川崎大師の縁起ですが昔、尾張の国(愛知県)を無実の罪で追われた武将・平間兼乗(ひらまかねのり)は、川崎にたどり着き、魚を捕って生活していました。ある夜、高僧が枕元に立ち、「昔、私が唐にいたころ、自分の像を刻んて海上に放ったが、未だ人と縁が無い。速やかに網でその像を取り、供養して功徳を人々に及ぼせば、福徳となって願いが叶う」とのお告げがありました。兼乗は早速海に出て光り輝く場所に網を投げ、水中から木像を引き上げたので、小庵を建てて供養しました。高野山の高僧である尊賢(そんけん)上人が諸国遊行の途中に立ち寄り、その話を聞き、兼乗と一緒に1128年に寺を建立し、平間兼乗から「平間寺(へいけんじ)」とし、本尊は厄除弘法大師と称しました。1796(寛政8)年に11代将軍徳川家斉(いえなり)が24歳の前厄消除のために参拝したのを機に、以降の将軍の参拝が行われるようになり、大変賑わいました。境内には沢山の像や石碑があり、一部を紹介します。仲見世では達磨や飴を売っていました。板の上で飴を切る音が、トントコと響き渡っていました。↑ 京浜急行電鉄・川崎大師駅。↑ 京浜急行(大師電気鉄道)発祥の地の碑と、「発祥之碑」を紹介する「けいきゅん」像。↑ 京急電鉄のマスコットキャラクター「けいきゅん」・制作者:栗田宏武(くりたひろむ)氏。栗田さんは、独学でチェンソーワークを身につけ、長年ログハウスも造り続けた。2005年にTVチャンピオン「ログハウス王選手権」で優勝。チェンソーアート競技大会にも数多く出場されている。栗田宏武(くりたひろむ)氏。↑ 京浜急行(大師電気鉄道)発祥之地の碑。大師電気鉄道は明治32(1898)年に六郷橋から大師停留所間の2キロ開通した。明治5(1872)年に新橋~横浜間に蒸気車が開通し、その途中にある川崎駅から川崎大師に参詣する人々を運ぶためであった。↑ 川崎大師駅周辺地図。 黒い線が川崎大師表参道と仲見世通りで、川崎大師平間寺(へいけんじ)に続く。↑ 川崎大師表参道厄除門。↑ 表参道を歩く。↑ 開運だるま専門店「小田切商店」のだるま。↑ 日本一(1m)手作り・手書きだるま。↑ 川崎大師入口。↑ 松屋総本店。開運とんとこ飴、せき止飴を売っている。↑ 川崎大師仲見世。↑ 髙橋太一商店。↑ アマビエだるまを買おうかどうか、ずっと迷ってしまった。↑ 仲見世の途中にも松屋総本店があった。↑ とんとこと音を立てながら、飴を切っている所。↑ 柏屋植松商店。↑ かどや開運堂。↑ 寺子屋本舗。↑ 大山門。↑ 大本堂。↑ 川崎大師公認キャラクター「ひらまくん」。奈良の「せんとくん」をデザインした彫刻家の籔内佐斗司さんが、武将・平間兼乗の子供の頃をイメージして作った。顔が「せんとくん」に似ていると思う。↑ 弘法大師・空海。誕生1250年。↑ 古賀政男像。古賀メロディの作曲家で有名な、古賀政男氏の銅像。古賀氏は昭和52年に「川崎大師賛歌」を作曲し、寺に奉納された。同氏の7回忌に建立された。↑ 江戸消防記念碑。享保年間に江戸町奉行の大岡越前守が、江戸市中へ町火消を設け、いろは文字のように48組とした。弘法大師がいろは歌を作ったとも言われており、その起源を永久に伝えるため、明治21年、石工・酒井八右門が建立した。↑ 種梨遺功碑。長十郎梨の良種を発見した当麻辰次郎の遺功の碑。1893(明治26)年に大師河原村の梨園で、当麻辰次郎氏によって発見された梨。↑ 六世竹本網大夫の碑。竹本網大夫(たけもとあみたゆう)は義太夫節の浄瑠璃で有名で、初代は近松門左衛門とも交流があった。6代目の碑がある。「ものいはで 立出るなり 秋のくれ」↑ 太平洋戦争で失った大本堂の復興が進み、昭和33年に本尊を仮本堂から移す式を行った時、記念の句会が開かれ、出席した高浜虚子氏が詠んだ句。「金色の 涼しき法の 光かな 虚子」。↑ 正岡子規句碑。正岡子規が明治27(1894)年に川崎大師を参拝し、俳句を詠んだ。「朝霧の 雫するなり 大師堂」↑ つるの池、やすらぎ橋、釈迦如来像、薬師殿。↑ 降魔成道釈迦如来像。 昭和52(1977)年に設置された。↑ 釈迦如来像と薬師殿。↑ 日本百観音霊場お砂踏み参拝所。平成29(2017)年に建立された。日本百観音霊場(西国33観音、坂東33観音、秩父34観音各霊場)の砂が埋葬され、百寺の観世音菩薩像(レリーフ)がある。↑ 西国33観音霊場、坂東33観音霊場。↑ 坂東33観音霊場、秩父34観音霊場。↑ やすらぎ橋とひらまくん。(祝七五三)。↑ 鐘楼堂。↑ 鐘楼堂。↑ 八角五重塔。昭和59(1984)年に造られた。↑ 第55代横綱北の湖。↑ 第55代横綱北の湖の像。北の湖敏満氏は川崎大師平間寺の檀家。平成29(2017)年に建立。↑ 力石(ちからいし)。境内で若者たちが力比べに使った石。↑ 力石。↑ 遍路弘法大師像。昭和48(1973)年に造られた。↑ 弘法大師像。↑ お遍路の草鞋。↑ 江戸から川崎大師への参拝客のために、寛文3(1663)年に道標が建てられた。高さは171cmで、「従是弘法大師江之道(これより弘法大師への道)」とあり、川崎宿の多摩川寄り入口に建てられていた。↑ 道標のあった場所。↑ 道標。今は境内に置いてある。↑ 「祈りと平和の像」と八角五重塔。↑ 境内で菊の展示会をしていた。↑ 菊。ーーーーーーーー仲見世に戻る。↑ 住吉。↑ 住吉。↑ 松屋総本店。↑ 熱い飴が下に伸びていく。↑ 飴を切っていく。とんとこ音がするので「とんとこ飴」。↑ 飴を叩いて切るので木の台が削れてへこんでいる。この店で、飴の袋を購入した。
2020.11.21
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アリオ亀有3階・映画館MOVIX亀有の近くにある「駄菓子ふうりん堂」です。(2020年10月31日)「こち亀ゲームぱーく」は隣接しています。店の中は昭和の懐かしいグッズが沢山飾られており、とても楽しいです。↑ 駄菓子ふうりん堂。
2020.11.15
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アリオ亀有3階にある「こち亀ゲームぱーく」ですが、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が店内に作られています。(前回のブログで紹介)それ以外にも、こち亀キャラクターを店内中に見ることができますので、一部を紹介します。店内に「千住火力発電所(おばけ煙突)」の絵がありました。昔、こち亀のマンガを読みましたが、このおばけ煙突の話が大変心に残りました。近いうちにおばけ煙突についてブログに書こうと思います。↑ 両津勘吉巡査長と、大原大次郎巡査部長。↑ 海パン刑事(かいぱんでか)。警視庁特殊刑事課所属で、本名は汚野武(きたのたけし)。↑ 海パン刑事。↑ 本田速人(ほんだはやと)。交通機動隊所属の巡査。バイクに乗ると人が変わり、「二輪の悪魔」と呼ばれている。↑ ボルボ西郷。アメリカ陸軍やニューヨーク市警でも勤務したことがある。↑ 乙姫菜々(おとひめなな)。女性白バイ隊に所属し、漫画家でもある。↑ 乙姫菜々(おとひめなな)。↑ 磯鷲早矢(いそわしはや)。交通課所属で弓道の達人。↑ 御堂春(みどうはる)。大阪通天閣署の巡査で、ブーツにローラーを仕込んで駆け回る事が出来る。↑ 御堂春のローラーブーツ。↑ 「特殊刑事課亀有支部」の看板を持つ、ドルフィン刑事。元イルカの調教師で、水上警備隊のメンバー。↑ こち亀を描かれた秋本治(あきもとおさむ)先生。↑ 両津勘吉巡査長と中川圭一巡査。↑ 両津勘吉巡査長、中川圭一巡査、秋本・カトリーヌ・麗子巡査。↑ 擬宝珠纏(ぎぼしまとい)。両津勘吉巡査の親戚。交通課勤務の巡査。チャキチャキの江戸っ子。↑ 擬宝珠檸檬(ぎぼしれもん)。擬宝珠纏の妹。英才教育を受けたスーパー少女。↑ 聖羅美茄子(せいらびーなす):美茄子刑事(びーなすでか)。月光刑事(げっこうでか)と一緒に、夜間の交通取り締まりをする。↑ 汚野刑事(きたのけいじ)。海パン刑事。いつも海パン一丁にネクタイ姿。↑ 漫画家・秋本治さんのサイン付。ーーーーーーーーーーーー千住火力発電所(おばけ煙突)。この話が大好きだった。↑ グリコの看板。↑ カルピスの看板。↑ オロナミンⅭの看板。大村崑(おおむらこん)さんと、黄金バットがある。
2020.11.14
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2020年10月31日、東京都葛飾区亀有にあるアリオ亀有3階にある「こちら葛飾区亀有公園前派出所 こち亀ゲームぱーく」に行ったときの写真です。この一角に「葛飾区亀有公園前派出所」が作られており、両津勘吉巡査長と秋本・カトリーヌ・麗子巡査の机を見ることができます。特に両津巡査長の机の中を見ると、超合金など懐かしいグッズがあります。アリオ亀有3階の「MOVIX亀有」で映画を見た後は、その10メートル先にある「こち亀ゲームーぱーく」に来てください。こち亀の世界が広がり、楽しいです。↑ こち亀ゲームぱーく。↑ 亀有公園前派出所。↑ 両津勘吉巡査長と秋本・カトリーヌ・麗子巡査。↑ 両津勘吉巡査長。↑ 秋本・カトリーヌ・麗子巡査。↑ 大原大次郎巡査部長と中川圭一巡査。↑ 大原大次郎巡査部長。↑ 中川圭一巡査。↑ 作者の秋本治さんの色紙。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第59巻 p103」。派出所内の様子。↑ 両津勘吉さんの机。警視庁新葛飾署地域課・巡査長。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 両津巡査長の机。↑ 両津巡査長の机。↑ 両さんの机の中。↑ 超合金のゲッターロボ、両津勘吉GD-O2、がんばれロボコン、そして将棋盤やこち亀ゲームぱーくメモ帳、変身サイボーグ1号の体がある。↑ 両津勘吉GD-O2、がんばれロボコン、将棋盤、こち亀ゲームパークメモ帳、変身サイボーグ1号。↑ 変身サイボーグ1号、拳銃の模型、超合金のマジンガーZ、ガンツ先生(がんばれロボコン)。↑ 超合金勇者ライディーン(ゴッドバードの形に変形している)、変身サイボーグ1号。↑ 馬券。↑ 領収書。「串揚げ・お串さん 領収書 542,450円」。↑ 始末書。↑ 亀有商店街を歩こう!!。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 「こちら葛飾区亀有公園前派出所 第59巻 p103」。派出所内の様子。↑ 秋本・カトリーヌ・麗子さんの机。警視庁新葛飾署交通課・巡査。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 秋本・カトリーヌ・麗子さんの机。ーーーーーーーーーーー↑ ロッカーの中に、日暮熟睡男(ひぐらしねるお)警視庁新葛飾署巡査が寝ていた。
2020.11.13
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東京駅前中央広場に、2020東京五輪公式時計であるスイスの時計会社「オメガ」が、カウントダウン時計を設置しています。2019年7月24日から置かれており、高さが4メートルあります。大会エンブレムと昇る朝日をモチーフとしており、皇居側はオリンピック開始までの時間、東京駅側はパラリンピック開始までの時間がデジタルで表示されています。(写真は2020年10月9日に撮影したものです)【2020東京オリンピック・カウントダウン時計】↑ 東京駅前広場に設置されているスイス時計会社「オメガ」の、東京オリンピック・カウントダウン時計。↑ 東京オリンピック開始までのカウントダウン時計。↑ スイスの「オメガ」がオリンピック公式時計の会社になっている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【2020東京パラリンピック・カウントダウン時計】↑ 時計の東京駅側は、東京パラリンピックまでのカウントダウン時計。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 東京駅正面。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【東京ステーションホテル】↑ 東京駅内の、東京ステーションホテル入口。↑ ホテル内の案内。↑ ホテルの案内。
2020.11.01
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2020年9月22日、東京都文京区関口にある椿山荘(ちんざんそう)へ行きました。この辺りは昔から椿が有名で、「つばきやま」と言われていました。江戸時代は久留里藩黒田氏の下屋敷があったそうです。この場所は山縣有朋(やまがたありとも)のゆかりの場所です。山縣有朋は萩出身の長州藩士で松下村塾で学び、騎兵隊を率いて明治維新に活動をしました。欧米視察も行い、明治新政府では陸軍の設立を行い、徴兵制度を確立しました。2回総理大臣を務めています。山縣有朋は西南戦争での功績により政府から受け取った金で、1878(明治11)年にこの土地を購入して別荘を建て、「椿山荘」と命名しました。1918(大正18)年に藤田財閥の藤田平太郎男爵が椿山荘を譲り受け、今は藤田観光が運営しています。椿山荘に「料亭錦水(きんすい)」があります。TBSドラマ「半沢直樹」で、大和田常務(香川照之さん)などが食事をしながら秘密の話をする場面の撮影場所になっています。椿山荘の小川では螢が生息しており、水蒸気のスモークが出る設備があります。雲海のようになり、夜は幻想的になるそうです。↑ ホテル椿山荘(ちんざんそう)東京:東京都文京区関口。↑ ホテル椿山荘東京。↑ 椿山荘の場所。近くの川は神田川。↑ 東京雲海出現。 水蒸気で庭園が雲海のように覆われる。↑ 幻想的な椿山荘。↑ 椿山荘の料亭紹介。↑ 料亭錦水(きんすい)。TBSドラマ「半沢直樹」で、大和田常務(香川照之さん)がよく秘密の話をするときに使うロケ地。↑ ホテル椿山荘東京のロビー。↑ ロビーから庭園側を見る。↑ 庭園入口。↑ 庭園へ行く。↑ 庭園の地図。↑ ガーデンチャペルがある。↑ ほたる沢と弁慶橋。ほたる沢はもと「竹裏渓」と呼ばれた流れのあった場所で、その流れは現在も清流を保っている。流の周囲は造営当時には竹林の裏側にある杉林の森だったが、現在はモミジやその他の高木樹に被われた緑濃い樹林地になっており、5月頃にはほたるが飛ぶ光が見られる。↑ 椿山荘の碑。風光明美なこの地を気に入った山縣有朋公は、明治11(1878)年に土地を入手し、本邸と広大な庭園を造り「椿山荘」と名付けた。明治30(1897)年に創られた「椿山荘の碑」には、この地と出会い、この地を愛した山縣公の感慨が刻まれている。↑ 筆塚。昭和33(1958)年11月に出版美術家連盟の皆様によって除幕式が行われた筆供養の碑。「筆に明け筆に生涯を送る私たちの伴侶を、芭蕉ゆかりの地に祀り筆塚とす」と説明文に記されている。ちなみに、椿山荘の近くに松尾芭蕉が一時住んでいた庵があり、関口芭蕉庵として芭蕉堂が残っている。↑ 「料亭錦水(きんすい)」入口。↑ 料亭錦水。↑ 料亭錦水の中庭。↑ 錦水の建物に入った所。TBSドラマ「半沢直樹」の撮影場所は、建物の下の階にある部屋で、「雲錦池(うんきんち)」が窓から見える場所であった。↑ 羅漢石。江戸時代中期の画家、伊藤若冲(いどうじゃくちゅう)の下絵による五百羅漢の内の約20体で、京都伏見の石峠寺にあったものを大正14年頃に移したとされている。羅漢とは阿羅漢の略称で、煩悩を全て断滅して最高の境地に達した人の事。↑ 庚申塔(こうしんとう)。寛文年間(江戸時代初期)は各地で庚申信教が盛んとなり、数多くの庚申供養塔が建立されたが、この庚申塔は寛文9(1669)年に作られたもので、当時、この辺りに野道があった頃から現在の位置にあったと伝えられている。↑ 幽翠池(ゆうすいち)。↑ 小千谷(おぢや) 錦鯉。寄贈 新潟県小千谷(おぢや)市(2019年12月)「泳ぐ宝石」と言われる錦鯉は、約200年前、現在の小千谷市を中心とする地域で発祥した。真鯉の突然変異から始まったとされる錦鯉は、雪深い小千谷の、主に山間地の人たちのたゆまぬ研鑽によって現在のような美しい姿へと変わっていった。↑ 古香井(ここうせい)。古くから東京の名水に数えられた由緒ある湧き水。秩父山系からの地下水が湧き出されているもので、ミネラル・カルシウムを豊富に含んだ弱アルカリ性の水で健康に最適。1923年の関東大震災の際には被災用に開放され、その渇きをいやしたと言われている。↑ 十三重の石塔。この塔は戦国時代の武将で茶人でもあった織田有楽(織田信長の弟)ゆかりの層塔と伝えられている。花崗岩製で、第一層目には四方仏(弥陀、弥勒、釈迦、薬師)が彫刻されている。↑ 水車。↑ 冠木門 閉門のご案内。「当分の間、安全のため、冠木門を閉門させていただきます」。冠木門の外には、神田川が流れている。↑ 冠木門 ↑ 冠木門の周りに、7つの庵、料亭がある。↑ 長松亭(ちょうまつてい)。電力業界の長老 松永安左ヱ門翁に設計を依頼して完成した。1954(昭和29)年建築。↑ 木春堂(もくしゅんどう)。↑ 中庵(ちゅうあん)、残草(ざんそう)、蓬莱(ほうらい)、大椿(だいちん)の暖簾。↑ 尚庵(しょうあん)。↑ 残月(ざんげつ)。箱根小涌谷の藤田男爵の別荘に、男爵が千利休の茶室「残月亭」を模して建築したものを、1947(昭和22)年に移築した。2004(平成16)年、国登録有形文化財に指定。↑ 御神木。この御神木は樹齢約500年。庭園最古の椎(シイ)の樹木。根元の周囲は4メートル50センチ、高さは約20メートル。東京大空襲の大火の中をも生き抜いた。↑ 三重塔「圓通閣」、国登録有形文化財。三重塔は、もともと広島県の竹林寺に建てられていたもので、椿山荘庭園へは大正14(1925)年、山縣有朋公から庭園を譲り受けた藤田組二代目当主、藤田平太郎男爵によって移築された。↑ 平成22(2010)年に移築後初めて大規模改修が行われ、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)が奉安され、塔は「圓通閣(えんつうかく)と名付けられた。↑ クリスタルチャペル「ルミエール」と幽翠池(ゆうすいち)。↑ 五丈滝(ごじょうだき)と幽翠池(ゆうすいち)。↑ ホテル椿山荘東京。
2020.09.26
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アルツハイマーデーのオレンジリングが他にもあるかもしれないと思い、会社の帰りに霞ヶ関を歩き、桜田門から日比谷へ行って帰りました。桜田門といえば、万延元年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で大老の井伊直弼(いいなおすけ)が水戸藩脱藩士に暗殺された「桜田門外の変」が有名です。井伊直弼は彦根藩の藩主で、江戸幕府の大老でした。日米修好通商条約を締結したり、安政の大獄で反対勢力を粛清したりしましたが、反感を持たれて暗殺されました。門は外側と内側にそれぞれあり、外側は「高麗門(こうらいもん)」、内側は「渡櫓門(わたりやぐらもん)」という名前です。この地は昔「桜田郷」と呼ばれていたので「桜田門」となりました。ーーーーーーーーーーー↑ 霞が関ビル。↑ 手前は金融庁が入っている霞が関コモンゲート。奥は霞が関ビル。↑ 中央右は中央合同庁舎8号館。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 中央合同庁舎4号館。内閣官房、内閣法制局、内閣府、消費者庁、復興庁、公害等調整委員会、財務省、国税庁、農林水産酒、農林水産政策研究所、国土交通省、海上保安庁。↑ 中央合同庁舎4号館。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 霞ヶ関 地図看板。ーーーーーーーーー↑ 外務省庁舎。↑ 外務省。ーーーーーーーーーーーーーーー↑ 国土交通省、観光庁、海上保安庁。(中央合同庁舎3号館)。↑ 中央合同庁舎3号館。国土交通省、観光庁、海上保安庁。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 桜田門付近の地図看板。↑ 警視庁前の塔と、後ろはライトアップされた法務省旧本社の赤レンガ棟。↑ きのうの交通事故数が表示されている。↑ 桜田通りと、右は警視庁。 夜空には木星が光っている(中央左の空)↑ 警視庁。建物の上に、電波塔が見える。↑ 桜田門から見た国会議事堂。↑ 国会議事堂。↑ 桜田門。ライトアップされている。↑ 左は桜田門、堀の向こう(中央)は「ザ・ペニンシュラ東京」、右は「東京ミッドタウン日比谷」。↑「旧江戸城 外桜田門」の看板。↑ 桜田門(高麗門)。↑ 渡櫓門(わたりやぐら)門。↑ 渡櫓門に向かって走る人。皇居の周りを走っている人がとても多く、ひっきりなしに門を走り抜けていた。↑ 堀の向こうは有楽町、大手町のビル群が見える。↑ 夜空に木星と土星が見えた。↑ 皇居外苑の内堀通り。↑ 特別史跡江戸城跡。↑ 右奥は日本生命本館。光が日比谷濠に反射している。↑ 左から、日本生命ビル、帝国劇場、丸の内二重橋ビル、明治生命館と続く。↑ 帝国劇場、丸の内二重橋ビル。↑ 左は「ザ・ペニンシュラ東京」、右は「東京ミッドタウン日比谷」。↑ 「ザ・ペニンシュラ東京」↑「東京ミッドタウン日比谷」。↑ 地下鉄 東京メトロ 日比谷(ひびや)駅。
2020.09.17
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9月21日の「世界アルツハイマーデー」に合わせ、霞ヶ関の各省庁が認知症サポーターのシンボルである巨大なオレンジリングをビルの窓を使って浮かび上がらせました。リングの掲示期間は2020年9月15日~9月18日です。前回は①金融庁、②経済産業省、③総務省・警察庁のビルのリングを紹介しましたが、今回は残りの下記4か所を紹介します。④法務省(旧本館 赤レンガ棟)⑤農林水産省(中央合同庁舎1号館 南別館)⑥厚生労働省(中央合同庁舎5号館)⑦文部科学省(中央合同庁舎7号館)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー④法務省(旧本館 赤レンガ棟)↑ 法務省旧本館 レンガ棟は、オレンジリングの代わりにライトアップされていた。↑ 法務省。↑ 法務省入口。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 法務省の隣にある裁判所。(東京地方裁判所/東京高等裁判所)。↑ 東京地方/東京高等裁判所のビル。(最高裁判所はここではなく、国会議事堂の反対側にある)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー⑤農林水産省(中央合同庁舎1号館 南別館)↑ 農林水産省 中央合同庁舎1号館 南別館。↑ 南別館にオレンジリングがある。↑ 農林水産省、林野庁、水産庁。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 木の間から、ライトアップされた国会議事堂が少し見える。↑ 日比谷公園そばの交差点。↑ 日比谷公園と国会通り。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー⑥厚生労働省(中央合同庁舎5号館)↑ 厚生労働省、環境省。↑ 右は厚生労働省、右は日比谷公園。ーーーーーーーーーーーーーー↑ 外務省。↑ 財務省・国税庁。↑ 右は財務省。中央下は文部科学省の旧庁舎。その上に立つ二つのビルは「霞が関コモンゲート」。コモンゲートの手前は東館で、文部科学省、会計検査院が入っている。コモンゲートの奥は西館で、金融庁が入っている。ーーーーーーーーーーーーーー⑦文部科学省(中央合同庁舎7号館)↑ 文部科学省の旧庁舎とコモンゲート東館。↑ 文部科学省、文化庁、スポーツ庁。↑ 文部科学省のオレンジリング。
2020.09.16
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国際アルツハイマー病協会(ADI)が世界保健機関(WHO)と共同で、9月21日を「世界アルツハイマーデー」と定めており、この病気の啓蒙として霞ヶ関の各省庁が、認知症サポーターのシンボルである巨大なオレンジリングをビルの窓を使って浮かび上がらせました。リングの掲示期間は2020年9月15日(火)~9月18日(金)です。会社の帰りに省庁を順番に回り、7か所の写真を撮りました。まずは最初に下記3か所を紹介します。①金融庁(霞ヶ関コモンゲート:合同庁舎7号館西館)②経済産業省(経済産業省総合庁舎)③総務省、消防庁、国家公安委員会、警察庁、国土交通庁(一部)(合同庁舎第2号館)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー①金融庁(霞ヶ関コモンゲート:合同庁舎7号館西館)↑ 中央は霞が関コモンゲートの合同庁舎7号館西館。金融庁が入っており、オレンジリングが見える。左は霞が関ビル。右は合同庁舎7号館東館で文部科学省や会計検査院が入っている。↑ 霞ヶ関ビル前の緑色の噴水と、オレンジリング。↑ 金融庁のオレンジリング。↑ 霞ヶ関コモンゲート。↑ 金融庁、証券取引等監視委員会、公認会計士・監査委員会。↑ 金融庁。↑ 金融庁入口。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 霞が関ビル。↑ 財務省、国税庁。↑ 東京タワーがビルの間に見えた。↑ 東京タワー。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー②経済産業省(経済産業省総合庁舎)↑ 経済産業省総合庁舎。↑ 経済産業省総合庁舎。↑ 経済産業省総合庁舎。電力・ガス取引監視等委員会、資源エネルギー庁、特許庁、中小企業庁。↑ 経済産業省。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー③総務省、消防庁、国家公安委員会、警察庁、国土交通庁(一部)(合同庁舎第2号館)↑ 総務省、消防庁、国家公安委員会、警察庁、国土交通庁(一部)(合同庁舎第2号館)。建物の右側に、警視庁のビルが見える。。
2020.09.15
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東京都練馬区にある遊園地「としまえん」が、2020年8月31日で閉園しました。1926(大正16)年開園し、世界初の流れるプールや世界最古級の回転木馬「カルーセルエルドラド」などで有名でしたが、東京都の公演整備計画により、94年の歴史に幕を閉じました。跡地には、防災機能を持った公園と、映画「ハリー・ポッター」のテーマパークになる予定です。2020年8月30日の朝日新聞に、としまえんの一面広告があり、ビックリしました。ちばてつやさんの描かれた「あしたのジョー」で大変有名な場面が掲載されていました。主人公の矢吹丈はボクサー・ホセとの一戦で判定負けをした後、グローブを白木葉子さんに渡し、燃え尽きてしまいます。しかし、満足そうな表情にも見えます。94年間営業をしてきたとしまえんが、8月末で閉園となる色々な思いが伝わってくる広告でした。としまえんの回転木馬「カルーセルエルドラド」はとても有名で、1907年にドイツのヒューゴ・ハッセによって作られ、ミュンヘンのワインの祭典「オクトーバーフェスト」でお目見えとなりました。24体の木馬、豚、、ゴンドラ、馬車など全て手彫りの彫刻でできています。1911年、カルーセルエルドラドはアメリカ・ニューヨークのコニーアイランドにある遊園地スティープルチェイスに送り出され、1964年に閉店するまで名物となっていました。その後解体されたエルドラドをとしまえんが購入し、1969年に太平洋を渡ったエルドラドは、1971年4月3日からとしまえんで稼働し、2020年8月31日まで動き続けました。(追伸)ニューヨークのコニーアイランドですが、河合奈保子さんがアルバム「スカーレット:1986年10月」の中で「思い出のコニーズ・アイランド」という曲を歌っています。奈保子さんが作曲しています。↑ 2020年8月30日の朝日新聞 としまえんの一面広告。↑ 西武グループ。↑ ちばてつやさんの描かれた「あしたのジョー」。↑ 矢吹ジョーが燃え尽きたシーン。↑ 2020年9月1日朝日新聞。 94年分のありがとう。↑ としまえん。カルーセルエルドラドの前で一礼するスタッフたち。↑ 映画「翔んで埼玉」。カルーセルエルドラドで撮影された。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー回転木馬カルーセルエルドラドは、ドイツのミュンヘンで制作されましたが、としまえんに来る前はアメリカ・ニューヨークのコニーアイランドにある遊園地スティープルチェイスで1964年まで動いていました。河合奈保子さんがアルバム「スカーレット:1986年10月」の中で「思い出のコニーズ・アイランド」という歌を歌っているので紹介します。↑ 河合奈保子さんのアルバム「スカーレット:1986年10月」。↑ 「思い出のコニーズ・アイランド」作詞:吉元由美、作曲:河合奈保子、編曲:瀬尾一三。
2020.08.31
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赤坂通りにTBSがあり、「半沢直樹」、「私の家政夫ナギサさん」などがポスターとスクリーンで紹介されていました。「半沢直樹の100倍返し饅頭」もストアで紹介されていました。↑ 「半沢直樹の100倍返し饅頭」。↑ 外堀通りから赤坂通りに入る。↑ TBSの建物が見える。↑ TBSストア。↑ TBSストア。↑ 半沢直樹100倍返し饅頭。↑ 赤坂通りから外堀通りへ。日枝神社の鳥居が見える。
2020.07.16
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東京都千代田区永田町2丁目に、日枝神社(ひえじんじゃ)があります。鳥居の先には「男坂」という階段があり、その横には階段ではないスロープの「女坂」もあり、どちらからでも境内に行くことができます。また、外堀通りからも鳥居をくぐり、エスカレータ付きの坂を上って南神門から境内に入ることもできます。↑ 日枝神社(ひえじんじゃ)の鳥居と男坂。奥に神門が見える。↑ 男坂の階段を上ったところ。↑ 神門をくぐって境内に入る。↑ 山王女坂。↑ 山王女坂。↑ 山王女坂は正面の石段(男坂)に対しその名が付けられています。また別の名は御成坂(おなりざか)とも呼ばれています。「新撰東京名所図会」には、「左緩やかに通ずる石階を女坂と呼ぶは非なり。昔時(せきじ)将軍家御成(おなり)の節、峻坂を避け、此坂のみ御通行遊ばされしにより御成坂と申し侍る(もうしはべる)を女坂と聞誤りしにはあらぬかと」と書かれています。↑ 外堀通りから日枝神社に行く。↑ 外堀通りの鳥居。階段とエスカレーターがある。↑ 山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)。↑ 階段の横にエスカレーターがある。↑ 振り返ってみると、鳥居と外堀通り、そしてビルの間の赤坂通り奥には、TBSのビルが見える。↑ ビルの間に見えるTBSビル。↑ さんのうばし。↑ 日枝神社の絵図。↑ エスカレーターで上がる。↑ 日枝神社本殿。↑ 本殿まで、ソーシャルディスタンス。↑ 境内から見た神門。↑ 山王パークタワー。(消費者庁が入っている)。↑ 首相官邸。
2020.07.15
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東京都千代田区永田町にあるメキシコ大使館の入り口横に、ガイコツの貴婦人カトリーナ(La Catrina)の人形が2体あります。2メートル離れ、コロナウイルス対策のマスクをしています。メキシコでは、死者はあの世でガイコツ姿で暮らしており、秋の「死者の日:11月1日~2日」に現世に戻ってくるとされています。10月31日は子供の死者が、11月1日には大人の死者が戻ってくると信じられており、メキシコでは骸骨に扮した人たちが街を歩きます。骸骨の貴婦人「カトリーナ」は特に有名です。↑ 骸骨の貴婦人「カトリーナ」。↑ 東京都千代田区永田町2丁目にある、在日メキシコ大使館。↑ 2メートルのソーシャルディスタンスを守ろう。2体のカトリーナは、2メートル離れている。↑ マスクをするカトリーナ。↑ 骸骨の貴婦人カトリーナの紹介。↑ 骸骨の貴婦人カトリーナの絵。↑ メキシコ大使館の隣にある都立日比谷高校。↑ メキシコ大使館。↑ メキシコ大使館のそばの新坂。↑ 新坂。
2020.07.14
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アマビエ饅頭(あわ家惣兵衛)を買い、家族で食べました。アマビエですが、肥後国(現熊本県)で夜の海に光るものがあり、土地の役人が見に行くと「アマビエ」が出現し、当年より6か年の間は諸国で豊作が続くが、同時に疫病が流行するので、私の姿を描いた絵を人々に見せよ」と伝えて海に消えたそうです。京都大学付属図書館所蔵の「肥後国海中の怪(アマビエの図)と、東京都調布市 ウェブ会議用「アマビエ」(イラスト:水木しげる)も紹介します。↑ アマビエ饅頭(あわ家惣兵衛)。↑ アマビエ。↑ 中は胡麻あん。↑ 「肥後国海中の怪(アマビエの図)」(京都大学付属図書館所蔵)Photograph courtecy of the Main Library, Kyoto University - Amavie(京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)(翻刻)肥後国海中江毎夜光物出ル 所之役人行 見るニ づの如之者現ス 私ハ海中ニ住アマビヱト申 者也 當年より六ヶ年之間 諸国豊作也 併 病流行 早々私ヲ写シ人々ニ見セ候得と申て海中へ入けり 右ハ写シ役人より江戸江 申来ル写也 弘化三年四月中旬↑ 東京都調布市 ウェブ会議用「アマビエ」(イラスト:水木しげる)調布市は、漫画家であり調布市名誉市民の水木しげるさんが50年以上暮らした「水木マンガの生まれた街」で、水木しげるプロダクションの協力のもと、ウェブ会議の背景として利用できる「アマビエ」(作画:水木しげる)を作成した。↑ アマビエ饅頭の看板(あわ家惣兵衛)。↑ アマビエの絵。↑ あわ家惣兵衛。↑ アマビエ饅頭。
2020.07.13
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2008年10月13日、旅行3日目です。車山高原のホテルをチェックアウトした後、霧ヶ峰の車山、蓼科山(たてしなやま)、八ヶ岳をバックに記念写真を撮りました。その後、ビーナスラインで美ヶ原(2,034m)に行きました。高校の修学旅行で美ヶ原に行った後、大学時代にも高校の友達と美ヶ原に行きました。王ケ頭の宿泊所に泊まりましたが、その時は土砂降りの雨で、景色を楽しむことができませんでした。今回は、快晴で360度のパノラマでした。美ヶ原高原美術館の近くから、王ケ鼻の山頂や美しの塔を見ました。多くのケルンもありました。美ヶ原からは妻が車を運転して帰りました。軽井沢では浅間山が見えました。(霧ヶ峰・車山、蓼科山、八ヶ岳、美ヶ原、浅間山は、それぞれ日本百名山)↑ 霧ヶ峰・車山をバックに記念撮影。↑ 蓼科山(たてしなやま)をバックに記念写真。↑ 八ヶ岳をバックに記念写真。↑ 車山。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【美ヶ原】↑ 美ヶ原高原。↑ 北アルプス。↑ 王ケ頭と電波塔。↑ 美ヶ原高原美術館。↑ 美ヶ原を下る。↑ 妻が運転する。↑ 軽井沢で浅間山が見えてきた。
2020.07.03
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2008年10月12日、旅行2日目で、車山高原の宿泊所から車で上高地に行きました。早く出発すれば良かったのですが、9時頃に出発したので、松本市から上高地(かみこうち)に入る道が大渋滞でした。子供たちがお腹を空かせるも、車の中には海苔しか無く、それを食べていました。子供たちは「上高地」というと、海苔を食べた事を思い出すそうです。14時過ぎにやっと駐車場に車を置くことができ、梓川(あずさがわ)沿いを歩いて河童橋に行きました。穂高(ほたか)連峰を見ながら記念撮影をしました。子供たちは梓川で泳ぐ鴨を見つけていました。帰りも渋滞が予想されたので、河童橋で30分程度遊んだあと、車で車山高原へ戻りました。河童橋(かっぱばし)というと、芥川龍之介の小説「河童」を思いだします。学生の頃に読みましたが、主人公が上高地で河童の世界に迷い込み、河童の社会制度に驚いたという不思議な話です。1927年(昭和2年)に「河童」を発表しますが、同年7月24日、芥川龍之介は自殺をします。この日は「河童忌」と名付けられています。昔、芥川龍之介が上高地から梓川を上流に進み、槍ヶ岳に登った事が書いてある本を読んだことがあります。登山はしたが、山頂まで行ったかどうかが明確に書いてありませんでした。私は高校の修学旅行で、上高地、美ヶ原、富士山5合目に行きました。旅行中、ウォークマンに河合奈保子さんのアルバム「サマー・ヒロイン」を入れていました。特に1曲目の「I My Me Mine」がお気に入りで、繰り返し聴いていました。上高地で梓川を散策しながら見た景色は、「I My Me Mine」とリンクしており、私が上高地を思い出すと、この曲が頭に流れてきます。テンポが良く、何度聴いても飽きない青春ソングです。「ひと雨ごと 近づいてる そよ風のような 恋」「ふたり指先つないだままで 飛びこす みずたまり 映し出す青空」家族旅行の後、山仲間と一緒に奥穂高岳、北穂高岳を登りましたが、山頂に立って小声で歌う歌は、「I My Me Mine」でした。↑ 車山高原の朝。 ↑ 霧ヶ峰・車山高原。(霧ヶ峰は日本百名山)。↑ (画面右上)霧ヶ峰の車山に、長野地方気象台の車山気象レーダー観測所が見える。↑ 車山気象レーダー観測所。↑ 車山高原のホテルから見た南アルプスの景色。↑ 見えた山の名前を入れた。北岳、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、鳳凰山は、日本百名山。(北岳は日本で2番目に高い山)↑ 八ヶ岳・赤岳。(日本百名山)。↑ 車で上高地を目指す。途中は大渋滞で、中々車が進まなかった。↑ 上高地で記念写真。 穂高連峰、河童橋、梓川。↑ 河童橋。↑ 明神岳、河童橋、桂川。↓ 上高地で見える山の名前を入れた。奥穂高岳は日本で3番目に高い山で、日本百名山。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【河合奈保子さんのアルバム サマー・ヒロイン A面1曲目 I My Me Mine の紹介】↑ 河合奈保子さんのアルバム「サマー・ヒロイン:SUMMER HEROINE」。↑ A面1曲目 「I My Me Mine : 作詞 竜真知子、作曲 馬飼野康二、歌 河合奈保子」
2020.07.02
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2008年10月11日、車を運転し、家族で3日間、甲州・信州へ旅行をしました。1日目は中央自動車道を通って勝沼に行き、ワインの丘を見学しました。この丘は遠くからもよく目立ち、中央本線の車窓からも見ることができます。勝沼にワインが根付いた歴史が分かります。棚にはびっしりとワインボトルが置いてありました。大日影(おおひかげ)トンネル遊歩道を歩きました。このトンネルは勝沼ぶどう郷駅の近くにあります。昔は中央本線が単線でしたが、この大日影トンネルを掘って複線化しました。しかし、近くに第二トンネルができたため、1997年にこの大日影トンネルは使用されなくなりました。遊歩道として整備され、2007年からトンネルを歩くことができるようになりました。長く暗いトンネルを歩くと、子供たちが面白がり、喜んでいました。トンネル内には個人所蔵のワインカーヴ(貯蔵所)があり、ワインが保存されていました。勝沼マンズワインを見学し、ブドウ畑でぶどうを食べました。甘くて美味しかったです。夕方は勝沼から中央自動車道で茅野市へ行き、ビーナスラインで白樺湖に進み、霧ヶ峰の車山近くのホテルに宿泊しました。↑ 山梨県甲州市の「勝沼ワインの丘」にて。↑ 勝沼ワインの丘の入り口で。↑ 勝沼ぶどう郷駅近くに移動。↑ 大日影(だいひかげ)トンネル遊歩道を歩く。↑ 大日影トンネル遊歩道。↑ トンネル内の掲示。「この先オーナー、スタッフ以外は立ち入り禁止、ご了承ください。トンネルワインカーヴ管理者」。↑ トンネル出口で記念撮影。↑ マンズワイン工場見学記念。武田信玄。↑ ぶどう畑でぶどうを食べる。美味しかった。↑ ぶどう畑と、その先にある「ワインの丘」。そして背後の甲府盆地の山々。
2020.07.01
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2011年6月29日、国立新美術館で妻と一緒に「ワシントン・ナショナルギャラリー展」の絵を見ました。私はマネの「鉄道」が大好きで、ワシントンDCに見に行ったことがあります。その後、六本木ヒルズの屋上に行き、景色を楽しみました。東京タワー、東京スカイツリーも良く見えました。↑ 2011年6月29日、国立新美術館の「ワシントン・ナショナルギャラリー展」。↑ マネの「鉄道」。 パリ・サンラザール駅の絵。↑ 国立新美術館。↑ 六本木ヒルズ。↑ 六本木ヒルズの屋上。↑ 東京タワー。↑ 東京タワー。↑ 遠くにレインボーブリッジが見える。↑ レインボーブリッジ。↑ 東京スカイツリーが遠くに見える。↑ 東京スカイツリー。
2020.06.24
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2020年6月6日、虎ノ門ヒルズを散策しました。虎ノ門ヒルズは2014年6月に開業した247メートル、52階建てビルです。ビルの下には環状2号線が通っており、虎ノ門~新橋を結んでいます。別名マッカーサー道路と呼ばれています。GHQのマッカーサー司令官が虎ノ門の米国大使館から東京湾の竹芝桟橋まで軍用道路の建設を命じたといわれたルートですが、用地買収が進まず、長く計画が凍結しており、道路の上に六本木ヒルズを建設するということで道路が完成しました。虎ノ門ヒルズのマスコットは「トラのもん」です。ドラえもんと違うところは、体が白く、縞や耳があるところです。ヒルズのオーバル広場には、白く巨大な像があります。スペインのアーティストであるジャウメ・プレンサの「ルーツ」です。8か国の言語が像を形作っています。日本語、中国語、アラビア語、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、ヒンディー語、ロシア語です。虎ノ門ヒルズの隣にある「虎ノ門ヒルズビジネスタワー」も見ました。2020年6月11日に開業します。1階にはバスターミナルもできるそうです。↑ 虎ノ門ヒルズのマスコット「トラのもん」。ドラえもんと違うところは、体が白く、縞や耳があるところ。↑ ぼく、トラのもん。↑ 虎ノ門ヒルズのオーバル広場。↑ スペインのアーティストであるジャウメ・プレンサの「ルーツ」。↑ 日本語、中国語、アラビア語、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、ヒンディー語、ロシア語で組み合わせて作られた像。↑ 虎ノ門ヒルズ森タワーと、ビルの下にある環状2号線(マッカーサー道路)。↑ マッカーサー道路。↑ 虎ノ門ヒルズ 森タワー入口。↑ トラのもん。↑ トラのもん。↑ 対面には、2020年6月11日開業の「虎ノ門ヒルズビジネスタワー」がある。↑ 「虎ノ門ヒルズ」と「虎ノ門ヒルズビジネスタワー」をつなぐ橋。↑ 虎ノ門ヒルズビジネスタワーへ進む。↑ 虎ノ門ヒルズビジネスタワー入口。
2020.06.09
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東京都港区虎ノ門に「江戸見坂(えどみざか)」があります。坂に標識があり、江戸見坂は「江戸の中心部に市街が開けて以来、その大半を眺望することができたために名付けられた坂である」と記されています。この坂の両側にあるものを紹介します。① 東京経済大学発祥の地の石碑。1900年、この地に大倉商業学校が開設され、1945年に戦災で校舎を焼失し、1946年に国分寺市に移転した後、1949年に東京経済大学となったことが記されています。② 港区立江戸見坂公園。(虎ノ門2丁目10-2)江戸見坂公園の案内板には、海抜10.51mと書いてあります。公園内にはヤマブキ、シャガ、エノキを見ることができました。公園の道を奥に進むとホテルオークラの庭に続き、アヤメが沢山咲いていました。③ 日本コロムビア株式会社。(江戸見坂森ビル)河合奈保子さんや好きな歌手の歌は、日本コロムビア株式会社のレコード、CDを買っては聴いていました。④ 中国同盟会発祥の地の石碑。(2019年8月吉日)建立:株式会社ホテルオークラ。石碑には「1905年8月20日、大倉喜八郎邸すなわち此の地、現ホテルオークラにおいて、孫文を総理とする中国同盟会が結成された。その後、中国同盟会が母体となった辛亥革命により、1912年、アジア史上初の共和国家、中華民国が誕生した。その意義を称え、同時に末永い日中友好を期して記念碑を建立する」と記されています。孫文は日清戦争(1894-95)終結後に日本に亡命します。その後にアメリカ、ヨーロッパへ行きますが、日露戦争(1904-05)の後にヨーロッパから戻り、1905年7月に来日して同志と話し合いを行い、8月に清朝打倒を目指すために中国同盟会を結成しました。1911年10月に辛亥革命が起こり、12月に孫文は上海へ戻り、1912年1月、孫文は南京で中華民国の臨時大統領になりました。⑤ 在日ナイジェリア大使館。↑ 江戸見坂(えどみざか)。↑ 東京経済大学発祥の地の石碑が見える。↑ 東京経済大学発祥の地の石碑。↑ 江戸見坂の標識。↑ 港区立江戸見坂公園の案内図。↑ 江戸見坂公園で、右側に歩いていくと、ホテルオークラの庭に繋がる。↑ ヤマブキ。↑ シャガ。↑ 江戸見坂の標識。↑ 江戸見坂「江戸の中心部に市街が開けて以来、その大半を眺望することができたために名付けられた坂である」。↑ 日本コロムビア株式会社。↑ 日本コロムビア株式会社。↑ 江戸見坂公園。エノキの樹が植えてある。↑ 中国同盟会発祥の地の石碑。↑「1905年8月20日、大倉喜八郎邸すなわち此の地、現ホテルオークラにおいて、孫文を総理とする中国同盟会が結成された。その後、中国同盟会が母体となった辛亥革命により、1912年、アジア史上初の共和国家、中華民国が誕生した。その意義を称え、同時に末永い日中友好を期して記念碑を建立する」。↑ ホテルオークラ。↑ ホテルオークラ。↑ 江戸見坂公園からホテルオークラの庭に進む。↑ アヤメが沢山咲いていた。↑ 在日ナイジェリア大使館が坂の途中にある。↑ 江戸見坂を上から見たところ。
2020.06.05
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2019年2月24日、浅草の着物屋「胡蝶」の上にある「ねずみ小僧」の像を見ました。店の左右の壁には、歌舞伎役者の「坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)」、「中村芝翫(なかむらしかん)」の絵が飾ってあります。古書店の「地球堂」で面白そうな本を探し、その後「浅草メンチ」の店で、有名なメンチカツを食べました。「花やしき」遊園地の前にあるパンダポストを見て、仲見世へ進みます。子供たちが小さい頃、よく「花やしき」の一日券を買っては、ずっと遊んでいました。最後は「すき焼きメロンパン」を食べました。↑ 浅草の着物屋「胡蝶」。店の上に「ねずみ小僧」の像がある。↑ ねずみ小僧。↑ 歌舞伎役者の「坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)」の絵。↑ 歌舞伎役者「中村芝翫(なかむらしかん)」の絵↑ 古書の「地球堂」で本を探した。↑ 「浅草メンチ」。↑ 浅草メンチ。↑ 萩本欽一さん。↑ 「花やしき」遊園地の入り口。↑ パンダが乗った郵便ポストがある。↑ アルデリア・ベーカリーのおいしいメロンパン。↑ すき焼きメロンパン。↑ 買ってしまった。
2020.05.09
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2019年2月24日、浅草の伝法院通りで地口行灯(じぐちあんどん)を見ました。地口とは、江戸時代に流行った駄洒落で、行灯に洒落文字と絵が描かれています。一枚ずつ見ながら歩くと、とても楽しいです。↑ 浅草・伝法院通り。↑ 鳩の形の組み合わせで「伝」の文字になっている。↑ 下馬。車両通行止め。↑ j東京スカイツリーが見える。↑ 伝法院通りの両側に、地口行灯(じぐちあんどん)が並ぶ。↑「にたもの夫婦 → ねたものふうふ」。↑「おやおやうそばかり → おやおやうずばっかり」。↑「後の後悔先にたたず → あとの号外先にたたず」。↑「三篇回って煙草にしょ → はんぺんもらってたばこにしょ」。↑「笑う門には福来る → わらう顔にはふぐきたる」。↑「縞の財布に五十両 → ひまの大工に五十両」。↑「提灯につり鐘 → 唐人につりがね」。↑「舌切り雀 → 板きりむすめ」。↑「互いに見交わす顔と顔 → たらいに見かわすかおとかお」。↑「人の口には戸は立てられぬ → 井戸の渕には戸は立られぬ」。↑「山から小僧が泣いて来た → 玉から小僧がないて出た」。↑「正直の頭に神宿る → ほうずきのこうべにかにやどる」。↑「裸でかっぽれ → はだかで田つぽれ」。↑「大寒小寒山から小僧が泣いて来た → 大かぶ小かぶ山から小僧がぬいてきた」。↑「恵比寿大黒 → 恵びすだいこくう」。↑「大金持ちだ → 大かめもちだ」。↑「金がかたきの世の中 → 羽がはたきの世の中じゃ」。↑「昔はものをおもわざりけり → 目刺しは物をおこらざりけり」。↑「傍目八目 → おかめはちまき」。↑「魂返す、反魂香 → 狸へかえす観音経」。(反魂香とは、焚くと煙の中から死者の姿が見えるというお香)↑「竹に雀 → はけにつづみ」。↑「大酒飲み → 大竹のみ」。↑「論より証拠 → 本より上うご」。↑「縁の下の力持 → えんましたの力持」。
2020.05.08
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2019年2月24日、東京・鶯谷駅から歩いて真源寺へ行きました。この地域は入谷(いりや)と呼ばれ、真源寺には鬼子母神が祀られており、「恐れ入りました」の意味で使われる「恐れ入谷の鬼子母神(おそれいりやのきしもじん)」という洒落言葉が有名です。毘沙門天の部下の妻には子供が1,000人おり、栄養を取るために妻は人間の子供を捕まえては食べていました。子供を食べられた人間の母親達の悲しみが釈迦に届き、釈迦はその妻の末っ子を隠します。妻は半狂乱で子供を探し、最後には釈迦に助けを求めます。釈迦は「沢山の子供がいながら1人いなくなるとそのように悲しんでいる。人間の母親が一人の子供を失う悲しみが分かるか」と言って、人間の子供を食べるのをやめるように諭します。妻が回心したので、釈迦は末っ子を妻に返します。妻は鬼子母神となり、子供を守る善神として信仰されるようになりました。入谷鬼子母神では、善神になったということで、鬼の第1画を取った漢字が使われているそうです。鬼子母神というと、私はすぐに銀河鉄道999の「雪の都の鬼子母神」を思い出します。「銀河鉄道999 6巻 鋼鉄戦士/第2話 雪の都の鬼子母神/松本零士/少年画報社/昭和53(1978)年8月1日発行」。銀河鉄道999は「雪の都」という星に着きます。鉄郎は荷物を奪われますが、お腹を空かせた少女にせがまれ、ポケットの中にあったビスケットのかけらを与えます。その出来事が、最後には鉄郎を助けることになります。真源寺は7月の「朝顔市」が有名で、毎年朝顔祭りが行われます。↑「銀河鉄道999 6巻 鋼鉄戦士/松本零士/少年画報社/昭和53(1978)年8月1日発行」。↑ p3。鉄郎とメーテル。p4。目次。↑ p24~25。第2話 雪の都の鬼子母神。↑ p37。↑ p53。↑ p53。↑ p54。↑ p54。↑ 鶯谷(うぐいすだに)駅。↑ 鶯谷駅。↑ 駅から真源寺まで歩いていく。↑ 東京スカイツリーが見える。↑ 真源寺。↑ 入谷鬼子母神の紹介。↑ 正岡子規の句。①漱石来る:蕣や 君いかめしき 文學士(そうせきくる あさがおや きみいかめしき ぶんがくし)②入谷から 出る朝顔の 車哉 (いりやから でるあさがおの くるまかな)↑ 富山日東の句。③朝顔も 入谷へ三日 里帰り (あさがおも いりやへみっか さとがえり)↑ 「東京自慢十二か月」6月 入谷の朝顔/月岡芳年作。↑ 「東京名所 花競 入谷 蕣(あさがお)」/安達吟光作↑ 「三十六歌撰」東都入谷朝顔/立祥作。↑ 江戸の花名勝会 る 十番組 中山文五郎/入谷の鬼子母神/豊国。
2020.05.06
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2019年4月30日、東急電鉄・二子玉川駅から歩いて、東京都世田谷区の「旧小坂家住宅」を見ました。この家は衆議院議員などを歴任した小坂順造氏(1881~1960)が別荘として昭和13(1983)年に建てたもので、大正から昭和前期にかけて流行した民家風和風住宅を意識的に取り入れています。当時の政財界人の生活・文化意識を良く表しており、貴重な建物として平成11年に世田谷区指定有形文化財に指定されました。日本画家で有名な横山大観氏は上野近くの池之端(いけのはた)に住んでおられましたが、東京で空襲が激しくなるのを案じた瀬田に住む画家の堅山南風氏が、瀬田で知り合いであった小坂氏に頼んで疎開先にお願いしたそうです。1945(昭和20)年3月9日、横山大観夫妻は身一つで瀬田の小坂邸の茶室に移りました。翌日3月10日、空襲で横山大観氏の本宅は焼けてしまったそうです。間一髪でした。修善寺に疎開していた横山大観氏のお嬢さんは、その後小坂邸に住むことになりました。約3か月、ここで生活したとの事です。↑ 東急電鉄・二子玉川駅。↑ 二子玉川駅。↑ 二子玉川駅から旧小坂家住宅まで歩いていく。↑ 二子玉川の高島屋。↑ 世田谷区立瀬田四丁目旧小坂緑地。この先に、旧小坂家住宅がある。↑ 坂を上っていく。↑ 旧小坂家住宅入口。↑ 旧小坂住宅の中の部屋。箪笥、鏡。↑ 三菱製ミシン。↑ 風呂。↑ 富士山が見える。↑ 旧小坂邸の図。↑ 小坂順造氏のレリーフ。↑ 冷蔵庫。↑ 電話室。部屋の中に電話室があった。↑ 電話室内。↑ 女中室脇の呼び鈴。 各部屋を呼び鈴で呼び出すことができる。↑ 居間。↑ 入側。縁桁(えんげた)は、10.6メートルもある本物の京都北山杉の磨き丸太。↑ 「五三の桐」模様を刻んだ透かし欄間。↑ 7.5畳の書斎はフローリング。↑ マントルピースの上には仏像が置かれていた場所がある。↑ 佐久間ダム完成記念品(和光製)。昭和31(1956)年に静岡県・天竜川の佐久間ダム完成。小坂順造氏は電源開発の総裁を務めた(昭和29~31年)。ダムをモチーフにした形の電気スタンド。
2020.04.29
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2019年3月9日、秋葉原から新御茶ノ水駅まで行き、その先にある湯島聖堂を散歩しました。この辺りには、東京医科歯科大学、神田明神、ニコライ聖堂などがあります。「天文ガイド」で有名な誠文堂新光社も近くにあり、入り口の本の紹介フロアを見たりしました。【湯島聖堂と孔子】湯島聖堂では孔子を祀っています。孔子は2,500年以上前、中国の魯の昌平郷(現山東省済寧市曲阜)に生まれ、「儒教」を教えました。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、1690年、ここに「湯島聖堂」を創建し、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励しました。1797年、幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」を開きました。学問所は1868年に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たしました。明治維新により聖堂は新政府の所管となり、1871(明治4)年に文部省がおかれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大額)、女子師範学校(現御茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館(しょじゃくかん)(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となりました。↑ 秋葉原。↑ JR御茶ノ水駅/東京メトロ新御茶ノ水駅そばにある「聖橋」。橋の向こうに湯島聖堂が見える。↑ 聖橋と東京医科歯科大学。↑ 東京医科歯科大学。↑ 東京医科歯科大学の壁面レリーフ。左側:古代ギリシャの医聖ヒポクラテスと、医の倫理を説いた「医師の誓い」。中央:イタリア・ルネッサンス期の画家ラファエルの「アテネの学堂」。プラトンと弟子アリストテレス、そして古代ギリシアの聖人が集まった姿。右側:19世紀にアメリカの歯科医師ウィリアム・モートンが行った世界初の全身麻酔公開実験の様子。↑ 聖橋から秋葉原方面を見る。神田川を横切るのが東京メトロ丸の内線。右側にあるJR御茶ノ水駅からは、総武線、中央線の車両が走る。↑ 左側に湯島聖堂がある。↑ 湯島聖堂の壁。↑ 文京区に入る。↑ 湯島聖堂の看板。↑ 地図。↑ 入徳門(にゅうとくもん)。↑ 杏壇門(きょうだんもん)。↑ 孔子廟・大成殿。↑ 孔子像。↑ 仰高門(ぎょうこうもん)。↑ 講堂・斯文会館(しぶんかいかん)。↑ ニコライ堂が近くにある。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 詳説日本史 改訂版/山川出版社。p204~205。寛政の改革の記載がある。「思想の面では朱子学を正学とし、1790(寛政2)年には湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じて(寛政異学の禁)、儒管に柴野栗山(しばのりつざん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)、岡田寒泉(おかだかんせん)を任じた。p205。聖堂学問所での講義(聖堂講釈図)。
2020.04.17
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2019年3月2日夕方、上野公園から秋葉原まで歩きました。途中には日本最初の喫茶店「可否茶館(かひさかん)」跡地の案内がありました。(東京都台東区上野1丁目1-1-10)その後、五軒町の看板を見て、秋葉原で遊んで帰りました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日本最初の喫茶店「可否茶館(かひさかん)」跡地。明治21(1888)年4月13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(ていえいけい)別名・西村鶴吉により、現在の東京都台東区上野1丁目1-1-10に設立されました。2百坪の敷地に五間と八間の2階建ての木造洋館でした。1階には「トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋」を揃え、また硯に便せんや封筒も置き、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの施設の他に「内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縦覧に供す」部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐でした。コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理、パン、カステラなども出していました。ちなみに当時、「もりそば」は八厘でした。設立者の鄭永慶(ていえいけい)は、近松門左衛門作の浄瑠璃「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」で有名な鄭成功(ていせいこう)の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場(コーヒーハウス)とすることを理念としての開店でした。しかし経営はうまくいかず、数年後に店を閉めることになります。↑ 「可否茶館」の創業者・鄭永慶。当時読売新聞などに掲載された「可否茶館」の開業案内広告。↑ ローソンのそばに、「可否茶館」の案内板がある。↑ 日本最初の喫茶店「可否茶館(かひさかん)」跡地。↑ 地図拡大。↑ 上野公園から歩いていると見かけたタイル。(不忍池と弁天堂)↑ 上野動物園のパンダ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「五軒町(ごけんちょう)」の案内。↑ 五軒町。江戸時代、この界隈には、上総久留里(かずさくるり)藩黒田家上屋敷(かみやしき)、下野黒羽(しもつけくろはね)藩大関家上屋敷、安房勝山(あわかつやま)藩酒井家上屋敷、播磨林田(はりまはやしだ)藩建部家上屋敷、信濃上田(しなのうえだ)藩松平家下屋敷(しもやしき)と、五つの大名屋敷が並んでおり、「五軒町(ごけんちょう)」と呼ばれていたのはそのためです。↑ 「五軒町」界隈(安政三年:1856年)。↑ 「五軒町」界隈 (平成15年・2003年)。↑ 途中で見かけた「TrySail」の広告トラック。↑ 秋葉原まで歩く。↑ 秋葉原のドン・キホーテ。↑ AKB48 岡部麟さん。
2020.04.16
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2019年3月2日、上野公園の国立科学博物館に行った後、有名な西郷隆盛像、彰義隊の墓、寛永寺黒門跡を写真に撮りました。【西郷隆盛像】西郷隆盛は1827年に薩摩藩士として鹿児島に生まれました。藩主島津斉彬に重宝され、国事に奔走しました。朝廷の意を重んじて長州を敵としましたが、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、1867年12月に王政復古の大業を成就し、明治維新の基礎を確立しました。その間、勝海舟などの要請を容れて江戸城の無血開城を実現し、江戸を戦禍から救いました。岩倉具視、大久保利通等と意見が分かれ、鹿児島に帰郷し後輩の育成に努めました。その後1878年には西南の役で政府側と戦い、鹿児島市内の山城で自刃しました。51歳でした。一時逆賊とされましたが、1890年、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈されました。この銅像は、それに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同士と共に追慕の情を表すべく建立を計画し、明治26(1894)年起工、同30(1898)年竣工しました。彫刻界の巨匠、高村光雲の作です。↑ 西郷隆盛像。高村光雲作。↓ 敬天愛人。(西郷隆盛の「南洲翁遺訓」にある言葉)。↓ 西郷隆盛と銅像の由来が書いてある。↓ 西郷隆盛像近くの広場。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【彰義隊(しょうぎたい)の墓】江戸幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻りました。慶喜の一橋家時代の側近たちは慶喜の助命を求め、1868年2月に同盟を結成し、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護なども目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもりました。1868年5月15日朝、大村益次郎式の東征軍は上野を総攻撃し、彰義隊は同夕刻敗走しました。いわゆる上野戦争です。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されましたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付されました。大墓石は1881年12月に元彰義隊小川興郷らによって造立されました。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣山岡雪舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻んでいます。↑ 彰義隊の墓。↑ 彰義隊奮戦之図。小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵として伝えられている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【寛永寺黒門跡】かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺(かんえいじ)の境内でした。公園入口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があって寺の正面入り口となっており、その先に「黒門」がありました。幕末の上野戦争で、最も激しい戦禍が行われたのは、黒門付近です。戦いは主として銃撃戦でした。そのため、黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。焼け残った黒門は明治40(1907)年、東京都荒川区の円通寺に移築されました。円通寺には彰義隊の墓所があり、黒門と共に幕末の歴史を今に伝えています。↑ 寛永寺 清水観音堂。↑ 寛永寺 清水観音堂。江戸時代寛永8年建立。↑ 黒門の説明。左:「東京名所四十八景」「上野黒門前花見連」(都立中央図書館特別文庫室所蔵)左: 円通寺に移築した黒門。↑ この壁泉は、かつてこの地にあった「黒門」を表現している。↑ 人形供養塔。
2020.04.15
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2020年3月27日19時半頃、会社の帰りにスーパーマーケットに行くと、一部の商品が品薄になっていました。新型コロナウイルスの影響で、備蓄をしようとしている人が多いのかもしれません。商品の入荷は問題無いようで、別の日に行くと、品物が沢山入っていました。
2020.03.27
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東京都千代田区の明大通りに、お茶の水博士、鉄腕アトム、ウランちゃんのデザインマンホールがあります。明治大学12号館前には「御茶ノ水博士」のマンホール、明治大学リバティタワーの前には「鉄腕アトム」のマンホール、はなまるうどん御茶ノ水明大通り店の前には「ウランちゃん」がいます。明大通りにある、明治大学アカデミーコモン、山の上ホテルも紹介します。↑ お茶の水博士のマンホール。↑ 鉄腕アトムのマンホール。↑ ウランちゃんのマンホール。↑ 明治大学12号館前にある、お茶の水博士のマンホール。↑ 明治大学リバティタワー前にある、鉄腕アトムのマンホール。↑ はなまるうどん御茶ノ水明大通り店の前にある、ウランちゃんのマンホール。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 明治大学 アカデミーコモン。↑ 明治大学 アカデミーコモン。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 山の上ホテル。↑ 甲賀通りの坂道を登れば、山の上ホテルがある。↑ 山の上ホテルの看板。↑ 山の上ホテル。↑ 明治大学 リバティタワー。↑ ン明大通りの看板。↑ 明大通り。奥にはJR御茶ノ水駅がある。
2020.03.16
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2020年2月9日、栃木県日光市の東武鉄道下今市駅で、1時間程度電車の待ち合わせ時間があったので、途中下車して町を散策しました。二宮尊徳(二宮金次郎)終焉の地ということで、報徳二宮神社に行き、二宮尊徳の墓を見ました。二宮尊徳は1787年、神奈川県小田原市で農民の子として生まれました。ところが幼少期に生家は没落し、両親とも死別し、つらい少年時代を過ごしました。薪を背負って本を手にしながら歩く姿は有名で、私の小学校にも金次郎の銅像が立っていました。勤勉と倹約に努めて20代で生家を再興し、小田原藩の家老服部家の財政立て直しにも成功しました。小田原藩主大久保忠真(ただざね)の命により、小田原藩の飛び地である栃木県真岡市の桜町領を10年がかりで復興させ、晩年は今市に移り住み、荒れ地の復興に尽力したそうです。作曲家で大変有名な船村徹氏の記念館が「道の駅 日光街道ニコニコ本陣」の敷地内にありました。沢山の歌謡曲を作曲されています。王将、兄弟船、矢切の渡しなどすぐに思い出します。↑ 東武鉄道・下今市駅で途中下車した。↑ 下今市駅前。↑ 東武鉄道の本線電化記念ポスター。↑ 重なる名所。 レトロな観光地図を見るのは楽しい。↑ 図の上部はJR東日本の「今市駅」。下部は東武鉄道の「下今市駅」。↑ 二宮尊徳(二宮金次郎)像。↑ 二宮尊徳の紹介。↑ 二宮掘付水神碑の紹介。↑ 二宮尊徳の墓碑建立。↑ 下今市駅から歩いて散策する。↑ 報徳二宮神社参道入口。↑ 報徳二宮神社。↑ 二宮金次郎終焉の地。↑ 報徳二宮神社にある「尊徳来福像」。樹齢212年杉の巨木(愛知・東栄町)にて伐採。彫刻は日本チェーンソーアート大会優勝者に依頼。尊徳座像(栗田広行氏作)、尊徳立像(太田貴之氏作)が平成29年6月30日、二宮神社境内に奉納設置された。↑ 尊徳座像。不動明王・火焔を背に成田山にて祈りをささげて悟りを開く尊徳さん座像。↑ 尊徳立像。 あなたの心に生きているこの立派な教えを毎日の生活に活かしましょう。↑ 報徳二宮神社。↑ 二宮尊徳(二宮金次郎)像。↑ 二宮尊徳(二宮金次郎)像。↑ 二宮尊徳の墓。↑ 二宮尊徳像。↑ 道の駅 日光街道ニコニコ本陣。↑ 店を見て回った。↑ 日光仮面 参上!。↑ チェーンソーアートの日光仮面像。↑ 船村徹記念館。↑ 船村徹記念館入口。1階はCDなど販売されていた。↑ 作曲家の船村徹氏。
2020.03.01
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2020年2月8日、千葉県流山市・流山キッコーマン株式会社の白壁に掲示されてある「流山本町まちなかミュージアム」を見ました。流山発祥の白みりんの歴史が紹介されています。歌川広重の「東都名所 高輪廿六夜待遊興之図(たかなわにじゅうろくやまちゆうきょうのず)」が大きく飾られていました。江戸時代、旧暦7月26日の夜、高輪の浜辺で月を拝むという行事で、沢山の夜店が並んでいます。特に、タコの着ぐるみを着た男が目を引きます。↑ 流山キッコーマン株式会社の白壁にある「流山本町まちなかミュージアム」。↑ 流山キッコーマン株式会社 万正(マンジョウ)本みりん。↑ 野田醤油株式会社流山工場内引込線(現・流山キッコーマン株式会社)昭和4年(1929年)頃。↑ 野田醤油株式会社流山工場(現・流山キッコーマン株式会社)昭和15年(1940年)頃。↑ 歌川広重・東都名所 高輪廿六夜待遊興之図。↑ 左半分。↑ 右半分。↑ タコの着ぐるみを着た男。 とても目を引く。↑ カニが描かれた扇子を持つ男。↑ 果物屋。↑ 江戸前寿司屋。↑ 水屋。↑ イカ焼き屋。↑ 天ぷら屋。↑ 二八そば屋。↑ 麦湯屋。↑ 団子屋。↑ ほおずき売り屋。↑ お汁粉屋。↑ 流山白みりん200周年記念まちなかミュージアム。↑ 流山小学校生徒が万上丸に乗って奉迎に出発する光景 明治30年代。↑ 流山キッコーマン株式会社。↑ 白みりんを開発した二代堀切紋次郎とその妻。↑ 「手製酒味淋本直志印鏡」堀切家のラベルデザイン。二代堀切紋次郎が詠んだ歌から「万上」の商標ができた。↑ 現存する流山最古のみりんラベル「万上泉」 弘化3年(1846)↑ 秋元家の「天晴(あっぱれ)」ポスター。↑ 堀切家の「万上(まんじょう)」ポスター。秋元・堀切両家が流山のみりん醸造を牽引した。↑ 明治28年(1895)の堀切紋次郎のみりん工場の銅版画(千葉県博覧図)。↑ 「万上」堀切紋次郎。↑ 明治18年(1885)「万上」の商標登録書類。↑ 堀切家の白みりんラベル。大正6年(1917年)以前 「萬上泉」。↑ 秋元家の白みりんラベル。大正11年(1922年)以前 「天晴(あっぱれ)」。↑ 博覧会における「万上」の受賞メダル。(右上)明治36年(1903) 第5回内国勧業博覧会にて二等賞牌。(左下)大正4年(1915) パナマ太平洋万国博覧会にて名誉賞。↑ 昭和15年(1940)頃 野田醤油株式会社みりん部の製品。
2020.02.21
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2020年2月8日、千葉県流山市の近藤勇陣屋跡を見ました。慶応4年(1868年)に新選組が本陣とした酒造家「長岡屋」(現・株式会社秋元)の跡地です。新選組は文久3年(1863年)に京都で結成されましたが、鳥羽・伏見の戦いで戦死者を出し、甲陽鎮撫隊として甲州勝沼で官軍と闘うも敗れ、流山で再挙を図りました。新選組の近藤勇は「大久保大和」、土方歳三は「内藤隼人」と名前を変え、流山の酒造家「長岡屋」を本陣としましたが、板橋の官軍本営は二人が偽名を使っていると見抜き、流山を包囲しました。近藤勇は「大久保大和」として、官軍側に話をしに行きますが、近藤勇と知っていた官軍は、流山から板橋に近藤勇を連れて行き、斬殺します。土方歳三は流山で近藤勇と別れた後、東北へ行き、最終的に北海道の五稜郭の戦いで亡くなります。株式会社秋元の店で、「本陣長岡屋」という極辛口の酒を購入し、家で飲酒しました。手元には新選組に関する司馬遼太郎さんの本があります。「燃えよ剣」、「新選組血風録」に詳しく記載があります。特に「燃えよ剣(下)」p261~p289の「流山屯集」、「袂別」に、流山での新選組の動きが書かれており、近藤勇と土方歳三が別れた場所だと分かります。↑ 流山市の近藤勇陣屋跡。↑ 酒造家「長岡屋」(現・株式会社秋元)の跡地。↑ 長岡屋 土台石。↑ 近藤勇。↑ 新選組 局長近藤勇、副長土方歳三 離別の地。 ↑ 流山の新選組と官軍の動き。近藤勇は矢河原渡から板橋に行き、斬殺される。↑ 矢河原の渡し跡。↑ 株式会社秋元の店。↑ 新選組 流山本陣跡の写真。 酒造家「長岡屋」(現・株式会社秋元)。↑ 近藤勇の写真。↑ 酒の秋元。↑ 株式会社秋元敷地内にある秋元稲荷大明神。新選組が到着、陣立ての際、近藤勇、土方歳三らが戦勝祈願をした。↑ 矢河原(やっから)の渡し跡。幕末、流山に駐屯した新選組隊長・近藤勇は、新政府軍に包囲されて出頭。盟友土方歳三と別れ、この渡しで流山を去った。↑ 江戸川。矢河原の渡し付近。↑ 「本陣 長岡屋」↑「燃えよ剣」、「新選組血風録」 司馬遼太郎。↑ 燃えよ剣(下)/司馬遼太郎/新潮文庫。↑「燃えよ剣(下)」p261~p289、「流山屯集」、「袂別」。
2020.02.20
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2020年2月8日、流鉄流山駅から歩いて散策しました。流山は新選組の近藤勇、流山キッコーマンが有名ですが、それは別に紹介するとして、それ以外に見た所を書きます。1)浅間神社:江戸時代初期にできた神社で、富士山の岩石を積んでできた富士塚があり、富士山に登山できない人たちが富士塚に登ったとのことです。2)丁字屋:イタリアンレストランになっています。3)呉服新川屋:国登録有形文化財に指定されており、大黒、恵比須の鬼瓦です。TV東京の「アド街ック天国」にも紹介されていました。4)あかり館@雑貨Konocono:雑貨以外に焼いたパンも売っていました。2階に流山出身で切り絵作家の飯田信義氏の切り絵作品が置いてありました。5)常与寺:鎌倉時代創建の日蓮宗寺院です。教員養成の「印旛官員共立学舎(現千葉大学)が設立されました。6)閻魔堂:江戸時代の閻魔像を祀るお堂があります。義賊の金子市之丞と恋人の三千歳の墓があります。7)万華鏡ギャラリー見世蔵:明治22年(1889年)に建築された「寺田園茶舗」がギャラリーになりました。流山市在住の世界的万華鏡作家の中里保子さんの作品などがありました。8)一茶双樹記念館:みりん醸造で財をなした「秋元本家」跡。俳人小林一茶と五代目秋元三左衛門(俳号:双樹)との親交があり、一茶はこの地を数十回訪れています。9)杜のアトリエ黎明:洋画家の故笹岡了一氏、故秋元松子氏の創作活動の場所でした。10)長流寺:江戸時代初期の浄土宗寺院。新選組隊士らが分泊したと言われています。11)光明院:新選組が分宿した真言宗寺院です。12)赤城神社:群馬県の赤城山が崩れて流れ着き、高さ10mの山ができたという「流山」の地名伝説発祥の地です。巨大な大しめ縄があります。13)流山寺:新選組が分泊した曹洞宗寺院。14)寺田稲荷。↑ 流山本町江戸回廊マップ。「ようこそ白みりん発祥の地へ」。↑ 新選組 近藤勇の切り絵。1)浅間神社:江戸時代初期にできた神社で、富士山の岩石を積んでできた富士塚があり、富士山に登山できない人たちが富士塚に登ったとの事です。↑ 富士塚。↑ 富士塚山頂。2)丁字屋:イタリアンレストランになっています。3)呉服新川屋:国登録有形文化財に指定されており、大黒、恵比須の鬼瓦です。TV東京の「アド街ック天国」にも紹介されていました。4)あかり館@雑貨Konocono:雑貨以外に焼いたパンも売っていました。2階に流山出身で切り絵作家の飯田信義氏の切り絵作品が置いてありました。5)常与寺:鎌倉時代創建の日蓮宗寺院です。教員養成の「印旛官員共立学舎(現千葉大学)が設立されました。6)閻魔堂:江戸時代の閻魔像を祀るお堂があります。義賊の金子市之丞と恋人の三千歳の墓があります。7)万華鏡ギャラリー見世蔵:明治22年(1889年)に建築された「寺田園茶舗」がギャラリーになりました。流山市在住の世界的万華鏡作家の中里保子さんの作品などがありました。↑ 流山市在住の世界的万華鏡作家の中里保子さんの作品。↑ 巨大な万華鏡。顔を写して写真撮影ができる。8)一茶双樹記念館:みりん醸造で財をなした「秋元本家」跡。俳人小林一茶と五代目秋元三左衛門(俳号:双樹)との親交があり、一茶はこの地を数十回訪れています。↑ ↑ 夕月や 流残りの きりぎりす 一茶。↑ みりんの「天晴」看板。9)杜のアトリエ黎明:洋画家の故笹岡了一氏、故秋元松子氏の創作活動の場所でした。流鉄展がありました。10)長流寺:江戸時代初期の浄土宗寺院。新選組隊士らが分泊したと言われています。11)光明院:新選組が分宿した真言宗寺院です。12)赤城神社:群馬県の赤城山が崩れて流れ着き、高さ10mの山ができたという「流山」の地名伝説発祥の地です。巨大な大しめ縄があります。13)流山寺:新選組が分泊した曹洞宗寺院。14)寺田稲荷。
2020.02.19
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2020年2月14日、娘と妻からバレンタインデーのプレゼントを貰いました。娘からは広島の「もみじ堂ナッツ」というドーナッツで、妻からは北海道の「マルセイバターサンド」でした。↑ もみじ堂ナッツ。↑ マルセイバターサンド。
2020.02.16
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2020年2月1日、新宿駅でKEN'S CAFEの「ケンズデニッシュ」を売っていました。「食べログ全国チョコレート店ランキング7年連続第1位(2014年~2019年)」とあり、350円は高いと思いながらも、どのようなものか購入しました。家でパンを切ると、中にチョコレートの棒が入っていました。そのまま食べましたが、もしかしたらレンジで温めて、チョコレートを溶かしてから食べるものだったのかもしれません。けN
2020.02.15
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